2020年08月22日

75年前の今日、日ソ停戦協定締結

[ユジノサハリンスク細川伸哉] 第2次世界大戦で日本が降伏表明後の1945(昭和20)年8月下旬、南樺太に侵攻していた旧ソ連軍と日本軍が交わした停戦協定に関して、ロシア・サハリン州の歴史研究者が調べた本の和訳が、戦後75年の今夏、日本で出版される。
 多くの悲劇が起きた樺太日ソ戦の陰に隠れてきた協定の存在を、多くの人に知ってもらおうと道内関係者が出版に協力。
 日ロ双方の史料を基に当時の状況を浮かび上がらせた。

 協定は1945年8月22日、ソ連軍が南へ侵攻を進める中、国境線と豊原(ユジノサハリンスク)のほぼ中間に位置する知取(マカロフ)で結ばれた。
 ソ連側への武器の引き渡しのほか、鉄道や通信施設の管理譲渡など8項目からなる。

 本は、ユジノの州立郷土博物館元館長のニコライ・ビシネフスキーさん(61)が3年前に出版。
 和訳本「樺太における日ソ戦争の終結 知取協定」(A5判、144ページ)は、御茶の水書房(東京)から8月上旬に出版が予定されている。

 ビシネフスキーさんは12年前、ユジノで行われた北大の白木沢旭児(あさひこ)教授(日本近現代史)の協定に関する講演を聞き、関心を持った。
 協定が「サハリンでは全く知られていなかった」ためで、白木沢教授らから日本側の史料提供を受けながら、ソ連時代の公文書などの独自の調査を進めた。

 協定が結ばれた知取の消防署は、現在も消防署で当時の建物が一部使われている。
 高台にあり、ビシネフスキーさんは「周辺状況を見渡しやすい場所が選ばれた」と指摘。
 日本軍が停戦を部隊に伝えた書類に記されたソ連軍将校のサインを、ロシア所蔵の史料と照合し、筆跡から対ドイツの激戦をくぐり抜けてきた将校だったことも分かった。
「知られざる本土決戦 南樺太終戦史」の著書がある藤村建雄さん(51)=千葉県=は「旧ソ連が南樺太占領を確実なものとするため、練度の高い軍人を投入したことが見える」と話す。

 白木沢教授が「日本側の史料だけでは分からなかった、ソ連軍の作戦や日本軍に対する認識なども明らかにされており、興味深い」と和訳本の出版を提案し、解説を担当。
 過去にビシネフスキーさんの著書の翻訳を手掛けた札幌の小山内道子さんが和訳した。

 樺太戦はソ連軍が日ソ中立条約を無視して侵攻し、日本のポツダム宣言受諾後も占領作戦を続けた。
 協定締結後、サハリン占領を終えたソ連軍が北方領土を不法占拠したこともあり、日本で停戦協定に注目が集まる機会は少ない。

 一方、ロシアでは樺太戦は北方領土占拠と同様に「軍国主義日本から解放した」とする「栄光の歴史」が強調されることが多い。
 ビシネフスキーさんの本でも、ソ連軍の指揮官らの活躍が描かれている。

 ロシア語本の出版後、マカロフの郷土博物館には協定に関するコーナーが新設され、記念碑を設置する計画もある。
 ビシネフスキーさんは「戦争から平和に移ろう過程を知るきっかけとなればうれしい」と話す。


[写真-1]
和訳出版される停戦協定に関するロシア語の本を机に置き、思いを語るニコライ・ビシネフスキーさん

[写真-2]
マカロフ郷土博物館で、停戦協定を紹介する展示

[写真-3]
現在のマカロフ消防署。1階部分の一部が戦前の知取消防署時代のものという

[地図]
知取(マカロフ)、豊原(ユジノサハリンスク)

北海道新聞、2020/07/21 05:00
「樺太停戦」に光を当てたい
ユジノの歴史研究者、日ソ協定を独自調査
北大教授ら協力、和訳本出版へ

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/442487

消滅する日本由来の狭軌鉄道

 ユーラシア大陸の東、北海道の北に浮かぶ樺太島(ロシアでの呼び名はサハリン島)は、日露戦争後の1905年のポーツマス条約により、北緯50度線を境に南北に分割され、北は帝政ロシア(後にソ連)領に、南は日本領になりました。しかし、第二次大戦末期の1945年8月のソ連対日参戦によって、ソ連軍が南樺太を占領。以降、樺太島全土を、ソ連(後にロシア連邦)が実効支配し、現在に至ります。今日のロシアの行政区画では、樺太島は極東連邦管区の中のサハリン州に属しています(樺太島だけでなく、千島列島=クリル諸島もサハリン州に所属)。

 サハリン南部には今でも、日本統治時代の遺産が、わずかに残っています。その一つに、かつて日本が敷設した軌間1,067mmの狭軌鉄道もありました。ところが、ロシアは2003年からサハリンの鉄道の軌間をロシア本土と同じ1,520mmの広軌に入れ替えるプロジェクトに着手。曲折を経て、このほど2019年9月1日より、広軌による鉄道運行が開始されました。

 こうして、サハリン島における日本統治の名残が、また一つ姿を消しました。このニュースに接して、サハリンにおける貴重な日本遺産の風景を取り上げてみたくなりましたので(あくまでも私の限られた体験の範囲内ですが)、今回はこのテーマでお送りします。

 ちなみに、プーチン政権は間宮海峡(その最狭部のネベリスコイ海峡)に橋を架けてロシア本土とサハリン島を結び、ここに鉄道を通すという壮大なプロジェクトを計画しています。

 サハリンの鉄道をロシア本土と同じ1,520mmに作り替えたのは、将来的に大陸とサハリン島を鉄道で行き来できるようにするための布石でもあります。

[写真-1]
サハリン州地誌博物館は、かつての樺太庁博物館。
[写真-2]
2013年、ユジノサハリンスク駅にて

 上の写真は、まだ線路が狭軌だった2013年に、州都ユジノサハリンスク(かつての日本名は豊原)の駅で筆者が撮影したもの。
 その後、線路、車両ともに広軌のそれに一新されてしまったはずなので、今となっては貴重なショットと言えるかもしれません。

 なお、「D2-007」と書かれた手前にある列車は、1986年に富士重工宇都宮車両工場で生産されたものだそうです。
 当時のソ連運輸通信省が、日本の鉄道車両技術を参考にする狙いもあり、10編成40車両を、当時の日商岩井を介して輸入したのだとか。
 寂しいことに、サハリンにおける狭軌の廃止に伴い、この列車も引退する方向のようです。 

博物館が代表的な建築遺産

 今日のサハリンの街中を歩いてみても、日本統治時代の建築物などは、あまり残っていません。そんな中、かつて日本が建てた樺太庁博物館の建物が、現在はサハリン州地誌博物館として使用されており、日本風の建築が往時を偲ばせています([写真-1]参照)。樺太庁博物館は1937年に開館し、日本の城郭屋根を乗せた当時流行の帝冠様式の建築でしたが、1945年8月24日にソ連軍によって接収されました。

 サハリン州地誌博物館では、ソ連体制下では、1905〜1945年の日本時代についての資料は展示されていなかったそうです。
 ソ連崩壊後は、日本時代の資料についても公開されるようになりました。北緯50度線の国境標石などを見ることができます(下の[写真-3]参照)。

[写真-3]
左側が日本の国境標石、右側がロシアの国境標石

 個人的に、2013年に初めてサハリン州地誌博物館を見学して、衝撃を受けた写真があります。日本は1945年に敗戦し、南樺太をソ連に明け渡したわけですが、日本人住民はすぐに本土に戻れたわけではなく、多くは2年ほど、ソ連統治下のサハリンで苦難の生活を余儀なくされたようです。下の〔写真-4]は、ソ連統治下で初めて迎えた1946年のメーデーの様子。「国営オットセイ工場」という名前や、オットセイのハリボテがとぼけた雰囲気を醸していますが、笑顔のロシア人に対し、笑っている日本人は一人もおらず、彼らを襲った過酷な運命に思いを致さざるをえません。

 なお、2018年に私が再度この博物館を見学した時には、このオットセイ工場の写真は見当たらなかったと思います。ひょっとしたら、もう展示はされていないのかもしれません。

[写真-4]
オットセイは、おそらく肉や油を利用したのだと思われるが、詳細は不明

遠征軍上陸記念碑

 あれは、サハリン島の南岸、コルサコフ(日本時代の呼び名は大泊)に程近いプリゴロドノエにある「サハリン2」の液化天然ガス(LNG)プラントを視察しに行った時のことでした。その近くの丘に登ってみたところ、そこに日本語の石碑がありました(下の[写真-5]参照)。

 横倒しになった碑文には、「遠征軍上陸記念碑」とあります。私は確認できませんでしたが、後日、日本総領事館でうかがったところ、1905年という年号も書いてあるとのことでした。つまり、日本が日露戦争に勝利して南樺太を領有した際に、軍が当地に遠征し、それを記念したもののようです。

 ちなみに、今日この地は海水浴場として地元民に人気があるようで、丘の周りは駐車された車で溢れていました。打ち棄てられた日本語の石碑、屈託のない笑顔で溢れるビーチ、そしてその向こうに見える世界最大級のLNGプラントと、なかなかシュールな風景でした。

[写真-5]
コルサコフ(かつての大泊)近郊にある遠征軍上陸記念碑

旧北海道拓殖銀行大泊支店

 そのコルサコフの中心部には、日本統治時代の建築遺産が、ひっそりと残っています。旧北海道拓殖銀行の大泊支店の店舗がそれです。私自身は訪問したことがないので、下に見るように、かつての同僚が撮った写真をお借りしました。

 同行が樺太で営業を開始したのは日露戦争が終わって間もない1905年で、日本銀行の委託を受けた拓銀が社員を派遣。1907年には正式に支店となり、一部預金為替業務も開始したということです。

 大泊支店はソ連の南樺太占領によって閉鎖されたものの、建物は残り、近年は日本の極真空手の道場として使われたりしていたそうです。内部は大理石の柱が立つモダンな造りながら、写真に見るように、近年は建物の傷みがだいぶ激しくなっていました。最新の情報では、シートが被せられて、修繕工事が行われていたようです。したがって、この日本遺産については、どうにか消滅を免れ、これからも日本統治時代の名残を留めてくれそうです。

[写真-6]
旧北海道拓殖銀行大泊支店。2006年3月撮影


朝日新聞・Globe+、2019.11.12
迷宮ロシアをさまよう
サハリンの日本遺産
姿消す統治の名残

(服部倫卓、一般社団法人ロシアNIS貿易会・ロシアNIS経済研究所 所長)
https://globe.asahi.com/article/12869037

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間宮林蔵が見たもの

 昭和の人気力士、横綱大鵬(本名・納谷幸喜)は昭和15年(1940年)当時日本領だった樺太の敷香町(しすかちょう、当時は日本最北の町で、町の北端は当時の国境(北緯50度線)、現在のポロナイスクで、ロシア革命後に樺太に亡命したというウクライナ人の父と日本人の母の間に生まれています。

 大鵬の公式サイトによると、この銅像が建てられたのは、2014年8月15日のことでした。

※ 第四十八代横綱大鵬オフィシャルサイト
http://www.taiho-yokozuna.com/profile/index.html
※ 元横綱大鵬、銅像で「里帰り」 生誕地サハリンで除幕式(日本経済新聞2014/8/15)
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG15025_V10C14A8CR8000/

 銅像が置かれているのは、以前大鵬が両親と一緒に住んでいた家があった場所です。

 この町と縁のある日本人はほかにもいます。それが誰かを知るには、ポロナイスク郷土博物館を訪ねると、わかります。

 この地域の博物学の発展に貢献した人物の顔が、博物館の入口に石版印刷されて並んでいるのですが、その中に日本人が3名います。
・ 間宮林蔵、
・ 鳥居龍蔵、
・ 馬場脩です。

 間宮林蔵(1780-1844)は、江戸後期の探検家で、樺太が島であることを発見したことから、間宮海峡の名が付いたことで知られています。
 彼はその後、アイヌの従者を雇い、対岸のアムール河口に渡り、清国やロシアの東進の動向を探索しています。
 そのとき、オロッコ、ニブフなどのアイヌ以外の先住民と出会っており、その記録は『東韃地方紀行』として残されています。

 鳥居龍蔵(1870-1953)は、明治生まれの人類学者で、戦前の日本の北東アジアへの勢力拡大の中で、現在の中国東北部、台湾、中国西南部、モンゴル、朝鮮半島、ロシアのシベリア、そして千島列島や樺太の調査を行いました。

 ネットをなにげに検索していたら、考古学者で元徳島大学教授の東潮先生が書かれた以下の論文が見つかりました。
 樺太をはじめとした鳥居龍蔵の調査地のいくつかを、東潮先生が実際に訪ね、いまから100年近く前の鳥居の調査記録と現在の姿を重ねて報告しています。
 とてもリアルで面白い論文でした。

※「鳥居龍蔵のアジア踏査行一中国西南・大興安嶺・黒龍江(アムーノレ川)・樺太(サハリン)一」(徳島大学総合科学部人聞社会文化研究(17巻(2009) 65-164)

※ 徳島県鳥居龍蔵記念博物館
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/torii/default.htm

 3人目はアイヌ研究で知られた考古学者の馬場脩(1892-1979)です。
 自分はこの方面に詳しくないため、この人だけは知らなかったので、帰国して調べてみました。

※ 馬場脩(はこだて人物誌)
http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/b_jimbutsu/baba_osa.htm

 いずれにせよ、大鵬も含め、これら4名は地元公認の日本人というわけです。

 地元では知られていませんが、作家の林芙美子(1903-1951)は、1934(昭和9)年6月、樺太を旅行し、「樺太への旅」という紀行文を書いています。
 彼女は当時の日本領の最北の地に近い敷香まで来て、国境見物に行くか、敷香の近くにある先住民の暮らす集落を訪ねるか迷っていましたが、結局、先住民に会いに行くことに決めました。

※ 「樺太への旅」は岩波文庫の『下駄で歩いた巴里』に収録。

 先住民の集落は「オタスの杜」と呼ばれた場所で、そこにはニブフ(ギリヤーク)やウィルタ(オロッコ)、エヴェンキ(キーリン)、ウリチ(サンダー)、ヤクートなどの先住民が集められ、日本語教育が行われていました。
 林芙美子はオタスの小学校を見学したときの様子を以下のように書いています。

「やがて子供の歌声がきこえてきました。私は無礼な侵入者として、授業中の教室を廊下の方からのぞいて見ました。教室は一部屋で、生徒は、一年生から六年生までいっしょで、大きい子供も小さい子供も大きく唇を開けて歌っています。金属型の声なので、何を歌っているのか判りませんが、音楽的でさわやかです。台所から出て来たような、太った女の先生が素足でオルガンを弾いていました」

「やがて校長先生は子供たちの図画を取り出して来て見せてくれましたが、皆、子供の名前が面白い。「オロッコ女十一才、花子」「ギリヤーク女八才、モモ子」などと書いてあるのです。描かれているものは、馴鹿だとか熊の絵が多いのですが、風景を描かないのはこの地方が茫漠としたツンドラ地帯で、子供の眼にも、風景を描く気にならないのだと思います」

 これは今回ぼくが訪ねたポロナイスク郷土博物館やノグリキ郷土博物館で見た光景とつながる話でした。
 いまの先住民の子供たちは、きっとロシア人風の名前なのでしょうね。

※ ノグリキ郷土博物館で知るサハリン北部に住んでいた先住民族たち
http://inbound.exblog.jp/27122360/

 当時先住民たちは日本人と隔離され、「土人」と呼ばれていました。
 林芙美子も「土人」と書いています。
 現代の感覚でこれを批判するのはたやすいことですが、彼女は先住民の子供たちを優しいまなざしで見つめています。
 そして、こんなことも書いています。

「このオタスの草原の風景は、妙に哀切で愉しい。私はここまで来て、一切何も彼も忘れ果てる気持ちでした」

 彼女にとって樺太の旅で過ごした時間のうち、敷香での「オタスの杜」訪問がいちばん好ましいものと感じられたようです。

「樺太への旅」という紀行エッセイは短いものですが、林芙美子がいう「妙に哀切で愉しい」この土地の印象は、時代を超えて、よくわかるような気がします。


ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌、2017年10月05日
大鵬以外にもいるポロナイスク(敷香)と縁のある日本人の話(間宮林蔵、鳥居龍蔵、馬場脩、林芙美子)
https://inbound.exblog.jp/27234045/

 さて、その間宮林蔵(1780-1844)!

豪華絢爛な絹織物をもたらした北の交易路

 江戸時代、大陸を流れる大河アムール川(中国名・黒龍江)を経て、中国・南京から北海道に至る全長約5千キロにおよぶ壮大な交易路があった。
「蝦夷錦(えぞにしき)」と呼ばれた中国の豪華な絹織物などを日本にもたらした「北のシルクロード」。
 日本人や中国人、幾多の先住民族が支えた、はるかなる北の交易路の残映を求めて、ロシア極東各地を歩いた。

 この交易は日本で「山丹(さんたん)交易」と呼ばれた。
 山丹とは現在のウリチやニブヒなど流域の諸民族を指す。
 代表的な交易品が、黄色や紺色の絹地に金糸や銀糸で竜などの紋様を刺しゅうした「蝦夷錦」。
 江戸時代に蝦夷地(北海道)から渡って来た豪華な錦は、人びとの北方へのロマンをかき立て、ブランド品として広く流通、僧侶のけさやふくさなどに使われた。
 現在でも京都・祇園祭のシンボルである山鉾の飾りとして250年前の蝦夷錦が使われている。
 逆にサハリンや北海道からは、中国の貴族が求めたクロテンやキツネなどの毛皮が運ばれた。

間宮林蔵が大陸に残した足跡
間宮林蔵の旅.jpg
 ユーラシア大陸とサハリンを隔てる間宮海峡へ向かった。
 江戸時代の1808年から翌年にかけて、探検家間宮林蔵(1780―1844)は現地を踏査し、海峡の存在を発見。
 ドイツ人医師シーボルトが「間宮の瀬戸(海峡)」として紹介したことで世界に知られた。
 日本から現地へ行くには、ロシア極東の中心地ハバロフスク経由で同川河口の町ニコラエフスクナアムーレへ。
 そこからは未舗装道路をまる1日走る。
 最短でも3日掛かり。
 現在、ロシアでは帝政ロシア海軍の軍人の名にちなみ「ネベリスコイ海峡」と呼ばれている。

 海峡を臨む大陸側の村ラザレフにそびえる「いす」と呼ばれる標高約130メートルの岩山に登った。
 頂上からは朝日に輝く海峡と、わずか7.4キロ先のサハリンが見渡せた。
 海峡は1月から3月は結氷し、スノーモービルで行き来できる。
 205年前の1809年8月、林蔵はサハリンからアムール川へ向かう交易隊に加わり、濃霧と激しい潮流と闘いながらようやく渡った。

 海峡から南へ約80キロ、大陸側の沿岸にタバ湾と呼ばれる小さな湾がある。
 ここがアムール川との最短地点に当たる。
 林蔵が旅した2世紀前は「ムシボー」と呼ばれ、先住民の主要な交易ルートになっていた。
 林蔵も同湾に上陸し、大陸探検の第一歩をしるした。

 驚いたことに、同湾には明らかに古い道が丘の上の小川まで延びていた。
 道の長さは約120メートル、幅は5〜8メートルほど。
 土の道は固く踏みしめられていた。
 林蔵は浜から丘の上まで舟を引き揚げ、タバ峠を越えて、キジ湖を横断してアムール川へ出たと記録している。
 道の位置、その様子は林蔵の記述通りだった。
 先住民と力を合わせて舟を引き揚げる林蔵の姿が目に浮かんだ。

林蔵が記した幻の交易地“デレン”

 当時、アムール川の中流域には夏に中国・清朝の出先機関が設けられ、交易の場となっていた。
 その名は「デレン」。
 中国によってロシア人は排除されて、周辺にはいなかった。

 清朝の役人は、諸民族からクロテンなどの毛皮を貢がせる代わりに、一定の地位と絹織物や木綿、針などを褒美として与えた。
 特に絹織物は日本で珍重され、交易品として流通し、江戸や京都にもたらされた。

 林蔵の記録によると、デレンは一辺25メートルほどの四角の敷地を二重の柵で囲い、中に清朝役人が毛皮を徴収する小屋があった。
 それを取り巻くように常時500人もの諸民族が集い、仮小屋に泊まりながら毛皮や食料などの物品を交換し、大いににぎわっていた。

 デレンはその後歴史上から消えて、「幻の交易地」とされていた。
 ところが、国立民族学博物館(大阪府吹田市)の佐々木史郎教授の調査によって有力な候補地が浮上した。
 中流域の工業都市コムソモリスクナアムーレから約120キロ東のノボイリノフカ。
 アムール川右岸の漁村だ。
 中州には「デレン島」と呼ばれる島があり、地形も林蔵の地図とぴたり一致。
 周辺からは中国製の磁器の破片も見つかっていた。

語り継がれていた北のシルクロードの歴史

 ノボイリノフカを訪ねた。
 住民は約40世帯110人。
 村人は漁業で生計を立てている。
 雨雲の下、川幅約2キロの広々としたアムール川が目前をゆったりと流れる。
 川岸には厚く泥が堆積していた。
 岸辺に立って、林蔵の写生図と見比べると、対岸の山並みの輪郭は非常によく似ていた。

 その様子を興味深そうに見つめている男性がいた。
 近隣の村に住むナナイのワレリー・ラドさん(63)。
 ラドさんは交易地について知っていた。
 35年前に死んだ父親から聞いたという。
 大伯父がラドさんの父に語り継いでいた。

「昔、この近くに大きな交易地があった。名前は聞いてないが、夏に遠くからも多くの人が集まり、クロテンやキツネ、アナグマなどの毛皮と、米や茶、塩、たばこ、ソバなどと交換していた」

 ラドさんは「その交易地が『デレン』という名前ならば、それはウリチ語で『机』という意味だ」と教えてくれた。

 北海道最北端の宗谷岬から北に約800キロ。
 悠々と流れるアムール川のほとり。
 やはり、この地に林蔵が訪れたデレンがあったのか。
 風が渡る川面の向こうから人びとの喧噪(けんそう)が聞こえるような気がした。

アイヌの血を引く人々。鮮やかな蝦夷錦

 北方交易を物語る蝦夷錦などの品々は、流域各地に数多くあった。
 ウリチやナナイら先住民が多く暮らす下流域のブラバ村の博物館には、青色の絹地に竜を刺しゅうした古い蝦夷錦の布が展示され、祭事に使われたとされる日本渡来の漆器も展示されていた。
 村内の民家から見つかったというアイヌ民族の酒造り用の器もあった。

 同村にはアイヌ民族を始祖とするクイサリ一族が暮らしていた。
「クイ」とはアイヌ民族の意味だ。
 19世紀後半、3代前のセキンが北海道からこの地へ移り住んだという。
 一族は1着の蝦夷錦の服を大切に保存していた。
 クロテン狩りの名人だった2代前のスイルツーが毛皮と交換して、5人の子どもに1着ずつ与えたものという。
 青色の地に金色の竜が舞う。
 一族は身内の葬儀の際、錦を切ってひつぎに入れた。
「天国でもお金に困らないようにと」との願いを込めて。

 1着だけ残った蝦夷錦は、1世紀前の織物とは思えぬほど良い保存状態だった。
 同村芸術学校長でもある一族のユーリー・クイサリさん(53)は「この服は一族の宝。りりしく狩猟がたくみで、村人からも尊敬されていた先祖と、アイヌの血を引いていることを私たちは誇りに思っている」と胸を張った。

 コムソモリスクナアムーレ市郷土博物館には、蝦夷錦をまとった不思議な人形が展示されていた。
 ナナイの村で収集されたもので、死者を埋葬する際には替わりに1体の人形を家に置き、1年後に焼く風習があったという。
 黒い小さな目の人形は、何らかの理由で焼かれず、その後も火事などが起きても不思議と焼失を免れた。
 さらに場所を移す度に災いをもたらすと伝えられていた。

日中の“文化回廊”アムール川

 ハバロフスク地方郷土博物館やニコラエフスクナアムーレ市博物館にも、蝦夷錦の官服や祭事用の服が残されていた。
 蝦夷錦に詳しい函館工業高等専門学校の中村和之教授(北東アジア史)によると、北海道内にも函館や松前などに約30点があり、青森県にも佐井村などに約40点の蝦夷錦が残っている。

 当時、アムール川は中国と日本をつなぐ、まさに「文化の回廊」だった。
 同川流域に残る蝦夷錦や貴重な文化財は、当時の活発な交易活動と人々の交流の様子を今に伝えていた。


[タイトル写真]
5カ月間におよぶ氷の季節をようやく終え、5月下旬に再び流れ始めたアムール川。河口から上流約70キロにあるマゴの丘からは幅10キロの大河が見渡せた。斜面にはエゾムラサキツツジがピンク色の花を咲かせる

[写真‐1]
間宮海峡に面したラザレフの岩山からは、幅約7キロの海峡越しにサハリンが見えた

[写真‐2]
間宮海峡に面したタバ湾。1809年8月、間宮林蔵はここに上陸した

[写真‐3]
間宮林蔵の肖像画(写真左)。タバ湾に残されていた古い道。林蔵の記録通りだった(写真右)

[写真‐4]
間宮林蔵が記録したデレンの写生画(左図)。柵の周囲には諸民族の仮小屋が建つ。デレンから対岸を見た写生画(右図)。現在の山並みとよく似ていた=間宮林蔵「東韃地方紀行」(国立公文書館内閣文庫蔵)

[写真‐5]
林蔵が訪ねた交易地「デレン」の有力候補地ノボイリノフカ

[写真‐6]
ノボイリノフから見たアムール川対岸の山並み

[写真‐7]
ハバロフスク地方博物館に収蔵されている蝦夷錦。服の中央には金色の竜が躍る

[写真‐8]
ブラバ村のクイサリ一族が大切に保存する蝦夷錦

nippon.com、2014.09.25
蝦夷錦の道「北のシルクロード」−−間宮林蔵が見たもの
(相原 秀起、北海道新聞編集委員)
https://www.nippon.com/ja/column/g00211/

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間宮林蔵の樺太出港地

「1945年8月20日、間宮海峡に面した樺太南西部の街・真岡(ホルムスク)にソ連軍が攻め入った」
 この一文は、ヤッホーくんのこのブログ、昨日付け日記「20日は『北のひめゆり』。」からです。
 場所はお分かりでしょうか?「樺太」たって、今はロシア領です。ちょっと復習してみましょう。

 日本とロシアの国境は、1855(安政元)年に結ばれた「日魯通好条約(にちろつうこうじょうやく)」で択捉島とウルップ島の間と決められました。
 話し合いの中でロシアは「択捉島もロシアのものだ」と言いましたが、日本は「択捉島は日本が開拓して、日本人が住んでいるので日本のものだ」と主張して、日本の意見が認められました。
 この条約では、樺太(からふと)についても話し合われ、けっきょく樺太は国境をきめないでおくこととなりました。

※ 日魯通好条約とは・・・
 1855(安政元)年2月7日、伊豆下田において結ばれた条約であり、択捉島とウルップ島の間に日露の国境が定められました。この時に、北方領土が日本に帰属していることが国際的に明確に認められました。この条約が調印された2月7日を「北方領土の日」と定めています。

国境の変更
 しかし、樺太での日本人とロシア人の争いがたえなかったので、あらためて国境について話し合うこととなりました。
 そのころ、ロシアは樺太の開発にたいへん力を入れていたのですが、日本は樺太を開発するよゆうはあまりありませんでした。
 そのため、樺太の開発をするよりは北海道の開発に力を入れることにして、樺太をロシアの領土とするかわりに、千島のウルップ島からシュムシュ島までを日本の領土とする条約を結びました。
 この条約は1875(明治8)年結ばれ、「樺太千島交換条約(からふとちしまこうかんじょうやく)」と言います。
 その後、1904(明治37)年に日本とロシアがともに朝鮮を自分のものとしようとしたことから対立して、日露戦争が起こりました。
 1905(明治38)年、戦争は終わり、日本とロシアの間で「ポーツマス条約」が結ばれました。
 この条約によって、日本はロシアから、樺太の南半分をゆずりうけました。

※ 樺太千島交換条約とは・・・
 1875(明治8)年、日本はそれまでの日露混住の地とされていた樺太を放棄する代わりにウルップ島より北の「千島列島」をロシアから譲り受けました。
 この条約には「千島列島」として、ウルップ島からシュムシュ島までの18の島の名前が列挙されており、北方領土が「千島列島」に含まれないことが明らかにされています。

※ ポーツマス条約とは・・・
 1905(明治38)年、日露戦争の講和条約として締結されたこの条約で、南樺太(樺太の北緯50度から南)が日本の領土となりました。
 千島列島及び北方領土は、日露戦争の結果により日本の領土になったと誤解されている方もいるようですが、日露戦争の影響を受けず、これまでどおり日本の領土のままです。


「北方領土ガイド:千島の歴史と北方領土の問題(制作:北海道総務部北方領土対策本部、制作協力:横澤英三氏(千島の歴史/別海町西春別中学校)」より抜粋
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/hrn/hoppouryoudo_history.htm

 樺太の島影が北の海に浮かぶ北海道稚内市の宗谷岬。
 西の日本海には低地に高山植物が咲き誇る礼文島や、海から「富士」がそびえ立つ利尻島。
 間宮林蔵の樺太探検などさまざまな冒険とロマンに彩られた日本最北端の地を歩き、最果ての魅力を堪能した。

□ □ □

 フェリーが稚内港を出て約1時間半。
 霧雨のデッキに立ち、アイヌ語のリイ・シリ(高い島山)の主、標高1721メートルの利尻富士(利尻山)の秀峰が海上に立ち現れる瞬間をじっと待った。

「島全体が一つの頂点に引きしぼられて天に向かっている」

「日本百名山」の著者、深田久弥がこう表現した「みごとな海上の山」をこの目で見たかったのだが、視界は最後までガスに遮られたままだった。
 船は島の玄関口、鴛泊(おしどまり)港に到着。
 ホテルの送迎車に乗り込むと、支配人の長森正俊さん(40)が「利尻富士は1年の半分が雲の中。夏に姿を見せるのは3日に1日程度ですね」と、見えない利尻富士の方向を指さした。
 山ろくの「姫沼」から大ポン山(444メートル)を経て利尻富士3合目の水場「甘露泉」まで歩くことにした。
 約6キロのコースだ。
 姫沼は「逆さ利尻富士」の名所だが、湖面には原生林の影しか見えない。
 それでも姫沼の散策路や、山道沿いには小さな高山植物が咲いており、目を楽しませてくれる。

 大ポン山の山頂でも、利尻富士は霧の中だ。
 ふと足元の砂れきに目を落とすと、2株の高山植物が紫色の花を咲かせている。
 3000メートル級の北アルプスの高峰で見たことがあるイワギキョウだ。
 ゴールの甘露泉の名水でのどを潤すうちに、不思議な感動がこみ上げてきた。

 6月の利尻島の日の出は午前4時前だ。
 早立ちし、礼文島行きのフェリーに乗る前に、鴛泊港の北側に突き出たペシ岬(93メートル)に登った。
 展望台からは19キロ先の礼文島が見えるはずだが、水平線は雲に隠れたままだ。
 利尻富士を見ると、頂上を覆った雲が強風に流され、秀麗な全容を現した。
 ほんの一瞬の出来事だった。

□ □ □
 
 約300種の高山植物が咲き乱れ、「花の浮島」の異名をとる礼文島は、深い霧に包まれていた。
 島南部の桃岩展望台を起点とする約2.5キロのトレッキングコースや、礼文林道のお花畑をたどる。

 霧のしずくを産毛に宿し、花弁のような銀白色の葉を星の形に開いたレブンウスユキソウ、鮮やかな黄金色のレブンキンバイソウ。
 正体不明の高山植物も多く、図鑑が役に立たない。

 島北部の高山植物園に駆け込むと、職員の飯野拓也さん(41)が「花の名で頭を悩ませるより、美しさを素直に楽しんで。それが礼文の花の観賞法ですよ」とアドバイスしてくれた。

 島の北端、スコトン岬の近くに「銭屋五兵衛貿易の地」の石碑が立っていた。
 通称・銭五は江戸後期の加賀藩の政商で、幕府の鎖国政策を尻目にロシアとの密貿易で巨万の富を築いた。
 岬に咲き競う花々は北の荒海を駆け巡る風雲児の目にどう映ったのだろう。

 稚内港に戻り、同時代の探検家、間宮林蔵の樺太出港地に向かう。
「日本最北端の地」の碑が立つ宗谷岬の3キロ手前の海岸だ。
 間宮海峡を発見し、樺太を島だと実証した林蔵の渡樺(とかば)記念碑の横に、自ら持参したとされる花こう岩の墓石が置かれていた。
 目を凝らすと、四十数キロ沖の水平線に樺太の島影が見える。
 花とロマン。
 林蔵も、銭五も、この北の海の果てに同じ夢を見たのかもしれない。

〈旅支度〉気象が急変 雨具携行を
 JR稚内駅前から宗谷岬へは路線バスで約50分、間宮林蔵の資料などを集めた北方記念館はタクシーで約10分。利尻島、礼文島は稚内港からフェリーで約1時間40〜50分、礼文〜利尻島間は40分程度だ。
 両島とも「海抜ゼロメートル」から高山植物が咲き誇るが、1000メートル級の山岳のように頻繁に気象が変化するので雨具などが必要。
 稚内観光協会(電話0162・24・1216)は稚内市内の、礼文町観光協会(電話0163・86・1001)は礼文島・利尻島共通の観光冊子を無料で送ってくれる。

<地図>

北海道最果ての地.jpg

https://style.nikkei.com/article-image?ad=DSXDZO1060465007072010EL1P00&ng=DGXDZO10604580X00C10A7EL1P01

[写真‐1]
「利尻富士」がフェリー客を出迎える (利尻島の鴛泊港)

[写真‐2]
高山植物のお花畑が広がる桃岩歩道 (礼文島)

日本経済新聞夕刊2010年7月7日付
北海道・利尻島 礼文島
花に酔う
最果ての地秀麗な「富士」、瞬間の美

(戸所寛美)
https://style.nikkei.com/article/DGXDZO10604580X00C10A7EL1P01

 そうか、ヤッホーくん、ソ連軍の南樺太侵攻は吉永小百合の映画で知っていたんですね、だけど最近のことなのにちっとも記憶に残っておらず、霧んなか、ホワイトアウト!
 ヤッホーくんのこのブログ、次の日付けの日記をぜひお読みください:

☆ 2018年03月27日「北の桜守」
☆ 2018年04月20日「4月13日(金)eチャリ」
☆ 2018年04月21日「北の桜守」
☆ 2019年07月28日「映画『愛と死の記録』」

 猛暑お見舞い申し上げます。。。

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2020年08月21日

熱中症死が増加

 連日、猛烈な暑さが続いている。
 2020年8月21日までがピークとみられていたが、最新の予報では、明22日まで続く見込み。

 21日も全国的に猛暑が続き、22日にかけても、関東や東海、近畿では、最高気温が35度以上の日が続くとみられている。
 ただ23日には、一時的に暑さが収まり、猛暑日の地点は少なくなる予想。

 こうした中、東京都内では昨20日、新たに17人が熱中症で死亡したことがわかった。
 8月の熱中症による死者は、累計で148人にのぼり、ひと月の死者数としては過去最多となった。
(コロナ感染による東京都の死亡者数は東洋経済オンライン編集部調査公表によると8月19日時点で累計347名、前日比+6)

 来週は、再び西日本や東日本を中心に厳しい暑さが続く予想で、引き続き、熱中症には十分な注意が必要となる。

 一方、この暑さの影響で大気の状態が不安定になり、21日の午後は、関東から九州の内陸や山沿いで、局地的に雷をともなった、激しい雨の降るおそれがある。
 さらに、22日の午後は、関東や東海などで、一段と雷の発生する確率が高くなる。
 短時間での激しい雨や落雷、竜巻などの突風に十分な注意が必要となる。


[動画]

yahoo Japan! News、2020/8/21(金) 11:46配信
熱中症相次ぐ 東京の死者数過去最多に
来週も厳しい暑さ

(FNNプライムニュース)
https://news.yahoo.co.jp/articles/d0dc561561d2e9628485c3bbaff262f0a3dfe3bb

体力を奪う連日の「危険な暑さ」、熱中症に過去の常識は通用しない
 8月に入って以降、とんでもない酷暑の毎日が続いています。
 8月17日には、浜松で国内最高のタイ記録となる41.1度の最高気温が観測されました。浜松市も合併してエリアが広くなっていますが、今回最高気温を観測したのは中区、つまり浜松駅付近の都市部での出来事でした。例年でいえば、浜松市では天竜区のような内陸部の方で気温が高くなる傾向がありましたが、今回はフェーン現象が起きて、浜松市の中心部が記録的に暑くなったということです。
 残念ながら、今年の夏も熱中症による病院搬送や熱中症死が増加しています。熱中症死の増加傾向には明らかに地球温暖化が関係しており、昭和の時代にはほぼ毎年2桁程度に収まっていた熱中症の死者数が、近年では4桁にのぼる年が珍しくありません。
 少なくともこの8月に関していえば、私たちの最も身近にあるリスクが、思わぬ熱中症死だと言えるでしょう。
 熱中症には、新型コロナウイルス感染症との共通点が2つあります。1つは高齢者にとって、死を伴うリスクが高いこと。そしてもう1つは、これまでの常識が通用しないことです。
 熱中症死について、これまでの常識がどう通用しないのかをまとめると、次の3つのポイントが挙げられます。

【新常識1】ある年、突然熱波がやってくる
【新常識2】これまで大丈夫だった家や地域が危ない
【新常識3】夜の室内が最も危険
 これら熱中症の新しい常識について、詳しくまとめてみたいと思います。

【新常識1】ある年、突然熱波がやってくる

 熱中症死が増加するのは、毎年の年中行事だとお考えかもしれませんが、1つ見落としてはいけないことがあります。それは、熱中症の死者数には年によって大きなばらつきがあるということです。
 近年でいえば、2010年と2018年が1500人を超える死者を出した年ですが、一方で2008年、2009年、2012年、2014年、2016年、2017年はその半分以下、つまり750人よりも死者数が少ない年でした。
 これは、スーパーコンピュータの地球環境シミュレータの予測とも合致するそうですが、熱中症死が激増するような酷暑の年は、7年くらいの周期でやってくるそうです。そこまで暑くなくても、死者が900人を超えるような厳しい暑さの夏は、2〜3年に一度やってきます。このように、夏の暑さは均等ではないのです。
 熱中症死のデータは、例年2月頃に前年の速報値が出ますが、今年は新型コロナ騒動で厚生労働省がそれどころではないからでしょうか、2019年のデータはまだ公表されていません。とはいえ「2018年の夏は特に死者数が多かったから、そのあとの6年くらいは安心してもいい」というのも間違いです。
 10年ごとの熱中症の平均死者数を調べると1970年代と1980年代はともに65人でしたが、1990年代に190人、2000年代には398人と被害が急増し、2010年代の年平均の熱中症死者数は980人まで増えています。

 つまり、最近の暑い夏は約1000人の死者が出るのが平均であり、かつこの傾向は2020年代にはさらに激化する可能性があるのです。そうなると恐ろしいのは、いよいよ日本にも熱波が襲ってくるのではないかという予測です。

 近年で最も多くの犠牲者を出した熱波の1つが、2003年にヨーロッパを襲った500年ぶりの熱波災害で、死者数は5万2000人。被害が最も大きかったフランスでは、1万5000人が亡くなりました。

 日本には、このような規模の熱波が襲来したことはありませんが、気を付けるべきことは、地球温暖化の影響は日本でも避けることができないということです。

 実際に日本でも2001年に「観測史上最も暑い夏」があり、その後、2010年にも「観測史上最も暑い夏」がやってきています。

 今年か来年か再来年か、それはわかりませんが、おそらく近い将来また、「観測史上最も暑い夏」がやってくるはずです。そしてそれは、過去日本ではなかったような熱波の夏になるのかもしれないのです。

【新常識2】これまで大丈夫だった家や地域が危ない

 さて、冒頭に浜松市で日本最高記録タイとなる暑さが記録された話をしましたが、地球温暖化ではこれまでと比べて地球全体で気圧配置が微妙に変化することで、各地域の気候が過去とは違ったものになると予測されています。2000年代に入って西日本で豪雨災害が増加したのも、その影響の1つです。
 この点は、私たちにとってとても注意が必要なことです。

 2003年のヨーロッパの熱波で死者が最も多かったのはパリでしたが、その理由は「それまでパリではエアコンが必要ではなかったから」なのです。

 私は1999年に1年間、ハワイに住んでいたことがありますが、当時住んでいたハワイの戸建て住宅には、エアコンがありませんでした。天井のくるくる回るレトロな大型扇風機の羽を回して、窓を網戸にしておけば、外から涼しい風が入ってきます。今でもハワイにはエアコンのない住宅が少なくないのですが、いつまでその状況が続くかはわかりません。

 緯度が高く気候が涼しいパリも同様で、冬の暖房は必要でも、それまで夏のエアコンは必要がなかった。ここが大きな落とし穴で、2003年の夏に熱波が突然襲来した際には、多くの高齢者が「これまでの夏とは暑さが違う」と感じながらも、何も対応できずに熱中症の被害に遭ったそうです。

 ここで、新しい対策をとる必要が出てきます。それが3つ目の新常識です。

【新常識3】夜の室内が最も危険

 夏の熱中症死は、実は室内が最も危険です。よくニュースなどで耳にする体験談としては、炎天下の屋外での作業中に気づいたら、熱中症にかかっていたというものがあります。つい作業に没頭するうちに、水分補給するのを忘れてしまう。気づいたら体が動かなくなっているという話です。
 ところが、これらの話は熱中症から生還できた比較的若い人の話だと思ったほうがいいのです。

 現実には、熱中症死の8割は高齢者だという事実があります。そしてその多くが、室内で熱中症にかかっています。

 前述のパリの熱波の話も同様で、とにかく暑くてたまらない夜、窓を開けて扇風機もかけていたのだけれど、気づいたら熱中症で動けないというケースが報告されています。高齢世帯の実際の体験談では、ご主人は自力で救急車を呼ぶことができたけれど、奥様の方は亡くなってしまったという話もありました。
 これからの日本で危惧されているのが、このような夜間における熱中症被害の増加です。これまで必要がなかったことからエアコンが設置されていない、ないしは「寝るときは冷房を切らないと体に悪い」という過去の常識を信じてエアコンをつけずに就寝している――。そんな家庭は少なくないはずです。
 ある年、そんな地域に、過去に経験したことがないような暑い夏が訪れる。これは2020年代を通じて、多くの地域で警戒が必要なシナリオです。

寝ているうちに体調急変も。この夏を何とか乗り切れるか

 この問題には、高齢者にとっていくつも罠があります。年をとると、過去の常識を意識的に変えることがなかなか簡単ではないことが1つ。つまり新しい災害への準備ができないのです。仮に常識を変えたからといって、「夏が危険なほど暑い」と気づいたときにエアコンを設置しようにも、その夏に業者が来てくれない場合もあります。
 そして、風通しをよくして枕元にペットボトルを置いて寝たとしても、寝ているうちに体調が急変して、給水できずに倒れてしまうこともあるため、本当に対応は簡単ではありません。
 一番重要なことは、「夏の熱中症の怖さが2020年代にはさらに変化するかもしれない」と覚悟し、今回ご紹介した3つの新常識を繰り返し思い出しては再認識することです。常識が変わったということを、たくさんの人が何度も話題にするようになれば、少しでも多くの高齢者が今年の夏を乗り切るための「気づき」になるのではないかと考えるのです。


ダイヤモンドオンライン、2020.8.21 5:15
「熱中症死」3つの新常識、これまでの認識を改めないと危ない!
(百年コンサルティング代表 鈴木貴博)
https://diamond.jp/articles/-/246489

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The climate crisis and the pandemic

 スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリさん(17)が2020年8月20日、ベルリンでドイツのメルケル首相と約1時間半にわたって会談した。
 グレタさんは、気候変動を食い止める必要性を訴え、メルケル氏が積極的に行動することを促した。

 この日は、グレタさんが各国政府に気候変動対策の強化を求め、学校を休んで座り込みを始めてから2年の節目で、メルケル氏が首相府にグレタさんや、同世代の欧州の環境活動家を招いた。

 独政府によると、会談では2050年までに欧州連合(EU)域内の温室効果ガス排出量を「実質ゼロ」とするEUの共通目標や、石炭火力発電からの撤退などについて意見交換したという。

 ドイツは7月から輪番制のEU議長国を務めており、EUは年内に30年までの温室効果ガスの削減目標引き上げを目指している。

 グレタさんは会談後の記者会見で、メルケル氏の親しみやすさに言及した上で「メルケル氏には(気候変動対策を進める)大きな責任がある。そうした責任を果たす指導者となる大きな可能性もある」と述べた。

 グレタさんが2018年夏に始めた「気候ストライキ」は世界で数百万人が路上デモに参加する大きな運動に発展したが、新型コロナウイルスの流行に伴いオンラインでの活動が中心になっている。

 新型コロナの世界的流行に伴う経済活動の停滞で、世界各国で温室効果ガスの排出量は急減している。
 しかし、英リーズ大などの分析によると、長期的な気候変動にはほとんど影響のないレベルで、一部のアジア諸国などの排出量はコロナ前の水準に戻りつつある。


毎日新聞、2020年8月21日 09時18分
グレタさん、独メルケル首相と会談
気候変動食い止めに積極的行動促す

(八田浩輔、ベルリン念佛明奈)
https://mainichi.jp/articles/20200821/k00/00m/030/021000c

German Chancellor Angela Merkel hosted Fridays for Future youth climate activists, including teenager Greta Thunberg, in Berlin on Thursday. The talks about climate issues marked the second anniversary of the founding of the movement.

Luisa Neubauer from Germany and Belgium's Anuna de Wever and Adelaide Charlier joined the 17-year-old Thunberg for the hour-and-a-half meeting with the Chancellor.

"We asked her to treat the climate crisis like you treat any other crisis," said Thunberg, following the meeting, repeating a key demand in an open letter sent to all EU leaders on July 16.

The activists confirmed they discussed parts of the letter, which demands a halt on fossil fuel investments and subsidies.

Greta also called for Merkel to "be brave" and become a leader in the crisis. The activists said Merkel had told them that she would take this into consideration.

What is Merkel's view?

At the start of July, Germany assumed the rotating EU presidency. The country has vowed to make climate policy a central focus of its tenure.

Merkel did not speak to the press after the discussion. Ahead of the talks, she said she expects "a constructive exchange."

"I think we will have to wait and see which concrete results we take away from it," she added.

What did the activists discuss?

Neubauer said that the activists spent "a long time" talking about equipping democracy to meet the challenge of addressing issues surrounding the climate, adding: "We're asking for a lot − we know that."

De Wever said that the coronavirus pandemic had proven what governments can do when faced with a crisis.

They also discussed how to hit the goals of the Paris Agreement that aims to keep the global temperature rising below 2 degrees Celsius above pre-industrial levels.

What next for Fridays for Future?

Around 20 supporters greeted the activists outside the chancellery in Berlin. They held signs demanding action from politicians and chanted "you are robbing us of our future" − a phrase from a speech by Thunberg to the UN.

The pandemic put a stop to mass gatherings and protests, forcing the movement online. However, the activists said they were now mobilizing, "planning to strike online or offline" as part of a corona-safe edition of last September's Global Climate Strike. Organizers estimate that the last day of actions saw a global turnout of 7.6 million, including around 270,000 people in Berlin.

This year's event on September 25 will ensure social distancing and a focus on creating powerful imagery rather than attracting large crowds.


[video-1]
Climate activism in the age of the coronavirus pandemic

[video-2]
Climate activism and the private sector

[photo]
Angela Merkel in the conference room with Neubauer and Thunberg

DW(Deutsche Welle).com, 20.08.2020
Greta Thunberg, Luisa Neubauer demand Merkel 'be brave' on climate change

The activists have been at the forefront of the youth-led global Fridays for Future climate movement. After meeting Chancellor Angela Merkel, they said they asked her to step up to tackle climate issues.

https://www.dw.com/en/greta-thunberg-angela-merkel-climate-change/a-54636521

The Greenland ice sheet lost a record amount of ice in 2019, equivalent to a million tonnes per minute across the year, satellite data shows.

The climate crisis is heating the Arctic at double the rate in lower latitudes, and the ice cap is the biggest single contributor to sea level rise, which already imperils coasts around the world. The ice sheet shrank by 532bn tonnes last year as its surface melted and glaciers fell into the ocean and would have filled seven Olympic-sized swimming pools per second.

The satellite data has been collected since 2003. The 2019 loss was double the annual average since then of 255bn tonnes. Almost that amount was lost in July 2019 alone.

Scientists knew that ice loss from Greenland had been accelerating fast in recent decades and that there had been high rates of melting in 2019. But the satellite data accounts for new snowfall and allows the net loss to be calculated. The researchers said the scale of the 2019 loss was shocking and was likely to be the biggest in centuries or even millennia.

If the entire Greenland ice sheet melts, sea level would rise by six metres. But the researchers said it was not certain that the sheet had passed the point of no return and that cutting carbon emissions will slow the melting, which would take centuries to complete.

The scientists attributed the extreme ice loss in 2019 to “blocking patterns” of weather that kept warm air over Greenland for longer periods. These are becoming increasingly frequent as the world heats up. Almost 96% of the ice sheet underwent melting at some point in 2019, compared with an average of 64% between 1981 and 2010.

“[2019 was] really shocking and depressing in terms of the numbers,” said Ingo Sasgen, of the Alfred Wegener Institute in Bremerhaven, Germany, who led the analysis. “But it’s also not very surprising, because we had other strong melt years in 2010 and 2012, and I expect we will see more and more.”

Snowfall in Greenland was low in 2019, also due to the blocking pattern, meaning relatively little new ice was added. “The real message is that the ice sheet is strongly out of balance,” Sasgen said.

Weather data and computer models allow for losses to be calculated back to 1948. “If we look at the record melt years, the top five occurred in the last 10 years, and that is a concern. But we know what to do about it: reduce CO2 emissions.”

Sasgen said a further worry was feedback mechanisms that increase ice loss, including meltwater weakening the ice sheet and speeding its fall into the ocean. Hotter weather also melts the white snow on top of the sheet, revealing darker ice below, which absorbs more of the sun’s heat.

“These results come at a crucial time,” said Yara Mohajerani, of the University of California Irvine in the US, who was not part of the study team.

“2019 broke the previous record of 2012 by 15%, itself an unmatched record over the past several centuries to millennia.”

He said the heating of the Arctic was likely to increase further in coming years. “So it is crucial to closely monitor the changes in [ice] mass of the sheet, and Sasgen and his colleagues have taken an important step in that direction.”

The research, published in the journal Communications Earth & Environment, used data from the Nasa’s Grace satellites, which take gravity measurements and in effect weigh the mass of ice in Greenland.

The first Grace satellite ended its data collection in June 2017, and its replacement began in May 2018. Data from the second satellite was used to determine how much had been lost in the intervening period.

The researchers found 2017 and 2018 had unusually low ice loss, owing to a reversal of the blocking pattern that resulted in cold, snowy conditions fixed over Greenland. But even in these conditions the sheet still lost ice, meaning cold years do not compensate for the hot ones as in the past.

“It really shows that we have entered a completely different state,” with a trend of increasing ice losses and more variability each year, Sasgen said.

“Greenland has become bipolar in a way.”

Prof Stefan Rahmstorf, of the University of Potsdam in Germany, said the new analysis was convincing and showed the transition from the old to the new satellite had worked smoothly.

“Since meltwater is freshwater, it dilutes the salt content of the surrounding ocean, which contributes to slowing the Gulf stream system,” Rahmstorf said. “If we wanted to make the 500bn tonnes of freshwater added in 2019 as salty as ocean water, about 200,000 Panamax-class cargo ships full of salt would need to dump their load into the Atlantic.”

Despite the rapid melting, the Greenland ice sheet is not necessarily doomed to melt entirely. Firstly, as glaciers retreat they lose contact with warmer ocean waters and therefore melt less. Secondly, the melting of the sheet with warm air takes centuries, during which time the rise in global temperatures might be reversed.

“If we reduce CO2, we will reduce Arctic warming and we will therefore also reduce the sea level rise contribution from the Greenland ice sheet,” Sasgen said. “So even though it might eventually disappear in large part, it happens much slower, which would be better as it would allow more time for the 600 million people living near coasts to move away.”


[photo]
Arctic sea ice in the Denmark Strait on the east coast of Greenland.
***
Greenland's melting ice sheet – in pictures
https://www.theguardian.com/environment/gallery/2020/aug/20/greenland-melting-ice-sheet-in-pictures
***

The Guardian, Fri 21 Aug 2020 04.37 BST
Greenland ice sheet lost a record 1m tonnes of ice per minute in 2019

Climate-driven loss is likely to be the worst for centuries, and is pushing up sea levels

By Damian Carrington Environment editor
https://www.theguardian.com/environment/2020/aug/20/greenland-ice-sheet-lost-a-record-1m-tonnes-of-ice-per-minute-in-2019

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20日は「北のひめゆり」。

「北のひめゆり」
皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら(真岡郵便局事件)

https://www.youtube.com/watch?v=j9tot1hAaHw

2015.9.6「北のひめゆり」これが最後です さようなら
BS日テレ NNNドキュメント15 制作=札幌テレビ放送
https://www.dailymotion.com/video/x35d2sr

「これが最後です。さようなら、さようなら」

 1945年8月20日、間宮海峡に面した樺太南西部の街・真岡(ホルムスク)にソ連軍が攻め入った。
 真岡郵便局の電話交換手は別の郵便局の同僚たちへこう伝えると、青酸カリで集団自決を図り、9人が亡くなった。

 集団自決の2日前まで電話交換手をしていた栗山知ゑ子さは、夏になると同僚たちを思い出す。

「残っていたら、私も一緒に青酸カリを飲んでいただろう」

* * *

 8人きょうだいの次女。
 家計を助けるため、17歳で電話交換手になった。
 紺色の事務服を着て電話交換機の前に座り、耳に送受器を当てながら電話をつないだ。
 女性ばかりの職場で、休み時間には和裁の話で盛り上がった。
 給料は安かったが、「米が買える」と母に喜ばれた。

 終戦直前、ソ連は日ソ中立条約を破棄して樺太や千島列島などに侵攻してきた。
 真岡の住民には内地への引き揚げ命令が出ていた。
 職場に残るか、避難するか。
 空襲警報や火事などの非常時、電話は鳴りやまない。
 だが「お前がいなかったら困る」と母に強く言われ、仕事を辞めた。
「明日から来られないので辞めます」と言い残し、同僚と別れた。
 2日後の悲劇はしばらく後に知った。

 持ち運ぶ荷物の手続きをするために役所が開くのを待っていると、「ソ連が攻めてきた」と人びとが押し寄せてきた。
 家に帰ろうにも、人だかりでどうにもならない。
 何も持たず、押し流されるように逃げた。
 そこから4日間、川の水を飲みながら1人で逃げ続けた。
 ついさっき通り過ぎたばかりの街に飛行機から爆弾が落とされ、火の海になった光景が忘れられない。

 内陸部の豊原(ユジノサハリンスク)までたどり着くと、かっぽう着の女性が駆け寄ってきた。
 母だった。
 抱きつくと母のぬくもりを感じ、涙があふれた。
 しばらく滞在した後、真岡へ列車で戻った。
 車窓から、日本兵がソ連兵に監視されながら列車を修復する姿が見えた。
「日本は負けたんだなあ」と実感した。

 その後、北海道へ渡った。
 和寒町のげた製造工場に奉公へ出て、すぐに農家の男性と結婚した。
 寒い樺太ではイネが育たず、米は木に実るものだと思っていたので、田んぼを見て驚いた。
 以来ずっと農業を続け、故郷には一度も戻っていない。

「もうあの頃の景色とは違うから、帰りたいとは思わない」

 10年ほど前から、亡くなった9人を追悼する稚内市の平和祈念祭に参加している。
 今年も行くつもりだ。

「9人の写真に会いに行くの」

 だが祈念祭に並ぶ遺影に話しかけても、返事はない。

「生きてこそ。私は話もできるし、今を楽しめている」


朝日新聞「語り継ぐ戦争」
https://www.youtube.com/watch?v=W7cPB1l9D-I

 今は異郷の地に眠る、多くの同胞の御霊安かれと祈りを捧げ皆様とともに世界の恒久平和を祈念するため、毎年8月20日稚内総合文化センターにて「氷雪の門・九人の乙女の碑平和祈念祭」を開催しております。 
 市民の皆様をはじめ、多数のご参列をいただき、献花くださいますようお願いいたします。


稚内市公式サイト
氷雪の門・九人の乙女の碑平和祈念祭
https://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/shisei/torikumi/heiwa/kuninotome.html

 稚内市は世界の恒久平和と子どもたちの健やかな成長を願って、国際平和年である1986(昭和61)年に「子育て平和都市」を宣言しました。
 1988(昭和63)年には、「世界平和の鐘」国内第1号が宗谷岬平和公園に設置され、また同時に全市民の協力で「子育て平和の鐘」も設置し、世界平和の声を全世界に広げる運動を市民ぐるみで展開しています。
 9月1日(昭和58年、大韓航空機事件の日)は、稚内市の全市民が恒久平和を祈願し、子育て平和運動を一層発展させることを誓い合う日です。
 この意義ある日に、市民や児童生徒の代表が宗谷岬公園に集い、祈りの塔の鐘と二つの鐘を鐘打し平和への決意を新たにするとともに、本市の子育て運動のますますの充実発展を目指します。


稚内市教育委員会公式サイト
子育て平和の日記念式典
https://www.kosodateyell.city.wakkanai.lg.jp/LGArticle/Index/90?DestinationId=01

[小樽] 1945年8月20日、旧ソ連軍の侵攻を受けて樺太の真岡(ホルムスク)郵便局で9人の電話交換手が自決した史実を基に、犠牲者のおいがストーリーを書いた朗読劇が2020年8月8日、小樽市内のカフェで披露された。
 おい自身も朗読に参加。
 戦後75年の節目にあらためて語られた悲劇に、市民ら約10人が静かに耳を傾けた。

 樺太出身で市内在住の元高校教諭米島征治さん(76)。
 自決した電話交換手の一人で25歳で亡くなった高石ミキさんは叔母だ。

 米島さんは1歳の時に小樽に引き揚げて来た。
 当時の記憶はなく、姉(81)や、他界した母、祖母から聞いた話と、関連書籍を基にストーリーを構成した。

 朗読劇は米島さんと姉が、当時の様子や高石さんの人柄などを振り返る設定。
 この日、米島さんら3人が写真や映像を交えながら朗読した。
 米島さんは叔母を「責任感の強い人だった」とし、極限状態の中で死を選んだ人たちをしのびながら、「9人だけが特別視されることではない。戦争の悲惨さや平和の大切さをもっと知ってほしい」と訴えた。


[写真]
自決した叔母の人柄などを朗読劇で振り返りながら、平和の大切さを語る米島さん

北海道新聞、2020/08/10 05:00
旧ソ連侵攻
樺太で電話交換手集団自決
真岡の悲劇 生々しく
小樽 犠牲者のおい 米島さん朗読劇

(谷本雄也)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/449017

[稚内]終戦直後の1945(昭和20)年8月20日、旧ソ連軍の侵攻を受け、樺太(サハリン)の真岡郵便局で自決した9人の女性電話交換手ら樺太の戦争犠牲者を追悼する「第58回氷雪の門・九人の乙女の碑平和祈念祭」(実行委主催)が2020年8月20日、稚内総合文化センターで開かれた。
 9人の乙女の元同僚や関係者らが故人をしのび、平和を願った。

 今年は新型コロナウイルス感染予防のため、一般の参列はなく、例年の6分の1の約50人が参加。
 詩吟や吹奏楽の演奏などを取りやめ、式典の映像をネットでライブ配信した。

 式典では、黙とうの後、工藤広市長が「樺太の悲劇を再び繰り返すことのないように、若い世代に戦争の悲惨さや命の尊さを語り継ぐことが平和の実現につながる」と式辞を述べた。
 参列者は9人の遺影が飾られた祭壇に1人ずつ白菊をささげた。

 当時真岡郵便局で勤務した同僚の木本孝(たか)さん(92)=千歳市在住=は十数年ぶりに参列、「悔しさと悲しみがこみ上げてきました。せめてこの苦しみを若い人たちに知ってもらいたい」と涙ながらに語った。
 同僚で毎年参列する栗山知ゑ子さん(92)=上川管内和寒町在住=は「写真を見て当時を思い出しました。みんな親切で優しい人ばかりでした」と静かに話した。


[動画]道新NEWS

北海道新聞、2020/08/21 05:00
9人の乙女追悼、平和誓う
樺太・真岡郵便局自決
稚内からネット配信

(伊藤駿)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/452274

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2020年08月20日

北の国の首相と南の国の首相の働き方の違い

 地球の北半球と南半球では、こんなに首相の働き方は違うようですね。
 まずは南半球はニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相から。
 まず自国の国民のために働く首相は国民から支持されているようです。

 2020年8月9日、ニュージーランドの人びとは新型コロナウイルスの市中感染がゼロになってから100日目を迎えたことを祝い、パブで飲んだり、スタジアムに詰めかけたり、友だちとハグし合ったりしていた。
 その2日後、状況は一変した。
 4人の新規感染がオークランドで確認されたのだ。
 4人は家族だった。
 当局は13日、集団感染は17人に拡大したと発表した。
 パンデミック対策で高く評価されるこの島国にどうやってウイルスが戻ってきたのか、当局は感染経路の特定に全力を挙げている。

 1つには、輸入貨物に紛れ込んでいた可能性が考えられる。
 感染者の中には輸入食品を扱う冷蔵倉庫で働いている人たちがいた。
 もう1つ注目されているのが、海外帰国者向けの隔離施設だ。
 オーストラリアのメルボルンでは、こうした隔離施設が集団感染の発生源となった。

ケタ違いのスピード対応

 経路不明の感染者がわずかに確認されただけで、ニュージーランドは「普通の生活」に別れを告げた。
 ジャシンダ・アーダーン首相はただちに人口170万人の都市オークランドを再びロックダウン(封鎖)。
 2度目のコロナ鎮圧を目指して大規模な検査、接触者追跡、隔離作戦の実施を発表した。

「徹底して早期に手を打つ。これが今でも最善の選択肢だ」

 コロナ関連で毎日行っていた記者会見を復活させたアーダーン氏は8月13日、このように述べた。

「私たちには策がある」

 同様の困難に直面した地域は少なくない。
 香港、オーストラリア、ベトナムはいずれも早期にコロナを封じ込めたが、その後、新たな感染の波に襲われた。
 ニュージーランドは突然の感染復活に落胆させられたものの、ケタ違いのスピードで大規模な対策に乗り出した。
 そうすることが感染爆発を撲滅し、早期に生活を正常化させる必勝パターンとなることを期待しているのだ。

「ハグ、握手、レストラン、映画など、私たちは休暇で海外に出かけることを除けば、以前の生活をすっかり取り戻していた」

 こう話すのはオークランド大学の細菌学者スージー・ワイルズ氏だ。

「そうしている間に私たちは、検査と接触者追跡の能力を大幅に拡充するのに時間を費やすことができた。したがって今回は、いかにすばやく感染を終息させられるかを現実にテストすることになる」

「所要時間は、あらゆる面で大幅に短縮されている」とワイルズ氏は話す。

 アーダーン首相に感染発生の可能性を告げる第一報が届いたのは11日の午後4時。
 マスク工場を訪問し、首都ウェリントンから数時間の所をバンで移動しているときだった。
 午後9時15分、アーダーン氏と保健省のアシュリー・ブルームフィールド長官は記者会見を行い、新たな感染例を確認したと公表。
 翌日からロックダウンを再開すると発表した。
 感染者4人は全員同じ家族で、最近海外から帰国した者は含まれていなかった。

「私たちはここまでやってきたのだから、後戻りすることはない」と、アーダーン氏は呼びかけた。

「強さと思いやりを持ってほしい」

 ロックダウンは当初3日間とされたが、接触者の追跡はすでに始まっていた。

感染が再発したのはなぜか

 初めて感染拡大が起こった数ヶ月前、ウイルス根絶に向けたニュージーランドの強硬策を強く支持した疫学者のマイケル・ベイカー氏は、ロックダウン再開が発表される数時間前に新規感染が確認されたとの情報を得た。
 どこで何が間違ったのか。
 ほかの専門家同様、ベイカー氏もただちに解明作業に取りかかった。

 ベイカー氏は言う。
「ニュージーランドの街中でウイルスが現れたということは、国境を越えて持ち込まれたとしか考えられない。この国ではウイルスは根絶されていた。3ヶ月もの間、見つからずに存在し続けていたとは到底考えられない」

 しかし国境のどこから、どのようにして、いつ入り込んだのかは、まだわかっていない。
 保健省長官のブルームフィールド氏が13日に語ったところでは、新たな集団感染の感染者は7月末頃に症状が出始めており、ウイルスは少なくともその1週間前から市中に存在していたとみられる。
 遺伝子解析の結果、今回のウイルスにはイギリスやオーストラリアで見つかったウイルスと類似点のあることがわかっている。

 輸入貨物を通じて広がった可能性を調査するため、保健当局は今回、感染者の一部が見つかった冷蔵倉庫会社アメリコールドの全従業員を検査し、迅速検査の結果、合計7人の感染を確認した。
 食肉加工工場の冷蔵室で感染が広がった他国の事例をふまえ、科学者らは同社の2つの施設の表面も検査した。

 仮にウイルスが貨物経由で移動したことが判明した場合には、世界貿易に甚大な影響を及ぼす可能性がある。
 徹底した消毒や、出荷と納品の待機時間をより長くするなどの対応に加え、船や港の監視強化が必要になるかもしれない。
 ただ疫学者らは、このような経路で感染が広がるとは考えにくく、最も可能性が高いのは人と人との接触による感染だと話す。
 ブルームフィールド氏によれば、「感染の90%が家庭や職場で起こっている」。
 これまでの集団感染は、キッチンや休憩室などで広まったとみられている。
 13日に報告された新規感染者の1人は、11日に見つかった感染者とつながりのある学生と関連していた。
 ほかの7人はアメリコールド従業員の家族だ。
 新規感染者は全員、政府の隔離施設に移される。
 つまりウイルス封じ込め策は、3〜4月にニュージーランドで最初にロックダウンが実施されていた頃と比べても、一段と強化されたことになる。

 ニュージーランドは隣国のオーストラリアから何をしてはいけないかを学び取ったようだ。
 オーストラリアのメルボルンでは先日、検査で陽性となり自主隔離となった800人の感染者が、隔離期間中に自宅待機していなかったことが抜き打ちチェックで発覚している。
 ニュージーランドが隔離施設を重視するようになったのも、オーストラリアを反面教師とした結果だ。
 メルボルンでは、旅行者がホテル従業員をウイルスに感染させ、感染した従業員によってウイルスが家庭に持ち込まれていた。

 ブルームフィールド氏は13日、帰国者に対応した32ヶ所の隔離施設すべてでただちに従業員のウイルス検査を行い、それ以降も週に1度の検査を実施すると述べた。
 検査範囲は従業員の身内のほか、国内の空港や港湾で働くすべての国境監視員にも拡大される可能性がある。
 対象職員は6000〜7000人に上る。

「こうすれば、これ以上、不用意な感染が広がるのを防ぎやすくなる」
(ブルームフィールド氏)

 これと目的を同じくするロックダウンも、厳格に実施されている。
 10ヶ所設置された検問所では、ロックダウン開始から36時間で1万7000台もの車が警察に止められた。
 大部分は仕事や食品の買い出し、介護など、正当な理由による移動であり、オークランドから逃げだそうとするといった違反行為で検問にひっかかり、引き返すことになったのは312台だけだった。

信頼される強硬策

 高級ショッピング地区で普段は人出の多いポンソンビー通りでは、街が急速に半冬眠状態へと戻っていくように見えた。
 ロスコー・トービーさん(58)は、行きつけのカフェの外の歩道に自分でデッキチェアを置き、そこに座って持ち帰り用のコーヒーを飲んでいた。
 1度目のロックダウンのときにも同じことをしていたという。

 疫学者のベイカー氏は、ニュージーランドの前回の対応が成功したこと、そして台湾やフィジーなどで実質的に感染が消滅した状態が維持されていることを考えれば、楽観できる余地はあると話す。
 同氏によれば、今回の集団感染は小さく、短期間で制圧できる可能性があるという。

「政府は極めて迅速に対応し、断固とした決意でロックダウンを実施した。まだ見つかっていない感染の連鎖があったとしても、次第に消滅していくはずだ」
(ベイカー氏)

 コーヒー片手にデッキチェアに腰掛けていたトービーさんは、自分も含めた多くの人たちが、前回成果を上げた対策が再び、ただし今回はもっと短期間で成果を上げることを願っていると話した。
 トービーさんは新たな感染者が見つかったというニュースを知って「暗い気分になった」というものの、政府の大規模な対策を支持している。
「私たちは状況をわきまえているし、政府も信頼されていると思う」と、トービーさんは言った。

「政府を信頼しない理由はないね」


[写真]
再びコロナ撲滅を目指すニュージーランドのアーダーン首相は、ケタ違いのスピードで対策を講じている

東洋経済ONLINE、2020/08/20 6:20
感染者4人で再封鎖「ニュージーランド」の凄み
ハードな短期戦で再びコロナ撲滅を目指す

The New York Times
(執筆:Damien Cave記者、Serena Solomon記者)
https://toyokeizai.net/articles/-/370036

 一方、北半球を代表するギゾウ、ネツゾウ、アベシンゾウ。
「何ヶ月も休んでいない」というデマが流布してるけど、過去2ヶ月の「首相動静」の勤務時間をすべて計算すると、一般のサラリーマンの半分以下しか働いてなかったよ。こんな「高校生の放課後のバイト」みたいな労働時間で「休んでない!」とかドヤ顔で言われてもなぁ〜、ねぇ〜、はぁ〜(笑)。

「あなた(新聞記者)も147日間休まず働いてみたことありますか? ないだろうね、だったら意味分かるじゃない。140日休まないで働いたことないんだろう。140日働いたこともない人が、働いた人のこと言ったって分かんないわけですよ」

 8月17日、安倍晋三首相(65)が都内の大学病院で検査を受けたことについて、麻生太郎財務大臣(79)は報道陣の前でこう語った。
 1月26日(日)から6月20日(土)まで147日連続で執務していたという安倍首相。
 いま、政府関係者や支持者は、首相の激務ぶりのアピールに余念がない。
 安倍首相の側近である自民党の甘利明税調会長(70)はこんなツイートをした。

《「何で次から次へと日程を入れて総理を休ませないんだ! 疲れ切っているのに!」「いくら言っても聞かないんです。本人が休もうとしないんです。先生からも説得して下さい!」私と総理秘書官とのやり取りです。色々なお叱りはあります。しかし側で見る限り総理は間違いなく懸命に取り組んでいます。》

 一方、ツイッター上ではこんな冷ややかな声も……。

《週末は「午前中は来客なし。私邸で過ごす」ってパターンばかりで1時間かそこらしか官邸に行ってなかっただろ》

 はたして、安倍首相の“147連勤”の実態はどんなものだったのか。
 各メディアが報じている首相動静をもとに、休日の勤務状況を調べた。

 1月26日(日)から6月20日(土)まで、土日と国民の休日は全部で49日あった。
 イベントなどが入っていない場合、午前中は私邸で過ごすことが多く、
 午後3時以降に官邸に行ってコロナ関連の報告会に出席するというパターンが大半を占めていた。

 福島に出張中の3月7日(土)と、国会が開催された4月29日(水・昭和の日)を除いた休日47日の1日あたりの平均執務時間は123.1分、およそ2時間だった。
 最長の勤務時間を記録したのは、緊急事態宣言の延長が行われた5月4日(月・祝)の約6時間(365分)、最短だったのが“147連勤”の初日である1月26日(日)の30分だった。

 執務時間が1時間以下だった日は全体の27.7%(47日中13日)、2時間以下だったのが63.8%(47日中30日)。
 休日執務のおよそ3割が1時間以下で、6割超が2時間以下という結果になった。

 もちろん、ワークライフバランスの重要性が叫ばれている今日、休日も働いている現状が望ましいはずがない。
 また、私邸での電話対応など、首相動静に反映されていない執務もあるかもしれない。
 だが、日本の“残念な働き方”からみるに、安倍首相の“勤務状況”はことさら特殊なものではないのかもしれない……。
 ツイッター上ではこんな意見もあった。

《日本のサラリーマンの働き方を見ていると、休みとされる日に自宅にいても、結局パソコンやスマホでメールしたり電話で仕事してるし、自営業してる人は店が休みでも仕入れやなんやかやで仕事してるから、たいていの人が147日休まずに働いたことあると思うで》

「いずれにせよ、成果ではなく、努力しかアピールできなくなった点で、政権末期の感がある」と言うのは、全国紙政治部記者だ。
 安倍首相が「わずか1カ月半で流行をほぼ収束させられた。日本モデルの力を示した」と胸を張ったのは5月下旬。
 だが、感染が再び拡大し、その勢いは止まる気配がない。
 4〜6月期のGDPも戦後最大の落ち込みを記録した。

「一時はあれだけ開いていた記者会見を開かなくなったし、憲法を根拠にした野党からの臨時国会の召集要求にも応じていない。支持率が急落しているなか、コロナ対策の失敗や政権が抱える数々の不祥事について、国会や記者会見の場で追及されたくないというのが本音だろう。『激務のために首相は休む必要がある』とアピールすることで、国会や記者会見から逃げ回っているという批判をかわしたいという思惑があるのだろう」
(全国紙政治部記者)

 過去に国会の場で「政治は結果なんですよ」と主張していた安倍首相。
 その言葉が“ブーメラン”のように、自らにかえってこようとしている。
 ツイッター上ではこんな指摘も。

連続日数とか何時間働いたとか、ってのが総理大臣としての仕事の価値なの? やるべきことを、しっかりしてくれたら、1日おきに休んでいただいても結構ですわ。 政治は結果

[安倍首相の休日の執務の状況]

※ 各メディアが報道している首相動静をもとに作成。時刻は執務していたとみられる時刻で、( )内はその時間。明らかに政治活動やプライベートな活動とみられるものは執務から外したが、ネット番組への出演など、判断が難しいものについては執務として扱った。

1月26日(日)17時35分〜18時5分(30分)

2月1日(土)10時57分〜12時31分(94分)
2月2日(日)8時51分〜11時20分(149分)
2月8日(土)15時51分〜16時47分(56分)
2月9日(日)15時53分〜16時31分(38分)
2月11日(火・祝)13時55分〜15時21分(86分)
2月15日(土)13時50分〜15時5分(75分)
2月16日(日)14時53分〜17時24分(151分)
2月22日(土)15時53分〜16時43分(50分)
2月23日(日)12時38分〜16時18分(220分)
2月24日(月・祝)15時54分〜17時18分(84分)
2月29日(土)15時30分〜18時57分(207分)

3月1日(日)15時52分〜17時51分(119分)
3月7日(土)8時57分〜18時4分(547分)※福島出張2日目
3月8日(日)15時53分〜17時36分(103分)
3月14日(土)15時17分〜18時59分(222分)
3月15日(日)15時55分〜18時57分(182分)
3月20日(金・祝)9時34分〜10時45分/14時24分〜18時29分(316分)
3月21日(土)15時14分〜18時40分(206分)
3月22日(日)9時15分〜14時40分(325分)
3月28日(土)15時2分〜19時54分(292分)
3月29日(日)15時23分〜16時49分(86分)

4月4日(土)14時54分〜17時40分(166分)
4月5日(日)15時55分〜17時33分(98分)
4月11日(土)14時53分〜16時40分(107分)
4月12日(日)15時51分〜17時33分(102分)
4月18日(土)15時49分〜16時44分(55分)
4月19日(日)15時54分〜16時44分(50分)
4月25日(土)15時56分〜17時3分(67分)
4月26日(日)15時53分〜16時29分(36分)
4月29日(水・祝)7時3分〜19時41分(758分)※衆議院本会議・予算委員会あり

5月2日(土)15時50分〜17時38分(108分)
5月3日(日)15時55分〜18時11分(136分)
5月4日(月・祝)14時14分〜20時19分(365分)
5月5日(火・祝)14時58分〜17時7分(129分)
5月6日(水・祝)17時42分〜21時15分(213分)
5月9日(土)15時52分〜17時47分(115分)
5月10日(日)15時49分〜17時21分(92分)
5月16日(土)15時52分〜16時36分(44分)
5月17日(日)15時49分〜17時15分(86分)
5月23日(土)15時53分〜16時41分(48分)
5月24日(日)15時11分〜18時5分(174分)
5月30日(土)16時22分〜17時27分(65分)
5月31日(日)16時24分〜17時11分(47分)

6月6日(土)16時20分〜17時10分(50分)
6月7日(日)16時27分〜17時21分(54分)
6月13日(土)16時24分〜17時6分(42分)
6月14日(日)16時11分〜19時7分(176分)
6月20日(土)17時55分〜19時5分(70分)
6月21日(日)終日私邸で過ごす
※ 連続執務途絶える


女性自身、2020/08/19 15:50
休日執務の64%が2時間以下
安倍首相“147連勤”の正体

https://jisin.jp/domestic/1886695/

・・・そう、客観的に見て「総理の健康状態が悪い」は事実だとして、「それは連続147日間の執務を余儀なくされたからだ」は明らかに(またしてもお得意技の)嘘と思われます(何より自分で休みを取れますから)。そして現政権の恐ろしいのは、こんな嘘でも、つきさえすれば押し通せると思っていることです・・・

・・・安倍晋三が何ヶ月も休んでいないというデマを流しているバカがいるけど、8月の「首相動静」を見ただけでも、8月2日はずっと自宅にいて午後に美容院に行っただけ、8月10日はずっと自宅にいて午後にジムに行っただけ。7月も6月もたくさん休んでるじゃん・・・

・・・安倍晋三のここ1週間の「首相動静」を見てみると、ほぼ毎日1〜2時間しか仕事をしていない。これほどまでに働かず、国会も開催せず、会見も行なわず、自宅でブラブラしているだけの役立たずが、国民の血税から何千万円もの報酬を得ているのは、どこからどう見ても「税金泥棒」以外の何者でもない・・・

・・・[憲法53条を無視して国会を開会しない]自民と公明と維新の、役員人事だの、PCR検査を制限せよだの、ミシュランフレンチと渋谷カリスマ美容院と400万円六本木フィットネスのアベが働きすぎだの、クズの言い訳。国民の命を何だと思っているのだろうか?早く辞めろ・・・

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香山リカ×三上智恵対談 後編

香山リカ×三上智恵対談 後編

「日本兵が殺しに来た」記憶がよみがえったヨネちゃん
三上
: 私、この本の中に出てくる「18歳で日本軍のスパイリストに載った少女」のヨネちゃんのことで香山先生に聞いてみたいなって思っていたんです。ヨネちゃんは「九死に一生を得るという体験は普通、人生で1回しかないはずですけど、私には3回ありました」と語ってくれました。
 1回目は大阪の工場で働いていて戦争が激しくなって沖縄に帰る時「対馬丸」という船に乗ったんだけど米軍に攻撃されて、いったん宮崎に退避しつつ那覇まで来たですがその直後、同じ船が潜水艦に攻撃されて沈没して。1日違えばそこで死んでいた、と。
 もう1つは、物資を集積した船が家の前の海に来て、米軍の爆撃を受け目の前でみんなが死んで、海に手足が浮いているようなところを命からがら帰ってきたと。
 3回目は戦後、アメリカ兵に強姦されそうになって殺されかけた時です。
 でもそれ以外に、戦争中、日本軍からスパイの嫌疑をかけられて殺されそうになったけど、武下少尉という人が「屋我地島のヨネちゃんとスミちゃんを殺す奴は僕が殺す」と言って止めてくれたから殺されなかったという話を、私に何度も繰り返し、してくれたんです。
 ところが映画の撮影も編集も全部終わってから、武下少尉のお父さんが少尉について書いた本が見つかり、米軍に射殺された少尉が最後に1人の女の子の写真を持っていたという記述を見つけて、私はヨネちゃんの写真だろうと思ったんです。ヨネちゃんはたぶん武下さんが好きだったし、23歳の武下さんも海軍に誠心誠意協力してくれる18歳のヨネちゃんのことをかわいいと思っていたんじゃないか、この写真はたぶんヨネちゃんのだろう、と早合点して、リハビリ施設に入っているヨネちゃんのところに聞きに行ったんです。写真が出てきたわけじゃないんですけど、屋我地島のハンセン病療養施設「愛楽園」というところで「食料配分の事務をしていた女性だった」と書かれていたので、ヨネちゃんに、「これ、米子さんでは?」と聞いたんです。
 そしたらヨネちゃんが、「ああ、それは私じゃない。その写真はスミちゃんだ」と言ったんですね。「ヨネちゃんとスミちゃんを殺すやつは、俺が殺す」と武下少尉が言っていたという、そのスミちゃんのほうだったんです。
 後からいろいろ総合して考えると、島の同級生だったスミちゃんのほうが武下少尉と、より近しかった。武下少尉は飢えている部下を救うために愛楽園のお米を横流ししてもらっていたわけで、愛楽園の事務をしていたスミちゃんが大事な役割を果たしたんだろう、と。そして武下少尉が最後まで持っていたのはスミちゃんの写真だった。
 でも、私がその写真の話をした日にヨネちゃんは初めて、「実は夜中に男が5、6人入ってきて『ヨネコはいるか』と言って、自分を殺しに来た」という話を、私にしたんですよ。

香山: それが4つ目の、死にかけた話……。そんなことがあったんですね。

三上: そうそう、4つ目の話。「ヨネちゃん、殺されるから逃げてください」と別の水兵が言いに来たという話も何度も聞いていたけど、いつもその話は「武下さんが止めてくれたんだよ」という結末で終わるパターンだった。でも、その日初めて「実際、蚊帳をめくって『どこだ、どこだ』と言って土足で上がり込み自分を殺しに来た」と。真っ暗な中で、家の裏口から畑の中に転がり出て、お母さんと二人で逃げた、と。
 だけど、その「殺しに来た」という最もショッキングな話を、なんでそれまでしなかったんだろうと思って。あまりにつらい話だから、少し憧れていた武下少尉が助けてくれたという話にして、自分でも覆ってきたのかなと。
 そのかさぶたみたいなものを、私がはがしてしまったのか。最後まで持っていた写真はスミちゃんの写真だったんだ、と知らせてしまったせいで、と思いました。

香山: でも、その4つ目の話というのは、事実かどうかもちょっと分からないですよね。

三上: そうですかね……。でも、それ、ほんとにリハビリ施設の廊下のベンチで、もう私帰ろうと思って、もう1人の人を待っている時だったんですけど、ヨネちゃんは、何かすごい遠い目をして、急にその話をしたんですよね……。それで私も、すごくショックを受けて。だって「ヨネちゃんとスミちゃんは武下少尉が守ったから日本兵は殺しに来なかった」という話を映画でも伝えちゃったのに、実は殺しに来たんだ、と。つまり「ヨネちゃんとスミちゃんを殺すやつは、俺が殺す」と言った言葉では、武下少尉は部下や同僚の残虐行為を押さえられなかったわけですよね。
 結局、スパイ探しをして処刑することぐらいしか自分たちの飢えと不安を乗り越えるすべもなくなっていた海軍の敗残兵たちが、そういう血なまぐさい集団として夜中に行動する中で、18歳の女の子を家まで殺しに来たわけですよね。そこで彼女が逃げなかったら、女性として初めてスパイ虐殺の対象になったかもしれないという……。そんな話だったなら、映画の作り方も全然変わっていたと思うんです。

香山: その武下少尉の話で、ある種自分のファンタジーを完結させていたんですかね。

三上: そういうことってあると思います?

香山: あるんじゃないですか。何度も何度も反復することで、そのファンタジーのほうを自分の中では事実だというふうに言い聞かせていた、ということはあるかもしれない。それが心を守るためにも必要だったんでしょうね。

―― でもそのファンタジーが、最後まで持っていたのは自分じゃなくて他の女の人の写真だったということを知って、崩れ去ったと。

香山: 崩れ去ったと言うより、もうファンタジーを持ち続ける意味もなくなった、というか。長いこと、自分でそういうファンタジーを作っていたけど、もうその必要もなくなった、と。そうじゃなかったら、三上さんがその写真を見せても、「ああ、これは私だ」と言ったと思いますよ。だから、ヨネちゃんにとっては、それを言えてよかったと思います。自分でもうすうす武下少尉の思いは別のところにあるかもと気づきながら、自分の中でファンタジーを作ることで、ある種ボカしてきたみたいなところもあったはずだから、言えたのはよかったと思います。
 写真の、スミちゃんという人は、どうなったんでしたっけ?

三上: スミちゃんは、もうとっくに亡くなっているんですが、普通に結婚して、屋我地島の近くでで一生を終えたようです。スミちゃんは日本軍には狙われていないんです。
 ただ、武下さんがアメリカ軍によって殺されて、その手帳の中からスミちゃんの写真が出てきたためにスミちゃんは米軍の怒りを買い、お米を日本軍に横流しするのに協力したということで、その後、逮捕されます。だけどみんなが助けて、事なきを得るんですけども。でも一度は米軍に「敗残兵に協力した女」として捕まるところまでは行ったんです。だから、スミちゃんが生きていたら、この人の話も聞きたかった。もしかすると、最愛の武下さんを米軍に殺されてしまったという悲劇ですよね。でもご家族の手前、話すことはできなかったかな。……。

戦時中だけでなく現在も続く根深い女性差別
三上
: これは本にも書きましたけど、戦前、強い日本軍という触れ込みであんな若い男の人たちが大ぜい、島に入ってきた時に、駐留先の若い女の子たちにしたら、「天皇陛下に尽くしたい」「今ここの地域に駐留している海軍や陸軍の兵隊さんに協力したい」という思いと同時に、憧れもあっただろうし、将校だったりしたら輝いて見えただろうと思うんです。でも、そういう気持ちで日本軍に協力していたという話も、戦後、全くタブーになってしまった。「最後まで日本軍に尻尾を振っていた女ども」みたいに、地域の男社会から断罪されたりして。
 戦前戦中、権力も経済力もある日本軍に尻尾を振っていたのは男も同じで、女の人だけじゃない。でも、戦後になってから、「日本軍に必要以上に協力していたんじゃないか」「慰安婦でもないのに、そういうことまでして日本軍を追いかけ回していたんじゃないか」と揶揄されるような女性たちがいたり……。
 戦後は、この間までは日本軍に尻尾を振っていた男たちが、米軍とうまくやっていかないと、もう地域の生活が立ち行かないわけだから、あんなに憎いと言っていた米軍基地の中で働いて、プライドもなにもない状態で、アメリカにすり寄って生きていくわけですよね、沖縄では。だけど、その米軍相手の商売をする女性たちに対しては男の人たちが輪をかけて差別をするわけです。
 だから、日本軍にやられ、米軍にやられた男集団は、その情けなさからなのか、日本兵や米兵に体を売ったり、こびを売ったりして生きていく女を余計に軽蔑することで自分を保っているような部分がある。そんな風潮の中で、沖縄戦前後の女性の体験談の聞き取りはとても難しいという……。

香山: なるほど。沖縄における女性の問題というのも本当に根深いですよね。
 上間陽子さん(琉球大学教育学研究科教授)が『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版、2017年2月)という本には10代で妊娠、出産し、恋人や夫の暴力から逃げてシングルマザーになり水商売で働く女性たちがたくさん出てきますよね。
 また、『東京貧困女子 彼女たちはなぜ躓いたのか』(東洋経済新報社、2019年4月)で話題になった中村淳彦さんは、今回のコロナ禍での女性の貧困の問題を『新型コロナと貧困女子』(宝島新書、2020年6月)という本にいち早くまとめました。その中では沖縄の歓楽街、松山のキャバクラで働く女性にも取材していますが、「もう貧困とか、そういうレベルじゃないんです。松山のキャバ嬢はシンママ(シングルマザー)がばかりだから、パニック」と彼女たちが置かれているとても厳しい実態について話してます。

三上: ええ。男性社会の鬱憤みたいなものが、そういう仕事をやっている女の人に向けられていくところって、戦争の話が出てこなくなる、大きな理由の1つです。戦争証言で、被害を受けた話とかは比較的受け止められやすいからできるけれども、どうやって日本軍を支えて、その後その地域からどんな差別を受けて生きてきたかなんていう話は、全く出てこないし記録されることもない。そのことに私、去年、初めて気づいたんです。
 こういうのって、たとえば、NHKの「チコちゃんに叱られる!」に出ている岡村隆史さんがね、「コロナ明けたらなかなかの可愛い人が、短期間ですけれども、美人さんがお嬢(風俗嬢)やります。短時間でお金を稼がないと苦しいですから」っていう、本当に下の下の発言をラジオでしましたよね。そんな人が何で許されてNHKの番組に今も出ているのか、と。これ、何か日本の男社会の病巣の深さを見る思い。見るたびに不愉快な発言を思い出すので見なくなりました。大好きな番組だっただけに残念です。

香山: 本当ですよね。先ほどの本にも繰り返し書かれているのは、歌舞伎町にしても沖縄・松山にしても、水商売とか風俗業で働く女性たちは、「普通の暮らしがしたい」、それだけだと。男の人からは、「遊ぶ金欲しさ」とか「派手な生活がしたいんだろう」みたいに言われるけど、とんでもないと。みんなギリギリで生活してて、シングルマザーだったり仕送りのない学生だったり、普通の生活をするためにそういう仕事をせざるを得ない、と。それなのに、「そういう人たちは好きでやっているんだ」とか「自分も楽しみたいからだ」と言われ続ける。病気になっても自己責任と言われます。これはまさに雇用の問題ですよね。正社員にはなかなかなれない、バイト代も極端に安く抑えられている、そういう中では子どもがいたり学校に通っていたりする女性たちは、昼間の仕事だけでは生活ができない仕組みになっているのです。特に沖縄ではそうじゃないですか。

三上: 橋下徹元大阪府知事が以前、「海兵隊は、沖縄の普通の人をレイプするくらいなら風俗の人のところに行ってくれ」という趣旨の発言をしましたよね。お金を払ったら誰も傷つかないと本気で思うのでしょうか。これは女性には二種類いるという男性都合の許しがたい考え方です。「普通の女性、たとえば自分の妻とか娘なんかの操は守られるべきだけれども、納得してお金で解決できる女の人もいるんだから、そういう女の人のところに行ってください」という論理です。これに対しては、日本中の女性全員が怒るべきだと思うんですよ。
 たとえば20歳になったときに、客室乗務員でもモデルでも女優でもOLでも風俗嬢でも、どれを選んでもいいよと言われて、風俗を選ぶ人がいるはずないじゃないですか。なのに「物分かりのいい女がいるから、そっちに行ってください」というようなことを言ったあの橋下さんも岡村さんも、いまだにテレビに出続けているというのは、大衆がそれを許しているから。人の不倫はあんなに責めるのに、女性差別については追及が甘いのが情けない。

香山: 本当ですよね。自分たちがそういう社会を作って女性たちを追い込んでいるのに、「好きでやってる」と思い込もうとしている。

―― 橋下徹発言で思い出すのは、終戦直後に日本政府が占領軍に対する“性の防波堤”として設置した「特殊慰安施設協会」ですね。占領軍兵士による一般女性への強姦を防ぐため、5万5千人の娼婦を募集したという。のちに総理になる池田勇人が当時大蔵官僚だったんですが、この協会の資金調達をしたそうです。

三上: 終戦直後の満州でも、岐阜県の黒川村の人びとが匪賊の襲撃から守ってもらうために、ソ連兵に「性的な接待」をして村人の保護を約束してもらうということもありました。その論理の中でも理解できないのが「兵隊さんとして戦争に行っている人の奥さんは守らなきゃいけない」と言って、まだ結婚する前の十代の女の人たちに、ソ連兵の接待をお願いしたんですよ。

「守られるべき操を持った女性」という大多数のグループがいて、その対価として、「そうじゃない人たち」を差し出す、みたいなことがあちこちで行われた。

「ある一定の人が諦めれば、この大きなグループの操、母であり、妻であり、妹や娘である大切な人たちが守られるんだ」という本当にとんでもない考え方を肯定している日本男性が、今この瞬間にもいっぱいいるんですよ。だから、岡村さんのあの発言も許されるんだと思う時に、煮え湯を飲まされた女性たちの歴史を考えてしまって、本当にはらわたが煮えくり返る思いで。

香山: 今コロナ問題でテレビに毎日出ている西村康稔大臣も2012年にベトナムで買春をしたと週刊文春に報じられてますね。つまり「その人たちだってお金が欲しくてやっているんだから、別にどっちも傷ついてないんだから、いいじゃないか」みたいな考えを持ってるわけですよね。

三上: 戦争中の従軍慰安婦についても、「あの人たちは高給取りだから選んできたんであって、軍隊の命令で連れていった、とか無理強いしたなんてことは一切ない」と言う元軍人に何人もお逢いしています。「いや、無理やり連れてこられたと言っている人たちは1人や2人じゃないから、そういうことだってあったんじゃないんですか」と言っても「いや、日本軍は規律が厳しかったからそんなことないと思う」と譲らない。

―― どこの国の人も「私の国の軍隊は規律が厳しく品行方正だ」と言うんですよね。僕はこれを日本の30代の女性からも聞いたし、ロシアでもイスラエルでも一般の人から聞きましたけど。結局「自分の国の軍隊は悪いことはしない」と肯定したがる。

三上: それは陸軍中野学校出身のМさんという人も言っていました。「従軍慰安婦というのは捏造で、これは情報戦だ。韓国、北朝鮮、あの半島の人たちの諜報戦に日本が負けたということなんだ。これを全く信じてしまっている日本の人たちがいるが、中野学校式の諜報戦というものがちゃんと機能していたら、こんなふうになっていない」と、100%捏造という立場で。

―― 産経新聞が中心になって、数年前からそういう「歴史戦」というキャンペーンをやっていますからね。戦史研究家の山崎雅弘さんが『歴史戦と思想戦 歴史問題の読み解き方』という集英社新書の中で書いています(2019年5月刊)が、その産経などの「歴史戦キャンペーン」では、「中国や韓国が捏造して、そういう情報戦をやっている、日本はその情報戦に勝たなければならない」と。

三上: うん、私もその本、読みました。もう、そういうところまで来ているんですよね。

香山: 従軍慰安婦の問題といえば、去年の「あいちトリエンナーレ」での少女像などのことで、高須病院の高須医師が旗を振り、名古屋市の河村市長も応援団長だかになって、愛知県の大村知事をリコールするための運動を始めているじゃないですか。日本の男性たちの慰安婦とされ、心身に深い傷を受けた女性たちを慰めるための少女像で、そこまで彼らがエキサイトする理由がまったくわかりません。そのあいだに名古屋市はコロナの対策が遅れに遅れ、感染者が激増しています。
 市長が知事に反旗を翻しているものだから、スムーズに協力を仰げない状態になっているのです。今や市民の生命の危機になっているわけです。

三上: そんなことで機能不全を起こしていたら本末転倒ですね。

香山: 本当ですよ。「ここまで執念深いのは何なんだろう?」と恐ろしくなります。今は県知事リコールの理由として「その芸術祭の作品で、昭和天皇の写真を燃やす動画を見せたものがあったから」とか言っていますが、最初は明らかに市長も少女像を問題にしていました。写真などでみなさんご存じと思いますが、あどけない少女がベンチに座っているだけの、何の攻撃的なメッセージも感じさせない像です。それに対していい大人がこぞって反対している理由が、全く分からないです。
 おそらく、彼らの中には日本の男性の歴史の恥部である、この従軍慰安婦というものを絶対に認めたくないんですよね。

三上: 一番嫌な「男の連帯感」ですね。

香山: まさに、さっき三上さんがおっしゃったように、女性を完全に2つに区分して、「お金で、喜んでそういう性的なこともする女」と「そうじゃない、自分の母親なり、妻なり、娘なり、潔癖、貞操が守られている女性」みたいな考え方。これがベースになっている。

三上: そう。だから彼らにとっては、「お金で割り切る物分かりのいい女」というグループがいないと駄目なんですよね。全部が妻であり、娘であったら駄目なんですよね。

香山: うん、そう。だから従軍慰安婦が少しでも給金をもらっていたという記録みたいなものを見つけると、鬼の首を取ったように「ほら、こんなに払われてるじゃないか」とか繰り返すわけでしょう。
 それは沖縄に対して、「米軍基地があって、むしろこんなに利潤があるじゃないか。もうかっているじゃないか」みたいな言いぐさとすごく似ている。

 誰かに犠牲を強いて、それなしでは生活が成り立たないようにしておいてから、「あの人たちだって喜んでやっているんだ」「いい思いしているんだろう」と言う。

三上: まさにそれ!です。でも「沖縄の人たちは得もしているんだから」とよく言う人が居ますが、沖縄県全体で、いわゆる軍用地料を「たくさんもらっている」と言えるぐらいの人は数十人しかいないようです。ほとんどの人たちが50万円から300万円ぐらいまでの間で、すごくリッチな暮らしをしている人なんて、本当に一握りしかいないんです。
 それ以外の沖縄県民は1円ももらってないわけです。その人たち全員が米軍の被害対象ですから。

香山: 本当ですよ。今回、米軍でコロナのクラスターが発生して、もしかしたら、それが沖縄全土に蔓延している可能性
だってある。それだって米軍による新たな被害です。直接的な暴力や性的なことじゃなくてもね。でも「大変だ、日本を挙げてとにかく沖縄を支援をしよう」という話にはならない。
 昨日も、玉城デニー知事が、「とにかく国で支援してもらわないと大変だ」と言っているのに、菅官房長官をはじめ皆冷淡じゃないですか。「困っているのは皆同じだ」とか、「沖縄だけやるわけにいかない」とこうういときだけ平等論が出てくる。で「自分たちが好きで選んだ道だろう」みたいなことで片づけちゃう。こういう考え方がある限り全然変わらないですよ。

三上: うん、本当ですね。

戦時中の日常を知ることで戦争をリアルに感じる
―― 今年戦後75年で、護郷隊の生き残りの人たちも、もう90歳とか亡くなっている人も多くて、実際、本当に戦争を体験された方たちがどんどん亡くなっていく中で、香山先生がおっしゃったように、右翼的な言説がどんどん伸びてきていますね。

香山: 本当ですよ。この10年で右傾化は急速に進みました。10年前の自分の原稿やテレビでの発言をたまたま見て、「こんなに自由にものを言ってる」と驚かされることもあるほどです。

三上: だから、歴史を検証していく際に、証言者を失うことで不利なのは、私たちの側なんです。普通に、この戦争の実情を聞き取って伝えて、平和につなげていきたいという、戦後当たり前に続けられてきた活動があったわけですけど、この10年ぐらいで、「あったことを、なかったと言う歴史修正主義者」みたいな人たちがネット上の支持者の力を背景にダーッと出てきて。そんなの「取るに足りない、愚かしい行為」と思っていたら、あっという間にこの人たちがすごくリアルに政権や経済界ともつながって歴史戦を挑んできて。証言者を失った時に、ガクッと不利にならないようにもっと記録を大切にしないといけないと改めて思います。

香山: この対談をしている今日(2020年8月6日)はまさに広島の原爆の日ですが、「ああ、こういう方法もあるんだ」とすごく感心した企画がありました。NHK広島放送局が、当時の新聞記者の一郎さんと、妊娠中の主婦やすこさんと、シュン君という中学1年生の男の子の日記をもとに、ツイッターのアカウントを作って、時系列的に、彼らが体験したであろうことを、「当時ツイッターがもしあったなら」という形で投稿し続けているんですよ。

三上: うんうんうん、面白いですね。私も見ました。

香山: シュン君なんかも十数万人もフォロワーがいて、朝8時つまり原爆投下直前に「さあ、これから汽車に乗ろう」みたいなことをツイートすると、皆が「やめて〜!!」とか「行かないで、シュン!!」「ダメダメ、行っちゃ!!」とか、とてもリアルにリプライをしていて。「こんなに身近に原爆を感じたのは初めてだ!」とか「すごい企画だ! でも、もうやめてほしい。涙が止まらない」などと真剣に感想を寄せている人もいます。
 どんな人たちがこんなリプライしているのかなと思って、その方たちのタイムラインを見てみたら、本当にごくふつうの主婦や学生、アルバイトの青年などなのです。とくに社会問題に関心があったわけでもなかった人が、たまたまこれを見つけてフォローして、そして「戦争って、原爆って、こんなだったんだ」とまさにリアルに感じている。
 ああいうふうに、むしろネットをうまく利用して、もうその人はもちろん死んでいないけど、その証言をもとにキャラクターを再現してみることもできるな、と思いました。もちろん皆、これはリアルじゃないと分かっている、だけど75年前の今日という設定にするとこうやって過去と対話することもできるんだ、と新鮮でした。

三上: ごっこ、であっても追体験はとても大事です。私たちも、琉球朝日放送で10年前の戦後65年の節目の年に、1月1日から12月31日まで「65年前の今日何があったか」というのを、毎日ローカルニュースの中でやっていったんです。それは私たちにとっても、すごく勉強になって。やっぱりこの温度、この湿度の日に何があったのか、それを取材者が自分に全部叩き込んでおくことが後でものを言うというか。
「今、米軍が上陸したよね」とか「今、シュガーローフ(日本軍の首里防衛線の西端の丘。日本側呼称は安里五二高地)の辺りで戦闘をやっているんだね」とか「こんな雨が降っている時に南部に逃げていったんだ」ということを追体験するシステムを考えて、自分をそこに置くことって面白いなと思うし。
 ツイッターでは、東京に住んでいる方なんですけど、「棒兵隊」というアカウントの人が、戦争中の今日、何月何日、沖縄で何があったかということを、この数年毎日つぶやいているんです。本当に頭が下がります。護郷隊のこととかスパイ虐殺とかも全部出てくるんです。
 琉球新報も、沖縄タイムスも「沖縄戦新聞」というものを、〇〇年前の今日、もし新聞があったとしたら、こういう記事だったというようなことで号外のようなものを出したり工夫しています。
 だけど今回は、本当にリアルタイムで全国の人がガーッと参加できるSNSというもので、みんなでできる追体験の、物すごく面白い実験になりましたね。

香山: そうですね。だから、これからそういうふうにいろんなツールを使えば、まだまだ新しいこともできるかな、とも思うんですよね。アニメ映画『この世界の片隅に』(2016)とも共通する手法ですよね。なにげない日常をずっと描いて、その人そのものに、まず親近感を持たせておいて、そこから戦争を考えてもらう。三上さんの『証言 沖縄スパイ戦史』も、まさにそうじゃないですか。証言者の方たちの個人個人、1人ひとりの生活の様子などが出てきて、ああ、こんな人なんだ、とまず共感を抱く。そこから一気に護郷隊の話になるので、引き込まれます。まさにここに出てくる人たちだって、新しいIT技術とか使うことで、亡くなった後でもその語りをよりリアルに残していくこともできるのではないでしょうか。

三上: そうですね。だから、この少年兵たちが、それぞれどんなことをやっている時に召集令状が来たかというのを書きました。召集されて嫌だった人も喜んだ人もいたし、親が反対した人も喜んだ人もいていろいろだけど、一応、志願という形でないと駄目だったから、自分から戦争に行ったと。「あれは志願じゃなかったよ」と言う人もいるけど、「志願して行きました」と言う人もいて。
 最終的に、今の世の中から見たら、「志願させられている」と言って間違いはないんだけど、自分から参戦したつもりの少年は、罪の意識も持ちやすい。日本軍が住民を苦しめているような場所の一角に護郷隊がいた場合は、少年兵といえども加害者にもなっちゃうわけですよね。おおむね被害者なんですけど、住民を見捨てたとか、負傷した戦友を置いてきたとか、「自分も加害者では」という部分があるからこそ、戦後、ペラペラしゃべることもできなかった。被害者でもあるけど、加害者にさせられていく怖さ。だからこそ、ずっと語れない、何十年もの苦しみがあった。
 被害者のほうが、苦しくてもまだ同情もしてもらえる分、語れるけど、加害の部分があるために、その他の被害の部分をしゃべる資格がないと思って、黙る人もいっぱいいるんです。
 そういうことは、この750ページぐらいの分量で書かないと、誰かの加害経験だけを書くと、「沖縄の人も加害者側だったじゃないか」と、そこだけまた本土の新聞とかにさらっていかれるのが嫌なので、そういう体験を混ぜ込むだけの質量を持って書かなきゃ、と思って書いたんです。

香山: なるほど。これだけのボリュームだと、恣意的にある傾向の人を選んだ、という印象はいっさいありませんものね。

沖縄戦を知ることで戦争を絵空事でないものとして捉えることができる
―― 日本で地上戦があったのは沖縄だけです。岐阜や北海道とかでも、中野学校卒業生がゲリラ戦を準備していたのはあったようですが……。先ほど香山先生がおっしゃったように、僕も以前「戦争はどこか遠くの戦場でやっているもの」というイメージを持っていたんですが、沖縄だと本当にもうそこでやっている。

香山: ねえ、生活の場のすぐそこが戦場、ということですものね。
 だから今の私たちって、本当に頭の中で戦争ゲームみたいなイメージしかないから、バトルフィールドがどこか遠くにあって、そこでドンパチやって、戻ってきたら普通の日常がある、みたいなイメージしか持てないじゃないですか。でも、沖縄では全然違ったわけですものね。

三上: ですからそういう意味で、沖縄戦を知るということには、今の時代の日本に生きている私たちが、絵空事の戦争をリアルなものとして捉えなおすためにもってこいの教材になるんです。

香山: その通りです。たいへんな犠牲を強いてしまいましたが、そこから学ぶべきことも膨大にあります。

三上: たとえば、北部の山で避難している人は、山の上には敗走した日本軍がまだまだ潜んでいて「投降するな、投降するな」と民間人に言っているわけですよね。でも、下は全部もうアメリカが制覇している。で、夜になってアメリカ軍が寝たら、山を降りていって芋を掘りに行くわけです。そのときに、米軍が女の人を探しに来て強姦すると、「今だ」と言って皆、芋を掘るわけです。女の人を助けるなんていうことはもうできなくて、強姦されている悲鳴がキャーキャー聞こえている間は、派手に芋を掘っても米兵から捕まることもない、と。そんな証言もこの本にも書きましたけど。で、また山に上がったら日本の兵隊さんを恐れて、山を降りては米兵を恐れてと……。
 日本兵とアメリカ兵の目を盗んでいつも自分の住んでいる集落や、家の床下にある味噌を取りに行く。隣の人の畑にまだ芋が残っているはずだと掘りに行くのも、全部よく知っている地域で起きた出来事で。戦後、今になっても、そこを毎日、見ながら生活するわけですよね。「ここで強姦されていたのは那覇から来ている人だったのかな、俺はあの時助けもしなかったな」という場所を、毎日見ながら生活をする。そういう苦しみがあるから、その話はできない。私は当時北部に避難していたという読谷のおじいからこの話を聞いたけど、その北部の村の人は同じものを見ていても、「ここがそうだったんだよ」とは絶対言えないですよね。
 だから、どこかに行って戦争をするのもつらいけど、自分の地域で戦争をするなんて戦後も含めると何倍もつらい。故郷が戦場になるという非情な体験をこの国の住民がここまでしているわけですから、この事例から本気で学び取ってから、軍隊や武力による国防の議論をスタートさせて欲しいと思います。

香山 目の前の平和な風景が、ふと記憶の中の戦場の風景と重なる。考えられないことですが、それが戦争ということなんですよね。
(了)

[写真]
国民抗戦必携

集英社新書プラス、2020.8.18
沖縄戦をはじめ歴史検証で、証言者を失うことの意味
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/kayama_mikami/10122/

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2020年08月19日

香山リカ×三上智恵対談 前編

香山リカ×三上智恵対談 前編
太平洋戦争末期、日本軍第32軍牛島満司令官が自決し1945年6月23日に終わった表の戦争の裏で、沖縄北部では、少年兵部隊護郷隊≠ェ山にこもってゲリラ戦を継続していた。
彼らを率いたのは陸軍中野学校出身の青年将校たちだ。
少年たちは故郷の山で、敵の武器を拾って戦い、死んでいった。
そんな護郷隊の生き残りたちの証言を丹念に拾ったドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」を撮った三上智恵監督は、映画に収まりきらなかった膨大な証言と、取材を継続する中で浮かび上がった事実を『証言 沖縄スパイ戦史』にまとめた。
750ページの大著は今年2月の発売直後から注目を集め、増刷を重ねている。
その三上氏と、平和運動や反差別運動にも携わる精神科医・香山リカ氏が、沖縄、戦争と平和、差別、ジェンダー、新型コロナ禍について、縦横無尽に語りあった。

コロナ禍の下で続く沖縄差別や分断は戦争中から行われていた
三上
: 香山先生の沖縄地元紙の連載はいつも読んでいます。よく沖縄に来られますよね?

香山: よく、というほどではないんですが……沖縄とは、いろいろご縁があって……最初に沖縄に行くことになったきっかけは、後で詳しく話しますが、実はこの8月22日に、沖縄出身の総合診療医の徳田安春さんとの対談本『医療現場からみた新型コロナウイルス』(新日本出版社)が出るんです。
 徳田先生はNHKの「総合診療医 ドクターG」とかにも出て、若手の教育を一生懸命やっている人で。沖縄出身ですが、ずっと本州、東京でも活躍していたんですけど、2017年に沖縄に戻って。 
 その徳田先生が去年ぐらいから平和の問題に関しての発言を始めていて、今年2020年3月には『医師が沈黙を破るとき』(カイ書林)という本も出されてます。
 私は徳田先生が書かれた医学の教科書をずっと読んで医者として勉強させていただいて尊敬していたんですね。その先生が急に平和問題のこともすごく発言されるようになって、去年たまたま先生の講演会が東京であったので、私も行って初めてお会いしたんです。
 今年コロナ禍が始まってから徳田先生はすごく一生懸命、PCR検査を保健所を介さなくても医者の判断でできるようにさせてください、という署名活動を始めたりして。

三上: 医師の判断で検査できないのは、おかしいですよね。

香山: すごくおかしいです。それで、8万ぐらい署名が集まって、厚労省もちょっと動いたりした。そのことでも私、「ああ、徳田先生すごいことやっている」と思って、すぐに連絡して、YouTubeで対談を何回かして、それを対談集にまとめてもらうことになったんです。
 だから徳田先生のいる沖縄は、PCR検査をけっこう早い時期から、保健所を通さなくても、医師会がやるということになっていたので、しばらくずっと感染者数が抑えられていたじゃないですか。

三上: はい、5月、6月は新規感染者はゼロでした。

香山: 68日間も感染者ゼロだったのです。でもここに来て、人口10万人当たりの感染者数が日本一という状況になっています。一つは米軍基地のクラスター、もう一つは観光の再開によって増えたのは明らかです。でも、そこには沖縄戦の時代からずっと通底しているものがあると思うんです。沖縄に対する構造的な差別の仕組み、いつも沖縄が犠牲になるという。
 で、一旦こういう事態になると、菅官房長官は「前から療養施設を確保すべきであると言っていたのに」と苦言を呈したり、本土の人たちも「沖縄は観光で食べていくしかないし、米軍がいなくなったら経済的にも困るんだから仕方ないでしょ」みたいな言い方する人もいる。いつか見た風景です。いつも同じことの繰り返しだと思うんです。

三上: そうですよね。米軍人やその家族がなぜか検疫も受けずに日本に入れるのか、その特別扱いに日本政府は何も言えない。米軍基地の中のどれだけの人が感染しているかということも、当初は、「軍の秘密だから明らかにできない」って言いましたよね。「いくら何でもそれはないでしょう」って玉城デニー知事が一生懸命訴えて、ようやく、感染者数は出してくれるようにはなったんです。本当の数字かどうか確かめようがないですが。
 でも、やっぱり「米軍基地の中にどれだけ感染者がいて起動力が弱っているかということを中国に知られたらよくない」という理由で、「軍の中のことは機密である」というふうに、常に軍隊のいる地域というのは、軍の都合を優先し人権が制限されていく。とんでもないことだと思います。
 北谷(ちゃたん)の、私たちが普通に行く、観光客も来るホテルが、実は米海兵隊に借り上げられていて……。

香山: 軽症者の療養施設になっていたというね。

三上: そうそうそう。もしかしたら感染しているかもしれないという移入者を2週間隔離するのは基地の中の施設を使うのが当たり前だと私たちは思っていたのに、それが基地の外の普通のホテルだったり。

香山: ゲートも、その後も普通に開いたままで、中で日本の従業員の方も働いていて。そういうことに対して「おかしい」と言ったりすると、沖縄の中からも「いや、私たちにも米軍は大切な存在です」と体制寄りの人が発言したりする。あるいは「観光も必要ですから来てください」と言う旅行関係の方もいる。
 こういう、ある種の分断の構造、沖縄の中でもそういう意見の違いが出てきて、今度は内部でその人たちが対立しなきゃいけないという構造に、またなってしまいますよね。基地をめぐる構造と同じです。

民心掌握、相互監視……
陸軍中野学校で徹底的に学んで沖縄入りした将校たち
香山
: この『証言 沖縄スパイ戦史』を読むと、沖縄の中でこんなふうに「スパイだ」と名指しされて処刑される人が出てきたり、まだ十代の少年たちが見よう見まねでゲリラ戦をさせられたりしますね。規律を守らせるために上官が暴力を振るうんじゃなくて、子供同士でビンタをさせられたり、リンチみたいなことが起きたり。もう本当に、地元の人たち同士が対立したりするような構造に持っていくという。今現在、沖縄で起こっている分断の構図も、沖縄戦の頃からそうなんだな、というのが一番印象的でした。

三上: この本の巻末に「教令一覧」として、沖縄戦までに日本軍が作成したゲリラ戦のマニュアルを列挙しましたが、最後の『国内遊撃戦の参考』というのが、護郷隊という少年兵部隊を率いた中野学校出身の青年将校、村上治夫隊長・岩波壽隊長たちが中野学校で教わった時の教科書です。それには、ちゃんと書いてあるんです。
 住民の協力なくして秘密戦はできない。普通の住民たちが絶対に協力して軍の側についてくれて、一心同体になって裏切らず秘密も保持して、でもお互いに監視させて、最後は武器を持って戦わせるというところまで、住民を全部使っていかないことには勝てないんだ、と。こういう教科書を頭に入れて彼らは沖縄に来ているわけですね。
 だから護郷隊を組織したのも、たまたま兵隊適齢期の17歳以上がもういないから15〜16歳の少年たちを使ったということはあるんですが、少年たちを使うことで、彼らのお父さんお母さんは護郷隊には何があっても協力しないといけなくなるわけです。食料提供もそうですけど、米軍が「食べ物ありますよ。殺しませんよ。下りてきてください」と投降を呼びかけても、自分の息子が山の中で今戦っているのに、これを裏切って米軍に投降できないですよね。
 だから、日本軍はどうやら形勢不利だし、米軍につかないともう殺されちゃうかもしれないと思って、ばらばらと山を下りる住民たちもいるけど、自分の息子が護郷隊にいたら、最後まで「日本軍を裏切るのか? アメリカにつくなんてあり得ない」という立場になります。そうやって民心を掌握するすべというのを何重にも勉強した上で、中野学校の人たちは沖縄に入ってきていたんです。
 自衛隊は専守防衛ですから、敵が侵略してきて自国が戦場になるシミュレーションをしています。地域の住民を使ってゲリラ戦をやるという想定は現在の私たちとも無縁じゃない。でも先の大戦で「実は国内でゲリラ戦があったんだ」ということ自体が知られていないから想像することすらできない、もうそれ以前の問題なんですよね。だから、まずその事実を知ってもらいたいなと思ってドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」を撮り、映画に収まりきらない証言や追加取材の話も入れて、『証言 沖縄スパイ戦史』を書いたわけです。

岐阜や北海道でも少年兵によるゲリラ戦を準備していた
香山
: この本を読むと、沖縄以外の地域でも、少年兵を使ったゲリラ戦の計画があったことがよく分かりますね。岐阜県の方の証言が出てきます。でも、本当にここまでの規模で実行されたのは沖縄だけ。そこでも沖縄というのがある種、捨て石みたいにされたんだな、というのもよく分かりました。
 たとえば学徒出陣とかで若い人が兵隊に行ったという話は私たちも聞いていましたが、それは、自分が生活したり学校に行ったりしている地域を離れて、どこか遠く、たとえば南方に出征するというイメージだった。でも沖縄戦の場合は地元じゃないですか。自分が暮らしていたところのすぐそばで、こういうゲリラ戦をやらなきゃいけなくて。家にご飯食べに走って帰る、みたいな話も出てきたりして。
 そんな生活と一体化したところで、それまでの生活と全く断絶されて兵士になっていくというのも、最初はイメージできなかったんです。兵隊になるって、もう全然違う場所で違う生活をすることなんだ、というふうに思っていたので。でも、そうやって生活の延長としての戦争、というものがあったわけですね。
 しかも、それがある種の作戦だったわけですね。「自分らの子供たちが地元で戦っているんだから協力しよう」みたいにさせる、という。

三上: ええ。この本に出てくる岐阜県の野原正孝さんに、一昨日、もう一度会いに行ったんですよ。陸軍中野学校の宇治分校の卒業生で、今年98歳なんですが。野原さんも、それまで中野学校の宇治分校のことは、「死ぬまでしゃべらない」ということで卒業しているから、長年誰にも話さなかったし、世間の人も誰も知らなかったんです。でも去年、地元の岐阜新聞の記者・大賀由貴子さんに話したのをきっかけに、そういう話をするようになって。大賀さんが映画「沖縄スパイ戦史」を見て、私に連絡をくれて、野原さんを紹介してくれたんです。
 取材してから、野原さんはハガキを下さって、「三上さんと出会って、わしの人生面白くなってきた」みたいなことを書いてくれていたんです。でも、この本を出来上がってお送りしたら、またハガキが来て、「こうやってちゃんといろんな知識のある人によって歴史的に位置づけられたものを見る時に、一抹の寂しさを感じます」と書いてあって。

香山: どうしてですか。

三上: 結局、すごい武勇伝でもあるし、理解されないところを理解してもらったのはうれしかったけど、自分は岐阜でこの山と川を使って戦うんだということをやっていて、少年兵を使ってその練習もしていて、それをやらないで済んでよかった、誰も傷つけないでよかった、と。でも、この話がどんなふうに位置づけられるのかなと思った時に、たぶんこれを全体で読んだら「国内で地域の少年を使って戦おうと思っていた」ということって、善か悪かでいえば悪い印象しかないですよね。中野学校がやったことというのは、そういうことだったんだ、と。そういうふうに位置づけられていくことが寂しいというか。

 戦争末期に日本の軍隊は何を守ったのか。それは兵隊個々の思いはさておき、「国体」というものになっていって、軍隊が住民を守ることもできなくなって、最後は「住民は兵器だった、消耗品だった」とまで、野原さんははっきり言っている。

「武器・弾薬はもうなくて、消耗していいのは十代の若者の命だけだった」と。今の常識では、あり得ない言葉ですよね。そういう流れで見ていくと、やっぱり野原さんは、証言して良かったのかどうか、信じて命がけでやったことを肯定されないとしたら辛くなってきますよね。だから、一抹の寂しさがある、と。

香山: なるほど。私的な記憶だったのがこうして歴史の中に位置づけされると、また違って見えてくるかもしれませんね。

三上: その時の忠誠心や、日本のためと思ってやった、ということに嘘はない。それだけは言える、というようなことがそのハガキに書かれていたから、私は野原さんを傷つけてしまったんだろうなと、すごく気になっていて……。それでまた会いに行ったんですよ。そしたら、お土産も買っていてくれて、手縫いのマスクをたくさん作って待っていてくださって。それで、すごく楽しい時間を過ごしてはきたんですけど。

香山: そうですか。でも生きているあいだに話せて、ご自分なりに整理がつけられたのはよかったのではないでしょうか。

三上: でも、一昨日お会いしたのは野原さんだけじゃなくて、98歳の野原さんと同い年で、陸軍中野学校のもうあと数人しかいない生き残りの方でした。彼は北海道出身で、護郷隊を率いた村上・岩波両隊長と同じ三乙というクラスで中野学校を出て、北海道に戻って遊撃戦の準備をしていたんですね。つまり北海道でも、敵が侵攻してくれば北海道の人と遊撃戦を戦う、という計画があったんです。岐阜では、岐阜出身の野原さんがやれ、ということで、地域のつながり、地縁、血縁、それに、知識というものを総動員して戦え、と。
 戦後もソ連が北海道に攻めてきたら、北海道を使ってどうやって遊撃戦をやるかという検討を続けているんです。その時の参考に陸軍中野学校が沖縄で護郷隊を使ってどういう戦いをやったかということが、そのまま参考にされているんですよ。今もずっと続いているんです。

香山: まったく知りませんでした。終戦で切断されたわけではなかったのですね。北海道が故郷の私にとっては衝撃的です。

慰霊碑の前で泣きじゃくった晩年の村上隊長
香山
: 私は精神科医だから、登場人物の気持ちもすごく気になったんですけども、これに出てくる護郷隊を率いた陸軍中野学校から派遣された岩波と村上という人、その人たちがどういう人なのかというのが、読んでいてすごく分かるような、分からないような感じがしました。護郷隊にいた人たちは皆、決して彼ら隊長たちのことを悪く言わないわけじゃないですか。それが単純にエリートで頭がいいというだけじゃなくて「とても思いやってくれた」みたいなことを言う人もいたり。あるいは「戦後もずっと沖縄に通って慰霊をしてくれた」とか。そうやって子供たちの心をつかむというのも、実は中野学校での教育の成果というのもあるんですかね。

三上: それもあると思います。人心掌握のために、地域の人たちの心をどうやってつかむかということも村上さんは自著の中で言及もしています。部下の出身地と親の職業を覚える、と。また訓練中ですが、勉強を教えたりもしています。ただでさえ軍国教育で忠誠心を叩き込まれている少年たちが、そういうふうに接してもらったら、「この人と生死を共にしよう」と思いますよね。
 でも、本当に真心というか、「誠」という言葉を中野学校出身の人たちはとても大切にしているんですけど、誠の気持ちで子供たちに接していたとも思います。彼ら自身の心の中でも、嘘とかごまかしとか、「こうやっとけば、あいつらついてくるぜ」というような気持ちはなく本当に誠からやっていたかもしれない。でも結果的に少年たちの気持ちをしっかりつかんで遊撃戦をやれたのですから、元上官からすれば素晴らしい作戦遂行能力だったと評価されるでしょうね。

香山: 自分が暴力を振るうんじゃなくて、子供同士で殴り合わせて暴力的な管理をしたと、いうのもそうですよね。じゃあ、戦後慰霊のために毎年通っていたのは、本当に本人たちの個人的な思いなんですかね。

三上: それはそうだと思います。村上さんのほうが数は多く、1年も休まずに来ていて、岩波さんは2年に1回くらいのペースで。でも、晩年はあんまり岩波さんはいらっしゃらなかったんです。岩波さんは自著に「全ては悲しい出来事で振り返りたくない」と書いています。
 でも村上さんは、もう通って通って、通うことで、自分の中にある、やまない声というものを静めたかったのかな、と私は思ったりします。晩年は車椅子で最後の何年間かはいらっしゃっていたけど、一番最後に、顔をくしゃくしゃに崩して泣きじゃくったのを見て、みんなが呆然としたということがあったんですけど……。やっぱり、どうやっても自分の中で収めることのできない思いというのがあったんだろうなと。

香山: 逆に言うと、戦争中は、ある種の洗脳に近い教育が彼らに対してもあったということですかね。

三上: これは私も逆に香山さんにお聞きしたいんです。村上さんは、本当に「ラストサムライ」みたいな感じで、正義感も強くて、部下に対する思いも熱く、男としての生き方も非の打ちどころがない。私がもし当時出会っていたら惚れていたんじゃないかというぐらい、性格もスパッとした仁義の人だったと思うんです。
 戦時中も部下の少年たちに、そういうふうにして接してきて、戦後も、罪を償うために彼は十分やったよねと、部下たちは認めていたと思うし。ただ、遺族感情はそれとは別です。
 久高良夫さんという戦死した少年兵のお母さんが唯一、村上さんに食って掛かった人でした。「何でおまえが生きているんだ」とつかみかかったという話を、映画の中で弟さんがしています。そういうふうに、もちろん少年兵の遺族には恨まれもしたけど、ほとんどの人からは、あれだけ誠意を尽くした人はいない、と思われるところまでは頑張った。
 それでも、あれだけの少年たちの命を犠牲にして自分は生き延びてしまった、ということを、自分の中で自分を許すことができなかったのかな、と思うんです。わんわん泣くというのは、どういう気持ちだったんだろうな、と。

香山: この本の中にも、瑞慶山良光(ずけやま よしみつ)さんという、戦後にPTSD(心的外傷後ストレス障害)で苦しんだという元少年兵の方が出てきますが、沖縄戦のPTSDの問題って、一部の精神科医によってしか研究もされていなくて……。

三上: そうですね。私も、心療内科医の蟻塚亮二先生が沖縄で本格的に取り組み始めた時に一緒に取材させてもらいましたが、戦争のPTSDに関しては、広島、長崎のほうが全然進んでいて、沖縄戦に関しては、全く手をつけ始めた頃だったですね。

香山: 私も蟻塚先生とある研究会で御一緒させていただいているんですけど、蟻塚先生が、老人ホームとかでいろいろ聞き取りをしていてハッと気づかされたというのが、認知症になって最近のことは覚えていないけど、むしろ昔のことがよみがえってきてしまって、今起きたかのように感じることがある、と。たとえば死体を踏んで歩いたという感触がよみがえってきて、すごい恐怖に襲われる方もいる、という話を聞いて、そうかと思って。
 それまでは理性で抑え込んだり、仕事で忙しかったりして覆い隠していたものが、認知症になると、根源にあった不安とか恐ろしい体験、恐怖心というのがむしろよみがえっちゃうことがあるんだ、と。さっきの村上さんが号泣したというのも、そういうことかもしれないですね。

三上: まさにそうだと思うんですよ。それまで自分の生き方とか常識とか蓄積した信頼関係とかが抑えになっていて「もう罪も許されたかもしれない」という後から上書きしていったものが、消えてしまって。

香山: そうそう。蟻塚先生は、年を取ればもうつらいことも忘れられるのかと思ったら、逆だと言うんですね。これはすごく残酷なことだな、と思いました。

三上: そうなんですよね。

だから、この映画のキャッチコピーに、「もう、忘れていいよ。わたしがここで、覚えてるから」とつけたんです。

 私が辺野古や高江の基地反対の現場にずっと行っていると、沖縄戦を体験したおじい、おばあが一番頑張っているんです。時間があるというだけじゃなくて、戦争体験があって、自分だけが生き延びてしまったことを肯定できない、という思いを抱えているお年寄りがすごく多くて。「自分は生き延びたのに、基地が残ってしまってまた戦争が起こるかもしれないことに対して、何にもしないわけにはいかない」って基地反対のデモに出ているわけです。

香山: そうですね。まさにご自分の心的外傷と戦っている姿にも見えます。

三上: これだけ時間が経っても戦争で受けた心の傷を癒すどころか「基地を残したまま死ぬことはできない」という思いがつのっていく。だんだん思考がまだらになって行くのなら悲しすぎる記憶は忘れていってほしいのに、逆にそこがどんどん鮮明になっていってしまう、というのが本当につらいので……。「その苦い記憶は私たちが引き継ぎますから」っていうことは、口はばったくて、私も何年も言えませんでした。でも、少しでも引き受けて「私たちが覚えているから、もう忘れて」と。「このまま、こんな重いものを持ってあの世へ行けない」と言わないで、もう忘れていいよ、私たちが覚えているから、という気持ちで、大矢英代(おおや はなよ、映画「沖縄スパイ戦史」の共同監督)とこの言葉を作ったんです。

香山: なるほどね……今もまだ解決していない、沖縄戦を生き抜いた人たちのそういう思いがあるにもかかわらず、沖縄っていまだに差別を受け続けているわけですよね。

沖縄やアイヌ民族に対する新たな差別が始まっている
香山
: 私が沖縄にちょっと関わるようになったのが、2016年に琉球新報の新垣毅(あらかき つよし)さんが東京支社に赴任して来た際、家を借りようと思ったら断られたという事件もきっかけの一つでした。「琉球新報には貸さない」と大家が言った、と。
 その頃私は、在日の朝鮮・韓国の人たちへの差別の反対活動に関わっていて。あと私は北海道出身なのでアイヌ差別にも反対していました。とくに人種差別、民族差別はナチスをはじめとして大虐殺にもつながります。絶対にあってはならないことと思うのです。
 アイヌの方は彼らが置かれてきた状況から所得も低かったり大学進学率も低かったり、結婚する際もいまだに差別されたりということがあるんですが、それに加えて新しい差別も起きています。2019年5月にアイヌを日本の先住民族と認めるアイヌ新法が施行され、今年は「ウポポイ(民族共生象徴空間)」という施設も北海道にオープンしました。でも逆に「それでいい思いをしているだろう」ということを言う人たちがいて。アイヌ新法施行に当たって政府がパブリックコメントを募集したら、寄せられた6305件の大半がアイヌ民族の存在を否定するなどの差別的な表現で占められており、約98%が公表の対象外となっていたことを北海道新聞が報じていました。

三上: そんな高い割合でですか。

香山: 「アイヌ民族など存在しない」とか「アイヌ民族は先住民族ではない」「アイヌ民族への差別はなかった」といったまったく根拠のない差別的コメントが大半だったのだそうです。
 私はそういう差別反対運動にずっと関わっていたんですが、新垣さんの記事を読んで「えっ、沖縄に対してもそういう差別があるのか」と気づきました。その頃ちょうど作家の百田尚樹さんが自民党の勉強会で「沖縄タイムスと琉球新報は潰れたほうがいい」みたいな発言をしていた影響もあるんでしょう。不動産会社の話では、大家さんが右派的な人なので、と言われたと。

三上: 私もその時のこと、強烈だから覚えています。でもあの件は民族や人種差別というニュアンスではなく「左翼がかった新聞社には協力したくない」という感じだったのでは

香山: そうそう。でも新垣さんがいろいろ調べたら、昔も「琉球民族には貸せない」というような差別を受けた人がたくさんいた、と。

―― 1950年生まれの翁長雄志元沖縄県知事も、法政大学に通っていた頃、「琉球人には部屋は貸せません」という差別を受けた、と語っていますね。そうした差別は東京や大阪でも多かったようです。

香山: そういう昔からの差別に加えて、また新しい差別が起こっている。アイヌと同じですね。「琉球民族」とか、「彼らに自己決定権を」とか言う人は「左翼だ」「反日だ」と言われて。
 2013年に翁長さんら沖縄の全自治体の首長さんたちが銀座でオスプレイ反対デモをしたら、「反日!」という罵声をすごく浴びて衝撃を受けたと、生前、繰り返しおっしゃっていましたよね。
 ただでさえ沖縄は日本で唯一地上戦を経験し、戦後は長年アメリカに支配され、復帰後も差別されてきた歴史を引きずって、いろんな不利益を被っているのに、また今、新しく声を上げるだけで「反日だ」とか「売国奴だ」と言われる。差別の位相が変わったと思います。あまりにもひどい話です。

誰が当事者なのか?
香山
: 2016年にその新垣さんの事件があって、在日コリアンへの差別に反対していた私の仲間も「これ、沖縄も同じなんじゃないか」ということに気づいて。ちょうどその後に、高江ヘリパッド建設反対のデモを鎮圧しに、7月に機動隊が千人来るというできごとがあったんです。それで私の友人の添田充啓(そえだ あつひろ)君も高江に行ったんです。そして彼らが「高江ではひどいことが起きている。東京で差別反対をやっている人は皆来るべきだ」と言うんで、私も行くようになったんですけど。
 そうしたらそこで添田君たち東京からデモに行った人も、沖縄平和運動センター議長の山城博治(やましろ ひろじ)さんと一緒に逮捕されて、山城さんは5ヶ月勾留されたけど、添田君は199日勾留されて……。彼は裁判では執行猶予だったんですけど、長期勾留でもう本当に心身がボロボロになりました。それがもとで血圧が安定しないなどいくつも病気を抱えることになり、結局2年前に亡くなったんですよ。最期まで沖縄についても勉強を続けていて、本当にかわいそうでした。

三上: そうですよね。何とも言えなかったですね。
 でも、その高江ヘリパッド建設反対が盛り上がっていたころ、「香山リカが来る!」という情報がネトウヨを中心に大袈裟に取り沙汰されましたよね。「香山さんが辺野古や高江とかに関わることは許せない」という人たちがいることに、私はすごくびっくりしたんです。多くの有名人も駆け付けていた中で、あれって何だったんでしょうね。

―― よそ者や門外漢は口を出すな、ということだったんでしょうかね?

香山: でも私は、それに関しては、彼らにちょっと感謝しているところがあって……。どこまで当事者じゃない人間がかかわっていいか、ということを深く考えさせてもらいました。
 それまで私も、精神科医としては社会的な弱者の方たちの問題にもいろいろ関わってきました。精神疾患になる人たちは、精神疾患になるというだけでも社会的に弱い立場になるわけですから。
 でも「差別に反対するのは、当事者以外の人が余計なこと言っちゃいけないんじゃないか」という思いが自分の中にずっとあったんです。たとえばアイヌのことも「アイヌの人は言っていいけど、私は搾取してきた和人の側だから私が口を出したら、おまえ何言ってんだよ、と言われるんじゃないか」と思ったり。
 でも世界的に「スタンドアップ・フォー・サムバディ」、つまり「自分以外の誰かのために声を出してもいいんだ」という考え方が2000年代に広まってきて。「当事者をむしろ前に出しちゃいけない、当事者以外の人がやるべきなんじゃないか」と。イラク戦争とか、東日本大震災後の原発の問題でも特にそうですね。福島の人が声を出すのは当たり前だけど、「別に福島の人じゃなくたって声を出していい」という流れが出来てきて。それで、在日差別に反対して声を上げることを在日じゃない人がしてもいい、というようになってきました。
 ただ沖縄のことは、「ウチナンチュでもない私が……」とか「東京から物見遊山みたいな感じで押しかけたりしちゃいけないんじゃないか」という思いもあったんです。だけど先に東京から行った添田君たちは「何言っているの? これは日本の問題なんだから誰だって当事者だし、別に沖縄の人じゃなくたって声上げていいんだよ」と言ってくれて、「ああ、そうなんだ」と思って私も行ったんです。当事者ではないのでおそるおそるでしたし、批判もあって当然と思います。

三上: その「当事者性」ってすごく大事な問題ですね。たとえば辺野古の海の埋め立てについて、誰が当事者なのか? 辺野古の集落の人が、その海の埋め立てについて第一発言権があるのか? これだけ地球規模でサンゴ礁がなくなっていく中で、このサンゴ礁も奪われたら、もう海洋環境を取り戻すことができないかもしれない。これに関しては、海洋環境を憂う人はどこの誰でも発言権はあると思います。たとえばそこに住んでいない学者でも、サンゴのことを研究している人が「辺野古の地先を埋めるなんて、地域の人が100%いいと言ったって駄目です」と言う権利もあるし。「価値が分かる人が当事者だ」と私は思っているんです。
 だから、「そのことの重大性が分かって、そのために居ても立っても居られない気持ちになる人が当事者であって、解決能力を唯一持っている」と私は思っていて。そこに住んでいても、血統がどうであっても、関心がない、気づかない人はたくさんいるし、闘いたくない人もいる。
 辺野古に戦前からずっと住んでいて、日本軍が来るわ、米軍が来るわ、基地が造られるわ、みんなモメてるわで、そこにいる人たちは、ニュースも見たくないし、外から来てワーワー反対運動をやっている人を見ても、気分が悪いとしか思わない。そのことを自分の人生から外したいと願って生きている人に、「でも、当事者でしょう。頑張って考えて」と言うこともまた、私は暴力だと思うんです。だから、考えない自由も、逃げる自由も、「そこにいるんだから頑張りなさい」と言われない自由もあると思います。

香山: そうですね。だけど、そういう発言しない人や見たくない人が利用されちゃうこともありますね。たとえば高江のある東村でパイナップル農家をやっていて「ヘリパッド反対の人たちが来てうるさくてしょうがない」とかというような思いの人もいるわけですよね。すると「ほら、村の人も迷惑だと言っています」とかいうのを声高に言う人もいる。

三上: そうそう。辺野古の人たちのところに行っては「反対運動の人って嫌でしょう」と聞いて回っているメディアもあります。

香山: そういう意味では、誰も本当に中立とか無関係ではいられないんですよね。「私は政治的なものを見たくないから、そういうのとは一切離れていよう」というのは、今の社会では、残念だけどあり得ない。

三上: あり得ない。政治的じゃない事柄って世の中にないですよね。「自分は中立」という絶対安全な丘にいて、いつもそこから物を眺めたいという気持ちは分かるけど、絶対的な中立の地点なんて人間に測ることができるはずないし、偏らず思考することも無理ですよね。

「芸能人は政治発言するな」という欺瞞
香山
: 残念なことに、「ニュース女子」という番組の問題(*)もありましたけど、基地に反対する人たちを「反日勢力」だとか「売国奴」だとか「外国の支援を受けている」みたいに言う人たちの声が、今すごく大きくなっちゃっている。

――「芸能人は政治発言するな」などという言説は多いですね。モデルのローラさんがSNSで辺野古の埋め立てに反対発言を出したら、テレビでも「勉強が足りない」「黙ってろ」と言われたり。

香山 そうですよね。

三上: 5月に小泉今日子さんが「私、更に勉強してみました。読んで、見て、考えた。その上で今日も呟かずにはいられない。#検察庁法改正に抗議します」とツイートしたら、「政治的な発言をするな」って叩かれましたよね。「キョンキョンがそんなこと言う必要はないんだ」「アイドルの延長線上のフワッとした存在でいるべきだ」なんて、50代の女性に向かって、全くナンセンスなことを言う人たちが大勢いました。
 でもキョンキョンがこの話題を呟いた時に叩きに行く人って、香山先生が高江に来た時に「おまえが行くな」みたいなことを言った人と、何かグループが似ていると思いました。それまで自分が辺野古について発言するチャンスもなかったし、人権派として行動するような素養もなくて、でも何となく反対運動やっている人ってやな感じ、と思っている置いてけぼりさんが、同じく門外漢だと思っていたある人が辺野古や高江について発言したりすると、「何でおまえがやるんだ」って叩くことで、何もしていない自分を肯定して溜飲を下げるという。まともな発言をする人をみんなでコキ下ろしたって、決して自分が上がることはないのに、SNSがそういう場を提供している面があります。

香山: でも逆に、芸能人が政権を支持するような発言をしても「政治的だからやめろ」とは言われないわけじゃないですか。「安倍さんも頑張ってますよね」とか「今の政府はやることやってますよ」とか「みんな、足を引っ張るのはやめましょう」とか「応援しましょうよ」とか言えば、むしろ覚えがめでたい。

三上: そうですね。だから、自分は主流派に乗りたい、多少媚びてでも何も考えないで勝ち組に乗っていたいという人たちにも、後ろめたさがあるんじゃないですかね。

香山: そうですね。本当に勢力が拮抗していれば、何も発言しないのは中立かもしれないけど、今こんなに権力のほうが肥大化している時に何も発言しないのは、実は知らない間に権力側に加担しているわけです。「いや〜、私、政治は分かりません」とか言っていると、知らない間に権力側を後押しすることになる。

三上: そうですよ、完全に。A政党とB政党というのが拮抗していたら、どっちに偏るとか、二項対立みたいな構図が一時的に描けると思うんですけど、今って自公という勝ち馬と、そこに乗り切れない人たちと伝統的な野党がいろんな形で離合集散しているけど、全然バランスも取れてない。でも、「勝ち馬に乗ることでしか自分の安泰の道はない」という思考の人からしたら、「政府に反対する人たちを皆で叩いて、勝ち馬を絶対のものにしておいたほうがいい」という集団心理が働くのかも。だから「沖縄問題にコミットする人は、何となく自分たちの立場を危うくするんじゃないか」と感じるんじゃないですかね。

香山: うんうん。そういう人は、言い訳のように、「私も沖縄は大好きなんですよ」とか「移住したいぐらいです」「一年に何回も行くんですよ」と私的体験を話すんですよね。それからおもむろに「でも基地反対とかは、ちょっと……」と言う。つまりその人にとって沖縄というのは、ただの癒やしの島として利用するだけで、行って自分がリラックスさせてもらえばいい、としか思ってない。「沖縄大好きなんだけど」とか言いながら「でも、基地はそちらにお願いしたい」なんて都合よすぎますよ。
 沖縄の人でも何人か、デマゴーグみたいな人がいるじゃないですか。でも、その人たちがすごく声が大きかったり、そういう右派的な発言をする女性が産経新聞とかのお正月特集で安倍総理と一緒に晴れ着を着て写っていたことがありましたよね。

三上: でも彼らが沖縄の一般の人たちにどれだけ影響力があるかというと、あまり存在も知られていないのではないでしょうか。一部のメディアが「沖縄の人たちにもこういう人がいるんだ」とか、「実は基地反対より、こういう意見が多いんだ」と騒いで彼らに力を与えているだけで。

香山: そうなんですね。少しホッとしたような気もしますが、でも安心はできないですね。

(*)「ニュース女子」問題:
 東京の地上波放送局 TOKYO MX の情報番組「ニュース女子」2017年1月2日放送回で、「沖縄の基地に対する反対運動には日当が払われていた」などとする報道があり、「事実関係が間違っている」「沖縄に対する偏見を煽っている」など多数の視聴者意見が放送倫理・番組向上機構(BPO)に寄せられ、BPOは審議・調査の結果、MXが番組内容を適正にチェックせず、中核となった事実についても裏付けがないとして「重大な放送倫理違反があった」と発表。
 その後、同番組のMXでの放送は打ち切られた。
 同番組は、化粧品大手ディーエイチシーのグループ会社「DHCテレビジョン」が取材・制作し、MXは完成版の納品を受けて放送していた。

[写真‐1]
第一護郷隊隊長 村上治夫

[写真‐2]
第二護郷隊隊長 岩波壽

[写真‐3]
国土決戦教令

集英社新書プラス、2020.8.14
戦後75年 沖縄戦を生き抜いた人たちの思いをどう伝えるか?
(構成・文=稲垣收 撮影=三好妙心)
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/kayama_mikami/10110/

posted by fom_club at 17:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Choose Life Projectは公共メディアを目指す

7月5日(日)、コロナ禍の中で行われた東京都知事選。
“盛り上がらなかった”とされる選挙戦は、果たして感染対策だけが要因だったのだろうか。
例年行われていたテレビ討論会が開かれず、十分な議論が尽くされたとは言い難い中、候補者のウェブ討論会を主催し注目を集めたのが、ネットメディア「Choose Life Project」だ。
これまで検察庁法改正案について問題提起をするネット番組を届けてきたほか、表現の自由、投票を呼びかけるインタビューも配信するなど、幅広く社会問題を手がけてきた。
今、「メディアがチャレンジすべきこと」は何か、代表を務める佐治洋さんに伺った。

――「Choose Life Project」は、私もインタビューや生配信でご一緒する機会を頂いてきました。改めて、どんなメディアなのか教えていただけますか?

佐治:「Choose Life Project」は、テレビの報道番組や映画、ドキュメンタリーを制作している有志で始めたプロジェクトです。基本的にはTwitterや、Facebook、YouTubeなど、SNSで動画をネット配信しているメディアです。

―― 著名人へのインタビューから、政治ど真ん中の議題に取り組む討論番組まで、手がけていることは多岐に渡りますね。

佐治: 僕自身は報道番組でずっと仕事をしてきたのですが、そういった場ではニュース報道と文化芸術を切り分けて伝えているところがあります。それをどうにか融合して報じられないだろうか、と考えてきました。あとはやはり誰もが話せる場所、自由な言論空間を作りたくて、このプロジェクトを始めました。
 基本的に専従は僕1人。そしてコアメンバーが3、4人います。他にも、10数年間テレビの仕事をするなかでつながってきた現役のテレビディレクターや記者の方が手伝ってくれています。それぞれの方に得意分野があるので、取り組むテーマに沿って、その都度お声がけして相談しながら動画を作っています。

―― 具体的にはどんなことを手がけてきたのでしょうか?

佐治: 検察庁法改正案をめぐる議論の際には、毎日のように生配信を行っていました。それまでは生配信番組よりも、日々のニュースの中でこぼれ落ちている国会のやりとりなどをTwitterの制限尺の2分20秒にまとめて投稿することに力を注いでいました。そして「Choose Life Project」の原点は、投票の呼びかけです。文化人、著名人の方のお力を借りて「選挙に行きましょう!」と呼びかけるキャンペーンを行ってきましたが、最初の動画は是枝裕和監督でした。
 他にも、「判決ウォッチング」というタイトルで、ニュースからこぼれ落ちがちな裁判の経過、判決について伝えています。

――「Choose Life Project」を始めたのは2016年の7月、4年前ですね。

佐治: 2016年7月は参議院選挙があった月です。前年の2015年9月には、安保法制が成立しています。国会前に多くの人が集まって抗議の声をあげている様子はニュースでも報じされていましたが、例えば「『SEALDs』という大学生を中心とした団体が、ラップ調の新しい形で抗議している」などと矮小化して伝えられていることも少なくありませんでした。
 なぜ抗議をしていて、何を主張しているのかが抜け落ちた形で切り取られると、ネット上でその部分だけが独り歩きをして拡散されてしまいます。国会前の現場で民主主義とは何かが問われているときに、メディアである私たちも問われている感覚になったんです。それは僕だけではなく、今の「Choose Life Project」のメンバーや、関わっている記者、ディレクターも、民主主義のために何ができるんだろう?ということを探っていたと思います。
 例えば、選挙期間に「投票行きましょう」と呼びかけることは、テレビでもやっていいはずなんです。ところが公示日以降、そういうキャンペーンを張るどころか、選挙報道がどんどん少なくなっていく過程を見ていて、もどかしさを感じていました。

―― TBSにいた頃はどんな番組を作ってらっしゃったんでしょうか?

佐治: 僕は2007年にTBS関連の制作会社に入社して、ニュース映像の編集を学んだ後、TBSの報道局で社会部記者を経験しました。その後、毎週土曜日夕方に放送している「報道特集」という番組にディレクターとして携わらせて頂いたり、去年6月で終わってしまった、くりぃむしちゅーの上田晋也さん司会の「サタデージャーナル」にもディレクターとして参加していました。

―― 選挙報道のあり方のように、テレビ報道に携わりながら、様々なジレンマも抱えていたのでしょうか?

佐治: ジレンマって、恐らく僕だけではなく、ディレクターやテレビ、新聞の現場の記者も常に抱えていると思うんです。自分が取材したものがニュースにならなかったり、取り上げられなかったり。「報道特集」では比較的、問題提起したことをやらせてもらっていましたし、「何のためにこれをやるのか」という番組内の議論も行える、今思えば充実した時間だったかもしれません。
 ただ、そのようなウィークリーの特集番組ではなく、日々のニュース番組の中で、徐々に「特集」の枠が少なくなっていきました。こうした流れ自体が、今のテレビの現状を表しているようにも思います。僕や若いディレクターにとって、「特集」の取材というのはひとつの目標地点でもあったので、その「目線」が問われる枠がなくなってしまったことが、僕にとって大きな契機になりました。

―― 今はテレビ報道の現場を離れ、「Choose Life Project」の専属となっていますが、今後どのようにプロジェクトを継続させるのでしょうか?

佐治: これまでは基本的にボランティア、手弁当、無償でやってきました。幸いなことに生配信を始めてから、Liveチャットの「投げ銭機能」で、視聴者の皆さんから「これでお弁当食べて!」と支援を頂くようになりました。パソコンひとつで行っている配信なので、そこまでコストがかかっているわけではないんです。とはいえ、周りの方にずっと無償で手伝って頂くわけにもいかないので、クラウドファンディングを立ち上げて、そういった方々にお礼をできるようにすることも含め、継続的に活動できる体制を作りたいと思っています。

―― メディア不信が叫ばれている中ですが、メディアは今後、どんなチャレンジをしていくべきなのでしょうか?

佐治: 僕自身は新しいことにチャレンジしているというよりも、今まで自分がテレビで学んできたことを活かして、テレビ番組を作っている感覚で取り組んでいます。「じゃあなんで、都知事選の討論会できたんですか?」とよく聞かれるのですが、ああいった番組がテレビでできないことは全くないんです。僕らも特別なことをやっているっていう意識なく取り組んでいました。

―― そこで何か「テレビとはこうだ」という決めつけが、柔軟さを阻んでしまうのでしょうか。

佐治: 黎明期のテレビを作ってきた方が書かれた本の中で、「アマチュア性を大事にする」という言葉が目に留まったことがありました。僕はそれまで、「テレビはこうだ!」「プロとはこうだ!」っていうことを教わってきたのですが、テレビを作ってきた大先輩のこの言葉に触れて、常識にとらわれずに、自由に表現していく感覚を常に持ちたいと思ったんです。

――「Choose Life Project」では、出演者の男女比も大切にしているところではないでしょうか。

佐治: それはすごく意識しています。今の日本の社会の構造からすると、表立って発言する識者は男性が多く、気づけばインタビューも男性ばかりになっていた、ということも少なくありません。テレビ番組を作ってきた僕自身にもそこに思いが至らないところがあったのですが、20代の若いメンバーが「おかしい」と指摘してくれたんです。それ以降、男女の割合を意識しながら出演のお声がけをしています。

―― こうしてメンバー同士がフラットに意見交換をできるっていう土壌も大切なのではないでしょうか。

佐治: だからこそ、「Choose Life Project」は佐治がやっているメディア、と思われたくないんです。色んな人が参加できるメディアでありたいし、「メディアをつなぐメディア」をひとつの理念として掲げています。こうあるべき、と決めつけるのではなく、自由な意見を柔軟に取り入れていきたいな、と。だから何かを決める時はメンバーの合議制にすることを大事にしています。

――「Choose Life Project」をはじめ、ネットメディアなど新たな媒体が生まれていく中で、メディアの役割分担にどんな変化が起きるでしょうか?

佐治: 先ほどもお伝えした通り、僕たちがやっていることはテレビにできないことではないし、むしろ僕はテレビに可能性しか感じていないんですよ。「対マス」、「テレビでできないことをネットでやる」と唱って分断したいのではなくて、テレビの可能性は信じながら、テレビがこれまで伝えきれていなかった大切なことをひとつひとつ丁寧に拾っていきたいな、と。その上で、大メディアと我々のように立ち上げたばかりのメディアの違いは何かと考えると、機動力や速さ、そういう変化に対応してすぐ「やろう」と決断できるスピード感だと思います。
 逆に言うとテレビに本気を出されたら、「Choose Life Project」は必要なくなるんじゃないかと思ったり…(笑)

―― これから法人化を目指すとのことですが、今後どんなことに取り組んでいきたいと考えていますか?

佐治: 政治や文化芸術をわけることなく論じられること、また、言論空間の自由の気風をどう保たせるのか、というところですね。先日、安田さんにも出演頂いた、香港の国家安全維持法を取り上げた企画で僕自身感じたところですが、意識しなくても自由に選択して自由に生活できていたはずの日々が、あっという間になくなってしまうことがあるんですよね。だからこそ日ごろの発信で、しつこくてもいいから何度も何度も大事なことを伝えていくことで、自由の気風を保てるようにしていけたらいいな、と思っています。著名人、芸能人の方も、ここだったら話せる、話してもいいんじゃないかという空気作りも、「Choose Life Project」ではやっていきたいと思っています。

―― 今後はマンスリー会員も募りながら、市民の支えで運営するメディアを目指していく予定なのでしょうか。

佐治: そうですね。企業の大口のスポンサーではなく、市民にスポンサーになってもらい、基本的には全て無償、オープンソースの形で配信をしていきたいと思っています。アーカイブとしても残るので、好きなときに見返していただいて、考えるきっかけを作っていければと思っています。

※ この記事はJ-WAVE「JAM THE WORLD」2020年7月15日放送「UP CLOSE」のコーナーを元にしています。


[動画‐1]
わたしの一票、誰に入れる?都知事選候補に聞く10の質問
https://www.youtube.com/watch?v=8SiD2nenVsI

[動画−2]
香港×台灣×沖縄の若者と考える 「香港国家安全維持法」をめぐって
https://www.youtube.com/watch?v=pFQE3hD-0pI

Choose Life Project、2020.8.18
Choose Life Project代表、佐治洋さんインタビュー
民主主義とは何かと問われるとき、メディアである私たちも問われている

(インタビュー聞き手 安田菜津紀/2020年7月)
https://d4p.world/news/6211/

 2020年7月5日に投開票された東京都知事選挙。
 当初から「無風」と言われていたように、現職の小池百合子都知事の圧勝という結果に終わった。
 コロナ禍の選挙ということもあり、有権者に候補者の政策や争点が十分に行き渡ったか疑問が残る選挙戦だった。
 多くの候補者が街頭演説などの選挙運動を自粛、自らの政策を訴える手段を制約されるなか、各候補者の政策を伝え、分析・論評するマスメディアの政策報道がそれを補うほどに十分であったとは思えない。
 とりわけ在京キー局によるテレビ討論会が一度も開催されなかったことに失望する有権者も少なくなかった。

 一方、存在感を示したのがネット報道メディア「 Choose Life Project (CLP) 」だ。
 マスメディアが行わなかった筆者が司会を務める候補者討論会をユーチューブで配信し、約2万人がライブで視聴。
 その映像は現在までに20万回以上再生されている。
 また今年2020年5月にも検察庁法改正案に関連して野党党首・代表らの討論番組を配信し、テレビや新聞で取り上げられてもいる。

 実はこの CLP、ネット発の独立メディアでありながら、そのメンバーはテレビ報道番組や新聞記者、映画、ドキュメンタリー制作者といった報道の現場、つまり「マスメディア内部の人たち」だ。
 かつて TBS で報道ディレクターを務めた佐治洋代表は「テレビ報道の現場にいながら、政治・社会問題に十分な時間を割いて伝えられず、大切なニュースが日々の放送からこぼれ落ちていることに忸怩(じくじ)たる思いを抱いていた」という。
 そうした現状を憂慮し、今の報道現場ではできないことを実現するため立ち上げられたプロジェクトだったのだ。
 7月に開始したクラウドファンディングにはすでに2000万円超の支援が集まっている。
 従来のメディアの制約に縛られない、市民スポンサー型のメディアが誕生したのだ。

 まだまだ規模も小さく、テレビや新聞に代わるメディア−オルタナティブ・メディアを目指しているわけではない。
 既存の報道を補い「メディアを繋(つな)ぐメディア」としての役割を担うことを目指しているという。
 佐治代表は「テレビの可能性を今も信じている」と語る。
 停滞するマスメディア報道が変わる呼び水としての役割も期待される。

 インターネットが普及して25年。
 ネットの登場はメディアのあり方も大きく変え、とりわけ市民目線の情報ニーズに寄り添った独立メディアが立ち上がることが求められてきた。
 ネットの独立メディアと既存のマスメディアの切磋琢磨(せっさたくま)による報道の質の向上は、インターネットやメディア関係者にとって長年の夢だったが、残念ながらいまだ実現してはいない。
 派手さはなくても手堅いつくりとひたすら視聴者ニーズに応える番組を愚直につくる――。
 CLP は一度は失った夢をメディア人と視聴者・読者が協働で取り戻すプロジェクトなのかもしれない。


東京新聞、2020年8月18日 07時42分
<視点 見張り塔から メディアの今>
報道の質 向上へ存在感

(ジャーナリスト・津田大介さん)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/49527

このままじゃだめだ

「このままじゃだめだと思ったんです」と、佐治さんは振り返る。2015年9月、国会で安全保障関連法が成立した時のことだ。これにより、自衛隊が海外で他国のために武力行使できるようになった。佐治さんは当時、TBSの関連会社でディレクターとして報道番組の制作に携わっていた。

「あれだけ反対が多かったのに、時間をかけるべき(国会の)議論が数の力で押し切られ、十分な審議がされませんでした。問題意識を持ったディレクターや記者と話し合い、『自分たちにできることをやろう』と。それがCLPです。立ち上げは翌年、2016年でした」

 テレビ局で番組制作などに関わる20〜40代のディレクターや記者たちが集まってきた。

「中心メンバーは5人ほどですが、離合集散型です。その都度、取材テーマを話し合って、できる人が取り掛かります。最初の頃は選挙の投票率が問題だと考えていた。特に若い人たちの投票率を上げたい。そのための動画制作を考えました」

 国政選挙の投票率は低かった。衆議院議員選挙では、2012年が59.32%。その次の2014年は歴代最低の52.66%。参議院議員選挙でも、1998年〜2013年にかけての6回の選挙は、いずれも50%台だ。2人に1人ほどしか投票しない現実が目の前にあった。

「これからの日本を大きく変える政策があっても、有権者の半数が政治家を選んでいない。そこに大きな違和感がありました。『投票しない自由もある』と言う人もいるけれど、その人たち、あるいは未来の世代がどこかで『政治の結果責任』に直面することになる。投票することは、自分たちの人生を選ぶ1つの方法でもある。だから、『選ぼうよ』という思いを込め、Choose Life Project というこの名前にしました」

 最初の動画公開は2016年7月、参議院議員選挙に向けて投票を呼び掛ける内容だった。著名人のメッセージ動画を次々とYouTubeにアップ。皮切りは映画監督の是枝裕和さんだ。「自分たちの今と未来に1人ひとりが責任を持つのが民主主義」「選挙へ行きましょう」と是枝さんは呼び掛けた。

「国会ウオッチング」開始で様子が変わる

 2016年の参院選、都知事選……。CLPは選挙のたびに、こうした動画をYouTubeにアップしていく。しかし、再生数は大きく伸びなかった。様子が変わったのは今年2020年2月ごろ、国会議員の発言を取り上げる「国会ウオッチング」を始めてからだ。国会審議の具体的なやりとりは、テレビのニュースではなかなか報じられない。一方で、審議を丸々流す中継は視聴者にフレンドリーとも言い難い。CLPの「国会ウオッチング」はその隙間を狙い、質疑や記者会見の山場やポイントとなるやり取りを編集した動画を次々と制作し、広く拡散された。
 
 YouTubeやTwitterの動画は既に100本を超える。短時間で打ち切られた2月末の首相の記者会見動画は28万回再生された。障害者施設「やまゆり園」で起きた殺傷事件について、NPO法人代表にインタビューした動画の再生回数は60万回を超えた。この夏の東京都知事選ではCLPが主要4候補の討論会を企画、中継し、これも多くの視聴者が視聴した。

 佐治さん自身も驚いたのは、検察庁法改正をめぐる動画の視聴だった。特に、同法の改正に反対する元検事総長らの記者会見動画は、地味な映像にもかかわらず、5月の公開直後から再生数が天を突くように伸び、2カ月余りで58万回に上った。

 この問題でCLPは、識者らを集めた討論会や中谷元氏へのインタビューなども発信している。中谷氏のインタビューでは本人が「昔は自民党の中で喧々諤々の議論をしていたが、決定のプロセスが見えにくくなった。権力のあるものはできるだけ権力を使わないように物事をまとめていかないとならない」と発言し、話題となった。

 投票呼び掛けから、ニュース・報道へ。その動きが本格化した瞬間である。

 佐治さんは言う。

「検察庁法に関する番組はどれも地味な動画です。法律の知識がないと、視聴者には理解が難しいだろうと思っていました。ですが、多くの方々に見てもらい、Twitterでも何百万という声が上がった。視聴者はちゃんと見ているんだ、と改めて思いました」

「一方、今のテレビではこうした報道が難しくなっている。政治や社会の問題を取り上げようとすると、『難しくて伝わらない』『視聴率が下がる』とやめてしまうんです。最近は報道番組でも“数字”を持ち出してワーワー言ってくる(局内の)人が多くなっている。でも、それって、視聴者をバカにした感覚ですよね。作り手は視聴者をもっと信じたほうがいい」

 佐治さんは、CLPに専念するため制作会社を退社した7月に「本格始動」のための資金集めにクラウドファンディングを始めたところ、わずか5日間で目標額の倍となる1600万円超が集まった。

 今後は、話題のニュースについて専門家らが解説する「Choose TV」、国会で何が起きているのかを見せる「国会ウオッチング」、さまざまな出来事の当事者に聞く「インタビュー」、裁判の結末を伝える「判決ウォッチング」、設立当初から続く「選挙企画」などの枠組みの下で、番組を制作し、視聴者にニュースを届けていくという。「現場での取材もしていきたい」と佐治さんは語る。

 多数の新興メディアが登場する中で、CLPは何を目指しているのか。着地点はどこにあるのか。

「私がテレビの報道番組を手掛けるようになった2007年頃は、現場の雰囲気が今と全然違いました。私自身は筑紫哲也さんに憧れていたし、現場には少しでもいい報道番組を作ろうという気概を持った人たちが多くいた。番組を自由に作る雰囲気があり、ディレクターも記者もカメラマンも、すごい人たちばかりでした」

 ただ、状況は年々悪くなっているという。

今のテレビは日々のニュースが弱っている

「自分は制作会社の人間だったので詳しくは分かりませんが、気概を持った人たちが次々と現場から外されていきました。それも“栄転”に見えるような形で。『何か意見すれば、報道局以外に飛ばされる』という感覚が広がり、結果的に、組織内では似たような人がどんどん偉くなった。最近はよく、『政権による外圧で報道が歪んでいる』などと言われますが、むしろ、テレビ局の内側にいる人たちが大事なものを自ら手放しているように思います」 

「特に、日々のニュース番組が弱くなっています。その日に起こった事件や事故といった“発生もの”ばかりで、問題を深堀りする特集枠が急に少なくなってきた。週に1度の報道番組もありますが、視聴者の多くは高齢者です。若い人たちはニュース・報道に関心がないので、ネット空間でも何かをやらないとまずい、と。そういう感覚をCLPのメンバーと共有しています」

 今でもテレビの影響力は大きい、と佐治さんは言う。もしCLPに放送枠をくれるなら10分でも欲しい、と。

目指しているのは『公共メディア』です。だから、課金メディアにはしたくない。芸能人、著名人の方々も含め、いろんな人が自由に発言してもらい、番組としてそれを残していくわけです。かつてのテレビの自由さも意識しています。どこに行くか分からない、予定調和ではないコンテンツ。現場取材やルポものも作っていきたい。将来はネット上で放送局を作りたいと構想しています


[写真‐1]
2020年2月29日の記者会見の様子をまとめたCLPの動画。3月1日公開

[写真‐2]
佐治洋(さじ・ひろし)/1982年生まれ。Choose Life Project代表。2007年に東放制作(現TBSスパークル)に入社。TBS社会部記者、『報道特集』などのディレクターを務めた後、2020年3月に退社

[写真‐3]
CLPの動画で、投票を呼びかける是枝裕和さん

[写真‐4]
元検事総長らの記者会見

東洋経済On Line、2020/08/09 6:10
テレビ報道に危機覚えた記者たちの重い一石
Choose Life Projectは公共メディアを目指す

(取材:笹島康仁=フロントラインプレス Frontline Press 所属)
https://toyokeizai.net/articles/-/367155

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「酷暑」「炎暑」「極暑」「激暑」…

「酷暑」「炎暑」「極暑」「激暑」… 一番暑そうなのは …

 最多は「酷暑」で日本国語大辞典には14世紀の用例が。
 続いて「炎暑」。「極暑」も健闘。
 日本は昔から暑かったのですね。
 2007年に「猛暑日」が気象庁の予報用語になるまで、最高気温35℃以上の日は「酷暑日」と呼ぶことがあったようです。

 
最高気温が35度以上になると「猛暑日」と呼ばれます。
 2007年の気象庁の予報用語の改定で生まれた言葉ですが、今や至る所で何日も猛暑日が続くようになり、「猛暑」という言葉の与える印象もなんだか月並みなものになった気がします。
 こころみにインターネット上の連想類語辞典で「猛暑」を入力してみると、暑そうな言葉がぞろぞろ出てきます。
 そのうち幾つかを見繕ってみました。
 世界の平均気温は近年上昇を続けていますから、日本でも最高気温40度以上という日が頻繁になることもあり得ないとは言い切れず……。
 そんな日のために新しい「○○日」ができるとしたら、ここに挙げたような言葉が入ることになるかもしれません。
(2018年07月23日)

 
例年になく暑い日が続くなかでも、特に心配されるのは、今後はこの暑さが特別なものではなくなるのではないかということでしょう。
 最高気温40度以上の日が各地で繰り返されるようになったとき、きちんと暑さを表現し、危険さを印象づけるような言葉はあるでしょうか。

 アンケートで最多を占めた「一番暑そうな言葉」は、この夏よく見かける「酷暑」。
 続いて「炎暑」で、比較的目にすることが少ない「極暑」も健闘。

 「激暑」はあまり支持(?)を得られませんでした。
 実際のところ、「激暑」は使用例があまりありません。
 毎日新聞用語集には「はげしい」という意味の「劇」と「激」の使い分け例の中で、「劇薬」「激震」などとともに「激暑」も挙げられてはいるのですが、1987年以来の使用例は6件(東京本紙。地方版除く)と僅かです。
 角川俳句大歳時記には「極暑」「炎暑」の項目があり、「酷暑」も「極暑」の項に含まれているのですが、「激暑」は見当たりませんでした。

 一番暑そうとされた「酷暑」。
 大辞林3版には「酷暑日」の項目があります。
 書籍版よりも記述が新しいYahoo!辞書から引くと「俗に、最高気温が 35℃以上の日。〔1990 年代初め頃からマスコミなどが用いた表現。気象庁は 2007(平成 19) 年4 月以降、猛暑日を正式な予報用語とした〕」とあります。
 毎日新聞でもかつては使用したこともありましたが、今は気象庁に従って「猛暑日」を使います。

 毎日新聞本紙では2010年に、読者の質問を受け付ける「質問なるほドリ」の欄で「猛暑日って、なぜ設けられたの?」という話題が取り上げられました。
 それによると、最高気温35度以上の日は「酷暑日」にしてほしい、と気象庁に訴える報道機関もあったそうですが、「『酷』は『残酷』や『過酷』など人体へのダメージや被害のイメージにつながるため気象用語としてはふさわしくないと判断されました」とのこと。

 しかし、今年の暑さは「命に危険を及ぼすレベルで、災害と認識している」(気象庁の予報官)と言われる、まさに「残酷」「過酷」と言うべきもので、改めて「酷暑日」が必要かと感じるほど。
 今回のアンケートで「酷暑」が票を集めたのも、むべなるかなと思われます。

「炎暑」は「文字通り、真夏の燃えるような暑さをいう。(中略)『炎』の一字によって、ぎらぎらと照りつける、太陽の燦爛(さんらん)としたまぶしい光そのものが、背景に据わっている」(角川俳句大歳時記)。
 単に暑いというだけでなく、日差しの強さを示唆する言葉です。

「極暑」は「7月末から8月上旬にかけての最も厳しい暑さをいう。暑さの『極み』となって夏が頂点に達し、この先の生命の衰弱と衰退の匂いを漂わせるようにもとれる」(同)。

月青くかゝる極暑の夜の町
(高浜虚子)
 月はさえざえと青く輝くとも、下界はうだるような暑さだ――というのもやり切れない情景ですが、「極暑」はこのように日差しがない場面でも使える語です。
 
 日本国語大辞典(2版)には、「酷暑」は14世紀、「炎暑」は11世紀、「極暑」は15世紀の用例が載っています。

 なるほど日本は昔から暑かったのだなあ、と感心すると同時に、今後は一層の暑さと付き合わねばならないのかと思うと、先行きが不安になります。
 せめて暑さを表現する言葉ぐらいは、柔軟に扱えるようになりたいものです。
(2018年08月10日)

毎日新聞・毎日ことば
ことばの質問
https://mainichi-kotoba.jp/enq-059

A rare “firenado” tore through California near the Nevada border amid extreme heat and fierce winds in the region, according to a report.

The extreme weather phenomenon was spotted Saturday afternoon near the Loyalton Fire, which began in the Tahoe National Forest, NBC News reported.

Firenadoes are sparked when a gust when hot air blows through the fire at a certain angle, producing plumes that appear similar to a tornado, Fox News reported.

On Saturday, the National Weather Service office in Reno warned of blazes that exhibited “extremely dangerous fire behavior,” with the potential for rotating columns and fire whirls.

“The big concern is that it’s extremely erratic fire behavior,” John Mittelstadt, a meteorologist with the National Weather Service, told the outlet.

“For any of the firefighters who are working on one flank of the fire, all of a sudden, there is no way to predict what the winds are going to do or how strong they are going to be.”

The fire near Loyalton that started Saturday has burned more than 3,000 acres − with only 5% contained by the same evening, officials said.


[photo]
California firefighters drop water to fight a fire near Lakes Hughes

New York Post, Updated; August 16, 2020 9:36 am
Rare 'firenade' spotted in California amid extreme heat, strong winds
By Jackie Salo
https://nypost.com/2020/08/16/rare-firenado-spotted-in-california-amid-extreme-heat-strong-winds/

What could be the highest temperature ever reliably recorded on Earth - 130F (54.4C) - may have been reached in Death Valley National Park, California.

The recording is being verified by the US National Weather Service.

It comes amid a heatwave on the US's west coast, where temperatures are forecast to rise further this week.

The scorching conditions have led to two days of blackouts in California, after a power plant malfunctioned on Saturday.

"It's an oppressive heat and it's in your face," Brandi Stewart, who works at Death Valley National Park, told the BBC.

Ms Stewart has lived and worked at the national park on and off for five years. She spends a lot of her time indoors in August because it's simply too uncomfortable to be outside.

"When you walk outside it's like being hit in the face with a bunch of hairdryers," she said. "You feel the heat and it's like walking into an oven and the heat is just all around you."

What were the previous records?

Sunday's reading was recorded in Furnace Creek in Death Valley.

Before this, the highest temperature reliably recorded on Earth was 129.2F (54C) - also in Death Valley in 2013.

A higher reading of 134F, or 56.6C a century earlier, also in Death Valley, is disputed. It is believed by some modern weather experts to have been erroneous, along with several other searing temperatures recorded that summer.

According to a 2016 analysis from weather historian Christopher Burt, other temperatures in the region recorded in 1913 do not corroborate the Death Valley reading.

Another record temperature for the planet - 131F, or 55C - was recorded in Tunisia in 1931, but Mr Burt said this reading, as well as others recorded in Africa during the colonial era, had "serious credibility issues".

What about the heatwave?

The current heatwave stretches from Arizona in the south-west, up the coast to Washington state in the north-west.

It is expected to hit its peak on Monday and Tuesday, before temperatures start to drop later in the week. However, the sweltering heat will continue for at least another 10 days.

As temperatures soared in California, a large "firenado" was observed on Saturday in Lassen County.

California's Independent System Operator (CISO), which manages the state's power, has declared a Stage 3 Emergency, meaning "when demand [for electricity] begins to outpace supply".

Because so much of the region's power relies on solar and wind energy, and because people use their electricity for air conditioning, during heatwaves the power grid becomes strained and is at risk of completely malfunctioning.

In order to manage the state's demand for power and prevent a complete shutdown, officials are using scheduled rolling blackouts to control and conserve energy.

What are the effects of extreme heat?

Officials define extreme heat as a period of two to three days of high heat and humidity, with temperatures above 90F (32C).

US public health body the Centers for Disease Control and Prevention (CDC) says heatwaves have killed more people on average than any other extreme weather event in the country.

The immediate effects of heatwaves on the human body are heat cramps, dehydration and even potentially fatal heat strokes.

However, extreme heat can also exacerbate pre-existing health conditions, including respiratory diseases, heart conditions and kidney disorders, the World Health Organization (WHO) says.

It can affect infrastructure, too. As well as straining power grids and causing blackouts, extreme heat can ground planes, melt roads, and cause the inside of cars to overheat to dangerous levels.

Heatwaves can also have a severe impact on agriculture - either by causing vegetables to wilt and die, or by encouraging the spread of plant diseases.


[photo-1]
The potentially record-breaking temperature was recorded in Death Valley, California

[photo-2]
The "firenado" was seen on Saturday

BBC News, 17 August 2020
'Highest temperature on Earth' as Death Valley, US hits 54.4C
https://www.bbc.com/news/world-us-canada-53788018

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2020年08月18日

黒く汚された楽園、モーリシャス

Mauritius oil spill: ship breaks up and remaining fuel spreads into ocean
https://www.youtube.com/watch?v=kDOobamVtAA

https://www.youtube.com/watch?v=krTsoVjE5Uw

・・・Japan have to help Mauritius・・・

 神はモーリシャスというパラダイスをつくり、それをまねて天国をつくった―(※)。
"Mauritius was made first and then heaven; and heaven was copied after Mauritius." 
『トム・ソーヤーの冒険 The Adventures of Tom Sawyer』(1876)の著者、マーク・トウェイン Mark Twain はかつてこの島を訪れたとき、こう語ったと。

 インド洋のアフリカ寄りに浮かび、美しく透き通った海に囲まれた東京都ほどの島。
 以前は『不思議な国のアリス』にも出てくるドードー鳥が生息していたほど多様な生き物に富み、自然保護や環境保全に力を入れています。

 世界屈指のリゾート地としても知られる「楽園」が黒く汚されました。
 沖合で座礁し、大量の重油を流出させた日本企業の貨物船によって。
 希少生物が数多い保護区の近くで、サンゴやマングローブ林をはじめ生態系への影響は計り知れません。

 油まみれになりながら、流れ着いた重油を手作業で取り除く地元の人たちやボランティアの必死な姿。
 マスクや手袋が不足し、体調を崩す人も続出しているといい、健康面も心配されます。

 先月7月25日に座礁し、モーリシャス政府が環境上の緊急事態を宣言したのは今月8月7日。
 現地では対応の遅さが批判されていますが、日本の専門家チーム6人が派遣され活動を開始したのは、事故から半月以上もたった後でした。

 コロナ下での制限はあるとはいえ、物心両面からの早く手厚い支援はできないのか。
 観光業が落ち込む最中に追い打ちをかける環境破壊。
 住民は不安を募らせています。
 事故の深刻さに世界が衝撃を受けているなか、日本政府はひとごとのような姿勢を改め、回復に力を尽くすべきです。


しんぶん赤旗、2020年8月18日(火)
きょうの潮流
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik20/2020-08-18/2020081801_06_0.html

(※)マーク・トウェイン(Mark Twain, 1835 - 1910)

"Look there. The lions will emerge from that gate and walk towards you. Stay calm. No shrieking or shouting, please. If you are scared, you can climb on top of each other, but don’t climb on me!"

We are at the Casela Nature Park in Cascavelle, south Mauritius, where our safari leader Jim is initiating our group of 12 tourists into the "walking with lions" tour.

Not for the faint-hearted, the hour-long adventure will allow us to be really close to the beasts as they roam in the savannahs. Though the 11-hectare park hosts around 1,500 birds (over 150 species), turtles, giraffes, giant tortoises as well as a large diversity of flora, the lions are its biggest lure.

We arrive on a safari bus to the lion reserve where we deposit our belongings at a tiny office and pick up wooden staffs. The staffs, Jim explains, must be held next to the lion’s neck while patting it. "If you don’t have the sticks, the lions will come to play with you − but mind you, they play with their claws!" The two lions we are about to meet can run at 70 kmph, Jim adds. If things "turn ugly" during the 2 km walk with the unrestrained animals, we should "stand still and shout loudly".

When the two honey-coloured beasts − siblings Jumbo and Jen, each about three years old − appear before us, a hushed silence descends upon our group. They look majestic and feral with sharp teeth and claws and penetrating, green eyes. With Jim leading the way, we start walking next to the lions, crossing a barbed wire gate and then entering the 800-hectare savannah enclosure.

We amble along a trail carved between coqueluche trees indigenous to the island while watching the animals gambol, eat, play, hop on rocks of the river banks, eat and scale trees.

Ten minutes into the trail, the lions are fed. "Each lion consumes about 40 kg of meat a week," says Jim. Each participant is given a chance to pat the animals − either while moving along or during rest times. But rules must be adhered to. We can touch the animals on the back or from the neck down but never on their claws . Nor are we to ever look into their eyes directly, crouch in front of them or pull their tail.

Jim occasionally plays with the beasts, rubbing their tummies, egging them on as if they were pet cats or dogs. When Jumbo perches on an outstretched tree branch, we quickly fall in line to pose for photos with him. Standing next to the beast, I can almost hear - and feel - its breath. Time flies by and soon we are back to the reserve while the beasts are led back to their dens. Jim requests us to sign the visitors' book. "We call this the survivors' book!" he says as we crack up.

Sun-kissed Haven

Mauritius, the sun-drenched island in the Indian Ocean may be better known as a honeymooners' paradise with its pristine beaches and sumptuous resorts.

Yet this multicultural melange of a nation also offers great biodiversity, exciting flora and fauna, lush golf courses, water sports, mountain trekking, hunting, birdwatching and kitesurfing. The pear-shaped island's colonial capital Port Louis is a city with a personality while fine cuisine, a pulsating nightlife, Unesco World Heritage Sites and the world's oldest horseracing tracks add to its other enchantments.

A week into my trip and I figure why Mauritius was fought over for centuries by the Dutch, the French and the British who colonised it in turns. Incredibly, no one lived in Mauritius till as recently as 400 years ago. Besides the occasional Portuguese explorer or waylaid pirate crew, it was deserted until Dutch settlers arrived in 1638. Then came the French in 1710, and their influence can be felt most prominently in the Franco-Creole dialect most Mauritians speak today.

In 1968, Mauritius achieved independence but there's never been a military or populist uprising of any kind on this peace-loving island measuring barely 2,000 square km. The population of 1.8 million comprises Indians (68%) as well as Creole, Chinese, French, plus a smattering of English and South Africans. English is the official language while French, Mauritian Creole, Hindi, Tamil, Marathi, Bhojpuri and Hakka are also spoken. Eclecticism is Mauritius' imprimatur. The country's patchwork quilt of cultures reflects in the island's diverse cuisine.

Piquant chutneys, hearty stews, velvety curries, bouillabaisse, Creole stews and fresh fish rule menus. Boulangeries hawk baguettes as well as chappatis.

Architecture is a delightful jumble too. Sizeable temples sit cheek by jowl with oriental pagodas, and elegant colonial and Dutch buildings with French chateaus. Star-studded luxury manifests itself in a dense concentration of handsome hotels popular with the wealthy, not to mention jetsetting footballers.

About 200 years ago, a dramatic change swept across Mauritius when Irish botanist and humanitarian Charles Telfair arrived in the southern Bel Ombre region to bring respite to runaway sugarcane plantation slaves that were brought in from the African mainland, Madagascar, India and Southeast Asia.

Telfair also reshaped the island's flora and set up the feted Pamplemousses Botanical Garden. While transplanting bananas from China, he lent a specimen of the fruit to William Cavendish, the sixth Duke of Devonshire. Today the Cavendish banana is the most ubiquitous fruit in Mauritian shops.

At the spiffy Heritage Le Telfair Resort & Spa in Bel Ombre, named eponymously after Telfair, history whispers from every corner. Designed in the African colonial style, the property has a dramatic entrance - an ornamental bridge spanning a river that sweeps all the way down to the private beach.

The hotel's 12 restaurants, while taking care of your every craving, honour local produce as a tribute to their founder. At the hotel's ocean-fronted pan-Asian eatery Ginja, I enjoy a lobster dinner - lobster soup, a sushi platter, lobster poached in a butter-sage sauce, squid ink noodles and a trio of sorbets (coconut, passion fruit and kiwi).

Earthy Hues

The picturesque Le Morne peninsula in south west Mauritius is a Word Heritage Site teeming with pods of dolphins and schools of flying fish. The purple-headed Le Morne mountain rises high above Hotel Dinarobin, a property that has contributed much to showcase and maintain the region's fragile ecology. Everywhere at the hotel there are yellow and white frangipani, scarlet flame trees, birds of paradise, anthuriums and flowering allamanda.

A dramatic thatched pavilion, exotic Asian statuary and a glassy infinity pool as well as the hotel's meandering paths, undulating lawns and spectacular ocean views encourage you to lead a convalescent life. Hundreds of varieties of tropical birds add to one's delight. They appear less charming at breakfast though when they attack your bread basket or perch themselves on your juice pitcher.

When the doors at the hotel's pan-Asian restaurant Umami are thrown open to the night, a warm breeze carries the whisper of surf. I sup here one night next to the lapping waves of the ocean under a glittering vault of stars. Mauritian countryside is a mesmerising maze of emerald

sugarcane plantations. Stacks of dried cane, set ablaze after harvest, make the balmy air thick with the smell of molasses. One day, my driver Anoop and I stop by the roadside to enjoy sugarcane juice and coconut water.

Though the activity qualifies as tropical island-cheesy, it was both fun and educative. Anoop explained that in Creole, coconut is dileau en pendant or hanging water, while sugarcane is dileau diboute or water standing up!

Next morning, we visit the botanical garden in the northern town of Pamplemousses, 62 acres of mind-boggling biodiversity encompassing 500 species of trees and plants. At Chamarel, at the southern tip of the island, another wonder awaits - the seven-coloured earth which has evolved through conversion of basaltic lava to clay minerals. Rolling sand dunes of seven distinct colours (red, brown, violet, green, blue, purple and yellow) create a multi-hued, lunar-like landscape here.

On the flight back home, I reflected on what Mark Twain had to say about the island after visiting it. "Mauritius," he said, "was made first and then heaven; and heaven was copied after Mauritius." No wonder, I came back from the island with my heart singing and my soul nourished!


[photo-1]
This multicultural melange of a nation also offers great biodiversity

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A view of the Indian Ocean

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Le Telfair, Port Louis

The Economic Times, Last Updated: Mar 26, 2017, 01:44 AM IST
Here's why Mark Twain said that heaven was copied after Mauritius
By Neeta Lal, Delhi-based journalist
https://economictimes.indiatimes.com/magazines/travel/heres-why-mark-twain-said-that-heaven-was-copied-after-mauritius/articleshow/57832826.cms

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三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日誌(続編)

。。。(ヤッホーくんのこのブログ、昨日付けの日記の続編)。。。
フンガー滝周辺で次々と見つかった蛸壺壕

 護郷隊は秘匿部隊の為、中隊ごとに本拠地は分散していて、また何度か場所も変えている。
 そのため、痕跡がありそうな場所は複数存在するのだろうが、最初の拠点は、このフンガー滝の周辺だったと思われる。
 古い地名や川の呼び方「〇〇川上流」などに揺らぎがあるため断定はできないのだが、その根拠としては、村上第一護郷隊隊長と長く行動を供にした近藤重喜軍曹が1993年にまとめた手記『我が人生に悔いなし』の記述が詳しく、参考になる。
 平坦な杉山と自然林を通ると、次第に渓谷となる。
 さすがに、水は綺麗である。
 300メートルも行くと全くの天然林であり、第一護郷隊の棲息地に着いた。
 3メートルくらいの滝がある。
 水量もあり、勢いよく飛沫をあげて音が響いている。
 その下が本部、二中隊、四中隊の順、上が一中隊。
 滝の上に行くのに、崖が大変である。
 特に食事を運ぶのに、苦労が多いと思われるが、指定されているので仕方がない。
「滝の上流」と指定された中隊の棲息地。

 付近を、分隊長を同行し調査した。
 青年兵は疲れているので、休ませている。
 傾斜が強く、兵舎を作る場所が少ない。
 先ず大別して、本部に近いところから、指揮班、中隊長室、第一小隊、第二小隊、左岸に第三小隊とした。

 その陣地を指す古い地名の「キナマタ」が、よく証言には登場する。
 キナマタの先にある滝というのはフンガー滝でまず間違いはないだろう、と思ってはいたが、滝の周辺ですでに見つかっていたいくつかの穴は、住民が使ったものである可能性もあり、護郷隊の遺構と断定はできなかった。
 しかし、今回滝の上からさらに尾根を伝って上がっていくと、次々に蛸壺壕が見つかった。
 今回撮影した竪穴の数は14、15個もあった。
 そして敵から身を隠しながら陣地間を移動するための「交通壕」が明らかに人工的に、100メートルほどに渡って掘られているのも確認できた。
 これだけではまだ護郷隊のものと断定はできないにせよ、軍隊が使った遺構であること、近くに陣地があったことは間違いないだろう。

 その交通壕を辿っていくと斜面は平場に変わり、ざっと300坪ほどの小屋が建てられそうな場所に到達する。
 私たちはそこを「平場1」と名付けた。
 その平坦な場所にも大きめの穴が掘られていた。
 そして少し階段状になっている細い道のようなところを奥に発見したのでそれを登っていくと、その先にも平坦な場所が拡がっていた。
 やはりそこにも人工的に掘った穴が見つかった。
 そこまで行くと、反対側に水の流れる音がしており、そっちに降りていくと小さな水の流れが見え、さらに降りていくと川に合流するのであろう大きな水の音が聞こえた。
 つまりこの「平場2」は逆に「平場1」より水に到達しやすいようだ。

「滝の上には、傷病兵が寝かされていた場所があったよ。白石隊の海軍の大人たちも体格が立派でね、だけどお母さん、お母さんって苦しんでいた」という証言が甦った。
「粗末な棚のような場所に寝かされていた〇〇さんの骨は、戦後そのままその棚に残っていた」という証言も思い出した。
 それはあくまで、たまたまそこで私が思い出した証言に過ぎないが、敵が滝まで攻め込んできても、ここまではなかなか来られないだろうと思われるこんな場所に、あるいは傷病兵が寝かされていたのかもしれないと想像してみた。
 今後は、護郷隊の調査研究の第一人者で、すでに一度ここに来ている川満彰さんが、名護市の文化財のプロの方々と共に本格的な調査に入ることになると思われるので、その詳細な調査を待ちたいと思う。

 それにしても、この場所はなかなか侮れない。
 滝の上に向かう道は崩落しているところもあるうえ、ハブの生息地でもあるし、マダニやブヨもいる。
 私たちもアブに咬まれながらの撮影だった。
 巨大なヒルもいたし、卒倒しそうな大きな毛虫もいた。
 虫よけスプレーも効かず、今、私の顔は虫刺されでボコボコである。
 軽装備や面白半分で行くことは全くお勧めできない場所なので、願わくば名護市の戦争遺跡として整備される日を待ってから、現地に行っていただければと思う。

護郷隊の遺構から、戦争と軍隊の本質を学ぶ

 ところで、沖縄県内で戦争遺跡の指定や保存が進まない理由はたくさんある。
 司令部壕のような崩落・浸水などの風化だったり、恩納岳のように米軍基地の中にあって到達できなかったり、地籍が確定していない原野であったりだ。
 所有者がいる場合でも、戦争遺跡にされることが負担になったり、住宅地として地価が上がらないなどと周囲に反対されたり、歓迎されにくい面もあるだろう。
 文化財行政に人員を割けない自治体の事情もある。

 しかし、なかでも大きな壁になっているのは、軍隊の遺構を平和学習に結び付ける難しさ、ではないだろうか。

 日本軍の遺跡の中でも、司令部壕や病院壕など、すでに知られている沖縄戦を象徴する場所はよいとして、例えばいくつもある海軍部隊の出撃の地とか、〇〇部隊最後の地、高射砲の陣地、マルレ(敵艦に体当たりする特攻艇)を隠した穴など、無数にあるそうした場所を単に保存して生徒を連れて行っても、「〇〇部隊かく戦えり」のような話になってしまっては意味がない。
 沖縄では戦後、盛んにあの戦争を作戦として読み解く「軍隊の視点」による記述が繰り返されたが、それに抗して、住民の視点で戦争を捉えなおすために膨大なエネルギーを費やしてきた。
 その延長線上に、あらためて軍隊がここで住民を巻き込む覚悟で、住民の被害を前提に、どういう作戦を構築し、何ができて何ができなかったのかを検証するべきだし、そこに見てとれる軍隊の本質を学ぶチャンスとするためには、遺構だけ保存されていても全く不十分と言える。
 地域で起きた戦争を捉えなおす体系的な研究や、それを踏まえたうえでさらに、案内する生徒や観光客を惹きつけるガイドのノウハウなどに、かなりの工夫が必要になって来る。

 あくまで75年前の戦争を軍隊マニアとしてみるのではなく、住民と切り離せない軍隊の本質を理解するために戦争の遺構が活用されなければならない

 その意味で、護郷隊の遺構は、住民が戦争と軍隊について学ぶ場所として最適だと私は思う。
 主人公は本土から来た兵隊、ではなく、北部の少年たちだった。
 子どもたちが戦ってくれている山の奥に避難していた親たちは、軍隊に協力する以外なかった。
 作戦に使われ、投降もできずに餓死や病死で命を落としていく住民たちに、少年兵らも、近くにいても何もできない悔しさを味わっただろう。
 作戦を遂行した場所に立つことで、戦った側の虚しさや、加害と被害を行き来する地獄まで追体験できるかもしれない。
 少年兵の気持ちになって、多野岳から望む八重岳、名護岳、恩納岳に仲間の護郷隊が陣取っている、ということを頭に入れて眺めるだけで、この島の見え方はかなり変わってくる。

 資料館でパネルやビデオを見ているだけでは絶対にわからない戦争のリアル。
 この島の、この空間が戦場だったことを痛感する「場」が、まだまだ生かされずに眠っているのだ。
 だからこそ、何度でも言うが、護郷隊を語る遺構はぜひ一刻も早く整備してほしいのである。
 鉄血勤皇隊を語る場所は養秀会館や留魂壕がある。
 ひめゆりなど学徒隊にはひめゆり資料館がある。
 それなのに同じ10代の若者が動員された護郷隊が知られていないのは、護郷隊のことを学べる場所が一つもないことも大きく災いしていると私は思うのだ。

 今、再び軍隊を配置することによって安心を得たいという人びとに、私は言いたい。
 それを言う前に、故郷で戦うということがどういうことか知ってください、護郷隊のことを知ってください、と。


 軍隊と住民、戦う人と守られる人、大人と子ども、そんな風に分けられるわけではない戦場の実相を知るためにも、住民であり、子どもでありながら兵隊でもあった護郷隊から学べることは大きい。

 二度と被害者にも加害者にもならないために、護郷隊の戦争を知ることが一番の特効薬になると思うからこそ、真っ先に戦争遺跡として恩納岳や多野岳を活用してほしい。
 そのために、戦争遺跡を見直す潮流のど真ん中に護郷隊の陣地をぶっ込むつもりで、多少無茶でも老体に鞭打って密林に入り、撮影をしてきたのだから!


マガジン9、2020年7月1日
三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日誌
初公開!少年ゲリラ兵部隊の本拠地に迫る
〜 75年目にベールを脱ぐ第一護郷隊の遺構 〜(続)

(三上智恵)
https://maga9.jp/200701-0/

『標的の村』劇場予告編(2013)
https://www.youtube.com/watch?v=rJcJSZJ4qoI

戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ) (2015)
https://www.youtube.com/watch?v=mKmd2oghzac

映画『標的の島 風(かじ)かたか』予告編(2017)
https://www.youtube.com/watch?v=pHDJcCeUi5Y

『沖縄スパイ戦史』劇場予告篇(2018)
https://www.youtube.com/watch?v=Tsk9ggz-BoY

 衝撃的なドキュメント映画「沖縄スパイ戦史」を世に問うたジャ―ナリストで映画監督の三上智恵さんが、10年間の取材を終え同名の『証言 沖縄スパイ戦史』を出した(集英社新書、2020年2月)。
 760ページ、新書版としては異色の重量感あふれる大著に仕上がっている。
 本書のタイトルは、「スパイ戦史」と銘打たれているが、これは本島北部で展開された「秘密戦」や「遊撃戦」と呼ばれるゲリラ戦の中で浮かび上がった住民スパイ視と残虐行為を総括する三上さんの造語だ。

 本書は大きく3本のテーマから構成されている。

 一つは、沖縄戦当時北部でゲリラ戦を展開した陸軍将校(中野学校卒)に率いられ「護郷隊」に参加した少年兵の証言である。
 同部隊には、少年(14―17歳)を中心に約千人が動員され、「豆兵隊」とも呼ばれた。
 豆兵は、民間人に化け、兵士よろしく敵に向かい、傷つき倒れたら、「アンマー」と叫び息絶えたという。

 通常なら1冊にも及ぶ分量の関係者インタビューが掲載されているが、類書と異なる仕掛けがある。
 それは、彼らは、兵士なのか民間人なのかという問いだ。
 軍人と住民とでは、証言は大きく違ってくる。
 本聞き取り調査は、県民だからという安易な考えはとらず、過去の沖縄戦証言の間隙(かんげき)をついている。

 二つ目のテーマは、沖縄本島北部の戦場地で恐怖支配の中で民間人を殺りくしたという3人の将校たちの戦場と戦後談だ。
 3人とも北部地区で戦闘に参加した「知的エリート」だが、三上さんはここでも「虐殺者」の両面性を追っていく。
 しかしどうも彼らの評価は高く、とても断罪できる人間ではないようだ。
 彼らに人間的な息吹を感じ、温かな血を感じるのに時間はかからない。
 三上作品が共感を呼ぶのは彼女がいまだ鎮魂の作業を続けているからだろう。

 そして三つ目のテーマは、人間の恐怖心をあおり、県民を死へと追い込んだ「スパイ戦」が、形を変えて南西諸島に届いていると警鐘を鳴らしていることだ。

 これら三つのテーマは、75年間の沖縄戦研究の今後の道標となるべきものに違いない。


琉球新報、2020年2月23日 12:49
書評『証言 沖縄スパイ戦史』
「虐殺者」の両面性を追う

(評者:保坂廣志・翻訳家、沖縄戦研究家)
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1079085.html

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2020年08月17日

アベ恐慌

 新型コロナウイルスの感染拡大で消費をはじめ幅広い経済活動に急ブレーキがかかった。
 7月以降も感染拡大が続き、持ち直しかけた消費が再び落ち込む動きもある。
 日本は社会のデジタル化などによる生産性向上が回復力のカギになる。

 日本の実質国内総生産(GDP)は1〜3月期から年率換算で27.8%減った。
 米国の減少率は32.9%、英国は約60%、ドイツも30%を超え、軒並み最悪となった。
 米欧の2期連続に対し、日本は2019年10月の消費増税から3期連続とマイナス成長が長期化する。

 日米欧とも4〜6月期を底に回復に向かうとの見方は多いが、足取りは重い。
 4月後半を底に持ち直していた個人消費も、7月以降の感染再拡大で低調に推移し始めている。
 米国でも感染者が急増している州を中心に飲食店や小売店の客数が再び落ち込んでいる。

 年明けから感染が広がった中国は強力な封じ込め策でいち早く経済活動の再開にこぎ着け、4〜6月期はプラス成長に回帰した。
 その中国も国際通貨基金(IMF)の見通しでは2020年に主要国で唯一プラス成長を保つが、雇用不安などを抱え、成長率は1.0%と2019年の6.1%から急落する。

 日本企業はソフトウエアなどデジタル投資の計画を上積みしている。
 17日に記者会見した西村康稔経済財政・再生相は「デジタル化の進展を期待したい」と述べたうえで「通常10年かかる変革を一気に進める」と強調した。
 デジタル化や人材の流動化などの社会変革を推進できれば経済の回復力の向上につながる。


[写真]
緊急事態宣言下で人通りがまばらな東京・渋谷(5月2日)

[グラフ]
実質GDP増減率(年率)
GDP実質27.8%減、4〜6月年率 戦後最大の下げ

日本経済新聞、2020/8/17 11:30
日米欧GDP戦後最悪、4〜6月
日本はデジタル化カギ

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO62700900X10C20A8EE8000/

 安倍晋三首相は17日月曜日午前、都内の慶応義塾大学病院を訪れた。
 首相周辺は「夏季休暇の機会を利用して、休み明けの体調管理に万全を期すため、日帰り検診を受診した」と説明した。
 首相は同病院で半年に1回程度、人間ドックを受けており、直近では6月13日に検査した。

 首相は新型コロナウイルスの対応で連続勤務が続き、今夏は例年訪れていた山梨県鳴沢村の別荘で静養していない。
 自民党内には首相の体調を懸念する声がある。

 自民党の甘利明氏は16日、首相の体調に関し「ちょっと休んでもらいたい。責任感が強く、自分が休むことは罪だとの意識までもっている」と述べた。


[写真]
慶応大病院に入る安倍首相(左)(17日午前10時27分、東京・信濃町)

日本経済新聞、2020/8/17 10:40
首相が都内の病院で「日帰り検診」
自民、体調を懸念

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO62700630X10C20A8EAF000/

・・・第一次内閣の時は、2007年7月29日の参院選で惨敗、辞めないと居座って夏休み明けの8月27日に内閣改造、9月10日に臨時国会開会し所信表明、9月12日にまさかの辞任。状況は異なるが、追い詰められた安倍さんの頭をよぎる夏休み明けの悪夢でしょう。解散どころか意味のある内閣改造さえできるのどうか・・・

・・・安倍首相、病院で受診へ。周辺「健康チェック」!憲法の規定に基づき速やかに国会を開く必要があるので、何ともないといいですね。お大事に、そしてルールを守って直ちに国会を開いてください・・・

・・・まるで皇族のように病院に乗り付け、その訳は、治療などではなく、定期的なチェックのためということで安心しました。長くても1泊ですね。コロナ対策、戦後最悪のGDP落ち込みへの手当てなど日本には問題山積みですので、明日から全力でお願いします・・・

・・・2007年9月12日に辞意表明して入院、後継の福田康夫内閣発足は9月26日だったので、あの時は2週間、日本に事実上総理がいない異常事態だった。責任感が強いって甘利さんが言ってたから、まさか安倍さん、2度もそんな無責任なことしないでしょ。明日には復帰してさっさと国会召集しないとね・・・

・・・「責任感が強く、自分が休むことは罪だとの意識まで持っている」と自民党・甘利氏。ほんとにそうなら、なんで臨時国会を開かないの・・・

・・・国会会期中に週末や合間に検査で病院に行くのは分かるけど、憲法で要求されている臨時国会召集を無視して違憲状態で国会閉鎖しているときに、周辺から「疲労蓄積」という声が出たり、突然病院に行ったりするのは、首相としての職を執行できる状態ではないということではないかと・・・

・・・憲法の規定に従って開会しなくはならない国会の召集を内閣が拒否するなか、側近が「強制的にでも休ませなくてはならない」と公言した翌日に、総理が実際入院させられたって「真夏のホラー」かよ。それだけ見ると、ダブル・クーデターだな。訳わかんないけど、もうやばいかも、ジャパン2020・・・

・・・「国会議員がこの国難の時期に7月、8月、夏休み取ってていいんですか?いい訳がありません!」…自民党が野党だった時代の世耕弘成議員の大演説です。まさに正論ですね。ではなぜ自民党は新型コロナという最大級の国難の中で国会を閉じ、野党の国会招集要求をも拒否して夏休み取ってるんでしょうか??・・・

・・・かつて石原慎太郎と言う国賊が東京都知事の座にふんぞり返っていた時、毎週金曜日に1時間だけしか都庁に顏を出さずに2500万円を超える年収をポケットに入れていたため「時給52万円」などと批判されたが、今の安倍晋三も同じことをしている・・・

・・・直近で、新聞が猛反省しなきゃいけないのは、こういう記事の書き方です。《実際に召集するかどうかは、政権の意向に委ねられている》。そんなことを主権者は委ねてない。政権の無法が横行してるにすぎない。内閣の憲法違反、臨時国会つぶしに免罪符を与えるな!・・・

・・・[はたしてキリンは来るか?その前に「アベ恐慌」が来る]今年4〜6月の実質GDPの成長率は、年率でマイナス27.8%を記録した。戦後最悪となった。アベの無知無策故にもたらされた7月からの第2波のせいで、この傾向は止まらない。アベを一日も早く辞めさせることが必要だ・・・

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三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日誌

沖縄戦 「護郷隊」の陣地跡見つかる 少年らで編成の極秘部隊
https://www.youtube.com/watch?v=cufSfnqjtM4

今年は人影少ない「慰霊の日」

 2020年の慰霊の日。今年も私はカメラを手に4カ所の慰霊塔を回ったものの、コロナウイルスへの警戒が解けないなか、どこも人影は少なく、名護市の第一護郷隊の慰霊碑にも元隊員の姿が初めて一人も見えないという、寂しい年になってしまった(※1)。
 高齢者の外出は、ご本人に行きたい気持ちがあったとしてもご家族が心配して出さないだろうから、これはどうにも仕方がない。
 一方で高齢者と言えば、恩納村の第二護郷隊の碑では、少年兵だった兄に手を合わせに来た91歳の女性が印象的だった。
 足が思うように動かないのだろう、娘さん二人の肩を借りて、どうにか慰霊碑の前に立っていた。

「忘れられないよねえ。遺骨も戻ってないよ。こんな山の中だからね。私の母は90歳まで毎年、ここ(恩納岳)まで手を合わせに来ていたよ」

 そう言って、娘さんが備えた果物やお菓子の前にひざまずこうとするが、足を曲げることができない。
 横向きで申し訳ない、と何度も口にしつつ長い時間手を合わせていらっしゃる様子を見て、胸が詰まった。
 お母さんは90歳までここに参拝を続け、ご自分は91歳まで頑張ったが、来年は来られないかもしれないという思いで長く長く手を合わせていたのかもしれない。
 こうして少年兵の両親が完全にいなくなり、ご兄弟の姿も見られなくなる。
 すると、10代の少年たちは結婚もできずに逝ってしまったわけだから、子どもが参拝してくれる可能性はなく、こうした兄弟姉妹の子どもたち、つまり姪っ子や甥っ子に、若くして護郷隊で戦死したおじさんの話がちゃんと伝わっていた場合に限って、ご家族の参拝は続く。
 なんとも心もとない。
 10年後、護郷隊少年兵に手を合わせに来てくれる人は、いったいどれだけいるのだろうか。

兄に逢わんと 通い来し少年兵の碑

九十の妹 たった二段が上がれず

注目が集まる「第32軍司令部壕」の保存と公開


 戦後75年という節目を迎えた沖縄ではあるが、私自身もたくさんの取材をあきらめたように、今年の沖縄戦企画・報道はやはりあまり振るわなかった。
 しかし、そんな中で先月、「護郷隊の陣地跡が見つかった」というニュースが全国に流れ、注目を集めた。
 それは恩納岳に拠点を構えていた、この「第二護郷隊」の本拠地のことである。

 現在そこは米軍キャンプ・ハンセン内の実弾演習場になってしまっているので、正確に言うと「見つかった」というよりは、「これまで調査に非協力的だった米軍が、今年3月に山頂付近を調査した写真を公開した」に過ぎない。
 恩納岳に遺構があることは、関係者はもちろん知っているし、戦争直後は少年の遺骨を探しに山に入れた時期もあった。
 が、今となっては、県民はその陣地の場所どころか、少年ゲリラ兵らが恩納岳で死闘を展開したこと自体あまり知らない。
 せめて、今回陣地跡が見つかったという報道をきっかけに、ならば保存や学習活用のために文化財担当者の入域を許可せよ、全員90歳を超えた元少年兵の立ち合いで現場確認できるラストチャンスを逃すな、と世論が盛り上がってくれれば、と祈るような気持でニュースを見た。

 護郷隊について私はこの10年、掘り起こし伝える仕事に精を出してきたつもりだが、力及ばず、護郷隊員のおじいたちの命の灯が完全に消えるまでにやるべき課題の多さに打ちのめされるばかりだ。
 しかし、彼らの歴史を語る材料は、何も彼らの肉声だけではない。
 戦史叢書や軍が遺した資料もある、そして、彼らが訓練した場所、作戦上自ら爆破した橋などの痕跡も見ることができる。
 陣地があった場所には、銃眼や交通壕、石積みなどもあるだろう。
 そういう戦争の爪痕がこの島の各地に残っているのに、それらをして語らせるという仕組み作りが、後手後手に回っていまだにうまく構築できていない。

 今年、地元紙の琉球新報が行った調査によれば、県内で市町村が把握している戦争遺跡は1313カ所であるのに対し、文化財に指定されているのは14市町村26カ所のみにとどまっている。
 わずか1.9%という数字にはあらためて驚きを禁じ得ない(6月30日付琉球新報)。

 自分の集落や裏山、生活の基盤となる山も海も含めて、生活空間が丸ごと戦場になってしまったという、国内でも例がない壮絶な戦争体験をもちながら、これまでいかに体験者の証言にばかり頼って沖縄戦の学習や報道を進めてきたかを思い知る。
 土地に残された戦争の爪痕については、戦後はもちろん沖縄中に満ち溢れていて希少価値などなかった。
 廃虚の上に一から、否、アメリカ軍統治下というマイナスから、戦後の暮らしを立ち上げていった沖縄県民にとっては、「日本軍の遺構」「弾痕の残る壁」「多くの死者を出したガマ」などは、文化財として活用するより、忘れること、上書きすることで前を向いて進むしかなかった。

 しかし、戦争体験者の高齢化と継承が課題になって、すでに何十年と経っている。
 少なくとも2000年代に入ってからの責任世代である私たち40、50、60代が戦争遺跡の活用に取り組まず、それらに語らせることなく、朽ち果てていくに任せてきたことは反省に値するし、遅まきながら今からでも、保存や公開に私たちが汗を流すべきではないだろうか?

 今、沖縄では、失われた首里城の再建と共に、その地下に眠る巨大な「第32軍司令部壕」の保存と公開に注目が集まっている(※2)。
 玉城デニー知事は、第32軍司令部壕の保存・公開へ、本年度中に新たな検討委員会を発足する考えを示した。
 壕の保存・公開と共に、どう平和を作る場に変えていくのか、大田昌秀知事の時代に頓挫してしまったとても大事な議論が、再び始まろうとしている。
 私は取材で2度中に入ってみたことがあるが、息詰まる空間のあの匂い、染み出してくる水と湿気、吐き気を催す蒸し暑さ、ここにひしめき合った兵隊と軍指導者たちの息遣いが体にまとわりついて、ぐったりするような体験だった。
 また入りたいとは思わないが、あの迫力を2度も経験しているからこそ、今もこうやって沖縄戦にこだわって生きているのかもしれない。

 総延長1キロに及ぶ規模、深いところで30メートルという、入ってみなければわからない規模感を含めて、沖縄戦の狂気を語る最大の遺構であり、これを公開しないのは罪だとすら思う。
 南部撤退時に爆破されたこともあり、あちこちに落盤や浸水があるなど安全な公開に向けて課題も多いが、ぜひ首里城の建築過程も観光資源にしつつ、地下の戦争遺跡の保存への努力、その技術の公開も含めて、まずは100メートルからでもいいから早急に公開を始めて欲しいと思う。
 今ならまだ、伝令でこの地下を走りまわった、元鉄血勤皇隊や通信兵のおじいたちの説明を現地で聞く機会があるかもしれないから。

初めてカメラと共に、「第一護郷隊」の本拠地へ

 そして、今回のマガジン9では、私は特ダネに相当する動画をアップしている(本文最後、参照)ので、それをぜひ見て欲しいのだ。
 先日、第二護郷隊の遺構が、米軍の写真であれ公開されたのは大変大きなことだが、一方の第一護郷隊の陣地の調査はなぜ進まないのか。
 彼らがいた場所は名護市の多野岳や名護岳周辺に複数あるけれども、ほとんどは基地の外で、つまり私たちが探して到達できる場所なのである。

 私は2017年に映画『沖縄スパイ戦史』を撮影する際に、まずはアメリカ軍上陸に備えて2月から構築された第一護郷隊の最大の本拠地、フンガー滝の周辺だけでもなんとか遺構を見つけたいと動いてみたものの、到達できなかった。
 あれから3年越しで、今回「たぶんここなのだろう」という場所に、初めてカメラを持って行くことができたのだ。
 詳しくは、今後の名護市の文化財担当者の皆さんの踏査を待つほかはないのだが、元隊員の皆さんに確認ができる残された時間に間に合わせたいという先走る気持ちで、その動画をまずは興味を持ってくれる皆さんと共有したい。

 もちろん、その場所には私一人で到達できたわけではないので、撮影に至る経緯を簡単に説明しておきたい。
 私は2017年の撮影時に辿り着けなかったことが悔しくて、本(『証言 沖縄スパイ戦史』)の執筆までには何とか現地を探し当てたいと周囲にも話していたところ、山梨県で山のガイドをしていらっしゃる男性で私の映画の上映にも取り組んで下さった中島和也さんから「沖縄に来たついでに行ってみたら、滝の上まで到達できた」と連絡が入った。
 あんな場所に一人で行くなんて、さすがに山歩きに慣れている方はすごい。
 詳しい地形図のアプリを見ながら、「このあたりが平坦だから拠点をつくるとしたらこの辺という見当も付けたので、今度一緒に行きましょう」とおっしゃるので、私は小躍りした。

 中島さんは定期的に辺野古のカヌーチームの加勢に来てくれているので、そのタイミングで去年11月、一緒に滝の上流を目指すことにした。
 そして私自身、山歩きや体力に自信もないので、恩納村の村史編さん係で護郷隊のことを調べているうえ、沖縄平和ネットワークの文化財・ガマ部会メンバーでもあって体育会系で知られる瀬戸隆博さんにも声をかけ、3人で行ってみた。
 その時に、散兵壕(蛸壺壕・一人用の塹壕)と思われる穴がいくつか確認されたので、あらためて撮影の準備をして臨もうと決意をしていたのだった。

 年が明けて2月1日、「リョーコー二等兵の桜を見る会」に、第一護郷隊の村上治夫隊長の息子さん、村上仁美さんが大阪から駆け付けて下さって、この話をしたところ、陣地のあった場所にぜひ行ってみたいということになり、では次回、慰霊の日で沖縄に来る時にみんなで行ってみようと話がまとまった。
 ただ心配だったのは、仁美さんがこの数年体調を崩して入退院を繰り返していることだった。
 6月23日は必ず沖縄に行く、という父親譲りの信念が勝って退院の許可が出たと、6月上旬に嬉しい知らせがあった。
 しかし、できるだけ負担をかけないでいいように、瀬戸さんと名護市の市史編さん係の川満彰さんが前の週に下見に行ってくれた。

 実はその時に、さらにいくつもの散兵壕や交通壕らしきものが見つかっていた。
 川満さんは煉瓦らしきものも見つけたという。
 なので、24日に私も村上さんと共に、再度滝の上に行くのを楽しみにしていた。
 ところが仁美さんはやはり本調子ではなく、滝までは到達できたものの、新たに遺構らしきものが見つかった滝の上に行くのは、また次回にとっておくということになった。
 そのため、とりあえず撮影だけはしておこうと、日をあらためて瀬戸さんと二人で撮ってきたのが今回の映像である。


・・・(続)・・・

[動画]
慰霊の日・第一護郷隊の陣地を訪ねて

マガジン9、2020年7月1日
三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日誌
初公開!少年ゲリラ兵部隊の本拠地に迫る
〜 75年目にベールを脱ぐ第一護郷隊の遺構 〜

(三上智恵)
https://maga9.jp/200701-0/

(※1)
 沖縄本島北部から防衛召集された少年が山中での戦闘に参加した第一護郷隊の死者を祭る、名護市の「少年護郷隊之碑」で2014年6月23日、高齢化が進む元隊員や遺族ら約20人が集まって慰霊祭を行った。
 碑のそばにある石碑には約90人の名が刻まれる。遺族らは「故郷を自らの手で護(まも)る」という戦意高揚の下、故郷を間近にした山河で落とした若い命を惜しんだ。遺族の一人は「ヤッチーヤーカイ」(兄さん、家に帰ろう」と題した自作の琉歌をしみじみと歌い上げた。
 碑が建つ小高い丘の真下には、少年らが1944年10月に第1次召集された当時の名護国民学校で、現在の名護小学校校庭が見える。元隊員だった上間義文さん(85)=名護市=は義理の兄宮城勝源さんや戦友が眠る碑に、慰霊祭が始まる約1時間前に到着した。

「戦友が亡くなったことが残念で、慰霊の日はいつも真っ先に来る。もう69年もたったということはない」

 16歳だった兄の仲間朝次郎さんの名が刻まれている石原末子さん(71)=金武町=は、糸満市の平和の礎から駆け付けた。

「母は同じ隊の人が帰って元気でいるのを見るたびに、すごく悔やんでいた。沖縄はまだ米軍基地もあるし、本当の平和じゃない」

 兄にはいつも「平和で過ごせるよう守ってね」と祈る。
 慰霊祭に40年参加する久高栄一さん(67)=金武町=はこの日、琉歌をささげた。本部町真部山で、15歳で逝った兄良夫さんの遺骨は戻らない。

「護郷ぬ戦/勤みん済まちゃしが/兄貴ぬ軍服/何時までぃ着しらりが」

 軍服を脱がせてあげたいと琉歌に込めた。
 慰霊祭は15分ほどで終わった。元隊員の玉里勝三さん(87)=名護市=は「私たちも年を取りまして(関係者も)わずかしか残ってませんので、また来年会えることを祈ります」と会を閉じた。


[写真]
高齢の関係者ら約20人が慰霊祭を行った少年護郷隊之碑=23日、名護市大西

琉球新報、2014年6月24日 11:16
「兄貴 ヤーカイ」
元隊員、琉歌で鎮魂
少年護郷隊之碑

(石井恭子)
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-227465.html

(※2)
 首里城地下にある日本軍第32軍司令部壕の最新映像が公開された。
 映像の場所は第5坑道。
 内部で鉄かぶとなど日本軍の遺留品や、水が流れている様子が確認された。
 県は32軍壕公開に関し、2020年度中に専門家らでつくる新たな検討委員会を設置する方針を示している。


琉球新報、2020年8月3日 19:49
【動画】
11年ぶり第32軍司令部壕の内部へ
首里城地下に眠る戦跡を公開

https://ryukyushimpo.jp/movie/entry-1167966.html

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2020年08月16日

1955年、岸は新たな政治勢力の形成を画策した。自由主党!1997年、日本の政治エリートによって1つの新しい団体が設立された。日本会議!

The last Japanese soldier to formally surrender after the country's defeat in World War Two was Hiroo Onoda.

Lieutenant Onoda finally handed over his sword on March 9th 1974. He had held out in the Philippine jungle for 29 years. In interviews and writings after his return to Japan, Lt Onoda said he had been unable to accept that Japan had capitulated.

To many outsiders, Onoda looked like a fanatic. But in imperial Japan his actions were perfectly logical. Onoda had sworn never to surrender, to die for the emperor. He believed the rest of his countrymen, and women, would do the same.

Of course they hadn't. On 15 August 1945, Japan's supreme divine being, Emperor Hirohito, did something no emperor had done before: he went on the radio. Atom bombs had destroyed Hiroshima and Nagasaki. On the day the second bomb was dropped, Joseph Stalin declared war on Japan.

Soviet forces were already sweeping across Manchuria. Within weeks they would be landing on the northern island of Hokkaido. Hirohito accepted that surrender to the Americans was his best choice.

Even so, the emperor's surrender speech nearly didn't happen. On the morning of 15 August, a group of young officers led their troops in to the imperial palace grounds. They were trying to seize the recording of that speech. They believed the war was far from lost. Japan's home islands had yet to be invaded. Its vast army in China was still largely undefeated.

The officers were little concerned by mass civilian casualties inflicted by the US bombing of Japan's cities. Instead they were focused on one thing: the survival of the imperial system. Japan must not sue for peace until the emperor was secured.

The young officers failed to stop the broadcast. But they got their wish - after the surrender the US decided Hirohito would not be tried as a war criminal after all. Instead he would stay on the throne, effectively an American puppet.

It was perhaps a shrewd move by Douglas MacArthur, the US general who ruled over Japan until 1949. MacArthur used the emperor to push his own agenda - to transform conservative Japan in to a modern democracy with an American-style constitution.

The victorious allies put 28 members of Japan's wartime leadership on trial. Seven, including Prime Minister Hideki Tojo, were hanged. But others were never charged. Among them Prince Yasuhiko Asaka, the emperor's uncle, and the man who led Japanese troops in the infamous rape of the Chinese capital, Nanjing.

Sparing them was seen by MacArthur as a necessary evil. But his decision has allowed, even encouraged, Japan to avoid a deep reckoning with its past.

Another man who escaped trial was Nobusuke Kishi. Kishi had played a leading role in the occupation of Manchuria and was a close ally of war leader Hideki Tojo. The Americans decided not to charge him. Instead in 1948 Kishi was released. He was banned from politics while the American occupation lasted.

But in 1955, Kishi engineered the formation of a new political force - the Liberal Democratic Party. Soon he would be its leader and Japan's prime minister. His rehabilitation was complete, and the party he helped create has ruled over Japan for most of the proceeding 65 years.

Nobusuke Kishi's daughter married the son of another powerful political dynasty - a man named Shintaro Abe. He would go on to become Japan's foreign minister, and to father a son of his own, named Shinzo.

Prime Minister Shinzo Abe is far from unique in his family history. Japan's political dynasties have proved remarkably resilient.

Shinzo Abe was reputedly close to his grandfather. The old man had a profound influence on young Shinzo's political views. Like many of his allies on the right, Nobusuke Kishi thought the war-crimes trials he narrowly escaped were victor's justice. His life-long goal remained the scrapping of the post war pacifist constitution.

In a 1965 speech, Kishi called for Japan's rearmament as "a means of eradicating completely the consequences of Japan's defeat and the American occupation".

When Japan's critics in China and Korea say the country has never properly apologised for what it did during World War Two, they are wrong.

Japan has made repeated apologies. The problem is the other words and actions taken by Japan's leading politicians. They suggest those apologies are not completely sincere.

In 1997, a new group was established by Japan's political elite. It is called Nippon Kaigi. It is not a secret society, but many Japanese remain unaware of its existence or its goals.

Those goals are to "rekindle Japanese national pride and identity, based around the Imperial family", to scrap the pacifist constitution, to institute respect for the national flag, national anthem and national history, and to build up Japan's military strength.

Prominent among Nippon Kaigi's 38,000 members are Prime Minister Shinzo Abe, Deputy Prime Minister Taro Aso and the governor of Tokyo, Yuriko Koike.

Another member of Nippon Kaigi, until his death, was Hiroo Onoda. The Japan that Lieutenant Onoda had returned to in the mid-1970s was not to his liking. He believed the post war generation had gone soft. For a time, he moved to Brazil and lived on a cattle ranch. Later he returned to Japan and opened a school to train young Japanese in the skills that had helped him to survive his three decades in the jungle.

When Hiroo Onoda died in 2014 at the age of 91, Prime Minister Abe's spokesman was effusive in his eulogy. He gave no hint of the futility of his lonely war, or mention of the Philippine villagers he had killed long after Japan's surrender. Instead he described Hiroo Onoda as a Japanese hero.


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Lieutenant Hiroo Onoda (centre) walks from the jungle in 1974

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The devastated city of Hiroshima after the atomic bomb blast

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Japanese representatives surrender aboard the USS Missouri, 1945

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Prime Minister Nobusuke Kishi (left) with US Ambassador to Japan Douglas MacArthur in 1957

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A Japanese prisoner of war reacts after hearing Emperor Hirohito's surrender

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Former Japanese Prime Minister Hideki Tojo seen during his trial for war crimes in 1948

BBC News, 15 August 2020
VJ Day: A WW2 hero and a reckoning with Japan's past
By Rupert Wingfield-Hayes, BBC News, Tokyo
https://www.bbc.com/news/world-asia-53763059

[邦訳]
 小野田少尉は1974年3月9日、やっと自らの剣を引き渡した。29年間、フィリピンのジャングルで持ちこたえた。日本に帰国後のインタビューや手記では、日本が降伏したことを受け入れられなかったと述べた。

 部外者には小野田は狂信者に見えた。しかし帝国時代の日本では、彼の行動は完全に理にかなっていた。小野田は決して投降せず、天皇のために死ぬと誓っていた。女性を含めた他の国民も全員、同じ事をするはずだと彼は信じていた。

 だがもちろん、そんなことはなかった。1945年8月15日、日本の最高神である裕仁天皇は、天皇として前例がなかったことをした。ラジオに現れたのだ。原子爆弾が広島と長崎を破壊していた。2つ目の原爆が投下された日、ヨシフ・スターリンが日本に宣戦布告した。ソビエト連邦軍はすでに、満州を席巻していた。数週間以内に、ソ連軍は北海道に上陸するとみられた。裕仁はアメリカへの降伏が最善の選択だと受け入れた。

 それでも、天皇の降伏演説はもう少しで実現しないところだった。8月15日朝、若い将校らが部下を率いて皇居の敷地へと入り込んだ。演説の録音を奪い取るのが狙いだった。彼らは戦争にはまだ負けていないと信じていた。日本本土は侵略されていなかった。中国にいた大規模な陸軍の多くは、まだやられずに残っていた。

 将校らは、アメリカの爆弾で多数の民間人の犠牲者が出たことを、ほとんど気にかけていなかった。彼らの関心はただ1つ、天皇制の維持だった。天皇の安全が約束されないうちに平和交渉をするなど、もってのほかだった。

 若い将校らは放送を阻止できなかった。しかし、望みは実現した。降伏後、アメリカは裕仁を戦争犯罪人として裁かないことを決めたのだ。その代わり、彼は天皇の座にとどまり、実質的なアメリカの操り人形となった。

 これは1949年まで日本を支配したダグラス・マッカーサー米司令官による、抜け目のない判断だったといえるだろう。マッカーサーは自らの施策――保守的な日本をアメリカ式の憲法をもつ近代的民主主義国家に変革する――を推し進めるため、天皇を利用したのだった。

 戦争に勝った連合国は、日本の戦時中の指導者28人を裁判にかけた。東条英機首相ら7人が絞首刑となった。しかし、その他の人たちは何ら責任を問われなかった。天皇のおじで、中国の首都南京(当時)における悪名高い大虐殺の際に日本部隊を率いていた、朝香鳩彦王子もそうした1人だった。

 彼らを不問に付すことを、マッカーサーは必要悪と考えていた。だが彼の判断は、日本が過去と真剣に向き合うのを避けることを許し、奨励すらすることになった。

 裁判を逃れた別の人物が岸信介だ。岸は満州の占領で重要な役割を果たし、東条英機の側近でもあった。アメリカは彼を不起訴にし、1948年に釈放された。アメリカが日本を占領していた間は、公職から追放された。

 しかし1955年、岸は新たな政治勢力の形成を画策した。自由民主党だ。まもなく彼は同党の党首となり、日本の首相になった。彼にとってのリハビリ期間は終了し、彼が創設に関わった政党はその後の65年間のほとんどにおいて、日本を支配することになった。

 岸信介の娘は、別の有力政治家一族の息子、安倍晋太郎と結婚した。彼はのちに日本の外相にまでなり、晋三という名の息子をもつようになる。

 安倍晋三首相のこうしたルーツは決して珍しいものではない。日本の政治家一族は極めてしぶとい。

 安倍晋三は祖父と親しかったと言われている。祖父は若き日の晋三の政治観に深い影響を与えた。多くの右派の仲間と同様、岸信介も自身がかろうじて免れた戦争犯罪の裁判を、勝者の裁きと考えていた。戦後の平和憲法を破棄することが、彼の生涯の目標となり続けた。

 1965年のスピーチでは、岸は「日本の敗北とアメリカの占領の影響を完全に消し去る方法」として、日本の再武装が必要だと主張した。

 日本に批判的な中国と韓国の人々は、日本が第2次世界大戦でした事に対して一度も適切に謝罪していないと言うが、それは間違いだ。日本は繰り返し謝罪している。問題は、日本の有力政治家らによる他の言葉や行動だ。それらのせいで、日本の謝罪は完全に心のこもったものではないと受け止められる。

 1997年、日本の政治エリートによって1つの新しい団体が設立された。日本会議だ。秘密結社ではないが、その存在や目標を知る日本人は少ない。

 この団体の目標は、皇室を中心として日本の国としての誇りと一体感を取り戻すこと、平和憲法を破棄すること、国旗・国家や国の歴史への敬意を広めること、日本の軍備を増強することだ。

 日本会議の会員約3万8000人の中では、安倍晋三首相、麻生太郎副総理、小池百合子東京都知事といった存在が目を引く。

 会員の1人だったのが、生前の小野田寛郎だ。1970年代になって小野田少尉が帰ってきた日本は、彼が好むものではなかった。戦後世代は軟弱になったと彼は考えていた。一時ブラジルに移住し、牛の牧場で生計を立てた。その後日本に戻って学校を開き、ジャングルで30年間生き延びるのに役立った技能を日本の若者に教え込んだ。

 小野田寛郎が2014年に91歳で死去した時、追悼を述べた安倍首相の報道官は感情をあらわにした。彼は小野田の孤独な戦争の無益さについてはみじんも触れず、日本が降伏して何年もたってから小野田が殺したフィリピンの村人たちのことも言及しなかった。その代わり彼は、小野田寛郎は日本の英雄だと述べた。

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-53789705

・・・「吉村洋文大阪府知事は『風説の流布』や『株価操縦』を指摘されても仕方ありません。公表情報を事前に把握し、関連株の短期売買で利益を得た人がいたのなら極めて大きな問題。一般的に見て、当局による調査の対象になってもおかしくはないでしょう」・・・もうみんな気付いて来てるって。ただの阿呆やねんて。最初から、べつに表も裏も何も無いねんって・・・

・・・認証“虹ステッカー”店で集団感染、小池百合子東京都知事「実践せず貼る業者いないとは限らない」・・・もうみんな気付いて来てるって。ただの阿呆やねんて。最初から、べつに表も裏も何も無いねんって・・・

・・・靖国神社は元来、神聖天皇崇敬と深く結びついた軍事的施設。下関桜山神社、京都霊山護国神社を訪れれば、そのことがよく見えてくる。だから、幕府側についた会津藩関係者をはじめ天皇側でない戦争死者たちは祀られていない。戦死者慰霊とともに神聖天皇崇敬の神社だった歴史を忘れてはいけない・・・

・・・石原元都知事が靖国参拝「首相と天皇陛下は参拝を」・・・もうみんな気付いて来てるって。ただの阿呆やねんて。最初から、べつに表も裏も何も無いねんって・・・

・・・萩生田文科相が靖国参拝!いや、さすがに現職の文科大臣の靖国参拝はまずいでしょう。宗教法人を所管するし、学問の中立性に責任がある。罷免相当でしょう、これ。というか、日本会議とかに所属して終戦記念日に靖国神社に参拝すると安倍総理の覚えが良くなるとかあるのか?・・・もうみんな気付いて来てるって。ただの阿呆やねんて。最初から、べつに表も裏も何も無いねんって・・・

・・・小泉大臣「環境省職員派遣を調整。モーリシャス座礁事故「全力でサポート」・・・座礁事故発生は7月25日だから、派遣する意向を示すまでに20日間かかっている。環境省は糸電話か何かで連絡しているのだろうか・・・もうみんな気付いて来てるって。ただの阿呆やねんて。最初から、べつに表も裏も何も無いねんって・・・

・・・前原誠司、本日夕刻に緊急に開催致しました拡大後援会役員会にて、国民民主党に残る旨を表明・・・もうみんな気付いて来てるって。ただの阿呆やねんて。最初から、べつに表も裏も何も無いねんって・・・

・・・「第1次政権からの約9年間で、大臣・副大臣・政務官が16人辞任、3人逮捕。なぜ、こういうことになるのか。人をみる目がないのは、自分をみる目、つまり安倍晋三という人間そのものに起因する。小心で狭量、人間の器の小ささゆえに、自分を批判する人を許せない。自分をチヤホヤする人にはやさしく、批判する人にはどこまでも冷たく突き放すだけでなく、ことさらに敵視する。それを忖度した周辺が、その人物にさらなる仕打ちを加えていく」・・・もうみんな気付いて来てるって。ただの阿呆やねんて。最初から、べつに表も裏も何も無いねんって・・・

・・・この7年8カ月の間…次々に国民の批判をかわすため、新たなキーワードや施策が繰り出されてきた。もっとも、「結果がすべて」というご自身の言葉に沿っていえば、そのすべてについて結果を出せず、「失われた8年」となることが確実な状況となってきた・・・もうみんな気付いて来てるって。ただの阿呆やねんて。最初から、べつに表も裏も何も無いねんって・・・

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National Liberation Day from Japan’s 1910-1945 colonization of the peninsula

SEOUL, Aug 15 (AFP): South Korea tightened Covid-19 (coronavirus) measures on Saturday in Seoul and its surrounding areas as the country reported the highest number of new daily infections in more than five months.

The stricter social distancing guidelines include restrictions on gatherings and activities including professional sports, which will be played behind closed doors in the capital area again.

The move came as South Korea reported 166 new cases on Saturday, the highest daily figure since early March, bringing the country's total infections to 15,039 with 305 deaths.

South Korea stands at a "critical juncture" in the battle to control the coronavirus surge, Prime Minister Chung Sye-kyun said at a government response meeting.

"Our top priority is to contain the spread of the virus in the greater Seoul area."

A majority of the new cases came from the greater Seoul region -- home to half of the country's 51 million people -- raising fears about a major spike with a three-day weekend starting in South Korea from Saturday.

South Korea endured one of the worst early outbreaks outside mainland China but brought it broadly under control with extensive tracing and testing while never imposing the kind of lockdowns ordered in much of Europe and other parts of the world.

The country has been seen as a model on how to combat the pandemic with the public largely following safety health measures such as face masks.

It even started allowing limited numbers of spectators at sports games in July -- which was reversed for the greater Seoul region on Saturday.


[photo]
South Koreans performing during the celebration of the 75th anniversary on Saturday (Aug 15) in Seoul of the Liberation Day, which celebrates its independence from Japanese colonial rule following the end of World War II after Japan surrendered between August 14 and 15 in 1945, at Dongdaemun Design Plaza (DDP).

The Star, Saturday, 15 Aug 2020 2:03 PM MYT
South Korea tightens curbs in capital to control virus surge
By AFP

https://www.thestar.com.my/aseanplus/aseanplus-news/2020/08/15/south-korea-tightens-curbs-in-capital-to-control-virus-surge

TOKYO - South Korean President Moon Jae-in offered the olive branch of dialogue with Japan on Saturday (Aug 15) amid rapidly chilling relations but an imminent breakthrough seems unlikely given that neither is willing to budge on positions they hold steadfast.

The spat has reached new heights with South Korea's Supreme Court ordering the seizure of assets in the country owned by Nippon Steel after the firm refused to pay damages to victims of forced labour.

The company appealed the seizure last week.

Mr Moon told a ceremony on Saturday to mark National Liberation Day, 75 years since Japan's surrender in World War II: "My administration respects the judiciary's decision, and we have been engaging in consultations with Japan on how to reach a satisfactory resolution to which the victims could agree.

"The door ... remains wide open. My administration is ready to sit down with Japan at any time to discuss these issues."

But Japan's position is that South Korea's court ruling violates a 1965 treaty to normalise ties.

Under the agreement, which resolved "completely and finally" the issue of wartime compensation, Japan gave South Korea US$500 million (US$4 billion or S$xx in today's terms) in grants and low-interest loans.

South Korea said the pact does not preclude the right of individuals to seek private damages, and Mr Moon reiterated on Saturday that the ruling "has the highest legal authority and enforcement power".

The Sunday Times understands that neither is willing to take their differences to an arbitration panel, as doing so would amount to an admission that the other party has a case.

The two neighbours are also quarrelling over trade. Japan dealt a blow to South Korea last year when it slapped export restrictions on materials that are key to its semiconductor industry.

Tokyo asserts that it has unanswered security concerns, accusing Seoul of lax controls over materials that have potential for misuse to build weapons of mass destruction.

It said this is completely unrelated to the unfurling historical spat. But Seoul is unconvinced and sees it as a tit-for-tat move, which it wants to bring before the World Trade Organisation.

While Japanese Prime Minister Shinzo Abe was mum on diplomatic issues on Saturday, Mr Moon praised South Korea's resilience in "surmounting the crisis prompted by Japan's export restrictions", noting the growing independence in the production of materials that will in turn wean its reliance off Japan.


The Straits Times, Published: Aug 15, 2020, 9:14 pm SGT
Japan, South Korea ties still clouded by wartime history
By Walter Sim, Japan Correspondent
https://www.straitstimes.com/asia/east-asia/japan-south-korea-ties-still-clouded-by-wartime-history

A spike in new coronavirus cases in South Korea has prompted authorities to reimpose tighter social distancing curbs in Seoul, but that didn't stop thousands of demonstrators from protesting against President Moon Jae-in's policies.

For the second day in a row in over four months, the country has reported a sudden jump in locally transmitted cases, the Korea Centers for Disease Control and Prevention (KCDC) said.

The KCDC reported 166 new cases as of Friday, of which 155 were domestic, prompting authorities to re-introduce anti-virus measures as they worried about the specter of a fresh wave of the disease.

The tougher rules come as thousands staged demonstrations in downtown Seoul, despite a ban on rallies in the capital city, with some conservative groups protesting against President Moon's recent real estate market policy and a series of sex scandals involving leaders of his administration.

The protests, with some carrying placards reading "Expel Moon Jae-in", coincided with the National Liberation Day from Japan’s 1910-1945 colonization of the peninsula.

South Korea used invasive tracing and widespread testing to contain its first outbreak of the novel coronavirus, but Asia’s fourth-largest economy has experienced persistent outbreaks in recent weeks, mostly in the densely populated capital area.

The new cases took South Korea’s tally to 15,039 with 305 deaths by Friday midnight. The recent spike in infections are emerging in multiple clusters, including church gatherings and restaurants.

Over 100 infections were linked to members of a Seoul church alone and those who came into contact with the churchgoers. The authorities are testing 4,000 members of the church, Health Minister Park Neung-hoo told a briefing.

The authorities decided to upgrade the social distancing guidelines to second stage for Seoul and nearby Gyeonggi province, Prime Minister Chung Sye-kyun told a meeting on Saturday.

"We are facing a desperately dangerous situation that could lead to another wave of epidemics if we cannot overcome this crisis," said Chung.

Health authorities had categorized social distancing rules in three stages - stage 1 being the least intense and stage 3 the toughest, where schools and businesses are urged to close.

Second stage limits indoor gatherings to below 50 and outdoor gatherings to below 100, and bans spectators in sports matches, disappointing fans who had just gone back into baseball and soccer stadiums after a five-week delay to the season.


[photo]
Members of pro-US conservative right-wing and religious Christian groups wave flags and shout slogans during an anti-government rally in the central Gwanghwamun area of Seoul on August 15, 2020.

The Jakarta Post, Seoul/Sat, August 15, 2020/04:15 pm
Thousands protest against Moon as South Korea capital scrambles curb virus resurgence
By Sangmi Cha, Reuters
https://www.thejakartapost.com/news/2020/08/15/thousands-protest-against-moon-as-south-korea-capital-scrambles-curb-virus-resurgence.html

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「光復節」文在寅演説を読む

 韓国では8月15日は、日本による植民地支配が終わった解放「光復」の日だ。
 75周年となる今日、文在寅大統領が行った演説には、いくつもの新たな視点が存在した。
 その深意を読み解く。

「愛国志士」迎え

 毎年場所を変えて行われる「光復節慶祝式」は今年、ソウル市内にある東大門デザインプラザ(DPP)で開かれた。
 以前は競技場としてさまざまな政治行事が行われた由緒ある場所であったが、2014年にイラク出身の建築家ザハ・ハディッドが設計した未来的な建物へと生まれ変わった。
 ソウルのランドマークの一つだ。

 この日の式はいくつかの点で「破格」だった。
 まずは2人の司会のうち一人として、聴覚に障害を持つイ・ソビョル氏が大役を務めたことだ。
 イさんはたどたどしい声と手話を交えながら、スムーズに記念式を進行した。
 青瓦台(韓国大統領府)は「はじめての出来事」と説明した。

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司会を務めたイ・ソビョルさん(右)と俳優のソン・イルグクさん(左)。母方の曾祖父に著名な独立運動家・金佐鎮を持つソン氏は、三つ子の男児の名前を「大韓・民国・万歳」にしていることで知られる

 次に、先に文在寅大統領が入場し、その後に入場する「愛国志士」たちを迎えた点が挙げられる。
 記念式には101歳のイム・ウチョル氏をはじめ、過去の植民地時代、実際に独立運動を行った4人が参席し褒章を受けた。
 青瓦台は「独立を祝う日だけあって光復のために献身した人びとに尊敬と感謝を表すもの」とした。

 なお現在、国内に27人、海外に4人の「愛国志士」が存命中とのことだ。

 光復節は韓国で最も重要な記念日のうち一つである。
 毎年大統領が演説を行うが、植民地からの解放つながりで日本へと、さらに南北分断の現実を前に北朝鮮へと、そして韓国内へと向けたメッセージが込められるのが通例だ。

 北朝鮮の相次ぐミサイル実験により朝鮮半島での緊張が高まっていた2017年8月には文大統領が「朝鮮半島で韓国の同意なく武力を使わせない」と米朝に向けて強く主張した事もあった。
 この日、文大統領は約20分にわたり演説した。

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8月15日「光復節」式典で演説する文在寅大統領

「個人のための国家」への転換

 まずこの日の演説の中で最も強調されたのが、「個人が国のために存在するのではなく、個人の人間らしい生活を保障するために存在する国を思う」という点だ。

 さらにこれを「すべての国民が人間としての尊厳と価値を持ち、幸福を追及する権利を持つ憲法10条の時代だ。私たち政府が実現しようとする目標だ」と明確にした。

憲法10条
あらゆる国民は人間としての尊厳と価値を持ち、幸福を追求する権利を持つ。国家は個人が持つ不可侵の基本的人権を確認し、これを保障する義務を持つ。


 文大統領はさらに憲法違反の疑いがあった朴槿恵(パク・クネ)大統領を弾劾した2016年冬の「ろうそくデモ」を例に挙げ、憲法1条にも言及した。

憲法1条
大韓民国のすべての権力は国民から生まれる


 つまり、国民から生まれた権力を国民のために使うという責任、そして国家ビジョンを表したものといえる。
 文大統領はこれを「自由と平等の実質的な基礎を固く築き、社会安全網と安全な日常を通じ個人が個性と能力を目一杯発揮し、一人の成就を共に尊重する国」と具体化させた。

 さらに「国が国民にすべき役割を果たしたのか、今は果たしているのか、私たちは問うべきだ」と新鮮な問いを投げかけた。

 続いて今年7月に発表した「韓国版ニューディール政策」のキモである「雇用と社会安全網(セーフティネット)の強化」を引用し、「人間に対する投資を増やし格差と不平等を減らすことが真の光復」と述べた。
 過去にはなかった言及だ。

「韓国版ニューディール政策」とは、「経済が成熟段階に侵入しながら成長の勢いが継続的に下落し、社会安全網の不備などで両極化が深化している」、「新型コロナウイルス感染症が、経済・社会構造に大々的な変化を招く」(政府政策資料集より)という政府の認識に基づき、これを克服するために「デジタル」「グリーン」を2大軸に今後5年間で110兆ウォン(約10兆円)以上を投資するという巨大経済革新政策だ。

 他方では、1930年代に米国の民主党が「ニューディール政策」の成功により、その後60年代後半まで優勢を維持し続けた史実を参考に、文大統領が「韓国型ニューディール」をもって与党・共に民主党の長期集権を狙っているとの見方もある。

 格調高い主張であるが、実現は容易ではない。
 その自覚を文大統領は率直に表現しつつ「わたしたちの社会がその方向に向かっているという信頼を国民の皆さんに与えたい」とした。

 まずは原則から確認、ということだろう。
 簡単なことのようであるが、非常に強く社会民主主義的な福祉国家への方向転換を表明したものと受け止められる。

● 日本については発想の転換を迫る

「個人」の強調は日本に対するメッセージにも色濃く反映された。

 2018年10月の韓国大法院(最高裁判所)判決で「個人の違法行為賠償請求権は消滅していない」とされたことに言及しながら、「大法院の判決は大韓民国の領土の中では最高の法的権威と執行力を持つ」と原則に触れた。

 その上で「政府は司法部の判決を尊重し、被害者が同意できる円満な解決方案を日本政府と協議してきたし、今なお協議の扉を開け放っている。私たち政府はいつでも日本政府とテーブルに着く準備ができている」と主張した。

 これは韓国政府が判決の趣旨を踏まえつつ、別の解決案を提示する用意があることを明確に示すものだ。
 わざわざ「1965年日韓請求権協定の有効性を認めながらも」という一節を入れることにより、日本側が主張する「65年体制をひっくり返そうとする」という懸念を払拭しようとした。

 なお、こうした政府の主張は原告側とも一脈通じるものがある。

 筆者が8月7日、徴用工裁判における原告側の訴訟代理人を務める林宰成(イム・ジェソン)弁護士にインタビューした際、同氏は「被害者(原告)の権利と名誉が回復される前提で、日韓両国政府の協議そして提案があれば、原告と共にそれを検討できる」という趣旨の立場を明かしている。
「現金化」以外の解決策はある、ということだ。

 文大統領はさらに「私たちは一人の個人の尊厳を守ることが国にとって決して損害にはならないという事実を確認する」としつつ、「同時に三権分立に基づく民主主義、人類の普遍的価値と国際法の原則を守るために日本と共に努力する」とした。

 これは個人の権利を国家が救済しよう、という呼びかけとも言い換えられるだろう。
 とはいうものの、「なんら提案を受けたことがない」(イム弁護士)という韓国政府の消極的な姿勢もまた批判の対象となっている現実がある。

 周知のように2015年12月の「慰安婦合意」を文在寅政権が実質的に破棄した点、そして2018年10月の徴用工判決は日韓関係に大きな影を落としている。

 18年末にはレーダー照射事件をめぐる衝突があり、19年7月の半導体素材輸出管理強化、さらにホワイト国からの除外、日韓GSOMIA(秘密軍事情報保護協定)の破棄(破棄猶予)などが続いている。

 この日の呼びかけは、これをもう一度、「国と個人の関係」という点から紐解いていこうというものだ。
 韓国政府が先手を打って日韓首脳会談を提案すべきだろう。

 また、日韓の市民みなが国際政治評論家のように考えるのではなく、身を置き換え「個人の権利」として考え直してはどうだろうか、という提案もしたい。
 日本社会に議論の柔軟性が失われて久しいと筆者は見る。

● 南北関係には「含み」

「個人」の原則は南北関係にも反映された。
 以下の部分は象徴的だ。

真の光復は平和で安全な統一した韓半島で一人一人の夢と生活が保障されるものです。

私たちが平和を追求し、南と北の協力を推進するのも南と北の国民が安全に共に生きるためです。


「何のために統一するのか」という重い質問への答と言えるだろう。

 実際に過去も今も、南北朝鮮では互いを脅威とすることで国が個人の自由を制限する人権侵害がまかり通っている。
 北朝鮮では韓国ドラマすら自由に見られず、政治犯収容所も未だ存在する。
 韓国でも国家保安法の存在により思想犯が存在し、社会についての自由な議論が制限されている。
 北朝鮮は未だ暗黒のベールに包まれたままだ。

 なお、前出の部分にある「南と北の国民」という表現は注目に値する。
 韓国は北朝鮮を国と認めておらず、南北双方は南北関係について「国と国の関係ではなく、統一を志向する過程で暫定的に形成される特殊関係」と正式に規定している。

 これに則り、韓国では「北朝鮮住民」という呼称を使うのが一般的だ。
 これを敢えて「国民」とした点は「北朝鮮を別の国として認めた後で、和解協力を一から始める」という、今後あるであろう韓国政府の大きな方向転換を予期させるものである。

 現在韓国政府が持つ正式な統一方案は、1980年代後半から94年にかけ議論され制定した『民族共同体統一方案』と呼ばれるもので、自由民主主義を基調とし民族を強調するものだ。
 さらに統一プロセスを和解協力→南北連合→統一の三段階で行うというものだ。

 しかし分断から70年以上が経つ中で、民族意識も薄れ南北の経済格差も40倍に広がった。
 北朝鮮側が「吸収統一」を既定路線とするかのような韓国の「包容政策」への拒否感を示す中、新たな関係設定が求められている実情がある。

 演説では新型コロナ時代と気候変動による集中豪雨などを例に「個人の健康と安全が互いに緊密につながっていることを自覚し、南と北が声明と安全の共同体であることを繰り返し確認している」と「地続きの関係」であることを強調している。

 さらに「国民の生命と安全のための人道主義的な協力と共に、死ぬ前に会いたい人に会い、行きたいところに行けるよう協力することが実質的な南北協力だ」と北朝鮮側に協力を呼びかけた。

 南北離散家族再会行事や、新型コロナや集中豪雨被害に対する人道支援を呼びかけるものといえる。

 その上で2018年の「板門店合意」に言及し、南北鉄道連結をはじめ「南北が既に合意した事項を一つ一つ点検し実践しながら『平和と共同繁栄の朝鮮半島』に向かって進んでいく」とした。
 だが、いずれもすぐに北朝鮮側の冷淡な態度をひっくり返すには至らないだろう。

 一方で筆者にはどうしても一つ苦言を呈したい部分があった。

「個人」を強調し、南北「国民」と言うならば、韓国政府は早急に現在北朝鮮に抑留されている6人の韓国人の安否を確認してはどうか。
 文政権が発足した17年5月から言い続けていることだが、未だ消息はない。
 無責任が過ぎる。

 演説の最後では「先烈たちが夢見た自主独立の国を超え、平和と繁栄の統一した韓半島」をビジョンに掲げた。
 これは光復節には欠かせない内容だ。
 ゴールはここである。

● 転換点にできるか

 見てきたように今回の演説は、内外に新たな基調を予感させるものだったと総括できる。
 とはいえ、文在寅政権は後半に差し掛かり求心力が落ちてきている現実がある。
 思い通りに進めるのは簡単でないだろう。

 それでも数年後に今日を振り返る場合、ある転換点であったと評価する日が来るかもしれない。
 韓国内の反応を追っていきたい。

Yahoo Japan! News、2020/8/15(土) 13:21
個人のための国家・日本・南北関係…「光復節」文在寅演説を読む
(徐台教、ソウル在住ジャーナリスト。「ニュースタンス」編集長)
https://news.yahoo.co.jp/byline/seodaegyo/20200815-00193455/

posted by fom_club at 14:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第75周年 光復節 慶祝式 慶祝辞

尊敬する国民の皆さん、
独立有功者と遺家族の皆さん、
海外同胞の皆さん、
光復75周年を迎えた今日、
自身のすべてを捧げ国の独立を成し遂げた
先烈たちの高貴な犠牲と精神を胸に刻みます。
今日の慶祝式は
生存されている愛国志士の方達を迎えることから始まりました。
イム・ウチョル志士は101歳であり、
他の三方も100歳に近い方たちです。
どんな礼遇を尽くしても
一人一人が作ってきた大韓民国の誇らしい発展と矜持に
及ぶことはないでしょう。
今わたしたちの側で生きている愛国志士の方々は
31人に過ぎません。
あまりにも尊い歩みをしてくださった
イム・ウチョル、キム・ヨングァン、イ・ヨンス、チャン・ビョンハ愛国志士の方々に
深い尊敬と感謝を表す力強い拍手をお願いいたします。
私たちの光復は一人一人が
民主共和国の主人として共に立ち上がり成し遂げたものです。
自身の人生の主人公として、
大小の成就を遂げたすべての方々が
今日を生きる私たちの根となりました。
先烈たちは
「共にすればどんな危機にも勝つことができる」という信念を
「巨大な歴史の根」として私たちに残してくれ、
私たちはコロナを克服する過程でも共に危機を勝ち抜き、
私たち自身の力量をふたたび確認することができました。
今は気候変動による巨大な自然災難が
もう一度私たちの日常を脅かしています。
しかし私たちはやはりこれに勝つでしょう。
大切な生命を無くした方々をはじめ
災難の被害を受けたすべての方々に深い慰労の言葉を捧げ、
国民の生命と財産を守るために
最後まで災難に立ち向かい復旧に最善を尽くします。
また気候変動がこれからよりひどくなることに備え
痛みが繰り替えされないよう
国民の安全にすべての力量を傾けます。
大韓民国の自負心となってくれた
独立有功者と遺家族の皆さんに敬意を表し、
今日の危機と災難を必ず国民と共に乗り切ることを約束します。
国民の皆さん、
今日わたしたちが集まった東大門デザインプラザは
朝鮮時代、訓練都監と訓練院の跡でした。
日帝強占期には京城運動場、解放後にはソウル運動場に変わり、
長い間、東大門運動場という名前で
数多くの汗の歴史を秘めた場所です。
その中でも、植民地朝鮮の少年、孫基禎(ソン・ギジョン)が流した汗こそが
最も熱くそして残念な汗として記憶されるでしょう。
1935年京城運動場で、1万メートル走で1位となった孫基禎は
翌年、ベルリン五輪のマラソン競技において世界新記録で優勝します。
日本の国家が演奏される習慣
金メダリストの孫基禎は
月桂樹の苗木で胸の日章旗を隠し、
銅メダルを獲得した南昇竜(ナム・スンリョン)は
頭を垂れたまま目を閉じました。
民族の自尊心を打ち立てた偉大な勝利でしたが
勝利の栄光を捧げる国がありませんでした。
私たちの独立運動は国を取り戻すものであり、
同時に個々人の尊厳を打ち立てる過程でした。
私たちは独立と、
主権在民の民主共和国を樹立する革命を
同時に成し遂げました。
二度と誰にも負けない堂々とした国を作ろうとする
私たち国民の努力は
光復後にも止まりませんでした。
私たちは援助を受ける最も貧しい国から
世界10位圏の経済強国になり、
独裁に立ち向かい世界の民主主義における里程票を打ち立てました。
国家の名前で個人の犠牲を要求し、
人権を抑圧した時代もありましたが、
私たちは自由と平等、尊厳と安全が
国民個々人の当然の権利となる、
「国らしい国」に向けた歩みも止めませんでした。
私たち国民は多くの危機を勝ち抜いてきました。
戦争の惨禍に勝ち、通貨危機と金融危機を克服しました。
日本の輸出規制という危機も国民たちと共に勝ちました。
逆に「誰も揺るがすことのできない国」として跳躍する
機会としました。
大企業と中小企業の共存協力により
「素材・部品・装備の独立」を成し遂げ、
一部の品目では海外投資の誘致という成果まで成し遂げました。
コロナ危機もまた、国と個人、医療陣、企業が
共に信頼し、頼りながら克服しました。
政府は防疫に必要なすべての情報を透明に公開し、
国民は政府の方針を信じ、自ら防疫の主体となりました。
企業は世界でもっとも早く
高速で正確な診断試薬を開発し、
労働者たちは隣人を先に考え、防疫物品を生産しました。
医療陣とボランティアたち、国民と企業ひとつひとつの努力が合わさり
コロナを克服する力となり、
全世界が認める模範となりました。
しかし依然としてより高い緊張が持続的に要求される状況です。
政府はワクチン確保と治療薬の早期開発をはじめ
ウイルスから国民の安全を守る時が来るまで
最後まで全力を尽くします。
国境と地域を封鎖せずに、
経済を止めずに成し遂げた防疫の成功は
経済での善戦へとつながっています。
防疫の成功があったからこそ
政府の拡大財政による迅速な景気対策が
効果を得ることができました。
全世界的な経済危機の中でも韓国経済は
今年OECD37か国の中で成長率1位を記録し、
GDPの規模でも
世界10位圏の中に入ると見られます。
多くの苦痛を受けながらも
危機を機会に変える私たちの国民たちに
もう一度、尊敬と感謝の挨拶を捧げずにいられません。
これから私たちは
「隣人」の安全が「私」の安全であることを確認し
ポストコロナ時代に備えています。
私たちは「韓国版ニューディール」を力強く実行し、
デジタル・ニューディールとグリーン・ニューディールを両の翼とし
私たちの経済の体質を革新し、格を高めていきます。
追撃型の経済から先導型の経済に、
炭素依存経済から低炭素経済へと
大韓民国を根本的に変え、もう一度跳躍するでしょう。
「韓国版ニューディール」の核心を貫く精神はやはり
人間中心の「相生」です。
「韓国版ニューディール」は
「相生」のための新たな社会契約であり、
「雇用・社会安全網(セーフティネット)」をより強化し、「人間」に対する投資を増やし
繁栄と相生を共に成し遂げるという約束です。
何よりも重要なことは
格差と不平等を減らしていくことです。
皆が共に良く暮らしてこそ、真の光復と言えます。
私たちと、未来世代の皆のために持続可能な発展の道を
国民の皆さんが共に歩んでくれると信じます。
国民の皆さん、
2016年の冬
全国あちこちの広場と道を埋めたことは
「大韓民国のすべての権力は国民から生まれる」という
憲法1条の精神でした。
世の中を変える力は常に国民にあるという事実を
ろうそくを手に、ふたたび歴史に刻みました。
その精神が私たちの政府の基盤となりました。
私は今日、75周年の光復節を迎え
いったい一人一人にも光復が成し遂げられたのかを振り返り、
個人が国のために存在するのではなく、
個人の人間らしい生活を保障するために存在する国を思います。
それは
すべての国民が人間としての尊厳と価値を持ち
光復を追及する権利を持つ憲法10条の時代です。
私たち政府が実現しようとする目標です。
政府はその間
自由と平等の実質的な基礎を固く築き、
社会安全網と安全な日常を通じ
個人が個性と能力を目一杯発揮し、
一人の成就を共に尊重する国を作ろうと努力してきました。
私たちの政権の内にすべて実現できる課題とは
決して考えません。
しかし
わたしたちの社会がその方向に向かっているという信頼を国民の皆さんに与え、
確実な土台を築くことに最善を尽くします。
私たちは大韓帝国の時にハワイ、メキシコへと労働移民に行き、
祖国を無くし戻れなくなった同胞たちを記憶します。
その涙ぐましい歴史を決して忘れてはなりません。
祖国は同胞たちを守れませんでしたが、
その方々は逆に賃金を集め、「一さじずつのコメ」を集め
大韓民国臨時政府へと資金を援助し、
海外での独立運動の根となりました。
私たちは
解放された祖国と家族の下へついに戻ってくることのできなかった同胞も
最後まで記憶しなければなりません。
国が国民にすべき役割を果たしたのか、
今は果たしているのか、私たちは問うべきです。
大韓民国は今後
たった一人の国民も放棄することはありません。
それくらい成長し、それくらい自信を持っています。
2018年4月30日、
ガーナ海域で拉致された私たちの船員3人が、
救出作戦を遂行した清海部隊の文武大王艦と共に
祖国に戻ってきました。
2018年7月にはリビアの武装集団に拉致された国民が、
2020年7月には西アフリカのベナン海域で拉致された船員5人が
無事に救出されました。
コロナの中でも軍用機をイラクに急派し
労働者293人を国内に移送しました。
コロナの拡散が深刻な7つの国では
特別輸送機と軍用機、大統領専用機まで投入し
海外居住民2000人を国内へと安全に移送し、
チャーター機を通じ119か国、4万6000人におよぶ海外居住民を
無事にお連れしました。
3.1運動と臨時政府樹立100周年であった昨年
海外の独立有功者5人の遺骸を故国にお連れしたことも意義深いものです。
自身の尊厳を証明しようとする個人の努力に対しても
国家はかならず応答し
解決方法について共に知恵を集めるべきです。
2005年に4人の強制徴用被害者たちが
日本の徴用企業を相手に
裁判所に損害賠償訴訟を提起し、
2018年大法院(最高裁判所)で勝訴確定判決を受けました。
大法院は1965年日韓請求権協定の有効性を認めながらも
個人の「違法行為賠償請求権」は消滅していないと判断しました。
大法院の判決は
大韓民国の領土の中では最高の法的権威と執行力を持ちます。
政府は司法部の判決を尊重し、
被害者が同意できる円満な解決方案を
日本政府と協議してきましたし、
今なお協議の扉を開け放っています。
私たち政府はいつでも日本政府とテーブルに着く準備ができています。
共に訴訟を起こした3人はすでに故人となり、
一人残った李春植(イ・チュンシク)さんは
昨年日本による輸出規制が始まるや、
「私のために大韓民国が損をするのではないか」とおっしゃいました。
私たちは一人の個人の尊厳を守ることが
国にとって決して損害にはならないという事実を確認するものです。
同時に三権分立に基づく民主主義、
人類の普遍的価値と国際法の原則を守るために
日本と共に努力します。
一人の人権を尊重する日本と韓国、共同の努力が
両国国民の間の友好と未来協力の橋になると信じます。
国民の皆さん、
東大門運動場は解放の歓喜と
南北分断の痛みが共に染みこんだ場所です。
1945年12月19日、
「大韓民国臨時政府凱旋全国歓迎大会」が開かれ、
その日、白凡・金九先生は
「全民族が団結し自主・平等・幸福の新韓国を建設しよう」と呼びかけました。
しかし1949年7月5日、100万の弔問客が集まる中
ふたたびこの場で
私たち国民は金九先生を涙で送らなければいけませんでした。
分断による未完の光復を
統一した韓半島(朝鮮半島)として完成させようとした金九先生の夢は
残された全ての者たちの課題となりました。
真の光復は
平和で安全な統一した韓半島で
一人一人の夢と生活が保障されるものです。
私たちが平和を追求し、南と北の協力を推進するのも
南と北の国民が安全に共に生きるためです。
私たちは家畜伝染病とコロナに対応し、
気象変動による前例のない集中豪雨を経験し
個人の健康と安全が
互いに緊密につながっていることを自覚し、
南と北が声明と安全の共同体であることを繰り返し確認しています。
韓半島で生きていくすべての人々の声明と安全を保障することが
私たちの時代の安全保障であり平和です。
防疫協力と共有河川の共同管理により
南北の軍人たちが平和の恩恵を実質的に体感することを望みます。
保健医療と山林協力、農業技術と品種開発に対する共同研究で
コロナ時代の新たな安保状況により緊密に協力し、
平和共同体、経済共同体と共に
生命共同体を実現するための
相生と平和の口火を切れるよう望みます。
国民の生命と安全のための人道主義的な協力と共に、
死ぬ前に会いたい人に会い、
行きたいところに行けるよう協力することが
実質的な南北協力です。
南北協力こそが南北すべてにおいて
核や軍事力の依存から抜け出させる
最高の安保政策です。
南北間の協力が堅固になるほど
南と北それぞれの安保が堅固になり、
それはすなわち国際社会との協力の中で
繁栄に向かう力となるでしょう。
「板門店宣言」で合意したように
戦争の脅威を恒久的に解消し
先烈たちが夢見た真の光復の土台を作ります。
南北が共同調査と着工式まで進めた鉄道の連結は
未来の南北協力を大陸まで拡張する核心的な動力です。
南北が既に合意した事項を一つ一つ点検し実践しながら
「平和と共同繁栄の朝鮮半島」に向かって進んでいきます。
尊敬する国民の皆さん、
独立有功者と遺家族の皆さん、
海外同胞の皆さん、
国家のために犠牲した時に記憶してくれるだろうという信頼、
災難災害を前に国家が安全を保障してくれるという信頼、
異国の地で苦難を受けても国家が救ってくれるという信頼、
個々人の困難を国家が助けてくれるという信頼、
失敗しても再起できる機会が保障されるという信頼
こうした信頼で
個々人は新しい挑戦をし、困難に耐えています。
国家がこうした信頼に応えるとき
国の光復を超え、個人にも光復が訪れるでしょう。
植民地時代
一人のマラソン選手の汗と恨(ハン)、
解放の喜びと分断の嘆きが共に染みこんでいる
東大門デザインプラザ、歴史の地層の上に
今日、個人の創意性と個性が満開しています。
100年前に始まった民主共和国の道を超え、
個人の自由と平等が溢れる大韓民国に向けて
国民と共に向かいます。
先烈たちが夢見た自主独立の国を超え、
平和と繁栄の統一した韓半島に向けて
国民と共に進みます。
ありがとうございます。

[全訳]
第75周年 光復節 慶祝式 慶祝辞
https://news.yahoo.co.jp/byline/seodaegyo/20200815-00193455/

posted by fom_club at 11:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「トランプ氏のうそや誤解を招く発言が2万回を超えたと報じた」で、日本では?

For more than half an hour on Thursday, President Trump sounded familiar themes at his coronavirus briefing: blasting presumptive Democratic nominee Joe Biden, arguing that the rapidly spreading virus is being effectively managed, and questioning the security of voting by mail.

Then he called on S.V. Dáte, HuffPost’s White House correspondent.

“Mr. President, after three and a half years, do you regret at all, all the lying you’ve done to the American people?” Dáte asked.

Trump looked confused. “What?” he asked.

“All the lying. All the dishonesties,” Dáte repeated.

“That who has done?” Trump asked.

“You have done,” Dáte said.

Trump paused briefly, then called on another reporter without answering.

The blunt exchange quickly went viral on Twitter, garnering millions of views by Friday morning and offering a new chapter in the fraught history of White House correspondents trying to hold Trump publicly accountable for his falsehoods.

As president, Trump has been a prodigious spreader of misinformation. As of July, he’s made more than 20,000 false or misleading claims while in office, according to an ongoing tally by The Washington Post’s Fact Checker. He’s done so at an even greater rate in the last 14 months, tallying an average of 23 claims per day as the nation has been roiled by an impeachment trial and a pandemic.

Trump’s regular falsehoods, combined with long stretches without briefings and the president’s open hostility to the press, have created historic challenges for reporters covering the White House, as The Post’s Paul Farhi has reported.

Dáte, a veteran journalist and author who spent more than three decades at outlets including the Palm Beach Post and the Associated Press before joining HuffPost, has been particularly aggressive in urging his colleagues to push back on Trump’s falsehoods.

In an email to his colleagues last year, Dáte urged journalists to “be more concerned about getting lied to as a matter of course − and the American public getting lied to, through us − than about access.”

“I’ve been in this business more than three decades, and what’s happening now is unprecedented,” Dáte wrote as part of an unsuccessful pitch to become president of the White House Correspondents’ Association. “We are attacked on a near daily basis using Stalinist language. We are called corrupt and dishonest. We are given false information from staff who often know full well that it is false.”

Dáte has also written about the effects of Trump’s misinformation. In a January piece, Dáte called Trump’s repeated falsehoods “exhausting."

“I have never encountered a public official, a candidate for office, a bureaucrat, a defense lawyer or, frankly, an actual criminal who is as regularly and aggressively dishonest as the current president of the United States. And that includes a dozen years covering the Florida legislature,” he wrote then.

The most troubling result, he suggested, was that Trump’s daily misstatements have become so common that they rarely get much attention.
“It is no longer newsworthy that the person leading the world’s most powerful nation, commanding the most destructive arsenal in human history, is untrustworthy to his core,” he wrote.

As for what drove his decision to pose Trump such a direct question about his falsehoods on Thursday, Dáte didn’t immediately respond to a message from The Post. But on Twitter, he suggested that the query had been on his mind for some time.

“For five years I’ve been wanting to ask him that,” Dáte tweeted.


The Washington Post, Aug 14. 2020 at 3:58 pm GMT+9
"Do you regret at all. all the lying upu've done?"

A repoter's blunt question to Trump goes unanswered.

By Tim Elfrink
https://www.washingtonpost.com/nation/2020/08/14/trump-lying-huffpost-date-video/

SV Dáte had waited five long years to ask Donald Trump one question: “Mr President, after three and a half years [of Trump’s presidency], do you regret at all, all the lying you’ve done to the American people?”

Confronted with Dáte’s question at Thursday’s White House briefing, Trump responded with a question of his own. “All the what?” he said.

Dáte: “All the lying, all the dishonesties.”

Trump: “That who has done?”

“You have done,” said Dáte, who is the Huffington Post’s White House correspondent. “Tens of thousan–”, he began to say, before Trump cut him off and called on another journalist, who asked a question about payroll tax.

In July, the Washington Post reported that Trump had told more than 20,000 “false or misleading claims” over the course of his presidency.

Speaking to the Guardian, Dáte said that he asked the question because it was the first time that he had had the chance.

“I don’t know why he called on me, because I’ve tried to ask him before [in March] and he’s cut me off mid-question. Maybe he didn’t recognise me this time,” he said. “You know, he has this group of folks that he normally asks questions of.”

It was Dáte’s turn on White House in press pool, and so he had a prominent seat. “I had always thought that if he ever did call on me, this is the one thing that is really central to his presidency,” he said.

Trump’s lying was the “singular piece of his presidency that will be remembered in 10 years”.

Dáte wasn’t surprised by Trump’s response to the question – ignoring it was always going to be the most likely reaction, he thought.

Asked whether he thought he would be allowed in next time, Dáte said, “Yes, absolutely.”

With the burning question posed, what would he ask if he had another chance?

Given that Trump had failed to respond, it would be: “‘Mr President, you didn’t answer last time. Could you address why you’ve told …’ whatever the number will be by then,” said Dáte.


[video]
Reporter asks Trump: 'Do you regret all your lying?'

The Guardian, Last modified on Fri 14 Aug 2020 10.20 BST
'Do you regret all your lying?' White House reporter's question startles Trump

SV Dáte takes the president to task for repeated untruths but is quickly cut off


By Helen Sullivan
https://www.theguardian.com/us-news/2020/aug/14/do-you-regret-all-your-lying-white-house-reporters-question-startles-trump

・・・「ワシントンポスト紙は7月、トランプ氏のうそや誤解を招く発言が2万回を超えたと報じた。特に過去14カ月間でうその回数が増加しており、1日あたりの平均は23回に上ると分析している。その後、Dáte氏はツイッターに「5年間、彼にこれを尋ねるのを待っていた」と投稿。」
しびれる。で、日本では?・・・

posted by fom_club at 07:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月15日

ドキュメンタリー「はりぼて」

映画『はりぼて』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=Szy88bhwEGg

 先日、メディア各社の取材を受けていた際、ある女性ライターがつぶやいた一言がひっかかっている。

「記者会見って事前に質問を渡しておいて、台本を読み上げるのが普通なのに、この映画の会見はすべてガチンコだから驚きました」

 絶句した。

 記者会見は本来、記者が取材対象者と向き合う真剣勝負の場だ。
 ガチンコが普通で、質問者と答弁者に台本がある方が異常だ。
 すぐに「認識が間違っている」と伝えた。

 彼女は安倍首相や菅官房長官の記者会見を想起したそうだ。
 異常な状況に長く慣らされると、市民の中で異常が正常へと変わっていく。
 しかも、無自覚なままに……

 その怖さを、温和なライターの何気ない一言によって突き付けられた。

富山の腐敗議会は日本の縮図

 富山市議会で起きた議員14人の辞職ドミノとその後4年間を描いたドキュメンタリー映画「はりぼて」を制作した。
 8月16日から全国で順次公開される。

 この映画は、2016年に制作した番組「はりぼて~腐敗議会と記者たちの攻防~」の続編にあたる。
 当時、自民党1強体制の富山市議会では、政務活動費の不正取得が横行。
 国内最小規模の民放局、チューリップテレビの記者たちがその不正を追及し、議会と当局の「はりぼて」を浮き彫りにした。

 あれから4年。
 市議会には「日本一厳しい」政務活動費のルールが導入された。
「議会改革の成果だ」と胸を張る議員たち。
 だが、4年前と同様の不正が発覚しても、毅然として、誰も職を辞さなくなった。

 映画が活写するのは、議会と当局の姿だけではない。
 それらを許し、受け入れてきた市民とメディアを含む4年間の実相。
 ひいては、この国の縮図だ。

ドキュメンタリーをコメディーにした理由

 こんな説明をすると、硬派なドキュメンタリーをイメージする人が多いかもしれない。
 実はコメディーとして作った映画だ。
 笑い7割、シリアス3割。
 老若男女問わず作品の世界観に入り込めるよう、エンターテインメントの要素をふんだんに盛り込んだ。
 調査報道とエンタメの融合。
 ナンセンスとも思える構成にしたのは、記者と権力側のやりとりが純粋に面白いからだ。
 記者会見とぶら下がり取材が舞台のガチンコ勝負。
 そこに予定調和など入り込む余地はなかった。
 記者の追及をのらりくらりかわそうとする議員たち。
 すっとぼけてみたり、すごんでみたり、妙に優しくなってみたり。
 時に、年齢が親子ほど離れた議員と記者が対峙する。

 忍法七変化を操るかのごときセンセイに対し、記者は淡々と質問を重ね、詰めていく。
 強情なセンセイは気づいたら忍法など捨てて、自分の子には恥ずかしくて言えないような抗弁まで繰り出し、言い逃れを図る。
 その攻防をカメラはじっと見つめている。残酷なまでに本質が映し出される。
 はりぼてだ。

 ただ、不正をした議員や情報漏洩に絡んだ職員を単純な悪者としては描きたくなかった。
 いや、描けなかった。
 彼らの言い逃れを見ていると、どこか憎めないところがあるのだ。
 実際に取材をしても画面を通しても感じる、彼らの人間臭さと弱さ。血税の着服という、あってはならないことをしているのは確かだ。
 しかし、憎みきれない関係性のなかで彼らを取材してきたことを含め、腐敗を許してきた責任が自分たちメディアにもあるという視点ははずせなかった。
 要は複雑なのだ。

 記者は聖人君主やヒーローではないし、誰にも言えない闇を抱えていたりもする。
 不正をした議員だって、家庭や地域では気のよい誠実なおじさんだ。
 多面性がある。
 でも、総じてテレビは、正の側面をそぎ落としては負を強調し、負の側面をそぎ落としては正を強調する。
「善悪二元論」で世の問題を切り取ってきた。
 白黒はっきりさせたり、落としどころを用意したり、複雑な事象を単純な構図に落とし込んできた。
 見る側にとっては、明快だし、悩まないし、飲み込みやすい。
 でも、視聴者は気づいているはずだ。
「世の中はもっと複雑だし、そんな単純なものばかりでない」と。
 もちろん、いたずらに分かりにくくする必要はない。
 ただ、真に複雑なものを無理に単純化することで、失われ、歪められてきたものがあるのではないか。
 危機感が映画の表現につながっている。
 コメディーにした理由はそこにある。

 巷に溢れる刹那的に消費される笑いではなく、見る人の心にじわじわ突き刺さり、憤っていく。
 追い求めた笑いだ。
 議員や当局側を「悪」、記者を「善」として描けば、見た人は溜飲を下げやすいだろう。
 でも違う。
 表層ではなく深いところまで見て、感じて、考えてほしい。
 言葉で簡単に表現できないから、映像で表現する価値がある。

戦後の民主主義を歪めた議員と市民の相関関係

 映画のもとになった番組には、「腐敗議会と記者たちの攻防」というサブタイトルがあった。
 当時、「はりぼて」の矛先は議会と当局だった。
 4年が経ちサブタイトルをはずした。
 市民とメディアにも矛先を向けたのだ。

 議会の腐敗を招いた一因に、議員と市民の相関関係があると考えている。

 長年、地方議員は本来の「市民代表」ではなく「地域代表」として役割を担ってきた。
 道路や公園整備に公民館建設、通学路の危険箇所改善など、地域住民の要望を聞いては当局に投げかけて実現させる。
 いわゆる御用聞きだ。

 それ自体何の問題もない。
 地域の声を政策提案につなげるのは議員の大切な仕事だ。

 ただ、そこには市全体を俯瞰するという重要な視点が欠けている。
 極論を言うと、ある地域にとって不都合なことでも市全体として価値ある政策ならば、議員は積極的に提案すべきだし、地域住民も支持すべきだ。

 でも、実際はそうなっていない。議員は地域の顔色を窺うだけの御用聞きに徹し、市民もそうした議員を求める。自分たちの地域だけ恵まれればよい。
 偏狭な発想に議員も市民もからめとられている。

 いびつな相関関係の帰結が、不正を認めても辞めない議員であり、不正議員を簡単に許してしまう市民だ。
 議員が辞めないのは、不正をしても地域住民が支持してくれるから。
 市民が許すのは、不正をしても地域に貢献してくれる議員だから。
 そんな屁理屈によって、戦後日本の民主主義が支えられてきたのだとすれば……悲喜劇だ。

 そして今、何が起きているのか。
 75年の歳月を経て地域に深く根をはった歪んだ民主主義。
 映画でも描いたこの「はりぼて」に、市民とメディアはもう無関心でいられないはずだ。

 奇しくもコロナ禍の政権迷走だ。
 歪んだ民主主義に慣らされた先に何が待っていたかを多くの国民が体感した。
 市民の無関心はさらなる腐敗を生む。
 メディアの責任は重い。

安全地帯にとどまる組織ジャーナリズム

 映画「はりぼて」の製作はチューリップテレビだが、監督の私は今、他県の放送局に籍を置いている。
 会社を去る決意をしたのち映画の製作が始まり、完成を見届けて退職した。
 裏切り者だ。
 業界の大先輩からは苦言を呈された。

「お前は移籍したからいいかもしれない。でも、残った人間を守るために違う表現を選ぶべきではなかったのか」

 返す言葉がなかった。
 でも、賛否を呼ぶことを承知で選んだ表現だ。
 あらゆる評価を逃げずに受け止める。それが、公開の実現に奔走したスタッフと公開を認めてくれたチューリップテレビに対する責務だと思う。

 作品は調査報道をベースにしているが、権力追及型のドキュメンタリーにありがちな成果を誇示するものにはしたくなかった。
 おのずと自分たちにも矛先を向けた。

 4年を経ても本質的に変わらない議会と、無関心であり続ける市民。
 それらを前に味わった無力感。
 組織ジャーナリズムにおける矛盾や葛藤。
 これまでテレビが忌避してきた要素を入れ込んだ。私が仲間に退職を告げるシーンもはずさなかった。

 高まるメディア不信の根源は、組織に守られた記者たちが安全地帯だけで取材をしていることにあるのではないか。
 リスクを取らず火の粉をかぶらない。
 一般企業なら褒められた処世術かもしれない。

 だが、記者は社会的使命を負った報道機関に属する。
 社内外の権力の顔色ばかり窺い、忖度し、聞くべきことを聞かない。
 そして、元来ガチンコの会見がいつしか予定調和になり、記者も市民も慣らされていく。

 地方と中央では記者が受けるプレッシャーは質量ともに比べものにならないと思う。
 一筋縄でいかないのも想像できる。
 かといって、使命を放棄する理由にはならない。
 市民は見ている。
 見極めようとしている。
 市民目線の監視者なのか。
 本物のメディアなのか。
 私たちは覚悟を示さねばならなかった。


[写真‐1]
不正発覚後の選挙で支援者に土下座をする長老議員(映画「はりぼて」から)

[写真‐2]
情報漏洩を認め謝罪する富山市教育委員会(映画「はりぼて」から)

[写真‐3]
不正を追及する砂沢智史監督(左)と五百旗頭幸男監督(映画「はりぼて」から)

Web論座、2020年08月15日
「はりぼて」に支配された国/調査報道×コメディーで描く政治・市民・メディアの正体
8.16公開!富山市議会の不正を暴いたドキュメンタリー映画監督の秘めた思い

(五百旗頭幸男、ドキュメンタリー映画監督)
https://webronza.asahi.com/national/articles/2020081400003.html

 2016年に発覚した富山市議会の腐敗構造を描いたドキュメンタリー映画「はりぼて」が8月16日から、東京・渋谷のユーロスペースで公開される。
 市議14人のドミノ辞職のきっかけを作ったローカル局、チューリップテレビが不正を追及する姿勢を扱った。
 作品では4年経ても実態は変わらない政治風土を疑問視するとともに、監督を務めた2人の記者が直面した衝撃の展開も包み隠さず盛り込んでいる。 

 監督は、キャスターも務めていた五百旗頭(いおきべ)幸男(42)と、砂沢智史(さとし)(40)の二記者。
 同局は情報公開請求で得た約一万枚の資料を基に、実態のない市政報告会や政務活動費の架空請求などの存在を突き止め、市議にマイクを向けて真実を問いただす。
 カメラの前でのらりくらりとうそや言い逃れを繰り返す市議たち。
 だが、最後は不正を認めてあっけなく辞職−。
 痛快だが、どこか滑稽にも映る。

「コテコテの権力追及より、コメディーのつもりで作った」

 映画を発案した五百旗頭監督は皮肉まじりに話す。
 発覚から4年、このタイミングでの映画化については、その後に同様の不正が明らかになっても、市議たちが辞めなくなった点を示す。

何も変わらない市議会に加え、それを許してきた市民やメディアを含めて『はりぼて』として描きたかった

 一連の取材をリードした砂沢監督も「今度こそ古い政治風土を変えるきっかけにしたかった」と狙いを語る。


[写真]
五百旗頭幸男監督(左)と砂沢智史監督=東京都港区で

東京新聞、2020年8月13日 07時28分
腐敗政治に挑んだ富山の地方局
ドキュメンタリー「はりぼて」16日公開

(藤原哲也)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/48698

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一億総玉砕みたいなことを、たったの十数人で決められるのはいや

 Go Toについて書いておきたい。
 7月16日午後6時の執筆時点では、東京を対象外とする方針が固められたようだ。
 とすれば、Go Toトラベルキャンペーンが、国の施策として動きはじめようとしているいまのうちに、その決定の経緯と現時点での反響を記録しておく必要がある。このタイミングを逃すと
「お国が引っ込めた施策について、いつまでもグダグダと言いがかりをつけるのは、あまりにも党派的な思惑にとらわれたやりざまなのではないか」
「世論の動向にいち早く反応して、一旦は動き出した政策を素早く見直す決断を下した安倍政権の機敏さを評価しようともせずに、死んだ犬の疱瘡の痕を数えるみたいな調子で撤回済みのプランを蒸し返してあげつらっているパヨク人士の叫び声が必死すぎて草」
てな調子で、検証作業そのものが、要らぬ非難を招くことになる。

 でなくても、いったいに、現政権は、検証ということをしない。
 彼らは、森友案件を踏み消して以来、自分たちの失策や見込み違いを
「過ぎたこと」
「終わった話」
として下水に流し去る自分たちの処理手法に自信を抱いている。

 どんなにひどい不祥事や不品行があっても、とにかく知らん顔をして時間が経過するのを待っていれば、じきに国民は忘れてしまう、と、そうタカをくくっているのだろう。で、実際、われら善良なる国民は、次から次へとやってくる新しい話題に、順次目を奪われ、毎度気をとられながら、順調に古い話を忘れては、今朝もまたまっさらになった新鮮なアタマで、ワイドショーの画面に出てくる眠そうな落語家の顔を眺めている。
 いまとなっては、「桜を見る会」の話題すら持ち出しにくい。

「ああ、桜ね。もう古いんだよなあ」
と、政治部の記者さんたちにしてからが、ファッション誌のフロントページ企画担当みたいな口調で、古い記事をネグレクトしにかかっている。

「だって、数字獲れないでしょ? 桜じゃ」
と。

 了解。きみたちの魂胆はよくわかった。せめてページビューを稼げるうちに話題にしておこう、と、そんなわけなので、今回は全力をあげてGo Toをほじくり返しに行く所存だ。
 不思議なのは、国交省が素案を持ち出すや、各方面から異論が噴出して止まなかった、このどうにもスジの悪い田舎クーポン作戦を、政権中枢の人々が、これまでどうして延期することができなかったのかだ。
 全国の新型コロナウイルス感染者数が再び増加に転じたかに見えるこの二週間ほどの世間の空気を感じていれば、少なくとも実施時期をひと月かそこいら後ろにズラすのは、そんなに素っ頓狂な決断ではない。
 というよりも、すんなり延期なり中止なりを発表していれば、ほとんどすべての国民は、政府の英断を歓迎していたはずだ。こんなことは、私のようなド素人が言うまでもなく、さまざまな分野の専門家や有識者の皆さんが、ずっと以前から、口を酸っぱくして繰り返していたお話だ。

「キャンペーンそのものの当否はともかく、いまやることじゃありませんね」
「百歩譲って、旅行業者の窮状を救う必要があるのだとしても、こんなまわりくどい方法を採用する意味がわからない」
「ただでさえ給付金業務の事務委託費を電通に丸投げにしている件が炎上しているさなかで、同じように痛くない腹をさぐられかねない膨大な事務費のかかるキャンペーンを強行する意図は那辺にあるのか」
「ものには優先順位がある。医療崩壊の危機に瀕している医療・保健行政の現場や、先日来の水害で今日住む場所にさえ困窮している被災地を差し置いて、旅行業者の救済を優先する政府の姿勢には、強い利権の影響を感じる」
「そもそも、第二波の到来が強く疑われる状況下で、国民に旅行を促す姿勢自体が不見識だし、感染予防の観点からも到底承服しかねる」
「全国旅行業協会(ANTA)の会長の座にある人間が、自民党幹事長の二階俊博氏であることは、誰もが知っている事実だ。とすれば、このGo Toトラベルなる観光支援施策自体が、ためにする利益誘導と思われても仕方がないわけで、李下に冠を正さずという観点からも、いまこの時にこんなスジの悪い政策を強行する必然性は皆無ではないのか」
と、代表的な反対意見を並べてみただけでも、このキャンペーンの悪評ふんぷんぶりは明らかだ。事実、私自身、Go Toトラベルのキャンペーンに積極的に賛成している人間を一人も見たことがない。

 賛成意見も、
「いまさら中止できない」
「どっちみち感染拡大が止められないのなら、せめて経済を回しながら感染拡大と対峙する方が現実的なのではないか」
「コロナで亡くなるのはご老人だけで、してみると、若干のタイムラグが出るだけで、この数年をトータルした死亡者数ということなら結局は同じことなのだから、どんどん経済を回す方が良い」
といった感じのヤケッパチなご意見に限られている。

 なお、最後にご紹介した意見は、「癌患者専門の在宅緩和ケア医」を名乗るアカウントがツイッター上に発信していたものだ。
 念のためにより詳しく書かれたバージョンをご紹介すると
《スウェーデン方式だと亡くなりそうな高齢者が予定より数年早く亡くなる。自粛方式だと、亡くなりそうな高齢者を自粛期間の分だけ、延命出来る。キャリーオーバー作戦。数年たてば、総死亡者数はどちらも変わらない。経済損失は雲泥の差になる。高齢者の皆さん、死にそうな人が亡くなるだけですよ。》
という文言になる。

 特定個人の発言をあげつらうことは、当稿の趣旨にそぐわない。なので投稿主を特定できる形でツイートをまるごと引用することはせずにおく。
 とはいえ、医師を名乗るアカウント(←真偽はともかくとして)が、この時期に、こういう見解を拡散していることを、軽視して良いとは思っていない。

「数年たてば、総死亡者数は変わらない」
というこの論法は、「医療」という営為を、かなり根本的な次元で否定し去っていると申し上げなければならない。
「数年」を「数十年」に変えれば、
「数十年たてば、医者にかかろうがかかるまいが、総死亡者数は変わらない」
という話になる。
 とすると、医療は、延命のためにかかるコストと、コストに見合う延命効果を両睨みにした、コスト&ベネフィットを勘案すべき事案に還元される。
 注目せねばならないのは、このアカウントが「亡くなりそうな高齢者を自粛期間の分だけ延命する」ことの価値を、自粛によって生じる「経済的損失」よりも低く見ている点だ。
 つまり、この人物にとって、「価値の低い生命の延命」は、「経済的な利益の最大化」よりも、優先順位として低いわけだ。
 でなくても、このお話は、個々の生命に価値の優劣を設定して、その優劣に値札を付けないと、医療現場における「有意義な延命」と「無価値な延命」を区別できない、というお話に発展せざるを得ない。

 さらにおそろしいのは、最後に添えられた
「死にそうな人が亡くなるだけですよ」
という一見クールに(あるいは専門家っぽく)聞こえる断言が、命の選別を前提としている点だ。

 この人は、人間を「死にそうな人」と「死にそうでない人」に分類したうえで、前者の命は救うに値しないということを暗に述べている。
 しかも、そういう冷徹な判断ができるオレって素敵(たぶん)と考えている。医者の中二病は、まことに度し難い。
 この思想は、優生思想のど真ん中ともいうべき考え方で、この考えの持ち主は、結局のところ人間の生命を「生産に寄与する生命」と「生産に寄与しない生命」に分類して、前者の延命に医療資源の投入を集中することによって、より効率的な社会が実現すると信じていたりする。
 私自身、高齢でもあれば基礎疾患を複数かかえている患者でもある。
 仮に、私が、自分の生命の価値をこの医師の判定に委ねたのであれば
「10年に満たない余命を、高額な医療費の継続的な投入を前提に延命させるべきであるのかを問われるのであれば、ここは、不要と判断せざるを得ない」
てな調子のお墨付きを頂戴することになるはずだ。その自信はある。

 せっかくなので、5月に発信したツイートを紹介しておく。
《医師を名乗るアカウントの中に、わりと無視できない確率で、明らかなレイシストや、優生思想を留保なく肯定する人間が含まれているのは、しみじみと恐ろしいことだと思っています。2020年5月29日午後11時45分》

「医」という文字でアカウント検索をして、ひととおり見回してもらえば、ご理解いただけると思う。どっちにしても、医師を名乗るアカウントの言葉をうっかり鵜呑みにするのは得策でないケースが多い。私はそう思っている。

 安倍首相は、14日、官邸に集まった記者団に向けて
《−略− 現下の感染状況を高い緊張感を持って注視している》
点を強調したうえで、あわせて
《単なる観光需要回復対策ではなく、『ウィズコロナ』における安全で安心な新しい旅のスタイルを普及定着させることも重要な目的だ》
という旨の言葉を述べている。

 私は、この首相の言葉の空疎さ(←「くうそ」は、「くそ」と「うそ」から出来ているのだそうですね)にちょっと驚いた。
 なんというのか、成績の良くない学生が持ち出してくる卒論の仮テーマのようでもあれば、広告代理店の新米が市の観光課に持ち込んだ町おこしキャンペーンのラフ案みたいでもある。
 現政権発足以来の変わらぬ特徴は、持ち出してくる施策やスローガンのいちいちが、どうにも広告屋のプレゼンくさい点にある。それも、有能な広告マンによる秀逸な広告文案ではなくて、代理店ワナビーの大学生が仲間うちの宴会で得意になって振り回している感じの、恥ずかしくも不思議大好きなバブル臭横溢の安ピカ自足コピー塾だったりする。
「人生再設計」
「一億総活躍」
「人づくり革命」
「働き方改革」
「みんなにチャンス!構想」
「3年間抱っこし放題」
と来て、その先に
「Go Toトラベルキャンペーン」
がある。
 そう思ってみると、Go Toの行き先はまるで見えない。
 誰かが、「広告代理店内閣」ということを言っていた。
 私は、その見解に賛同する。
 ほかの誰かは「ヤンキー内閣」、「ヤンキー政権」と言っている。
 そのご意見にも全面的に同意する。
 彼らは、仲間うちで威勢の良いことを言い合ってはデカい声で笑ってばかりいるバーベキューのメンバーみたいな人たちに見える。
 隊員は焼きはじめた食材を焦げるまで裏返せない。
 アベノマスクにしても、引き返すタイミングは、少なくとも3回はあったはずなのに、結局強行してしまった。
 で、ごらんの通りの赤っ恥を晒している。
 今回のGo Toも同様だ。
 たしかに、最初からバカなプランではあった。
 でも、途中で見直すなり延期するなり修正してれば、これほどまでにバカなインパール事案にはなっていない。
 進軍前に撤退したのであれば、大手柄だったと言ってさしあげても良い。
 政府でも企業でも広告代理店でも、ラフ案の段階でダメなプランが出てくることはよくある話だ。私のような原稿書きにしたところで、いきなりの第一稿は読めたものじゃなかったりする。

 ただ、仕事は、少しずつ改善しながら進められるものだ。別の言い方をするなら、改善の過程こそが仕事というものの本体なのである。
 ラフ案を叩いてマトモなキャッチコピーに仕上げて行く過程は、官僚の仕事でも政治家の仕事でもそんなに変わらない。
 間違っていたら直せば良いのだし、的外れだったら撤回すれば良い。それだけの話だ。
 しかし、現政権のメンバーは、なぜなのか、それができない。
 走り出したがさいご、止まることができない。
 なぜか。

 以下、私の個人的な見解に過ぎないことをお断りしたうえで、その原因として思い当たるところを申し上げる。
 安倍内閣の人たちが、バカな第一案を改めることができず、愚かな施策を途中で撤回できず、みっともない発言を修正できないのは、つまるところ、彼らがマッチョだからだ。さよう。謝ったり引き返したり軌道修正したり白紙撤回したりテヘペロしたりすることは、男としてできないのだね。なぜかって? 男として半端だからだよ。
 ちょっと前に、ツイッターのタイムライン上で、
「新自由主義とネポティズム(縁故主義)は、本来は正反対の理念であるはずなのだが、その実、なぜなのかわりと相性が良い。その証拠に維新と現政権は微妙にツルんでいるではないか」
という感じの話の流れで、「ガキ」「任侠」「マッチョ」「ホモソーシャル」「サル山独裁」「反知性主義」あたりの単語が話題にのぼったことがある。

 この時、
《ガキは基本的に任侠が大好きです。ジャン・ジュネは「泥棒日記」の中で「やくざは要するに子供なのだ」と言っています。飯干晃一も「やくざは男の理念形だ」と喝破しています。つまりヤー公というのは小学4年生段階の仲間とツルんでる時代から成長しない男たちの由なのですね。 2020年7月11日午後5時32分》
《小学生男子の集団は、非力な子供だから無害なだけで集団力学的にはモロなやくざ組織です。もっとも、ほどんどのガキは地域から離れて、いずれ孤独な男として成熟します。例外はジモティーの人間関係から外に出られないヤンキー連中で、彼らは成熟しません。で、やくざか、でなければJCになります。2020年7月11日午後5時42分》
という2つのツイートを発信したところ、早速
「幼少期に壮絶なイジメ体験でもあるの?」
「小田嶋っていじめられっこだったんだろうなぁw」
というリプライが寄せられた。

 ごらんの通り、ネット社会では、伝統的に「いじめ被害体験」が「恥辱」「黒歴史」として、「人に言えない恥ずかしい過去」に分類されている一方で、「いじめ加害体験」は「スクールカースト上位者であったことの証」「仲間の多い魅力的な子供であったことの証明」として、もっぱら「武勇伝」「自慢話」の文脈で語られることになっている。

 唐突に聞こえるかもしれないが、私は、現政権のメンバーが、いずれも、謝罪・軌道修正・戦術的撤退のできない、極めて硬直的な人物に限られていることの理由は、現政権が、つまるところ、スクールカーストの延長上に形成されたヤンキー集団だからなのだと考えている。

 ホモソーシャルのサル山で暮らすマッチョが、なにより避けたいと願っているのは、自分の体面が失われる場面だ。
 彼らは、誰かにアタマを下げたり、自分の非を認めたり、前言を撤回したり、方針を変更したりすることを、自分の男としての体面を台無しにする、最悪の事態と考えている。
 であるから、間違っていても、足元に穴が開いていても、不利益をこうむることになっても、簡単には非を認めないし、謝ろうともしない。
 これも唐突な話に聞こえるかもしれないが、私は、たとえば、閣議のメンバーに女性が半数いれば、おそらくこういうことにはならないと思っている。
 たとえ、閣議に招集される女性閣僚のメンバーが自民党の「オンナのオッサン」みたいな女性議員ばかりであっても、女性が半分混じっている会議は、男ばかりの会議とはまるで違う展開をする。そういうことになっている。だから
「そうですね。たしかにGo Toをいま強行するのは無茶かもしれない」
「じゃあ、とりあえず一カ月延期することにして、その間に細部をもう少し考え直して再出発しましょう」
と、なんということもなく延期の決断ができたと思う。

 男だけの集団では、その簡単な決断ができない。
「オレの顔をツブすのか?」
「いや、そんなことでは……」
「でも、延期なんてことになったら、各方面に謝罪行脚をすることになるのはオレだぞ。それをおまえたちはオレにやれというのか?」
てな調子の、メンツの問題が持ち上がるからだ。
 私にもおぼえがある。
 とにかく、男が10人以上集まって何かを決める話になると、話は、プランの妥当性より会議参加者のメンツの問題、ないしはサル山メンバー相互のマウントの取り合いの話になる。必ずそうなる。
 現政権は、特にその傾向が強い。

 もうひとつ指摘しておきたいのは、男の子(いっそ「クソガキ」という言葉を使っても良い)の集団が何かを決める段になると、いつしか、焦点は「度胸比べ」に落着するということだ。
 ホモソの会議では、「妥当な案」や、「穏当なプラン」よりも、「冒険的な結論」や、「男らしいチャレンジ」に人気が集まる。
「なにビビってんだよw」
とつっこまれそうな意見は、そもそも持ち出すことさえはばかられる。
 むしろ、
「そんな思い切ったこと言って大丈夫ですか」
みたいなあおり意見が無言の尊敬を集めるわけです。
 そういう意味で、
「どっちにしたってある程度の感染は防げないわけだから、そこんとこは目ぇつぶって、ひとつ経済をバンバン回す方向で行こうじゃないか」
「そうだとも、長い目で見れば、そっちの方が人の命を救うことになる」
「勇気だよ勇気」
「そうだよな。ほっといても死ぬような年寄りが一年か二年早くくたばることを恐れて、経済をシュリンクさせたら、それこそ将来を担う若者や子供たちが中長期的に死ぬことになる」
「おっしゃる通りですね先生。政治家は時には臆病な国民が目を向けないところに向けて断を下さないといけない」
「オレはこの政策にクビをかけるつもりでいるよ」
「オレもコワいものはない」
って、これ、出入り前の反社会勢力の決起集会みたいだけど、昨今の閣議って、たぶんこんな空気なんだと思う。

 一億総玉砕みたいなことを、たったの十数人で決められるのはいやだなあ。
 だから、私は思いっきりビビった意見を繰り返しておくことにします。
 ぼくは死にたくないです。
 望むことはそれだけです。


日経ビジネス、2020年7月17日
私たちはどこへ行くのか
(文・イラスト/小田嶋 隆)
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00079/

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恐ろしいのは、彼らの自己評価の高さ

 8月4日の午後、大阪市内で一風変わった記者会見が行われた。

 会見の冒頭で吉村洋文大阪府知事は、
「うそみたいな本当の話をさせていただきたい。ポビドンヨードを使ったうがい薬、目の前に複数種類ありますが、このうがい薬を使って、うがいをすることでコロナの陽性者が減っていく。薬事法上、効能を言うわけにはいきませんが、コロナに効くのではないかという研究が出たので紹介し、府民への呼びかけをさせていただきたい」
と切り出した。

 びっくり仰天だ。
 専門医でもない人間が、コロナ対策として市販薬の使用を推薦する行為は、「軽率」という言葉だけでは足りない。
 明らかな情報かく乱であり、うっかりすると風説の流布になりかねない。

 案の定、ドラッグストアの店頭からは、うがい薬が消え、ネット上のオークションサイトには、早速、違法な転売品が展示される流れになっている。

 そういうことをすればこういうことになることは、小学生にだってわかる。
 それをどうして知事がやらかすのか。
 スタンドプレーにしても有害すぎる。

 なにより解せないのは、一介のド素人にすぎない自治体の首長が、必死になって頭を絞っている世界中の医療従事者や研究者を出し抜いて、いち早く革命的な新型コロナ対策を打ち出せると考えたその思い上がりだ。
 吉村知事はどうしてそこまで自らの能力を過大に見積もることができたのだろうか。

 医療や薬品について、まるっきりのド素人である点に関しては、私も吉村知事とそんなに変わらない。

 ただ、私は、自分の無知を自覚している。
 であるから、まさか自分が、世界に先駆けて、新型コロナウイルスに打ち勝つ方法を発見できるとはまるで思っていないし、仮に身近にいる医者がそんな調子の情報を耳打ちしてきたのだとしても、いきなり鵜呑み(うのみ)にはしない。
 必ず別の専門家のダブルチェックを受ける。
 当然だ。
 政治家でもなんでもない、いちコラムニストでさえこの程度はわきまえている。

 ところが、府民の命をあずかる役割を担っている知事閣下はといえば、「ポビドンヨードのうがい薬を使うことで、このコロナにある意味、打ち勝てるんではないかとすら思っている」てなことを断言してしまっている。

 当然の展開だが、この日の知事の会見は瞬く間に炎上した。

 で、翌日の8月5日になって、知事は、前言をやや後退させて、うがい薬が「予防薬でも治療薬でもない」旨を認めつつ「転売は犯罪行為だ。やめてください」などと訴えたりなどしているわけなのだが、うがい薬の使用を推奨する旨そのものは撤回していない。

 松井一郎大阪市長がいきなり持ち出してきた雨合羽の案件(医療用の防護服の代わりに市販の雨合羽を集めるプラン→使い物になりませんでした)といい、いったい、大阪維新の会の政治家は、COVID-19という全世界的な災厄を、どこまで甘く見ているのだろうか。

 問題は、大阪府知事ならびに大阪市長の科学リテラシーの低さ、ではない。
 科学リテラシーの低さなら私だって負けていない。

 恐ろしいのは、彼らの自己評価の高さだ。

 あまりの高さっぷりに押されて、一般市民がそれをうのみにしてしまっている。
 いや、そのうのみにしてしまうところこそ、真に恐れるべきなのかもしれないが。


日経ビジネス、2020年8月14日
うそみたいな話をうのみする
(小田嶋 隆)
https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00106/00077/

 吉村洋文・大阪府知事が会見で「ウソみたいな本当の話」と切り出し、コロナ対策の一環でポビドンヨードを含むうがい薬を積極的に使うよう呼び掛けてから、8月11日で1週間が経過した。
 いまだにドラッグストアではうがい薬が品薄状態。
 すっかり世間では「お騒がせ知事」と酷評される吉村府知事だが、ここへきて「お騒がせ」では済まされない疑惑が浮上した。
 吉村府知事が会見前に情報漏洩し、不当に株を売買する「インサイダー取引」を招いた、との疑念が湧き上がっているのだ。

 9日の情報番組「サンデー・ジャポン」(TBS系)で、演出家のテリー伊藤(70)が、吉村府知事の問題の会見を生中継した4日の「ミヤネ屋」(読売テレビ制作・日本テレビ系)に出演していたことを明かした上で、こう話した。

「(発表内容を会見の)1時間半ぐらい前に知ったんです」
「場合によっては、薬メーカーの株価も変えるなって、一瞬頭に入った」
「でもね、やめたんです。インサイダー取引みたいな感じで、僕の立場でそれをやるのは申し訳ないなと思って、やらなかった」

 番組では笑いが起こっただけだったが、SNSでは大きな波紋が広がっている。

〈(大阪府市は)事前に一般人にイソジン情報漏らしているじゃないか。これ大事件だぞ〉
〈相当数の人がインサイダー取引に着手している可能性があると思いますが〉
と炎上中なのだ。

 吉村府知事は4日、会見で「(ポビドンヨード研究は)一部の幹部しか知らない」と発言したが、府市とは無関係の人物に、情報が漏れていたわけだ。

 金融商品取引法は、「会社関係者」が業務等に関する重要事実の公表前に、当該上場会社等の株式の売買などを行ってはならない、また、事実公表前に当該情報の「受領者」による当該会社等の株式売買などを禁じている。
 吉村発言を事前に知った人物が関連株を購入していれば、抵触する恐れがある。
 テリーは踏みとどまったが、飛びついた人物がいたなら問題だ。

専門家も指摘

 実は、吉村府知事の会見当日の関連株の値動きがどうも不自然なのだ。
 4日午後2時すぎの会見より前に急上昇した銘柄がある。
 イソジンを国内で扱う「塩野義製薬」は、4日午前9時、6006円で寄り付き、約50分後に6216円にまで高騰。
 製薬大手「日医工」も前場開始直後の1238円が約50分で1266円まで上昇した。
「明治HD」は、取引開始直後からじわじわと右肩上がり。会見直後には年初来高値の8990円を付けた。

 府内の6000人超の医師で構成する「大阪府保険医協会」は〈インサイダーを疑う声が出ても仕方がない〉と指摘していたが、本当に吉村府知事は不当な株価操作に関与してしまったのか。
 株式評論家の杉村富生氏はこうみる。 

「4日朝からの株価上昇は不自然かもしれませんが、塩野義がコロナワクチンを開発するなど、3銘柄には買い材料がありました。しかし、ポビドンヨードに効果がないのに、知事が効果があるかのように呼びかけ、マーケットを混乱させたのは事実。知事は『風説の流布』や『株価操縦』を指摘されても仕方ありません。公表情報を事前に把握し、関連株の短期売買で利益を得た人がいたのなら極めて大きな問題。一般的に見て、当局による調査の対象になってもおかしくはないでしょう」

 どんな経緯で会見を開き、誰が事前に内容を把握していたのか――。
 吉村府知事は説明すべきだ。


日刊ゲンダイ、2020/08/11 16:46
うがい薬で株価操縦か
吉村府知事にインサイダー疑惑浮上

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/money/277127/

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誰が「吉村洋文」をつくったか

「嘘みたいな本当の話」と、新型コロナウイルス対策にポビドンヨード入りうがい薬を推奨した吉村洋文・大阪府知事の記者会見(8月4日)から10日余り。
「コロナの陽性者が減っていく」「ある意味、コロナに打ち勝てる」とぶち上げた発言に対しては、既に多くの批判がなされている。

 医学的根拠の薄弱さ、研究初期段階での発表、買い占めの誘発。
 さらには、製薬会社の株価をつり上げるインサイダー取引ではないかという疑惑も浮上し、吉村氏は名誉棄損訴訟をちらつかせて打ち消しに躍起だ。

 発言内容への評価はとりあえず措く。
 ここでは、吉村氏の「発信力」について考えてみたい。
 彼はどのようにして注目を集めるのか。
 一連のコロナ対応で、何を意図して情報発信してきたか。
 それを通して、「新型コロナ対応で最も評価する政治家」(毎日新聞の世論調査)となった吉村氏の政治手法、在阪局をはじめとするテレビとの関係、そして、今も関係が深い元府知事で日本維新の会の創設者、橋下徹氏の影響と類似性が見えてくる。

都構想へ「起死回生の一手」が暗転

 コロナ対応における吉村知事と松井一郎・大阪市長の発表は、しばしば唐突に行われる。
 3月の三連休前に打ち出した「大阪・兵庫間の往来自粛」も、医療用防護服の代替品として市民に提供を呼びかけた4月の「雨合羽募集」も、テレビの番組中や記者の前でいきなり発表され、府庁・市役所の職員や関係機関は何も聞かされていなかった。

「トップダウン」「スピード感」と言えば聞こえはいいが、職員から見れば、「現場軽視のパフォーマンス」「調整不足の思いつき」となる。

 市役所に33万枚も集まった「善意の雨合羽」は、その仕分け作業のために連日数十人の職員が駆り出された。
 どうにか仕分けが済んでも提供先がなかなか見つからず、保管場所もない。
 仕方なく玄関ホールや各階の通路に大量の箱を積んでいたら、市の火災予防条例に違反していると市民から指摘された。
 雨合羽のような合成樹脂製品は一カ所で大量保管する場合、市消防局への届け出を義務づけられているが、それを怠っていたのである。

 その後、別の場所に移され、学校や福祉施設にも、ほとんど押し付け同然で配られたというが、当初の目的通り、医療機関へ送られたのは半分以下。
 現場軽視のパフォーマンスが招いた喜劇のような混乱ぶりだった。

 うがい薬の発表も似たような経緯がある。
 8月4日の吉村・松井両氏の共同会見はそもそも、大阪・ミナミの飲食店に同6日から20日まで営業自粛や時間短縮を要請するのに伴い、府と市で協力金(休業補償)を支払うと発表する目的で設定された。
 実際、前半の約1時間はその話をしている。

 ところが会見には、当日に急遽追加された第2部があった。
「大阪はびきの医療センター」の松山晃文・次世代創薬創生センター長らが加わり、机上に市販のうがい薬を並べた会見は、ほぼすべての府職員にとって寝耳に水だった。

「予定外の会見に驚きましたが、内容を聞いて、さらに驚いた。勇み足なうえ、コロナ対策の本質を外れている。吉村バブルもこれで終わりだと、正直思いましたね」と府庁関係者は言う。

 在阪メディアの記者たちにも聞いたところ、あの発表は「起死回生の一手」だったようだ。
 というのも、吉村知事の人気とは裏腹に、大阪で感染拡大が続いていることに加え、恣意的に「夜の街」のエリアを設定して狙い撃ちするような自粛や時短の要請にミナミの飲食店経営者たちが猛反発し、「これでは大阪都構想にも反対せざるを得ない」という声が上がっているというのだ。

 都構想といえば、橋下氏が知事時代にぶち上げた維新の「一丁目一番地」の悲願である。
 5年前に一度否決されたのを、維新はあの手この手を使って二度目の住民投票にこぎ着け、コロナ禍の行方も見えないまま、今年11月に実施しようとしている。
 確実に可決させるには、目下の悪評を打ち消し、世間的評価を取り戻す必要がある。
 そこで思いついたのが、松山センター長から5月に報告を受けていたうがい薬の研究だった、というわけだ。

 ところが、思惑は見事に外れた。
 うがい薬の品切れや転売の横行で混乱する薬局や医療従事者をはじめ、府内外から抗議が相次ぎ、WHO(世界保健機関)神戸センターは「感染予防に科学的根拠はない」と、ツイッターで注意喚起するほどだった。

 吉村知事は翌5日の会見で、「一部誤解がある」「予防効果があるとは、ひと言も言っていない」などと釈明したが、4日の会見では断定を避けつつも、「コロナに効くのではないか」「コロナに打ち勝てる」と繰り返し述べている。
 まるで、発言の伝え方・受け取り方が悪いと言わんばかりの釈明は、さらにこう続いた。

「僕が感じたことをしゃべり、『それは間違いだ』と言われたら、僕自身、言いたいことが言えなくなる」──。

 これを聞いて思い出した。
 橋下氏が大阪市長時代に大騒動となった「従軍慰安婦」発言である。

橋下氏の「慰安婦」発言と重なる構図

 2013年5月のことだった。
 橋下氏は慣例となっていた登庁時の囲み取材(ぶら下がり)で、記者の質問に答え、「(先の大戦当時)慰安婦制度が必要だったことは誰でもわかる」と発言した。
 続けて退庁時には、沖縄・普天間飛行場の米軍司令官に対し、「(米兵の性犯罪防止に)風俗活用を勧めた」と自ら明かした。

 二つの発言が国内外で反発を呼び、批判にさらされると、橋下氏は「大誤報をやられた」とメディアに責任を転嫁。
 記者に言葉遣いの不用意さを指摘されると、「一言一句、全部正確にしゃべれと言うんだったらやめます」とキレて、囲み取材の打ち切りを宣言した(2日で撤回)。

 発言に至った背景も、吉村氏の場合と似ている。
 橋下氏は2008年の府知事就任以来、在阪メディアと蜜月関係を築いていた。
 大阪に久々に登場した存在感ある人気知事に、テレビを中心とするメディアが飛びつき、持て囃(はや)した。

 大阪市長に鞍替えした後の2012年には日本維新の会を旗揚げし、最初の衆院選でいきなり国政第3党になるなど、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
 だが、国政に進出したことでメディアが慎重になり、報道もやや沈静化する。
 そんな中で再び注目を集めようとしたのか、唐突に口にしたのが「従軍慰安婦」と「風俗活用」の発言だった。

 当時、橋下氏担当だったベテラン記者は、彼の言動をこう評した。

「聞かれもしないことを語り始め、正当化しようとして、どんどん墓穴を掘っていった」

 まるで現在の吉村氏に向けた言葉のようだ。

 マスメディア、とりわけテレビに積極的に露出して存在感を高め、政府や世論を動かそうとするのは、もともとテレビタレントだった橋下氏から、吉村氏が受け継いだ政治手法である。

 コロナ禍で急増した吉村氏のテレビ出演は、3月から7月で計83本にも上る。
 これは府のHPに残る知事としての「公務」だが、「政務」では右派的論調のネット番組への出演もある。
 他にも、吉村氏の記者会見を生中継する番組もあれば、ニュースでは会見映像やコメントがしょっちゅう流れる。
 関西では吉村氏の姿をテレビで見ない日はない。この状況も、かつての橋下氏と同じだ。

大阪テレビ界の「帝王」が担った役割

 そもそも、二人を結び付けたのもテレビ人脈である。
 2005年に大阪で弁護士事務所を開業した吉村氏は、ゴルフ仲間の紹介で、あるテレビ番組制作会社の顧問弁護士になる。
 その会社は、大阪テレビ界の「帝王」と呼ばれた歌手で司会者の故・やしきたかじんと関係が深く、読売テレビの『たかじんのそこまで言って委員会』を制作していた。
 橋下氏がタレント時代にレギュラー出演していたことでも知られる、過激な右派的論調の政治バラエティ番組である。

 制作会社の紹介で、たかじんの個人事務所の顧問弁護士に就任したことが政界入りにつながる。
 2011年の統一地方選で、大阪維新の会の候補者を探していた橋下氏に、たかじんが「ええのがおるで」と吉村氏を引き合わせたのだ。
 ともに弁護士で、ラグビー経験者でもあることから意気投合。
 吉村氏は「橋下チルドレン」として大阪市議会議員に初当選した。

 その3年後の2014年にたかじんが死去。
 彼の遺した巨額の遺産をめぐって泥沼の相続争いが勃発するが、この時に遺言執行人として関わったのが、市議の傍ら弁護士業を続けていた吉村氏だった。
 その経緯に詳しいジャーナリストは言う。

「吉村氏は真面目やけど、頼りない人物と言われてたね。遺産を争う双方から、遺言執行人の解任請求を受けたのが何よりの証拠。結局、自ら辞任することになったんやけど」

 だが、たかじん取り巻きの在阪テレビ局関係者との縁は残った。
『ミヤネ屋』『ウェークアップ!ぷらす』をはじめ、今も読売テレビへの出演が突出して多いのは、同局でたかじんが長く番組を持っていたのが一因と言われる。
 また、先述の右派ネット番組を制作しているのも、かつて顧問弁護士を務めた制作会社の面々である。
 吉村氏とテレビの強い結び付きは、このあたりに源流があるようだ。

「橋下チルドレン」の優等生の今後は

 政治家としても当初は目立たなかった吉村氏だが、その資質を見抜き、維新のホープとして、さらには自らの後継者として重用したのが橋下氏だった。

 2014年末の衆院選では、同氏の要請で市議を任期途中で辞職し、維新の党(当時)から立候補して比例復活当選。
 それから1年も経たない2015年11月には、大阪市長を引退する橋下氏から後継指名を受け、市長に当選した。
 さらに2019年4月には、二度目の都構想住民投票をめぐる政争から任期途中で辞職し、松井氏と職を入れ替えてのダブル選で大阪府知事となった。

 つまり吉村氏は、大阪市議、衆院議員、大阪市長と、いずれも任期を全うしたことがない。
 橋下・松井ツートップの描く戦略に応じて、次々と職を替えてきたのである。
「彼は間違いなく橋下氏の“作品”ですよ」と、先のジャーナリストは評するが、私の見た印象もそれに近い。

 街頭演説での語り口、記者会見の受け答え、政策の打ち出し方やインパクト重視のイメージ戦略。
 そして、テレビの利用。
 まさに「橋下チルドレン」の優等生として成長し、注目を集めてきた。
 ここへ来てのつまずきまで、師匠である橋下氏と重なっている。

 その橋下氏は「僕がやってきた数々の失敗に比べれば大したことない」と、複数のテレビ番組で吉村氏を擁護して回っている。
「従軍慰安婦」発言も、おそらく頭にあるのだろう。

 メディアが自らの行ってきた報道を掘り起こし、検証し、ジャーナリズムの精神を取り戻さなければ、「橋下的なるもの」は何度でも生まれてくるだろう──。
 2015年に刊行した拙著『誰が「橋下徹」をつくったか』(140B)の最後にそう書いた。
 吉村洋文という人物とテレビの熱狂を見ていると、「橋下的なるもの」の復活をはっきり感じざるを得ないのである。

[写真‐1]
2015年、吉村氏は橋下氏の後継として大阪市長選に出馬した

[写真‐2]
大阪市役所の一階には雨合羽が山積みになっていた(4月24日)

[写真‐3]
橋下徹元大阪市長(2013年)

[写真‐4]
吉村氏と松井氏(2019年)

現代ビジネス、2020.08.15
府知事、イソジン騒動が示す「維新流イメージ戦略」の危うい実態
それを囃し立てる「メディア」の罪

(松本 創)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74888

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2020年08月14日

そんなに夏休みを謳歌したいなら、とっとと総理大臣を辞めてくれ

 安倍政権が臨時国会の早期召集の要求に応じていない問題について、政治学者や法学者らで作る「立憲デモクラシーの会」のメンバーが2020年8月13日、記者会見を開き、「憲法違反が常態的に繰り返されている」と批判する見解を発表した。

 憲法53条は、衆参いずれか4分の1以上の議員から臨時国会の召集の要求があった場合、「内閣は、その召集を決定しなければならない」と定める。
 6月の那覇地裁の判決は、内閣には通常国会の開催時期が近かったり、内閣が独自に臨時国会を開いたりするなどの事情が無い限り、「合理的期間内」に召集する法的義務があるとした。
 だが7月末の野党の召集要求に対し、政府・与党は早期召集に応じない方針を示した。
 2015年と17年も、野党の53条に基づく要求を事実上無視していた。

 政権のこうした姿勢について、石川健治・東大教授(憲法学)は、「憲法改正手続きを経ずに、53条後段の削除と同じ効果が生まれている。土俵際にある」と危惧を呈した。

 中野晃一・上智大教授(政治学)は、「言葉の言い間違いではなく、安倍首相が『立法府の長』であることが現実化しつつある」と述べた。

 見解ではまた、「憲法上重大な疑義のある『敵基地攻撃能力』が政権・与党内で軽々しく論議されていることも、現政権の姿勢を示すもの」と疑問を投げかけた。

 立憲デモクラシーの会が13日発表した見解の全文は以下の通り。

安倍内閣の度び重なる憲法第53条違反に関する見解
2020年8月

 新型コロナウイルスの感染拡大と経済活動の大幅な収縮に歯止めが掛からず国民生活が深刻な危機に見舞われるさなか、国会は閉じる一方で、来月にも国家安全保障会議で「敵基地攻撃能力」の保有に向けた新しい方向性を示す安倍晋三政権の意向が報じられている。

 コロナ対策の当否など火急の案件だけでなく、国政上の深刻な課題が山積しているにもかかわらず、安倍首相は国会の閉会中審査に姿を現さず、記者会見もまともに開かず、何より憲法53条に基づく野党による臨時国会開催要求にさえ応じない。
 これは、主権者たる国民に対する説明責任を徹底して回避していると言わざるをえない。

 そもそも憲法53条後段は、国会閉会中における行政権の濫用(らんよう)を防止する目的で、一定数の議員の要求により国会が自主的に集会する制度を設定したものであり、「いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」とするのは、衆参どちらかの少数派の会派の要求がありさえすれば、国会の召集の決定を内閣に憲法上義務づけたものである。

 また、議員からの召集要求があった以上は、召集のために必要な合理的期間を経た後は、すみやかに召集すべきであるとするのが学説の一致した見解であり、近年は政府でさえ「合理的期間を超えない期間内に臨時国会を召集しなければならない」(2018年2月14日横畠裕介内閣法制局長官答弁)と認めている。
 さらに、本年6月10日那覇地裁判決は、「内閣が憲法53条前段に基づき独自に臨時会を開催するなどの特段の事情がない限り、同条後段に基づく臨時会を召集する義務がある」とする。
 議員の要求によって召集される臨時国会での審議事項は、上記の自律的集会制度の本質上、内閣提出の案件の存否にかかわらず、各院において自ら設定しうるものである。
 内閣の準備不足などとして、召集時期を必要な合理的期間を超えて大幅に遅らせようとするのは、憲法53条後段の解釈・適用に前段のそれを持ち込もうとする悪意すら感じさせる。

 2015年と2017年につづいて2020年にもまた、このような憲法違反が常態的に繰り返されようとする事態は看過できない。

 そうした中、憲法上重大な疑義のある「敵基地攻撃能力」が政権・与党内で軽々しく論議されていることも、現政権の姿勢を示すものと言える。
 敵基地攻撃は国際法上 preemptive strike、すなわち先制攻撃と見なされるのは明らかで、政権内の言葉遊びですまされるものではない。
 安倍政権はいずれ終わるとしても、その負の遺産は消えない。
 これ以上、立憲主義や議会制民主主義を冒瀆(ぼうとく)することを許してはならない。


[写真]
記者会見する「立憲デモクラシーの会」のメンバー。右から中野晃一・上智大教授、石川健治・東大教授、高見勝利・上智大名誉教授、山口二郎・法政大教授=東京都千代田区永田町の衆院第1議員会館

朝日新聞、2020年8月14日 5時00分
「憲法違反が常態化」
学者グループ、臨時国会巡り批判

(編集委員・豊秀一)
https://digital.asahi.com/articles/ASN8F7DC3N8FUTIL00T.html

 新型コロナの感染拡大が止まらない状況でありながら、国会からトンズラをつづけている安倍首相。
 ついには御用メディアである読売新聞の世論調査でも不支持率が54%となり、第二次政権発足以降で過去ワーストを記録したが、それでもまったく反省はないらしい。
 しかも、安倍首相をいま悩ませているのが、「夏休みのスケジュール」だというから驚きだ。

 安倍首相といえば、ほぼ例年、7月に1回目の夏休みをとり、さらに8月のお盆には地元の山口県入りして墓参りや支援者回り、下関市の花火大会を昭恵夫人と練り歩くなどし、15日に「全国戦没者追悼式」に出席したあとには山梨県鳴沢村にある別荘に向かい、ゴルフに興じるなど、約2週間あまりの優雅な休暇をとってきた。
 しかし、今年はそうはいかない。なにせ、安倍政権の無為無策によって新型コロナの感染拡大は止まらず、多くの国民が自主的に帰省するのを我慢しているのだ。まさかそんな最中に、総理大臣が東京から地方に帰省したり別荘に行ったりなど、普通の神経の持ち主ならできるはずがない。

 ところが、さすが稀代の無責任男である安倍首相は、まさかの局面でも(悪い意味で)期待を裏切らない。

 12日付の時事通信の記事によると、なんと安倍首相は〈政府は帰省自粛を求める立場ではないため、首相は今年も同様の日程を描いていた〉というのである。
 国民の我慢を尻目に、のんきに地元に帰るつもりだったとは、まったく呆れてものも言えない。しかも、安倍首相は感染を広げないようにという国民の自主的な取り組みを見てこの予定を取り止めた、というわけでもない。地元入りを止めたのは、〈小池氏が真逆の立場を打ち出したことから、取りやめざるを得なくなった〉というのだ。つまり、小池百合子・東京都知事が旅行・帰省の自粛を呼びかけていなかったら、いまごろは山口入りしていたというのである。
 だが、驚くことに、小池都知事の自粛呼びかけによって取り止めとなったことに対し、首相周辺は「毎回、小池氏に邪魔されている」(前出・時事通信12日付)と言っているというのだ。
 感染拡大に何の対策も打たず、自分は都外で夏休みを過ごそうとすることもどうかしているが、その上、小池都知事の自粛要請に「邪魔されている」と言い募るとは……。
 しかも信じられないことに、「批判の集中砲火で疲れている」ことを理由に、〈15日の終戦記念日後は例年通り別荘に滞在して、英気を養えないかと気をもんでいる〉というのだ。
 本サイトでも既に報じたが、じつは安倍首相は7月も4連休と3日間を足して1週間、夏休みをとろうとしていた。しかし、このときもコロナ感染再拡大のなか「それはまずい」と考えたのではなく、小池都知事が不要不急の都外への移動自粛を要請したことで断念。結局、4連休後の3日間、“半休”をつづけることで落ち着いた。
 じつはこのときから、安倍首相は「8月には夏休みをとる」と周囲に宣言していたという噂が流れていたが、やはり事実だったらしい。

安倍首相は夏休みをとらなくても、すでに毎日が「夏休み」状態

 それにしても、この異常な夏休みへのこだわり、おまえは小学生か、という話だろう。いや、「休みをとるな」と言いたいわけではない、「休むならやることやってからにしろ」と言いたいのだ。実際、「批判の集中砲火で疲れている」って、安倍首相は国会にも出てこないし、英気を養うことが必要なほど疲れる仕事など、ほとんどしていないではないか。
 先週末からの3連休にしても、8日(土)は夕方まで私邸で過ごし、夕方に1時間、官邸にいただけ。翌9日(日)は日帰りで長崎入りし「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に出席したが、肝心のスピーチは広島での挨拶文を約93%コピペしたシロモノで、記者会見で応じた質問はたったの2つで、追加質問を求める声もシャットアウトして強制終了。10日(月)は六本木のフィットネスに行った以外は私邸で過ごしている。
 さらに、今週11日は午前から閣議があったため朝から官邸入りしたが、昨日12日と本日13日は13時まで私邸でくつろいでからの“午後から出勤”。つまり、事実上の“半分夏休み”状態に突入しているのだ。
 新型コロナを「国難」と呼んでおきながら、感染拡大を受けた記者会見も全然開かず、野党からの国会出席要求も蹴るくせに、「疲れ」を理由に休みだけはとりたがる──。これが、国難におけるリーダーの態度なのか。
 
 言っておくが、これは国会できちんと批判や追及を受けろ、という意味だけはない。
 いまは国会でしかできないことが山ほどあるのに、それを安倍首相が拒否している状態がおかしいと言っているのだ。

 実際、現在は知事から医療関係者まで、あらゆる方面から、国会で特措法改正の議論をおこなうべきという声があがっている。

 7月30日には東京都医師会の尾ア治夫会長が、「休業補償をちゃんとつけた法的拘束力のある休業要請」が出せるよう、特措法の改正を要望。「コロナウイルスに夏休みはない。一刻でも早く国会を開いて」と訴えた。さらに全国知事会も同様の要求を繰り返しおこなっている。
 しかし、こうした要求に対し、安倍首相は9日、長崎でおこなわれた記者会見で、このように拒否してみせた。

「政府としては、まずは足元の感染拡大防止に向けて全力を挙げて取り組み、この事態が収束した後には特措法がより良い仕組み・制度となるよう、しっかりと検討する」

特措法改正を「事態が収束したあとに検討する」と言い放つ安倍首相の無責任ぶり

 特措法の改正については、休業要請の法的拘束力を強くすること以前に、ともかく急いで休業要請にともなう補償措置を国としておこなうことを明文化する必要がある。
 そうでなければ、自治体の財政状況によって補償なしの休業要請となり、そもそも効果が見込めなくなるからだ。
 そして、これは感染拡大の局面にあるいま、喫緊に必要なものである。

 にもかかわらず、一刻を争う議題なのに「事態が収束したあとに検討する」って、「問題はこのまま放置する」と言っているようなものであり、さらなる感染拡大を招くのは必至だ。

 その上、安倍首相が「毎日会見を開いて政府の取り組み説明している」と言って、自分の身代わりであるかのようにその名を持ち出す西村康稔コロナ担当相は、全国知事会から出された「休業要請に際する協力金支給のため地方創生臨時交付金を増額してほしい」という緊急提言に対して、「足りない場合は根拠を示してほしい」などと返答する始末。
 10兆円もの予備費を計上し国会を閉じておいて、悲鳴を上げている知事たちを“不正を働きかねない人物”であるかのように扱い、補償を出し渋っているのである。言語道断だろう。

 しかし安倍首相は、こうした補償の問題を含めた特措法改正の議論も、「Go Toトラベル」の見直しもおこなわず、自治体に責任を押し付けたままで逃げ切ろうとしているのだ。
 
 その結果、感染拡大に歯止めがかからず、医療現場は逼迫しているというのに、「夏休みは山梨の別荘に行きたいのに……」などと考えられるのだろう。

 国民の健康と安全よりも、自分の夏休みのことで頭がいっぱい──。

 もはや「異常」という言葉しか浮かばないが、そんなに夏休みを謳歌したいなら、とっとと総理大臣を辞めてくれ。
 そうはっきりと言っておきたい。


リテラ、2020.08.13 09:44
コロナ感染拡大でも安倍首相は「別荘で夏休み」強行か!
国会も開かない“半休”状態なのになおも夏休みにこだわる怠慢ぶり

https://lite-ra.com/2020/08/post-5574_3.html

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100年前の災禍、今に警鐘

コロナ禍 アイヌが投じる光 自然を敬う生き方へ
https://www.youtube.com/watch?v=BvLgVU3koqQ

 2019年に日本の法律で初めて「先住民族」と明記されたアイヌ民族は、独自の世界観で厄災を乗り越えてきた。
 今、私たちは先行き不透明なコロナ禍にどう向き合えばいいのか。
 アイヌの人たちの言葉に耳を傾けた。

◆「生き方を変えなければ、ウイルスはもっと人類を襲う

 「ワッカウシカムイ(水の神)、アペフチカムイ(火の神)、レラカムイ(風の神)…。アイヌ民族は、全てにカムイ(神様)が宿ると考える」

 アイヌ民族の宇梶静江さん(87)=埼玉県白岡市=がアイヌの世界観を語り始めた。

「コロナは、ウエンカムイ(悪い神)だ。でも、人間がいかに大地に残酷なことをしてきたのかを知らせるために来たのだろう」

 アイヌは自然を敬う民族だ。
 全てに宿るカムイは崇拝の対象というより、対話を続ける存在といえる。
 宇梶さんは「自然と矛盾して生きてきた現代人は多い。今、生き方や考え方を変えなければ、ウイルスはもっと知恵を付けて人類を襲うだろう」と警告する。

◆ 感染者、医療従事者もアイヌも 差別の根底に国の姿勢の問題

 宇梶さんは北海道の貧しい家庭で育ったが、知識を学びたいと二十歳で札幌の中学校に入学し、卒業後の23歳で上京。
 差別から逃れるため、自身がアイヌということは積極的に公言してこなかった。

 ただ、子育てが落ち着き、詩の創作で言葉と向き合ううちに「アイヌは卑しいわけではないのに、なぜ沈黙したままなのか。出自を明らかにしないで生きることほど存在の否定はない」と思うように。1973年に東京ウタリ(同胞)会を設立し、アイヌ差別解放運動の中核を担ってきた。

 1899(明治32)年制定の差別的な「旧土人保護法」により、アイヌには粗末な土地しか与えられず、戦後も格差に苦しめられ続けてきた。
 今、コロナの感染者や医療従事者らが差別を受けていることに、宇梶さんは「差別の根っこには国の姿勢の問題がある。国は曖昧な役割しか示せず、偏見は広がった。ひとりひとりが大事にされない構造はアイヌも同じだ」と指摘する。

 「密」を避け孤立を強いるコロナ禍の中で、「真の孤独」を突きつけられてきたアイヌ民族の宇梶さんは訴える。

「人間とは何か、人間らしい生き方とは何かが問われている。自然と向き合うアイヌ民族は、地球が抱える困難に光を投げかけることができる。その光は、世界三億人の先住民の光でもある。お互いの立場を理解し、認め合う。そんな未来の始まりにはできないか」

「人間も自然の一部」音楽で表現

 アイヌ文化アドバイザーの宇佐照代さん(48)は、娘の瑠依乃(るいの)さん(7つ)=新宿区=と伝統楽器トンコリ(弦楽器)やムックリ(口琴)を奏でながら、終息を待つ日々を送っている。
 雨垂れの音、親グマが子グマを呼ぶ声…。
 アイヌ音楽が自然の音色を奏でることが多いのは、人間も自然の一部であることを表現するためだ。
 瑠依乃さんが「ムックリを奏でると、優しい気持ちになるよね」と話しかけると、照代さんはゆっくりうなずいた。

 照代さんの祖母・西村ハツエさん(故人)は、アイヌの権利獲得運動に奔走した。
 照代さんは10歳で北海道から上京。
 首都圏のアイヌが集まる会合で、伝統舞踊や楽器に接する中で、自身のルーツを強く意識するようになった。

 照代さんの言葉は力強い。

「若い世代が伝承していかなければアイヌ文化は消えてしまう。祖母たちからアイヌ民族としての誇りを受け継いだ。多くの人に理解してもらえるよう活動していきたい」

◆ 交易盛ん…疫病のリスク 祈りで祓う

 北海道の阿寒湖アイヌシアター運営協議会事務局長の尾田浩さん(64)によると、古くから交易が盛んだったアイヌ民族は、常に疫病のリスクと隣り合わせだった。
 疫病の神パヨカカムイは旅をしていると考えられており、疫病がはやるとコタン(集落)の入り口にパヨカカムイが嫌う魚の骨や行者ニンニクなどをぶら下げ、村を避けてもらう祈りをささげたという。

 道内では4月からパヨカカムイを祓(はら)う儀式をしている。
 大正期のスペイン風邪流行時は、政府の同化政策でアイヌ文化が禁止されていたので、150年ぶりの開催になる。


 屈斜路古丹(くっしゃろこたん)アイヌ文化保存会の豊岡征則会長(74)は「アイヌには共生と循環の思想がある。ウイルスと戦うのではなく、『パヨカカムイ、帰ってください』との願いを込めている」と話した。


[写真‐1]
刺繍(ししゅう)が入ったアイヌの衣装を着る宇梶静江さん=埼玉県白岡市で

[写真‐2]
アイヌ文化アドバイザーの宇佐照代さん(右)が演奏するトンコリに合わせて歌う娘の瑠依乃さん=新宿区で

[写真‐3]
新型コロナウイルス感染拡大を受け、祈りの儀式を行うアイヌ民族の有志ら=4月18日、北海道弟子屈町で

東京新聞、2020年5月22日 11時03分
コロナ禍から何を学ぶか
厄災を乗り越えてきたアイヌの提言

(文・木原育子/写真・木口慎子、松崎浩一)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/16699

 1918(大正7)年に世界でまん延した「スペイン風邪」が広がり、その後、離村へと追い込まれた集落が福井県大野市の山奥にあった。
 集落跡に立つ石碑には、住民の一割近くが死亡し、壊滅的な被害を受けたと克明に記されている。
 新型コロナウイルスの感染が広がる今、約百年前の惨状を繰り返してはいけないと、不住の地から訴えかけている。 

 集落は、大野市和泉地区の九頭竜湖南側に位置する面谷(おもだに)。
 同市教委文化財課によると、かつて、良質な銅を産出する鉱山町だった。
 幕末は大野藩の財政改革に寄与し、明治に入ると財閥の合資会社が鉱山経営を引き継ぎ隆盛を極めた。
 当時の大野市街地にはなかった電気も通り、「穴馬の銀座」と称されたほど。
 海外から安価な銅が輸入されるようになっていたところにスペイン風邪のまん延が追い打ちをかけ、鉱山は1922年に閉鎖。
 集落も解散した。

 石碑はいつ、誰が建てたかはっきりしないが、集落の関係者らが後年、火葬場跡につくったとみられる。
 記述は「南無阿弥陀仏」で始まる。
 集落で「成金風邪」と呼ばれたスペイン風邪に襲われたのは1918年10月中旬。
 医師が悪性の流行性感冒(インフルエンザ)に注意するよう住民らに伝えた直後だったと記されている。

 当時、人口千人ほどだった面谷で「流行が始まって一ヶ月余りの中、90余名の死者が出たので、鉱山の機能は一時中止をしたような状態」に。
 診療所には院長や薬剤師ら5人がいたが「患者数が多いため医師の往診もままなら」なかった。
 死者が続出し火葬や棺おけの準備が間に合わず、ほとんどが十分な弔いも受けられなかったという。

 当時の資料は他になく、山奥の集落への感染ルートは分からないが、同課主任学芸員の田中孝志さんは、銅の搬出や鉱山会社関係者らの出入りとの関連に注目する。
 集落内の劇場が今で言う「クラスター」(感染者集団)となり、「三密」の環境だった鉱山の坑道内でさらに感染が拡大したと推測。
「鉱山は賃金が出来高払いで、5〜10人が一班で働く。休むと生活に影響し、住民のつながりが強かったので周りに迷惑を掛けられないと、無理に働いた人もいたのでは」とみる。

 田中さんは「スペイン風邪の石碑を建立しているのは、それだけ繰り返してはいけないという強いメッセージ」と指摘。
 東日本大震災の被災地では、石碑や地蔵で先人たちが津波からの安全地帯を教えていたことにも触れ「災禍の歴史を遺物が教えてくれている。それをいかに生かすか、考えなければならない」と話した。


[写真]
スペイン風邪の状況を記した石碑=福井県大野市面谷で

東京新聞、2020年4月28日 16時00分
「3密」が集落を滅ぼした
100年前の災禍 今に警鐘
福井・大野にスペイン風邪の碑

(山内道朗)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/17003

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2020年08月13日

まるで戦前の「大本営発表」

事前に記者から質問を集め、想定問答を読み上げるスタイルに批判を浴びてきた安倍晋三首相の記者会見。
8月6日の広島での会見では、事前通告のない質問をする記者を官邸職員が妨害して制止。
ついに質問妨害が、実力行使に発展した。
新著『政治部不信 権力とメディアの関係を問い直す』(朝日新書)の著者で、朝日新聞政治記者として取材現場を知る新聞労連委員長・南彰氏が、特別に寄稿した。

*  *  *
 ついに質問妨害が、実力行使に発展した。

 原爆投下から75年を迎えた8月6日。
 広島で行われた安倍晋三首相の記者会見での出来事だ。

 首相側は事前に準備された4つの幹事社質問への答弁の「台本」を読み上げて、15分あまりで記者会見を一方的に打ち切ろうとした。

 首相の正式な記者会見は49日ぶり。
 官邸記者クラブ(内閣記者会)は、幹事社以外の質問にも応じるよう、首相側に求めていた。
 待ちわびていた記者から次々と声があがり、安倍首相が「節目、節目で会見をさせていただきたい」とその一部にだけ答えて、終わろうとしたときだ。

「ダメだよ、もう。終わり、終わり」

 質問を続けていた朝日新聞記者が官邸報道室の職員に制止され、腕をつかまれたのだ。

 この記者は自席から冷静に質問を重ねていた。その質問内容はどのようなものだったか。

「なぜ50日近く十分に時間を取った正式な会見を開かないんでしょうか」

「(今日の会見時間は)十分な時間だとお考えでしょうか」

「(国会の)閉会中審査には出られるのでしょうか」

 いずれも国民・市民の疑問を反映したまっとうなものだった。
 それを制止してきた官邸側の対応は、「報道の自由」や国民・市民の「知る権利」を侵害する行為だった。

 官邸側は朝日新聞の抗議に対し、「速やかな移動を促すべく職員が注意喚起を行ったが、腕をつかむことはしていない。今後とも、記者会見の円滑な運営を心掛ける所存」(報道室)と妨害行為を正当化した。
 菅義偉官房長官は翌7日の記者会見で、職員が記者の体に触れた有無を繰り返し問われると直接は否定せず、「腕をつかむことはしていないと(報道室から)報告を受けている」という間接的な言い回しで逃げ切ろうとした。

 腕をつかまれたのか否か、という水掛け論にして、うやむやにしようとしたのである。
 しかし、質問中の記者に近寄り、「ダメだよ」と制止するだけでも十分な妨害行為であり、そこが本質である。
 官邸の主張は、テレビ朝日の女性記者に対する財務事務次官によるセクシュアルハラスメントが発覚した時の対応とそっくりだった。

 新聞労連も7日に官邸に抗議する声明を出したが、驚いたのは、産経新聞が8日付朝刊に掲載した1面コラム「産経抄」だ。

「官邸側が高圧的に都合の悪い質問をやめさせたような印象を受けるが、実際はどうだったか」

 筆者はそのように疑問を投げかけ、「報道室は4問のみ受け付けると告知していた」「空港への移動時刻が迫っていた」「腕をつかんだことも否定している」といった官邸側の主張を列記。
 朝日新聞や毎日新聞の記者が安倍首相に食い下がって質疑に挑んだ例をあげて、「マスコミは性悪だ」「底が浅すぎて、下心が丸見え」と中傷したのだ。

 記者がさまざまな角度から質問をぶつけ、見解を問いただすことは、為政者のプロパガンダや一方的な発信を防ぎ、国民・市民の「知る権利」を保障するための大切な営みだ。
 しかし、官邸の記者会見を巡っては近年、事前通告された質問だけで終了したり、官邸の意に沿わない記者の質問を妨害したりすることが繰り返されてきた。

 東京新聞の望月衣塑子記者の質問中に、上村秀紀・官邸報道室長(当時)が7〜8秒ごとに「簡潔にしてください」などと妨害行為を行っていたのが象徴的である。
 そして、緊急事態宣言を理由に狭めた「1社1人」という人数制限を宣言解除後も続け、望月記者らの参加自体も封じるようになっている。

 こうした「報道の自由」や「知る権利」の危機において、官邸記者クラブが結束して対抗することを妨げてきた正体を示したのが、8日付の産経抄だ。
 このコラムに守られるように、9日に行われた長崎市での首相記者会見では、官邸側は事前に準備された幹事社質問の2問に答えただけで打ち切った。
 まるで戦前の「大本営発表」のようだった。

 8月6日から9日にかけて起きた出来事は、記者会見で「質問できない国」になっている内側を描き、嘘や強弁がまかり通る政治の現状に警鐘を鳴らした前著『報道事変』と、そうした政治権力と共犯関係に陥っているメディアの存在を描いた新著『政治部不信』の同時進行を象徴する出来事だった。
 原爆死没者を追悼し、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を願う広島・長崎にとって特別な日に起きたことはあまりにも悲しい。

 第2次世界大戦中、準統制団体である「日本新聞会」のもとで記者登録制が敷かれ、自由な報道や取材活動が大きく制限された。

 1942年3月に策定された「日本新聞会記者規定」では、「国体を明確に把持し公正廉直の者」が資格条件になっていた。

 こうして政権に疑問を差し挟む記者が排除され、報道は「大本営発表」に染まった。

 日本メディアは政権の「共犯者」となり、多くの国民・市民の平和な生活と人権を打ち砕いたのである。

 75年前の戦争に思いをはせる8月。

 この過ちを決して繰り返してはいけない。


[写真]
記者会見する安倍晋三首相=2020年8月9日午後、長崎市

dot.asahi、2020.8.13 09:00
質問に答えない安倍首相を共犯者メディアが守る戦後75年の“報道事変”
(南彰)
https://dot.asahi.com/dot/2020081100026.html

 安倍晋三首相が8月6日に広島市内で行った記者会見で、質問を続けていた朝日新聞記者が、首相官邸報道室の職員から「だめだよもう。終わり、終わり」と制止され、腕をつかまれる事件が起きました。
 記者の質問を実力行使で封じ、「報道の自由」や「知る権利」を侵害する許しがたい行為です。
 首相官邸に強く抗議します。

 この日の首相記者会見は、内閣記者会(官邸記者クラブ)が開催を求めてきたにもかかわらず、首相側が会見に応じない状態が続いた末に、毎年恒例の平和記念式典出席に合わせて、49日ぶりに開かれたものでした。
 記者会から「幹事社以外の質問にも応じるように」と要請されていたにもかかわらず、首相側は事前に準備された幹事社質問にだけ応じて、15分あまりで記者会見を一方的に打ち切ろうとしました。
 その後、記者が「なぜ50日近く十分に時間を取った正式な会見を開かないんでしょうか」「(今日の会見時間は)十分な時間だとお考えでしょうか」「(国会の)閉会中審査には出られるのでしょうか」と重ねた質問はいずれも国民・市民の疑問を反映したまっとうなものです。
 首相は「節目節目で会見をさせていただきたい」とその一部にしか答えていないにもかかわらず、官邸の職員が制止に踏み切りました。

 記者がさまざまな角度から質問をぶつけ、見解を問いただすことは、為政者のプロパガンダや一方的な発信を防ぎ、国民・市民の「知る権利」を保障するための大切な営みです。
 しかし、官邸の記者会見を巡っては近年、事前に通告された質問だけに答えて終了したり、官邸の意に沿わない記者の質問を妨害したりすることが繰り返されてきました。
 緊急事態宣言を理由に狭めた「1社1人」という人数制限も宣言解除後も続けており、国内外から批判を浴びています。官邸の権限が増大する一方で、説明の場が失われたままという現状は、民主主義の健全な発展を阻害するゆゆしき状況です。

 官邸側は今回の事件について、「速やかな移動を促すべく職員が注意喚起を行ったが、腕をつかむことはしていない。今後とも、記者会見の円滑な運営を心掛ける所存」と妨害行為を正当化しています。
 驚くべきことです。
 自らの行為を真摯に反省し、オープンで公正な記者会見の運営に見直すよう求めます。
 また、再質問も行える十分な質疑時間を確保し、フリージャーナリストも含めた質問権を保障した首相記者会見を行うよう改めて求めます。
2020年8月7日
日本新聞労働組合連合(新聞労連)
中央執行委員長 南  彰

日本新聞労働組合連合(新聞労連)、2020年8月7日
労連声明:首相官邸の質問妨害に抗議する
http://shimbunroren.or.jp/200807statement/

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バカボンボン宰相

Survivors of the atomic bombings of 75 years ago have accused Japan’s prime minister, Shinzo Abe, of making light of their concerns after he delivered two near-identical speeches to mark the anniversaries of the attacks on Hiroshima and Nagasaki.

A plagiarism detection app found that Abe’s speech in Nagasaki on Sunday duplicated 93% of a speech he had given in Hiroshima three days earlier, the Mainichi Shimbun reported.

The English-language versions of the speeches on Abe’s official website also show a high degree of duplication.

The opening paragraph mentions each city’s name, and continues: “I reverently express my sincere condolences to the souls of the great number of atomic bomb victims. I also extend my heartfelt sympathy to those still suffering even now from the after-effects of the atomic bomb.” Aside from the ceremony titles, the passages match word for word.

Abe did, however, use different wording when referring to how each city had rebuilt in the years after Japan’s wartime defeat.

An estimated 140,000 people died immediately and in the months after the Hiroshima bombing on 6 August 1945, while 74,000 died during and after the attack on Nagasaki three days later.

Apart from the cities’ names, the statements’ closing paragraphs used the same wording, with Abe voicing hope for a world “without nuclear weapons”.

The apparent decision not to tailor the statements to each city’s experience angered survivors of the bombings, who are known as hibakusha.

“It’s the same every year,” Koichi Kawano, head of a hibakusha liaison council in Nagasaki, told the Mainichi Shimbun. “He talks gibberish and leaves, as if to say, ‘There you go. Goodbye.’ He just changed the word ‘Hiroshima’ to ‘Nagasaki.’ He’s looking down on A-bomb survivors.”

Haruko Moritaki, the co-director of the Hiroshima Alliance for the Abolition of Nuclear Weapons, accused Abe of inaction on nuclear disarmament, despite acknowledging the advanced age of the hibakusha.

“[He] says he will stay ‘in tune’ with atomic bomb survivors, who are advancing in years, but he has not taken concrete action. He’s all talk and no action, and that showed in his addresses,” Moritaki told the newspaper.

Survivors used the anniversaries to urge Abe to push for nuclear disarmament while they are still alive. But Japan, which relies on the US nuclear umbrella for its security, has not signed a treaty to abolish nuclear weapons adopted by the UN general assembly in 2017.

Abe did not visit the Nagasaki atomic bomb museum at the weekend, despite being asked to do so when he met hibakusha representatives last year. One survivor quoted by local media wondered why Abe had bothered travelling “all the way to Nagasaki”.

In an editorial, the Asahi Shimbun noted Abe’s desire for a nuclear-free world, but added: “His actions toward the issue are only adding to a sense of frustration and anger among residents in the atomic-bombed cities.”

Criticism of the statements came as Japan’s government said it would appeal against a recent ruling awarding state health benefits to dozens of men and women who lived outside the areas hit hardest by the bombings but who were exposed to radioactive “black rain” caused by the explosions.

[photo]
Japanese prime minister Shinzo Abe speaks at the 75th Nagasaki peace ceremony. A-bomb survivors accused him of lacking respect after delivering a very similar speech in Hiroshima,

The Guardian, Wed 12 Aug 2020 06.26 BST
Japan PM sparks anger with near-identical speeches in Hiroshima and Nagasaki

‘It’s the same every year. He talks gibberish and leaves,’ says one survivor after plagiarism app detects 93% match in speeches given days apart

By Justin McCurry in Tokyo
https://www.theguardian.com/world/2020/aug/12/japan-pm-sparks-anger-with-near-identical-speeches-in-hiroshima-and-nagasaki

・・・首相あいさつ93%一致 広島と長崎、過去例とも類似 被爆者「ばかにしている」・・・

・・・さすが「アメリカのトランプ大統領と完全に一致」(サンドイッチマン)の安倍さんですね。これは意図的に平和祈念式典を「ばかにしている」ことを伝えにきていますよ。だって意図的でなければ毎年批判されているコピペを繰り返しませんから。故意と悪意と敵意がなければできることではない・・・

・・・安倍首相の原爆追悼演説の使い回し問題がガーディアンで記事になっている。これは恥ずかしい・・・

・・・小池都知事が関東大震災の時に虐殺された朝鮮人への追悼文を出さない頑なさに相通じるものがあるよね。おまえらどうでもいいし、うざい、が出したいメッセージなんだよね・・・

・・・しかし、よくもまあ、毎年毎年やって来ては、極限までつまんない顔をして、コピペの原稿を読むもんだ。まあ、それをするために来てるんだろうな。なーんのかんしんもやるきもありませんよーっていう、強いメッセージ・・・

・・・安倍総理の広島と長崎の犠牲者追悼の言葉が毎年同じにならないようにするのはそんなに難しいことですか? 毎年、広島に行き、長崎に行き、違う人に会い、違うことを知り、新しい資料を読んで、知ったこと感じたことを語れば、自然に毎回違う話になると思いますよ・・・

・・・安倍総理の広島と長崎での挨拶が地名以外はほぼ同じと聞いて首相官邸HPを確認したら本当だった。やる気がないのはコロナ対応だけじゃないんだね・・・

・・・このように晒される事がわかっていながらこういう事をするのは「どうせ奴ら(マスコミ、国民)何もできないから」と舐められてる証拠。僕たちはともかく、これで何もできないマスコミは、去年の奴らのレポート丸写しでも落第させる事ができない大学の先生のよう・・・

・・・[8月12日も引きこもりで何もせず]何じゃこりゃ。飲食店、宿泊、アパレルには自粛、自治体にはPCRするな、自分はミシュランフレンチ、美容院、豪華ホテルのフィットネス、ついには大臣室現金のアマリに甘利と密議だけで、ご帰宅のバカボンボン宰相の一日・・・

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2020年08月12日

与謝野晶子とスペイン風邪

 堺市出身の与謝野晶子といえば歌集「みだれ髪」などで知られ、「情熱的歌人」というイメージが強い。
 だが今、100年前の評論で政府の感染症対策を厳しく批判していたことから、思想家としての側面が注目されている。
 文学的表現力と論理的思考力を兼ね備えた作品に魅了される人も多い。

■「なぜ休業命じぬ」

 スペイン風邪が猛威を振るった1918年、晶子は「感冒の床から」と題した評論でこう書いた。

「米騒動の時にはおもだった都市で五人以上集まって歩くことを禁じました。(中略)政府はなぜ(スペイン風邪の感染拡大防止のため)多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」

 密集する場所として学校や工場などを挙げており、新型コロナウイルスが流行している現在と重なる。
 前段で米騒動時の暴動を鎮静する策に触れたことで、政府への痛烈な皮肉になった。
 堺市の文化施設「さかい利晶の杜(もり)」(※)の学芸員、矢内一磨氏は「治安対策はできても感染症対策はできない矛盾をついた」と指摘する。
 同施設は堺出身の千利休と晶子の業績や足跡を展示している。

 米騒動を取りあげた評論「食糧騒動について」では政府が物価高騰を放置し、対策が後手に回ったと批判した。
「寺内(正毅)内閣が天下の器で無いことは……余りに明(ら)かになりました」と言い切る。

 政府から弾圧されないか心配になるほどの鋭さだ。
 天理大学の太田登名誉教授は「攻めに徹する姿勢が晶子の評論の特徴」と話す。
 攻撃力の源が私憤でなく、国民の思いをくんだ公憤だから読者に響くという。
 太田氏は晶子の研究者や愛読者が集う堺市の「与謝野晶子倶楽部」の会長を務めている。

 スペイン風邪の第2波に見舞われた20年の作品「死の恐怖」では、政府批判が影を潜めて内省的、哲学的になる。
 自分の死より、その後の子供の不幸を想像して恐ろしいと書き、最善を尽くして生きる決意を宣言する。

「予防と治療とに人為の可能を用いないで流行感冒に暗殺的の死を強制されてはなりません」。

 人事を尽くして死ぬなら運命だと諦めがつくという。

 いまも新型コロナから確実に身を守る方法はない。
 この文章を読むと、心の持ちようを教わった気がして少し落ち着く。
 利晶の杜は7月、評論などを検索できるコーナーにスペイン風邪に関する作品を加えた。

■ 渡欧が原動力に

 情熱的歌人としてデビューした晶子を評論活動に向かわせたものは何だったのか。
 立命館大学の田口道昭教授は「夫の与謝野寛を追って12年に渡欧したときの見聞や経験が原動力になった」と解説する。
 渡欧経験が世界に目を向け、男女平等を追求する大きな契機になったようだ。

 1919年に「婦人も参政権を要求す」を発表し、男女の別なく25歳以上に選挙権を持たせよと主張した。
 日本で婦人参政権が認められたのは第2次世界大戦後。
 太田氏は「晶子の魅力や偉大さは時代を見通す先見性と国際性にある」と話す。

 平塚雷鳥らとの論争では、国家による母性保護を批判して女性の自立を主張した。
 田口氏は「多くの子供を抱えながら生活を維持した晶子自身のリアリズムと理想主義があってのこと」と指摘する。
 シベリア出兵を批判した1918年の「何故の出兵か」でも、戦争反対という理想を掲げつつ、世界的な軍備撤廃が実現するまで「ある程度の軍備保存はやむを得ない」と冷徹に現実を見据えている。

 晶子は小説や童話も書いたほか、源氏物語の現代語訳も手がけるなど「多様性に富んでいた」(矢内氏)。
 元小学校長で晶子倶楽部の運営委員を務める阿部恵子さんは「堺の人に『世界の晶子』をもっと知ってほしい」と語り継ぐ活動を続けている。


[写真]

日本経済新聞・時を刻む、2020/8/6 2:01
「思想家・与謝野晶子」に光
スペイン風邪対策を批判

(塩田宏之)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO62318870V00C20A8AA1P00/

(※)「さかい利晶の杜(もり)
堺市堺区宿院町西2丁1-1 Tel:072-260-4386 
http://www.sakai-rishonomori.com/

 杉並区南荻窪とも縁があります:

 JR荻窪駅を南に歩き、環状八号線から西へそれると、南荻窪中央公園があります。公園の入り口に大理石の碑があり、
歌はどうして作る
じっと観
じっと愛し
じっと抱きしめて作る
何を
「真実を」

(「歌はどうして作る」より・与謝野晶子)と掘られています。
 南荻窪中央公園は、かつて与謝野寛(号・鉄幹)・晶子の住居があった場所に作られているのです。

 与謝野晶子(1878-1942)は、大坂の老舗和菓子屋の三女として生まれました。
 少女のころから、尾崎紅葉・幸田露伴・樋口一葉らの小説を読み、堺女学校(現・大阪府立泉陽高校)に入ると『源氏物語』を読むなど古典に親しみました。

 文学会に参加したり、店番をしながら和歌を投稿するなどしていましたが、明治33(1900)年に開催された歌会で、歌人の与謝野鉄幹と知り合いました。
 鉄幹が創刊した『明星』に短歌を発表。
 東京に移り住み、歌集『みだれ髪』を発表します。

 明治37(1904)年には、日露戦争で旅順に出征していた弟への思いを詠った『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表しました。
 1912年にはパリに渡り、イギリス、ドイツ、オランダなどを訪れます。
 帰国後、『巴里より』(鉄幹と共著)で、女性の教育の自由を説きました。
 大正10(1921)年には、鉄幹らと共に「文化学院」を創設、日本初の男女共学を成立させました。

 大正12(1923)年に発生した関東大震災での体験から住居を郊外へ移すことにし、昭和2(1927)年に、当時・麹町区富士見町から、現在南荻窪中央公園がある場所へ引っ越しました。
 友人たちから贈られた庭木をはじめ多種の花や木を植え、また、当時の荻窪は、一面に田んぼが広がり、草花や、稲や、水のにおいが立ちこめる武蔵野の地だったそうです。

 荻窪に移転した時点で与謝野晶子は『新訳源氏物語』を出していました。
 その『新訳源氏物語』の改稿版を計画中でしたが、ほぼ完成していた原稿が関東大震災により焼失してしまいました。
 晶子は、再び『源氏物語』に取り組み、昭和14(1939)年に念願の『新新訳源氏物語』を完成させます。

 晶子と寛には成長した子どもは11人いましたが、寛亡きあとも、晶子は子どもの成長を見守りながら荻窪の地で過ごし、昭和17(1942)年に永眠しました。

・ 南荻窪中央公園(与謝野寛・晶子旧居跡)
・ 住所:東京都杉並区南荻窪4-3-22


荻窪ナビ、2011/04/01
与謝野寛・晶子旧居跡
http://www.ogikubo-navi.com/news/column/exploration/column3008.html

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香港の民主活動家・周庭さん

 ヤッホーくんのこのブログ、これまでこんな文章を投稿したことなかったなぁ〜って。
 それは今年初めころの香港の周庭 Agnes Chow さん、みずからのツイッターです:
香港の大学の授業が全部終わってから皆さんに話そうと思っていたので、まだ言っていませんでしたが、去年の10月から、私は北海道大学公共政策大学院のフェローに就任させていただきました。とても光栄に思っております。
➡ https://www.hops.hokudai.ac.jp/2019/11/28/藤村忠寿氏、周庭氏、齊藤啓輔氏が公共政策学連/
・・・午前11:58 ・ 2020年1月16日

 昨日2020年8月11日火曜日、香港で周庭さんが逮捕されたことを知ったヤッホーくん、どれほど胸を痛めたことか、夜も眠れなかったそうな(暑さのせいばかりじゃないよ、ですって)。

 日本との関係も深い香港の民主活動家の周庭(アグネス・チョウ)氏(23)が香港警察に国家安全維持法(国安法)違反の疑いで逮捕されたことを受け、ツイッターでは11日、「FreeAgnes」(アグネス氏を解放せよ)と訴える投稿が拡散している。

 2014年の民主化デモ「雨傘運動」の学生リーダーの一人で民主活動家の羅冠聡(ネイサン・ロー)氏(27)は日本時間の11日未明、自身のツイッターに「拡散希望」と記し、日本語で投稿。
「アグネスは一緒に闘ってきた友人の一人です。独裁政権である中国共産党(CCP)は国安法違反「国家分裂」の容疑で23歳の女性を逮捕。彼女は無罪だが、無期刑を受ける可能性がある。日本の皆様のサポートが必要です」と支援を訴えた。
 このツイートは11日夕までに5万4千回以上リツイートされている。
 また、羅氏は11日早朝、このツイートに続ける形で「#FreeAgnes」のハッシュタグ付きツイートを投稿した。

 羅氏は、国安法の施行を受けて7月、英国へ渡っている。
 自身も違法集会に参加した罪で起訴されたとされている。

「#FreeAgnes」を付したツイートは日本を中心に各地で投稿され、作家の乙武洋匡氏や、映画監督の白石和彌氏、タレントのつるの剛士氏らも「民主化を求め、活動することが罪なのか」などとツイート。
 国会議員からも、自民党の長島昭久氏、立憲民主党の蓮舫氏、共産党の小池晃氏ら与野党問わず、抗議の声が上がっている。
 

[画像]
英国在住の民主活動家、羅冠聡(ネイサン・ロー)氏は日本時間の11日早朝、「FreeAgnes」のハッシュタグを付したツイートを投稿した=ツイッターから

朝日新聞、2020年8月11日 17時36分
周庭氏に「日本のサポートを」
解放訴えるツイート拡散

(荒ちひろ、杉浦幹治)
https://www.asahi.com/articles/ASN8C5QS6N8CUTIL030.html

 香港の民主活動家・周庭(アグネス・チョウ)氏の逮捕を受け、日本のツイッターではハッシュタグ「周庭氏の逮捕に抗議する」「FreeAgnes」をつけて、逮捕に反発するツイートが相次いでいる。

 一方、周庭氏が2020年6月30日の香港国家安全維持法(国安法)成立前にツイッターで語っていた「日本への思い」にも注目が集まっている。

乙武氏「私たちにできることは抗議の声を上げること」

 周庭氏は2014年、学生ながら香港反政府デモ「雨傘運動」のスポークスパーソンとして活動。
 2019年6月には逃亡犯条例改正案に反対するデモにも参加し、「民主の女神」と呼ばれた。
 日本メディアの取材に対し、流暢な日本語で答える姿でも知られていた。

 しかし、2020年6月30日に香港で国安法が成立。
 8月10日に周庭氏は国安法違反容疑で香港警察に逮捕された。
 周庭氏の逮捕を受け、日本でも反発の声が広まり、ツイッター上ではハッシュタグ「周庭氏の逮捕に抗議する」「FreeAgnes」をつけて逮捕に抗議するツイートの投稿が相次いだ。

 著名人では、俳優の宍戸開さんが「#周庭氏の逮捕に抗議する」、歌手の畑中葉子さんが「#周庭氏の逮捕に抗議する」「#FreeAgnes」というワードのみをそれぞれ投稿。
 作家の乙武洋匡氏は10日夜に、ハッシュタグ「FreeAgnes」をつけて以下のようにツイートした。

いま私たちにできることは抗議の声を上げること。みなさん、ぜひ傍観者となることなく、このニュースと向き合ってください

「#FreeAgnes」は11日の朝4時〜8時頃にかけて日本のツイッタートレンド1位を独占。
 その後は朝9時頃から「#周庭氏の逮捕に抗議する」がトレンド入りし、11時頃からは「#FreeAgnes」に代わりトレンド上位に位置している。

「生きてさえいれば、希望があります」

 逮捕の報を受け、周庭氏がかつて力を入れていたツイッターの投稿内容にも注目が集まっている。
 周庭氏はツイッターを通じ、日本語で香港民主化への思いなどを発信していた。

 国安法成立直前の6月28日、周庭氏は「香港で自由や民主主義のために戦う人たちは、自由や命を失うことも考えないといけないということが、本当に悲しい。私も、たくさんの夢を持っているのに、こんな不自由で不公平な社会で生き、夢を語る資格すらないのか。これからの私は、どうなるのか...」と不安を口にし、

いつかまた日本に行きたいなぁ」と日本への思いについて語っていた。

 また28日には、国安法の成立後「国家分裂罪」と「政権転覆罪」に問われると最高刑罰は無期懲役になる可能性があることについて言及。

「日本の皆さん、自由を持っている皆さんがどれくらい幸せなのかをわかってほしい。本当にわかってほしい...」と思いを吐露していた。

 そして国安法成立当日の6月30日、周庭氏は以下のようにツイートした。

絶望の中にあっても、いつもお互いのことを想い、私たちはもっと強く生きなければなりません。生きてさえいれば、希望があります

 この投稿を最後に、周庭氏のツイッターは更新されていない。

 香港で自由や民主主義のために戦う人たちは、自由や命を失うことも考えないといけないということが、本当に悲しい。私も、たくさんの夢を持っているのに、こんな不自由で不公平な社会で生き、夢を語る資格すらないのか。これからの私は、どうなるのか...

 いつかまた日本に行きたいなぁ。

・・・午前0:37 ・ 2020年6月28日

[写真]
周庭氏が語っていた「日本への思い」(画像は周庭氏23歳誕生日の投稿、一部加工)

J−Cast News、2020年08月11日13時55分
逮捕の周庭氏が訴えていた
「日本の皆さん」に「わかってほしい」こと

https://www.j-cast.com/2020/08/11391913.html?p=all

 でも、こうしたひとりひとりの祈りや願いや、呼びかけが功を奏し釈放されたようですよ。
 でも、逮捕は容疑者に対し「二度とするなよ、今度だけは許すから」みたいな脅しですよ。

 香港国家安全維持法違反容疑で逮捕された民主活動家の周庭(アグネス・チョウ)氏が11日深夜、保釈された。
 周氏は記者会見を開き、「国安法を利用した政治的弾圧だ」と批判した。

 周氏は会見で、外国勢力と結託したとされる逮捕容疑について「どういう理由で私が逮捕されたのか(警察からは)聞いていない」と語った。
 今後は「国際社会と連携する活動には参加できないが、香港人の一人として香港の民主化運動や自由のために闘っていく」と語った。
 取り調べは非常に怖かったとも述べ、疲れた表情を浮かべた。


[写真]
保釈された民主活動家の周庭氏=2020年8月11日午後11時11分、香港

朝日新聞、2020/8/12(水) 1:39配信
香港の民主活動家・周庭氏が保釈
「政治弾圧だ」と批判

(香港=益満雄一郎)
https://www.asahi.com/articles/ASN8D0DV2N8CUHMC018.html

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2020年08月11日

文士とスペイン風邪

 新型コロナウイルス感染の社会的不安が拡がっています。
 感染するのではないかという不安とともに、この先、いつまでこのような状況が続くのか、先の見えない不安も大きいのではないかと思います。

 新型コロナウイルス感染症の世界的流行で、100年前のスペイン風邪が注目を集めています。
 芥川龍之介(1892 - 1927)もかかった、当時の新型インフルエンザです。
 後に最初のA 型インフルエンザであったことがわかりました。
 龍之介は2回も発症しましたが、無事でした。
 けれども実父はこのスペイン風邪で亡くなりました。

 明治期にもさまざまな感染症が流行し、多くの人を恐怖におとしいれました。
 インフルエンザもその一つですが、とくに1889年から1991年にかけて大流行したインフルエンザは、「お染風邪」と言われて恐れられました。
 夏目漱石(1867 - 1916)はこの時の様子を書き残していませんが、『琴のそら音』(1905年7月)という作品に、インフルエンザが登場します。

 余が親友津田君の下宿を訪問します。
 4月3日、花盛りの頃です。
 いろいろ話すうちに、余の結婚相手(宇野露子)の病気に話題が移り、「大丈夫に極ってるさ。咳嗽は少し出るがインフルエンザなんだもの」と、気楽に答える余に、「インフルエンザ?」と津田君は突然余を驚かす程な大きな声を出す。
 津田君はさらに「いや実はこう云う話がある。ついこの間の事だが、僕の親戚の者がやはりインフルエンザに罹ってね。別段の事はないと思って好加減にして置いたら、一週間目から肺炎に変じて、とうとう一箇月立たない内に死んでしまった。その時医者の話さ。この頃のインフルエンザは性が悪い、じきに肺炎になるから用心せんといかんと云ったが――実に夢の様さ。可哀そうでね」

 設定では余はインフルエンザというものを軽く考えている。
 この作品が書かれたのは1905年。
 「お染風邪」からすでに10年以上。
 当時、さまざまな感染症がある中で、インフルエンザに対する警戒心がゆるんでいることに警鐘を意図したかもしれません。

 漱石は1900年5月から1902年9月まで、イギリス留学に出かけています。
 じつは、1900年というのは、欧米でインフルエンザの大流行が始まった年で、幸い漱石は罹患することがなかったようですが、ヨーロッパに来ていた友人の立花銑三郎は1901年2月末頃、ドイツで発症し、3月下旬、オランダのアムステルダムから帰国の途につきますが、5月12日、上海沖で肺炎を併発し、35歳で亡くなりました。
 漱石はロンドン停泊中の常陸丸に立花を見舞っています。
『琴のそら音』の「この頃のインフルエンザは性が悪い、じきに肺炎になる」と言う一文はこの時の体験がもとになっているかもしれません。
 漱石自身もイギリスでインフルエンザの猛威を目の当たりにして、脳裏に深く刻まれるものがあったのだろうと推察されます。

 心配になると、人間、悪い方へ悪い方へと考えてしまうもので、白山御殿町の津田の下宿を午後11時近くに出た余は、時の鐘におびえ、極楽水あたりは死んだように静まり、そこへ葬列が通りかかる(こんな時間に通りかかるはずはないのだが)。
 雨も降り出す。
 それから、昼間でもこわい切支丹坂を滑り下り、茗荷谷を行くと、赤い鮮やかな火。
 盆燈籠のようで、この火が消えたら露子が死ぬ、などと思うと、もう額はあぶら汗。
 新しい谷道を上ると、また赤い火。
 それは巡査の持つ灯だったが、その声が気味悪い。
 結局、1時間ほどかかって、小日向台町の自宅に帰ると、下女の婆さんが心配する。
 とにかく、翌日すぐ、四谷坂町の宇野家を訪ねると、露子は昨夜中央会堂の慈善音楽会に行って遅く帰ったということで、「インフルエンザは?」と尋ねると、「ええ風邪はとっくに癒りました」。

 こうなると、人間、げんきんなもので、余は帰り道、神楽坂へまわって、床屋へ入っています。
 自宅へ帰ると、すでに露子が来ていて、笑いが絶えず、その後、露子が余を一層愛するようになったと、おのろけ話しまでついています。

 インフルエンザの話しは『三四郎』(1908年9 - 12月)にも出てきます。
 罹患した三四郎の症状が詳しく描かれています。
『三四郎』は新聞連載とほぼ同時間をたどっています。
 1908年にも季節性のインフルエンザが流行っていたのでしょう。
 1910年3月には、漱石の恋人説もある小屋(大塚)楠緒子(1875 - 1910)がインフルエンザに罹り、結核を悪化させ、その年の11月13日、肋膜炎に至って、亡くなっています。
 36歳でした。

 スペイン風邪は漱石死後2年の1918年に始まりました。
 漱石が生きていたら、どのような思いをもったでしょうか。

2020年05月01日追加


 新型コロナウイルス感染の世界的拡大にともなって、100年前に大流行し、多くの犠牲者を出したスペイン風邪が注目を集めるようになっています。
 芥川龍之介(1892 - 1927)も1918年10月末頃、スペイン風邪を発症し、「熱があつて咳が出て甚苦しい。」状況が続いて、一週間ほどで回復しましたが、劇作家の島村抱月(1871- 1918)は10月29日に発症し、11月5日に亡くなりました。
 この2ヶ月後、愛人で女優の松井須磨子(1886 - 1919)が、自分は発症しても生きていて、抱月が亡くなったことに後ろめたさを感じたのか、後追い自殺して話題になりました。
 惚れた歌舞伎役者の後追い自殺を描いた泉鏡花(1873 - 1939)の『葛飾砂子』が映画化されたのは1920年であり、須磨子の事件が20年も前の1900年の作品を掘り起こすきっかけになったように、私には思われます。

 27歳の龍之介は2月中頃から再びスペイン風邪に罹り、症状はだらだら続き、3月3日に東京・田端の自宅から鎌倉の家へ戻りましたが、12日になっても、「目下インフルエンザの予後で甚だ心細い生き方をしてゐます」と書いています。
 そして3月15日、龍之介の実父新原敏三がスペイン風邪で亡くなりました。
 69歳でした。

 正確な状況を把握することは不可能ですが、日本におけるスペイン風邪の患者数約2358万人以上、死者数約38万5千人以上と推定されています。
 関東大震災や東京大空襲、広島や長崎における原爆犠牲者をはるかに上回る数字で、日本総人口のおよそ41.6%以上がスペイン風邪を発症し、0.68%以上が亡くなったにも関わらず、スペイン風邪は「忘れ去られたパンデミック」と言われるように、日常生活の中に埋没していきました。


 コレラが怖くて、家に引きこもったり、食材は煮沸して食べた泉鏡花も、スペイン風邪から逃げ回った形跡はありません。
 1916年に疫痢で長女を失った徳田秋聲(1872 - 1943)も、スペイン風邪について特に触れていないのです。

 もちろん、芥川龍之介と同じように、スペイン風邪に罹ったことを書簡などに残した文学者がないわけではありません。
 歌人で精神科医の斎藤茂吉(1882- 1953)もその一人。
 茂吉は1920年1月、長崎で罹患し、生死をさまよい、同僚医師が亡くなっています。
 茂吉はスペイン風邪からは生還しましたが、結局、結核を発症し療養を余儀なくされました。

 武者小路実篤(1885 - 1976)はスペイン風邪から20年を経過した1939年に書いた『愛と死』で、主人公の惚れた女性をスペイン風邪によって奪っています。

 ただ、丹念に読んで行けば、スペイン風邪大流行時の影を見出す作品はいくつかあるのではないだろうか。
 私がひっかかったのは、室生犀星(1889 - 1962)の『或る少女の死まで』です。
 1919年、小説家に転身した犀星は、『幼年時代』『性に眼覚める頃』に続いて、11月、『或る少女の死まで』を発表しました。
 幼年期、少年期に続いて、上京間もない青年期を描いた作品に、なぜ少女の死をテーマに選んだのでしょうか。

 ひとつの可能性は、結婚を機に、石尾春子や村田艶(ツヤ)をはじめとする、それまで犀星が好きになった女性を「殺す」、つまり、記憶から消してしまうということです。
 とりわけ、ふじ子に関しては、石尾春子との金石時代の思い出が重ねられているように感じられ、1914年8月7日の夜行で、「緑深い金沢」へ帰った犀星が春子に再会し、やがて恋破れていったことも反映されているようです。

 ただ、新型コロナウイルス感染症の拡大が日本も含め、世界を揺るがす中で、100年前のスペイン風邪大流行に注目した時、私にはもうひとつの可能性が浮かんできました。
『或る少女の死まで』はスペイン風邪の第一次大流行を越え、第二次大流行へさしかかる1919年に書かれました。
 2月には結婚に際し労を惜しまなかった義母(実父の妻)小畠珠が49歳で亡くなっており、時期的にスペイン風邪による死を否定できません。
 親友になった龍之介もスペイン風邪に罹ったし、龍之介の実父は3月にスペイン風邪で亡くなっています。

 当時は多産多死の時代がまだ続いており、人が生まれ、人が亡くなっていくということが、日常生活の当たり前の出来事で、さまざまな感染症が繰り返し襲って来ており、乳幼児の死亡も多く、スペイン風邪だけが、特別な存在として意識されることは、ほとんどなかったと思われますが、それでも平常よりはるかに多い死亡は、社会全体を包み込み、犀星にも影響を与えたのではないでしょうか。

『或る少女の死まで』で元気なふじ子は、鹿児島に行ってから、12月に腸に病を得て急死しています。
 腸チフスを想定したかもしれませんが、設定時期1911年頃を、1918年12月に振り替えていくならば、スペイン風邪を念頭に置いたという推論も成り立ってきます。
 激しい嘔吐・下痢もスペイン風邪の症状としてみられ、元気だった子どもがあっという間に亡くなってしまった事例もみられます。
 
2020年05月23日追加


勝手に漱石文学館、館長のつぶやき
館長 北野豊
http://soseki.tokyo/index3.php

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斎藤茂吉とスペイン風邪

 新型インフルエンザが猛威をふるい、パンデミー(世界的流行)となる危険性が叫ばれている。
 もしも大流行したならば、人びとはパニックに陥らずに、冷静な行動を取ることができるだろうか。
 医療体制も十分な対応が備えられているのだろうか。
 人が動き、モノが動けば、目に見えない病気も動き、疫病が流行する。
 まさに、負の異文化交流となるのである。
 近代となり交通網が発達し、国際交流が活発になればなるほど、病気はエンデミー(風土病)からエピデミー(地方病)、そしてパンデミーへと激変するのである。

 斎藤茂吉(1882-1953)は、1917(大正6)年12月3日付けで、長崎医学専門学校教授に任じられ、併せて県立長崎病院精神科部長となった。
 一人で、研究者、臨床医、そして教育者という三役を担う、多忙な日々を過ごすこととなった。

寒き雨まれまれに降りはやりかぜ衰へぬ長崎の年暮れむとす
(『つゆじも』大正8年作)

 これは翌年の年の瀬に、茂吉が長崎の石畳を歩きながら、インフルエンザが流行していたことを、よんだものである。
 この時点では、自らに関わるものではなく、医者として、他者への眼差しで冷徹に「はやりかぜ」をよんだのである。
 この「はやりかぜ」とは、その頃、1918(大正7)年から20年にかけて、「スペイン風邪」と呼ばれ、世界中に猖獗したインフルエンザのことである。
 約6億人が感染し、少なくとも2000万人から、一説には4000万人が死亡したと推定されている。
 発生源は諸説あるが、ヨーロッパでは第一次世界大戦の最中であり、西部戦線で睨み合っていた両陣営で爆発的に流行し、フランス全土に席捲し、やがてスペインへと蔓延していった。
 1918年秋になると、この恐懼の「スペイン風邪」が、日本へ上陸し、越年して全国に猛威をふるった。
 日本でも約2300万人が感染し、3年間に38万8千人が死亡した。
 人口千人当たりの死亡者数は6.76人、患者百人当たりの死亡者数は1.63人であった。(1)
  大正時代に、このようなインフルエンザの流行があったとは驚愕である。
 この時のインフルエンザの体験を、これからに活かして欲しいものである。

 1920(大正9)年1月6日になり、茂吉は東京から義弟の斎藤西洋が長崎を訪れたので、妻のてる子と長男茂太と共に、大浦の長崎ホテルで晩餐をとり、楽しく過ごした。
 ところが、帰宅後に、茂吉自らが、「スペイン風邪」に罹り、急激に発熱し、寝込んでしまったのである。
 肺炎を併発し、四、五日間は生死を彷徨し、一時は生命を危ぶむ状況であった。
 てる子と茂太も罹ったが、比較的軽微な症状で、すぐに恢復した。
 茂吉は2月14日まで病臥にあり、同月24日から勤務したが、病み衰えた身体は、本復にはほど遠かった。
 50日近くも治療と療養に費やしたのであった。
 なお、長崎医学専門学校では、茂吉と同日に罹った同僚の大西進教授と、その後に罹った校長の尾中守三教授も相次いで死亡するほど、この「スペイン風邪」という病魔は猛威をふるったのであった。
 その時に、茂吉は次の歌をよんだ。

はやりかぜ一年(ひととせ)おそれ過ぎ来しが吾は臥(こや)りて現(うつつ)ともなし
(『つゆじも』「漫吟」大正九年作)

 2月16日になり、漸く快復した茂吉は、島木赤彦宛の書簡で次のように記した。
 御無沙汰仕りたり一昨日より全く床を離れ、昨日理髪せり、今日朝からかゝりて選歌し、未だ疲労ひどし。
 歌は一句ぐらゐづゝにて一首も纏めずにしまひ候、下熱後の衰弱と、肺炎のあとが、なかなか回復せず、いまだ朝一時間ぐらゐセキ、痰が出てて困る。
 東京の家にも重かった事話さず、たゞ心配させるのみなればなり。
 茂太も妻も、かへりて臥床、この時は小生も少し無理して、それで長引いたかも知れず。
(2)

 どうにか勤務を再開したが、今度は6月2日に突然の喀血に見舞われた。
 8日にも再喀血した。
 病状が恢復しないので、6月25日になると、県立長崎病院西二棟七号室に入院し、菅原教授の診察を受けた。
 10日余りの治療であったが、好転したので、7月4日頃に退院した。
 入院中には次の歌がある。

病(やまひ)ある人いくたりかこの室(へや)を出入(いでい)りけむ壁は厚しも
ゆふされば蚊のむらがりて鳴くこゑす病むしはぶきの声も聞こゆる
闇深きに蟋蟀(こほろぎ)鳴けり聞き居れど病人(やみびと)吾は心しづかにあらな

(『つゆじも』「漫吟」大正九年作)

 その後、猛暑の中での自宅療養となったが、転地療法を必要とした。
 そのため、7月26日から8月14日まで温泉嶽(雲仙)よろづ旅館へ、8月30日には佐賀県唐津海岸の木村屋旅館へ、9月11日から10月3日までは佐賀県小城郡古湯温泉の扇屋へ逗留し療養した。
 茂吉の「手帳」によれば、8月25日に喀血し、26日には再喀血をした。
 その後、血痰が連日続き、10月1日まで続いた。
 血痰の分量が減り、その色鮮紅色から、淡紅色、黄褐色、黄色へと徐々に変化し、段々と恢復していくことが分かる。

 10月28日になり、学校と病院へ復帰し次の歌をよんだ。
 長い療養生活であった。

病院のわが部屋に来て水道のあかく出て来るを寂しみゐたり
(『つゆじも』「長崎」大正九年作)

 茂吉にとって1920(大正9)年は、インフルエンザに罹患し、喀血に見舞われ、ほとんど治療と療養の生活であった。
 インフルエンザと喀血は連動したものか、切り離して考えるべきものかは判然としない。
 しかし、少なくとも、インフルエンザから肺炎が遠因となり、喀血に見舞われたともいえよう。
 茂吉は、医者として喀血を自覚し、また覚悟していた。
 死を予感し、死に直面した年であったといえよう。

 しかし、旺盛な評論活動をした年であり、「アララギ」(大正9年4月号)に「短歌に於ける写生説(一)」を発表し、その後8回に亘って写生論を展開した。
 とくに「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。」という実相観入の写生論の確立をみたのである。
 この写生論は、肺炎から恢復し、喀血から療養生活を送る、病中、病後にまとめたものである。
 まさに、病気の体験を通じて、この論が生まれたことは間違いないであろう。

 ところで、茂吉先生に叱声を受けると思うが、小生の駄作を記す。

闇深きに鼾(いびき)の音を聞き居れど隣人(となりびと)吾は心しづかにあらな

[注]
(1) 東京都健康安全センター年報56巻「日本におけるスペインかぜの精密分析」2005年、369〜374ページ。
(2) 『斎藤茂吉全集』第33巻、岩波書店、1973年、372ページ。

日本大学大学院総合社会情報研究科電子マガジン 35号、2009年3月3日発行
斎藤茂吉とスペイン風邪
博士後期課程 小泉 博明(※)
https://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~e-magazine/035/essey2.html

(※)小泉博明(こいずみ・ひろあき)
1954年東京生まれ。現在、文京学院大学外国語学部教授。著書に『斎藤茂吉、悩める精神病医の眼差し(シリーズ・人と文化の探究)』( ミネルヴァ書房、2016年3月)

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2020年08月10日

「へいわとせんそう」

詩人の谷川俊太郎さん(88)は、平和への思いを、自らの言葉で詩に込めてきた。
戦後75年を迎えたこの夏、本紙のインタビューに応じ、毎日の生活を地道に続け、その生活を守ることしか戦争反対の道はないと語った。


 父は法政大総長も務めた哲学者、徹三さん=愛知県常滑(とこなめ)町(現・常滑市)出身。谷川さんは満州事変が起きた1931年に東京で生まれ、1945年5月の「山の手空襲」を体験した。

「戦争に対する不安というのはずっとある。反戦の詩とかそういうのを書くのは自然な流れだった」

 年を追うごとに「戦争ってのはなくならない」と確信するようになった。世界中でテロ行為的な戦争が次々と起きる。リモートコントロールで爆撃できるドローンのように、新しい技術はすぐに兵器に応用される。そんな現実にぶつかっても、反戦の思いは変わらないという。「どんなに正義をふりかざしても、人が人を殺すのは自分にとっては嫌」と話す。

 日本の戦後については「ずっとまあ、一応、平和だった。我々の日常生活ってのは平和がまず先」と振り返った。一人の人間として、戦争にあらがうにはどうすればいいのか。谷川さんが思い至ったのは「地道に毎日の生活を続けていくこと。その生活を信じ、守ること」だ。


[写真]
戦争と平和について話す詩人の谷川俊太郎さん=東京都杉並区の自宅で

東京新聞、2020年8月9日 06時00分
詩人・谷川俊太郎さんが見つけた戦争反対への道
https://www.tokyo-np.co.jp/article/47885

詩人谷川俊太郎さん(88)は戦後、平和とは何かを自らの言葉で問い続けてきた。
少年時代に空襲を体験した谷川さんの目に、戦争はどのように映ってきたのか。
戦争を知らない世代に平和をどのように伝えていくのか。
詩に込めた思いを聞いた。


◆ 山の手空襲 「死ぬって気が全然しなくてね」
―― 1945年5月、谷川さんは山の手空襲を体験した。まだ13歳だった。

谷川: 焼夷弾が降ってくるのが見えて、それが風かなんかでそれていくんですよね。あーよかった、みたいなことをやってました。そのころの男の子って、戦争を一種、楽しんでいるところがあったんですよ。怖いけども。死ぬって気が全然しなくてね。防空壕に入ったりはしてましたけど。
 空襲の日のあくる日の朝に、友達と自転車で実際に焼夷弾が落ちた場所へ出掛けていって、そこで焼死体をいくつも見たんです。それが一番強烈な経験ですね。ただ、それもまあ男の子だから。その辺の焼夷弾の破片を拾ってきて、うちへぶつけて爆発させたりとかね。遊び半分みたいな感じでした。
 うちが割と恵まれていてね、母がずっといてくれたわけだから、あんまり不安を感じなかったってことはあると思うんですけども。
 うちの父が、戦争がだいぶ終わりに近づいたころに、どうやって日本を救うか、海軍の人たちとか何人かで秘密に会っていたことがあるんですね。そういうことが空気として分かっていて。
 首相だった東条英機さんが新聞で、こどもの頭をなでているようなのがあったのね。それを見て、父がすごい苦々しげに「こういうことをやるようになっちゃ、おしまいだ」と言ったのは、すごくはっきり記憶してますね。

◆ 戦争は悪 「人が人を殺すとか、嫌だな」
―― 時がたつにつれ、戦争はなくならないとの考えに至った。

谷川: 若いころは戦争はなくすことができるってどこかで思っていた気がするんですけど。
 ある時期から戦争ってのはなくならないというふうに確信するようになったんですよね。戦争の原因というのは、突き詰めれば、人間の一種の欲望みたいなものだろうと。
 今の世の中はほんとに複雑化していて。戦争が錯綜した原因で起こっていると思うし。国家同士の戦争は逆になくなってきているわけでしょ。で、テロ行為的な戦争がすごく盛んになっていて。そういう中で、例えばドローンによる、完全にリモートで戦争しているみたいなことが起こってきたわけだから。
 我々が感じていた戦争とは、全然違うものになっているというのが強いんですよね。
 それでも戦争が悪であるというのは全然変わらなくてね。どんなに正義をふりかざしても、人が人を殺すとかね、そういうのがやっぱり自分にとってはちょっと嫌だな、ということになっちゃいますね。
 今にも生身の人間が全然、戦争しないで、ロボットとかサイボーグが闘うようになるんでしょうね。その感じっていうのは何かゲームでみんな感じているんじゃないかという気がするのね。
 それも怖いんですよね。生身でない戦争を感じちゃって、それが戦争だと思っちゃう若い人たちがいたら。人間の命の見方が、ちょっと違ってくるような気がしますけどね。

―― 戦後75年を迎えた。戦争体験を知る人たちが減り続けている。

谷川: 語り部的なことをやっている人がいて、とにかく伝えなきゃいけないというのは確かにあるんだけど、無理だと思いますね。どうしたって忘れちゃいますね。
 録音、録画でとっておくことはできるけども、違うんですよね。メディアを通すと。
 だから、僕が考えるのはやはり、作品、フィクションでいいものがあれば、その感覚というか、その経験がよみがえるんじゃないかという気がするんですよね、事実は忘れ去られても、芸術作品としてよみがえることはありうると。

―― 再び戦争を起こさないため、戦争に協力した歴史を反省すべきか。

谷川: いくら戦争反対といっても、個人が戦争反対ということを行動に移せないと思うんですよね。
 やはり実際に戦争を動かすのは大企業とかね、武器産業とか、本当に戦争をしたい有力者がいるんだろうと思うんですよね。戦争がもうかるということであれば。そういうとこまでを動かすわけにはいかないと思うんですけどね。
 反省する必要はなくて、むしろ逆に今の状況の中で、どうやって自分が戦争に反対することができるのかというふうに考えないと。
 簡単に言えば、その人がその人の仕事をちゃんと地道にやっていって、日常生活、まあ家庭を持っていれば家庭をちゃんとやっていくことが必要だと思いますね。
 地道に毎日の生活をちゃんと続けていくってことが平和だということだろうと思いますね。
 基本的にそういう人間の普通の生活を信じて、それを守るということしか戦争反対の道はないという気がするんです。
 それが、たった一人であってもね。

反戦詩 「戦争に対する不安は、ずっとある」

―― 原爆をテーマにした詩を書いてきた。ベトナム戦争では反戦の詩をつづり、武満徹さんが作曲した。

谷川: 戦争に対する不安というのは、ずっとあるわけですよね。戦争と平和っていうことを自然に、自分の日常生活の中でも考えたり、感じたりするようになっているので。反戦の詩とか、そういうのを書くのは自然な流れだったと思いますね。
 自分は現実に対して、やっぱりある距離をとって詩を書いてますね。戦争が嫌だから戦争反対って詩を書くとか、あんまり意味がないと。自分が持っている技量、技術っていうのかな、それか感性を、普通のシュプレッヒコールでみんなが叫ぶような言葉じゃない言葉で書きたいというのは最初からありました。
 僕は言葉の力を過信しないようにしていて。言葉はどうしてもそこに被膜をつくってしまう。生の手触りを失うようなものだと思うのね。それを破るのはほんとにいい文章ということになるんですけどね。
 詩を書いていると、自分の身近なことから、宇宙の話から、言葉が広がっていくわけですよね。その中に食事のことと同じように戦争のことが頭に浮かぶわけじゃないですか。
 2015年に絵本「せんそうしない」、2019年には「へいわとせんそう」を出版。「戦争が終わって平和になるんじゃない 平和な毎日に戦争が侵入してくるんだ」と思いを込めた。
 日本はずっとまあ一応、平和だったわけでしょ、あの戦争に負けてから。なんか今ちょっとみんな思ってないかもしれないけど。平和ってのが当然であるのに、戦争と平和っていうふうに反対語のようにとらえるのは、ちょっとおかしいんじゃないかと。我々の日常生活ってのは、平和がまず先であって、そこに戦争が侵入してくる。
 子どものために書くというよりも、絵本というのは自分の中で大きなメディアになっているんですね。若いころから絵本を随分書いてきたし。今、やはりなんか世の中がこう不安になって、戦争をテーマに描かないかと誘いが来るので、書いたんです。
 「せんそうしない」というのは、人間だけが戦争しているんで、他の生き物は争いはするにしても戦争はしてないわけでしょ。「へいわとせんそう」はトルストイ以来、「戦争と平和」となって、定着しているけど、逆なんじゃないかと。


東京新聞、2020年8月9日 06時00分
詩人谷川俊太郎さんインタヴュー
平和とは「地道に生活を続けていくこと」
谷川俊太郎さんが詩に込めてきた思い

https://www.tokyo-np.co.jp/article/47880

 生還を期せず、飛行機や魚雷に乗って敵に体当たり攻撃する「特攻」。なぜ、太平洋戦争末期の日本軍だけが、この特異な戦法を組織的に行ったのか。推進者さえまっとうな作戦と考えていなかった特攻の、思想的な背景を探った。

 神風特別攻撃隊の初めての出撃は1944年10月のことだったが、その1年以上前の1943年夏ごろには海軍中枢で特攻の検討が始まり、陸海軍の現場でも特攻の志願・提案が相次いでいた。軍内部に特攻を是とする土壌が存在していたことになる。

 海軍中尉・黒木博司は1943年秋、自爆攻撃を嘆願する「血書」を海軍に提出した。12月に魚雷を有人化した特攻兵器を仁科関夫(にしなせきお)少尉と提案し、1944年8月に「回天」として正式採用された。だが、黒木は訓練中に海底に沈んだ回天に閉じ込められ22歳で殉職。窒息死までの約半日、回天の改良点を指摘したメモや遺書を綴(つづ)り、回天の内壁には「天皇陛下万歳」と刻んだ。

 何が黒木を特攻へと駆り立てたのか。黒木が師事し、心酔していたのが平泉澄(きよし)・東京帝国大教授だった。実証的な歴史学者だった平泉は、昭和初期に日本が国際社会で孤立を深めていくと、日本を「神の国」とする「皇国史観(こうこくしかん)」の第一人者となった。

 平泉が称揚したのが、14世紀に天皇親政を復活させた後醍醐(ごだいご)天皇に命を捧げた武将楠木正成(くすのきまさしげ)だ。昭和の日本人にも「臣民悉(ことごと)く 陛下の御為(おんため)に生命を捧げ奉る」という天皇への忠誠心を求めた。各地に正成の銅像が建ち、ゆかりの地が観光名所となり、展覧会が開かれ、作家がこぞってとりあげた。

 『近代日本の国体論』などの著書がある昆野伸幸・神戸大准教授(46)は「娯楽と一体となって『正成が日本人の理想』という考えが人びとにすり込まれ、天皇への自己犠牲を批判できない空気が形成された」とみる。特攻隊にも、正成にちなんだ隊名が多数つけられた。
* * *
 海軍で特攻を主導した大西瀧治郎(たきじろう)中将は「特攻で2千万人の命を犠牲にする覚悟を決めれば、勝利できる」と訴え、徹底抗戦を主張した。政治思想史を研究する片山杜秀(もりひで)・慶応大教授(56)は「根底には『総力戦』に対する軍人独特の思想があった」と指摘する。第1次大戦以降、戦争は一国全体の経済力や技術力を総動員する「総力戦」となった。絶対的な国力で欧米諸国に劣る日本が、それでも勝利するにはどうするか――。

 東条英機のブレーンだった陸軍軍人の中柴末純(すえずみ)の出した結論は、敵国民の理解を超えた捨て身の攻撃を繰り返し、敵を「戦闘力が未(いま)だ有つても、国民全部の交戦志気が沮喪(そそう)する」状態に追い込むことだった。大西も「一億総特攻」を唱え、敵の戦意喪失を狙った。片山さんは「中柴や大西は最初から非合理的だったのではなく、『国力が劣る中でどう勝つか』という合理的思考を突き詰めた結果、極端な精神主義にたどり着いた」とみる。
* * *
 特攻に関わった人びとの多くが、大西や黒木のように「特攻の必要性」を確信したわけではない。日本海軍の研究家・戸高一成さん(72)によれば、海軍内でも特攻を決意するまでは逡巡(しゅんじゅん)や葛藤があったが、一度実行すると、雪崩をうったように特攻作戦一本やりとなった。

「海軍も官僚組織で、先例ができるとそれに逆らえない『空気』が形成される。制度上、艦隊の長官は特攻を拒否できたが、それを行う勇気がある長官はほとんどいなかった」

■ 同調圧力、昔も今も
作家・演出家、鴻上尚史さん
 特攻には、開始前から有効性を疑問視する声がありました。それでも「日本を守るには特攻しかない」という空気ができると、強烈な同調圧力が生じ、逆らうと猛烈な叱責(しっせき)やいじめを受けた。非常事態宣言や自粛がコロナ禍にどこまで有効か分からないのに、営業を続ける店がSNSでバッシングされるのと同じ。日本型組織や社会は、昔も今も「構成員一人ひとりの命や生きがい、幸せを消費して存続する」という凶暴な面があります。
 僕が『不死身の特攻兵』という本で取り上げた佐々木友次(ともじ)さんは「体当たりしてこい」という命令に従わず、9回出撃してその都度生還しました。なぜ、同調圧力に屈しなかったのか。問いかける僕に佐々木さんは「飛行機に乗ったら何もかも忘れる」「練習したら鳥の羽みたいに自由に動く」と話してくれた。「空を飛ぶ喜びを手放したくなかった」という強い思いが伝わってきました。「これが好きだ」という根源的な感情へのこだわり。それこそが、個人が世間の同調圧力と戦い、生き延びる拠点になると思います。

 <訪ねる>
人間魚雷「回天」の訓練基地があった山口県周南市の大津島には基地跡や記念館(0834-85-2310)があり、搭乗員の遺品、回天の実物大模型を展示する。陸軍の特攻基地があった鹿児島県南九州市には「知覧特攻平和会館」(0993-83-2525)がある。


朝日新聞・文化の扉、2020年8月10日 5時00分
「特攻」生んだ思想とは
総力戦、皇国史観と自己犠牲の空気が支え

(太田啓之)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14581501.html

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戦後75年「私の父は誰?」

「父が誰か、知りたい」
「日本で父の墓参りをしたいのに手掛かりが何もない」……。
 日本から遠く離れたオランダで、そんな思いを抱き続ける日系人たちがいる。
 70代以上のお年寄りばかりで、多くは高齢になってから「父は日本人」という出生の秘密を知った。
 なぜ、そんな日系人たちがいるのか。
 オランダと日本、その高齢者たちが生まれたインドネシア。第2次世界大戦に起因する彼らの過酷な人生を追った。

67歳で初めて知った自分の“秘密”

 オランダのアーネム市はライン川沿いの美しい街だ。
 そこで暮らすフレッド(75)は、あの手紙を読んだときの衝撃を今も忘れない。
 差出人は、隣町に住む叔母のアマリア。
 実母が他界し、何年か過ぎた2012年のことだ。

 便箋にはこんなことが書かれていた。

「あなたは『ナカノ』という日本軍人の子です。戦時中、生活に困って、あなたのお母さんは日本軍人が出入りする飲食店で働いていました。そこで『ナカノ』と親しくなり、あなたが生まれた。お母さんは死ぬまで事実を秘密にしていたから、今まで私もあなたに伝えられなかったけれど」

 フレッドは当時67歳。
 その年齢になって初めて、自らの出生の秘密を知ったのである。
 手紙には「もしあなたが軍服を着たら、『ナカノ』にそっくりでしょうね」とも書かれていた。

 フレッドは「弟や妹に比べて、変わった子、醜い子と感じながら育ちました」と明かす。
 違和感の正体は分からず、家に居づらい。
 15歳で商船の厨房スタッフになって世界中を回った。
 横浜や神戸など日本への寄港経験もある。
「日本ではなぜか、心地よさを感じました」とも語る。
 その理由も叔母からの手紙で分かった気がした。

 日本人を父とする高齢の「日系オランダ人」は、フレッドだけではない。
 その数は約800人とも千人単位とも言われる。

 1941年、日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まると、日本はフィリピンやマレーシアなどだけでなく、オランダの植民地だったインドネシア(当時の呼び名は「オランダ領東インド」「蘭印」)も攻撃して占領した。
 
 敗戦までの約3年半、ジャワやスマトラなどの島々には、日本の軍人や軍属、民間人など約30万人が駐留した。
 大半は男性であり、現地のインドネシア系オランダ人女性との間に、多くの子どもが生まれた。

 戦争が終わると、日本人は日本に引き揚げた。
 連合国軍総司令部(GHQ)の指令などにより、日本に戻れるのは軍人や軍属らの「日本人」だけであり、インドネシアの女性や子どもを連れていくことは基本的にできない。

 日本の支配を脱したインドネシアは、再びオランダの植民地になった。
 そして今度はオランダ相手の独立戦争が始まる。
 インドネシアでは殺戮と混乱が続き、それまでの地位や財産を奪われる者も続出。
 そうした事態から逃れるため、残された女性や子どもらは、見たこともない「本国・オランダ」に向かった。
 フレッドと母も、その中にいたのである。

 67歳にして「自分は日本人の子」と知ったフレッドは、その年、戦時中の史料を調べているオランダの団体に実父の調査を依頼した。
 しかし、手元に詳しい情報がほとんどなく、調査は進まない。
 日本の国立公文書館で公開されている日本の軍人・軍属名簿では58人もの「ナカノ」が見つかったが、それ以上、調査は進まなかった。

 フレッドには厳しい「父」がいた。
 その「父」が養父だったことも、あの叔母の手紙で知った。
 養父は母と同じインドネシア系オランダ人。戦時中は日本軍の捕虜だったという。

 フレッドは言った。

「実父が見つかることはないでしょう。もう諦めています。それでも写真は見たい。墓参りもしたい。父はどんな人物だったのか……どうしても知りたいんです」

実父が見つかった人も

 実父を探し当てた日系オランダ人も、わずかにいる。
 エドワード(74)はその一人だ。
 2003年、57歳のときに母からこう聞かされたという。

「あなたの本当の父は戦時中、ジャワ島のチルボンにいた日本人です。名前は『ムラカミ』。私は彼のいる事務所で働いていた。でも、『ムラカミ』を探すのは私が死ぬまで待ってほしい」

 衝撃だった。
 オランダでは、ナチス・ドイツと日本は「敵国」。
 ドイツ人や日本人が父親だと分かると、子どもたちは戦後しばらく、「ナチスの子」「日本の子」といじめられた。
 母親は「敵と関係した女」などと後ろ指をさされた。

 そうした事態から逃れようと、多くの母親は事実を隠し、長い間、胸にしまい込んでいく。
 それでも「いつか真実を伝えよう」と考えていたのか、死が近づくにつれ、出生の秘密を打ち明けるケースが増えてきた。
 1990年代後半ごろからである。

 戦後60年近くたって事実を明かしたエドワードの母親は、その2年後に他界した。
 そこからエドワードの父親探しは本格化する。
 元読売新聞記者の内山馨(96)、その尽力を引き継いだオランダの支援団体などによる長期の調査は続き、父親の親族の所在が判明したのだ。

 エドワードは2016 年、東京で異母弟との対面を果たした。
 東京都内にある実父の墓にも足を運び、「もう存在しない」と聞かされていた亡き父の写真も2枚受け取った。
 ただ、異母妹は「関わりたくない」として、面談もかなわなかった。
 そして、この訪日を最後に親族との交流は途切れてしまった。

 帰国後、エドワードの心中は複雑だった。
 彼は長兄で、11人の妹と弟がいる。
 実のきょうだいと信じて疑わなかったが、エドワードだけ父親が異なる。
 50歳を過ぎて本当の父親探しに没頭していく中で、弟や妹たちとはぎくしゃくした。

 エドワードは最近、がんや膝の手術をした。
 体調は芳しくない。
 自らの事業だったバンガロー公園の経営も、子どもたちに任せた。
 声も弱々しくなってきた。

 この7月、エドワードはこんなことを語った。

「(東京では)もっと腹を割って弟と話したかったんです。でも、父の墓参りの後、喫茶店で短時間会話しただけでした。彼は自分と同じ不動産の仕事をしている。もう一度会えば、きっと打ち解けると思う。彼は旅好きで毎年アメリカなどに行くと言っていたから、きっとオランダも気に入ってくれる。私のバンガロー公園やこの広々した田舎の景色をぜひ見てもらいたい」

「私はお父さんに抱っこされてない」

 オランダ東部に住むテレーゼは74歳という高齢になった今も、フランス語とインドネシア語の現役教師だ。
 オランダには姉のマリーも住んでいる。

 17歳の頃、母から「あなたの父親は日本人」という事実を聞き出したテレーゼは、前出の内山やオランダの支援団体などに父親探しを依頼し、次第に事実が判明した。
 実父の姓は「モリ」。
 佐賀県の出身だったという。
 インドネシアに駐留する前は日本で家庭を築き、息子が1人いた。
 その息子は戦死。
「モリ」はテレーゼが生まれる前、敗戦で日本へ復員したという。
「モリ」には直系の子孫がテレーゼとマリーしかいないことも分かった。

 テレーゼ姉妹は2017年、日本で「モリ」の兄の子どもである「ハルノ」ら親族と会うことができ、実父の写真も手にした。
 しかし、1961年に他界していた父の実像を知るには、時が経ちすぎていた。
 高齢だった日本の従姉妹は昨年死去。
 オランダの支援団体からの照会に快く応じていた遠い親戚も、2年前に急逝した。

 テレーゼは言う。

「復員後のお父さんの近くで数年間暮らし、父のことを知っているハルノさんも昨年亡くなってしまって……。(父の故郷が佐賀県なので)私は九州まで行って、お父さんのお墓を探したこともあるんです。でも見つからなかった。父の遺骨がどこに納められたかは分からないままです。親族との面会は実現しましたが、今でも、父の墓参りの夢をなんとか叶えたいと思っているんです」

「姉のマリーは赤ちゃんの時、お父さんに抱っこされているんです。でも、私にはそれがない。お父さんは、私がおなかにいる時にインドネシアを去りました。『ケイコ』という名前を残してくれましたが、私を見たこともないんです」

 だから、なんとしても墓参りして、自分の姿を父に見せたいのだという。

誰でもいい、父を覚えている人に会いたい

 テレーゼ姉妹やエドワードのように、実父の足跡をつかめた日系オランダ人は多くない。
 さらに、実際に会えたとなると数人しかいない。
 多くの「日本人の子」は、わずかな手掛かりを頼りに、父や親族の写真を集めたり、かつての様子を伝え聞いたりしながら、父の“実像”を想像するしかない。

 そんな一人、ロブ(74)の心情は複雑だ。

 幼いころから「何かおかしい、何か秘密があると感じていました」と言う。
 母親の“望んでいなかった関係”から自分が生まれたと知ったのは、44歳のときだった。
 実父は日本人の警察官。母が身ごもっていることも知らぬまま、日本に復員した。

「自分は望まれていなかった」

 それを母に教えられたロブは、深い自己喪失感に陥り、一時は自死も考えた。
 それでも父を探そうとした。
 家族の歴史を知ることで、心も安定するのではないかと考えたからだ。
 父の姓は「カワバタ」。
 オランダ国立公文書館で、日本軍の電話帳から「警察官カワバタ」も見つかった。

 しかし、そこで調査は止まった。
 支援団体からの照会に対し、日本の親族から音信がなかったからだ。
 親族らは大きな衝撃を受けたのかもしれない。
 インドネシアから復員した男性たちは、日本に戻って「南洋の楽園」での真実を語ったとは限らない。
 子どもをつくったという自覚がない人もいる。

「誰でもいい。父のことを覚えている親族に会い、お墓参りしたい。父の見ていた風景を自分の目でも見てみたいんです」

 そんなロブの願いは、なかなか実現しそうにない。

支援団体「彼らの心の整理を手伝うしか……」

 日本人の父を探し続ける、年老いたオランダの子どもたち。
 そうした人々の一端をさらに写真で紹介しよう。
 子どもたちは概ね75 歳前後になり、父親探しはますます難航している。

 前出の内山は70組の調査を手掛け、23組の父を特定した。
 それを引き継いだオランダの「アジア太平洋戦争 日本関連史資料および学術連絡支援財団」(SOO)によると、内山の調査以後、40組から調査や面会の依頼を受け、このうち6組が日本の親族にたどり着き、6組は今も日本側親族との接触を試みている。
 そのほかは情報が少なく、親族へたどり着く可能性は低い。
 また、ここ数年で依頼者3人が亡くなった。

 SOOの中心メンバーで、オランダ在住の葉子・ハュス-綿貫(61)は、そうしたオランダ人たちと苦楽を共にしてきた。

「親族が見つかることが難しそうな日系人たちに、何ができるのか。それは、彼ら彼女らの心の整理を手伝うことだと思います。父の国である日本とその歴史、そして日本への日系人の理解を深めることです」

[写真-1]
フレッド

[写真-2]
オランダ語に日本語が上書きされた「蘭印」の地図=オランダのブロンベーク博物館所蔵

[写真-3]
日本占領下の「蘭印」で発行された切手

[写真-4]
自宅の庭でくつろぐフレッド

[写真-5]
エドワード。自宅近くの牧草地で

[写真-6]
エドワードの孫娘たち。日系3世

[写真-7]
テレーゼ。自宅近くの公園で

[写真-8]
親族が保管していた実父の写真を見せるテレーゼ

[写真-9]
ロブ

[写真-10]
ロブは自宅の庭を日本風に造った

[写真-11]
75歳のジャックが大切にしている写真。右上の写真立ての中では、養父母に抱かれている。ジャックは生後数日で叔母夫婦に引き取られ、養子になった。それを知らされないまま成長した。「(弟や妹たちと)自分は見かけも違っていましたが、触れてはいけないことだと感じていました。日本人の子どもだという真実を知ったのは50 歳のとき。ずっと父母だと思っていたのは養父母で、養母の姉こそが実母だったと知りました。その時、実父が日本人だと知りましたが、本当のお母さんは決して、父親のことを詳しく明かさなかった。父の手掛かりは何もありません」

[写真-12]
この写真はヘイディ(76)の幼い頃の一枚(本人提供)。隣は母。「母は実父が日本人であることをずっと隠していました。本当のことを語ってくれたのは叔父だけです」。日系の子どもたちは、家族間でも真のルーツを秘密とされてきたケースが大半だ。ヘイディは「母には秘密で父親探しをしていました。父は『エノモト』です。2018年には東京に行き、異母の妹と弟に会えました。コロナが落ち着いたらオランダで再会する約束もしています」。実父はインドネシアにいた当時、輸入品のカメラを愛用しており、実物が残っていることも聞かされた。この写真もそのカメラで撮影されたと思われる

[写真-13]
44歳の姉イムケ(左)と妹のマリーケ。日本人の子孫だ。母が諦めた父親探しを引き継ぎ、その子どもたちが「日本人の祖父探し」を担うケースも出始めている。祖父はジャワ島のジョグジャカルタで、製糖産業に従事していた「ニシムラ」。わずかな母の証言で調査はスタート。祖父と思われる人物も見つかり、今春から日本の親族への問い合わせも始めたという

[写真-14]
日系オランダ人グループの中心メンバー、クラウディーネ(75)

[写真-15]
クラウディーネの幼少期(本人提供)。右側は実母。クラウディーネは子どもの頃に「実父は日本人」と知らされ、18歳前後に1人で父探しを試みた。2014年、実父「ヤスシ」の名前が戦時中の史料で見つかり、翌年には関東圏の異母姉との連絡に成功。来日を果たした。「父がインドネシアで働いていたころの写真を多数受け取ることができました。いつか息子のジョージと再び日本へ行き、今度は父の墓参りをしたい」

[写真-16]
ハンス(左)とフランスは75歳の双子。父「ワタナベ」との関係を母は望んでいなかったが、母は妊娠し、2人が生まれたという。そのためか、母はオランダに渡った後も子育てができず、2人は教会の養護施設に預けられた。日系人の中でも2人は特に寂しい子ども時代を過ごしたと言える

[写真-17]
マルセル。日本名は「マサオ」。実父の「ヤスハラ」を探していたが、オランダの親族が沈黙を貫き、実父を見つけることができないまま、今年1月他界。75歳だった

[写真-18]
ジョン(75)。実父「イノウエ」を探している

[写真-19]
ジョンの自宅にあった古いアルバムに実父の写真が残っていた。そっと剥がして裏を見ると、「この人以外は愛さない」という母の文字。しかし、情報は少ない。実父はジャワ島東部の都市ブリタールにいたこと、日本の実家がミシン店だったということぐらいしか分からない

Yahoo Japan! News、2020/8/10(月) 9:08 配信
戦後75年「私の父は誰?」
真実を探し続けるオランダの日系人たち

(奥山美由紀)
https://news.yahoo.co.jp/feature/1780

※ 奥山美由紀(おくやま・みゆき)
1973年山形県東根市生まれ。オランダ在住。主に日系オランダ人やフィリピン残留日本人を取材。2016年、イタリア・コルトーナの写真祭で写真集がグランプリを受賞。2019年、スイス・ルガーノで写真賞を受賞。

posted by fom_club at 16:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

早く辞めた方が良いだろう

長崎での首相会見.jpg

・・・長崎での首相会見、ネットでみました。あらかじめ送っておいた内容を質問者が読み、あらかじめ用意しておいた答を読む会でした。それなら事前に質問回答を書面で配っておき、会見ではそれを前提に質疑応答してはどうでしょうか。首相がこちらにカンペを見せてくれたので構図がはっきりわかりました・・・

・・・この一枚の写真を見て。これもう悪いのはメディアだと思う。行政の頂点がこれなのを許しているのはメディアです・・・

・・・長崎に原爆を投下してから75年となる9日、被爆者たちは、日本政府が核兵器禁止条約に賛同せず、首相が長崎原爆資料館を今年も訪問しなかったことに怒りの声を上げた。首相は条約不参加と重ねて表明・・・

・・・安倍内閣を「支持しない」54%・・・

・・・広島と長崎、首相の被爆地あいさつ、文面酷似、何のために来たのか・・・

NEW YORK (IDN) – The Trump Administration, which has been recklessly wielding a wrecking ball against multilateral treaties, will be put to a test next year when the 1970 Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Non-Proliferation of Nuclear Weapons (NPT) will be up for review at the 2020 conference scheduled to take place in New York in April-May.

"We have a lot of work to do, especially since next year is the 50th anniversary of the NPT," Malaysian Ambassador Syed Mohamad Hasrin Aidid, who chaired the preparatory committee (PrepCoM) sessions, which concluded May 10, told the mayors of Hiroshima and Nagasaki on the sidelines of the PrepCom.

The Trump administration’s hardline position against multilateral treaties has been reflected in the U.S. withdrawal from three arms agreements so far: the 2015 multilateral nuclear agreement with Iran, the 1987 Intermediate-Range Nuclear Forces (INF) Treaty with Russia and the most recent un-signing of the 2013 international Arms Trade Treaty (ATT).

The NPT Review Conference is held every five years since the treaty went into force in 1970. According to the UN Office for Disarmament Affairs (UNODA), the 2005 and 2015 Review Conferences were unable to reach agreement on any substantive outcome documents.

Dr Rebecca Johnson, founder of the Acronym Institute for Disarmament Diplomacy and author of “Unfinished Business”, told IDN “while the PrepCom went better than expected, the real questions for 2020 are not about the review conference procedures but about the treaties under threat, mainly from the short-sightedeness of Trump and his officials who prioritise narrow nationalistic wish lists above collective international security, and who prefer unilateral threats to international legal agreements.”

In the run-up to 2020, she argued, “we need to bring into force the new UN Treaty that prohibits nuclear weapons use, production and deployment for everyone, and strengthen all aspects of the international security regimes that we need to protect humanity from nuclear and climate catastrophes that are looming over us."

Dr Johnson also pointed out that the recently-concluded NPT PrepCom was better than many had feared, thanks to the calm and effective chairing of Malaysia's Ambassador Hasrin.

“He managed to bypass various problems to adopt the main procedural issues, including agreement to designate Argentina's Ambassador Rafael Grossi as president of next year's 2020 Review Conference.”

She added that it had surprised no-one that the PrepCom ended without getting consensus agreement on issue-based recommendation – "in light of the deep divisions caused by the U.S. and Russia suspending the INF Treaty, the U.S. trying to wreck the JCPOA that was meant to constrain Iran's nuclear programme, as well as Syria, North Korea and other real world problems"

“A lot can happen in a year, negative and positive,” declared Dr Johnson, who also serves on the International Panel on Fissile Materials (IPFM) and International Steering Group (ISG) of the International Campaign to Abolish Nuclear Weapons (ICAN), following several years as ICAN Co-Chair and first President of ICAN Europe-Middle-East-Africa (EMEA).

“We have to use this year to put human security above narrow nationalist interests and reinforce local and global action to prevent the twin humanitarian disasters of climate destruction and nuclear war."

The current U.S. aggressive stance is attributed to two senior hawkish America officials: Secretary of State Mike Pompeo and National Security Adviser John Bolton, who are also pushing for U.S. military action on Iran.

Dr Tarja Cronberg, Distinquished Associate Fellow, at the Stockholm International Peace Research Institute (SIPRI), told IDN the NPT is a treaty designed by the U.S. (and the Soviet Union) in the 1960´s.

Although the treaty requires nuclear disarmament, it gives the right to five states to maintain nuclear weapons at the same time, as it prevents other states from accessing these weapons, she said.

As both the right to have nuclear weapons – and to prevent proliferation – are in the fundamental interest of the U.S., it is hard to imagine that the Trump administration would use “the wrecking ball” at the 2020 NPT Review Conference.

On the contrary, it is in the U.S. interests that the conference ends with a consensus document supporting the NPT, said Dr Cronberg.

Furthermore, opposed to other treaties the U.S. is withdrawing from, such as the Arms Trade Treaty and the INF-treaty – both of which limit U.S. freedom of action – the NPT treaty empowers the U.S., both to keep its own arms and at the same time provides a platform to the U.S. to prevent others, especially Iran and North Korea from possessing nuclear weapons, she argued.

“In this very case the U.S. would be expected to, not to oppose the multilateral character of the NPT-treaty, but to support it.”

“The situation is, however, challenged by the JCPOA, a multilateral agreement preventing Iran from manufacturing nuclear weapons. If this agreement, supported by the remaining partners after the U.S. exit in 2018, collapses before the 2020 conference, this will undermine the NPT,” she added.

Furthermore, if as a result, Iran would leave the NPT (today not a likely alternative) this could challenge the very existence of the NPT. In this case the U.S. would indirectly be responsible for wrecking the NPT, she noted.

Dr Cronberg also said the 2019 Prep Com that just finished in New York brought the long-term frustration built into the NPT between those who want the disarmament pillar strengthened and those that see the NPT only as a non-proliferation treaty into the open.

“Empowered by the new Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons, the majority of the non-nuclear weapon states had a major influence on the chair's recommendations for the 2020 conference. Opposed by the nuclear weapon states, particularly the U.S. and its allies, this confirms the polarisation of the current nuclear order.”

Unless the nuclear weapon states succeed in agreeing on disarmament measures that could form a basis for a compromise at the NPT 2020, the conference will be as divided as the Prep Com, she predicted.

Nevertheless, as the Review Conference is the 50th birthday of the NPT, there will be strong pressure to achieve a final consensus document, however thin, praising the treaty for its achievements, Dr Cronberg declared.

Meanwhile, at a press briefing in Sochi, Russia on May 14, and in the presence of Pompeo, Russian Foreign Minister Sergey Lavrov said: “I hope that we’ll be able to come up with specifics of ways how to get U.S.-Russian relations out of that regrettable state that they happen to be, due to several objective and subjective reasons involved, considering that this is the task, the instructions coming from our presidents that was confirmed during the Helsinki summit, as well as in their conversation on the 3rd of May.”

He said both the US and Russia have multiple issues that require both urgent methods as well as long-term, sustainable solutions.
“That has to do with the situation in strategic stability sphere, as well as more efficient ways to tackle terrorism, as well as finding solutions to different clashes in different regions of the world.”

He added: “We see that there are certain suspicions and prejudice on both sides, but this is not a way for – have a win-win situation because that mistrust that we have hinders both your security and our security, and causes concern around the world.”

“I believe that it is time to build new, more constructive and responsible metrics of our relationship, of our mutual perception, and we are prepared to do that if our U.S. colleagues and counterparts readily support that."

“I believe that a requisite – an important requisite for success of our dialogue is to rebuild trust at all levels of our dialogue – in the highest level, at the working level, (inaudible). And considering that we have met over the past two weeks for two times, that’s a reason for some optimism."

“Let’s try it and see what happens,” declared Lavrov.

According to the UN Office for Disarmament Affairs, the NPT is a landmark international treaty whose objective is to prevent the spread of nuclear weapons and weapons technology, to promote cooperation in the peaceful uses of nuclear energy and to further the goal of achieving nuclear disarmament and general and complete disarmament.

The Treaty represents the only binding commitment in a multilateral treaty to the goal of disarmament by the nuclear-weapon States. Opened for signature in 1968, the Treaty entered into force in 1970.

On May 11, 1995, the Treaty was extended indefinitely. A total of 191 States have joined the Treaty, including the five nuclear-weapon States. More countries have ratified the NPT than any other arms limitation and disarmament agreement, a testament to the Treaty’s significance.

Photo:
2020 NPT Review Conference Chair Argentine Ambassador Rafael Grossi addressing the third PrepCom. IDN-INPS Collage of photos by Alicia Sanders-Zakre, Arms Control Association.

IDN is flagship agency of the International Press Syndicate.

IDN, 2019-05-18
Nuclear Non-Proliferation Review Conference Could Hit a U.S. Roadblock
By Shanta Roy
https://www.nuclearabolition.info/index.php/1553-nuclear-non-proliferation-review-conference-could-hit-a-u-s-roadblock

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長崎市長「コロナも核兵器もみんなが当事者」

 私たちのまちに原子爆弾が襲いかかったあの日から、ちょうど75年。
 4分の3世紀がたった今も、私たちは「核兵器のある世界」に暮らしています。

 どうして私たち人間は、核兵器を未(いま)だになくすことができないでいるのでしょうか。
 人の命を無残に奪い、人間らしく死ぬことも許さず、放射能による苦しみを一生涯背負わせ続ける、このむごい兵器を捨て去ることができないのでしょうか。

 75年前の8月9日、原爆によって妻子を亡くし、その悲しみと平和への思いを音楽を通じて伝え続けた作曲家・木野普見雄さんは、手記にこう綴(つづ)っています。
 私の胸深く刻みつけられたあの日の原子雲の赤黒い拡(ひろ)がりの下に繰り展(ひろ)げられた惨劇、
 ベロベロに焼けただれた火達磨(ひだるま)の形相や、
 炭素のように黒焦げとなり、丸太のようにゴロゴロと瓦礫(がれき)の中に転がっていた数知れぬ屍体(したい)、
 髪はじりじりに焼け、うつろな瞳でさまよう女(ひと)、
 そうしたさまざまな幻影は、毎年めぐりくる8月9日ともなれば生々しく脳裡(のうり)に蘇(よみがえ)ってくる。

 被爆者は、この地獄のような体験を、二度とほかの誰にもさせてはならないと、必死で原子雲の下で何があったのかを伝えてきました。
 しかし、核兵器の本当の恐ろしさはまだ十分に世界に伝わってはいません。
 新型コロナウイルス感染症が自分の周囲で広がり始めるまで、私たちがその怖さに気づかなかったように、もし核兵器が使われてしまうまで、人類がその脅威に気づかなかったとしたら、取り返しのつかないことになってしまいます。

 今年は、核不拡散条約(NPT)の発効から50年の節目にあたります。

 この条約は、「核保有国をこれ以上増やさないこと」「核軍縮に誠実に努力すること」を約束した、人類にとってとても大切な取り決めです。
 しかしここ数年、中距離核戦力(INF)全廃条約を破棄してしまうなど、核保有国の間に核軍縮のための約束を反故(ほご)にする動きが強まっています。
 それだけでなく、新しい高性能の核兵器や、使いやすい小型核兵器の開発と配備も進められています。
 その結果、核兵器が使用される脅威が現実のものとなっているのです。

 “残り100秒”。
 地球滅亡までの時間を示す「終末時計」が今年、これまでで最短の時間を指していることが、こうした危機を象徴しています。

 3年前に国連で採択された核兵器禁止条約は「核兵器をなくすべきだ」という人類の意思を明確にした条約です。
 核保有国や核の傘の下にいる国々の中には、この条約をつくるのはまだ早すぎるという声があります。
 そうではありません。
 核軍縮があまりにも遅すぎるのです。

 被爆から75年、国連創設から75年という節目を迎えた今こそ、核兵器廃絶は、人類が自らに課した約束“国連総会決議第一号”であることを、私たちは思い出すべきです。

 昨年、長崎を訪問されたローマ教皇は、二つの“鍵”となる言葉を述べられました。
 一つは「核兵器から解放された平和な世界を実現するためには、すべての人の参加が必要です」という言葉。
 もう一つは「今、拡大しつつある相互不信の流れを壊さなくてはなりません」という言葉です。

 世界の皆さんに呼びかけます。

 平和のために私たちが参加する方法は無数にあります。

 今年、新型コロナウイルスに挑み続ける医療関係者に、多くの人が拍手を送りました。
 被爆から75年がたつ今日まで、体と心の痛みに耐えながら、つらい体験を語り、世界の人たちのために警告を発し続けてきた被爆者に、同じように、心からの敬意と感謝を込めて拍手を送りましょう。

 この拍手を送るという、わずか10秒ほどの行為によっても平和の輪は広がります。
 今日、大テントの中に掲げられている高校生たちの書にも、平和への願いが表現されています。
 折り鶴を折るという小さな行為で、平和への思いを伝えることもできます。
 確信を持って、たゆむことなく、「平和の文化」を市民社会に根づかせていきましょう。

 若い世代の皆さん。
 新型コロナウイルス感染症、地球温暖化、核兵器の問題に共通するのは、地球に住む私たちみんなが“当事者”だということです。
 あなたが住む未来の地球に核兵器は必要ですか。
 核兵器のない世界へと続く道を共に切り開き、そして一緒に歩んでいきましょう。

 世界各国の指導者に訴えます。

 「相互不信」の流れを壊し、対話による「信頼」の構築をめざしてください。
 今こそ、「分断」ではなく「連帯」に向けた行動を選択してください。
 来年開かれる予定のNPT再検討会議で、核超大国である米ロの核兵器削減など、実効性のある核軍縮の道筋を示すことを求めます。

 日本政府と国会議員に訴えます。

 核兵器の怖さを体験した国として、一日も早く核兵器禁止条約の署名・批准を実現するとともに、北東アジア非核兵器地帯の構築を検討してください。
「戦争をしない」という決意を込めた日本国憲法の平和の理念を永久に堅持してください。

 そして、今なお原爆の後障害に苦しむ被爆者のさらなる援護の充実とともに、未だ被爆者と認められていない被爆体験者に対する救済を求めます。

 東日本大震災から9年が経過しました。
 長崎は放射能の脅威を体験したまちとして、復興に向け奮闘されている福島の皆さんを応援します。

 新型コロナウイルスのために、心ならずも今日この式典に参列できなかった皆様とともに、原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、長崎は、広島、沖縄、そして戦争で多くの命を失った体験を持つまちや平和を求めるすべての人びとと連帯して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることを、ここに宣言します。
2020年(令和2年)8月9日
長崎市長 田上富久

[写真−1]
長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で「長崎平和宣言」を読み上げる長崎市の田上富久市長=2020年8月9日午前11時5分、長崎市の平和公園

[写真−2]
長崎への原爆投下から75年。平和公園を訪れ千羽鶴などを見つめる女性=2020年8月9日午前7時55分、長崎市

朝日新聞、2020年8月9日 12時02分
長崎市長あいさつ全文
コロナも核兵器もみんなが当事者

https://www.asahi.com/articles/ASN893STJN87TOLB00V.html

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2020年08月08日

Story of nuclear bombing in Hiroshima and Nagasaki

Clifton Daniel is right about his grandfather’s bombing of Hiroshima (‘He felt he had to do it’, 4 August).
※ https://www.theguardian.com/world/2020/aug/04/harry-truman-grandson-hiroshima-nuclear-atom-bomb

“That was no decision!” Harry S Truman told me when I interviewed him in July 1963 in the presidential library in Independence, Missouri. I was a postgraduate student and had come to ask him about Hiroshima, the case study at the centre of my recently completed thesis on presidential decision-making. At a stroke, the very core of my research was undercut by the amiable old man.

Truman, who had only become president a few weeks before Hiroshima upon the sudden death of Franklin D Roosevelt, told me how FDR’s advisers, notably the venerable secretary of war, Henry L Stimson, persuaded him that dropping the atomic bomb on people was the one initiative that might bring the war in the Pacific to a rapid end, without the need for a protracted invasion of the Japanese islands at the cost of a million more lives. When I asked Truman about the dangers of nuclear radiation, or whether the bomb was really used to impress or scare the Soviets, all this was dismissed as the dreamings of people who weren’t present at the time and were speculating about matters they weren’t competent to judge. “All the atomic bomb was,” said Truman, “was a big bomb to end the war. And it did end it too!”

I told him I had always had visions of the US president pacing the corridors of the White House, like Lincoln during the civil war, weighed down by the pressure of the job. Truman laughed. “I never lost sleep over any decision I had to make,” he said, adding confidentially: “Your Winston was the same, you know!”

As I left, Truman told me that, if I’d wanted to focus on a real decision – the biggest, most important he had had to make as president – I should have turned my attention to the US entry into Korea a few years later.

Daniel Snowman
Senior research fellow, Institute of Historical Research, University of London

• Whether the bombing of Hiroshima or the entry of the Soviet Union into the war was the crucial event in causing the Japanese surrender can never be conclusively settled (Hiroshima at 75: bitter row persists over US decision to drop the bomb, 5 August).

※ https://www.theguardian.com/world/2020/aug/04/hiroshima-atomic-bomb-us-japan-history
※ ヤッホーくんのこのブログ、2020年08月06日付け日記「Hiroshima at 75」をご参照ください。

However, very little is said about the motives for the second bomb, on Nagasaki three days later. Few argued that it was necessary to reinforce the message of Hiroshima. Rather, the military and scientific imperative was to test a different bomb design – “Fat Man”, an implosion type using plutonium, as opposed to the uranium of Hiroshima’s “Little Boy”. To my mind that, destroying a mainly civilian city for such reasons, makes it even more of a war crime, if that is possible, than the bombing of Hiroshima.

Frank Jackson
Former co-chair, World Disarmament Campaign


[photo]
‘All the atomic bomb was,’ Harry Truman told Daniel Snowman, ‘was a big bomb to end the war. And it did end it too!’

The Guardian, Letters, Fri 7 Aug 2020 16.31 BST
Harry Truman and the nuclear bombs dropped on Hiroshima and Nagasaki

Daniel Snowman interviewed the former US president in 1963 and reveals what he was told. Frank Jackson thinks the bombing of Nagasaki was even more of a war crime

https://www.theguardian.com/world/2020/aug/07/harry-truman-and-the-nuclear-bombs-dropped-on-hiroshima-and-nagasaki

A powerful 10-minute video artwork marking the 75th anniversary of the dropping of atomic bombs on Hiroshima and Nagasaki has been released by the Imperial War Museum in London.

The museum commissioned stage designers Es Devlin, who is British, and Machiko Weston, who is Japanese, to make the piece, which tells the stories and explores the impact of the bombings from different perspectives.

The film, I Saw the World End, has been posted on the museum’s website. It features Devlin and Weston reading short texts from a range of sources including extracts from HG Wells’ prophetic 1914 novel The World Set Free, in which he imagined a bomb of terrifying power that would be dropped from aeroplanes.

Devlin is one of the world’s leading stage designers, whose diverse work has included Sam Mendes’ production of The Lehman Trilogy, the Royal Opera’s Don Giovanni and stadium tours by artists such as Adele and Katy Perry. Weston has been a studio colleague for 12 years.

Working separately during lockdown, the pair initially started imagining a work with lots of visual imagery but soon became uncomfortable.

“We just didn’t feel we had the authority to invoke the power of any of these images,” said Devlin. “We didn’t feel we had the authority to write any words. So we felt collective reading was the appropriate response.”

Weston discovered letters written by a young Harry S Truman, decades before he became the president who ordered the bombings.

In one, he writes in 1911 to his future wife: “Uncle Wills does hate Chinese and Japs. So do I.”

Devlin said there were more overtly racist extracts, which they did not include. The question was whether to use any at all.

“We had a big conversation about the authenticity of including what was written when the guy was in his twenties, 34 years before he pressed the button,” she said.

“But there is a connection. There were many reasons for dropping the bomb; we can’t call it a racist act but I think racism is an interesting lens, right now, through which to view it and explore it.”

The piece also includes challenging and upsetting quotes from survivors, as well as more optimistic ones. For example, Yasujiro Tanaka, a Nagasaki survivor, who said: “As a firsthand witness to this atrocity, my only desire is to live a full life … hopefully in a world where people are kind to each other, and to themselves.”

It also features Albert Einstein and the physicist Leo Szilard, who first grasped the idea of a nuclear chain reaction as he waited at a London traffic light – on Southampton Row – in 1933.

The 10-minute video work was due to be officially unveiled on Thursday morning on a 45-metre screen in London’s Piccadilly Circus but events in Beirut led organisers to cancel.

Instead it was first revealed on a 1-metre screen at the Imperial War Museum at 8.15am, the time on 6 August 1945 that an atomic bomb was dropped from the Enola Gay on the city of Hiroshima. An estimated 80,000 of the city’s 350,000 population were killed instantly. By the end of the year the death toll had reached 140,000.

Both women obviously came to the subject with very different perspectives.

Devlin said she grew up with the books of Raymond Briggs, including the Snowman and Father Christmas. He also wrote When the Wind Blows, which tells the story of nuclear attack on Britain.

“I’m not alone; I speak to many of my generation who first heard about nuclear holocaust via the man who drew Father Christmas,” she said.

“I remember saying to my mum: ‘I don’t want to go to sleep in case the bomb goes off when I’m asleep.’ We grew up with that fear.”

She would ask whether a bomb had ever happened and was told yes by her parents, who said it was the only way to end the war.

“We were very interested in unpicking that. We are now in a generation which is able to question what happened, that’s our role now.”


The Guardian, Thu 6 Aug 2020 14.50 BST
Imperial War Museum unveils film marking 75 years since Hiroshima bomb

Video by Es Devlin and Machiko Weston tells story of nuclear bombing in Hiroshima and Nagasaki

By Mark Brown Arts correspondent
https://www.theguardian.com/world/2020/aug/06/imperial-war-museum-unveils-film-marking-75-years-since-hiroshima-bomb

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Atomic bombs on Japan

At a time when Americans are reassessing so many painful aspects of our nation’s past, it is an opportune moment to have an honest national conversation about our use of nuclear weapons on Japanese cities in August 1945. The fateful decision to inaugurate the nuclear age fundamentally changed the course of modern history, and it continues to threaten our survival. As the Bulletin of the Atomic Scientists’ Doomsday Clock warns us, the world is now closer to nuclear annihilation than at any time since 1947.

The accepted wisdom in the United States for the last 75 years has been that dropping the bombs on Hiroshima on Aug. 6, 1945, and on Nagasaki three days later was the only way to end the World War II without an invasion that would have cost hundreds of thousands of American and perhaps millions of Japanese lives. Not only did the bombs end the war, the logic goes, they did so in the most humane way possible.

However, the overwhelming historical evidence from American and Japanese archives indicates that Japan would have surrendered that August, even if atomic bombs had not been used − and documents prove that President Truman and his closest advisors knew it.

The allied demand for unconditional surrender led the Japanese to fear that the emperor, who many considered a deity, would be tried as a war criminal and executed. A study by Gen. Douglas MacArthur’s Southwest Pacific Command compared the emperor’s execution to “the crucifixion of Christ to us.”

“Unconditional Surrender is the only obstacle to peace,” Foreign Minister Shigenori Togo wired Ambassador Naotake Sato, who was in Moscow on July 12, 1945, trying to enlist the Soviet Union to mediate acceptable surrender terms on Japan's behalf.

But the Soviet Union’s entry into the war on Aug. 8 changed everything for Japan’s leaders, who privately acknowledged the need to surrender promptly.

Allied intelligence had been reporting for months that Soviet entry would force the Japanese to capitulate. As early as April 11, 1945, the Joint Chiefs of Staff's Joint Intelligence Staff had predicted: “If at any time the USSR should enter the war, all Japanese will realize that absolute defeat is inevitable.”

Truman knew that the Japanese were searching for a way to end the war; he had referred to Togo’s intercepted July 12 cable as the “telegram from the Jap emperor asking for peace.”

Truman also knew that the Soviet invasion would knock Japan out of the war. At the summit in Potsdam, Germany, on July 17, following Stalin’s assurance that the Soviets were coming in on schedule, Truman wrote in his diary, “He’ll be in the Jap War on August 15. Fini Japs when that comes about.” The next day, he assured his wife, “We’ll end the war a year sooner now, and think of the kids who won’t be killed!”

The Soviets invaded Japanese-held Manchuria at midnight on Aug. 8 and quickly destroyed the vaunted Kwantung Army. As predicted, the attack traumatized Japan’s leaders. They could not fight a two-front war, and the threat of a communist takeover of Japanese territory was their worst nightmare.

Prime Minister Kantaro Suzuki explained on Aug. 13 that Japan had to surrender quickly because "the Soviet Union will take not only Manchuria, Korea, Karafuto, but also Hokkaido. This would destroy the foundation of Japan. We must end the war when we can deal with the United States.”

While a majority of Americans may not be familiar with this history, the National Museum of the U.S. Navy in Washington, D.C., states unambiguously on a plaque with its atomic bomb exhibit: “The vast destruction wreaked by the bombings of Hiroshima and Nagasaki and the loss of 135,000 people made little impact on the Japanese military. However, the Soviet invasion of Manchuria … changed their minds.” But online the wording has been modified to put the atomic bombings in a more positive light − once again showing how myths can overwhelm historical evidence.

Seven of the United States' eight five-star Army and Navy officers in 1945 agreed with the Navy’s vitriolic assessment. Generals Dwight Eisenhower, Douglas MacArthur and Henry “Hap” Arnold and Admirals William Leahy, Chester Nimitz, Ernest King, and William Halsey are on record stating that the atomic bombs were either militarily unnecessary, morally reprehensible, or both.

No one was more impassioned in his condemnation than Leahy, Truman’s chief of staff. He wrote in his memoir “that the use of this barbarous weapon at Hiroshima and Nagasaki was of no material assistance in our war against Japan. The Japanese were already defeated and ready to surrender …. In being the first to use it we had adopted an ethical standard common to the barbarians of the Dark Ages.”

MacArthur thought the use of atomic bombs was inexcusable. He later wrote to former President Hoover that if Truman had followed Hoover’s “wise and statesmanlike” advice to modify its surrender terms and tell the Japanese they could keep their emperor, “the Japanese would have accepted it and gladly I have no doubt.”

Before the bombings, Eisenhower had urged at Potsdam, “the Japanese were ready to surrender and it wasn’t necessary to hit them with that awful thing.”

The evidence shows he was right, and the advancing Doomsday Clock is a reminder that the violent inauguration of the nuclear age has yet to be confined to the past.


[photo]
Paper lanterns are floated on the Motoyasu River in Hiroshima every year to mark the anniversary of the dropping of an atomic bomb on the city by the U.S.

Los Angeles Times Opinion•August 5, 2020
U.S. leaders knew we didn't have to drop atomic bombs on Japan to win the war. We did it anyway
By Gar Alperovitz and Martin J. Sherwin
https://news.yahoo.com/op-ed-u-leaders-knew-100525153.html

※ Gar Alperovitz, author of “The Decision to Use the Atomic Bomb,” is a principal of the Democracy Collaborative and a former fellow of King’s College, Cambridge.
※ Martin J. Sherwin is a professor of history at George Mason University and author of the forthcoming “Gambling With Armageddon: Nuclear Roulette From Hiroshima to the Cuban Missile Crisis.” Historians Kai Bird and Peter Kuznick contributed to this article.

UNCONDITIONAL、The Japanese Surrender in World War II
288 pp. Oxford University Press. $27.95.
By Marc Gallicchio

Every August, newspapers are dotted with stories of Hiroshima and Nagasaki, accompanied by a well-picked-over − but never resolved − debate over whether atomic bombs were needed to end the Asia-Pacific war on American terms. What is left to learn 75 years (and with so much spilled ink) later? For Marc Gallicchio, the answer is in the domestic politics of the United States and Japan, which drive a narrative that unwinds less like a debate than a geopolitical thriller.

“Unconditional” offers a fresh perspective on how the decision to insist on “unconditional surrender” was not simply a choice between pressing the Japanese into submission or negotiating an end to the conflict. It also traces ideological battle lines that remained visible well into the atomic age as the enemy shifted from Tokyo to Moscow.

President Harry Truman believed unconditional surrender would keep the Soviet Union involved while reassuring American voters and soldiers that their sacrifices in a total war would be compensated by total victory. Disarming enemy militaries was the start; consolidating democracy abroad was the goal. Only by refusing to deal with dictators could Germany and Japan be redesigned root to branch.

But Truman faced powerful opposition from the Republican establishment, including the former president Herbert Hoover and Henry Luce, whose Time/Life media empire presaged Fox News today. Republicans fought Truman on two fronts: First, they sought to undo New Deal social and economic reforms; second, they argued that giving Japan a respectable way out of the conflict would save lives and, at the same time, block Soviet ambitions in Asia. Conservatives believed the left in the United States was more determined to use unconditional surrender to destroy Japanese feudalism than to confrontGallicchio characterizes conciliatory State Department “Japan hands” as dupes of cosmopolitan Japanese who persuaded them that Japan’s emperor was actually a progressive who would help America build a stable, anti-Communist East Asia. But New Deal Democrats believed these experts did not know what they did not know about Japan. And prefiguring neoconservatives of a later era, they insisted that only the deposition of the emperor − as part of a full transformation of the country’s political culture − would usher Japan into a peaceful postwar community of nations.

The left-wing journalist I. F. Stone joined the fray. He railed against “reactionaries” who he said were determined to stir a red scare to roll back reform in America, purge progressive officials and deliver a conditional unconditional surrender to their friends in Tokyo. Gallicchio, the author of several books of military history, sorts out these players − and many others − with great clarity, noting that Truman played coyly with both sides as the war shifted decisively in the Allies’ favor. Soviet ambitions − future manna from heaven for postwar redbaiters like Senator Joseph McCarthy.

Convinced that the Japanese would not surrender short of a final, decisive battle − or (once the A-bomb was available) a final incendiary event − Truman was unwilling to suggest American resolve was weakening. He used the Potsdam Declaration of July to remind the Japanese that only more devastation awaited if they held out. He understood that imperial cooperation would ease the difficult task of disarming 5.5 million Japanese soldiers − and he ultimately spared Hirohito − but he would not guarantee the emperor’s status before the end of the war.

Japan’s leaders felt little urgency. The imperial military had amassed an astonishing number of troops for a desperate homeland defense, while politicians fantasized about a Soviet-brokered peace. Lacking a guarantee of his safety, the emperor supported the effort to reach out to Moscow and busied himself with protecting sacred relics. Even after the first A-bomb incinerated Hiroshima, he asked the government to seek Allied concessions, underscoring Gallicchio’s claim that Japanese officials “seemed uncertain of what they were doing.”

With the Red Army suddenly deep into Manchuria, Japanese leaders were weighing evaporating options when the second bomb incinerated Nagasaki. What had been chimeric was now clearly delusional.

The emperor finally intervened. Overruling his generals, he broadcast a decree Gallicchio sardonically calls “almost comically evasive” because it omitted the words “surrender” and “defeat.” While many Japanese were confused and saddened, they accepted the emperor’s most famous edict to “endure the unendurable.” Some military officers, though, committed suicide after a failed mutiny on what has become known as “Japan’s longest day.”
Gallicchio deftly recounts how debate about Truman’s decision persisted well after the surrender. In Japan, aggressive reforms early in the occupation were opposed by the same Western-educated Japanese who had influenced America’s Japan hands. These elites were keen on defanging the Japanese military, but tried to block land, labor and electoral change.
“Unconditional” documents how conservatives back home targeted New Dealers within the occupation as Communist sympathizers and hatched revisionist histories of Truman’s motives, exaggerating the emperor’s antimilitarism. Their revisionism was replaced by a New Left brand in the 1960s. Truman, some now argued, instigated the Cold War by trying to intimidate the Soviet Union with America’s nuclear might.
In 1995, a half-century after the war, the debate was reignited when curators at the Smithsonian Institution tried unsuccessfully to use this account of United States aggression to frame an exhibition in which the Enola Gay, the plane that dropped the A-bomb on Hiroshima, was the leading artifact. “Unconditional” is a sharp reminder of the power, imperfection and politicization of historical narrative − and of the way debates can continue long after history’s witnesses have left the stage.


[photo]
President Truman reads reports on the dropping of the first atomic bomb.

The New York Times, Updated Aug. 6, 2020
Why the U.S. Dropped Atomic Bombs on Japan
By Richard J. Samuels
https://www.nytimes.com/2020/08/03/books/review/unconditional-marc-gallicchio.html

※ Richard J. Samuels directs the M.I.T. Center for International Studies. His latest book, “Special Duty: A History of the Japanese Intelligence Community,” was published last year.

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臨時国会、今すぐ開け

国会正門前です。臨時国会の開催を求めるスタンディングが行われています。集まった人たちは、しっかりしたコロナ対策どころか、説明責任すら果たさない安倍政権に怒り、「臨時国会、今すぐ開け 」とアピールしています。主催は、怒りの可視化です。

臨時国会今すぐ開け.jpg

 英国紙「ザ・ガーディアン」も・・・

After Japan appeared to have brought the coronavirus outbreak under control in late May, the prime minister, Shinzo Abe, acclaimed his country’s response as a “model” for the rest of the world. It had avoided an explosion in cases, he said, and without the compulsory lockdowns imposed in Europe and the US.

Abe lifted the seven-week state of emergency, enabling bars and restaurants that had voluntarily closed to reopen for business. Plans were made to allow indoor events with up to 5,000 attendees, and the media trailed the launch of an economy-boosting nationwide tourism campaign.
But as it prepares for the Obon public holiday, when millions of people traditionally return to their hometowns, Japan is struggling to address record rises in Covid-19 cases amid renewed warnings about pressure on its health service, and its largely silent leader has been accused of abandoning his post.

Tokyo alone has reported more than 200 cases a day for the past 10 days, including a record 472 last Saturday and 360 on Thursday. Other urban hotspots are reporting similar surges in new infections, prompting local leaders to take action while ministers caution against any overreaction.

Political analysts speculate that Abe has settled on a laissez-faire approach, rather than make tough decisions on new restrictions that could send the world’s third-biggest economy, already officially in recession, deeper into the mire.

“In one sentence, the government’s supposed unstated position – often referred to as ‘with coronavirus’ – is that the authorities will provide the healthcare, medicine and vaccines, but if you get infected that’s on you,” Takashi Ryuzaki, a political science professor at Ryutsu Keizai University, told the Japan Times.

The public appears to be losing faith, with a poll published on Monday showing that 61% disapproved of the cabinet’s handling of the pandemic, while 26% approved. Abe’s personal approval rating plummeted to a record low of 35%, while more than 60% of respondents said he should declare a second state of emergency.

Disturbed by the surge in infections, some local leaders are refusing to wait for guidance from Tokyo. Aichi prefecture, which is in the midst of a surge centred on the industrial city of Nagoya, has declared a state of emergency, as has Okinawa, where cases have been traced to US military bases.

In Osaka, the second-worst affected prefecture, the governor, Hirofumi Yoshimura, prompted panic-buying of an over-the-counter gargling medicine this week after claiming, with scant medical evidence, that it made people who had mild Covid-19 symptoms less infectious.

Tokyo’s governor, Yuriko Koike, has requested restaurants and karaoke venues where alcohol is served to close early, at 10pm, through to the end of the month, with a one-off payment of 200,000 yen (£1,440) available to businesses that comply.

She has also called on Tokyo’s 14 million residents not to make travel plans over Obon, which begins on Monday, amid signs the virus has taken hold in regions that had previously avoided the worst of the outbreak. Iwate, a northern prefecture that had gone months without registering a single case, reported its first infections last week.

Concern still centres on the capital, where early clusters linked to young people connected to its host and hostess club scene have been joined by rising infections traced to after-work drinking sessions, where people let their masks – and their avoidance of the “three Cs” – slip. Tokyo accounts for a third of Japan’s total of 43,519 cases. The country had recorded 1,041 deaths as of Wednesday,

Tokyoites were hastily excluded from the heavily subsidised Go To tourism campaign, but the government encouraged the rest of the country to take part, even after one of its experts cautioned against the scheme while cases were rising sharply.

Abe attended a ceremony to mark the 75th anniversary of the Hiroshima bombing on Thursday, but has not held a press briefing for more than a month, leaving most of the talking to his cabinet colleagues.

This week, government officials dismissed claims made in a weekly magazine that Abe, whose first term as prime minister was blighted by a chronic bowel disease, had been forced to slow down after vomiting blood in early July.

He has ditched the much-derided symbol of his Covid response, swapping his “Abenomask” – one of the tiny face coverings the government sent to tens of millions of households – for a larger alternative.

Officials continue to dismiss calls for tougher measures, pointing out that wider testing is inevitably producing more positive diagnoses, and that the number of serious cases and deaths remains much lower than in April, when Abe declared a state of emergency.

Jeff Kingston, the director of Asian studies at Temple University in Tokyo, believes Abe has ruled out a return to the stricter measures that helped Japan emerge from the initial outbreak comparatively unscathed.

“The pandemic has been a severe stress test for leaders everywhere, but in the eyes of the Japanese public, Abe has failed to provide leadership and a coherent response,” Kingston said. “His overall response has been shambolic. He has consistently treated this more like a PR crisis rather than a public health problem, and has prioritised reopening the economy at the expense of containing the outbreak.”


[photo-1]
Abe, second right, at a ceremony on Thursday marking 75 years since the Hiroshima bombing. His personal approval rating has plummeted to a record low of 35%.

[photo-2]
A security worker in Tokyo, Japan, this week.

[Data-1]
Japan: number of new coronavirus cases per day
Starting from day of first reported case

[Data-2]
Japan: number of coronavirus deaths per day
Starting from day of first reported death

※ Data from Johns Hopkins University at 22:02 UTC 8 Aug 2020

The Guardian, Last modified on Thu 6 Aug 2020 11.36 BST
Shinzo Abe accused of going awol as Japan tackles Covid surge

PM acclaimed Japan’s response as a model for the world, but has been largely silent amid record case rises

By Justin McCurry in Tokyo
https://www.theguardian.com/world/2020/aug/06/shinzo-abe-accused-of-going-awol-as-japan-tackles-covid-surge

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桶川飛行学校平和祈念館

戦争遺産 熊谷陸軍飛行学校 桶川分教場
https://www.youtube.com/watch?v=zy8bjS1Dz8M

映画『乙女のゐる基地』(封切:昭和20年4月26日)
軍歌「空から轟沈」「真紅の翼」
https://www.youtube.com/watch?v=dZ3medc2I2w

 太平洋戦争末期に特攻隊員らを送り出した「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」(※)。
 埼玉県桶川市内の跡地にある建物群が、およそ10年の歳月を経て平和の尊さを発信する拠点に生まれ変わった。
 来月8月4日、「桶川飛行学校平和祈念館」として開館する。

 分教場は1937(昭和12)年に開校。
 主に少年飛行兵の実技教育施設として使われた。
 戦後は大陸からの引き揚げ者らの住居となり、2007年まで市営住宅だった。
 そうした経緯で木造の兵舎棟など5棟の戦争遺構が残った。

 元隊員の遺族らによる保存運動などにより、市は10年に国有地だった土地を買い取り、その後、建物群を文化財に指定。
 2018年から約4億4千万円かけて平和祈念館として整備を進めてきた。

 開館に先立ち7月26日、報道関係者に館内が公開された。
 建物は当時の部材をできるだけ生かして改装。
 最も大きい兵舎棟には遺族や市民から寄せられた資料が数多く展示されている。
 少年たちが寝起きした寝台も復元された。

「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」の臼田智子会長(76)や、東京の飛行学校で学んだ元少年飛行兵で保存活動に尽力した野本信吉さん(91)=ともに桶川市=も駆けつけ、感慨深げに館内を見て回った。

 特に臼田さんの思いは深かった。
 父は分教場の教官を務め、75年前の終戦の年、32歳の若さで沖縄の海に散った。
 臼田さんは当時1歳。
 兵舎棟に父親の遺書(写し)や写真が展示されている。

父はりっぱな大人になるよう言い残しました。若者が死んでいくことに反対し、命をつなぐことを願ったのです。その思いを後世に伝える場所がやっとできました

 開館時間は午前9時から午後4時半(初日は午後1時から)。
 入館無料。
 原則、月曜休館。
 詳しくは同館(048・778・8512)へ。


[写真-1]
建物のうち最大の兵舎棟。8400平方メートルの敷地に木造4棟、コンクリート造りの弾薬庫が建つ=2020年7月26日午前10時58分、埼玉県桶川市川田谷

[写真-2]
特攻で戦死した臼田さんの父親の遺書(写し)が飾られる展示ケースを前に、少年飛行兵だった野本さん(右)と臼田さん=2020年7月26日午前10時26分、埼玉県桶川市川田谷

[写真-3]
平和祈念館の看板を披露する臼田さん(右)と小野克典・桶川市長。正面奥が多くの資料が展示されている兵舎棟=2020年7月26日午前10時6分、埼玉県桶川市川田谷

朝日新聞、2020年7月27日 10時30分
特攻隊の思い、75年越え伝えたい
埼玉・桶川に祈念館

(猪瀬明博)
https://digital.asahi.com/articles/ASN7V7V12N7VUTNB005.html

 第二次大戦中、特攻隊員らを訓練した旧「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」(桶川飛行学校)が、当時を伝える展示施設「桶川飛行学校平和祈念館」(桶川市川田谷)として復元整備された。
 保存に尽力したNPO法人「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」の臼田智子会長(76)は若者らに向け「(展示を見て)戦争のない幸せが未来に続くよう、祈り生きてほしい」と思いを語った。 

 学校は、熊谷陸軍飛行学校(旧三尻村、現熊谷市)の分校として1937(昭和12)年に開校し、およそ1600人の航空兵を養成。
 大戦末期には特攻隊の訓練施設となり、12人を南の海へ送り出した。
 分校の教官だった臼田さんの父・伍井(いつい)芳夫さん=享年(32)=は、自らも特攻隊員となって亡くなった。

◆ 特攻隊訓練装備品など展示 来月8月公開

 桶川飛行学校の建物は戦後の短期間、連合国軍総司令部(GHQ)が占有。
 その後、引き揚げ者らが住む市営住宅として2007年まで活用され、最後の入居者が出た時には荒れ放題だった。

 臼田さんらは2005年に「語り継ぐ会」を設立し1万4千筆の署名を集めて寄付を募り、保存を訴えた。
 賛同した桶川市は、いったん国に売却した土地を買い戻し、兵舎棟、車庫棟、守衛棟、便所棟(いずれも木造平屋)と弾薬庫(鉄筋)の五つの建物を市の文化財に指定。
 会が集めた寄付金1400万円も合わせ約4億4000万円をかけて解体・復元整備を進めた。

 完成した祈念館の報道関係者向け内覧会が7月26日に開かれ、「語り継ぐ会」の会員で、現在の東京・武蔵村山市にあった陸軍少年飛行兵学校の生徒として終戦を迎えた野本信吉さん(91)=桶川市末広=も来場。
 寝台が並ぶ兵舎棟の室内を見て「もう少し(寝台が)離れてるかと思ったけど(東京の学校も)こんな感じ。夜は隣の人と小さい声で、ばれないようにしゃべったりした」と往時の様子を語った。

 収蔵品は飛行学校で使われた教科書や装備品など800点で、順次展示替えする。
 開館時は約30点を披露し、伍井さんが幼い臼田さんきょうだいに向けて書いた遺書の複製も含まれる。
 また、兵舎棟内にはレクチャーが行える部屋もあり、「語り継ぐ会」による講演などでも活用する予定。
 小野克典市長は「戦争遺構が失われる中、平和を語り継ぐ拠点として活用したい」と話した。

 一般公開は8月4日午後1時から。
 開館は午前9時〜午後4時半で、入館無料。
 月曜と毎月末日(日曜は開館)、年末年始は休館。


[写真-1]
復元整備され、展示施設に生まれ変わった兵舎棟

[写真-2]
父の遺書を見ながら語り合う臼田さん(左)と野本さん

東京新聞、2020年7月28日 07時16分
<つなぐ 戦後75年>
戦争のない幸せ 未来へ
桶川飛行学校復元「平和祈念館」に

(前田朋子)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/45234

(※)「桶川飛行学校平和祈念館」

 当時の「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」の建物を活用し、平和を発信し、平和を尊重する社会の実現、及び地域の振興に寄与するための施設として、2020年(令和2年)夏に開館を予定しています。
「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」は、1935(昭和10)年に現在の熊谷市に開校した熊谷陸軍飛行学校の分校として1937(昭和12)年に設置されました。
 各地から集まった生徒はここで寝食をともにしながら、陸軍航空兵になるための飛行機の操縦教育を受け、その後戦地へ向かいました。

 戦後、桶川分教場の建物は、引揚げ者のための市営住宅「若宮寮」として使用されました。
 2016(平成28)年には、守衛棟、車庫棟、兵舎棟、便所棟、弾薬庫の5棟が市の文化財に指定され、2018(平成30)年から2020(令和2)年にかけて、これらの建物について復原整備工事を実施しました。

♦ アクセス
JR高崎線桶川駅西口から、川越駅行き東武バスで10分「柏原」バス停下車、徒歩5分

♦ 住所
桶川市大字川田谷2335番地の16


桶川市公式サイト
桶川飛行学校平和祈念館
https://www.city.okegawa.lg.jp/shisei/chumokujigyo/7979.html

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2020年08月07日

この国は独裁国家か

 ギゾウ、ネツゾウ、アベシンゾウ、再び15分だけドヤ顔をみせてたちさったようですよ。

 新型コロナウイルスの感染状況について、安倍晋三首相は2020年8月6日、全国的な重症者の少なさや検査・医療体制の余裕度などから「緊急事態宣言を出す状況ではない」と述べた。
 一方で、厳しい状況に置かれている地域はあり、首相のデータ引用には不正確な部分もあった。

「医療体制はすでに逼迫(ひっぱく)している」

 沖縄県の担当者は、安倍首相が「医療提供体制が逼迫しないよう、きめ細かく対策を講じる」と話した6日、取材に危機感をあらわにした。

 県内では7月8日以降、新規感染者が急増。
 1日あたり47人となった8月1日時点で、病院とホテルに確保した計278床はいっぱいになった。
 この日、県は独自の緊急事態宣言を発出。
 離島への渡航自粛や飲食店の営業時間短縮などを求めた。

 現在は計430床に増やしたが、感染者はそれを上回るペースだ。
 重症者は3人と少ないものの、303人の入院・療養先が決まっていない。
 政府の観光支援事業「Go To トラベル」で、全国から観光客も訪れている。
 那覇市のあるホテルは宿泊客が増える一方、県から療養の部屋の提供を求められ、難しい対応を迫られた。

 新規感染者が急増している愛知県も6日、独自の宣言を出した。
 感染者の大半は軽症・無症状で病床は逼迫していないが、担当者は「日々100人を超える感染者が出ている状況を好転させたい」と話す。

 首相が緊急事態宣言を出す状況にないとする根拠としたデータには不正確な部分があり、データの評価にも疑問がある。

「PCR検査能力は1日5万件まで大幅に向上している」と話したが、厚生労働省のホームページでは3万7400件。
 担当者は「(簡易な)抗原検査も含めた数を言ったのではないか」と推察するが、抗原検査はメーカーが1日2万件以上、出荷できると説明しただけで精度も異なる。

 首相は重症者や死者のデータを挙げて「それぞれ大幅に抑えられている」とも述べた。
 今春の感染拡大期、死に至るような重症化のピークは、感染確認から数週間後にやってきた。

 群星(むりぶし)沖縄臨床研修センター長で医師の徳田安春氏は「病院に入院する人が増えてくるのは感染から2週間ぐらい後。死亡者が増えてくるのは1ヶ月後ぐらいなので、心配なのは8月。今後そうならないか心配している」と話す。

 首相は今春と比べ、都内では入院期間が短縮しているとも話した。
 これは、厚労省が5月にPCR検査を受けなくても退院できるよう制度変更したことが影響した可能性もあり、単純に比較できるかは不明だ。


[写真]
広島市で記者会見する安倍首相=6日

東京新聞、2020年8月7日 06時00分
安倍首相の引用データ不正確、GoToで宿泊増の沖縄「医療体制すでに逼迫」
(原田遼、井上靖史、藤川大樹)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/47482

・・・世界唯一の戦争被爆国でありながら頑として核兵器禁止条約を批准しないことについて、今年も「日本が核保有国と非保有国との懸け橋となって核なき世界を目指す」などとファンタジーな詭弁を垂れ流した米国奴隷の安倍晋三。こんな恥知らずの売国奴はバカ女房を連れてトットと日本から出て行ってほしい・・・

・・・[うれしいニュースです]8月6日の広島の日にアイルランド、ナイジェリア、ニウエの3ヶ国が核兵器禁止条約に批准しました!これで批准国は43ヶ国に。あと7ヶ国の批准で条約が発効されます・・・

・・・防疫に責任を負う政府が、「withコロナ」なんてサラッと言ってのけるのを許してはいけないのでは。
with安倍、with麻生、with菅、with二階、with小池、with維新、
人間は何だって慣れることができるのかもしれない。でもそうして飼い馴らされて、感染防止も景気回復も全く見通せない今がありますよね・・・

・・・[感染拡大に無能無知、恥知らずのアベ]こんな宰相見たことない。「医療体制は逼迫していない」「若い感染者が多いから感染者増えても構わない」とアベ。この無能、恥知らずが何もしない、できない、やる気ない間に家庭内感染が増え、若い人から子供や年寄りに感染拡大だ・・・

 この国は独裁国家そのものではないか──そう言わずにおれない“事件”が起こった。
 本日、広島市でおこなわれた「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」に出席した安倍首相は、その後、じつに約1ヶ月半ぶりとなる総理会見を開いたのだが、会見をたったの約15分で強制終了しただけではなく、「まだ質問があります!」と声をあげていた朝日新聞の記者に対し、首相官邸の報道室職員が腕を掴み、質問を阻害しようとしたというのだ。

 この問題は、時事通信、共同通信、毎日新聞などが報じたあと、22時38分に、当の朝日新聞も報じた。
 朝日新聞の記事によると、本日の会見について、官邸側は会見時間は10分間だと内閣記者会に伝え、内閣記者会と地元記者会の幹事社から2問ずつ質問に答えるとしていたが、朝日は3日、〈より多くの質問の機会を確保するよう、内閣記者会を通じて官邸側に要望〉していたという。

 しかし、その要望は聞き入れられず、会見は幹事社の4問で終了。
 その際、こんなことが起こったという。

〈幹事社質問のやりとりの後、座ったまま挙手して「総理、まだ質問があります」と聞き、首相は答えた。記者は質問を続けたが、司会役の広島市職員が会見終了を宣言し、首相は退席した。この際、官邸報道室の職員が短時間、記者の右腕をつかんだ。〉

〈質問を続けていた朝日新聞記者の腕を、首相官邸報道室の男性職員が「だめだよもう。終わり、終わり」と制止しながらつかんだ。〉

 つまり、記者が質問しようとあげた手を、官邸報道室の職員が質問を妨害するために降ろさせようと、腕をつかんだのだ。
 朝日新聞社は「質問機会を奪う行為につながりかねず、容認できません」として報道室に抗議したという。

 一方、この抗議に対して官邸報道室の富永健嗣室長は、「予定の4問と回答を終えた時点で貴社から質問があり、総理がお答えした。広島空港への移動時刻が迫っていた中での出来事であり、速やかな移動を促すべく当室職員が注意喚起を行ったが、腕をつかむことはしていない」と弁明したという。
 腕をつかんだことは否定しているが、「速やかな移動を促すべく注意喚起を行った」ことは認めたわけだ。
 こういうトラブルでは弱腰が目立つ朝日が正式に抗議していることから考えても、官邸報道室の職員が暴力的に質問を制止したのは間違いないだろう。

 本来、記者からの質問が出尽くすまで答えるのが総理大臣に求められる姿勢だというのに、それもせず、官邸職員が記者に実力行使までして質問を妨害しようとするなどということは、民主主義国家では考えられない、独裁国家のやることではないか。

 だいたい、本日おこなわれた会見は「会見」などと呼べるようなものでは到底ない、一方的な「独演会」のようなシロモノだった。

4問に答えただけで安倍は「わりと時間をとってお話もさせていただきました」

 実は本日の会見は、前述したように広島の市政記者クラブと内閣記者会の幹事社が事前通告していた代表質問2問ずつの計4問しか許されていなかった。
 最初に質問に立った市政記者クラブの幹事社・中国放送の記者からの代表質問は、1問目は「黒い雨訴訟」、2問目は河井克行前法相・案里議員夫妻の買収事件について。
 この質問に対し、安倍首相は淡々と答えるのみだった。

 そして、内閣記者会の幹事社・日本テレビの記者からの代表質問は、1問目が新型コロナ対応と内閣改造について。
 すると、安倍首相は「Go Toトラベル」について「ウィズコロナの時代の安全で安心な新しい旅のスタイルを普及・定着させていきたい」だの、「直ちに緊急事態宣言を出すような状況ではない」だの、感染者の急増について「検査体制が大幅に拡充されてきたことも大きい」などと滅茶苦茶な説明を7分以上も長々とつづけたのだ。

 ところが、日テレの記者が「2問目をお伺いさせていただきます」と口にすると、司会者は「質問時間が予定の5分を超えております。内閣記者会からの代表質問はこれで終了させていただきます」とカットイン。
 しかし、このとき安倍首相は「もう一問でしょ? いい、いい」と司会者を制止し、質問に応じた。
 ちなみに、日テレ記者の2問目の質問は、「敵基地攻撃能力の保有について」だった。

 繰り返すが、この代表質問の4問は事前に通告されていたものだ。
 そもそも、新型コロナが過去最多の新規感染者数を更新しつづけるなかで約1ヶ月半も正式な会見を開かず、国民に説明責任を果たしてこなかったというのに、「会見は10分間」というその短さは一体どういうことなのか。
 だいたい、長々と喋り倒して時間を浪費させたのは安倍首相だ。

 そして、問題はこの後だった。
 会見開始から約15分、日テレ記者の2問目の質問に安倍首相が答え終わると、「総理、まだ質問があります!」と声があがった。

 しかし、安倍首相は何も語らずじっとしたまま。
 すかさず司会者が「予定のお時間が過ぎておりますので、これで終了させていただきたいと思います」とアナウンスしたが、さらに記者から「国民の不安が高まっているなかで、なんで50日間も正式な会見を開かれないんでしょうか」という声があがる。
 それでも安倍首相は表情を変えず、司会者が「当初ご案内しておりますとおり、予定のお時間が過ぎておりますので、これにて代表質問を終了させていただきます」と繰り返したのだが、ここで安倍首相が口を開き、こう言い出したのだった。

「あの、今回もですね、コロナウイルス感染症について、あの、わりと時間をとってお話もさせていただきました。節々……節目節目において会見をさせていただきたいと考えておりますし、また日々、西村担当大臣、また官房長官からもお話をさせていただいていると思います。ありがとうございました」

 そして、安倍首相は足早に立ち去り、会見は強制終了したのだ。

内閣記者会はなぜ代表質問4問だけで手打ちしたのか、なぜ暴挙に全社で抗議しないのか

「わりと時間もとって話した」って、それは自分の言い分を一方的にまくし立てただけ。
 ご存じのとおり、すでに「Go Toトラベル」が全国で感染を拡大させていることは明白であり、さらには現在、「症状があっても検査が受けられない」という声が再びあがっているような状況にある。
 安倍首相は「検査体制が大幅に拡充されている」と言うが、人口100万人あたりの検査数は発展途上国なみの水準だ。
 こんな状況下にあって、一方的な説明だけで納得しろというほうがどうかしているのだ。

 しかも、このときに質問をしようと手をあげていた記者の腕を、官邸の報道室職員がつかんで質問を制止させようとしていたとは──。
 質問に答えない、答えられない総理大臣を守るために記者に手を出すことなど、言語道断の行為だ。

 だが、釈然としないのは、記者クラブや他の記者たちの姿勢だ。

 そもそも、繰り返すが約1ヶ月半も会見が開かれない異常事態だというのに、内閣記者会はどうして事前に通告した代表質問4問で“手打ち”していたのか。
 広島の市政記者クラブも同様だ。
 原爆投下から75年の節目を迎えても核兵器禁止条約に批准しようとしない問題のみならず、広島は河井夫妻の買収事件の舞台となった場所だ。
 票を金で買おうという県民を冒涜する行為を働いた選挙運動の責任を、地元メディアの記者は徹底的に追及すべき場ではないか。

 それだけではない。

 記者が質問しようとあげていた腕を官邸の報道室職員がつかむという蛮行を働いた現場に居合わせていたというのに、どうしてその事実が報道されたのが朝日新聞社の抗議文が出てからなのか。
 いや、そのとき他の記者たちは抗議をおこなったのか。
 本当ならば、その場で記者たちが猛抗議し、朝日のみならず他の社も一斉に抗議文を出し、報道すべきではないのか。

 言っておくが、こんな状況はまともな民主主義先進国では考えられないことだ。

 たとえば、アメリカのトランプ大統領の会見で、政権に批判的なCNNやニューヨーク・タイムズなどが締め出された際には、AP通信やタイム誌も一緒になって会見をボイコットし、ホワイトハウス記者会も抗議声明を発表。
 また、会見でトランプを厳しく追求したCNNの記者が記者証を取り上げられた際も、ライバル社でありトランプ寄りのFOXニュースも含め、メディア一丸となって記者を支援した。
 さらにアメリカでは、報道官が菅官房長官のようにまともに質問に答えず、批判的なメディアに対して強権的な姿勢を見せても、記者たちは食い下がって何度も質問を繰り返し、ときには紙面や番組ではっきりと「嘘つき」「バカ」「大バカ」「最悪の返答」と批判を浴びせている。
 これこそが不誠実な政権担当者に対するジャーナリズムの本来のあり方なのだ。

 かたや、これまでの総理会見はどうだったか。
 最後まで質問に答えず、適当な用事をセットして会見を強制終了する官邸側に対し、「短すぎる!」「こんなものは受け入れられない」と突っぱねることもせず、挙げ句、打ち合わせにまで応じ、一連のコロナ会見でも当初はフリージャーナリストの江川紹子氏が質問を求める声をあげても白い目を向けていた有様だった。
 もし、これで記者に対する“実力行使”を伴った質問妨害に対し、黙ってみていただけだったとしたら──。

 事前通告がなされた代表質問にしか答えないものを「会見」と呼び、記者の質問を妨害するためについに手まで出した安倍官邸の行為は許されるものではなく、徹底的に追及されなければならない。

 だが同時に、内閣記者会やメディアが抱える問題についても、あらためて批判・検証が必要だろう。


リテラ、2020.08.07 12:05
安倍首相の“原爆の日”会見で暴力的な質問封じ!
官邸の報道室職員が朝日新聞記者の挙げた腕をつかみ……

https://lite-ra.com/2020/08/post-5562.html

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