2020年08月07日

湯崎英彦・広島県知事「核抑止論は虚構に過ぎない」

 1945年8月には、忘れることのできない諸事件が重なった。
 8月15日は、日本の歴史を分かつ日として、日本人にとって忘れてはならぬ日。
 これに対して、8月6日は世界の人類全体が戦慄の感情をもって記憶すべき日である。

 あれから75年目の8月6日。
 本日も青い真夏の空の下、広島市の平和記念公園で「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれた。
 コロナ禍のさなかの式典として、規模は縮小された。

 その準備の過程で、平穏な式典の進行を求める主催者(広島市)と、式典の意義にこだわる市民団体との間に摩擦のあったことが報道されている。
 敢えて単純化すればこんなことだろうか。
 市民団体側は、「平和式典は核廃絶につながるものでなければならない。にもかかわらず、式典主催者は、遺族の慰霊のみを目的とする式典にしようとしているのではないか。式典周辺での拡声器使用自粛要請はその表れにみえる」
 これに対して市は、飽くまで「原爆死没者の慰霊」と「世界恒久平和の実現の祈念」の両者を式典の理念とするもので、決して「慰霊」だけを目的としているものではないという。

 拡声器の音量については妥協が成立して、平穏に本日の平和式典は進行したようだが、核廃絶のための喫緊の課題は、2017年に国連で採択されたが未発効の「核兵器禁止条約」について締約国を増やすこと、まずは日本政府が「締約国」となるべきことである。

 そして、もう一つ。
 黒い雨訴訟の一審判決への控訴期限が迫っている
 被爆者救済の切実な具体的問題が眼前にある。

◎ 松井一実市長は、平和宣言の中でこの点について次のとおり訴えた。
 訴える先は、目の前にいるアベ晋三である。
 これからの広島は、世界中の人びとが核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて「連帯」することを市民社会の総意にしていく責務があると考えます。
 国連に目を向けてみると、50年前に制定されたNPT(核兵器不拡散条約)と、3年前に成立した核兵器禁止条約は、ともに核兵器廃絶に不可欠な条約であり、次世代に確実に「継続」すべき枠組みであるにもかかわらず、その動向が不透明となっています。世界の指導者は、今こそ、この枠組みを有効に機能させるための決意を固めるべきではないでしょうか。
 そのためにNPTで定められた核軍縮を誠実に交渉する義務を踏まえつつ、核兵器に頼らない安全保障体制の構築に向け、全力を尽くしていただきたい。
 日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役をしっかりと果たすためにも、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いを誠実に受け止めて同条約の締約国になり、唯一の戦争被爆国として、世界中の人びとが被爆地ヒロシマの心に共感し「連帯」するよう訴えていただきたい。
 また、平均年齢が83歳を超えた被爆者を始め、心身に悪影響を及ぼす放射線により生活面でさまざまな苦しみを抱える多くの人びとの苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」の拡大に向けた政治判断を、改めて強く求めます

◎ これに対して、アベ晋三はどう応えたか。
 75年前、1発の原子爆弾により廃虚と化しながらも、先人たちの努力で見事に復興を遂げたこの美しい街を前にした時、現在の試練を乗り越える決意を新たにし、平和の尊さに思いを致しています。
 広島と長崎で起きた惨禍と、もたらされた人びとの苦しみは、繰り返してはなりません。唯一の戦争被爆国として「核兵器のない世界」の実現に向けた国際社会の努力を前に進めることは、わが国の変わらぬ使命です。
 本年は被爆75年という節目の年です。非核3原則を堅持しつつ、立場の異なる国々の橋渡しに努め、各国の対話や行動を粘り強く促し、核兵器のない世界の実現に向けた国際社会の取り組みをリードしていきます。
 核拡散防止条約(NPT)が発効50周年を迎えました。結束した取り組みを各国に働きかけ、積極的に貢献します。
「核兵器のない世界」の実現へ確固たる歩みを支えるのは、核兵器使用の惨禍やその非人道性を語り伝え、継承する取り組みです。わが国は被爆者と手を取り合い、被爆の実相への理解を促す努力を重ねていきます。
 原爆症の認定について、迅速な審査を行い、高齢化が進む被爆者に寄り添いながら、総合的な援護施策を推進します。

 全てを抽象論でごまかした、恐るべき無内容。
 完全なゼロ回答である。
 被爆者や遺族の面前で、「核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いを誠実に受け止めていただきたい」「多くの人々の苦悩に寄り添い、『黒い雨降雨地域』の拡大に向けた政治判断を、改めて強く求めます。」との訴えの拒絶である。
 このくらいのシンゾウの強さ、面の皮の厚さでないと、保守政権の維持はできないのだろう。
 いちいち国民の要望に耳を傾けていては、きりがないと言うことなのだ。

◎ なお、この日注目されたのは、「核抑止論は虚構に過ぎない」という湯崎英彦・広島県知事の挨拶である。
 これも、アベ晋三の面前での発言として、重みがある。
 下記は、そのさわりである。
 なぜ、我々広島・長崎の核兵器廃絶に対する思いはこうも長い間裏切られ続けるのでしょうか。
 それは、核による抑止力を信じ、依存している人びとと国々があるからです。
 しかしながら、絶対破壊の恐怖が敵攻撃を抑止するという核抑止論は、あくまでも人びとが共同で信じている「考え」であって、すなわち「虚構」に過ぎません。

 一方で、核兵器の破壊力は、アインシュタインの理論どおりまさに宇宙の真理であり、ひとたび爆発すればそのエネルギーから逃れられる存在は何一つありません。

 したがって、そこから逃れるためには、決して爆発しないよう、つまり、物理的に廃絶するしかないのです。

 幸いなことに、核抑止は人間の作った虚構であるが故に、皆が信じなくなれば意味がなくなります。
 つまり、人間の手で変えることができるのです。
 どのようなものでもそれが人びとの「考え」である限り転換は可能であり、我々は安全保障の在り方も変えることができるはずです。
 いや、我々は、人類の長期的な存続を保障するため、「考え」を変えなければならないのです。

 もちろん、凝り固まった核抑止という信心を変えることは簡単ではありません。
 新しい安全保障の考え方も構築が必要です。
 核抑止から人類が脱却するためには、世界の叡知を集め、すべての国々、すべての人びとが行動しなければなりません。

 皆さん、今こそ叡知を集めて行動しようではありませんか。
 後世の人びとに、その無責任を非難される前に。

◎ この知事発言は、子ども代表が朗読した「平和への誓い」と通底している。
 血に染まった無残な光景の広島を、原子爆弾はつくったのです。
「あのようなことは二度と起きてはならない」
 広島の町を復興させた被爆者の力強い言葉は、私たちの心にずっと生き続けます。
 人間の手によって作られた核兵器をなくすのに必要なのは、私たち人間の意思です。
 私たちの未来に、核兵器は必要ありません。
 私たちは、互いに認め合う優しい心を持ち続けます。
 私たちは、相手の思いに寄り添い、笑顔で暮らせる平和な未来を築きます。
 被爆地広島で育つ私たちは、当時の人々が諦めずつないでくださった希望を未来へとつないでいきます。

 この二つのメッセージをつなげると、ほら、何とか希望が見えてくるではないだろうか。

澤藤統一郎の憲法日記、2020年8月6日
「核抑止論は虚構に過ぎない」 ー 広島平和式典挨拶から
http://article9.jp/wordpress/?m=202008

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ひろしま平和の歌

ひろしま平和の歌

https://www.youtube.com/watch?v=OU3B27qjyIc

作詞:重園贇雄(しげぞの よしお)
作曲:山本 秀(やまもと みのる)

雲白く たなびくところ
空のはて 東に西に
おお高く こだまひびけと
鐘は鳴る 平和の鐘に
いまわれら 雄々しく起ちて
その栄え ここに興さん

波青く たゆとおところ
海のはて 南に北に
おお遠く 祈りとどけと
鐘は鳴る 平和の鐘に
いまわれら 試練を越えて
その行手 ここに仰がん

風清く かがやくところ
国のはて 世界の友に
おお熱く 想いかよえと
鐘は鳴る 平和の鐘に
いまわれら 手をさし伸べて
その睦み ここに歌わん

広島市公式サイト
https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/12859.html

 8月6日の平和記念式典で歌う「ひろしま平和の歌」を知ってもらおうと、広島市がPRに力を入れている。
 4月下旬からJR広島駅(南区)や広電バスの車内でメロディーを流し、駅南口地下広場(同)の大型ビジョンでは、歌に合わせて平和記念式典を紹介する動画の放送を始めた。

 ひろしま平和の歌は「雲白く たなびくところ 空のはて 東に西に」と歌い出し、清らかで格調高いメロディーに乗せて世界平和への願いを静かに訴える。
 原爆の悲劇を強調したり、反核を直接訴えたりする歌詞は出てこない。

 1947年8月6日の第1回平和祭を前に、当時の浜井信三市長が会長を務めた広島平和祭協会が歌詞を公募し、完成した。
 市民が平和記念式典以外で聴く機会は少なく「良い歌なので広めてほしい」との声が市に寄せられていた。

 メロディーを流す公共空間は、広島駅の中央改札周辺で30分に1回程度、県北部から広島バスセンター(中区)に来る広電バスの中で到着時に。
 アストラムライン全駅のホーム、紙屋町地下街シャレオ(中区)でも定期的に流している。

 市のホームページで歌付きの動画を視聴できる。
 市広報課の浜井紀行課長は「メロディーが流れる場所をさらに増やし、国内外の人に知られる歌にしたい」と話す。


中国新聞、2019/5/3
「平和の歌」耳をすまして
広島市PR、公共施設や動画で

(永山啓一)
https://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php

2020年8月6日

「75年は草木も生えぬ。」と言われた広島の町。
 75年が経った今、広島の町は、人びとの活気に満ちあふれ、緑豊かな町になりました。

 この町で、家族で笑い合い、友達と学校に行き、公園で遊ぶ。
 気持ちよく明日を迎え、さまざまな人と会う。
 当たり前の日常が広島の町には広がっています。

 しかし、今年の春は違いました。
 当たり前だと思っていた日常は、ウイルスの脅威によって奪われたのです。
 当たり前の日常は、決して当たり前ではないことに気付かされました。
 そして今、私たちはそれがどれほど幸せかを感じています。

 75年前、一緒に笑い大切な人と過ごす日常が、奪われました。
 1945(昭和20)年8月6日 午前8時15分。
 目がくらむまぶしい光。耳にこびりつく大きな音。
 人間が人間の姿を失い、無惨に焼け死んでいく。
 町を包む魚が腐ったような何とも言い難い悪臭。

 血に染まった無惨な光景の広島を、原子爆弾はつくったのです。

「あのようなことは二度と起きてはならない。」

 広島の町を復興させた被爆者の力強い言葉は、私たちの心にずっと生き続けます。

 人間の手によって作られた核兵器をなくすのに必要なのは、私たち人間の意思です。

 私たちの未来に、核兵器は必要ありません。

 私たちは、互いに認め合う優しい心をもち続けます。

 私たちは、相手の思いに寄り添い、笑顔で暮らせる平和な未来を築きます。

 被爆地広島で育つ私たちは、当時の人びとがあきらめずつないでくださった希望を未来へとつないでいきます。

2020(令和2)年8月6日
こども代表
広島市立安北小学校6年  長倉菜摘
広島市立矢野南小学校6年 大森駿佑


中国新聞、2020年8月6日
2020年 平和への誓い
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=99940

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アーダーン首相が動画メッセージ!

75 years ago the world saw the catastrophic humanitarian consequences of nuclear weapons.
It must not happen again.
Only nuclear zero is worthy of the victims of Hiroshima & Nagasaki.
PM Ardern urges all States to join the Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons.

New Zealand Ministry of Foreign Affairs & Trade、6 August 2020

 世界が新型コロナウイルスに対応するチャレンジに直面し続けるなか、広島と長崎への原爆投下から75年を迎え、世界で起きた出来事の破滅的な影響を思い起こさせます。

 1945年8月、世界は核兵器が何をもたらすのかを初めて目にしました。

 最悪の結果を生み、爆撃の衝撃で亡くなっただけではなく、その後も長く続く放射能の後遺症で、人びとに想像もできない苦しみや被害をもたらしました。

 それ以降も、太平洋などでの核実験による悲惨な影響を目にしてきました。

 現存する1万3000個以上の核弾頭の一つ一つが、広島や長崎で目の当たりにしたよりも強大な破壊力を有しています。

 たった一つの爆弾が、破滅を意味します。
 
 そして、核戦争がそこで終わるとは誰も信じてはいません。

 数百万人の命を一瞬にして奪い、環境に取り返しがつかないダメージを与えます。
 専門家は、いかなる国家や国家の集団、国際的な組織も、核戦争の影響に備えたり、対処したりすることはできないと警告しています。

 備えることができないのなら、食い止めるしかないのです。

 国連のグテーレス事務総長も言うように、国際的なコミュニティは、核の非武装化に向けた取り組みを再度活性化させなければなりません。
 人間性を守ると呼んでいます。

 他人や将来の世代に残すことのできる課題ではありません。

 ですからニュージーランドは、大多数の国連加盟国とともに、核兵器禁止条約を採決したのです。

 私は、核兵器根絶に向けて必要不可欠なステップとして、そして全ての核保有国の核兵器ゼロの達成を含めた地球規模の交渉を求めて、他国もこの動きに加わり、このランドマークな条約を広めることを要請します。

 このことが唯一、広島と長崎への原爆投下や、太平洋などでの核実験によって苦しめられた人たちに対する報い、レガシーとなるのです。


HuffPost、2020年08月06日 18時08分 JST
NZアーダーン首相「核兵器ゼロが広島と長崎の犠牲者に報いる唯一のこと」
原爆投下から75年を迎えた広島原爆の日。アーダーン首相が動画メッセージを投稿しました。
[広島原爆の日・メッセージ全文]

(M田理央、Rio Hamada)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f2b76d1c5b64d7a55ee98d7?utm_hp_ref=jp-homepage

 遠く離れたニュージーランドの首相の世界平和へのビデオメッセージ。
 彼女に比べることも出来ない「無能無知、恥知らずの何もしない、できない、やる気ない」あべ:

☆ ざっと調べるだけでもこれだけ出てくる、「高い緊張感を持って注視」。
7月9日「高い緊張感をもって感染状況を注視している」
7月14日「高い緊張感を持って注視している」
7月31日「高い緊張感を持って注視している」
8月6日「高い緊張感をもって状況を注視」

☆ 注視はする。質問には答えない。

☆ 私たちはもっと、高い緊張感を持って注視する必要があると思う。表に出てこない首相を。

☆ 表に出てきた広島デーの15分。記者席から「まだ質問があります。国民の不安が高まっている中で、なぜ50日間も正式な会見を開かないのか」との声が飛んだ。しかし司会者が「予定時間を過ぎているので、これにて代表質問を終了させていただきます」と打ち切った。

☆ 高い緊張感を持って、逃走中。
国会からは憲法違反を犯してまで。
記者会見からは暴力を振るってまで。
そんなに国民が嫌いなら、早く辞めればいいのに。

☆ 高い緊張感を持って逃げる総理。
一言で言って、いらない。

・・・大体、「緊張感を持って注視」ってのは、手元に、こういう状況になったらコレって対策を色々準備してあって、それで、間髪入れずに手を打てるように状況を凝視してる状態でしょ?現政権の場合は、何もしない様子を美化する表現・・・

・・・事前提出のヤラセ質問だけで「記者会見に見せかけた芝居」を終えようとした安倍首相に、追加質問しようとした記者を、首相官邸報道室の職員が腕を掴んで妨害。官邸の奴隷公務員の勘違いがここまできた。朝日新聞はこの公務員の実名を報じればいい。それが今朝日がすべきこと・・・

・・・記者の質問から逃げ回る首相。自ら立案・判断していないから、突然の質問には答えられない。7年半、ずっと「紙」を読み続けてきた。有事においても、その態度は変わらない。悲しいと言うよりも、個人的には情けなく感じる・・・

・・・首相会見。官邸職員が記者の腕つかむ、朝日新聞が抗議。質問が終わった後、記者が右手を挙げ「まだ質問があります」と呼びかけたところ、職員が質問制止、右腕つかむ。官邸職員は何の権限で記者の腕を掴むのか。言語道断だが、こうなるまで好きにさせてきたマスコミも問題だ・・・

・・・与野党で19日からの閉会中審査で合意したと言う。これ程に憲法違反だ。
臨時国会を招集しろとの国民の声を無視して、自民の森山国対委員長と立憲の安住国対委員長で決めたという。二人は昔の国対政治をそのまま実践している。又、早期の臨時国会の招集をしないこと迄合意している。許せる話ではない・・・

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Hiroshima 75 years later

Japan on Thursday marked 75 years since the world's first atomic bomb attack, with the coronavirus pandemic forcing a scaling back of ceremonies to remember the victims.

Survivors, relatives and a handful of foreign dignitaries attended this year's main event in Hiroshima to pray for those killed or wounded in the bombing and call for world peace.

But the general public was kept away, with the ceremony instead broadcast online.

Participants, many of them dressed in black and wearing face masks, offered a silent prayer at exactly 8:15 am (2315 GMT Wednesday), the time the first nuclear weapon used in wartime was dropped over the city.

Speaking afterwards, Hiroshima mayor Kazumi Matsui warned in an address that the world must come together to face global threats, like the coronavirus pandemic, and to warn against the nationalism that led to World War II.

"We must never allow this painful past to repeat itself. Civil society must reject self-centred nationalism and unite against all threats," he said.

Humanity must "unite against threats to humanity and avoid repeating our tragic past," Matsui added, making an annual call for a world without nuclear weapons.

The bomb attack on Hiroshima killed around 140,000 people, many of them instantly, with others perishing in the weeks and months that followed, suffering radiation sickness, devastating burns and other injuries.

Three days later, the United States dropped a second atomic bomb on Nagasaki, where 74,000 people were killed.

- 'No one can escape' -

Many of the traditional events to mark the sombre anniversary have been cancelled because of the pandemic, a global threat that carries an all-too-familiar fear for some survivors, including 83-year-old Keiko Ogura, who lived through the Hiroshima bombing.

With the outbreak of the virus, "I recall the fear I felt right after the bombing... no one can escape", she told journalists last month.

She too urged people around the world to recognise the need to fight common challenges as one.

"Whether it's the coronavirus or nuclear weapons, the way to overcome it is through solidarity among mankind," she said.

The landmark anniversary this year underscores the dwindling number of bomb survivors, known in Japan as "hibakusha".

Those who remain were mostly infants or young children at the time, and their work to keep the memory of the bombings alive and call for a ban on nuclear weapons has taken on increasing urgency as they age.

Activists and survivors have created archives of everything from the recorded testimony of hibakusha to their poems and drawings.

But many fear interest in the bombings is fading as they recede beyond the horizon of lived experience and into history.

- 'Unspeakable horror' -

"Just storing a pile of records... is meaningless," said Kazuhisa Ito, the secretary general of No More Hibakusha Project, an NGO that compiles records and documents from survivors.

"What we want is to engage young people with this issue and exchange views with them, globally," he told AFP.

The historical assessment of the bombings remains the subject of some controversy. The United States has never apologised for the bombings, which many see as having ended the war.

Japan announced its surrender just days later on August 15, 1945, and some historians argue the bombings ultimately saved lives by avoiding a land invasion that might have been significantly more deadly.

But in Japan, the attacks are widely regarded as war crimes because they targeted civilians indiscriminately and caused unprecedented destruction.
In 2016, Barack Obama became the first sitting US president to visit Hiroshima, where he offered no apology but embraced survivors and called for a world free of nuclear weapons.

Hiroshima and Nagasaki were key stops on Pope Francis's first trip to Japan last year, where he denounced the "unspeakable horror" of the attacks.


[photo]
Japan is marking the 75th anniversary of the atomic bomb attack on the city of Hiroshima

AFP News6 August 2020
Japan marks 75th anniversary of Hiroshima atomic bombing
By Philip FONG
https://sg.news.yahoo.com/japan-marks-75th-anniversary-hiroshima-atomic-bomb-210342391.html

Memories of the atomic bombing are fading – and we must pass them onto future generations. Greenpeace Japan sat down with Hiroshima atomic bomb survivor and former director of the Hiroshima Peace Memorial Museum, Mr. Harada Hiroshi to listen to his story.

People were scattered across the ground in front of me, bodies lying on other bodies, so many I couldn’t tell how many there were. Some must have still been alive. Their low, dull groans lingered in my ears. Were they the final sounds that left their bodies as the life inside them was extinguished?

”Quick! Get away”

The flames rose up into the air as they blazed behind me. In front of me, people were strewn all over the ground, one on top of another. If I wanted to survive, I had to keep moving. I made up my mind. There was nowhere to put my feet, so I had to tread on the people lying on the ground as I tried to get away. Their skin had melted. My foot slipped and sank into their flesh. Desperately, I tried to pull my foot out and keep on going. If I didn’t keep on moving, I would burn to death. I felt a crushing fear, but I kept moving my feet forward, as if in a dream.

This is the memory seared into the mind of Hiroshi Harada (81) who was exposed to the atomic bomb in Asaminami ward of Hiroshima City, 75 years ago.

On the morning of 6 August, 1945, Harada, a six-year-old at the time, was standing with his parents on the platform at Hiroshima station, 2 kilometres from the hypocenter, waiting to be evacuated from Hiroshima City to the countryside. The train was about to arrive when suddenly Harada and his family were enveloped in a flash of light and an intense blast of air. He remembers seeing the walls and ceiling of the building fall towards him.

When he managed to crawl out of the rubble and look around, he saw a darkened and murky sky, and only the ruins of the station building standing alone in the colourless rubble. Luckily he had been protected by the sturdy structure of the station building. “I didn’t have any serious injuries thanks to my father, who had held me to protect me from the explosion. But we had lost sight of my mother”. Flames were erupting everywhere and the fire was spreading fast.

Harada’s father had suffered injuries on his back, but he led the young Harada, as they tried to escape. It wasn’t until three days later that Harada was reunited with his mother, he recalls.

“Being chased by fire. Even now I’m unable to forget the terror I felt then.”

Mr. Harada closed his eyes slightly, retracing his memory as he talked to me.

Communicating to the world, and facing a harsh reality

After the war, Harada graduated from university and became a Hiroshima city official. In 1993 he was appointed director of the Hiroshima Peace Memorial Museum.

“I had had no experience of peace related work until then. I was uncertain whether I would be able to properly fulfil the role.”

Soon after his appointment, the Director of the American National Air and Space Museum of the Smithsonian Institute (Washington DC) visited the museum to request the loan of materials about the atomic bombing for an exhibition that was to be held in America, to commemorate 50 years since the end of the war.

The belief that the atomic bombs helped to speed up the end of the war is deeply rooted in America. Public opinion in Hiroshima was deeply divided on whether or not to loan the materials. Some believed the materials “could end up being a demonstration of the power of the atomic bomb”, while others felt that “even if that was the case, people should know about what happened on the ground.”

During the negotiations, Harada reaffirmed his sense that “there might not be another chance to tell people outside of Japan about what happened here during the war, or to tell them what using an atomic bomb means”. And sensing sincerity in the museum’s request, whose representative made a second visit to Hiroshima, the city agreed to the loan.

However, in the end the atomic bomb exhibition had to be cancelled due to resistance within America. Mr. Harada recalls how this made him acutely aware of the gulf that still existed, even half a century after the end of the war.

In 1996, work to get the Genbaku Dome registered as a UNESCO World Heritage Site had reached a critical moment. Harada was in charge of international and peace affairs for Hiroshima City at the time, and was in charge of the registration process. America and China had been opposed to the application.

“I thought that our application was just going to be blocked again.”

Harada experienced first-hand the hurdles that existed when trying to disseminate information internationally. In the end, America dissociated itself from the decision, and China also declared that it would not take a position, and the Genbaku Dome was officially registered as a UNESCO World Heritage Site in December of the same year.

Through experiencing the challenges associated with communicating a message internationally, Harada became more conscious of what must be passed onto future generations, and of his role, and of the role of Hiroshima City, in telling people about what happened in Hiroshima that day.

Memories of the atomic bombing are fading

Since then up until the present day, Harada has continued to recount his memory of that day.

Hiroshima City estimates that by the end of December 1945, approximately 140,000 people had died. Those who survived not only suffered the acute symptoms of radiation exposure, such as fevers and nausea, but also continued to suffer from the numerous long term effects. Harada continues to tell his story so that people will know what really happened on the ground in Hiroshima, rather than simply seeing it as a dot on a map.

However, not everyone who survived talks about their experiences as Harada does. Especially the few of those who were in the worst affected area within the 2 kilometre radius of the hypocenter talk about what they experienced. “I think it would be less than 1% of those survivors,” says Harada.

“If I’m honest, I’d also rather not talk about it if possible. Because when I talk about it, whether I want to or not, I am forced to relive what I saw that day. You need courage and resolve to talk about your experiences as a survivor. This is why many survivors choose not to.”

The number of atomic bomb survivors is fast dwindling, and their memories of the bombings will fade along with them. According to the Ministry of Health, Labour and Welfare, the number of people in Japan with an Atomic Bomb Survivor’s Handbook was highest at the end of 1980, at 372,364 people, and has been declining ever since. The number was 136,682 as of the end of 2019, the lowest number since the Handbooks were first issued in 1957, while the average age of survivors is the highest it’s ever been at 83.31 years old.

“I was 6 years old when I was exposed to the bomb. The generation after mine will not have their own direct experience of the bomb to talk about.

And of those who were older than me, only a few are still able to share their stories. There are still many memories alive today, but in 3 years time, so many of these will be completely lost,” says Harada with urgency.

The urgent task of uncovering memories and connecting the dots

To date, many survivors have spoken about their experiences, and places such as Hiroshima City have been recording their testimonies. There are also many other initiatives aimed at preserving the human experience of the atomic bomb, such as the promotion of “peace tourism” that visits buildings or other sights that were bombed, or the training of “memory keepers”.

Harada points out that, “There is something that we must do urgently before all that. Most of the records of peoples’ experiences of the bombing are still only ‘dots’. If we can join the dots to draw a picture, this could reveal a new story.”

If we can connect individual memories, for example, by bringing together the stories of people who were in the same area at the time of the bombing, we may be able to reveal things that even they weren’t previously aware of. This will aid us in recording the reality of that day. That is why it is so urgent that we locate and uncover peoples’ experiences.

In the 75 years since the bombing, some of the survivors who have told their stories may have felt a sense of purpose in bearing witness to what happened, while others may have remained silent for many years, out of sadness for what happened that day.

One thing that they all do share is the unwavering belief that the horrors of an atomic bomb must never be repeated. An atomic bomb does not care where you come from, it does not care if you are a soldier or a civilian, an adult or a child – it will obliterate the futures of countless people in an instant. And even for those who survive, their lives will be irreparably altered by the scars left on their bodies and minds.

“I think I am probably part of the last generation who can bear witness to the bombing. Before everything is lost, I want to somehow ensure that our sentiments will resonate into the future.”

The black murky sky he saw over the ravaged station building, the flames that chased him, the sensation of walking over human bodies – Harada explains to me these memories are all still with him today, vividly engraved into his consciousness. Harada will continue to tell his story of that day, motivated and resolute in the knowledge that humanity must never allow nuclear weapons to be used again.


[photo-1]
Hiroshi Harada, former director of the Hiroshima Peace Memorial Museum. 75 years ago, he was exposed to the atomic bomb at Hiroshima station, 2 kilometres from the hypocenter.

[photo-2]
Atomic Bomb Dome.

[photo-3]
Hiroshima Peace Memorial Park

[photo-4]
A picture of Hirada Hiroshi when he started elementary school, the year after the bombing.

[photo-5]
Cenotaph, Memorial Monument for Hiroshima, City of Peace

Greenpeace, Published: 6 August 2020
Fading memories of the atomic bombing – Hiroshima 75 years later
By Mitsuhisa Kawase, Communications Officer at Greenpeace Japan
https://www.greenpeace.org/international/story/44543/fading-memories-of-atomic-bombing-hiroshima-75-years-later/

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2020年08月06日

Hiroshima at 75

Seventy-five years after it dropped the atomic bomb on Hiroshima, the Enola Gay stands, restored and gleaming, as a museum exhibit close to Washington’s Dulles airport.

It was not always so well looked after. For decades after the war, the B-29 Superfortress bomber was left to rot. It was disassembled, its pieces were scattered, birds nested in its engines, and someone smashed its gun turret.

Behind the neglect lay a deep national ambivalence about what it represented, a quandary which endures today: was this the aircraft that finally ended the second world war, saving hundreds of thousands of lives – or the instrument of the mass killing of civilians, which heralded a new age of nuclear terror?

When the Enola Gay was part restored and plans were made to put in on display at the National Air and Space Museum in 1995, historians agonised over how the exhibit might look at its legacy from all sides. It did not go well.

In the face of an outcry from air force veterans, who said the exhibition would put Japanese and US responsibility on the same moral plane, the curators scaled back or eliminated the elements focused on the 140,000 people killed in Hiroshima, and the ensuing nuclear arms race. For the critics, even that was not enough. The museum’s director, Martin Harwit, was forced to resign.

When the plane was fully restored and moved to the museum’s spectacular new building near Dulles in 2003, there were protests from Japanese survivors and others. Red paint was hurled, denting the airframe.

In the wake of those battles, the inscription below the Enola Gay today is minimal and bland.

“Although designed to fight in the European theater, the B-29 found its niche on the other side of the globe. In the Pacific, B-29s delivered a variety of aerial weapons: conventional bombs, incendiary bombs, mines, and two nuclear weapons,” it reads.

All reference to the moral, political and historical debate over the bombing of Hiroshima on 6 August 1945 – and then Nagasaki three days later – has been left off the public display, but that has not stopped the row from surfacing in the days leading up to the 75th anniversary on Thursday.
The disagreements are not limited to historians. While the air force view – which reflects US orthodoxy – is that the use of atomic weapons stopped the war and prevented much worse bloodshed, the National Museum of the US Navy has a different take.

“The vast destruction wreaked by the bombings of Hiroshima and Nagasaki and the loss of 135,000 people made little impact on the Japanese military,” it says on a plaque beside a replica of Little Boy, the bomb Enola Gay dropped on Hiroshima.

“However, the Soviet invasion of Manchuria on 9 August – fulfilling a promise of the Yalta conference in February – changed their minds.”
The plaque reflects the views of US navy leadership at the time.

“[T]he use of this barbarous weapon at Hiroshima and Nagasaki was of no material assistance in our war against Japan. The Japanese were already defeated and ready to surrender,” wrote Adm William Leahy, who presided over the combined US-UK chiefs of staff.

The general who had won the war in Europe months earlier, Dwight Eisenhower, recalled his reaction to being told by the secretary of war, Henry Stimson, that the atomic bomb would be used.

“I voiced to him my grave misgivings, first on the basis of my belief that Japan was already defeated and that dropping the bomb was completely unnecessary, and secondly because I thought that our country should avoid shocking world opinion by the use of a weapon,” Eisenhower told his biographer, Stephen Ambrose.

One of the most contentious issues remains the role of the US secretary of state, James Byrnes, in influencing the decisions of the new president, Harry Truman, who was inexperienced in foreign policy.

At the Potsdam conference in mid-July 1945, which brought together Truman, Joseph Stalin and Winston Churchill (replaced during the summit by Clement Attlee), an ultimatum was issued to Japan to surrender. Byrnes was instrumental in removing a paragraph offering to allow Emperor Hirohito to retain his title, the primary Japanese condition.

“The proclamation was issued without any assurances, knowing that it could not be accepted, and then the bombs went forward,” said the historian Gar Alperovitz, a professor of political economy at the University of Maryland and the author of two books on the diplomacy surrounding the decision to use atomic weapons.

Michael Kort, a social sciences professor at Boston University, who wrote The Columbia Guide to Hiroshima and the Bomb, argues the inclusion of the offer in the Potsdam declaration would not have shortened the war on its own.

“The Japanese military had a whole bunch of other other conditions as well,” Kort said. “Also, what we meant was the Emperor stays on the throne as a constitutional monarch. What the Japanese meant was their demand that the Emperor remain with all his powers.”

When the Enola Gay dropped the first atomic bomb on Hiroshima on 6 August, the Japanese ambassador in Moscow was sounding out the Soviets on terms for a negotiated end to the war.

The destruction of Hiroshima did not change the Japanese negotiating position. That came with a double blow starting two days later. On the evening of 8 August, the Soviets announced they would be entering the war against Japan, as Stalin had promised Franklin Roosevelt and Churchill at Yalta. Hours after that, the second atomic bomb was dropped on Nagasaki.

Historians are divided over whether the bombs or the Soviet declaration alone might have ended the war.

“Despite the Hiroshima bomb, the Japanese government still continued to seek the termination of the war through Moscow’s mediation,” said Tsuyoshi Hasegawa, former research professor at the University of California in Santa Barbara, and an expert on Soviet-Japanese diplomacy at the time.

“I would say that the Soviet entry into the war had a more decisive impact on the decision to surrender than the atomic bombs.”

That view is disputed by the Rev Wilson Miscamble, a history professor at the University of Notre Dame.

“Even after the Soviet entry into the war, certain elements of the Japanese military wanted to continue fighting. But it was Hirohito’s motivation, brought on by his recognition of the damage of the bombs, that brought him to engage directly with his government, and to order the surrender,” Miscamble said.

“So, if the bomb was most decisive on Hirohito, and if Hirohito was the most decisive figure in ordering surrender, I think we can conclude that the bombs were the decisive element in bringing about Japan’s surrender.”

The US invasion of the Japanese home islands was not due until November, so some have argued Truman could have put off the decision to use atomic weapons for some time to see what effect the Russian intervention would have. Alperovitz argues that the timing of the bombs was aimed at stopping the war before the Red Army moved too deep into Manchuria.

“It is not an accident the bombs were dropped on 6 August and 9 August, just around the time we had expected the Russians to enter the war,” he said.

Miscamble argues that takes too narrow a view of the scope of the war and the number of lives at stake.

“The object was to end the war as quickly as possible, because lives were being lost all over Asia,” he said. “Would it really have been moral to stand aside so as to maintain one’s supposed moral purity, while a vast slaughter occurred at the rate of over 200,000 deaths a month? Is there not a tragic dilemma here – which innocent lives to save?”


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The Enola Gay lands at the Tinian airbase in the Mariana Islands after the bombing of Hiroshima. Did the B-29 Superfortress bomber herald a new age of nuclear terror?

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Peace activists arrange ribbons near the Hiroshima memorial museum. About 140,000 people were killed in the bombing.

The Guardian, Published: Wed 5 Aug 2020 06.45 BST
Hiroshima at 75:
Bitter row persists over US decision to drop the bomb

Historians and military differ on whether 1945 bombing ended the war and saved countless lives – or was an unconscionable act of brutality

By Julian Borger in Washington
https://www.theguardian.com/world/2020/aug/04/hiroshima-atomic-bomb-us-japan-history

As they mark 75 years since their cities were destroyed in an instant, the ageing men and women who bore witness to the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki are struggling to remind the world of the horror of nuclear weapons.

Keiko Ogura was eight years old when the Enola Gay, a US B-29 bomber, dropped a 16-kilotonne nuclear bomb on Hiroshima at 8.15 am on 6 August 1945.

An estimated 80,000 of the city’s 350,000 people were killed instantly; by the end of the year, the death toll would rise to 140,000 as survivors succumbed to injuries or illnesses connected to their exposure to radiation.

Ogura, who was playing outside her home when the force of the blast swept her off her feet and knocked her unconscious, is one of a dwindling number of survivors who have made it their life’s work to tell their story. They hope, with increasing desperation, for a world without nuclear weapons.

“My father had said that something didn’t feel right that morning and told me not to go to school,” she said. The blast ripped the roof off the house she shared with her parents and two brothers, and destroyed much of the interior. But they had survived. “It was dark and there was absolute silence. I didn’t know what to do except crouch on the ground. All I could hear was the sound of my little brother crying.”

As evening fell, people who had been closer to the hypocentre a mile and a half away started arriving at their home. “They had badly burned faces and hair, and their skin was hanging off. They said nothing … they just moaned and asked for water.”

Ogura gave water she had fetched from a well to two people and watched in horror as they drank but then collapsed and died. “I didn’t know that it was dangerous to give water to people in their condition. For 10 years I blamed myself for their deaths.”

Ogura is one of an estimated 136,700 remaining hibakusha – survivors of the atomic bombings – from Hiroshima and Nagasaki, including those who were in the womb at the time of the attacks. With an average age of just over 83, many suffer from chronic illnesses linked to their exposure to radiation.

More than 300,000 survivors have died since the attacks, including 9,254 in the past year, according to the health ministry.

A recent survey by Kyodo news agency found that more than three-quarters of survivors were “struggling” to pass on their experiences, with many citing their advanced age. Only a fifth said they planned to continue sharing their stories.

Those like Ogura who have spent years talking to audiences in Japan and overseas, are frustrated by the lack of progress on nuclear disarmament, and fearful of a future without hibakusha testimony.

“In the beginning, it was really painful to remember those days,” said Ogura, who did not speak publicly about her experience for 40 years. “But I wanted young Americans to know what their country had done. I’m not blaming them for what happened, I just want them to know the facts, and think.”

Although he was only five at the time, Sueichi Kido recalls hearing the engine of the Bockscar, the American B-29 bomber that dropped a plutonium bomb on Nagasaki on 9 August, killing 74,000 people. “I remember someone saying that it didn’t sound like a Japanese plane ... then there was a flash and a boom,” he told the Guardian.

“There are things I remember very clearly about that morning and things I have no recollection of,” said Kido, a retired college teacher who, at 80, still serves as secretary general of Nihon Hidankyo, an organisation that represents survivors of both atomic bombings.

He was standing in front of his house a mile and a quarter from the hypocentre when the blast sent him flying through the air. His mother, who was standing nearby, was badly burned on her face and chest. “There was nothing left of our neighbourhood,” he said. “Everywhere was black. I remember seeing charred bodies floating in the river.”

Six days later, Kido, his seven siblings and their parents sat around a wireless listening, for the first time, to the voice of their wartime emperor, Hirohito. “We didn’t really understand what he was saying, only that Japan had lost the war.”

This weekend, he will make his annual pilgrimage to Nagasaki from his home in central Japan, where he has lived for the past 40 years. “There are not many of us left. Our time is coming to an end, and we all have to face up to that. But I will spend the rest of my life doing my best to make sure that I am part of the very last generation of hibakusha.”

Kido’s determination is shared by Ogura, whose battle against survivor guilt has now been replaced by one against time.

“People like me wondered why they had lived when so many others had died,” she said. “I could never forget the two people who died in front of my eyes. But I will keep talking about what happened until my last breath, so that they and the other victims did not die in vain.”


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Keiko Ogura speaks during a video press conference from Hiroshima in July 2020.

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A visitor looks at photographs of the Hiroshima bombing survivors, at the Hiroshima Peace Memorial museum.

The Guardian, Published: Thu 6 Aug 2020 02.07 BST
'To my last breath': survivors fight for memory of Hiroshima and Nagasaki

75 years after bombings, witnesses struggle to remind us of the horrors of nuclear weapons

By Justin McCurry in Tokyo
https://www.theguardian.com/world/2020/aug/06/to-my-last-breath-survivors-fight-for-memory-of-hiroshima-and-nagasaki

posted by fom_club at 21:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広島、原爆投下から75年

 広島は原爆投下から75年を迎えました。
 2020年8月6日午前8時から平和記念式典が行われる広島市の平和公園から報告です。
(八幡美咲アナウンサー報告)
 例年なら暗いうちから被爆者や遺族が訪れていますが、今年は新型コロナウイルスの影響でその姿も少なく感じます。
 被爆者(89):「(家族6人が)20日余りの間に皆、亡くなりました。戦争のない広島、世界、日本になってほしい」
 被爆75年の今年、被爆者の平均年齢は83歳を超え、あの日の惨状を話せる人は年々少なくなっています。
 午前8時から開かれる平和記念式典で核兵器や新型コロナウイルスといった人類の脅威に対して「連帯」して立ち向かうことが必要だと訴えます。
 今年は新型コロナウイルスの対策で座席の間隔を2メートルほど空けたほか、その数も去年1割、約880席と制限され、例年とは違った式典となりそうです。


広島 きょう平和記念式典 原爆投下から75年(20/08/06)
https://www.youtube.com/watch?v=elViPQ7Jfpk

◆「ドアを完全に閉めないで

 国連で軍縮を担当する中満泉事務次長は、本紙のインタビューで、新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかからない中で「世界はいかに脆弱(ぜいじゃく)かという教訓を得た。75年前の教訓とともに、世界を安全にするために核軍縮を進める必要がある」と訴えた。
 核兵器禁止条約に参加しない日本に対しては「ドアを完全に閉めないでほしい」と議論への参加を呼びかけた。

 中満氏は、コロナについて「目に見えないウイルスによって、想像すらできなかった状況が瞬く間に広がった」として、「軍縮は国家間の不信感や緊張感をほぐし、安全保障にも役立つ。コロナでその役割を再確認し、機運と捉えて進める必要がある」と強調した。

 核禁条約は2017年に国連で採択され、核兵器の開発や保有、使用を全面禁止する内容。
 日本は反対の姿勢を取っている。
 中満氏は「核兵器をなくすという目的は日本も共有しているはずだ」と指摘。
「日本だけでなく北大西洋条約機構(NATO)加盟国など反対意見が多いことも事実だが、ドアを完全に閉めずオープンマインドで条約を見守ってほしい」と要望した。

◆ NPT再検討会議「核不使用の原則を再確認」

 コロナの影響で、来年に延期された核拡散防止条約(NPT)の再検討会議については「これほど安全保障環境が悪化する中で、核兵器が決して使用されてはいけないという原則を再確認する。誤算や誤解から核戦争が始まらないよう、危険回避のためのあらゆる合意が必要だ」と主張した。

 来年2021年2月に期限切れとなる米ロの新戦略兵器削減条約(新START)を巡っては、米国が中国の参加を求め、延長交渉が難航しているが、中満氏は「延長してほしいと何度も言っている。その上で、どういう形で枠組みを広げるかを考えてほしい」と提案。
 失効回避を訴えた。

 相互の総領事館を閉鎖するなど対立が強まる米中関係に関しては「できれば対話の道に戻ってほしい。超大国が表立って対立関係にあることは、国連にとっては非常に難しい状況だ」と懸念を示した。

 中満氏は、広島と長崎の両市でそれぞれ開かれる平和式典に出席する。
 7月中旬に米国から入国後、2週間の自主隔離中に、ビデオ会議システム「Zoom(ズーム)」でインタビューに応じた。


東京新聞、2020年8月4日 05時50分
日本に核兵器禁止条約参加へ議論呼びかけ
中満泉・国連事務次長
本紙インタビュー

(柚木まり)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/46794

◆ コロナ禍「世界がいかに脆弱かという教訓」

―― 新型コロナウイルスの世界的な感染拡大が止まらない中、原爆投下から75年の夏を迎えた。

中満: 核兵器によって世界が安全に保たれると言う人たちが多いが、目に見えないウイルスによって、想像すらできなかった状況が瞬く間に広がった。
 世界はいかに脆弱(ぜいじゃく)かという教訓だ。
 75年前の教訓とともにもう一度原点に返り、世界を安全にするために核軍縮を進めることが必要だ。

―― 軍縮において、コロナはどんな転機となるか。

中満: 軍縮は、国家間の不信感や緊張感を一つ一つほぐし、安全保障にも役立つ方策だ。
 コロナでその役割を再確認し、機運と捉えて進める必要がある。
 核の近代化は費用がかかるが、どの国もコロナ後の復興には多くの財源が必要だろう。
 対話と外交努力で世界を安全にしようという流れが、生まれるのではないか。

◆ 核兵器禁止条約「発効を心待ちに」

―― 核兵器禁止条約が果たす役割とは。

中満: 批准が50ヶ国・地域に達して発効すれば、核兵器にまつわる秩序の中でひとつの重要なツールとして仲間入りする。
 核兵器の使用・実験による被害者への援助など新しい側面を取り入れており、発効後に締約国自身が考えて発展させる条約だ。
 私たちも発効を心待ちにしている。

―― 日本は唯一の戦争被爆国でありながら、米国の「核の傘」に頼る。

中満: 日本への期待は大きい。
 米ロ、特にコロナの感染拡大後は米中の緊張関係が非常に高まっている中で、日本のように米国の同盟国であると同時に、核軍縮を進めたいという真ん中の立場から軍縮を支援する声が出れば非常にありがたい。

―― 日本は条約に反対の立場だが。

中満: 国連からのメッセージとしては、ドアを完全にクローズしないでほしいということ。
 核兵器をなくす根っこの目的は共有しているはずだから、将来的なオプションになるかもしれないということも含めて、条約をフォローしてほしい。

◆ 米ロ中3か国「非難ではなく対話を」

―― コロナの影響で核拡散防止条約(NPT)再検討会議が来年に延期された。

中満: 安全保障を取り巻く環境が悪化している今、核兵器は決して使用されてはならないという原則を再確認することが非常に重要だ。
 人工知能(AI)や宇宙など新たな科学技術がどう核とつながっているのか、NPTの範囲内で話し合うべきことがあるだろう。

―― 米ロの核軍縮を進める新戦略兵器削減条約(新START)も来年2021年2月に期限を迎える。

中満: 延長を何度も求めている。
 国連が2国間条約に対して、これほど直接的にお願いすることはない。
 条約が失効すれば無制限に戦略核兵器を開発でき、非常に危険な状況になる。米国は中国も加えるよう求めるが、まずは5年延長をした上で、どのように枠組みを広げるか考えてほしい。

―― 新STARTに中国を加えることは現実的か。

中満: 米ロは世界の核弾頭の9割を保有し、核軍縮を進める上で特別な責任があることは明らかだ。
 私は中国に対し、将来的にこのような条約に参画して世界の戦略的安定に貢献することは、中国にとってもプラスになると話している。
 3ヶ国が非難し合うのではなく、対話と外交努力による安全保障の道に戻ってほしい。

◆ 核軍縮の停滞「国連として申し訳ない」

―― コロナの感染拡大が懸念される中で、広島と長崎への訪問を決めた理由は。

中満: 国連にとって、被爆75年は非常に大事な節目だからだ。
 個人的には、私が軍縮担当の間は毎年出席すると被爆者の方々と約束していたので、それを守りたかった。

―― 国連で核軍縮に取り組むことになった経緯は。

中満: 学生のころから国際的な機関で仕事をしたいと思い、国連を志望した。
 核軍縮にかかわるようになったのは、手を挙げたわけではない。
 グテレス事務総長から『泉、軍縮はどうだ』と聞かれた時、何の話か分からなかった。
 経験もなかったが『だからこそ良い。専門家である必要はない』と。
 軍縮は停滞していて、新しい視点を入れたかったのではないかと思う。

―― 就任から3年以上になる。

中満: 米ロ、米中の関係が難しい状況の中で、なかなか軍縮は進まず、国連として残念で申し訳ないという気持ちもある。
 国連平和維持活動(PKO)など現場で仕事をしてきたので、社会的に最も弱い人や紛争の犠牲になった人、被爆者ら一人ひとりを念頭に置きながら軍縮を考えていきたい。

※ 中満泉(なかみつ・いずみ、1963年、東京都生まれ)
 早稲田大卒、米ジョージタウン大大学院修了。国連難民高等弁務官事務所法務官などを経て、2017年に日本人女性で初の国連本部事務次長に就任した。軍縮担当上級代表。


[写真]
オンライン取材で核軍縮について語る国連の中満泉事務次長=東京・内幸町の中日新聞東京本社で

東京新聞、2020年8月4日 05時50分
核軍縮の現状は
中満泉・国連事務次長に一問一答

(聞き手・柚木まり、関口克己)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/46800

世界で新型コロナウイルスが猛威を振るう中、広島と長崎に原爆が投下されてから75年の夏を迎えた。
核兵器禁止条約の年内発効を目指す非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」国際運営委員の川崎哲(あきら)氏(51)は「感染症や気候変動が新たな対立を生む中で、核の脅威は高まっている」と、早期の核廃絶の必要性を訴える。
 
―― コロナが世界的に大流行する中で、戦後75年を迎えた。

川崎: 国の安全を守るために強い軍隊や兵器が必要だと言われてきたが、コロナで多くの人が亡くなる中で、それらは無力だ。
 人びとの命を守るために本当に必要なものは何か。
 歴史を考える上でも、世界の平和と安全のために何を優先すべきかを考える良いタイミングだ。

―― 核兵器とともに、気候変動と感染症が人間の脅威になっている。

川崎: 20世紀、国々はより強力な兵器を持つことを競い合い、人間を無差別に殺りくする核兵器が大量に作られた。
 しかし、今日の問題となっている気候変動や感染症には国境がなく、新たな対立と武力紛争の火種になりうる。
 世界にはまだ1万3000発もの核弾頭がある。
 核兵器は問題の解決に役立たないどころか、深刻な脅威だ。

―― ICANは核戦争の悲惨さを訴えてきた。

川崎:  現在の世界では、戦争が起きれば核兵器が使われる可能性が高い。
 一度使われたら核の撃ち合いになり、破滅だ。
 感染症や気候変動も人類への脅威だが、人間が100%抑えきることはできない。
 核兵器は人間の手で完全になくすることができる。

―― 国連のグテレス事務総長はコロナ感染拡大を受け即時停戦を呼び掛けた。

川崎: 事務総長は、今こそ人びとや国々の『連帯』をと訴えている。
 コロナを機に、各国は軍備を減らしお金を人びとに回すべきだ。
 日本は地上配備型迎撃システム『イージス・アショア』の計画を断念したが、背景に膨大な費用の問題があった。
 今必要なのは兵器か医療か。
 冷静に考えるべきだ。

―― 核兵器禁止条約の批准が7月に40になり、発効まで残り10カ国・地域と迫った。

川崎: 広島、長崎に原爆が投下された8月に批准を目指す国もあり、年内に50に達することは可能だ。
 発効が近づくほど、日本はどうするかが問われる。
 発効後1年以内に開かれる締約国会議に、少なくともオブザーバーとして参加すべきだ。

―― 被爆者ら市民の草の根活動をコロナが打撃した。

川崎: 高齢となった被爆者たちは、若者に教わりながらビデオ会議システム『Zoom(ズーム)』を使いこなす。
 何としても今、伝えなければという思いが強いからだ。
 オンラインだからこそ世界に発信もできる。
 学校教育や平和学習に定着していく可能性があると前向きにとらえている。

※ 川崎哲(かわさき・あきら、1968年、東京都生まれ)
東京大卒。2003年からNGOピースボート共同代表。2010年から活動に携わるICANは、核兵器禁止条約の実現に尽力したとして、2017年にノーベル平和賞を受賞した。

※ 核兵器禁止条約
核兵器の開発や保有、使用などを全面的に禁止する史上初めての条約。2017年に国連で122ヶ国・地域の賛成により採択された。核拡散防止条約(NPT)で核保有を認められた米国、英国、フランス、ロシア、中国のほか、米国の「核の傘」に入る日本などは反対の立場。50ヶ国・地域が批准してから90日後に発効し、発効後1年以内に締約国会議が開かれる。


[写真]
被爆75年を迎えた今夏の核廃絶運動の現状について語るICAN国際運営委員の川崎哲さん=東京都新宿区で

東京新聞、2020年8月2日 06時00分
感染症が核紛争招く危機、核兵器は人間がなくせる
ICAN・川崎哲氏に聞く

(聞き手・柚木まり)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/46415

posted by fom_club at 09:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

方方(ファンファン)『武漢日記』

新型コロナウイルスの感染が最初に広まった中国湖北省武漢市で、同市の著名作家、方方さん(65)は約2ヶ月半にわたる封鎖下での生活を日記としてネット上で伝え、1億人以上といわれる読者を獲得した。
一方で、政府批判も辞さない率直な語り口は、民族主義的な勢力から執拗な攻撃も受けた。
本紙の書面インタビューで、方方さんは「悲しみと憤り」が執筆の原動力だったと振り返る。

※ 方方(ファンファン)さん
1955年、中国・南京に生まれ、2歳で両親とともに武漢に移る。武漢大学中国文学科に在学中から創作を始め、社会の底辺で生きる人びとを描いた小説を発表してきた。現代中国を代表する女性作家の一人で、湖北省作家協会主席も務めた。2010年に中国の文学賞、魯迅文学賞を受賞。

◆ ネットで発表、読者は1億人以上

―― 日記を始めた理由は。

方方: 新型コロナの感染状況が厳しかった当初は私も気分がふさぎ、何も書きたくなかった。
 しかし、上海の雑誌社から「封鎖都市の記録」を書くように勧められ、(短文投稿サイトの)微博(ウェイボ)に発表した。
 これが封鎖三日目だ。
 最初は日記のつもりではなかったが、毎日一本ずつ書くうちに読者から「方方日記」と呼ばれるようになった。

―― 封鎖下の武漢の実情を伝え、多くの読者を獲得した。

方方: 毎日午前零時にネット上で発表していたら、多くの読者から「日記を読むまで寝られない」と言われ、とても驚いた。
 その後、(当局の検閲によって)微博のアカウントが閉鎖され、友人を通じて発表するようになった。
 アカウントが閉鎖されたのは、(感染拡大の初期に警鐘を鳴らして当局の処分を受けた)李文亮医師が亡くなった日でもあった。
 かつてない悲しみと憤りを感じ、絶対に書き続けなければならないと思った。

◆ 的外れな批判が増え、デマも流れ始めた

―― 攻撃も浴びた。

方方: 十編も書かないうちに的外れな批判が始まり、どんどん増えていった。
 これはもともと予想していた。
(当初は)彼らの批判はだれも信じなかったが、米国での出版が彼らに突破口を与え、米国の情報当局から援助を受けているとかデマを流し始めた。
 さらに(中国共産党機関紙・人民日報系の)環球時報の胡錫進編集長が「西側で有名になるために、中国と中国人の利益を犠牲にしている」などと批判した。
 中国では少なからぬ民間人が当局の顔色をうかがって行動する。
 そういう人たちにとって、胡錫進は当局を代表する存在だ。
 胡錫進が態度を示すと、私を支持していた多くの人が方向を転じた。
 胡の見方は、私に対する政府の評価そのものだと思う。
 これ以降、各種の攻撃が全面的なものになり、現在まで続いている。

―― 「利敵行為」などという批判もあった。

方方: 都市封鎖で閉じ込められた一人の作家が、憤りや怒り、悲しみ、あるいは(政府の)正しい対応への称賛を日記に記すことが、何の利敵行為なのか。
 こんなでたらめな話を、今も多くの人が信じている。
 今年いちばんの笑い話だ。

「政治的に正しくない」なら、処分や仕事失う可能性

―― コロナ禍では一時、言論の自由を求める声が高まったが、現在は小さくなってしまった。なぜか。

方方: 分からないが、私に対して批判や侮辱、攻撃が浴びせられる様子が、多くの人を怖がらせたのかもしれない。
(政府寄り、民族主義的、保守的な)極左勢力やネット上のごろつきは、私を支持する人びとの以前の言論などをすべて調べて揚げ足をとり、「政治的に正しくない」との名目で当局に通報する。
 中国で「政治的に正しくない」とみなされれば、処分を受けたり仕事を失う可能性もある。
(方方さんを支持して学生の指導資格取り消しなどの処分を受けた湖北大学の)梁艶萍教授の処分はまさにこのように起きた。
 誰もが家族がいて自分の生活がある。
 このようなやり方で多くの誠実な人びとが沈黙させられ、(政府寄り、民族主義的、保守的な)極左勢力の声のみによって、ネット上の言論が形成される。
 極左勢力の背後には、当局、とくにネット管理部門の強い支持があることも注目するべきだ。

―― 米中の対立激化も攻撃の背景といえるか。

方方: 米国で新型コロナが広がらず中国を攻撃しなかったとしても、極左勢力は、私を批判するための理由をいろいろと探し出しただろう。
 これは疑いない。

―― コロナ禍によって自身の創作への影響は。

方方: 私自身の創作には影響はなく、自分のやり方で書き続けていく。
 しかし、私の(作品の)中国国内での出版には大きな影響がある。
 極左勢力が強大になり、中国では現在のところ、私の本をあえて出版する出版社はない。
 この日記や以前の本の再版も含めてだ。
 とてもとても、残念だ。

◆ 官製メディアで報道されない市民の悩み

 全60編の日記は、武漢封鎖3日目の1月25日から、封鎖解除の方針が発表された3月24日まで続き、ほぼ毎日ネット上に投稿された。
 この間、中国の人びとは、この日記を通じて封鎖下での生活を追体験し、かたずをのんで流行の終息を待ち望んだ。

「目下の市民の悩みは、やはりマスク不足だ」(1月27日)、
「毎日飲むべき薬を一日おきに飲んでいる」(2月7日)。

 前例のない封鎖下で市民はどのように生活を営んだのか。
 日記には、官製メディアの報道からこぼれ落ちた市民の悩みがつづられる。

◆ 遺児は何人になるのだろう

 武漢在住の方方さんは、この街を舞台に市井の人びとを描いてきた。
 日記でも新型コロナの影響を最も受けた人びとに寄り添う。

「いちばん忍びなかったのは、霊柩車を追いかけて泣き叫ぶ少女の映像だった」(2月2日)、
「今回の伝染病による遺児は何人になるのだろう?」(同29日)。

 武漢では感染拡大の初期に警鐘を鳴らした医師ら8人が処分された一方、当局は「人から人への感染はない」と発表して対応の遅れを招いた。
 結果として感染拡大に拍車がかかり、医療は崩壊状態に陥った。
 方方さんの怒りは強い。

◆ 無責任の連中に追及の手を緩めるな

「職務怠慢、無作為、無責任の連中に対して、私たちは追及の手を緩めてはいけない。1人も見逃しはしない」(2月3日)、
「敵はウイルスだけではない」(同4日)、
「ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度を取るかだ」(同24日)。

 しかし中国の言論空間は、方方さんの率直な語り口を許すほど寛容ではない。
 当局によって投稿サイトのアカウントが何度も削除された上に、日本の「ネトウヨ」に近い存在ともいえる「極左勢力」から集中攻撃を受けた。
 極左勢力は愛国心や外国への敵対心をあおるほか、当局への批判者をおとしめて言論弾圧を深刻化させている。
 不当な攻撃への反発は、日記を続ける原動力となったという。

「(極左の罵声は)この世界に対する私自身の見方を変えることはできない」(2月28日)、
「極左は『国家と人民に災いをもたらす存在』なのだ!」(3月24日)。

 日記の最後は「私は信じる道を守り通した」(3月24日)という言葉で終わる。
 現在の中国でそれがいかに難しいことなのか。
 日記はありありと伝える。

◆ 来月、日本語版が発売

 日記は日本語に翻訳され、河出書房新社から「武漢日記 封鎖下60日の魂の記録」とのタイトルで9月9日に発売される予定。
 方方さんは本紙取材に「武漢が最も困難な時に日本の人びとは多くの援助をしてくれた。とても感動し、そして感謝している。日本が難関を早く乗り越えることを願っている」と語った。

[写真-1]
方方さん

[写真-2]
7月中旬、李文亮氏が眼科医を務めていた武漢市中心医院

[写真-3]
7月中旬、日常を取り戻すも閉鎖した店舗が目立つ武漢市内

東京新聞、2020年8月5日 13時50分
「武漢日記」悲しみと憤りが執筆の原動力
コロナ封鎖下で作家・方方さんが見た60日

(北京・中沢穣)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/47142

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首相の「3ない」

 臨時国会を開かない、
 閉会中審査に出ない、
 記者会見しない―。


 新型コロナウイルスの感染再拡大が続く中、安倍晋三首相の発信力低下が際立っている。
 三つの「ない」には、野党や記者からコロナ対応などに関する追及を回避する思惑が透ける。

「私もこうした形で節目節目に話をしているが、菅義偉官房長官も西村康稔経済再生担当相も毎日会見を行い、説明している」

 首相は2020年8月4日夕、官邸で記者団から臨時国会や記者会見を開くよう求められ、こう答えた。
「それでも国民は不安だ」と指摘されても同様の説明を繰り返し、「逃げないでください」という声も飛んだが、答えずに官邸を後にした。

 政府・与党は早期の臨時国会召集に否定的だ。
 菅氏は4日の記者会見で「今はコロナ対策に全力を尽くすべきだ」と主張。
 観光支援事業「Go To トラベル」を巡る迷走や新型コロナウイルス特措法改正などが国会審議で取り上げられ、政権への打撃になることを避けたいのが本音だ。

 首相には国会出席のために時間を取られることへの不満もある。
 昨年2019年11月の参院予算委員会では「世界で私はおそらく最も、圧倒的に多くの時間を国会で質疑に応じている」と持論を展開している。

 与党は、首相が閉会中審査に出席して説明責任を果たすべきだとの野党の要求も拒み続けている。
 閉会中審査は毎週開かれているが、これまで首相の出席はゼロ。
 自民党幹部は「首相の出席は(閣僚との)屋上屋になる」としているが、首相が矢面に立つのを防ぎたい意図は明らかだ。

 約1ヶ月半、記者会見しない理由も同様だ。
 首相は会見を批判的に報道されることを気にしているといい、コロナ感染拡大後の会見の多くを外交日程などを理由に途中で打ち切ってきた。
 河井克行前法相、案里参院議員夫妻の事件や森友学園問題など、コロナとは無関係の問題でも追及されるのを避けたいようだ。

 西村氏は4日で会見の実施日数が100日を数えたが、お盆の帰省を巡り菅氏と見解が食い違うなどの弊害も出ている。
 そもそも、一国の首相が発信するのとは重みが異なる。

 立憲民主党の枝野幸男代表は4日の会見で政府の対応を「朝令暮改、閣僚ごとに言うことが食い違い、無政府状態と言っていい。一刻も早く退陣し、別の首相の下で対策に当たっていただくのが国家に対する責任だ」と酷評。
 自民党幹部ですら「政治家という商売は逃げていたら成り立たない」と苦言を呈した。


北海道新聞、2020/08/05 05:00
首相「3ない」で追及逃れ
国会開かない、出ない、会見もしない
コロナ対応「迷走」で

(石井努)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/447408

・ ブルームバーグは安倍氏の辞任を示唆(まともな政治家ならそうするだろうけどね)。
・ まともな有権者ならコロナ禍よりとっくの昔にすげ替えてるし。

Japan’s tally of virus infections is shooting up faster than ever, and support for Prime Minister Shinzo Abe is sinking to new lows.

While Japan’s total death toll remains close to the number the U.S. sees in a day, the public fears Japan may be sitting on a ticking time bomb.

Abe’s approval slid to a record low of 35.4% in a poll published by JNN Monday. More than 60% of respondents said Abe should declare a second state of emergency to bring infections under control -- something his ministers have rejected.

Abe has come under fire for failing to hold a press briefing since June, although his main spokesman said he was in good health. After years of consolidating power, Abe may be starting to let go: Speculation over an early election has all but ended, and it looks like he’s letting potential successors vie for attention before his term as party leader ends in Sept. 2021. Asked Tuesday if he should address the media, Abe deferred to others in his cabinet.

“He no longer appears to be indispensable, the only one who can keep Japan safe,” said Tobias Harris, an analyst at advisory firm Teneo. “Instead, he has appeared indecisive, several steps behind events, and unable to communicate directly with the public.”

That has left the country in a political limbo. No one in Abe’s ruling Liberal Democratic Party has stood out as a likely successor, while opposition parties are mired in single-digit support rates. Local leaders who have gained support for their virus management, such as Tokyo Governor Yuriko Koike, don’t have the political machine to win a national election.

Abe’s government has looked out of sync with public fears, seen by a push to encourage domestic travel with subsidies despite criticism it will spread the virus. Next week, Japan enters one of its busiest travel periods -- the “Obon” holidays -- and the national government hasn’t issued a blanket request for people to stay home even though some regional states are asking people not to visit.

In the latest of a series of flip-flops, Abe has ditched his ill-fitting trademark cloth mask for a larger face covering. What became known as the Abe mask, sent at great expense to all households, was derided for being too small.

After dwindling in late May, coronavirus cases have ballooned in the wake of what many saw as a hasty re-opening of the economy, as the government sought to save struggling businesses. The seven-day average of daily new infections is now more than 1,000, almost twice a previous peak seen in April, while Tokyo alone confirmed 263 new cases Wednesday.

Although Abe has bounced back from blows to his approval ratings since taking office in 2012, his average support has now been drifting down for about a year, hurt by a series of scandals.

“If he got the virus under control, he would have a chance of recovering,” said Harukata Takenaka, a professor of political science at the National Graduate Institute for Policy Studies. “But, taking effective measures to control the virus is awkward for the cabinet, because of fears about damaging the economy.”

Economy Minister Yasutoshi Nishimura, who heads the virus response, has said there’s no need for a clampdown on economic activity. While gross domestic product fell just 2.2% in the first quarter of the year, data for second quarter due in mid-August is expected to show a slump of more than 20%, the worst on record.

Abe doesn’t need to call an election for more than a year, but speculation had emerged about an autumn poll. That prospect looks unattractive for the ruling coalition if it risks losing seats thanks to an unpopular premier. Chief Cabinet Secretary Yoshihide Suga has twice brushed aside talk of an early election in recent days, insisting that dealing with the pandemic is the top priority.

Suga told reporters Wednesday he didn’t see Abe’s recent avoidance of press conferences as a problem and declined to comment on when a new session of parliament would be opened. Abe is set to visit Hiroshima and Nagasaki this week to mark the anniversary of the atomic bombings, according to media reports.

The lack of clear explanation from the top is probably deliberate given that Abe’s term is coming to a close, according to Tsuneo Watanabe, a senior fellow at the Sasakawa Peace Foundation think tank.

The prime minister’s absence leaves the limelight to potential successors such as Nishimura and Health Minister Katsunobu Kato. Polls show the public’s favorite for the job is former Defense Minister Shigeru Ishiba, while Abe has mentioned former Foreign Minister Fumio Kishida as a future leader.

“If Abe was planning to stay on for another term, he would need to show more visible leadership,” Watanabe said. “But if that’s not the case, he can allow prospective successors to compete.”


Bloomberg, Updated on 2020年8月5日 16:00 JST
Virus Cases Are Surging in Japan, And Abe May Be Bowing Out
By Isabel Reynolds
https://www.bloomberg.com/news/articles/2020-08-04/the-virus-is-ravaging-japan-and-abe-may-finally-be-fading-away

・・・[コイケの積極検査という大嘘]おいおい、コイケ知事の「PCR積極的検査」ってどこの国のおとぎ話?ジンバブエやバングラデシュより少ない155位の国民百万人あたりの検査で、1355人の新規感染者数は、英独仏伊より多い世界19位だ・・・

・・・オリンピック開催の為に、あくまでも検査件数を増やそうとしないとみる。検査増やせば、感染数は増えるからか……国民を見殺しにする政府は無用だ・・・

・・・諸君が「敵基地攻撃能力」をわけしりがおに云々するとき、もはや憲法など屁とも思っていないのは明白だが、兵器の発射やそれによる死傷者、兵員の動員、戦時体制構築など、戦争拡大のリアルな絵図を脳裡にどう描いているのか?<the dangerousu case>は、いまある兆候であるだけでなく、アべらこのクニの好戦派の伝統的病質である・・・

・・・西村康稔経済再生担当相「お盆の帰省は国民それぞれ判断を」って、はぁ?とうとう丸投げかよ?安倍晋三はコソコソ逃げ回ってるし、担当閣僚や官房長官は無責任な発言を繰り返すばかりだし、お前ら政権担当能力ゼロだな。そんなにやる気がないならトットと下野しろよ、このポンコツ政権!・・・

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2020年08月05日

ベイルートで大規模爆発

A MASSIVE explosion has killed at least 78 people and left 4,000 injured after the blast devastated part of Lebanon's capital Beirut.

Pictures show destroyed buildings, walking wounded, and a sea of rubble after the explosion that could be heard 110 miles away in Cyprus.

The source of the blast is belived to be 2,750 tonnes of ammonium nitrate which had been stored in a warehouse without safety measures since 2014.

Ammonium nitrate is mainly used as a fertilizer, but has also been linked to terror attacks after being used in homemade bombs.

Lebanese President Michel Aoun has declared a state of emergency for Beirut for two weeks - and vowed the "harshest punishments" for those responsible.

Nearby structures have been flattened, windows and doors have been blown out, cars have been thrown and crushed, and fires burned as the sun set over Beirut.

Horrifying video of the explosion shows an enormous mushroom cloud over the city followed by a shockwave - with witnesses comparing it to a "nuclear bomb".

Toxic gases have been reported in the aftermath, with the US Embassy warning any Americans in Beirut to stay inside.

Some people are believed to still be trapped under the rubble - including being stuck inside their damaged homes.

Prime Minister Hassan Diab described the disaster as a "national catastrophe" and added "those responsible will pay the price".

His wife and daughter were injured in the explosion after it damaged his residence at The Government Palace.

Lebanon's Supreme Defence Council convened and declared to carry out the "maximum punishments" for those responsible.

Lebanon's health minister Hamad Hasan said: "There are many people missing until now.

"People are asking the emergency department about their loved ones and it is difficult to search at night because there is no electricity.

"We are facing a real catastrophe and need time to assess the extent of damages."

Damage was reported up to six miles from the explosion, with windows shattered and build facades shredded by the shockwave.

The blast was also heard 125 miles away across the sea in Cyprus.

Beirut's governor Marwan Abboud compared the blast to the Hiroshima and Nagasaki nuclear attacks that killed an estimated 225,000 people.

Fighting back tears as he arrived on the scene of the disaster, he said: "I ask the Lebanese people to pull together."

British Prime Minister Boris Johnson said the UK stands ready to offer "any support we can" to Lebanon and confirmed Brits have been caught up in the blast.

He added: "The pictures and videos from Beirut tonight are shocking.

"All of my thoughts and prayers are with those caught up in this terrible incident."

Foreign Secretary Dominic Raab added the UK "is ready to offer help and support" to those affected by the blast - including British Nationals.

Meanwhile, US President Donald Trump suggested the explosion may have been a "bomb" - describing it as a "terrible attack".

British grandmother Valerie Fakhoury, 65, from Darlington, who works at Beirut's American Community School was left with blood pouring from her head in the blast.

All staff at the British embassy in Beirut are accounted for, but some have sustained "non-life-threatening injuries".

British journalist Lizzie Porter, who lives just one mile from the scene, told the Daily Mail: "It was 6.10pm and there was a rumble like thunder.
"Then the whole apartment building shook like an earthquake."

Witnesses also reported seeing a strange orange-colored cloud over the site after the suspected chemical explosion.

Orange clouds of toxic nitrogen dioxide gas often accompany an explosion involving nitrates.

Witness Fady Roumieh said: "It was like a nuclear bomb. The damage is so widespread and severe all over the city.

"Some buildings as far as 2km are partially collapsed. It's like a war zone. The damage is extreme. Not one glass window intact."

Red Cross spokesman Georges Kettaneh said emergency services had been "overwhelmed".

Ambulances have been called in from across the country to aid the rescue effort.

Hours after the blast, ambulances still carried away the wounded as army helicopters helped battle fires raging at the port.

Some hospitals were too badly damaged to treat patients, with pictures showing doctors administering first aid in the street.

Initial reports had claimed the blast came from a firework storage site as video appeared to show small flashes and pops amidst the fire before the main blast.

Charbel Haj, who works at the port, said it started as small bursts like firecrackers.

He was then thrown off his feet as his clothes were torn apart by the explosion.

The country's powerful Hezbollah movement said all of the country's political powers must to overcome the "painful catastrophe" unite after the disaster.

A witness said: "Everyone dropped to the ground and I remember opening my eyes and... just seeing dust and a bunch of rubble"

A witness said: "I saw a fireball and smoke billowing over Beirut. People were screaming and running, bleeding.

"Balconies were blown off buildings. Glass in high-rise buildings shattered and fell to the street."

Pictures show the battered and bloody victims arriving at hospitals in search of treatment after the carnage.

An Associated Press photographer near Beirut's port saw people lying wounded on the ground and widespread destruction in central Beirut.

American journalist Ben Wedeman also reported live from a partially wrecked bureau in Beirut.

He said: “This was something the likes I’ve never seen before… Initially I thought it was an earthquake.”

Hospitals are reportedly desperately requesting blood donations as the wounded stream in.

Lebanon's Health Ministry has put out a call for medics to volunteer at the "nearest place you can get to" to help treat the injured people.

Another witness said: "All the downtown area windows are smashed and there are wounded people walking around. It is total chaos."

UK-based charity Save the Children said its offices in Beirut, around three miles from the harbour, were badly damaged in the explosion, which shook the building and destroyed shop fronts in the neighbourhood.

The charity said: "Our rapid response team stand by prepared to support the government in their efforts in the coming days."

"The circumstances of the explosion are not yet known, but Save the Children teams on the ground reported entire streets wiped out, with children unaccounted for as rescue teams work through destroyed buildings to get people out of the rubble," it said.

"Residential and commercial buildings have been shattered in what is being described as the biggest explosion in Lebanon's recent history.

"Hospitals in Beirut are reporting that they are unable to treat further casualties as hundreds of beds immediately filled up following the blast.

"A further hospital in the capital has been completely decimated. The military have deployed to rescue those caught in the wreckage, with medical personnel treating casualties on the streets."

Labour leader Sir Keir Starmer said in a tweet: "The images of explosions in Beirut are deeply worrying.

"Our thoughts are with those affected, the emergency services and the people of Lebanon."

Former chancellor Sajid Javid tweeted to say his "thoughts and prayers" were with the people of Lebanon

Meanwhile, London mayor Sadiq Khan said the city stood with them amid "truly horrifying images" emerging from Beirut.

Commons Speaker Sir Lindsay Hoyle said: "Like everyone who has seen the footage of the devastating explosion in Beirut, I am truly shocked.

"The size and the ferocity of the blast on people and buildings many kilometres away is horrifying. On behalf of the whole House, we send our love and prayers to the people of Lebanon.".

Liberal Democrat acting leader Sir Ed Davey said in a tweet there were "truly awful scenes and in a city that has already seen so much heartbreak"

The explosion comes at a time when Lebanon is passing through its worst economic and financial crisis in decades.

It also comes amid rising tensions between Israel and the militant Hezbollah group along Lebanon's southern border.

An Israeli official said said the nation had nothing to do with the explosion amid ongoing clashes between the two nations.

Israel's Foreign Minister Gabi Ashkenazi told Israeli N12 television news that the explosion was most likely an accident caused by a fire

UN spokesman Farhan Haq said: "We do not have information about what has happened precisely, what has caused this, whether its accidental or manmade act."

White House spokeswoman Kayleigh McEnany told a news briefing on Tuesday that the Trump administration is tracking the aftermath but she offered no details about the causes of the blast.

The US State Department said they are ready to offer "all possible assistance" to Lebanon - but once again said it had no information on the cause.

Meanwhile, the US Pentagon said: "We are aware of the explosion and are concerned for the potential loss of life due to such a massive explosion."

The Sun, Updated: Aug 4 2020, 19:52 ET
HELL ON EARTH
Beirut explosion – Blast rips through Lebanese city killing 78 as ‘warehouse filled with explosive chemicals detonated’
By Debbie White and Henry Holloway
https://www.the-sun.com/news/1252803/beirut-explosion-huge-blast-lebanon-capital/

 パンデミック、世界中で新型コロナ感染拡大がおきているなかでの大惨事です。
 ヤッホーくん、核爆発でないこと、イスラエルのヒズボラ攻撃でないこと、戦争とはいささかも関連しないこと、亡くなられた方々のご冥福と共に、今回の事故に遭われた方の無事を祈っています。
 いつも「平和がイチバン、元気がイチバン」とお願いしつづけているヤッホーくん、8月5日早朝から、早くコロナ禍の前のように、仲間たちと肩を組んで、生き生きと山歩きができる日が一日もはやく戻ってきますようにって祈っていました!

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2020年08月04日

日本の山は「安全資産」?

 ヤッホーくんのこのブログ、以下の日付けの日記をぜひお読みください:
★ 2010年09月08日「外国資本による森林買収」
★ 2011年06月07日「黒田慶子」
★ 2011年12月18日「平野秀樹」(注)
★ 2018年11月23日「日本が売られる」

 日本の山林を中国や香港などの外国人が買い漁(あさ)っているという。
 取得した後は放置したままのケースが少なくない。
 狙いは何なのか。

 北海道の国有林をめぐる一般競争入札で今年2月、象徴的な売買があった。
 山林は、倶知安(くっちゃん)町花園に広がる2ヘクタール。
 最低売却価格1600万円の28倍以上となる4億5千万円超で落札された。
 これを取得したのが、香港の資本だった。

 倶知安町や西隣のニセコ町は、札幌市の南西約100キロに位置する。
 市中心部からは車で2時間ほどだ。
 2019年10月には主要20ヶ国・地域(G20)の観光大臣会合が開かれ、海外から注目された。

 名峰や湖に囲まれたスイスのリゾート地、サンモリッツになぞらえ、倶知安町は「東洋のサンモリッツ」とも呼ばれている。
 ニセコは言わずと知れた、世界有数の“パウダースノー”のスキーリゾート地。
 夏場はゴルフやトレッキングなどを楽しむことができ、温泉もある。

「この19年間で、地価は20倍くらい上がっているところがある。スキー場の近くの山林であれば、50倍くらいのところも出ている」

 不動産業を営む男性は、東京からニセコへ移住した00年からこれまでの地価を振り返った。
 そして、次のように説明する。

「外国人は現地を見ないで買っている人が多い。時期が来れば何かするのかもしれないけれど、人里離れた土地を買っても、そのままになるのかもしれません」

 スキー場などとは関係のない山林は、放置されやすいというのだ。

 リゾートや富裕層ビジネスに詳しい金融コンサルタントの高橋克英マリブジャパン代表は「外国人の山林取得はニセコなど北海道に多い。基本的にはゴルフ場や別荘地、コンドミニアムなど、リゾート開発として買っているのではないか」と話す。

 外国人は山林を取得しても“寝かせておく”ことが目立つという。
 開発を進めるには、まずは上下水道や電気といったインフラを整備しなければならない。
 都市部のように整っていないところが多いことから、開発は長期間に及ぶ。

 例えばニセコでは、何年も前に更地を買っていた韓国資本が、最近になって温泉の掘削に乗り出した事例もあったという。

 ニセコはそもそも、1990年代に訪れた豪州人の口コミによって海外で有名になった。
 G20観光大臣会合のあった「ニセコHANAZONOリゾート」(倶知安町)は、2004年に豪州資本がスキー場を買収したのが始まりだ。
 やがてゴルフコースも買い入れ、2007年には香港資本が運営会社を買収。
 今年は、米大手ホテルチェーン「ハイアット ホテルズ アンド リゾーツ」が展開するホテルが開業した。

 こうしたニセコのように、外国資本による日本の山林取得は増えている。

 林野庁が5月に公表した調査結果によると、「居住地が海外にある外国法人または外国人と思われる者による森林買収の事例」は2006〜2019年で264件にのぼり、総面積2305ヘクタールに達した。
 東京ドームの500倍近くになる。

 ただ、山林を買う外資の実態はよくわかっていない。
 国内に拠点を持つ外資のケースもあり、実際の買収は林野庁のまとめよりもずっと多いとみられている。

 林野庁によれば、取得する目的としては「資産保有」が多く、「別荘地開発」や「太陽光発電」などもある。
 いずれにしても放置されたままの場所が目立ち、「中国や香港の資本が多かった」(担当者)。

「山の値段はタダみたいなもの」

 こう語るのは、日本林業協会の関係者だ。
 実際にインターネットで売買されている山林の価格を調べると、1坪当たり数十円ほどであることが多い。
「海外の人が取得しても、開発しようとする話を聞いたことがなく、土地を持っていることに意義を見いだしているのではないか」とも推測する。

 日本は国土の66.4%が森林で覆われ、森林率でフィンランドやスウェーデンにも匹敵する「森林大国」でもある。
 高度経済成長期には、建設用資材や紙製品向けに木材需要が高まり、1980年ごろに木材価格は高値をつけていた。
 しかし、大規模な伐採の跡地に植林されたスギなどが育ち、伐採期を迎えるには数十年もの年月がかかる。
 海外から安い木材が輸入されるようになり、高齢化や後継者不足も進んで日本の林業は衰退の一途をたどった。

 日本人の多くが“二束三文”だと思っている山林に、なぜ外国人は手を伸ばすのか。

 元農林水産省局長で姫路大学特任教授を務める平野秀樹さんは、「資産隠し」のためだと指摘する。

「外国人が日本の山林を買うと、保有税のかからない資産にできる。固定資産税がかからないようにできるのです。『所有者不明』にもできるため、誰が持っているのか、当局にはわからなくなります」

 企業が買って登記しても、ダミー会社などをはさむことも少なくないという。

 日本国憲法は財産権を保障しており、外国人の所有者に対しても同じように認められる。
 外国人は日本の山林が宅地よりも安いと判断し、長期的な値上がりを期待しているのではないか、と平野さんはみる。

 話はややずれるが、JR東海が、東京と名古屋、大阪を結ぶ「リニア中央新幹線」計画を進めている。
 だが、南アルプスの地下を通す工事で静岡県側が首をたてにふらず、工事は足踏み状態だ。
 JRと自治体の関係とは違うものの、外資によって買い占められた山林が将来、公共工事などの対象となった場合、その開発が進めにくくなる可能性は大いにある。

 さらには不穏な海外情勢が、日本の山林を買い漁る動きを加速しかねない。
 前出の高橋さんは「(海外に移住した中国人や子孫ら)華僑にとって、日本は『安全資産』という認識がある」と強調する。
 とくに香港は、民主化問題で中国政府が統制を強めつつある。

「香港の不動産投資をしていた人が、いまの香港で投資するのはリスクがあります。円資産、日本の不動産を持っておきたいと考えているのではないでしょうか」

 日本の山林はどうなっていくのか。

 経済成長期の伐採後に植えられた木が大きく成長し、伐採期を迎えつつある。
「山林は資源。林業はいま、先進国の産業です。次は“日本”と言われています」と全国森林組合連合会の関係者。
 木材の加工技術が進み、大規模な公共建造物や商業施設にも木材が使用されるようになった。
 低迷する木材価格がやがて上向き、山林の価値が見直される期待感が出てきた。

 地球環境の観点からも、役割が変わろうとしている。
 国土交通省は「国土利用の現状」のなかで、近年の国民の森林・林業への期待は、木材生産機能から災害の防止や水資源の涵養(かんよう)、温暖化防止などの公益的機能の発揮へと変化していると指摘する。
 熱帯林の伐採に対して欧米から強い懸念の声も上がるなど、かつての山林のあり方が問われ始めている。

 日本の山林の価値がまさに見直されようとするなか、長期的な視点で買い占めに走る外国人がいるとしたら、なんとも不気味だ。
※ 週刊朝日  2020年8月7日号


[写真‐1]
手つかずの山林=三重県志摩市

[写真‐2]
全国有数のリゾート地の北海道倶知安町

朝日新聞、2020.8.4 11:30
日本の山は「安全資産」?
外国人が山林を買い漁る狙い

(浅井秀樹)
https://dot.asahi.com/wa/2020073100029.html

 この国、日本を外国資本に差し出しても良いのでしょうか。
 美しい山、河、森を売り渡す国に未来はあるのでしょうか。

(注)平野秀樹『日本、買います、消えていく日本の国土』(新潮社、2012年9月)

 土地を獲得してはチャラになるということを四千年も繰り返してきた中国人は「土地と水に恋して」きた。
 それに応えた我が国の売国ビジネスマンが、中国人や韓国人に日本の国土を切り売りしている。
 全国の山林は国が把握している分だけでも、山手線内の半分強の面積が今や中国人などのものだし、農地、国境離島、軍用地までもが「幽霊地主」化され、中国・韓国人の土地となっている。
 日本人は済州島を買えないが、韓国人は対馬を買えるし、すでに買っている。
 それどころか彼ら外国人は、日本全土を無制限に買えるのだ。
 なぜなら「外資規制が皆無」だから。

 こんな国は世界でも日本だけで、開かれた日本はこの先、中国人や韓国人に国土を虫食いにされ、やがて尖閣諸島や竹島の領土問題は、北海道や沖縄にまで踏み込まれるだろう。
「投資目的は、ビンテージ・ウイスキーと一緒で、貯蓄の一種です」なんぞと、せこいレトリックで国土を飲み干されるその前に、土地の外資規制法規を制定しろ――と、著者は新たな国土防衛を訴える。
※ 週刊朝日 2012年11月9日号


週刊朝日、話題の新刊、2012.10.31 18:09
評者:曽根賢
https://dot.asahi.com/ent/publication/reviews/2012103100010.html

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安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合

 安倍晋三首相は2020年7月31日、憲法53条に基づく野党の臨時国会の召集要求について「課題を整理した上で、与党とよく相談しながら対応したい」と述べた。官邸で記者団の質問に答えた。国会対応を巡っては「通常国会は先月閉幕したが、その後もほぼ毎週、閉会中審査を行っており、コロナ対応、集中豪雨対策等についてタイムリーに審議が行われた」と語った。

 憲法53条に基づく臨時国会召集については、那覇地裁が6月、内閣に召集する義務があると、訴訟の判決で指摘したが、政府高官は「全然影響しない」と、判決を考慮しない姿勢だ。

 首相は、新型コロナウイルス感染が再拡大する中、通常国会閉会翌日の6月18日を最後に記者会見を1ヶ月以上開いていない。官邸の出入りの際、記者団の声掛けに1、2問答える程度で、衆参両院の閉会中審査にも出席していない。

 これに関し、菅義偉官房長官は記者会見で、自身や西村康稔経済再生担当相らが連日、説明していると指摘し、首相会見の開催に消極的な考えを示した。

 菅氏は、首相が7月22日の政府対策本部会合で感染状況の評価や当面の対策を説明したと強調。首相の会見については「今後、適切な機会、いろんな変動があった際には当然、丁寧に説明をさせていただきたい」と話し、開催時期は明言しなかった。

 本紙は31日付朝刊で「首相は直ちに記者会見を開くか臨時国会の召集に応じ、誠実に自らの言葉で語るべきだ。国民への説明責任から逃げることなど許されない」と指摘した。


[写真]
マスクを外し、記者団の取材に応じる安倍首相=31日午後、首相官邸

東京新聞、2020年8月1日 06時00分
安倍首相、野党の臨時国会召集要求について明言避ける
会見にも消極的

(妹尾聡太)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/46254

 立憲民主党、国民民主党、共産党、社民党などの野党は、7月31日、大島衆議院議長と面会し、憲法53条の規定に基づき、臨時国会の召集を求める要求書を提出した。市民連合としてもこの要求に賛同し、早急に臨時国会を召集するよう、強く求めるものである。

 7月に入り、東京都を中心に新規感染者が増えつづけている。現在では愛知、大阪、福岡といった大都市部だけでなく、全国各地で、最多の感染者数の更新があいついでいる。しかし安倍政権は、官邸官僚主導の不公正かつ非効率な経済政策にまい進し続けるのみであり、感染症対策について、国民に対する説明責任を何ら果たしていない。

 本来であればPCR検査の拡充によって、感染者を把握し、隔離することによって感染拡大を防止することが必要である。このことによって、はじめて、感染拡大防止と、社会経済活動とを両立することができるようになる。しかしPCR検査の件数はいまだに諸外国と比べても著しく低いままだ。

 政治の最大の使命は、いのちと暮らしの選別を許さないことである。しかし、いま、人々の暮らしは破壊されつつある。雇用や教育、医療や福祉など、最も社会生活にとって必要な部分が危機に瀕している。医療崩壊を防ぎ、収入が減少している人々の生活を一刻も早く救済すべきだが、安倍政権は、場当たり的な政策を連発するのみであり、その責任を全く果たしていない。

 第2次補正予算に計上された10兆円の予備費を、今こそ迅速かつ効果的に執行すべきである。そのためには与野党が、現場の声を聞き、衆知を集めて対策を作り出し、政府に実行を迫ることが不可欠である。

 安倍首相は「4月の緊急事態宣言時とは大きく状況が異なっている」と述べているが、国民は、感染者の増加が続く事態がこのままで収束するのか、疑問を抱いている。感染が生じた際の具体的な防止策や、感染増が抑制されない場合の病院やホテルなどの施設の確保状況などについても、情報開示があまりにも不足している。政府の対応に業を煮やした東京都医師会が、異例の対応として、臨時国会の開会を強く要求したことを、重く受け止めるべきだ。

 そのうえ、豪雨災害への対応もある。まさに、非常事態ともいえる今、政治の停滞は許されない。Twitterデモ「#臨時国会の開催を求めます」も拡大しつつある。政府与党は、これら世論に耳を傾け、新型コロナウイルス対策や豪雨災害への対応について、早急に臨時国会を開会し、安倍首相出席のうえ、すみやかに国会審議を開始すべきである。

2020年8月3日
安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合

https://shiminrengo.com/archives/3096

 ダイヤモンド・プリンセス号におけるコロナウイルス感染対応の失敗が世界的な注目を集め、「アベはどこだ?」と首相のリーダーシップの不在を海外メディアが問うたのは、2月末のことだった。

 その後、安倍晋三首相は、全国一斉休校やアベノマスクの配布、そして緊急事態宣言の発令などに際して記者会見を開き、存在感を示そうと躍起になった。5月25日に緊急事態宣言を全面解除すると、「日本ならではのやり方で、わずか1カ月半で流行をほぼ収束させることができた。日本モデルの力を示した」と胸を張った。しかしその後、通常国会閉会を受けて6月18日に記者会見を開いたのを最後に、再び、国民の前から姿を消した。

▽ 安倍政権の8年半とは何だったのか

「愛国者」を自称する安倍は、なぜ、これほどまでに国民生活を脅かすコロナ禍や災害などに興味、関心がないのだろうか。

「日本を、取り戻す。」と訴え、8年半前に政権復帰した安倍が実際になした政策転換の内実を精査すると、まず安全保障や経済における対米追随路線の推進が挙げられる。

 さらに、アメリカの許容する範囲で歴史認識を含めた「戦後レジーム」の修正を行い、特権的な世襲政治家とその「お友だち」による国内支配の貫徹を目指すという実態が浮かび上がる。そうした政権のあり方は2017年ごろから限界を示し、コロナ禍で完全に行き詰まったのである。

 安倍とオバマの個人的な関係はともかく、日米政策関係者の「蜜月」はオバマ政権期に絶頂を迎えた。

 日本版NSC(国家安全保障会議)の創設、特定秘密保護法、辺野古新基地建設、集団的自衛権の行使容認、武器「爆買い」などと、安倍は、日本の国内世論の強い反対を蹴散らかし、自衛隊と米軍の一体化(実際には、自衛隊が米軍の傘下に統合されることにほかならない)を推し進めた。

 安保法制を強行した次のステップとして日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)締結を望むアメリカの意をくんで、慰安婦問題の日韓政府合意を交わしたほどまでに、米国追随を優先させたのである。

 ところが2017年トランプが大統領に就任すると、いくら安倍が個人的にこびへつらっても、同盟軽視の無理難題を押し付けられるだけだった。今や再選戦略しか頭にないトランプには、コロナ禍とあいまって不用意に近寄ることさえできない。

▽ 世紀の愚策

「アベノミクス」「三本の矢」とメディアや財界を浮かれさせることで始まった安倍の経済政策も、結局は、ついぞ訪れないトリクルダウン(大企業や富裕層が潤えば富が全体に行き渡るとする理論)と寡頭支配がもたらす格差と腐敗と荒廃で記憶されるようになるだろう。

 象徴的なのは、「第三の矢」たる成長戦略に位置づけられた国家戦略特別区域が、加計学園問題を生んだことである。

 政権末期に唯一残った成長戦略の目玉であるカジノ解禁でもまた汚職の一端が明らかになり、政権はトカゲの尻尾切りに追われた。カジノがアジアの富裕層をターゲットとしたインバウンド観光の需要喚起に一役買う筋書きだった以上に、東京オリンピックの開催はアベノミクスに欠かせなかった。

 コロナ感染対策からすると「世紀の愚策」と名を残すだろう「Go To トラベル」キャンペーンに政権があくまで固執するのは、観光関連業界を要とした成長戦略が瀕死(ひんし)の状態にある焦りを示している。

 もともと2017年の森友学園・加計学園問題が発覚した頃から、安倍政権は漂流を始めていた。

 首相夫妻による公権力の私物化という政治案件が、虚偽答弁や公文書改ざんなどの隠ぺい工作に国家官僚制が組織的に関与する複合的で深刻な問題にさらに膨れ上がっていった。

 加えて、自衛隊日報問題や桜を見る会問題、河井克行前法相夫妻による買収問題、検察幹部定年延長問題など次々と重大な政治問題が表面化し、安倍は政権にしがみつくのが精いっぱいになっていったのである。

 それがコロナ禍によって、「得意」とされてきた外交安全保障政策は全方位で行き詰まり、緊急事態宣言を悪用できないほどまでに深刻な経済危機に見舞われてしまった。ゲームセットは時間の問題となった。

「立憲野党」再生の条件

 それでも安倍がこれまで歴史的な長期政権を存続できたのは、野党の分断と弱体化に負うところが大きい。今なお自民党は、その別動隊ともいえる日本維新の会や小池百合子などの「改革保守」との連携をてこに、ポスト安倍の政権存続を思い描いているだろう。

 自民党とその補完勢力による支配に対するオルタナティブ(代替)として、立憲主義や法の支配に則る立憲野党の再生の可能性は、立憲民主党と国民民主党の合流の成否に矮小(わいしょう)化されるような問題ではない。

 仮に両党が合流に成功したところで、関係者が「一致している」と胸を張る理念や政策が有権者に届いていないようでは、さらに社民党や共産党なども含めたより大きな立憲野党の共闘を国民に選択肢として提示することは到底おぼつかない。

 野党結集が55年体制崩壊以後の長い課題であることから野党関係者には自明かもしれず、また新奇なキャッチフレーズを打ち出さないと耳目を集めることはできないという発想からは無駄に思えるのかもしれない。それでも自民党に対抗する政治勢力が一貫していかなる理念をよりどころにしてきたかを確認することは必要だろう。

 それは「生活」と「公共」である。もっと言うと、「生活を支える、新しい公共」のあり方の模索である。

 もともとこれらの理念は、自民党政権が、組織的なバラマキ型の「政官業の癒着」を体現していた時代に、生活者視点からの改革を提起し、新しい開かれた公共性のあり方を追求するものとして現れた。

 その後、小泉政権や2度にわたる安倍長期政権下で「政官業の癒着」が私的なピンポイント型に変容した側面はあるとは言え、立憲野党が国会や選挙で政権に対峙(たいじ)、追及し、国民に訴えてきたことの重要性に変わりはない。

▽ 要となる「新しい公共」

 以前と異なる点があるとすれば、それは新自由主義との決別だろう。1990年代の「生活者」概念は平成維新の会で影響力を振るった大前研一に見られたように、公共サービスの「消費者」的な要素を強調するものであった。

 しかし2000年代前半の小泉政権において自民党が、弱者や地方を切り捨てる新自由主義政策へと転換すると同時に、民由合併を果たした民主党は「国民の生活が第一。」路線へとかじを切った。自民党が代表する「既得権益」や「政官業の癒着」のあり方が変われば、それに合わせて守るべき「生活」の理解が変わるのは当然である。

 今、コロナ禍で底が抜けつつある国民生活をいかにして下支えするのか。財界や業界の支援しか頭にない安倍政権に対して、単なる消費税論議を超えた政策の深まりと幅が期待される。

 安倍政権のなりふり構わない対米追随路線と国家の私物化はまた、立憲野党による「開かれた新しい公共」の再構築への取り組みを極めて重要なものとした。

 ここで言う公共は、むろん、立憲主義や法の支配など安倍政権がないがしろにした国家の原理原則の回復を含むが、同時に、新自由主義改革によってズタズタにされた保健所などの公共部門や公正さを失った公務員制度の建て直しのことをも意味する。

 さらには、これまで十分とは言えず後面に退いていた感のある「ジェンダー平等」や、将来世代のために現役世代に温暖化対策などに取り組むよう迫る「気候正義」、そしてデモや集会などを通じて政治に働きかける「参加民主主義」の視点もまた、真に「新しい公共」を構想するには欠かせない。

 民主党政権の崩壊後、これらの議論にまだ臆病なようでは立憲野党の再生はまだまだ道遠いと言わざるを得ない。

 民主制と比較した時の独裁制の弱点として、政権の危機が直ちに国家の危機に直結してしまう、ということが挙げられる。いくら安倍政権の下で独裁化傾向が進んだからといって、現政権の危機がそのまま日本の危機であっていいはずがない。

 安倍が残す廃墟のような光景に「生活を支える、新しい公共」を提示できるか。広く大きな立憲野党と市民の共闘にとって正念場が近づいている。


[写真‐1]
鼻から顎を覆う大型の布マスクを着けて、首相官邸に入る安倍首相=8月3日午前

[写真‐2]
安倍首相(左)とトランプ大統領=2019年9月、米ニューヨーク

[写真‐3]
学校法人「加計学園」が運営する岡山理科大獣医学部=2018年10月、愛媛県今治市

[写真‐4]
「Go To トラベル」の割引対象から東京都発着の除外を伝える東京・渋谷の大型ビジョン=7月16日

[写真‐5]
立憲民主党の枝野代表(左奥)と国民民主党の玉木代表(手前右)=2月28日

[写真‐6]
記者団の取材に応じる安倍首相=7月31日、首相官邸

[写真‐7]
検察庁法改正案に反対し、国会前で抗議のプラカードをかかげる人=5月15日

47 News、2020/8/4 06:00 (JST)
コロナ禍で終焉を迎える安倍政権の先に
国民生活をいかに守るか、正念場の立憲野党

(上智大学教授=中野晃一)
https://this.kiji.is/661561695982519393

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吉川洋『マクロ経済学の再構築』

 本書、吉川洋『マクロ経済学の再構築、ケインズとシュンペーター』(岩波書店、2020/08/19刊行)のゲラを校正し、「はしがき」を書いている今、日本を含む国際経済社会は、新型コロナウイルスの感染拡大という暗雲に覆いつくされている。

 コロ ナショックにより世界経済は、戦後最悪、1930 年代の大不況(いわゆる Great Depression)以来の危機に直面した。

 米国における週間失職者の数は、1967年1月から2020年3月まで半世紀余の平均で35万人、2008年秋のリーマン・ブラザーズ破綻後の世界金融危機(いわゆるGreat Recession)の時ですら66万5000人であった。

 ところがウイルス禍が拡大した3月23ー28日には、660万人という驚くべき水準で史上最悪を記録した。
 この結果、2020年3月に4.4%だった失業率は、4月には14.7%に跳ね上がった。

 日本経済の(実質)成長率も、すでに2020年1ー3月期にマイナス2.2%となっていたが、4ー6月期には大幅に落ち込みが加速し、1973ー74年の第1次オイ ルショック、2008ー09年のリーマンショックを上回る戦後最悪の不況となることは確実である。

 経済学という学問にとって不幸なことに、現代のマクロ経済学は、こうした経済の現実の動きを説明し、有効な政策提言を行なうことができない。

 なるほど、コロナショックに直面し、日本でも米国でもEUでも、中国も含めて、世界中の政府が大規模な財政出動と金融緩和策を打ち出した。

 しかし、こうした政策は、40年ほど前までマクロ経済学の主流であったケインズ経済学に基づく処方箋にほかならない。

 今日、世界の主要な大学で学界のリーダーが研究し、大学院レベルの教科書に書かれているマクロ経済学は、危機に直面する世界経済に対してなんら有効な処方箋を提供できない。

 それどころか、「2%インフレ」という的外れな目標を達成するために、マネーストックを異常な水準まで拡大するという誤った処方箋を書き続けているのである。

 マクロ経済学は、過去40年間に大きく変貌した。
 ケインズ経済学から新古典派理論へというこの大転換において、最も大きな役割を果たしたキーワードは「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」である。
 しかし、家計や企業などミク ロの経済主体の最適行動を詳細に調べ、それを相似拡大してマクロ経済の動きを分析するこの方法論は、マクロ経済学を現実の経済とは関係のない知的遊戯に陥れてしまった。
 
 1つの確立された学問分野が、半世紀という長きにわたり、これほど迷走したということは、思えば驚くべきことである。

 20世紀末から米国の経済学界で続けられてきたマクロ経済学の営みは、知のエピステーメー(認識の台座)として将来研究されるべきテーマであるに違いない。
 マクロ経済学の柱は、ケインズの有効需要の理論である。
 第3章「ケインズ経済学のミクロ的基礎づけ、確率的マクロ均衡」で説明するように、ケインズ経済学のアキレス腱と言われてきた供給サイドは、統計物理学の方法でミクロ的に基礎づけられる。
 物理学、化学、生物学などを専門とする自然科学者にはごく素直に、ほとんど常識として受け入れてもらえるであろうことも、経済学者には抵抗が強いことが予想される。

 筆者が尊敬するロバート・ソロー(Robert Merton Solow、1924年生まれ)教授は,第3章の議論を“quite convincing” とし、本書の英語版のカバーに“It captures analytically a good part of the intuition that underlies the Keynesian economics of people like Tobin and me.” という推薦文を寄せてくださった。
 筆者としては、若く有能な経済学者が、先入観を捨て、第3章の議論を検討してくださることを期待している。
 ケインズ経済学のキーワードは「需要」だが、需要は短期だけではなく、長期的にも経済成長の帰趨を決定する。

 そこに登場するのがシュンペーターである。

 このことは第5章「需要の飽和と経済成長、ケインズとシュンペーターの出会うところ」で説明するが、ケインズもシュンペーターも、彼らの考えたことは現代のマクロ経済学では生かされていない

 本書の目的は、2人の経済学をテコにマクロ経済学を再構築することである。

 マクロ経済学のミクロ的基礎づけについて、経済学者が考えていることとはまったく異なる統計物理学の方法を筆者に教えてくださったのは、故青木正直(1931 - 2018)教授である。
 青木先生は、経済学者が誰ひとり省みない中、孤高の道を歩まれたパイオニアだった。
 30年以上前に大阪大学社会経済研究所で数年間先生と同僚となった縁で、長らく筆者が夢見るように考えていたことが現実のものとなった。
 その後は、経済物理学という新しい学問分野の開拓者である青山秀明、家富 洋、池田裕一、藤原義久、相馬亘各教授ら物理学者の人たちと共同研究を行なう機会を得て、彼らから多くのことを学ぶことができた。

 本書においても共同研究の成果を使わせていただいた。
 そのほか第5章では、中央大学の安藤浩一教授との共同研究の結果も紹介させていただいた。

 本書は過去20 年ほどの筆者の研究をまとめたものだが、この間さまざまな組織のお世話になってきた。
 2017年3月までは東京大学経済学部、
 同年4月からは立正大学経済学部を研究の拠点としながらも、
 そのほかに財務省財務総合政策研究所、経済産業研究所、キヤノングローバル戦略研究所、日興リサーチセンターなどが筆者の研究活動をサポートしてくださった。

 またニューヨーク大学の佐藤隆三先生にはさまざまな機会に励まして戴いた。
 友人の井堀利宏教授の科学研究費にも長年お世話になった。

 第3章のシミュレーションは、当時東京大学大学院経済学研究科博士課程の学生だった荒田禎之氏(現経済産業研究所)がやって下さった。
 本書の完成については、研究室の宮川修子氏と岩波書店の橋弘氏のおふたりにお世話になった。
 本書には面倒な数式や図表が多いが、今回もおふたりのおかげで完成することが出来た。
 以上に挙げた方々、組織に心から感謝したい。

 筆者が経済学を学び始めて50年が経過した。
 本書は、私にとって研究生活を締めくくる「卒業論文」のようなものだ。
 45年間、研究生活を支えてくれたのは妻節子である。
 感謝とともに本書を彼女に捧げることにしたい。
2020(令和2)年4月12日
緊急事態宣言下の東京にて 吉川 洋

https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0248300.pdf

 2016年8月に発売され、大きな反響をよんだ『人口と日本経済』の著者・吉川洋さん(1951年生まれ)。印象派を長年研究し、近代人の疎外を描いたマネについて、『印象派の誕生』を上梓された吉川節子さん(1952年生まれ)。
 2500点近くに及ぶ中公新書の歴史でも、ご夫婦で別の分野の研究をされ、ともに中公新書を執筆しているというケースは珍しい。
 そんなお二人の仕事場であるご自宅にうかがった。

―― せっかくですので、馴れ初めなどうかがってもよろしいでしょうか。

洋: 東大で出会いましたが、学年は1年違うんですね。学部もサークルも違いまして……『青春の駒場祭』とか、そんな風にご理解ください(笑)。それからもう50年くらい経ちますね。

 リビングの本棚には、経済や絵画の本はむしろ少ない。森鷗外、夏目漱石、永井荷風、内藤湖南、宮崎市定など文学者や歴史家の全集が目立つ。

洋: 経済の本は大学の研究室にも置いていますから。全集もところどころ抜き出されている巻があったり、読んでいるのが伝わるでしょう?(笑)

 異分野の研究者が身近にいることについてたずねると――

洋: 牛に引かれて善光寺参りじゃないけれど、たとえば一緒に旅行に行くと、自然と美術館に行きます。

―― 洋さんも、絵画の中では印象派にご関心が?

洋: 私が一番好きなのは、浮世絵ですね。特に鈴木春信がお気に入りです。

節子: 娘は小さい頃に美術館に連れて行きすぎたら、嫌いになってしまって(笑)。高校生くらいから自分で観に行くようになりましたが。

洋: 娘は今では建築関係の仕事をしているので、美術と近い分野だと思いますよ。最初は美術嫌いになってしまったかと心配したけど、そんなことなかったんじゃないかな。

と、インタビューから終始あたたかい家庭の様子がうかがえる。実は、当日はリビングにベビーサークルが置いてあった。お嬢さんは、昨年生まれたお子さんと一緒に、しばしば訪れるのだそう。

洋: 印象派は、家内の専門分野ですが、私の専門の経済にも意外な関係があります。経済学者のケインズは、第一次世界大戦の講和会議に、イギリスの大蔵省代表として出席しました。フランスは戦争には勝ったものの、イギリスに借りていたお金を返すことが出来ない。そこでケインズは、講和前年の1917年に亡くなったフランスの印象派・ドガが残した絵画のオークションに目をつけます。お金でなくて、絵で返してもらえばいいじゃないか、というわけですね。イギリスのナショナル・ギャラリーの所蔵品が充実していないので、19世紀フランスの絵画を加えるべきだ、と。非常に慧眼です。

 ケインズは、21世紀には経済的な問題が解決され、人間は労働から解放されると予測した。その後の人間が生きていくうえで、芸術の役割が重要だと考えたという。

洋: その予測どおりにはいきませんでしたけれど、多くの人が美術にアクセスできるような社会にしたい、という考え方はすばらしいと思いますね。

 1時間以上にわたり、プライベートから研究のことまで、さまざまなお話をしてくださった。
 書斎のドアには展覧会のポスターが貼られ、リビングの本棚には文学全集がずらり……経済学者と美術史家が20年かけて育んできた住まいからは、幅広いフィールドの「知」が顔をのぞかせていた。


[写真‐1]
リビングにて。全集の合間に切手など趣味的なジャンルの本ものぞく。

[写真‐2]
リビングでインタビューに応じてくださるご夫妻。

[写真‐3]
節子さんの書斎。机に近い棚にそのときの研究テーマの本を集めているそう。それ以外の19世紀後半の画家の画集は、机から遠い位置に、名前の頭文字のアルファベット順に並ぶ。

[写真‐4]
本棚に飾られたファンタン・ラトゥールの《マネの肖像》と娘さんの幼少期の写真。節子「飾ってあるのは、主人じゃなくてマネです(笑)」

[写真-5]
洋さんの書斎。入り口付近から撮影。本に埋もれた洋さんは、まるで古書店の店主のよう。

[写真-6]
洋さんは卯年生まれのため、うさぎの小物を集めているそう。書斎のカレンダーもうさぎだ。節子「私は辰年だからあまり集める気がしなくて……西洋ではドラゴンは悪者ですし(笑)」

Web 中公新書、2017.11.20
吉川洋・吉川節子の仕事場
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103035.html

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都が一転:朝鮮人虐殺の追悼式、公園使用に誓約書求めず!

 ヤッホーくんのこのブログ、2020年06月13日付け日記「小池百合子と極右ヘイトとの親和性」はお読みになりましたでしょうか。

[速報!!!]
 東京都人権部が昨年2019年9月1日の「そよ風集会」をヘイトスピーチ 認定!

 関東大震災の際のデマなどで虐殺された朝鮮人犠牲者らの追悼式典をめぐり、会場の公園を管理する東京都が主催者に誓約書の提出を求めた問題で、都は、誓約書なしで公園使用を許可する方針に転換した。

 追悼式典は1974年から日朝協会などでつくる実行委員会が、9月1日に都立横網町公園(墨田区)の朝鮮人犠牲者追悼碑前で開いてきた。
 これに対し2017年から、虐殺の事実を否定する団体も同時刻に同じ公園で「慰霊祭」を開催。
 昨年は抗議する活動家との衝突もあった。

 都は昨年末、公園使用許可申請の際に、管理に支障となる行為をしないなどの条件が守れない場合は「管理者が集会の中止を指示したら従います」とする誓約書の提出を双方の主催者に求めた。
 実行委は「誓約書は集会運営を萎縮させる」と反発。
 抗議署名や抗議声明の動きが相次いだ。

 都は7月末に方針を転換。
「注意事項を守り、行事を平穏に行う意思が口頭で確認できた」として、誓約書なしで実行委の申請を受理した。
 都公園緑地部の樽見憲介・適正化推進担当課長は「今後も必要が生じたら誓約書を提出してもらう」と話す。

 実行委は3日、「都が誓約書の要請を取り下げたのは、多くの方々の抗議の成果」との見解を発表。
 都に対し「差別的言動を防ぐため実効ある取り組みを」と求めた。
 9月の追悼式典は新型コロナウイルスの感染防止のため、一般参加者を入れずに実施し、インターネットで中継する。

 追悼式典をめぐっては歴代の都知事が追悼文を送ってきたが、小池百合子知事は「犠牲者数についてはさまざまな意見がある」と発言し、2017年から見送っている。


[写真]
昨年行われた朝鮮人犠牲者追悼式典=2019年9月1日、東京都墨田区の横網町公園

朝日新聞、2020年8月3日 22時41分
朝鮮人虐殺の追悼式、公園使用に誓約書求めず
都が一転

(西村奈緒美、編集委員・北野隆一)
https://www.asahi.com/articles/ASN837FHFN83UTIL017.html

東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例第12条第1項の規定に基づく表現活動の概要等の公表について

東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例(以下「条例」という。)第14条の規定により設置する審査会(以下「審査会」という。)の意見を踏まえ、以下のとおり条例第12条の規定に基づき表現活動の概要等を公表する。

1 表現活動の内容

令和元年9月1日、東京都墨田区内の集会における以下の言動
「犯人は不逞朝鮮人、朝鮮人コリアンだったのです。」
「不逞在日朝鮮人たちによって身内を殺され、家を焼かれ、財物を奪われ、女子供を強姦された多くの日本人たち」
「その中にあって日本政府は、不逞朝鮮人ではない鮮人の保護を」

2 都の対応

(1) 上記1.について、条例第12条第2項の規定に基づく申出を受け、これらの表現は、不逞朝鮮人という言葉を用いながら、本邦外出身者を著しく侮蔑し、地域社会から排除することを煽動する目的を持っていたものと考えられる。
(2) また、当該発言がなされた日時、場所、その他の態様等に照らせば、別の集会に対して挑発的意図をもって発せられたものであって、その表現内容も朝鮮人を貶め、傷つける差別的表現であることから、本邦外出身者に対する不当な差別的言動に該当すると認められるため、適切な措置をとるべきとの審査会の意見を聴取した。
 条例第13条第1項の規定に基づき、審査会の意見を踏まえ、都としては、上記1.の表現は、条例第8条に規定する本邦外出身者に対する不当な差別的言動に該当する表現活動であると判断した。
(3) 都は、条例第12条第1項の規定に基づき、本件公表を行い、このような本邦外出身者に対する不当な差別的言動はあってはならないものとして、その解消を推進していく。
本件は、「『未来の東京』戦略ビジョン」を推進する先導的事業です。
戦略6 ダイバーシティ・共生社会戦略「インクルーシブシティ東京プロジェクト」


都公式サイト、2020年08月03日
総務局
https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2020/08/03/12.html

3万8000人が命を落とした公園

 大相撲で知られる両国国技館から本所方面に向かって歩くと、緑の木々に囲まれた公園にたどり着く。都立横網町公園(東京都墨田区)だ。

 敷地の一角に置かれた鉄の塊は、1923年(大正12年)に起こった関東大震災による火事で溶解した機械類である。焼け焦げて原型をとどめない鉄の塊は、この場所で起きた惨状を物語る。

 かつては旧日本陸軍の被服廠(軍服などの製造工場)があった場所だ。96年前、ここを公園に整備するための工事が行われているさなか、震災が発生した。公園として機能する前のただの空き地に、震災の火の手から逃げてきた人々が殺到した。住宅密集地のなかに設けられた広大な空き地だ。避難場所として、そこが適地であると彼らが判断したのも当然だ。

 しかし、それはさらなる悲劇の始まりとなった。強風で煽られた炎は巨大な竜巻となって、避難民の衣服や持ち込んだ家財道具に飛び火した。四方から襲った火煙に、人々が飲み込まれた。だれもが避難場所だと信じた空き地は、たちまち阿鼻叫喚の様を呈した。

 ここで約3万8000人もの人々が命を落としたという。

 以来、横網町公園は慰霊の地となった。亡くなった被災者の霊を供養するための慰霊堂がつくられ、毎年、震災が発生した9月1日には同所で都慰霊協会主催の大法要が営まれている。

追悼文を送り続けた歴代都知事

 そして1974年からは、同公園内の慰霊堂に近接した一角で、もうひとつの「法要」がおこなわれるようになった。

 「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」だ。

 文字どおり、震災直後に虐殺された朝鮮人を追悼するものである。

 震災直後、関東各地で「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「暴動を起こした」といったデマが流布された。デマを信じた人々によって多くの朝鮮人が殺された。

 震災をきっかけに引き起こされた、もうひとつの「惨事」である。
 
 この朝鮮人虐殺について、内閣府の中央防災会議は、2009年にまとめた報告書の中で、次のように記している。

<朝鮮人が武装蜂起し、あるいは放火するといった流言を背景に、住民の自警団や軍隊、警察の一部による殺傷事件が生じた>

<武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えたあげくに殺害するという虐殺という表現が妥当する例が多かった。殺傷の対象となったのは朝鮮人がもっとも多かったが、中国人、内地人(日本人)も少なからず被害にあった>

<自然災害がこれほどの規模で人為的な殺傷行為を誘発した例は日本の災害史上、他に確認できず、大規模災害時に発生した最悪の事態>

 さらに犠牲者数については、震災の全死者(約10万5000人)のうち、「1〜数%」、つまり1000〜数千人の規模にあたると推定している(ちなみに、震災直後に調査した朝鮮人団体は、犠牲者の数を約6000人としている)。
 状況からしても正確な人数を弾き出すことは不可能だが、政府も認めるこの虐殺の事実を否定する歴史家はいないだろう。

 こうした歴史的な経緯もあり、73年に横網町公園内に朝鮮人犠牲者の追悼碑が建立され、その翌年からは各種市民団体などの共催によって追悼式典が行われるようになった。

 第1回目の式典には、当時の美濃部亮吉・東京都知事が「51年前のむごい行為は、いまなお私たちの良心を鋭く刺します」と追悼のメッセージを寄せた。以来、歴代都知事は、この追悼式典に追悼文を送り続けたのである。

 ところが──異変が起きた。

小池都知事の不可解な理屈

 2017年のことだ。小池百合子都知事が、追悼文の送付を取りやめたのである。小池知事は会見においてその理由を「関東大震災で亡くなったすべての方々に追悼の意を表したい」と述べた。同じ日におこなわれる「大法要」にメッセージを寄せることで、「すべての方々」を追悼するという理屈だ。

 会見場でその言葉を直接耳にした私は、強烈な違和感を覚えた。

 震災の被害者を追悼するのは当然だ。一方、虐殺の被害者は「震災の被害者」ではない。震災を生き延びたにもかかわらず、人の手によって殺められた人々だ。まるで事情が違う。天災死と虐殺死を同じように扱うことで「慰霊」を合理化できるわけがない。だからこそ、たとえば、ことあるごとに「三国人発言」のような差別認識を披露していた石原慎太郎氏も含めて、歴代都知事はこれまで朝鮮人犠牲者の追悼式にメッセージを送り続けてきたのではなかったか。

 小池知事の言葉は、天災の中に人災を閉じ込めるものだ。

 今年2019年9月1日の「追悼式」には約700人が参列したが、はたして追悼文が寄せられることはなかった。

 知事のメッセージが読み上げられることのない追悼式は、これで3年連続だ。

「虐殺という事実にふたをするに等しい」

 追悼式では犠牲者の無念を訴えながら、知事の判断に憤りを表す人の発言が相次いだ。

虐殺を否定する人びと

 小池都知事の追悼文送付「取りやめ」は、思わぬ余波をももたらした。

 知事の判断と足並みをそろえるように、一昨年から新たな「追悼式」がおこなわれるようになったのだ。

 朝鮮人犠牲者追悼式とほぼ同時刻、公園内のわずか20メートル離れた場所でおこなわれたのは、「真実の関東大震災石原町犠牲者慰霊祭」(以下=「慰霊祭」)である。「石原町」とは、墨田区石原町──つまりは会場となった横網公園一帯を含む地域の町名だ。

 要は震災によって甚大な被害を被った地元・石原町住民のための「慰霊祭」ということなのだが、名称の冒頭に「真実の」なる文言があることで、座が一気に匂いたつ。

 お察しの方も多かろう。

 そう、朝鮮人虐殺の「否定論」の立場をとる者たちが行った集会だ。
 
 主催団体の一つに名を連ねるのが「そよ風」なる女性グループ。同団体は、在日コリアンの排斥運動、ヘイト活動を繰り返してきた在特会(在日特権を許さない市民の会)などとも共闘してきた。付言すれば、小池知事が朝鮮人慰霊祭に追悼文送付を中止した背景には、同団体による議会へのロビー活動があったことを指摘する関係者も少なくない。

「慰霊祭」の参加者は約30名。これまでハーケンクロイツや旭日旗を掲げて外国人排斥デモを主催した者など、ヘイトデモではおなじみの面々も含まれる。

 警察官によってがっちりガードされた「慰霊祭」会場の入り口には、まるで朝鮮人犠牲者追悼式へのあてつけであるかのように「六千人虐殺の濡れ衣を晴らそう」「六千人虐殺は捏造・日本人の名誉を守ろう」と大書された看板が掲げられた。

参加者たちが発するヘイトデマ

 君が代斉唱で始まった「慰霊祭」は、確かに読経や黙祷はあったにせよ、主催者たちの発言はいずれも慰霊や追悼といった雰囲気には遠く、まるでヘイト集団の街宣同様、差別や偏見に満ち満ちた発言、あるいは「日本人の誇り」といったスローガンが飛び交う展開となった。

 なにしろ、「そよ風」代表の女性が自ら「慰霊祭の目的はただひとつ、(被災者、犠牲者の)みなさまの名誉を回復することです」と挨拶するくらいである。

 マイクを持った参列者からは次のような発言が飛び出した。

「父親やおじいさんが必死になって戦ってアジアを開放した大東亜戦争の志を受け継いでいかないとならない」(読経した真言宗智山派の住職)

「虐殺は嘘であります。まったく根拠がない。不逞朝鮮人が略奪、強姦などをした」(墨田区民代表を名乗る女性)

「慰安婦の強制連行などあったのか。徴用工もただの出稼ぎ」

「虐殺の事実などない。こういうことを修正しなかったから、今日の日本と韓国の紛争が起きている」

「(震災直後)確かにコミュニストによる暴動があった。テロもあった。それに対する住民の自警行動があった。虐殺ではない」(鈴木信行葛飾区議)

「嘘をついて日本人を冒涜して何が面白いのか。自己満足に陥っているだけ。朝鮮人犠牲者慰霊祭は、虐殺ということを政治利用しているだけだ」(参加者の男性)

「この慰霊祭は、災害便乗テロを抑制するための重要なイベント」(英霊の名誉を守り顕彰する会会長)

「私は在日朝鮮人との戦いの真っただ中にある川崎から来た。必ず勝利する」(極右活動家の瀬戸弘幸氏)

「(関東大震災では)放火などの卑劣な犯罪によって10万人以上の尊い命が奪われた。なのに日本人だけが虐殺の汚名を着せられた」(慰霊祭実行委員会代表)

 発せられるのは差別と偏見に満ち満ちた言葉と、ヘイトデマばかりだ。これのどこが「慰霊祭」なのだろう。ちなみに「そよ風」はブログにおいて「私たちは虐殺を否定しているのではありません(略)。6000人(という数)に疑義を呈しているのです」と書いてはいる。だが、当日の発言者の言葉からは、そのような見解はほとんど聞かれなかった。まさに「虐殺がなかった」ことだけを訴えたいがための「イベント」だったのではないか。

都はヘイトスピーチを規制しているが・・・

 ちなみにこうしたスピーチは、朝鮮人犠牲者追悼式の参列者の耳にも飛び込んできた。「慰霊祭」側はスピーカーを、追悼式がおこなわれている方向に向けて設置していたのである。嫌がらせと思われても仕方なかろう。実際、「不逞朝鮮人」といった文言が響き渡るたびに、追悼式に参列した在日コリアンが顔をこわばらせるといった場面も繰り返された。

 当然だ。「朝鮮人が略奪、テロを起こした」といいったデマを流す行為は、紛うことなきヘイトスピーチである。

 ちなみに東京都は昨年2018年、ヘイトスピーチを規制し、性的少数者(LGBT)への差別解消を目指す人権条例が議会で成立し、今年2019年4月から施行された。東京五輪開催に向けてつくられた条例は、五輪憲章にうたわれる人権尊重の理念を踏まえたもので、ヘイトスピーチに対しては、公共施設の利用を制限できるとしたものだ。

 会場となった横網町公園は都の管理下にある。常識的に考えれば、ヘイトデモの主催者などで構成される団体に公園を貸し出すことじたいがおかしいと思うのだが、それ以上に、「不逞朝鮮人」などといった文言が飛び交う状況を、公園内で監視・警備にあたる職員が放置している事態がきわめて異常だ。

 私は公園内で警備にあたる職員にその旨を訴えた。職員のひとりは渋々という感じで「慰霊祭」主催者のひとりにスピーカーの向きを変えるよう伝えたが、主催者側は一瞬、スピーカーの位置を変えただけで、職員が離れるとまた元に戻してしまった。

地元住民が知らない「地元の慰霊祭」

「死者への冒涜じゃないか!」

 現場に来ていたノンフィクション作家の加藤直樹氏はそう口にした。加藤氏は著書『九月、東京の路上で』などで、震災下における朝鮮人虐殺の問題を長きにわたって追いかけてきた人物である。

 まったく同感だ。虐殺否定ばかりを強調する「慰霊祭」からは、追悼も、慰霊も、ほとんどその思いを感じることはできなかった。

 しかも、どうしても気になって仕方ないことがある。

 わざわざ「石原町犠牲者慰霊祭」と銘打っておきながら、地元・石原町の犠牲者に関してはほとんど言及がなかったことだ。いったい、何のために「石原町」を持ち出したのか。

 何のために「石原町」の三字を看板に大書したのか。

 そもそも、石原町と、この慰霊祭は、どのような関係にあるのか。石原町住民の同意を得たうえでの慰霊祭なのか。

 私は石原町内に存在する4町会すべての会長に直接、「石原町犠牲者慰霊祭」は石原町各町会の同意を得たうえでおこなわれているのか、主催団体とはどのような協力関係にあるのか、地元では「慰霊祭」をどのようにとらえているのか、ということを聞いてみた。

 すると全町会長が、地元は「石原町犠牲者慰霊祭」と無関係であると断言したのである。

「その慰霊祭のことは、まったく知らない。聞いたこともない。町会の集まりで話題になったこともない」(石原1丁目町会)

「慰霊祭がおこなわれていることじたいを知らない。なんの案内も来ていない。勝手に石原町の名前を使ってほしくない」(石原2丁目町会)

「主催団体名も聞いたことがない。都が主催する慰霊祭には地元として花輪などを送っているが、それ以外の関連行事に関与したことなどない」(石原3丁目町会)

「その慰霊祭については聞いたことがない。行われていることも知らない」(石原4丁目町会)

 このうちの一人は、隣町の横網町との連合組織「横網石原連合町会」の会長も兼任しているが、同会の会議などでも一度も「慰霊祭」のことが議題に上がっていないという。もちろん、主催団体からの協力要請、相談、挨拶などもなかったと、各町会長は口をそろえた。そもそも全員が、「石原町犠牲者慰霊祭」がおこなわれていることすら知らなかった。

 つまり「石原町犠牲者慰霊祭」は、町名だけを借用しながら、地元町会の意向を確認もせずに行われていることになる。まさに、地元を無視しながら地元名称だけを用いた「政治利用」そのものではないのか。

 もちろん慰霊の自由はある。当事者でない人間が追悼してはいけないという決まりがあるわけでもない。

 だが、わざわざ「石原町」の名称を用いながら、そこに深く関わるわけでもなく、地元の同意を集めるでもなく、慰霊祭の名のもとに「虐殺否定」ばかりをぶち上げるのは、震災犠牲者をまさに「冒涜」するものではないのか。前述したように、そもそも「そよ風」代表は名誉回復こそが「ただひとつの目的」だとあいさつで述べているのである。

「慰霊祭」を主催した者たちの真の狙いは、おそらく朝鮮人犠牲者追悼碑の撤去と、虐殺の事実を歴史から消し去ることであろう。

 追悼文送付を取りやめた小池都知事の「判断」は、そこに同調したものではないのか。 

 虐殺の犠牲者は眠れない。96年が経過したいまでも、デマと悪罵が静穏な時間を奪う。そして、幾度も殺される。


現代ビジネス、2019.09.21
朝鮮人犠牲者追悼のウラで行われた「虐殺を否定する」慰霊祭
なぜ死者は冒涜され続けるのか

(安田 浩一)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67331

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2020年08月03日

ジョセフ・スティグリッツ米コロンビア大教授

新型コロナウイルスの感染拡大によって大きく落ち込んだ世界経済は、この後どうなっていくのか。
グローバル化や金融市場の自由化を背景に深刻化した格差の構造は、コロナによって加速してしまうのか。
ノーベル経済学賞受賞の経済学者、ジョセフ・スティグリッツ Joseph Stiglitz 米コロンビア大教授(77)が、オンラインでのインタビューで語った「コロナ後の世界」とは。

■ 差別や格差の問題、コロナであらわに


―― 新型コロナウイルスの感染拡大によって世界経済は大きく落ち込みました。国際通貨基金(IMF)によると、2020年の世界経済の成長率は前年比4.9%減と、「大恐慌以来の不況」になると予測されています。コロナのインパクトをどう見ていますか。

Joseph Stiglitz: 大きな問題の一つは、事態が収束するまでにどれぐらいの時間がかかるか、いつまでコロナと共存しなければならないのか、分からないことだ。感染拡大を制御できるようになるまでは、通常の経済に戻るのは難しい。治療法やワクチンを開発するまで、かなり不安定な状態に直面するだろう。
 経済は弱まっていくとみられるが、政府の支援の規模や持続性などによって、どれほど弱まるかが決まってくる。影響は国によって大きく異なるということだ。米国などいくつかの国は不十分な対応しかしていない。米国は巨額の支出をしているが、必要なところに行き渡っていない。失業者は急増している。IMFの予想は現実的なところだろうが、世界経済はもっと悪くなる可能性もある。

―― 最近の著書『プログレッシブ キャピタリズム』で、この40年間で大多数の国民の所得が減り、最上層のごく少数の国民と大多数の国民の間に巨大な格差が生まれた、と指摘しています。コロナによって、この格差の構造は加速するのでしょうか。

Joseph Stiglitz: 政策で適切に対応しなければ、様々な経路で加速するだろう。米国のような国では、貧困層は貧弱な医療しか受けられず、感染症の影響が大きい。上層の人間はオンラインで仕事を続けられるが、最下層の人間は、より人との接触の多い仕事や、機械やロボットで代替できる仕事が多い。技術を持たない労働者の需要は減り、失業者の増加や賃金の低下が起こる。つまり、不平等・不公平の状況は悪化する。さらに今回のような大きなショックが起きたときはいつも、より教育された、より適応能力の高い人は柔軟に対応できる一方、教育を受けていない人たちは圧力にさらされる。

―― ブラジルやインド、米国などの貧困層をコロナが襲っています。富裕層でも貧困層でも感染するリスクはあるものの、適切な感染防止対策や十分な医療を受けられない貧困層により厳しい「逆進性」があるように思えます。

Joseph Stiglitz: 米国のトップの人たちと最下層の人たちとの間で、大きな医療格差と寿命の違いがある。最下層の人たちは、基本的人権としてのヘルスケアにアクセスする権利に気づいていない。収入格差は大きく、健康的な食事もとることができない。さまざまな複合的な要因によって大きな医療格差がつくり出されている。
 コロナによって、人種差別や所得・医療格差がいかに悪いことかが明らかになった。我々の歴史的な人種差別、格差や不公平について何かしなければならない、という機運が高まってきている。

■ スペアタイヤのない車に乗っている私たち

―― グローバル化や金融市場の自由化が、ごく少数の人に富をもたらしただけで、そのほかの人たちは停滞と不安定な生活にさいなまれた、と著書で強調しています。これまで世界が進めてきたグローバル化や金融市場の自由化という方向性を、コロナが変えるきっかけになると思いますか。逆に、より進ませると思いますか。

Joseph Stiglitz: これまで40年間の経済が間違った方向に進んできたことを反省するときを迎えている。コロナの感染拡大によって、そうした問題点が浮き彫りとなった。著書のメインテーマの一つは、行き過ぎたグローバル化と金融自由化が、政府と市場の間のバランスを失わせたということだ。金融の規制緩和をしすぎたが、市場には政府が必要だ。グローバル化で、ふつうの市民ではなく企業によって世界的なゲームのルールが決められた。その結果、適切な時期にフェースシールドや人工呼吸器がつくられず、不足する事態を招いた。
 市場経済には復元力がなかったのだ。短期利益に集中し、長期安定性に注意を払ってこなかった。分かりやすくするためにこんなたとえ話をするが、多くの会社がわずかなお金を節約するために自動車からスペアタイヤを取り外した。ほとんどのときはスペアタイヤは必要ないが、タイヤがパンクしたときには必要だ。我々はスペアタイヤのない車、復元力のない経済をつくってしまっていたのだ。

―― そうした「市場の失敗」について、著書では「私たちはようやく、アダム・スミスの言う『見えざる手』がなぜ見えないのかを理解した。そんなものは存在しないからだ」と、印象的な表現で指摘していますね。

Joseph Stiglitz: 金融市場の近視眼的思考ではなく、長期的な視点を促進し、グローバルサプライチェーンをより多角化、弾力化し、経済をもっと信頼できるものに導く必要がある。それはトランプ(米大統領)の保護主義とはまったく異なる原理に基づくものだ。一方、今回のコロナ危機で私たちは国際的な協調がより必要だと悟った。これは全世界的な問題だからだ。トランプが世界保健機関(WHO)から、国際的な協調行動から離脱するのは最悪な行動だ。

―― 環境に配慮したコロナからの復興は経済成長と気候変動の両方に資する、とのリポートを共同でまとめました。「Build Back Better」という考え方は広がるでしょうか。

Joseph Stiglitz: 2008年の金融危機後、政府の対策は大きかったが、今回はもっと大きくなる。政府が巨額の対策をとるとき、我々がどういう経済を求めているかが問われる。何人かの人は「2020年1月の時点に戻りたい」と言う。しかし我々の考え方は違う。2020年1月は化石燃料の経済だった。しかも大きな格差のある、弾力性のない経済だ。より公平な社会、グリーンエコノミーに移行したほうがいい。コロナ後は、これまでより良い経済を求めるべきだ。労働者の需要を高め、所得を増やし、格差を改善する。より良い経済をめざせば、力強い回復が実現できるだろう。

―― コロナショックから回復を図ろうと、各国政府が経済対策を打ち出しています。巨額の借金を抱える財政に懸念はありませんか。

Joseph Stiglitz: 戦争のさなかにある国が「お金がない」と言っている場合ではない。やるべきことをやるべきだ。私は財政赤字を心配していない。第2次世界大戦で各国政府は大きな借金を抱えたが、経済成長を遂げ、国内総生産(GDP)比は下がった。ただ、お金を正しく使うことに気をつけるのは重要だ。私は、トランプ政権が巨額の支出をしているのにもかかわらず、必要とする人にお金を与えていないことを批判している。失業率は最悪の水準に上がった。コロナ後のより良い経済のために、政策をどうデザインしていくか注意深く考えなければならない。

―― 経済対策として、日本のように国民一人ひとりにお金を配る政府もあります。国民に政府が継続的にお金を配る「ベーシックインカム」についてどう考えますか。

Joseph Stiglitz: 政府の最も重要な義務は、国民に仕事を提供することだ。仕事を求めているすべての人に、尊厳ある仕事がある。グリーン社会に移行するために必要なインフラはある。ベーシックインカムはその最も重要な義務から注意をそらさせる。問題は、コロナ禍の中で仕事がなくなり消費しなくなったことだ。そのため、いくつかの国がベーシックインカムと同様の政策をとった。失業した人、もしくはすべての人にお金を配るのは、例外的な時期だからだ。感染拡大を制御可能にするまでのサバイバルといえる。

■ 繁栄を分かち合うために

―― コロナ後、人工知能(AI)など最先端技術が進めば、雇用の状況はどうなっていくのでしょうか。

Joseph Stiglitz: イノベーションによる置き換えが可能なら、技術を持たない労働者の需要は減り、賃金は減る。国民の多くが失業や低賃金に直面するだろう。トリクルダウンはありえない。将来の雇用がどうなるかは、政策にかかっている。
 こんなことを言う人がいる。
「イノベーションはいつもすべての人をより豊かにする。自動車だっていくつかの仕事を破壊したが、もっと多くの仕事をつくった」
 それが正しければ素晴らしいが、AIの普及とロボット化は違う。100年前にうまく機能したからといって、今うまくいくというわけではない。
 すべての人がより豊かになるのは必然とはいえない。政府の介入が欠如すれば、社会の広範囲に不公平感が広がる。繁栄を分かち合うための政府の対策が求められる。コロナによって大きな格差があらわになり、少なくとも米国では、政治に対する考え方が変化したと感じている。

―― いまが岐路ということでしょうか。

Joseph Stiglitz: 私たちはターニングポイントにいる。40年もの間、格差が拡大したが、もしこのまま同じように続ければ、同じような結果を生むだろう。小さな改革ではなく、いくつかの大きな改革が必要だ。教育システムの改善、税制改革、市場独占への対抗策、雇用促進策、グローバル化の再定義。もっと連続的で包括的な改革に取り組まなければならない。

―― 金融緩和策の影響で、日本やスイスなどで国債金利がマイナスになっています。これは資本主義の行き詰まりを表しているのでしょうか。

Joseph Stiglitz: 市場経済がうまく機能していないサインなのだろう。もっとグリーン社会への投資が必要だ。そうすれば、必要とされる長期的な投資に、過剰貯蓄を回すことができる。
 私たちは、金融市場と資本主義の本質を変えなければならないということを悟った。一方で、政府が強力な役割を果たす市場経済を実現できると私は信じている。資本主義を放棄するのではなく、進歩させる、改革することが必要なのだ。

Joseph Stiglitz(1943年、米国生まれ)
 世界銀行上級副総裁兼チーフエコノミストなどを経て現職。2001年にノーベル経済学賞を受賞。近著に「プログレッシブ キャピタリズム」。

■<記者の眼>私たちが立つ、未来への岐路

 新型コロナウイルスの感染拡大は、経済に大きな打撃を与えた一方、私たちに立ち止まる機会を与えた。
 この数十年間、世界経済はグローバル化に突き進み、ヒト、モノ、カネが国境を越えて自由に動き回る世界をつくり出した。
 その結果、ウイルスも自由に飛び回り、世界中に感染が広がった。

 新型コロナは富裕層にも感染するが、貧困層により深刻な被害をもたらした。
 雇用でも、厳しい状況に追い込まれたのは非正社員・エッセンシャルワーカーたちだ。
「持てる者」と「持たざる者」との格差を放置してきた、社会のひずみがあらわになった。

 それぞれが欲望のまま「もっと、もっと」と富を追い求め、成長をめざし続けてきた。
 それが格差拡大や環境破壊などにつながった面がある。
 このままコロナ前の日常に戻っていいのか。
 そんな問いかけが突きつけられている。

 これまでも気づいてはいたが、改善できなかった難問だ。
 しかし、世界経済が同時に止まったことで、かつてない環境改善が目の前に現れた。
 各国が、そして私たち自身がともに行動すれば、解決できる可能性があることを示した。

 コロナによって踊り場にたたずんでいる世界が、これまで通りの方向に進むのか、よりよい方向に転換するのか。
 未来への岐路で、何をなすべきなのかを考えたい。

[写真‐1]
ジョセフ・スティグリッツ米コロンビア大教授(2013年撮影)

[写真‐2]
ウェブ会議システム「Zoom(ズーム)」でインタビューに答えるジョセフ・スティグリッツ米コロンビア大教授

[写真‐3]
全米に広がった、黒人への差別反対を訴えるBLM(Black Lives Matter)運動はいまも続いている=6月19日

[写真‐4]
感染防止のビニールをはさんで抱き合う家族。老人ホームでは厳しい新型コロナ対策がとられていた=6月、サンパウロ

[写真‐5]
ずらりと風車が並ぶ風力発電所。コロナからの復興では、環境関連投資を増やすべきだという声が出ている=2020年6月、北海道幌延町、朝日新聞社機から

[写真‐6]
高級ブランド店などが並ぶ「五番街」。日曜にもかかわらず、車も人もまばらだった=2020年4月、米ニューヨーク

朝日新聞 GLOBE+、2020.08.02
[ジョセフ・スティグリッツ]
コロナ後に私たちが目指すべき、新しい経済の姿とは

(聞き手:星野眞三雄)
https://globe.asahi.com/article/13594065

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少子化なのに、クラスは相変わらず「密」

■ 分散登校での気づきを制度化する気運

 今年2020年2月27日の第15回新型コロナウイルス感染症対策本部において、安倍晋三総理が全国すべての小学校、中学校、高等学校、特別支援学校について、3月2日から春休みまで臨時休業を行うよう要請を行った。
 しかし、休校については教育委員会が判断するのが原則で、安倍首相が突如として要請したのは越権行為との議論もある。
 萩生田光一文科相が首相の意向を聞かされたのは当日で、これに最後まで反対したというが、聞き入れられなかったという。

 ともあれ、首相の要請を受ける形で、全国の学校は「全国一斉休校」に突入していった(一部では休校を見合わせたところもあった)。
 それは春休みが終わっても、ほとんどの学校で継続された。
 ようやく学校が再開に向けて動きだしたのは緊急事態宣言が39県で解除された5月14日以降(全面解除は5月25日)で、それも完全な再開ではなく、登校する子どもたちの数を制限する分散登校の形が採られた。

 緊急事態感が漂う中での分散登校だったわけだが、そこには予期しなかった「気づき」があったという。

 以前に比べて心にゆとりをもって子どもたちに接し、授業が行えたことに多くの教員たちは気がついた。
 同じく子どもたちも、落ち着いて学校生活に取り組むことができたのだ。

 その理由は、分散登校によっていつもとは違う少人数クラスが実現したからだ。

 子どもたちが少なければ、当然のことながら教員の目が行き届きやすくなる。
 教員の目が行き届けば、子どもたちの気持ちにも余裕が生まれる。
 それに気づけたのは、適切な表現ではないかもしれないが、新型コロナのおかげなのかもしれない。

 この気づきを新型コロナとともに終わらせるのではなく、日常のものにしようと提言を行ったのが『ゆとりある教育を求め全国の教育条件を調べる会』である。

 同会は、文科省に情報公開請求して手に入れた義務教育費国庫負担金に関する公文書のデータを読み取りながら、教職員定数や実数、配置の様子や学級編制の状況などを調査、研究している教育関係者を中心とするグループである。

 5月の初めに同会の事務局長を務めている山崎洋介氏が、「2019年度学校基本調査」をベースにして、少人数学級を実現するには、教員の数をどれくらい増やさなければならないかを試算して、発表している。
 その反響は大きく、野党やマスコミから問い合わせが殺到したという。

 その試算をさらに検討し修正が加えられた数字が、「提言」には盛り込まれている。
「感染症対策とゆとりある豊かな教育のための少人数学級制の導入を」というタイトルがつけられている提言は、「はじめに」で次のように述べている。

緊急的臨時的に実施した『分散登校』の経験から、少人数となった教室で学び、教えることの教育効果を改めて認識し、恒常的な少人数学級制度実施への期待の声がかつてなく高まっています

■ 20人学級のメリットと実現の可能性

 そこには、いわゆる「3密(密閉、密集、密接)」を避けるためには少人数学級が必要であり、新型コロナウイルスだけでなく、今後の新たな感染症予防のためにも必要なことだとも記されている。
 さらに、「少人数学級制導入の必要性」の項には分散登校を実施した学校からの声として次のように述べられている。

「『一人一人に言葉がかけやすく、勉強もじっくり見られる』『生徒の様子がよく見え、生徒も見られているという意識から集中力が高まっている』『20人がスタンダードになれば指導の効率が上がる』など、少人数での学習や指導での教育効果を再認識した形です」

 はたして、全国で20人学級は実現できるようになるのか。現在は40人学級(小学1年生は35人)が主体であるから、1クラスあたりの子どもの数を半分にすることになる。
「提言」では、細かな算出方法も述べられているが、ここでは省く。
 結論だけを言えば「全国の公立小中学校における20人学級の実施には約10万9千人の教員増が必要」としている。

 もちろん無料で働かせるわけにはいかないので給与を支払うための予算措置が必要になる。
「提言」は、年間あたりの予算を国負担分が約2,400億円、地方負担分が約6,200億円、合計約8,600億円が必要としている。

 その算出根拠としては国・地方が負担する人件費を792万円としている。

 これだけの人数を急に集めるといっても無理な話である。
「提言」は、15年の時間をかけて段階的に学級上限人数を減らしていき、同時に教員養成と教室を確保しながら、計画的に20人学級を実現していくとしている。
 そしてこうも述べている。

2016年のOECDの統計によると、我が国の全教育段階(初等から高等教育全体で就学前教育は初等に含む)公財政教育支出の対GDP比は3.1%であり、データの存在するOECD加盟国平均4.4%と比べ1.3%も低く、加盟国最低レベルです

2016年度日本のGDPは約535兆円ほどでしたので、その1.3%つまりOECD平気並に上乗せするだけで約7兆円の教育予算が確保できます

 つまり、公財政教育支出をOECD平均並にすることで、予算的には全国の小中学校で20人学級を実現することは無理な話ではないことがわかる。
 むしろ、理論上は20人学級を実現しても、予算的には余裕さえあることになる。

 首相をはじめとする政治家は「教育は大事だ」と機会あるごとに口にするし、政党も与野党を問わず、教育を再重点課題と位置づけている。
 それにも関わらず、教育にカネをかけることには、誰もが消極的だ。むしろ、教育予算の削減に熱心なようにすら見える。

 新型コロナウイルスをきっかけに注目されている20人学級は夢物語などではなく、公財政教育支出をOECD平均並にし、教育にはカネをかけるべきだと意識を変えることで実現できる可能性があるということを、前出の「提言」は教えてくれた。

 教育にはカネがかかる。
 極端に言えば、カネをかけなければ充実した教育にはならない。
 そのことに政治家も政党も、そして政府も気づく必要がある。
 そして誰よりも教育関係者や保護者が気づくべきである。


Best Times、2020.06.14
「新しい生活様式」における教育現場で「20人学級」は実現へ向かうのか
学校と教員に何が起こっているのか
- 教育現場の働き方改革を追う -

前屋 毅(まえや つよし)
フリージャーナリスト。1954年、鹿児島県生まれ。法政大学卒業。『週刊ポスト』記者などを経てフリーに。教育問題と経済問題をテーマにしている。最新刊は『ほんとうの教育をとりもどす』(共栄書房)、『ブラック化する学校』(青春新書)、その他に『学校が学習塾にのみこまれる日』『シェア神話の崩壊』『グローバルスタンダードという妖怪』『日本の小さな大企業』などがある。
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/546283/1/

国際比較で見ると、1学級に多くの生徒を詰め込む日本の学校の問題は何ら解消されていない

 コロナ渦で長らく休校していた学校が再開されている。
「密」を避けるため分散登校をさせている自治体が多いが、1学級当たりの子どもの数があまりに多いと、その効果も限定的になる。
 これは、教育行政の姿勢に関わることだ。

 かつては、40〜50人学級というのがザラだった。
 1955(昭和30)年の1学級あたりの児童・生徒数を出すと、公立小学校は43.8人、公立中学校は46.4人だ。
 これが時代と共に少なくなり、2016年では公立小が27.2人、公立中が32.2人となっている(OECD「Education at a Glance 2019」)。

 教室の密度はだいぶ低下している。
「教員数や学級数を増やし、少人数教育を」という声を上げても、「昔に比べたら良くなっている」と一蹴されがちだ。
 教育行政の上層部の人たちは、遠い過去の記憶が頭にこびりついているのかもしれない。

 だがタテの時系列比較ではなく、ヨコの国際比較だとどうか。
 2016年の日本の値は上記の通りだが、OECD(経済協力開発機構)加盟国のなかで位置付けると<図1=略=>のようになる。
 日本は図表の右上に位置し、小・中学校とも1学級あたりの子どもの数が多いことが分かる。
 教室の面積も考慮しないといけないが、他国と比べて教室の密度が高い国といえるだろう。

 子どもが多い発展途上国でこうなるのは分かるが、日本は子どもが少ないはずだ。
 2015年の年少人口(15歳未満)比率は13.0%と、OECD加盟国の中では最低だ。
 各国の年少人口比率と小学校の1学級の平均児童数を関連付けると、おおむね右上がりの傾向がみられる。
 だが日本はその傾向から逸れていて、子どもが少ないにもかかわらず、1つの教室に押し込められる子どもの数が多い。

 教員数や学級数を増やさない、いや子どもの減少と合わせて、機械的にそれらを減らしていく、要するに教育にカネをかけていない、ということだろう。
 それは、公的教育費支出の対GDP比が低いことに表れている。

 <表1=略=>は2016年のデータだが、日本は2.87%でOECD加盟国の中で最も低い。
 毎年のことなので、もはや驚くにも値しない。

 最近の日本のGDPは550兆円ほどなので、2.87%をOECD平均の4.04%に高めることで、6.4兆円もの財源を追加で捻出できる。
 これだけあれば、教員数をかなり増やして、教室の「密」の緩和にもなる。いじめの解消にもつながるだろう。

 日本の教室の平均面積は64平方メートル(8メートル四方)と聞く。
 2メートルの間隔を開けるとなると、1学級の子ども数の限度は20人だが、現状はこれをはるかに超えている(地域差はあるが)。
 子どもの命を守るためにも、少人数学級を実現するべきだ。
 現状の判断基準は、遠い過去の記憶ではなく、いま現在の国際標準に置くべきだ。後者からすると、改善の余地は大いにある。

※ 資料:OECD「Education at a Glance 2019」


Newsweek、2020年7月15日(水)15時40分
少子化で子どもは減っているのに、クラスは相変わらず「密」な日本の学校
舞田敏彦(教育社会学者)
1976年生まれ。東京学芸大学大学院博士課程修了。教育学博士。専攻は教育社会学、社会病理学、社会統計学。公式ブログは「データえっせい」、著書に『教育の使命と実態 データから見た教育社会学試論』(武蔵野大学出版会)、『教職教養らくらくマスター』(実務教育出版)、『データで読む 教育の論点』(晶文社)など。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/07/post-93966_1.php

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2020年08月02日

全共闘運動

 約50年前、全国の大学で巻き起こった全共闘運動。
「女はお茶くみ」と言われた時代に、女性たちは何かを信じ、何かと闘った。
 AERA 2020年8月3日号は女性闘士のその後を追った。

♢ ♢ ♢

 国会議事堂を望む東京・永田町の衆院第1議員会館。
 衆院議員の阿部知子さん(72)は、部屋がある建物4階から車が行き交う道路を見下ろすと目を細めた。

「不思議な気持ちになるんです。この道を、機動隊に囲まれデモしていたんですから」

 50年ほど前、阿部さんは東京大学の学生として東大の全学共闘会議(全共闘)のバリケードの中にいた。
 1968年、医師になるため東大に入学したのだ。

 1960年代、日本は「政治の季節」を迎えていた。
 ベトナム戦争や70年に迫った日米安保条約改定への反対運動が沸き起こり、全国の大学では党派に属さないノンセクトの学生を中心に「全共闘」が形成され、「全共闘運動」が燎原の火のごとく燃え広がった。
 東大も例外ではなく、1968年1月の医学部生によるストライキを機に「東大闘争」が始まっていた。

 だが、都内の女子高出身で「ノホホンと過ごしていた」という先の阿部さんは、社会的関心は強いほうではなかった。
 目を開かせてくれたのが、教養学部の助手だった社会学者の最首悟(さいしゅさとる)さん(84)だった。
 大学の内外で、社会で起きているさまざまな問題を教えてくれた。

 ヘルメットを被り、社会の矛盾と向き合った。
 国会前をデモしたのもこの頃だ。
「ベトナム戦争反対!」と叫び、羽田からアメリカに飛び立つ航空機の下を走ったとも振り返る。

 しかし1969年1月、東大の安田講堂が陥落すると運動は下火に。
 運動を続けるか否か。多くの仲間が離れていく中、阿部さんは在日韓国人問題に出合い運動を続けた。

 残る者と去る者──。
 去った者は「裏切り者」と呼ばれ、両者の間に分断が起きた。

「私はそれが一番つらかった。私の主張は正しい、あなたは間違っていると言っているようでは、運動は勝利しない。対立ではなく合意点を求めていかなければ、社会を変えられない」

 3年になって医学部に進むと、精神病棟解放闘争や医療被害運動などに注力する。
 大学を卒業し小児科医になっても障害者運動、脳死反対運動など社会運動を続けた。
 政治家を目指したのは母親を救急車のたらい回しで、兄を医療事故で亡くしたから。
 政治の力で医療現場を変えるという思いからだ。
 阿部さんにとって学生運動とは何だったのか。

「社会に対し目を開かせてくれたもの。世界で戦争や紛争が起きている時、差別を受けている人がいる時、何をすべきなのか考える力を得ました。あの運動がよかったとか悪かったじゃなくて、そういう時代。希望や正義はあったのだと思います」

 ドキュメンタリー映画「三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜」(注)が上映されるなど、いま全共闘に注目が集まっている。
 しかし当時は今以上に男社会。
 戦後の第1次ベビーブーム(1947〜1949年生まれ)で生まれた子どもたちが大学に入学し始めた1965年、4年制大学への進学率は男子の20.7%に対し、女子はわずか4.6%。
 学生運動を理論的に指導するのは男性で、女性はそれを支える役割。
「女はお茶くみ、女は性的対象」などと言われた。
 そんな中でも女性たちは革命を信じ、何かと闘った。

♢ ♢ ♢

 九州大学の学生だった合原(ごうばる)真知子さん(72)は、闘ってきたのは「自分自身」だったと振り返る。

 大分県で林業を営む家に生まれ、1967年に入学。
 学生運動は九大にも飛び火していたが男中心の学生運動を敬遠し、セクトとは一線を引きシンパサイザー(同調者)として全共闘運動にかかわった。

 大学はこのままでいいのか、ベトナム戦争とは何か、人間の原点とは何か──。
 仲間と議論し、自分自身と向き合い考えた。

「一生懸命考えるのはつらい。つらかったけど、時代をどうみていくかという姿勢は、このころ勝ち得たのかもしれません」

 そんな中で日本全体が大きな仕組み、つまりグローバル資本主義の中に組み込まれていくことを感じていった。
 明確に実感したのが、1972年2月に起きた「あさま山荘事件」だ。
 極左メンバーの連合赤軍5人が長野県軽井沢町のあさま山荘に押し入り、管理人の妻を人質に取り立てこもった。
 警察の制圧作戦に犯人側もライフルで応戦し、機動隊員2人が殉職した。

 合原さんは当時、事件をテレビで見た。

「その時に『ああそうか』って思ったんです。国もマスコミも、それまでの私たちがやってきたさまざまな努力をチャラにして、十把一絡げに極左の問題にしてレッテルを貼る。私たちが一生懸命にやってきたエネルギーは、雲散霧消するんだって」

 実際、多くの仲間は大学を卒業すると一般企業に就職した。
 合原さんは教員になろうと考えていたが、置いてきぼりにされている林業を何とかしたいと思い、実家を継ぐことにした。
 間伐や植林も行いながら、林業を次世代につなぐことに力を注ぐ。

※ AERA 2020年8月3日号より抜粋


[写真‐1]
阿部知子さん(72)。東大出身。医師で政治家(立憲民主党)。安田講堂が陥落した時、それまでこもっていた建物を出て自宅にいた。「50年間、立ち止まる間もありませんでした」

[写真‐2]
東大全共闘系の学生らが立てこもった東京・本郷の安田講堂。学生らは投石や火炎瓶で抵抗したが、機動隊の突入で「落城」した/1969年1月19日

[写真‐3]
およそ半世紀前、ヘルメットをかぶって闘った女性たち

[写真‐4]
合原真知子さん(72)。九大出身。大分県の出身で、卒業後は実家の林業を継いだ。「頭で考えることに疲れたころ出合った林業は、とても新鮮でした」

AERA、2020.8.1 17:00
「女はお茶くみ」の時代に革命を信じ…
全共闘「女性たちの闘い」の追憶

(編集部・野村昌二)
https://dot.asahi.com/aera/photoarticle/2020073000064.html

(注)ドキュメンタリー映画「三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜」

 作家の三島由紀夫が自決する1年半前に行った東大全共闘との討論会に迫ったドキュメンタリー。
 2019年に発見されたフィルムの原盤を修復したことにより、多くの学生が集まった討論会の様子が鮮明に映し出され、当時の関係者や現代の文学者、ジャーナリストなどの証言を交えて全貌が明らかになる。
 監督はドラマシリーズ「マジすか学園」などの豊島圭介。


映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=qaeeMOYWwAQ

公式サイト
https://gaga.ne.jp/mishimatodai/

 映画『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』を観(み)た。
「禁断のスクープ映像」と謳(うた)われているが、これはTBSが保管していたテレビ映像をもとに、当時の全共闘の面々や小説家の瀬戸内寂聴と平野啓一郎、そしてかつての楯の会の人びとへのインタビューをおりまぜて編集したものだ。

 半世紀前の映像だ。
 当然ざらついた不鮮明さも目立つ。
 しかしそれが逆に三島由紀夫のオーラとともに、昭和という時代の輝きと熱気をも伝えている。

 討論会は対決というよりも、学生たちが兄貴のようなスーパースターを相手にジャレつきむしゃぶりついてる感じだ。

「認識」「関係性」「現象形態」「捨象」……。
 よくもまあこんな言葉をぬけぬけと並べたものだ。
 しかし私は、笑えなかった。
 なぜなら、私もこの頃、自分がいかに人より抜きんでて優れているかを見せるのに汲汲(きゅうきゅう)としていたからだ。

 三島由紀夫は、若い人を立てる礼儀正しい人だった。
 そして自分を見せることにかけては、寸分の狂いもなく立ち回るヨカニセさんだった。
 当時の若者やメディアなど手玉にとるのは、彼にとってはわけないことだったろう。
 今もそう思う。

 ところで全共闘というのは、全学共闘会議の略称だ。
 往時の日本共産党系以外の三派全学連と呼ばれるセクトや私のような無党派学生(ノンポリと呼ばれた)による運動体だった。
 確立された既存の体制やさまざまな権威に対して、それぞれの異議申し立てをする集団だ。

 アメリカのベトナム戦争反対や公民権運動、1968年のパリの五月革命、ソビエト連邦のぐらつき、世界の至る所でマグマが噴出していた。
 パンデミックのような世界同時革命という幻想にとりつかれた人間も少なくなかった。

 私もゲバ棒や火炎瓶を手にした。
 しかし私は、革命を口走る人間が嫌いだった。
 私にはマルクス全集と太宰治の一行が等価だった。
 ある時、学生運動家から吊(つ)るしあげを喰(く)らった。

「岡田、テメエは、右か左か どっちなんだよ」

 私はしれっとして答えたものだ。

「きっと、上だと思う。両極相通ずってこともあるんだよ」

 また私はことさら肉体美を誇ったり、男臭い集団で直接行動に走る三島由紀夫は苦手だった。
 きっとその頃、自分の肉体と腕力と殺意には、自信があったからだろう。

 だが1969年1月の安田講堂の一件来、私はすっかり消耗していた。
 5月三島由紀夫の集会の日も、会場は覗(のぞ)いたが、三島由紀夫も壇上の学生たちも、思った通りのことしか言わなかった。
 私は後に『テロリストのパラソル』を書いた藤原伊織たちと早々に引きあげ、マージャンに及んだ。

 映画のあと、こんなことを思い出しながら、私は50年前の私の日記帳をぱらぱらとめくった。
 三島由紀夫が自決した夜、私は150行ほどの弔詩を書いている。
 その余白には、次のようなメモもあった。

「さようなら 東京/さようなら 母よ/さようなら 私が愛した人たちよ/さようなら 三島よ=わたしはわたしともわかれてゆくのだ=手をふりて 皆とわかれた峠道/これからうたう わが風葬歌」

 映画を観て、私は学校に忘れ物をしたような気分にもなった。
 しかし、今それをとりに引き返そうとは思わない。


[写真]
2020映画「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」製作委員会

西日本新聞、2020/3/26 15:14
「三島由紀夫VS東大全共闘」に観る昭和の熱気
だが引き返しはしない

(岡田哲也)
※ (おかだ・てつや、詩人。1947年、鹿児島県出水市生まれ)
東京大文学部中退。詩集に「白南風」「にっぽん子守唄」「わが山川草木」「茜ときどき自転車」「花もやい」など。本紙で「西日本詩時評」を担当中。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/595262/

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2020年08月01日

国会を開け

 本日2020年7月31日、東京都の新規感染者が463人と過去最多だったのをはじめ、大阪府や愛知県、福岡県など都市部で感染が急拡大し、全国でも1500人以上と3日連続で最多を更新している。
 そんななか、本日の新規感染者数が71人となった沖縄県の玉城デニー知事は、県独自の緊急事態宣言を明日8月1日から発出することを発表。
 県民に不要不急の外出自粛や、県外からの訪問者に対しても「慎重な判断」を求めた。
 さらに、岐阜県の古田肇知事も「第2波非常事態」を宣言した。

 だが、こうした動きのなか、信じられないことが起こった。
 本日、政府の分科会が開催され、その後、西村康稔コロナ担当相と分科会の尾身茂会長が会見。
「感染状況を4段階に分ける」などと発表したが、その一方、「Go Toトラベル」の感染が広がる都市部の除外問題についてはまったく言及せず。
 それどころか、報道によると、本日の分科会では「Go To」について〈特に議論になることはなかった〉(テレ朝news)というのだ。

 今月16日、「Go To」からの東京除外を決めた際、西村コロナ担当相は、東京都の1週間あたりの陽性者数が10万人あたり8.7人となっていることを理由にあげ、「東京は1桁違う」などと説明していた。
 だが、いまや大阪や福岡、愛知ではこの8.7人を大きく超える状況になっている。
 しかも、4連休中に都市部へ旅行に出かけて地元で感染が確認されたというケースが、すでに出始めているのだ。

 つまり、政府をあげて旅行を推奨したことによって、医療体制が脆弱な地方にまで感染を広げる結果になっているというのに、安倍政権のみならず分科会までもが無視しているのである。

 そもそも、昨日おこなわれた参院国土交通委員会で尾身会長は、一両日中に直近のデータが得られるとし、「必要であれば、我々は県を越えての移動は控えたらいいのか、大丈夫じゃないかというのを申し上げたい」と答弁していた。

 ところが、尾身会長は本日の会見の質疑応答で「県をまたいでの移動」について問われると、こう答えた。

「感染がかなり増えているところとそれ以外のところは、感染が増えているところから外に出るのは控えていただければと思いますし、感染の少ないところから増えているところに行くというのも控えていただければいいなということを、国に提案したりしております」

「控えていただければいいな」「国に提案したりしてます」って、この感染急拡大の局面で専門家の会議体のトップが口にする言葉がこれとは……。
 そもそも、提案しているというのなら、どうして分科会で議論がおこなわれなかったのか。
 いや、この提案に対し、国はなんと返答しているのか。
 それさえもはっきりとしない。

 これはようするに、感染拡大地域の往来自粛=「Go To」からの除外について提案がなされているにもかかわらず、またも政府が拒否しているということなのか。

分科会の尾身会長は感染症専門家なのに「GoToはキャンセル料もかかっているから」

 実際、本日発表された「感染状況の4段階」についても、じつは分科会の専門家からは数値などの指標を出すべきだという意見があったにもかかわらず、政府は「Go To」への影響なども考え、指標を示すことを拒否したという。

 さらに、尾身会長は26日放送のNHK『日曜討論』において、「『Go To』の先延ばしを提案していた」と言い出し、29日の衆院国交委員会でも同様の答弁をおこなっている。

「じつは、私ども分科会のメンバーは、16日に政府のほうは決めたいという意向だったと思うんですけど、我々は16日の数日前から『もう少し今回は感染状況をしっかりと分析して、しっかり議論をした上で決めたらいいんじゃないか』という提案をしたんですけど、提案は採用されなかった。しかし、16日の政府の提案は東京は例外にしてはどうかということ。これについては分科会は賛成しました」
(26日放送『日曜討論』での発言)

 拙速に決めるべきではないという専門家からの進言を、国は却下していた──。
 この“暴露”に対し、西村コロナ担当相は「20日に判断すると、まさにこれは(22日実施の)直前になりますので、さまざまな混乱が生じるのではないか、もう少し早い段階で判断していただけないかということで16日に分科会を開き、政府・国交省案を議論した」と述べているが、分析を踏まえた議論よりも自分たちが勝手に前倒ししたスケジュールに合わせろとは、国民の健康と安全を何だと思っているのか。

 だが、問題は、こうした政府の方針を結果的に追認している分科会の姿勢にもある。とくに目に余るのは、尾身会長の態度だ。

 昨日の参院国交委員会では、国民民主党の増子輝彦議員が「『Go To』は延期したほうがいい、やめたほうがいいという判断はどのレベルになったらするのか。もうほぼその状況ではないんでしょうか」と質問したのだが、尾身会長はなんと、こんなことを言い出したのだ。

「『Go Toキャンペーン』は、キャンセル料とかお金もかかっている」

 感染症の専門家がキャンセル料の話を持ち出す倒錯──。
 だが、尾身会長はこうした発言を繰り返している。
 現に、全国の新規感染者数が過去最多を更新しながら「Go To」がスタートした22日の会見でも、「ステイホームや自粛8割削減をすれば感染が下に行くことは間違いない。ただし、いまは社会経済と感染防止の両立という大命題がある」と発言。
 27日におこなわれたという日本経済新聞のインタビューで尾身会長は、こう断言までしている。

「分科会は専門家会議と役割が違う。当然、感染症対策一辺倒にはならない。感染症対策と経済の両方をとりまとめるのが私の役割だ」

トランプに攻撃されても緩和反対の米国立アレルギー感染症研究所のファウチ所長と大違い

 本来、感染症の専門家は感染を抑える対策を提言し、感染症対策をなおざりにしようとする政治に対して釘を刺す役割を担っているはずだ。
 分科会会長という立場にあるにもかかわらず、感染症対策のイニシアティブを取ろうとせず、まるで安倍首相や西村コロナ担当相が乗り移ったかのように「社会経済と感染防止の両立という大命題がある」「感染症対策と経済の両方をとりまとめるのが私の役割」などと述べるとは……。

 たとえば、トランプ政権のコロナ対策チームの中心人物である国立アレルギー感染症研究所のファウチ所長は、トランプ大統領から攻撃されて会見に呼ばれず、その支持者たちから「アメリカ経済を破壊する気か」などと言われても、地方政府には拙速に行動制限の緩和に走らないよう訴えるなど、政権の方針と異なっても感染症の専門家として発信をつづけている。そこには政権への忖度も手加減もない。

 しかし、この国の感染症の専門家の意見を政府に提言する役割であるはずの尾身会長は、“これはまずい”と思っても、実際は強く異を唱えたりしていない。
 それどころか、政府の方針を追認する役割を自ら担っている。
 前述したようにいまごろになって「16日の数日前に『Go To』の先延ばしを提案したが採用されなかった」などと言い出した尾身会長だが、16日の午前中には「旅行自体が感染を起こすことはない」とはっきり述べていたのである。

 安倍首相を筆頭に、安倍政権の閣僚たちは「専門家の意見を踏まえて判断する」などと言いながら、実際にはその専門家の意見を却下し、専門家たちもそれに唯々諾々と従うのみ。
 しかも、尾身会長は覚えめでたく、安倍首相が議長の「未来投資会議」の新メンバーにも選ばれたばかりだ。
 御用学者が跋扈し、国民の健康と安全が徹底的に無視されてゆく、この国の新型コロナ対策。
 腐りきっているとしか言いようがないだろう。


リテラ、2020.07.31 10:14
分科会は「Go To」について議論さえせず!
専門家の提案を拒否する安倍政権、最後は政権を追認する御用学者の尾身茂会長

https://lite-ra.com/2020/07/post-5552.html

・・・[議事録がなくても嘘は嘘]「移動自体は感染拡大につながらない」と言ってきた隠せぬ証拠をみよ。なのに移動で感染が起こると「go toトラベルは延期と言っだが無視された」とまた嘘をつく。これだけ酷い専門家会議座長。「37.5℃4日間とは言っていない」に続く保身のゴミ。・・・

・・・尾身茂は、政権にぴったり寄り添う医療行政を主張してきた人物。列車に乗っても感染拡大することはないと述べている。以前、このブログでも記したが、自治医大の一期生入学試験の際に、私は、東京都の面接会場控室で、彼と一緒になったことがある。慶応の法学部の学生だった(または既に退学していたかもしれない)彼は、自治医大の卒業後の地域医療の義務は、官僚になる、または金を払うことで忌避する積りだと述べていた。現在、官僚の天下り団体になっている地域医療推進機構の理事長。昔の厚生年金病院等を取り潰して、その団体を立ち上げたのだ。このコロナ禍では、自らの組織に60億円を政府から手に入れている・・・

・・・[反省ナシ対策ナシの尾身]一斉休校、緊急事態宣言の失敗の検証もなく、言うことがコロコロ変わる尾身バカ文化会が散発、漸増、急増、爆発の4段階で、いまは「散発」「漸増」だというそうだ。夏休みの観察日記か?軽症者は検査せず、重症者数が増えるのを見ているだけ?・・・

 新型コロナウイルスの感染拡大が地方でも加速し始め、観光支援事業「Go To トラベル」キャンペーンを7月22日にスタートさせたばかりの政府が対応に苦慮している。

 コロナ禍で傷ついた経済の再生を重視する立場から、現時点でキャンペーンを継続する方針は変えていないが、感染爆発を懸念する声が地方はもとより政府内からも上がり、逆風は強まる一方だ。

「観光業は瀕死(ひんし)の状態だ。少しでも経済を動かそうという思いだ」

 旗振り役の菅義偉官房長官は30日のテレビ番組収録で、キャンペーンの意義をこう力説した。
 この後の記者会見で事業内容を見直す可能性を問われ、「現在の枠組みを適切に運用していきたい」と否定した。

 菅長官がキャンペーン継続にこだわる背景には観光産業の苦境がある。
 国内の新幹線と飛行機の旅客数は前年比3割前後、ホテルの稼働率は同1割前後に落ち込んでいる。
 折りしも内閣府が30日公表した2020年度の国内総生産(GDP)成長率の試算は、実質で前年度比マイナス4.5%の大幅減となった。
 政府高官は「キャンペーンが感染拡大の原因と立証されたわけではない」と、見直すべき状況には至っていないとの認識だ。

 ただ、政府内も一枚岩ではない。
 閣僚の一人は「凍結を考えてもいい」と漏らした。
 政府の新型コロナ対策分科会の尾身茂会長は30日の参院国土交通委員会で、「必要であれば『県を越えた移動は少し控えた方がいい』、あるいは『大丈夫じゃないか』と申し上げたい」と発言。
 キャンペーン継続の是非に関し中立の立場を強調したものの、見直しの可能性に言及せずにはいられなかった。

 ここへきて感染者が急増している自治体からも慎重な声が出ている。
 政権中枢に近い松井一郎大阪市長は会見で「今移動して今観光に行く必要はない」と述べ、政府がこのような状況であえて全国で観光旅行を後押しすることに疑問を呈した。
 県民が沖縄旅行中に感染したとされる福井県関係者も「キャンペーンは早すぎた」と語った。

 野党は政府批判を強めている。
 国民民主党の玉木雄一郎代表は「感染は新しい局面に入った。『Go To』キャンペーンと夏休みで、8月が感染爆発月間になる可能性がある」と憂慮し、「政府は無策だ」とこき下ろした。


時事ドットコムニュース、2020年07月31日07時07分
政府、新型コロナ感染急拡大に苦慮
「GoTo」に強まる逆風

https://www.jiji.com/jc/article?k=2020073001196

 最近の安倍首相は巣ごもり状態だと報道され始めた。
 そういえば、野党が臨時国会開催を要求しても、記者会見を求めても、応じようとしない。
 いつもなら、野党から文句を言われたら血相を変えて反論し、そんなに国会を開きたいならいつでも国会開催に応じてやる、とやり返すところだ。
 いつもなら、頼まれもしないのに記者会見を開いてペラペラと得意げにしゃべるはずだ。
 安倍首相に一体何が起きているのか。
 その疑問に見事に答えてくれる記事を見つけた。
 きょう8月1日の毎日新聞のオピニオン欄「時の在りか」で、伊藤智永専門記者が興味深いエピソードを紹介してくれた。
 長年、安倍首相に助言をしてきた自民党長老が伊藤記者にこう漏らしたという。
「もっと総理が前に出なきゃ」
 そう安倍総理に話したら、安倍総理から次のような言葉が返ってきたという。
「秘書官が反対するんです。あなたから話してくれませんか」と。
 そこでその長老が怪しんで側用人の今井補佐官に電話したら、返って来た答えは次の通りだったと言う。
「総理は記者会見に臨むと、必ず森友・加計問題や桜を見る会の話になるのがトラウマになっていて・・・」と言い訳をこぼしたと。

 やはり権力の私物化批判はよほどこたえていると見える。
 ならば野党は何としてでも臨時国会開催を迫り、近畿財務局職員の自殺の究明を迫るべきだ。
 赤木夫人の再調査要求に応えよ、と迫るべきだ。
 おりから安倍首相は8月末で叔父の佐藤栄作首相の単独政権最長記録を抜いて、文字どおり最長政権記録を更新する。
 その後は菅官房長官に管理内閣を託して本当に巣ごもりしてしまうかもしれない。
 このところ、10月解散説が急速に消えたのも合点がいく。
 一日も早い安倍退陣を叫ぶ野党の思い通りになるのだ。

 もっとも、安倍首相がいなくなれば、責める相手がいなくなって、野党はますます政権交代から遠ざかる事になるかもしれないけれど。


天木直人のブログ、2020-08-01
最近の安倍首相に元気がない理由がわかった
http://kenpo9.com/archives/6872

・・・[アベは説明拒否]野党がお盆返上で臨時国会を要求。だが、アベは私邸引きこもりか豪華食事会ざんまい。6月18日以降、まともな記者会見も開かず、国会に出席して説明を行わず、感染拡大を放置し、10兆円予備費をバラまいて、デフレ不況を招く消費税減税で解散ねらう・・・

・・・[国民の命より豪華ホテルの日本料理のバカ総理]医師会長の国会を開けの心からのお願いも無視し、今日7月31日も10時出勤、コロナ対策会議は20分、自称「後継候補」岸田と2時間の超豪華ホテル日本料理。どこまでも食い意地と美容院だけの馬鹿。これがネトウヨ礼賛の亡国総理だ・・・

・・・[国会を開け]全国感染者数が1301人を超えた。アベ政治はそれでも緊急のコロナ対策を検討せず、何もしないまま。徹底して国民の命を無視。当然、野党は憲法53条にしたがって臨時国会を要求するが、抜本的感染対策できちんと応えよ・・・

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南野森教授、国会の発想は「おっさん」

「平成の安保国会」とも呼ばれた第189回国会(通常国会)は、2015年9月27日、その245日の会期を閉じた。
 安倍晋三首相はその後、内閣改造を行い、10月7日、第三次安倍改造内閣が発足した。
 本来であれば、続いて「秋の臨時国会」が開かれ、新内閣発足をうけての首相による所信表明演説が行われ、与野党による質疑応答が本会議や各委員会で順次行われるべきところである。

 ところが安倍政権は、この臨時国会を開催しない方針であるとされる。
 首相の外交日程等が表向きの理由であるが、実際には、改造内閣の新閣僚に関するスキャンダルや日歯連の政治献金問題、あるいはTPP、成立はしたもののいまだに世論の反対が続く安保法制、さらには2017年からの消費増税に向けて低所得者への対応をどうするのか(軽減税率を導入するのか)等の各種重要論点について、野党からの追及を避けたいのが本音であるとも言われる。

 10月21日、民主、維新、共産、社民、生活の野党5党と無所属の衆議院議員125名、参議院議員84名が、それぞれ連名で臨時国会の召集を要求する文書を衆議院議長、参議院議長を通じて内閣総理大臣に提出した。
 ところが、菅義偉内閣官房長官は、「過去には開かれなかった例もある」などとして要求を無視する構えをみせている。

 しかし、これは明確な憲法違反なのである。
 憲法を尊重する義務を負う(憲法99条)政権が憲法を無視することがあってはならないことは言うまでもない。
 いったいこれはどういう事態で、どう考えるべきなのか。
 本稿では、臨時国会の召集に関する憲法規定や過去の例などを簡単に解説しながら、この点を考察してみたい。

国会の会期は3種類

 そもそも、日本の国会は会期制をとっており、会期中に限り活動するのが原則である。
 そして、憲法の定める会期には、つぎの三種類がある。
* 通常国会: 毎年1回召集される(憲法52条)。通常は1月中に召集(国会法2条)、会期は150日(同法10条)。
* 特別国会: 衆議院解散の後に行われる総選挙から30日以内に召集される(憲法54条)。会期は両院一致の議決で決定(国会法11条)。
* 臨時国会: 以上のほかに、必要に応じて内閣が臨時に召集を決定する(憲法53条)。会期は両院一致の議決で決定(国会法11条)。

 なお、憲法や国会法上の用語では、それぞれ「常会」「特別会」「臨時会」であるが、ここでは一般的な慣用に従い、「通常国会」「特別国会」「臨時国会」とする。

 ちなみに、「第○○回国会」という言い方は、日本国憲法の施行(昭和22年5月3日)以降に開かれた国会を会期ごとに通し番号を付けて呼ぶもので、たとえば第1回国会は、昭和22年5月20日に召集された特別国会であった(同年3月31日にいわゆる「新憲法解散」、そして4月25日に第23回総選挙が実施された)。
 第2回国会は、昭和22年12月10日に召集された通常国会である(1991年の国会法改正以前は、通常国会は12月中に召集されるのが常例であった)。
 なお、国会の会期一覧は衆議院のHP。
http://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/kaiki.htm

憲法53条後段の規定(「53条要求」)

 ところで、臨時国会について定める憲法53条は、つぎのように言う。
第53条 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

 会期制かつ通常国会という制度を憲法が定める以上、実は臨時国会という制度をも定めることは当然といえば当然である。
 解散がなければ要するに通常国会しか開かれないというのでは、翌年の通常国会までのあいだに必要が生じた場合、困るからである。
 内閣(≒与党)は通常国会が閉じたあとにも国会による立法を必要とする場合があるだろうし、国会側(≒野党)も自ら必要と考えるときに国会が開かれないまま翌年の通常国会を待たねばならないというのでは困る場合があるだろう。
 そういうわけで、憲法53条は、憲法52条がある以上、当然の定めであると考えることができる。
 53条の第1文(「前段」と呼ぶ)は、内閣(≒与党)が任意に(つまり好きなときに)臨時国会を開くことができることを意味し、それに対して第2文(後段)は、過半数でも3分の1でもなく「4分の1」、要するに少数派・野党の要求で臨時国会が開催されなければならないことを定めているのである。

 そして現在問題になっているのは、まさにこの、「国会側(≒野党)が自ら必要と考えるときに国会が開かれないまま翌年の通常国会を待たねばならない」という状況に「国権の最高機関」(憲法41条)である国会がおかれようとしている、ということなのである。
 10月21日、衆議院議員125人、参議院議員84人が、それぞれ連名で、憲法53条後段の「要求」(=「53条要求」と呼ぼう)を行ったが、同条の「総議員」というのは法定数のこととされているから、衆議院は475人、参議院は242人であり、その4分の1はそれぞれ119人、61人となり、したがって憲法53条後段の要件は充たされている。
 そして憲法53条後段の要件が充たされた場合に発生する法的効果は、「内閣は、その召集を決定しなければならない」、ということである。
 これは、内閣が負う法的義務である。

 つまり、安倍内閣は、臨時国会の召集を決定しなければならない。
 それを決定しないのは、端的に、憲法53条(後段)に違反するのである。

過去の「53条要求」の例

 ところが、菅官房長官は、10月20日の記者会見で、「かつて、要求があっても(臨時国会を)開かなかった事例もある」などと述べたという(朝日新聞を参照)。
 はたしてそのような事例は本当にあるのだろうか。
 そもそも、仮にそのような事例が例外的に存在したとしても、それは憲法違反の前例なのであって、それを踏襲することが許されるということにはならない。
 違憲の前例を踏襲してはならないこともまた、言うまでもない。

 そこで過去の例を調べてみると、今回のように、衆議院議員と参議院議員の双方が召集決定を要求したのは、これまでに26回ある(今回が27回目である)。
 さらに、衆議院議員のみが要求したのが7回(ただし第23回国会に関しては要求が2通提出されているので8回と数えるべきかもしれない)、参議院議員のみが要求したのが2回ある。
 そして、要求から召集までにかかった日数をみると、戦後初期から昭和40年代までは2〜3ヶ月を超える例が多くあるし(初の53条要求を受けた昭和23年の芦田内閣による第3回国会は要求の74日後、2回目の53条要求を受けた昭和24年の第二次吉田内閣による第6回国会は要求の108日後に、それぞれ召集されている)、また、最長の例として、「公害国会」とも呼ばれた昭和45年の第64回国会(第三次佐藤内閣)のように、要求から召集まで半年近くかかった例もある。

 これらの例は、いずれも、憲法の要求すると考えられる合理的・常識的な期間を明らかに超えて召集が決定されたもので、違憲の疑いが濃厚と言わざるを得ないが、それでも、憲法53条に○○日以内に召集を決定しなければならないとは書かれていない以上、最終的には臨時国会が召集されたのであるから憲法には違反しないと「強弁」することも不可能ではない事例であった。
 そして今回の事態を考えるうえで重要な点は、これらのいずれの場合も、10月〜12月上旬には(秋の)臨時国会が召集されていた、ということである。
 53条要求の提出日により、臨時国会の召集までの日数にはたしかに長短があるものの、前年の12月に召集された通常国会が終了した後、次の通常国会が召集されるまでのあいだに、少なくとも秋に臨時国会が一度は召集されてきたわけである。

 菅官房長官が述べた「要求があっても(臨時国会を)開かなかった事例」は、おそらく以上の例のことではなく、比較的最近の、小泉政権下での2例のことであろうと思われる。
★ 1度目は第二次小泉内閣の2003年、
★ 2度目は第三次小泉内閣の2005年
の例である。
 いずれも、今回のように、衆議院議員と参議院議員が同日に揃って要求した。

「53条要求」にもかかわらず臨時国会が開催されなかった例?

 2003年の例は、自衛隊のイラク派遣問題などが主要争点となり11月27日に53条要求が提出されたが、小泉内閣は臨時国会を開くことなしに新年を迎え、2004年1月19日に通常国会(第159回国会)が召集された。
 53条要求の提出から53日後のことであった。

 そして2005年の例は、普天間移設問題などが主要争点であり、11月1日に53条要求が提出されたが、第三次小泉内閣はこれに応えず、やはりそのまま新年を迎え、2006年1月20日に通常国会(第164回国会)が召集された。
 要求提出から80日後であった。
 ただし、いずれの場合も「閉会中審査」は行われている。

 これらの2例では、たしかに、菅官房長官の言うように、要求があったにもかかわらず「臨時国会」は開かれていない。
 しかし、注意しなければならないのは、いずれの場合も、11月に53条要求が提出され、1月に通常国会が召集されているということである。
 そして、臨時国会と通常国会とでは、召集の原因が異なるだけでその権能には全く違いがないから、召集を要求する野党議員にとっては、合理的な期間内に臨時国会であれ通常国会であれ(あるいは特別国会であれ)、とにかく国会が召集されればそれで問題はない。
 したがって、小泉内閣のこの2例は、53条の定める「臨時国会」が召集されなかったという限りにおいては53条の文言に形式的に違反する実例と言えなくもないが、実質的には、53条の趣旨に違反するとまでは言えないものなのである(ただし、2005年の例は、通常国会召集までに80日もかかっており、これはやはり合理的・常識的期間を超えたと言うべきかもしれない)。

今回は何が問題なのか

 今回、臨時国会が開催されないとすると、形式的にも実質的にも憲法53条に違反する事態が生じてしまうということに加えて、実はもう一つ、戦後初となる問題点が指摘できる。

 それは、今年開会された国会が第189回国会(通常国会)のみになってしまうということである。
 戦後の憲政史において、一年間に一会期しか国会が開かれなかったことはいまだかつて一度もない。
 常に、通常国会と臨時国会、あるいは通常国会と特別国会、あるいはまた通常国会+特別国会+臨時国会、というように、2つ以上の会期が召集されてきたのである。 

 第一次・第二次小泉内閣の2003年の例で言うと、この年には衆議院解散があったため、通常国会(第156回国会)、臨時国会(第157回国会;憲法53条前段の内閣の任意的召集決定によるもの)、特別国会(第158回国会)、と3会期も国会が開かれていた。
 第三次小泉内閣の2005年にも衆議院解散(いわゆる郵政解散)があり、通常国会(第162回国会)、特別国会(第163回国会)、と2会期が開かれている。

 安倍政権は、10月21日の53条要求にもかかわらずこのまま来年1月の通常国会召集まで何もしなくとも、しかし小泉内閣の2例と同様との評価(すなわち通常国会召集が実質的に臨時国会召集と同視できるので違憲のそしりを受けずに済むとの評価)を得られるものと考えているのかもしれない。
 しかし、11月になってからの53条要求を1月までたなざらしにしたことと、10月に出された53条要求を1月まで放っておくこととはやはり違うというべきであるし、より実質的な観点からは、小泉内閣時代に複数の会期が開催されていたことと今回の事態(このままでは2015年は通常国会しか開催されないことになってしまう)との差は、会期制をとる憲法のもとでは重大な差異である。
 さらに、小泉内閣時代のスケジュールを見ると、実は2例とも国会閉会と同時に53条要求が出されていることが注目されなければならない。
 つまり、2003年の第158回国会は11月27日まで、2005年の第163回国会は11月1日まで、それぞれ国会が開かれていたのである。
 10月にも、11月にも、そして12月にも国会を開かぬまま、1月の通常国会召集を待つということになりかねない今回の事態とは、まったく状況が異なるわけである。

 冒頭に記したように、「安保国会」終了後のいま、議論しなければならない論点はたくさんある。
 そもそも、安保法制そのものについてもいまだ国民の理解が不十分であるということは政権ですら認めているし、「今後とも国民の理解を得るべき努力を重ねたい」と言ったのはほかならぬ安倍首相その人である。
 そして、安保国会では安保法制以外の論点が十分に審議されたとはとても言えない状況にあることも明らかである。
 これから年末までの2ヶ月余り、臨時国会を開かないという選択肢は、とても政治的に正当化できないだろう。
 そして、憲法的に正当化できないことは、上述の通りである。

 繰り返すが、違憲の疑いのある前例がいくつかあることはその通りだとしても、それを踏襲してはならないのである。
 憲法53条は、「内閣は、その(=臨時国会の)召集を決定しなければならない」と、きわめて明確に命じている。
 

Yahoo Japan! News、2015/10/24(土) 22:05
安倍政権が臨時国会を開かないのは憲法違反である
(南野森、九州大学法学部教授)

https://news.yahoo.co.jp/byline/minaminoshigeru/20151024-00050752/

新型コロナウイルスの収束が見通せないまま、通常国会は会期通りの150日間で閉会した。
感染が拡大するにつれ、私たちは「新しい生活様式」への順応を求められた。
それなのに、国会では「3密」の回避やオンライン審議はなかなか進まず、旧態依然とした姿に疑問を覚えた。
コロナ流行下で事態が刻々と変わるなか、国権の最高機関は役割を果たしているだろうか。
憲法学者の南野森・九州大教授に聞いた。

 やっぱり古い。
 発想が「おっさん」なんですよ。
 4月でしたか、国会中継を見ていると密状態のまま普通にやっていました。
 何百年もの歴史がある英国でさえ、オンライン国会を始めた。
 日本でも、本会議での採決などは難しいとしても、一部の審議をオンライン化するのは簡単なはずなのに、どうしてやらないのか疑問です。

 通常国会は悪い意味で歴史に残る国会でした。
「桜を見る会」や検察庁法改正案など数に任せて強引にやってきた安倍政権の弊害に焦点が当たりました。
 非常に重要な問題が置き去りにされ、国会が本来の機能を果たせないまま閉会した。

 極め付きは補正予算に計上された10兆円の予備費。
 あまりにも無理があります。
 税金をどう使うかは民主主義で一番大切なこと。

 国会で議論しなければ議会制民主主義の否定です。

 閉会している場合ではない。
 第2波が来るかもしれない状況で議論すべきことはたくさんあります。
 例えば新型インフルエンザ等対策特別措置法の問題。
 首相と知事の権限配分は今のままで良いのか、休業の要請や指示に対して罰則や補償がない点を見直す必要はないかなど、議論すべきことはたくさんあります。

「私権を制限するために憲法改正を」と言った議員にはびっくりしました。

 コロナ対策のための私権の制限や罰則は、特措法の改正でできます。
 憲法には「公共の福祉」という言葉があり、必要最小限にとどまれれば法律で人権を制限することは不可能ではないからです。
 本当に憲法を改正しなければできないのか、検討が足りていません。

 学校の一斉休校や「アベノマスク」など、政府の対策の検証も国会の役割です。
 政策決定を不断に検証し、問題点を改善していくことは民主主義社会にとって極めて重要だからです。

 フランスは非常に早い段階で検証のための特別委員会を国会に作りました。
 党派を超えて国家的危機への取り組みを検証し、後世につなげることは国会議員本来の務めでしょう。

 会期を延長しなかったのは、与党によこしまな理由があるからかもしれませんが、野党にも責任がある。
 口では「けしからん」と言いながら、衆参で週に1回ずつの閉会中審査を開くことでお茶を濁した。
 腹の底ではそんなにやる気がないのではないかと見えてしまう。
 本気ならば臨時国会の召集を求めるべきです。

 この間、大学も大変でした。
 教授会のオンライン化に最初は抵抗する人もいた。
 でも、何度かやると気づくのです。
「あ、うまくいくね」と。
 経験がないから及び腰になりますが、やってみると心理的なハードルは下がるのです。

 首都直下地震などで人が移動できない事態になったとき、国会の機能をどう維持するのか。
 まずは練習でも良いのでオンラインで議論できる態勢を国会にも作ることです。
 会派ごとに出席人数を割り当てる分散登校みたいな話ではなく、いずれは議員が京都にいても福岡にいてもオンラインで丁々発止の議論をできるようにする。
 国権の最高機関として最新技術を使えばできないはずがありません。

 これまで生活に困る経験をしてこなかった人でも、コロナ禍で初めて「怖い」「つらい」という体験をした。
 その時、私たちの代表である国会議員は何をしてくれるのか、国会を厳しく見るきっかけになりました。
 国民の生活様式も変わり、家に居る時間も増えて政治に興味を持つようになった。
 いまこそ国会も変わるチャンスです。
 議員一人ひとりが新しい国会のあり方を考え、古きあしき慣習を乗り越える、そんな契機にしてもらいたいですね。

※ 通常国会のコロナ対応
 4月の緊急事態宣言を受け、国会は出席議員の数を減らし、間隔を空けて座るなど「3密」を避ける対策をとった。一方で、与野党の若手が求めた「オンライン審議」の議論は進まなかった。野党は新型コロナ対応のため、会期を年末まで延長する「通年国会」を求めたが、与党が拒否。代わりに与野党は衆参で週1回ずつ3時間程度、新型コロナに関連する委員会で閉会中審査を行うことで合意した。


[写真]
南野森・九州大教授

朝日新聞、2020年7月10日 6時00分
発想が「おっさん」、コロナ禍で変わらぬ国会
課題は

(聞き手・野平悠一)
https://digital.asahi.com/articles/ASN796RWNN77UTFK008.html

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2020年07月31日

野党、国会召集を要求

・・・感染人数の発表だけじゃなく国会を開いてください!・・・

 東京都世田谷区の世田谷区医師会が新型コロナウイルスの検査体制の拡充のため、1日当たり最大で1千件のPCR検査ができる検査機の導入を検討していることがわかった。
 すでに世田谷区や臨床検査会社と協議を始め、今秋までの運用を目指している。
 東京都医師会の角田徹副会長によると、医師会による大規模な検査機器の導入は珍しいという。

 世田谷区医師会によると、検査機は24時間稼働でき、最短3時間ほどで結果が出るという。
 区医師会の検査拠点に設置し、臨床検査技師を常駐させる。

 区医師会では現在、1日最大150件の検体採取をしている。
 採取した検体は民間の検査会社に運搬をして検査機にかけ、結果が判明するのは翌日の夕方だという。
 新たな検査機の導入で、翌日午前中には結果が把握できるようになる。

 ただ、区医師会では感染者の急増ですでに看護師や事務職員などの確保が課題となっているという。
 区医師会の担当者は「検査数を増やすには、人員の調整も進めなければいけない」と話す。

 区医師会と連携する世田谷区の保坂展人区長は「今後、1日数千件規模の検査ができる仕組みを構築し、感染リスクの高い保育士や介護スタッフらへの定期検査も実施したい」と話す。
 保坂区長は民間検査会社の活用を考えているという。

 区は27日、区医師会などを招いて有識者会議を開き、大規模なPCR検査の実施を提唱する東京大学の児玉龍彦名誉教授から検査体制を拡充するよう提言を受けた。
 保坂区長は財源や宿泊療養施設をどう確保していくかが課題としつつ、「実現に向け、都や国に協力を求めていく」と話した。


[写真]
東京都世田谷区の保坂展人区長=2020年3月、世田谷区役所

朝日新聞、2020年7月31日 9時01分
1日1千件PCR検査
世田谷区医師会、機器導入を検討

(国米あなんだ)
https://digital.asahi.com/articles/photo/AS20200731000610.html

・・・誰が都知事かわからない。誰が首相かわからない・・・

 ついにきのう2020年7月29日、全国の新規感染者数が過去最多の1200人を超えた。
 4連休中の検査数が少なかったことからきょうの数字はこれをさらに超えることになるとの見方が強いが、問題はその検査体制。
 3〜4月と同じように、症状が出ても検査を受けさせてもらえないという声が大きくなってきているからだ。

 安倍首相は2月29日におこなわれた総理会見で、「身近にいるお医者さんが必要と考える場合には、すべての患者のみなさんがPCR検査を受けることができる十分な検査能力を確保する」と豪語したが、その約束はまったく果たされなかった。
 しかし、そこから約5カ月が経とうというのに、いまだに検査が受けられない状況に陥っているのである。

 そして、これは世界的に見ても最悪の状況だと言っていい。

 新型コロナにかんする統計を集計しているアメリカのサイト「worldometer」によると、人口100万人あたりの検査件数のランキングで、日本は世界215の国・地域などのうち、なんと日本は158位(30日時点)。
 ちなみに155位はセネガル、156位はマカオ、157位は中央アフリカ、159位はウガンダ、160位はガイアナとなっており、アフリカの発展途上国と肩を並べている
のである。

 検査もまともにおこなわれていない国──。
 これは新型コロナ対策において日本が圧倒的な後進国であることがわかるランキングと言えるが、しかし、こうした事実を直視しようとせず、「日本スゴイ!」を唱えつづけているおめでたい人物がいる。
 それは、あろうことか、この国の新型コロナ対策の陣頭指揮をとる役割にある安倍首相だ。

 安倍首相は全国で新規感染者数が前回ピーク時を超えて更新しても、「Go Toトラベル」をめぐって国民に混乱と不安を招いても、総理会見をおこなわないどころか、国会の閉会中審査にさえ一度も出席していない。
 にもかかわらず、東京都で新規感染者が100人を超えた7月2日には、会見も開かずに極右雑誌「月刊Hanada」(飛鳥新社)9月号の独占インタビューの取材に応じていた。
 そして、その模様が21日発売の同誌に掲載された。

 本サイトでもいち早くその仰天の中身を紹介したが(詳しくは既報参照→https://lite-ra.com/2020/07/post-5534.html)、安倍首相は確保病床数やホテル室数でデタラメな説明をおこなった上、「(新型コロナは)我々が経験したことのない未知のもの」「大変厳しい状況が続くなかで、個々の対応に様々なご批判や不満が出るのはやむを得ません」などと自分の失策を自ら免罪。
 しかしこのあと、こんなことを語っていた。

「同時に、ファクト(事実)に基づいて評価していただいている方々もおられるので大変ありがたい。わが国の人口当たりの感染者数や死亡者数は、G7(主要七ヵ国)のなかでも圧倒的に少なく抑え込むことができています。これは数字上明らかな客観的事実であり、全ては国民の皆様のご協力の結果です」

安倍は「死亡者はG7 で圧倒的に少ない」と自慢も、アジア・オセアニアでは多い

 安倍首相はこれと同じ話を5月の会見でも披露して、「これまでの私たちの取り組みは確実に成果を挙げており、世界の期待と注目を集めています」などと勝ち誇っていたが、この「日本スゴイ!」話は、実際には「都合の悪い事実」がすべて省かれたものだ。

 たしかに、「人口当たりの感染者数や死亡者数はG7のなかでも圧倒的に少なく抑え込むことができている」という事実に間違いはない。
 しかし、アジア地域で比較すると、日本はとても褒められた数字ではけっしてない。

 朝日新聞5月26日付の記事によると、10万人あたりの死亡者数は、
〈アジア・オセアニア地域の多くの国々で日本の0・64人より少なかった。たとえば、初期の水際対策が奏功した台湾の累計死者は7人で、10万人当たりでは0・03人だった〉
と指摘。
 台湾のみならず、中国やオーストラリア、シンガポール、ニュージーランド、韓国といった国々のなかで、日本は10万人あたりの死亡者数がもっとも多かったのだ。
 また、英オックスフォード大学に拠点が置かれた「Our World in Data」によると、中東を除くアジア地域のなかで日本よりも死者数が多かったのは、フィリピンとモルディブだけだという。
 
 ようするに、G7という欧米諸国と比較すれば死亡者数は少ないものの、アジアのなかで見れば、日本は第一波ではむしろ死亡者数が多い国で、悪い結果となっているのだ。

 どうして欧米は感染者・死亡者数が多く東アジアなどではそれが少ないのか、明確な要因はわかっていない。
 しかし、はっきりと言えることは、アジア圏で比較すれば日本は死亡者数の多い国である、ということ。
 そして、その死亡者のなかには、体制が脆弱であったがために検査や治療にたどり着くのが遅れた人がいるということだ。

世田谷区では「定期的な検査実施体制」を準備、一方、安倍首相は午後出勤の半休状態に

 にもかかわらず、その反省はまったく活かされていない。
 検査が受けられない人が出てきているというのに、まともな対策を安倍首相は何ひとつとろうとしない。
 感染拡大を防ぎながら経済を回そうというのなら、アメリカ・ニューヨーク州や韓国・ソウル市のような大規模検査の実施が必要不可欠だが、いまだにこの国では検査抑制論がまかりとおり、安倍首相が大鉈を振るう気配は微塵もない。

 こうした国の姿勢に業を煮やし、世界の成功例に倣って独自の検査体制を敷こうとする自治体も出てきた。
 たとえば、東京・世田谷区の保坂展人区長は、
〈世田谷区での「PCR検査」を1桁増やして、社会的に必要な医療、保育、介護等の人たちに定期的な検査をしていく「社会的な検査」についても準備をしていき、大幅に検査実施体制を拡充したい〉
という意向を示しており、今朝放送の『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日)に出演した際にも、PCR検査を「誰でも、いつでも、何度でも」受けられる体制づくりを目指すこと、さらには「世田谷区だけでコロナウイルスをなくすことは絶対にできないが、少なくても検査ができない、広がらないという状況を変えたい」
と語った。

 本来、こうした施策は国が率先して舵取りをおこない、実行してゆくべきものだ。
 しかし、感染拡大のなかで、安倍首相は27日からなぜか午後出勤の“半休”状態に突入。
 北海道新聞によると、
〈政府高官は「首相が疲れているのは間違いない。休める時は休んだ方がいい」と理解を求める〉
というが、新規感染者数が更新されているいまを「休める時」と考えているのなら、とんでもないことだ。

 この総理のもと、一体この国はどうなってしまうのか。
 もはや暗雲しか立ち込めていない。


リテラ、2020.07.30 11:32
日本のPCR検査数はアフリカ諸国より少ない158位、死亡率もアジア・オセアニアで最悪レベル…
それでも安倍首相は「日本スゴイ」

https://lite-ra.com/2020/07/post-5549.html

 それでも安倍政権は、国会を開かないつもりなのか――。
 野党4党は31日、憲法53条に基づき臨時国会の早期召集を求める要求書を衆院に提出する予定だ。

 憲法53条は、衆参両院のいずれかの総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は臨時国会の召集を「決定しなければならない」と定めている。
 ただ、“いつまでに開くこと”といった期限の定めがないため、実際に召集するかどうかは政権に委ねられている。
 開催期限の規定がないことをいいことに、安倍政権は野党の要求を無視するつもりだ。

 安倍側近の世耕弘成参院幹事長などは、「当面、臨時国会を急いで開かなければいけない理由はない」と言い放っている。

 しかし、国会で審議すべき課題は山積しているはずだ。
・ 新型コロナ禍は拡大する一方だ。PCRの検査件数も増えない。
・「Go To トラベル」の是非もある。
・ 全国各地の豪雨災害についても審議する必要があるだろう。
・ さらに河井克行夫妻の逮捕と、自民党本部から河井夫妻に1億5000万円が渡っていたこと。
・ 突然、イージス・アショアの配備を中止したことについても説明されていない。

 安倍政権は、2017年の時も、野党の国会召集要求に応じなかった。
 今回も、あの時と同じように、野党を無視するつもりだ。
 しかし、国会を開いても集中砲火を浴びるが、開かなかったら、政権の弱体化を進めるだけだ。

 法大名誉教授の五十嵐仁氏(政治学)が言う。

安倍首相は国会の閉会中審査にも出てきません。記者会見も開かない。よほど国民の前に立ちたくないということです。実際、“Go To トラベル”にしても、河井夫妻の逮捕にしても、きちんと説明できないのでしょう。3年前、憲法53条をないがしろにして国会を召集しなかった。でも、あの時とは政治状況が違います。もう、安倍1強じゃない。何より、今ほど国会審議が必要な時はない。国民も国会開会を望んでいます。しかも、今年2020年6月、那覇地裁は憲法53条について“内閣は憲法上の召集の義務を負う”と判断している。もし、国会を開かなかったら、国民の怒りを買い、さらに支持率を下落させるだけです

 時間を稼げば何とかなると思ったら、大間違いだ。


[写真]
世耕弘成参院幹事長は「開く必要はない」と豪語

日刊ゲンダイ、2020/07/30 14:50
八方塞がりの安倍政権
野党の国会召集要求無視で時間稼ぎ

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/276644

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2020年07月30日

吉永小百合「平和をみんなで作っていく」

 女優の上白石萌歌が歌う「パプリカ」にのせて、夢に向かって頑張る人々を描いた短編映画をお届けします。
 主人公は、舞台の成功を目指し、稽古に励むハルカ。車椅子生活の中、技能試験の合格を目指すシロウ。そして、ひとりサッカーを練習する少年、ヒュウガの3人。切磋琢磨しながら頑張る3人の姿をご覧ください。


<NHK>2020応援ソング 短編映画「七転び八起きのピースサイン」
https://www.youtube.com/watch?v=tlosOJv1Jtw

 出演しているのが芋生悠(いもう はるか、1997年熊本県出身)。

『週刊プレイボーイ』45号(2018年10月22日発売)で、初めて水着グラビアに挑戦した芋生悠ちゃん
 デビュー約3年で数々の映画やCM、舞台に出演する芋生悠(いもう・はるか)ちゃん。
 その次世代ミューズの素顔は?

* * *

── すでに若手女優として目覚ましい活躍の芋生さんですが、芸能界を目指したきっかけは?

芋生: 中学校で絵画に目覚めて、高校では美術コースに進学したんです。鏡を見ながらひたすら自画像を描くという高校生活だったのですが、そのなかで自分の内にある"何か"を外に向けて表現することの楽しさを実感して。「もっと別の方法でも自分を表現してみたい」と思ったとき、「JUNON produce Girls CONTEST」を見つけて応募しました。

── それまでは演技も未経験だったとか?

芋生: 2014年の「JUNON」最終選考で『ロミオとジュリエット』の朗読をやったんですが、それが演技初体験(笑)。そのときスポットライトを浴びながら台本を読んでいたら、ゾワッとこみ上げてくるものがあって。その瞬間「私は役者がしたいんだ」って直感でわかったんです。

── ほかにも書道や空手、長距離走、百人一首かるたなど、多彩な趣味や特技を持っていますよね。

芋生: 新しいことに挑戦することが好きなんです。今振り返ってみると、ジャンルは違えどすべて自分を表現する手段として選んできたものなのかも。今は演技を日々勉強中ですが、これまで学んできたことがお芝居に役立つときもきっと来るんじゃないかなと。

── 今回のグラビアでは水着初挑戦。撮影はどうでしたか?

芋生: 私、性格とかけっこう男のコっぽいんですよ。でも『週プレ』に載るとなったら、女性のかわいらしさとか、色っぽさを表現したいなって思い、過去の『週プレ』を読んで研究しました。編集さんやカメラマンさんと一緒にストーリーを組み立てながらつくっていくのが楽しくて、それもグラビアの魅力だと感じましたね。

── グラビアも表現のひとつである、と。さすがの女優魂ですね! とはいえ上京してまだ2年半、地元・熊本が恋しくなることもあるのでは?

芋生: 東京に来たのが熊本地震(2016年4月)の5日前だったんです。ニュースで知って慌てて実家に電話したら、「ドラマや映画で悠を見るのがエールになるから、こっちの心配はせずに東京で頑張って」って、両親から逆に励まされました。
 だから今はまだ、あえて地元には帰らないように努めています。私が女優として活躍することが、地元を応援することにもつながるってわかったので。

── 信念がしっかりしすぎてて20歳とは思えない!では、最近の楽しみはなんでしょう?

芋生: 銭湯です。東京って銭湯が文化として根づいていて、地域の社交場としても面白いんですよ。

── 渋い趣味をお持ちですね。

芋生: 来年上演の舞台で着物を着るので、役作りのために普段から浴衣を着て過ごしているんです。その格好のまま銭湯に行くと、おばちゃんたちに「こう着たほうがかわいいよ」「ここズレてるわよ」ってアドバイスしてもらえて、着こなしの勉強にもなりますし。

── 日常から役に入り込むとは、すごい徹底ぶりですね!?

芋生: いえ、まだ人生経験もそんなにないので、役作りには苦労してます。特に、(ヒロイン役の)映画『恋するふたり』(2019年春公開予定)では、経験したことのないドロドロした恋愛模様が描かれているので、演じがいもありますがかなり大変。想像だと深い演技にならないので、とにかくいろんな人に話を聞きまくってますね。

──「最近ドロドロしてる?」みたいな?

芋生: はい(笑)。実体験を聞いて吸収して演技に反映させるのがよりリアルになりますから。これからも演技を磨いて、いずれはハリウッド映画にも出演してみたい。スポーツが得意なので、運動神経を生かして大好きなマーベル作品にヒロインとして出られたら最高ですね。

※ 芋生悠(IMOU HARUKA)
1997年12月18日生まれ 熊本県出身 身長164p
○ 気鋭の若手映画監督、石橋夕帆が初めて挑んだ長編映画『左様なら』(2018年11月公開予定)で主演。映画『恋するふたり』(2019年春公開予定)でもヒロインをつとめる。ファースト写真集『はじめての舞台』が発売中。


[写真]
『週刊プレイボーイ』45号で、初めて水着グラビアに挑戦した芋生悠

週プレNEWS、2018年10月23日
火の国が生んだ次世代ミューズ!芋生悠
「地元・熊本のためにも、女優として成功したい。夢はハリウッド進出!」

(取材・文/結城紫雄、スタイリング/田中あゆ美、ヘア&メイク/エノモトマサノリ、撮影/矢西誠二)
https://wpb.shueisha.co.jp/news/entertainment/2018/10/23/107356/

 NHK総合で来月8月24日、『戦後75年特集 戦争童画集〜75 年目のショートストーリー〜』(後10:00〜10:45)が放送される。
 戦後75年の今年、新型コロナの中で次々と中止に追い込まれる平和教育。
 そんな中、山田洋次、吉永小百合、坂本龍一ら一流のクリエーターが結集し、オムニバス形式でストーリーを並べて、戦争の記憶を語り継ぐ。

 山田洋次監督は初めて朗読劇に挑戦。
 長澤まさみは、広島に原爆が投下された8月6日、その時を生きた一人の女性の物語を朗読。
 被爆した少女を失った物語を加藤健一、蒼井優が演じる。

 そして、黒島結菜・芋生悠のコンビが演じる沖縄戦の壮絶なドラマ。
 ひめゆり学徒として戦場に向かった2人の女性の苛酷な戦いと友情の物語。
 さらに、橋本環奈、松下由樹、田中要次が家族を演じるドラマも。

 番組を案内するのは、日本を代表する映画俳優・吉永小百合。
 米ニューヨークの坂本龍一とリモートでコラボレーションし、平和の詩の朗読も披露する。

 番組に寄せて吉永は、
戦後75年の今年、戦争を知らない子供たちにあの戦争のことを伝えるのは、とても大切なことだと思います。けれども、コロナ禍の中で、子供たちは平和学習も出来ないという現状があります。そんな今、『平和をみんなで作っていく』という思いを子供たちに伝えたい、家族で戦争のこと、平和の大切さを語り合ってほしい、そして戦後という時代が続きます様にと、私は切に願っています
とコメントしている。

 なお、関連番組として、今月7月29日、総合『クローズアップ現代+』(後10:00〜10:30)で「戦後75年 語り次ぐために」(仮)を放送。
 武田真一、宮田裕章(慶應義塾大学医学部教授)、芋生悠(俳優)が出演する。


[写真-1]
NHK総合で8月24日放送『戦後75年特集 戦争童画集〜75 年目のショートストーリー〜』出演する吉永小百合

[写真-2]
同じく、朗読劇には挑戦する山田洋次監督

[写真-3]
同じく、ニューヨークからリモート出演する坂本龍一

[写真-4]
同じく、芋生悠

ORICON NEWS、2020-07-27 16:57
NHK戦後75年特番
山田洋次、吉永小百合、坂本龍一ら、戦争の記憶を語り継ぐ

https://www.oricon.co.jp/news/2167931/full/

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政治があり、民主主義があるのは、ジャイアンものび太も自分らしく尊重される社会であるため

一斉休校や夏休みの縮小など、いま子どもたちの生活は政治の影響を大きく受けています。
日本の政治を語る上で欠かせないキーワードに「民主主義」がありますが、そもそもこれはどんな立場なのでしょうか?
民主主義と子どもの権利について親子で学ぶべく、政治学者の中野晃一さんに解説していただきました。

自分らしくいられる社会のために

―― 日本の政治は「民主主義」という立場を取っています。対義語に「君主制」「独裁制」などがあり、辞書では「国民が主権をもつ政治形態」と説明されています。民主主義とは、どんな立場なのでしょうか?

中野: 民主主義とは、みんなのことはみんなで決めていくという政治的立場です。その大原則は、すべての人には生まれ持った権利があり、等しく尊重されるべきということです。
 人は皆、自分らしく生きたいという思いを持っています。何を食べるかに始まり、どんな夢を持ち、どんな人を好きになり、だれと生き、何を仕事とするかなど、自分らしい選択をくりかえしながら人生を送りたいと考えている。
 一方で、人間はほかの人と関わり合い、支え合いながら生きる動物です。例えば、山奥へ行って一人きりで生きることもできますが、それでは生きるだけで精一杯になってしまう。人間らしい生活を送るためには、共同体で暮らすことが前提となりますよね。
 民主主義という言葉が生まれた古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、人間にとって共同体で生きることが自然であり、同時に人間が持っている能力や可能性をフルに生かす条件である、と言っています。

―― 共同体で他者と一緒に生きてこそ、真の自分らしさを発揮することができるわけですね。

中野: そうです。ただそこで問題になるのが、他者に命令したり、暴力をふるったりして思い通りにしようとする人の存在です。人と暮らすことの難しさは、必ず力関係が生まれてしまうこと。力の強い人に支配されてしまえば、一人ひとりの権利や自由は守られなくなってしまいます。
 共存のなかで生まれる暴力を許さないために、みんなのことはみんなで決める。これが民主主義の原点です。
「ドラえもん」でたとえるならば、ジャイアン的な存在がいようとも、ジャイアンものび太も自分らしく尊重される社会であるために政治があり、民主主義があるということです。彼らはともに、個の人間として侵されない権利を持っているのですから。

大事なのは間違わないことより言葉にすること
―― 子どもと一緒に民主主義について考えるとき、まずどんなアクションを起こせばよいのでしょうか。

中野: 社会や政治について、ともに問うてみる、ともに考えてみることです。私たちが生きる以上、社会や政治から逃れることはできません。他者と尊重し合える社会をつくる大人に成長するためにも、小さいときから問いを持ったり、声を上げたり、行動に移したりという練習をしておくとよいと思います。
 子どもは、社会や政治の問題を身近に感じにくいかもしれません。しかし、コロナ禍での保護者や先生の様子を見ていて、あるいは学校が急に休校になったり、かと思えば急に再開したり、マスクをして教室で過ごす緊張感にさいなまれたりして、何か感じていることはあるはず。
 自分に発言権がないだけでなく、状況もよく知らされないなかで、自分の行動が決められていく。そんな現状について、どのように考えているのか。自分が持っている疑問や意見を声に出してみるのは、とても大切です。

―― 子どもと話す際は、どのようにきっかけを見つければよいでしょうか。

中野: テレビや新聞などを見て子どもが「どういうことなの?」と聞いてきたときはもちろん、保護者から「夏休みが短くなってしまったことについてどう思っている?」と水を向けてもいいでしょう。「ほかにやり方はあるのかな?」「どうやって決めたのかな?」「こういう事情があったからなのかな?」 などと問いを膨らませ、結論はなくていいので、思考や対話のプロセスをともにすることが大事です。
 とくに子どもが質問をしてきたときは、自分なりの考えを作ろうとしている過程なのだと受け止め、根気強く付き合ってあげてください。保護者が答えられないことならば、一緒に調べてみるのも大切です。
 大人だって知らないことはあるし、考えて議論しなければいけないことはある。大人が政治について考え続ける姿勢を見せれば、子どもは自分もこうして生きていけばいいんだと学ぶことができます。

―― 大人であっても、政治に関する知識に自信がない人は少なくないですよね。親子で対話するときにコツはありますか?

中野: 子どもも保護者も、間違いを恐れないことです。日本人は、自信を持って回答できないときは発言を控える傾向にあります。しかし学びの観点から言えば、間違えないことよりも、自分の考えを書き出したり、口にしたりすることの方に意味がある。
 自分の考えを文字や言葉にしなければ、責任が生まれることも、自分にどんな知識が足りないかわかることも、他人と議論して考えを深めることもできません。
 そもそも、間違えない人はいない。子どもも大人も間違えたら新たに学べばいいし、それが成長につながるのだと思います。人間の尊さとは、死ぬまで学び、成長できる点にあるのですから。

―― 子どもの学校生活では、多数決で物事が決まることは多いですよね。学級会などでは、声の大きい人の意見だけが通ることも少なくない気がします。

中野: 日本では、民主主義の簡易版として多数決が使われるケースは多いですよね。特に人数が多いと、何の議論もなく強い立場の人の意見だけが採用されるということになりがちです。
 しかし民主的に物事を決めるならば、すべての人の意見が聞かれ、それぞれの意見が最大限に尊重しあうためにはどうしたらいいのか議論されるというプロセスがあってしかるべきです。
 民主主義と多数決が似て非なるものであることは、大人の側もわきまえないといけないですよね。声の大きな子だけが場を支配することがないよう、そばにいる大人は一人ひとりに意見があり、尊重されるべきというふるまいを見せないと。声を上げること自体が大変な子もいるわけですからね。

―― たとえ学校で強い人の意見だけが通るという現実があったとしても、それは違うと家庭では話していきたいですね。

中野: そうですね。民主主義とは、終わることがなく続いていくもの。大抵の問題は、一度の議論で解決することはありません。最適解に近づくためには、問題と常に向き合い、対話をくりかえしていくことが大切です。
 仮に一度、多数決で何かを決定することがあっても、それですべてが決まるわけではないですし、採用されなかった意見もなかったことにはならない。そう伝えられればいいなと思います。
 とはいえ、大人よりも子どもの方が、社会正義に対する感性は優れているかもしれません。かつてに比べて、特に大都市圏では子どもの家庭環境が多様になっています。いろいろな背景を持った子どもがいて、みんな等しく尊重されるべきだと理解できていないのは、大人の方なんですよ。大学の学生を見ていると、そう感じることがしばしばあります。

家庭内で子どもの意見を尊重することも民主主義
―― 家族は社会の最小単位ともいわれます。民主主義の観点から考えると、子どもであっても一人ひとりが尊重されるべきというのは、家庭内であっても同じことなのかもしれませんね。

中野: そうですね。子どもは、自分探しをしながら大きくなっていくもの。発展途上の存在なので、必ずしも完全な意見を持ってはいないかもしれません。小中学生ならば選挙権もありません。それでも、生まれながらにして人権は持っています。

「私たちのことを私たち抜きで決めないで」

 これは障害者権利条約の運動から生まれた言葉ですが、子どもにも当てはまるのではないでしょうか。日本社会において子どもの権利は、女性の権利、障害者の権利、性的マイノリティの権利とともに、もっと尊重されるべきだと思います。

―― 子どものこと、家庭のことを決める際は、子どもも当事者。ともに対話し、思考する機会は、家庭内にこそあるのかもしれません。

中野: ぜひ、家庭の中から教えてあげてほしいですね。日本では、人に迷惑をかけないこと、他人を尊重することを強調するあまり、自分の意見を尊重したり、自分自身を大切にしたりすることはあまり教えられない傾向にあります。
 しかし、自分と他人をともに尊重する道はあるはずです。誰かに遠慮しながら自分らしさを探るのではなく、自分らしくいられる方法を探りながら生きていく。それは一人の人生にとってのみならず、社会にとってもいいことなんです。
 保護者と子どもは別の人間であり、それぞれが守られるべきで、尊重されるべき。家庭内でそんな関係が築ければ、社会は変わっていくでしょう。家庭の中から変われるというのは希望だと思いますよ。一人ひとり、取り組んでいく価値があるということですから。

※ 話を伺った人、中野 晃一(なかの・こういち、政治学者、上智大学国際教養学部教授)さん
東京大学文学部哲学科、英国オックスフォード大学哲学・政治学科の両校を卒業したのち、米国プリンストン大学で政治学の修士号および博士号を取得。著書に「野党が政権に就くとき: 地方分権と民主主義」(人文書院)、「右傾化する日本政治」(岩波新書)、「戦後日本の国家保守主義 : 内務・自治官僚の軌跡」(岩波書店)などがある。

朝日新聞 E du A、2020.07.28
[学習と健康・成長]
ジャイアンものび太も自分らしく
民主主義と子どもの権利、家庭内にこそ考える機会

(有馬 ゆえ、ライター・編集者、編集:阿部綾奈/ノオト)
https://www.asahi.com/edua/article/13561818

※ 記事を書いた人、有馬 ゆえ
1978年、東京都生まれ。2007年からライター、編集者としてメディアや広告のコンテンツ制作に携わる。「ハフポスト」「NikkeiLUXE」「Business Journal」「サイゾー」などで執筆中。興味のある分野は、ジェンダー、感情マネジメント、アイドルとファンダム、離婚家庭、HSP、佐賀、近代日本の都市文化、プリン・ア・ラ・モード。人の自我形成と人間関係構築に強い関心がある。妻で母。

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流転の王妃、愛新覚羅 浩

杉並区公式チャンネル
愛新覚羅浩 その生涯 〜日中友好の懸け橋として〜

https://www.youtube.com/watch?v=UXZDpdHSbj4

 愛新覚羅浩(あいしんかくらひろ)は、侯爵・嵯峨家の長女として、1914 年に東京で生まれました。
 浩の人生は、日本と中国の歴史に挟まれ、波乱に満ちたものでした。

 1932 年、日本の関東軍主導のもと建国に至った「満州国(中国東北部)」。
 当時、日満一体を強化したいと考えた関東軍は、満州国皇帝となった溥儀の実弟・溥傑に日本人女性を嫁がせる政略を施します。
 その候補に挙がり、嫁ぐこととなった浩は、1937 年、祖父の邸宅(現・郷土博物館所在地)から結婚式場となった軍人会館(後の九段会館)へ向かいました。
 この時、沿道から見送る人びとを見た浩は、「(中略)沿道の風景だけははっきりと瞼に焼きつき、終生私への無言の励ましとなってくれたのでした」と、後年の自伝の中で振り返っています。

 降りかかる困難を命がけで乗り越えた浩の生涯をたどる特別展が、明日2018年10月27日から郷土博物館で開催されます。
 特別展では、結婚前の不安と覚悟の入り混じった真情を親友へ綴った書簡を初公開するほか、浩の婚礼衣装などを展示します。

 開催前日となる本日26日に、特別展の内覧会が行われ、浩の次女・福永コ生さんと区長によるテープカットセレモニーが行われました。
 特別展を見学したコ生さんは、 「こうして縁のある場所に展示をしてもらい、両親も大変喜んでいることと思います。」と話していました。

 日中平和友好条約締結40周年を迎えた今年2018年、日本と中国の架け橋となった愛新覚羅浩の生涯をたどりに、ぜひ特別展へお越しください。


杉並区広報課、2018年10月26日
〜ラストエンペラーの実弟に嫁いだ侯爵令嬢〜
「愛新覚羅(あいしんかくら)浩(ひろ)展」が開催されます

https://www.city.suginami.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/044/517/1026aishinkakura.pdf

 ラストエンペラーとして知られる清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ、1906−1967)とともに満州で終戦を迎えた血族が兵庫県西宮市に住んでいる。
 溥儀の実弟である溥傑(ふけつ、1907−1994)の次女、福永嫮生(こせい、75)。
 戦後70年を迎えて戦争の記憶が風化し日中関係が複雑さを増す中、「人と人との真心の交流を大事にしてほしい」と訴えている。

満州国崩壊 石投げられ、唾吐きかけられ、目の前で多くの命失われた

 福永さんは1940(昭和15)年3月、溥傑と嵯峨浩(さがひろ、1914−1987)の次女として東京で生まれた。
 浩は公家華族の長女で、2人の結婚は日本と満州の親善の架け橋といわれた。

 1945年8月の終戦時、5歳だった福永さんは溥儀や溥傑、浩とともに満州にいた。
「みんな泣いていて、寂しいような悲しいような情景だけは覚えております」と振り返る。
 父親の溥傑は溥儀とともに飛行機で亡命する途中、ソ連軍が拘束。
 一方、母親の浩は「一族とともに皇后をお守りする」と決意して日本への帰国の誘いを断り、やがて皇后とともに中国共産党軍に捕らえられる。

 翌年1946年1月、皇后と浩、福永さんらは中国東北部の町、通化に移送された。
 翌月、日本人が武装蜂起に失敗し、戦死や処刑などで千人以上が死亡したとされる「通化事件」が発生。
 福永さんらのいた場所も戦場となり、激しい戦闘にさらされた。

 その後も軍に拘束されたまま中国東北部を転々とし、延吉では軍に市中を引き回されて市民に石やつばを吐きかけられたことも。
 ハルビンで釈放され、日本に引き揚げる開拓団に紛れて歩き続けてようやく港にたどり着いたが、今度は国民党軍に戦犯として捕らえられた。
 上海で元軍人の日本人に救出されて日本への引き揚げ船に乗るまで直線距離にして約6千キロ、約1年5ヶ月に及ぶ流転の日々の中で、母娘の目の前で多くの命が奪われたという。

鮮血で染まる顔、折り重なって守ってくれた人びと

 福永さんが鮮烈に覚えていることがある。
 通化事件で砲弾が飛び交う中、皇后を守ろうとした溥儀の乳母が撃たれ、手首のない手で顔を覆った。
 鮮血で真っ赤に染まった顔…。
 乳母はやがて息絶え、遺体は放置された。
 そんな砲弾の中で一族を守ろうと、布団をかぶせて覆いかぶさった日本兵がいた。
 その日本兵が砲弾で亡くなると中国兵が同じようにかぶさって守り、命を落としたという。

「それらの方が亡くなった上で私たちが生かされたことに感謝しております」と福永さんは振り返る。
 この後も数え切れない修羅場をくぐり抜けての奇跡の生還の陰には、身をていして浩や福永さんを守ろうとした大ぜいの日本人、中国人がいたという。

愛によって再生した一族の物語、伝えていくことが大事

 溥儀とともにソ連に抑留されていた溥傑はその後、中国の戦犯管理所に送られた後、1960年に釈放。
 互いを想い続けていた一家は翌年、再会を果たし、浩は生涯を北京で溥傑とともに過ごした。

 一方、福永さんは日本にとどまって帰化し、日本人の実業家と結婚して大阪や兵庫で5人の子供を育てた。
 溥傑と浩は1972(昭和47)年の日中国交正常化以降に日中親善のため何度も来日し、浩は福永さんに「物がなくなっても惜しむことはない。人の心と自分の命を大切にするように」と繰り返したという。

 2013(平成25年)10月、福永さんは兵庫県西宮市の自宅で保管していた一族の資料約千点を同市にある関西学院大学博物館に寄贈。
 同博物館では2015(平成27)年5〜7月に約60点を公開する展覧会「愛新覚羅家の人びと−相依為命(あいよっていのちをなす)−」が開催され、6月20日に開かれた記念講演会では福永さんが自らの体験を語った。

 博物館によると、当初の定員300人に対して4倍近い参加申し込みが寄せられ、関西圏だけでなく、関東や九州など遠方からの参加者もいたという。
 河上繁樹館長は「予想を超える反響だった。終戦から70年、中国との緊張関係もある中で、戦争を知らない世代が増えている。ご本人が語ることが大きかったのではないか」と話す。

 展覧会の副題「相依為命」は「時代は変わっても、相手を思いやる気持ちがあれば生きていける」との意味で、溥傑がよく口にした言葉。
 福永さんの生涯をつづったノンフィクション『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』を著した作家の本岡典子さん(59)は「嫮生(こせい)様は“命さえあれば”と語られ、その言葉はシンプルだけれど大切なこと。苦労の後、愛によって再生したご一族の物語を伝えていくことは今、とても大事なことだと思います」と訴える。

 福永さんは取材に対して穏やかだが、凛とした表情で語った。

私どもは政治や経済とは全く関係ありません。心と心の交流こそが一番確かで信頼できると思うのです。父と母の『相依為命』ではありませんが、お互いに思い合って支え合って生きていく精神が広まれば、戦争は少なくなると思います。次の世代の方にも心と心の交流を続けていってほしいのです

■ 愛新覚羅家の歩み(敬称略)
1906年 愛新覚羅溥儀が誕生
1907年 溥儀の実弟、溥傑が誕生
1908年 溥儀が第12代清朝皇帝になる
1912年 溥儀が退位し、清朝が滅亡
1914年 嵯峨浩が誕生
1928年 溥傑が日本に留学
1932年 満州国建国宣言、溥儀が執政に就任
1934年 溥儀が満州国皇帝に即位
1937年 溥傑と浩が日本で結婚、2人は満州へ渡る
1938年 溥傑の長女、慧生(えいせい)が誕生
1940年 溥傑の次女、嫮生(こせい)が誕生
1945年 満州国崩壊、溥儀が退位。溥儀と溥傑はソ連軍に拘束される
1947年 1年5 ヶ月の流転の末、浩と嫮生が帰国。終戦時に学習院初等科通学のため日本にいた慧生と再会
1950年 溥儀と溥傑が中国の戦犯管理所へ移送される
1957年 慧生が死去
1959年 溥儀が釈放される
1960年 溥傑が釈放される
1961年 嫮生が学習院女子短期大学を卒業。溥傑と浩、嫮生が北京で再会。浩は北京にとどまり、嫮生は日本に帰国する
1962年 嫮生が日本に帰化
1967年 溥儀が死去
1968年 嫮生が日本人実業家の福永健治と結婚、大阪に居を構える(その後、一家は兵庫へ転居)
1972年 日中国交回復
1987年 浩が北京で死去
1994年 溥傑が北京で死去
2007年 福永健治が死去
2013年 嫮生が一族の写真や手紙、映像などの資料約千点を関西学院大学博物館に寄贈


[写真−1]
愛新覚羅溥儀の実弟、溥傑と嵯峨浩が結婚式直前に撮影した写真。浩の母方の実家、濱口邸(現タイ王国大使館)で撮られた=1937(昭和12)年、東京都品川区(関西学院大学博物館提供)

[写真−2]
戦後、中国・北京の溥傑邸に集う一族。左から浩、福永さん、溥傑、潤麒(婉容皇后の実弟)、溥儀=1961年(関西学院大学博物館提供)

[写真−3]
周恩来首相主催の昼食会での記念写真。前列右から溥傑、浩、周恩来、嵯峨尚子(浩の母)。福永さんは浩の左後方。左から2番目が溥儀=1961年、中国(関西学院大学博物館提供)

[写真−4]
清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の実弟、溥傑と嵯峨浩の婚礼写真を前に、2人について語る福永(旧姓・愛新覚羅)嫮生さん(右)。ノンフィクション作家の本岡典子さん(左)が聞き手を務めた=兵庫県西宮市の関西学院大学

[写真−5]
取材に応じる福永(旧姓・愛新覚羅)さん。丁寧な受け答えに、穏やかな品格がにじみでた=兵庫県西宮市の関西学院大学

産経新聞、2015.6.30 15:00
[戦後70年]
血に染まった乳母の顔、銃弾・砲弾の嵐…
西宮在住ラストエンペラー血族の回想「多くの人に守られ生かされた」

(加納裕子)
https://www.sankei.com/west/news/150630/wst1506300004-n1.html

[参考図書]
愛新覚羅 浩『流転の王妃の昭和史』(新朝文庫、1992年3月、中公文庫、2012年6月)
本岡典子『流転の子 - 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』(中央公論新社、2011年8月)

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死ぬ権利よりも生きる権利守る社会に

 全身の筋力が徐々に低下する難病「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」を発症した京都市の女性(51)に頼まれ、薬物を投与して殺害したとして、京都府警は2020年7月23日、嘱託殺人の疑いで、宮城県名取市でクリニックを営む医師、大久保愉一(よしかず)(42)=仙台市=と東京都の医師、山本直樹(43)の両容疑者を逮捕した。
 自身もALSを患うれいわ新選組の舩後靖彦参院議員は23日、コメントを公表した。
 コメントは次のとおり。

◇ ◇ ◇
 事件の報道を見聞きし、驚いています。
 ただ、現時点では正確な事実関係がわかりませんので、事件の内容についてのコメントは控えたいと思います。

 報道を受け、インターネット上などで、「自分だったら同じように考える」「安楽死を法的に認めてほしい」「苦しみながら生かされるのは本当につらいと思う」というような反応が出ていますが、人工呼吸器をつけ、ALSという進行性難病とともに生きている当事者の立場から、強い懸念を抱いております。
 なぜなら、こうした考え方が、難病患者や重度障害者に「生きたい」と言いにくくさせ、当事者を生きづらくさせる社会的圧力が形成していくことを危惧するからです。

 私も、ALSを宣告された当初は、できないことが段々と増えていき、全介助で生きるということがどうしても受け入れられず、「死にたい、死にたい」と2年もの間、思っていました。
 しかし、患者同士が支えあうピアサポートなどを通じ、自分の経験が他の患者さんたちの役に立つことを知りました。
 死に直面して自分の使命を知り、人工呼吸器をつけて生きることを決心したのです。
 その時、呼吸器装着を選ばなければ、今の私はなかったのです。

「死ぬ権利」よりも、「生きる権利」を守る社会にしていくことが、何よりも大切です。
 どんなに障害が重くても、重篤な病でも、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命と確信しています。

2020年7月23日
参議院議員 舩後靖彦

[写真]
山本直樹容疑者を乗せ、京都府警中京署に入る車両=京都市中京区で2020年7月23日午後2時37分

毎日新聞、2020年7月23日 22時12分
「死ぬ権利よりも生きる権利守る社会に」
ALSの舩後参院議員、事件受け

https://mainichi.jp/articles/20200723/k00/00m/040/159000c

障害者の「生」否定するな ALS患者・支援者ら訴え

 全身の筋肉が衰える難病「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)の女性患者=京都市=から依頼を受け、薬物を投与して殺害したとして、2人の医師が嘱託殺人の容疑で京都府警に逮捕された事件。
 ALSの当事者や、生活を支える人たちはショックを受けつつ「どんなことがあっても障害者が生きることを否定してはいけない」と訴える。

■ ALS患者「孤独感、孤立感に悩む」
《自身もALS患者で、NPO法人「境を越えて」理事長の岡部宏生さんの話》

 とても残念な事件が起こってしまった。
 患者の背景はわからないが、このような依頼をしなければならなかったとしたら、非常に悔しく、悲しい。

 私は48歳でALSを発症し、死にたいと何度も真剣に思った。
 でも社会の支援を受けて、こうして生きている。
 生きてみようと思えたのは、明るく前向きに他の患者や家族の支援をしている先輩患者を見たからだ。
 あんなふうに生きたいと思うようになった。

 ただ「生きたい」と「生きていける」とは違う。
 介護保険や障害者の生活支援サービスを十分に受けられ、介護者を確保できなければ、すべて家族に頼ることになる。
 経済的なことも含めて家族に負担をかけたくない、と生きることをあきらめる患者は多い。
 私も介護態勢をつくるまでに時間がかかり、ぎりぎりのタイミングで人工呼吸器をつけられた。

「安楽死」には明確に反対だ。
「安楽死」と同じように社会で使われている言葉に「尊厳死」があるが、自分でご飯を食べることや排泄(はいせつ)ができなくなるのは尊厳を失うことなどとされる。
 そうなのか。もしそうなら私は尊厳を失って生きている。

 尊厳という言葉でくくるからわかりにくくなってしまうが、尊厳死を選ぶということは、自分はこういう状態なら生きていたくないということ、つまり自殺そのものだ。
 これから社会の中で安楽死が議論されるなら、自殺をどう考えるのかを明確にしてほしい。

 今回はSNSを通じて患者と医師が知り合ったと報じられている。
 ALS患者は強烈な孤独感や孤立感に悩まされているので、その心の穴を埋めたくてSNSにつながりを求めることがあるかもしれない。
 コロナ禍では今まで以上に孤立しやすく、こうした傾向が強まらないか心配だ。

■ 生きて行くことを支えるのが医師の務めでは
《ALSの母の介護経験があり、難病患者の生活支援に取り組むNPO法人「ALS/MNDサポートセンターさくら会」副理事長を務める川口有美子さんの話》

 障害や病気のある人は大変でかわいそうだから、死んだ方がいい、という意見に賛同する人は世の中にたくさんいる。
 今回の事件で、さらにそう印象づけられてしまうことを懸念する。

 活動的に生活しているALS患者はたくさんいる。
 その患者たちも発症当初は「安楽死したい」と言う。
 体は変化し、人の助けが必要となり、どうやって生きていけばいいのかわからない、と。

 そんな患者を叱咤(しった)激励し、生きていくことを支えるのが医師の務めであるはずだ。
 どんなにつらい症状でも、たとえ治すことはできなくても、生きることを否定してはいけない。

 私はALSだった母を介護し、みとった。
 障害や病気があっても、かわいそうではなく、支えがあれば絶望から立ち直れることを、母との経験やたくさんの人から教えてもらった。
 その後、生きていてよかったと患者が思えるような支援やその方法を広げる活動をしてきた。
 このような事件が起こり、本当にショックだ。

※ 朝日新聞デジタル 2020年07月24日 08時33分


HuffPost、2020年07月24日 10時00分 JST
障害者の「生」否定するな
医師の嘱託殺人事件受け…ALS患者・支援者ら訴え
「患者を叱咤激励し、生きていくことを支えるのが医師の務めであるはず」
「たとえ治すことはできなくても、生きることを否定してはいけない」

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story-als_jp_5f1a2cbdc5b6128e682338a9

 日本医師会の中川俊男会長は2020年7月29日の会見で、難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者(当時51)への嘱託殺人容疑で医師2人が逮捕された事件と、安楽死の議論を結びつけることについて「これを(議論の)契機にすべきではない。慎重にしたい」と述べた。

 中川氏は「今回の事件のように患者さんから『死なせてほしい』と要請があったとしても、生命を終わらせる行為は医療ではない」と強調した。
「そのような要請があった場合は患者さんがなぜそのように思ったのか、苦痛に寄り添い、ともに考えることが医師の役割だ」と述べた。

 終末期医療のあり方については、これまで日本医師会内部で検討を重ねてきたといい、「ALSをもってただちに人生の最終段階ではないことを確認している」とした。
「死を選ばなければいけない社会ではなく、生きることを支える社会をつくる」と訴えた。


[写真]
日本医師会の中川俊男会長=6月、東京都文京区

朝日新聞、2020年7月29日 21時35分
「嘱託殺人、安楽死議論の契機にすべきでない」日医会長
(久永隆一)
https://www.asahi.com/articles/ASN7Y73QNN7YUTFL003.html

 しかし・・・ある政党は・・・一方では人気者を担ぎ上げスピーカー役にし、他方ではカネ、かさむ医療費の削減につながることゆえ推進すべしという優性思想をひろげていくのでしょうか・・・恐ろしいです・・ね、おお、嫌だ、嫌だ・・・

 日本維新の会の馬場伸幸幹事長は7月29日の記者会見で、筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の嘱託殺人事件を受け、政務調査会に尊厳死を考えるプロジェクトチーム(PT)を設置すると発表した。
 また、ALSを患うれいわ新選組の舩後靖彦参院議員が「生きる権利」の大切さを訴えるコメントを公表したことに関し、「議論の旗振り役になるべき方が議論を封じるようなコメントを出している。非常に残念だ」と語った。


時事ドットコムニュース、2020年07月29日17時13分
維新、尊厳死PT設置へ
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020072900915&g=pol

・・・生きることを肯定する舩後靖彦参院議員のコメントに「残念だ」と言う。それは「死ね」と言っているのと同じこと・・・背筋が凍るわ。ほんとに怖い政党だな・・・

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2020年07月29日

石原慎太郎元知事

 東京・築地市場から豊洲市場への移転問題をめぐり、法律に基づく強い調査権限を持つ調査特別委員会、いわゆる百条委員会が現在開かれているが、移転を決定した当時の石原慎太郎元知事への証人喚問が2017年3月20日に実施される。

 それに先立ち3月3日、渦中の石原氏は都内で記者会見を開いたが、決定に至る経緯について「私は裁可せざるを得なかったので裁可した」「副知事の浜渦(武生)氏に一任した」「そんな小さいことに、私も構っていられません」などと責任逃れの発言に終始したことが批判を呼んだ。

 石原氏といえば、若くして芥川賞を受賞し、弟は昭和の大スター俳優。
 時代の寵児とも呼べる勢いで人気を獲得し、やがて国政や都政にも進出した人物である。
 強固なリーダーシップを振るう石原氏のカリスマ性に魅了されていた人は少なくないだろうが、その強気な口調は84歳になった今も健在。
 今回の証人喚問についても、「喜んで応じます。知っていることも全部話します。困る人が出るかもしれないけどね、こっちも困ってるんだから」と“臨戦態勢”を見せている。

 そんな石原氏は、歯に衣着せぬ物言いが特徴なだけに、過去には幾度となくその発言が物議を醸している。

これを書いたのはIQが低い人たちでしょう」(1977年)

 石原氏の政界デビューは1968年。参議院選に出馬し、300万という史上最多の得票を集めてトップ当選を飾ったのだ。
 1972年に衆議院に鞍替えすると、1976年には環境庁長官に任ぜられる。

 翌年1977年4月、石原氏は公務で熊本県へ赴き、水俣病の患者施設を視察した。
 患者に抗議文を手渡された石原氏はその夜、会見で「これ(抗議文)を書いたのはIQが低い人たちでしょう」と発言。
 さらには「補償金が目当ての“偽”患者もいる」との暴言を吐き、患者らの前で土下座して謝罪する事態となった。

ああいう人ってのは、人格があるのかね」(1999年)

 1999年、石原氏は都知事選で初勝利を果たした。
 それ以降、2012年に辞職して国政復帰するまで4期にわたって都知事の椅子に座り続けるわけだが、就任初年度の1999年9月には、さっそく次のようなエピソードを残している。

 重度障害者たちが治療を受けている病院を視察した石原氏は、会見にて「ああいう人ってのは、人格があるのかね」と語ったのだ。
 その後も「絶対よくならない、自分が誰だかわからない、人間として生まれてきたけれど、ああいう障害で、ああいう状況になって」「ああいう問題って、安楽死につながるんじゃないかという気がする」などと発言した。

 ちなみに昨年2016年7月、神奈川県相模原市の知的障害者施設で19人が死亡し、20人が重傷を負った殺傷事件ついても石原氏は言及しており、「文學界」(文藝春秋/2016年10月号)の対談で「あれは僕、ある意味で分かるんですよ」と心境を吐露してみせた。

 そして「(作家の)大江(健三郎氏)なんかも今困ってるだろうね。ああいう不幸な子どもさん[編注:作曲家で障害を抱える大江光氏]を持ったことが深層のベースメントにあって、そのトラウマが全部小説に出てるね」とコメントしている。

不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」(2000年)

 2000年4月、陸上自衛隊の式典に出席した石原氏は「今日の東京を見ますと、不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。こういう状況で、すごく大きな災害が起きたときには、大きな大きな騒擾事件すら想定される」と挨拶した。

 発言の趣旨は「陸上自衛隊には治安の維持に尽力してほしい」ということだったのだろうが、ここで取り沙汰されたのは「三国人」という表現。

 日本が太平洋戦争で敗戦し、連合国軍に占領されていた頃、三国人は日本に居留する台湾人や朝鮮人を指す用語として使われ始めた。
 この言葉は蔑称としての性質も持ち合わせており、公の場であえて用いるべきではないとの声も多い。
 石原氏自身は「三国人は差別用語ではない」との認識を示したが、国連の人種差別撤廃委員会では「公職につく高官による人種差別的な発言」として問題視されている。

北朝鮮のミサイルが1発落ちてくれたらいいと思う」(2000年)

 石原氏は核武装論者で、2000年に発売された「週刊ポスト」(小学館/12月29日号)では「私は半分以上本気で北朝鮮のミサイルが1発落ちてくれたらいいと思う」とコメントしている。

 翌年には、3月12日付米ロサンゼルス・タイムズのインタビューで、次のように発言している。

「北朝鮮のミサイルが日本に当たれば、長い目で見て良いことだろうと思った。日本は外界から刺激を受けない限り、目覚めない国だからだ。特に北朝鮮のミサイルが核、生物弾頭を搭載するとなれば、日本がいかに無防備か理解するだろう」

文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババア」(2001年)

 2001年発売の「週刊女性」(主婦と生活社/11月6日号)で、石原氏は「これは僕がいっているんじゃなくて、松井孝典(東京大学名誉教授)がいっているんだけど」と前置きし、「“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババア”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です”って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を産む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)」と言及。

 石原氏に名前を挙げられた松井教授も「石原氏の発言を見ると、私の言っていることとまったく逆のこと」と批判しており、石原氏は人びとの反感を買って提訴された。

(北朝鮮と)日本は堂々と戦争したっていい」(2002年)

 北朝鮮による日本人拉致問題をめぐり、政府に認定されている17人の拉致被害者のうち、02年には5人の帰国が叶った。

 その背景には、小泉純一郎首相(当時)と故・金正日総書記による日朝首脳会談があったわけだが、同年発売の「週刊文春」(文藝春秋/9月6日号)では石原氏の「僕が総理大臣なら、実は百人近くもいるという拉致された日本人をとり戻すためになら北朝鮮と戦争をおっぱじめるよ」という言葉が紹介されている。

 これに加え、石原氏が出演した同年2002年11月10日放送のテレビ番組『サンデープロジェクト』(テレビ朝日系列)では「(北朝鮮と)日本は堂々と戦争したっていい」とのコメントも。

予告して自殺するバカはいない。やるならさっさとやれ」(2006年)

 2006年、文部科学省の伊吹文明大臣宛に「僕は、いじめが原因で11月11日土曜日に自殺することを証明します」と綴られた手紙が届いた。
 学校のクラスメイトや担任、教育委員会が状況の改善に動かなければ、手紙の内容通りに自殺するというのである。

 この書面について石原氏は、会見で「あんなのは、大人の文章だね。愉快犯っていうか。今の中学生にあんな文章力はない。理路整然としていて」と、信憑性に疑問を投じた。

 さらに石原氏は、「自殺なんか、予告して死ぬなって、そんなものは。大体甘ったれというか」「私なんか、子どもにけんかの仕方を教えましたよ」「ファイティングスピリットがないと、一生どこへ行ってもいじめられる」「予告して自殺するバカはいない。やるならさっさとやれ」と発言を繰り返したのだ。

 後日、石原氏宛には「一生どこへ行ってもいじめられるのはつらいので『死にます』」などと書かれた自殺予告はがきが届くことになる。このはがきも大人のいたずらだという見方があるが、石原氏の発言は世間の反発を招いた。

(同性愛者について)どこかやっぱり足りない感じがする」(2010年)

 2010年12月、東京都小学校PTA協議会が、都議会に「青少年健全育成条例改正案の成立に関する要望」を提出した。
 これは、漫画やアニメにおける児童ポルノや近親相姦などの描写は規制するべきという働きかけだったが、石原氏は同性愛についても「テレビなんかにも同性愛者の連中が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている」と指摘。

 その数日後、サンフランシスコで同性愛者のパレードを目にしたことがあるという石原氏は「見てて本当に気の毒だと思った。男のペア、女のペアあるけど、どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」とも語ったのだ。

 この発言を受け、国際人権組織ヒューマン・ライツ・ウォッチは、石原氏に発言の撤回を求めていた。

(東日本大震災について)やっぱり天罰だと思う」(2011年)

 2011年3月14日、東日本大震災を受け、石原氏は節電対策をテーマに蓮舫氏と会談を実施。
 その後、報道陣の前に姿を現した石原氏は、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う。被災者の方々はかわいそうですよ」と、震災への所感を述べた。

 後日、石原氏は「行政の長である私が使った『天罰』という言葉に、添える言葉が足りなかった」と謝罪した。

(小池百合子都知事に対して)大年増の厚化粧」(2016年)

 現在の東京都知事は小池百合子氏だが、当選すれば史上初の女性都知事が誕生するということで、2016年夏の選挙はレース中から大きく話題になっていた。
 そして元都知事の石原氏は、別の候補者(増田寛也氏)の側についていた。

 その応援演説で、石原氏は小池氏のことを「大年増の厚化粧がいるな」「(都政を)厚化粧の女に任せるわけにはいかない」と散々こき下ろし、当然ながら「セクハラだ」と波紋を呼ぶ。
 小池氏は化粧で顔のあざを隠していると明かしているが、石原氏はそのコンプレックスをも無遠慮に刺激した。

 バッシングに屈することなく当選した小池氏は、8月1日放送のテレビ番組『モーニングショー』(テレビ朝日系列)にて、石原氏の次男である石原良純氏と共演。
 良純氏が「石原慎太郎というのはああいう人」「多分謝らないと思いますので、私が代わりに」と詫びを入れる一幕があった。

 石原氏と小池氏は現在、豊洲市場移転問題をめぐって舌戦を繰り広げているが、百条委員会では石原氏が再び問題発言をして批判を浴びる事態にならないことを願うばかりである。


Business Journal、2017.03.19 16:30
石原慎太郎が差別発言
「(障害者に)人格あるのかね」
「(水俣病患者の文書に)IQ低い」

https://biz-journal.jp/2017/03/post_18396.html

 じつはイマ、
業病のALSに侵され自殺のための身動きも出来ぬ女性が尊厳死を願って相談した二人の医師が薬を与え手助けした事で「殺害」容疑で起訴された。武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ。裁判の折り私は是非とも医師たちの弁護人として法廷に立ちたい。

 石原慎太郎のこのつぶやきにイマまた、避難、じゃない、非難が飛び交っているのです。
 だって、130万の依頼料をもらって介錯するの?とか、どうして主治医と面会して合法的な手段を探らなかったんだい、とか、医師免許も怪しい、とか、依頼人とはまるで無関係のことば遊び、「業病」とか「武士道」とかのことばをもちだしてはもてあそんだり、尖閣とかどうなったの?とか、水俣病患者の前で土下座したときのこととか、久しぶりに出てきた割には、ちっとも「学習」してないね、ってことのよう。
「人気」がでれば、なんでもできちゃう、なんでもできることを「学習」したから、ご自分がこの世でなんでもいちばんよく知ってて、この世で自分の好きなようになんでもできちゃうんだ、思いこみがでてくるんだね、おお、嫌だ、嫌だ……
 この国じゃあ、選挙って主権者の声を誰がいちばん反映してくれるのかなって候補者のなかから選ぶんじゃなくって、この人気者にまかせても良いか、悪いか、そのどっち?って票を入れるんだっけ、おお、嫌だ、嫌だ……
 
土下座.jpg

 でもたしかに・・・皆さんは、おかしいと思いませんか?感染拡大が広がる中、都知事は数字を気ままな時間に披露して不安を煽るだけで何もせず、総理大臣は記者会見もせず引き篭り、感染拡大について厚生労働大臣は何も言わず、経済再生担当大臣がペラペラ喋って状況は一切改善しない・・・ムカシもイマもどっか、皆さんは、おかしいと思いませんか?

 東京都が土壌汚染対策費を考慮せずに豊洲市場(江東区)の土地を購入したのは違法だとして、都民40人が購入当時の知事だった石原慎太郎氏に購入費578億円を賠償させるよう都に求めた訴訟の判決で、東京地裁は2020年7月21日、「購入価格が著しく高額だったとは言えない」として請求を棄却した。
 都民らは控訴する方針。

 都は2011年3〜4月、発がん性物質のベンゼンなどで汚染された市場予定地の一部10万平方メートルを東京ガスなどから購入。
 土壌汚染がないことを前提にした金額で購入したことが、最少の経費での事務処理を義務づけた地方自治法などに抵触するかが争点だった。

 森英明裁判長は判決理由で、汚染された土地は汚染対策費を差し引いた額が正常な価格だとする一方、「正常価格を超えれば、ただちに違法ではない。交渉経過なども考慮すべきだ」との指標を示した。

 その上で、都の購入費は土壌汚染対策の条件によっては、正常価格を1.3〜1.4倍上回ったと認定。
 ただ、都が隣接地を既に取得していたことや、東京ガスが土壌汚染対策費として78億円を負担したことなどを踏まえると、「土地の取得は不合理とは言えず、都の判断は違法ではない」と結論づけた。

 また、旧築地市場(中央区)からの移転について、築地の再整備計画が難航していたとして、「不合理ではない」と言及した。

 判決を受け、都は「公正かつ公平な判断がされた」、石原氏は「当然の正当な結論」との談話を出した。

 汚染された豊洲市場用地の購入を巡り、都知事だった石原慎太郎氏の賠償責任を否定した東京地裁判決。原告の都民らからは「判決は都が本来より高い価格で買ったことは認めてくれた。違法と判断してほしかった」と落胆の声が漏れた。

「原告らの請求を棄却する」。裁判長が判決主文を読み上げると、傍聴席からはため息が漏れた。

 判決後、東京・霞が関の司法記者クラブで会見した原告の都民ら。建築士の水谷和子さん(67)は「正常価格との差が1.3倍なら違法ではないという理由がさっぱり分からない」と肩を落とした。大田区の板倉毅さんは「非常に残念。ぜひ控訴審では石原元知事の証人尋問をお願いしたい」と訴えた。

 原告側は審理の中で、石原氏の証人尋問を再三求めたが、地裁は認めなかった。弁護団長の梓沢和幸弁護士は「判決で『豊洲市場は必要だから、高額だけど仕方ない』と認定するなら、本来は石原氏になぜ購入する必要性があったか尋ねるべきだった」と批判した。

 都側は当初、全面的に争う姿勢を見せていたが、提訴後に都知事に就任した小池百合子氏が方針を一転。購入の正当性を訴える主張の一部を撤回し、「黒塗り」を取り除いた交渉記録を提出するなどしていた。

 経緯の問題点の一端は明らかになったものの、都民の訴えは届かなかった。弁護団の大城聡弁護士は「正常価格との差は150億円以上。違法ではないという判断は、都民の感覚とかけ離れている」と判決を批判した。


[写真]
判決後の会見で「審理が不十分だ」と批判する原告弁護団長の梓沢和幸弁護士=東京都千代田区で

東京新聞、2020年7月22日 06時00分
豊洲購入費「本来より割高と認めたのに」 
都民側、請求棄却に落胆

(小野沢健太)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/44006
https://www.tokyo-np.co.jp/article/44018/

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2020年07月28日

コロナ後

 新型コロナウイルスの感染者が世界で1500万人を超えるなか、世界中の人びとが「ニューノーマル(新常態)」との向き合い方を模索しています。
 私たちの学び方、働き方はどう変わっていくのでしょうか。
 米国と中国をつないで朝日新聞が開いたオンラインイベントでの対話などから考えてみます。

 コロナ後の世界はどうなるのか――。
 6月21日に朝日新聞のオンラインイベント「記者サロン」があり、事前アンケートで寄せられた質問などについて、元米ウォールストリート・ジャーナル紙記者で米ノースウェスタン大学ジャーナリズムスクール講師のケイン岩谷ゆかりさんと、朝日新聞の米中特派員2人を交えて話し合いました。

米西海岸
在宅勤務、定着
投資家は日本企業に厳しい評価

(サンフランシスコ=尾形聡彦)
 
 シリコンバレーでは、7月になってもグーグル、フェイスブック(FB)などGAFA(ガーファ)と呼ばれる巨大IT企業で、在宅勤務を続けている社員が大勢います。
 付近一帯に外出禁止令が出た3月半ばから、既に4ヶ月以上。
 レストランの屋外営業などが再開され、街にはやや活気は戻りつつあるものの、オフィス街は依然閑散としており、「ワーク・フロム・ホーム(家から働く)」が、常態化しつつあります。

 在宅勤務が「普通」になるなか、米IT大手は制度化に動き始めています。
 FBのマーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)は5月、「今後5年から10年かけて、社員の約50%を在宅勤務にすることが可能だと思う」と説明。
 社員は全世界で約4万8千人、影響は大きいです。
 米ツイッターも在宅勤務を「永久に」できるよう制度を整えると打ち出しています。
 米西海岸では、在宅勤務が今後の働き方の主な選択肢の一つとして定着しそうな勢いです。

「在宅勤務の制度化」は、企業に勤めるのに、住んでいる場所は関係なくなることを意味します。
 優秀な人材を米巨大ITが吸い上げる事態がさらに進む可能性があります。

 巣ごもり生活で、ビデオ会議システムからSNSに至るまで、社会のデジタル化は加速し、米IT大手の存在感は一層高まっています。

 英フィナンシャル・タイムズ紙が6月にまとめた「パンデミックでも繁栄する世界の100社」のランキングは興味深い内容です。
 コロナ下で時価総額を伸ばす世界の企業に着目することで、コロナ後の世界の企業勢力図の変化を見通せるからです。

 100社のうち米国企業が47社、中国企業は24社が入る一方で、日本企業はわずか3社。

・ スイス・ロシュ傘下の中外製薬(本社・東京、21位)、
・ FA(ファクトリーオートメーション)のセンサーを手がけるキーエンス(大阪、48位)、
・ 第一三共(東京、68位)、
だけです。

 トップ10のうち9社はアマゾン、FBなど米西海岸のIT企業が占めました。
 コロナ後にどの企業が伸びるかを見極めようとする世界の投資家たちの目にはいま、日本企業はほとんど入っていないのです。
 日本の政府や企業は、コロナ後の厳しい現実を見据え、変革やデジタル化の速度を上げる必要があると思います。

米国の大学に試練
(米ノースウェスタン大学講師・ケイン岩谷ゆかりさん、聞き手・藤えりか)

 大国としての米国の重要性や価値がますます後退し、影響力が徐々に弱まるのではないかと感じています。
 以前からの傾向ですが、新型コロナがさらに後押しするでしょう。

 それは大学をめぐる状況にも表れています。

 西海岸の知人の子どもは2人ともカナダ、別の知人の娘はドイツ、知り合いの記者の娘は英国と、国外の大学に進む例が周りですでに増えていました。
 学費の高騰が著しい中、米国外にもいい選択肢がある、と目を向け始めているのです。

 そこへコロナ禍で米国の大学が、授業の半分以上をオンライン化。
 これまで米国の大学が第一希望だった留学予定者も、他の国や地域を選ぶ例が増えてくるかもしれません。

 妹がカリフォルニア州オレンジ郡の教育委員会で子どもの問題に取り組んでいますが、格差が大きい中、公立学校は経済的に恵まれない生徒も多く、「高い学費を払ってまで大学に行く必要があるのか」と考える例がもともと増えていたそうです。
 そこへオンライン授業で勉強についていけない生徒が出ています。
 そのうえ家庭でも学びがサポートされない場合はさらに悪循環になっています。
 私立だと学校が手厚くケアできますが、公立学校は教師も低賃金で仕事に追われ、研修も特になく、対処がなかなか難しい。
 ただでさえコロナ対策で費用がかさんでいますから。

 そうして、大学進学を先延ばしにしたり、短大に行きながらアルバイトをしたりする例がますます増えるでしょう。

 ただ、必ずしも悪い面ばかりではない。
 大学進学前の経験は「ギャップイヤー」として貴重な時期になるし、大学での学び方が多様になるかもしれません。

 とはいえ、特に中規模以下を中心に、経営破綻(はたん)や閉鎖に至ったり、財政的に苦しくなったりする大学は増えるのではないかと懸念しています。
 私が教えるノースウェスタン大学はフットボールが強く、テレビ放映権料やチケット収入が大きいのですが、それがなくなり痛手です。
 構内にホテルやレストラン、コンベンションセンターなどを構え、その収入が大きくなっていた大学もあり、彼らも困窮するでしょう。

 大学で学ぶこと、また大学の価値とは何かが見直されることで、大学のあり方も変わっていくのではないでしょうか。

中国
個人情報フル活用
プライバシーと技術、日本は均衡点を

(北京=福田直之)

 中国では移動履歴などを元に個人の感染リスクを判定する「健康コード」というスマートフォンプログラムがあります。
 オフィスビルや飲食店の入り口で提示を求められ、「異常なし」の表示で初めて入れます。

「プライバシーに抵抗はないのか」とよく聞かれますが、抵抗感を持つ人には出会いません。

 中国の個人情報保護の感覚は日米欧とは違います。
 他人や企業から個人情報を守る意識は根付いてきていますが、政府による把握は問題だと思われていません。
「屋根のない家で上から常にのぞき込める」と考えるとわかりやすいでしょう。

 北京で6月中旬に発生した新型コロナウイルス第2波ではGPS情報から感染リスクがある人に次々と連絡。
 ひと月足らずで1100万人超がPCR検査を受けました。
 7月下旬までにほぼ収束しています。

 一方、感染対策は「両刃の剣」となって中国経済に大損害を与えました。
 武漢を封鎖するなど強力な感染対策をとり1〜3月期の経済成長率は統計開始以来のマイナスに。
 その後の復興で4〜6月の成長率はプラスに転じましたが、失業や減収に見舞われた人が大量に出ました。

 消費の回復はまだら模様で格差の拡大も懸念されています。
 収入の格差を示すジニ係数(1に近いほど格差が大きい)は昨年0.47でした。
 1990年代以降、0.1ポイント以上高くなっており、格差はコロナ危機でさらに拡大する可能性もあります。

 中国は感染対策にテクノロジーを駆使しました。
 日本は、個人情報の考え方も政治体制も違うので、同じことはできません。
 集められた個人情報が目的外に利用される恐れは常について回ります。
 ですが、流行がやまなければ絶え間なく人命が失われ、経済損失も底が見えなくなります。

 感染対策のテクノロジーと個人情報の折り合いをどうつけるべきか。
 イスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリさんは朝日新聞の取材に「重要なのは、監視の権限を警察や軍、治安機関に与えないこと。独立した保健機関を設立して監視を担わせ、感染症対策のためだけにデータを保管することが望ましい」と独自の提案をしています。

 日本でもプライバシーに配慮した「接触確認アプリ」が導入されました。
 各地の新規感染者が高い水準で推移するなか、我が国なりのテクノロジーと個人情報の均衡を見いだし、積極的な対策をとることが必要となるのではないでしょうか。

「製造業縮小」「揺らぐ義務教育」

 新型コロナの感染者が増え続けるなか、皆さんは「コロナ後の世界」をどう考えているのでしょうか。
 イベント参加者から寄せられた声の一部を紹介します。

● 世界の足並みはそろう?

この自然界からの目覚まし時計を機に、世界がよりよく連帯するかと思いきや、よりいっそうの分断や緊張が生まれています。世界がSDGs(国連の持続可能な開発目標)達成に向けて足並みをそろえていくことは可能なのか? それがいま一番の関心事です。
(神奈川県・30代女性)

● 製造業の縮小を危惧

国内及び海外の産業構造がどう変化していくか。このままでは、自動車産業も厳しそうですし、製造業自体が縮小していくのではと危惧しています。小売りや飲食もどうなっていくのか。株価が2万円台を維持していることも気持ち悪いです。
(福岡県・50代男性)

● 買い物に行くのも窮屈

日本でも大都市では感染者が再び増加しています。本当に収束するのでしょうか。いまだに検査を絞り軽症者の隔離もせず、老人や既往症を抱えているなどリスクの高い弱者を見捨てているようにしか思えません。かと言って経済が回っているようにも感じません。わたし自身は困窮しているワケではないですが、スーパーに買い物に行くのも窮屈です。自粛警察の目が怖いのです……。
(山形県・50代女性)

● 試験もままならない

現在、留学生として日本で暮らしています。今年、コロナの影響で、いろいろな試験が中止になり、大学院の入試の方法も変わりました。日本人はもちろん、全世界の人々も苦しんでいます。
(東京都・20代男性)

● 暮らしと文明の再構築を

テクノロジーとグローバライゼーションの限界を、今回の新型コロナは示しているはずです。農業や食、暮らしという地に足がついた暮らしと文明の再構築が必要なのだということが教訓ではないでしょうか。自動車産業の開花以降、「成長」を無限追求してきた針路をどう転換できるか。そこが課題だと思います。
(新潟県・60代男性)

● いずれ教訓忘れそう

日本は収束が早く他国より死者も少ないせいか、コロナからの教訓がないまま、この出来事を忘れていってしまいそうです。興味があるのは、働き方が変わったり、環境への負荷が小さくなったり、いい面もあったのではないかということです。政治的なことを口に出すのが苦手な日本人ですが、ツイッターで(東京高検の)黒川元検事長の定年延長反対の動きが起こったのも、多くの人がコロナでニュースに注視していたこと、家にいたことなども一因かなと思います。
(埼玉県・30代女性)

● 子どもの帰国後が心配

渡米して2年が経とうとした矢先にコロナ。英語ゼロで来た子どもたちも今までのような学校生活が送れず、日本語も英語もどんどん中途半端な状態に。3年後の帰国予定、このコロナの中、子どもたちはどう過ごせば日本に帰国しても自分たちの力を発揮できるのか。アドバイスを頂きたいです。
(米国・40代女性)

● 私も夫もテレワーク不可

テレワークが進むと言われていますが、実際テレワークができているのは3割くらいとも聞きます。私の仕事は飲食業なので、緊急事態宣言中も以前と同じく電車通勤してお店に勤務していました。夫は医師でやはりテレワークできない仕事です。コロナ後が変わるとは言うものの、私自身の生活はそれほど変わる実感がありません。
(東京都・50代女性)

● 家庭の教育力で格差広がる

ステイホームがトレンドになる中で公教育のオンライン化も進み、教育における家庭の役割はこれまで以上に増しています。これにより、格差是正を軸としてきた義務教育システムの維持が揺らいでおり、親の教養レベルが児童たちに与える格差を際だたせる結果になっています。
(広島県・50代男性)

● 人を支える仕事どうなるの

対人援助の仕事をしている立場からすると、日常的なマスク世界になって表情や発声の微妙なニュアンスがつかみにくくなり、業務の専門性を奪われていくような危機感を感じています。人を支える仕事はコロナ後にどうなっていくのか、ワクチンだけでは解決しない予感がします。
(山口県・60代男性)

● 政府の検査態勢に不信感

2月下旬から3月初旬まで旅行添乗員としてイタリアツアーに仕事で行っており、外務省危険レベル3に引き上げられたミラノ経由でお客様を連れて帰ってきました。成田空港に着いた際のウイルスなどまるでないような、何事もなかったかのような検疫官の態度、検査も検温もなく、イタリアから帰国した人全員が何も質問や用紙に記入することもなく入国していく姿を見て、政府への不信感が高まっています。政府が十分な対策を取らずして日本モデルの成功などと言ったことは、世界に恥ずべき姿だと思っています。
(神奈川県・20代女性)

● グローバル化の未来どうなる

スペインの現地企業で仕事をしておりましたが、コロナの影響で仕事も打ち切り、現地労働ビザ申請もできず職を失いました。現在日本で就職活動中ですが、かなり厳しいです。またスペインへ戻りたいですが、今後グローバル化の未来はどうなるのでしょうか。ワクチンが出れば、元の世界に戻るのでしょうか。
(東京都・30代女性)

◇ ◇ ◇

 主に暮らしや働き方をテーマにした記者サロン。
 参加者からは教育関係への不安や意見が目立ちました。

「女性も外にいでよ」と奨励された昭和から平成にかけて育った私にとって、日本の外で働き学ぶのはあこがれの一つでした。
 初めて本格的に足を踏み入れた海外は米カリフォルニアでのホームステイ。
 多様な人種や民族が行き交う大国・米国に、目を見開かされる思いでした。

 そんな米国がコロナであがき、街を閉じ、内向きさをも増している様は隔世の感です。
 懇意の南カリフォルニア大学のトーマス・ホリハン教授は「多くの教員が職を失う」と懸念。
 博士号を持ちUCLAで職を得た友人男性も、いつ追われるかと心配しています。

 今のもがきが、ケインさんの言う前向きな変化につながるよう、切に願います。
(藤えりか)

◇ ◇ ◇

「テレワークできない仕事は今後どうなるのか」――、
「コロナ後に求められるスキルとは」――。
 イベントでは、「コロナ後」の仕事や働き方に関する質問も多く寄せられました。

 コロナ以前から、人工知能(AI)などのテクノロジーの進化で、仕事が奪われることへの懸念はありました。
 コロナ禍でリモートワークなどが広がり、変化は急激に前倒しされました。
 デジタル化が遅れていた日本企業には、生産性を上げる機会にもなり得ます。

 一方で、リモートワークができない飲食業などの人たちが最もコロナ禍の打撃を受けました。
 2年前までいた米国では、職を失った工場労働者が、ITなど新しいスキルを身につける状況を取材しました。
 変化に適応するスキルを身につけるしくみづくりが、ますます重要になると感じました。
(五十嵐大介)

朝日新聞、2020年7月26日 9時30分
コロナ後の世界、学び方や働き方は?
特派員ら探り合う

(サンフランシスコ=尾形聡彦)
(北京=福田直之、藤えりか、五十嵐大介)
https://www.asahi.com/articles/ASN7T6TKBN7GULFA02K.html

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白井聡『武器としての「資本論」』

 政治学者、白井聡さん(42)の新刊『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社)が好評だ。
 言わずと知れたカール・マルクスの大著『資本論』の入門書であり、新自由主義の時代を生き抜くための指南書でもある。
「私たちは資本制を利用して生きているのではなく、いわばのみ込まれている。そして今、窒息しているんじゃないですか、と問いたい」と白井さんは語る。

 資本論のすごさとは何か。
 白井さんは冒頭でその射程の長さを挙げる。

「我々が生きている現実社会を、とても身近なレベルから最も抽象的なレベルまで首尾一貫して説明できる体系としてある」

 刊行から150年を過ぎた今なおその刃(やいば)は鋭い。
 なぜ上司が嫌な態度をとるのか。
 なぜ自己啓発本を何冊読んでも救われないのか。

「日常生活で直面する疑問も、資本論というフィルターを通すと見事に説明できる。そういう事例をこの本で積み重ねました」
 
◇  ◇  ◇

 マルクス研究がさかんな日本には「資本論の入門書が山ほどあり、水準は高い」という。
 けれども「やっぱり難しい。標準的な読者が、資本論に書かれている本質をきちんと理解できるのか、疑問に感じていた」。
 ならばと自ら筆を執った。
 本書では、その本質を分かりやすく伝える工夫として「入門書としては異例の体裁をとった」という。
「資本論の体系的な記述順序をあえて崩し、今生きている私たちが一番強く実感できる概念からの説明を試みたのです」。
 中でも特に重要なキー概念が「包摂」だ。

 白井さんはここで、マルクスによる包摂の概念を「拡張して展開した」と語る。
 どういうことか。

 マルクスは主に工場などの生産過程における包摂を論じた。
 決められた時間、ベルトコンベヤーで単純作業に従事する労働者は自律性を失って機械の一部となり、資本にのみ込まれる、というわけだ。
 本書ではその包摂が工場から社会全体へと広がり、<人間の魂、全存在の包摂へと向かっている>と論じる。
 競争原理を浸透させ、ひたすら利益を追求する新自由主義の時代に「資本は労働者に豊かさを分配することをやめた。では、どうすれば人びとを資本に従わせられるか? 人間の魂や感性を侵略することで、人間を資本に奉仕する道具としてしか見ない新自由主義の価値観を内面化させた」と指摘する。

裏テーマは「新自由主義の打倒」

「新自由主義の打倒」を裏テーマとする本書では「魂の包摂」を実感できる具体例が豊富に示される。
 たとえばスキルアップを求める世の風潮。
 白井さんに言わせれば、「スキルアップで高まるのは労働力の価値」であり「私はスキルがないから価値が低い」と感じるのは、すでに魂が資本主義に包摂された状態だという。
 あるいは教育の商品化。
 教育=商品を享受する学生は消費者であるお客様と化し、「学ぼう」という姿勢は「面白い話をしろ」という受動的な態度に堕していく。
 さらには映画「男はつらいよ」の「寅さん」に共感できない若い世代、アルマーニの制服で話題になった銀座・泰明小学校など幅広い事例に切り込む。

「剰余価値」「本源的蓄積」といった資本論の中核的な概念も丁寧に読み解く。
「商品」のパートでは、貨幣がもたらす自由を解説。
 人びとの縁でつながる農村共同体に対し、「カネでしかつながらない都市の人間関係は極めてドライ。その関係において人間は匿名の存在になり、だからこそ後腐れがなく、自由になる」。
 ところがお金のやり取りを電子データに置き換えるキャッシュレス化はその匿名性を消し、消費者を丸裸にする。
「誰がいつどこで何を買ったのか」という情報はビッグデータとして政府や企業に利用され、「お金の使い方を監視することで人間の信用を格付けするシステムがすでに現れつつある」。

◇  ◇  ◇

 人間はこのまま主体性を失い、魂まで資本に飼い慣らされた現状を受け入れるのか。
 いや違う、と本書は叫ぶ。
 この絶望に立ち向かうには<人間の基礎価値を信じること>が重要なのだと。
 基礎価値とは意思よりも基礎的な感性であり、「ある種の自己肯定、自己享受。この現実はおかしいと思っても、それを受け入れざるを得ないことはたくさんあり、だんだんマヒしてくる。でもそこで『嫌なことは嫌なんだ』と言い続ける根性が必要。包摂された魂をもう一度取り戻すには、そこから始めるしかないのです」。

 本書の刊行は4月で、緊急事態宣言が全国に発令されるなど新型コロナウイルス感染拡大のさなかだった。
 コロナ禍の根本の背景には「乱開発がある」と白井さん。

「結局、乱開発のせいで森深くに眠っていた、人間と共存できないウイルスが出てきた。乱開発には南北の従属支配の構造がある。コロナ危機は資本主義の失敗の結果であり、さらにその失敗をひどい失敗にする」。黒人の死亡率が圧倒的に高い米国の状況は、不平等のさらなる拡大を浮き彫りにした。加えて「この危機を克服する答えがほとんどの国で経済活動の再開ですから、破滅的ですよね」

◇  ◇  ◇

 私たちは誰もが豊かに生きる権利を持つ。
 自分にとって本当に価値あるものは何か。
 それは誰かに押しつけられてはいないか。
 資本論を入り口に、主体的な「私」の再建をうたう本書こそ、行き詰まった資本主義社会のその先を考える強力な「武器」になる。

※ 白井聡(しらい・さとし)
1977年、東京都生まれ。思想史家、政治学者。京都精華大教員。著書に『永続敗戦論』(第35回石橋湛山賞など受賞)『未完のレーニン』『国体論 菊と星条旗』など。


[写真‐1]
『武器としての「資本論」』を執筆し、インタビューに応じる白井聡さん=大阪市北区で2020年7月11日

[写真‐2]
『武器としての「資本論」』を執筆した政治学者の白井聡さん=大阪市北区で2020年7月11日

毎日新聞、2020年7月28日 10時00分
「包摂された魂」取り戻すために
白井聡さん新刊『武器としての「資本論」』

(清水有香)
https://mainichi.jp/articles/20200727/k00/00m/040/128000c

「入門書」ではなく『資本論』を読みたくなる本

 マルクスについては、自分なりにいささかの勉強をしてきたつもりです。
 しかしマルクスに関するまとまった論文なり本なりを書いたことはまだありません。
 そこでこのあたりで1つ、私なりの『資本論』の読み方、「自分がマルクスから何を学んできたか」についてまとめてみたいという気持ちがあって、『武器としての「資本論」』にまとめることになりました。

 世の中に『資本論』入門という体裁をとった本、あるいはマルクス入門という体裁の本は、大変な数に上るでしょう。
 アマゾンの検索で、「資本論入門」「マルクス入門」といった語を入れて調べたら、おそらくうんざりするぐらいの、とてもではないが読み切れない数の本が挙げられてくるだろうと思います。

にもかかわらず、なぜやるのか。

 私は以前から大学で「マルクス入門」的な講座を持ったり、あるいは学生に「資本主義社会とはどういうものなのか」を説明するために、マルクスの見方を紹介するといったことをやってきました。
 その際の不満として、適当な教科書がないということがあります。

「『資本論』はこういうふうに書かれていて、こういう議論がされています」と懇切丁寧に、順番どおりに説明をしていく誠実な入門書ということであれば、もちろんいろいろあります。
 日本のマルクス研究は膨大な蓄積がありますから、それらは学術的水準が高いものが多いです。
 海外の優れた解説書の翻訳も多数あります。

 ただ「これを読んで、『資本論』を読む気がするかな?」という疑問があるのです。
 学生や社会人がそういった入門書を読んで、「ふうん。よし、では1つ頑張って『資本論』を読んでやろう」という気持ちになるかというと、残念ながらそういう方向へ誘導してくれそうな本があまり見当たらないように感じられるのです。

 そこに私がやるべきことがあるのではないか、と思い至ったのです。
『武器としての「資本論」』で私が「ここが『資本論』のキモです」という話をして、それをきっかけに読者の皆さんにぜひ『資本論』を読んでいただきたい。
 もうすでに読んだよという方は、ぜひ再読していただきたいと思っています。
 そのためにはどういった方法があるか、いろいろ考えてみたのがこの本なのです。

現実の見え方がガラッと変わる

 今や大学においても、「講義でマルクスをやります」と言うには、何かしら言い訳が必要な世の中になっています。

 1つは時代の問題があります。
 マルクスが生きたのは19世紀です。
 生まれたのが1818年で、少し前にマルクス生誕200周年があったわけです。

 そうなると、「今の世の中は19世紀当時と大きく変わっているではないか。いくらマルクスが天才的に頭がよかったといっても、200年も前の人が見聞きして書いたことと現在の状況には、だいぶギャップができているだろう」と思われるわけです。

 それはそのとおりなのです。
 当時と比べて世の中が変わっていることはたくさんあります。
 にもかかわらず、なぜマルクスがいまだに重要だと言われているのかといえば、それはマルクスの創造した概念の射程が非常に広いからです。
 何かしらの本質をつかんでいるからこそ、今日なお読まれるだけの価値があるのです。

『武器としての「資本論」』では、マルクスにおいて特徴的ないくつかの概念を深掘りしました。
 マルクスが19世紀のイギリスという現実を見てそこから得た概念、それは現在にも十分通用するものです。

 なぜか。
 マルクスの概念には大きな拡張性があるからです。
 本質をつかんでいるからこそ、拡張性がある。
 マルクスが現代に至るまでの資本主義社会の変化のすべてを想定・予言していた、などと考える必要はありません。

 けれども、彼はキモとなる部分をつかんでいた。
 だからマルクスの目を通して見る、言い換えればマルクスが創造した概念を通じて見ると、今起こっている現象の本質が『資本論』の中に鮮やかに描かれていることがわかるし、逆に『資本論』から現在を見ると、現実の見え方がガラッと変わってきます。

 それをするのは単に、「そうしてみると頭の体操になって楽しいから」ではありません。
 何のためにそんなことをするのかといえば、「生き延びるために」です。

 すでにだいぶ前から、日本に限らず世界の労働者の置かれた状況は厳しさを増す一方となっています。
 格差の拡大も指摘されてきましたし、心の病も多発しています。

 私自身、「ロスジェネ」「氷河期世代」と言われる世代です。
 先日、私の中学・高校の同級生で、多くの同窓生と交流のある男と話したのですが、「あいつ、どうした?」と同窓生の様子を聞くと、驚くほどうつ病になっている者が多いのです。
「あいつも一時大変な状態だったけど、最近はどうやらこうやら、立ち直ってきたらしい」と、そんな話が実に多いのです。

「このまま行けば日本人は滅びるのではないか」というレベルまで、働く人の心の健康状態がおかしくなってきている。
 あるいは今の急速な少子化現象も、その病状の1つに数えられるのかもしれません。

 ここまで世の中がおかしくなってしまっているのに、いったいどうやったら立て直せるのか、見えない状態になっています。

「資本主義リアリズム」を乗り越えて

 アメリカの文芸評論家で、『資本論』の優れた読み手でもあるフレドリック・ジェイムソン Fredric Jameson(1934年生まれ)に、「資本主義の終わりを想像するよりも、世界の終わりを想像することのほうが容易だ」という有名な言葉があります。 

 環境破壊、経済危機、あるいは戦争など、原因はいろいろ考えられますが、「100年後に人類は存続しているのか」と考えると、相当不安が強い。ひょっとするともうダメかもしれない。少なくとも「間違いなく存続している」とは到底言えない状況です。

「では、その原因は」と考えると、間違いなく資本主義なのです。
 なぜなら、現在の世界を覆っている社会システムは資本制であって、この資本制をどうにかしなければ現代社会の矛盾は乗り越えられない。

 イギリスの批評家、マーク・フィッシャー Mark Fisher (1968 ‐ 2017)は「資本主義が唯一の存続可能な政治・経済制度であり、それに対する代替物を想像することすら不可能だという意識が蔓延した状態」を「資本主義リアリズム」と呼びました。

 どうやって資本制を乗り越えるのか。
 資本主義の終わりとはいったいどういうものなのか。
 私たちには想像すらできないというのです。
 そして想像できないうちに、人類のほうが終わりを迎えそうになっています。

 ですから、「こんな世の中をどうやって生き延びていったらいいのか」という知恵を『資本論』の中に探ってゆく。
 マルクスをきちんと読めば、そのヒントが得られるのだということを改めて世の中に訴えていきたい。
 そう思っています。


東洋経済オンライン、2020/05/27 8:10
「資本論」が「生き延びるための武器」になる事実
19世紀イギリスにマルクスが見た不変の原理

白井 聡 : 政治学者、京都精華大学教員
https://toyokeizai.net/articles/-/341356

 併せて、ヤッホーくんのこのブログ、次の日付けの日記をぜひお読みください:
★ 2020年04月10日「白井 聡」
★ 2020年05月24日「なぜ日本の政治はこれほど「劣化」したのか?」

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2020年07月27日

ADLs and IADLs

 2020年3月19日、政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議が提言を発表し、「クラスター(患者集団)の感染源が追えない事例が散発的に発生している」と警鐘を鳴らしました。
 東京都などでは感染者が急増し、知事が「外出自粛」を要請しています。
 先が見通せない中、民医連の事業所では、患者と利用者を守るための奮闘が続いています。
 介護の現場で話を聞きました。

「夫は数年前の入院以降、すごく清潔に気を遣うので、消毒薬やティッシュ類は多めに買い置きしています。でも、なくなってきて途方に暮れました。ヘルパーさんに何件もお店を回ってもらいました」と話すのは、夫(92歳)とふたり暮らしの館野直子さん(仮名、89歳)。
 夫婦で週3回の訪問介護を利用し、買い物やゴミ出しを頼んでいます。
「足腰が痛くて、ゴミ集積所まで持って行けない。ヘルパーさんが来ないとすぐにたまってしまう」と直子さん。

 館野さん宅に訪問介護をしているのは、東京・ファミリーケアみさと(すこやか福祉会)です。
 所長の猪瀬茜さんは、「一番恐れているのは、ヘルパーが気づかないうちに感染を広げてしまうこと」と言います。
 マスクは4月にはなくなる見込みで、手づくりの布マスクを使い、しのいでいます。
「利用者には、訪問介護は命綱。利用者と職員を守るための手立てを、国の責任ですぐに行ってほしい」と猪瀬さんは言います。

■ ADL低下、引きこもり懸念

 同法人のデイサービスセンターなごみでは、利用者にマスクの着用を呼びかけていますが、手に入らない人も少なくありません。
 送迎時の検温とデイに到着してすぐの手洗いを徹底しています。

 数日前、デイの利用中に熱が38度を超えた利用者がいました。
 独居のため帰すこともできず、訪問看護などと連携しながら見守りました。
 所長の玉城志奈子さんは、「感染が疑われる利用者が出た場合、医療機関で受け入れてもらえるのか」と懸念しています。

 デイサービスは通常20数人が利用していますが、最近は感染のリスクを心配し毎日1〜2人が休んでいます。
「長引くと経営的にも厳しい」と玉城さん。
 気がかりは、地域で感染が拡大し、休業を余儀なくされた場合。
「ひとり暮らしで昼食や入浴をデイに頼っている人も多い。休業となったら、自宅でずっと過ごせるのか、入浴できず清潔を保てるのか」と玉城さん。
 猪瀬さんも、「厚労大臣は、デイの職員を訪問に回すようにと言ったけれど、資格要件も違うし、職員も利用者も急に対応はできない」と訴えます。

 ケアマネジャーが月1回訪問するモニタリングも自粛。
 猪瀬さんは、「今まで来ていた人が来なくなり、友の会や地域の集いの場がなくなり、高齢者の引きこもりやADLの低下が心配です」と話します。
 デイを休んでADLが低下し、新規に訪問を開始したり訪問回数を増やす人も出ています。

 同じような事態は全国で起きています。
 京都・総合ケアステーションわかば訪問介護所長の谷口賢治さんも、「独居で生活援助を利用していた人が、家族が心配して、しばらく利用を中断。意欲が衰え、生活環境が悪化し、利用を再開しました」と言います。

「利用者に感染を広げない、同時に、サービスが必要な高齢者を孤立させないためには、どうすればいいか」

 手探りを続けています。

● 受療権を守るとりくみ

 高知市は国保料の滞納状況にかかわらず、9月末までの被保険者証を3月16日に送付しました。浜口佳寿子市議(共産)の質問に対し、岡ア誠也市長が「全ての国保世帯に保険証が届く対応をとる」と答えたもの。
 北海道社保協は、全世帯への被保険者証の発行を要請。北見市は、資格証明書を発行していた340世帯400人に2ヶ月分の短期保険証を発行しています。

● 住民の不安にこたえ
 熊本民医連では、健康友の会の行事が中止になったことを受け、会員あてに手紙を送付。感染予防のポイントの解説とともに、「心配ごとは友の会へ相談を」と呼びかけています。

※ 民医連新聞 第1713号 2020年4月6日


全日本民医連、2020年4月7日
新型コロナウイルス感染症拡大
いのち守る現場に支援いますぐ

(丸山聡子記者、取材: 3月24日)
https://www.min-iren.gr.jp/?p=40092

・ ADL(日常生活動作):普段の生活の中で行っている行為や行動
・ IADL(手段的日常生活動作):ADLを元にした社会生活上の複雑な動作
 ADLは"DEATH"(できないと命に関わる!),ADLは"SHAFT"(社会生活の軸になる!)のゴロ合わせで覚えましょう。
〇 D−Dressing(着る)
〇 E−Eating(食べる)
〇 A−Ambulating(歩く)
〇 T−Toileting(トイレ)
〇 H−Hygiene(衛生(入浴))

〇 S−Shopping(買い物)
〇 H−Housekeeping(そうじ)
〇 A−Accounting(お金の管理)
〇 F−Food preparation(調理)
〇 T−Transport (乗り物に乗れる)
信州大学医学部 医学教育部門
http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/medicine/medical_education/support/knowledge/2015/12/adliadl.php

Activities of Daily Living (ADLs) and Instrumental Activities of Daily Living (IADLs) are helpful tools for caregivers and clinicians to evaluate the autonomy and independence of seniors.

Learn more about what these terms mean and how to apply them to everyday situations.

What Are ADLs and IADLs?

The concept of Activities of Daily Living (ADLs) and tracking a persons ability to complete them as a means to assess their overall health and functional status, was developed in the 1950s by Sidney Katz and his team at the Benjamin Rose Hospital in Cleveland, Ohio. The ADL Index that Katz created is still an effective assessment tool used today.

Basic ADLs, or BADLs, “include six essential skills typically needed to manage basic physical needs,” as outlined by the Katz “Index of Independence in Activities of Daily Living,” including:

・ Bathing and showering: Bathing self completely, or requiring assistance with only one area of the body including, hair and skin and oral care

・ Continence: Having complete control of bowels and bladder

・ Dressing: Including selecting appropriate clothes and outerwear and donning them independently, including fasteners

・ Functional mobility: Including walking or transferring from one place to another, specifically in and out of a bed or chair

・ Self-feeding (not meal preparation): Moving food from plate to mouth or having the ability to chew and swallow

・ Toileting: Including getting on/off the toilet and cleaning oneself

While BADLs represent a person’s fundamental functioning skills, Instrumental Activities of Daily Living, or IADLs, are more complex activities required for independent living, as outlined by the Lawton-Brody “IADL scale,” including:

・ Cleaning and housekeeping: Including maintenance and other home care chores
・ Laundry
・ Managing money
・ Medication management: Taking prescribed medications
・ Preparing meals: Including food preparation
・ Shopping: For groceries and other necessities
・ Transportation: Including changing residences and moving
・ Using communication devices: Including the computer or telephone

It is especially important that people living on their own can complete IADLs as they are generally not receiving daily support from professional caregivers or family members and can go several hours or even days without interaction with another individual.

As with BALDs, a person’s ability to compete IADLs – or their lack of ability – can represent mental or physical health conditions. A decline in IADL performance is often the first sign that a person may be experiencing mild or early cognitive impairment, whereas a decline in BALD performance may not be noticeable until later stages of dementia or physical disability.

Why ADLs Are a Sound Assessment Tool

Activities of Daily Living challenge both our mental and physical capabilities – not only do ADLs require a person to have the physical ability and manipulation needed to perform the tasks themselves; they also require the forethought and mental capacity to conceptualize the tasks and understand that they need to be completed.

This makes ADLs a great assessment tool for healthcare professionals as they represent the “first signs of diminished functionality” and are often indicators of physical issues and memory-related diseases, such as dementia.
According to Oxford Academic, “declined or inability to achieve one or more ADLs should motivate a primary provider to routinely check on and determine a patient’s independence and evaluate the need for physical therapy or placement in an assisted community.”

Ideally, a physician should check-in with patients on ADLs and IADLs during their annual wellness visit (it’s a small part of the Medicare Annual Wellness Visit tool for physicians). However, it’s unclear how many physicians are discussing ADLs with patients, or how many older adults are having an annual wellness visit. Even if not all physicians are using them, there’s no doubt that ADLs and IADLs are a vitally important assessment tool for healthcare professionals, caregivers and seniors alike to help them understand and determine a person’s functional status and abilities.

They help to predict and piece together the puzzle of a person’s long-term health.

In fact, according to Oxford Academic, the less capable someone is at performing their own ADLs, the more likely they are to experience “poorer quality of life, increased health care costs, increased risk of mortality and increased institutionalization.”

Why ADLs and IADLs Are Important for Caregivers

According to Dr. Leslie Kernisan, MD MPH, a geriatric expert and author of GeriatricsForCaregivers.net despite their importance, the average person isn’t aware of ADLs. Even as a practicing geriatrician with a special interest in family caregivers, Dr. Kernisan is rarely asked questions about ADLs from families until the subject is broached when eligibility for long-term care through Medicare/Medicaid becomes a pressing issue.

However, ADLs are extremely important for caregivers to consider. If you’re caring for an elderly parent or loved one, then talking with your physician in terms of ADLs is useful. “If someone is concerned about their mom, then knowing how they’re doing with ADLs is important, it can educate a person and take them from feeling like ‘Mom needs help I’m worried,’ to being able to answer questions like, “Okay, where does she need help?” Dr. Kernisan explains.

The average physician might not be tuned into ADLs and IADLs unless there’s a specific situation like post-surgery rehab or post-stroke.
Ultimately, when it comes to ADLs and IADLs, “caregivers have more information about how a senior loved one is doing than the doctor does,” Dr. Kernisan says, and if family members “notice a difference, then they should bring the change up when talking with a physician,” she says.

Dr. Kernisan notes that it’s important to share changes in ADLs with your loved one’s medical team because:

1.It’s important to understand the root cause of the problem or change in ability. A change in ADL can trigger medical evaluations that can uncover a medical issue.

2.Once the root cause is understood, then you and your physician can work together to find ways to improve function, sometimes with medical treatment or with a compensatory device (like a walker).

3.Alignment on Activities of Daily Living is critical to having an accurate care plan. If your physician doesn’t realize there’s a functional impairment, then the care plan they create for your loved one may not be in line with their abilities. In some cases, this could mean that your loved one isn’t covered for the assistance they need or is being expected to do more than they can. For example, if your physician isn’t aware that your loved one is sometimes forgetful then their expectation that your loved one can regularly monitor their blood sugar on their own may not be realistic.

When Should Caregivers Consider an ADL Assessment?

Dr. Kernisan refers to ADLs and IADLs as “life tasks” and suggests keeping an eye out for specific safety factors when visiting a senior loved one, including:
・ Driving: Have there been any accidents or close calls? Do passengers feel worried?
・ Elder abuse: Do you have any concerns about emotional, financial, physical or verbal abuse?
・ Finances: Are there problems paying bills? Are you concerned about scams?
・ Health: Has your loved one had any falls? Have there been repeated trips to the ER or hospital?
・ Memory and thinking: Have there been problems with forgetting, getting lost or wandering? Is there concern about poor awareness or poor judgment?

If you notice that any of the above concerns apply to your parent or senior loved one, it may be time to assess their ADLs and IADLs, either by a medical professional or from your perspective as a family member.

Their ability to perform daily tasks outlined in the ADLs and IADLs, in conjunction with other safety factors, may indicate that it is time to discuss increasing their level of support or moving to an assisted living community. For help in navigating this delicate conversation, check out our “Ask an Advisor Series: When Is the Right Time to Move?“

The 3 Types of Formal ADL Assessments Physicians Use

ADLs and IADLs can be assessed in a variety of ways, including:
1.Caregiver or family member report: Caregiver input can be helpful to create a bigger picture of a person’s functional status; however, this method can be more biased than others due to caregiver burnout and the burden of supporting the individual, as well as the tendency to over or underestimate the patient’s true abilities.

2.Clinician report: Including nurses, physicians and occupational, physical or speech therapists. This method is often believed to provide the most objective view of a person’s functional status. Commonly used tools healthcare professionals use to assess ADLs include:
・ The Barthel ADL Index: Covers two additional domains, including grooming and stairs, and is best suited to acute care settings, as it is more detailed and better detects subtle changes in a person’s health
・ The Functional Independence Measure (FIM): More comprehensive, combining basic ADLs with IADLs and other social domains
・ The Katz Index of Independence in Activities of Daily Living: The best choice for patients in long-term care, where disability is generally more severe and stable

3.Self-report: No one understands a situation better than the person experiencing it, therefore self-report measures can be convenient when individuals have minimal cognitive decline. However, self-report measures leave the results open to a person’s own interpretation or poor insight of their functional impairments. Research has shown that a combination of assessments via a healthcare professional and self-report “may be the best way to fully capture the picture of disability for a given individual.”

There are a variety of helpful, self-report tools available online, including:
・ The Direct Assessment of Functional Status: Groups ADLs together with IADLs for a more comprehensive assessment
・ The Lawton-Brody IADL Scale: Focuses on IADLs and is easy to self-calculate
・ The Physical Self-Maintenance Scale (PSMS): Covers the six ADL domains, with more detailed and user-friendly descriptions than the Katz Index

Ways to Assess ADLs and IADLs as a Caregiver

If you’re concerned about your parent or senior loved one’s abilities, then it’s a good idea to look at an ADL checklist that’s designed for caregivers, like Dr. Kernisan’s “Quick Start Guide to Checking Older Parents for Health and Safety Problems.” You can use this checklist to assess your loved one’s abilities.
Such an assessment should be done respectfully and in a thoughtful way. If your loved one feels like they’re being evaluated, they may become defensive. Instead, quietly observe how your loved one is getting along on their own. You may need to ask some questions (like whether it’s difficult to get in and out of the bathtub).

It’s easy to overestimate a person’s abilities, especially when it comes to IADLs related to cognition (like high-level organizational skills), Dr. Kernisan warns. “Often, we assume everything is fine because it seems to be fine,” she says. “You really need to go take a look for yourself to know how your loved one is doing.”

It’s also easy to underestimate a person’s abilities. Sometimes, when there’s a diagnosis of dementia, caregivers assume the person can no longer do anything or think they need more assistance than they actually do.

Assessment Tips for Caregivers

Here are some tips to help you objectively assess your loved one’s capacity regarding ADLs and IADLs:
1.Ask two to three people’s opinions about any changes you’ve noticed in your loved one’s abilities. Siblings, your loved one’s friends, neighbors, etc.
2.Assess on a spectrum. It is more useful to use a spectrum to frame questions around abilities. Ask yourself whether your loved one can do the task a little bit, sometimes, or often rather than ‘yes,’ they can do the task or ‘no,’ they cannot.
3.Be patient. “If a person is doing a task more slowly than they used to it doesn’t mean they can’t do the task,” says Dr. Kernisan.
4.Consider the time of day and how tired they are. Many seniors have sharper cognitive abilities and more energy in the morning.
5.Consider their health. If they’re fatigued or fighting a virus, their abilities can be momentarily impaired.
6.Consider why you’re doing the assessment. Is it to complete a Medicaid application? Is it a checklist for a long-term care community or is it to prepare for a yearly physical?
7.Find the time. “It’s common to be in a hurry and it’s difficult to find the time to observe, but it’s important to take the time and when you do, be patient.” Dr. Kernisan suggests.
8.Look at your own preconceived notions about your loved one. Are they interfering with your ability to make an impartial assessment?
9.Make the effort to help correct what you can to ensure your loved one can live life to the best of their abilities and as independently as possible.

“It’s very challenging to have people see you as less able,” Dr. Kernisan points out. Caregivers should “be discreet and empathetic” when assessing for ADLs, she suggests. If you feel that a parent or senior loved one’s abilities have declined and they need help, then you may be wondering how to broach this difficult conversation with them. How you talk about it will depend on your relationship with them and their cognitive ability.

A good way to bring up the topic is to “ask them how they feel things are going,” Dr. Kernisan suggests.

An ADL and IADL Checklist for Caregivers

When it comes to ADLs, there’s a lot of technical information out there about different assessments, which can be overwhelming for families to navigate.

Instead of focusing on these technical assessments, Dr. Kernisan recommends for caregivers to:
・ Ask if a change in medical plan is required (for example, a complicated diabetes plan may need to be revised)
・ Ask if your loved one qualifies for a service like Medicaid
・ Ask what’s causing any issues or inabilities
・ Be aware of your loved one’s true abilities when it comes to ADLs and IADLs
・ Consider whether the limitations have short or long-term implications
・ Help your loved one remain independent as long as possible with adaptive assistance
・ Seek treatment

Ways for Caregivers to Get ADL Help

If you are concerned about your functional status, or that of a loved one, consider using Dr. Kernisan’s “Quick Start Guide to Checking Older Parents for Health and Safety Problems” to gain a better understanding of your loved one’s current abilities.

Connecting with a healthcare provider to discuss the results and schedule a clinician-reported assessment will ensure that your baseline functional status has been formally documented on your personal health record and can initiate ongoing support with referrals to occupational and physical therapy, home care assistance or long-term care placement.

While it’s important to identify any limitations your loved one may have, supporting them by solving the limitation (if possible) is even more critical. It’s important to enable your loved one to be as independent as possible so they can enjoy the best quality of life possible.

Simple lifestyle adjustments can make it easier to perform ADLs independently. For instance:
・ Consider hearing and vision aids. Sometimes a person’s ADLs and IADLs are impaired because they have a hearing or vision issue that has not been corrected.
・ Consider therapy. Therapists, including rehabilitation and speech therapists, teach specific muscle-strengthening exercises to improve mobility and speech and build postural muscles to help improve independence while completing ADLs.
・ Make accommodations in clothing. Selecting clothing with Velcro or zippers as opposed to buttons can be less cumbersome to put on or remove, especially for individuals with arthritis.
・ Eliminate tasks that cause a problem. For instance, eating more finger foods (such as sandwiches) that don’t require the use of a fork or knife may be helpful for individuals with coordination issues.
・ Use assistive devices to make bathing, dressing, transferring and using the toilet easier to do independently.

American Caregiver Association、March 13, 2019
ADLs and IADLs
By ACA
https://americancaregiverassociation.org/2019/03/adls-and-iadls-2/

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2020年07月26日

国会は「学級崩壊」状態

 国会の審議中に、議員が娯楽小説を読んだり、スマートフォンで趣味のウェブサイトを閲覧したりする行為が横行している。毎日新聞が新型コロナウイルス対策の審議など国民の関心の高かった5、6月の本会議や各委員会で調査したところ、こうした行為を少なくとも10件確認した。国会は規則で議事と無関係な書籍などを読む行為を禁じており、識者は「言論の府である国会を空洞化させる行為だ」と問題視している。

小説熟読、タブレット、スマホいじりも続々と

 毎日新聞は、黒川弘務・東京高検検事長(当時)の定年延長問題で注目された5月13日の検察庁法改正案の審議中に、平井卓也・前科学技術担当相(自民)がタブレットでワニの動画を約5分閲覧している様子や、大西宏幸議員(同)が戦記小説を堂々と読んでいる様子を確認して報道した。この後、衆参の本会議や各委員会を任意に選び、同様の行為がないか傍聴席から調べた。

 調査の結果、自民党の衆参議員7人と立憲民主党の衆院議員1人の計8人が議事とは明らかに無関係な小説やスマホ画面などを閲覧していたことが判明した。大臣経験者や現職の副大臣も含まれており、スマホで健康食品のモニターに応募していた議員もいた。

 衆院では、義家弘介副法相(同)がコロナ対策のため過去最大の補正予算が審議された本会議でスパイミステリー小説「戦場のアリス」を熟読。採決の瞬間に慌てて本を閉じて立ち上がった。

 今村雅弘・元復興相(同)は「水戸黄門光圀卿示家臣条令」など武家や皇族の家訓を掲載した「家訓集」を読みふけっていた。コロナに備える研究支援や科学技術振興も議題となった委員会の最中だった。

 野田聖子・元総務相(同)は、コロナ対策のための10兆円の予備費の在り方が論点となった委員会で小池百合子・東京都知事の半生を描き話題のノンフィクション「女帝 小池百合子」を机の下に隠しながら熱心に読んでいた。井野俊郎議員(同)も同書をコロナの影響で落ち込む沖縄の観光振興も論じられた委員会で約2時間、読み続けた。

円楽まくら集を熟読 セサミン無料登録も

 福山守議員(同)は、福島第1原発の汚染水処理など原発政策を審議する委員会で西村京太郎氏のトラベルミステリー小説「宮古行『快速リアス』殺人事件」、吉川赳議員(同)はコロナの影響に苦しむ中小企業支援策が焦点となった委員会で「五代目三遊亭円楽 特選飛切(とびきり)まくら集」のページを広げていた。吉川氏は読書の合間にスマホで自転車の通販サイトなども閲覧していた。

 参院では、岡田広・元副内閣相(同)が、就職活動中の学生のデータが企業に販売された「リクナビ」問題を踏まえた個人情報保護法改正案の審議中、サスペンス小説「生贄(いけにえ) 私刑執行人」を周囲の目を気にしながら読んでいた。

 野党では、山崎誠衆院議員(立憲民主)が、東日本大震災の被災地の復興支援を審議する委員会で30分以上、スマホを操作。同僚議員らの質疑中に「軽自動車の販売サイト」を閲覧したり、サントリー社の健康商品(セサミンなど)を無料で試せるモニター登録をしたりしていた。

議員たちの説明は?

 毎日新聞は、議事に無関係とみられる小説やスマホ画面を閲覧していたことが新たに判明した8議員に書面で見解を求めた。
 トラベルミステリー小説を読んだ福山氏のみが対面取材に応じ「本が好きで、つい読んでしまいました。(国民に)本当に申し訳ない。もう二度としません」と深々と頭を下げた。
 スパイミステリー小説を読んでいた義家副法相は書面で「ご指摘や誤解を受けることがないよう、職務に精励してまいります」とだけ答えた。野田元総務相は「女帝」を読んだ理由について「書籍内に自身に関する記載、そして極めて政治的な書籍と聞いておりましたので内容を確認いたしました。以後、気を付けます」と説明している。

 落語の特選まくら集を読んだ吉川氏は書面で「地元での会合などにおけるスピーチの参考にするため閲読いたしました」と回答。スマホで自転車通販サイトを閲覧したことは「コロナ禍で更なる自転車の活用推進がうたわれる昨今であることから関連サイトを閲覧いたしました」としつつ、いずれの行為も「議事進行中であったことに鑑み、猛省しております」とした。

 スマホで健康商品のモニター登録をした山崎氏は「軽率であったと反省しております。今後、このような行動をとらぬよう、緊張感を持って自らを律して議員活動に専念してまいります」とコメントした。

 今村、岡田、井野の3議員からは期限までに回答がなかった。

国会のルールはどうなっている

 国会審議中に議員が娯楽小説などを読む行為は、衆参両院の各規則によって禁じられている。衆議院規則では215条で「議事中は参考のためにするものを除いては閲読してはならない」と規定。参議院規則も211条で「何人も、参考のためにするものの外は、議事中、閲読してはならない」と同様に規定している。逆に議事の参考になる新聞や書籍などの閲覧は認められており、審議中にこうした参考資料を熱心に読む議員もいる。

 スマホの使用については、両院の規則に規定はないものの、衆院では1996年の各党の申し合わせで「携帯電話の使用は禁止する。持ち込みについても、音が発しないように機能を停止する」とされている。ただ、スマホのない時代の取り決めのため、禁止されているのは「通話」と解釈され、審議中に音の出ない状態でウェブサイトを閲覧したり、メールや通信アプリを使ったりする議員が続出している。

 参院では95年の各党の申し合わせで「携帯電話の持ち込み」自体を禁じている。このため、審議中にスマホを見る議員は衆院と比べて少ないものの、それでもスマホを机の下に隠して見ている議員の姿は散見される。スマホいじりは、衆参とも事実上黙認されている状態だ。

言論の府である国会を空洞化

元参院事務局職員の武蔵勝宏・同志社大教授(政治学)の話

国会議員は国民を代表する存在で、法案の採決に参加するのだから、すべての国会審議をまじめに聞いてもらわねばならない。その意味で、審議中に娯楽小説を読んだり、スマホをいじったりする行為は、大きな問題だ。審議に集中しない議員が増えると、言論の府である国会審議の中身が空洞化してしまう。議員の質問に答える政府側も、議員が真剣に聞いていなかったら、きちんと説明しようなどと思わない。議場には緊張感が必要だ。議員はいいかげんな質問や答弁は許さないぞと真剣に耳を傾け、品性のあるヤジなら時には飛ばすぐらいがちょうどいい。今は質問内容を政府に事前通告するのが当たり前になっているから、出来レースのようになることが多い。それに加えて、娯楽小説やスマホを見ている議員ばっかりになったら、国会審議そのものをやる意味がなくなってしまう。

背景に構造的問題

 審議中の娯楽小説の読書やスマホいじりは、一義的には個々の議員の資質の問題だ。だが、各委員会で自民党議員による不適切な行為が目立つ背景には、国会運営の構造的な問題もある。まず、議員の数は与党の方が多いのに、質疑時間は野党の方に多く割り当てられることがある。これは自民党と社会党が対峙(たいじ)した「55年体制」が70年代になってなれ合いに変わる中で定着した慣習だ。与党は最終的には数の力で法案を通すが、野党の質疑時間を増やして見せ場を与え、妥協を引き出す。こうした国対政治が今も続いているため、自民党議員は質問する機会が少なく、委員会の成立に必要な定足数要員として座らされているだけになる。だからヒマなのだ。

 国会に提出される法案は、自民党の部会の事前審査で十分に議論され、了承もされているから、自民党議員には質問の必要がないとも言われるが、これは間違いだ。部会の多くは1、2時間で終わり、十分な議論はなされていない。審議に参加する自民党議員の多くは質問の機会もないから勉強もしない。法案の中身をよく知らないはずだ。そういう状態で質疑を聞いてもおもしろくない。だから、退屈して娯楽小説やスマホに手を伸ばす。近年はスマホの登場でモラル崩壊に拍車がかかっているのだろう。

国会改革が必要

 状況を改善するには、国会改革を進める必要がある。自民党議員にもっと質問の機会を与えて緊張感を持ってもらうことや、委員会成立に必要な定足数を減らして真剣に議論に参加できる議員だけに絞るなど、さまざまな取り組みを検討すべきだ。スマホについては、審議中に私用で使った場合、懲罰の対象にするなど厳しいルールが必要だ。残念だが、そうでもしなければ、議員のスマホいじりはなくならないだろう。


[写真-1]
衆院内閣委員会中に自身で持ち込んだタブレットを閲覧する平井卓也・前科学技術担当相。ワニが大蛇に襲われる動画などを約5分見続けた=2020年5月13日

[写真-2]
衆院内閣委員会中に堂々と小説を読む大西宏幸議員。本は戦記小説「皇国の守護者1 反逆の戦場」とみられ、約20分にわたって読み続けた=2020年5月13日

[写真-3]
衆院本会議中にスパイミステリー小説「戦場のアリス」を熟読する義家弘介副法相。採決の瞬間、慌てて本を閉じた=2020年6月10日

[写真-4]
衆院科学技術・イノベーション推進特別委員会で「家訓集」を熟読する今村雅弘元復興相。同書には「水戸黄門光圀卿示家臣条令」などが記載されている=2020年5月28日

[写真-5]
衆院沖縄及び北方問題に関する特別委員会中に「女帝 小池百合子」を約2時間読んだ井野俊郎議員。途中、ページを開いたまま同じ姿勢をとり続けた=2020年6月18日

[写真-6]
衆院原子力問題調査特別委員会中に、西村京太郎氏のトラベルミステリー小説「宮古行『快速リアス』殺人事件」のページを開いた福山守議員。取材に「もう二度としない」と反省の弁を述べた=2020年6月16日

[写真-7]
衆院経済産業委員会で「五代目三遊亭円楽 特選飛切まくら集」を熟読する吉川赳議員。読書の合間にスマートフォンで自転車通販サイトなども閲覧していた=2020年5月29日

[写真-8]
参院内閣委員会中に、サスペンス小説「生贄 私刑執行人」を熟読する岡田広・元副内閣相(手前)。周囲を気にしながら読み続けた=2020年6月4日

[写真-9]
衆院東日本大震災復興特別委員会中にスマートフォンを閲覧する山崎誠議員。この後、健康商品の無料モニター登録を始めた=2020年5月19日

[写真-10]
衆院決算行政監視委員会で「女帝 小池百合子」を読む野田聖子・元総務相。机の下に隠しつつ、同僚議員の質疑中も読みふけっていた=2020年6月1日

[写真-11]
衆院経済産業委員会中にスマートフォンで自転車通販サイトを閲覧する吉川赳議員=2020年5月29日

[写真-12]
衆院東日本大震災復興特別委員会中にスマートフォンを閲覧する山崎誠議員。この後、健康商品の無料モニター登録を始めた=2020年5月19日

[写真-13]
国会運営について詳しい元参院事務局職員の武蔵勝宏・同志社大教授(政治学)=京都市で2015年4月14日

毎日新聞、7月25日 12時24分
国会のモラル崩壊
「女帝」熟読、ワニ動画閲覧……
審議と無関係な行為横行

(大場弘行、松本惇)
https://mainichi.jp/articles/20200715/k00/00m/040/167000c

 国会議員の間で、審議とは関係のない娯楽小説を読んだり、スマートフォンで趣味のウェブサイトを見たりするなどのモラル違反が横行している背景に何があるのか。旧通商産業省(現経済産業省)出身で民主党参院議員時代に官房副長官も務めた松井孝治・慶応大教授が、「政」と「官」の両方の経験を踏まえながら分析し、改善策を提案した。
[聞き手・松本惇]
形式化した国会は「学級崩壊」状態

 与野党を問わず、議事とは関係のない新聞のスクラップや書類を持ち込んで読んでいる国会議員はとても多い。衆議院ではパソコンやタブレットの持ち込みが許されているため、委員会の審議中にユーチューブの映像を見たり、メールやSNS(交流サイト)への投稿をしたりする事例も存在するようだ。議員が、形式上は委員会に出席しながら、読書をしたり、スマホを見たりしているのは、国会の実質的「学級崩壊」を意味する。

「学級崩壊」が起こっている時、「遊具」の持ち込みを禁止することは対症療法にはなるが、タブレットやスマホは本来、情報や資料検索に有用ということで、与野党間で議論の上、持ち込みを許容することになった経緯もある。問題の根っこにあるのは、国会が非常に形式的で、実質的な討論の場になっていないことで、国会の議論の形式を根本的に変えることが一番の解決策だと思う。

定足数確保が目的 代理議員が聞いているだけのケースも

 国会がセレモニー化している要因の一つに「定足数」への厳格な考え方がある。議事を進めるために必要な出席議員数のことだ。海外では定足数に対する考え方が緩やかで、国会議員時代に視察した英国や豪州の議会では、出席している議員がきちんと討論を聞いているが、議場はガラガラなことが多かった。議場にいない議員は別の場所で人と会ったりしているが、採決の時にはベルが鳴って議場に戻ってくる。

 これに対し、日本では定足数割れすると審議がストップしてしまうから、国会運営を担う国対(国会対策委員会)役員の議員から「ちゃんと出ろよ」と言われる。テレビ中継がある場合に視聴者から苦情が来ることも考え、用事があってどうしても一定時間委員会を抜ける場合は、代理の議員を立てるほどだ。ある種の生真面目さだが、質問者は事前に決まっており、質問しない議員は、質問と政府側の答弁を聞くだけになっている。

与党議員は「事前審査」で満足

 国会の形式化に拍車を掛けているのは、与党における法案の「事前審査」だ。与党の議員は、党本部の会議室などで、法案が国会に提出される前に、官僚から事前に説明を受ける。そこでは侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が行われ、「あいつが言うなら、自分もこういう意見を言わなきゃ」ということで、白熱の討議の場になっており、スマホで暇つぶしする空気ではない。与党議員は、こうした事前審査を経た完成品を、今更国会で議論する必要はなく、国会の議論はある種の通過儀礼であり、必然的に興味は薄くならざるを得ない。

 一方、野党は法案の国会提出後に詳細を初めて知ることになるが、国会に出てくる前に与党で議論が終わっており、与党が過半数を占めている限り、何を言っても法案の中身は変わらない。野党に残された国会戦術は、少しでもメディアに取り上げてもらえるように、法案の中身よりも耳目を引くスキャンダルの追及に力を入れたり、法案の成立を遅らせて会期末に強行採決に持ち込んだりすることで、政府と与党の「強引な国会運営」を批判したりすることになっている。

 そんな与党の議員にとっては、定足数の問題もあって着席は求められるが、法案の中身は先刻承知の上、野党は法案と関係のない質問をしているため、聞いていてばかばかしいと思って、「内職」に走る。野党でも、自分の質問に関係がなく、中身も関心がないという議員は、同様に別のことをしている。政策通と言われる人も例外ではない。私も議員時代、儀礼的な本会議の委員長報告などの際に書類を持ち込んで読んだことはある。

閣僚のアドリブ答弁を嫌う官僚

 さらに、質問と答弁が事前に用意されていることも国会のセレモニー化につながっている。

 私は官僚時代、内閣官房の内閣参事官室で議員からの質問取りと答弁作成の割り振りの責任者をしていた。首相や大臣の答弁書の作成は、政治家側のリクエストだけで作っているわけではない。官僚にとっても、首相や大臣に自由に答弁をされると、法解釈や政策の重要な細部に齟齬(そご)をきたしたり、省庁間の取り決めを破ってしまったりすることになりかねないので大いに困る。だから、議員から質問を取って、答弁資料をつくり、首相や大臣にその通り話してもらう。

 政治主導は、政権を超えて与野党双方で進展しているのに、昭和の時代から続くこの慣習に、官僚は今、自縄自縛になっている。新型コロナウイルス対策でも、国会対応で本来業務が圧迫された厚生労働省の若手官僚から「コロナ対策に集中させてくれ」という悲鳴が上がったことが話題だが、いずこの官庁でも官僚の本音は同じだ。

 新型コロナの感染対策を話し合う専門家会議で議事録を作らないなど、後世に記録を残す姿勢が乏しいことも、安倍内閣に限らず歴代内閣の共通点だ。これには官僚が与党への事前説明や、国会答弁に労力を取られていることも影響している。官僚は優秀で、必ず克明に個人用のメモは取る。しかし、大臣へのレク(説明)、局長室での議論のようなものの議事メモを詳細に取り、後で内容を出席者でチェックして残すという手間をかけるには、日本の行政は忙しすぎる。公文書管理法よりも先に情報公開法が施行され、何でもかんでも全部公開されてしまったらかなわないという官僚の本音もあるけれど、文書をきちんと関係者の同意を取って残す手間をかける余裕を国会は行政に与えていないのだ。

 これまでの慣習を見直し、官僚が本来の仕事をきちんと行い、国民への説明責任を果たし、歴史の検証に耐えうるようにするためにも、閣僚や議員が官僚に依存せず、自由に討論できる国会にして、官僚たちは政策の調査分析や企画立案、国民への説明責任の整備に注力する必要がある。

「条文審査会」導入を 修正協議で与野党が責任を果たせ

 では、国会改革を進めるにはどうすればいいか。まず、定足数の要件をある程度緩和して、本当に議論を行い、そこに参画する議員が出席する、普通の国の議会に近づけるべきだ。そして、国会を実質的な討議の場にするため、与党における厳格な事前審査をやめ、与野党の修正協議を積極的に行うようにする必要がある。

 その際、重要なのは条文審査である。意外と知られていないことであるが、今の国会では、ほとんどの法案で、条文ごとの審議などは行っていない。法律の詳しい解釈は政省令や告示、さらには通達まで詳細に読み込まなければわからない。これらは、法律が成立した後に、担当の課長補佐が、法案を審査した内閣法制局とのやり取りなどを踏まえて政省令、告示、通達などを策定し、さらには逐条解説書などを出版することによって明らかにされるのである。

 無論、それらのプロセスを否定はしないものの、法案の立法趣旨を明らかにし、国民に伝えることこそ、立法府の本来の基本任務であると思う。定足数要件と与党の事前審査を緩めて、与野党の専門家が、役所の局長・課長を相手に法解釈を精査し、条文修正も視野に入れる「条文審査会」を導入してはいかがだろう。

 ドイツでは主要な議案で、必ず与野党による修正協議をしている。政策討議の本番が、自民党本部の会議室というのはいかにもおかしいのではないか。国会で与野党がよりよいものを求めて修正協議をすることになれば、そのベースとなる詳細な議論を、国会でするわけだから、「議論を聞く」「自らも議論に参画する」という意識を議員が共有せざるを得なくなるだろう。

 野党も、「国会で議論して自分たちが修正して最後はまとめるんだ」と考えれば、批判するだけではなく、緊張感を持つ。野党は現在、中途半端な修正協議をして合意してしまうと、「第2自民党」「補完勢力」「ゆ党(野<や>党と与<よ>党の間という意味)」と非難されるのが怖い。それを乗り越えられるよう、これだけの議論をして、こういう理由で修正したと説明できるようにしないといけない。地味かもしれないが、こうした議論を積み重ねることによって、与野党ともにも法案修正への責任が生じ、緊張感が高まるのではなかろうか。

 国会内での議論を活発化させるためには、もっと自由討議を増やすことも重要だ。党首討論はもとより、大臣とカウンターパートとなる野党議員との討論を定期的に行うべきである。さらには、対政府質疑でなく、与野党を超えて議員同士が、時には党議拘束を取り払って自由討議を行うことを定例化してはいかがだろうか。

 例えば、憲法審査会では自由討議を行っているが、「他の議員の質疑を聞いて、自分も発言してやろう」と思っているから、内職する議員は少ない。それが普通の議会、会議の姿だ。ヤジだって議論を聞いているから飛ばせるのだ。議論を邪魔するようなヤジはよくないが、内職をしている方が問題だろう。

 政治家が中身のある討論をしないから、国民も政治に関心がなくなる。政治家同士の自由闊達(かったつ)な討論を増やし、時間無制限の通年国会で、官僚に依存せず、徹底的に議論することが、国民の政治への関心も高める結果をもたらすだろう。

国会改革実現には「国対感覚」を見直せ

 国会改革の大きなハードルになっているのは、国会の「国対感覚」だ。小泉進次郎環境相が国会改革を呼び掛けたが、実現できたことは少ない。改革を求める自民党の若手議員と話すと、「国会改革の必要性は分かっているが、国会を仕切っているのは国対だから」という諦めのような弱音が聞こえる。

 国対は「体育会系」で、経験豊富なベテラン議員や党職員が仕切っていて、「国会は長年こうやって仕切ってきた。トウシロ(素人)が何を言っているんだ」と、書生論は相手にされない。でも、国会の現状は国民から愛想をつかされているわけで、玄人こそ裸の王様にならず、「トウシロ」の意見に耳を傾ける謙虚さを持つべきだ。

 野党の質問時間を確保して、彼らの見せ場を作り、昔のゴールデンタイムのプロレスに例えれば、60分3本勝負で、2本は野党に与えながら午後8時50分には予定通り苦闘の末、2本目のフォールを勝ち取り、原案通りに法案を可決するという、長く戦後日本の国会で受け継がれてきた伝統芸は、国民から愛想をつかされている。そうした「国対感覚」を見直す時期が到来しているのだ。

 自民党の国対委員長を長く務めた国対のプロ、大島理森・衆院議長は、2020年末に憲政史上最長の在任期間となる。国会対策の経緯や慣行を知り尽くした大島議長が、やはり「今の国会の機能と役割を見直すべき」と問題提起をしてくれれば、長い年月の間、封じ込められていたパンドラの箱が開く可能性がある。混乱も生じるかもしれないが、そこに日本政治の一筋の希望が見えるのではなかろうか。

※ 松井孝治(まつい・こうじ)
1960年、京都市生まれ。東京大卒。83年、旧通商産業省入省。94年から内閣官房に出向し、大臣官房総務課法令審査委員を経て、96年秋から橋本龍太郎首相の下で行政改革会議事務局調査員。2000年退官。01年から民主党参院議員。09年、鳩山由紀夫内閣の官房副長官就任。13年に政界を引退し、慶応大総合政策学部教授。19年、有志とともにシンクタンク・創発プラットフォームを設立。


[写真]
松井孝治・慶応大教授=東京都千代田区で2019年6月26日

[一覧表]
国会の本会議や委員会で確認された行為

毎日新聞、7月25日 17時32分
元官房副長官「国会は実質的『学級崩壊』状態だ」
改革拒む「パンドラの箱」とは

https://mainichi.jp/articles/20200720/k00/00m/010/149000c

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東京・お台場は「肥溜め」

 スポーツ選手の中には、今日2020年7月24日が東京2020オリンピック大会(東京五輪)に出場する最後のチャンスだったという人もいる。
 もう1年待つには年を取り過ぎていて体力がもたなかったり、経済的に苦し過ぎたりするからだ。

 その1人が35歳の外村哲也氏だ。
 今週、うだるように暑い日に、東京北郊の工場を改造した施設を訪ねると、彼は大きなトランポリンの上で高く飛んだり体を回転させたりして、まだ熱心に練習していた。

 外村氏は北京五輪(2008年)で4位となり、惜しくも銅メダルを逃した。
 その後はけがとの闘いが続き、ロンドン五輪(2012年)とリオ五輪(2016年)は出場がかなわなかった。
 東京五輪は有終の美を飾り、トランポリン選手生活に終止符を打つのに格好の、地元開催の大会になるはずだった。
 だが、もう1年先となると無理だ。

「2008年にもし北京五輪が1年延期されていたら、大丈夫、もう1年練習して成長しよう、と思っただろう」と彼は話す。
「でも今35歳だ。1年はとても長く感じる。そのため、引退が唯一の選択肢だと決心した」

 ただ、外村氏がトランポリンから下りることを決めたのには別の理由もある。
 東京2021五輪は開かれないのではないかと考えているのだ。

「本当にどうなるかわからない。開催の確率がどれくらいなのか、誰もわからない。来年になって中止となったら、1年を無駄にしてしまう。それも今、引退する理由だ」

 日本では、COVID-19(新型コロナウイルスの感染症)が1月に到来して以降、五輪への熱気は急激に冷めている。
 日本政府はほとんどの外国人の入国を禁止し、外国から新型ウイルスが持ち込まれるのを防いできた。
 多くの国民も、スポーツ選手や観客を迎えるために入国禁止を解くことにはためらいがちだ。

 外国選手団を受け入れる予定の自治体にテレビの取材が入り、住民の思いを聞いている。
 ブラジル選手団のホストタウンとなる、東京の北部にある自治体の住民らは、熱意を見せることさえ明らかに苦労していた。
 共同通信の世論調査では、COVID-19が来年も広がっていても五輪を「開催すべきだ」と答えた人は23%にとどまった。

 世界保健機関(WHO)の最新データからは、観戦を楽しむ状況も考えにくい。
 世界全体で1500万人以上の感染が確認されており、その人数は4〜5日ごとに100万人近く増えている。

 アメリカ、ブラジル、インド、南アフリカなど世界各地で、感染を抑える努力が失敗しており、感染者は急増している。
 もちろん、1年先までは長い時間があるように思える。
 しかし、多くの保健専門家らは、来年夏までにパンデミック(世界的流行)が収束するのは難しいと考えるようになっている。

 神戸大学病院の岩田健太郎教授は、東京五輪の開催はワクチン開発にかかっていると話す。

「もしワクチンが手に入るようになれば、状況は一変するだろう」と彼は言う。
「臨床試験のフェーズ1と2で有望な結果が出ている。私は希望を失ってはいない。しかし一般論として、ワクチンはウイルスを根絶せず、出現率をほぼ半減させるだけだ。そのため、COVID-19の根絶は無理だろう。むしろ(ワクチンができても)2021年も続くとみられる」

 岩田教授が特に懸念しているのが、世界で最もオリンピックに投資しているアメリカの状況だ。

「アメリカはこの先何カ月もCOVIDに苦しむ」と彼は言う。
「アメリカの選手たちは日本に来られるのか? アメリカ人抜きでオリンピックを開けるのか? おそらく無理だ。優先すべきは選手と日本の人たちの安全だ。アメリカのテレビ局には嫌な質問だろうが、オリンピックはスポーツの競技会なのか、それともテレビのショーなのか?」

 簡単な解決策と思える手がある。
 東京五輪を2022年までもう1年延期するのだ。
 パンデミックが消えている確率はずっと高まる。
 だが、日本政府はその可能性を排除している。
 国際オリンピック委員会(IOC)で最も長く委員を務めているディック・パウンド氏も、2021年に開くか中止かだと、カナダ・モントリオールの自宅から取材に答えた。

「いま明らかなのは2021年が最後のチャンスということだ」と彼は言う。
「2022年や2023年に延期できるものではない。これ以上、中ぶらりんの状態を日本に強いるのはフェアではない。選手を安全に迎えられるよう、五輪開催に向けてすべての努力を尽くす。だが、日本と世界の保健当局が、十分な安全は保てないとの結論に至ったら、おそらく、『仕方ない、パンデミックは新たな戦争だ』と言うしかないだろう」。

 これまでオリンピックが中止されたのは、第2次世界大戦が原因となった時だけだ。
 その大会は、そう、1940年の東京五輪だ。


 では、最後にもう1つ、案を示したい。
 五輪を大幅に簡素化するというもので、外国選手団は来日前に隔離を実施し、外国からの観客はなしにするのはどうだろう?

 IOCのディック・パウンド氏によれば、あり得ない考えだという。

「北米の表現で言えば、魚を釣るか餌を細かく切るか(どちらかはっきりさせる)だ」と彼は話す。
「日本には決断が求められるだろう。五輪の開催に踏み切るのか、それともリスクが大きすぎるのか? 後者の場合、おそらく日本が中止を提案し、IOCは受け入れることになるだろう」

 開会式まで1年となった23日夜、東京・国立競技場で、開始までの時を刻む時計をリセットする式典が開かれた。
 安倍晋三首相は東京五輪の開催を強く主張しているが、COVID-19はまず間違いなく、その言葉を聞いてはいないだろう。

※ 英語記事 Question mark over 2021 Tokyo Olympics


[写真-1]
東京五輪が再び、1年後に迫った。選手村にはフェンスが張られている

[写真-2]
外村哲也氏は引退が唯一の選択肢だと考えている

[写真-3]
外村哲也氏(右)は引退後、トランポリンの指導者として活動している

[写真-4]
ワクチンが開発されなければ東京五輪の開催は確実にはならないと関係者は心配している。写真は選手村付近

[写真-5]
東京五輪開幕までの時間を示す時計はリセットされた

BBC News Japan、2020年7月24日
東京五輪、2021年開催に疑問符
安全を確保できるか

(ルーパート・ウィングフィールド=ヘイズ、BBCニュース東京特派員)
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-53522738

「トイレみたいなにおいがする」――。
 東京五輪の水泳オープンウオータースイミングのテスト大会に参加した選手から衝撃的な発言が飛び出したのは昨夏のことだった。
 競技会場のお台場海浜公園は、海水から基準値超えの大腸菌が検出され“肥溜め”とまで揶揄されたが、あれから1年。
 コロナ禍がなければ、2020年7月24日は東京五輪の開会式のはずだった。
 水質は改善したのだろうか。

 今、SNSで注目を集めているのが、都の下水道局がアピールする「水面制御装置」だ。
 下水道局の公式ツイッターは16日、同装置について、〈下水道から河川などへ放流されるゴミの流出を抑制するために開発した特許技術です〉とのコメントと共に、装置が作動する動画をアップしている。
 30秒間の動画の再生回数は実に70万回超に上る。

 同ツイートには、〈これでオリンピックのうんこプールが奇麗になるってこと?〉〈川とかも奇麗になるかな〉といった水質改善に関するコメントが投稿されている。
 都議会関係者も「お台場の水質浄化が可能なのか」と沸き立った。

 ところが、下水道局によると、装置は新技術ではなく2002年から都内の下水道に設置済みで、ゴミの除去はできるが、水質改善には効果がないという。

 現状、「クサい」と声が上がった昨夏から、お台場の水質はほとんど改善していない。
 予定通り、五輪開催を迎えていたら、選手らは“肥溜め”の中を泳がされることになっていたわけだから、1年の延期は不幸中の幸いとも言えよう。

海にコロナウイルスが残留する危険も

 果たして、来年の大会本番までに水質改善できるのか。
 都は昨年9月から、オリンピック・パラリンピック準備局や下水道局など複数局で連携し、“肥溜め”浄化対策を進めている。
 においの原因である海底のヘドロの巻き上げ防止のため、伊豆諸島の神津島の砂をまいたり、下水の放流口周囲にネットを張って海へゴミが流入するのを防ぐ措置を取ってきた。

 東京港の水質問題を調査し続け、昨夏、お台場の水質について問題提起した港区議会議員の榎本茂氏はこうみる。

「根本的な水質改善は難しい状況です。砂の散布については、海中の有害物質の分解には一定の効果があるでしょう。しかし、実験用の水槽でテストしたところ、いくら砂をまいても海底に沈殿するヘドロは巻き上がってしまう。下水放流口のネットも、放出される水量が多すぎて『壁』の役割を果たせていません」

 怖いのは、目下、拡大中の新型コロナウイルスが、感染者の糞尿に残留し、下水道を通じて海に放出されている恐れがあることだ。
 下水道局は〈WHOは「感染者の糞便から新型コロナウイルスに感染するリスクは低い」と公表しており、下水からの感染リスクは低いものと考えられます〉と公式HPで主張しているが、不安は払拭し切れていない。

「下水道局は『リスクは低い』とは言いますが、『感染しない』とは言い切れないわけです。そんな状態で選手に泳いでもらえるでしょうか。この際、大会の開催・中止にかかわらず、今回の問題をきっかけに東京港の水質改善に正面から取り組むべきです。50年くらいかかる可能性もありますが、現状の『間に合わせ』の対策では将来に禍根を残すことになるでしょう」
(榎本茂氏)

 “肥溜め”じゃなくなる日は来るのか。


[写真-1]
選手は命がけだ(2019年東京五輪水泳オープンウォータースイミングのテスト大会

[写真-2]
下水放流口から汚水が…

日刊ゲンダイ、2020/07/25 06:00
東京五輪OWS会場お台場は“肥溜め”……
1年延期でも浄化不能

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/276400

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「夜の街」と名指しされた歌舞伎町

映画『新宿タイガー』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=Q4IJib3sQ10

新宿の近代史を目撃せよ!ドキュメンタリー映画『新宿タイガー』初日舞台挨拶
https://www.youtube.com/watch?v=OHYbN1aXVk8

 タイガーマスクのお面にまっピンクのアフロヘア、極彩色の服、多数のぬいぐるみや造花……。
 新宿を歩いていると、そんなカオスな出で立ちの人物を見かけることがある。
 新宿で虎のお面を被り続けて45年、通称「新宿タイガー」だ。

 その正体は、原田吉郎さん(71)。
 職業は新聞配達員。
 朝日新聞新宿東ステーション(ASA大久保)に勤め、今なお朝・夕の新聞配達を毎日行っている。
 担当エリアは新宿三丁目界隈だ。

夜はタイガーのいでたちでゴールデン街へ

 新宿タイガーには、大の映画好きという顔もある。
 仕事が休みの日や、夕刊がない日曜を中心に映画館へ通い、1日に3〜4本はしごすることも珍しくない。
 劇場で座る席は「映画におもいっきり没入できるから」という理由で最前列の中央と決めている。

 夜は毎晩のように新宿ゴールデン街へ飲みに出る。
 仕事休みが火曜なので、月曜夜は朝方まで飲むことも少なくないという。
 新聞配達も、映画鑑賞も、ゴールデン街も、電車も、外出はすべてタイガーの装いで行う。

 そんなタイガーの勇姿を比較的見かけやすいのは、朝刊を配る早朝、夕刊を配る15〜17時くらいの新宿三丁目付近と、夜のゴールデン街だ。
 今では「新宿タイガーを見るといいことがある」「一緒に写真を撮ると幸せになれる」といった都市伝説もあるほどで、ついにこの3月、彼を追ったドキュメンタリー映画も公開される。

 それにしても、このスタイルを45年間続けるというのは、並大抵のエネルギーではない。
 デコラティブな衣装の総重量は10キロほどもあり、取材当日も部屋のドアを通ったり、着席したり、階段を上ったりするだけでも相当に難儀そうだった。
 これを半世紀近くも続けるというのは、言葉は悪いが狂気すら感じさせる。

 そもそも、なぜ新宿タイガーになろうと思ったのだろうか。

 タイガーの出身は長野県松本市波田地区。
 実家は養蚕農家だった。
 生年は1948年で、現在71歳。
 タイガーは幼少時代をこう振り返る。

「田んぼの中にある藁葺き屋根の一軒家で幼少を過ごしました。当時はお祭りのときに夜空の下でいろんな映画を無料で観せてくれました。それはそれは楽しみでしたね。だから祭りから祭りへと観に行っていました。あと当時はテレビが始まったばかりでまだ白黒でしたが、月光仮面や白馬童子、まぼろし探偵、快傑ハリマオ、豹(ジャガー)の眼なんかがヒーローでしたね」

タイガーマスクのお面を30枚すべて買った

 中学卒業後、地元の梓川高校に進学。
 3年生のときに競歩大会で優勝するほどの健脚の持ち主だった。
 そして卒業後に上京。
 練馬区の江古田駅界隈で読売新聞の新聞奨学生として配達をしながら、大東文化大学に通った。
 ところが大学は2年で中退。
 そのまま新聞販売所に就職した後、現在も所属する新宿の朝日新聞の販売所に移籍。
 担当は新宿三丁目地区。
 その後、タイガー誕生となる契機が訪れる。

「歌舞伎町にある稲荷鬼王神社のお祭りで、いろいろなお面が50枚ズラーッと並んでいたんです。その中にあったタイガーマスクのお面を見て『これだ!』と直感で感じました。あるだけすべての30枚を買い、それを今もストックしています。だからずっとタイガーをやれているんです。もともと変身願望はありましたが、新宿三丁目という昔ながらのロマンと大繁華街がみごとに調和したすばらしい舞台とお面という2つが組み合わさらなければ、新宿タイガーは生まれませんでした。当時は新宿三丁目からコマ劇場まで、自転車で飛行機乗り(足を後ろに投げ出して体と地面が水平になる乗り方)で、ノンストップで行くこともありました」

 以降、新宿に“怪人”がいると、多くのテレビ、雑誌で取り上げられるようになる。
 ドラマや映画に出演することもあった。
 ただ、人から罵声を浴びせられたり、酔っぱらいにからまれたり、殴られる・蹴られるといった暴力を受けることもあった。
 勤め先や朝日新聞本社からも、はじめは「その格好で配達はどうなのか」と、いい顔はされなかったが、愚直に続けることで次第に容認されていったという。

 とはいえ、やはり気になるのは原田さんがタイガーとなるまでに、いったい何があったのかだ。
 しかしそのことに話を向けると「直感に理由なんてないんです」といった返答となり、すぐに別の話に移ってしまう。
 前述のドキュメンタリー映画の中で、タイガーの親友で俳優の久保新二氏がこう話す場面がある。

「タイガーの実家は大きな家で財産持ちなんだ。(中略)でも『俺は新宿で好きなことをやって生きていくから、何かあっても帰れないよ。家のことは任せるよ』と言って新宿に来ているんだよ」

 実家の家族については、タイガー本人もこう語っている。

「つい最近、父と母が亡くなって、弁護士を通じていくつもの銀行口座に残された財産をどうするか聞かれましたが、弟(すでに他界)の嫁にあげてしまいました。お金には一切固執しない。だから自由なんです」

人生はシネマと美女、酒と夢とロマン

 タイガーは常々、新宿タイガーでい続けることについて「世の中にラブ&ピースを届けるため」「人生はシネマと美女、酒と夢とロマン」と語っているが、特に美女の部分が大きな原動力の1つとなっているようだ。

 タイガーは映画好きとこの風貌が相まって、俳優や映画監督の知り合いが多いが、ドキュメンタリー映画では女優・宮下今日子をはじめ美女とゴールデン街で飲み明かすシーンがいくつもある。
 取材時もタイガーは自身のスマホを取り出し、最近飲んだという数多くの美女たちの写真を見せてくれた。

「こうやってシネマと美女がちゃーんと実写となって目の前に現れる。こういう夢があるからこそ『人生は虎で始まり、虎で終わる』なんですよ。でもどんなに好きな人が目の前に現れても、夢とロマンでいいんです。それ以上望んじゃダメ。そんなの望んだこともありません」

 ドキュメンタリー映画中にはこんな印象的な場面もあった。
 タイガーが、最も好きな映画で過去に15回も劇場で観たという『ローマの休日』を映画館の最前列で観ているシーンだ。
 マスクを外したタイガーは、あんぐりと口を開け、にっこり笑いながらスクリーンに魅入られている。
 年齢は違えど、名作『ニュー・シネマ・パラダイス』に登場するあの子どもと同じような、汚れのまったくない顔がそこにあった。

「なぜタイガーかというと、虎はジャングルの王だからです。何があっても負けないし、ブレない。権力や名誉には一切興味がない。俺は人間と動物が共存した存在だけど、自然を破壊する人間より、野生でいる動物の味方だね」

 タイガーに変身することは、不純な精神と決別し、ありのままのピュアな姿で生きるという決意表明なのかもしれない。
 それは見る人によってはアートであり、生涯をかけたパフォーマンスだ。
 機会があればぜひ一度実物を見て、その生々しい姿を体感してもらいたい。
 見れば本当にいいことがありそうだ。


[写真-1]
新宿三丁目を中心に新聞配達を続けている「新宿タイガー」。一見怖そうだが、実際は気さくで喋り出したら止まらない。仮面の下の素顔もよく見せている。持ち物や装飾品は季節によって変えている。現れるときはラジカセからテーマソングが流れる

[写真-2]
『新宿タイガー』は3月22日からテアトル新宿にてレイトショー公開ほか是国で順次公開予定

[写真-3]
「新宿が大好き」という新宿タイガーは、近年訪日外国人からも人気。これからも新聞配達を続けるつもりだ

[写真-4]
大の映画好きで映画の話になると、本当に止まらない。好きな女優はオードリ・ヘプバーン、マリリン・モンロー、そしてエリザベス・テイラー、イングリッド・バーグマンと美女揃い

東洋経済 Online、2019/03/20 5:40
新宿を「虎のお面」で新聞配達する71歳の正体
新宿タイガーが45年間も変身し続ける理由

(田嶋 章博、ライター・編集者)
https://toyokeizai.net/articles/-/271774

アジア最大級の歓楽街、新宿・歌舞伎町。
東京オリンピック・パラリンピックを前に再開発が進むこの街に、NHKのディレクターが潜入しました。
「ラストトーキョー “はぐれ者”たちの新宿・歌舞伎町」は、歌舞伎町のほど近くで45年、新宿で一番古い麻雀店を営むディレクターの母親の姿を中心に、この街で出会った人々の人生や、変化の波にさらされる様子を約2年にわたって記録したセルフドキュメンタリーです。
柚木映絵ディレクターに番組を企画した理由や、歌舞伎町で撮影をして何を感じたのかを聞きました。

「歌舞伎町には絶対に入るな」

── この番組を企画した経緯と自身のお母様を取材した理由を教えてください。

柚木: 私は新宿の近くで生まれ育ちました。母は新宿で45年間麻雀店を営んでいるので、私にとっての新宿・歌舞伎町は“母が生きてきた場所”です(※)。同時に幼いころから「歌舞伎町には絶対入るな」と母からキツく言われ、遠ざけられてきたところでもありました。ただ、NHKのディレクターとして働きはじめたころから、実は母の店って題材としておもしろいんじゃないかなと思うところはありました。
 母は、新宿・歌舞伎町が再開発で変わりつつあることを嘆き、平成が終わる2019年4月末で店を閉めると言い出したのです。それで、“これはいまこそ歌舞伎町に入るべきでは?”と思ったんです。

── どれぐらいの期間、撮影をされたのでしょうか?

柚木: 2017年冬からスタートし、今年の7月上旬までです。スマートフォンを使って自宅でも撮影していました。だからテレビに映せないような格好をしていたり……(笑)。でも、娘の私だから聞けること、撮れたものもあったと思います。

── 番組にはお母様とともに、柚木ディレクター自身も登場しますね。カメラの前に立つことに抵抗はありませんでしたか?

柚木: ふつうはあると思うんですけど、ディレクターという職業柄、私は人をメディアにさらす立場じゃないですか。だからもし、自分が出る必要があるならば出たほうがいいとずっと感じていました。テレビを見ていて「これはいったい誰の目線で語っているのかな?」と疑問を抱くことも多々あったので、未熟でもいいし、間違ってもいいから、ディレクター自身の目線や言葉のほうが伝わるものがあると考えたからです。これはいわゆるセルフドキュメンタリーと呼ばれる手法ですが、実は海外では、若手はまずセルフドキュメンタリーから作り始めるそうです。

 “いま”を生きている人びと
── 実際に歌舞伎町に足を踏み入れ、感じたことは?

柚木: 母が歌舞伎町を語るとき、「毒の持つ美しさ」という言葉がよく出てきます。悲喜こもごも合わせ、良いも悪いもごった煮ゆえの美しさ。確かに、狭くて古くて汚い部分もたくさん見ました。でもなぜか、それがなくなるかもしれない思うと、何とも言えない気分になりましたね。その言語化できないモヤモヤは一体なんなのか。比較的貧困層が暮らす地域が、再開発によって高級化し、しばしばもともといた人々を追いやってしまう現象をジェントリフィケーション(Gentrification)というそうです。番組では、その言葉を入り口にしつつ、母との会話や出会った人々との出会い、変わりゆく街の姿を通じて、そこを探っていきます。

── 撮影前に想像していた歌舞伎町と、実際の印象に違いはありましたか?

柚木: これまでは「飲んだくれ」や「ヤクザ」がたくさんいるんだろうなと思っていました。ところが、いまはエンターテインメントシティでわりとクリーン! 子ども連れや外国人観光客もたくさんいますし、意外と怖いものが見えてこなかった。こちらがお金や愛欲など、何らかの強い「欲」を持っていない限りは、きっと何も起こらないのでは? という感想を持ちました。
 それから、“人付き合いの街”ということもあわせて痛感しましたね。メールや電話ではなく、生身の人とのやりとりが大切な街です。取材も直接行って話をすれば通る場合が多かったり、母が長年知っているからこそお話してくださる方も多かったり、そこにいることが大事なのだなと。歌舞伎町って意外と狭いので、みんなお互いに顔を知っている。だから一人でも違う人間がいると、すぐわかるんですよね。

── 撮影中のエピソードを教えてください。

柚木: 2年近く撮影をしていたので、本当にたくさんの方々と出会いました。歌舞伎町でカメラをまわしていると、だいたい誰かが「何の番組?」なんて話しかけてくれます。「NHKのドキュメンタリーです」と返すと「そうなんだ、このカメラって種類は?」、「飲みに行こうよ」とか(笑)。ある日、放送日を聞かれてお伝えしたら、冗談を交えながら「1か月以上先だと“シャバ”にいるか、わかんねーわ」と言われたこともありました。良くも悪くも刹那的でいまを生きているのだなと思いましたね。いましか考えられないぐらい、切羽詰まっているとも言えるのかもしれません。

── 特に印象に残った人は?

柚木:「歌舞伎町俳句一家・屍派」という、夜な夜な歌舞伎町で俳句を詠み歩く集団のリーダー・北大路翼さんは強烈でした。北大路さんはプロの俳人で、彼がその場にいるとやかましくて、デタラメな空気が自然とできあがってくる。もちろん良い意味で、です。お話をしているとなんでも受け入れてくれるような、器の大きさを感じました。

“はぐれ者たち”の最後の牙城・歌舞伎町
── この番組の取材を通して、お母様との関係に変化はありましたか?

柚木: 母とは過去のことを含め、いろいろなことを話しました。今までは「お母さん、新宿で生き抜いてきてすごい!絶対にかなわない…」という風に思っていたんですよ。それがコンプレックスでもあった。だけど話していくうちに、自分との違いがよく見えてきました。尊敬は変わらないけれど、母には母の人生があって、私にも私なりの人生があると思えるようになりました。

「新宿の地下には主(ぬし)が住んでいて、人々の足音を食べて生きている」って、母はいまでも言うんですね。取材を通じてそれもなんだかわかりました。時空も超えたような摩訶不思議(まかふしぎ)な空間なんですよ、本当に。撮影を終えて街を出たとき、「あれ、私はどこに行ってたんだっけ?」と浦島太郎の気分になることもありました(笑)。

── 最後に視聴者へメッセージをお願いします!
柚木:「ラストトーキョー “はぐれ者”たちの新宿・歌舞伎町」いうタイトルには、“はぐれ者たち”の最後の牙城であろう新宿・歌舞伎町は、東京で昔ながらの何かが残っている最後の場所…という思いを込めました。
 放送時間が99分と長い番組なので、それぞれのスタイルで楽しんでいただければと思います。私の母と年齢が近い方は、親の目線で子育てについて考えるかもしれませんし、「あぁこの逡巡(しゅんじゅん)わかるなぁ」と感じられるかもしれません。逆に私と同年代の30代前半の方や、それより若い世代の方々は、もしかすると私と同じく、自分への物足りなさやむなしさ、何かが欠けているかも…というモヤモヤを抱えているかもしれません。そういう方が少しでもスッキリしたり、ちょっとでも前向きになれたりしたら幸いです。この番組を通じて、“何か”を得てもらえたらうれしいです。


[写真-1]
柚木ディレクターと、母・佳江さん

[写真-2]
北大路さん(中央)と屍派のみなさん

NHK、2019.07.22
変わりゆく歌舞伎町を記録したセルフドキュメンタリー
2019年7月28日(日)[BS1]第一部 後9:00〜9:50、第二部 後10:00〜10:49
https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=19538

(※)NHK総合、2020年7月25日(土)午後6:05〜午後6:35(30分)
新宿で一番古い麻雀店を45年にわたり経営している番組ディレクターの母。新型コロナの感染拡大で店は開店休業状態に。もう閉店するしか道はないのか、何十年も共に働いた従業員はどうなるのか…… ある夜母は家族を前にして決断を語った!何とか生き延びようと奔走する経営者の4ヶ月に娘であるディレクターが密着。思わず弱音をこぼし涙する母、毅然(きぜん)とした態度で決断を告げる母…… 日記形式で記録したセルフドキュメンタリー。

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2020年07月25日

弁護士木村真実先生「日野・子どもと家族法律事務所」

「選挙結果で注目すべきはこちらの票ではなく、清水陣営の得票数だ」
「今後、共闘を支えている共産党がさらに力を発揮したら…」
東京都日野市区での都議補選(2020年7月5日投票)の結果について、東京の自民党地方議員はこう述べます。
市民と野党の共闘の“威力”に警戒感を強めています。

立民・大河原氏「本気度を見て」

 同区で立憲民主党、社民党、新社会党が野党統一候補として応援した日本共産党公認の清水とし子候補は3万5034票を獲得。
 同市区での共産党得票で史上最多となり、昨年の参院比例での立民、社民、共産の得票合計票(2万8267票)を約7000票も上回る、強い共闘効果が現れた結果となりました。

 日野市区での投票率は56.5%(前回49.6%)まで上昇。
 終盤、「数ポイント差まで迫っている」との情報も流れ、自民党陣営は菅義偉官房長官はじめ、萩生田光一文科相、河野太郎防衛相ら現役閣僚、閣僚経験者を次々に投入。
「共産党だけには負けられない」と国政選挙なみの支援を強めました。

 これに対し、清水候補は商店街などから幅広く声を集め、論戦で都のコロナ対策を正面からただし、人口20万人の同市で廃止された保健所の復活、少人数学級の実現が急務だと主張しました。

 清水候補の陣営を大きく励ましたのが、2015年の安保法制=戦争法反対運動の中で結成された日野市民連合のメンバーが中心となった「市民選対」の取り組みと、立憲民主党・衆院東京21区(日野市、立川市など)の責任者の大河原まさこ衆院議員の支援でした。

 選挙戦全体を通じて清水候補を応援した大河原氏は、「相手の共産党批判は追い詰めている証拠」「市議18年つとめた清水さんを、あと一押しして送り出そう。市民の底力を見せつけよう」と声を枯らし、こん身の訴えを続けました。
 同氏は最終日、共産党選対の求めに応じ、菅直人元首相の応援を要請。
 菅氏は日野、高幡不動、豊田の3駅前で訴えました。

「これが野党共闘の姿です。野党の本気度を見てください」

 大河原氏のこの訴えは、日野市区での都議補選を象徴するものでした。

「市民選対」奮闘 かつてない支持

「市民選対」は、独自に事務所や宣伝カーを手配するとともに、ビラや選挙はがきの作成に関わるなど、市民の自主性を尊重しました。
「市民選対」からは「こんなに自由に選挙ができるなんて」という感想も語られ、市民と各政党が横並びで共闘する姿を見た有権者から「こんなにたくさんの市民や政党が応援しているのか」との声が上がるなど、これまでにない支持が広がりました。

 選挙をふり返りながら大河原氏が、「清水さんは人に寄り添う活動を長年されてきた方だと感じた」と語れば、清水氏は「大河原さんの学生時代の学費値上げ反対の活動などを知って、昔からの仲間のように親近感が増した」と述べるように、お互いの信頼は日増しに深まり、共闘全体に力を与えました。

「市民選対」メンバーの木村真実弁護士は、「頑張る市民をさらに元気づける共闘ぶりだった」と語り、無所属の有賀精一日野市議は「立民と共産が互いに『ここでしっかり共闘をつくる』という意志の合致がはっきり見えた。
 権力総動員の相手陣営に負けない力強さだった」と称賛しました。

 選挙終盤に差し掛かった6月28日の共産党と党後援会の決起集会では感動を呼ぶ場面が生まれました。
 大河原氏は冒頭のあいさつの後も、最後まで参加。
 参加者からは「最後まで参加してくれて率直に驚いた。選挙情勢を共有し、大河原さんが清水候補を『(立民の)公認候補のように応援する』といった通りの行動だった」と語られました。

新自由主義決別 大きな流れ形成

 今後の総選挙に向け何が重要か―。

 清水氏は、「こんなに気持ちのいい共闘ができるのだとわかった」と述べ、大義の旗を鮮明にして市民と野党が一体で選挙をたたかう意義を語ります。

 有賀市議は、「都知事選で『自己責任から連帯の社会へ』と訴えた宇都宮さんの応援で主要野党がまとまり、『新自由主義からの決別』という大きな流れがつくられている」と強調。

 木村弁護士は「日野の都議補選での市民と野党の共闘の“財産”を21区全体で共有していきたい」と語ります。

 大河原氏は「次の総選挙は安倍政権をひっくり返す選挙。市民と野党の共同が引き続き重要です」と語ります。

 市民と野党の本気の共闘が、「自公共闘」の背中をはっきりととらえた。
 次は逆転へ―。
 関係者には決意と気迫がみなぎっています。

※ 2020年7月21日付「しんぶん赤旗」より


日本共産党東京都委員会
[都議補選・日野市区]
自民議員も注目すべきは統一候補の票
野党共闘威力 深まる信頼

(日隈広志記者)
https://www.jcp-tokyo.net/2020/0721/115643/

いじめや不登校などについて、弁護士が学校に助言する「スクールロイヤー」が各地の自治体に設置されるようになった。
外部の法律専門家の目で問題を検証してもらい、子供たちにとってよりよい解決を図る制度だ。
2020年に導入した八王子市で、初代のスクールロイヤーになった弁護士の木村真実さん(49)に制度の運用や目標を聞いた。

―― どんな制度なのですか。

木村: 学校が抱える問題に、法律的立場から助言を与えて問題を解決することが目的です。学校側の弁護士ではなく、あくまで中立的な立場からアドバイスをしていきます。既に港区など複数の自治体がこの制度を持っています。

―― スクールロイヤーになったいきさつを教えてください。

木村: 弁護士資格を取ってから日野市の法律事務所に所属して、刑事、民事などさまざまな事件を扱ってきました。刑事事件に興味がありましたが、子供の問題にも関心がありました。その中で20年近く子供の虐待などの家族の問題や子供のための電話相談への法的アドバイス、児童相談所の顧問弁護士などを経験しました。そうした経験を見た、八王子市に依頼されました。

―― 弁護士の立場から見て、組織としての今の学校現場はどのように見えるのでしょうか?

木村: いじめに関しては、「いじめ防止対策推進法」が制定されています。だが、法律的な規定があるにもかかわらず、学校現場には「法律よりも教育の問題」との雰囲気がまだあります。そのため、いじめに対する「評価」が、保護者らとずれてしまう。ここに問題が発生してくると感じます。

―― 実際に働く先生たちはどのように見えますか。

木村: 現場の教員は基本的に真面目な人が多いと思います。「うまくできなければいけない」と思い込み、問題にかえって対応できなくなることもあります。本来の学習だけではなく、生活指導まで細かい要求があり、忙しすぎると感じます。

―― そんな現場にスクールロイヤーとして、どのような姿勢で臨みますか。

木村: 弁護士という職業は目の前にいる人、被告人や依頼者の味方をする「味方業」です。スクールロイヤーに相談に来るのは校長ら学校関係者です。学校で起こる事件で、裁判をすれば法律的に学校側が勝てる事件もあります。
 しかし、それでは問題に巻き込まれた児童・生徒にとっては解決にならないかもしれない。その意味でスクールロイヤーは、子供と保護者、学校の話をよく聞いて問題を解決するソーシャルワーカー的な視点が必要だと思います。
 これまでの弁護士活動を通じて、学校はまだまだ「閉ざされた社会」であり、そこでうまく生きられない子供もいることを見てきました。スクールロイヤーという別の視点があることで、学校自体が変わり、学校が子供にとって、より生活しやすい場所になればいいと思います。

[記者の一言]
 いじめ、自殺など子供を巡る事件を多く取材してきた。
 その時、感じたのは学校は間違ってはいけないという「権威維持」の雰囲気だ。
 木村さんのスクールロイヤーとしての活動が、そこに風穴を開けてくれることを期待したい。

[人物略歴]木村真実(きむら・まさみ)さん
 埼玉県三郷市出身。中央大卒。日野市役所に勤務した後、1998年に司法試験に合格して弁護士に。日野市民法律事務所を経て「日野・子どもと家族法律事務所」設立。第二東京弁護士会所属。趣味は幅広く本を読むこと。家族は妻と3人の子供。


[写真]

毎日新聞・地方版、2020年4月15日 
[だいあろ〜ぐ・東京彩人記/東京]
生活しやすい学校に
八王子市・初代スクールロイヤー 木村真実さん(49)
 
(黒川将光)
https://mainichi.jp/articles/20200415/ddl/k13/040/010000c

 昨年入団しました木村真実(まさみ)と言います。
 僕が生まれた当時白鳥事件の支援をしていた母が、どなたかが言った「真実は一つだ」という言葉に感動し、子どもの名前にしたと聞いたことがあります(本人に確認したところ覚えていませんでした)。

 登録15年目で入団した、「遅れてきた新人」なので、ご挨拶は遠慮したいと申し出たのですが、せっかくの機会だからという事務局の言葉に甘えて自己紹介をさせていただきます。

 埼玉県に生まれ、平和学の研究者になることを志して大学では国際政治のゼミにいました。
 勉強をさぼって研究者になることをあきらめ、大学の近くの市役所に就職しました。
 しかし、市役所でも仕事ができずに半年で辞めることにしたのですが、その際、課長に「司法試験を受けます」と大見得を切ってしまいました。
 アルバイトをしながら5年間受験生活を送り、53期司法修習(浦和、弁護修習は埼玉東部法律事務所)を経て2000年から日野市民法律事務所に在籍しています(現在は事務所代表ということになっており、売り上げも気にする立場です)。

 家族は、学生時代に結婚式を挙げ、一緒に仕事を辞めてしまった同業の連れ合いと3人の子どもがいます。
 同期の笹山団員に倣って言えば、分担割合は僕の主観的には6:4、連れ合いの主観的には3:1くらいでしょうか。

 修習中から刑事事件と子どもの事件に関心があり、登録と同時に同期と取り組んだ痴漢冤罪事件を始め否認事件、裁判員事件を含む刑事事件を多くやってきました。
 現在は触法障がい者の地域での支援に関心を持っています。
 また、少年事件や子どもの福祉に関する事件にも積極的に取り組んできたつもりで、現在は子どもの貧困に関心があります。
 弁護士会多摩支部でも、刑事弁護員会、子どもの権利に関する委員会を中心に活動してきました(現在は憲法プロジェクトチームにも参加しています)。

 弁護団事件では、登録当初から取り組む道路の事業認可取消事件が3件目(圏央道あきる野事件では取消が認められました)、登録3年目から10年間取り組んだ七生養護学校事件や日の丸君が代事件などの教育裁判、現在取り組んでいる国立などの住民訴訟事件等に参加してきました。

 最近は、離婚、成年後見や相続財産管理など家事事件の割合が増えていましたが、昨年から甲府の病院の仕事を事務所の窪田弁護士から引き継ぎ、新境地に挑戦しています。

 運動面では、2007年から3年間生活の中心だった「Live!憲法ミュージカルinさんたま」が忘れられません(2017年5月の再演が決まっています)。

 自分の原点である憲法と平和が危うい今、先輩方に学び、若手に刺激を受けつつ、自分なりにできることを模索していきたいと思います。

 どうぞよろしくお願いします。


自由法曹団東京支部
新入団員の紹介
入団のご挨拶
日野市民法律事務所 木村 真実
http://www.jlaf-tokyo.jp/danin_katsudo/shinnyu/160408shoukai.html

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都知事選で見えた「レイシズムの浸透」

 悪意と敵意をたっぷり含んだ怒声が響き渡る。

「多くの人を殺したのは他でもない、ここにいる”支那人”なんですよ」

 それが政治団体「日本第一党」党首・桜井誠氏の第一声だった。

 6月18日、都知事選告示日である。
 同選挙に立候補した桜井氏が最初の街頭演説先として選んだのは中国大使館前(東京都港区)だった。

 中国人の蔑称である「支那人」を連呼し、さらには新型コロナ肺炎を「武漢肺炎」と言い換え、聞くに堪えないヘイト街宣は続く。

 特定の地域や民族に対する偏見を防ぐために、世界保健機関(WHO)がウイルスの呼称に国名や地名などを付けることは避けるといったガイドラインを定めていることなど、彼にとってはどうでもよいのだろう。

 そもそも──桜井誠氏はかつて差別者集団「在日特権を許さない市民の会」を足場に、ヘイトスピーチを繰り返してきた人物だ。
「殺してやるから出て来い」「皆殺しにしてやる」と在日コリアンの集住地域や朝鮮大学の門前で声を張り上げてきた。
 外国人に向けた悪罵や差別扇動に、何の躊躇もあるわけがない。

 「”支那人”は10万円を渡したら簡単に人を殺すんです」と根拠不明な持論を叫び、大使館から出てきた公用車に「”支那人”のそこのねえちゃん、答えてみいや」と怒鳴りつける。

 話題が「尖閣問題」に移ると、なぜか沖縄県の玉城デニー知事がやり玉に挙げられた。

「”支那”が送り込んだ工作員」

 民族差別。
 女性に対する侮蔑。
 デマと偏見。
 この日の街宣には、ヘイトスピーチを構成するに不可欠な要素がほとんど詰まっていた。

 支援者が撮影した当日の動画は、「日本第一党」の公式サイトをはじめ、動画共有サイトでも公開されている。
 多くの人が目にしたことだろう。

 そしてこの桜井氏に、東京都の有権者のうち約18万人が票を投じたのである。
 しかも前回(2016年)の都知事選立候補時よりも得票数は1.5倍、約6万票も増えた。

「恐怖でしかない」

 私の周囲では、在日コリアンの多くがそう口を揃えた。

 外国籍住民の排除や殺害を公然と口にしてきた人物に、これだけの支持が集まったのだ。
 ヘイトの矛先を向けられる当事者が「恐怖」を感じるのは当然だろう。

 ヘイトスピーチは人間の尊厳、存在を否定し、地域や社会をも破壊していくものだ。
 当事者ならずとも、刃物で体の一部を撫でられるような戦慄にじわじわと襲われる。

 もちろん桜井氏の得票は、約366万票を獲得し2期連続当選を果たした小池百合子氏には遠く及ばない。
 過去の極右候補と比較しても、たとえば14年の都知事選で元航空幕僚長・田母神俊雄氏が集めた約60万票を大きく下回る。
 そうしたことから、桜井氏に批判的なスタンスを取る人たちのなかからも、”躍進”を過大に評価すべきではないといった見方があるのも事実だ。

 だが、ここはヘイトの被害者の立場から想像してほしい。

 18万票なる数字は、東京都の有権者数(約1100万人)の61人に1人を集めたことになる。
 東京都心部で環状運転を行っているJR山手線を例にしよう。
 同線車両の1両につき備え付けられた座席は60。
 つまり、電車に乗って座席がすべて埋まっていれば、そのうちの1人は桜井氏に投票したと考えてもおかしくない。
 ラッシュ時ともなれば、その数は2倍、3倍にも増える。
 ソーシャルディスタンスを保つこともできない空間に、レイシストが潜んでいるかもしれない、いや、レイシストに囲まれているかもしれないという「恐怖」。
 ただの苦痛や嫌悪とは違う。
「殺戮」に賛同しているかもしれない相手を想像することが、どれほどまでに戦慄を呼び起こすものなのか、脅威を与えるものなのか、そして社会に深い亀裂を強いるものなのか。
 日常の風景から色彩を奪い取られる怖さは、だれであっても理解できよう。

 都知事選を終えた直後から、私は国内外のいくつかのメディアから「18万票」について「なぜ」を問うたうえでのコメントを求められた。

 さまざまな事象が複雑に絡み合う選挙戦について、誰もがはたと膝を打ち、瞬時に疑問が解けるような分析は、私にはできない。
 これまで取材を重ねてきた差別の風景ばかりがよみがえり、事実の重たさを前にして、口ごもってしまうばかりだ。

日本第一党が用いたアピール方法

 「18万票」を導いた、いくつかの要素を挙げることはできる。

 今回、桜井氏は「都民税ゼロ」の主張を前面に掲げ、排外主義的主張は抑制した。
 政見放送でも「武漢肺炎」なる文言を繰り返しつつ、コロナ禍における不安や不満に焦点を当てた。
 これによって、桜井氏が何者であるかを知らず、新手の”改革者”だと受け止めただけの人がいたことも確かだろう。

 実際、冒頭に記したようなヘイト街宣は、告示日以外はほとんどおこなわれていない。

 選挙戦は感染への配慮を理由に、ネットを舞台におこなわれた。
 桜井氏はこれを「バーチャル街宣」と呼称し、演説を収めた動画を配信した。

 主要候補者のみにスポットを当てるマスコミ報道に懐疑的な一部ネットユーザーなどが(たとえ桜井氏のすべての主張に共感しなくとも)、反マスコミの意思表示として一票を投じたことも考えられる。

 とはいえ、どれほどコロナに先行きの不安を感じ、「都民税ゼロ」に共感したところで、「支那人」「武漢肺炎」を連呼する桜井氏に違和感を持たなかったとすれば、レイシストへの加担を指摘されても仕方ないのではないか。

 洋の東西を問わず、レイシスト政治家はレイシズムだけを主張して支持を広げ、議席を獲得してきたわけではない。
 ときに貧困政策を訴え、ときに労働者階級のために雇用問題に言及し、そして”外敵”の存在を示唆して脅威を煽りながら、社会にナショナルな空気と排外主義を充填してきた。
 ときに「リベラル」を自称する側をも取り込み、「一点突破全面展開」や「改革」の幻想を与え続けてきた。

 さまざまな形で排他と同調圧力を炙り出しているコロナ禍において、桜井氏の訴えが、より広範囲に受け入れられたのは間違いないだろう。

 当の桜井氏も選挙後、供託金没収の枠内にとどまっても、「メディアの鼻を明かした」「ざまあみさらせ。とことん笑ってやる」と”敗戦”に落ち込む様子は見せない。
 むしろ「18万票」は彼にとって成功体験として記憶されることになろう。

 レイシズムに対して正面から全否定できない社会の一部の脆弱さが露呈したともいえる。

 だからこそこれまで取材でヘイトの現場を目の当たりにしてきた私は悔しいし、憤りを感じているし、この先の流れに警戒している。

 実際、地方議会では「日本第一党」党員が議席を有すケースもあれば、同党所属でなくとも、排外主義の扇動者が議員となる事例も見られる。

 差別の本質は「対立」や「分断」ではなく、「加害と被害」だ。
 被害者を量産していくような動きに対し、断固たる「NO」を突き付けていく必要があると私は思っている。

 一方、都知事選の「問題」は桜井氏の票数に収斂されるわけではない。

 排外主義に絞っていえば、実は私が「18万票」と同じくらい恐怖に感じたのは、小池百合子氏の「366万票」である。

小池百合子もレイシズムに加担している

 これまで私が小池氏に対して言及してきたのは、毎年、東京都墨田区の横網町公園で営まれてきた朝鮮人虐殺犠牲者の追悼式典に、17年以降、追悼文送付を取りやめたという問題である。
 70年代から歴代都知事が送付してきた追悼文の送付(「三国人発言」なる差別発言で知られる元知事の石原慎太郎氏でさえ送付してきた!)は、小池氏によって断ち切られた。

 小池氏はこれまで送付取りやめについて次のように述べてきた。

「(関東大震災という)大きな災害があり、それに付随した形で、国籍を問わずお亡くなりになった」

「関東大震災で亡くなったすべての方々に哀悼の意を表したい。特別な形での追悼文を提出するということは控えさせていただく」

 震災の被害者を追悼するのは当然だ。
 一方、虐殺の犠牲者は「震災の被害者」ではない。
 震災を生き延びたにもかかわらず、人の手によって殺(あや)められた人びとだ。
 まるで事情が違う。
「すべての方々」というのは、なんとも粗雑な括り方ではないか。

 しかも「付随」なる表現で、朝鮮人虐殺をまるで震災と抱き合わせであるかのように論じているのだ。
 たとえ震災の混乱下で起きたこととはいえ、朝鮮人虐殺は天災死に従属させてよいものではない。
 まさに人災を天災のなかに閉じ込めようとしたものだ。

 都知事選において、この問題は必ずしも大きな争点とはならなかった。

 だが、マイノリティ虐殺という忌まわしき史実をまるでなかったことであるかのように、あるいは極度に軽視した物言いは、レイシズムと通底する。

 小池氏が心底、虐殺否定の論調に同意しているのか、それとも排外的な空気を読んだうえでの戦略なのかは不明だ。
 しかしどちらにしても深刻な被害がネグレクトされた事実は変わらない。

 これは首長の姿勢として大問題ではないのか。
 許されるのか。

 そして──こうした小池氏が圧倒的な「強さ」を誇る東京。

 絶望しているわけではない。
「変える」力があることを、ぜひともこれからの「1票」で表したいと思うのだ。
 被害を生み続ける社会は、ごめんだ。


wezzy、2020.07.24 10:00
都知事選で見えた「レイシズムの浸透」と抗う
差別のない社会をつくるために必要なこと

(安田浩一)
https://wezz-y.com/archives/79400

posted by fom_club at 10:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

歩く旅、スペインのサンティアゴまでの巡礼路

Scala & Kolacny Brothers: With or Without You
https://www.youtube.com/watch?v=1g5D8DOe77k

カミーノ ドキュメンタリー・予告編
https://www.youtube.com/watch?v=cnl4ZHHd0EY

「聖なる巡礼路を行く 〜カミーノ・デ・サンティアゴ 1500km〜」
 今日、NHK BSプレミアムで「聖なる巡礼路を行く 〜カミーノ・デ・サンティアゴ 1500km〜」という番組が放送されていた。

 全三回放送のこのシリーズは、1ヶ月ほど前すでにBS8Kの高画質でヨーロッパの大地、青空、草花、石垣、教会、巡礼路を美しい色合いそのままに視聴者に届けていたらしい。
 反響があったことからBSプレミアムで放送、初回が本日だった。
 フランス国内の Le Puy-en-Velay(ルピュイオンバレー)から Saint-Jean-Pied-de-Port(サンジャンピエドポー)のいわゆるルピュイの道が第一回目。
 フランス Saint-Jean-Pied-de-Portからピレネー山脈を超えてスペインに入境し北スペインの都市を経て Santiago de compostela(サンティアゴデコンポステラ)へたどり着くフランス人の道が第二回、三回と続く。

* * *
「なぜあなたは巡礼をするのですか?」

 この質問はたびたび巡礼者に問いかけられる。
 番組冒頭でも同様の光景は映し出された。
 なぜ、どうして、そんな大変なことを。
 バスや電車を使えばサンティアゴデコンポステラにすぐにたどり着くものを、歩くことで達成しようとする動機はなんなのか。
 道の存在意義、あなたの歩く意味はなにか。
 逐一言葉で確認する。
 価値をひとに代弁させる。

 わたしもその質問は他の巡礼者にたくさん尋ねられたし、何度も同じことを問われるわけで回答は簡潔かつシンプルになり、上手いこと単純化されることとなった。
 だから番組の撮影クルーにインタビューをされてもきっと、採用されないくらいつまらないものだっただろう。
「ただ単純に歩くのが好きだったから。次の予定まで1ヶ月近く時間が空いていたから。楽しい経験をしたかったから。いつかは歩いてみたいと思っていたから。」

* * *
 クリスチャンでも信心深い人間でもない。
 それでもさまざまな国から訪れ、たまたま同じ日に同じ時間顔を合わせて、話をするという奇跡を体感する日々。
 偶然性の面白さは歩いて徐々に気づき始める。

 実際、歩く理由はもっと奥深く底の、自分自身でも知らないところにあったのだろう。
 なにか人生のなかで損ねたものがあり、それを取り戻すための必要な過程、あるいはこの先の人生の伏線をあえて作っていたとか。
 この先、生き続けることで結論に出会えるかもわからないし、出会わないまま命を終えるのかもしれない。
 今の時点ではなにひとつ歩いたことの意義や意味の核心に触れたと断言できない。
 答えを知るのはこれからね、とも思っている。
 そう言えるほど曖昧で不明瞭だ。
 サンジャンピエドポーからサンティアゴまで800kmを歩いた動機。
 失くしてしまったのです。
 何をどこで失くしたのかも知らないまま 両手がポケットをまさぐり 道へと出向いていったのです。
 石と石と石とが果てしなくつらなり 道は石垣をたばさんで延びていきます。
 垣根は鉄の扉を堅く閉ざし 道の上に長い影を垂らして
 道は朝から夕暮れへと 夕暮れから明けがたへと通じています。
 石垣を手さぐっては涙ぐみ 見上げれば空は気恥ずかしいぐらい青いのです。
 ひと株の草もないこの道を歩いていくのは 垣根の向こうに私が居残っているためであり、
 私が生きているのは、ただ、失くしたものを
 探さねばならないからです。
(「道」 尹東柱著・金時鐘編訳)

* * *
 道の途中の些細な記憶を思い返すと、幸せな出来事、自然の美しさ、あたたかなひととの出会い、美味しかった食事が脳内にあふれんばかりに浮かび、幸福はしっかりと明確にかつ手に取るように感じられる。
 できることなら再び経験したい、サンティアゴへ向かうあの時間をもう一度感じたい。

 巡礼はなにも遠い世界のはなしではなく、特別なひとにしかできないことではなくて、すぐそばにある道。
 誰にでも門扉は開かれている。
 今日の放送でサンティアゴへの道を歩いたときのことを思い出したので、ここにしたためておく。

[参考]『尹東柱詩集 空と風と星と詩』(岩波文庫)
http://www.kageshobo.com/main/books/inochinosijinyundonju.html


note、2020/05/27 00:09
巡礼路、大地を踏みしめて歩いたことの確かな記憶。
(yumihinoue)
https://note.com/chunco/n/n012f997d5fa4

聖ヤコブの遺骸がまつられた地

 スペインの北西部のガリシア地方に位置するサンティアゴ・デ・コンポステーラ。813年に、十二使徒の1人である聖ヤコブの遺骸(いがい)が発見されたことによりキリスト教の聖地となりました。中世には地の果てであったここサンティアゴ・デ・コンポステーラへ、ヨーロッパ各地から多くの信者たちが巡礼しました。今も巡礼者や観光客が絶えません。

 サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す巡礼路のうちスペイン国内の部分は、世界文化遺産に登録されています。

 人口約9万6000人と大都市ではありませんが、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂や堂々とした建造物の数々を見ると、重要な聖地であることを実感します。

 サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道は、アラゴン・ルート、フランス・ルート、そのほか、この連載に書いたオンダリビアからスペインの海岸線を通る海岸ルート(北ルート)、ポルトガル・ルート、イギリス・ルートなどがあり、カトリック教会にとっては、エルサレムやローマに比肩するほどの巡礼地となりました。

課外授業の子供たちにも会う

 スペイン各地から、社会見学や課外授業で子供たちが訪れていました。引率教師の1人、インマさんは「『ネットを見れば何でもわかる』と生徒たちは思いがちですが、実際に見学して気づくことがあるようで、巡礼とは、信仰とは何なのか考えているようです」と満足げです。

 聖ヤコブにはホタテ貝がつきものです。巡礼の道の道しるべにもホタテ貝のマークが描かれています。興味深いのはドイツ語でホタテ貝をヤコブの貝(Jakobsmuschel)とか、巡礼者の貝(Pilgermuschel)と言うことです。聖ヤコブ、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼と、ホタテ貝が結び付いています。

美しいパラドールでホタテ料理を

 大聖堂のすぐ近くにはパラドール(国営ホテル)があります。ここは15世紀末から巡礼者の宿泊所となり、今は伝統的で最も美しいパラドールとされ、巡礼者だけでなく観光客にも人気があります。とても目立つ建物です。

 パラドールのレストランで食事をしました。前菜にホタテ貝を注文。日本で食べるホタテ貝よりも多少大ぶりで、ムッチリとした食感があります。イクラが乗って、パプリカの香りのソースでおいしい一品です。

 メインのお魚は大西洋のスズキだそうで、ここから海へ出ると大西洋に至るのだと改めて納得。エビとムール貝のうまみがしっかりと出ており、味わい深い魚料理です。

 翌朝回廊を歩くと、ひっそりと静かで清い空気が流れ、内省的な気持ちになりました。
 聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラに至るいくつもの巡礼ルートには、のどかな田園風景や小さな村、修道院や教会などがあります。巡礼の旅は、必ずや自分自身を見つめ直す機会にもなったのだろうと思いをはせました。
 自分の生き方を見つめ直すために、たとえ数日でも巡礼の旅に出ようかと思いながら回廊を巡りました。


朝日新聞 Travel、2019.10.07
シンボルはホタテ貝
巡礼の聖地、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ

(相原恭子、文・写真)
https://www.asahi.com/and_travel/20191007/146258/

 1993年にユネスコの世界文化遺産に登録されたスペインのサンティアゴ巡礼(正式名「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路:カミノ・フランセスとスペイン北部の道」)は、主にフランス各地からピレネー山脈を経由して、スペイン北部に通じ、キリスト教の三大聖地のひとつ、サンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう巡礼路である。

 十二使徒のひとりでスペインの守護聖人、聖ヤコブの墓があるとされ、1000年以上の歴史のある約800kmの街道は、20世紀に入ると巡礼者の数が減り、廃れていた。ところが、21世紀になると、右肩上がりで増えているという。しかも、キリスト教圏の人たちだけでなく、韓国や台湾などアジアの人たちも見かけるほど、巡礼者の国籍も多様化している。歩くだけでなく、自転車で巡礼路を走る人たちも現れたという。

※ サンティアゴ巡礼者数の推移
1972年:67人⇒ 2002年:6万8952人⇒ 2012年:19万2488人⇒2018年:32万7328人⇒ 2021年(予想):46万4000人
(出典:スペインガリシア州公認観光ガイド「オトラスペイン」)

歩くことで人と出会う

 なぜ21世紀に入って巡礼者が増えたのだろうか。また、現代の巡礼者とはどのような人たちなのか。
 フリー編集者の鈴木章弘さんは、これまでサンティアゴ巡礼に5回出かけたという。彼は自分が何度も巡礼を続ける理由について「巡礼路を歩くのが楽しいから」と話す。「なぜなら、歩くことで人と出会うから。歩くことには多くの効用があり、創造性を高めるにもっともシンプルで安上がりな方法といえる」という。
 鈴木さんの旅の装備は、身の回りの品を入れたわずか4.7kgのバックパックと貴重品入りのショルダーバックだけだ。1日の歩行距離は日によって違うが、15〜40km。使うお金も、宿泊代5〜15ユーロ、食事・飲み物代10〜30ユーロ(1ユーロ=約116円)。「歩くことが第一義の旅なので、必要最小限度の装備と費用で十分」なのだという。「これは自分が特別質素なのではなく、多くの巡礼者も同じ」らしい。
 なぜ鈴木さんはこのような旅が「楽しい」というのだろう。彼はこう話す。

現代の旅は、交通や宿のアレンジが基本的に必要で、何時までにどこに移動しなければならないなど、時間が縛られる。もし誰かと出会っても、時間通りに移動しなければならないなら、せっかくの出会いをふいにしなければならず、これほど残念なことはない。でも、歩く旅なら、急ぐ必要はない。それが巡礼の旅の醍醐味なのです

 旅の本質は、人と出会うことにあり、それを実現する方法は「歩く旅」にあるというのだ。こうした思いは、現代の多くの巡礼者に共通するものだという。

予約なしで泊まれるスペインの巡礼宿

 とはいえ、今日のサンティアゴ巡礼の事情を知らない人には、鈴木さんの話はなかなか理解しにくいかもしれない。彼はそれが「楽しい」理由について、こう話す。

「巡礼者はどのような場所に泊まっていると思いますか。サンティアゴ巡礼路には、彼らを支える宿泊システムがあります」

 鈴木さんの説明によると、スペインで「アルベルゲ」と呼ばれる巡礼宿の運営主体は、市町村や州政府など公的なものと修道院や教会、巡礼者協会、支援団体など、そして個人やNPO法人が経営するものがある。宿泊料金は2タイプあり、1泊5〜15ユーロ程度に設定されている宿と、任意の寄付に頼るものもある。
 一般に、巡礼宿は大部屋(2人から90人以上の場合も)で、男女の区別はない。宿泊には「クレデンシャル」と呼ばれる巡礼手帳が必要で、連泊は基本的にできないことになっている。

 これらの宿のルールとして、公営アルベルゲは予約不可で、早く着いた順に泊れる。朝8〜10時までに出発しなければならない。「ホスピタレイロ」と呼ばれる管理人が常駐しているとは限らず、ボランティアスタッフであることも多い。また、寝具やタオルなどは自分で用意し、キッチンで自炊ができる。
 一般のホテルとは違い、民営の場合も営利を主たる目的とはしておらず、宿泊側も「お客さま」という意識ではなく、「泊めさせてもらう」という意識が必要だ。世界中から集まる巡礼者との出会いと人間的な交流の場となっていることが、最大の特徴だという。

「スペインの巡礼宿は予約なしで泊れるから、道中で魅力的な人物と出会ったとき、別れを惜しむことなく、自由に旅程を変えることができる。これがどれほど価値のあることか」と鈴木さんは語る。

 鈴木さんの話は「人はなぜ旅をするのか」という問いかけに対するひとつの回答といえるだろう。
 さらにいうと、日本を訪れる多くの外国人、とりわけ中山道の街道を歩くようなウォーカーたちは、実際にサンティアゴ巡礼の経験があるなしに関わらず、こうした旅の醍醐味を理解している人たちだというべきだろう。だとしたら、受け入れる側も、その意味を理解しておかないと、彼らをガッカリさせることになるのではないだろうか。

住人との語らいも旅の思い出

 これまで「歩く旅」の魅力を旅人の側からみてきたが、街道沿いの住人にとってはどうだろう。鈴木さんはこう話す。

その後、私は四国のお遍路も歩くようになりましたが、そこではスペイン同様、旅人同士の出会いがあるだけではなく、地元のご老人に声をかけられて、話す機会が増えました。彼らは道端に所在なく立っていたり、ぼんやり座り込んでいて、話しかけられるのを待っているようなのです。彼らはお遍路さんと話をしたいのだと思いました

 お遍路や旧街道はたいてい過疎化の進む地方の町である。そこに現れる街道ウォーカーの存在は、地元の老人にとって大切な話し相手というのである。これは地域の活性化を目指すインバウンドの観点からみて貴重な出来事といえまいか。
 実は、筆者も今回、同じような体験をした。馬籠峠を越える手前の街道で、ひとりのおばあさんに声をかけられたのだ。見ず知らずの自分に「コーヒーでも飲んでいきなさい」という。桃の節句の時期だったので、彼女の家にはきれいな雛飾りがあった。
 そのとき、ふと思ったのは、先ほど追い越したカナダ人の夫婦のことだ。彼らに雛飾りを見せてあげてはどうか。しばらくすると、彼らが来たので、おばあさんの家に呼ぶことにした。彼らは雛飾りとおばあさんの写真を撮って喜んでいた。おばあさんもしばし自分語りを始め、筆者はそれを通訳した。

 玄関から半身を出し、街道をじっと眺めていたおばあさんが望んでいたであろうことに自分なりに応えられてよかったと思ったものである。カナダ人夫婦にとっても、ひとつの思い出になったとしたら、うれしいものである。こうしたことが起こりうるのも「歩く旅」ならではの魅力と感じたのだった。

「歩く旅」を支えるシステムづくり

 こうした「歩く旅」の魅力を広く伝えるために、街道ウォーカーのコミュニティ「みちびと」を設立したのが、街道コンシェルジュの渡辺マサヲさんだ。

 彼はJICA職員として海外各地の地域コミュニティ開発や研修員受入れ、人材育成事業に携わってきたが、2004年頃から日本の旧街道を歩く旅を始めた。

「これまで私は世界の途上国を訪れ、それなりに強烈な体験もしてきましたが、もっと本質的な旅をしてみたいと思うようになりました。それを突き詰めて考えると、歩く旅ということでした」

 中山道をはじめとした旧街道で「歩く旅」のプロデュースを始めた渡辺さんは「江戸時代のように、各地の街道を旅人が往来する光景を再現することが夢」と語っている。
 外国人の街道ウォーカーが増えたことで、すでに馬籠と妻籠間の街道沿いに新しいサービスがいくつも誕生している。たとえば、休憩スポットにおけるWi-Fiコーナーや手荷物運搬サービスだ。案内所から案内所まで荷物を運んでもらうことで、身軽になって街道ウォークを楽しんでもらおうというものである。

 数百kmの道のりを数十日かけて歩くサンティアゴ巡礼とは同じではないけれど、中山道は歴史と自然を同時に体感できるという意味で、国内でも貴重な「歩く旅」を外国人観光客に提供できる観光インフラといえるだろう。こうした街道ウォーカーを支えるシステムづくりをさらに街道沿線に拡大していけないか。

 前述の鈴木さんは、21世紀になってサンティアゴ巡礼者が増えた理由について「人の価値観が『モノを得る喜び』から『精神的な充実感による喜び』へと移りつつあることのひとつの証ではないか」と話している。

 新型コロナウイルスの拡大で今年の日本のインバウンドは想像以上に大きな停滞を迫られるのだろう。だが、こういうときこそ、インバウンドの本質をふまえ、これまでのあり方を見直すいい機会ではないだろうか。


やまとごころ JP、2020.03.24
スペインのサンティアゴ巡礼路から学べること
世界的トレンド「歩く旅」の魅力を探る

https://www.yamatogokoro.jp/report/37568/

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2020年07月24日

京成八幡駅前「大黒屋」閉店

 ヤッホーくんのこのブログ、10年前の2010年04月14日付け日記「深川図書館(続)」をお読みください。
 山歩クラブでも訪れて、「荷風セット」を注文した「京成八幡」駅前のお店、「大黒屋」は2017年に閉店しておりました。
 なんとヤッホーくん、閉店を今日になって知りました!
 今日は、幻の東京オリンピック開会式で「スポーツの日」でしたね、これまでの「体育の日」を改称した初年度にあたる日!

 わがままなひとり暮らしを貫いた作家、永井荷風は、37歳から79歳の死の直前まで日記の名作「断腸亭日乗」を書き続けた。
 日記をたどると、豊かな孤独を究めながら、社会の行方にも鋭い観察眼を注いでいたことが分かる。
 現代は1人世帯が全世帯の3分の1を超える「おひとりさまの時代」。
 孤立した単身者が増え、社会全体の問題解決能力は低下しがちだ。
 今こそ、ひとり暮らしの達人の日記をバイブルにしたい。

散歩で養った鋭い観察眼

 日記のタイトルの「断腸亭」とは、当初住んでいた東京・新宿区余丁町(よちょうまち)の自宅書斎のことだ。書斎前の庭に、断腸花とも呼ばれる秋海棠(しゅうかいどう)が植えられていたことに由来する。「日乗」は日記のこと。
 岩波書店刊の「断腸亭日乗」全7巻は1917(大正6)年9月16日から亡くなる前日の1959(昭和34)年4月29日までの日記を掲載している。全巻にじっくり目を通す。舌を巻くのは散歩中の観察眼の鋭さだ。その目は自然や風俗、人間そのものにも向けられる。

 例えば月。

「半輪の月佳なり。明石町溝渠の景北壽(北壽は江戸時代の浮世絵師)が浮繪を見るが如し」(大正8年8月7日)。
「此夜初更の頃より空晴れ二十日頃の片割月静に暗黒の街を照したり」(昭和8年8月10日)。
「月明水の如く風露肅●(二の字点)暮秋の如し」(昭和8年9月6日)。
「四日の月冴えて鎌の如し」(昭和11年1月27日)。
「一天拭ふが如く既望(十六夜の意)の明月吾妻橋の眞上に在り。漫歩押上に至り電車に乗る」(昭和24年10月7日)。
 それぞれが一編の詩のような表現で楽しませてくれる。

 散歩で養った観察眼は1945(昭和20)年、米軍の空襲で麻布(現在の住居表示では六本木1丁目)の自宅(偏奇館)が炎上したときも冷静さを失わない。

「三月九日、天氣快晴、夜半空襲あり、翌曉四時わが偏奇館燒亡す、火は初長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽(たちまち)市兵衛町二丁目表通りに延燒す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の●(くちへんに斗)ぶ聲のたゞならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり、谷町邊にも火の手の上るを見る、又遠く北方の空にも火光の反映するあり、火星は烈風に舞ひ紛●(二の字点)として庭上に落つ」
(途中を略し、続けると)
「時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人●(二の字点)を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出で溜池の方へと逃しやりぬ、余は山谷町の横町より靈南坂上に出で西班牙(すぺいん)公使館側の空地に憩ふ、下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る」

 地下鉄南北線「六本木一丁目」駅の3番出口から道源寺坂を上る。左側に建つ西光寺や道源寺の境内は、往時の面影を残す。右側は対照的に高層ビルが並び、その面影を打ち消す。坂を上り詰めたところで右に折れ、泉ガーデンタワーの東側にある偏奇館跡の碑の前に立つ。持参した日記のコピーを読む。東京大空襲の情景が脳裏に浮かびあがる。荷風の観察力と筆力に改めて感じ入った。

 荷風は生前、親しかった毎日新聞記者、小門勝二に散歩と日記の効用について語っていた。

「ぼくは歩くことが好きですよ。いろいろなところを歩きますぜ。心がけて終電車に乗るのもそのためなんですよ。世の中を知り、人の様子を見る。それを材料に日記を書く。日記を書いていると、時の流れが予見されてくるんですよ」
(小門勝二著「永井荷風の生涯」冬樹社)

 なるほどね、日記に書き込むために、鋭い観察眼を光らせていたんだな。

 1937(昭和12)年8月24日にはこう記している。

「花川戸の公園に至り見れば深更に近きにも係らず若き男女の相携へて歩めるもの多し。皆近鄰のものらしく見ゆ。余この頃東京住民の生活を見るに、彼等は其生活について相應に満足と喜悦とを覺ゆるものゝ如く、軍國政治に對しても更に不安を抱かず、戦爭についても更に恐怖せず、寧(むしろ)これを喜べるが如き●況(●は爿へんに犬)なり

 社会に背を向けているようで、実のところは戦争へと傾く社会に危機感を募らせる。日記の達人は日本社会の予見者でもあったのだ。

世間体気にせず豊かな孤独


「ひとり暮らしのわがままな作家」

 荷風には、そんなイメージが付きまとう。だが、彼の日記には、ひとり世帯が全世帯の3分の1を超える「おひとりさまの時代」、手本にすべきヒントがたくさん隠されている。

 1912(大正元)年、32歳で材木商の娘、ヨネと結婚し、翌年離婚。
 次の年には芸者の八重次と再婚するも、1年も持たない。
 35歳以降、独身を貫いた。

 ひとり暮らしの住まいは、初めは新宿区余丁町、大正9年(20年)から25年間、港区六本木1丁目、昭和23年(48年)から死去するまでの11年間が千葉県市川市菅野と同市八幡だった。

 1918(大正7)年1月7日の日記には、庭に飛来した山鳩に自分を重ねてつづる。

「世の常の鳩には似ず其性偏屈にて群に離れ孤立することを好むものと覺し。何ぞ我が生涯に似たるの甚しきや」

 1933(昭和8)年11月11日には「もてあます西瓜一つやひとり者」という句を示しながらも「わたくしの『獨身』は畢竟(ひっきょう)わたくしが書齏に閉籠(とじこも)つてゐる時の間だけで、一度門外に出れば、忽(たちまち)一變して多妻主義者になると申しても差閊(さしつかえ)はない」と、多彩な女性関係をほのめかす。

 人嫌いと見られているけれど、偏奇館時代は、気の合う仲間と夜な夜な銀座などで食事をし、文学の師と仰ぐ森鴎外の遺族とは温かい交流を重ねる。

「夜銀座ふじあいすに夕餉(ゆうげ)を食す。安藤千香歌川酒泉の四氏に逢ふ」
(昭和12年9月13日)
「小堀四郎氏過日其夫人(鴎外の二女、杏奴(あんぬ))と共に來訪の際わが家炭火の乏しきを見て近き中(うち)炭俵を送るべしと言はれしが、果してその如く、今日の午後豪徳寺畔の家より遠路をいとはず炭俵を自轉車に積み訪(と)ひ來れり。深情謝するに辭(ことば)なし。氏の親切にてことしの冬はこゞゑずに過すことを得べし」
(昭和18年1月21日)

 小堀四郎・杏奴夫妻の息子で訪問診療医の鴎一郎さん(82)は当時5歳。
「そのころ世田谷区内の自宅を訪ねて来た荷風に、姉と一緒に挨拶をしたら、とても丁寧な挨拶を返されました」

 市川時代は、もっぱら午後は浅草に足を運び、ストリップ劇場の踊り子たちと談笑した。

「午後淺草ロツク座樂屋」
(昭和23年11月23日)

 当時、ロック座を経営していたのが東洋興業。現在の会長、松倉久幸さん(84)は初めて荷風がロック座を訪ねて来たときの光景を覚えている。

「よれよれの背広を着た眼鏡のじいさんがチョコレートやビスケットの入った袋を手に持ち、踊り子に渡したい、と言う。先代の父親が先生の顔を知っていたので楽屋に案内した。以来、楽屋に通うようになったんですね」

 楽屋の隅に座ってニコニコして、踊り子たちと一緒によく食事に出かけていた。たまに男のコメディアンがついて行くと、途中で「お前は呼んでいない」と突き返されていた。男には冷淡な荷風の一面を松倉さんは披露する。

「一月元旦。晴。正午淺草。飯田屋に●(しょくへんに卞=はん)す」(昭和33年1月1日)

 浅草のどじょう鍋店飯田屋の店主、飯田龍生さん(68)は、当時6歳。そのときの様子を記憶している。

「元旦は店を閉めていたのに、ドンドンと戸をたたく人がいる。先生でした。母がすぐ戸を開け、いつもの日本酒1合、ぬた、柳川鍋のセットを準備しました。とても喜んでくれて、家族と一緒の記念写真にもおさまってくれました」

 自宅では、街娼や売春宿から仕入れたネタで小説を書く。フランスの作家、アンドレ・ジードの自叙伝を読む。社会の行く末を案じる。午後は浅草に行く途中、錦糸町でフランス映画を見る――。日記からは、決して孤立しない「豊かな孤独」が浮かび上がる。
 支えるのは独自のおひとりさま哲学だ。

 哲学その1は「世間の目を気にしない」。
 彼ほど世間から悪口をたたかれた作家はいない。「わがまま」「ケチ」「フランス人気取り」などあげたらきりがない。

「悪口なんていうのは低劣な興味しか持てない人のいうことだと考えて、きかないことにすればいいんですよ」

 親しかった新聞記者、小門勝二は「永井荷風の生涯」に永井語録を記録する。

 その2は「よく眠る」。
「仕事をするか、本を読むか、そのどっちにも気が向かないときは寝てしまうに限る。そういうときに寝ることが出来ないようじゃ孤独を押し通す生活に成功することは出来ませんぜ。寝るコツは、あした外へ出たら、どこへ行って何を食べようか――まずそういうことを考えりゃいいんですよ」
(同書)

 その3は「物を減らす」。
「物が多すぎるから心はうわのそらになっちまう。物がなくても生活出来るという自信を持つことが必要ですよ」
(同書)

 おひとりさまの先達、荷風は1959年4月30日未明、自宅でだれにみとられることなく、本人の希望通り、ぽっくり息を引き取った。かたわらには森鴎外著「渋江抽斎」が初めから4分の1ほどのページを開いた状態で置かれていた。79歳、死因は胃潰瘍だった。
 市川市八幡の自宅近くにあった飲食店大黒家(2017年に閉店)の増山孝子さん(85)は言う。

「死の前日の29日も、いつもの席でいつものようにカツ丼を平らげました」

 29日の荷風最後の日記には「祭日。陰。」とだけ記されている。

※ 永井荷風略歴
 1879(明治12)年12月3日東京市小石川区金富町(現文京区春日)生まれ。父は官僚。18歳の頃より小説を書き始め1903年渡米、1907年に渡仏。1908年帰国し、「あめりか物語」、翌年「ふらんす物語」刊行。1910年には上田敏、森鴎外の推薦で慶応大学教授。1916年の辞職後は小説家として生きる。代表作に「すみだ川」「日和下駄」「●(さんずいに墨)東綺譚」など。1952年文化勲章を受章。1959年79歳で死去。雑司ヶ谷霊園に葬られた。

※ NIKKEI The STYLE 2020年5月17日付


[写真-1]
浅草の吾妻橋。荷風は橋から隅田川の下流をよく眺めた

[写真-2]
市川時代、江戸川に沿って旧行徳橋付近まで足を伸ばした荷風(永井壮一郎氏提供/市川市協力)

[写真-3]
2020年4月15日未明の銀座を照らす「半輪の月」。荷風は気の合った仲間と食事を済ませた後、中国の詩人、李白のように月をめでた(銀座3丁目)

[写真-4]
偏奇館跡に向かう道源寺坂。左手の寺の境内が往時の面影を残す。右手には高層ビルが迫る(六本木1丁目)

[写真-5]
荷風のお散歩セット。身長180cm、足の大きさは27cm。大柄な身を背広や帽子で包み、預金通帳などを入れたカバンを片手にぶら下げる姿は、目立ったに違いない(永井壮一郎氏提供/市川市協力)

[写真-6]
ノートに書きこまれた日記は大正、昭和の歴史的史料としても注目される。荷風は自ら表紙をとじ、製本して保管していた(永井壮一郎氏提供/市川市協力)

[写真-7]
畳の上に七輪を置き自炊する。市川時代、家の中には、本と、生きるのに必要な物だけを置いた(永井壮一郎氏提供/市川市協力)

[写真-8]
ひとり暮らしに欠かせない裁縫セット(永井壮一郎氏提供/市川市協力)

[写真-9]
浅草ロック座付近の夜、目に付くのは安売り店のドン・キホーテのネオン。荷風はわい雑な浅草の風情をこよなく愛した(浅草2丁目)

[写真-10]
昭和33年元旦、浅草のどぜう飯田屋を訪ねた荷風。写真右側の少年が現在の店主、飯田龍生さん(飯田龍生氏提供)

日本経済新聞、2020年5月22日 14:00
わがままなひとり暮らし
永井荷風の日記をたどる

(足立則夫、井上昭義撮影)
https://r.nikkei.com/article/DGXMZO59239130Y0A510C2DM1000

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谷川俊太郎「小公子」解説

「へいわのボク」と「せんそうのボク」では、なにが変わるのだろう――。
シンプルな言葉と絵で、平和な世界と戦争のある世界を対比させた絵本『へいわとせんそう』が静かな話題を呼んでいます。
絵本のテキストを手がけたのは、詩人の谷川俊太郎さん。
谷川さんが考える平和、そして戦争について、お話を伺いました。

平和であることが当たり前。そこに戦争が侵入してくる
―― 戦争と平和がテーマの絵本ですが、タイトルは「平和」が先なんですね。

谷川俊太郎: トルストイがあまりにも有名ですからね(笑)。ただ、本来は「平和であること」が当たりなんです。平和があって、あとから戦争が侵入してくる。多くの人が「戦争が終わったから平和な時代がやってくる」と思いがちですが、順序が逆なのではないかと考えました。
戦争については、以前出した絵本(講談社刊『せんそうしない』、2015年)に基本的な考え方を記しました。動物同士は種が違っても戦争はしない。子ども同士もケンカはするけれど戦争はしない。
 戦争は大人同士がするものです。ただ、テーマは同じでも、絵によって絵本のテキストも変わりますからね。(『へいわとせんそう』の絵を担当した)Noritakeさんが描いた絵を見て、今回の絵本の発想が膨らんだ部分も大きいです。

―― 戦争している「みかたのかお」と「てきのかお」がとても良く似ているということに気づいた瞬間、ハッとさせられました。

谷川: 似ているようでちょっとずつ違うんですよ。僕は絵本をたくさん作ってきたけれど、Noritakeさんはこれまで関わった絵描きさんとは全く異なる次元の絵を描く人。
 表情があるのかないのか分からないけれど、無表情とも言えない。深い普遍性みたいなものを感じます。

――「敵の顔も味方の顔も同じなんだよ」と書くより、この絵を見比べて直感的に「同じ顔だ」と感じるほうが、子どもにとっては衝撃が大きそうです。

谷川: そういう感じ方もあると知ってもらえたらいいのですが。でも、衝撃を受けるのは大人だからかもしれませんよ。小さい子どもは大抵「なんで同じ顔なの?」という反応をするくらいですから。その意味が分かってくるのは、もっと大きくなってきてからですね。

―― 絵もテキストもシンプルだけれど、小さい子どもに向けて書かれた絵本ではないんですね。

谷川: 絵本を書くときは、男女や年齢を意識していません。僕が書きたいと思ったものを書いているだけ。そもそも、絵本は子どものためのものではないですから。いい絵本は大人が読んでも面白いんです。

―― 自分の子どものためにと思って買った親が、この本を読んで「平和ってなんだろう」と考えてくれたら…

谷川: それは本当にありがたいことですね。

大切なのは「一人一人の心の平和」
―― つい先日、改元という大きな節目がありました。平成を振り返って、「戦争がなかった時代」と評価する人も多いです。

谷川: そう思うのは日本のことしか考えていないからですよね。世界中に戦争はいっぱいあるじゃないですか。日本のことだけを考えて「戦争がなかったからいい時代だった」と言い切ることはできない。あまりにも視野が狭いです。
 だから、メディアが「平成が終わって令和が始まる」と騒いでいるのを見ると、「これでいいのかな」と思ってしまいます。元号で区切るということ自体、おかしいんですよ。

―― 日本の視点だけで見ると「第二次世界大戦が最後の大きな戦争」と考えてしまいがちですが、世界に目を向けると…。

谷川: そんなことは全くないですから。終わったことは忘れたいというか、美化したいというか、日本人は割とそういう傾向にありますね。

―― では、これからの世界の平和について考えたとき、谷川さんが一番大事だと思うものはなんでしょうか?

谷川: 一人一人の心の平和です。戦争って絶対に無くならないと思うんですよ。経済的な要因など、複雑な事情がありますし、紀元前から人類は戦争をしてきたのだから終わりようがないですよね。
「世界中の戦争を終わらせるために何かをする」というのは、美辞麗句です。やはり個人にはできないでしょう。個人ができるのは、自分の心の平和を保つこと。生きる態度や行動も含めてね。それだけです。

――「心の平和」を保つために、親が子どもに教えてあげられることはありますか?

谷川: 難しいと思います。言葉でいろいろと諭そうとしても、結局口先だけになってしまう。子どもでも大人でも、言葉ではなく「きれいだな」「気持ちいいな」と感じる自分の気持ちが一番リアルなんです。
 でも、親子の関係は言葉のコミュニケーションだけではないです。子どもは大人の行動を見ています。そのほうが言葉よりもはるかに大きな影響を与えるのではないでしょうか。

『へいわとせんそう』(ブロンズ新社、2019年3月)
「へいわのボク」と「せんそうのボク」では、なにが変わるのだろう。同じ人やもの、場所を見開きごとに比べると違いが見えてくる。いま、子どもにも大人にも伝えたいメッセージ。
<著者> 谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)
 1931年東京生まれ。詩人。21歳で第一詩集『二十億光年の孤独』を刊行。以来数々の賞を受賞し、幅広く活躍する日本を代表する詩人。絵本『わたし』(長新太・絵)『あな』(和田誠・絵/共に福音館書店)、『もこもこもこ』(元永定正・絵/文研出版)、翻訳絵本『スイミー』(レオ・レオニ/好学社)など、長年にわたり読み継がれている。

Noritake(のりたけ)
 1978 年兵庫県生まれ。イラストレーター。モノクロームのドローイングを中心に、広告、書籍、雑誌、ファッション、プロダクト制作など国内外で活躍。デザイン、ディレクション、作家活動もおこなう。NHK E テレ「デザインあ」のコーナー制作や、集英社文庫の新キャラクター「よまにゃ」を描くなど、活動の幅は広い。


MONEY PLUS、2019/06/22
谷川俊太郎が考える、「平和」とは何だろう
子どもにも大人にも伝えたいメッセージ

樋口可奈子
https://media.moneyforward.com/articles/3108

シンプルな絵本に戦時中の「手触り」込め

 シンプルな絵と言葉でつづられた絵本『へいわとせんそう』(ブロンズ新社、税別1200円)は、谷川さんとイラストレーターのNoritake(のりたけ)さん(41)が初めて一緒につくった作品だ。

 絵本は左に「へいわのボク」、右に「せんそうのボク」と書かれた見開きのページから始まる。「へいわ(平和)」の方には笑顔の少年のイラストが描かれ、「せんそう(戦争)」の方に描かれた少年はつらそうな様子だ。
 同じ人やものなどが平和と戦争でどのように変わるのか、見比べながら本は進む。

 Noritakeさんは本や雑誌の表紙、広告など幅広いジャンルで活躍している。
 シンプルなモノクロの線画が印象的だ。
「絵が単純だからテキストも単純にしたい。シンプルでどこまで言えるか、ちょっとチャレンジングでした」と谷川さん。
「誰とも違う絵描きさんで、やる気になりました」とも。

 Noritakeさんは、絵本づくりも戦争をテーマに作品をつくるのも今回が初めて。
 最初の頃は、あえて谷川さんと会わずに制作をすすめたという。

「エネルギーの大きい方なので、本の方向性がつかめるまでは、会わない方がよいと思っていました」

 制作はスムーズに進み、実際に会ったときには「そこまで緊張しなかった。これまで仕事をしてきた蓄積で、谷川さんとも、舞い上がったりせずに他の仕事と同様にフラットな気持ちで仕事ができました」

 文とイラストで進んでいく絵本に突然、唯一の写真が登場する。
「せんそうのくも(雲)」。
 原爆や核実験によって発生する「キノコ雲」の写真だ。
 これは、谷川さんがこだわったポイントだという。

「戦争体験が曲がりなりにもある人間とない人間とはちょっと違うだろうと思うんです。戦争の『手触り』を知っているという感じ」

 谷川さんは戦時中に、東京で空襲にあい、焼死体をたくさんみた体験があるという。
 抽象化された絵本の中に、戦争の生々しさが加わった。

 終盤は、敵と味方の比較に移る。
 描かれる人は、敵も味方も同じように見えるが、足や手の角度、口の大きさなどが少しずつ違う。
 Noritakeさんが描き分けた。

「敵も味方も、平和の人も戦争の人も、悪い人に見えないように気をつけました。戦争までいかなくても、普段ケンカやつらいことがあったときに、自分がどうあるべきか。穏やかな日常の素晴らしさが伝わるといいです」

 谷川さんも「『なんで同じ顔が二つ並んでいるの』と子どもが言って、親子で話すきっかけになるんじゃないかな」と話す。
「戦争反対」といわずとも、シンプルな絵と言葉が読者に雄弁に語りかける。

※ 朝日新聞2019年6月29日掲載
 

朝日新聞、2019.07.06
[好書好日]
谷川俊太郎さんとNoritakeさん絵本「へいわとせんそう」
平和と戦争、何が違う?

(矢田萌)
https://book.asahi.com/article/12505395

 谷川俊太郎…、『小公子』への後書きも書いておりましたぁ:

 どう、おもしろかった?なにがって、きまってるじゃないか、『小公子』と『小公女』。え、まだ読んでない、解説から先に読む?

 だめだめ、そんなの、本だって友だちと同じさ。まずつきあってみなくちゃ。現住所や本籍や血液型を知るのは、もっとあとからでいいんだ。それも、知る必要があったらのことだけれど。

 さてと、こんどは読んだね。どう、おもしろかった?そうでもない、どうしてかな。セドリックはりっぱすぎて、ほんとうにあんなこがいるとは思えないっていうのかい?なるほど。

 セドリックは明るくて、美しくて、思いやりがあって、人をうたがうことを知らなくて、そのうえ、勇気もあるし、馬に乗るのだってじょうずだ。だれだってあこがれちゃうな、あこがれちゃうと同時に少々しゃくにさわるな。

 たしかにセドリックみたいな子は、ぼくの友だちにはいなかったし、きみの友だちにもいないだろう。あんな子はアメリカにだって、イギリスにだっているはずないさ。だけど、ほんとにいないから、いんちきだってことはないよ。そんなこといえば、まんがはみんないんちきだよ。きみだって、時にはほんとにセドリックがすぐそばにいるような気がしたこともあったろう? 時にはセドリックのいったことに、うん、そうだ、そうだと賛成したくなったろう? それはぼくら、ひとりひとりの心のなかにも、ほんの少しかもしれないけれど、セドリックみたいな性質があるという証拠なんだ。

 むかし、『小公子』がアメリカでベストセラーになったとき、母親たちはそのむすこに、小公子みたいな白いレースえりのついたビロードの服を着せ、「大すきなママ」って呼ばせたがったんだってさ。まったくめいわくな話だね。洋服だけならまだいいけど、いうことなすこと、セドリックをお手本にされちゃかなわないな。セドリックはしぜんに良い子だからいいんで、むりしてまねたっていやらしくなるだけだもの。アメリカでは、今じゃなまいきな子のことを「小公子」といってからかうんだそうだ。これはつまりお話とほんとの人生とを、ごっちゃにしてしまったんだ。困る。

 セドリックっていうのは、ひとつの理想なんだ。だからかれにへんな劣等感をもつことはないんだ。けれど理想っていうのはまた、ただの夢物語じゃなくて、だれの心のなかにもしっかりと根をおろしてるものでもあるんだ。だからセドリックみたいな良い子は、おれとは関係ないやと思い込むのもまちがいだな。

 同じようなことは、この本を書いたバーネットっていう小母さんについてもいえるよ。セドリックや、セーラ・クルーみたいなすてきな子のことを書いた人だから、きっとやさしくて明るい人にちがいないって思うかもしれないけど、そして確かにバーネットにはそういう面もあっただろうけど、同時にミンチン先生みたいないじわるな面も、ドリンコート伯爵のようなわがままな面もあったといわれている。

 自分のなかに、みにくいものを持っていなければ、美しいものを夢見ることも、それを求めることもないんじゃないかな。

 今の世のなかは、ひとりの人間のやさしい性質、美しい性質だけでは変わってはゆかないとぼくは思う。
 今の世のなかは、あまりにも大きく、複雑になりすぎている。バーネットの生きた十九世紀なかごろから二十世紀のはじめにかけてだって、それはそんなに変わりはなかったと思う。けれどバーネットの育ったいわゆるビクトリア時代の人びとが、個人の良い心、そしてそれがたがいにむすばれる健全な生活というものをたっとんだとはいえる。少なくとも、そういう生活(たとえばカーマイクル家のような)をひとつの理想としていたにちがいない。

 しかし現代はもっと機械的だ。ちょうど小公女がどんなに良い性質を持っていても、女中や料理番たちが、セーラにつらくあたるのをやめなかったように、むしろ美しさもやさしさも他人にたいする思いやりも、それだけでは役にたたぬものだと考えさせられることも多い。
 そういう意味では、たしかに『小公子』にも『小公女』にも古さはある。そのうえ日本には伯爵なんてものはないし、ミンチン先生のやっているような学校だってない。ピンとこないところも多いかもしれない。また、すべてがあまりにもぐあいよく、偶然にうまくいきすぎる(ディックがミンナを知っていたり、カリスフォードがセーラのとなりに引っ越してきたりする)のも、お話のつくりかたとしては、じょうずなほうじゃない。

 けれど、だからといって、バーネットのえがいたセドリックやセーラのすがたを、まったく否定してしまっていいものだろうか。
 その美しい心、やさしい心、強い心をわすれてしまっていいものだろうか。
 むしろ今みたいな世のなかだからこそ、よけいにそういう個人の心の持ちかたが、たいせつになってくるんじゃないだろうか。


 すぐれた作品の中には、どんなに時代が変わっても、古くならないなにかがある。人びとがくりかえしそのたいせつさを思いだすべきものがある。『小公子』や『小公女』にも、それがあるんだ。

 それがほんとうは何か、それを今のこの世のなかで、どう生かすことができるか、(子どもは子どもなりに、おとなはおとななりに)それを発見するのはきみ自身だ。なんでもいい、ほんのちょっとでも、きみの胸に感じることがあったら、それはきみにとってたいせつなものだ。それをわすれずにおぼえているといい。それはなみだや、わらいのなかにかくれてるかもしれないし、もしかすると、きみがきらいなお話にだって、それはかくされてるかもしれない。

 ごめんな、なんだかお説教みたいになっちゃった。お話はまず、たのしむことが第一だっていうのに。けれど、たのしみながら知らず知らずのうちに、いろいろなことを知ってゆく、それがまたお話のたのしみでもあるんだ。たとえば『小公子』ではきみはイギリスの貴族の生活とそのイギリスから独立したアメリカの市民の生活とのおもしろい対照を見るだろう。また『小公女』ではお金しだいでがらりと変わるひどい先生のいる学校と、きみたちの学校とをくらべることもできるだろう。小さなことひとつとっても、ブドウパンがひとつ1ペニーだったことなんかも知るわけだ。
(1ペニーは今の日本のなん円にあたるか)

 そんなよその国の、ちがう時代のことについてもっと知りたくなったら、またべつの本がある。なにもセドリックやセーラみたいにかっこよく金持ちになりたいなあと、空想するばかりが脳じゃない。
(空想するなら、金持ちになれなかったらどうだったろうと考えたほうがおもしろいと思うな。)

 さいごに『小公女』のなかの、ぼくの一番すきなことばをあげておく。

「わたしって、ーーー いつもなにか作らずにはいられないのよ。そうしないと、わたし、生きていけないと思うわ。」

 本を読むことも、ものを作ることにつながると、ぼくは思うんだ。


少年少女世界の文学〈9〉(『小公子』『小公女』)河出書房、1966(昭和41)年1月
作  R・バーネット
翻訳 川端康成
解説 谷川俊太郎
https://blog.goo.ne.jp/yumewo_nosete/e/a0d4c202fd8372641155aa320891663b

 ヤッホーくん、7月18日から読みだしていた『小公子』(川端康成訳、新潮文庫版)、7月23日の深夜、ついに読了!
 いい内容でした。
 すすめなくっちゃ・・・

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2020年07月23日

青木真理子、ガーデンデザイナー

2020年7月23日放送18:05 - 18:35 NHK総合
ひとモノガタリ
「感情のままでいいじゃない〜緑の髪のガーデナー〜」


[オープニング映像]
 6月中旬、県外からも人びとが庭を訪れ、新型コロナウイルスによる自粛の疲れを癒やしていた。
 庭を作ったのはガーデンデザイナーの青木真理子さん。
 仕事は遅刻ばかりで冬は家に引き込もり、好きなことしかやらない。
 感情のおもむくままに生きている。

[感情のままでいいじゃない〜緑の髪のガーデナー〜]

 ガーデンデザイナーの青木真理子さんが一躍有名になった「国際バラとガーデニングショウ」。
 全国各地のガーデナーが参加する日本有数の大会で真理子さんは20代で大賞を受賞した。
 テーマは「おだやかに暮らす〜庭とともに〜」。
 老夫婦が心豊かな時間を過ごす日常を作り出したという。

 真理子さんの取材をはじめたのは1年前。
 真理子さんは山形県長井で両親と姉家族と一緒に暮らしている。
 徹底的にのめり込むのが真理子流。
 中学生の頃に没頭したマンガは一時期は1万冊になった。
 凝り性な性格が災いし校則の厳しかった中学校で不登校になり、高校受験も全て落ちてしまった。
 草花との出会いは通信高校のときにはじめた花の生産農家でのアルバイト。
 服装や髪の色などをうるさく言われずに働けるからだった。

 真理子さんが依頼される庭作りは年間約10軒で、働くのは春と秋の半年だけで夏と冬は働かない。
 自宅の庭で、植物本来の力を引き出すのには何が必要なのか試した苗は千を超える。
 今年2020年2月、庭作りができない冬に真理子さんを訪ねた。
 冬、真理子さんはこたつに根を張る。
 明確な目標はいらない、流されるままでいいと真理子さんは話す。

 3月、真理子さんに今年はじめての仕事の依頼がきた。
 依頼者の自宅の庭に石垣を作り草木を植えるという。
 現場にきたのは真理子さんの仕事のパートナーである田代さん。
 2人は5年間いつも一緒に作業をしている。
 1時間遅れて真理子さんがやってきた。
 依頼主の大泉徹さんは定年後に庭作業を趣味にしようと真理子さんの庭を見学し、美しさに惚れ込み仕事を依頼した。
 庭作りをはじめて3日目、真理子さんは石積みの作業で壁にぶち当たっていた。
 田代さんによると真理子さんはなかなか繊細でこの状況が続くと引きこもってしまうということで取材を中断した。
 3日後、再び取材ができるようになった。
 新たに庭師の岸聡志さんが駆けつけた。
 岸さんは石積みの達人で真理子さんは自分のペースで作業をすることができた。
 真理子さんと接することで岸さん自身、仕事への向き合い方が変わったという。
 大泉さんの庭に植える草花が到着した。
 真理子さんが作る庭の特徴は管理がほとんどいらないこと。
 ポイントは苗で選ぶのは地味な植物ばかり。
 庭に向かう途中、真理子さんは馴染みの花屋で季節の花を探す。
 ここでも選ぶのは手をくわえなくていい宿根草ばかり。
 手間をかけなくても植物が自らの力で成長して趣のある庭になるようにする。

 4月、新型コロナウイルスの影響で全国に緊急事態宣言が発令された。
 真理子さんもイベントが中止になったり、庭作りの依頼もない。
 仕事がない分、自宅の庭に向き合う日々。
 姪っ子の学校も休校となり庭で過ごすことが多くなっていた。
 定点カメラを庭において撮影を続けることにした。
 真理子さんは1人もくもくと草花に水をやり、新たな苗を植える。
 一息つけるテントも作った。
 庭仕事に疲れたら家族と一緒にバーベキューをする。
 緊急事態宣言が解除されてから4日後、3ヶ月前の大泉さんの庭は真理子さんたちの手によりイギリスの田舎暮らしをイメージした庭に生まれ変わった。


「TVでた蔵」
https://datazoo.jp/tv/ひとモノガタリ/1384480

 仕事は遅刻ばかり。
 冬は家にひきこもり。
 好きなことしかやらない。
 そんな緑の髪のガーデナーが作り出す庭が今多くの人の心を癒やしている。
 ワクワク生きるヒントがそこに。

 日本有数のガーデニングコンテストの大賞を20代で受賞した山形在住の青木真理子さん。
 今、その庭がコロナ禍のストレスを抱える人びとの心を癒やしている。
「物語のあるナチュラルガーデン」と言われ、人がこまめに管理しなくても、植物が自ら成長して四季折々の表情をつくり出す。
 彼女の素顔は実に破天荒だ。
 春と秋しか働かない。そんな彼女がどうやって庭を造るのか、1年間追った。


[出演]ガーデンデザイナー…青木真理子
[語り]千葉雄大
 
[動画]

NHK、ひとモノガタリ
感情のままでいいじゃない〜緑の髪のガーデナー〜
https://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2020-07-23&ch=21&eid=21081&f=5035

 今回のボタニカルピープルは、東北・山形を中心にフリーのガーデナーとして活動されている「Radiant Green Garden」のガーデナー青木真理子さんにお話を伺いました。

[プロフィール]
・ 名前:青木真理子
・ ニックネーム:みどりちゃん
・ 職業:ガーデナー
・ 出身地:山形
・ 活動拠点:山形がメインの東北
・ 受賞歴:第18回 国際バラとガーデニングショウ 2016 優秀賞、2017年ウインターガーデニングショーinにいがた 来場者人気投票第一位

[自己紹介をお願いします]
 フリーのガーデナーをしています。
 家業は魚屋で、高校は通信制に通っていたので日中仕事ができる花卉生産のアルバイトを始めたことが植物との出会いです。
 花卉生産の仕事を継ぐ選択肢もあったのですが、花卉生産は本当に大変な仕事なので勤まらない気がして。
 独学で20歳から庭を作り始めました。
 今は東北メインで個人庭や店舗の植栽のお仕事をしたり、年2回くらいコンテストに出たりしています。

スタートは自宅の庭から

 最初庭に好きな植物を植えたら全然育たなくて、何が駄目だったんだろう? などということは全部インターネットで調べました。
 土壌改良して土を全部変えて、株が大きく成長した植物は植え替えや入れ替えをして、作り始めて4年ほどである程度、庭として完成しました。
 現在はほとんど手を入れなくても勝手に保たれる状態になっています。
 自分の家の庭をこじゃれた風に作ろうとは思っていません。
 例えば庭でカフェ風の…アイスコーヒーとかスコーンではなく、お父さんが出すのは普通の和食と、ペットボトルの飲み物とか缶コーヒーとかなんです。
 カッコつけられない(笑)。
 お庭でお酒を飲んだり、ご飯を食べて家族でくつろげるようにに出来たらいいなと思って。

[コンテストに出ることになった経緯を教えてください]

 自分の家の庭で作るものがなくなったからです(笑)一通り庭で「あれやりたい! これありたい! 」ということをやりつくてしまったんです。
 東北だと実現できないアイデアや使えない植物を形にできるので、「よし、(コンテストに)出よう! 」と思って。
 年2回くらい出るんですが、準備にぜんぜん時間をかけられなくて…いつもぎりぎりで仕事をしているので、周りの人に助けていただいてます(笑)。
 植物も現地調達したりして。
 予算も大体で組んでます。
 どうせ計画よりは多くなってしまうので(笑)

 デザインが自由だから毎回すごく楽しいです。
 貝塚造園さんともコンテストで知り合って仲良くなって、前回一緒に作品を作りました。
 コンテストはそういう出会いがあるから楽しいです。

 コンテストの場合は、お庭を作る前にどんなお庭がいいかをイメージします。
 次にそのイメージに合った小物を揃えていきます。
 するとそこに物語が出てくるんです。
 物語に沿ったキャラクターも出てきます。
 じーちゃんとばーちゃんが2人で庭を作りながら暮らしていて、この椅子で休憩して…というようなイメージ。

[東北でのお庭づくりについて教えてください]

 植物の本で品種別に「耐寒性がない」と書いてあっても、自分の家で実験したら越す場合もあるので、全部自分の家の庭で試してみています。
 自分の庭が実験台ですね。
 オリーブやアカシア、プロテアやセルリアなどは外では絶対冬越しできないです。
 東北でも太平洋側だったら冬越しできる場合もあるのですが、日本海側は難しいですね。
 東北の中でも全く気候が違うんです。
 仙台市内は風が強くて雪が積もらない分、雪が積もってるところよりも体感は寒いですからね。
 雪が積もっているところのほうが暖かいですよね。

 山形はどの家も庭が広いのですが、庭で一番過ごす時期は6月ごろじゃないでしょうか。
 夏は盆地なのでまた暑いんです。
 庭に出られる期間が少ないこともあり、庭で過ごせる季節は気づくと家族全員庭にいたりします。
 冬の間はずっと雪です。
 12月から3月ごろまで積もって4月中旬に雪が全部なくなるくらい。
 仕事の上でも雪に耐えられる、寒冷地仕様のお庭を提案するのが得意です。

[ローメンテナンスのお庭とはどんなものですか?]

 基本的に植え替えや、植物を足すことのないお庭です。
 人が手を入れなくても、庭の植物が自分たちで生長して空いたスペースをカバーしていくような気がします。
 庭で倒れてる草があっても、あまり気にしないです。
 生き残る子は生き残る子だし、死ぬ子は死ぬ子なので。
 生き残った子だけで構成されている庭だから、管理が楽なんです。

 今は自宅の庭は植え替えは全くしない。足したりもしない。全部宿根草と多年草でできているので。
 何かが枯れてもグランドカバー(※)でカバーできるんです。
 宿根草と多年草は冬になると地上部が枯れてしまうのですが、雪が隠してくれるので気にならないんですよね。
 雪がない地域は地上部が枯れてると目立つってしまうため、東北だからこのやり方が出来る、ということでもあるのですが…

※ グランドカバーとは、地面を覆う植物で、踏まれても丈夫で、常緑で多年草。日陰でも育つもの、雑草が生えにくくなるものや、花が咲く植物、葉が綺麗な植物等いろいろあります。

 お庭って水やりしなくても生きるんです。
 植物の特性さえわかっていれば、将来これぐらい大きくなるだろうとか、株がこれぐらい広がるな、など先のことがわかるようになります。
 除草はしなくていいように最初に考えて庭を作ります。グランドカバーはたくさん使います。

 寄せ植えに使った植物が庭のあちこちにはびこって「なんか多いな〜? 」と思ったりします。
 ドクダミもいっぱい出ちゃうと大変だけど、ちょっと隅のほうに生えてたりすると「あ、かわいいな」って新しいかわいさに気が付いたり。

[病害虫についてはどう考えてお庭を作っていますか?]

 去年はうどん粉病がバラなどにもかなり出てしまったのですが、実際にはあまり気にしてませんね。
 病害虫に強い苗を最初から選ぶことが大切です。
 品種選び間違えてしまうと大変ですよね。

 庭を作り始めたころに何もわからなくて、花を見て選んだ品種は今も管理に苦労してます。
 目隠し用に大きくなりそうな株を選んだらあまりにも大きくなっちゃって困ったりとか…(笑)やっぱり最初にある程度計画しないとだめだな! と思いました。

[青木さんにとって、お庭とは何ですか?]

 どういうふうに手をかけたいか、庭を含めたどういう暮らしをするか。

庭=暮らし方

 暮らしの負担にならない庭が私はいいと思うんですよね。
 花がらをいちいち摘まなくても、いつも花が咲いてなくても、庭で四季を感じられれば十分じゃないかと。

なくてもいいけど、あったらいい

「庭のある暮らし」が当たり前になったら、庭がない生活にはもう戻れないと思います。
 庭がない場合はまず緑の中に椅子をおいてみることをおすすめします。
 椅子を置くだけでくつろげるので。
 自宅の庭にはたくさん椅子が置いてあります。
 朝はこっちの椅子、日当たりが変わってきたらこっち。隠れたいときはこっちの木陰…。
 そんなふうに、公園や庭園に行ってもベンチありますけど、日当たりが良すぎて暑くて座れないこともあるじゃないですか。
 なのでレジャーシートでも椅子でも持っていって緑の中でくつろいでみるととってもいいと思います。

[これから取り組んでいきたいことや夢などあれば教えてください]

 理想はDASH村みたいな暮らしがしてみたいです。
 小麦を育ててみたい。古民家を改装して、おしゃれじゃなくっていいので、心地いい暮らしができるように。
 家の前には大きな木があるので、そこにツリーハウスをつけたり、木の太い枝にはブランコをつくったり、川を引いてきて果物と野菜冷やして食べたり、そんな自然に寄り添った心地のいい暮らしがしたいです。

(※)[DASH村]手つかずの庭の雑草を綺麗にしてやんよ
https://www.youtube.com/watch?v=xJ3IieA68qM

 青木真理子さん、ありがとうございました!
 やりたいこと、実現させたいことがたくさんある青木さん。
 これからたくさんのお庭を作りながら、素敵なお庭を作り続けて行ってほしいです!


LOVEGREEN、2018.01.25
「Radiant Green Garden」のガーデナー青木真理子
東北で物語のあるナチュラルガーデンを作る

(小野寺 葉月)
https://lovegreen.net/botanicalpeople/p134478/

posted by fom_club at 20:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

景気後退

 ヤッホーくんのこのブログ、2019年2月15日付け日記「うそ次々、モラル崩壊」をぜひお読みください!
 それから一年経ちましたが、政権は反省し、事態は改善、修正され、真実に近づいているのでしょうか。

 安倍晋三首相は2020年3月6日の参院本会議で、新型コロナウイルスの感染拡大による影響を注視し「十分な経済、財政政策を行っていく」と経済重視の姿勢をアピールした。
 首相は他の答弁や演説でも、成長戦略の成果を強調している。
 だが、本紙がファクトチェック(事実確認)したところ、経済政策を巡り説明不足や不正確な表現があった。

「経済は7年間で13%成長し、来年度予算の税収は過去最高となった」

 首相は施政方針演説で語った。
 この根拠について、内閣府の担当者は本紙に、政権復帰前後の2012年10〜12月期の国内総生産(GDP)約493兆円と2019年7〜9月期の同約559兆円を比べたと説明した。
 確かに伸びは約13%だが、首相は政府が2016年にGDPの計算方法を変えたことに触れていない。

 新旧両基準が公表されている2012〜2015年度の名目GDPの成長率は、旧基準では5.5%なのに対し、新基準では7.6%に上昇する。
 各年度の成長率の平均値も新基準が上回る。

 安倍政権の経済政策に詳しい明石順平弁護士は「アベノミクス以降の成長率が不自然に上振れしている。計算方法を変更したから『7年間で13%成長』が達成できたと言える」と指摘する。

 新年度の税収を「過去最高」と明言したのも不正確だ。
 2020年度予算案の税収63兆5千億円は、見通しにすぎない。
 2019年度は当初予算で税収62兆5千億円と見積もったが、企業業績の悪化などで2兆円超の下方修正となった。

 2020年度の税収見込みは補正を含む2019年度予算より約3兆3千億円増えた。
 その約8割は、昨年2019年10月に税率10%に上がった消費税が占める。
 景気回復による法人税収増などが大きく押し上げたわけではない。

 代表質問では、首相が質問の趣旨をすり替えて答弁した。
 立憲民主党の枝野幸男代表が、民主党政権時に回復傾向だった実質賃金が第二次安倍政権下で下落、低迷していると指摘し「いつまでにどうやって増加を実現するのか」と尋ねた。
 首相は直接答えず、当時は物価が下がっており、物価変動を反映する実質賃金が好調に見えたと主張した。

 元経済産業省官僚の古賀茂明氏は「『前政権は今よりひどかった』と自分を正当化し、政策の失敗を認めない姿勢は問題だ」と指摘している。
 

東京新聞、2020年3月9日 02時00分
<論戦ファクトチェック>
首相の「経済成長」本当?
GDP 13%増→基準変更伏せて発表

(大野暢子)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/14459

 そして実際は、コロナ禍による経済の低迷や消費の落ち込みと関係なく、「景気後退」にあったことが判明!
 といっても、またまたアホノミクスを正当化し礼賛、政策の失敗はなかったことにするのかもしれませんが……

 内閣府は2012年12月から始まった景気回復局面が2018年10月に終わり、景気後退に入ったと認定する方針だ。

 拡大期間は71ヶ月にとどまり、2008年2月まで73ヶ月続いた「いざなみ景気」の戦後最長記録を更新しなかった。
 期間中の成長率は過去の回復期を下回り、実感の乏しい回復となった。

 内閣府の経済社会総合研究所が7月中にも経済学者や統計学者、エコノミストらで作る「景気動向指数研究会」(座長・吉川洋立正大学長)を開き判断する。
 鉱工業生産指数など9指標をもとに検討し、後退局面への転換点を示す景気の「山」を2018年10月と暫定的に認定する見通しだ。

 2018年10月は米中貿易摩擦の激化で世界経済が減速し、輸出や生産に停滞感が強まり始めた時期にあたる。
 2019年春から夏にかけて内需を中心に持ち直した後、消費税率の引き上げや大型台風でブレーキがかかり、新型コロナウイルスの影響が追い打ちをかけた。

 日本の景気回復は2002年2月から2008年2月まで73ヶ月続いた「いざなみ景気」が戦後最長だ。
 2012年12月から始まった今回の回復について、2019年1月に茂木敏充経済財政・再生相(当時)が「戦後最長となったとみられる」と言及していた。

 今回の景気回復の長さは戦後2番目となる。
 この間の経済成長率は平均で年率1.1%程度で、景気動向指数の上昇幅は12.7ポイントだった。
 いざなみ景気の約1.6%、21.0ポイントをそれぞれ下回る。

 回復実感が乏しいのは家計部門への波及が鈍かったことが大きい。
 企業の内部留保は業績拡大で増えたものの、賃金の伸びは鈍い状態が続いた。
 家計の社会保険料や税負担も増加傾向だった。

 景気の山・谷の判定に用いる景気動向指数は生産の動きの影響が強すぎるとの指摘がある。
 内閣府は産業構造や働き方の変化を踏まえて見直しを進める。
 今回の山の認定は暫定で、今後の検証で変わる可能性がある。

 エコノミストの間では、日本経済は緊急事態宣言が出ていた4〜6月期を底に、回復に向かうとの見方が多い。
 足元では新規感染者が再び増え始め、外出や旅行などを控えるムードが高まりつつある。
 感染防止と経済活動レベルの引き上げとの両立が課題となる。

 米国の景気もすでに後退局面に入っている。
 全米経済研究所(NBER)が6月、2009年6月から始まった景気拡大が2020年2月に終わり後退期に入ったと認定した。


日本経済新聞、2020/7/23 5:16更新
「景気後退」認定へ、戦後最長ならず
回復は18年10月まで

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61858300S0A720C2MM8000/

 新型コロナウイルス感染者が急増する中、政府が観光支援事業「Go To トラベル」キャンペーン開始を急ぐ背景には、コロナ禍にあえぐ日本経済を早急に立て直さなければならないとの首相官邸の焦りがある。
 熟慮を欠いた官邸は世論の反応を読み誤り、場当たり的な対応を繰り返した。
 キャンペーンを引き金に感染が広がれば、政権に新たな打撃となるのは避けられそうにない。

 安倍晋三首相は2020年7月21日の自民党役員会で、キャンペーンについて「夏休みに観光客の足が遠のけば観光産業にとって死活問題だ。予定通り実施する」と説明。
「やむを得ず東京発着の旅行は除外した。キャンセル料は旅行者に不利益が発生しないようしっかり対応したい」と約束した。

 観光庁が当初計画したキャンペーンの開始時期は8月上旬。
 それを22日に前倒ししたのは「23〜26日の4連休前に始めるべきだ」(政府高官)との官邸の意向からだ。
 観光客の激減に苦しむ地方から悲鳴が上がり、官邸は「国がつぶれる」(政府関係者)と危機感を強めていた。

 だが、その後の対応は迷走した。

 東京都の小池百合子知事がキャンペーン開始に疑問を呈した13日、官邸は「反対は一部」(高官)と全国一律の実施を貫く構えだったが、首都圏からの旅行者を歓迎しない地方から慎重論が噴出すると空気は一変。
 16日午前、首相、菅義偉官房長官、今井尚哉首相補佐官が秘密裏に協議し、東京除外を決めた。
 赤羽一嘉国土交通相が除外を正式に発表したのは翌17日だ。

 迷走はこれで終わらなかった。
 東京除外に伴うキャンセル料について、菅長官は同日の記者会見で「特別の対応を行わず、旅行会社に判断いただく」と説明した。
 だが、これには与党からも再考を求める声が上がり、21日になって国として補償する方針に転換せざるを得なくなった。

 一連の混乱は、官邸がキャンペーン開始をあまりに急いだ結果と言え、実際、制度は前日になっても生煮え感が拭えない。
 21日の野党のヒアリングでは、政府として自粛を求める「若者の団体旅行」「高齢者の団体旅行」の定義を観光庁の担当者が答えられず、野党議員から「現場が混乱する」と批判の声が上がった。

 政府は8月1日のイベント制限緩和は見直す方向で検討しており、ちぐはぐさも否めない。
 自民党の閣僚経験者は「キャンペーンで感染が広がれば『政権は何をしているんだ』『首相が感染を広げた』という声が高まる」と懸念し、「政権にとって賭けだ」と指摘した。


[写真]
自民党役員会に臨む安倍晋三首相(中央)ら=21日、東京・永田町の同党本部

時事ドットコムニュース、2020年07月22日07時09分
経済再開焦り官邸迷走
感染拡大なら政権に打撃―GoTo

https://www.jiji.com/jc/article?k=2020072101086&g=pol

・・・バカボンは昨夜7月22日も一人6万円の白亜のステーキハウスに、4千万円観光献金疑惑の二階や、王貞治氏など有名人10名以上の連続三密会食でご満悦。これが、国会を休会して、ネトウヨと提灯マスコの礼賛する10兆円予備費の使い道だ。狂っている・・・

・・・コロナ、豪雨災害、不要不急であるなら、会食は自粛すべきです。当たり前に。不要不急は控えろと言って Go To しろ、のいい加減な曖昧さ。なるほど、自分等に都合が良い策なんだ!としか思わない。どうしようもないですね。どうしたら辞めてくれるのでしょうか・・・

・・・超高級フレンチレストランに逃げ込むアベの言うがままに右往左往するだけのボンクラ大臣を公明党の指定席の国交大臣では収拾がつかない・・・

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セドリックそして小公子セディ

 フランシス・ホジソン・バーネットの小説「小公子」…
 実はこんなところにも:

 まずは、主人公、セドリックに由来したのが日産車「セドリック」!当時の川又克二社長が命名したんだそうです。

 フォードや日産などの日米の自動車産業の盛衰を描いたハルバースタム David Halberstam の『覇者の驕おごり、自動車・男たちの産業史』(日本放送出版協会、1987年4月)を読むと、自動車産業の抱えている問題は今に始まったことではなく、一筋縄ではいかないと感じられます。
 この『覇者の驕り』で詳細に描かれているのが、戦後の日産自動車の再建に力を尽くした一人、水戸出身の川又克二でした。

 川又克二は1905(明治38)年3月1日に上大野村大字吉沼(現在の水戸市吉沼町)に兄と姉3人の5人兄弟の末っ子として生まれました。
 克二9歳の時に、一家は上京して、東京に生活の場を求めます。

 克二は東京商科大(現在の一橋大学)を1929(昭和4)年に卒業。
 日本興業銀行に入り、終戦後広島支店長を務めたあと、1947(昭和22)年に日産重工業(日産自動車から商号変更し、後に再び日産自動車)に財務担当として入り、財務だけでなく労働争議処理にも力を発揮しました。

 その後、1957(昭和32)年から1973(昭和48)年まで社長を務める一方、1967(昭和42)年には自動車工業会の初代会長に就任し、完成乗用車の輸入自由化、エンジン自由化、資本完全自由化の三つの貿易自由化の難局に立ち向かったのでした。
 この間、日産はプリンス自動車を合併しながら大きくなっていき、国内自動車メーカーとしては、トヨタに次ぐ地位を獲得していきました。

 克二は社長として、ニッサンの新しい車の名前、ブルーバード、セドリック、フェアレディを命名しました。
・ ブルーバードはメーテルリンクの童話『青い鳥』から希望の青い鳥として世界に羽ばたいてくれることを願って、
・ セドリックは『小公子』の主人公の名前から、
・ フェアレディはアメリカで克二が見た舞台の『マイ・フェアレディ』の題名からとったものでした。

 水戸の祖先の墓参りを忘れることのなかった川又克二が亡くなったのは、1986(昭和61)年3月29日、81歳でした。

※ 参考図書:『私の履歴書 昭和の経営者群像1』(日本経済新聞出版、1992年9月)
※(補足)この記事は、「広報みと」2009(平成21)年9月1日号に掲載したものです。


水戸市公式サイト・みとの水脈、2009年9月1日
ブルーバード、セドリック、フェアレディの名付け親
川又克二

(中央図書館司書 坂部豪)
https://www.city.mito.lg.jp/001666/002531/p005786.html

 さらに、1988年1月10日から同年12月25日までテレビ放送された、日本アニメーションの「小公子セディ」にも:

小公子セディOP「ぼくらのセディ」
https://www.youtube.com/watch?v=7EupsgRXiqg

小公子セディ第1話「ニューヨークはぼくの街!」
https://www.youtube.com/watch?v=N4hoFgdSgs0

小公子セディ 〜 誰かを愛するために
https://www.dailymotion.com/video/x3twkc

 ところで1988年ってどんな年?

 年明けの株式市場にどこかで見た感じが漂っている。
 日本株が本格的なバブル入りした1988年だ。
 1987(昭和62)年10月19日(月曜日)に香港を発端に起こったブラックマンデー(世界同時株安)をいち早く乗り切ったという高揚感。
 30年前とは思えない出来事が、今また繰り返されようとしているのだろうか。

 2018年1月4日の大発会に日経平均株価は700円を超す上げを演じた。
 26年ぶりの高値とか、バブル崩壊後の安値からの半値戻しといった解説が木霊する。
 いずれもその通りだが、市場と世の中の雰囲気はむしろ本格的にバブルが膨らんだ1988年に似てはいまいか。

 折しも日経平均が2018年1月4日につけた2万3500円台は、88年1月以来の高値でもある。
 日本経済新聞による2018年新春の経営者アンケートでも、2018年の日経平均の高値予想の平均は2万5540円。
 大発会の1日だけでその予想が指呼の間に入った。

 株価の上げ幅は急。
 だが、出遅れたと感じた運用担当者は、ひとかたならぬ焦りを感じていよう。
 このままでは隣のファンドに取り残される。
 そんな心理こそがバブルを特徴付ける。
 1988年がまさにそうだった。

 バブルを膨張させた要素を整理してみよう。
 まずは1987年10月のブラックマンデーを、日本が最初に乗り切った。
 次に1985年9月のプラザ合意以降の円高に、ようやく歯止めがかかった。
 そして円高不況の懸念をものかは、日本は予想外の好景気を謳歌した。

 世の中が落ち着きを取り戻したという安堵感が、1988年のユーフォリア(多幸症)を生んだ。
 それに比べれば1989年は、上げ相場の慣性によるバブルの爛熟(らんじゅく)期といえよう。

 経済政策のカジ取りも1988年のバブルを後押しした。
 ひとつは1988年1月に大蔵省が打ち出した特定金銭信託とファンドトラスト(指定金外信託)への低価法採用の一時停止。
 特金もファントラも財テク商品として企業が、利回りかさ上げ手段として機関投資家が活用していたが、ブラックマンデーで含み損を抱えたものが多かった。
 低価法が事実上、一時停止されたことで株式市場は愁眉を開き、株価は急騰した。

 もうひとつは日銀の利上げの封印。
 三重野康日銀副総裁(後に総裁)は1987年末までに金融引き締めに転じようともくろんでいたが、ブラックマンデーでご破算となった。
 1988年7月に西独連銀が利上げに動いたのを尻目に、日銀が利上げに踏み切ったのは1989年5月だった。
 そのころ支配的だった円高恐怖症に加えて、1989年4月の消費税導入を前に日銀には政府から自制が求められた。

 後にバブルを膨らませたと批判されるこれらの政策の背景には、債権大国の自負心もあった。
 世界最大の経常黒字国である債権大国の日本は、金利を低水準に保ち世界にマネーを還流させるべきだ。
 金利のアンカー(いかり)理論が一世を風靡した。

 指導者の自負心もあった。

 1987年10月まで首相を務めた中曽根康弘氏が1988年1月のダボス会議(世界経済フォーラム年次総会)で、自信満々に宣言した。世界の株式市場は不安定だが、日本はその歯止め役になる、と。

 そうこうするうちに、1988年6月にリクルート事件が起き、政権を巻き込んだ。
 竹下登政権は急速に指導力を失ったものの、景気が好調だったこともあり、「政治は政治。経済は経済」といった慢心が市場に広がった。
 この慢心は1989年11月のベルリンの壁崩壊の後まで続いた。
 東西冷戦の下で軍事は米国に任せ、日本は経済に特化できた。
 そんな幸運な時代の終わりを告げたのが、1990年1月以降のバブル崩壊だったように思える。


 1988年当時とこの2018年との間で、共通点は意外に多い。
 何よりも景気回復局面で金融緩和が続き、実質金利はマイナスに突入していく。
 2%インフレの達成は難しく、消費再増税を控え、本格的な金融引き締めは思いも寄らない。
 30年前の原動力は不動産と株式の相互作用だったが、今は日銀が本尊となったマネーの供給。
 永野健二著『バブル、日本迷走の原点』(新潮社、2016年11月)はすでに起きた未来を描いているようだ。


日本経済新聞、2018/1/9 5:30
年明けの市場に漂う「1988年」の既視感
編集委員 滝田洋一
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25334330U8A100C1000000/

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2020年07月22日

巣ごもり、安倍首相

 安倍晋三首相が通常国会閉会翌日の2020年6月18日を最後に1ヶ月間、記者会見せず、国会の閉会中審査にも出席していない。
 この間、首都圏を中心とした新型コロナウイルスの感染再拡大や、政府の観光支援事業「Go To トラベル」の方針転換など大きな課題が浮上したが、説明責任を果たさない逃げの姿勢が浮き彫りになっている。

 首相は「Go To トラベル」で東京発着の旅行を対象外としたことについて、7月16日に「現下の感染状況を踏まえて判断があった」と述べただけ。
 追加の質問には答えず、17日も質問を受ける場面はなかった。

 首相は国内で新型コロナ感染が拡大した2月以降、9回記者会見したが、国会閉幕を受けて行った6月18日を最後に途絶えている。
 現在、首相の説明は官邸の出入りなどの際に記者団が質問を投げかけ、応じる場面にほぼ限られる。
 答えることもあるが、一方的に話して立ち去ることも多い。

 通常国会閉会後、東京など首都圏を中心に新型コロナ感染者が増加に転じ、今月7月17日には東京で過去最多の293人に上った。
 道内でも札幌・ススキノのキャバクラでクラスター(感染者集団)が発生するなど、政府が進める感染防止策と社会経済活動の両立に不安と関心が高まっている。

 だが、首相は記者会見に加え、週1回のペースで開かれている国会の委員会の閉会中審査にも出席していない。
 政府・与党が拒んでいるためで、さらに首相は周辺に「秋の臨時国会は開きたくない」と漏らす。
 コロナ対策などを巡って求心力のさらなる低下がささやかれる中、できる限り説明の機会を少なくすることで野党などの追及を避けたい思惑が透ける。

 これに対し立憲民主党の安住淳国対委員長は17日、「最近の首相は都合の悪いことが出てくると、官邸に『巣ごもり』する。きちんと説明して国民を納得させる責任がある」と指摘。
 自民党の森山裕国対委員長に首相出席の予算委員会集中審議を求めたが、森山氏は「かなり難しい」と述べた。


北海道新聞、2020/07/18 05:00
国会閉会1ヶ月
感染再燃、GoTo方針転換… 課題次々、首相語らず
記者会見なし、委員会出席せず
野党「官邸に巣ごもり」

(吉田隆久)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/441770

・・・安倍総理、なぜ国会で自ら説明責任を果たそうとしないのでしょう。自民党、公明党はなぜ安倍総理の国会出席を拒否するのでしょう。
・ 河井夫妻逮捕
・ 豪雨災害
・ GoToキャンペーンの滅茶苦茶
・ 感染症への対策
国会を閉じて1ヶ月、行政監視なき迷走の負担は国民に。
予算委員開会を求め続けます・・・

・・・国会に出て来ない安倍首相。予算委閉会中審査の当日も、日程上問題なさそうだが官邸にこもった。感染者の増加もGo Toをめぐる混乱も、豪雨災害への対応すらも、我関せずか。
 一方、小池都知事も選挙後最初の臨時都議会に欠席を決め込む。
 首相も都知事も、議会で語れないとは・・・

 明日22日からスタートするというのに、キャンセル料の負担問題をはじめ大混乱となっている「Go Toトラベル」事業。
 一方、新型コロナの新規感染者数は東京都のみならず大阪府や愛知県といった全国の都市部を中心に広がりつつあり、緊迫した状況となっている。
 にもかかわらず、あの人が国民の前にまったく姿を現さない。
 安倍首相だ。

 安倍首相が最後に総理会見を開いたのは、通常国会が閉会した翌日の6月18日。
 その後、東京都で新規感染者がピーク時を超えても、先週に全国の新規感染者数が600人を超えて過去3番目の人数となっても、そして「Go Toトラベル」の大幅な前倒しや“東京除外”といった一連のドタバタを引き起こしても、一切、国民に直接説明をおこなおうとしていない。
 さらには、野党からは国会の閉会中審査への出席が要求されているというのに、安倍自民党はこれを拒否。
 一度たりとも出席していないのだ。

 朝日新聞が18、19日におこなった世論調査では、「Go Toトラベル」を22日から開始することに反対と答えた人は74%にものぼり、地域を限定した緊急事態宣言の再発出についても「出すべきだ」と答えた人は65%となっている。
 このように多くの国民が政府の方針に疑念を抱いているというのに、安倍首相はそうした声を無視しつづけるばかりか、方針を国民に説明するという総理大臣としての務めさえ放棄しているのである。

 当然、「説明責任を果たせ」「無責任だ」という批判は日増しに大きくなっているが、そんななか、呆れるような記事が出た。
 きょう発売の「月刊Hanada」(飛鳥新社)9月号に、安倍首相の独占インタビューが掲載されているのだ。

 以前、本サイトでもお伝えしたように、じつはこのインタビューは7月2日に収録されたもの。
 そう、東京都の新規感染者が100人の大台に乗った日である。
 この日、午後すぎには東京都の新規感染者数が100人以上になることが報じられていたが、安倍首相は16時1分に公邸に入ると、約1時間、「Hanada」のインタビューを受けていた。
 その後、19時前に記者団のぶら下がりに応じて「西村担当大臣からしっかり考え方について述べさせてもらっている」などと答えたが、その時間はたったの1分だった。

 本来なら緊急記者会見を開き、今後の対策について国民に説明をおこなうのが当然だったというのに、それもせず、極右雑誌のインタビューには約1時間も応じながら、記者団にはわずか1分しか割かない……。
 安倍首相といえば、窮地に立つと極右メディアに逃げ込み、ネトウヨ論客にヨイショされまくって癒やされるという行動を繰り返してきたが、感染の再拡大という国民の健康と安全がかかった局面でも、同じことをやっているのである。

 しかも笑わせるのが、この独占インタビューの記事タイトルだ。
 重要な日に国民への説明を放り出したというのに、そのタイトルは「安倍総理、闘争宣言」。

 どう考えても「逃走宣言」の間違いだろ、と突っ込まざるを得ないが、さらに酷いのは、その中身だ。

「Hanada」で安倍首相が語った確保病床数やホテル室数は真っ赤な嘘だった

 まず、安倍首相は緊急事態宣言の再発出について、「直ちにそうした状況にはありません」と否定、「コロナの時代の新たな日常を国民の皆様とともに作りあげていきたい」などと悠長なことを語り、「同時に、この時期に、検査体制や医療提供体制などについても、現時点では余裕がある状況が続いていますが、さらに強化していきたい」と発言。こうアピールするのだ。

「確保病床数は一万九千床以上。重症者数は約四十名ですが、二千五百床の重症者病床数を用意し、ホテルなども一万九千室以上を確保しています。次なる流行の波を備えるために、これらの体制や整備について都道府県とも連携しながらしっかりと対応していきます」

 安倍首相はこう豪語していたわけだが、はっきり言ってデタラメもいいところだ。
 3日には菅義偉官房長官も同様に、全国の確保病床数は1万9000床程度で、東京都では3300床、ホテルなどの宿泊施設も全国で2万弱、東京都で3000室弱と説明していた。
 ところが実際には、この当時も東京都は病床数を1000床から2800床に増やそうとしている最中で、16日時点でも確保病床数は1500床。
 ホテルも同様で、現状、確保できているのはなんと約370室にすぎず、きょうになって「7月中に1000床を確保する」と決めたばかりだ。

 ようするに、安倍首相は実態とはまったくそぐわない数字を並べ立てて、「現時点では余裕がある状況が続いている」などと説明しているのである。
 もし、この数字をインタビューがおこなわれた2日に会見を開いて豪語していたなら、いまごろ「その数は大嘘だったではないか」「緊急事態宣言の再発出を否定した根拠が崩れた」などと槍玉にあげられていたはずだろう。

 だが、インタビュアーである「Hanada」の花田紀凱編集長は、当然ながら安倍首相の説明に鋭く切り込むこともなく、むしろ「150日間に及ぶコロナとの闘いを改めて振り返って」などと、まるで終わった話かのように進行。
 もちろん、対する安倍首相も「我々が経験したことのない未知のもの」と強調した上で、こんなことを語るのだ。

「大変な感染力を持ち、急速に拡大していくなかでどう対応すべきなのか、あらかじめ模範解答が存在している世界ではありません。大変厳しい状況が続くなかで、個々の対応に様々なご批判や不満が出るのはやむを得ません」

 国民から批判や不満が高まったのは、後手後手対応はもちろんのこと、保護者の休業補償策も打ち出さないまま唐突に全国一斉休校を決めたり、星野源と勝手に便乗コラボして優雅な休日動画を投稿したり、感染予防策としては効果が期待できない布マスクである「アベノマスク」を配布したりと、国民の健康や生活を真正面から無視した施策ばかり打ち出したからだ。
 なのに安倍首相は、「厳しい状況だったのだから批判や不満が出るのは仕方がない」などと、謎の目線から自分の失策を自ら免罪しているのである。
 お前は何様だ、という話だろう。

 しかも、安倍首相はこの期に及んでも「布マスク配布の一定効果は間違いなくあったんだろうと思います」と言い張り、星野源に乗っかった例の動画に批判が集まったことにも「私というモデルが悪かったのかもしれませんね(笑)」などと笑って済ませる始末。
 国民が不安に晒されているなかで無神経な動画を投稿したことを、これっぽっちも反省していないのだ。

国会を閉会させた安倍首相が「緊急時に対応する憲法の規定は参議院の緊急集会しかない」と改憲を主張

 そして、インタビュアーの花田編集長が「総理はこの間、148日連続で休みなく働かれて、「安倍日誌」を見ると動画を撮影した日も自宅であのようにくつろいでいたわけではなく、官邸で仕事をされている。動画をよく見ると、顔にもお疲れが出ているようにも感じました」とヨイショしたかと思えば、安倍首相は「表情に出てしまっているとすれば、リーダーとしてはまだ精進が足りませんね(笑)」「仰るとおり、あの日も官邸で仕事でした。国民の命と健康を守ることが総理大臣の使命ですから。一日、一日、懸命に務めを果たしていました。いまも日々、全力を尽くしています」などと胸を張るのである。

「いまも全力を尽くしています」って、繰り返すがこのインタビューがおこなわれた日は、首都・東京で感染が再拡大していることがはっきりと数字に出た、その日である。
 ようするに、会見もおこなわず極右雑誌のインタビューに答えることが、安倍首相にとっては「全力を尽くしている」ことになるらしい。

 この無責任ぶりには言葉を失うしかないが、しかし、もっとも開いた口が塞がらなくなったのは、憲法改正にかんする、安倍首相のこの発言だ。

「今回、新型コロナウイルス感染症という未知のウイルスの脅威に直面しています。そのなかにおいて、緊急時に対応する憲法の規定は参議院の緊急集会しかないのが実情です。「いまのこの緊急時を利用して憲法の緊急事態条項について議論するのはおかしい」という人がいるのですが、それこそおかしい。私は全く逆だと思います」

「未知のウイルスの脅威に直面」しているというのに国会を閉会させ、閉会中審査にも出てこようとしない総理大臣が、「緊急時に対応する憲法の規定は参議院の緊急集会しかない」などと憂って憲法改正を訴える……。
 自分がいかに滅茶苦茶なことを言っているのか、この男はわからないのだろうか。

 感染が全国に広がりつつあっても国会にも出ず、記者会見も開かず、国民への説明を放棄しつづけ、極右雑誌のインタビューにはしっかり登場する総理大臣。
 この事実だけでも、安倍首相をリーダーに据えていること自体が「国難」であると言わざるを得ないが、その上、〈首相は周辺に「秋の臨時国会は開きたくない」と漏ら〉しているという(北海道新聞19日付)。

 この非常時に「臨時国会は開きたくない」と言い出す──。
 この報道に対し、松尾貴史氏は20日、〈国会を嫌がる国会議員は辞めるべきです〉とツイートしたが、まったくそのとおりだろう。

「闘争宣言」ならぬ「逃走宣言」してしまう安倍首相に、国民はいつまで付き合わされなくてはならないのだろうか。


リテラ、2020.07.22 01:17
感染再拡大、GoToトラベル大混乱も、安倍首相は会見を開かず逃走!
代わりにお仲間の極右雑誌「Hanada」に登場し嘘八百

https://lite-ra.com/2020/07/post-5534_3.html

 立憲民主党の蓮舫副代表が2020年7月22日、ツイッターに新規投稿。

 野党側が「Go To トラベル」の実施によって新型コロナウイルスの感染拡大が懸念されるとして、安倍晋三首相に直接ただす必要があるとして予算委員会の集中審議を行うよう求めていることを受け、「通常国会閉会から1ヶ月を超え黙して語らない安倍総理にぜひ国会へ」と呼びかけた。

 蓮舫氏は「参議院においても先に開かれた委員会の理事会で、野党から安倍総理出席の集中審議を再三求めています」と切り出し、「委員会開会は自民公明の与党が肯かない限り開かれません。通常国会閉会から1ヶ月を超え黙して語らない安倍総理にぜひ国会へ。与党の返事を待ち続けています」と訴えた。

 同氏は21日にも「安倍総理、なぜ国会で自ら説明責任を果たそうとしないのでしょう。自民党、公明党はなぜ安倍総理の国会出席を拒否するのでしょう」と投稿。

「河井夫妻逮捕 豪雨災害 Go To キャンペーンの滅茶苦茶 感染症への対策」と説明責任が求められている事案を列挙し、「国会を閉じて1ヶ月、行政監視なき迷走の負担は国民に。予算委員開会を求め続けます」とつづっている。


デイリースポーツ、2020.07.22
蓮舫氏、1ヶ月以上“沈黙”続ける安倍首相に説明責任を問う
「ぜひ国会へ」

https://www.daily.co.jp/gossip/2020/07/22/0013533335.shtml

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「小公子」の名訳

He looked at Mr. Hobbs wistfully.

“England is a long way off, isn't it?” he asked.

“It's across the Atlantic Ocean,” Mr. Hobbs answered.

“That's the worst of it,” said Cedric. “Perhaps I shall not see you again for a long time. I don't like to think of that, Mr. Hobbs.”

“The best of friends must part,” said Mr. Hobbs.

“Well,” said Cedric, “we have been friends for a great many years, haven't we?”

“Ever since you was born,” Mr. Hobbs answered. “You was about six weeks old when you was first walked out on this street.”

“Ah,” remarked Cedric, with a sigh, “I never thought I should have to be an earl then!”

“You think,” said Mr. Hobbs, “there's no getting out of it?”

“I'm afraid not,” answered Cedric. “My mamma says that my papa would wish me to do it. But if I have to be an earl, there's one thing I can do:
I can try to be a good one. I'm not going to be a tyrant. And if there is ever to be another war with America, I shall try to stop it.


此時なにか物足りなそふにホツブスを見詰めてゐましたが、暫くして、

おぢさん、イギリスは大変遠いんだネ?
と尋ねました。

ソウサ、大西洋を渡つて向ふだよ、
と答へました。

僕はそれが嫌なんですよ、ヒヨツトスルトいつまでか逢れないネ、おぢさん、僕はそれを 考へると嫌になるよ。

親友も離れさるを得ずといふことがあるは。
とホツブスがいひました。

ソウ、おぢさんと僕は幾年か親友だつたんだネ。

ソウトモ、おまへが生れるからだわ、此町を抱かれて歩いたのはなんでも生れてから四十 日もたつてからだつけ。

セドリツクは溜息をつきながら、
アヽ\/、僕は其時分侯爵ナンカニならなけりやならないと思はなかつたつけ。

おまへ、よす訳にはいかないのかナ、

どふもそうは行ないようですよ、かあさんがネ、とふさんが入らつしやればキツトそうさ せ度つておつしやるつていひましたよ、ダガネ、
僕はどうしても侯爵にならなくっちやい けないんなら、こふする積りですよ、ネイ、僕は極く好い侯爵になるんです、圧制家にな んかはならないんです、そうしても一度アメリカと戦争しよふナンテいわふもんなら、僕 が一生懸命で止めませう。

(『女学雑誌』229号、1890年)


 明治の女流文学者、特に「小公子」の翻訳で有名な若松賤子は、会津藩士松川勝次郎の長女として生まれた。
 父は隠密だったと言われ島田姓を名乗っている。生まれ年に因み、甲子(かし)と名付けられた。

 4歳で戊辰戦争、松川家の没落、一家離散を体験する。
 6歳で母を失い、横浜の貿易商、山城屋の番頭大川甚兵衛の養女となる。
 7歳の時、横浜の自宅近くに開かれた婦人宣教師キダーの塾に入学し、英語や讃美歌、聖書の教えを学んた。
 しかし、翌年山城屋が倒産し、大川家も債務を負い財を失って東京へ転居した。
  
 1875(明治8)年、キダー女史の塾がフェリスセミナリー(フェリス女学院)として寄宿舎を備えて開校し、11歳の賤子は再びキダーの下で学びはじめる。
 寄宿舎から日曜毎に教会に通い、教会新聞の編集を手伝い、英文の物語を読むのがとても楽しかったという。
 13歳で洗礼を受ける。

 1882(明治15)年フェリス第1回目の、ただひとりの卒業生として英語で卒業演説を行った。

 その後、母校の教師となり、社会的経済的に自立したことを自覚し、名前を「志を讃える」という意味を込めて、甲子から嘉志子と改める。
 学内での賤子は、生理学・健全学・家事経済・和文章英文訳解の4教科を担当する。
 また、1884(明治17)年4月、フェリスの増改築落成式においては、女子教育と女性の社会的地位向上の必要性を演説した。
 これほどはっきりと女の権利の主張を聞くのは初めてだと来賓を驚かせた。

 他にも、時習会という文学研究会を作り、生徒達に外国文学を紹介したり英詩を朗読するなど、文学教育にも心を傾けた。
 この時習会については、「時習会の趣旨」として、巌本善治が主宰していた『女学雑誌』第13号に無記名ではあるが寄稿している。
 同年、同誌に初めて若松賤と署名し、紀行文「舊き都のつと」を発表する。

 若松は故郷への想い、賤は神のしもべという意味で深い信仰心から、この筆名を用いた。

 1885(明治18)年に創刊されたこの雑誌には、婦人問題を扱う総合誌として賤子も深く関心を持っていた。
 この頃、肺結核のため吐血している。

 1889(明治22)年、明治女学校の教頭でもあった巌本善治と結婚し退職する。
 しだいに賤子は自分を表現する適切な言葉が欲しいと感じ、日常語に近い新しい文章を探し始める。
 二葉亭四迷等が起こした言文一致体の会話を主として進め、「野菊」「お向ふの離れ」(『女学雑誌』第182号、明治22.10.5)、「すみれ」(『女学雑誌』第183〜187号、明治22.10.19〜22.11.16)、「忘れ形見」(『女学雑誌』第194号、明治23.1.1)などを発表し、女流文学者の名を高める。
 その文学観はキリスト教精神と西洋の新しい倫理観に支えられたものだった。

 1890(明治23年8月から1892(明治25)年1月まで、バーネットの「Little Lord Funtleroy(リトル・ロード・フォントルロイ)」を「小公子」として『女学雑誌』に翻訳連載する。
 わかり易く澄み切った口語訳のこの小説は、広く読者を集めたばかりでなく、森田思軒、石橋忍月、坪内逍遙等多くの文学者からも賞賛された。


 1893(明治26)年には30編近い文章を発表し、1894(明治27)年からは『The Japan Evangelist(日本伝導新報)』の婦人欄と児童欄を担当し、日本の行事や習慣をみごとな英文で外国人に紹介している(賤子の英文著作は『英文巌本嘉志子』(龍渓書舎 1982)として訳文とセットで刊行)。
 しかし、激務が続き病いは進行した。
 死を予知した賤子は体力を振り絞り、子供の自由と権利、幼児教育の重要性、女性解放、キリスト教の崇高性を作品を通して訴えた。

 1896(明治29)年2月、明治女学校が火事になり、体力の衰えていた賤子は5日後、心臓麻痺のため亡くなる。
 墓石にはその遺言どおり「賤子」とのみ記されている。

 1897(明治30)年、『小公子』は博文館から1冊本として発行され、1930(昭和5)年まで42版を重ねている。
 岩波文庫としても、1927(昭和2)年から1955(昭和30)年頃まで出版され続け、日本中の少年少女の愛読書となり、日本児童文学史上に大きな功績を残した。
 賤子は、言文一致体を推進した女流文学者・翻訳家として、また日本近代女性の開拓者であり教育者としても高く評価されている。


福島県立図書館
「小公子」の名訳で知られる若松賤子(わかまつ しずこ、1864.3.1〜1896.2.10)
〈児童図書研究室:佐藤加与子〉
https://www.library.fks.ed.jp/ippan/jiken/Kj/Kj4.htm

『女学雑誌』の発行の趣旨には、
「吾(われ)等(ら)の母(はは)となりて吾(われ)等(ら)を護(まも)り育(そだ)て吾(われ)等(ら)の姉(あね)となりて吾(われ)等(ら)を導(みちび)き教(おし)へ吾(われ)等(ら)の妻(つま)となりて吾(われ)等(ら)を助(たす)け慰(なぐさ)め其情(じょう)は花(はな)の如(ごと)く其(その)愛(あい)は蜜(みつ)の如(ごと)く暴(ぼう)武(ぶ)なる世(よ)の有様(ありさま)をして滑(なめ)らかにかつ 耿(あきら)かならしむる者(もの)は即(すなわ)ち婦(ふ)人(じん)女(じょ)流(りゅう)なり」
とあります。
 女性が社会においていかに貴重な存在かを世に知らしめようとする内容であります。

 さらに、左下の方をご覧いただきたきますと、
「西洋(せいよう)学者(がくしゃ)の言(げん)に国内(こくない)婦(ふ)人(じん)の地(ち)位(ゐ)如何(いかが)を見れば以(もっ)て其(その)国(くに)文明(ぶんめい)の高(こう)下(げ)をさとるべし」
つまりその国の女性の地位がいかなるものかを見れば、その国の文明の度合いが分かるという説です。

 では、我が国はどうかといえば
「我国(わがくに)現今(げんこん)の婦(ふ)人(じん)を見(み)て日本(にっぽん)は尚(な)ほ開(かい)化(くわ)せし国(くに)に非(あら)ずと云(い)はれんに今(いま)之(これ)を言(い)ひとくべき 理(ことわり)なき」
とあります。
 日本女性の地位が本当に文明開化にふさわしい状態になっているかを問うていくわけです。
 そして、是非、文明開化にふさわしい日本女性の地位を確立したいという問題意識と志の下に、雑誌が創刊されたと主張されます。
 引用の末尾には、
「欧米(おうべい)の女権(じょけん)と吾(わが)国(くに)従(じゅう)来(らい)の女(じょ)徳(とく)とを合(あわ)せて完(くわん)全(ぜん)の模(も)範(はん)を作(つく)り」
つまり、明治時代は欧米のさまざまな文物が入ってくる時代でしたが、女性観に関しても、欧米社会の女性の権利意識と日本古来の女性の徳を結びつけ、日本社会にふさわしい道徳的女性を養成するために、この雑誌を出版しますよ、という高い志が示されているのです。

『女学雑誌』に限らず、明治時代に出された女性雑誌はほぼ同じような問題意識を持っていました。
 今、当時の女性雑誌の復刻版を回覧いたしますが、どの雑誌を見ても、新しい女性像 をめざす熱い意思が書かれております。

 さて、新島八重が生きた時代は、こういった女性に対する考え方が大きな変化を被った時代でありました。
。。。
 そして、新島八重は、新島襄と婚約してからキリスト者になりまして、受洗して、襄もキリスト者ですから、キリスト者同士の夫婦ということになりました。
明治の結婚を考える上でキリスト教は大変重要な要素になっております。

 キリスト者同士の夫婦は、他にもありまして、ここにあります若松賤子と巌本善治夫妻は、ともに協力して明治の女子教育に貢献しました。
 厳本はまさに、『女学雑誌』を長年主宰した男性でありましたし、妻の若松賤子もこの雑誌に執筆し、明治の女性啓蒙に大きく貢献したカップルでした。
 興味深いことに、若松賤子は、八重と同郷の会津若松の出身で横浜のプロ テスタントの英語塾で学んで「小公子」を翻訳、1889(明治22)年に横浜で厳本と結婚しております。
 この時代、啓蒙的な活動をしたキリスト者夫婦は他にも見られました。
 明治時代はまだ儒教の影響があり、女性は男性よりも三歩下がって歩くという考え方が強く、明治の女性雑誌の記事でも、西洋流の男女平等を主張しつつ、日本は儒教道徳の国であるから、女性は男性を立てて内助の功に徹しなければならないとの考え方が同時に説かれていました。
 若松賤子と巖本善治の夫婦が、協力して社会貢献したカップルであったのは、二人ともキリスト者であったため、 儒教道徳とは異なる、男女平等な関係を実践できたからです。

 明治のキリスト者夫婦として注目すべき存在としては、他に石坂美那子と北村透谷の二人がい ます。
 彼等もキリスト教式で、1888(明治21)年に結婚しました。
 北村は、残念ながら若くして自殺してしまうのですが、明治の雑誌に盛んに新しい恋愛観や女性観を書いて、当時の社会に影響を与える言論活動をした人です。
 彼らの結婚には、実質的な恋愛結婚の実現という歴史的な意義もありました。
。。。


浦安市国際交流協会(UIFA)
2012 年度総会記念講演会記録
明治時代に退化した男女「対等」
―新島八重の生涯に見る近代日本―

講師:同志社大学大学院教授、佐伯順子氏
http://www.uifa-urayasu.jp/old/kouennkai/2012.5.26sokaikoensaeki.pdf

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2020年07月21日

川端康成の名訳

ノーベル賞作家川端康成の名作でよみがえる児童文学の傑作!

「十二国記」の18年ぶりの新作長編『白銀の墟 玄の月』が刊行されたとき(第一巻、十二国記、新潮文庫、2019年10月)、作者の小野不由美(1960年生まれ)のインタビューが「波」2019年11月号に載った。
 その中に、ちょっと気になるくだりがあった。
 子供の頃(中高生くらいまで)、一番お好きだった物語は何ですか? 影響を受けた作品や作家はありますか?
との質問に対して、作者は次のように答えている。
 数え切れないほどあるのですが……。小学生の頃はバーネットの『小公子』が異様に好きだった覚えがあります。川端康成訳の本を貰って、事あるごとに読み返していました。ほかにあまり本を持っていなかった、というのもあるのですが。……と改めて振り返ると、小さい泰麒は、川端訳のセドリックの影響をもろに受けていますね。いま気付きました……。(*)

 なに、小公子?
 私は中学卒業まで本を一冊も読んだことがなかったので、児童向けの世界の名作を読んでいない。
 もちろん、書名は聞いたことがあるし、『小公子』のだいたいの内容も知っている。しかし読んだことがないのだ。
「十二国記」のファンとしてはすごく気になる。
 作者は「異様に好きだった」と言っているのである。
 これは、単なる「好き」というレベルではない。
 しかも、「小さい泰麒は、川端訳のセドリックの影響をもろに受けていますね」との重要な告白がある。
「いま気付きました」というのは、とてもリアルだ。
 その影響は、作者の血肉となって普段は意識することがなかったが、質問を受けて初めて、体の奥のほうから幼少期の読書体験が表面に浮かび上がってきた、ということだ。
 これ以上、リアルな告白はない。

「十二国記」のファンなら、ぜひともその『小公子』を読みたい。
 小野不由美が幼い泰麒のモデルにしたというセドリックとは、それではどんな少年だったのか。

 折よく川端康成訳の『小公子』が新潮文庫から刊行されるというので、さっそく読んでみた。

 名作なのでその内容は広く知られているが、簡単に紹介すると、アメリカで育った少年が伯爵の跡継ぎとしてイギリスに渡ったあとの日々を描く小説である。
 イギリスにわたる前、アメリカにおける日々を描く章も全体の4分の1ほどあるが、頑固な老伯爵の心をほぐしていく後半が、読みどころと言えるだろう。

 幼い泰麒と、セドリックとの共通項よりも、どこが違っているのか、その違いをあげたほうがいい。
 まず、いちばん大きな違いは、セドリックにはアメリカに、食料品店のホップスおじさん、靴みがきのディックなど、親しい友人がいることだ。
 誰よりも愛しているお母さんもいる。
 さらに、イギリスに渡っても、誰もが心を開く存在である。
 邪悪な人間が登場しないわけではない。
 伯爵の財産を狙う悪党はいるのだ。
 しかしセドリックの「無限の愛」がその侵入を許さないのだ。

 一方の泰麒は、こちら、つまり蓬莢にいるときは高里要だが、こちらの世界に友はいない。
 その高校生時代を描くのが『魔性の子』(新潮社、1991年9月)だが、おもねる同級生はいても大半は気味悪がられるだけ。
 高里は幼いときに神隠しにあい、1年2ヶ月後、お祖母さんの葬式に帰ってくるが、その後まわりで次々に人が死ぬので、両親も弟も彼を敬遠している。
 つまり高里要は誰にも愛されない存在なのだ。
 ここから先は推測になることをあらかじめお断りしておきたい。

 セドリックと泰麒を取り巻く状況はかくも異なるのに、どこに共通点を見いだしたのか。
 それはおそらく、「此処ではない何処か」へ行くことだ。
 友がいるかいないか、愛されているか愛されていないか。
 その違いを取り払ってしまえば、セドリックも高里要も、此処ではない何処かへ行く物語である。
 本来の自分がいるべき場所はどこか、という根源的な問いが、その底にある。

 もちろん、セドリックの物語は一直線であり、高里要の物語は複雑に入り組んでいる。
 その違いは当然ある。
 しかし違いを積み重ねれば、逆に共通項が見えてくる。
 これは、本当の自分を探す旅の物語だ。

※「波」2020年7月号より

「此処ではない何処か」へ行く物語
北上次郎 (きたがみ・じろう 文芸評論家)

(*)
 昨年2019年、18年ぶりの続編が発売され、シリーズ累計1200万部の大ヒットとなった「十二国記」。
 新作発表時のインタビューで著者の小野不由美さんは、こんなお話を聞かせてくださいました。

〈――子供の頃(中高生くらいまで)、一番お好きだった物語は何ですか? 影響を受けた作品や作家はありますか?
小野: 数え切れないほどあるのですが……。小学生の頃はバーネットの『小公子』が異様に好きだった覚えがあります。川端康成訳の本を貰って、事あるごとに読み返していました。(中略)改めて振り返ると、小さい泰麒は、川端訳のセドリックの影響をもろに受けていますね〉(「小野不由美インタビュー『十二国記』の世界」「波」2019年11月号)

『小公子』は明治時代の若松賤子訳以来、さまざまな翻訳で日本人にも親しまれてきましたが、小野不由美さんが愛読されたのは『少年少女世界名作文学全集第9巻 小公子』(昭和35年5月、小学館)の川端康成訳でした。
 新潮文庫はこの名訳を装いも新たに刊行します。

 “小さい泰麒”とは、「十二国記」シリーズのEpisode2『風の海 迷宮の岸』に登場し、Episode0『魔性の子』、Episode8『黄昏の岸 暁の天』、そして最新刊『白銀の墟 玄の月』を経て成長していくシリーズ最重要人物の、幼い姿のこと。

『小公子』の主人公・セドリックは、頑迷で孤独な老伯爵である祖父を信じ、その愛くるしさや清らかな心で正しい道へと祖父や周囲を導きます。

 ノーベル賞作家が瑞々しく豊かに訳したセドリックが、泰麒へどのような影響を与えたのか、読み比べる楽しみもあるかもしれません。

 装画は「十二国記」シリーズでお馴染みの山田章博さん。
 今月の「波」の表紙も飾っています。

 長きにわたり世界中で読み継がれてきた児童文学の傑作を決定版的な名訳でぜひお読みください。

※「波」2020年7月号より
(今月の表紙の筆蹟は、山田章博さん)


『小公子』
フランシス・ホジソン・バーネット/著 、川端康成/訳
頑迷な老伯爵の心を少年の純真さが解きほぐす。
川端康成の名訳で蘇る児童文学の傑作

https://www.shinchosha.co.jp/book/221405/

原題: Little Lord Fauntleroy, 1886 
バーネット夫人: Frances Eliza Hodgson Burnett, 1849 - 1924

 今の若い人々は、バーネットというアメリカの女流作家についてほとんど知らないと思うけれど、1944年生まれの初老の我々には、かなり心に残っている。
 中学三年生ぐらいまで必読の作家であった。
 小説、詩、短歌のブンガクか、それとも映画の方が未来があるのかと、娯楽が少いようで熱い時代にである。
 とりわけ、バーネットの『小公子』は、少年の純情というか、その綺麗な性格で引き取られたお爺さんの気持ちを引き寄せていく小説として当方の胸底に残っている。
 バーネットの小説は、日本では日清戦争前後から少年少女に読み継がれ、たぶん、第二次大戦中は断たれ、戦後の物はないが感性がぐわーんと上向いていくまで喜ばれ迎えられたはずである。

 おれは、その頃、バーネットのこの『白い人たち』(文芸社、新装版、2005年2月、原題:The White People、1917)を読んだ記憶がない。
 訳者の砂川宏一(1955年生まれ)さんは、かつて川端康成が『白い人びと』として抄訳していることを紹介している(『小公子』、ポプラ社、1958年刊の中)。
 賞と文学というのはあんまり関係がないようで、場合によってはナンダカ勲章のように負になるものであるけれど、川端康成がノーベル賞をもらったというよりは、かの『雪国』で傍観者の主人公とひたむきな芸者の間にゆききする虚無の美学に参るわけで、その川端康成が訳す気持ちになったのであるから、読み手を鷲掴みにする何かがあるはず。
 読むと、バーネット自身の力なのか、砂川宏一さんの訳がバーネットの力を生かすことに命を削ったのか、文章が易しいのに、切れと粘りの二つを二つながらに同居させているとすぐに気がつく。
 子供達が読むことができると同時に、大人が引きずられる文体となっている。
 スコットランドの荒野、そこに立つ古びた城、城の内側と、行ったことのない読み手にも、きっちりと夢と現実として見えてくる。
 少年少女達と初老の当方が、この描写を共にすることは、なぜか、とっても嬉しい。
 改めて、小説の根源的な力を感じてしまうし、“ブンガク”を、やはり“文学”と表記したくなる。
 冷ややかさと自虐が入り込む隙がないのだ。

 往時。アメリカやイギリスを含めたヨーロッパだけでなく、日本をも揺り動かした大作家だから当然といわれればそれっきりだけど、人間の描き方も、大自然とがっちり交叉している。
 笛吹きの人間も、主人公を出生から見守る二人も、主人公を含めた主な三人も。

 読み手をたぐり寄せる技法もまた、脱帽を深々と三度ほどする。
 魂を見抜く力の伏線の丁寧さと説得力、サスペンス性、ピュアな愛と、近頃はいきなり物書きを志す人が多いけれど、読んで学ぶべきいろはの“い”が、きっちりある。
 なにより、バーネットの人類を始原から見つめる、近代の小賢しい科学によって全て制圧できるとする傲慢さへの、羞じらう反省があり、心を撃つというより、圧倒してくる。
 忘れて久しいものが、確と、ある。

 ああ、これは、大人向けの話なのだなと解るのではあるけれど、我が子といっしょに読みたいもの。
 よく蘇った訳本と、評者は誰へともなく感謝したくなる。


文芸社・小嵐九八郎の書評コーナー、2005/12/05
「ピュアそのものの精神」(とか)
https://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/koarashi/article_230_26.jsp

posted by fom_club at 10:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする