2019年10月10日

中村哲医師「アフガニスタンに生命の水を」

 アフガニスタンで農村復興のため水利事業に携わっているペシャワール会の中村哲医師の講演会が2015年8月30日、宇部市の渡辺翁記念館で開催された。
 山口大学医学部最大の学生団体である「山口大学国際医療研究会」の学生たちが主催し、約1000人の聴衆が詰めかけた。
 米軍のアフガン空爆の下でだれが犠牲になり、どうなったのか。
 現地の実際を通して安倍政府の進める安保法制がいかなるものかを浮き彫りにするものとなった。
 以下、講演内容を紹介する。
 掲載する写真や地図は講演後に中村医師より提供していただいたもの。

農業軸の多民族国家 高山の水で豊かな実り

 アフガニスタンは日本人にとってもっともわかりにくい国の一つだ。
 中近東の乾燥地帯の東の端にある中央アジアの一角、ヒマラヤ山脈を西にたどったところにあるヒンズークシ山脈という7000〜6000b級の高い山山の辺りがアフガニスタンだ。
 地理的に東西の交通の要衝である。

 ヒンズークシ山脈の山山が国土のほとんどを占め、2000万〜3000万人といわれる人口のほとんどが農業で生計を立てている。
 アフガニスタンには「金がなくても食っていけるが、雪がなければ食っていけない」という諺がある。
 高い山に降り積もった雪が夏に少しずつ溶け出して川沿いに豊かな実りを約束する。
 人も動物も、このおかげで何千年、何万年と命をつないできた。
 降雨量は日本の20分の1とか50分の1といわれ、日差しは強いが、水さえあれば植物の繁殖も旺盛で、かつては100%近い食料自給率を誇っていた農業国である。

 アフガニスタンは多民族国家だ。
 シルクロードの時代、「民族の十字路」といわれるほどいろいろな民族が通過し定住した。
 谷が深く、谷ごとに違う民族が住んでいるといってよく、「アフリカ人以外ならすべてアフガニスタン人に化けられる」といわれるほどで、ほぼ独立した自治体制を営みながら、その集合体としてアフガニスタンという国を形作っている。
 20以上の民族・言語が錯綜しながら一つのまとまりをつくる地域であることを理解してほしい。

 よくいえば自治性が非常に濃厚であり、悪くいえば割拠性が強い民族を束ねるのがイスラム教だ。
 各村や町にもモスクがあり、ときには行政よりも決定権を持っている。
 目にするニュースでは血なまぐさい印象が多いかもしれないが、実際にはそれほど変わった人たちではない。
 アフガニスタン人は私が見る限りでは世界でももっとも保守的なイスラム教徒で人びとは戒律を律儀に守る。

 貧富の差は甚だしい。
 現地に行って医療人としてまず無力感を感じるのは、お金持ちはちょっとした病気でもロンドン、パリ、ニューヨーク、東京に行って治療を受ける一方で、99.999%の人びとは数十円のお金がなく、薬も買えず命を落としていることだ。

診療所作ったが… 水と食料こそ死活問題

 私たちの活動の始まりは、1984年にペシャワールで発足した「ハンセン病根絶5ヶ年計画」に参加したことだった。
 当時、世界的なハンセン病根絶計画が進められており、その一環として活動を進めていた。
 ハンセン病は合併症が多く、さまざまな専門医の診療が必要で、その治療センターをつくるのが私の任務だった。
 ベッド数はわずか14床、耳にすると怪我をする聴診器が一つ、ピンセット数本。
 まともな医療器具はなかった。
 消毒設備もないため、ガーゼの消毒はオーブントースターを使っていた。

 私たちの活動は一見、医療とは無関係な部分にエネルギーを使ってきた。
 なかでも今ももっとも気を遣っているのは「いかにして患者の気持ちを理解するか」ということだ。
 外国人が犯しやすい間違いだが、見慣れないものを見ると、単なる違いを善悪や、「遅れている」「進んでいる」、優劣で見て裁いてしまう。
 そして現地と衝突し、帰らざるを得なくなるのを目にしてきた。
 女性のかぶり物がどうかなどはその国の人自身が解決することで、私たちは現地の文化・宗教・慣習に関しては好き嫌いがあろうと、できるだけその文化の枠内で解決することを鉄則として現在に至る。

 私が行ったときはアフガン戦争の真っ只中。
 約10万人のソ連軍が侵攻していた。
 その後約10年間内戦が続き死亡者は200万人、国民の10人に1人が死に、600万人が難民になった。
 十数年前からはアメリカ軍、NATO軍の侵攻でさらに混乱が続き、「戦争」が現地民にとって非常に切実な問題となっている。

 内戦状態のなか私たちは難民キャンプで診療をおこなっていたが、とても間尺に合わず方針を大転換することにした。
「ハンセン病根絶計画」は先進国側が考えたアイデアであり、現地では非常に無駄が多いものであった。
 ハンセン病が多い地域は同時に腸チフス、結核、デング熱、ペストなど、ありとあらゆる感染症の巣窟だ。
 医療人のモラルとして、マラリアで死にかけている患者を「ハンセン病ではないから診ない」というわけにはいかない。
 私たちは、内戦が下火になった暁には、ハンセン病の多発地帯であり他の感染症も多い山奥の地域に診療所をつくり、ハンセン病をさまざまな感染症の一つとして区別なく診るという方針に向け、動き出した。

 当時、内戦の真っ只中であったがパキスタン管内に入ることもあった。
 国は違えど同じ民族が住んでいるので、自由自在に山越えをしながら人びととの付き合いを深めた。

 ソ連軍は10年もしないうちに撤退し、私たちは次々に診療所を開設した。
 そして1998年4月に病院を建て、ここで責任を持ってわれわれの患者を診ることにした。
 さあ今から、というときにアフガニスタンは世紀の大干ばつに見舞われた。
 ユーラシア大陸を襲ったこの干ばつは今まで人類が経験したことのない規模で進行中だが、とくに2000年5月の干ばつがひどいものだった。
 なかでもアフガニスタンはもっとも激烈な被害を受けており、世界保健機関(WHO)は、“国民の半分以上の1200万人が被災し、飢餓線上の国民が約400万人、餓死線上が100万人である”と警告を発表した。
 当時タリバン政権によって内乱が収拾され、曲がりなりにも治安は回復していたが、政治的な理由でついに救援はあらわれなかった。
 私たちのまわりで、緑があり人びとが生活していた村が、1年足らずで一木一草も生えない沙漠になって次々に消えていった。
 これがアフガン人にとって現在もっとも深刻な問題となっていることを、私は伝える義務がある。

 数十万fが沙漠化し、多くの難民が発生した。
 診療所には若いお母さんたちが子どもを抱き、何日もかけて歩いてくる。
 生きてたどり着くのはまだましで、たどり着いても順番待ちで、並んでいるあいだに腕の中で冷たくなっていく光景は、ごく日常的に見られるものだった。

 アフガニスタンは自給自足の国だが、水がなくなれば汚水を口にして下痢になる。
 作物も育たないため、慢性的な栄養失調に陥り、簡単な病気で命を落とす。
 清潔な水と十分な食べ物さえあれば、ほとんどの患者が死ぬことはなかったと思う。
 私たちは「いくら医療器具、薬があっても役に立たない。飢えや渇きは薬では治せない」と考え、2000年8月頃から「清潔な飲料水と十分な食べ物を」を掲げて診療所のまわりの枯れた井戸を掘り始めた。
 その後活動は広がり、5年間で1600ヶ所、清潔な飲料水を確保することができた。
 数十万という人びとが村をあげて働き、大きな事業に発展した。

 もう一つの課題は、農業用水を確保することだった。
 伝統的なカレードという横井戸で地下水を引いて水を確保していたが、それが枯れ、再生してもまた枯れるのをくり返し、約40個再生したが、地下水利用の限界を知った。

女・子供殺した米軍 空爆の中で食料を配る

 2001年9月11日、ニューヨークの同時多発テロが起き、その翌日から国際社会と呼ばれる国の人びとが、「アフガニスタンは首謀者をかくまった」「報復爆撃しろ」といい始めた。
 私たちは「今アフガニスタンに必要なのは水と食料であり爆弾の雨ではない」「アフガニスタンは一つの国ではなくいろんな国の寄せ集めであり、政府が悪いからアフガン国民すべてが悪いというものではない」と主張したが、大きな世論にはならなかった。
 しかし国外の人びと、日本全国からおそらく数十万人が私たちに賛同して募金に協力してくれ、食糧支援に従事した。

 10月になって空爆が実施された。
 現地は冬で、首都カブールは、元からいた市民ではなく、田舎から逃れてきた干ばつ避難民であふれた。
 その百数十万人のうち約1割は生きて冬を越せなかった。
 私たちは小麦粉1800dを運び入れ、職員20人で配布した。

 空爆は激しかった。
 日本人の空爆の記憶は、おそらく太平洋戦争で途切れているが、最近の戦争はあれ以上に高性能で、巧妙で、非人道的な爆弾が使用される。
 ボール爆弾や、人間だけを死傷するクラスター爆弾が大量にばらまかれた。
 一方で「人道的」支援と称して食料を投下するが、クラスター爆弾とまったく同じ黄色い包みに食料を入れて落とす。
 それを拾いに行った子どもたちが犠牲になるなど、犠牲になったのは子どもや女性、お年寄りなど弱い人びとだった。

 日本に帰ってきたときは異様な雰囲気だった。
 普段は知らないカブールやカンダハールなど名前まで出して「次はどこがやられるのか」と、まるでゲームのように見ていることに非常に不愉快な思いがした。
 軍事評論家が出てきて「アメリカがおこなう空爆はピンポイント攻撃であり、悪いやつだけをやっつけて、一般人には手を加えない人道的な攻撃だ」といっている。
「そんなに安全な爆弾ならその下に立って評論をしてくれ」といいたかった。
 日本人が見せられたのは爆弾を落とす側の映像で、落とされる側の映像はほとんどなかったと思う。
 世界的に戦争が正当化されるなかで、だれが犠牲になっていったかを考えると収まらないものがある。

 無差別爆撃のなか、食料を配ることは至難の業だった。
 職員20人が1発の爆弾で全滅する可能性は十分にあったため、3つの部隊に分け、たとえ1チームが全滅しても他の2チームが任務を敢行するようにした。
 活動の底力となったのは同胞のためには命も省みない勇敢なアフガン人であり、これによって私たちの活動は支えられた。

米軍の進駐後 麻薬と売春の自由現出

 タリバン政権が11月になって崩壊し、米軍の進駐が始まった。
 世界中で「極悪非道の悪のタリバンをうち破り、絶対の自由と正義の味方、アメリカおよびその同盟軍を歓呼の声で迎える市民の姿」「女性抑圧の象徴であるかぶり物を脱ぎ捨てて、自由をうたう女性たちの姿」の映像が、くり返し嫌というほど流された。
 この戦争に反対していた人も「そんな悪い人たちがやられるのならよかったのではないか」となり、アフガニスタンは忘れ去られていった。

 実際には何ができていったか。
 それはケシ畑だ。
 タリバン政権はよくない面もあっただろうが、厳格な宗教制度によってケシ栽培を徹底的に取り締まり、ほぼ絶滅していた。
 それが盛大に復活し、数年を待たずしてアフガニスタンは、世界の麻薬の90%以上を供給する麻薬大国となった。

 解放されたのは「ケシ栽培の自由」「女性が外国人相手に売春をする自由」「働き手を失った人びとが街頭で乞食をする自由」「貧乏人が餓死する自由」だといって間違いではないと思う。
 実際に当時、飢餓線上の人口は400万人といわれていたが、現在760万人に増えている。
 アフガニスタンはますます窮地に立たされている。

「緑の大地計画」 命綱の用水路の建設へ

 戦争とはおかまいなしに沙漠化はどんどん進行し、今も進行中である。
 まずはいかにして食料不足を解決するかを第一にあげ、「緑の大地計画」を立てた。
 われわれは医療団体だが、診療所を100戸つくるよりも、1個の用水路をつくった方がはるかに効果が大きいと考え、「沙漠化で無人化した村村の復興」をスローガンに、2003年に用水路の建設に着工した。

 最終的に現在の全長27`b、灌漑面積3千数百fの約16万人が生活できる用水路が完成したが、12年前は途方に暮れた。
 計画をつくるのは非常に簡単だが、実際にやってみるとさまざまな問題に遭遇した。
 意気込みはあるが、まず道具がない。
 ツルハシとシャベルのみだ。
 もう少しお金を貯めて立派な日本の技術、技術者を呼ぶことも考えたが、長い目で見て、だれがその水を使い、用水路を維持管理するのかを考えたとき、現地の人びとでも建設でき、現地の人たちの手で維持され、何世代にもわたって使える施設にするには、現地の人の手で直せるものでなければならなかった。

 日本とアフガニスタンは、非常に異なる国のように見えるが、水に関しては非常に似た点が多い。
 どちらも山の国で急流河川が多く、夏と冬の水位差が激しいこと、山間部の狭い地域や小さな平野での農業が主流であり、水をとり入れる技術に似た点がある。
 現在の農村は日本の中世の農村部の自治制と似た点がある。
 このため日本の昔の技術をアフガニスタンにとり入れようと考えて探し回った。

 私の生まれ育った福岡県の筑後川は「日本三大暴れ川」と呼ばれ、治水のための古い施設がたくさん残っている。
 日本も数百年前まで渇水、飢饉、洪水は日常茶飯事で、そのたびに何十万、何百万という犠牲者を出しながら現在の田園地帯がつくられてきた。

 築後川の山田堰は220年前につくられ、現在も現役として多くの地域を潤している。
「これだ」と思った。
 当時は重機やダンプカーなどない。
「私たちにもできないことはない」と積極的にこの技術をとり入れていった。

 日本の堰を模倣するといっても、インダス川の支流は日本の大河川の5倍、10倍の規模。
 この地理条件に合わせ、約10年の歳月をかけて最近になってようやく成功するようになった。

 護岸技術もむやみにコンクリートを用いるよりも昔の技術の方が簡単であると同時に、多少崩れてもすぐに補修できるという点で優れていた。
「蛇籠」と呼ばれる鉄線で組んだ籠に石を詰めて積み上げ、そこに柳の木を植えると非常に強靱な用水路ができる。
 昔の人の知恵が、あのインダス川の激流を見事に制した。

 コンクリートの打設はだれにでもできないが、石を積み上げるのはアフガン人ならだれでも上手だ。
 これも現地に非常に適した方法だった。
 とにかく自分たちでつくることを私たちの鉄則とした。
 揚水設備も、電気が使える地域は数%で、それもときどき電気が来る状態だ。
 油や電気を使わない水車を使い、水利施設も充実していった。

 用水路が次々とでき、10年ほど前から用水路が延びるたびに緑地が蘇り、荒れた村々が回復して、多くの人びとが村に帰ってきた。

 最後にたどり着いたのがガンベリ沙漠で、ここが一番の難航地だった。
 工事は真夏で、摂氏53度にまでなる。
 数百人の作業員のうち、毎日十数人が熱中症で倒れる。
 それでも彼らが作業の手を休めなかったのは「1日3回食べること」「故郷で家族と一緒に生活すること」、このたった2つの強い願いがあったからだ。
 それさえもかなえられずに難民化した彼らにとって、この用水路ができなければ、元の難民生活が待ち受けている。
「なんとか生き延びたい」という健全な意欲が、用水路建設の大きな底力となった。
 2009年に第1回目の試験的な通水が成功したときに彼らは大喜びし、開口一番「先生、これで生きていける」といった。
 用水路は地域の人びとには欠かせぬ命綱として存在し続けることとなった。

 しかし水を引くだけではだめで、砂嵐をいかに防ぐかが次の問題となった。
 防風林をつくることにしたが、これも年月がかかる。
 やっと2、3年前に林に成長し、約80万本の木が砂嵐を防いでいる。
 現在も着々と事業が進んでいる。

数十万人の生活保障 農業回復が平和の基礎

 水が来れば作物をつくることができ、水辺には動物も集まる。
 エネルギー問題も一挙に解決した。
 日本でエネルギー問題といえば原発や電力、石油の話が出てくるが、現地で必要なのは調理や防寒に使う薪だ。
 80万本の木々から出る大量の間伐材を利用することで、この地域ではほぼ自給可能になりつつある。

 人が集まれば諍(いさかい)も起こる。
 それを解決するよりどころとしてモスクも建設した。
 われわれが活動する地域はもっとも豊かな地域の一つとして見事に復活した。
 かつては一木一草生えない荒野であったことを知る人はだんだん少なくなってきた。
 用水路は全長27`b、灌漑面積三千数百f、約16万人の人びとの生活の復興に留まらず、周辺地域にも繁栄が広がりつつある。
 他の地域に訴えていることは「戦争する暇があったら食料を自給する努力をせよ」ということだ。

 干ばつは進行している。
 温暖化によってヒンズークシ山脈に積もった雪が春先から夏にかけて一気に溶けるため洪水が起こり、低い山々の地下に水が染みこむ余裕がなく、万年雪が減っているために地下水が減ってカレーズが枯れ、大河川では川の水位が下がって取水できなくなり干ばつが起きる。
 想像もしないような大洪水が起きると同時に渇水も起き、そのために難民が増える。
 国外に出ても、町に出ても、職はなく、やむを得ず武装勢力や政府の傭兵となる者が増え、ますます治安が悪化する悪循環が進行している。

 このなかで私たちは、現地に適した取水技術の確立・拡大を目指して活動を続けている。
 暴れ川を制するには、自然と上手に折り合いをつけることが重要で、洪水が来ても被害を最小限に抑え、渇水になってもある程度の水をとり込む。
 昔の人の技術、考え方をとり入れて活動を進めている。
 安定した水の供給によって農業を回復させ、難民を村に呼び戻すことをめざして少しずつ計画は進んでおり、1万6500f、60数万人が生きていける環境が整っている。
 これをモデルに広げたい。

 政治にしろ、戦争にしろ、人間と人間だけの問題にとらわれてしまうが、人間と自然が折り合って生きていくこと。
 これを誤ると学者の中にはこのままいくと、地球は1世紀も持たないという人もいるほどだ。
 危機感を持ち、われわれはどう生きていけばいいか、医療の整備、平和、戦争を考えることで、私たちに非常に大きな示唆を与えてくれるのではないかと思う。

◆ 質疑応答

質問: 用水路などをつくるうえでの知識はどのように得たのか。

中村: 知識はだれも教えてくれない。いかにしてつくるかという気持ちがあれば、基礎的な水利学的な計算を学ぶことは、それほど難しいものではない。実際の水利施設に足を運んで観察し、コピーすることから始める。昔の人は緻密に計算しながらつくっているわけではなく、おそらく経験だけのはずだ。試行錯誤の積み重ねで最終的に完成したのだと思う。郷土史にもどうやってつくったかはほとんど残っていない。ということは普通の人にもできる製造過程だということだ。これを模倣することから進めた。河川工事は試行錯誤のくり返しだった。

質問: 何十年も活動を続けられる原動力はなにか。

中村: 仕事上「疲れたからやめよう」というわけにはいかない。早く作業から引き揚げたいと思ったことは何度もあるが、ここで自分がやめると何十万人が困るという現実は非常に重たい。また多くの人が私の仕事に対して希望を持って何十億円という寄付をしてくれている。その期待を裏切れない。なによりも現地の人たちに「みなが頑張れば、きちんと故郷で1日3回ご飯が食べられる」という約束を反故にすることになる。
 日本では首相までが無責任なことをいう時代だが、十数万人の命を預かるという重圧は、とても個人の思いで済まされるものではない。みなが喜ぶと嬉しいもので、それに向けて努力することが原動力だと思う。

質問: 食べ物は。

中村: ナンが主食で、カレー味のないカレーのようなものを食べる。豆が多く、普通の貧しい人たちは1年に1、2回しか肉を食べない。

質問: 学校はあるのか。

中村: 今は国民学校がある。以前から教育はおこなわれており、モスクを中心とした伝統的なマドラサが今でも田舎では教育の中心で、国民教育と並行しておこなわれている。教育とは「親が死んでも自立して生きていける生活の手立てを与えるもの」と考えられており、農村では家の手伝いをすることそのものが教育だ。「読み書きができればいい」と考えている人がほとんどではないか。学校に対して生徒が多く、就学率も増えているため三交代制をとっている。都市部では近代的な教育を受けた子どもたちが農村を捨てて都市に出て行くことが問題になっている。教育そのものより、中身が重要ではないかと思う。

質問: アフガニスタンの人たちは、日本人をどう思っているのか。

中村: もっとも親密に感じているのが日本だ。独立記念日が同じだと思っているほど親密に感じている。彼らにとって「日本」と聞いて連想するのは長崎、広島、日露戦争だ。どこに行っても知らない人がいない。
 日露戦争の評価はひとまず置いて、100年前のアジア世界では、日本・アフガニスタン・タイを除く全アジア諸国が欧米列強の植民地・半植民地だった。その時期に極東の小国・日本が大国のロシアと戦争して負けなかった。このことが非常に大きな励ましとなり、アフガニスタンでは世代から世代へと語り継がれている。「日本はちっぽけな国だが、理不尽なことに対しては、たとえ相手が大きくても屈しない、不撓不屈の国」という誤解が生まれている。
 広島、長崎についても、同情心だけではない。アフガニスタン自身もロシアと戦い、イギリスを撃退して現在の体制を整えてきた国で、その経験から「羽振りのいい国は必ず戦争をする」といわれる。
 日本も同じように戦後の荒廃から立ち上がった国だが、一度も外国に軍隊を送ったことはないという信頼だ。日本人は国連職員よりも安全だというのが一昔前まで一般的だった。しかし、そのメッキが少しずつはがれつつあるのが現状だ。

質問: アフガニスタン人の視点から見る現在の日本の「積極的平和主義」を掲げる動向、また日本人についてどう思うか。

中村: 日本に帰ると別の惑星に来たように感じる。
 第一に元気がない。アフガニスタンでの最高に近い医療が受けられ、恵まれている割にみな不幸な顔をしており、自殺が多い。アフガニスタンは貧しい国で、他殺はたくさんあるが自殺はない。
 日本の政権については、こんなバカな政権はない。向こうではみな権力に対して従順でない気風がある。
 対照的に日本人ほど権力に弱い国はないと感じる。現政権がアフガニスタンに出現したとするなら、もう何十回か暗殺されている。その点が日本との違いだ。個人的なことをいうと憲法に従う義務はあるが、政権に従う義務はないと考えている。

質問: 現地で活動するにあたって立場や価値観の違いがあると思うが、親交を深めるためにしたことはなにか。

中村: とくにないが、試行錯誤を重ねて体得していった。違いを強調するよりも共通点をみつけていくことだ。私はキリスト教徒で敵の宗教だが、彼らはそういう狭さは持っていない。

質問: 作物はどういったものがとれるのか。

中村: 穀類ではコメ、小麦。野菜は、日本で見る野菜はほとんど向こうがルーツ。西のつく野菜や、胡麻や胡瓜など「胡」のつくものはほとんどアフガニスタンや中央アジアが原産だ。南米産のルーツのものも手に入る。違うのは肉。大豆、豆類を中心にタンパク質をとり、ときどき動物性のタンパク質をとる。

質問: 次のリーダーを育成するためにどのようなことを考えているか。

中村: 現地でリーダーが育っていくことを期待して仕事を進めていきたい。学歴より、現場は徹底した現地主義。人材は現場で育てるということを徹底していけば、実質的な指導者が自然にあらわれてくる。しかも生きるか死ぬかの問題だ。英語も日本語も通じない人でも「これは」という光る人がいる。やがてそのなかからリーダーが出てくると確信している。

質問: 治安は悪いと聞くが、新しくできた農村、灌漑施設、病院、先生個人の警備は警察がしているのか。

中村: 現地には日本のような厳密な警察組織はない。それでいて回る共同体だ。自分の身は自分で守るのが鉄則。日本人がよく「丸腰で活動するなんて」というが、現地は百姓と武士の区別がない。500人作業員がいて、もし作業を妨害するグループがあらわれたとすると、ライフルや小銃などを持って集まって、すぐに一個中隊ができる。普通は鉄砲を見せびらかさないが、潜在的な武力を持った準武装集団だ。用水路を守るためにはみなたたかう。しかしその必要がないよう、まずは平和的な交渉をしていこうとしている。
 私もみなに守られている。用水路は命にかかわるので、「中村とは運命共同体だ」ということで大事にしてもらっている。その地域で役立つ人間である限り、私は身の危険を感じずに済む。作業員のなかにはイスラム国やタリバンなどもたくさんいるが、彼らのなかには、やむをえず傭兵になった人がたくさんいる。敵かどうかは、自分たちと運命共同体であるかどうかと密接に関係している。路上では爆弾事件が増えているので注意はするが、作業場ほど安全な地域はない。

長周新聞、2015年9月2日
「アフガニスタンに生命の水を」
ペシャワール会 中村哲氏の講演

https://www.chosyu-journal.jp/shakai/1179

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中村哲医師、アフガン名誉国民に

 中村哲医師について、ヤッホーくんのこのブログ、次の日付の日記をぜひお読みください:
★ 2010年12月30日「飯盛山」
★ 2010年12月31日「年納め」
★ 2014年06月26日「ドーナツ外交」
★ 2016年03月04日「慈響の調べ」
★ 2019年06月14日「爆弾よりも食料を」

 アフガニスタンの支援を行う福岡市の非政府組織「ペシャワール会」は2019年10月9日、現地代表の中村哲医師(73)=福岡県出身=が、同国のガニ大統領から同国市民証を授与されたと発表した。
 長年にわたる用水路建設などの人道支援が評価された。
 駐日アフガニスタン大使館によると、日本人への授与は異例。
 今後は査証(ビザ)が免除されるなど名誉国民として待遇される。

 中村医師はアフガンを襲った大干ばつを受け、2003年に東部ナンガルハル州の大河クナール川周辺で用水路建設を開始。
 事業で潤った土地は、福岡市の面積の約半分に当たる約1万6500ヘクタールに及ぶ。

 会によると、中村医師は7日、首都カブールの大統領官邸で開かれた式典に出席。
 ガニ大統領は、洪水が頻発するクナール川の特徴を踏まえ、
「狂った川を、愛をもって制したのですな」
とユーモアを交えて話し、「最大の英雄」「最も勇敢な男」とたたえた。
 最後に、
「いつでも官邸に来て、困ったことがあれば知らせてほしい」
と述べたという。

 今後は、アフガン入国時のビザが免除されるほか、土地や会社が所有できるようになる。
 中村医師は、
「日本の良心的支援とアフガン人職員、地域の指導者による協力の成果。これで文字通り現地に溶け込んだ活動になる。私たちの試みで、より大きな規模で国土が回復されることを希望する」
とコメントした。
 中村医師は2018年には同国の国家勲章を受けている。


[写真]
アフガニスタンのガニ大統領からアフガン市民証のIDカードを授与された中村哲医師(左)=7日

西日本新聞、2019/10/10 9:12
中村哲医師、アフガン名誉国民に
「最も勇敢な男」
大統領が授与

(中原興平)
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/549893/

 地域に井戸や生活基盤を作れば武器は捨てる。
 そういう信念で活動し続け成果も生む。
 無人ドローンで民間人ごと吹っ飛ばす米国、
 改憲で戦争犯罪に加担する米国イスラエル型安倍日本とは真逆の真摯な姿。
 日本を誇りたいなら中村医師のことを知ればいいと思います。

10:51 - 2019年10月9日

 安倍晋三が、オリンピックで2回連続で金メダルを獲得した、フィギア―スケートの羽生弓弦選手に国民栄誉賞を贈ることを検討しているというのである。
 羽生氏の功績や努力などに対して何の異論もないが、メダル受賞とともに電話入れたり今回の褒章は、いかにも奇異でキナ臭い。

 日本人被爆者の功績もあって核兵器禁止法に努力し、ノーベル平和賞を受賞したICANには、受賞に際して政府はコメントも電話もいれなかった。
 訪日にあたっても、訪問を拒否した安倍晋三である。
 その一方で、文学賞受賞の英国在住のカズオ・イシグロ氏には栄誉を称える談話の違和感が、ここまで糸を引いている。

 国民栄誉賞はかつてイチローは現役選手であり途上にあると受賞を断ったが、たった一度の金メダル受賞の高橋尚子は受賞している。
 国民栄誉賞は明かに恣意的なもので、近ごろは政権が露骨に自らの人気取りにやっている。
 長嶋茂雄と松井秀喜がいい例である。
 功績としては彼らを上回る選手は、数限りなくいる。
 読売一派のナベツネの意向を受けた、安倍晋三の政治パフォーマンスである。

 それに引き換え、アフガニスタンで医療支援や用水路建設に取り組む国際NGO「ペシャワール会」の長年の功績を称え、現地代表の中村哲医師に、ガニ大統領から国家勲章が贈られたのは特筆に値する。
 日本の民間人が同国の国家勲章を受けるのは異例のことである。
 中村氏は途上国支援のあるべき姿を私たちに示していてくれる。

 金まみれのお役所のマニュアルに沿った、海外の支援事業は国内の公共事業と同じである。
 関連業者と日本企業にお金が落ちるばかりである。
 平和貢献とは程遠いのが実態である。

 驚くことは、この国家勲章の叙勲は2018年2月7日に行われている。
 一ヶ月も経つのに報道すらない。
 ペシャワール会の事業内容については、ホームページで確認願いたい。
http://www.peshawar-pms.com/

 私は長年の会員である。
 本ブログで繰り返し書いている。
 読者の方々も、会員になって会を支援しアフガニスタンの人びとを支えていただきたいと思う。

 国家勲章の叙勲式で、ガニ大統領は、
「ペシャワール会のかんがい方式が復興の鍵だ」
と述べ謝意を表している。
 中村医師は、
「長年の仕事が地元で評価され、為政の中枢に届いた。戦乱や干ばつの中にあっても人は生きていかねばならない。叙勲がアフガニスタンで大きく協力の輪を広げる動きであることを祈る」
と述べている。

 最近も、中村哲氏は安保関連法(戦争法)の成立などを受けて、安倍晋三を強く批判している。
「国民は政権に従う必要はないが、憲法には従わなければならない」と国民へのメッセージと、安倍晋三への批判を行なっている。
 これでは安倍晋三からの叙勲はないか。


そりゃおかしいぜ第三章、2018-03-02
ペシャワール会の中村医師にアフガニスタンが叙勲、それにつけても国民栄誉賞の軽さ、おぞましさよ
https://blog.goo.ne.jp/okai1179/e/1c65c6f408abba866ea56392e0cc34a9


[講演会]長周新聞 2015/9/2

中村哲.jpg

アフガニスタンで農村復興のため水利事業に携わっているペシャワール会の中村哲医師の講演会
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2019年10月09日

先崎彰容『未完の西郷隆盛』

明治維新150年 なぜ今、西郷隆盛か

片山杜秀  今年はNHKの大河ドラマも「西郷どん!」で、維新関連、西郷関連の本が数々出版されています。明治維新から150年というタイミングが何かと意識されますね。しかしそれは外側の話として、『未完の西郷隆盛』のあとがきには、先崎さんが思想史研究を志すきっかけが、そもそも西南戦争であり、西郷隆盛であったとありました。

先崎彰容  明治維新150年を、人物を通して考えるとすれば、例えば坂本龍馬ならもっと躍動感が生まれただろうし、大久保利通なら堅実に描けるでしょう。でも今回、西郷隆盛に関する夥しい書籍が出たのは、恐らく西郷が征韓論であれ西南戦争であれ、敗者の側であり、「暗い」からかも知れません。

 2018年の日本は、かつて司馬遼太郎が「坂の上の雲」を書き、大いに受け入れられたのとは違う社会的雰囲気ですよね。経済だけではなく、政治への期待感の喪失を含めて日本全体に閉塞感がある。つまり、「暗い」。なぜこうなったのか。少なく見積もって戦後、巨視的に観れば日本の「近代」全体をいま一度問い直したい、これが『未完の西郷隆盛』執筆の強い動機です。

 日本の近代化とは何か、ということを考えるとき、西郷は懐が深いと思うんです。徴兵制で士族の特権をはく奪した例でも分かるように、西郷自身が日本に様々な先進的制度を導入し、近代化を進めていった。一方で、近代化に違和感を表明した、西郷は岡倉天心とともに最初期の人物です。つまり西郷は、近代日本を作った人物であると同時に、それに対して懐疑した、とても謎めいた人物なのです。

片山  といっても西郷隆盛には思想家として、系統だった著作があるわけではない。そこで彼の片言隻語や時々の行動が、『論語』の短すぎるフレーズが後世の人たちに解釈の無限変奏を生み出したように、様々な西郷像がつくり出される。先崎さんは見事な西郷変奏曲を今回書かれましたね。

先崎  西郷には系統だった著作がないどころか、主著『南洲翁遺訓』すら、実は庄内藩の人による聞き書きです。それが福澤諭吉から江藤淳に至るまで、西郷を自由に論じ、自らの思想を仮託することを許して来ました。何より驚いたのは、彼らの言葉を精読し、腑分けしてみると、現代の私たちの行動パターンがほとんど出揃っていることでした。つまり「西郷隆盛」は、私たちの思考態度のソースなんです。

片山  いきなり福澤諭吉の西郷観から入るのには意表を突かれました。しかも要点は近代社会の通弊である誇大宣伝や虚偽報道への危惧でしょう。この福澤と西郷の共通認識が導入になることで、本書はとても現代的な印象を与えますね。
 その後に西郷論の王道が出てきますが、そこから浮かび上がるのは、やはり西洋近代への懐疑や異議申し立ての系譜学となりましょうか。それでいきなりなのですが、このタイミングで西郷を取り上げて、先崎さんがいま、日本近代に何を思うかを伺いたいですね。

先崎  私はこれまでの著作もそうでしたし、今回の西郷論でも同じですが、一つの立場に立たないようにしています。例えば、第四章で取り扱った政治思想史家の橋川文三や小説家の島尾敏雄によれば、西郷は明治新政府がつくりつつある天皇親政の国家体制を相対化する人物だった。西郷は30代の壮年期に流罪となり、離島生活を余儀なくされます。その西郷に本土中心の歴史観をひっくり返す可能性を観ようとした。これは明確な「反近代」です。

 一方で、福澤諭吉は驚くべきことに、西南戦争で西郷軍が敗北した原因を、当時、世界を席巻していた情報通信を駆使できなかったからだと観ていた。官軍は電信を用いて速やかに情報を把握していたからです。これは西郷を論じつつ「近代」について考えていると言えるでしょう。さらに第5章で論じた江藤淳も、西郷に「近代」とは何かを読み取ろうとしていました。江藤は文藝評論家としてデビューして以来、一貫して西郷を低く評価し、勝海舟を持ち上げていた。江藤にとって近代国家を作り上げることは、常にアメリカなどの列強と対峙しつつ、いかに自己主張を貫徹するかという問題です。

 私たちは比較的容易に「国家権力」という言葉を使い、何やら国家は巨大なもの、絶大な壁のようなものと前提しがちです。しかし江藤は逆の考えを持っていて、アメリカという自らの価値観の普遍性を疑わず、強制してくる存在に対し、何とか対峙するシンドイ国家、それが日本であると。国づくりは平和を維持して当たり前。壊せば批判され責任を問われる。これが政治家の仕事です。だから政治家は夢を語ったり、理想に溺れるのではなく、むしろ地味で地道であるべきだ、それが勝海舟だと言っていたのです。西郷はあまりに詩人的でダメだと。

 その江藤が突如、晩年に評価を逆転させ『南洲残影』を書いた。それはなぜか。安易に近代批判をせずに、そもそも「近代」とは何なのか――西郷について考えると、私だけでなく、多くの思想家が、こうした問いに導かれていくんです。

片山  結果、この本は、一章から四章までと、江藤淳を扱う五章では少しトーンが違っていますね。

先崎  そうですね。第二章から四章は、「反近代」的な思想が読みとれる内容だと思います。二章の中江兆民の場合、西郷とルソーが似たような問題と格闘していることを論じました。具体的には、経済の自由放任主義を批判し、儒教的な道徳の復活を処方箋として提案しました。中江兆民が西郷を高く評価し、儒教への親近性を語っていることだけでも、十分に「意外性」があるのかも知れません。

 また三章では、右翼の巨頭・頭山満と西郷の関係を考えました。西郷を敬慕しつづけたこの右翼人の周辺から、次々にテロリストが生まれたのはなぜか。西郷の思想のなかに、実はテロリストを生んでしまう危険な香りがあらかじめ内包されているのではないかと。そしてこの香りは、日本で暴力的行動が生まれる際の、論理と心理が典型的に現れており、現代にも無縁ではないのではないか。

 実は西郷が歴史学で取り上げられる場合、天皇と藩主・島津斉彬に対する忠誠の相剋、あるいは明治新政府の国家体制づくりとの関係で論じられることが多い。でも、『南洲翁遺訓』を思想史的に精読して観ると、少し違う論点が出てくるんです。

 具体的には著名な「敬天愛人」に注目するだけでもいいでしょう。幕末の儒学者・佐藤一斎に親しんでいた西郷は、「天道」「天命」を重視しました。自らの行動の指針、究極の根拠を超越的なものにおいていたんですね。維新を押し進めた志士たちの強烈な自負心は、この「天」とのつながりを根拠としています。

 ところが、一方で西郷には自分の過剰な精神をうまくコントロールできない一面があった。「天」から与えられた規範を逸脱するような、独善に陥るような暴力的な一面があったのです。その危険性が突出してしまったのが、後の頭山満周辺の西郷信者によるテロ事件でした。

資本主義の終焉と、社会主義的なるもの

片山  ところで最近、資本主義の終焉という論調が強まっていますが、先崎さんは、社会主義についてはどう捉えていますか。冷戦構造の崩壊とともに、社会主義は表舞台から消えましたから、先崎さんが学生の頃は、社会主義など歯牙にもかけず、という風潮だったと思います。しかし近代のオルタナティブとして、反近代あるいは超近代を考えるとき、社会主義は外せません。西郷や中江兆民の中にある、「道」や「天」といった儒学的、儒教的な思想が、資本主義や個人の解放とは逆方向の、明治の社会主義に通じていきます。明治から150年の現在と今後を考えるとき、社会主義的なものをどう扱うべきだと思われますか。

先崎  あくまでも西郷との関連でお答えすると、明治末期の大逆事件が起きた際、なみなみならぬ関心を寄せた石川啄木が、日記の中に「幸徳と西郷!」と書き付けているんです。啄木は評論「時代閉塞の現状(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」の中で、国家という強権への確執と、青年を囲む時代の空気の閉塞を執拗に書いています。晩年には「帝国主義的社会主義」という概念まで用いて、閉塞の打破を模索していた。

 日露戦争の勝利で、日本は国家目標の「富国強兵」のうち、取りあえず「強兵」を達成します。そのことで、それまで青年たちにあった国家有為の人材になるという未来図が揺らいだわけです。残るは「富国」ですが、啄木は、富を過剰に追求することに成功する者がいる一方、高学歴で、しかも大学は就職養成所の様相を呈しているにも関わらず就職できない、「遊民」という不思議な階級が現れた、と懸念を述べています。

 澱んだ社会状況の中で大逆事件が起こり、社会を本気で改造しなければいけないと啄木が考えたとき、浮かんだ名前が幸徳秋水と西郷だった。西郷は社会主義を標榜した啄木に、明治末期、社会改造のシンボルとして思い出されていた。

 それを踏まえて、今、片山先生がお話された現代にまで視線を移すと、1990年代後半の私の学生時代には、社会改造の方法として、社会主義の魅力は皆無だった。資本主義が独り勝ちしている状態で、現状の打開策も皆無だった。

 もちろん1990年代後半、社会に対する違和感は強く持っていましたし、飽和しきって砂粒化した社会に、居場所がないと感じていました。あるいは「自分」という存在自体が曖昧で、溶解していく感覚もあった。

 もがくように今村仁司のポストモダン論を読んでも、砂粒化した秩序をさらに解体する方向に持っていく論理のように思われ、生理的な嫌悪感すらありました。

 そうして本を読む中で、当時面白いと思ったのは、橋川文三の『日本浪曼派批判序説』です。簡単に言うと、マルクス主義などのあらゆる社会改造が崩壊した後の、1930年代の青年のデカダンスが、ロマン主義を生んだ、という内容です。それが当時の私には非常にリアリティがあって、ある意味でそのリアリティをベースとして、思想史研究をしてきたんです。

明治100年の時代背景、昭和元禄、戦争ブーム

先崎  大学で教えるようになった当初も、「現在は社会改造の包括的プランが壊滅した時代です」と説明してきました。その後どんどん、日本の経済状況が悪くなり、2000年代には「格差社会」という言葉が流行する。全く先の見えない状況の中で、東日本大震災が起こります。

 その後の日本は、若い世代を中心に、社会の役に立ちたいとか、NPOで社会改造を行おう、という人が出てきているように感じます。社会主義とは違うかたちだけど、何らかの方法で社会を変えなければいけないと、再び「公」の世界に「自分」を直結させ、興味を持つ人が増えているのかな、と。

 ただ震災以後のこうした状況に危惧する部分もあります。飽和しきった時代が長く、精神的に引きこもっていたところからの反動で、社会正義や社会参加を、過剰に求める傾向が起こっているのではないかと。

 片山先生の新刊、『「五箇条の誓文」で解く日本史』(NHK出版新書、2018年2月)の最後には、最近のナショナリズムの喚起は安上がりな仕掛けで、「「美しい国」「和の国」などの美辞麗句を掲げて、国民の不満を緩和し、その場しのぎの連帯を演出する」と書かれていますね。これが安倍政権批判だとすれば、僕は反原発デモに否定的なので、一見正反対の政治的立場のようですが、実は同じことを感じているんです。政権が近隣諸国を叩くことで、国民の思いを一気に凝集して、「美しい国」という日本像を立ち上げようとすることと、東電を悪者にして蹶起すれば、社会がよくなると錯覚することは、同じコインの裏表だとしか思えません。複雑化を極める現代社会において、一つの象徴を祭り上げ叩く、あるいは興奮を集中させる。これがはたして健全な「公」的な行動と言えるか。社会参加していると無条件に肯定してよいのか。

片山  私は1968年の明治100年のときはまだ幼稚園児でいろいろなことが朧ですけれども、その前後に強い調子で続いた、近代史回顧と日本賛美、戦争の記憶の反芻にやはりドップリ漬かって育っていたんですね。映画と言えば先代の松本白鴎が明治天皇を演じた「日本海大海戦」、小説は「坂の上の雲」、NHK大河ドラマは「竜馬がゆく」。幕末維新と日露戦争と司馬遼太郎の時代でした。まだ戦後20数年なので、軍事雑誌の「丸」には、士官クラスの太平洋戦争の体験談がどっさり掲載されていましたし、漫画も戦争物が多かった。
 そういう言わば戦争文化攻勢を浴びせられて、いつしか戦記マニアみたいになって(笑)。日本海軍の軍艦の写真集を愛蔵していましたが、これがほとんどアメリカに没められている。ここまでひどい負け方があるのか。どうしてそこまでやるのか。西洋が憎かったのか。別の理由か。なぜ玉砕や特攻までするのか。日本近代に興味を持ったのは明治100年の御蔭ですね。日本というのはとても無茶で際どくていつも薄氷を踏んでいる危うい国で、しかも構造的な歪みを抱えているのではないか。そういう関心になりました。
 つまり続いているのが不思議だな、ということ。滅びるんじゃないか。根底にあるのはそればっかりで。その意味で江藤淳の国家が弱いという話には共感してしまいますね。

先崎  明治100年と150年の現在とでは、時代背景に差がありますよね。

片山  そうですね。私の子どもの頃は、戦争の話をたくさん聞かされながら、少なくとも戦後はうまくいっているんだと。高度経済成長だ、昭和元禄だ、みたいな時期が、幼稚園から小学校低学年ですね。三島事件は小学一年で、そのとき現場に比較的近い飯田橋に居たせいもあってよく覚えていますが、当然ながら意味はよく分からない。それよりむしろ同年の大阪万博ですね。東京から出かけて夢を味わった。猛烈な記憶になっている。小松左京や梅棹忠夫や岡本太郎のデザインした世界で、もちろん彼らなりの反近代も超近代もあったわけですが、基本的には産業文明のユートピア。動く歩道や月の石や原子力の灯でバラ色の未来を刷り込まれました。
 ところがその直後の1973年がオイルショックでしょう。突然節電が叫ばれ、産業文明はもう終わりだという。落差が強烈すぎて、何を信じればいいか分からなかったですね。日本の国が脆いのではないかというのは、歴史から学んだよりも、私の場合はあの頃の刷り込みかもしれません。
 もう一つ思い出すのは、1969年だから明治101年の沖縄反戦デーの都市騒乱。天皇誕生日の前の晩です。私は都心の小さなホテルの部屋から眼下に目撃しまして。学生と機動隊が睨み合って、学生が火炎瓶を投擲して道が燃える。幼稚園児としては本当に怖かった。部屋の電気をつけると学生に火炎瓶を投げられるとホテルの人に言われて、部屋を真っ暗にして窓から見ていた。4階だったかな。あの晩はもう大変だ、早く逃げようと、深夜まで親や親戚に訴えたのですが、笑って相手にしてくれない。だって外が暴動なのに。
 崩壊感覚とでも言うのでしょうか。それがトラウマであり基本になってしまっている。学問のことでも、安定が前提になっていたり、管理して統制できるという話が当たり前になっていると、嘘っぱちに思える。滅亡や混乱やカタストロフについて聞かされると、そっちがデフォルトになっているので安心する。呆れ果てたバイアスのかかりようで(笑)。要するに不可能性が前提になって、その前でもたもたする思想でないと共感できない。

先崎  なるほど。

片山  江藤淳の精神史も日本海軍的な合理精神に懸けたものが揺らいで壊れてゆくプロセスなんでしょうね。勝海舟が素敵に思える人は、よほどの楽天家か機会主義者かニヒリストですよ。山本権兵衛にこだわるに至っては山岡荘八の『徳川家康』みたいなものです。しっかりやれば結果が出るみたいな。そんなもんじゃないですよ、日本の歴史は。
 そこはさすが江藤淳だ。晩年に西郷に辿りつく。西南戦争の薩軍の敗北にこそ、太平洋戦争で敗戦に至るまでの日本の近代史が凝縮されていると。歴史は繰り返すと。先崎さんの整理がとても腑に落ちました。
「抜刀隊」の歌や「孝女白菊の歌」に先崎さんがページを割かれたのも、滅びへ向う日本近代の暗いトーンを浮かび上がらせるのに、非常に利いています。感服しました。
 明治150年の現在は、滅びを基調としながらも、といって「はい、滅びます」とはいかないので、結局、江藤が西郷に投影したように、滅びの感覚に耐えながら、砂粒化した社会をギリギリで保ちつつ、延命のためのマイナーチェンジを繰り返すしかない。そんな具合でしょうか。

西郷の中に潜む「日本人を知るための何か」

片山  本書では、司馬遼太郎を終章に持ってきて、それが読者への一つの謎かけのようにも読めたのですが、司馬を通して先崎さんが問いたかったことは?

先崎  まず驚いたのは、三島由紀夫も江藤淳も司馬遼太郎も、皆、眼前の「五十五年体制」を批判する際、西郷に言及していることです。

 司馬が西郷を評価していなかったことは比較的知られていると思いますが、同時に大久保利通のつくる官僚組織についても懐疑的だった。大久保に理想の国家像を仮託できない。でもそれに対する反旗の翻し方が、征韓論や西南戦争では困るのです。司馬は征韓論を、本来冷静に対処すべき「外交」に、民族的な対立意識の情念を持ち込んだ最初の事例だと批判しています。と同時に、西南戦争についても、最初から敗北を分かっていての無意味な戦争だったと辛口です。国内外の政治において、西郷にはリアリズムが足りないと。

 そして司馬は、眼前の「五十五年体制」もまた、何一つ変わっていないではないかと言うのです。社会党は、最初から政権交代などできないと分かっていて、無意味な自民党批判ばかり行っている。また外交で自民党を批判する際も、近隣諸国との情念深いナショナリズムを焚きつけるだけで冷静な対応を目指さない。

 以上の司馬の西郷評価は、とても合理的で納得できるものです。しかし、と私は立ち止まりました。でもなぜ、西郷の人気は衰えないのか。そこには何か、日本人が抱える思考と行動のあるパターンが読み取れるのではないか。国民作家と呼ばれる司馬ですら、見落としてしまう「日本人を知るための何か」が潜んでいるのではないか、と。

片山  そうですね。そうした思考展開に先崎さんの西郷びいきとしての真骨頂がありましょうね。
 さて、先崎さんが要領よく、しかも厚く整理してくださっているので、江藤淳を含めたそれぞれが、西郷に仮託した思想はとてもよく分かります。しかし明治150年に、近代を一遍にひっくり返すことは無理にしても、異議申し立ての思想的原基を、西郷に求め続けるべきなのか。

先崎  結論は出しにくいのですが、何らかのかたちで現状を変えたいと思うとき、その方法論のいくつかのパターンが、西郷をめぐる思想の系譜に凝集されていることは、確かだと思うんです。

 例えば、橋川文三や島尾敏雄、吉本隆明は日本の近代化を天皇制国家であると定義し、その体制を相対化する手段として、南島時代の西郷に注目したわけですが、同時期の三島由紀夫は、別の問題意識から西郷と天皇の関係に注目している。三島にとって明治以来の近代化とは、天皇本来のあり方が失われていく時代だった。三島にとって天皇とは日本文化を象徴する存在であって、立憲政治に限定されてはならない。天皇は勅撰和歌集はもちろん、叙事詩からセックスにいたる人間の営み総体を抱擁し、非合理な暗部にまで眼の届く存在であるべきだった。

 だから三島は明治立憲体制に批判的で、とりわけ治安維持法が嫌いでした。なぜなら治安維持法は共産主義者対策の法律であることから、日本の「国体」を資本主義だと言っている。これが三島には我慢ならなかった。そして理想の天皇像の復活を求めて、1970年に割腹自殺をしたわけです。明治以降の「近代」日本を呪い、天皇と、天皇を愛した西郷の革命思想に期待をよせたというわけです。

 つまり天皇を軸として観れば、橋川や島尾と、三島由紀夫は正反対の立場に立っている。でも彼らには共通点もあることに注意せねばならない。彼らは総じて反近代の立場に立っていた。「西郷隆盛」を語る饒舌な議論の中に、日本の近代化の是非を問い質す発言の典型的なパターンが出揃っている「事実」は、驚くべきことだと思います。私たちが社会改革を云々するとき、西郷はその存在感を増してくるのは間違いない。ここに福澤諭吉の情報革命に翻弄される西郷像、中江兆民の自由主義経済批判、さらには頭山満の西郷思慕とテロリズムの発生を思い出せば、日本の近代化が生み出す諸問題のいかに多くが西郷によって語り出せるかに、改めて気づくと思うのです。

「敬天愛人」を説く西郷の中に、近代を超克する「アジア主義」の一面と、真面目さゆえの狭量さ、暴力性が同居していた。西郷の多様性を肯定すると同時に、西郷の中にあるきな臭い部分も見つめ、危うさも含めた日本人の思考パターンを知ることは、今の世の中にも必要だと思っています。

150年の時間軸、死から生を問い直すべきとき

片山  その通りですね。
 しかし、この複雑化した現代社会で、福澤諭吉が理想とするような、情報の適正な流通が可能でしょうか。中江兆民のように、人間の欲望を儒教的な倫理によって修正して経済の道徳化、公益本位、社会主義的な方向付けを目指すというのも、どうでしょうね。すでに歴史の中で試され、しくじっている事柄とも言え、今後に生かすのは難しいように思ってしまいます。頭山が仮託したアジア主義思想も、西洋近代を相対化するためのカウンターとしては機能するけれど、民族の連帯が絵に描いた餅ということは……。

先崎  そうですね……しばしば言われるように、現代社会で包括的な改革案、世界観自体を問い直す具体的運動は困難なのでしょう。だから小規模な形での、しかも生活に密着した感じのする、「もう一つの近代」を求める動きがある。「生活に密着した」と言ったのは、要するに政治的な匂いが少ないという意味です。

 例えば、有機栽培の食材を使ったレストランや、地方都市で古民家カフェが注目を集めたりすること。また物を持たないシンプルな生活が、かえってスタイリッシュに思えるのは、近代社会の価値観・通念に対する柔らかなアンチテーゼなのだと思います。それはどこか、岡倉天心がかつて語った、インドの夕刻に木陰で人びとが憩う光景につながる、近代的な速度から降りた生活感があります。アジアの原風景への衝動というか。資本主義の加速から降りるという選択肢が今、経済成長の減速とともに意識されている。そしてその先駆者こそ西郷隆盛なのだ、西郷のアジア的で反西洋文明風の価値観なのだということになってくる。「もう一つの近代」の先駆者という記号として、西郷はあるのです。

 この本では、近代社会の弊害とともに、処方箋も示すように心がけましたが、福澤諭吉の場合、性急な改革と過剰な文明開化に、精神的な安定を奪われないための「地方自治」が処方箋となります。最近、東京一極集中型の社会から、地方へのシフトチェンジが語られる機会が増えていますよね。

 中江兆民の場合、過剰な自由主義経済化を戒め、個人の欲望追求と他者との競争に明け暮れる状態を近代であるとし、理想の共同性を復活させるために儒教道徳の「浩然の気」が処方されています。ルソーの一般意志もまた、眼前の西洋社会が殺伐とした人間関係であり、その無秩序から理想の共同性を模索した書物だと、兆民は理解し評価していたのです。これは現代で言うと、東浩紀さんの『一般意志2・0』の議論に、重ねて考えることができるのかも知れません。東さんは、ネットを活用することで、政治参加をせずに引きこもっている人びとを連帯させて、政治的な一般意思をつくる道を模索します。人と人がどうすれば社会につながれるのかは、兆民以来の課題なわけです。

 そして拙著『未完の西郷隆盛』の一応の結論は、西郷隆盛に私たちは「政治家」以上のものを読み込んできたのだ、それは西郷という人物の中に、この近代社会を生きていく際の指針、少し大袈裟に言えば、私たちの死生観、理想の人間イメージを読み込んできたのだ、というものです。

 近代150年は、富国強兵や高度成長といった、過剰な生の情熱が満ち満ちた時代でした。一方で、反乱、暗殺、戦争、テロなど過剰な暴力と死への憧れを生んだ時代でもありました。西郷は離島流罪時代に、「生と死の論理は二つにわけられるものではない。これを呑みこむことができれば、あらゆる行為は天理からはずれないのだ」と言っています。こうした死生観に支えられて幕末維新期を駆け抜けた西郷に、私たちは何か政治家以上のものを嗅ぎつけ、憧れているのではないか。私たちが生きる近代社会が排除し続けてきたもの、徹底して眼を逸らしてきた死の匂いを、西郷に嗅ぎあてているのではないか。テロや暴力といった過剰なかたちで日常生活に死を呼び込むのではなく、どう生と死を等分に見渡せる価値観を取り戻せるのか。きな臭いかたちではない、生と死の共存は、現代社会であり得るのかと。

明治100年と明治150年の経済状態の違い

片山  明治100年の頃は、極端な右肩上がりがいつまでも続くと思えた時代だから、アダム・スミス流に言えば、経済成長で皆が豊かになってゆけば、その豊かさを維持しようとして、他人に攻撃されないように、道徳的に公益を尊重する態度がおのずと身につくと。資本主義が市民道徳を生み出すから大丈夫という話を保守の人たちはしていた。林房雄とかはそうでした。対して社会主義の人たちは仕組みを変えないと豊かさは全体に及ばないと言った。
 しかし今思えば、当時の左翼と保守の争いは能天気でした。どちらも成長することが前提で、富の分け方の争いだった。みんなが豊かになって階級対立や立場・考え方の隔たりが狭まれば、情報にかかるバイアスも軽減されるから福澤の心配もなくなる。豊かさが極まって道徳が生まれれば兆民の心配もなくなる。
 ところが今は、経済発展という点では、少なくとも先進諸国は行き詰っている。富が増えない。福祉も行き渡らない。階級対立が深まり、人間も切羽詰まり、情報にもバイアスがかかる。急な処方箋を書こうにも、経済と社会の複雑化はそれを難しくする一方である。
 急進的な革命ができる時代ではもちろんない。かつて丸山眞男は、マックス・ウェーバーの『ロシア革命論』を持ってきて、レーニンの暴力革命の成功の要因は当時のロシアの都市に電気やガスや水道がなかったからだと喝破しましたね。継続性が保たれなくてはいけないものが少ない世界ほどラディカルに変えられ、その逆も真である。
 現代の高度資本主義世界では継続すべき事柄だけで飽和してがんじがらめになっている。革命からいちばん遠い世界に来ている。
 でも、何か変えねばならぬことは確かだから、民主主義的にやりましょうと言われても、特に最大の問題である経済の領域が専門家にも手に余る複雑さに達してしまったから、民主的にはやりようがない。一般人に理解できないことは民主的に決められない。裁判員制度とか公聴会とか、市民が参加して熟議する仕組みだけは整えられていますが、民主主義を実質化するためのはずが、今日の情況下では形式化を促進するようにしか機能しない。アイロニーがあります。経済に限らず、安全保障でも原発でも、問題の高度化が客観的解答を出しにくくし、だから慎重になるのならまだしも、それぞれの立場が都合のいい解釈で都合のいい真実を作り出し暴走するのを誰も止められない、最悪の意思決定プロセスが至る所を覆うようになっています。
 先程、社会全体を変えるような大きなビジョンは持てない時代だから、さまざまな小さな問題を個々に世に問うて、脱構築をはかるしかないと言った議論になったと思うのですが、つまりマイナーチェンジということですけれども、その方法論の有効性も疑わざるを得なくなってくる。新左翼、ポストモダン以降の「抵抗の論理」でも「一般意思」の形成でも、ジェンダーや格差問題でもいいけれど、常に構造を相対化しながら、組み替えていくしか方法がない、と言ってきた。それは微視的な戦略や戦術とつながる。しかし、そのマイナーな組み換えの要求が、行政の些末化や近視眼化やタコツボ化と対応し、小さなことが無数に起きて、微分化が極限にいって、しかもどの小さな箇所でも問題が現代社会の通弊として複雑化しているから、答えがなかなか出ず、停滞する。試行錯誤を繰り返す。
 大学でも、毎年のように研究資金の仕組みや受験の制度が変わって、それによって環境改善をはかっているかに見せて、その手続きをしているだけで膨大な時間が使われ、書類づくりで一年が終わって何のために変えているのか分からないうちにまた変わる。それぞれが視野狭窄の中で渋滞して、大きな思考は失われる一方でしょう。
 新左翼以降の、ポストモダンの「抵抗の論理」が、「管理の論理」と重なって、人を疲弊させていく。それが今ではないですか。福沢と兆民から、ずいぶん飛躍しましたが。

先崎  面白い論点がいくつか出てきましたね。その中で二つ拾うと、一つは1968年と2018年、維新100年と150年の経済情勢の違いです。

 片山先生の『「五箇条の誓文」で解く日本史』の終章に、〈「民主主義と資本主義」蜜月時代の終わり〉とあるのですが、資本主義がグローバル化とともに無限の拡張を続けている現在では、民主主義は必然的に機能不全に陥る。なぜなら経済問題は世界規模で起きているのに、民主主義は国家という地域性を単位にしているからです。世界と地域の違いがあるのですから、当然、資本主義と民主主義は乖離に陥ります。

 問題は、その渦中で政治が行政化してしまうということです。本来、司法・立法・行政の三権によって成り立つ政治が、とりわけ行政にウェイトがかかってしまう。分かりやすく言えば、国民の身の回りの生活改善、生活保障の充実が政治のやるべき課題だと勘違いされている。行政こそ政治だと思い込むと、自分の短期的利益を実現してくれない政治はダメな政治だ、ということになるわけです。近視眼的になることで、「政治不信」が常に言われる社会となる。政治とは、立法を目指して議論の応酬をする民主主義の場であって、日本という国がどうあるべきか、未来のために何を変えるべきかなど、「長期的な視野」を持つことが是非とも必要です。

 でも今は、それが全くないですよね。

近代の出口で振り返る西郷ともう一つの国家像

先崎  いささか強引に言うなら、日本という国は常に外圧、あるいは天災によってしか、我に返れない国だった。

 黒船が突然やってくるとか、関東大震災が起きなければ、日本人は大きく変わることはできなかった。2011年に震災が起こったとき、社会の変化が期待されましたが、それも今は昔になってきている。

 もしかしたら、この国はこれから数年以内に、外交的な緊張か、天災か、外からの刺激によって、戦後70数年、あるいは1968年以降の飽和しきった状態を抜け出そうとするのかもしれません。「近代とは何か」を問い直すきっかけを強制されるのかも知れない。逆に言うと、そういうことでしか、長期的なビジョンを取り戻すことは難しいのかもしれない。

片山  そうだとしたら、やはり西郷の中にあるパターンで、我々は思考していくのかもしれません。現代は、司馬遼太郎が超克したかった西郷の亡霊が蘇らざるを得ない時代。有司専制、官僚国家、行政国家的なものへのアンチテーゼとして、あるいは民衆の連帯の方法論として。

先崎  司馬遼太郎は、西郷は国家的なビジョンを持たない人間だと決めつけます。でも実は、西郷は『南洲翁遺訓』でも、普仏戦争をはじめとした当時の国際情勢を理解した上で、日本のあるべき姿を述べています。ですから、現在のような長期的な視野で物を考えるべきときには、思い出されてもいいのではないかと思うんです。

 西郷隆盛は、近代化の先頭走者でありながら、江戸時代に培われてきた伝統が壊れ失われていくということを、強く意識していた人です。だから西郷には、アジア的な匂いがするでしょう。彼は失われていく価値観への郷愁があった。

 今の社会はその逆で、戦後以来、近代化を極北まで突き進んだ私たちは、近代の出口にまで来ています。全てを失い、やはり必要なものがあったのではないかと、完全に失われた価値観を思いだしている。そして西郷の後ろにあるアジア的なものや、草花の匂いがする近代文明とは異なる価値観を、もう一つの国家像として、振り返っているのかも知れない。

 ただし、繰り返しになりますが、西郷は現代社会の病理の多くも体現しているので、処方箋としては効果があるけれど、注意しないと副作用も大きい。取扱い注意な人物です。

片山  自由主義、個人主義、欲望解放でおさまりがつかなくなれば、その先は社会主義的な連帯か、儒教的道徳か。とにかく和辻哲郎の倫理学ではないけれど、関係性の問題に戻ってこざるを得ない。
 人倫、天、アジア、日本。
 西郷のモティーフばかりが蘇ってくる。明治100年は、「竜馬がゆく」と「坂の上の雲」がしっくりくる時代でしたが、明治150年は西郷隆盛。先崎さんの本はまことに時宜を得ています。

週刊読書人 Web、2018年3月9日
対談=先崎彰容×片山杜秀
明治維新150年「西郷隆盛」という処方箋
『未完の西郷隆盛』(新潮社)刊行を機に

https://dokushojin.com/article.html

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雑誌「ひらく」

 創業40年余、アウトドアスポーツ用品販売の老舗A&AFが雑誌「ひらく」を創刊した。
 登山の雑誌ではない。
 監修は佐伯啓思・京大名誉教授、刊行の辞にいわく「現代文明や日本の思想についての本質的な論議の場所を作り、この混沌(こんとん)たる現代に対する思想的な座標を論じてみたい」。
 分野横断で問題に向き合い、若い人の登場も歓迎する。

 創刊号の特集は「日本文化の根源へ」と「現代という病」。
 監修者をはじめ、松岡正剛、又吉直樹、東浩紀、先崎彰容、上田岳弘、荒川洋治、末木文美士の各氏ほか多彩な顔ぶれが並ぶ。

 A&F創業者で「ひらく」発行人の赤津孝夫氏(72)は、紙の媒体を大切に考えてきた。
 ネット全盛の時代にあって「思慮深さが失われていく」ことを憂え、本誌創刊で「炎上しては消える議論でなく、深く考えるための一石を投じたい」と語る。

 年2回ほど刊行し、次号は2019年11月の予定。2376円。

※ 朝日新聞、2019年9月21日掲載


朝日新聞・好書好日、2019.09.25
アウトドアスポーツ用品販売の老舗が、思想の場を「ひらく」雑誌を創刊
(福田宏樹)
https://book.asahi.com/article/12737409

 A&Fという会社を知っているだろうか。ひと言でいえば、アウトドアグッズの輸入販売を手がけている会社である。

 バックパックブランドの「ミステリーランチ」や、キャンプ用品の「ロッジ」など、高品質で知られるブランドを取り扱い、アウトドア界ではかなり知られた存在となっている。

 現在は扱っていないが、バックパックブランドの「グレゴリー」をいち早く国内に紹介した会社といえば、なるほど、とうなずく人も多いかもしれない。

 そのA&Fが、近年、本の出版を行っている。それも、どこかの出版社と組んだわけではなく、完全に独立事業として。それでいて、出す本のクオリティが異様に高い。今年は定期雑誌として思想誌の刊行まで始めた。

 なぜ、アウトドア製品輸入会社が出版を?
 なぜ、この出版不況の時代にあえて?
 本作りなどしたことのないはずの会社がどうしてこのクオリティを?

 会社の創業者であり現会長、そして出版事業を始めた当事者でもある赤津孝夫さんに、その尽きぬ疑問をぶつけてみた。

アウトドアは「カルチャー」だから。

 どうしてアウトドアの企業が本作りを始めたのか。

よく聞かれます(笑)。うちは創業42年になるんですが、創業当初には洋書の輸入販売もやっていたんです。それがけっこう売れていましてね。当時はアメリカでアウトドアムーブメントが盛り上がった時代で、でも、その情報は日本にはまだまだ入っていなかったんです。
 アメリカのアウトドアというのは、カウンターカルチャーとしての側面が強くて、ただ野外で遊ぶだけではなくて、思想的なこととか哲学的な部分も重要な要素だったんです。
 スティーブ・ジョブズが言った『Stay Hungry, Stay Foolish』という言葉がありますよね。あれはジョブズのオリジナルじゃなくて、『ホールアース・カタログ』という、当時のアメリカン・アウトドアのバイブル的な本に載っている言葉なんですよ。
 私たちが扱っているアウトドア用品は、そういうアメリカのカルチャーをバックグラウンドにもったものが多いので、ユーザーの方も知識がほしかったんじゃないかと。そういう経験が、現在の出版事業の根底にはありますね


 A&Fが出版事業を始めたのは2014年。これまでの5年間に23冊の本を刊行しており、そのうち半数の11冊が海外原著の訳書である。刊行第1号は、『アウトドア・サバイバル技法』(ラリー・D・オルセン著)という本。

この本、アメリカで半世紀も読まれている大ロングセラーなんです。じつはこの原著を、創業当初に輸入していました。ほかにも、ロープワークの本とか、釣りとかナイフの本とか、私たちの商品を買ってくれるお客さんが興味をもちそうなテーマの洋書をいくつも輸入していました。
 趣味のモノって、好きな人はその文化とか背景にも興味が湧きますよね。だから私たちも、モノを売るだけじゃなくて、情報の需要にも応えたいし、そういう部分を知ってほしいという思いもありました。
 だから本にはずっと興味があったんですが、出版を事業として始めた直接的なきっかけは、『アウトドア・サバイバル技法』がアメリカで今でも売られていることを知ったことです。やっぱり本というのはいいな、廃れない商品だなということを再発見したんです


とはいえハードルは高いはずだが……。

 とはいえ、出版というのはいうほど簡単な事業ではない。独自に本を作って、取引のあるアウトドアショップなどに並べれば確かに販売はできるが、書店に置かれなければ広がりはもたない。

 書店で販売するには、取次という本専門の流通業者を通す必要があるのだが、その取次が新規の取引先をなかなか受け入れないというのは、出版業界では知られた事実。よほどの覚悟がないと、まずこのハードルを越えられないのが普通だ。

 A&Fもその例にもれず、本は作ったものの、当初は書店で販売することはできなかった。1冊作って独自に販売した実績をもって、小さな取次業者との取引がようやく可能になり、少しずつ販路を広げて今にいたる。

ブランドには唯我独尊の部分が必要。

 付き合いのあるアウトドア系出版社などに交渉して本を刊行してもらうという手もあったはずだが、わざわざ苦労の多い道を選んだのはなぜか。

うーん、そこはこだわりというか……。他の力を借りてやっても自分たちの財産にならないし、そうすると自分たちの力が発揮できないんじゃないかと思うんです。
 ブランド商売を長年やってきて思うんですが、ブランドには唯我独尊的な部分も必要なんじゃないかと。それが、他とは違う一目おかれる存在を作るわけで、A&Fという会社もそうありたいと思ってやってきましたので


 輸入販売会社が変わることも多いアウトドアブランドの業界で、A&Fは取り扱うブランドをなかなか変えないことで知られる。よいと思い定めたブランドは簡単には手放さず、自社に専用修理工房まで備える態勢で、じっくり時間をかけて育てていく。そういう姿勢がアウトドアユーザーの信頼を得ていることは間違いない。

 本を作るにあたっても同じ。出版社の力を借りては、できあがるものは結局その出版社のもの。それでは自分たちの個性を100%発揮することはできず、ということは、A&Fブランドの確立に寄与する割合も限定的になる−−ということだろうか。

カタログも美しいA&F。

 その思いを貫いた結果に違いないのだが、これまでに刊行された本は、普通の出版社にはなかなかできないほどのクオリティだ。

 まず、装丁が非常に凝っている。ハードカバーあり、ペーパーバックふうのものあり、今どきあまり見ない箱入りのものまである。デザインのクオリティも高く、中身を読まずとも部屋に置いておきたいと思わせるような、“モノ”としても質感が高いものが多い。

そこは土台があったんです。毎年、当社の取り扱い商品カタログを出しているんですが、300ページほどあるカタログの3分の1くらいが、商品とは直接関係ない読み物の編集ページになっています。たんなるカタログとして捨てられてしまわないために、それから商品を取り巻く文化により深い愛着をもってもらうためにやっていたんですが、結果的に、そこに文章を寄せていただいた作家さんとかアウトドアの専門家とかとのつながりが蓄積されていました。
 装丁もそうです。カタログをよりよいものにするために、一流の装丁家さんとか編集者にかかわってもらうなかで、本作りのプロの方たちとたくさん知りあうことができました。そういう意味では、ゼロから出版業を始めたわけではないんですよ


これまでで一番売れた本は?

これまででいちばん売れたものですか? それは、昨年2018年に出した『トレイルズ』(ロバート・ムーア著)という本です。全長3500キロくらいあるアメリカのアパラチアントレイルというコースを著者が歩くんですが、その過程でいろいろなことを考えるんです。どうして道ができたんだろうとか、周辺の自然環境のこととか。歩きながら人間の内面や自然のあり方に思いをはせていく過程が描かれているんですね。
 トレイルって、登山道とかハイキングコースという意味なんですが、日本では『道』という言葉には、道徳的な意味とか人生訓的な側面もありますよね。著者もそのような観点に焦点を当てていて、そういうところが日本の読者にも共感されたのかなと思います。
 あとはこれ、『バーバリアンデイズ』(ウィリアム・フィネガン著)。この著者はニューヨークタイムスのジャーナリストなんですが、サーフィンが趣味で、波を求めて世界中を旅していたころの思考を書いています。いわば『トレイルズ』の海版みたいな本ですね。ピュリッツァー賞を受賞した作品で、アメリカではオバマ元大統領が夏に読みたい本としてあげていたくらい有名な本です


 これらはA&Fという会社の成り立ちからしてテーマ的にふさわしく、わかりやすい本だ。他にも、ダッチオーブンやスキレットを利用したキャンプレシピの本などもあり、これも本業と合致していて、「なぜ、本を」という疑問には答えやすい。

文化思想の定期刊雑誌はなぜ?

 が、今年2019年には『ひらく』という定期刊雑誌の刊行まで始めた。しかもそのテーマは文化思想。登場する筆者を見ると、又吉直樹、佐伯啓思、松岡正剛、東浩紀、先崎彰容などといった名前が並ぶ。内容的にはアウトドアとは関連がない。これはどういうことなのか。

これは佐伯啓思さん(経済学者、京都大学名誉教授)との個人的なつながりから生まれたものです。『ひらく』は『表現者』という論壇誌の流れをくんだもので、アウトドアとは確かに関係ないんですが、文化思想的なことは僕も感心があるし、雑誌もやってみたいと思っていたところだったんです。
 佐伯さんは保守派の論客ですが、考え方がナチュラルで幅広い。政治的な動きをしない人で、そこに共感しました。だから思想誌なんだけど、政治論はやめようという決まりを設けています。もっと文化的なことをテーマにした思想誌。登場する書き手の人選などは佐伯さんの考えが色濃く反映されています。佐伯さんが中心になっているので、佐伯さんの本といえると思います


 赤津さんは、アウトドアのカルチャー的側面を積極的に啓蒙してきた、アウトドア界のオピニオンリーダーのひとりでもある。そのため、こう説明されると、あまりにも意外な内容も腑に落ちるところがある。

『ひらく』は年2回刊。いまは第1号が出たばかりだが、赤津さんの頭のなかには、すでに3号までの構想があるという。

大儲けはできなくても損はしないように。

 しかしどうしても聞いておきたいことがある。

 現代は出版不況。良質な本を出してもなかなか売れない時代だ。そこでなぜ本作りを目指すのか。そもそも採算はとれるのか。結局のところ創業者の道楽ではないのか。失礼な質問かもしれないが、これは聞いておかなければいけないことだ。

疑問に思いますよね(笑)。でも、ビジネス的に無理は決してしないようにしているんです。少ない部数でも損はしないようにコストを計算してやってます。赤字では続かないじゃないですか。
 やりたいことをやるには、続けられる環境はどうしても必要なので、大儲けはできなくても損はしないように、継続できるということをいちばんの目標にしています


 思い切った事業に見えて、社内体制は意外なほどにコンパクト。編集や装丁などの作業は外注するものの、社内の専任は実質的に赤津さんひとりで、出版エージェントなどとの交渉も自ら行う。

社員にはそれぞれ担当の業務があるし、かかわる人が多いと業務が複雑になって判断がブレるので

 これは本業が順調であるからこそできることでもあるはず。近ごろはこうした、本業を別にもつ会社や個人が作る本のなかに、驚くほど質の高いものを見る機会が多い。出版のひとつの未来はこういうところにあるのかもしれない。

それから、こういうアウトドアに関連した本を出版するのは、私たちのお客さんに対するサービスや販促的な意味合いもあるんです。たとえば、ダッチオーブンを買ってくれた人なら、その使い方には興味があるはずだし、その詳しいことが知れるなら本も欲しいと思うはずですよね。
 逆に、本を読んでダッチオーブンに興味をもつ人もいるかもしれない。こういうことは、道具の販売会社であるからこそできるし、やる価値があることだとも思っています。
 まあ、そういうビジネス的な計算ももちろんあるんですが、根底には、自分が欲しいものを作りたいという思いがあることは確かです。人生のなかで影響を与えられることって、人から学ぶことがいちばん大きいのはもちろんだけど、本はその次に人に強い影響を与えるものじゃないかと思っているんです。
 テレビを見ても忘れちゃうし、ネットの情報もすぐ流れていってしまうけれど、本はひとつの形あるモノとして残っていますよね。匂いとか手ざわりも含めて。やっぱり価値あるメディアだと思うんですよ


 本を自分で作れることに、すごく満足している――赤津さんの表情にはそんな充実感がにじんでいた。

Number Web、2019/09/22 08:00
なぜアウトドア企業が本を作るのか。
創業者「野外で遊ぶだけではなくて」

森山憲一
https://number.bunshun.jp/articles/-/840774?page=4

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2019年10月08日

平山周吉『江藤淳は甦える』

 戦後の「保守派」を代表する評論家、江藤淳(1932 - 1999)の自死が1999年、ちょうど20年前になる。
 平山周吉(1952年生まれ)氏による伝記『江藤淳は甦える』が最近2019年4月、刊行され、また、先ごろ逝去された評論家の加藤典洋(1948 - 2019)氏の仕事も江藤淳から強い刺激を受けたものであった。

 江藤さんの評論の軸は、ほとんど米国の属国といってよい戦後日本の主体性の欠如を明るみに出す点にあった。

 その起点になるのはGHQ(連合国軍総司令部)による占領政策であり、占領下にあって「押し付けられた」戦後憲法とGHQによる言論検閲であった。
 それ以降、日本人は米製憲法を抱き、米国からの要求をほとんど受け入れ、米国流の価値や言説を積極的に受容してきた。
 これでは、国家としての日本の自立は達成されない、というのである。

 その江藤さんの数ある評論のなかでもよく知られているのが、1970年に発表された「『ごっこ』の世界が終ったとき」である。
 世界中で米国のベトナム戦争への批判が噴出し、日本でも全共闘運動なる反政府運動が全盛の時代であり、三島由紀夫の自決の少し前である。
 また少し後には、佐藤栄作政権による沖縄返還が実現する。
 世情騒然たる時代であった。
 江藤さんはこの評論のなかでおおよそ次のようなことを論じていた。

 日本では、全共闘による暴力的な反政府運動があり、また他方では三島由紀夫が結成した「楯の会」による自主防衛や、新たなナショナリズムの動きに揺れていた。
 しかし、このどれもが、
「革命ごっこ」
「自主防衛ごっこ」
「ナショナリズムごっこ」に過ぎない。
「ごっこ」とは真の現実に直面しない虚構のなかの遊びである。
 鬼ごっこは虚構の鬼をめぐる遊戯であって、本物の鬼が出てくれば成りたたない。
 日本で政治運動や思想運動が「ごっこ」にしかならないのは、戦後日本がもっぱら米軍とその核の傘に依存して国家の安定や平和を維持してきたからであり、その決定的な現実に右も左も目をつむっているからだ。
 反戦平和を訴える左翼運動は、実際には日米安保体制によって平和が維持されているという現実を見ようとせず、右派のナショナリズムも、日米同盟体制を真に問題としようとしない。
 これらの運動や思想が本当のリアリティを持ちえないのは、すべて、対米従属という戦後日本の基本構造を真に問わないからである。

* * *

 ところが、いまや情勢は変化しつつある。
 米国は経済的に疲弊し、アジアからの軍事力の撤退を検討しており、日米関係の再編、再構築の可能性もでてきた。
 戦後日本の課題は、一方では、平和と繁栄の維持にあるが、他方では、対米従属を脱して、いわば失われたアイデンティティを取り戻す点にあった。
 ところが、戦後日本は、米国への従属国家としてアイデンティティを失うことで平和と繁栄(江藤さんは「生存の維持」といっている)を手にしてきた。

 しかし、と江藤さんはいう。
 遅かれ早かれ、日米関係は変化せざるを得ない。
 日本は米国の弱体化した経済を支える代わりに米軍基地の返還を求め、自主防衛の方向に向かうだろう。
 その時に初めて、日本は自立した国家として「世界」というリアリティに直面するだろう。
 そして日本人は改めて、「あの戦争」における敗戦の意味と、300万に及ぶ死者たちを真に想起することになるだろう。
 われわれが現在ここにいる自分たちのことだけを考えるのではなく、死者たちの霊を共同体のものとして受けとめた時に初めて、われわれは自らに自信を持つことができるようになるだろう。

 江藤さんがこう主張してからほぼ50年が過ぎようとしている。

 果たして江藤さんの見通しはどうなったのだろうか。
 この半世紀で世界情勢も国内の雰囲気も大きく変わった。
 しかし、日米関係の強化だけはゆるがない。
 1980年代にはレーガンと中曽根氏の親密な日米関係が築かれ、1990年代には米国主導のグローバリズムに日本は巻き込まれ、2000年代になると中国の台頭と北朝鮮の脅威に対していっそうの日米同盟の強化が唱えられる。
 今日、安倍首相とトランプ大統領はきわめて強い信頼関係を構築したと宣伝されている。

 かくて、国内外の状況は大きく変化したものの、江藤さんが述べた日本の自主独立あるいは日本人のアイデンティティの回復へ向かっているとはとても思われない。
 ここでいうアイデンティティとは福沢諭吉のいうところの「一身独立、一国独立の精神」、あるいは「自主独立の気風」といったぐらいの意味である。

* * *

 確かにある意味では、江藤さんが述べた「ごっこの世界」は終わったようにもみえる。
 左翼学生による「革命ごっこ」はすでに1970年代半ばには無残な帰結を迎えた。
 その後、学生も大学もすっかり穏やかになり「体制」のなかで優等生になろうと競争している。
 さらに、今日、左翼の平和主義や護憲主義はもはや大きな力を持ちえない。
 それは、まさに戦後日本の平和が米国の軍事力と核兵器を前提にしていたからであり、米国によって守られた平和のさなかで平和主義を唱えても欺瞞(ぎまん)でしかないであろう。
 また、三島由紀夫の「自主防衛ごっこ」も、思想的な影響は別として、現実には何らの効果ももたらさなかった。

「ナショナリズムごっこ」も、今日、反中国、反韓国、反左翼に終始して、真の意味での独立の精神や日本の自立を問う論調はほとんど見られない。

 となれば、一見したところ、「ごっこの世界」の化けの皮も剥がれつつある、ともいいたくなるだろう。
 すべてが現実主義の一点に向かって収斂(しゅうれん)しているのだ。
「現実」にグローバリズムの世界だから日本もグローバル競争をしなければならない。
「現実」に中国が大国化し北朝鮮の脅威があるから日本は米国に守ってもらわなければならない。
「現実」に日本は平和なのだから今の憲法でいいではないか。
 また逆に「現実」に自衛隊は存在するのだからそれを憲法に書き込めばいいじゃないか、等々。
「現実」こそがすべてといった具合になっている。

 確かに江藤さんは「ごっこの世界」は「世界」という「現実」に直面していない。
 それを直視しなければならない、といった。
 では、この「現実主義」は、本当の現実(リアリティ)に直面しているのだろうか。

 とてもそうは思えない。
 なぜだろうか。
 まず、今日の「世界の現実」そのものが、どこか「ごっこ」の様相を帯びてきているからである。
 グローバル競争の世界は、何の根拠もなく自由競争は利益と繁栄をもたらすという虚構の上にいわば市場競争ごっこを始めた。

 中国や北朝鮮の脅威から米国は日本を守るだろうという、これまた特段の根拠もない虚構によって日米の特別な関係が唱えられる。
 これもいわば同盟ごっこの様相を呈する。
 実際、トランプ大統領は先日、日米安保条約の破棄にまで言及した。
 もちろんトランプ流の思い付きではあろうが、それにしても、日本の政治家(特に野党)もマスメディアもほとんどこの問題を論じようともしないのはいったいどういうことであろうか。

 憲法に関して言えば、護憲派も改憲派も、そもそもの根本的な問題をいっさい問おうとはしない。
 それは、占領下にあって主権をもたない国家が憲法を制定しうるのか、また憲法とは何か、主権者とは何か、国家の防衛と憲法と主権者(国民)の関係は、といった根本的な問題である。
 それを問わずして護憲も改憲もない。
 真に憲法に直面することを回避した護憲論も改憲論も、いわば護憲・改憲ごっこと言わざるを得ないだろう。

* * *

 江藤さんは、別の文章でこう書いている。
 日本は、米国のこしらえ上げた「鏡張りの部屋」に置かれているために、世界というリアリティに直面していない。
 われわれは鏡に映された自分たちの姿について、右だ左だ、護憲だ改憲だ、と相手をののしりあっているが、この部屋は外からは素通しのガラスでできていて、米国からはその中がよく見えている、というのである。
 そしてそのうちに、われわれは、米国による監視を内面化して「自己検閲」をするようになってしまった、これが、戦後日本の言論空間である、という。

 戦後70年以上もたてば、さすがに鏡も曇ってきたし、ガラスもひび割れてきたようである。
 ガラスの部屋も万全ではなくなってきた。
 そこで日本は日本で世界という現実に乗り出そうとしている。
 だが、ガラスを取っ払えば、世界というリアリティに直面する、というわけでもない。
 世界そのものがこれまた巨大な「ごっこ」の様相を呈しているからである。
 日本を検閲していたはずの米国の政治も、トランプ大統領の登場に見られるように、ほとんど思いつきと人気獲得のショウ化している。
 私には、これもまた壮大な「大統領ごっこ」のように見える。
 トランプ大統領と金正恩委員長のやり取りも、また、文政権の韓国もどこか「政治ごっこ」に見える。
 G20やサミットなども「外交ごっこ」である。

 何か真のリアリティが感じられないのだ。
 どうやら今日、世界へと顔を向ければ、現実(リアリティ)に直面するというものでもない。
 世界がまた壮大な「ごっこ」に傾いているのである。
 なぜなら、今日の世界は、それを導く確かな価値も方向感覚も見失い、また、人々の生存への必死のあがきや、あるいは、個人や国の尊厳へ向けた命がけの戦いともほとんど無縁になっているからである。
 しかしまた、この「ごっこ」が、もしかすれば、とてつもない「鬼」を現出させるかもしれないのだ。

 結局、リアリティとは、そこにある現実そのものではない。
 それは、われわれが常にそこへ立ち戻り、方向を指し示してくれる価値や経験と深く関わる。

 近代日本にとっての最大の経験はあの戦争とその死者たちであった。
 江藤さんは「ごっこ」が終わればわれわれはあの死者たちと本当に向き合うといったが、どうやら逆に、あの死者たちをたえず想起することによって、せめて「ごっこ」を自覚することぐらいはできるのであろう。

◇ ◇ ◇

※ 佐伯啓思(さえき けいし)
 1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「死と生」など。思想誌「ひらく」の監修も務める。


朝日新聞、2019年10月2日05時00分
(異論のススメ スペシャル)
「○○ごっこ」する世界
佐伯啓思
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14201565.html

「山の手階級」の批評家

竹内洋: のっけから悪いんだけど、『江藤淳は甦える』の著者との対談者が私でええのか、とても疑問やったんですよ(笑)。

平山周吉: 竹内さんは、『丸山眞男の時代、大学・知識人・ジャーナリズム 』(中公新書、2005年11月)と『清水幾太郎の覇権と忘却』(中公文庫、2018年2月) という本を書いておられますが、確かに、丸山と清水の2人は、江藤さんが60年安保の後に激しく批判した知識人ですね。

竹内: 私は1942年生まれで江藤淳のちょうど10歳下。私の学生時代には江藤はすでに文壇で華々しい活躍をしていました。「文學界」に出た「奴隷の思想を排す」とか、単行本で読んでいましたよ。でも、あの頃の若者は、江藤淳があまり好きじゃなかった。

平山: どういうことですか?

竹内: 江藤淳は自分自身を「山の手の坊ちゃん」と規定して郷愁を前面に出すし、東京の中産階級の崩壊イコール日本の崩壊になるからついてゆけない。60年代の大学生は、私も含めて、親が高等教育を受けていない、田舎から出てきた高等教育第一世代ですから、福田恆存や清水幾太郎、吉本隆明のような庶民的な知識人の方に親和性が高いし、人気も出るんです。

平山: 調べてみてよく分かったのですが、祖父の江頭(えがしら)安太郎は、山本権兵衛に認められた俊才で、病気で死ななければ海軍大臣になり、総理大臣として大命降下されてもおかしくない人材でした。

竹内: 僕は、また彼一流の膨らませた話かなと思っていました。

平山: ただ、安太郎が亡くなった後はちょっと下駄を履いていて(笑)、現実より高い階級だといい、戦後はそこから没落したという物語を作っています。

竹内: 田舎に疎開していたら、いじめられるタイプですよ。

平山: 戦中に住んでいた稲村ヶ崎で地元の子供に、「坊ちゃん面(づら)が気に喰わない」といじめられたと書いています。

竹内: 同世代の大江健三郎が「僕のように貧しい地方人」と言っていますけど、これが当時の読書人の大学生の平均的な感覚です。だから、江藤淳の物言いにはどうしても違和感を持ってしまう(笑)。

平山: 僕自身、60年安保の頃は子供でしたから、感覚が届きません。あの頃、若者代表として活発に動いていたことは今度調べて知ったのですが、同時代の若者には反感を買う態度だったのですか。

竹内: 何か戦後史の生き証人みたいになってきたけど(笑)、もうひとつ、江藤淳の評判を悪くしているのは「転向」やね。戦後は「革新幻想」が崩壊してゆく歴史でもありますが、江藤は安保闘争の終わり頃にすでに当時の進歩的知識人の限界を見切り、既成文壇の側に付いた。
 1960年、江藤が「“戦後”知識人の破産」に「政治家や大小の実際家たちの時計は動いていたが、理想家の時計だけが8月15日正午で停っていた」と書いたのを、僕はよく覚えています。まだ、丸山眞男が論壇の中心にいた左派全盛の時代ですから、当時としてはものすごい逆張りです。

平山: 60年6月10日、アイゼンハワー大統領の秘書ハガチーが羽田空港でデモ隊に包囲されて、米軍ヘリコプターで脱出したハガチー事件の経緯に絶望したわけですから、かなり早い転換ですね。

竹内: もうひとつ、「亀井勝一郎論」で「群像」新人賞を受賞した松原新一が、1965年に発表した「江藤淳論」で、「若い文化」の尖端だった「作家は行動する」の著者から、たった2年で小林秀雄を擁護する「昂然たる保守主義者に転身」する過程を痛烈に批判したんですけれども、松原の本名は江頭(えがしら)肇というんです。

平山: ええっ、知りませんでした。

竹内: 松原は兵庫の出身で、江藤淳=江頭淳夫(本名)のルーツは佐賀だから血縁ではないでしょうけど、松原が本名でデビューしなかった理由は想像がつきます(笑)。私と同じ京大教育学部で、2級上で1年留年した人だったけど、身近な人間の生々しい江藤の転向批判でした。

平山: 江藤さんは、最初から悪名が高いという感じでしたね。本人も悪役(ヒール)という意識がはっきりある。

竹内: そうそう。

平山: デビュー時はまだ大学院生でした。1957年、「文學界」で13人の作家と批評家を集めて大座談会をやり、偉い人ばかりの中に石原慎太郎と江藤淳が若者代表で放り込まれて、高見順と大喧嘩するのが最初の役回りですから、ずっと憎まれ役で通しているんです。

竹内: そして、何といっても、山田宗睦のベストセラー『危険な思想家――戦後民主主義を否定する人びと』(1965)でやり玉に挙がったのが大きいでしょう。

平山: 安保闘争前後に「転向」し、「共同体文学」の批判者から「民族の魂」派に変身したと決めつけられて、保守反動というイメージが固まりました。

竹内: ところが、平山さんの本を読むと、なぜ出自の問題に拘泥するのかから、手品の種が分かってきます。すると、生前は生理的に嫌で実物をみたいと思わなかったけれど、案外、親しみ易いところもあるかもしれない、とだんだん距離が縮まってきます。読後は、今まで嫌っていた人が見直す、という意味で「甦える」評伝じゃないかと思いました。

平山: ありがとうございます。

フィクショナルな「私」

竹内: この本は784頁あって、普通ならば3、4冊分の分量です。原稿用紙にして何枚くらい書きましたか?

平山: 1600枚くらいですか……。

竹内: ものすごく調べられていて、戦後の文壇史であり、戦後の論壇史であり、戦後史でもある大作です。完成された今、どんなお気持ちですか?

平山: 書くことを前提にしなくとも、自死の直前に最後に会った人間として、江藤さんの文章を読み直さなければいけない、という思いはありました。伝記を書く段になり、できれば、全部読むということを自分に課したんです。というのは、江藤さんの著作が重要なのは当然ですが、対談、座談会、講演など、口語的なものの記録が膨大に残っています。江藤淳という人は、弁論、口から出る言葉を重視していますから、そちらの方も全部集めて読もうと試みました。
 伝記的な事実は、文章の中にたくさん書かれています。ところが、取材してゆくと重要な出来事が省かれていたり、逆に、不自然に強調されている場合もあるのです。「××と私」というタイトルの文章が多い人ですけれど、かなりフィクショナルな「私」を文章の中で作っていたことに気づきました。事実と文章の中の「私」の差を調べてゆくうちに、つい長くなってしまったんです。

竹内: 対談がたくさんある人だと、文章ならば書かないような本音がぽろっと出ているケースは多いですからね。私が一番感心したのは、湘南中学校や日比谷高校の同級生などを取材している場面を映像的に再現していることです。アプローチした手順とか、その人の語り口も書かれていて、読者にしたら、敏腕刑事が裏取りしている過程に立ち会っているような気分になります(笑)。

平山: どんどん刑事的になっているなとは自覚していました。

竹内: 冒頭から出生が昭和7年か8年かというような謎が出てきます。今でも8年のまま、年譜が訂正されていない文庫本もあります。江藤が残した謎を探索してゆく旅とも読めるわけで、分厚い本だけれども、読者にはミステリー的に惹きこまれる読み易さがあります。

平山: 文学の専門家ではないですし、自然とジャーナリズム的なアプローチになってしまいます。テキストだけで考えるのは他の人に任せることにしました。

竹内: 後半はかなりテキストを読み込み、内的なアプローチをしています。伝記的な外側からのアプローチと、両方の要素があるのがすごいと思います。
 江藤淳がなぜ博士号を取ったのか、東工大の先生に話を聞いて確かめておられるのには感心しました。文壇内では、権威主義者だから、就職して慌てて学位論文を書いたという噂が流布しているでしょう。事情はまったく違います。理系の大学では周囲の人間はみな博士号を持っていて、どうしても学位が必要なんです。

平山: 永井道雄さんのアト釜で、38歳で社会学の助教授として入っています。竹内先生と近いジャンルでした。

竹内: 当時の国立大学の文系の場合は、かなり年輩になってから申請するもので、40歳くらいで出すことはありえませんが、江藤は出身校の慶應大学に『漱石とアーサー王伝説――『薤露行』の比較文学的研究』を出して博士号を取ったわけです。江藤は東工大に入って2年後に助教授から教授になりますが、学位をできる限り早く取ることが付帯条件だったかもしれません。大学内の事情を知らない人が江藤の態度を批判していますが、国立大学文系の相場で考えた下衆の勘繰りめいています。

平山: 江藤さんと慶應で同期の高山鉄男先生から、慶子夫人の話を聞くつもりで会っていた時に出た話なんです。

竹内: なるほど。だから、大学内でも上手く立ち回ったように、江藤は文壇内でも逆張り、もしくはちゃぶ台返しのような戦略で期せずして覇権を握ったんじゃないですか。

平山: どうでしょうか……。

竹内: たとえば、左派の代表格の吉本隆明から、「江藤さんと僕とは、なにか知らないが、グルリと一まわりばかり違って一致しているような感じがする」と言われているのは、吉本にとってはどうだったかわかりませんけど、江藤にとっては得でしょう(笑)。丸山眞男が「世渡り上手」と評するような面がありませんか。

平山: 慶應の英文科で指導を受けた西脇順三郎に「敵意に似た尊敬」を抱くと表現するとか、アンビバレンツな感情の動きをする人ではあります。

竹内: 言いたい放題に見えて、敵の総大将と手を結んだり、一番目立つ人を叩いたり、強かな生存戦略を採っているように見えますけれど。

平山: もうちょっと大人だったら、社会の中でも文壇でも、よりうまく泳げたような気がします……(笑)。

竹内: むしろ、率直すぎるのか。

平山: 基本、裏表のない人ですし、激しい内面の葛藤もさらけ出してしまいます。真剣になれば相手を乗り越えてやろうと考える人ですから、好かれるタイプではないでしょう(笑)。

竹内: 東大的なんですか?

平山: 確かに、江藤さんは東大の方が向いていたタイプでしょう。

竹内: 東大行かない人の方が東大的な場合も多いですよ(笑)。日比谷高校出身だし、東大に行っていれば、余分なコンプレックスがなくなるから、もうちょっと世渡り上手になったかもね。僕は実物を知らないけれど、ちょっと後に山崎正和さんが出てきた時、江藤から権力志向をマイナスした人のように思いました。

平山: 2人とも政治家のブレーンをしていますね。佐藤栄作政権の時、楠田實という産経新聞政治部記者が首席秘書官になって、江藤さん、山崎さん、そして永井陽之助さんや高坂正堯さんなどの現実派知識人をリクルートしたんです。

竹内: 山崎さんは『舞台をまわす、舞台がまわる』というオーラルヒストリーで政治家との関係性を明かしていますが、江藤淳のように「治者」という概念を使って美化したり、人間として理想化したりせず、距離を取って観察しています。

平山: 江藤さんは、政治に積極的にコミットしました。でも、好き嫌いが激しいので、佐藤栄作の後は親しかった福田赳夫政権と心中するつもりだったようです。いろんな政権と付き合った山崎さんとは対照的ですね。文筆の方でも、政治家と近くなった頃から「政治的人間」の研究を始めて、『海舟余波』という著作も生まれます。歴史的な人間を評価することにより、生臭い問題を文学的に処理していたわけですけれど、かなり本気で政治に取り組んでいたのは確かです。

竹内: 1961年から「中央公論」に「実務家の人間研究」という連載を始め、東芝社長・岩下文雄や東京駅長・大橋猛敏などについて書いています。

平山: 本になっていないですけど、実務家としての経済人への注目も早いです。

「治者」ではなく「不寝番」

竹内: 戦後出てきた庶民的知識人の吉本隆明の切り札は「大衆の原像」ですし、福田恆存もいつも「常識」や「民衆の心」といいます。江藤淳の拠り所は、結局、「国家」や「治者」になるんですか?

平山: 『成熟と喪失』の中で、「治者」という概念を出してキャッチフレーズ的に受け取られましたけれど、並列されている「不寝番」の方が、江藤さんの持っていた繊細なイメージに近かったんじゃないかと思っているんです。

竹内:「不寝番」というとサリンジャーの「The Catcher in the Rye」。ライ麦畑で遊んでいる子供が、崖から落ちそうになったら捕まえるキャッチャーです。

平山: 江藤さんの言葉は、ハムレットからの引用です。「政治的人間」としての勝海舟は、「治者」として江戸城の無血開城に成功しましたけれど、宿願だった徳川慶喜の江戸復帰は阻止され、挫折を味わいます。江藤さんは海舟の政治手法を「継ぎ剥ぎ細工(パッチワーク)」と呼んでいますが、共感しているのは、薩長支配の下で30年間、徳川慶喜と旧幕臣の面倒を看続けた「不寝番」的な生き方の方でしょう。挫折した後を評価するのが「文士」的です。

竹内: 平山さんの説明には納得しますし、「治者」という言葉でない方が一般的なアピールをしたかもしれません。もうひとつ、江藤にとって大衆や民衆はどういう存在になるんですか?

平山:「大衆」が見えない人かもしれませんね。江藤さんの晩年、鎌倉で番頭のようにつき従っていた市会議員の御夫妻は、「君たちのお蔭で、人情というものを知ったよ」と言われたというんです。奥様の方は、人情に通じてなくて、文学ってわかるものなの、と驚いていました。欠落している部分も多い人なんです。

竹内: 丸山眞男も、大衆化現象や大衆社会についての論文はあっても、生身の大衆についてはあまり知らないと思います。ただ、啓蒙される対象として、知識人に大衆が近づくことを願っていたわけで、射程の中には入っていました。江藤淳は「上から目線」の人なのかな。

平山: エリート意識を隠さないですからね。やはり、国会がすぐそばにあり、東京中の秀才が集まる日比谷高校出身であることが中核にありますね。文学者というより、テクノクラートとして国家を支えようという意識が強いと思います。

竹内: ちょっと卑俗なたとえだけれど、私らが学生の頃では、東大法学部精鋭は就職の時、通産省、大蔵省、大手銀行、朝日新聞、そして司法試験も受けていて、どこかに行ければいい。つまり、天下国家的な人で、そうであれば何でもよい。江藤淳は、そういう時代の申し子なんですね。

平山: 東大法学部に進む気はなかったようですけれど、権力の中枢だと充分に意識しています。戦後体制も東大法学部の宮沢俊義の憲法解釈が権威となり、みなが大学で学び、公務員試験の問題もそれに基づいて作られていて、江藤さんは『閉された言語空間』などの仕事で東大法学部という体制と、たった一人で張り合おうと考えていました。

竹内: でも、天下国家の中枢に対抗する方法が、美濃部達吉などをアジビラ的な言語でとことん批判した原理日本社の国粋主義者・蓑田胸喜と似ている印象を受けます(笑)。もう少しスマートなやり方はなかったものか。

平山: いや、むしろ東大法学部を出て大蔵省を辞めて作家になった三島由紀夫に近い気がします。1970年に自決した時は三島と意図的に距離を取っていますけど、自分と似ているので危険だと感じたからです。でも、平成に入り「我は先帝の遺臣にして新朝の逸民なり」と書いた頃には、三島の「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」という危機意識にぐんぐん引き寄せられていた。

竹内: 確かに江藤も三島も、言葉の使い方がキャッチーである点では共通しています。「『ごっこ』の世界が終わったとき」でも、英語の“makebelieve”から取ったりしています。そして確かに、江藤は蓑田よりはかなり頭はいいかもしれない。
 評伝として、潤一郎・荷風的な問題にも着目されています(笑)。当時の作家や評論家の水準で考えるとどうだったのか。

平山: 柳橋や向島で鳴らした人ですが、確証が取れたことだけ書きました(笑)。

竹内: まあ、人間的な側面ということやな(笑)。最後に、「甦える」というタイトルにどんなメッセージが込められているのかを教えて下さい。

平山: もちろん、代表作の『海は甦える』を踏まえているわけですけれど、まず、「江藤淳」という批評家が誕生したのは、大学二年の時に自殺未遂をして生き返った時、堀辰雄的世界を捨てて、書く対象が夏目漱石に移行した時からなんです。江藤さんの大学時代の恩人だった藤井昇さんに、ある事情からその事実を聞いていたので、それを書き残しておきたいという意図がありました。

竹内 公表されていない新事実ですね。

平山 はい。もうひとつ、江藤さんはずっと占領や憲法の問題ばかりやって、文壇からも論壇からも爪弾きにされ、「生き埋め」になっていました。ところが、平成に入り、アメリカに首根っこを抑えられた状況がより強化され、「日本がなくなってしまう」という江藤さんの危惧がいよいよ予言的に聞こえてきます。批評家としての「生き埋め」から「甦える」という意味も込めました。

竹内: 菊田均の『江藤淳論』の裏帯には「この世に江藤淳嫌いと称する人々は少なくない」と書かれています。ところが、家を探せば本はたくさん出てくるし、話題作が多いから、ちゃんと読んでいます。『犬と私』のようなエッセイはとても上手ですしね。

平山: 最近は、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の発見者として、ネトウヨのネタ元のような低レベルの問題で捉えられています。でも、江藤さんは日本の近代全体を根本から批評しようと考えていた人なんです。

竹内: むしろ、「江藤淳嫌い」だった人こそ読むべき本です(笑)。

平山: 5月18日から、神奈川近代文学館で「没後20年 江藤淳展」という企画展も開催されます。本や展示をきっかけに、江藤淳の示唆に富む、本気の問題意識が改めて共有されるといいのですが。

※ 新潮社「波」2019年5月号より


「江藤淳嫌い」が治る本
平山周吉、竹内洋
没後20年、自死の当日に会った著者の手による決定的評伝、ついに刊行!

https://www.shinchosha.co.jp/book/352471/

 今年2019年は、江藤淳没後20年の節目の年である。
 だが評者は、この忘れられた文藝(ぶんげい)批評家を回顧・顕彰するために、本書を推しているのではない。
 筆者・平山周吉氏は、それを完全に超える仕事をしてしまっている。
 どういうことだろうか。

 石原慎太郎や大江健三郎、浅利慶太らと「若い日本の会」を結成する行動力をもち、同時に『夏目漱石』(新潮社、1974年)や『海舟余波』(文藝春秋、1974年)といった文学・歴史にまつわる批評を展開した「江藤淳」。

 その人生を、800頁(ページ)近い分量で描く本書は、同時に完璧な同時代史、社会思想史の作品になっている。
 三島由紀夫や小林秀雄、さらには吉本隆明とのライバル関係が活写され、文章に立体感を与えている。

 類似した本をあげよと言われれば、恐らく小熊英二氏の『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社、2002年11月)に相当するであろう。
 しかも小熊氏の書にはない特徴として、平山氏は徹底的に「探偵的」に文章を書いていくのだ。

 探偵は、まず、足で情報を稼ぐものである。
 ある程度、江藤の作品を読んだことのある人でも、本書に出てくる「新情報」には、ただただ圧倒されるはずである。
 たとえば、江藤の恩師から、江藤が学生時代に自殺未遂をしたことを聞かされた後、平山氏は、もう一度、江藤の作品に目を通す。
 そして「老子もあれを知っていたのか」という奇妙な文章の存在を思いだす。
 この「あれ」こそ、自死を意味していて、終生、江藤が『老子』を愛読していた理由が氷解するのである。

 そればかりではない、江藤の恥部、すなわち『妻と私』に描かれた理想の夫婦関係の裏に、もう一人の女性の影を平山氏は発見してしまう。
 書簡や取材資料を駆使し、私生活にまで盗聴器を仕掛けたようにリアルに描く。
 読者をまったく飽きさせない。

 江藤淳は今日、分裂した評価を受けている。
 占領研究と日米関係を論じた「保守派」か、あるいは漱石研究に代表される「文藝評論家」としてか。
 だがこうした矮小(わいしょう)化された人物像を、本書は徹底的に壊していく。
 早熟の天才批評家が、小渕内閣組閣時に文部大臣就任を要請され、自死を選びとる瞬間まで――。
 きわめて幅広の人生を生きた人間にまつわる、最高傑作の評伝である。


日本経済新聞、2019/6/22付
平山周吉『江藤淳は甦える』
幅広な批評家の生涯を活写

[評者]先崎彰容、日本大学教授
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO46403400R20C19A6MY7000/

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岸田劉生の「内なる美」

 ヤッホーくんのこのブログ、次の日付の日記をご参照ください:
★ 2019年10月3日付けの日記「没後90年記念 岸田劉生展」
★ 同4日付けの日記「麗子微笑之立像」

 近代日本の画家の中でも、岸田劉生は別格の存在と考えられてきた。
 その理由が、東京・丸の内の東京ステーションギャラリーで開催中の「没後90年記念 岸田劉生展」を見るとよく分かる。
 自分の探究する道を決然と選び、世の趨勢に背を向けて「内なる美」を求め続けた天才の姿が、浮かび上がってくる。

 岸田劉生(1891〜1929年)は、大正から昭和初期にかけて活躍した画家で、愛する娘、麗子を描いた数々の肖像は、最もよく知られた作品だろう。

 没後90年を記念した今展の大きな特徴は、劉生の作品を、主に画家が画面に記した制作年月日に基づき、原則、年代順に展示した点だ。
 この展示ではっきり分かることがある。
 劉生は、ある時期に、これと目標を定めて同じような対象を選び、集中的にその対象や傾向を描き究めていった。
 
 1913年(大正2年)から翌1914年にかけ、主に親しい友人たちをモデルに次々と肖像画を描き続けるのも、そんな傾向の表れだ。
 肖像画に続いて自画像の制作にも熱中する。
 展示された肖像画の数々をたどると、翌1914年までの間に、当初は後期印象派の影響を受けていた華やかな色彩やタッチが減り、次第に写実的で細密な画風に変わってくるのが分かる。

 劉生はこの時期を振り返り、
自分の作がだんだんひとりでに近代的な傾向を離れて来る事を不安に思つた事さへあつた。しかし、自分はどうしても、自分の要求に従ふより外なかつた
と書いている(「劉生画集及芸術観」所収「自分が近代的傾向を離れた経路」)。
 
 雑誌「白樺」による紹介をきっかけに、ゴッホ、セザンヌら当時で言う「後印象派」が脚光を浴びる中で、時代の趨勢に背を向けてまで自己の欲求に従う。
 その決然とした探究の道は、劉生の言う「クラシックの感化」へつながる。
 西欧古典絵画のレンブラント、ルーベンス、ゴヤ、特に北方ルネサンスのデューラー、ファン・エイクの細密描写にひきつけられていく。

「切通之写生」の名で知られる1915年の「道路と土手と塀」は、東京・代々木に転居後、とりわけ顕著に描いた風景画の傑作だ。
 左手の石垣の細かい陰影や土の道の脇に生える雑草や土の中の溝が克明に描かれる。
 晴れ渡る青空から注ぐ日差しで電柱が黄土の道に濃い影を投げかける。
 そのそばにある小石や亀裂の不思議な存在感。
 何気ない坂道に発見した神秘感を、精密に描き出す。
 劉生は書いている。

僕の絵はクラシツクの模倣ではない。僕の自己がクラシツクの求めたものと同じものを求めるのだ
(「展覧会の為めに」)
 
 そこに在(あ)ることの不思議を、求心的に追究したのが、翌1916年から取り組んだ静物画の数々だった。
 この年の7月、肺病と診断され、戸外の写生を禁じられたのも転機となった。

林檎(りんご)三個」は、机の上に並んだ3個の林檎を描いただけの作品だが、「在ることの不思議」を最も強く感じさせる作品の一つだ。
 画面右手前からの光を受けて、3つの林檎は、くぼみや傷をあらわにしながらも確固とした存在感がある。

 病と闘う劉生が、自分と妻の蓁(しげる)、娘の麗子の「一家三人の姿を林檎に託して描いたときいている」という麗子の回想があり、劉生の祈りをも込められた静物画だろう。

 やがて劉生の「内なる美」の探究は、1918年の正月を機に、東洋の美へと傾斜し始める。
 さらに大きな変化は、娘の麗子をモデルにした肖像画が登場することだ。
 今展監修の山田諭・京都市美術館学芸課長によれば劉生は、基本的には肖像画でも親しい人しか描かない。
 しかし、そこにとびきりの深い愛情を注ぎ込んだモデルが登場したのである。

 1919年8月23日に完成した「麗子坐像」は、愛する娘がそこにいることの恩寵(おんちょう)を、徹底的な細密描写で表現した油彩画だ。
 山田氏によれば、克明に描かれた赤と黄の縮緬(ちりめん)絞りの着物には、東洋の美への傾斜が表れ、麗子のそばに置かれた赤い林檎は、麗子とともに「実在の神秘」を感じさせる。

 以降、劉生は、麗子の微笑に東西両洋を融合する深い美を見つめ、中国の宋元の写生画に、深い神気と無限感を探究し、日本の初期肉筆浮世絵に卑近なものの「如実感の美」を発見していく。
 画家仲間をひきつけ、白樺派の面々にも刺激を与えた劉生の大きさは、借り物でない思考を、絵と文章で貫いたことだろう。

 38歳で急逝した劉生を厳しい批評家でもあった高村光太郎は、
「時代を乗り超えた純美の深い探求者であつた」と偲(しの)び、
「神秘の扉はしまつてしまった。彼にかはる者は無い」と言い切っている(「岸田兄の死を悼む」)。

 没後90年、写真に近いスーパーリアリズムの絵画がもてはやされている現代に、美の深奥を自己の道として究めた劉生の画業は、別格の光を放っている。
 10月20日まで。山口、名古屋に巡回。


[写真-1]
道路と土手と塀(切通之写生)(重要文化財、1915年11月5日、東京国立近代美術館蔵)

[写真-2]
林檎三個(1917年2月、個人蔵)

[写真-3]
麗子坐像(1919年8月23日、ポーラ美術館蔵)

日本経済新聞、2019/9/21 2:00
「内なる美」究めた道
岸田劉生の画業を回顧、没後90年記念展
年代順の展示で変遷浮き彫り

(編集委員 宮川匡司)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50020320Q9A920C1BC8000/

《麗子五歳》を描いた1918年前後、劉生はこの時期の制作を裏付ける論考をいくつか執筆している。
 これらは1920年、聚英閣より発行された『劉生畫集及芸術観』において集大成される。
 そのすべてをここにまとめることはかなわないが、ここではまず、議論に必要な範囲でその骨格を確認したい。

 劉生の論の基本となるのは、「内なる美」という考え方である。
「美」は外界の対象の中にではなく、人間の内面にあり、この「内なる美」は形を得て表現されることを求める。
 それはこの世界を作った「造化」 が、そして「造化」に選ばれた人間が、この世界を今以上のものにしようとする意志を本能的に持っているからである(10)。

10)「内なる美」『全集』第二巻、pp.366-386を参照のこと。

 こうして、よりよい世界という幸福を希求する意志の発現として形を与えられた美術作品は、唯一「美」の要素のみで組み立てられた人工的かつ客観的な物体として、世界のうちに存在することになる。
 劉生は言う。

「美術品といふものが造られて、この世界に存在してゐるといふ事は、人間の『精神』によつて肯定 された、 『形』 (美)がこの世界に一つ存在してゐるといふ事である。この世界に於て、人間の心によつて肯定された有形物は、美術品の外にない。地球上の凡ての存在の中に、客観的な『美』である 存在は、美術の外にない 」(11)

11)「美術」『全集』第二巻、p.352を参照のこと。 

 ところで、この「内なる美」が外界に現れるためには、主に三つの道がある。
 すなわち、
・ 自然の形を借りず、内から出る線、形、色だけで構成された「装飾の美」、
・ 次に自然の形をある程度借り、それに刺激を受けて「内なる美」を発揮して表される「写実の美」、
・ そして自然の形を記憶または想像によって自由 に按配する「想像の美」である(12)。

12)「内なる美」pp.370-374を参照のこと。

 ちなみに、劉生自身は、
「一つの画面に装飾と写実と想像が混然としてゐる様なもの」を目指している。
 すなわち「写実の中に実に立派な装飾がある。深く写実を追求すると不思議なイメーヂに達する」という意味で、
「写実から入つた神秘派」とも呼ぶべき方向である(13)。

13)「内なる美」p.376を参照のこと。

  このような試みが成功した時、美術は目に見える形の奥にある、時間を越えた領域を垣間見せる。
 劉生は次のように言う。

「幸福への忻求が最後に帰着すべき所は『無限』にある。その感じは静寂である。生の帰着意志の帰着凡て其処にある。これは有限なるもの、たへず変化するものゝ彼岸である。この『無限』の認識が最高の美観である」(14)

14)「製作余談」『全集』第二巻、p.330を参照のこと。


東京国立近代美術館
麗子はどこにいる?
岸田劉生 1914-1918の肖像画

蔵屋美香
https://www.momat.go.jp/ge/wp-content/uploads/sites/2/2015/01/14_pp6_25.pdf

 岸田劉生は、1891(明治24)年、東京・銀座で目薬「精リ水(せいきすい)」を製造販売する楽善堂(らくぜんどう)本舗の経営者、岸田吟香(ぎんこう)の四男(14子中の9番目)として生まれた。
 父の吟香は、アメリカ人宣教師で医師であり、明治学院を創設したヘボン博士を助け、日本最初の和英・英和辞典『和英語林集成』の編纂に協力、のちに『東京日日新聞』編集に従事し、ジャーナリスト、事業家として明治時代の先覚者であった。

 しかし、劉生が14歳の1905年、その父と母とを相次いで失い、翌年東京高等師範付属中学校を中途退学。
 父が通っていた数寄屋橋教会でクリスチャンとして洗礼を受け、田村直臣牧師(1858-1935)のもとで日曜学校の先生をするかたわら絵画を学び、17歳で白馬会葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝に師事する。
 1910年第4回文展に《馬小屋》《若杉》の作品が初入選して洋画壇へデビューした。

 20歳になった劉生は初めて武者小路実篤(1885-1976)らが創刊した雑誌『白樺』を買い、オーギュスト・ルノワール(1841-1919)やフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)らの作品に感激する。
 英国人の陶芸家バーナード・リーチ(1887-1979)との交友が始まり、柳宗悦(1889-1961)や長与善郎(1888-1961)ら白樺同人とも親交をもった。
 翌年、高村光太郎が経営する神田の琅玕洞(ろうかんどう)で初個展を開催、また第1回フュウザン会展へも参加した。
 日本画家・鏑木清方(1878-1972)門下で学習院漢学教授小林良四郎の三女の蓁(しげる)と22歳で結婚。
 写実への関心が強くなる。
 翌年には長女麗子が誕生する。
 24歳で重厚な写実を特徴とする草土社を創立し展覧会を開催するが、翌年肺結核と診断され代々木から駒沢へ移った。

 1917年26歳のときに神奈川県鵠沼へ。
 この鵠沼時代が、劉生の人生のなかで最も充実し、変化に富んだ時期でもあった。
 北方ルネサンスの写実や、連作の麗子像などを通して“内なる美”(1)の探究が始まった。

 1918年から麗子と村の娘お松をモデルに制作を開始する。
 1919年京都、奈良に行き東洋古美術に魅せられる。
 健康を取り戻した1921年、30歳の劉生は流逸荘での個展に《麗子微笑》を出品した。
 この頃から日常生活に変化が起こり、歌舞伎の観劇、長唄の稽古、飲酒など始め、水彩画や日本画も制作した。
 1920年の元旦から記された劉生の日記は、洋画家の濃密な生活を知る大切な資料となっている。

 1923年32歳のときに梅原龍三郎(1888-1986)らと設立した第1回春陽会に出品したが、関東大震災により家が半壊、名古屋で半月を過ごしたのち、京都の南禅寺に移る。
 東洋への関心が高まり、茶屋遊びを始め、「海鯛(買いたい)先生」と称して宋元画や初期肉筆浮世絵の蒐集に熱中した。
 そのときに見出した審美的境地を自ら「でろり」(2)と名付け、写実の袋小路からの脱出を促していた。

 1926年35歳のとき京都を離れ鎌倉へ転居、長男鶴之助が誕生した。
 浮世絵に心酔した画家の鑑賞記録として『初期肉筆浮世絵』(岩波書店)を出版。
 1929(昭和4)年、満鉄の招待により旧満州(中国東北部)の大連に2ヶ月ほど滞在し、その帰途に立寄った山口県徳山で、腎臓炎に胃潰瘍を併発、尿毒症の症状を呈して12月20日に享年38歳で急逝する。
 大正画壇に異彩を放った劉生は東京・多磨霊園に埋葬されている。

(注1)
「劉生は彼の求める深い美を『内なる美』と呼んだが、それはこの現実の世界を善(よ)くし美しくしようとするすべての人間の心のなかに宿るものだと考えた。これを感得し、目に見える『外なる美』すなわち美術として実現するつとめを果たすものが美術家であった。生来、自然の事物に似せること、その質感を描写することに本能的といっていい歓びを感じていた劉生は、『内なる美』を自然の事物に即した写実の道によって追求しようとしたのである」
(浅野徹編『20世紀日本の美術 15 岸田劉生/佐伯祐三』p.6)

(注2)
卑近にして一見下品、猥雑で脂ぎっていて、血なまぐさくもグロテスク、苦いような甘いような、気味悪いほど生きものの感じを持った東洋的な美。


大日本印刷、アートスケープ/artscape、2016年02月15日号
岸田劉生《麗子微笑》
深遠な美のリアリズム「水沢 勉(神奈川県立近代美術館、鎌倉館・鎌倉別館・葉山館館長)」

影山幸一
https://artscape.jp/study/art-achive/10119810_1982.html

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2019年10月07日

日本の10代とグレタ・トゥンベリの違い

「よくも!」

国連本部で各国代表をそうにらみつけたグレタ・トゥンベリさん。
彼女への中傷や揶揄について東大名誉教授の上野千鶴子さんが語る。
AERA 2019年10月14日号に掲載された記事を紹介する。

*  *  *

「若者たちはあなたたちの裏切り行為に気づき始めている。全ての未来世代の目があなたたちに注がれている。もし私たちを失望させるなら、決して許さない。逃げおおせはさせない」

 9月23日。
 米ニューヨークで開かれた国連気候行動サミットで、三つ編みをさげた少女は各国代表を前に怒った。
 目は潤んでいた。

 グレタ・トゥンベリさん。
 環境活動家。
 16歳。
 温暖化対策を促す運動を昨夏スウェーデンで始め、いまや地球環境の危機を訴える世界的な象徴になった。
 ノーベル平和賞の候補に推薦され、そのインスタグラムを730万人がフォローする。

「苦しんでいる人たちがいる。死に瀕している人たちがいる。生態系全体が破壊されている。大規模な絶滅が始まろうとしているのに、話すのは、お金のことばかり。永遠の経済成長というおとぎ話ばかり。よくも(How dare you)!」

「How dare you」を4回繰り返したスピーチは、日本のメディアでも大きく報道された。

 そもそもなぜ、トゥンベリさんは脚光を浴びたのか。

「気候のための学校ストライキ」

 昨年2018年8月、そう書いたプラカードを掲げ、トゥンベリさんはたった1人、ストックホルムの議会前に座り込んだ。
 3週間、学校を休んで、総選挙を前に温室効果ガスの削減を求めた。

 その後も毎週金曜日、学校を休んで抗議を続けた。
 この運動が「#FridaysForFuture(未来のための金曜日)」「#ClimateStrike(気候ストライキ)」のハッシュタグでSNSを通じて拡散。
 オーストラリアで、ドイツで、スイスで、カナダで、若者らが金曜日に授業のストライキを始めた。
 今年3月15日のストライキは130カ国以上、2000ヶ所以上に広がった。

 そして9月20〜27日、国連気候行動サミットの前後に、「グローバル気候ストライキ」として185カ国760万人以上が声をあげた。
 トゥンベリさんはその象徴として、会議で冒頭の演説をした。

 だが、トゥンベリさんには、批判、中傷、揶揄も繰り返されている。

「明るく素晴らしい未来を夢見る、とても幸せな少女のようだ。見られて、よかったよ!」

 ツイッターでトゥンベリさんを皮肉るコメントをしたトランプ米大統領。
 米国が寒波に見舞われた1月にはこんなツイートもしている。

「もっと寒くなるそうだ。外に数分といられないぞ。地球温暖化はどうなってる?」

 天気と気候の混同。
 欧米では「地球温暖化はでっち上げだ」などと、科学を否定する集団が一定の勢力を持つ。
 米国は、温暖化対策の国際ルール・パリ協定からの離脱を表明している。

 日本でもこんな発言が相次ぐ。

「16歳の考えに世界が振り回されたらダメだ」
 (橋下徹・元大阪市長)

「洗脳された子供」
 (作家の百田尚樹氏)

「お嬢ちゃまがやってることが間違ってる」
 (作家の竹田恒泰氏)

 ネット上で「小娘」「お姉ちゃん」と見下した表現や「彼氏紹介してやれ」といった侮辱がなされ、多くの「いいね」を集める。
 そんな日本の状況について、東京大学名誉教授の上野千鶴子さんはこう話す。

「女性、子どもの声を『無力化』『無効化』する対抗メッセージはいつでも登場します。それをやればやるほど、そういうことをやる人の権力性と品性のなさが暴露されるだけです」

 上野さんは4月の東大入学式の祝辞で、痛烈な性差別批判をした。
 祝辞では「しょせん女の子だから」と足を引っ張ることは「意欲の冷却効果」と説明し、ノーベル平和賞を受けたマララ・ユスフザイさんの父が「娘の翼を折らないようにしてきた」との発言を紹介した。

「同じメッセージを権威のある男性が言えば、聞かれるでしょうか? 繰り返されてきたメッセージに『またか』の反応があるだけでしょう。グレタさんのスピーチは、世界の要人が集まっても、いつまでたっても、何の進展もない現状に対するまともな怒りをぶつけたものです」

 上野さんはこうも指摘する。

「環境問題は『未来世代との連帯』と言われてきました、が、その『未来世代』は死者と同じく見えない、声のない人びとでした。その『未来世代』が当事者として人格を伴って登場したことに、世界は衝撃を受けたのでしょう」


※ AERA 2019年10月14日号より抜粋

[写真]
ニューヨークの国連本部であった気候行動サミットで、「How dare you!(よくも!)」と繰り返し、各国政府代表をにらみつけたグレタ・トゥンベリさん。16歳の言葉とその表情が、世界を揺らしている/9月23日

AERA dot.、2019.10.7 17:00
日本から「品性ない」発言も…
16歳の環境活動家めぐる中傷の声

(ライター・溝呂木佐季)

 トゥンベリさんをめぐっては、「大人に操られている」と勘ぐる発言もやまない。

「この運動の裏に誰がいるのかを知っている。治安当局から報告があった」と発言したベルギーに4人いる環境大臣の1人は、辞任。
 すぐに治安当局も否定している。

 これに対し、上野さんは「16歳といえば前近代では元服している年齢。判断力のあるりっぱな大人です」と話す。

「『大人が利用した』といえば、彼女を招いた国連が彼女を『利用した』のです。国連は核兵器禁止条約の協議の場に被爆者のサーロー節子さんを招くなど、当事者を上手に利用しています。国連外交の戦略の勝利というべきでしょう。文句を言うなら国連へ」

 トゥンベリさんはアスペルガー症候群、強迫性障害、場面緘黙(かんもく)症の診断を受けているとも公表している。
 これが、彼女をあげつらう人を勢いづかせる。

「精神的に病んでいる」

 米国のコメンテーターはテレビで何度も言い放った(後にテレビ局が謝罪)。
 高須克弥医師は「対人恐怖症と妄想が同居している」とツイートした。

 トゥンベリさんは、必要だと思うときしか話さない、という。
 嘘をつくのは上手でない。
 白か黒か。
 だから、生存を脅かす気候変動に対して何もしない大人たちに納得できず、うつ状態になった。
 人付き合いがあまり得意ではなかったから、既存の団体に入るのではなく、1人でストライキを始めた。

「『何もしない』ことが、どんな行動よりメッセージをよく伝えることがある。ささやきが叫び声より、響きわたるように」

「アスペルガー症候群は病気ではありません。才能です」

 フェイスブックにそう書く。

 それでも、トゥンベリさんのメッセージを受け止めず、論点をずらす人たち。
 上野さんは指摘する。

「誰もがちょっとずつ違います。アスペルガーの子たちは、診断名が登場する前には『ちょっと変わったユニークな子ども』にすぎませんでした。アスペルガーですが、それが何か? 誰が言おうと正論は正論でしょう」

 トゥンベリさんもツイッターで反論している。

「私を嫌う人たちは相変わらず元気です。私の見た目、服、態度、そして人と違うところを、攻撃してくる。あらゆる嘘や陰謀論を考え出す」

「なぜ大人は若者や子どもたちが科学を押し進めるのをバカにしたり、脅したりすることに時間を費やすのか、正直、理解できません」

「私たちに脅かされていると感じているのでしょう」

「でもこんな人たちに構って時間を無駄にしてはいけません」

 トゥンベリさんの気候危機への訴えは続く。
 サミットにはヨットで大西洋を横断して出席した。
 その後、50万人が集まったカナダ・モントリオールのデモに参加。
 今後はゆっくり南下し、チリ・サンティアゴを目指すという。
 毎週金曜日には各地のストライキに参加しながら。

 学校ストライキもデモ行進も、日本では欧米と比べると盛り上がりに欠ける。
 女性差別に声を上げたウィメンズ・マーチ(2017年)もそうだった。
 日本では、間違っていることに声を上げる、行動をすることで変化が生まれる、という考え方が根付かないのか。
 上野さんからはこんな答えが返ってきた。

「行動以前に日本の若者には政治やジェンダーや歴史についてきちんとした教育が与えられていません、つまり無知。アクションのもとは知です。子どもたちをこれほど無知蒙昧(もうまい)なままにしておく教育のもとで、次代を担う人材が出てくるでしょうか。お寒いかぎりです」


※ AERA 2019年10月14日号より抜粋

[写真]
今年4月、東大の入学式で「社会にはあからさまな性差別が横行している。東京大も残念ながら、例外ではない」などと祝辞を述べた上野千鶴子さん。トゥンベリさんへの批判や揶揄は「女性、子どもの声を『無力化』『無効化』する対抗メッセージだ」と指摘する

AERA dot.、2019.10.7 17:00
16歳の活動家の“正論”への中傷に上野千鶴子が「文句を言うなら国連へ」
(ライター・溝呂木佐季)
https://dot.asahi.com/aera/2019100700072.html

国連気候行動サミットでの怒りの演説が話題となっている16歳の環境活動家・グレタ・トゥンベリ氏。
前々日の9月21日、ユース気候サミットに登壇した彼女のファッションを、ファッションデザイナーのドン小西氏がチェックした。

*  *  *
 いやいや、言うこと言うこと正論すぎだろう。
 大人の事情でがんじがらめのあたしたちは、ぐうの音も出ないよな。
 ま、彼女の主張こそおとぎ話だって言う人もいるけどさ、気候変動のような大きな問題は、セクシーやクールより、彼女のようなピュアを武器に取り組まなくちゃいけないね。

 で、その格好を見てみると、世界中どこへ行っても見かける典型的な10代ファッション。
 ついさっきまでファストファッションの店に吊るされてたような服で、素材も作りも見事によくない。
 ただ、黄色だのピンクだのブルーだのチェックだの、若者らしい色や柄がちゃんとあるのが特徴だよ。

 かたや犬の散歩のついでに、日本の10代ファッションを観察してみると、多いのが白いシャツの前の裾だけベージュのパンツにインして、手にはタピオカ、耳には白いイヤホンみたいな。
 妙に落ち着いて洗練されてるけど、カラフルさもなければ、若さもない。
 そんな若者がチマッとまとまった国から、グレタさんが生まれる気はしないよな。
 ま、ファッションの話だけなら、いいですけどね。


※ 週刊朝日  2019年10月11日号

[写真-1]
ドン小西

[写真-2]
グレタ・トゥンベリ(環境活動家)/2003年、オペラ歌手の母と俳優の父の間に、スウェーデンで生まれる。8歳の時に地球温暖化を知り摂食障害に。2018年には、気候変動問題に抗議、国会議事堂前で座り込みを行い、その活動が世界の2万人以上の学生に波及=怒りの演説を行った前々日の9月21日、ユース気候サミットで国連事務総長(左)らと

AERA dot.、2019.10.3 11:30
日本の10代とグレタ・トゥンベリの違いは?
ドン小西が指摘

https://dot.asahi.com/aera/2019100700071.html

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痛税感

 消費税率が5年半ぶりに引き上げられ、10%になった。
 2度の引き上げ延期を経たせいか、引き上げを巡る大きな混乱はないようだ。
 ただ、そもそも日本は、税への負担感、いわゆる「租税抵抗」が強いとされる。
 この痛税感は、どこから来るのか。

 1989年の消費税導入時には、政府は強い反発にさらされた。
 10%への引き上げを巡っても、政府は2回、景気の減速などを理由に延期し、軽減税率やポイント還元を導入することで、反発を和らげようとした。
 それでも、朝日新聞の世論調査(9月14・15日)では、10月からの引き上げについて、賛否は46%と拮抗(きっこう)。
 7月の参院選でも、「消費税廃止」を掲げたれいわ新選組が2議席を獲得した。

 世界的に見ても、日本は税負担に比べて「痛税感」が強い国だ。

 日本の国民所得に占める租税負担率は25.1%(2016年度)で、OECDの34ヶ国中5番目に低い。
 一方、中所得の人が「税負担が重い」と答えた割合は61%と、日本よりも税負担率の高い北欧をはじめとする欧州諸国よりも高い(ISSP〈国際社会調査プログラム〉2006年)。

『租税抵抗の財政学』(岩波書店、2014年)の共著がある佐藤滋・東北学院大准教授は、「日本の租税抵抗は、戦後の生活保障政策が影響している」と指摘する。

 佐藤さんによると、戦後、政府は「個人の自立」に重点をおき、公共事業などを通じて、雇用の確保を最優先にしてきた。
 税収が増えると、社会保障の充実に使うよりも、所得税の減税を繰り返した。

「政府は戦後一貫して、税の必要性をしっかり説いてこなかった。そうした姿勢が税への忌避をいっそう強めた面がある。今回の消費税増税も、『財源が足りないから仕方がない』と思う人はいても、これを積極的に支持しようという人がどれだけいるか」と指摘する。

 政府は租税抵抗をそらすため、財政需要が生じた場合は、社会保険料の引き上げや国債発行でしのいできた。
 個人への見返りが見えにくい税とは違い、個人に「返ってくる」分、受け入れられやすいからだ。

 社会保険料などの社会保障費負担率は17.7%(2016年度)と先進国並み。
 国債など政府の債務残高の対GDP比は、200%を超え、先進国で最悪の水準だ。

暴力的な取り立てのイメージ

 日本の租税抵抗の強さは、社会の成り立ちとも深く関わる。

『タックス・ジャスティス、税の政治哲学(選書 風のビブリオ4、風行社、2017年5月)』の著書がある伊藤恭彦・名古屋市立大学教授(政治哲学)は、「政府は、社会の『共同の目的』を実現するために存在し、そのために必要なものが税だ」と説明する。
 だからこそ、人々が政府の存在をどうとらえているかが、租税抵抗に影響するという。

「日本には、西欧の市民革命のように民衆が自らの手で圧政を倒して政府をつくった経験がない。戦後に近代的な税制を導入しても、『私たちの政府』という実感は持てないまま、税については近代より前のお上による暴力的な取り立てのイメージだけが残った」と伊藤さんはみる。

 神野直彦・東大名誉教授(財政学)は、日本には、「公」の意識が成熟していないことを一つの要因に挙げる。

 北欧では、地域の教会を中心した「教会税」のように、仲間で支え合う関係が社会の基礎にある。
 地域社会で互いに協力しながら、医療や教育、福祉などのサービスを分かち合う「分担金」のようなものだ。

 こうした仲間意識の延長線上にある「公」の意識が、租税抵抗を和らげるためには欠かせないという。

「今の日本は、政府に対してだけでなく、他者への不信感も強まっているようにみえる。他人を信頼しない社会に、お互いに負担し合おうという互恵主義は生まれにくい」と危惧する。

 日本では、少子高齢化が進む一方、格差や貧困もあらわになっている。

「みんなで支え合っていきていこうという社会を作りたいのか。それとも、自己責任で生きていこうという社会がいいのか。税は、根源的にはそれを問うている」という。

年貢と税、どう違う?

 古来から支配者が集める年貢や貢ぎ物は存在した。
 では、近代の「税」とは何が違うのだろうか。

 東北学院大学の佐藤滋准教授は、「支配者の私的目的に使われるか、みんなのために使われるか。税と貢ぎ物を分ける大きなポイント」という。

 例えば、西欧の封建国家では、領主は所有地からの収入や家臣からの貢納など、自らの「家産」を私的に使えた。
 だが、近代になると、人びとに土地の私有が認められ、国家は「無産」となった。
 大きな資金が必要な時には、人びとに、共通の困難に対処するための財源であることを説き、「同意」を得て、お金を集めなければならなくなった。
 これが近代の税の原型の一つとされる。

 近代の税には、自分たちの支配者が決めたルールに基づいて徴収されるという「強制性」がある。
 また、みんなのために使われるので、支払っても自分への直接の見返りはないという「無償性」も併せ持つ。

 佐藤さんは、「そうした税の持つ特性を乗り越えて人びとの『同意』を得るには、税を集める側は、常にその必要性を説き続けなければならないのです」という。


[写真-1]
「消費税反対」のビラを店頭に張り出す商店=1989年4月、東京都杉並区

[写真-2]
1989年4月、当時の竹下登首相の私邸周辺で「消費税廃止」を訴える人たち=東京都世田谷区

朝日新聞、2019年10月6日09時00分
世界でも強い日本の痛税感
「私たちの政府」実感もてず

(立松真文)
https://digital.asahi.com/articles/ASM9R4WDRM9RUCVL01D.html

佐藤滋・古市将人『租税抵抗の財政学 一信頼と合意に基づく社会へ』(岩波書店、2014年)

 かつて、佐藤進は「租税をめぐる国民感情・ 国民心理の理解が税制改革の成功の決め手になるという観点からの租税文化の研究も、こ れからの財政学者の課題となるであろう」(佐藤進著『日本の租税文化』ぎょうせい、1990年、p.268 )と述べた。
 本書は、租税文化を研究対象とするものではないが、「租税抵抗」という国民感情・国民心理をキーワー ドに、今後の日本財政の道標を示した力作である。

 第1章では、税や社会保障をめぐる現状認識と問題点を指摘し、本書の論理展開の骨格が示される。
 租税負担の国際比較から、日本はOECD 諸国の中でも租税負担が最も小さな国の ひとつであるにもかかわらず、諸外国に比べて、特に中低所得層において租税の負担感は非常に強いことが示される。
 その一方で、租税負担とは対照的に、社会保険料に依存する割合はOECD諸国の中でも最も高く、日本の社会保障費の多くが、社会保険を維持することに費やされていることを明らかにする。
 日本の社会保険は、正規雇用に大きく依存し、片稼ぎ夫婦と子供からなる標準世帯をモデルとするものであり、主に年齢階層聞の所得移転のために設計されている。
 したがって、単身世帯と非正規雇用が増大する現在の日本において、保険主義的な社会保障制度による貧困削減効果は、OECD諸国中、最下位 であるばかりか、共稼ぎ世帯および単身世帯では貧困削減効果がマイナスである調査結果を示し、日本の社会保障制度の機能不全を明らかにする。

 第2章では、日本の保険主義的社会保障制度の形成過程について、つぶさに原資料にあ たり、丹念な歴史的検証が行なわれている。
 財政の規模や社会保障の負担構造について、1960〜70年代にかけて、大蔵省主税局、とりわけ財政制度審議会がその議論を主導し、保険制度聞の公平性確保を目的とした国庫負担について、引き下げを画策してきたことが明らかにされる。
 この際、職域的に分立的な保険制度聞の負担の均衡論に基づいて、受益者負担の増大が繰り返されてきた審議の過程は極めて興味深い。
 本章の冒頭で,シュンベ ーターの租税国家論にしたがい、国家が租税徴収の根拠として「共同の困難」を提示できない場合に、租税抵抗が生じるとするが、日本の社会保険制度における受益者負担の導入には、租税抵抗の回避がその根底にあると指 摘している。

 現制度にみられるように、受益者と非受益者という形で人びとを分断させ、リスクを<私>化し、負担を個人に帰着させるのではなく、福祉サービスの需要という「共同の困難」に対応した普遍的な社会保障制度を整備していくことが必要不可欠と主張する。
 そしてそれが結果として、人びとの聞に信頼を作り出し、租税への合意を作り出していくと訴えるのである。


 第3章では、普遍的な社会保障制度の財源として、信頼と合意を得るための租税政策について考察されている。
 日本では、高度成長期の税収増は所得税の減税財源とされ、また低成長期に移行して以降は、所得税減税の財源として消費税導入および増税が実行されてきた。
 このように増税による社会保障制度の拡充が実現しなかった経緯を「租税抵抗」という観点から概観している。

 そして、結果として、租税構造は消費課税へシフ トし、所得税は税収調達力を大幅に低下させ、税による再分配機能が後退したことが、各種の推計結果より明らかにされる。

 社会保障削減政策の下、利用者負担増によって困窮する社会的弱者が、消費税シフトがすすむ現行の消費税制度のもとで貧困化が促進される現状を、受益と負担の各世帯別の推計結果等に基づいて批判している。

 そこで筆者らが提唱するのは,負担が逆進的な消費税よりもむしろ、最低生計費非課税を実現し得る所得税を中心とした租税体系の構築である。
 所得税については、総合課税化、資産課税の強化、税率構造の引き上げ等の選択肢を提示して、税収調達および累進性の強化を主張する。
 とともに法人税減税には慎重な立場を示している。


 第4章では、イギリスとスウェーデンのそれぞれの財政制度改革の経験について、明瞭な国際比較研究が行なわれており、非常に示唆に富む内容となっている。
 欧米諸国でも、1970年代以降、強い租税抵抗を経験したが、イギリスでは、社会保障を限定的なものにするとともに市場の規制緩和をすすめる新自由主義ルートで対応した経験が示される。
 福祉国家のコストを統制する ために、負担の公平とアカウンタビリティという基準を満たすとして人頭税を導入したが、究極的に逆進的な人頭税は、逆に大規模 な反税闘争を引き起こすこととなった。
 その後、イギリスでは、積極的に社会的投資を進めようとしたにもかかわらず、反税闘争以降、増税が一種タブー化されたため、公営企業へ の1回かぎりの臨時課税を行なうにとどまり、経済成長を前提とした税・財政構造が維持さ れたのだという。
 しかしそのような財政構造は、金融危機による急激な景気後退に、健全に対応できるものではなく、近年、財政赤字が急速に拡大することとなっている。
 このように、租税抵抗に正面から向き合うことなく、経済成長を前提に組み込む脆弱な政策体系を作ったイギリスの経験は、随所で日本に類似することが示される。

 一方、同様に、特に所得税に対する租税抵抗が高まっていたスウェーデンは、家族政策や就労支援政策を強化し、社会的投資を行なうスカンジナビア・ルートをとり、普遍的な社会保障の拡充と所得税制改革とを組み合わせることで乗り越えた経験が示されている。
 それによれば、政府サービスの受益惑があれば痛税感が軽減されうることや、身近な地方政府による現物給付は人びとの受益感を高めうるこ とが、大きな教訓lとして得られている。
 また,一般に“高福祉・高負担”と言われるスウェーデンであるが、所得階層別に課税と移転給付の実態が明らかにされており、全所得階層で、受け取る現金給付の大部分が所得税の課税対象になっていることが分かる。
 一見、給付対象を限定した方が効率的にも思えるが、給付の対象を普遍的にすることで「漏給」が防止され、給付を所得税の課税対象とすることで、課税ベースを拡大し、中高所得層への累進的な課税を実現できることが指摘されている。

 第5章では、社会保障の給付水準の低下が招くのは、所得格差と貧困の増大であり、それに伴って社会的信頼と政府に対する信頼が低下することが、各種の国際比較調査や先行研究結果をもって示される。

 そこで、普遍的な社会保障制度の整備を不可欠として、その財源については、税収調達力および再分配機能の観点から、累進所得税の強化を推奨し、本書の主張をあらためて総括している。

 以上の各章の概要のとおり、財政学という学問領域において、租税や社会保障制度等の各論の中でもさらに分析対象が細分化される傾向にある中、本書は、主に歴史および国際比較分析によって綿密な検証を行ない、広範な先行研究結果で主張を裏付けながら、信頼と合意に基づく財政の構想を示した力作である。

 筆者らの提言は、既存制度を問題に応じて調整することで、給付額と財源の帳尻をあ わせたか推計される経済効果を改善したりすることを目的とした対症療法的なものではない

 その根底にあるのは人びとが希望を抱き、相互に信頼できる社会とは如何なるものか、そしてそれを実現するために財政はどうある べきかという大きな問題意識であろう。

 ただし本書では一貫して、現状の財政再建路線に基づく社会保障削減政策に警鐘をなら しているが、類をみない多額の財政赤字を抱 える現在の日本の社会保障制度については、
「人口の年齢構成が安定している時代では、『より多くの負担で幅広い給付』という選択肢は可能である。しかし主たる受給者である高齢者の人口に出める比率が、現在の2割強から4割にまで、傾向的に増える今後の日本の社会では、『より多くの負担』を担う勤労者人口が縮小するという現実を踏まえた判断が必要となる」(八代尚宏『社会保障を立て直す、借金依存からの脱却』(日本経済新聞出版社、2013、pp.56〜58)という見解が一般的であろう。
 筆者らは、「租税抵抗」をキーワードに日本財政を分析してきたが、今般の「社会保障と税の一体改革」では、国民は純増税を受容した。
 勿論、筆者らが指摘する通り、当該一体改革の内容には問題点が大いにあるにせよ、国民が「共同の困難」である社会保障制度の改革と一体的な増税提案には合意し得ることが、日本において示されたものとも言えるだろう
 筆者らが提示した、社会を分断しない普遍的な社会保障制度の確立とそれを支える累進的な租税構造の構築という財政の構想を実現するためには、急速に進展する高齢化の下で、必要な財源と徴収される税収額がどの程度の規模になるのかを具体的に提示するという、さらなる研究の進化と発展が(大変な困難が予想されるものではあるが)大いに期待される。


財政と公共政策、第37巻第1号(通巻第57号)、2015年5月
佐藤滋・古市将人『租税抵抗の財政学 一信頼と合意に基づく社会へ』(岩波書店、2014年)
[評者]藤 貴子(九州国際大学)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/212483/1/pfpp_057_66.pdf

 むずかしいことは専門家にまかせて、今日一日無難に過ぎればそれで良い、という羊のように従順な人びとのなんと多いことか。
 ヤッホーくんは、まかせっぱなしでなく、分からないことは分からないと声にする、質問する、教えて、と頼みこんでみること、
 そして皆んなが納得したうえで「国民共同の困難」にあたるっていうのが、いいんじゃないのかなあ、とぶつぶつ呟いています。

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2019年10月06日

「不都合な真実」が見えないようにデザインし、マーケティング化した政治

 旧日本軍慰安婦の韓国人女性、李玉善(イ・オクソン)さん(92)が2019年10月5日、川崎市内で自らが受けた被害を証言した。
 慰安婦の歴史を否定する言説がまかり通る中、市民団体の集会に合わせて急きょ来日。
「日本政府はきちんと反省し、公的な謝罪と賠償をしてほしい」と訴えた。

 ソウル近郊で共同生活する李さんら元慰安婦のドキュメンタリー映画「まわり道」の上映会に合わせて来日した。
 主催の「川崎から日本軍『慰安婦』問題の解決を求める市民の会」によると、あいちトリエンナーレで平和の少女像の展示が相次ぐ脅迫で中止に追い込まれ、慰安婦の歴史を否定する首長の発言を知り、証言することを決意したという。

 満場の約180人が詰めかける中、李さんは「私たちは『慰安婦』ではない。日本人が勝手に名付けたもので、強制的に軍人の相手をさせられた強制労働の被害者だ」と訴えた。

 14歳だった1942年7月、朝鮮半島東南部の蔚山で2人組の男にトラックに押し込められ、中国の慰安所へ連れて行かれた。
 時折苦しそうな表情を浮かべながら「1日で40、50人の相手をさせられ、耐えられずに自ら命を絶つ人もいた。拒否すれば軍人に刀で刺し殺された。慰安所は実際には死刑場のような所だった」と証言した。

 介助者に車いすを押してもらい、看護師同伴で来日した。
 上映会に先立つ記者会見では「安倍(晋三首相)に会いたい一心で来た。謝罪を直接求める。皆さんの力で会えるよう取りはからってほしい」と呼び掛け、「強制的な状況に置かれていたのだから謝罪と賠償を求めるのは当然。日本政府が強制したのではないと言い張るのは耐えられない」と思いを吐露した。

 歴史否定の発言は首長からも相次ぐ。
 慰安婦を象徴する少女像を巡っては、悲劇を繰り返さぬよう願って創作されたものであるにもかかわらず、河村たかし名古屋市長が「日本人の心を踏みにじる」と敵対視。
 松井一郎大阪市長は「慰安婦の問題というのは完全なデマ」と発言、神奈川県の黒岩祐治知事も「事実を歪曲(わいきょく)したような政治的メッセージ」と曲解を重ねる。

「少女像は私たち自身。歴史を記憶するための像になぜ反対するのか」と李さん。
「自らやった悪いことをなかったと言い、私たちの身に起こったこともなかったと言う。許されないことだ」と語気を強めると、
「その結果が今の日韓の対立だ。歴史に向き合わずに政治的、経済的圧力をかけている」と断じた。

 記者会見を含め約1時間の証言を李さんは「日本政府は私たちが死ぬのを待っているとしか思えないが、死んでも問題はなくならない。次の世代が解明してくれる」と結んだ。
 元慰安婦の女性たちが共同生活を送る「ナヌムの家」の安信権(アン・シンクォン)所長によると「韓国では若い人の関心が膨らんでおり希望的雰囲気がある」といい、「慰安婦」ではなく「日本軍性奴隷制度被害者」と呼ぶようになるなど人権意識の高まりを指摘した。


神奈川新聞、2019年10月06日 09:46
少女像巡る首長発言に抗議
元慰安婦、川崎で証言

https://www.kanaloco.jp/article/entry-200064.html

 旭日旗のオリパラへの持ち込みについて、小池都知事はオリンピック組織委員会の「容認」を追認する見解を出しました。
 これについて開示請求を行ったのですが、なんと不存在。

 つまり、都の職員に指示も出さず、検討もさせず、記者会見で言い放っただけ、都庁としては知りません、という回答です。
 都知事の発言の重みというものを、都知事は理解していないようです。
 これでも小池都政は3年目。


非開示決定通知書.jpg

note mu、2019/10/05 22:01
旭日旗の持ち込み容認は、都知事の独断だった!
(WADA/開示請求)
https://note.mu/kaijiwada/n/nfe0d1c64fe9c

「『非正規』という言葉をなるべく使うな」

厚生労働省内でそんな指示をするメールが出されていたことが報じられた。
こうした、政府が自身にとって不都合な表現や統計や資料を、加工・修正・破棄してしまう例は、近年、枚挙にいとまがない。
勤労統計で不正が行われ、「氷河期世代」を「人生再設計世代」と言い換える提案がなされ、あいちトリエンナーレへの補助金不交付が決定されるプロセスについては議事録が作成されてさえいなかった。

まるでインスタで画像を加工するかのような気楽さで、重要な指標や表現に手を加え、「見せたいもの」だけを世間に見せようとしたり、政権幹部をイケメン武士としてイラスト化した例に象徴されるように、なんとなく「いいね」な印象を国民の間に流通させようとしたりする−−そんな「インスタ的政治」が出現しているのではないか。
メディア文化論が専門の筑波大学准教授・清水知子氏が指摘する。

政治の「視覚的技術」

 つい最近、韓国の電子メーカー・サムスンが興味深いAIを開発した。
 一枚の写真画像に写ったモナリザが生命を吹き込まれたかのように語りかけ、豊かに表情を変えていく。

 動くモナリザだ。

 この生きた肖像は、AIが、写真や絵の中にいる人物の顔から目印になる特徴を抽出し、すでに学習した7000近い人物の画像や動画のデータを参照しつつ作成したものだ。
 まるで『ハリー・ポッター』シリーズに出てくるホグワーツの肖像画を思わせる魔法のような科学技術である。

 日本の企業もまた実在しない人間の全身モデル(もちろん動く)を自動生成するAIを開発している。
 今年フロリダ州のダリ美術館では、サルバドール・ダリがAIとして蘇るイベントが企画された。

 今では本物そっくりのフェイクCG動画がネットに溢れている。
 たとえば、有名女優のフェイクポルノ、「人びとのデータを1人の男がコントロールすることを想像してください」とニュースで訴えるマーク・ザッカーバーグ、「トランプ大統領は救いようのないマヌケだ」と主張するオバマ前大統領…。

 AIによる画像生成技術は、ディープフェイクとして、私たちを居心地悪くさせる「存在論的不安」を与えつつもある。

 こうしたデジタル技術が進展する現代にあって、「イメージを飼いならす」技術はどのように社会に浸透しているのだろうか。
 最近の事例をもとにデジタル社会における政治の視覚的技術について考えてみよう。

 あらかじめ予告しておけば、現今のデジタル社会とは、あたかもインスタグラムで画像が加工されるように、重要な数値やイメージ(画像・映像)が恣意的に操作・修正・加工され、そのことによって何かが隠蔽されるかもしれない厄介な社会なのだ。

反転されていた新紙幣の肖像

 今年2019年4月、新紙幣のデザインが発表された。

 新札の顔に登場することになったのは、日本の資本主義の父とされる渋沢栄一(1万円札)、津田塾大を創始し、日本における女性教育の先駆者である津田梅子(5000円札)、近代医学の基礎を築いた北里柴三郎(1000円札)だ。

 なかでも津田梅子の見本は、数多くの議論を引き起こした。
 津田塾大学が提供した写真の肖像が反転されていたのだ。

 写真の肖像の反転について、財務省及び菅義偉官房長官の見解は「問題ない」というものだった。
 津田塾大から提供された写真はあくまで「参考」にすぎないというのである。

 実際にはいくつもの写真をもとに、肖像は印刷局の専門家が彫る。
 写真がそのまま肖像として印刷されるわけではないのだ。

 たしかに、肖像の反転という点に限って言えば、津田梅子がはじめてではない。

 1951年に500円札として発行された岩倉具視の肖像も反転していた。
 元となったのは、外国人彫刻師のキヨッソーネが1889(明治22)年に完成させた大型の彫刻作品。
 大礼服を着用し、胸に勲章をつけ、右を向いていたはずの岩倉は、紙幣では蝶ネクタイの洋服を身にまとい左向きで登場した。

 しかし今回の発表には、何か胸を騒がせるものがあった。
 信用を基盤にした交換システムからなる紙幣の「顔」をわざわざ反転して公開するというのはなんとも皮肉ではないか。
 しかも、今回の新紙幣の、改元の直前での公表は、新しい時代に相応しい紙幣のあり方を提示するかのようなタイミングだった。
 まるで、写真の「加工」「修正」が、新しい時代を象徴することを暗示するかのようなタイミング、と言えば牽強付会だろうか。

肖像はどうやって「本物」と認められてきたか

 そもそも肖像のイメージとその信憑性は何によって、誰によって保証されるのか。

 たとえば、写真嫌いで知られる西郷隆盛は、幕末偉人のスターだが、生涯一枚も写真を残さなかった。

 今日私たちが目にする大きな瞳をした西郷の肖像画は、ヨーロッパの肖像作法に熟練し、大蔵省紙幣省に招聘され、長く紙幣の原版の意匠を担ったイタリアの画家エドワルド・キヨッソーネが作り上げたものだ。

 キヨッソーネは西郷隆盛に会ったことはない。
 西郷の肖像は、顔の上半分は実弟の従道、下半分は従弟の大山巌をモデルにして出来上がったと言われている。

 犬をつれた上野公園の西郷隆盛像もまた、西郷隆盛そのもののイメージを再現したのではない。
 想像の産物としてのモンタージュ的な視覚的表現なのである。

 創造された肖像画として最もよく知られるのは、明治天皇だろう。

「御真影」として広く流布した明治21年の肖像は、明治6年に内田九一が撮影した当時16歳の天皇の写真とは、構図も、ポーズも、全体の印象も大きく異なる。

 そもそもこの「御真影」は、キヨッソーネが描いた明治天皇の「絵」の複写である。
 カメラで人物を直接撮影した写真ではないのだ。

 なぜ「写真」ではなく「絵」の複写だったのか。
 理由は簡単だ。
 そこで求められていたのは、ありのままの現実の天皇の身体ではなく、政治的戦略に基づいた「屈強で力強い」天皇のイメージだったからだ。
 そのイメージこそが「真」なるものとして国民の間に流通することだったのだ(多木浩二『天皇の肖像』岩波現代文庫、2002年1月)。

 写真よりも修正可能な絵画のほうが、象徴的で理想的な身体のイメージを可能にし、類型的な図像をつくりやすい。

 理想化した肖像を仕上げることができる絵画は、この意味では、現代のフォトショップ的、インスタ的な機能を担っていたのかもしれない。

 この人為的フィクションの「御真影」は、複製可能な写真である。
 そして、この世にただ一つしかない「絵画」を複写するという手続きと、それを「御真影」として扱う「儀礼」によって、皮肉なことに「聖性」を獲得したのである。

ホンモノのお金はニセモノによって作られる

 真正性とフェイクをめぐるこの構造は、お金そのものの価値を支えている構造でもある。
 1963 年の赤瀬川原平の「千円札裁判」を思い出そう。

 千円札の「表のみ」を一色刷りした赤瀬川の模型作品は、偽札としては機能していない。
 けれども、最終的には「通貨及証券模造取締法」によって、その作品を作った赤瀬川は有罪となった。
 
 極論を言えば、紙幣も複製した印刷物の紙片にすぎない。
 けれども、紙幣という印刷物は、目に見えない交換価値によって有用性を帯び、国家の「公の信用」のもとで発行されている。 

 貨幣に信用をおく交換の仕組みを人工的に維持するためには、「真正」なるオリジナルのお札と、それに対立するフェイクがあるかのように見せかけなければならないのだ。

 哲学者のボードリヤールはかつて、実在するアメリカすべてがディズニーランドであるということを隠すために、ディズニーランドが存在すると言った。

 実のところ、本物が存在するためにはフェイクが存在しなければならない。
 けれどもそのホンモノこそがニセモノだとしたらどうだろう。

すべてがコピーのようで、すべてがオリジナルの世界

 正真正銘の「真正」で揺るぎない「顔」があるという思考回路はそれ自体がきわめて「モダニズム」的な前提に支えられた議論である。
 しかし、現代においてはそうした状況が変わりつつあるように見える。

 デジタルイメージは、0か1かに変換されたデータであり、数値化されたデータの集積だ。
 つまり、そこには、オリジナルのデータと複製のデータという区別がない。
 つまり、すべてがオリジナルなのだ。

 デジタルイメージは、フィルム写真の外観を模造(シミュラークル)して発展してきた。
 一見すると写真にそっくりだが、じつは写真とは似て非なる別物なのである。

 デジタルメディアには、複数のメディウム(テキスト、写真、動画)が混淆しながら共存し、まるで新しい生物種のように新しいメディウムが作り出されていく。
 インスタグラムのことを考えれば、現状を想像しやすいだろうか。

 イメージの流通がかつてなく重要になった社会において、私たちの日常を席捲しているのは、「写真」ではなく、「写真」の「イメージ」であり、「現実」ではなく、「現実」の「イメージ」あるいはそれをつかむための「数字」だろう。

 これまでこうした手法を何より得意としてきたのは広告写真だった。

 広告写真に求められるのは、「事実」ではない。
 むしろ人びとの欲望と理想に応えるようなフィクショナルな世界だった。
 今日、それはインスタグラムのような人気のあるプラットフォームによって引き継がれている。
 けれども、インスタグラムが見せる世界は、広告のような虚構の世界ではなく、それ自体が新しい現実のイメージなのだ。

インスタグラミズム時代のデモクラシー

 もちろん、こうした新しいテクノロジーは、私たちを解放してくれる側面もある。
 メディア理論家のレフ・マノヴィッチは、芸術写真/アマチュア写真の境界域に存在するインスタグラム写真を「インスタグラミズム」と呼んでいる。
 そこに、「2010年代初頭に登場した新しいグローバル・デジタル・ユース・クラスの美意識」を見出している(マノヴィッチ『インスタグラムと現代視覚文化論、レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって 』ビー・エヌ・エヌ新社、2018年6月)。

「インスタグラミズム」のポイントは、日常性を基盤とした美学であり、「見る」写真から「撮る」写真への移行であり、そして感情の表象や伝達ではなく、気分や雰囲気に焦点を当てるところにある。

 メディア環境学を専門とする久保友香は、女の子たちが「現実とは違うヴィジュアルを造り、新しいメディアで公開する技術」を「シンデレラ・テクノロジー」と名づけている。

 女の子の「盛り」の文化に着目する久保は、女の子たちが、インスタグラムを駆使して、仲間と協調しつつ、不特定多数の人と繋がりたいという思いと、しかし大人には邪魔されたくないという思いを両立させるべく、仲間のなかで「暗号化」された新しいコミュニケーションを繰り広げているという(久保友香『〈盛り〉の誕生、女の子とテクノロジーが生んだ日本の美意識』太田出版、2019年4月)。

 イメージとテクストを組み合わせた新しい「二次的な視覚性」。
 こうした行為は、たしかにジョディ・ディーンが言うように、一見「コミュニケーション資本主義」に翻弄/搾取されているように見える大衆が、自分たちの表現を取り戻し、解放する契機として重要な意味を担っているのかもしれない。

 ネット時代のデジタルイメージをめぐるこうしたコミュニケーションの変化は、ポスト複製術時代の民主化(誰もが容易にイメージを加工・複製する能力を得られる)を示していると言えよう。

政治の私物化とインスタ化

 しかし、信頼性や客観性が求められる報道写真では、デジタルメディアが得意とする改変や消去は致命的な要素となる。

 マニピュレーション(ごまかし、取り繕い)可能なデジタル社会において、「現実」ではなく、「現実」の「イメージ」あるいはそれをつかむための「数字」をどう流通させるか。 

 この問いは、「イメージ」で物事が展開する危ういポピュリズム政治と相性がいい。

 数値化されたデータの集積からなるデジタル画像の非物質性は、一瞬のうちに消し去ることができる。

 0か1からなるデジタルデータの本質は、あれかこれかの二分法を強いるデジタル的思考とも響き合い、見たいものだけが見られ、流通し、拡散する、「インフォメーションコクーン(情報の繭)」(キャス・サスティーン)を増殖させる。

 たとえば、現実を数字に置き換えて客体化していく統計は、客観性を帯びた中立性への信頼に基づいたリアリティをイメージとして与える(
セオドア・M・ポーター『数値と客観性、科学と社会における信頼の獲得』みすず書房、2013年9月)。

 しかし、統計は、前提と過程を変えてしまうと、見るべき別の本当の数字が見えなくなるマジックのようなものと化してしまう。

 統計だけではない。

 ここ数年、政治は「データ」がつくる「イメージ」の操作に余念がない。

 たとえば、厚生労働省による「「非正規」という表現を使うな」という言葉の操作は、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で描いた「ニュースピーク」さながらの世界を想起させる。

 企業、政治家、役所による相次ぐ統計不正とデータの「改変」、「消去」、「隠蔽」が続くなか、目の前のイメージや数字は本当に見るべき信用に値するものなのだろうか。

 けれども、どれほど「言葉」や「イメージ」をコントロールしても政府に「不都合な真実」がデリート(消去)できるわけではない。

 むしろそこに浮かび上がるのは、なんとかして実態とイメージのギャップがないかのように見せたい、事なきを得たい、なかったことにしておきたいという欲望だ。
 つまり、理想と現実のあいだに深いギャップがあるという事実なのだ。

「不都合な真実」が見えないようにデザインし、マーケティング化した政治が「楽しいプロパガンダ」技術を駆使する状況は、公的なメディアを個人のインスタ感覚で私物化し、見せたいものだけを見せるインスタ的政治とでも呼べるものだ。

 今日、インスタ的政治はあらゆる矛盾を吸収するモンスターのようにマスメディアと一体化した文化装置として機能しつつある。
 擬制と自嘲の回路。
 いまや完全に底が抜けて、裏の顔が表に出てきてしまったような政治は、もはや平然と異論を排除し、炎上しようが断行したもの勝ちだ、と言わんばかりだ。

 いま必要なのは、メディア越しに「展示」された政治のイメージに浮揚されることなく、メディアが公権力をきちんと監視しているかどうか、私たちひとりひとりが能動的に精査し、情報の意図を見極めること、居心地のよい「インフォメーションコクーン」に籠もるだけでなく、他の考え方はないかどうかを探し、物事の見方を多角化すること、そして、構造化された排除の上に成り立つ、同質的な合意を前提としたコミュニケーションの暴力性に目を向け、異質なものからなる複数性を公共空間に取り戻すことだ。

 さて、「令和の新札」が発行されるのは2024年。

 それは、すでに福島を「完全にコントロール」し「世界一カネのかからない五輪」東京オリンピックを終え、大阪万博を目の前にした近未来だ。

 J.K.ローリングによれば、『ハリー・ポッター』に出てくる生きたホグワーツの肖像画は、生きていたときの口癖を繰り返しているという。
 つまり、今を生きる人びとが、未来のために、歴史を学び、過去の人びとの言葉を助言として受けとめるためのものだった。

 果たして、平成の重要なデータをことごとく破棄して迎えた令和という時代は、未来の人々にどのようなメッセージを届けることができるのだろうか。


現代ビジネス、2019.10.04
不都合なデータや表現は加工・修正…「インスタ化」する政治の危うさ
「イメージを飼いならす」政治

(清水 知子、筑波大学准教授)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67570

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日米貿易協定の阻止

 安倍首相とトランプ米大統領が2019年9月25日午後(現地時間)、米国のニューヨークで開かれた首脳会談で、日米FTA協定についての共同声明に署名した。
 合意文書の署名はできなかった。
 合意文書の署名は10月上旬に先送りされる予定だ。
 安倍内閣は10月4日招集の臨時国会に日米FTA協定案を提出予定。
 臨時国会での承認を得る方針だ。

 安倍首相は
「両国の消費者あるいは生産者、勤労者全ての国民に利益をもたらす、両国にとってウィンウィンの合意となった」
と話したが、「ウィンウィン」という言葉の意味を知らないようだ。

 牛肉などの米国産農産物への関税はTPP水準に引き下げられる。
 しかし、日本が米国に輸出する自動車などの関税撤廃は見送られた。
 そもそも、安倍内閣はTPP交渉への参加を米国に認めてもらうために、法外な譲歩を示した。
 TPP参加で日本が唯一得ることができるメリットが自動車輸出の関税撤廃だった。
 現在、普通自動車には2.5%、売れ筋のSUV等の大型車には25%の関税がかけられている。
 この関税を撤廃させることがなければ、日本は海外生産者に日本市場を開放するだけになる。
 米国にとって自動車産業が重要なのと同様に、日本にとっては農林水産業が重要だ。

 日本の主権者の利益を考える対外交渉をするなら、仮に農産物輸入の関税を引き下げるなら、自動車輸出の関税を引き下げることを要求するのが当然のことだ。
 米国が自動車関税を「聖域」として温存するなら、日本は農産品重要5品目の関税を「聖域」として守って当然だ。

 ところが、TPP交渉に参加することを認めてもらう際に、普通自動車については14年間、SUVについては29年間、関税率を一切引き下げないことを日本政府が受け入れた。

 TPP交渉が売国交渉であることは、この点を見れば一目瞭然だ。
「ハゲタカのハゲタカによるハゲタカのための条約」がTPPの正体だった。
 安倍内閣はハゲタカの利益を極大化するためにTPP交渉への参加を強行した。
 2012年12月の総選挙の際に、
「ウソつかない!TPP断固反対!ブレない!日本を耕す自民党!!」
と大書きしたポスターを貼りめぐらせて選挙を戦った安倍自民党が主権者との約束を踏みにじって国益放棄の売国TPPに突き進んでいった。

 それでも、このときの決定は、
・ 普通自動車は25年目に、
・ SUV等は30年目に、
関税を撤廃することとされた。
 また、TPP協議で、自動車部品については、8割以上の品目で即時に関税が撤廃されることになった。
 売国協定ではあるが、遠い将来には日本から米国への自動車輸出に対する関税が撤廃されることが確定した。
 その後、米国はTPPから離脱した。

 安倍首相は、米国を含むTPPの最終合意を完全に確定するために早期批准が必要だと訴えて、2016年末に国会でのTPP批准を強行した。

 米国でトランプ政権が発足すれば、米国がTPPから離脱する可能性が限りなく高かった。
「安倍首相はTPP最終合意の見直しは行わない。米国が離脱したら、米国をTPPに回帰させる」
と国会で繰り返し明言した。

 実際に、米国はTPPから離脱した。 
 すると、安倍内閣は米国のTPPへの回帰を求めず、TPP最終合意の改変に突き進んだ。

 何もかもがこのありさまなのだ。
 そのTPP改変を強引に推し進めたのが安倍内閣である。
 牛肉のセーフガード発動の基準は、米国を含む数量で定められていたから、米国が離脱した以上、米国相当分を圧縮する必要があった。
 各国が自国の損失を回避するために細目の変更を行ったなかで、日本だけが細目の見直しを行わずにTPP改変を強行した。

 今回の日米FTAでは、自動車関税の撤廃が消えた。
 安倍内閣は制裁関税発動の可能性が言葉の細工で限定されように見せかけられることをもってウィンウィンと強弁しているのかも知れないが、実態は
“Winner-takes-all”
でしかない。

 その制裁関税についてすら、米国のライトハイザー通商代表は9月25日、「現時点では大統領も232条で日本に何かすることはまったく意図していない」と説明し、将来にわたり発動しないとは確約していないのだ。

 日米FTAは1858年の日米修好通商条約以来の不平等条約である。


植草一秀の『知られざる真実』2019年9月27日 (金)
米国にすべてを奪われた日米FTA協定合意案
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-cb244d.html

「4兆ドル規模」の日本のデジタル市場は、関税ゼロでアメリカがごっそり持っていく

 日米の通商交渉については、茂木敏充現外相が延々と閣僚級協議を続け、なんとか先週の日米首脳会談で署名にこぎつけたわけです。
 トランプ政権の通商政策については、実は日本経済への影響という点では米中の交渉が妥結してくれないと困るのですが、それはともかく、日米の間でとりあえず合意に達したということは評価できると思います。

 その内容ですが、多くの報道では「日本車にかかる関税が継続協議となった」こと、そして農産品に関して「TPP並みの開放となったこと」を取り上げて問題視する考え方が多いようです。
 ですが、よく考えるとこの2つに関しては日本側として、大きな問題ではないと考えられます。

 まず、日本車については、例えばホンダの場合はほぼ100%が北米での現地生産になっていますし、トヨタの場合も以前は日本の田原工場や、トヨタ自動車九州でのみ作っていた「レクサス」ブランドのモデルも、「RX」(加オンタリオ州)や「ES」(米ケンタッキー州)といった主力車種が現地生産に移行しているからです。
 80年代や、90年代とは異なり、完成車輸出というのは極めて限定的であり、したがって仮にこの問題が継続協議となっても日本経済への影響は限定的なものです。

 ただ、実際の有権者には80年代や90年代の感覚を残している人が多いのも事実で、政治的な効果としてはこの点での綱引きがあったのは事実でしょう。
 日本だけでなく、アメリカの、それこそトランプ政権の支持者の持っている時間感覚も、それこそ80年代の日米貿易摩擦の記憶を引きずっているわけで、どちらも過去の幻影を材料に交渉していたようなものとも言えます。

 次に農産品に関しては、オバマ政権とのTPP合意交渉の際に、これは国内的にはいったん決断もしたし、対策も用意していたわけで、今回の決定もその範囲内なのですから、こちらも交渉での譲歩とは言えないと思います。
 むしろ、当初想定したアメリカが入る形でのTPPの発足よりは、日程が大きくズレたことで、日本としては農業の抜本改革のタイミングを逸してしまったということはあると思います。
 ですが、交渉による譲歩ではないと考えられます。

 では、安倍総理の言うように、今回の結果は「日米ウィンウィン」なのかと言うと、実は2つ大きな懸念があります。

 1つは自動車部品の問題が継続協議になったという点です。
 日本からアメリカへの完成車の輸出は、現地生産化の進展により仮に関税が残っても影響は限定的と言ってよいのですが、部品の場合はそう単純ではありません。
 ハイブリッドやEV関連の部品など高度化した電装部品、自動変速機など高付加価値の部品で、日本からアメリカへの輸出となっている部分はまだ日本経済の重要な柱となっています。

 今回の交渉では、この自動車部品への厳しい課税を避けられたというのは評価できますが、今後に含みを残す形で継続協議となったのは残念ですし、引き続き要警戒と言わざるを得ません。

 もう1つは、今回の協議についてトランプ大統領が語った「日本のデジタル市場を4兆ドル規模で解放させた」というセリフです。

 この問題ですが、とりあえず現在そうなっているように、米国サーバーから日本の消費者がアプリやソフト、コンテンツをダウンロードする際に「消費税はかけるが関税はかけない」と言う扱いを今後も保証したということです。

 安倍首相としては「消費者へのメリット」という部分に入るのかもしれません。
 ですが、トランプ大統領の言う「4兆ドル(約430兆円)」という数字はあまりに巨大です。

 アメリカとしては、今後も進むコンピューター・テクノロジーの進歩により、日本におけるソフトウェアの市場はどんどん拡大する、その規模が、もちろん単年度ではなく何年にもわたってのトータルで430兆円になるとして、それをごっそり持っていこう、しかも関税ゼロで儲けようというのです。

 これは大きな問題です。
 現在でも、日本人による日本語を使ったコミュニケーションが、米国の企業が運営するSNSのサーバーを通っているわけですし、コンピューターもスマホもタブレットも、日本が開発したOSなど影も形もありません。
 ソフトウェアに関しては、かつて技術立国を自称し、情報立国を目指していた国の面影はどこにもないのです。

 そのような「全敗」状態が今後も続く、その際に動くカネには関税はかけられない、そのトータルの市場規模は430兆円にもなる。
 そうであっても、関税ゼロなら消費者にメリットがあるのだから、それも「ウィンウィン」というのが全体のストーリー......であるのなら、これは恐ろしいまでの経済敗北主義ではないかと思うのです。


Newsweek、2019年10月03日(木)16時20分
日米貿易協定を「ウィンウィン」と呼ぶ日本の敗北主義
冷泉彰彦(れいぜい あきひこ)
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2019/10/post-1117.php

 メディアは良く知っている。
 今度の国会で安倍首相が最優先するのが日米貿易協定の国会承認であることを。
 だからどの新聞もそのことを書いている。
 ならば野党は日米貿易協定の阻止を最優先すべきだ。
 日米貿易協定阻止の一点突破で、打倒安倍政権を目指すべきだ。
 そしてその大義と正当性は十分にある。

 なにしろこの協定は、TPPに加盟した日本にとって、締結する必要性のまったくない協定だ。
 それどころかTPPを損ない、TPP加盟国を裏切り、そして何よりもトランプをTPPからますます遠ざけるものになるからだ。
 まさしく、日米貿易協定は、TPPをボイコットしたトランプを利するために、トランプに押し切られて結ばされた協定なのである。

 同じ不平等条約でも、日本の共産化を防いだ日米安保条約のほうがまだ意味があった。
 しかし今度の日米貿易協定は、ただひたすらにトランプの再選に協加担するだけの協定だ。
 それがウソだと言うなら、茂木大臣を徹底的に追及し、その密約ぶりを白日の下にさらせばいい。
 
 交渉過程と合意の実態を知れば知るほど、とんでもない協定であることがわかるだろう。
 もちろん、WTOで合意された戦後の自由貿易原則に違反する。
 そして、協定の交渉過程と内容の密約ぶりは、あの昭和の日米安保条約と全く同じだ。

 しかもである。
 日米安保条約は、吉田茂首相が署名した。
 その密約ぶりを認め、こんな条約を署名する責任は自分ひとりで取れば十分だ、あの時はそれしかなかった、後世の政治家によって改定されることを願う、そうつぶやいて、あえて誰も従えずに、ひとり署名したのだ。

 ところがである。
 きょう10月5日の毎日新聞を見て驚いた。
 一段の小さな記事であるが、こう書かれている。

 日米両政府は新たな日米貿易協定の署名式を、日本時間の8日にも米ワシントンで開く方針を固めたと。
 なんと、国会にその最終協定案を正式に提出しないうちに、署名してしまおうというのだ。
 とんでもない国民無視の外交だ。


 しかもである。
 安倍首相がトランプと署名し、吉田茂のようにその責任を一人負うのならまだわかる。
 あるいは、安倍首相の責任をかぶって茂木外相が署名するのならまだわかる。
 なにしろ密約のすべてを一番よく知っている事実上の日米貿易協定の責任者であるからだ。

 ところがである。
 署名は杉山晋輔駐米大使が、ライトハイザー米通商代表と行う予定だという。
 令和の日米安保条約といってもいいほどの歴史的不平等条約を、外務官僚ごときに署名させてお茶を濁そうとしているのだ。
 あまりにも姑息だ。
 政治家の責任回避だ。
 野党は絶対にこの署名式を許してはならない。


 少なくとも署名を許す前に国会審議を尽くさなければいけない。

 予算委員会で議論した後でなければ署名を許してはいけないのだ。
 そして予算委員会で審議すれば、それを承認してはいけないことが次々と明らかになる。
 承認などとんでもないということになる。
 トランプと約束してしまった安倍首相は、野党が反対すれば、解散・総選挙に打って出て、国民に信を問わざるをえなくなる。
 野党はそこまで安倍首相を追い込まなければいけないのだ。
 その時こそ安倍政権が倒れる時だ。
 それ以外に安倍政権を倒せる策は今の野党にはない。

 打倒安倍政権が選挙の争点になれば、どんなにバラバラな野党でも、安倍か、反安倍か、で結束できる。
 安倍か、反安倍か、で選挙が行われるなら、どんなに選挙に関心がない国民でも、政策に疎い国民でも、選択できる。
 そして、こんな野党でも安倍よりはいいという審判が下される可能性は十分にある。
 おりから米国はトランプの再選が不透明になって来た。

 トランプと安倍の二人がいなくなった時こそ、日米安保の見直しの可能性が出て来る時だ。
 その時こそ日本が「昭和」、「平成」から決別し、あたらしい時代に突入できる時だ。
 野党は日米貿易協定の阻止を、令和の安保闘争に発展させよ。
 ここまでヒントを与えているのに、それに呼応しないようでは、野党に出番は永久に来ない。


天木直人のブログ、2019-10-05
野党は日米貿易協定の阻止を令和の安保闘争にする気概を示せ
http://kenpo9.com/archives/6293

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もう、やってられない

「日本は世界第3位の経済大国であり、さらに科学技術立国をうたうにも関わらず、その担い手である若い研究者たちが最悪の環境にいることは間違いない。まるでブラック企業だ」

 2001年にノーベル化学賞を受賞した野依良治さんは、日本の若手研究者たちが置かれる状況が劣悪だと指摘します。
 いったいどういうことなのでしょうか。海外諸国と比べてみると、その状況が見えてきました。

若手が自由に研究できない

 まず野依さんが指摘したのは、研究予算の問題。
 国は国立大学に運営のための資金として運営費交付金を配分していますが、昨年度までの15年で1440億円、割合にすると11%余りを削減し、その一方で、研究者が競争して獲得する「科研費」などの競争的資金を増やしたといいます。

 確かに科学研究の分野にも競争は必要だと思いますが、野依さんは、
「自由な研究が保障される唯一の機関である大学で、急激に学問的な自律性が失われている。例えばノーベル賞は、独自性の発露を評価するものです。私の研究も当初は世界の誰からも見向きもされなかった。行政や資金提供者が、これをやりなさいと上から目線で戦略的に分野や課題を定めて、若い研究者の活動を縛っている。今、明日を担う若者が自由な発想で挑戦することが大変難しくなっている」
と懸念を示しています。

若手が海外に出ない

 また文部科学省によりますと、海外に出る若い研究者が増えていないことが研究の国際化における課題のひとつとなっています。
 欧米や中国では、外国の大学で研究することで他国の研究者と共同で研究したり人脈を築いたりと、自らの研究を深められるとプラスに捉えられていますが、海外に出た研究者に話を聞いたところ、日本では海外に出ることが逆に「デメリット」になる側面があるそうなのです。

 フランスで光化学について研究を進める平井悠一さん(29)、工学博士です。
 20代のうちに世界で経験を積みたいと、海外特別研究員として2018年から2年間、フランスのENSパリサクレーで研究を続けています。
 ところが、海外に出る前は不安が頭から離れませんでした。
 海外にいる期間が長いほど国内のポストを得づらくなるというのです。

「国内の大学で助教を目指すとなると、大学の先生たちは身近な学生を選びやすく、どこのポジションが空いているかといった話が一気に入って来なくなる。海外にいる人より、国内の先生の元で研究している若い人材の方が雇われやすい。周囲から、『あなたは日本に戻って居場所はあるのか?』と聞かれ心配でした」

 平井さんはいま、論文を出して結果を残そうと朝7時にはラボに到着し、時間が許す限り研究に取り組んでいます。
 ところが、バカンスを大事にするフランスでは、8月は3週間にわたってラボが閉鎖されてしまいました。
 困った平井さんはシェアオフィスを借りて論文を書かざるを得なかったそうです。
 こう聞くと、フランス人はいつ仕事をしているのか不思議に思います。

減り続ける論文

 日本とフランス。
 どうも研究環境がかなり違うようです。
 こちらは文部科学省の資料です。論文は、国内外で引用される回数が多いほど、優れていると評価されますが、資料は、引用された回数が、各分野の上位10%に入った論文の数の国別の順位を示しています。
《日本 4位→5位→9位》
《フランス5位→6位→6位》*文部科学省資料
 2007年には日本より論文数の少なかったフランスは、2017年時点で6位と日本を上回りました。
 一方、日本は世界4位から9位と徐々に順位を下げています。

日本の博士が減っている

 理由の1つとして指摘されているのが、そもそも博士課程に進み、研究者として論文を書く人たちが減っていること。
 文部科学省によりますと、欧米諸国と比べて日本の博士課程へ進む人は年々減っていて、平成15年度のおよそ1万2000人をピークに、平成30年度には半数の6000人まで減りました。
 これについて、野依さんは経済的な原因が大きく影響していると指摘します。

給料が出ない

 野依さんが指摘するのは、研究者たちの「給与の問題」です。
 科学技術振興機構によりますと、アメリカやイギリス、ドイツ、そしてフランスの大学では、博士課程に入ると、学費が事実上免除されるだけでなく、毎月生活するために十分な給与が支給されます。
 ところが日本では授業料を納める必要がある上、およそ半数は無給です。
 そのため野依さんは、日本では研究をしながら、奨学金という名の借金やバイトで賄うしかないといいます。

 実際に海外の博士課程の若者たちはどのような状況なのか、話を聞きました。
 フランス北部のモン・サンテニャンの大学の博士課程で、分析化学を研究する25歳のクレモン・キャスティヤさんです。

 毎月、大学から研究奨励金として、それぞれ1550ユーロ、日本円で18万円あまりが支給されています(1ユーロ=120円)。
 また、博士課程に進むと、修士の学生たちに授業を教えることも出来るため、その分余分に稼ぐこともできるといいます。
 クレモンさんに、日本の博士課程の人たちの状況を伝えたところ、ショックを受けていました。

「私たちは博士課程の学生ですが、大学のために研究に従事し労働しています。お金の心配はしたことがありません。同じように研究をしているのに給与が与えられないと聞き、とても驚きました。ハードな研究を進めながら、食い扶持を稼ぐ生活を送る彼らの健康が心配です」

 野依さんも指摘します。

「日本の知を担う彼らにどうやって生活しろというのでしょうか。彼らこそが研究の中核で、彼らの知性や情熱無くして、論文は生まれない。ただ働きを強いる劣悪なブラック企業ともいえる環境は、科学技術立国をうたう日本であってはならないことです。最近話題になった大学病院の無給医問題と同じ構造だと感じますが、こんな状況が、優秀な人たちにとって魅力があるわけがありません」

限定的な博士の雇用

 また野依さんは博士の学位を取った後の展望が開けないことも大きいといいます。

「海外では博士のキャリアパスが多様です。高度な教育を受けていて思考能力が高いと評価されているため社会的地位は高く、産業界だけでなく、政府機関やマスコミなどでも博士が重宝されている。一方、日本では専門性のみを極めていて視野が狭いという偏見があり、企業は『オン・ザ・ジョブトレーニングなどで訓練した方が使いやすい』と考え、敬遠している傾向にある」
というのです。
 野依さんは、給与といった経済基盤が不安定で、運営交付金が削られた結果やりたい研究もままならない環境に対する不安の払拭が不可欠だと指摘します。

「このままでは十数年後には日本で博士課程に行き、研究者を目指そうとする若者がほとんどいなくなり、知識社会全体が空洞化してしまう」と話していました。

これからどう変わる

 文部科学省の中澤恵太政策科学推進室長に、今後の展望について話を聞きました。

 現状について、
「社会に役立つ研究が増えたと考えている一方、長い視野の基礎研究の予算が減っていて、近視眼的になっているというのは事実」とした上で、
「日本にいる博士の数は現在7万人で、生活に不自由ない額を国費としてもらっているのは1割あまりですが、それを今後2割まで増やしたい」
と話していました。
 また、博士のキャリアパスの多様化を進めるため、企業におけるインターンシップを後押しする施策を進めているとしています。
 取材の最後、中澤さんはこう話してくれました。

「私たちとしても、過去ないくらいの危機感を持っている。財源はどうしても限られてしまうが、優秀な学生が博士を目指すような支援を拡充に努めたい」

 将来のノーベル賞候補ともいえる若い科学者たちが、人生をかけて良かったと思える研究ができる環境を整えなければ、そう遠くない未来、日本からノーベル賞受賞者が出なくなってしまうという懸念は現実のものになってしまうのではないでしょうか。


NHK News Web、2019.10.4
日本の若い研究者たちの“ブラックすぎる”職場環境
〜あるノーベル賞学者の憤り〜

(松崎 浩子、国際部 欧州担当)
※ まつざき ひろこ
 平成24年入局。名古屋局を経て、国際部で欧州地域を主に担当。経済、環境、テクノロジーなどを取材。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/nobelprize2019/article/article_06.html

「この審議会の議論は、もっともだと思う。でも、学校現場がどう考えるかを思うと、気が重くなってしまう。限られた時間しかないのに、学校に期待されていることが、あまりにも多すぎると感じるからだ」――。

 ICT(情報通信技術)活用と小学校の教科担任制について論点整理をまとめた10月4日の中教審初等中等教育分科会で、出席した委員から学校の教育現場への配慮を求める、痛烈な意見が表明された。
 新学習指導要領の完全実施に向けた道筋を議論している中教審初等中等教育分科会は、いわば教育改革の本丸。
 そこで展開された本音トークは、出席者に強い印象を残したようだ。

 発言したのは、初等中等教育分科会の委員を務める西橋瑞穂・鹿児島県立甲南高校校長。
 ICT環境や先端技術の効果的な活用によって、教育現場に大きな変革を促す論点整理案を巡る自由討論の一場面だった。

「世の中が大きく変わっていて、教育も変わらないといけないことはよくわかる」

 西橋校長はこう切り出した。
 いま高校の教育現場が大学入学共通テストや民間英語検定試験、新学習指導要領の導入に直面し、大学入試改革への対応にも追われていることは、容易に想像できる。
 相当な作業量であることは間違いない。

「新しいことを教師全員が理解するために研修が必要だ、という声が聞こえてくる。教師が勉強するのは当然だが、研修を増やすと言っても、それが簡単にできるのか」

 西橋校長は、
「本校は授業時間が週35時間なので、7時間目が終わるのは勤務時間終了前25分となる。その後に研修はできない。だから研修するためには、授業をカットするしかない。生徒が学ぶ内容は非常に多いので、本当は授業をカットしたくない。職員会議なども年間計画に組まれている」と続けた。

「本当に時間的には一杯一杯なのに、(残業時間を減らす)働き方改革をやれ、と言われる。そこに新しいことをやらなければならない。現場では『言っていることと、やっていることが、全く違うじゃないか』と思っているのが現実だ」

 プログラミング教育を例にとり、
「その現実の中で、横文字の新しい概念が次々と飛び出してくる。正直、意味がよくわからない。プログラミング教育と言われても、なんとなくイメージがあっても、実際にはよくわからない」と説明。

「何事も説明した側は『ちゃんと説明した』と言う。でも、それでどれぐらい伝わるのか。説明する側と受ける側が頭の中を一致させることは、かなり難しい。教師は生徒に教えるとき、『だいたい2割しか伝わらない』とよく言っている。

『この前教えたのに、全然分かっていない』と話す」と述べ、一方的に方針を通知して終わってしまう文科省や教育委員会をちくりと皮肉った。
 西橋校長が強く訴えたのは、学校の教育現場に対する想像力だ。

「もっと想像力を持って施策をやらないと、現場はついてこない。現場がついて行きたいと思っても、ついていけない。次から次に要求があり、そこに働き方改革と言われる。これでは『もう、やってられない』と、現場の教師は思ってしまう」

 学校の教育現場に対する想像力が足りなかった例として、西橋校長は大学入学共通テストが採用した英語民間試験を挙げた。

英語民間試験の問題がいつまでもごちゃごちゃしているのは、制度を設計したときに想像力が不足していたからではないか。例えば、離島の生徒は受験するのに2泊3日が必要になる。悪天候だったら、さらに時間と費用が必要になる。そういう想像力が必要だ

 西橋校長は、
「急いで改革しなければいけないのはわかっているし、なんとかしなければいけないと本当に思っている。でも、学校の実態をもっともっと尊重してほしい。改革、改革といっても、全国津々浦々の学校には、事情がさまざまある。本当に想像していただければと思う」と言葉を結んだ。

 この発言を受け、初等中等教育分科会会長の荒瀬克己大谷大学教授は、
「私たちは子供たちの未来を考えて議論をしているが、学校の先生には『やってられない』という気持ちもあると思う。私たちの責任の重さを改めて思い知るご発言だった」と述べた。


[写真]
教育改革を議論した中教審初等中等教育分科会

教育新聞 Education Newspaper、2019年10月4日
「もう、やってられない」
中教審で現場教師の本音訴え

https://www.kyobun.co.jp/news/20191004_04/

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2019年10月05日

安倍首相の真偽チェック

 安倍晋三首相に猛省を求める−−。

 森友学園問題を巡り、大磯町議会は10月3日の本会議で、こんな決議案が賛成多数で可決された。
 自民党系や公明党の“与党議員”も賛成し、歴代首相が別邸を構えた地の議会が現役首相に手厳しい意見を突き付けた格好だ。
 首相を名指しで批判する決議は、全国でも例がないという。

 町議会が賛成12、反対1で可決したのは、「内閣総理大臣 安倍晋三衆議院議員に猛省を求める決議」。
 学校法人「森友学園」を巡る決裁文書改ざんで大阪地検特捜部が財務省幹部を不起訴としたことに対し、「安倍首相への忖度(そんたく)に感じられるのは私たちだけでない」と批判。
「政府を監視し、不正や疑惑を解明する任務を負っている」とし、首相に国会議員としての責務に専念するよう注文を付けた。

 提出者の柴崎茂氏は、台風15号による千葉県の停電に触れ「深刻な被害の中で内閣改造を行った。安倍首相は庶民のことをどれだけ考えているか。地方議会も見ているという姿勢を示したい」と説明。
 公明の奥津勝子氏は「自公政権ではなく安倍首相個人への批判で、私個人の思いとして賛成した」と話した。

 町議会局によると、他自治体の議会でも森友学園問題に絡み疑惑解明を求める意見書を採択したケースはあるが、首相個人を批判する決議は例がないという。


神奈川新聞、2019年10月04日 05:00
「安倍首相は猛省を」
与党系も賛成、大磯町議会決議

https://www.kanaloco.jp/article/entry-199595.html

 自民党と公明党が組む連立政権が発足してから、5日で20年を迎える。
 両党は「政治の安定」を強調。
 一方で数の力を背景に、憲法違反と指摘される法案を次々と成立させてきたことへの批判もある。安倍晋三首相(自民党総裁)が改憲への意欲を重ねて示す中、公明の対応が焦点となる。

 公明の山口那津男代表は3日の党会合で、連立について「安定的な基盤をつくることで、国民のニーズを幅広く受け止めた」と語った。
 首相も1日に「関係はビューティフル・ハーモニー(美しい調和)だ」と元号「令和」の英訳をひいて蜜月関係を強調した。

 1999年10月に公明が連立に加わって以来、自公は2009年衆院選大敗で下野しても連携を続けた。
 2012年に政権復帰し、2013年参院選で勝利した後は衆参両院で過半数を維持。多数を武器に、それぞれが重視する政策を進めてきた。

 公明は消費税率10%への引き上げに伴う軽減税率導入を推進。
 自民が主導した集団的自衛権行使を可能にする安全保障関連法や、犯罪を計画段階で罰する「共謀罪」の趣旨を含む改正組織犯罪処罰法は「憲法違反」との批判を押し切った。

 首相は臨時国会を前に「参院選の約束を一つ一つ実現したい。憲法改正も約束の一つだ」と語る。
 一方、公明の北側一雄副代表は三日の記者会見で「憲法論議は、できるだけ多くの政党間で合意形成できるよう努めたい」と慎重な立場を崩さなかった。 

◆政治改革の理念、機能せず

<中北浩爾・一橋大大学院教授(政治学)の話>
 日本では、連立政権は選挙協力や政策協議で折り合えないことも多い。
 その中で唯一の安定的枠組みが自公だ。
 一方、あまりに強力なため、政権交代を通じて政治をチェックするという、1990年代以降の政治改革の理念が機能しなくなった。


[表]自公連立政権を巡る主な出来事
自公連立.jpg

東京新聞・朝刊、2019年10月4日
自公、数の力横行
「安定」強調の裏で
連立20年
「憲法違反」指摘の法次々

(妹尾聡太)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201910/CK2019100402000153.html

 安倍晋三首相の4日の所信表明演説を、本紙がファクトチェック(事実確認)したところ、高齢者の就労希望について「65歳を超えて働きたい。8割の方がそう願っている」と説明した部分が、実際は5割超だった。
 8割としたのは回答者を「仕事をしている人」に限って統計を再処理した結果で、首相の説明は誇張と言える。

 政府によると、演説の基になったのは内閣府が2014年度に実施した「高齢者の日常生活に関する意識調査」。
 全国の60歳以上の男女約3900人が回答。
 何歳まで仕事をしたいかという設問で「働けるうちはいつまでも」は28.9%、「70歳くらいまで」は16.6%、「75歳くらいまで」は7.1%、「80歳くらいまで」は2.7%。合計すると55.3%で、8割を大きく下回る。

 この設問について内閣府は2017年版の「高齢社会白書」で、回答者約3900人のうち「現在仕事をしている人」の約1300人に絞って再集計。
「働けるうちはいつまでも」から「80歳くらいまで」の4項目を合計すると79.7%になり、「約8割が高齢期にも高い就業意欲を持っている」と結論付けた。

 首相はこの結果を引用したとみられるが、「現在仕事をしている人」という前提条件を説明していないため、高齢者の8割が「65歳を超えて働きたい」と思っていると誤解させかねない。
 演説では、70歳までの就業機会の確保を掲げており、社会保障費の支え手を確保するため、高齢者の働き手を増やしたい思惑が透けて見える。

 経済政策「アベノミクス」に関しては、雇用が改善した成果として「正社員は130万人増えた」と強調した。
 総務省の労働力調査によると、正規で働く人は第二次安倍政権が誕生した2012年から2018年までに131万人増えており、説明は正しい。

 だが、同じ期間中にパートやアルバイトなど非正規で働く人も304万人増加したことには言及せず。
 役員を除く雇用者全体に占める非正規の割合は2018年に37.9%へ上昇し、その多くが低賃金で生活に苦しんでいる実態には目を向けなかった。


[表]所信表明演説の真偽
所信表明の真偽チェック.jpg

東京新聞・朝刊、2019年10月5日
<論戦ファクトチェック>
「65歳超えても働きたい 8割」
基データは5割超
数字は誇張

(川田篤志)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201910/CK2019100502000158.html

 安倍晋三首相が4日の衆院本会議で所信表明演説を行った際、見せ場となる最終盤の憲法のくだりで、衆参両院の「憲法審査会」を、前身の「憲法調査会」と読み間違えた。
 野党のやじで集中力を欠いたのか、「理想を議論すべき場こそ、憲法調査会ではないでしょうか」と誤った。

 憲法調査会は2007年の審査会発足に伴って廃止されている。
 憲法論議に協力的な日本維新の会の馬場伸幸幹事長は、首相のミスに「がくっときた」。
 国民民主党の玉木雄一郎代表は「一番大事なところで間違え、本当にやる気があるのかという気がした」と皮肉った。


時事ドットコムニュース、2019年10月04日18時42分
安倍首相、憲法審査会を「調査会」と誤読=玉木氏「やる気あるの?」−所信表明演説
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019100401051&g=pol

総理所信表明演説について
総理が所信表明演説で「憲法改正」に言及したことについて、社民党・吉川はじめ幹事長は、行政府の長たる首相が改憲について述べることは不遜であり、「現憲法こそ、道しるべ」だと批判しました。
https://www.youtube.com/watch?v=zruDgnzdD84&feature=youtu.be

 共産党の志位和夫委員長は4日の記者会見で、戦前の日本による提案が国際人権規約につながったとした安倍晋三首相の所信表明演説について「これほど厚顔無恥な世界史の歪曲(わいきょく)はない。歴史への無反省が表れた」と批判した。

 首相は演説で、日本が1919年の第一次世界大戦に関するパリ講和会議で「人権平等」を提案したことに言及。
「欧米の植民地が広がっていた当時、日本の提案は強い反対にさらされた」と紹介した後、「日本の大いなる理想は国際人権規約をはじめ国際社会の基本原則になった」と続けた。

 志位氏は「国際人権規約の基本理念は『民族自決権』だ。それを踏みにじって(朝鮮半島の)植民地支配をしていたのが戦前の日本だ」と指摘。「(首相の)歴史への無知と無反省が表れた。こういう姿勢だから日韓問題もより悪くなる」とこき下ろした。


毎日新聞、10月4日 17時46分
共産・志位氏「厚顔無恥な世界史の歪曲」
首相の所信表明演説に

(小山由宇)
https://mainichi.jp/articles/20191004/k00/00m/010/168000c

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2019年10月04日

麗子微笑之立像

 ヤッホーくんのeチャリによる朝キンは東京駅まで。
 といいますのは、10月2日(水)に日本民芸館再訪。
 岸田劉生(1891〜1929年)、前田邸の前田利為(1885〜1942)。
 柳宗悦(1889〜1961)、『蟹工船』の小林多喜二(1903〜1933)。
 同人誌「白樺」は1910年創刊、雑誌『種蒔く人』は1921年!
 たった1世紀、されど1世紀、1923年関東大震災、1927年山東出兵で”15年戦争”の前夜、1928年治安維持法で死刑追加!
 あんなこと、こんなこと、いろんなことがあって、戦争に突入し見渡す限りの焼け野原になった下町、そしてピカ丼くらって敗戦。
 尊い平和憲法を壊し、またあのきな臭い、コクミンが餓死し、ウジ虫たかる戦死者に数えられる戦争時代に戻ろうとしてるのかな。
 あんなこと、こんなこと、いろんなことを考えさせられる展示会が、東京駅でイマ、開かれています。
 ヤッホーくんのこのブログの読者諸氏よ、ぜひとも行って見てきて!
 ひとりの芸術家の航跡に触れてきてください!

「劉生」と聞いてまず思い浮かぶのは、どのような作品だろう。
 娘麗子をモデルにした麗子像シリーズか、道を描いた作品、あるいは細密描写の肖像画や静物画か。
 ひとそれぞれで異なるに違いない。

 東京駅丸の内北口の東京ステーションギャラリーで開かれている「没後90年記念 岸田劉生展」は、そのすべての期待に応えられそうな、大正〜昭和の画家、岸田劉生(1891〜1929年)の本格的な回顧展だ。

 監修にあたった美術史家の山田諭さんは「思いがけないほど作品が集まった」といい、前後期合わせて約150件がそろう充実した顔ぶれになった。
 麗子像は5歳から9歳まで前後期合わせて17点が展示され、風景画も代表作中の代表作「道路と土手と塀(切通之写生)」(重要文化財)をはじめ、さまざまな作品が並んでいる。

 劉生は、作品に制作年月日を几帳面に書き付けていた。
 会場ではその記録に従って、ほぼ制作順に作品が展示されている。
 劉生の歩みをつぶさにだどりつつ、画業の全貌に迫ることのできる貴重な機会といえそうだ。
 東京展は10月20日まで。
 会期中に展示替えがある。
 続いて山口県立美術館、名古屋市美術館で開催される。

 監修した山田さんは、名古屋市美術館で長く前衛美術や現代美術の展覧会を手掛け、現在は京都市美術館の学芸課長を務めるこの道34年のベテラン学芸員。
 学生時代に修士論文で劉生を取り上げた山田さんにとっては、劉生の回顧展は「いつか実現したい企画だった」というが、さまざまな事情でかなわなかった。
 没後90年を最後のチャンスと見定めて起案したところ、東京、山口で開催館が見つかり、実現したという。

 第一会場となる3階では、初期の修業時代からポスト印象派の影響を受けた時期を経て、西洋の古典的な絵画を思わせる作風へと変わっていく様子を一望できる。
 厳密に制作年月日順に並べられており、劉生の息遣いさえ想像させる。
 たとえば「代々木附近(代々木附近の赤土風景)」(1915年10月15日)を仕上げた劉生は、描いたばかりの坂道に場所を移して、道に刻まれた荷車のわだちや、くっきりとした電信柱の影、転がる小石などを細部までとらえ、名作「道路と土手と塀(切通之写生)」(同11月5日)を生む。
 遠景として描いた坂に、何か謎めいた魅力を感じ、接近し、対峙し、細密に描きこんだのだろうか。

 制作順展示の妙味はほかにもある。
 劉生が制作年月日を記録したのは、自分が変化し続けることを自覚し、プロセスを正確に残そうとしていたからとも思われるが、大きな節目では署名を変えている。
 ゴッホら近代美術の影響下にあった時期の署名「R.Kishida」は、西洋の古典絵画への傾斜とともに紋章のような署名に変わる。
 山田さんが「羽(はね)R(アール)点(てん)」と呼ぶ羽飾りのついた盾形の紋章のような署名だ。
 1915年の年初に現れたこの署名は「道路と土手と塀(切通之写生)」では画面左下の石の側面に描きこまれている。

 そして、次の変化は東洋美術への関心を深めた1918年。
 サインは「劉」と漢字に変わる。
 劉生の決意がにじみ出ているようにも見える。
 制作順の展示ならではのドラマチックな隠し味だ。

 1929年に満州(中国東北地方)を旅した劉生は、当地の風景画を油彩で描く。
 署名は「Riusei Kishida」に変わっていた。
 油彩で新境地を拓く手ごたえを感じていたのかもしれない。

 だが、満州旅行で調子を悪くしていた劉生は、途中立ち寄った山口・徳山市で病を得、38歳の生涯を終えた。
 生きながらえていたなら、劉生の芸術はこの先どのような展開を見せていただろうか。
 劉生ファンならずとも、つい思いを馳せてしまう、永遠の「もし」であろう。


[写真-1]
5歳から9歳までの「麗子像」がずらりと並ぶ

[写真-2]
重要文化財「道路と土手と塀(切通之写生)」1915年11月5日 東京国立近代美術館

[写真-3]
「代々木附近(代々木附近の赤土風景)」(左)を描いた後、劉生は描いたばかりの坂道に場所を移して「道路と土手と塀(切通之写生)」(右)を描いた

[写真-4]
「この影は前作で描かれた電信柱の影ですね」と解説する山田さん

[写真-5]
「川端正光氏之肖像」(右:1918年1月13日) 2階会場の入り口付近に展示されている、東洋美術への傾斜を示す作品。劉生の変化を示すカギは画面左上にある

美術展ナビ、2019.09.12
見どころ紹介
「没後90年記念 岸田劉生展」
東京ステーションギャラリーで開催中

https://artexhibition.jp/topics/news/20190912-AEJ103188/

 明治の水彩画ブームは大正期に入ると衰退していく。
 1913(大正2)年に日本水彩画会が創設されたり、水彩画家として活躍する若手も登場したりはするものの、いわゆる水彩画界としては全般的な不振に陥っていた。

 その一方「大正期の個性派」といわれる画家たちが、水彩画にも秀作を残していることは注目される。
 彼らは自己の造形を追究していく中、油彩・水彩それぞれの特性を生かして作品を描いた。
 岸田劉生もそのひとり。

 劉生にとって水彩は、油彩と異なる魅力を持つ表現媒体だった。
 新鮮で自由な味わいに加え、美を素早く掴(つか)み、感興が消えないうちに完成させることができるのは、その利点であると考えていた。
 劉生の水彩画制作は、1918(大正8)年から1922(大正11)年の間に集中している。

 愛娘麗子を描いたものが最も多いが、この作品は横浜の原三渓の一族、西郷健雄からの注文によるもの。
 画面右に「千九百二十一年四月三日」の日付があるが、劉生の日記によると、4月1日から描き始め、3日間で仕上げたことが分かる。
 麗子間もなく満7歳。
 下を向きわずかに微笑(ほほえ)む表情が愛らしい。
 画面全体を赤い色調が覆う中、左下のカラフルな紙風船がアクセントになっている。

麗子.jpg
(大正10年、水彩・紙、50.5×34.2センチ、メナード美術館蔵)


日本経済新聞、2019/7/24付
美の十選
みづゑ(ヤッホーくん注)のかがやき十選(7)
岸田劉生「麗子微笑之立像」
(茨城県近代美術館美術課長 山口和子)
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO47675430T20C19A7BC8000/

(ヤッホーくん注)みづゑ
幕末から明治初頭に受容が始まり、明治30年代後半に大ブームとなった水彩画(みづゑ)。

 岸田劉生は大正から昭和初期にかけて活躍した近代日本を代表する洋画家です。

 さまざまな表現方法を会得し辿り着いた作風はたくましさを感じることの出来る写実的描写からは、モデルから伝わってくる深い精神性を見逃さず表現する独自の絵画様式を確立し、のちに「道路と土手と塀」や「麗子微笑」などの重要文化財となるような西洋式絵画を手掛けるようになりました。

 岸田劉生は、明治時代に活躍した新聞記者で実業家の岸田吟香と妻の勝子との間に生まれ、東京高等師範学校付属の小学校、中学校に通いながら独自に絵画を学びました。

 岸田劉生は潔癖症で熱心なキリスト教信者としても知られており、作品にも影響を与えていたといわれています。

 また、白樺派の武者小路実篤やイギリスのバーナード・リーチなどとも交流があり、それはこれまでの表現方法から劇的に変化する大きな出会いとなり、印象派のゴッホなどの影響を大きく受けました。

 のちにルネサンス芸術やバロック様式、ロマン主義などの表現手法の影響を受けながら自身の様式の確立に励みました。

 岸田劉生の最盛期は結核の疑いで神奈川県藤沢町鵠沼にて療養中だった頃とされています。
 
 鵠沼の別荘は友人である武者小路実篤の物件でしたが、庭に土俵を造り来客者と相撲をとるほど豪快であったといわれています。

 この頃からの作品は病気のためか、人物画や静物画が多くなり、娘の肖像画を描くようになり、多くの麗子像を残しています。


いわの美術株式会社
岸田劉生 静物画
https://iwano.biz/results/r-picture/post_4928.html

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2019年10月03日

没後90年記念 岸田劉生展

 海外から新たな絵画が伝わった明治末から大正時代、ひたむきに“美”と向き合い、「麗子像」など独自の絵画を打ち立てた岸田劉生(1891 - 1929)。
 劉生が生まれ育った銀座を中心に巡りました。

[写真]
銀座4丁目交差点。この奥、中央通り沿いの銀座ど真ん中で岸田劉生は生まれ育った。

東京・丸の内/東京ステーションギャラリー


[写真]
東京ステーションギャラリー「没後90年記念 岸田劉生展」会場。右は「道路と土手と塀(切通之写生)」1915年 東京国立近代美術館所蔵 重要文化財

「麗子坐像」1921年 メナード美術館(左端)他、ずらりと並んだ愛娘「麗子」の作品。


 38歳で他界した劉生のメモリアル・イヤーにあたる今年、東京・丸の内の東京ステーションギャラリーでは、「没後90年記念 岸田劉生展」が開催されています(10月20日まで)。

 初期の水彩画から、写実の時期の名作。
 さらに、日本画を試みた時期の掛け軸、最晩年に描いた満州での風景画まで、劉生が追い求めた“美”を代表作の変遷から一望することができます。

「時代ごとに分かれているので、劉生のそのときどきの個展の会場をタイムスリップして巡っているような気分を味わっていただけるかもしれません」
(東京ステーションギャラリー 学芸室長・田中晴子さん)

 9月29日放送の番組「日曜美術館『異端児、駆け抜ける!岸田劉生』」では、「道路と土手と塀(切通之写生)」(1915年 東京国立近代美術館所蔵 重要文化財)など、写実的な傾向が強い時期の作品を深く掘り下げましたが、日美旅では劉生が生まれ育った銀座から旅をスタートし、若き日に親しんだ場所を訪ねてみます。

銀座・中央通り

[写真]
銀座4丁目交差点付近。劉生の回想録に登場する老舗のパン屋、楽器店、書店が軒を連ねる。

中央通りに交差する柳通りから、劉生の実家があった銀座2丁目界わいを眺める。

劉生が銀座界わいの思い出を記した随筆「新古細句銀座通」挿絵、劉生の実家・楽善堂の図。


 岸田劉生は、『東京日日新聞』の記者でありさまざまな商いも手掛けた岸田吟香(ぎんこう)の四男として、銀座の薬局兼書道用品店「楽善堂」に生まれました。
 銀座を走る「鉄道馬車の鈴の音を聞きながら、青年時代までそこで育ってきた」劉生は楽善堂周辺の思い出を、のちに「新古細句銀座通」(しんこざいくぎんざれんがのみち)と題した新聞連載に挿画とともに記しています。

 銀座中央通りが歩行者天国になる週末の昼下がり、のんびりと「銀ぶら」をしてみました。
 銀座の中心地、銀座4丁目交差点から劉生の生家があった辺りに向かって、パン店、楽器店、書店など、随筆で目にした屋号が軒を連ねることに気が付きます。
 劉生がユーモラスにつづった、パン食熱が高まった時代の出店競争のエピソードなどが思い出され、90年近い時を経て、いまだにお店が続いていることが感慨深く思えてきます。

[写真]
関東大震災で失われたレンガを組み込んだ「金春通り煉瓦遺構の碑」

「新古細句銀座通」が世に出た1927年、劉生が「忘れられない懐かしいものの一つ」と回想する、雑多な品々を商う勧工場(かんこうば)など、明治期を代表する風物はすでに失われていました。
 さらに、その4年前に発生した関東大震災によって、明治の初めに築かれた美しい煉瓦(れんが)街も壊滅しました。
 掘り出された当時の赤レンガの一部が、金春(こんぱる)通りで記念碑として保存されているのを見かけました。

[写真]
劉生が楽しみにした縁日の立った出世地蔵尊。現在は百貨店のテラスガーデンに立つ(右は大型複製像。ご本尊は例大祭と毎月7日のみ公開)。

 劉生が「旧日本の美の尤(もっと)もなるひとつ」とたたえた縁日の立った銀座4丁目横丁の「出世地蔵尊」は、震災と空襲を逃れ、現在では百貨店のテラスガーデンに移され、明治期の銀座の風情を伝えています(通常は大型複製像が鎮座していますが、毎月7日にご本尊が開帳されます)。

虎ノ門界わい

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外堀通りを経由して、画学生時代の劉生がよく訪れた日比谷・虎ノ門方面へ向かう。

 劉生の人生に大きな変化が訪れたのは、14歳のときのことです。

 両親が相次いで他界し、兄が継いだ生家の事業にもかげりが見えてきました。

 両親の死をきっかけに、劉生はキリスト教へ厚い信仰を抱くようになります。

 牧師を志しましたが師と慕った人に反対され、1908年、17歳のときに当時、赤坂葵橋(現在の虎ノ門2丁目)にあった黒田清輝が主宰する白馬会洋画研究所に通い始めました。

 当時の劉生のように、銀座から虎ノ門方面に足をのばしてみました。

[写真]
虎ノ門。工部大学校跡の碑。劉生が描いた、白馬会洋画研究所近くの洋館があった辺り。

 白馬会洋画研究所に進んだものの、アカデミックな教育になじめなかった劉生は、相撲ばかりとっていたと言われています。

 記録魔で生涯膨大な日記を残したことで知られる劉生ですが、その頃の日記にはキリストへの思慕とともに、宗教的な葛藤が重苦しいほどにつづられています。

 当時まだ劉生は信仰を捨てていたわけではなく、むしろ伝導のために絵を修得し「キリストの足跡を追ってパレスチナに向かい、その生涯を描いて死にたい」という夢想を胸に秘めていたほどでした。

日比谷公園

[写真]
西側に面している霞門(かすみもん)。

第一花壇。後ろのバンガロー風建物は1910年建築の公園事務所(現在は結婚式場)。

開園とともに創立した洋食店・松本楼。公園設計者・本多静六が首を賭けてまで伐採から守った、通称「首賭けイチョウ」がそびえ立つ。


 1911年、劉生にとって第2の転機となる出来事が起こります。

 春から愛読しはじめた文芸・美術雑誌『白樺』を通して、ゴッホを知ったことでした。

「自然を自己の眼で見る事を教えられた。それは宗教的な感じを自分に興さした」――ゴッホの芸術との出会いを、劉生はまるで新しい神の降臨のように表わしています。

 この年の12月、後に親友となる画家・木村荘八は劉生との出会いを次のように回想しています。

 同じ白馬会洋画研究所に通っていた荘八が、研究所からほど近い日比谷公園で日課の写生をしていると、いつまでも後ろで「貧乏ゆすりをしながら肩の絵の具箱をガタガタ云わせている『研究所の人』」の存在に気がつきます。

 初めて会話を交わしたにもかかわらず、ゴッホを巡って意気投合した二人は、劉生は銀座、木村は東銀座の歌舞伎座向かいと近所に住んでいたこともあり、すぐにお互いの家を行き来するようになりました。

 二人の画家が出会った日比谷公園の第一花壇を訪ねました。

 ドイツ留学から帰った林学博士で造園家の本多静六による幾何学的なデザインは、1903年の開園当初から、ほぼそのままに保たれているそうです。

 この日は巨大なユッカの花が咲き乱れていました。

 洋花が人々の目に触れる機会が少なかった明治時代、第一花壇に咲くバラやチューリップなどの洋花は、野外音楽堂の洋楽、松本楼の洋食とともに、日比谷公園のシンボルである「三つの洋」の一角をなし、人気スポットのひとつでした。

築地

[写真]
劉生が一時期好んで描いた築地居留地の風景。東京ステーションギャラリー「没後90年記念 岸田劉生展」会場より。

 画家として独自の歩みを始めた頃、劉生がよく描いた風景に築地旧居留地があります。

 築地の顔だった卸売市場は昨年2018年に移転しましたが、幕末から明治にかけての築地(現在の明石町)は、商社や領事館が立ち並ぶ外国人居留地だったことは忘れられがちです。

 劉生は木村荘八とともに、しばしば旧居留地で写生を行いました。

 エキゾチックな旧居留地の風景は、当時傾倒していたゴッホを思わせる激しい筆跡と鮮烈な色彩で描かれています。

「ここに来るとへんに余はセンチメンタルになる」

 旧居留地の風景は劉生を深く魅了したのか、神奈川県藤沢市鵠沼に転居した後にも、木村とともに散策に訪れています。

[写真]
かつての築地外国人居留地を貫く居留地通り。右手にそびえるのは聖ルカ礼拝堂。

トイスラー記念館(非公開)。聖路加国際病院創立者のトイスラー院長が米国から招へいした医療・看護分野の教育者や女性宣教師が大正期に滞在した。

1874年創立のカトリック築地教会。現在は聖堂の耐震工事中。


 関東大震災で、築地旧居留地の建物の多くは失われました。

 それでも、旧居留地を貫く「居留地通り」界わいで出会う洋風建築の姿からは、劉生が「センチメンタルになる」と記した、在りし日の面影が感じられます。

再び銀座

[写真]
銀座もそろそろ日が落ちる時間。画面右端あたりにかつて劉生の実家があった。

「新古細句銀座通」より「毛断嬢之図」。「毛断嬢」つまりモダンガール。だじゃれの達人劉生ならではのネーミング。


 夕闇が迫る頃、再び銀座に戻りました。

 先に紹介した随筆「新古細句銀座通」の中で、劉生は銀座をかっ歩するおかっぱ頭のモダンガールたちを「毛断嬢」というだじゃれの呼び名で風刺しています。

 彼女たちが集うカフェの名前はクモトラ、漢字で書けば「雲虎」、音読みすると……。つまりあれです!

 モダンガールの美を「味わわしめない美」「いそがしい美」とこき下ろした劉生は、この随筆が『東京日日新聞』に掲載された1927年、写実から離れ東洋的な「内なる美」を追求し始めてから5年以上が経っていました。
 38歳の短い生涯を終える2年前のことです。

 「内なる美」を求道者のように究めるべく制作を続けた劉生。
 その眼差しが培われた銀座を中心に、若き日の劉生の足跡をぜひたどってください。

[写真]
カフェー・ライオンが前身のビアホールが、今も銀座七丁目にある。

 旅の最後に生ビールを一杯。

 劉生がよく生ビールを飲みにでかけたカフェー・ライオンの流れをくむビアホールが、中央通り沿い、銀座七丁目にあります。
 1934年開店当時のたたずまいを守っている現存する日本最古のビアホールです。

「高村光太郎君に会いビールのコップを林立させた」という劉生のエピソードがよみがえります。

※ 展覧会情報
◎ 東京ステーションギャラリーでは「没後90年記念 岸田劉生展」が開催中です。10月20日まで。
同展は山口県立美術館(11月2日〜12月22日)、名古屋市美術館(2020年1月8日〜3月1日)に巡回します。
◎ 八王子市夢美術館では「素描礼讃 岸田劉生と木村荘八」が開催中です。11月4日まで。
同展は小杉放菴記念日光美術館(2020年9月5日〜10月25日)に巡回します。

※ インフォメーション
◎ 中央通り銀座地区歩行者天国
銀座通り口交差点から銀座8丁目交差点までの間
実施日時 土曜、日曜、休日 12時〜午後6時(4月〜9月)、12時〜午後5時(10月〜3月)
JR「新橋」駅から徒歩2分。東京メトロ銀座線「銀座」駅から徒歩すぐ。

◎ 東京ステーションギャラリー
東京都千代田区丸の内1-9-1
開館時間 午前10時〜午後6時(金曜日は午前10時〜午後8時、入館は閉館30分前まで)
アクセス JR「東京」駅から徒歩すぐ。東京メトロ丸の内線「東京」駅から徒歩3分。東京メトロ東西線「大手町」駅から徒歩5分。東京メトロ千代田線「二重橋前」駅から徒歩7分。

◎ 日比谷公園
東京都千代田区日比谷公園
常時開園
アクセス 東京メトロ丸ノ内線・千代田線「霞ヶ関」駅、東京メトロ日比谷線・千代田線「日比谷」駅、都営地下鉄三田線「日比谷」駅から徒歩すぐ。JR「有楽町」駅から徒歩8分。

◎ 金春通り煉瓦遺構の碑
東京都中央区銀座8-7
アクセス JR新橋駅から徒歩2分。東京メトロ銀座線「銀座」駅から徒歩8分。

◎ 銀座出世地蔵尊
東京都中央区銀座4-6-16 銀座三越9階テラスガーデン
見学時間 午前10時〜午後8時。通常見学できるのは、大型複製像。本尊は4月、10月の例大祭と毎月7日(土・日の場合は前金曜日)
アクセス JR東京メトロ銀座線・丸の内線・日比谷線「銀座」駅から徒歩すぐ。JR有楽町駅から徒歩9分。

NHK・出かけよう・日美旅、2019年9月29日
第100回
銀座・日比谷・築地へ
岸田劉生若き日の足跡をたどる旅

https://www.nhk.or.jp/nichibi-blog/400/413111.html

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自民党議員の「右傾化」

 自民党はどう変化をしてきたのか。
 野党に求められるのは何か。
 既成政党は、有権者の声に耳を傾けているか――。

 朝日新聞社は2019年9月23日、朝日・東大共同調査の15周年記念トークイベント「政党はどこに向かうのか」を東京本社で開き、160人が来場した。
 蒲島郁夫熊本県知事(東京大学名誉教授)と谷口将紀東大教授を招き、15年間の調査で見えてきた日本政治の動きや展望を語ってもらった。

 朝日新聞は東大谷口研究室と共同で国政選挙を調査しており、候補者や有権者に様々な政策への考えを聞き、分析結果を報道してきた。
 2003年に開始し、2005年までは当時東大教授だった蒲島知事が東大側で調査を担当していた。

 イベントの第1部では、まず蒲島氏が講演し、2008年に熊本県知事へ転身した経緯を説明。
「政治は可能性の芸術だ。不可能を可能にするのが政治だという思いで県政にあたっている」と述べ、政治学者の知見を熊本地震の復興など県政の場に生かしてきた事例を語った。

 続いて谷口教授が、これまで蓄積した共同調査の分析結果を発表。
 衆院議員の「イデオロギー分布」を示し、そのピークが有権者よりも「右寄り」であることを指摘したうえで、自民党議員の「右傾化」によって、有権者との距離が2012年衆院選以降拡大したと説明した。

 自民党が有権者と政策的に距離がありながら支持を得られている理由に経済政策への評価を挙げて、
安倍政権はアベノミクスで政治的な『貯金』を作り、憲法や集団的自衛権など有権者と距離のある政策の実行に使っている」と述べた。

 また、会派統一で合意した立憲民主党と国民民主党についても言及。
 7月の参院選の両党の候補者を比較すると、25の争点のうち、11〜15で統計的に有意な差があったという。
 しかし、自民党と公明党の候補者では、16〜19の争点で有意な差が認められたことを受け、
自公はこれでも10年以上連立を組めるのだから、立憲と国民に求めるべきは、政策をぴったり一致させることより、(民進党の分裂などで)失われた相互の信頼の回復だ」と指摘した。

 第2部の各論では、進行役が既成政党への不信が世界的に高まっている現状について質問。
 谷口氏は「政党には有権者へ情報を提供し、ときには有権者を説得する機能がある。社会保障の問題など長期間にわたる政策を完遂できる主体は今のところ政党しかない」と主張した。
 一方、蒲島知事はカナダの政治学者で自由党党首を務めたマイケル・イグナティエフを引き合いに「優れた政治学者が優れた政治家になれないのは、政党の党議拘束があるからだと思う」と指摘。自らの知事選挙について「私は政党の推薦も公認も求めず、(各党と)等距離という形でやっている。精神の自由を持てるので県民本位の知事になれる」と語り、国会議員との違いを指摘した。

 また、7月の参院選で「れいわ新選組」や「NHKから国民を守る党(N国)」が躍進したことについて、朝日新聞政治部の蔵前勝久記者は、「風頼みの政治、空中戦に頼る政治の行き着く先が、ユーチューブに頼ったN国だ。れいわの躍進は、既成政党が政争ばかりやっていて、自分たちの声が反映されないといった、有権者からの反発があったのでは」と解説した。
 蒲島氏は、
「れいわは消費税廃止、最低賃金の引き上げ、奨学金の返済免除など受けのいい政策を訴えた。しかし、政権をとれるような政党になったとき、長期的にそれでやっていけるのか」と課題を指摘した。


[写真]
トークイベントで発言する谷口将紀東大教授(右)と蒲島郁夫熊本県知事(左)=9月23日、朝日新聞東京本社・読者ホール

朝日新聞、2019年10月1日17時23分
朝日東大調査15年
蒲島熊本知事・谷口東大教授ら議論

https://digital.asahi.com/articles/ASM9Z3R84M9ZUTFK004.html

 熊本県鹿本町(現山鹿市)に江戸時代末ごろから残る民家で9人兄弟の7番目として生まれ育った。
 両親は旧満州(中国東北部)から無一文で引き揚げて祖母の元に身を寄せ、そこで私が生まれたのだ。

 民家と言っても土間と8畳2間に4畳半1間しかない小作農が住んでいたようなボロ家。
 そこに祖母と両親、兄弟合わせて10人ほどが住み、2反2畝(約2200平方メートル)の田んぼを耕して生活していたのだから、並大抵の貧乏暮らしではない。

 小学生のころには日本の復興も進んでいたが、我が家は白いご飯が食べられない。
 弁当も1人だけアワの混じった黄色いご飯で「卵ごはんだ」とからかわれたりもした。
 母が遠足のために買ってくれたズック靴が赤色で、墨を塗って黒くしたこともある。

 そうした暮らしの中の楽しみは読書だった。
 小学校3年生の時に兄が借りてくれた「レ・ミゼラブル」に感動したのをきっかけに、図書館の本をあらかた読んでしまったほどだ。
 貧乏で家には何もなかったので、読書と屋外で遊ぶことくらいしか楽しみがなかったのだが、今、考えるとそれが良かったのかもしれない。

 高校時代は学校に行かず、よく通学途中の丘に立っていた一本松の根元で本を読んでいた。
 学校の成績は悪く「落ちこぼれ」だったが、「阿蘇山の麓で牧場をやりたい」「小説家になりたい」「政治家になりたい」という夢を持ったのは読んだ本の影響だ。

 生家はもとは熊本市長を務めた星子敏雄さんの所有で、父が星子さんと尋常高等小学校時代の友人だった縁でタダで貸していただいたものだった。
 星子さんは戦前、満州国で警察庁長官にあたる警務総局長を務め、実力者の甘粕正彦氏の妹婿でもあった。
 父は星子さんの身近にいたため、姉が甘粕氏の自動車に同乗させてもらったこともある。

 また星子さんのお母さんから「この家は住んでいるときはひどく貧乏するが、ここを出ると成功する」という話も聞かされた。
 最初に住んだのは熊本県の製糸業の父と言われた熊本製糸の創業者、長野濬平氏だったという。

 当時は早く抜け出したいと思っていた生家だが、こうしたさまざまな広がりを持っていたことを知ると不思議な気持ちがする。
 現在は誰も住んでいないが、時々、訪れて初心を忘れないようにしている。

※ 蒲島郁夫(かばしま・いくお)
1947年熊本県生まれ。高校卒業後、農協職員を経て派米農業研修生に応募、ネブラスカ大で畜産学、ハーバード大で政治学を学ぶ。筑波大教授、東大教授を歴任し2008年熊本県知事に初当選、現在2期目。


[写真]
江戸時代末にたった生家は、風が強く吹くと揺れるほどだった

日本経済新聞・夕刊、2012/10/15付
熊本県知事 蒲島郁夫(1)
小さな生家
https://www.nikkei.com/article/DGKDZO47261290V11C12A0BE0P00/

 この写真はハーバード大学の中庭にある大学の創設者、ジョン・ハーバードの像だ。
 米国にはやる気のある者にはチャンスを与えよう、という精神がある。
 そして結果を出せば、奨学金など実のある形で認めてくれる。
 私がハーバード大大学院で学べたのも、そうした米国の精神のおかげだ。

 渡米したのは高校を卒業して地元の農業協同組合に2年ほど勤めてから。
 農協の仕事になじめずにいた私は「阿蘇山の麓で牧場をやりたい」という夢を実現しようと派米農業研修生に応募した。
 農家での研修は厳しくまるで農奴のような生活だったが、研修の最後にネブラスカ大学で受けた畜産学の学科研修が楽しく、もっと勉強したいと思うようになった。

 24歳で再渡米しネブラスカ大農学部を受験したが不合格。
 しかし研修時の先生が私のやる気を買って推薦してくれたおかげで仮入学できた。
 必死に勉強してよい成績を収めると、いきなり特待生になり奨学金も支給してくれた。
 大学院に進む時に「勉強するなら一番好きな政治学をやりたい」とハーバード大を志望したが、この時も畜産学の指導教授だったジーママン先生に推薦してもらった。

 ハーバード大ではヴァーバ先生やライシャワー先生、ハンチントン先生といった著名な先生たちから指導を受けた。

 最初にとったヴァーバ先生の講義では、あるとき米国の植民地時代の政治を扱った分厚い本を読んで内容を報告することになったが、誰も手を挙げない。
 思い切って私が手を挙げ、翌週、報告したことで、厳しいヴァーバ先生に存在を認めてもらえた。
 後に奨学金付きのポストを提供してもらえたのも、ライシャワー先生やヴァーバ先生の推薦があったからだ。
 この奨学金で学業に専念でき、通常は5〜7年かかる博士論文を3年9カ月という短期間で仕上げることができた。

「文明の衝突」で有名になったハンチントン先生は、先生の理論を批判した私のゼミ論文を認め、学術雑誌に投稿すべきだと勧めてくれた。
 ハーバード大には本当に世話になったと感謝している。


[写真]
ハーバード大大学院の博士課程で政治学を学んだ

日本経済新聞・夕刊、2012/10/16付
熊本県知事 蒲島郁夫(2)
ハーバード大での研究生活
https://www.nikkei.com/article/DGKDZO47274750V11C12A0BE0P00/

 ハーバード大在学中は奨学金をもらっていたものの、妻と3人の子どもを抱えていたので、それだけでは生活していけない。
 勉強が忙しくアルバイトなどしている時間はないと忠告されたが、ガイドや通訳のアルバイトとともに古切手の売買をして生活の足しにしていた。

 米国には第2次世界大戦後に進駐軍が持ち帰った日本の切手が大量に残っていた。
 使用済み切手でも珍しい消印が押されていると高く売れるのだが、米国の切手商は日本語が読めないのでひと山いくらで売っていた。
 そうした切手をまとめて買い、日本の切手商に送ってオークションにかけてもらうのだ。

 なかには1ドルで買った明治時代の封書に珍しい消印が押されていて、17万円で売れたことがある。
 また当時は為替が変動相場制になって、大きく円高に動いていた時期。
 アメリカの切手カタログの値段は、日本のカタログ価格を前年の為替レートで換算してあったので、為替差益も大きかった。
 逆ににせものの高額切手をつかまされたこともある。
 切手の売買は生涯で唯一のビジネス経験だが、知識がお金になるプロセスをここで学んだ。

 高額切手や未使用の新品は売れにくく、価値は高くても顧客が求めている商品でないと売れないことも知った。
 写真の飛行郵便試行記念切手は当時のカタログで青は10万円、赤は17万円の価格がついていたものを4万円スタートでオークションに出したが売れなかった。
 一度売れ残るとあらためて売りに出す気にならず、今も手元に残している。

 切手を日本に送るときは、切手の種類やオークションの開始金額などを書き込んだリストを作って同封した。
 売れるとそのリストに落札価格が書き込まれて戻ってくる。
 買った切手をひとつひとつ丁寧に仕分けしてリストを作る作業は妻が手伝ってくれた。

 妻とは大学1年生の時に結婚し、勉強でも論文のタイプなどを手伝ってくれ、二人三脚で学んだようなものだ。
 売れ残った切手と一緒にリストも保存しているが、米国での学業と家計を支えてくれた妻には心から感謝している。


[写真]
一部の切手は今も手元に残る

日本経済新聞・夕刊、2012/10/17付
熊本県知事 蒲島郁夫(3)
米国生活支えた古切手
https://www.nikkei.com/article/DGKDZO47322060W2A011C1BE0P00/

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大阪大学出版会「分断社会と若者の今」

「若者論」はあるあるネタで終わる

 若者の自民党支持論には、いくつかのパターンがある。
「若者の保守化」「現状を肯定したいから」「安倍政権以降、一応は好転した就職市場の影響」あるいは「自民党の戦略に若者がダマされている論」まで。

 枝野幸男氏は立憲民主党を立ち上げる前、つまり最後の民主党代表選を前に、私のインタビューで「よく取り上げられ、名前を知っている政党が自民党だからという要素が大きいからだ」と語っていた。

サンプルは自分に「身近な若者」

 さて。
 若者論は誰でも語ることができる。

 新入社員が飲み会でビールを飲まなかったとしよう。そこに若者のビール消費量が減っているというニュースが絡めば、「最近の若者はビール離れである。なぜなら〜」と経験から語ることができると言えば分かるだろうか。

 語られているほうも、聞いているほうも思い浮かべるのは、自分の身近にいる「最近の若者」であり、厳密な定義をして語ろうとはしない。
 そもそも、若者は何歳代までを指しているのか。
 大卒なのか、高卒なのか。正社員なのか、非正規なのか。男性か女性かーー。

 自民党支持論も多くは同じだ。
 若者論は「あるある」ネタとして消費されていく。

実証から「若者」に迫れ!

『分断社会と若者の今』(大阪大学出版会、2019年4月)は、こうした状況において、極めて貴重な、実証的データに基づき若者論を展開した1冊だ。

 編者の一人、大阪大の吉川徹は、高卒と大卒という学歴によって引かれる「線」が日本における最大の分断だと主張してきた社会学者である。
 吉川が展開する若者論の特徴は、大規模な社会意識調査―それも面接調査―をベースにしていることにある。
 印象論や、安易な推測ではない。
かつて、私のインタビューに吉川はこんな話をしていた。
《大卒は大卒同士で、非大卒はそこでかたまり、それぞれまったく違う文化のなかで生活をしている。いってしまえば、違う日本社会で生きている。自分とその周囲の視点だけでみる「日本」はかなり偏っている可能性がある。

「日本社会をケーキで例えると、下半分はスポンジケーキで、その上にミルフィーユがのっているんですよ。下は非大卒で、上は大卒ですね。大卒の人たちは細かい階層にわかれていて、どこの大学を卒業したかを学歴だと思っているんですね。それは『学校歴』であり、学歴ではありません。大きな勘違いです」》

《「奨学金を出すのもいいのですが、生まれ育った家庭の文化的影響は0にはなりません。解決しないといけないのは、分断によって大卒だけが有利になる社会であって、全員が大卒になる社会ではないのです」》

 同書で使われるのも2015年の大規模面接調査だ。
 彼らは若年層を20代〜30代とし、多様な分析を試みている。

 その白眉が第3章「若者はなぜ自民党を支持するのか」だ。
 担当した松谷満が指摘するように、若者の自民党支持が注目されるのは、先進諸国と比べて不思議な現象だからである。

若者の政治離れの正体

 これまでの自民党は明らかに高齢者の政党だったし、諸外国でも保守政党は高齢者を支持基盤にするものと相場が決まっている。
 加えて、安倍政権は若者の支持を得やすい急進的な改革派ではない。
 だから、若者の自民党支持はますます不思議な現象なのだ。

 松谷らが明らかにしているように、「若者の政治離れ」は「若者全体」の傾向ではない。
 より顕著なのは、「非大卒」の若者の政治離れだ。
 示唆されているのは「持てる若者」と「持たざる若者」の間の分断だ。

自民党を支持する「若者」とは誰なのか?

 結論から言えば、若者の自民党支持は、壮年層と比べて下げ止まっている。
 データからは高学歴で正社員、特に大企業のホワイトカラー層で支持が強まっていることが観察できた。

 研究者が背景にあると考えているのは社会意識だ。
 若者の自民党支持はイデオロギーとは結びついていない。
 保守政党と相性が良い伝統主義、権威主義的な意識は弱いからだ。
 関連していると考えられるのは3つ。
 物質主義、新自由主義、宿命主義だ。

 物質主義とは、経済をより重視する意識と言い換えることができる。
 これまでの積み上げられてきた政治学の理論では、経済成長で社会が豊かになると人々の意識は経済よりも、文化や環境といった脱物質主義へと向かうと説明されてきたが、日本の若年層はより経済を重視している。

 新自由主義は、市場への政府の介入を最小限にし、より個人間の競争が重視する価値観だ。
 市場の中で勝てる人びと=持てる人びとにとっては、共感しやすい価値観だと言えるだろう。

 宿命主義は「いくら努力しても報われず、あらかじめ家庭環境等によって人生は決められている」という価値観である。
 行き着く先は、政治に期待することもせず、努力しても無駄だから自民党でいいという価値観だ。

宿命を乗り越えられるか?

 自民党支持の背景をイデオロギーではなく、社会意識から実証的に読み解くという同書のアプローチは説得力を持っている。

 市場の中で勝てる者=持てる若者は新自由主義から、もう少し幅を広げて宿命主義的な価値観の若者から、消極的な支持を得ているのが自民党ということが言えるのではないか。

 特に宿命主義が実証的に証明されたことは大きい意味を持つ。

 松谷も指摘するように自民党支持というよりは、消極的な既存の政治秩序の承認という意味合いが強い。
 だとするならば、この分析をより深刻に受け止めないといけないのは野党である。

「意識高い系」ばかりを重視する野党

 この夏の参院選で、立憲民主党は私からすれば都市部に住む「意識高い系」ばかりを重視するような政策を並べて失敗した。

 代わって注目されたのは、「持たざる者」に消費税減税という「物質主義」的なアプローチで議席獲得に成功した、山本太郎率いる左派ポピュリズム政党・れいわ新撰組だった。

「持てる者たち」が支持する自民党か、「持たざる者」の反乱としてのポピュリズムか。
 そんな選択肢しかない社会でいいのだろうか。

 若者に広がる宿命主義、そして分断は政治への失望を通り越し、絶望を招く要因になっていくだろう。

 何をしても無駄、だって生まれた家ですべてが決まっていくのだから――。結局、日本の若者の政治参加が進まないのは、諦念に理由がある。

 では、諦念を生み出しのは誰なのだろうか?
 声をあげても無駄だと思わせる政治の側にあるのではないか。

 この先重要なのは、別の希望を指し示していくことだ。

 社会は変わるという成功体験が積み上がれば宿命主義は弱まっていくのではないだろうか。

 そこで最も重要なのは、物質主義と真剣に向き合うこと。つまり、経済への希望だと思うのだが……。


[写真-1]
自民党本部に掲げられた画家の天野喜孝氏が「新時代の幕開け」をテーマに描いた広告ポスター、Jiji Press

[写真-2]
Members of protest group Students Emergency Action for Liberal Democracy (SEALDs), REUTERS

[写真-3]
Man looks at a stock quotation board outside a brokerage in Tokyo, REUTERS

ハフィントンポスト、2019年10月02日 07時14分 JST
なぜ若者は自民党を支持するのか?
キーワードは「努力しても無駄」な宿命型社会
若い人の「自民支持」をめぐっては、多くの憶説が飛び交っていた。
社会調査に基づく実証的な研究がやっと出てきた。

(石戸 諭、ハフポスト日本版レポーター)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/jimin-wakamono-shiji_jp_5d8dde5de4b0019647a6c6ab

 ツイッターに、
「私の通う高校では前回の参院選の際も昼食の時間に政治の話をしていたりしていたのできちんと自分で考えて投票してくれると信じています。もちろん今の政権の問題はたくさん話しました」
と書いた投稿者(おそらく高校生)がいた。
 それに対して柴山昌彦前文部科学相は、
「こうした行為は適切でしょうか?」
とツイートした。

 言うまでもなく、18歳から選挙権をもつようになった現在、高校生が昼食時間に政治について話しあったりすることは、きわめて適切だ。
 それに口を挟んだ側のほうが、主権者とは何かについて全く理解していないのである。

 教育行政のトップがこの体たらくである日本で、先の高校生のような若者はむしろ希少だろう。
 事実、7月の参院選でも投票率は全体では49%だが(これも低すぎるが)、18歳は35%、19歳は28%にすぎない。
 若者の中で「政治」への関心は霞(かす)んでいるように見える。

 また、参院選直後の朝日新聞の世論調査によれば、内閣支持率は男性で、
・ 29歳以下55%、
・ 30代57%、
・ 40代・50代45%、
・ 60代41%、
・ 70歳以上40%
(女性は70歳以上を除きすべて30%台)と、男性の30代以下で高い。

矛盾する意識

 投票には行かず政権は支持するという傾向が、なぜ若年男性にはみられるのか。

 吉川徹・狭間諒多朗編『分断社会と若者の今』第3章では、2015年時点の調査データを用いて若年層が自民党を支持する要因を分析し、「社会的地位は家庭や親で決まる」という意識、経済成長や競争を重視する意識が背後にあると結論している。
 一見矛盾する、あきらめと経済至上主義が、若者(特に男性)の現状肯定を生み出していることがうかがわれる。

 しかしその後、アベノミクスは実質賃金の上昇をもたらしていないこともすでに明らかになっている。
 とりあえず長いものに巻かれていれば生活が苦しくなくなるわけではない。
 内政も外交もぐだぐだな国を、目をつぶって肯定し続けることほど愚かなことはない。

「愛国」とは何か

 将基面(しょうぎめん)貴巳『日本国民のための愛国の教科書』(百万年書房、2019年7月)は、ただしい「愛国」とは、偏狭な〈ナショナリズム的パトリオティズム〉ではなく、〈共和主義的パトリオティズム〉だと説く。
 それは、現実の政治の長所も短所も直視し、国がうまくいっていないときにはそれを批判し事態の改善を図ろうとすることだ。
 日本の若者の政治への関心を喚起するためには、こうした「教科書」が、教育現場で基本教材として使われることが、まずは必要だろう。

 しかしそれでもまだ足りない。
 川崎一彦ほか『みんなの教育 スウェーデンの「人を育てる」国家戦略』(ミツイパブリッシング、2018年3月)第4章が伝えるように、
学校のすべての授業が民主的方法で行われ、生徒たちが社会の土台となる権利と影響を行使するとともにその責任を取る力を育めるようにすることが理想である。
 ルールも生徒たちが決める。
 選挙権を手にする前から「学校選挙」で実際の政党に投票する。
 そのために政治家とも対話する。
 結果も公開する。
「日本ではありえない!」と肩をすくめるのではなく、不合理な細かすぎる指導や校則が蔓延(まんえん)している日本の学校のほうが、異常ではないかと考えてみるべきだ。

 しかしそれでもまだ足りない。

 政治家が市民の政治的議論に介入することに留(とど)まらず、家庭でも、職場でも、友人間でも、力をもつ者が他方に屈従を強いるような関係が広がっている。
 明確な自分の意見をもつことさえためらいがちな若者を嘆くのではなく、日々の生活の中にはびこる忌むべき根を除くことこそが急務である。

※ 朝日新聞2019年9月21日掲載


朝日新聞・好書好日、2019.09.25
「教育と政治」を読み解く
あきらめと経済至上主義が現状肯定を生み出していないか

(本田由紀・東京大学教授)
https://book.asahi.com/article/12737305

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第4次安倍再改造内閣

 統一教会と関係の深い議員が多数入閣。
 その一人、<菅原一秀の経産相抜擢に見る、「菅政権」への布石〉でジャーナリストの鈴木エイト氏が、第4次安倍再改造内閣における統一教会系閣僚の顔ぶれをリポートしている。
https://hbol.jp/202072
 同内閣での統一教会(世界平和統一教会)系閣僚は11名。副大臣や政務官、党役員などを含めると総勢21人にものぼる、まさに「カルト内閣」だ。

 しかも今回の内閣では、統一教会以外の問題集団と関わりを持つ議員も多い。
「カルト」と断定すべきかどうかはともかくとして、問題のある宗教団体やニセ科学集団などとの関わりを検証したい。

昭恵夫人も関わる偽歴史教

 閣僚4名、副大臣4名が関わりを持っているのが「不二阿祖山太神宮」(山梨県富士吉田市)。
 偽の古文書とされる「宮下文書」を根拠として、200〜300万年前の富士山麓(富士高天原)に天皇を頂点とする「富士王朝」(古代富士王朝)があったとする世界観を教義としている。
 その文明において天皇家縁の神社だったのが「不二阿祖山太神宮」で、その再建を謳っている。

 人類の誕生は約100万年前と言われている。200〜300万年前と言えば、まだ猿人・アウストラロピテクスの時代。
 天皇を頂点とする王朝などあるはずもない。

 またこの宗教団体は2009年に設立されたもので、そもそも「富士王朝」なるものとは関係がない。
「病気が治る奇跡の水」なるものを販売していた過去もある。

 特に問題なのが、関連NPO法人の名義で年1回開催している「FUJISAN地球フェスタWA」。
 学研『ムー』編集長を講師に招き「富士高天原ツアー」や「富士王朝」に関する講演会を開催するなど、教義に結びつけるような企画を含んでいた年もある。

 このイベントの初期に「代表発起人」と「名誉顧問」を務めてきたのが安倍首相の夫人・昭恵氏だ。
 彼女が関わりを持つようになって以降、多い年には47もの行政機関から後援を取り付けた。
 また70名近い国会議員が顧問などを務める。

 そのうち、今回入閣したのが、田中和コ・復興大臣、武田良太・国家公安委員長、竹本直一・IT担当大臣、西村康稔・経済再生大臣。
 副大臣では義家弘介氏(法務)、牧原秀樹氏(経産)、御法川信英氏(国交、内閣府、復興)。
 政務官では中谷真一氏(外務)、青山周平氏(文科、内閣府、復興)だ。

 田中・復興大臣は2018、2019年の「FUJISAN地球フェスタWA」の特別顧問及び代表発起人で、ほかは全員2015〜2019年の間、連続で顧問等を務めている。

 不二阿祖山太神宮は、いわゆる「カルト」のような事件を起こしているわけではない。
 しかし「FUJISAN地球フェスタWA」は子供連れ客の来場も想定した内容で、教育委員会などの教育関係機関も多い年で17も後援についている。
 しかし、偽史に基づいた宗教イベントに国会議員ばかりか子供まで巻き込んでいるというのは明らかに問題だ。
 カルトというよりニセ科学に近い問題を抱える団体と捉えるべきか。

「偽装勧誘」を行う霊友会

 次に多いのが「霊友会がらみ」だ。
 高市早苗・総務大臣、加藤加藤勝信・厚労大臣、西村康稔・経済再生担当大臣がそれぞれ、過去に自身が代表を務める自民党支部や政治団体から霊友会や関連団体に会費を支払っている。
 小泉進次郎・環境大臣は会費支払いはないものの、2015年に霊友会創立祭に出席した。

 霊友会も「カルト問題」の現場で取り沙汰されることは殆どない。
 しかし勧誘手法にかなり問題がある。

 霊友会は伊豆の山奥の研修施設で定期的に合宿を行っている。
 お題目やお経を唱える完全な宗教合宿だ。
 これに、信者が知人などを誘ってくる。
 ところが、霊友会の宗教合宿であることを知らせないまま知人などを誘って連れてくるケースが複数確認されている。

 正体を隠した勧誘は、統一教会などの典型的なカルト宗教の手法と変わらない。

「幸福の科学大学」認可申請を仲介した萩生田氏

 幸福の科学に関わっている閣僚は萩生田光一・文科大臣1人だけだが、関わり方がややディープだ。

 幸福の科学は2014年に「幸福の科学大学」を開設すべく文科省に認可申請を行った。

 この時、教団側と文科省側の仲介役だったのが萩生田氏だ。

 文科省側から大学の計画内容の変更を求められた際、幸福の科学側が反発。
 そのとき萩生田氏が「学長を変えれば(大学を)開設できる」などという趣旨のアドバイスを幸福の科学側に対して行っていたことが、「幸福の科学大学(仮称)」の公式サイトで教団側が発表した文書で明らかになっている(現在は削除されている)。

 幸福の科学大学は、教祖・大川隆法総裁が霊を呼び出したと称して喋る「霊言」を、科学的に証明されたものとして扱う授業を予定していたことを理由に、認可申請は「不可」とされた。
 また申請過程で関係者が文科省職員を脅すかのような言動をとったり、当時の下村博文・文科大臣の霊をおろしたと称する「霊言」の書籍を文科省の諮問機関である審議会関係者に送りつけるなどしたことから、5年間は認可しないとのペナルティも課された。

 今年2019年に、この「喪」が明ける。
 10月に再び申請を行う予定だ。
 奇しくも、かつて仲介役だった萩生田氏が、今度は文科大臣として申請を受ける側として関わることになる。


 宗教関連でもうひとつ、安倍首相が関わっているのがワールドメイト。
 過去、高額な伏せを支払った信者から訴訟を起こされたり、批判的な報道を行ったジャーナリストや出版社を片っ端から訴えるなどしてきた「訴訟カルト」。
 近年も、天災を予言して、それを防ぐためと称して信者からカネを集めるなどしている。

 こんな教団の教祖・深見東州(本名=半田晴久)の誕生会に、安倍首相は毎年花や祝電を送っている。

ニセ科学やスピリチュアルも

 宗教ではなく「ニセ科学」や「スピリチュアル」と呼ばれる分野の集団との関わりもある。

 高市・総務大臣と橋本聖子・東京五輪担当大臣が参加しているのが、「自民党統合医療推進議員連盟」。
 ほかに副大臣2名、政務官も2名いる。

 統合医療とは、一般的な医療との統合を謳い文句に民間療法を医療分野へと押し上げようとする運動。
 そこには、科学的根拠がすでに否定されている「ホメオパシー」も含まれている。

 ホメオパシーについての詳細は省くが、大まかに言えば単なる砂糖玉(病状を引き起こす成分を希釈震盪したものを配合している、と謳われている)を飲むことで病気が治せると信じている民間療法だ。
 単なる砂糖玉なので、それ自体には害はない。
 しかし推進団体や信奉者の中には通常の医療で使われる薬やワクチンを否定し医療を忌避する者もおり、それゆえの死者も出ている。

 2010年には朝日新聞がこの問題を大々的に報じ、日本学術会議や日本医師会といった科学・医療関係の団体がこぞって、医療現場からのホメオパシー排除を訴える声明を発表する騒ぎも起こった。

 このホメオパシーも含めて推進している業界団体が日本統合医療学会。
 閣僚が加わっている前述の議員連盟は、厚労省などの担当者まで出席させて、この学会の名誉理事長の講演会を開催するなどしてきた。

「親学」と安倍総理の深い関係

 安倍首相と西村大臣は、「親学推進議員連盟」の所属。
 特に安倍首相は議連設立時の会長だ。

 親学とは、日本会議の主要メンバーである教育学者・高橋史朗氏が提唱する子育て論だ。
 当然、復古的傾向が強い内容だが、中でも発達障害は親のしつけが悪いことが原因であり、伝統的な子育てをすることによって予防できるとする主張が、科学的根拠がない誤解や偏見であるとして批判されている。

 民主党政権時代の2012年、一般社団法人「日本発達障害ネットワーク」が親学推進議連の安倍会長宛に、親学の問題を指摘する文書を送付。2014年に成立した第二次安倍改造内閣も、閣僚に4名の議連メンバーがいるとして問題視され新聞でも取り沙汰された。

 2015年に活動を休止した「人間サイエンスの会」という団体がある。
 宗教や神秘体験、「高次元のインスピレーション」等々、あからさまにスピリチュアルなテーマの講演会を173回も開催してきた。

 この団体に関わっていた閣僚は確認できないが、下村博文・党選対委員長は同会の幹事長を務めていた。
 自身が代表を務める自民党東京都第11選挙区支部から2013年に同会への会費1万2000円を支払った記録も、政治資金収支報告書に記載されている。
 宮下一郎・内閣府副大臣も、同会の事務局長だった。

 かねてより批判が多い保守勢力の日本会議や神道政治連盟等も含めると、恐ろしいことに「無傷の閣僚」が1人もいない。
 
 それが第4次安倍再改造内閣の実態なのである。


※ 藤倉善郎(ふじくらよしろう)

1974年、東京生まれ。北海道大学文学部中退。在学中から「北海道大学新聞会」で自己啓発セミナーを取材し、中退後、東京でフリーライターとしてカルト問題のほか、チベット問題やチェルノブイリ・福島第一両原発事故の現場を取材。ライター活動と並行して2009年からニュースサイト「やや日刊カルト新聞」(記者9名)を開設し、主筆として活動。著書に『「カルト宗教」取材したらこうだった』(宝島社新書)

ハーバー・ビジネス・オンライン、2019.09.22
第4次安倍改造内閣の知っておくべき側面。
統一教会系閣僚11人、その他の問題集団との関係も枚挙に暇なし

<取材・文/藤倉善郎>
https://hbol.jp/202356/

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2019年10月02日

「対応問題なし」「万全の対応取る」

 大村入国管理センター(長崎県)で今年2019年6月、収容中の40代のナイジェリア人男性が死亡した問題で、法務省出入国在留管理庁は10月1日、食事や治療を拒否したことによる「飢餓死」だったとする調査結果を公表した。
 男性は一時的に外に出られる「仮放免」などを求めて「ハンガーストライキ」をしており、センター側がハンストを把握してから死亡までの3週間で約13キロも体重が減っていた。

 入管庁によると、入管施設収容中に餓死した事例は初めて。
 同庁は「命に危険が及ぶと再三警告したが、本人が強く治療を拒否した」として、「対応に問題はなかった」としている。

 調査結果によると、男性は2000年に入国。
 窃盗罪などで実刑判決を受け、仮釈放された2015年に大阪の施設に収容され、国外退去命令を受けた。
 2016年に同センターに移送された。

 職員が男性のハンストを把握したのは今年5月末。
 非常勤の医師が点滴や採血をしようとしたが男性は拒否。
 6月上旬までは外部の病院を受診させて点滴を受けさせるなどしたが、男性はその後、センター内外での治療を拒否。
 同8日ごろから部屋で横たわっていることが多くなった。

 体重が約50キロになった同17日には、職員が「このままでは命に危険が及ぶ」と警告したが、男性は治療拒否を継続した。
 診断した医師は「意識を失うか、衰弱し治療拒否できない状態になった段階で救急搬送するしかない」と判断。
 センター幹部も体重が約10キロ減ったと報告を受けていたが、同24日に死亡した。

 司法解剖の結果、身長171センチの男性の死亡時の体重は約47キロ。
 5月末に比べて約13キロ減っていた。
 昨年2018年10月下旬には71キロあった。
 解剖医は「死亡当日、点滴し搬送すれば助かったかもしれないが、可能性は高いとまでは言えない」と指摘している。

 センターは、食事を拒否する収容者は医師の判断で強制的に治療できるとした2001年の法務省通達を、非常勤の医師に知らせていなかった。
 同庁は、非常勤の医師では長時間の栄養補給ができず、近くに適当な病院もなかったなどとして、「強制的な治療は体制上困難だった」とした。

 男性に仮放免を認めなかった理由については、窃盗事件が「組織的で悪質だった」と説明したが、事件内容は公表していない。

 河井克行法相はこの日の会見で「重く受け止めている。常勤医師の継続的な確保など強制的な治療体制の整備を指示した」と述べた。
 同庁によると、仮放免などを求めハンストする収容者は9月末時点で36人いるという。

※ 外国人の長期収容問題
 全国に17ある出入国在留管理庁の施設で、超過滞在などで在留資格を失い、国外退去命令を受けた外国人の収容が長期化。
 本人が難民認定や在留許可を求めて訴訟を起こしたり、当該国が受け入れを拒んだりしていることが原因だ。
 昨年2018年末時点で収容者1246人の半数以上にあたる681人が半年以上収容されており、一時的に外に出られる「仮放免」を求める「ハンガーストライキ」が相次いでいる。
 入管庁は問題解決に向けて有識者で作る検討チームを設置した。
 来年2020年3月をめどに提言をまとめる。

朝日新聞、2019年10月1日11時47分
入管施設での外国人死亡は餓死
入管庁「対応問題なし」

(板橋洋佳)
https://digital.asahi.com/articles/ASM9Z771QM9ZUTIL06Z.html

 ……人が餓死して「対応に問題はなかった」と言える人たちがいる……

 2019年10月1日から消費税の税率が10%に引き上げられたことについて、安倍総理大臣は総理大臣官邸に入る際、すべての人が安心できる全世代型社会保障改革を進める第一歩になるとしたうえで、税率の引き上げに伴う影響を注視し、万全の対応を取っていく考えを示しました。

 この中で安倍総理大臣は「本日の消費税率の引き上げに伴い、幼児教育・保育の無償化がスタートする。そして同時に年金額の少ないお年寄りに対しては年最大6万円の給付を行い、また、介護保険料の軽減が行われる。子どもたちからお年寄りまで、すべての皆さんが安心できる全世代型社会保障制度改革を進める大きな第一歩になる」と述べました。

 そのうえで「引き上げによる影響については、しっかりと注視していくし、万全の対応を取っていく考えだ」と述べました。


NHK News Web、2019年10月1日 10時42分
安倍首相 消費税率引き上げの影響注視 「万全の対応取る」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191001/k10012106741000.html

 ……キャハハハッ!!
 こいつか責任取ったの見たことあるか?
 ん、責任持つ?
 持ってどうするかは言ってないとさ
 アホか、国民馬鹿にするのも大概にしろよ!……

 ……「万全の対応取る」??

「原発の全電源崩壊は起こりえない」
「汚染水は完全プロック」
「原発の状況はアンダーコントロール」
「消えた年金、最後のお一人まで」
・・・

 全部ウソだったじゃないか!……


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2019年10月01日

先崎彰容

[プロデューサーAのおもわく。]

 明治維新の立役者の一人であり「江戸無血開城」等の政治的難事業をなし遂げた稀有な政治家、西郷隆盛。
 晩年こそ反逆者として追われ不遇の最期を遂げたが今なお多くの人から慕われ続けています。
 しかし、特に晩年の行動は謎に包まれており、今でも議論が尽きません。
 西郷を生涯にわたって支えた思想とはどんなものだったのか?
 それを知る上で大きな手がかりがあります。
 生前の彼の言葉が記録されている「南洲翁遺訓」です。

 編纂したのは元庄内藩有志たち。
 西郷の仇敵にあたる庄内藩の人たちが彼の言葉を残そうとしたのは、西郷のはからいにより庄内藩に寛大な処置がとられたからでした。
 その高潔な人格に感動した人びとによる編纂であるため、これまでは「偉人・西郷隆盛」をイメージづける名言集という読まれ方がなされてきました。
 しかし、その言葉の端々に潜む意味を丁寧に読み解くと、西郷が世界史の動向を鋭く見据え、比類のない洞察力で、国家のあり方、文明のあり方、人間のあり方を模索し、新たな時代の指針を打ちたてようとしていたことがわかってきます。
 研究者の先崎彰容さんは、この書が単なる名言集を超えた一級の思想書であり、これまで謎とされてきた西郷晩年の行動の意味を解き明かす鍵を握っているといいます。

 また、その言葉の裏には、せっかく維新を成し遂げたにもかかわらず志を失い私利私欲にふける官僚達、民のことを忘れ権力闘争にあけくれる政治家達、物質的な繁栄のみを追い求めようとする政策等々への、西郷の深い憂いがこめられています。
 この書は、明治新政府への厳しい諫言でもあり、現代社会の問題をも鋭く刺し貫く射程をもっているのです。

 大河ドラマ「西郷どん」の放送がスタートする2018年1月。
 幕末から明治維新への激動期、新しい国づくりのために、51年の人生のすべてを捧げた西郷の言葉から、あるべきリーダーの条件、国家や経済への洞察、困難を乗り越えるための人生の指針など、現代の私たちが学ぶべきメッセージを読み解いていきます。

第1回 揺らぐ時代
放送: 2018年1月8日(月)午後10時25分〜10時50分/Eテレ

 西郷が生きた時代、1830-70年代は、世界で巨大な情報通信革命とエネルギー革命が急速に展開している時代だった。
 一大鉄道網の敷設、大陸間をつなぐ海底電信ケーブルの設置等々、現在でいえばインターネット革命に匹敵するような巨大な地殻変動。
 その余波が超大国ロシア帝国をも揺さぶる時代。
「南洲翁遺訓」を読むと、西郷が世界史的視野からそうした変動を鋭く洞察し、国家がどうあるべきかについてのヴィジョンを模索していたことがわかる。
 こうした激動の時代だからこそ、国家の屋台骨を打ちたて、世界に伍する国柄を明確にせねばならないと考えた西郷は、巨視的な立場から、藩閥政治の利害争いや安易な西洋文明の模倣に対して、鋭い批判を展開する。
 第一回は、西郷の人となりなども交えながら、彼の思想の先見性に迫っていく。

第2回「敬天愛人」の思想
放送: 2018年1月15日(月)午後10時25分〜10時50分/Eテレ

 ともすると、古きよき人生訓やビジネス指針として読まれがちな「敬天愛人」の思想。
 しかし、「南洲翁遺訓」を読み解いていくと、そこには時代を経て培われてきた奥深い思想が秘められていることがわかる。
 そのエッセンスの一つが佐藤一斎らが展開してきた「陽明学」。
 維新が成った結果、人びとの欲望が解放され、経済的利害のみが人びとを動かす行動基準になろうとしていた時代、西郷は、改めて日本人がよって立つべき原理を「天」という概念に求め、旧秩序の崩壊で価値基準が混沌する中、国家の命運をかけた大きな決断を下す際の基準点をぶれることなく持ち続けた。
 第二回は、奄美流罪時代の西郷の苦闘の意味なども交えながら、これまであまり読み取られることのなかった「敬天愛人」の思想の淵源に迫っていく。

第3回「文明」とは何か
放送: 2018年1月22日(月)午後10時25分〜10時50分/Eテレ

「このままでは日本は商法支配所になりさがる」

 私利私欲に走り、そろばん勘定だけを政策決定の基準にしようとしているかにみえる藩閥政治に対して、西郷は鋭い論陣を展開する。
 刑法のあり方、財政のあり方など具体的な指針も交えながら、西欧列強と対峙しうる国家のアイデンティティとは何かを追求し続ける西郷。
 だがその基本姿勢は偏狭な国粋主義と一線を画す。
 彼の思想は、西欧に学ぶべきところは学ぶが、途上国に対する非道さや経済的な打算による威信の軽視を鋭く批判するという文明史的視点に貫かれているのだ。
 第三回は、西郷が思い描いた文明のあり方、国家のあり方の奥深さに迫っていく。

第4回 時代を映す「古典」
放送: 2018年1月29日(月)午後10時25分〜10時50分/Eテレ

 西郷を悲劇の死に追いやった「西南戦争」。
 不平士族たちの思いを背負った西郷が負けとわかって挑んだ戦いと記されることも多いが、先崎彰容さんは、実はこの戦いは、西郷が大きな思想的な課題を成し遂げようとして戦った必然的な戦いだったと考える。
 この戦いには、洋行帰りで西欧の最新知識を吸収した人やルソーに心酔した知識人も参加していた。
 こうした事実と「南洲翁遺訓」を合わせて西郷の行為を読み解くと、官僚独裁が進み排除の論理が横行する新政府に対して行った大きな「抵抗運動」だったと考えられるという。
 時代の転換期ごとに読み返され、福沢諭吉、内村鑑三、三島由紀夫らにも大きな影響を与え続けた西郷の思想。
 第四回は、時代を超えて何度も掘り起こされてきた西郷の思想が、現代の私たちの置かれた状況にとってどんな意味をもっているかを明らかにしていく。

※ NHKテレビテキスト『100分 de 名著、南洲翁遺訓』
……2018年1月(2017年12月25日発売)

[プロヂューサーAのこぼれ話。]

西郷の「抵抗の精神」に学ぶ

 今回、西郷隆盛「南洲翁遺訓」を取り上げようと考えた理由の一つには、もちろん大河ドラマ「西郷どん」の放送がスタートするということがありました。
 世間では、この時期を期に西郷への関心が高まるのは間違いないでしょう。
 ただ場合によっては、ムード先行でお祭り騒ぎになってしまい、西郷が本当に考えぬいたことについて、読み解き、深めていく機会が意外に少なくなってしまうのではないかとも危惧していました。
 どうせやるならば、他の番組やドラマでは描きえないような深みのある解説ができたらと思っていましたが、西郷を新しい視点で解説してもらえるような講師が思い浮かばず、考えあぐねていたのです。
□ □ □
 そんなときに出会ったのが、今回の講師・先崎彰容さんでした。
 ある出版社の方に紹介いただき、先崎さんにお会いしたのが今年2017年4月。
「ナショナリズムの復権」「違和感の正体」などの著作を読んで、その鋭い論客ぶりに注目していた私は、日本の近現代を彩る思想家の数々が先崎さんに解説していただく候補として頭に浮かんでいました。
 しかし、先崎さんは、「取り組むならばしっかりとした準備をしてからにしたい」という強い気持ちをおもちで、私が挙げる思想家のことごとくを「とても興味はあるのですが、解説するには少し時間がかかりますね」と固辞されました。
□ □ □
 少しあきらめかけてきたとき、「そういえば、今、集中的に読み込んでいる本があるんですが、こんな本は候補になりますか?」と手にとられた本が「南洲翁遺訓」だったのです。
□ □ □
 こちらとしては願ったりかなったり。
 しかも、先崎さんが提示してくれる西郷像が、これまたことごとく、私たちの常識を打ち破ってくる斬新なものでした。
□ □ □
 一つは、私たちが想像もしなかった西郷の巨視的な洞察力です。
 西郷が生きた時代、1830-70年代は、世界で巨大な情報通信革命とエネルギー革命が急速に展開している時代でした。
 一大鉄道網の敷設、大陸間をつなぐ海底電信ケーブルの設置等々、現在でいえばインターネット革命に匹敵するような巨大な地殻変動。
 その余波が超大国ロシア帝国をも揺さぶる時代。
「南洲翁遺訓」を読むと、西郷が世界史的視野からそうした変動を鋭く洞察し、国家がどうあるべきかについてのヴィジョンを模索していたことがわかってきます。
□ □ □
 こうした激動の時代だからこそ、国家の屋台骨を打ちたて、世界に伍する国柄を明確にせねばならないと考えた西郷は、巨視的な立場から、藩閥政治の利害争いや安易な西洋文明の模倣に対して、鋭い批判を展開していたのでした。
 先崎さんによるこんな説明を聞いて、古色蒼然とした西郷像が、がらがらとくずれていきました。
□ □ □
 もう一つは、西郷を悲劇の死に追いやった「西南戦争」についてのイメージです。
 不平士族たちの思いを背負った西郷が負けとわかって挑んだ戦いと記されることも多いですが、先崎さんは、実はこの戦いは、西郷が大きな思想的な課題を成し遂げようとして戦った必然的な戦いだったと考えていました。
 この戦いには、洋行帰りで西欧の最新知識を吸収した人やルソーに心酔した知識人も参加していたという事実を先崎さんの説明で初めて知りました。
 単なる不平士族の反乱とのみ「西南戦争」をとらえるだけでは、こうした実相が見えてこないのです。
□ □ □
 そして、こうした事実と「南洲翁遺訓」を合わせて西郷の行為を読み解くと、官僚独裁が進み排除の論理が横行する新政府に対して行った大きな「抵抗運動」だったと考えられるといいます。
 実は、このことは、すでに同時代の福沢諭吉が鋭く見抜いており、西郷批判の嵐が吹き荒れる中、ただ一人、西郷擁護論を書き残していたのです。
 私は、この西郷と福沢の響きあいに深く感銘を受けました。
□ □ □
 当時、西南戦争が始まると、ジャーナリズムはこぞって西郷批判を繰り広げました。
 メディアによる徹底的な西郷バッシング。
 しかし、その背景には、明治新政府寄りの報道だけに統制しようという政府側の思惑もあったといいます。
□ □ □
 福沢は、こうした流れにただ一人立ち向かいました。
 福沢の論はこうです。
 西郷は、武士の「抵抗の精神」、つまり自尊心をもち、安易に政府の見解だからと言って阿諛追従せず、場合によっては異を唱える精神の重要性を示そうとしたのだ。西郷批判一色に染まった現状では、この日本の最良の伝統が失われてしまうのではないか。だから、私は、西郷を擁護するのだ、と。
□ □ □
 先崎さんの解説を聞く中で、私は、自分が仕事をしていく上での姿勢を鋭く突かれたような戦慄を覚えました。
 西郷が示し、福沢が評価したこの「抵抗の精神」は、私たちメディアに携わるものとして忘れてはならない大事な思想性が込められていると深く感じています。
□ □ □
 皆さんには、西郷のどんな言葉が響いたでしょうか?
 表面だけ読むと、さらっと流れてしまうような非常に短い言葉を集めた「南洲翁遺訓」ですが、先崎さんの解説にならって、一歩立ち止まり、自分に引き当てて深く読みこんでいくとき、今までにない光が宿ってきます。
 ぜひあなただけの一言をこの本から見つけ出してみてください。


NHK、100分de名著
名著72
西郷隆盛『南洲翁遺訓』
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/72_nanshuoikun/index.html

 現在の日本は、先行きが不透明な時代だ─―そんな言葉をよく耳にします。
 この国の大きな転換点だとも言われる2011年の東日本大震災を経て、これから日本はどちらに向かって進むべきなのか。
 1990年代以降の経済不況の頃から言われ続けている「先行き不透明」という表現は、日を追うごとに身近になり、もはや常套句になっているように思えます。

 では、どうすればよいのか。
 闇雲に前進すればよいのでしょうか。
 むしろ私たちは、自らの来た道を振りかえり、そこから未来を照らしだす「灯火」を得るべきではないでしょうか。

 先の見通せない時代、不安定な時代になると、必ず名前が挙がってくる二人の日本人がいます。
 夏目漱石(1867〜1916)と、今回取り上げる西郷隆盛(1827〜1877)です。
 漱石は、小説家として近代日本の文明について考えた人で、「私の個人主義」という講演録が話題になることも多い人物です。
 一方、『南洲翁遺訓』の西郷隆盛は、政治家としてはもちろんですが、それ以上に人びとを惹きつけてやまない人間的魅力をもつ、懐の深い指導者として、不安定な時代になるとたびたび登場してくる印象があります。

 西郷隆盛の一般的なイメージというと、最も典型的なのは、封建的な武士の棟梁というものでしょう。
 それは、上野公園の銅像や有名ないくつかの肖像画の、いかにも豪傑といった姿に拠るところも大きいと思います。
 どちらかというと保守的な、あるいは古色蒼然とした、古い時代の人という印象を抱いている方が多いのではないでしょうか。
 実際、第二次世界大戦後には研究者の間でも、以下のような理由によって否定的に評価されるのが普通でした。

 一つは、戦争中の大陸進出を動機づけた元凶として「征韓論」が槍玉に挙がったことです。
 西郷を明治六年の「征韓論」のカリスマとして記憶している人も多いでしょう(実際には、西郷は「征韓論」という言葉自体、使ったことはありません。西郷の主張は、近年では「遣韓論」とも呼ばれるようになっていますが、詳細は第3回で解説します)。

 もう一つ、同時代に活躍した大久保利通(1830〜1878)に比べて、明治維新以降の新しい日本をつくる明確な国家像──司馬遼太郎の言葉でいえば「青写真」──を持たない人物だったというイメージもあります。
 日本の近代化には役立たなかった、政治的にはあまり有能ではなかった人物、そんな風にさえ思われている節があります。

 封建的で保守的、そして日本の近代化には全く理解のない男。さらには「征韓論」の急先鋒で、数年後には日本最大の内乱「西南戦争」まで引き起こしてしまった──。
 以上のような西郷像に、あまりよいイメージを持たない人も多いのではないかと思われます。
 しかし近年、以上のような「イメージ」とは異なる、西郷の「実像」を明らかにしようという動きが活発に出てきています。
 これについては本論できちんと見ていくことにしましょう。

 西郷が遺した『南洲翁遺訓』とはどういうものか。
 またなぜ、今、読むに値するのか。
 第1回で詳述するので、ここでは簡単に触れるにとどめますが、「南洲翁」は西郷隆盛の尊称です。
 実は、この本は西郷隆盛本人が書いたのではなく、旧庄内藩の関係者が、聞き書きをまとめて編纂したものなのです。
 出版されたのは、西郷の死後、賊名が解かれた1890(明治23)年のこと。
 内容は、為政者としての心構えをはじめとして、西郷の国家観・文明観を示す多彩なものです。
 政治家や組織のリーダー的地位にある人を意識して語られていて、非常に示唆に富む内容です。
 と同時に筆者は、とりわけ西郷の死生観がこの書に溢れていることが、今日でもなお、西郷に私たちが惹きつけられる理由であると考えています。
 その詳細も本論で明らかにしていきます。

「政治家」としての西郷隆盛について書かれた、歴史学者による研究書は多くあります。
 しかし今回は『南洲翁遺訓』に書かれている言葉に注目し、精読することで、思想史の立場から見た西郷像を示したいと思っています。
 より具体的にいえば、実際にどのような学問をまなび、それを糧に時代と格闘したのかを検証し、「人間」西郷隆盛に迫ってみよう──これが今回の「100分de名著」で挑戦したいことです。

 現在と同じくらい、いや、もっと激しく先行き不透明で、混迷した時代を生きた西郷隆盛。
 彼の実像に迫ることで、現在のような社会状況において羅針盤になるような何かを、読者のみなさんと摑み取ることができれば幸いです。


名著、げすとこらむ
『南洲翁遺訓』
混迷の時代を照らす「灯火」

ゲスト講師 先崎彰容
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/72_nanshuoikun/guestcolumn.html

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橋川文三

 なんという不器用な思想家だろう−−
 これが20歳のころ、私が最初に作品を読んだときの橋川文三への印象である。

 橋川文三、と聞いてもピンと来ない人も多いかもしれない。
 彼は政治思想史家・丸山真男の、いわば「鬼子」である。
 晩年の三島由紀夫とのあいだに論戦をくり広げ、三島も一目置いた思想家、それが橋川文三だった。
 三島は天皇についての自分の考えが論破されたとき、橋川を天才であると認めた。

 どうして彼が不器用に見えたのか。
 それは彼が、生涯をかけて戦争体験を考えたからだ。
 戦後、多くの人たちは次の時代、新しい時代へと突き進んでいった。
 だが橋川は違った。
 彼は戦中の体験に「躓(つまず)く」。
 そして困惑を一生背負ったまま、千鳥足で戦後を生きていった。
 作品を読みながらこのことに気づいた私は、彼を直感的に「不器用な思想家」だ、こう考えたわけである。

 橋川が、自身の心のなかを覗(のぞ)き込む。
 あのとき何が自分をとらえ、離さなかったのかを問いただす。
 すると「ロマン主義」こそ、戦争体験そのものだと橋川は思った。

 ではロマン主義とは何か。
 私たちは普通、世界を理解する共通の「ものさし」をもっている。
 たとえば最近なら冷戦=米ソ対立の時代だったとか、一億総中流の時代なのだと言うことで、私たちは現実を理解する。
 こうした世界観=ものさしを前提に、他人と話を進めていくことがしばしばある。

 戦前、ものさしの役割を果たした思想の一つに、マルクス主義があった。
 マルクスを読む、すると世界全体のうねりが、はっきりと理解できた気になる。
 今の時代がどんな時代で、次にどうなるか、分かったような気がする。

 だがもし、全てのものさしが嘘だったらどうか。

 この世の中は「混沌(こんとん)」であり、何一つ確実なものはない。
 全ては疑わしく、心のよりどころなど何もない。
 こういう意識に、橋川は襲われた。
 なぜなら戦争中は、誰も明日がどうなるかなど分かりっこないからだ。
 死の匂いが日常を覆っている。
 死は些細(ささい)な偶然で私の人生を奪い、静かに隣人の顔に白い布をかける。
 これほどの不安定と混沌があるだろうか−−

「かんたんにいい切ってしまえば、すべて存在するものの存在がその確定的な意味を喪失し、人間における信条体系の一義性が消失した状態がそこにはあった」(「日本浪曼(ろうまん)派と太宰治」)。

「一義性」という言葉に注目すべきだ。
 これこそ、ものさしと同じ意味だからだ。
 人は食べ物だけでは生きていけない、自分がなぜ、何を根拠に生きているのかを問わずにはいられない−−橋川はこういう問題に直面した。
 それを「ロマン主義」と名づけた。
 当時、保田與重郎(よじゅうろう)や亀井勝一郎らがロマン主義の代表選手であり、その主張に橋川は酔った。
 決定的な影響を受けた。

 彼らの日本の古典文学への熱烈な愛情。
 ロマン主義とは、日本主義者であればあるほど言葉への繊細さを失う、そんな時代状況への批判だった。

 日本を大事に思う、
 ならばなぜ日本人の心の襞(ひだ)深くまで降りていかないのか。
 古典時代の文学に耳を傾けないのか。
 古典の詩歌こそ、心の混沌を鎮めてくれる唯一の処方箋のはずなのに。


 この主張に、橋川は打ちのめされた。

 こうした強烈な戦争体験を橋川はもち、戦争の意味を探りつづけた。
 戦後、石原慎太郎や大江健三郎らの過激な主張が登場したときも、三島由紀夫の天皇論の限界を指摘するときも、橋川の脳裏にはつねに、自身のロマン主義体験があったのだ。

 さらにふり返れば、高山樗牛(ちょぎゅう)や石川啄木など「明治時代」の青年たちの心理にまでつながる。

 この事実に橋川は気づく。
 だとすれば、「あの戦争」を問うことは、明治から戦後にまで連なる日本の精神史を、つまりは日本の近代化総体を問うことになるではないか。

 橋川文三。
 このいぶし銀の思想家の言葉は、今こそ紐(ひも)解かれるべきだろう。

[知るための3冊]

『日本浪曼派批判序説』(講談社文芸文庫)
 橋川の名を後世に残した著作。戦中日本人の精神ドラマの典型例=ロマン主義の研究の金字塔で、これなくして「あの戦争」は語れない。

『ナショナリズム』(紀伊国屋書店)
 昨今「ナショナリズム」をめぐる研究書は山ほどあるが、近代日本精神史から「国家」について考えた書物としては今でも決定版である。日本政治思想史という学問の一つの頂点をなす。

『昭和維新試論』(講談社学術文庫)
 高山樗牛、石川啄木らを取りあげた作品。近代化のゆがみを是正せんとする青年たちの葛藤、革命運動がどのように生まれたか−橋川の問いはここにある。

[プロフィル・橋川文三(はしかわ・ぶんそう)]
 1922(大正11)年、長崎県生まれ。旧制第一高等学校を経て1945(昭和20)年に東京帝大法学部卒業。丸山真男のゼミで学ぶ。明治大教授として近代日本政治思想史を教え、戦時中に自らの世代の心をとらえた日本ナショナリズム思想の意味を問い直す著作を次々に発表。代表作に『日本浪曼派批判序説』『歴史と体験』など。1983(昭和58)年、死去。

[プロフィル・先崎彰容(せんざき・あきなか)] 
 1975(昭和50)年、東京都生まれ。東大文学部卒業、東北大大学院文学研究科日本思想史専攻博士課程単位取得修了。専門は近代日本思想史。著書に『ナショナリズムの復権』など。


産経新聞、2014.7.17 12:01
【「戦後日本」を診る 思想家の言葉】
橋川文三 「あの戦争」を問い続ける意味
(先崎彰容)
https://www.sankei.com/life/news/140717/lif1407170036-n1.html

 いやあぁ〜、ヤッホーくんの朝シャン後の朝キン、世田谷区豪徳寺。
 ところが東京メトロ千代田線の小田急線直通電車「向ヶ丘遊園」駅に乗ったのはラッキーだったのですが、「代々木上原」駅で発生した線路内立入の影響とかで、電車が大渋滞を起こし動かないのです。
 そしたら、悪いことは重なるものです。今度は小田急線!
 朝の9時半過ぎ、登戸駅で起きた人身事故で、千代田線の「向ヶ丘遊園」駅行きは「代々木上原」駅止まり!
 消費税が増税になったせいで飛び込んでしまったのかな・・・
 
 ヤッホーくん、「豪徳寺」駅でおりたあと、古書店「靖文堂」へ(世田谷区豪徳寺 1-18-9 Tel 3426-2139)。
 店主からは11時開店なので電気をつけるのは11時だよって言われたのですが、ヤッホーくんの耳には店内から呼ぶ声が確かに聞こえてきたのです。

 橋川文三『西郷隆盛紀行』(朝日新聞社、1981年11月)!!

 何度か書いているが、私は西郷隆盛という人物の魅力がよく分からない。
 ほうっておけばよさそうなものだが、時々、思わぬ人が西郷を礼賛しているので、どうしても気になる。
 たとえば、内村鑑三は「明治の維新は西郷の維新であった」と言い切り、「聖人哲人」「クロムウェル的の偉大」「日本人のうちにて、もっとも幅広きもっとも進歩的なる人」と口をきわめて褒めている。
 内村鑑三というのも、ちょっとアヤシイところのある人で(←ホメている)この記述を含む『代表的日本人』を、読みたい読みたいと思って探している。

 中江兆民も西郷に高い評価をおく。
 著者いわく、兆民は、名誉や社会的地位に目もくれず、貧乏を恐れない。
 そのかわり、正義と信じるものには絶対に従う、そのあたりが西郷と似た性格なのではないか。
 それから、福沢諭吉。これは意外な気がした。
 西南戦争直後に西郷弁護論を書いているが、反響を考慮して晩年まで発表を控えたという。
 福沢は、単純な進歩主義者タイプとはいえない、という分析が興味深い。
 北一輝は、非常に複雑な表現で西郷を評価している。
 西郷軍の反動性を指摘し、倒されたのは必然としながら、西郷の死によって維新の精神が失われたことを惜しむ。
 それから鶴岡育ちの大川周明。
 庄内藩は戊辰戦争で寛大な処遇を受けたことから、西郷への敬愛の念が強いのだそうだ。

 さらに意外なことに、中国文学者の竹内好が登場する。
 竹内は西郷論は書いていないが、関心をもっていたに違いない、と著者は推測する。
 そして、竹内好の研究対象だった魯迅も西郷に関心があったらしい。
 まあ近代中国の「志士」たちが明治維新に学んでいたことはたくさん傍証があるし。

 それから、これは仮定であるが、もし西郷が遣韓大使として朝鮮に渡り、大院君(高宗の父)に会っていたら、意気投合していたのではないか(安宇植氏談)という見解も興味深く読んだ。
 私は閔妃事件の関係で、どちらかというと悪役イメージで見ていたが、勝海舟も大院君に会って、面白い人物だと評しているという。
 時代や国境を越えた西郷隆盛シンパが、芋づる式に現れるので、たいへん面白かった。

 その一方、西郷は政治的実務能力を全く欠いていたとか、封建的な地方主義を脱却していなかったとか、近代的合理性の立場からの批判がある。
 木戸孝允とか大隈重信の弁。
 また、敗戦後は、西郷の「征韓論」が軍国主義や右翼のシンボルのように扱われた。
 しかし著者は、西郷の「征韓論」は前近代の大陸膨張論であり、その後の帝国主義的な膨張論(アジア侵略)とは区別すべき点があるのではないかと考える。
 歯切れは悪いけど、言いたいことは分かる。

 そして、それゆえ、著者は西郷隆盛論を書こうと思って、いろいろ調べていく。
 ゆかりの地を訪ねたり、対談をしたり、講演をしたり、その構想ノートが本書なのだ。

 いちばん面白かったのは、「西郷隆盛と南の島々」と題された島尾敏雄氏との対談。
 作家の島尾敏雄さんって、奄美大島で図書館長(分館長)をされていたのか。
 知らなかった。
 西郷が「島暮らし」で得たものをめぐって、倭(ヤマト)の辺境である南島と東北の親近性に話が及ぶ。
 島尾さんの「薩摩は南島とものすごく似ています」とか、北九州はヤマトの中心であって辺境ではない、などの指摘が、いちいち刺激的だった。
 西郷は、ヤマトの政治に絶望して、何か違うもの(日本を超えたもの?)を求めていたのではないか、というのが著者のたどりついた推論である。

 「征韓論」について、日本が朝鮮とぶつかり、清国と戦うことになれば、日本の士族層は滅び、その後の日本に新しい体制ができるかもしれない。
 そこらへんまでは西郷さんも考えていたのではないか、と著者は1976年の講演で述べている。
 これは、著者が意識していたかどうか分からないけど、中江兆民『三酔人経綸問答』に登場する豪傑君の主張そのものであると思って、はっとした。
 なお、ネタバレだけど、最終的に著者の西郷隆盛論は完成せずに終わっている。

 鹿児島、それから奄美大島も行ってみたくなってきたなあ。
 あと、この「文春学藝ライブラリー」、文藝春秋社のHP(本の話WEB)に「名著、良書の復刊」を目指します、とうたっているが、選択眼が非常によい。
 息切れしないよう、今後とも期待!
 

見もの・読みもの日記(興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介)、2015-01-28 23:42:03
南島から来た人間/『西郷隆盛紀行』橋川文三
『西郷隆盛紀行』(文春学藝ライブラリー、文藝春秋、2014年10月、注)
https://blog.goo.ne.jp/jchz/e/d627258c7257bd700443140219dda88f

(注)文春学藝ライブラリー

 近代日本の精神史を探求しつづけ、優れた作品を残した政治思想家による西郷隆盛論です。
 西郷が日本人を惹きつけてやまないのはなぜなのか?
 明治維新の「最大の立役者」にして、明治政府に背いた「逆賊」というパラドクスをどう考えればよいのか?
 本書は、近代日本の矛盾を一身に体現した西郷隆盛という謎に迫ります。


https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784168130311

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首相の発言をファクトチェック(事実確認)

 2019年7月21日投開票が有力視される参院選まで1ヶ月。安倍晋三首相の政治姿勢も、有権者にとって重要な判断材料だ。第2次安倍政権以降、6年半にわたる首相の発言をファクトチェック(事実確認)する。 

「自衛隊に対する、自治体の非協力な対応がある。例えば自衛官の募集。6割以上の自治体から所要の協力が得られていない」

 今年2019年1月の衆院本会議。首相は、自衛隊は災害派遣で自治体を助けているのに冷たい扱いを受けているとして、「終止符を打つためにも、自衛隊の存在を憲法に位置づけることが必要」と訴えた。
 だが、首相の言葉は正確とは言い難い。
 防衛省によると、2017年度、全国1741市区町村のうち、自衛官適齢者の名簿を作って自衛隊に提出した自治体は36%。一方で、適齢者名簿や住民基本台帳の閲覧・書き写しを自衛隊に認めた自治体も計54%あった。完全拒否したのは1%に満たない。
 ほかにも首相は、自衛隊を明記する必要性を訴えようと、あらゆる理由を総動員してきたが、額面通り受け取れないことが多い。
 有名なのは、自衛官の子どもが「お父さん、憲法違反なの」と涙ながらに尋ねたというエピソード。首相は2017年10月の民放番組で「(自衛官から)直接聞いた」と説明したが、野党は国会で「実話なのか」と追及。首相は2019年2月の衆院予算委員会で「防衛省担当の首相秘書官を通じて伺った」と言い直した。
 首相は「(実話と証明する)資料を出せというのなら出させていただく」とたんかも切ったが、結局、資料は出てこなかった。
 そもそも首相は、2020年の新憲法施行を目指すとして期限を切る一方、憲法のどこを見直すかという肝心な点で主張を変えてきた。
 2012年末に第二次安倍政権が発足した当初は、衆参両院で3分の2以上の賛成が必要とする改憲要件を緩和する96条改憲を目標に。ルールを変えるやり方に「裏口入学」と批判が高まり、棚上げした。
 自民党も、現行憲法は世界的に見ても改正しにくいと訴えたが、海外の憲法に詳しい憲法学者は、議会の承認が必要な各国憲法のおよそ4分の3は「3分の2」が改憲要件と指摘する。
 首相はその後、自衛隊明記のほか、教育充実のための改憲も強く主張。改憲で日本維新の会の協力を得るためとみられている。
 2年前の施政方針演説で首相は、江戸時代に土佐藩が、江戸から持ち帰ったハマグリを食べずに放流した結果「今も大きな恵みをもたらしている」として、子孫のための憲法論議を訴えた。演説当時、高知県のハマグリ漁獲量はピーク時の4%弱にすぎず、「大きな恵み」は誇張と言える。
 在任中に自らの手で改憲を成し遂げる意欲が先走り、内容は二の次。
 首相の改憲論からは哲学が見えてこない。


ファクトチェック 安倍 憲法.jpg

東京新聞・朝刊、2019年6月21日
<ファクトチェック 安倍政治の6年半>
(1)憲法 要件緩和、教育充実… 変わる改憲項目
(清水俊介)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201906/CK2019062102000162.html

 安倍政権が6年半、経済政策で最も重視してきたのは、「成果」の見せ方だ。さまざまな解釈や表現を駆使し、いかに経済成長を実現したかを国民に印象付けることに腐心してきた。

「しっかりと経済を成長させている」

 安倍晋三首相は2019年6月19日の党首討論で、立憲民主党の枝野幸男代表に向けこう強調した。民主党政権時代の国内総生産(GDP)の実質成長率が安倍政権を上回っていたと訴えた枝野氏に対し、「一点だけ申し上げる」と強く反論した。
 枝野氏は物価変動の影響を除いた実質成長率を「経済の総合成績」と主張した一方、安倍首相は変動分を含んだ名目成長率を前提にした。どの指標を扱うか。解釈一つで、アベノミクスの代表的な「成果」とされるGDPでさえも評価が大きく変わる。両者の主張がかみ合わなかったのは、「物差し」の違いが大きい。
 政権が「名目GDP 600兆円」を目標に掲げたのは2015年。首相は同年2015年11月、「2020年ごろに十分達成できる」と宣言した。2015年度の実額は当初、500兆円程度にとどまり、専門家から「不可能」との意見が相次いだ。しかし、その後に数値は急伸。2018年度には550兆円まで伸ばした。
 伸長のからくりは、GDPの計算方法の変更だった。
 目標を掲げた後の2016年12月に計算法を変え、2015年度は基準変更前と比べGDPを30兆円以上伸ばした。「後出しじゃんけん」との批判も招いたが、一連の事象を首相が率先して説明する姿はみられない。
 首相がアベノミクスの成果を誇る際、紹介した数字の裏側にある実情を丁寧に説明しない場面が多くみられる。賃金の伸びは春闘の実績を使い、基幹統計として重要性が高い「毎月勤労統計」の結果には触れず。勤労統計の2018年実績が、政府の不正や算出方法の変更により、かさ上げされていることも背景にある。
 頻繁に取り上げる雇用の改善でも説明不足の構図は同じだ。今国会でも「有効求人倍率は史上初めて全都道府県で一倍を超えた」と繰り返す首相。この数字は事実だが、団塊世代の一斉退職や生産年齢人口の減少という特殊要因には触れず、増えた雇用は高齢者ら短時間労働者が多いという中身は語らない。
 看板に掲げた金融政策「異次元緩和」でも、その理由と結果を十分に説明したとは言い難い。当時、首相はデフレの原因は金融緩和の不足にあるとして、任命した日銀の黒田東彦(はるひこ)総裁による「2年で物価上昇率2%」に強くこだわった。
 それが6年かけても達成できず、地方銀行の経営悪化など副作用が相次ぐと発言は一変。今月の国会では「2%は一応目的だが、本当の目的は雇用」と転じた。


ファクトチェック 安倍 経済.jpg

東京新聞・朝刊、2019年6月22日
<ファクトチェック 安倍政治の6年半>
(2)経済 GDP・勤労統計・求人倍率… 「成果」実情触れず
(渥美龍太)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/list/201906/CK2019062202000154.html

 公平公正であるべき行政がねじ曲げられ、安倍晋三首相に近い人に特別な便宜が図られたのではないか−−。第二次安倍政権発足後の六年半を振り返り、見過ごせない特徴は、「忖度(そんたく)」という言葉に象徴される政と官のゆがんだ関係だ。

「私や妻が認可あるいは国有地払い下げに、事務所も含めて一切かかわっていないことは明確にさせていただきたい」

 2017年2月の衆院予算委員会で首相は、学校法人「森友学園」に国有地が大幅に値引きされて売却された問題について、自身や妻昭恵氏の関与を強く否定した。
 この問題では、学園が開校予定だった小学校の名誉校長に昭恵氏が就いていたことなどを官僚が忖度したという疑念がくすぶる。
 学園理事長だった籠池泰典被告が2015年11月、国有地賃貸で優遇を受けられないか昭恵氏に相談し、昭恵氏付き政府職員だった谷査恵子氏が財務省理財局に照会していたことが、同省が公開した文書などで判明。首相は「(理財局は)ゼロ回答。忖度してないのは明らかだ」と国会答弁したが、昭恵氏の存在が国有地を巡る交渉に影響した可能性は低くない。
 籠池被告は当初、国有地を8年間借りた後に買い取ることを目指した。財務省近畿財務局との交渉は難航したが、昭恵氏が学園の幼稚園を視察し、籠池被告と一緒に写った写真が示されると、売却を前提とした交渉が進んだ。2016年6月、地中のごみ撤去費として約8億円を値引きして国有地が売却された。
 籠池被告は「神風が吹いた」と表現したが、「安倍一強」と言われる長期政権下で、官僚が権力者に近いと思われる人を優遇した疑いは消えない。公文書改ざんに関わった職員が命まで絶っている。
 また、首相が「腹心の友」と呼ぶ加計(かけ)孝太郎氏が理事長を務める加計学園の獣医学部新設を巡っても、「加計ありき」で国家戦略特区の選定が進んだ疑いが解消されていない。業者による供応などを禁じた大臣規範があるにもかかわらず、首相と加計氏はゴルフや会食を繰り返してきた。2015年6月に愛媛県と同県今治市が国家戦略特区での獣医学部新設を国に提案した後も続けている。首相が学園の獣医学部新設の意向をいつ知ったのかが焦点となった。
 首相は2017年7月の衆院予算委で「(加計学園による特区への)申請を知ったのは1月20日の特区諮問会議」と答弁。しかし、首相は同年2017年6月の参院予算委などで「(国家戦略特区の前の)構造改革特区で申請されたことは承知していた」と答えていた。矛盾だと追及された首相は「整理が不十分で混乱していた」と陳謝し、答弁を修正した。
 その後も、首相と麻生太郎副総理の地元を結ぶ道路整備を巡り、当時の国土交通副大臣が「忖度した」と発言して事実上更迭されるなど、政権の体質を疑わせる問題が続く。
 だが、その場しのぎにも映る首相の説明から危機意識は感じられない。


ファクトチェック 安倍 モリカケ.jpg

東京新聞・朝刊、2019年6月23日
<ファクトチェック 安倍政治の6年半>
(3)森友・加計問題 ゆがむ「政」と「官」 忖度の疑念 消えないまま
(望月衣塑子)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201906/CK2019062302000155.html


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2019年09月30日

戦争へ向かった分水嶺

 あいちトリエンナーレ(以下、「あいトリ」と略します)2019をめぐる一連の騒動に関して、これまで、私は、積極的な発言を避けてきた。
 理由は、この話題が典型的な炎上案件に見えたからだ。
 ヘタなカラみ方をすると火傷をする。
 だから、じっくり考えて、さまざまな角度から事態を観察しつつ、自分なりの考えがまとまるまでは、脊髄反射のリアクションは控えようと、かように考えて関与を回避してきた次第だ。
 当人としては、これはこれで、妥当な判断だったと思っている。
 とはいうものの、いま言ったことが、弁解に過ぎないと言われたら、実は、反論しにくい。
「単にビビっただけだろ?」という最もプリミティブなツッコミにも、うなだれるほかに、うまいリアクションがみつからない。
 じっさい、私がビビっていたことは事実だからだ。

「私なりの考え」程度の直感的な見解は、問題が発生した当初から、頭の中にあれこれ浮かんでいた。
 それを外に向けて表明しなかったのは、正直に告白すれば、殺到するであろう賛否のコメントや、無関係なところで発生するに違いない魔女狩りじみた欠席裁判に対応するのが面倒くさかったからだ。
 圧倒的な物量でもって押し寄せるクソリプの予感は、時に良心的な論者を黙らせる。
 これは、認めなければならない。

「あいトリ」以外の、さまざまな出来事やニュースに対して、かねて、私は、軽率に発言することを旨としてやってきた人間だ。
 ここでいう「軽率」というのは、言葉のあやみたいなもので、もう少し丁寧な言い方で言えば、私は、どんな問題や出来事に対してであれ、専門家の分析や有識者の見解とは別の、「素人の感想」を述べておくことがコラムニストに課せられた役割のひとつであると考えているということだ。
 素人のナマの感想は、往々にして勘違いや認識不足を含んでいる。
 それ以上に、素人が直感的な見解を表明することは、恥ずかしい偏見やあからさまな勉強不足を露呈する危険性と背中合わせだ。
 それでも、素朴な感想には素朴な感想ならではの価値があるはずだと私は考えている。
 というのも、愚かさや偏見や勉強不足も含めて、この世界を動かしている主要な動力は、つまるところ「素人の感想」の総和なのであって、そうであればこそ、それらをあえて表明することで恥をかく人間がいないと、言論の世界を賦活することはできないはずだからだ。

 さてしかし、
「もう少し事態が落ち着くのを待とう」
「自分がいま感じているもやもやとした感慨が、よりはっきりとした見解として像を結ぶまでは、うかつな関与は禁物だ」
とかなんとか思っているうちに、「あいトリ」をめぐる事態は、日を追って混迷を深め、さらに関与の難しい局面に立ち至っていたわけなのだが、つい昨日9月25日になって、
《愛知県の大村秀章知事は25日、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の在り方を検証する同県設立の有識者委員会で、中止した企画展「表現の不自由展・その後」について、会期終了の10月14日までに「条件を整えた上で再開を目指したい」との考えを明らかにした》
という記事が配信されてきた。
 なるほど。膠着していた事態がようやく動きはじめたようだ。
 してみると、今後は、多少とも前向きな形でこの話題に言及する余地ができたのかもしれないな……などと、私は、愚かな楽観を抱きはじめていた。

 ところが、昨晩のニュースにおっかぶせる形で、今朝になって
《文化庁、あいちトリエンナーレへの補助金を不交付の方針》
という驚天動地のニュースが流れてきた。
 いや、このニュースを受け止めるにあたって、「驚天動地」などという言葉を持ってきている態度が、そもそもヌルいのかもしれない。
 なぜというに、いま起こっている事態は、これまでの経緯を注意深く観察してきた人間には、十分に予測できた展開だからだ。
 私自身、この展覧会を契機に、あらゆる事態がとんでもない速度で悪化しつつあることは感じ取っていた。
 じっさい、第一報を伝えたNHKのニュースも、この展開を事前に予測していた人間が書いたかのような体裁で書かれている。

 本当は、みんなわかっていたのだ。
 私自身も、実は、わかっていた。
 ただ、目をそらしていただけだ。
 深刻な事態が進行していることを、十分に感知していたからこそ、私は、何も言えなくなっていた。
 つまり、ビビっていた。
 そういうことだ。
 ことここに至って、目が覚めた。

 本当なら、8月2日の段階で、会場を訪れた河村名古屋市長が、
「どう考えても日本国民の心を踏みにじるものだ。税金を使ってやるべきものではない」
と述べた段階でもっと敏感に反応してしかるべきだった。
 あれは、いま思えば、最悪の事態がはじまったことを告げる明らかなホイッスルだった。
 その意味を、半ば以上正確に読み取っていたにもかかわらず、私はだらしなく黙っていた。
 なんとなさけないリアクションだろうか。
 さらに、その河村市長の発言を受けた菅官房長官が、会見の中で、芸術祭への国の補助金について、事実関係を精査し、交付するかどうか慎重に検討する考えを示したことに対しては、跳び上がってびっくりしてみせるなり、怒鳴り散らしてでも憤りを表明するなりすることで、やがて訪れるであろう本当の危機への注意を喚起しておくべきだった。

 なのに、私はそれをせずに、
「炎上案件だから」
てな調子の既製品の弁解を店頭に並べて知らん顔をしていた。
 反省せねばならない。

 今回の文化庁の決断は、一地方の首長が記者との談話の中で述べた私的な見解とは水準を異にするものだ。
 というのも、市長の妄言と補助金の支給中止は、まるで重みの違う話で、妄言が「虚」なら補助金は「実」だからだ。
 もちろん、河村市長の発言とて、あれはあれで、一定の権力を持った政治家の言葉としては論外以外のナニモノでもない。
 とはいえ、市長のあの発言は、しょせんは考えの足りない一地方首長が無自覚に漏らした私的な談話の断片に過ぎないと言えばそう言えないこともないわけで、その意味では、あの発言が、ただちに法的な強制力を持った実効的な弾圧であるとは言えない。

 一方、文化庁が、補助金の交付を中止することは、展覧会や美術展を企画する自治体やキュレーターにとって、正しく死活問題だ。
 作品を制作しているクリエーターにとっても、具体的かつ直接的な弾圧として機能する。
 しかも、文化庁は、いったん採択した補助金の交付を、問題が起こった後で、その問題への説明が不足だったという理由を以て「事後的に」中止する旨を明らかにしている。

 これはつまり、今後、彼らが、あらゆる企画展や文化事業に対して、随時、介入する決意を明らかにしたに等しい措置だ。

 おメガネにかなわない企画や作品に対して、いつでも懲罰的な形で補助金の引き上げを言い渡すつもりでいる金主が巡回している世界で、誰が自由なキュレーションや作品制作を貫徹できるだろうか。
 私は不可能だと思う。

「説明が不十分だった」
みたいな難癖をつけるだけのことで、補助金をカットできるということは、
「十分な説明」
なる動作が利権化するということでもある。

 今回、騒動の発火点となった「表現の不自由展」は、「あいトリ」という大きな枠組みの芸術祭のうちのほんの一部(←予算規模で400万円程度といわれている)に過ぎない。
 してみると、7800万円の補助金が支給されるはずだった「あいトリ」は、そのうちの400万円ほどの規模で開催されるはずだった「表現の不自由展」をめぐるトラブルのおかげで、すべての補助金を止められたという話になる。
 こんな前例ができた以上、この先、どこの自治体であれ、あるいは私企業や財団法人であれ、多少とも「危ない」あるいは「議論を呼びそうな」作品の展示には踏み切れなくなる。
 作品をつくる芸術家だって、自分の作品の反響が、美術展なり展覧会なりのイベントまるごとが中止なり補助金カットに追い込む可能性を持っていることを考えたら、うっかり「刺激的な」ないしは「挑戦的な」作風にはチャレンジしにくくなる。

 別の角度から見れば、今回の事例を踏まえて、気に入らない作品を展示していたり、政治的に相容れない立場のクリエーターが関与している美術展を中止に追い込むためには、とにかく数をたのんでクレームをつけたり、会場の周辺で騒ぎを起こしたりすればよいということになる。
 そうすれば、トラブルを嫌う主催者は企画を投げ出すかもしれないし、文化庁は企画を投げ出したことについての説明が不十分てなことで、補助金を引き上げるかもしれない。

 かくして、「あいトリ」をめぐる騒動は、画家や彫刻家をはじめとする表現者全般の存立基盤をあっと言う間に脆弱化し、文化庁の利権を野放図に拡大したのみならずクレーマーの無敵化という副作用を招きつつ、さらなる言論弾圧に向けての道筋を明らかにしている。

 私自身の話をすれば、これまで、自分が書いた原稿に関して、用語の使い方や主題の選び方について修正を求められた経験は、全部合わせればおそらく20回ほどある。
 そのうちの10回ほどは、新聞社への寄稿で、単に平易な言い回しを求められたものだ。
 残りの10回のうちの8回までは、とある同じ雑誌の同じ編集長に要求された文字通りの言葉狩りだった。
 その編集長の不可思議な要求に対しては、毎回必ず
「え? どうしてこんな言葉がNGなんですか?」
「考えすぎじゃないですか?」
と抵抗したのだが、結局は押し切られた。

 その当時、まだ30代だった私より5年ほど年長だったに過ぎないその若い編集長(してみると、彼は出世が早かった組なのだな)は、とにかく、問題になりそうな言葉はすべてカットしにかかる、まれに見る「チキン」だった。
 で、そのチキンな編集長と何年か付き合ううちに、私は、
「言論弾圧は、なによりもまずチキンハートな人間の心の中ではじまるものなのだな」
ということを学んだ。

 今回、私は、8月以来、ほぼ丸々2ヶ月にわたって、「あいトリ」の問題に関して沈黙を守ってきた自分が、つまるところチキンだったことを思い知らされた。
 私が黙っていたのは、私がチキンだったからだった。

 いま私が思っているのは、あの8月はじめの河村市長のケチな妄言からはじまった小さな騒動を、これほどまでに将来に禍根を残すに違いない深刻な弾圧事案に成長させてしまったのは、私を含めたほとんどすべての日本人が、実にどうしようもないチキンだったからだということだ。
 反省せねばならない。
 今回は、実は、昨今のお笑い芸人があからさまな差別ネタを、「たたかってる」「トンがってる」「ギリギリのところ狙ってる」と思い込んでいる傾向やその事例について考察するつもりでいて、半分ほどまでは原稿も出来上がっていたのだが、あまりにもとんでもないニュースがはいってきたので、急遽テーマを差し替えることになった。
 面白いのは、今回の記事の最終的な結論が、当初書くつもりでいた原稿の結論とそんなに違わないところだ。

 おそらくあらゆる表現の限界は、国民の粗暴さと臆病さが交差する場所に着地することになっている。
 厄介なのは、ある人々が粗暴になればなるほど、別の人々が臆病になることで、それゆえ、表現の限界は、どうかすると平和な時代の半分にも届かない範囲に狭められる。
 私個人は、なるべく臆病にならないように注意したい。
 いまのような時代は特に。
 臆病さを避けながら粗暴にならずにいることはなかなか難しいミッションなのだが、なんとか達成したいと思っている。


日経ビジネス、2019年9月27日
チキンなハートが招き入れるもの
(文・イラスト/小田嶋 隆)
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00038/

斉藤利彦「『誉れの子』と戦争、愛国プロパガンダと子どもたち」(中央公論新社、2019年7月)

 戦争は子どもたちにどんな運命を強いるのか?
「誉れの子」「靖国の遺児」と呼ばれた、日本軍兵士の遺児たち。
 国家に翻弄され、利用された子どもたちの実像を、貴重な一次資料と証言…

 表紙に掲載されている、張り詰めた表情の少年は、「大東亜戦争」の戦没兵士の遺児の一人、八巻春夫さんである。
 当時「誉れの子」と呼ばれていた遺児らを全国から集め、靖国神社に参拝させる式典が、1939年から1943年まで毎年開催されていた。
 本書が「社頭の対面」と呼ぶこの行事では、内閣総理大臣らによる訓示が行われ、皇后から「御紋菓」が下賜された。
 写真は、八巻さんが御紋菓をおしいただき「有難さの感涙にむせんだ」場面として、内閣情報局編輯「写真週報」に掲載された。

 本書の著者は、2017年に八巻さんを探し当て、聴き取りを行った。
 八巻さんが語ったのは、写真の頰に伝う涙が情報局担当官の指示で差した目薬によるものであること、それ以外の写真も職員が明白に演出していたということだった。
「社頭の対面」と「誉れの子」らは、プロパガンダというべき情報操作の一環だったのである。

 長期化していた戦時下において、戦死者およびその遺族の数はうなぎ登りに増加していた。
 一家の大黒柱を失い困窮する遺族・遺児に対しては、一定の生活扶助や「学資補給」が行われていたが、その範囲や金額は厳格に定められており、遺族は厳しい生活に耐える他ない場合が多かった。

 にもかかわらず、国家は遺児らに対し、「お父様の名誉を汚さぬよう」「お国の為に尽くせよ」と求めた。
 のみならず、「社頭の対面」行事において遺児らが国家・天皇・軍に対して示した「感激」と「尽忠報国の精神」を華々しく報道することは、国民全体の「教化」の手段とみなされていたのである。

 70年以上を経た「誉れの子」らに著者が行ったアンケートには、(父の死で)「毎日さびしさで一杯でした」「無謀な戦争をしたと思います」という言葉が語られている。
 戦争する国家は子どもの悲しみさえ冷酷に利用する。
 この悲惨を二度と繰り返してはならない。

◇ 斉藤利彦(さいとう・としひこ、1953年生まれ)
 学習院大教授(教育学)。『作家太宰治の誕生』『試験と競争の学校史』など。


朝日新聞、2019.09.28
好書好日
「『誉れの子』と戦争」書評
遺児の悲しみさえ利用する国家

[評者]本田由紀
https://book.asahi.com/article/12747642

現代と似通う1928(昭和3)年
戦争へ向かった分水嶺


 歴史に if(もしも)はない。
 とはわかってはいても、やり直せるなら戻りたい分水嶺はある。
 日本にとって戦争に向かう昭和初期はその筆頭だろう。
 刑法学者の内田博文氏は、今の日本の状況は「昭和3年」に似ていると指摘している。
 治安維持法が改正され、戦時体制下の下準備が進んだ年だ。
 加えて政治不信を加速させた、意外な共通点も。
 今このときを「やり直したい過去」にしないためにに、90年前の「失敗」を振り返った。

 1928(昭和3)年と言えば、昭和天皇が即位の礼を執り行い、25歳以上の男性 による初の普通選挙が実施された年だ。
 ラジオから大相撲中継やラジオ体操が流れ、食品店にはキリンレモンやハウスカレーが並んだ。

 千円札でおなじみの細菌学者の野口英世が、英国領だったアフリカ・ガーナで亡くなった。
 漫画家の手塚治虫氏、映画「男はつらいよ」シリーズで知られる俳優の渥美清氏 、作家の田辺聖子氏らが生まれている。
「その年と今の状況は似ています」と刑法学者で九州大名誉教授の内田博文氏は指摘する。
 戦争に向かって国が進むような部分で重なる点が多いという。

 まず内田氏が挙げたのが「治安維持法」。
 国の体制を変えようとする集団をつくったり、参加した人を取り締まる。
 この年に最高刑が死刑になった。
 処罰できる対象は大幅に広がり、当局の不興を買えば摘発されるという状況が生まれた。
 これ以降、秘密の保護や情報統制についての法律ができ、1938年には国民の生活や経済を政府が統制できる国家総動員法も制定された。

 内田氏は「 戦争する国づくりの柱となる法律が作られた。現在はこの時期をコピーするように進んでいます」と語る。
 そのコピーが安全保障関連法や秘密保護法、そして共謀罪だ。

「思想、信条を処罰対象にしないのが刑法の原則。共謀罪はそれに反している。犯罪が成立するための条件もあいまい。処罰対象を拡大される恐れもある」

 国が言う「組織的な犯罪集団が対象」というのは建前で、国にもの申す市民運動を抑えるのに使われかねないと、内田氏は心配する。
 そんな法律の成立を許した国民の意識も当時と似ている。
 自分たちで世の中を変えるのではなく、権力に期待をするという部分だ。

「当時は生活が苦しく、戦争に活路を見いだすという政府は一定の支持を得ていた。今、は、若者が「未来はないね」とあきらめ、強い力に頼って解決できないかと考えている」
 
 政権の暴走を止められない議会、国民の政党政治に対する不信……。
 類似点はほかにもある。
 違うのはスピード。

「今は四倍くらいの速さで進んでいます」

 良くない話が並ぶが、内田氏は「昭和3年は、まだ後戻りができた」とみる。
 国会では山本宣治(1889 - 1929)が治安維持法改正を厳しく追及。
 風向きが変われば、大日本帝国憲法からみても問題の多い同法をはじめ、進路を見直す選択肢もありえた。
 そして今は、戦時体制に向かう「川の崖っぷち」。
 ぎりぎりに立っている。

 かつての失敗を繰り返さないために内田氏は「歴史を踏まえるべきだ」と訴える。

「学者など専門家は進むべ方向を分かりやすく語らなければならない。国民は主権者意識を持ち、未来に向かって行動する。戦争をする世界をバトンタッチしようとして、子どもたちが受け取ってくれるでしょうか」

政治不信軍国主義招く
築地市場巡る移転問題
二大政党が非難の応酬


 現代との共通点はほかにもある。
 1928(昭和3)年には築地市場をめぐる移転問題も起こっているのだ。
 築地に魚市場が開場したのは1935(昭和10)年。
 日本橋にあった魚河岸が関東大震災で被災し、以前からあった移転計画が本格化した。
 移転が進まなかったのは、魚を得る場所の権利「板船権」を持つ魚河岸の業者らが反発したためだ。

 その補償を求める動きの中で、1928(昭和3)年8月に発覚したのが、東京市会(現在の都議会)の議員らが市場側から賄賂を受け取っていた汚職事件だ。

 今夏の都議選で、豊洲市場への移転問題をめぐる都政のごたごたが、都民の怒りをかき立てた光景と奇妙に重なってみえる。

 実際、90年前も普通選挙による初めての衆院選が2月にあり、参政意識が高まった直後の疑獄だっただけに、都民感情は厳しかった。

「大正から昭和初期は日本に民主主義が浸透する一方、贈収賄事件やスキャンダルが多発し、『公のものを私のものにする』政治への不信が高まった時期でもあった」と、五野井郁夫・高千穂大教授(政治学)は説明する。

 国政でも1928(昭和3)年には「五私鉄事件」が、翌年には「売勲事件」が問題になるなど疑獄が続出。
 二大政党制が始まったばかりなのに、怪写真をまくなどの足の引っ張り合いを与野党が続け、人びとの政治不信を加速させた。

「世界恐慌も運悪く重なり、人びとの夢がついえていく中で、夢の託し先が『即断即決』の軍部になってしまった。政治不信が民意を軍国主義に向かわせた一因となった」と五野井氏は指摘し、こう続ける。

「裏切られ続けた民意は、より過激なもの、より新しいものへ向かう。為政者も、そうした民意をつかもうと過激な意見を言う。政治不信が招くこの悪循環が、既に1928(昭和3)年の普通選挙のころには始まっていた」

 吉田徹・北海道大教授(比較政治)も、1928(昭和3)年前後の政治を「政党間の競争により民意を反映していくのが二大政党制の理想だったが、『目の前にいる相手に負けない』と誤った競争を続けたことが、民意の離反と軍部への支持になった」とみる。
 
 今も同じ迷走を繰り返しているようにみえる。

「与党は選挙に勝てるという目算から衆院を解散し、野党もあたかも政党が選挙互助会であるかのように、離合を繰り返す。お互いが民意を愚弄しており、それが政治不信になって政治家に跳ね返っている。民主主義を少しずつ傷つけていることを認識すべきだ」と吉田氏は指摘する。

 政治評論家の森田実氏も、「選挙と政権交代を繰り返し、何とか政治不信をやり過ごしてきたのが日本の戦後政治だ。ただ、戦後民主主義のもと、1970年代までは大型の疑獄事件はあっても、政治家には『社会のため』という志があった。今や、長期的な視野を持たず、目先の人気を得られればいいというその場限りのポピュリズムがまん延している」と嘆息する。

 政冶不信が深刻化する中、私たちはどのように選挙と向き合えばよいのか。

 吉田氏は「ポピュリスムが台頭する根底にあるのは、代表者であるはずの一部の人間が政治を寡占していることへの怒り」と説明。
 民主主義の機能不全が表面化した時代に、大衆に迎合して権力を維持しようとするポピュリスト政治家が現れるという。

「ポピュリスト政治家を支援する有権者の特徴は、ふだん政治活動に熱心ではない人だ」と話し、こう訴えた。

「物事を変えるにはものすごく労力が必要で、変えてもバラ色になるわけではない。それをふまえてなお関心を持てるよう、日常的な政治参加が有権者には求められる」 

[デスクメモ]
 王様を欲しがるカエルたちの童話を思い出す。
 最初に丸太が与えられた。何もしない「王様」を物足りなく思い、もっと立派な王様を求めると、ツルがやってきてみんな食べられてしまった。カエルに必要だったのは「王様はいらない」という覚悟。政治を人任せにはすまい。(洋)


東京新聞・特報、2017年10月18日
戦争へ向かった分水嶺
権力に頼る空気

(加藤裕治、皆川剛)
https://rengetushin.at.webry.info/201710/article_3.html

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2019年09月29日

9月29日は山歩クラブ、春日通り散策

 9月最後の日曜日、いかがお過ごしでしたでしょうか。
 山歩クラブは9名で東京メトロ丸の内線「茗荷谷」駅から上野広小路までの約9Kmの街歩き。
 三つのテーマがありますよって最初。
 その一、石川啄木。
 その二、小石川七福神、
 その三、於大さんに春日のお局さん。

 お昼の弁当を広げた処は隠れテーマのひとつ、「東京都戦没者霊苑」で。
(文京区春日1-14-4 Tel 3811-5386) 
 解散地は「湯島天満宮」先。

 歴史の時間軸にしたら、江戸時代から太平洋戦争時代まで。
 実に内容の深いテーマを、萩や百日紅、路傍の曼殊沙華を見ながら、ゆっくりウオーキング。
 これで、暑かった夏ともお別れ、秋の徴をからだで感じながらのウオーキング。
 良かった、ですね。次回までお身体ご自愛のうえ、お元気でお過ごしください。
 ごきげんよう、ヤッホー。


[写真-1]真珠院の庭

真珠院の庭.JPG

[写真-2]真珠院

真珠院.JPG

[写真-3]伝通院

伝通院.JPG

[写真-4]講道館

講道館.JPG

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2019年09月28日

表現の不自由展・その後

 明らかに安倍政権による“国家検閲”だ。
 脅迫やテロ予告を含む電凸攻撃を受け、企画展「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた「あいちトリエンナーレ」に対し、文化庁が昨日9月26日、採択していた約7800万円の補助金を交付しない決定を発表した。

「表現の不自由展・その後」をめぐっては、慰安婦問題を象徴する「平和の少女像」などの展示に対し、右派からの批判が殺到。
 河村たかし名古屋市長や松井一郎大阪市長、そして自民党の国会議員らが展示を問題視・攻撃するような発言を繰り返した。
 さらに、菅義偉官房長官や当時の柴山昌彦文科相も国からの補助金をタテにして牽制していた。

 だが、まさか本当に補助金を全額取り消してしまうとは、開いた口が塞がらない。
 しかも、愛知県が設置した第三者検証委員会(「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」、座長=山梨俊夫・国立国際美術館館長)が中間報告を公表し、「条件が整い次第、すみやかに再開すべきである」と提言したのがつい前日25日のことだ。

 この文化庁の“補助金取り消し”に対し、すでにTwitter上では多くの識者や表現者らが懸念や批判の声を上げている。
 たとえば「表現の不自由展・その後」にも作品を出展したアーティスト集団のChim↑Pom(卯城竜太・林靖高・エリイ・岡田将孝・稲岡求・水野俊紀が、2005年に東京で結成)は、補助金不交付の報道に対してこう投稿した。

〈あり得ない。日本の公共的文化制度が終わります。こんな前例ありますか。これがまかり通って良いのでしょうか。リフリーダムや不自由展や知事や津田さんとかあいトリ関係者だけじゃなく、日本のアート関係者一丸となって動かないと、文化庁も助成制度も表現の自由も国際文化競走も「終わり」ませんか。〉

 また、映画評論家の町山智浩氏(1962年生まれ)は、
〈政府に都合のいい文化事業にしか補助金が出ない。今後、戦争の歴史的展示にも同じことが起こるぞ〉
と警鐘を鳴らし、小説家の平野啓一郎氏(1975年生まれ)は、
〈こんな前例を作ってはならない。強く抗議します〉
と表明。
 文筆家の内田樹氏(1950年生まれ)は、
〈愛知の芸術祭への補助金不交付の決定は、文化活動へのすべての補助金は「政権への忠誠度」を基準に採否を決すると文科省が宣言したと僕は解しました〉として
〈今後は体制批判と解釈される作品や活動には一切公的資金は支給されないからそのつもりで、という告知だと思います〉
などと投稿した。

 さらに映像作家の想田和弘監督(1970年生まれ)は、
〈えっ。安倍政権は「日本には表現の自由はいらない」と決めたようです〉
とした上で、この補助金不交付の前例がどれだけ表現を抑圧していくかについて連続でツイートしている。

〈トリエンナーレへの補助金を安倍政権が取り消す件、憲法21条に抵触するのを恐れて政府は手続き的な瑕疵を理由としているが、それは単なる言い訳なので細かく検討するに値しない。要は政府が気に食わぬ表現を含む催しには金を出さぬどころか、決まっていた補助金も引き上げる。そう宣言したわけだ。〉

〈これは政府の補助金を織り込んだイベントの主催者にとっては脅威である。すでに決まっていた7千万以上の金すら取り上げられるなら、政府の方針に少しでも反しそうな表現はあらかじめ自己検閲するであろう。今後、補助金のあるイベントでは、自由な表現をすることは多大なリスクとなる。〉

〈これは事実上、税金の拠出が認められる公共性の高いイベントであればあるほど、自由な表現はできなくなるということ。公共の場とは様々な意見や立場が排除されない場のことなので、これは完全な背理である。日本の「公共」は首相の考えにそぐわぬものは許容されぬ場になった。つまり私物化された。〉

 想田監督が指摘するとおりだ。
 このままでは完全に、安倍政権にとって“無害”か、あるいは積極的に利用したい言論、芸術、すべて表現行為だけに私たちの税金からなる補助金を交付し、逆に政権に対する異論や不都合な表現は狙い撃ちされる。
 公共から自由な表現活動が消えていき、そのまま言論統制国家さながらに突き進んでいくだろう。

萩生田光一文科相の「取り消し理由」のトンデモ 取り消しは安倍政権の政治家の圧力だ

 実際、文化庁の今回の補助金取り消し決定の裏に、安倍政権の圧力があったことは間違いない。
 
 先の内閣改造で安倍首相の側近中の側近・萩生田光一氏(1963年生まれ)が文化庁を管轄する文科相に就任したが、その萩生田文科相は昨日のぶら下がり会見で「検閲には当たらない」などと強弁した。

 しかし、これが事実上の国家検閲でなくてなんなのか。
「実現可能な内容であるか、それから継続可能かどうか」を審査したとして、「文化庁に申請のあった内容通りの展示会が実現できていない」なる不交付の理由も無茶苦茶としか言いようがない。

 繰り返すが、そもそも文化庁は今年2019年4月に「あいちトリエンナーレ」に対し、「文化資源活用推進事業」として約7800万円の補助金交付を内定させていた。
 ところが「表現の不自由展・その後」の少女像展示などが発覚すると豹変。
「事実関係を確認、精査して適切に対応したい」(菅官房長官)、「事業の目的と照らし合わせて確認すべき点が見受けられる」(柴山前文科相)などと“補助金交付の見直し”をチラつかせたのだ。
「表現の不自由展・その後」を標的にしているのはミエミエで、実際、“安倍政権御用紙”の産経新聞ですら〈元慰安婦を象徴する「平和の少女像」や昭和天皇の肖像を燃やすような映像の展示に批判が高まったことなどを受け、交付が適切かどうか精査していた〉と書いている(産経ニュース)。

 補助金をタテにとった事実上の国家検閲と呼ぶほかない。
 たとえば萩生田文科相は、主催側が少女像展示等に対する批判によって展示の継続が難しくなる可能性を知りながら文化庁に「相談がなかった」ことも不交付の理由にしたが、いや、それこそ展示への介入以外の何物でもないだろう。
 事前に展示物をひとつ残らず申請させ、その通りにつくらなければ補助金を止めるということが正当化されるからだ。
 美術の展示に限らず、創作物の制作過程で内容が変わることなどザラにあるし、それ以前の問題として、政府にとって都合の悪い内容なら事前の申請時点でハネられてしまうかもしれない。
 政権を忖度した過剰な自主規制を招くのは目に見えているだろう。

 だいたい、脅迫を含む抗議殺到によって「表現の不自由展・その後」の継続が困難になった事実は、それを予見し対策が可能だったかとは関係なく、いかなる理由があろうとも責められるべきは脅迫犯であって、主催者側であるはずがない。
 こんな理屈が通るなら、それこそ、国や自治体から補助金が出ているイベントならなんでも、ネトウヨが電凸や脅迫を繰り返して炎上させてしまえば、「対策ができていない」などと言って補助金を停止するという暴挙がまかり通ってしまうことになる。

安倍政権に近い政治家が脅迫を扇動し、「表現の不自由展・その後」中止に追い込んだ

 忘れてはならないのは、今回の「表現の不自由展・その後」をめぐる大量の電凸や脅迫は、安倍政権や政権に近い極右政治家が扇動したという事実だ。

 25日に発表された検証委員会による中間報告は、美術監督である津田大介氏(1973年生まれ)らの不備も指摘する一方、
〈過去に禁止となった作品を手掛かりに「表現の自由」や世の中の息苦しさについて考えるという着眼は今回のあいちトリエンナーレの趣旨に沿ったものであり、妥当だったと言える〉
と判定。
 そして、政治家たちの圧力発言については、
〈河村市長らの発言による直接的影響はなかったが、TVメディア等を通じた同氏らの対外的発言によって、電凸等が激化した可能性がある〉
〈政治家の発言は、純粋な個人的発言とはみなせない。内容によっては圧力となりえ、(広い意味での)「検閲」とも言いうるので、慎重であるべき。また、報道等で広く拡散されることで度を越した抗議を助長する点でも慎重であるべき〉
と断じている。

 いずれにしても、わたしたちが今回の補助金取り消しに強く抵抗しなければ、これからどんどん安倍政権がネトウヨをけしかけて、マッチポンプ的に事実上の検閲を行うということが繰り返されてしまうだろう。
 そもそも憲法で保障された「表現の自由」は、時の権力に左右されないためのものだ。

 戦中の日本では、報道だけでなく芸術作品までが検閲の対象となり、逆に戦争賛美や戦意高揚に利用されていった

 このままでは、本当にこの国は同じ轍を踏むことになる。


リテラ、2019.09.27 04:12
安倍政権の芸術検閲が始まった!
「あいちトリエンナーレ」補助金取り消しを町山智浩、内田樹、平野啓一郎、想田和弘らが批判

https://lite-ra.com/2019/09/post-4997.html

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった問題を巡り、文化庁は26日、補助金7800万円を交付しないと発表。
 萩生田文科相は「検閲にはあたらない」と強調したが、果たして「検閲ではない」と言いきれるのか。

「表現の不自由展」を巡っては、トリエンナーレが開催(先月8月1日)してから、慰安婦像の展示や昭和天皇の写真を用いた作品が燃える映像に対して抗議や脅迫が殺到。
 わずか3日で中止に追い込まれた。

 河村たかし名古屋市長が同展を「日本人の心を踏みにじるもの」と批判し始めると、菅官房長官が補助金交付について「事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と表明。
 この“菅の一声”によって、補助金見直しが検討され始めたと言っても過言ではないだろう。

 あらためて補助金交付の取りやめの理由について文化庁に聞くと、こう回答した。

「愛知県は補助金を申請する段階で、展示会の安全で円滑な運営に支障があると認識していたにもかかわらず、必要な事実を申告しなかったため、文化庁として適正な審査を行うことができませんでした。申告すべきものを申告しなかったという理由で補助金の不交付を決定した前例は、今のところ確認できません」
(地域文化創生本部事務局長)

 何だかもっともらしい説明だが、トリエンナーレは同庁の審査を経て、今年4月に文化資源活用推進事業に採択されている。
 申請に不備があるのであれば、審査の段階でハネればいいだけ。
 後から不備を理由に不交付とは屁理屈にしか見えない。

 元文科官僚で京都造形芸術大客員教授の寺脇研氏がこう言う。

「菅官房長官が補助金の見直しを示唆したことで、不交付になることはほぼ決まったようなもの。文化庁は『ちゃんと対応しろ』と命令されたに等しいからです。申請の不備が不交付の理由ですが、官邸に逆らえない文化庁が苦肉の策で出した理由をマトモに受ける人はいないでしょう。今回の決定は検閲に等しいでしょう」

 気に入らないものは潰す――。
 安倍政権の体質がよく表れている。


日刊ゲンダイ、2019/09/27 14:50
あいちトリエンナーレへの補助金撤回した文化庁の“屁理屈”
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/262417/2

 あいちトリエンナーレで文化庁が補助金の全額不交付を決めたことを受け、東京・上野の東京芸術大学前で27日、学生や教員ら200人超が撤回を求める集会を開き、「文化庁が文化を殺すな」などと訴えた。

 トリエンナーレに出品しているという卒業生の彫刻作家、小田原のどかさん(33)は、
「決定的な悪(あ)しき前例になる。国立で唯一の芸術大学だからこそ声を上げるべきだ」
と訴えた。
 油絵を描いている2年生の男子学生は、
「バイト先で話しても美術をやっている人以外は無関心。このままじゃ、お上が認める作品だけになってしまう」
と語った。

 文化庁の宮田亮平長官(1945年生まれ)は同大の元学長で、芸術家でもある。
 正門前には「宮田長官頑張れ!!」の紙がいくつも張られた。
 ツイッターで集会を呼びかけた毛利嘉孝教授は、
「文化にゆかりの深い大学の声を届けて、宮田長官には思いとどまってほしい」
と語った。

 あいちトリエンナーレの参加アーティストらで作るプロジェクト「ReFreedom_Aichi」は26日夜から不交付の撤回を求める署名活動をウェブ上で始め、27日午後9時には6万8千人を突破した。

 サイトでは、
「一連の流れは、明白な検閲として非難されるべきもの」
とし、
「脅迫を含む電凸(とつ)をすれば一部の展示が中止され、文化庁が助成金を取りやめることが前例化すれば、日本はテロと戦う気がないと全世界に発信するばかりか、文化庁が脅迫に手を貸すというメッセージにもなりかねない」
との内容で激しく非難している。

 「ReFreedom_Aichi」は、トリエンナーレのすべての作品の展示再開をめざして活動している。


[写真]
東京芸術大学で開かれた集会。文化庁があいちトリエンナーレへの補助金を不交付にしたことへ反対の声を上げた=2019年9月27日午後6時20分、東京芸術大学

朝日新聞、2019年9月27日21時16分
「文化庁が文化殺すな」
長官ゆかりの東京芸大で抗議集会

(矢島大輔、千葉恵理子)
https://www.asahi.com/articles/ASM9W533FM9WUTIL01W.html

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2019年09月27日

平塚らいてう、「表現の不自由」と闘った女

 文化庁が、「あいちトリエンナーレ2019」に対する補助金不交付を決定しました。私たちはこれに強く抗議し、方針の撤回を文化庁に要求します。

 いったん採択された補助金を、違法性などが検証されない状態で国が取り下げるということは、 異例中の異例です。文化庁はこれを「内容に関するものではない」とコメントしていますが、多くの国民がこれを国家による検閲だと解釈しています。

 文化庁は、不交付の理由として
1) 審査段階で具体的な計画がなかったこと
2) 電凸や脅迫が続いた時点で報告がなかったこと
3) 展覧会中止によって事業の継続が見込まれにくなったこと
をあげていますが、そもそもいったん適正な審査を経て採択された事業に対し、事業実施中に交付を取り消すことは、国が該当事業のみを恣意的に調査したことを意味します。

 また今回、予定どおりの実施が困難になった「表現の不自由展・その後」の支出は約420万円にすぎず、約7800万円の補助金全額の不交付を根拠づけるには全く不十分です。
 報告の有無についても、通常の助成金の過程では、申請者と文化庁双方からの報告や聞き取りが前提となります。
 今回も、文化庁は騒動時に愛知県に問い合わせをしていますし、さらには報道が過熱したことからも、騒動については周知の事実であったと考えます。

 その騒動から展覧会が中止になり、事業の継続が見込まれなくなった、との理由もあまりに一方的ではないでしょうか?
 展示中止を迫った中には市長などの公人も含み、そして過熱したのはテロ予告や恐喝を含む電凸などです。
 作品の取り下げを公人が迫り、それによって公金のあり方が左右されるなど、この一連の流れは、明白な検閲として非難されるべきものです。

 また、脅迫を含む電凸をすれば一部の展示が中止され、文化庁が動き助成金を取りやめるなどということが前例化してしまえば、日本はテロと戦う気がないと全世界に発信するばかりか、文化庁が脅迫に手を貸すというメッセージにもなりかねません。
 文化は、テロや脅迫とは逆の立場から、多様な人々の存在や意見をアピールするものです。
 そのような文化の原理原則自体と相容れない、文化庁による今回の暴力的な決定は、文化的最低限度の生活を全国民に保障する、憲法と民主主義への脅威にもなりかねません。

 今回の決定は今後、公立の美術館や劇場、公的資金を導入した芸術祭や舞台芸術・映画・音楽等の創作活動、さらには教育・研究を含むすべての文化活動に、多大な悪影響を及ぼすでしょう。
 国際的には日本は文化的先進国から失墜し、国際社会から非難される立場にもなり兼ねません。

 これまで先人たちが作りあげてきた日本の文化政策、公的助成制度の根幹を揺るがす暴挙です。

 民主主義の原則に則った芸術文化助成を、私たちの手に取り戻しましょう。
 文化庁は即刻の撤回を。
 皆様のご賛同をよろしくお願いいたします。

※ キャンペーンの進捗
 16時間前にキャンペーンが始まり、イマ(2019年9月27日13時15分)から16分前にはこのキャンペーンに賛同するのが5万筆を超えています。

Change.org
https://www.change.org/p/文化庁-文化庁は-あいちトリエンナーレ2019-に対する補助金交付中止を撤回してください

 「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」をめぐって、政治家の発言が波紋を呼んだ。
 河村たかし名古屋市長が中止を求め、当事者ではない黒岩祐治神奈川県知事までが、自分なら「開催を認めない」と発言して物議をかもした。
 黒岩知事はフジテレビの元キャスター。
 仮にも報道する側にいた人が、表現を抑圧する側に立とうというのだろうか。

 戦前の知事職は官選で、内務省という最強の官庁を後ろ盾としていた。
 その内務省は、検閲という強大な権力を用いて表現の自由を圧殺した。
 黒岩知事の発言は、官選知事の姿に重なる。

 1世紀以上前、1911年9月に創刊された『青鞜』メンバーの「表現の不自由」との闘いは参考になるかもしれない。

『青鞜』は、女の手になる女だけの文芸誌として出発した。
 主宰者の平塚らいてう(本名・明=はる)による「創刊の辞」は知られている。

「元始、女性は太陽であった。真正の人であった」

 それに続く言葉も大切である。

 「今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」

 自己を持たないことが女の美徳とされた時代に、自我を肯定し、既成概念をとり去って抑圧のない人間として立ちあがれと言う。
 これにこたえて青鞜社の社員たちは、「家」制度下で恋愛や結婚を制限された苦しい体験を自分の言葉で語り始めた。
 単なるお嬢さま芸でないのは明らかだったから、内務省は当初から「危険思想」とみていたようだ。

 翌年1912年4月には早くも発禁処分になり、警察に雑誌を押収されている。
 荒木郁の作品「手紙」が原因とされる。
 人妻から若い愛人にあてた手紙形式で密会の喜びを語った短編で、発禁理由は出版法第19条の「風俗壊乱」、社会の風紀を乱すというのだ。

 メディアもこぞって青鞜社員をバッシングして、権力に媚びた。
 尾竹紅吉(本名・一枝)がカフェ兼レストラン「メイゾン鴻の巣」で「五色の酒」(カクテルのこと―筆者注)を飲んだように書いたり、吉原見学を吹聴したりしたのがきっかけ。

『読売新聞』、『東京日日新聞』などが「新しい女」、「新しがる女」などのタイトルで、あることないこと織り交ぜて刺激的な読み物に仕立てあげ、10回も20回も連載した。

 取材にきた記者に、紅吉は「五色の酒」は飲んでいないと言ったが、それでは「やじることも出来ないし、非難の材料にはなりませんから新聞はおかまいなしにガアガア書きたてたのです」。
「こんな記事は大うそです」と言っても、一行も訂正してもらえなかったと、戦後になって回想している(『世界』1956年3月)。

 社会の規範からはみだした者をたたきのめす体質は、今も変わらずメディアにあり、ネット空間はそれを増幅している。

 社員たちが動揺する中で、らいてうは『中央公論』(1913年1月)に寄稿して、毅然と自分は「新しい女」だと宣言し、「旧道徳、法律を破壊しよう」と書いた。
『青鞜』でも特集を組んだ。
 これを受けてメディアで論議が活発になり、「新しい女」は不良少女というマイナスイメージから、新時代を担う女というプラスイメージに転換していく。
 そして、この年1913年、『青鞜』は文芸集団から思想集団へと大きく変貌する。

 弾圧は続く。
 福田英子の「婦人問題の解決」(1913年2月)が原因で再び発禁。
 らいてうが「世の婦人達に」(同年1913年4月)で、良妻賢母主義を否定し、現行の結婚制度に服することはできないとしたことで警察の注意を受け、続けて刊行した評論集『円窓(まるまど)より』も発禁になった。

 警察部門を所管した内務省警保局長が語っている。

「近頃往々青鞜その他の女子文学雑誌に甚だしく淫乱な記事を掲げ又従来の慣習及び道徳に反対したりする文章がみえるのは誠に困ったものである……当局者としては出来る限り危険思想の撲滅に力むるの外に方法はないのである」
(『大阪朝日新聞』同年1913年4月23日)。

「ホワイトキャップ党」を名乗る者から編集部に脅迫状が届き、「青鞜社中第一期に殺スベキモノ」として4人の名が挙げてあった(『青鞜』1913年6月「編輯室より」)。
 らいてう自宅の書斎の窓に何者かが石を投げつけたのもこの頃。

 それでもめげずに、貞操や同性愛や産児制限や堕胎など、それまで女が口にすることがはばかられたテーマを取り上げた。
 それは他の雑誌メディアも巻きこんだ幅広い論争になり、女性問題を社会問題へと押し上げた。

 1916年2月に終刊したが、『青鞜』が刊行された4年半は、睦仁天皇が死去して明治が終わり、大正に変わった時期と重なる。
 この時期に最も世間を驚かせたのは、天皇の葬儀が行われた1912年9月13日に陸軍大将乃木希典と妻静子が殉死した事件である。
 2人の死は「忠」の見本として美化されたが、個を封じこめた死と、個の発露にこだわった女たちの生は対照的だ。

 大正デモクラシーという自由主義の時代をひらくのに一役買ったのは女のほうである。
 彼女たちは時代とまっすぐに向き合い、古い権威や制度と衝突しながら自らを成長させてもいる。

 表現の自由は民主主義の根幹である。
 沈黙は現状を容認することになる。
「表現の不自由展・その後」の中止について衆知を集めて議論しよう。
 閉塞状況の時代に、『青鞜』と同じように、風穴をあけたい。


47 News、2019/9/27 08:00 (JST)
「表現の不自由」と闘った女たち
(女性史研究者・江刺昭子)
https://this.kiji.is/549945101122962529?c=39546741839462401

 朝出かけた若い男女のふたりが、帰ってこない。
 栃木県・塩原温泉の老舗(しにせ)旅館「満寿家(ますや)」の主人が異変に気づいたのは、1908(明治41)年3月23日の夕刻だった。

 思いつめた様子のふたりは前夜、この宿に入った。
 出入りの人力車夫に聞くと、温泉町のはずれで降りて、峠の方へ向かったという。
 春彼岸とはいえ、山は雪で覆われ、会津に通じる尾頭(おがしら)峠は雪が深く、雪解けまでは通れない。
 主人はあわてて駐在に知らせた。

 その頃、ふたりはひざまでの雪に悪戦苦闘していた。
 一面の雪で道に迷い、つまずき、ついに雪の上に座り込んだ。
 疲れきり、心中を決行する気力も失われた。
 男は、女が懐に入れてきた短刀を雪の谷底に放り投げた。

「駐在さんや若い衆が翌日早朝に捜索に出かけて、案外早く見つけたそうです」

 今の満寿家の若主人で、当時の主人のひ孫にあたる臼井祥朗(さちお)さん(41)は言う。
 臼井さんはふたりが自家に泊まった縁もあり、学生時代に事件を調べ、当時を知る古老にも話を聞いた。
 捜索隊は、途中に立ち寄った炭焼き小屋の番人の話や雪に残る足跡をたどり、雪の中のふたりを見つけた。

 秋の一日、塩原の現地を訪ねた。
 箒(ほうき)川に寄り添うように並ぶ温泉街から、さらに川沿いにしばらく行くと、事件の碑があった。
 峠の登り口にあたるところだ。
 今、尾頭峠下にはトンネルが通り、峠への道は草むしていた。

 男は森田草平、27歳。
 東京帝国大学を卒業し、夏目漱石の門下生で文学志望。
 漱石の世話で中学の英語教師になったが、半年で首になっていた。
 駆け落ち同然で一緒になった郷里の女との間に子もありながら、東京の下宿先の踊りの師匠とも関係があった。

 女は平塚明子(はるこ〈らいてう〉)、22歳。
 会計検査院高官の三女。
 日本女子大を卒業した才女だが、良妻賢母教育に反発、神と自我を求めて禅寺で座禅を組む一方、文学にも興味を持っていた。

 ふたりが出会ったのは、女子学生が文学を学ぶ勉強会だった。
 草平が講師をし、受講生の明子と数ヶ月で親しくなった。
 観念的な言葉のやりとりから始まった関係は、愛し合う男女が死へ突き進んでいくイタリアの作家ダヌンチオの小説「死の勝利」に強い影響を受け、死へと急速に傾斜していった。

 東京をたつ前、明子は友人に、
「恋のため人のために死するものにあらず。自己を貫かんがためなり。自己のシステムを全うせんがためなり」という遺書を残した。
 草平は事件後、漱石に、
「恋愛以上のものを求め、人格と人格との接触によって、霊と霊との結合を期待した」と述べ、漱石に「結局、遊びだ」と一蹴(いっしゅう)される。
 理念先行、肉体が伴わない奇妙な心中行である。

 じれったい男と新しい女。
 屈託する男とシステムに殉じる女。
 水と油だが、「死への誘惑」がふたりを塩原の雪原に招きいれた。

スキャンダルをこやしに

 「自然主義の高潮 紳士淑女の情死未遂 情夫は文学士、小説家 情婦は女子大学卒業生」

 新聞各紙はスキャンダルに飛びつき、こんな見出しで書きたてた。

 帰京した森田草平は、師夏目漱石の早稲田の家の門をくぐった。
 漱石はしおれきった草平をいつもの温顔で迎えた。
 あれこれと聞かず、部屋を与えて休ませた。
 東京朝日新聞の小説記者・漱石の懐に入るのが、マスコミの攻勢をしのぐ最良のやり方だった。
 草平は2週間、漱石の家にかくまわれた。

 これから生きていくには、この体験を小説に書くしかない。
 草平は決意し、漱石も、社会的な信用をなくした草平にはそれしかないと思った。
 伝え聞いた平塚明子(はるこ)の母光沢(つや)は、漱石宅を訪れ、スキャンダルの上塗りになるから執筆をやめるよう頼みこんだ。
 漱石は「ごもっともな次第だが、この男はいま、書くよりほかに生きる道がないのです」と答え、会見は漱石に押し切られる形に終わった。

♪ ♪ ♪

 しばらくして明子は、松本高女に勤める友人のはからいで信州・松本郊外の農家で静養した。
 ここで、雪の季節になると羽毛が純白になる高山の鳥、雷鳥のことを聞き、ふっくらとしたやさしさのなかにある、たくましさに強い印象を受けた。

「塩原事件」(煤煙(ばいえん)事件ともいう)の実録小説が、東京朝日に掲載されるのが決まったのはその年、1908年の11月だった。
 この吉報を本人に知らせようと、漱石はその日、草平の下宿を2度も訪ねるが、不在だった。
「どこを歩いて居るにや、あまりのんきにすると、向後もきっと好い事なき事受け合いに候」という漱石の真情のこもった叱責(しっせき)の手紙が残っている。
 翌朝、手紙を読んで草平は泣いた。

 朝日掲載は漱石の推薦があったからだが、あのスキャンダルの当人が内情をぶちまける、ということは新聞社も大歓迎だった。
 翌年1909年、正月に連載が始まった小説「煤煙」は注目され、スキャンダルの主が一転、作家の仲間入りを果たした。

♪ ♪ ♪

 明子も負けていない。
 松田聖子ばりにスキャンダルをこやしに前進していく。
 信州から帰ると女性の文学仲間らとはかって、女性だけの文芸雑誌「青鞜(せいとう)」を刊行する。
「元始、女性は太陽であった」という絶妙なフレーズの宣言は、社会に強烈なインパクトを与えた。
 この時初めてらいてう(雷鳥)という筆名を使う。
 明子かららいてうに「羽化」した瞬間だった。
 事件の3年後、1911(明治44)年のことだ。

 その間、ふたりは町中で偶然出会った。
 じっくり話そうと、近くの旅館に入り、一晩、禅と性欲について語り明かしている。
 だが、ふたりの歩む道はしだいに離れてゆく。

 草平は朝日新聞の文芸欄の実務担当者になるが、草平を巡り、朝日社内で騒動が起きる。
 漱石が病気がちだったこともあり、連載小説の作者選定が行きづまった。
 やむなく草平が再び執筆、塩原事件の後日談のような「自叙伝」を連載する。
 だがこのスキャンダルの賞味期限はとうに切れていた。
 社内外から批判が起こり、主筆の池辺三山辞任に至った。
 実は以前から複雑な社内紛争があり、「自叙伝」がきっかけに表面化したのだが、草平はよくよくお騒がせ男である。

「先生は計画性のない人でしたね。二十数回引っ越したのに、結局自分の家を持たなかった」

 草平の生家跡、岐阜市鷺山(さぎやま)にある草平記念館の館長の森崎憲司さん(68)は苦笑する。
 本人はまじめなつもりでも、何かちぐはぐな草平は、ジグザグの人生を歩む。

 ドストエフスキーなど西洋の小説を数多く英語から翻訳し、法政大学の教授になった。
 後に法大で内紛がおこり、草平は一方の旗頭に祭り上げられ、結局辞任する。
 戦後、共産党に入党し世間を驚かせたが、実質的な活動はせず、結果的に共産党の宣伝になっただけだった。
 疎開先の長野県飯田のお寺が終焉(しゅうえん)の地だった。

♪ ♪ ♪

 「青鞜」は女性の文芸雑誌から女性解放へ軸足を変え、らいてうも成長、脱皮してゆく。
 大正、昭和と困難な時代にありながら、ほぼ一貫して女性解放、母性保護を訴え続けた。
 戦後も平和運動、婦人団体のリーダーとして先頭に立つ。
 1970年の安保改定の時、本人が強く要望し、病身をおして東京・成城の自宅周辺で改定反対のデモをした。
 翌年1971年、85歳で死去。

 らいてうが草平と最後に会ったのは、戦後まもなく、渋谷の芝居小屋だった。
「プレイボーイ」という題の翻訳劇を見ていると、観衆のなかに草平の姿を見つけた。
 声をかけたかったが隣に夫がいたので遠慮した、とらいてうは後に回想している。

※ ふたり
 森田草平は1881(明治14)年、岐阜市郊外の小地主に生まれた。四高(金沢)に進むが、郷里の女性との同棲(どうせい)がわかり退学。東京に出て一高、東京帝大英文科を卒業、出生の悩みを夏目漱石に打ちあけ、門下生になる。多くの翻訳のほか、漱石の伝記を著し、「漱石の永遠の弟子」を自称する。「塩原事件」の明子は、漱石の「三四郎」のヒロイン美禰子の造形に影響したとされる。塩原事件を題材にした「煤煙」のほか「吉良家の人々」「細川ガラシヤ夫人」(未完)などの小説がある。

 1886(明治19)年に東京で生まれた平塚らいてうは日本女子大を卒業、塩原事件の後、「青鞜(せいとう)」を刊行した。青鞜は伊藤野枝や尾竹紅吉(一枝)ら「新しい女」が集まり、近代日本女性史に一時期を画した。年下の画家、奥村博史と法律によらない結婚をし、「若いつばめ」の言葉を生む。市川房枝らと女性による市民団体・新婦人協会を結成、先輩格の与謝野晶子と母性保護をめぐる論争をするなど、常に第一線にたった。


朝日新聞、2006年11月11日
愛の旅人
小説「煤煙」
森田草平と平塚らいてう ― 栃木・塩原温泉

文・牧村健一郎 写真・山本壮一郎
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200611110128.html

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小泉環境相はニューヨークに着くと「ステーキが食べたい」!

 2019年9月23日に米ニューヨークで開かれる国連気候行動サミットを前に、若者が政治家に気候危機への対策を求める世界一斉デモが20日、日本を含む163ヶ国・地域で行なわれた。
 デモに先駆けて、欧米では昨夏から大学生や高校生が授業をボイコットする「学校ストライキ」が続いているが、日本では広がっていない。
 運動を呼びかける若者たちは、気候危機の認識を共有してもらえないことに悩んでいる。

 20日の世界一斉デモは欧米やアジア、アフリカなどの各国で行われ、主催者によると400万人以上が参加した。
 日本では東京、大阪、京都、名古屋、福岡などであった。
 東京では渋谷の国連大学前に約2800人が集まり、「地球はみんなのシェアハウス」「私たちの家が燃えている」などと書いたプラカードを掲げて行進した。

 東京のデモを主催したのは、有志の若者でつくる「Fridays For Future Tokyo (FFFT)」(未来のための金曜日 東京)。
 スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさん(16)の訴えに共感する都内の大学生や高校生が今年2月に立ち上げた。
https://www.facebook.com/fridaysforfuturejapan
https://www.fridaysforfuture.org/

 FFFTのメンバーで、立教大4年の宮崎紗矢香さん(22)は今年2019年5月から今回のデモを準備してきた。
 2月にスウェーデンを旅行してバイオガス発電に取り組む企業などを見学したことをきっかけに、環境問題に取り組もうと決めた。

 宮崎さんは今春、大学の授業でグレタさんの動画を上映する機会を得た。
 動画は、グレタさんが、
「わずかな人びとのぜいたくを支えているのは、多くの人びとの苦しみ」と語り、
「私たちのような国々に暮らす豊かな人びと」は行動を変える必要があると訴えるものだ。
 上映後、宮崎さんは自分たちにできることとして、プラスチックごみを減らすよう呼びかけた。

 ところが、聴講した学生から「何も思わない」「何が問題かわからない」と感想をぶつけられ、言葉を失った。
「私もグレタのように人びとの意識を変えたかったが、できなかった」

 欧州や米国では、グレタさんに共鳴した高校生や大学生が授業をボイコットして、気候危機への対応を訴える「学校ストライキ」が続いている。
 だが、日本では広がっていない。

 FFFTのメンバーで、国際基督教大1年の梶原拓朗さん(18)は、今回のデモの準備のために金曜日の必修授業を2週続けて休んだ。
 授業を欠席する際、担当教員にデモの準備が理由と伝えたが、「理解してもらえなかった」と嘆く。

 今回の世界一斉デモの英語圏での名称は、「Global Climate Strike(グローバル気候ストライキ)」だ。
 FFFTと日本の関連団体はその名称を「グローバル気候マーチ」にし、集合時間も放課後の午後5時にした。
 FFFTのメンバーで都立国際高1年の岩野さおりさん(16)は「『スト』や『デモ』のような激しい言葉は避け、開始時間も放課後にして、誰でも気軽に参加できるイベントにしたかった」という。

 日本での世界一斉デモ実施を支援する国際環境NGO「350.org」日本支部によると、日本以外でもデモの名称を言い換えたケースは多い。
 例えば、インドネシアでは「気候のための休憩」、太平洋諸国では「強い風」となっている。
 同NGOメンバーの荒尾日南子さん(37)は、「気候変動問題に関心がない人にも参加してもらおうと、どの国も工夫している」と話す。

 国連気候行動サミットに先立って、21日にはニューヨークで国連ユース気候サミットが開かれる。
 国連はユース気候サミットに世界から18〜29歳の若者を募集し、100人を招いた。
 日本から選ばれた横浜市出身の佐藤真弓さん(24)は、タイを拠点に温暖化と森林破壊の影響を調査してきた。

 佐藤さんは、気候危機をめぐる抗議運動で目立つ日本と欧米の違いは、「対立を避ける文化」が影響していると感じる。

「若い世代は声を上げることをためらわないでほしい。10〜20年後に社会の決定者になる若い世代が、気候危機の取り組みを引っ張るべきだ」

(宋光祐、ワシントン=香取啓介)

■ NY、行政も親も後押し

 一方、米国では、気候危機への取り組みを訴える若者を、親や行政がサポートしている。

 20日の世界一斉デモは全米1000ヶ所以上で行なわれ、ニューヨークではな6万人以上(市発表)が参加した。
「地球は二つとない」「地球の扇風機になろう」などと書かれたプラカードや紙を掲げた若者たちが、グレタさんと一緒にマンハッタンの繁華街を練り歩いた。

 デモに参加したニューヨーク市の公立高校3年オリビア・ウォルゲムスさん(17)は、今年2019年5月から毎週金曜日は学校を欠席し、グレタさんに共鳴する仲間たちと国連本部前で「温暖化対策に取り組むべきだ」と訴えてきた。
 当初は学校を休むことに抵抗があったが、通い続けるうちに、
「命、未来、そして次の世代を守るために、私たちは抗議する責任があると実感するようになった」と語る。
 両親も学校ストをサポートしてくれるという。

 米紙ワシントン・ポストなどの今年2019年7〜8月の世論調査によると、米国の10代の57%は気候変動に不安を感じ、学校ストに参加したことがある割合は15%に上る。
 ニューヨーク市教育局は今回の世界一斉デモを前に、管轄する公立校1840校の児童・生徒110万人が「デモに参加するために学校を休むことを認める」と発表した。

 ニューヨークのデモに6歳の長男と参加した団体職員エスター・ロビンソンさん(49)は7年前、米東海岸に上陸した大型ハリケーン「サンディ」の被害を目の当たりにし、「一刻も早く温暖化対策に取り組むべきだ」と意識が変わったという。
「多くの市民が温暖化の影響を身をもって感じる時代になった。学校ストは意義ある活動だ。私たち親や教師も、若者への連帯を示さなければならない」

(ニューヨーク=藤原学思)

◇〈学校ストライキ〉
 スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさん(16)が昨年2018年8月、地球温暖化に対する政府の無策に抗議するため、一人で学校を休んでストックホルムの国会議事堂前に座り込み、気候危機の影響を受けるのは若者だと主張した。
 グレタさんの行動はSNSで世界に拡散。共感した世界各地の高校生や大学生が「未来のための金曜日」と称して、毎週金曜に授業をボイコットする「学校ストライキ」を始めた。
 グレタさんは今年2019年のノーベル平和賞の候補になるなど、気候危機への対応を訴える象徴になっている。


[動画]
気候変動防止へ 世界で若者がデモ行進

[写真]
デモ行進の出発前、プラカードを掲げて気候危機を訴える参加者たち=2019年9月20日午後5時11分、東京都渋谷区

朝日新聞、2019年9月21日15時00分
欧米で広がる学校スト、日本では「グレタのようには…」
https://digital.asahi.com/articles/ASM9J3GRDM9JUHBI00P.html

 米ニューヨークで2019年9月23日に開かれる国連気候行動サミットに向けた議論のプロセスで、温室効果ガスの排出削減策を話し合うグループの議長役を日本が依頼されたが、引き受けなかったことが、分かった。

 外務省は「6月の20ヶ国・地域首脳会議(G20大阪サミット)やその準備に集中するためだった」と説明。
 一方、日本は当面の削減目標の引き上げに消極的なことから、政府内には「議論を先導するのが難しく、辞退した」との見方がある。
 環境団体からは「世界をリードする役割を担ってほしかったが残念だ」と失望の声が上がっている。

 今回のサミットは、地球温暖化に強い危機感を抱く国連のグテレス事務総長の呼び掛けで開催。
 各国は削減目標の引き上げの表明が期待されている。
 分野別に9グループに分かれて事前に事務レベルで協議した結果も報告される予定だ。

 国連は排出削減の強化に関するグループの議長役を日本とチリに依頼。
 3月にサミットのホームページに議長役として掲載されたがその後、日本は削除された。

 外務省は「依頼に応じるかどうかを検討中に一方的に公表された」と説明する。
 だがある政府関係者は、G20サミットを理由の一つに挙げつつも、
「削減目標引き上げを決めた国が参加する中、目標見直しの議論がほとんど進まない日本が話し合いをリードするのは困難だとして辞退した、と聞いた」と取材に答えた。

 パリ協定は、2020年までに排出削減目標を引き上げるよう求めている。
 日本は「2030年度に2013年度比で26%減」との目標を掲げるが、見直しの議論は進んでいない。


東京新聞・夕刊、2019年9月20日
国連気候行動サミット
温暖化討議、議長役を日本断る
環境団体から失望の声

https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201909/CK2019092002000329.html

 やっぱりこいつは救いようのないバカだった。小泉進次郎環境相が国連気候行動サミットに出席するためアメリカ・ニューヨークに入ったが、そこで驚きの行動に出たのだ。

 TBSニュースによると、「毎日でもステーキが食べたい」と語っていたという小泉環境相はニューヨークに着くと「ステーキが食べたい」と話し、さっそくステーキ店に入店したというのだ。

 これはなにも「外遊先で『ステーキ食べたい』ってお気楽なもんだな」などとツッコみたいわけではない。地球温暖化対策を議論する「国連気候行動サミット」に出席する環境大臣がステーキを食すというのは、はっきり言って正気の沙汰ではないからだ。

 というのも、畜産業は地球温暖化の原因となっている温室効果ガスを大きな割合で排出しており、2013年には国連食糧農業機関が温室効果ガスの14.5%が畜産業に由来していると公表。とりわけ牛は米国科学アカデミー紀要(PNAS)が2014年に公表した研究でも〈1人前の牛肉を生産するために、同カロリー分の豚肉の4倍、同量の鶏肉の5倍の温室効果ガスが放出される〉とされている(ウォール・ストリート・ジャーナル8月9日付)。さらに、国際的な問題になっているブラジルのアマゾン熱帯雨林における大規模な森林火災問題も、〈火災のほとんどは、農地・牛の牧畜用地開拓を目的とする人間によって引き起こされたもので、熱帯雨林に深刻な影響を与えている〉(AFP9月22日付)と報道されている。

 このように牛肉の大量生産が地球温暖化や環境破壊を引き起こしていることから、欧米では「ミートレス」の動きが活発に。実際、小泉環境相がステーキを楽しんだニューヨーク市ではこの9月から公立学校で「ミートレス・マンデー」を実施。ビル・デブラシオ市長は「肉の消費を少しでも減らすことはニューヨークに住む人々の健康改善につながり、温室効果ガスの排出量削減にもなる」と語っている(AFP 3月12日付)。

 ともかく、環境問題に関心がなくとも「牛肉は地球温暖化の大きな原因」ということは常識の話。にもかかわらず、よりにもよってこれから温暖化対策を議論しようとやってきた日本の代表である環境大臣がニューヨークで「ステーキ食べたい」と言い放ち、さっそくステーキ店に入店するって……。これは世界中に恥を晒したも同然だ。

 いや、恥を晒したのはこの行動だけではない。きょう、小泉環境相は国連の環境関連イベントで演説をおこなったのだが、そこではこんなことを述べたのだ。

「気候変動のような大きな問題は楽しく、クールで、セクシーであるべきだ」

 ちょっと何言っているのかわからないが、問題はここから。この演説をさっそくロイターが「気候変動との戦いを「セクシーに」 日本の新しい環境大臣が発言」というタイトルで配信したのだが、記事では火力発電所を増やすなど日本政府が国連の温暖化対策に逆光している点などに触れた上、〈「いままで我々日本は、強いアクションとリーダーシップを発揮してこなかった、でもこれからは、きょうから、より多くの取り組みをしたい」と、小泉はなんら詳細に触れることなく語った〉とバッサリ切り捨てているのだ。ようするに、進次郎氏の話には何の中身もないことが、恥ずかしすぎるタイトルとともに世界に配信されてしまったのである。

除染廃棄物について聞かれた進次郎「30年後の自分は何歳かな?」

 無論、進次郎氏の「話の中身が空っぽ」問題は、いまにはじまった話ではない。実際、環境大臣に就任後すぐに福島県を訪問した際も、除染廃棄物の最終処分場問題について記者から問われ「(30年以内に県外で最終処分する方針は)福島県民のみなさんとの約束」「約束は守るためにある。全力を尽くします」などと回答。だが、「具体的には?」と記者から“更問い”されると、こんなことを言い出したのだった。

「私のなかで30年後ってことを考えたときに、30年後の自分は何歳かな?と、あの発災直後から考えていました。だからこそ、私は健康でいられれば、その30年後の約束を守れるかどうかという、そこの節目を、私は見届けることができる可能性のある政治家だと思います」

 具体策を訊かれているのに、「30年後を見届けられる政治家だ」。なんだそれとしか言いようがないだろう。しかも、このあと進次郎氏は、「だからこそ果たせる責任もあると思うので、その思いがなければ、ふたば未来学園の取り組みも私は取り組んでいません」「教育というのは一過性の支援ではできません」などと滔々と語り出し、話題を教育の話にすり替えたのだった。

 この発言はネット上でもすぐさまツッコミが入り、「#進次郎さんにキリッと朗読してほしいコメント」というハッシュタグまで登場。進次郎氏が言いそうなことを投稿するという大喜利までスタートしたのだ。

「コップに一杯のオレンジジュースがあったとします。私がそれを一気に飲む。すると、もう一杯、飲みたくなる。もう一杯入れて、飲む。またもう一杯。何杯飲んでも値段は同じです。これが、ドリンクバーです」

「一週間というのは7日あるわけですね。そう考えると7日後には、また同じ曜日になるんだなと。そう思いますね」

「みなさんに、12時の7時間後は7時であり、19時でもあるということを真剣にお伝えしたい」

 くどくどと何か言っているようで、当たり前のことしか言っていない、何も言ってない……いずれも進次郎氏の発言の本質を押さえているものだ。ようするに、力強くもっともらしく何かを言っていても中身は驚くほど空っぽだということを多くの人がすでに見抜いているのである。

田中真紀子「進次郎は30年経ったら今の安倍さんになる」

 その上タチが悪いのは、前述したようにいつの間にか話をはぐらかし、問題をすり替えることだ。しかし、これは安倍政権全体にいえる問題で、「スガ話法」「ご飯論法」も同じ。本サイトでこれまでも言及してきたように、進次郎氏は「安倍首相にももの申す新風」などではなく、安倍政権の真髄というべきものを、そっくりそのまま引き継いでいるのだ。
 
 そして、じつはそのことを早い段階で見抜いていた人物がいる。森友問題が大きな話題になっていた2018年3月、進次郎氏が自民党大会で「総理が言った『徹底的に真相究明をやる』と。その言葉通りの徹底究明。これをやらなければいけない」と述べたのだが、この発言を取り上げた『ビビット』(TBS)では、VTR出演した田中眞紀子が進次郎氏をこう評したのだ。

「あれ(進次郎氏)は若い子なのに、汚いと思う。お父さんのやり方を真似しているのかも分からないけど。もっと本気で取り組むんだったら、自分が質問しなければいけない。あの人は30年前の安倍さん、30年経ったら今の安倍さんになる子ね」
(スポーツ報知2018年3月28日付)

 奇しくも進次郎氏は前述したように自身のことを「30年後を見届けられる政治家だ」などと言っていたが、30年後には安倍独裁政権を進次郎氏が引き継いでいるとしたら……。そんな地獄が現実になる前に「中身が空っぽのポエム野郎」という進次郎氏の実態を国民の共通認識にする必要があるが、肝心のマスコミは相変わらず「小泉環境相が初外遊」などとはしゃいでばかり。これではほんとうに田中眞紀子の予言が当たってしまうかもしれない。


[写真]
ステーキを食べ終えてご満悦な様子をオフィシャルブログ動画で公開した進次郎

リテラ、2019.09.23 09:44
小泉進次郎「ステーキ食べたい」が環境相失格な理由
温暖化対策で「ミートレス運動」の最中に無知を露呈
海外メディアもツッコミ

https://lite-ra.com/2019/09/post-4991_3.html


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Greta Thunberg: War on nature must end

Greta Thunberg - Inspiring Others to Take a Stand Against Climate Change
https://www.youtube.com/watch?v=rhQVustYV24

Climate activist Greta Thunberg tours the UN
https://www.youtube.com/watch?v=sM5naUKA5t4

Swedish climate activist Greta Thunberg chastised world leaders Monday, Sep. 23, for failing younger generations by not taking sufficient steps to stop climate change.

"You have stolen my childhood and my dreams with your empty words," Thunberg said at the United Nations Climate Action Summit in New York.

"You're failing us, but young people are starting to understand your betrayal. The eyes of all future generations are upon you. And if you choose to fail us, I say we will never forgive you," she added.

Thunberg traveled to the U.S. by sailboat last month so she could appear at the summit.

She and other youth activists led international climate strikes on Friday in an attempt to garner awareness ahead of the UN's meeting of political and business leaders.

WATCH: Greta Thunberg's full speech to world leaders at UN Climate Action Summit
https://www.youtube.com/watch?v=KAJsdgTPJpU

 ニューヨークで2019年9月23日に開催される国連気候行動サミットを前に、具体的な気候変動対策を求めるデモ「気候ストライキ」が20日、世界各地で行われ、主催者発表で約160ヶ国の計400万人以上が参加した。
 ドイツでは全土で140万人がデモ行進した。

 ストライキは、スウェーデン人少女グレタ・トゥンベリさん(16)が母国で始めた運動をきっかけに世界に拡大。欧州では英国、フランス、東欧諸国などでも大規模なデモが行われた。

 ベルリンのデモには主催者発表で27万人が参加し、ブランデンブルク門を起点に中心部を行進。
 参加者は「今すぐ行動を」「地球の代わりはない」などと書かれた手作りのプラカードなどを手に温暖化対策の強化や再生可能エネルギーの利用を訴えた。

 学校のクラスメートと参加したヨナス・フォーゲルさん(17)は「世界のリーダーはサミットで具体策を示してほしい」と期待。
 デモには親子連れも多く、娘を連れていたアンナ・フックスさん(30)は「子どもたちの未来のために、みんなが温暖化について真剣に考える必要がある」と訴えた。

 25万人が参加したニューヨークでは、保護者の同意を条件に学校を休むことを容認。
 中学生のエヤマリー・フランクリスさん(13)は「自分の未来や子孫に貢献したいと思い参加した。人びとはまず環境問題を認識すべきだ」と話した。

 ニューヨークの国連本部では21日、若者気候サミットが開かれ、トゥンベリさんは20日のストライキに「特に若者の団結、勢いを示すことができた」と手応えを語った。

 トゥンベリさんも参加する23日のサミットには、温暖化自体に懐疑的なトランプ米大統領は出席しない見通し。


[写真]
20日、ベルリンで温暖化対策を訴えデモ行進する若者ら

2019年9月22日東京新聞・朝刊、2019年9月22日
気候変動対策「今すぐ」
デモ160ヶ国「若者団結示せた」

[ニューヨーク=赤川肇、ベルリン=近藤晶]
https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201909/CK2019092202000124.html

23日の「気候行動サミット」でのグレタ・トゥンベリさんの演説全文は次の通り。
 
 私たちはあなたたちを注意深く見ている。それが、私のメッセージだ。
 こんなことは、完全に間違いだ。
 私はここに立っているべきではない。
 私は海の反対側で学校に戻っているべきだ。
 それなのにあなたたちは、私たち若者のところに希望を求めてやってくる。

(そんなことが)よくもできるものだ。
 あなたたちは空っぽの言葉で、私の夢と子ども時代を奪い去った。
 でも私は運が良い方だ。
 人びとは苦しみ、死にかけ、生態系全体が崩壊しかけている。
 私たちは絶滅に差し掛かっているのに、あなたたちが話すのは金のことと、永遠の経済成長というおとぎ話だけ。
 何ということだ。

 過去30年以上、科学は極めて明瞭であり続けた。
 必要な政策も解決策もまだ見当たらないのに、目を背け、ここに来て「十分やっている」なんてよくも言えるものだ。
 あなたたちは私たちの声を聞き、緊急性を理解したと言う。
 でもどれだけ悲しみと怒りを感じようと、私はそれを信じたくない。
 なぜなら、もし本当に状況を理解し、それでも座視し続けているとしたなら、あなたたちは悪だからだ。
 そんなことを信じられない。

 10年間で(温室効果ガスの)排出量を半減するというよくある考え方では、(気温上昇を)1.5度に抑えられる可能性が50%しかなく、人類が制御できない不可逆的な連鎖反応を引き起こす恐れがある。
 あなたたちは50%で満足かもしれない。
 でもこの数字は(後戻りできない変化が起こる)転換点のほか、(永久凍土が溶けることなどで温暖化が進む)ほとんどのフィードバック・ループ、有害な大気汚染による温暖化、公平性や気候の正義といった側面を考慮していない。
 この数字はあなたたちが空気中に出した何千億トンもの二酸化炭素(CO2)を、私たちの世代が、(現時点で)ほとんど存在していない技術で吸収することを当てにしている。
 だから、50%の危険性は私たちには全く受け入れられない。
 私たちはその結果と共に生きていかなければならない。

 地球の気温上昇を1.5度に抑える確率を67%にするには、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の最善の見立てでは、2018年1月1日時点で世界に残されたCO2排出許容量は4200億トンだった。
 現在では3500億トンを下回った。

 よくも従来通りの取り組みと技術的な解決策で何とかなるなんて装うことができたものだ。
 現状の排出レベルでは、残されたCO2排出許容量に8年半もたたずに達してしまう。

 現在、これらの数字に沿って作られた解決策や計画は全くない。
 なぜなら、これらの数字は都合が悪すぎるからだ。
 そしてあなたたちはまだ、このようなことを口にできるほど成熟していない。

 あなたたちには失望した。
 しかし若者たちはあなたたちの裏切り行為に気付き始めている。
 全ての未来世代の目はあなたたちに注がれている。
 私たちを失望させる選択をすれば、決して許さない。
 あなたたちを逃がさない。
 まさに今、ここに私たちは一線を引く。
 世界は目を覚ましつつある。
 変化が訪れようとしている。
 あなたたちが好むと好まざるとにかかわらず。

 ありがとう。

[写真]
23日、米ニューヨークで、国連の「気候行動サミット」で話すグレタ・トゥンベリさん

東京新聞・朝刊、2019年9月25日
グレタ・トゥンベリさん演説全文
「すべての未来世代の目はあなたたちに注がれている」

(ニューヨーク・共同)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201909/CK2019092502100025.html

【9月24日 AFP】スウェーデンの高校生環境活動家グレタ・トゥンベリ(Greta Thunberg)さん(16)は23日、米ニューヨークで開幕した国連(UN)気候行動サミットで演説した。トゥンベリさんは、世界の首脳らが温室効果ガス排出問題に取り組まず、自分たちの世代を裏切ったと非難し、「よくもそんなことを」と怒りをぶつけた。
 アントニオ・グテレス(Antonio Guterres)国連事務総長が開催した同サミットは、実現が危ぶまれる地球温暖化対策の国際的枠組み「パリ協定(Paris Agreement)」を再び勢いづかせる狙いがある。
 熱のこもったトゥンベリさんの演説は、サミットの基調を定めるものとなった。

 トゥンベリさんは「私はここにいるべきではない。大西洋の向こう側に帰って学校に通っているべきだ」と言明。
 時に声を震わせながら「あなた方は希望を求めて私たち若者のところにやってくる。よくもそんなことができますね」と批判し、「私たちは大絶滅の始まりにいる。それなのに、あなた方が話すことと言えば、お金や永続的な経済成長というおとぎ話ばかりだ。よくもそんなことを!」と怒りをあらわにした。

 トゥンベリさんは、気候変動対策をめぐる政府の怠慢に抗議する若者の運動を代表する世界的な「顔」となっている。
 この運動では20日、世界各地で数百万人の児童・生徒が学校ストを行った。

 23日の国連発表によると、パリ協定に応じ、2050年までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロとする「カーボンニュートラル」を達成することを約束した国は、66か国に上る。

 気候サミットには、当初欠席する予定だったドナルド・トランプ(Donald Trump) 米大統領が急きょ、短時間ながらも出席した。
 トランプ氏は、地球温暖化が人為的な原因により起きているとする科学界の結論に対し、繰り返し疑念を示している。
 トランプ氏は会場で、インドのナレンドラ・モディ(Narendra Modi)首相の演説を聞き、拍手をした後に退場した。

 グテレス氏はこれに先立つサミット開幕時、「気候の緊急事態は、われわれが現在、負けている競争だが、勝つことのできる競争だ」と述べた。

 エマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)仏大統領は、チリ、コロンビア、ボリビアの首脳と会談。
 会談では、世界銀行(World Bank)、米州開発銀行(IDB)、国際環境NGOコンサベーション・インターナショナル(Conservation International)が、世界の森林保護のため5億ドル(約540億円)を追加で投じると確約した。


[写真]
米ニューヨークの国連本部で開かれた気候行動サミットで演説するグレタ・トゥンベリさん(2019年9月23日撮影)

AFP、2019年9月24日 5:35
「よくもそんなことを」 トゥンベリさん、怒りの国連演説
https://www.afpbb.com/articles/-/3245899

NEW YORK: Teenage climate campaigner Greta Thunberg said the “war on nature must end” and called on Donald Trump to listen to science after she sailed into New York on a zero-emissions yacht.

The 16-year-old completed a 15-day journey across the Atlantic shortly after 4pm (2000 GMT), stepping off the boat onto a Manhattan dock to cheering crowds chanting her name.

“It is devastating and so horrible. It’s hard to imagine. They are a clear sign that we need to stop destroying nature,” she told waiting reporters when asked how she felt about raging fires in the Amazon, the world’s largest rainforest.

The Swede also rebuked Trump, a notorious climate change skeptic.

“My message for him is listen to the science and he obviously doesn’t do that,” she said, as she brought her environmental message to the United States for the first time.

Thunberg poked fun at the president too by saying she was “pretty sure” windmills don’t cause cancer, in reference to a comment Trump made at a Republican fundraising event in April.

The teenager has become a symbol for climate action with her stark warnings of catastrophe if the world does not act now to cut carbon emissions and curb global warming.

Thunberg, who was diagnosed with Asperger syndrome at the age of 12, began sitting outside the Swedish parliament in August 2018 to get members to act on climate change.

She was quickly joined by other students around the world, as word of her strike spread through the media, and the “Fridays for future” movement was born.

She will attend a summit on zero emissions at the United Nations next month but refused to fly because of the carbon emissions caused by planes.
The Swede was offered a ride on the Malizia II racing yacht skippered by Pierre Casiraghi, the son of Monaco’s Princess Caroline, and German round-the-world sailor Boris Herrmann.

Thunberg has received criticism and abuse for her uncompromising attitude, however.

Her voyage sparked controversy after a spokesman for co-skipper Herrmann told Berlin newspaper TAZ that several people would fly into New York to help take the yacht back to Europe.

Hermann himself will also return by plane, according to the spokesman.

Team Malizia’s manager insisted, though, that the young activist’s journey would be climate neutral, as the flights would “be offset”.

A few hundred well-wishers and activists clapped and chanted “Greta, Greta, Greta” as she completed her 5,550 kilometres trip under overcast skies.

She passed the Statue of Liberty and headed up the Hudson River before docking at North Cove Marina near the World Trade Center.

The United Nations sent a flotilla of 17 sailboats, one for each of its sustainable development goals for 2030, to welcome her.

Thunberg endured rough seas and cramped conditions but said she never felt seasick once. She ate freeze-dried food and used a bucket as a toilet.

“It’s insane that a 16-year-old has to cross the Atlantic Ocean to make a stand. This, of course, is not something that I want everyone to do,” she said, smiling.

Thunberg added that she planned to rest before joining youngsters striking outside the UN on Friday.

The Malizia II yacht left Plymouth in southern England on August 14, and the teenager marked the first anniversary of the start of her school strike on August 20.

The 18-meter yacht features state-of-the-art solar panels on its deck and sides, and two hydro-generators provide the vessel’s electricity.

It can travel at speeds of around 70 kilometres an hour.

Thunberg has said that she does not yet know how she will return to Europe.

Ahead of the UN summit on Sept 23, Thunberg will take part in youth demonstrations, before heading to Canada, Mexico and then to Chile for another UN conference in December.


[photo]
Swedish 16-year-old activist Greta Thunberg completes her trans-Atlantic crossing in order to attend a United Nations summit on climate change in New York, U.S., August 28, 2019

AFP, Published : August 29, 2019 @ 9:26am
Greta Thunberg: War on nature must end
https://www.nst.com.my/world/2019/08/516954/greta-thunberg-war-nature-must-end

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2019年09月26日

消費税増税

 日本チェーンストア協会の小浜裕正会長(食品スーパーのカスミ会長)は2019年1月18日夜の新年祝賀会で、10月からの消費税率引き上げについて「悪名高き消費税増税が実施される」とした上で、「軽減税率やプレミアム商品券、キャッシュレス決済時のポイント還元策などに原資(増税による税収増)が消えていく。何のための増税か分からない」と述べ、政府の対応を痛烈に批判した。
 小浜会長は「『悪法も法なり』なので何とか努力はするが、全てが解決する見通しは立たない」と述べ、複雑な軽減税率などへの対応を迫られることへの不満をあらわにした。
 祝賀会では、与党・公明党の斉藤鉄夫幹事長が「いろいろ矛盾点もあろうかと思うが、皆さんの声を聞きながら改善したい」とあいさつしたが、会場の拍手はまばらだった。


時事ドットコムニュース、2019年01月18日22時27分
チェーン協会長、消費増税を痛烈批判=負担軽減策にも疑問
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019011801330&g=eco

【ニューヨーク=時事】2019年4月5日付の米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは社説で、日本で10月に実施される消費税増税が経済をさらに悪化させる「自傷行為」になるとの見方を示した。

 同紙は、日本の直近の経済指標が低調な上、米中貿易摩擦などで世界的に成長が鈍化し、逆風になっているとするとともに、8年目に突入するアベノミクスは「完全には実現しておらず、投資や生産性への重しになっている」と指摘した。


時事ドットコムニュース、2019年04月06日07時22分
日本の消費増税「自傷行為」=米紙社説
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019040600237&g=eco

 来週10月1日から始まる消費税10%への引き上げまで1週間を切った。
 この増税による国民の負担増は年間5.7兆円に上る見込みだ。
 世帯あたりでは、今と同じ生活をしているだけで、年間数万円も支出が増えることになる。
 ただでさえ厳しい庶民生活は耐えられるのか。
 反対デモも行われているが、多くの国民は「決まったことは仕方ない」と、唯々諾々と受け入れているように見える。

「財政が破綻する」と脅され、「社会保障の拡充のために消費税を上げる必要がある」と言われると、そんなものかと思ってしまうかもしれないが、騙されてはいけない。

 1989年に消費税が導入されて以来、社会保障の充実や安定化が少しでも実現したのか? 赤字国債の発行は減ったのか? ちょっと数字に当たれば分かることだ。

 第2次安倍政権で消費税は5%から8%に上がったが、2018年度までの6年間で社会保障費は約3.9兆円も削減された。
 今年度予算でも、さらに3870億円を削減しようとしている。
 それでいて毎年、過去最大規模の予算を組み、放漫財政には歯止めがかからない。

 ハッキリしているのは、消費税の導入後、消費が低迷し、実質賃金は下がり続けていることだ。
 度重なる消費増税に庶民の暮らしは窮乏化の一途をたどっている。

「消費増税分の税収は、法人減税の穴埋めに使われてきたのが実情です。法人税率は消費税導入前の42.0%から、消費税アップのたびに引き下げられ、今では23.2%にまで減税されています。しかも、これすら大企業はまともに払っていない。さまざまな優遇税制があるからで、大企業の実質負担率はわずか9.8%なのです。そのうえ、輸出企業には還付金制度があり、トヨタや日産など上位10社だけで年間およそ1兆円が還付されている。消費税を上げるほど還付金の額も大きくなりますが、法人税を下げても企業の利益は内部留保や株主への配当に回されるだけで、従業員の所得には反映されません。消費税とは、庶民から収奪して大企業や投資家に富を移転する悪魔の税制なのです」
(経済アナリスト・菊池英博氏)

「広く、薄く、平等に」は大嘘

 もともと消費税は、低所得者ほど負担がキツくなる逆進性で知られる格差拡大の税制だ。
「広く、薄く、平等な負担」という宣伝文句は大嘘なのである。
 失業者であろうと年金生活者であろうと、生きていくうえで容赦なく徴収される。
 それが社会保障の充実どころか、法人減税の穴埋めに使われてきた。
 資本家を肥え太らせるために、弱者からむしり取るのだ。

 消費税に関する著書が多数あるジャーナリストの斎藤貴男氏もこう言う。

「そもそも消費税の納税義務を負うのは年商1000万円超の事業者ですが、下請けなど弱い立場の側が常に多くの負担を強いられるという構造的な問題がある。
 憲法14条が要請する『法の下の平等』によって、『応能負担』という言葉がありますが、消費税は『応不能負担』とでも言うべき税なのです。応能負担の原則に則した累進課税に対し、弱者からも一律に巻き上げる消費税は人頭税に近い。社会的弱者ほど負担が大きな税を社会保障の財源にするという政府の宣伝自体が倒錯しています」 

 この悪魔の税制に輪をかけるのが、景気対策や家計支援を名目にした政府の諸政策である。
 ポイント還元や軽減税率の小手先対応は、庶民イジメの目くらましでしかない。

■ これまでの増税とは質が違う奴隷化に直結の恐ろしさ

 目下の増税対策としては、軽減税率に約1.1兆円、幼児教育・保育の無償化や低年金者への支援給付金に約3.2兆円、ポイント還元や自動車購入支援などに約2.3兆円が投じられることになっているが、どれも効果は疑問で、むしろ混乱を招くだけのシロモノだ。

 安倍首相が2017年の衆院選で唐突に打ち出した幼保無償化にしても、対象は全世帯の3〜5歳児と、低所得世帯の0〜2歳児だが、保育料は収入が多いほど高く設定されていて、高所得層ほど無償化の恩恵を受ける。
 しかも、給食費は無償化の対象外という中途半端。
 子育て支援なら「子ども手当」の方が助かるという家庭も多いだろう。
 待機児童の解消を優先すべきだとの声も根強い。

 キャッシュレス決済でのポイント還元も、結局は金持ち優遇策だ。
 高い買い物をするほど還元も多くなる。
 低所得者はカード限度額が低かったり、そもそもカードを作れない人もいる。
 これまで現金決済でやってきた地方の高齢者や商店街に、わざわざカード対応にしろというのか。

 だいたい、同じ食品を買うのでも、現金かキャッシュレスか、大手か中小企業か、店内かテークアウトかなどによって、10%、8%、6%、5%、3%と複数の税率が存在することになるのだ。
 キャッシュレス決済に慣れた若者だって混乱する。

「政府は消費増税対策を口実に、キャッシュレス化を推進したいだけなのです。それで、マイナンバーカード取得者にはポイント還元制度を延長すると言いだしている。マイナンバーで国民のすべての行動を捕捉できれば、権力側は都合がいいからです。今回の消費増税は、これまでの増税とは質が違う。ポイント還元などという子供だましに乗せられたら、国民はがんじがらめの監視社会で、政治権力やグローバル資本の奴隷として生きることになるでしょう。それでもいいという人は消費税に賛成すればいい。こういう危うさをかつての新聞なら論じたでしょうが、『消費税で社会保障充実』という国民だましに加担して権力におもねり、軽減税率の適用をおねだりした大新聞は、批判を放棄してしまった。国民が自分の頭で考え、本気で怒らなければ、日本は奴隷制に真っ逆さまです」
(斎藤貴男氏=前出)

■ 黙っていたら消費税は15%、20%に

 消費税が悪魔的なのは、台風や地震で被災し、苦しんでいる人々からも容赦なく取り立てるところだ。

 そういう庶民の不安や苦しみなど、想像もできないのだろう。
 安倍はどこ吹く風のお気楽ぶりで、ラグビーW杯の開幕日には、ラグビー日本代表ジャージーのレプリカを着て、「いよいよ日本で開幕します!」とハシャぐ動画をツイッターに投稿。
 開幕戦の観戦は「エキサイトしっぱなしでした」とご機嫌で、連休明けにはニューヨーク外遊に出かけてしまった。

庶民イジメの消費税を10%に上げると宣言しても選挙に負けないのだから、そりゃあ政権はやりたい放題になる。国民はナメられっぱなしです。全世代型の社会保障改革などと言って、社会保障はますます削られ、増税分は軍拡に使われることになる。反撃のノロシを上げるべき野党も、あまりにだらしない。なぜ、7月の参院選を消費税反対のワンイシューでまとまって戦わなかったのか。選挙前は国民の6割以上が消費増税に反対していたのに、今では諦めムードが蔓延しています。今回の消費増税は、間違いなく日本経済を滅ぼすことになる。それを阻止するために、野党共闘で政権と対峙するといっても、やらないと公約していた消費増税を決めた裏切り者の野田佳彦元首相と組もうというのだから話にならない。ここで国民が諦めてしまったら、嘘に嘘を重ねる詐欺師政権は改憲まで一気ですよ。軽減税率の恩恵にすがる大新聞は、憲法改悪に本気で反対することもできないでしょう
(菊池英博氏=前出)

 消費増税、それに伴う大混乱という世紀の愚策に、痛めつけられるだけの国民は沈黙。
 こんな不条理がまかり通れば、庶民は一生、搾取され続けることになる。
 黙って従っていたら、「老後2000万円」不足問題もさらなる増税の口実にされ、消費税は15%、20%と上がっていくことになるだろう。

 本当にそれでいいのか。

 奴隷になりたくなければ今、怒りの声を上げるしかない


日刊ゲンダイ、2019/09/25 17:24
世紀の愚策で空前の混乱
消費税増税に国民沈黙の不思議

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/262285/

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2019年09月25日

米国からの陸上イージス購入は亡国への道

 日本の防衛力の強化と拡大は急務である。
 しかし、その方向性を間違えば、逆に私たち日本国民の首を絞めかねない。
 秋田県秋田市と山口県萩市に、アメリカが開発した「イージス・アショア」(陸上イージス)の配備が予定されている。
 北朝鮮などの弾道ミサイルを迎撃するための装置だが、総額1兆円を軽く超える予算規模と、政府のずさんな導入計画が波紋を広げている。

グーグル・アースで“測量”された調査報告書

 今年2019年6月、防衛省が作成した配備候補地の調査報告書に多くのデータの誤りが含まれていることが発覚。
 本来なら実際に配備候補地で測量をすべきところ、手間を省いてグーグル・アースを用い、しかも縮尺の違いを見落としてデータを算出したため、実際の地形とは全く異なるデータが調査報告書に記載されていたのだ。
 しかも、地元説明会の席で住民たちを前に居眠りする職員などもおり、住民たちの不安と反感は一挙に高まった。
 だが、ことの本質はそれだけではない。
 配備強行の裏には、空洞化する日本の防衛がくっきりと透けて見えてくる。

有事には住民を巻き添えに

 防衛問題に詳しいジャーナリスト・南村梟郎氏は、陸上イージスが内包する5つの問題点を指摘する。
・ 「敵とのコスト競争の泥沼にはまり込む」
・ 「有事の際には住民を巻き添えにする」
・ 「経費膨張で日本の防衛力がいびつになる」
・ 「自衛隊と米軍への信頼性が低下する」
・ 「日本の守りを効果的に高める方法は別にある」
というのがそれだ。
 このうち周辺住民が最も懸念するのは、「有事の際に巻き添えになる」という点だろう。

 秋田市西部の候補地である新屋演習場周辺には住宅地が広がり、演習場の数百メートル先には小中学校が点在する。

「自分たちが日本なら陸上イージスなんて配備しない。有事になれば敵に真っ先につぶされるからだ」――南村氏によると、米軍関係者はミサイル防衛について、こう認識しているという。

 もし、日本が北朝鮮や中国、ロシアと武力衝突する事態になれば、相手は高性能レーダーと迎撃ミサイルがセットになった陸上イージス施設を真っ先に攻撃してくるはずだ。
 そのとき、はたして基地周辺の住宅や学校はどうなるのだろうか?

導入経費は数兆円規模にまで膨張する

 さらに懸念されるのは、巨額の予算だ。
 当初、陸上イージスの導入経費は2基で約1600億円とされていた。
 ところが計画が具体化するにつれてどんどん経費が膨張し、現在では約6000億円とされている。
 しかし、レーダーや関連装備をグレードアップするたびに加算が続き、防衛関係者の間では、2兆円程度になると指摘されている。
 長期的な維持費や広義の関係費用を含めれば、数兆円に膨張することは確実だ。

 日本が高値の防衛装備をどんどんアメリカから買わされている構図を、南村氏は高級外車の例にたとえる。

平均的なサラリーマンが背伸びして外車を購入した後、セールスマンの巧みな口車に乗せられてどんどん高額な外車に買い替えさせられた挙句、通常の暮らしが立ちいかなくなるようなものだ

 繰り返すが、日本の防衛力の強化と拡大は急務である。
 そのために必要なのは、陸上イージスのような装備に濫費することではない。
 もっと賢く予算を使い、効果的な抑止力を持たなければならない。

 「文藝春秋」10月号に掲載されている南村氏のレポート「亡国の陸上イージス」は、日本の防衛力強化のために何が必要なのかを詳細に論じている。


[写真-1]イージス艦よりはるかに高額に

[写真-2]ミサイル実験に余念がない北朝鮮

[写真-3]売り込みに熱心なトランプ大統領

[写真-4]文藝春秋10月号

文春オンライン、2019/09/23
血税1兆円がドブに……米国からの陸上イージス購入は亡国への道だ!
「サラリーマンが高級外車を買わされるようなもの」

https://bunshun.jp/articles/-/14231

「国難突破解散」の欺瞞と偽善

 安倍首相は(2017年9月28日に召集される臨時国会の冒頭に衆院を解散する考えを表明)、衆議院解散・総選挙に打って出るにあたって、これを「国難突破解散」と呼び、北朝鮮の核・ミサイルという脅威をうちまかすための国論の一致こそが争点だといった。

 おびただしい数のミサイル発射を繰り返し、9月3日には6度目の核実験を行った北朝鮮の「冒険主義」は、目に余るものがある。国際社会は一致してかの国の核計画を食い止めるために知恵を結集して外交による平和的プロセスを追求するべきときである。

 しかし、安倍首相から「対話」の言葉は聞かれない。

「対話の努力は時間稼ぎに利用されました。北朝鮮に全ての核兵器・弾道ミサイル計画を完全な検証可能、かつ不可逆的な方法で放棄させなければならない。そのことを北朝鮮が受け入れない限り、今後ともあらゆる手段による圧力を、最大限まで高めていくほかに道はない。私はそう確信しています」

 少し長い歴史のものさしを当ててみれば、この「圧力偏重」路線がつまるところ、効果をあげずにきたことは明らかである。北朝鮮が最初の核実験を行ったのは2006年からこの方、日本政府が米国に追随して「圧力一辺倒」政策を継続してきたことが、現状を生み出しているという自省は首相の心の中には存在しないのか。弾道ミサイル開発が加速されたのは、1990年の半ばに遡る。すでに200発のノドン・ミサイルが日本全土を射程に収めている。その現実を歴代日本政権は直視せず、こんにち、ミサイルがグアムや米本土に迫るにいたって、まるで「初めて」のようにミサイルの脅威を叫び、Jアラートを発し、ミサイル対処訓練を各地で実施するよう促している。

 このようなことになる前に、「外交」が機能するべきだったのではないか。まるで「圧力をさけぶこと」が唯一の外交政策であるかのように振舞ってきたのは、誰だったのか? 人はこれを「マッチポンプ」と呼ぶのではないか? 

イージス・アショアは幻想

 選挙キャンペーンは「北朝鮮はコワい」という扇情的な言辞はふりまいても、この難題をどのように解いていくかという課題は素通りしたように見える。

 私たちは今こそ、立ち止まって問うべきである。1910年の日本による「併合」にはじまる、日本がかの国になしてきた罪、そしてその罪科の遺産である南北分断の現状について、日本との闘いの中から生まれた北朝鮮という国の歴史について、それらを包含する歴史観をとおして問われるべき、「核のない朝鮮半島」のために、私たちがなすべきことについて。

 だがこの国は、それらを省みることはせず、ひたすら米国の後ろで「圧力」をけしかける。

 安倍首相がくりだす「国難突破」のための手の一つは「ミサイル防衛」である。「イージスアショア」(陸上イージス・システム)−この1基800億円の高額兵器を米国から買い、2023年までに稼動させるというのが安倍政権の目論見だ。

 「イージス・アショア」は日本の防衛のための兵器ではない。それが守るのはたとえばグアムや米本土だ。これは、トランプ政権の「米国第一」路線にしたがって「日本に配備」される兵器だ。断じて日本を守るものではない。

 2016年5月に、欧州における「冷戦の遺産」であるルーマニアで、最初の「陸上イージス」運用がはじまったとき、在ブカレスト米大使館はこの兵器の「効能」をウェブサイトで説明した。その宣伝文句を紹介しておきたい。

 これを読みながら考えてみよう。果たして、「イージス・アショア」は、私たちと北東アジアの安全と安心の永続化に貢献しうるのだろうか。私たちの血税を注ぐ価値のあるものなのか。そうではなくて、この兵器システムがもたらすのは、この盾(イージス)の能力を、量の上でも質的にも凌駕する軍拡競争なのである。

◆◆

<資料>欧州におけるミサイル防衛の実施(在ブカレスト米国大使館ウェブサイト)
2016年5月11日最終更新

端的に言えば、我々の欧州における新しいミサイル防衛構想は米国とその同盟国の戦力に対し、より強力で、高性能で、迅速な防衛力を提供する。それは、以前の計画より包括的なものであり、検証済みで対費用効果の高い能力を展開し、米本土を長距離弾道ミサイルの脅威から守る責務に基づくものであるとともにそれを持続する。そして全NATO加盟国への防御を保証し、強化する。
―オバマ大統領


 オバマ大統領は米国と、その海外に派遣された兵力、欧州の同盟国とそのパートナーを、増大する弾道ミサイルの脅威から守ることを誓約している。2009年9月、国防長官と統合参謀本部長の勧告に基づき、オバマ大統領は、より早期に、より包括的な防御を提供するため、ミサイル防衛のための欧州段階的適応アプローチ(EPAA)を発表した。この2年間、政府はNATO諸国と協働し、このアプローチの実施において目覚ましい進展を見ており、大統領が打ち出した到達目標に向かっている。

 EPAAの発表以来、政府はEPAAをNATOの環境の中で実施する願望を明らかにしてきた。2010年11月のリスボンサミットでNATOは、弾道ミサイルの拡散によって引き起こされる脅威の増大に対して全てのNATO加盟欧州諸国の住民と領土、戦力を完全に保障し保護することを目的に、ミサイル防衛能力を承認するという歴史的決定を行った。この決定は、同盟が直面する21世紀の一連の脅威に対抗するNATOの抑止態勢を拡大し、強化する我々の努力と軌を一にしている。NATOはまた、NATO加盟欧州諸国の住民、領土、戦力を保護するために、その現在のミサイル防御の指揮・管制・通信能力を拡張することにも合意した。リスボンでNATO諸国はEPAAをNATOのミサイル防衛に対する米国の国家的な貢献として歓迎するとともに、他のNATO加盟国の追加の自発的な貢献を歓迎した。

 EPAAには、2010年代の残りの期間にわたって実施される4つの段階がある。それぞれの段階で進展があったし、大統領が2009年に設定した目標の達成に向かっている。

・ 第1段階(2011年までに実施)は、現在の検証済みのミサイル防衛システムを配備することによって、短距離及び準中距離弾道ミサイルの脅威に対処する。これは、検証済みのSM-3 Block IA 迎撃ミサイルを装備した、イージス弾道ミサイル防衛システムが搭載可能な艦艇の配備を必要とする。今年3月、米艦モントレーは、EPAAを支援するため持続的なローテーションで地中海へ派遣される艦船の最初の一隻になった。第1段階はまた、トルコがNATOミサイル防衛計画の一部としてその受け入れ国になることを最近合意した、地上設置式早期警戒レーダーの配置も必要とする。

・ 第2段階(2015年までに実施)は、ルーマニアへの地上設置型SM-3ミサイル防衛迎撃基地の実戦配備と、より高性能のSN-3迎撃ミサイル(Block IB)の配備によって、短距離及び準中距離の脅威に対する我々の守備範囲を広げる。今週、9月13日に米国とルーマニアは米国・ルーマニア弾道ミサイル防衛協定に署名した。批准されると、米国はルーマニアに陸上配備型弾道ミサイル防衛基地を建設し、維持し、運営してよいことになる。

・ 第3段階(2018年までに実施)は、ポーランドに建設される地上設置型SM-3基地とより進歩したSM-3迎撃ミサイル(Block IIA)の配備によって、中距離及び準中距離ミサイルの脅威に対する防御力を改善する。ポーランドは2009年10月に迎撃ミサイル基地の提供に合意した。そして今日、ポーランドの承認手続きは完了し、合意は効力を発した。

・ 第4段階(2020年までに達成)は、中東から米国への中距離ミサイル、ならびに将来における潜在的な大陸間弾道ミサイル(ICBM)の脅威に対抗する能力を、SM-3 Block IIB迎撃ミサイルの配備を通して強化する。それぞれの段階はミサイル防衛の指揮管制システムの更新を含んでいる。

 大統領がEPAAを発表した際に、彼がミサイル防衛に関するロシアの協力を歓迎したことに留意することは重要である。我々はこの側面でも進展を得た。2010年11月にNATO・ロシア評議会(NRC)サミットで、NATOとロシアはミサイル防衛協力の機会を探る約束をした。ロシアとの効果的な協力は、我々の地域全体のミサイル防衛能力の全般的な有効性と能率を向上させることになると同時に、NATOとロシア両方に、より大きな安全保障をもたらすだろう。第一段階としてNATOとロシアは統合弾道ミサイル脅威評価を完了し、評議会が戦域ミサイル防衛協力を再開することに合意した。米国とロシアはまた、国務省や国防総省での数多くの高官作業部会を通じてミサイル防衛協力の議論を続けている。

 前に進むべく、政府は2009年9月に大統領が定めたビジョンを実施するため、連邦議会やNATO諸国と緊密に協議を続ける。我々はまた、弾道ミサイルによって引き起こされる脅威と、我々がその迎撃のために開発している技術の評価を精力的に続ける。合衆国は引き続き、新興の脅威への自在な対処を可能にする、対費用効果が高く、検証済のミサイル防衛に専心する。
 米国のミサイル防衛政策に関する詳細は、「弾道ミサイル防衛見直し」(BMDR)をご覧いただきたい。
(訳:ピースデポ)


平和フォーラム〜核も戦争もない21世紀をめざして〜、2017年9月30日
「陸上イージス・システム」は、新たな核軍拡を招く
田巻一彦
http://www.peace-forum.com/p-da/2017930.html

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満蒙開拓団

 ヤッホーくんのこのブログ、次の日付の日記をぜひお読みください:

☆ 2014年12月04日「望郷の鐘」
☆ 2014年12月08日「語らねば、伝えねば、満蒙開拓団」 

満蒙開拓団.jpg
「開拓団って何ですか」
香川県にある慰霊堂では訪れた人からこのように聞かれることが増えているといいます。
管理する82歳の男性は「慰霊堂を案内しても理解してもらえるのは外国に開拓に行ったということだけです。日本に帰りたいという思いもかなわぬまま命を奪われた人たちの記憶が消えてしまう」と話します。
戦前、国の政策で豊かな土地を求めて家族や村単位で海を渡った「満蒙開拓団」。
民間人だけでおよそ8万人が犠牲になったといわれています。

四国 霊場にある慰霊堂


 香川県三豊市にある四国八十八箇所霊場・70番札所本山寺の一角には慰霊堂があります。

 旧満州・現在の中国東北部に渡り、帰ってくることができなかった開拓団の人たちをまつったものです。

 20年近くにわたってこの慰霊堂を維持管理している高橋英勝さん(82)も4歳のころ、開拓団の一員として両親とともに海を渡りました。

 高橋さんが住んでいた三豊郡財田大野村(現 三豊市)と周辺の豊浜町、豊田村(いずれも現 観音寺市)から、1000人近くが、現在の黒竜江省牡丹江市にあった五河林という地区に入植しました。

豊かな土地を求めて32万人が海を渡る

「満州国」が建国された1932(昭和7)年ごろから日本が敗戦する昭和20年までの間、旧満州や内モンゴルに移住した「満蒙開拓団」。

 長野県にある満蒙開拓平和記念館によりますと、困窮していた農村から広大な土地を求めて家族や村の単位でおよそ32万人(義勇隊も含む)が海を渡ったとされています。
都道県別
▽ 長野県…3万7859人(当時の県全体の人口の2%、 50人に1人の割合)
▽ 山形県…1万7177人
▽ 熊本県…1万2680人
▽ 福島県…1万2673人
▽ 新潟県…1万2651人
▽ 香川県…  7885人

過酷な逃避行が始まる

 ところが、終戦直前に開拓団の暮らしは一変します。

 大本営は昭和20年5月、ソ連が参戦した際には旧満州の4分の3を放棄するという作戦を決定していました。

 そして昭和20年8月9日、旧満州を守っていた関東軍が南下したところにソ連軍が攻め込んだのです。

 関東軍が撤退することを知らされていなかった開拓団の人々はソ連軍や現地の人たちに追われる身となりました。

 高橋さんたちの一行もソ連軍から逃れようと、8月13日の早朝に旧満州の中心地の1つだったハルビンに向かって逃避行を始めました。

“史料”が浮き彫りにする悲劇

 香川県の慰霊堂に残されている「死亡証明書」からこの逃避行の様子がうかがえます。

 この証明書は引率した開拓団の集落の代表が命を落とした人がいつ、どのように死亡したのかを記録したものです。

 そこには8月13日と14日の2日間で6歳の女児を含む6人が亡くなっていたことが記録されています。

 死因の欄には「頭部貫通銃創」の文字。複数の人がソ連兵に頭や胸を撃たれて亡くなっていました。

「ほかの人を蹴ってでも最後の汽車に乗った」

 開拓団の人たちは列車に飛び乗ってハルビンを目指します。

 しかし「死亡証明書」に記録はないものの、列車に乗れずに取り残された人も少なくないと言います。
「突然、変わった飛行機が村の上空に来ているという声が聞こえたのですが、それがソ連軍の戦闘機でした。戦闘機から、上から撃たれるんですよ、だからなんとか助かろうとみんな逃げ惑いました。水路に隠れて頭を隠しました」

「ソ連軍が銃を持って近づいてきていたから自分が生き残るために木の下にけが人を置き去りにしたりみんな逃げるので精一杯でした。最後の汽車に乗れない人が大勢いました。自分が先に乗らないと生き残れないとほかの人を足で蹴ってでも乗ったくらいでした。そのような状況でしたから置き去りにされた子どもが多くいました。自分は親が手を引いていてくれたから、大丈夫でしたが、離れてしまったら、こっちに戻ってきていないかもしれないです」

「食べるものがないので冬の間にたくさんの子どもが亡くなりました。人が死んで、穴を掘りに行けよって言われてよくついて行きました。そこで遺体を埋めて、戻ってくると『また死んでいる』と言われて」
(高橋英勝さん)

極寒の地で子どもたちが次々に命を落とした

 高橋さんがハルビンに設けられた難民収容所にたどり着いたのは日本で玉音放送が流れた8月15日の2日後でした。

 しかし、国は当時、海外にいる邦人を現地にとどまらせる方針で、高橋さんたちもすぐには日本に帰れませんでした。

 日本よりはるかに寒く、食糧もない難民収容所で周囲で拾い集めた石炭を現地の人が持っている食糧と交換するなどして、飢えをしのぎました。

 慰霊堂に残された「死亡証明書」には収容所での過酷な生活の中、138人が栄養失調や感染症で命を落としたと記録されています。

 その多くが子どもたちでした。

 当時8歳だった高橋さんは、同じ年頃の子どもたちが亡くなるのを目の当たりにしていました。

 日本に帰国できたのは1年後で、高橋さんがいた開拓団では1000人近くのうち記録が残っているだけでも174人が命を落としました。

 およそ32万人に上った満蒙開拓団のうち、日本へ引き揚げることができぬまま現地で命を落としたのは民間人だけでおよそ8万人に上るといいます。

悲劇の記憶 後世に


 開拓団の悲惨な歴史を今に伝える慰霊堂。

 高橋さんはここを訪れた人に、開拓団について語り継いできましたが、ことし82歳となりました。

 自分が動けなくなったあと、この慰霊堂やその中の資料が忘れ去られることを懸念しています。

 今はまだ高橋さんの跡をつぐ人は見つかっていません。

 無関心や受け身のままでは戦争によって大勢の人が命を奪われたことが忘れられ、痛みも悲しみも感じない歴史上の1つの事実としか受け止められなくなってしまうのではないか。

 終戦から74年。

 戦争を体験した世代が高齢化し、次々に亡くなっていくいま、戦争を知らない私たちの世代が当時の記憶にどう向き合い、そしてどうすべきかを考えることがとても大事だということを今回の取材を通じて強く感じました。
「『開拓団って何ですか』って言う人もいます。慰霊堂の中を案内してもすーって通り過ぎるだけでどんな意味かもわからずただ、外国に開拓に行ったということだけしか伝わらないと感じます。今のままでは日本に帰りたいという思いもかなわぬまま命を奪われた人たちの記憶が消えてしまうと思います」
(高橋英勝さん)

[写真-1]本山寺

[写真-2]高橋英勝さん(82)

[写真-3]旧満州に向かう開拓団

[写真-4]ソ連軍の爆撃

[写真-5]死亡証明書

[写真-6]死亡証明書には「栄養不良」の文字

[写真-7]日本への引き揚げ

[写真-8]本山寺の一角にある慰霊堂

NHK News Web、2019年9月20日 20時17分
“国策”で海を渡った人たちの悲劇の記憶は……
(高松放送局記者 鈴木博子)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190920/k10012091951000.html

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2019年09月24日

「東洋最大規模のマンモス団地」といわれた松原団地

「名物がない」と揶揄(やゆ)されることもある埼玉県。
 だが、「草加せんべい」の名を知らない人は少ないだろう。
 熊谷の五家宝(ごかぼう)、川越の芋菓子と並ぶ県の三大銘菓の一つだ。
「銘菓を知らずに埼玉は語れない!」と思い立ち、江戸時代に旧日光街道2番目の宿場として栄えた草加市を訪ね、そのルーツを探ってきた。

■ おせんのお煎餅

 江戸時代、草加宿で「おせん」という女性が旅人を相手に団子を売っていた。
 おせんは、売れ残りの団子を捨てなければならないことに悩んでいたが、ある日、茶屋を訪れた侍が「潰して天日で乾かし、焼き餅として売ればいい」という。
 助言を基におせんが焼き餅を売ったところ、評判になり街道名物に−。

 いかにも夢の広がるエピソードだが、実はこれ、昭和時代に創作された物語。
 実際は、保存用にコメを団子状にして乾かしたものを茶屋などで販売したところ、自然と普及していった−というのが事実に近いらしい。
 1913(大正2)年に旧陸軍が川越で大演習を行った際、県の名産品として天皇陛下に献上されたことを機に、全国に「草加せんべい」の名が広まった。

■ 煎餅のテーマパーク

 2008(平成20)年5月にオープンした煎餅のテーマパーク、山香(やまこう)煎餅本舗「草加せんべいの庭」では年中無休、予約不要(10人以上は要予約)で煎餅の手焼き体験ができる。

「3秒に1回ひっくり返して」
「ぷくぷくしたら押し瓦で押して」

 係の女性が丁寧に作り方を教えてくれる。
 わずか2分ほどで焼き上がるため、写真を撮っていたら案の定、少し焦げた。
 それでも、焼きたての煎餅は格別。
 化学調味料不使用の特製タレを付けて味わえば、米の甘みがふんわりと口に広がった。
 川口市から家族6人で訪れた姫野達也さん(41)は、
「ふらっと来て体験できるのが魅力。煎餅作りがこんなに忙しいとは思わなかった」

 同社では非常食用の草加せんべいを開発中。
 きっかけは、東日本大震災時に宮城県内の取引先から受けた一本の電話だった。

「全く食べ物がない。煎餅を送ってほしい」

 社長の河野文寿さん(42)は「日持ちがよくて、そのまま味わえる煎餅は非常食に向いている」と考えた。
 通常3〜6ヶ月の賞味期限を3年に延ばす工夫をし、今月から予約を受け付ける予定という。

■ 松並木でまったり

 草加せんべいが生まれた場所にも足を運んでみた。

「おくのほそ道の風景地」として今年2014年3月、国の名勝に指定された草加松原遊歩道だ。
 綾瀬川沿いに約1.5キロの松並木が広がる。
 都市化に伴い、松は1965(昭和40)年ごろに約260本まで減少。
 その後、市民団体の保護活動などで少しずつ蘇り、現在は東京スカイツリーの高さにちなんだ634本が植えられている。

 まったりとした空気に癒やされ、遊歩道のベンチで自分で焼いた煎餅をひとかじり。
 名店の煎餅も捨てがたいが、焦げた煎餅にはまた、別のおいしさがあふれていた。

※ 草加せんべいの庭
 埼玉県草加市金明町790−2。手焼き体験は2枚で324円。駐車場16台。年中無休。午前10時〜午後7時。
[問]草加せんべいの庭 Tel 048-942-1000

※ 草加松原
 東武伊勢崎線松原団地駅東口から正面大通りを東へ進み、県道足立越谷線沿いの遊歩道。駅から徒歩5分。


iza イザ 産経デジタル、2014.7.6 15:44
[大人の遠足]
旧日光街道沿いで一休み
草加せんべいのルーツを探る

(川峯千尋)
https://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/140706/lif14070615440015-n2.html

(ヤッホーくん補注1)<山香(やまこう)煎餅本舗「草加せんべいの庭」>

 コメをついて丸く延ばし、焼いて醤油をぬった「せんべい」は、東日本を中心に広くお茶菓子として愛されている。
「塩せんべい」「焼きせんべい」などと呼ばれていたが、戦後は「草加せんべい」が一般名詞のように使われてきた。

 日光街道2番目の宿場町だった草加宿(現在の埼玉県草加市)の名物だったという来歴もあるが、市内にたくさんあった煎餅店の主人たちが、高度経済成長期に百貨店の物産展などに進出、大いに「草加せんべい」の名前を浸透させたことが貢献したとされる。
「せんべい」イコール「草加せんべい」というイメージが定着したわけだ。

 ところが、厄介な問題が起きる。
 外国産のコメを原料に新潟で焼いた「草加せんべい」まで登場したのだ。
 さすがに草加の煎餅店は危機感を強めた。
 協議会を作って「地域団体商標」として特許庁に申請、登録された。
 2007年のことだ。

 それ以来、「草加せんべい」は、本物のせんべいを示す、草加市が誇る地域ブランドになった。

■ せんべいチョコ

 草加市内にはせんべいの製造・販売に携わる会社や店が60以上あるという。
 そんな中で最後発である1971年創業の「山香煎餅本舗」は、次々と斬新なアイデアを打ち出すことで、「草加せんべい」を発信し続けている。

 その1つが「草加せんべいの庭」。
 創業者で会長の河野武彦さんが建てたせんべいのミニ・テーマパークだ。
 木を使った建物にこだわり、建築家を探すところから始め、構想から10年をかけて2008年に完成した。 
 
 一角にある手焼き体験コーナーでは、予約なしでせんべいを焼くことができる。
 毎月第2土曜日には「子どもせんべい道場」を開催。参加するごとにスタンプがもらえ、15個ためると「職人」として山香煎餅の前掛けがもらえる。

「おじいちゃん、おばあちゃんと孫が一緒に来て楽しんで焼き、食べる。草加せんべいが思い出と共に記憶に刻み込まれるんです」

 現社長の河野文寿さんは言う。
 美味しかった物の記憶と共に、草加せんべいファンが増えていくわけだ。
「いずれ、職人の前掛けをもらった子どもの中から、当社に入社してくる人が出てきたら最高です」と河野社長。

 飲食コーナーには「草加せんべいソフトクリーム」や「草加せんべいバーガー」「草加せんべいドーナツ」といったメニューが並ぶ。
 バーガーは料理が趣味の河野社長が自ら開発した。
 せんべいの粉を練っているうちに、これをハンバーガーにしたら、と思い付いた。

 イベントの時などは、隣接する実演コーナーで、山香煎餅のベテラン職人による手焼きの技を実際に見ることができる。
 山香煎餅のせんべいを直売する売店棟では、さまざまなイベントが開かれる。
 オペラなどのミニ・コンサートは好評だ。

「最近、せんべいは売れないと言って、実際、多くの煎餅店がつぶれています。でも売り方を工夫すれば、まだまだ伸びるのではないか」

 そう語る河野社長は、新しい需要を取り込むために、せんべいの新商品開発にも余念がない。

 このところのヒット商品は「草加せんべいチョコ」。
 焼き上がった草加せんべいを細かく砕いてクランチ状にし、それとホワイトチョコレートを合わせた新食感のお菓子だ。
 6枚入り540円と決して安くはないが、「細かく砕くなど猛烈に手間がかかっているので、同業他社は誰も真似しない」(河野社長)と苦笑する。

 最近メディアで話題になったのが、「おいしい非常食」。
 賞味期限が通常6ヶ月のせんべいを、10倍の5年に延ばして長期備蓄を可能にした。
 保存期限が来ると廃棄処分する保存食が少なくないが、せんべいならば期限が迫ったらおいしく食べてしまえる。

■ 一球入魂の最高級品

 もともと、山香煎餅では「本物」にこだわって来た。
 例えば「天晴(てんはれ)」という商品はこだわりの有機米を原料に、天然素材のダシと有機醤油を使い、備長炭で職人が1枚1枚焼き上げる。
 どんなに頑張っても職人1人が1日100枚しか焼けない。
 値段は1枚1080円。
 12枚入りが1万4040円という、せんべいとしては超高級品だ。

「30年やっているベテラン職人にベンツぐらい乗らせてあげたい。一球入魂の最高級品ですから」

 せんべいを極めた職人に、それに見合う十分な稼ぎを払おうとすれば、決して高くない値段だ、というわけだ。

 もちろん、機械を使って焼いている商品も多いが、それでも本物の材料にこだわっている。
 調味料も「アミノ酸」は使わず、昆布やカツオのダシをとって使っている。
 スーパーなどに大量に売る価格勝負の商品は作らない。

■ 銀座に出店

 最近、河野社長は全国で「良い物」を作ったり、扱ったりしている人たちとのネットワークづくりに力を入れている。
 高知県の四万十川中流で町おこしを行う畦地履正さんの声掛けでスタートした「あしもと逸品プロジェクト」の中核メンバーなのだ。
 そんなネットワークから新たな商品も生まれている。

 畦地さんは四万十の栗やコメ、紅茶など「良い物」を育て、全国に売り出している。
 さっそく、四万十町でとれる「かおり米」を使い、山香煎餅がOEM受注してせんべいに仕立てた。
「かおり米せんべい」は草加せんべいスタイルではなく、油で揚げたせんべいだが、これも山香煎餅が長年培ってきた技術。
 草加せんべいの技術が全国各地の地域の特産品づくりに生きている。

 今、山香煎餅では、次なる挑戦を準備している。
 地域で磨いた「草加せんべい」ブランドで、「打って出る」計画だ。
 来年2018年1月22日に東京銀座の中心に「草加せんべい」の店を出す予定だ。

 銀座には東京の名だたる煎餅店が店を構える。
 そこにあえて「草加せんべい」で打って出るのだ。
 小さな店舗のため、手焼き体験などのコーナーは作れないが、タブレット端末を置いて、手焼きの草加せんべいのストーリーなどをアピールするつもりだという。

 また、季節感も大切にしていく。
 和菓子では四季折々に商品が変わるが、せんべいにはなかなか変化がない。
 春には山菜味、夏はカレー味、秋はさつまいも味、といった季節商品にも力をいれ、新しい需要を掘り起こしていく。

 かつては、関東を中心に「進物」といえば「せんべい」というのが定番のひとつだった。
 銀座という消費の最先端の場所で、せんべいを巡る消費者の嗜好をどう捉えていくか。
 おそらく「草加せんべい」にまったく新しい価値を加えることになるのだろう。


[図]
草加市:人口24.7万人。埼玉県東南部に位置し、東京都足立区と隣接するベッドタウンとして知られるが、小松菜や枝豆の生産なども盛んに行われている

[写真-1]
山香煎餅の河野文寿社長

[写真-2]
せんべい焼き体験に訪れた佐々木さんご家族(上)、「子どもせんべい道場」のスタンプ(下)

[写真-3]
草加せんべいバーガーと小松菜ジュース

[写真-4]
職人によって焼かれる「天晴」せんべい

[写真-5]
生産ラインを流れていくせんべい

[写真-6]
せんべいの原料となるお米

[写真-7]
せんべい焼き体験を楽しむ笑顔の斉藤さんご家族

(写真・生津勝隆 Masataka Namazu)

※ Wedge2016年12月号より

WEDGE Infinity、2017年11月26日
「草加せんべい」
地域ブランドで打って出る

磯山友幸 (経済ジャーナリスト)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/9235

(ヤッホーくん補注2)<東武伊勢崎線松原団地駅>

■ 「若い人が多い街」のイメージ、駅名に

 東武鉄道の松原団地駅が2017年4月1日、獨協大学前〈草加松原〉駅に改称されます。


 そこにどんな目的があるのか、草加市に聞きました。

 2017年4月1日(土)に、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の松原団地駅(埼玉県草加市)が、「獨協大学前〈草加松原〉」駅に改称されます。
 東武鉄道では日光線の板倉東洋大前駅(群馬県板倉町)に続いて、大学名を駅名に冠する駅です。

 松原団地駅は、「東洋最大規模のマンモス団地」といわれた松原団地へ入居が始まった1962(昭和37)年に、その最寄り駅として開業しました。
 そして2年後の1964(昭和39)年に、団地の隣接地へ獨協大学が開学しています。

 現在、松原団地は老朽化により建て替えが進み、「松原団地」という名称もすでに使われていません。

 このため草加市や草加商工会議所は、「50年後の将来に向けて、まちの魅力を高めることを主眼とした駅名」を検討。
「獨協大学前〈草加松原〉」を駅名案に決定し、東武鉄道も沿線価値の向上にメリットがあるとして、案のとおりに駅名を改称することとなりました。

 草加市総合政策課によると、新駅名は「獨協大学」を入れることで「大学のある街」を想起させつつ、2014年に国の名勝へ指定された旧日光街道の松並木「草加松原」を副駅名に添え、再整備が進む地域のイメージアップと観光面のアピールを両立する狙いがあるそうです。

 また同課の担当者は、
「改称のインパクトは大きいと考えています。駅名に大学名を冠することで、『若い人が多い街』という発展性のあるイメージを持たせることができます。住み続けたい、あるいは市外の人に住んでみたいと思ってもらいたい」と話します。

 松原団地駅は浅草駅(東京都台東区)より19.2km、北千住駅(東京都足立区)より12.1kmの場所。
 北千住駅からの所要時間は、普通列車でおおよそ20分弱です。

[図]
副駅名〈草加松原〉は主駅名の下に併記される(画像出典:東武鉄道)。

乗りものニュース、2017.02.07
駅名改称「松原団地」を「獨協大学前〈草加松原〉」に
その目的とは?

https://trafficnews.jp/post/64328

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2019年09月23日

22日(日)は山歩クラブのお散歩会!

 秋分の日9月23日(月)を翌日に控えた山歩クラブ、「草加松原」を歩くお散歩会の日です。
 一時は、雨の天気予報が流れ、今日9月22日(日)になるまで台風17号の接近に伴う強い雨風に見舞われる嵐の予報もでていました。
 しかし、山と街は違う、雨が降ったら雨宿りするところもいっぱい、なんだったら途中で引き返してもいい、雨ん中、傘をさして旧日光街道を歩くのも乙なもの、と雨天決行を事前に伝えました。
 こうして、草加駅に揃った6人衆、合羽からげて三度笠、出発進行!
 そうか、草加に来たらせんべいだよね、とせんべいの手作り試作に挑戦しました。

おせんさん.JPG

志免屋.JPG

 そして、草加せんべい発祥の碑の前で記念写真。

草加松原入り口.JPG

 あいかわらず、わいわいがやがや、いつもの楽しい一日を過ごしてきましたのでご報告。
 なお9月14日(土)の牧野富太郎博士関連セミナーでは桜の源流を訪ねてなんとミャンマーまで飛んだ先生のご報告を5人(内1名は今夏、大泉学園町から土佐の高知の生家まで飛んだという猛者までおりました)でお聞きし、山歩クラブからは質問までとびだし、内容の濃いお勉強会となったこともあわせてご報告します。


 これが昨日の9月22日(日)、ヤッホーくんから仲間たちに送った一斉メールだったそうです。

 9月14日って、上野桜守の会が東京都美術館講堂で開いた講演会、「自然史から見たサクラの話」のこと。
(国立科学博物館 陸上植物研究グループ長 田中伸幸氏)

講師の田中先生はサクラがご専門ではありませんが、高知県立牧野植物園に14年間勤務された方で、牧野富太郎博士のサクラにまつわるエピソードや、東南アジアのサクラ等についてお話しいただく予定です。

 そして、手作りせんべいを焼いてきたお店は、志免屋(しめや、埼玉県草加市神明1-11-1 フリーダイヤル 0120-211-721)。

 創業明治34年。
 当店は一貫して伝統の製法手作りを基本に、最も適した二合半領の米選びから、自家製粉、セイロ蒸かし、 焼上調味に至るまで独自の風味で各界にご賞味頂いて居ります。
 武州草加宿時代からの老舗志免屋(しめや)は、 伝統に恥じないよう煎餅を創り出して居ります。

http://www.shimeya.com/intro.html

 2020年東京パラリンピックの事前合宿として、コロンビアの水泳選手団が草加市を訪れている。
 2019年9月19日には、草加せんべいの手焼きや茶道を体験し、日本の伝統文化に親しんだ。

 市と同国のパラ委員会は3月、事前合宿に関して合意。
 コーチを含む計6人の選手団は17日に来日し、10月1日まで市内に滞在する。
 プールで練習するほか、市民水泳大会に参加したり、小学校で講演したりする。

 この日は、市文化会館で手焼きしたせんべいを味わった後、近くの日本文化芸術施設「漸草庵(ぜんそうあん) 百代(はくたい)の過客(かかく)」で茶道を体験。
 市茶道協会の女性たちがたてた抹茶で一服した。
 草加松原の松並木の散策もした。

 下半身不随の障害があるモイセス・フエンテス・ガルシア選手(44)は、
「とても価値ある体験ができ、おもてなしの深さを感じた」と笑顔。
 過去のパラ大会は銀メダルが最高で、
「一番の夢が東京での金メダル。この合宿で日本の気候や食べ物に慣れるよう調整したい」と話した。


[写真]
お茶を味わうコロンビアのパラ水泳選手たち=草加市で

東京新聞、2019年9月20日
<東京2020>
コロンビア・パラ水泳選手
草加で日本文化親しむ

(近藤統義)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/list/201909/CK2019092002000153.html

 山歩クラブも漸草庵にて ☟

漸草庵にて.JPG



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2019年09月22日

吉田裕「日本軍兵士」

アジア・太平洋戦争の戦場の実態を克明に描き、20万部のベストセラーになった「日本軍兵士」。
その著者で、近現代の天皇制研究でも知られる吉田裕さんは「天皇の軍隊」の実像を読み解く数少ない研究者だ。
大元帥たる昭和天皇は、あの戦争とどう関わり、どこまで兵士の窮状を知っていたのか。
沖縄戦や特攻をどう考えていたのか。

作戦決定に介入し、沖縄戦は海軍支持。特攻計画も認めた

―「日本軍兵士」には、食糧不足や劣悪な装備など、日本軍の過酷な実態が書かれています。

吉田裕: 軍隊の問題を自身に置き換えて考えられるように、『心と身体』に重きを置きました。体重の半分の装具を背負い、飢えや病気、心の病に苦しむ兵隊の姿から、戦争の現実を知ってほしかった。

― そうした戦場の現実を昭和天皇は知っていたのでしょうか。

吉田裕: かなり把握していたと思います。1943年9月には侍従武官長に、将兵を飢餓に陥らせるのは耐えがたい、『補給につき遺憾なからしむる如(ごと)く命ずべし』と言っています。ただ、最後まで日本軍の戦力を過信していたので、実情よりは楽観的だったとはいえるかもしれません。

― 実際の戦況をどの程度把握していたのですか。

吉田裕: どこでどの軍艦が沈んだかなど、日本軍が受けた被害については、ほぼ確実に把握していました。ただ、石油の備蓄量などは数字を改ざんして上奏されていたとも言われ、100%正確に知っていたかは疑問も残ります。
 一方で、敵に与えた損害は、誇大に報告されがちでした。台湾沖航空戦などが典型ですが、パイロットからの報告を精査せずに積み上げていったので、11隻もの航空母艦を沈めたことになっていました。実態とかけ離れた戦果が天皇のもとに情報として集められ、敵も苦しいはずだという楽観が生まれてしまいました。

―「まだ戦える」と思ってしまったわけですか。

吉田裕: 1945年2月に元首相の近衛文麿が戦争の終結を上奏したときに、天皇は『もう一度戦果を挙げてからでないとむずかしい』と答えています。その時点でも、まだ戦果を挙げられると信じていたんですね。米軍に打撃を与えて、できるだけ有利な条件で講和に持ち込むという『一撃講和論』をずっと支持していました。そのために戦争終結がずるずると遅れてしまった面はあると思います。
 沖縄戦でも、当初は、特攻作戦がうまくいっていると誤認していたようです。天皇が戦争をあきらめるのは1945年5月ごろです。ドイツの降伏と、沖縄がもう持ちこたえられないとわかって、ようやく終戦を決意したのです」

■ ■ ■

― 沖縄戦に、どの程度具体的に関わっていたのでしょうか。

吉田裕: 沖縄戦では、陸軍と海軍では当初の作戦方針に違いがありました。海軍は沖縄で最後の決戦をしようとしたのですが、陸軍は本土決戦を主張し、沖縄はその『捨て石』と見なしていました。持久戦にして米軍に損失を強い、本土決戦に備えようとしたのです。
 天皇は海軍を支持しました。陸軍は持久戦に備え陣地に立てこもる戦略をとろうとしましたが、天皇は出撃して決戦するように促しました。沖縄戦の場合は、天皇は海軍の側に立って、作戦に介入していたといえます。

― 天皇が作戦方針の決定にも関わっていたわけですか。

吉田裕: 歴史学者の山田朗さんが、どの作戦の際に天皇がどんな発言をして、どう影響を及ぼしたかを詳しく研究していますが、かなり主体的に関わっています。天皇が発する最高の統帥命令を、陸軍は『大陸命』、海軍は『大海令』といいますが、戦後の占領期、大陸命や大海令の存在は占領軍に秘匿されました。隠さなければいけなかったという事実が、天皇が作戦に関与していたことを証明しています。

― 戦争末期の特攻作戦についてはどうだったのでしょうか。

吉田裕: 陸軍の場合、正式な特攻部隊はつくられませんでした。部隊編成は天皇の大権ですが、特攻のような『非常の戦法』を天皇が裁可すると『徳が汚れる』という判断が陸軍にはあったんです。だから既存の部隊に、必要な機材と人員を増加配備して出撃させました。
 一方、海軍の場合は特攻専門部隊が編成されました。『回天』や『桜花』の部隊がそうです。編成を裁可している以上、特攻が天皇の意思に背いて行われたとは言えません。1945年1月には本土決戦用の陸海軍共同の作戦計画を裁可していますが、その中に特攻が含まれています。作戦としても特攻を認めているわけです。

■ ■ ■

― 参謀本部や軍令部の幕僚たちは、天皇の意思に全面的に従っていたのでしょうか。

吉田裕: 基本的には、参謀本部や軍令部がつくった作戦計画の大綱を天皇が見て、承認するという形でしたが、作戦に問題があると天皇が考えた場合には、意思を表示しています。天皇の積極的な意思表示があった場合には、幕僚たちも作戦を変えざるをえませんでした。
 ガダルカナル島の戦闘が激化していた時期に、陸軍の航空部隊を増援に出すよう海軍が強く要望しました。陸軍の飛行機は洋上飛行には不向きなので、陸軍側は抵抗します。しかし天皇は、繰り返し航空部隊を出すように言い、陸軍も結局は従っています。

― 明治天皇や大正天皇と比較すると、昭和天皇は特に統帥に関与していたとは言えるのですか。

吉田裕: 大正天皇は若いときから病気がちで、大きな戦争もなかったので、統帥権の発動者として行動することはほとんどありませんでした。明治天皇は、様々なかたちで戦争や作戦に関わりましたが、伊藤博文を始め、幕末の動乱をくぐり抜けてきた元勲たちが天皇を支えていました。彼らは作戦に介入して、戦争指導をするだけの力を持っていたんです。昭和期になると、伊藤のような人はいなくなった。天皇が文字通り軍を統帥することになり、制度の欠陥が露呈してしまいました。

― 天皇と軍隊をめぐる制度の欠陥とは何だったのでしょう。

吉田裕: 明治憲法体制では、あらゆる国家機関が天皇に直属していました。国務大臣も個別に天皇を補佐するシステムで、総理大臣も他の大臣と横並びの存在でしかありませんでした。内閣の外側に統帥部があり、それと並列して軍司令官や連合艦隊司令長官がいる状態です。普通の国なら参謀総長の下に軍司令官が置かれるのですが、明治憲法体制での参謀総長や軍令部総長は、基本的には天皇の命令を伝えるだけの存在で、自分では命令できません。
 昭和天皇は、国務については輔弼(ほひつ)の大臣を重んじるが、統帥については自分が最高責任者だと考えていたという証言があります。すべてを天皇に上げて、裁可を得なくてはならず、戦況の急な変化に対応できない。総力戦の時代には通用しないシステムでした。

■ ■ ■

天皇の役割含め、戦史は空白地帯。個人記録保存を

― 天皇の役割も含めて、旧日本軍がどんな組織で、どう動いていたのかは、あまり知られてこなかったように思います。

吉田裕: 日本の近現代史研究では、長い間、軍事史が空白でした。戦後の近現代歴史学を最初に担った世代は、ほとんどが軍隊経験があり、戦争や軍隊にはもう関わりたくないという気持ちがあったと思います。
 日本の伝統的な歴史学の考え方では、50年経たないものは研究対象にならないとされていました。当事者がまだ生きているから利害関係があり、客観的に見ることができないからという理由です。もうひとつ大きいのは、情報公開が遅れていたことです。僕が卒業論文を書いたのは1977年ですが、当時、旧防衛庁の防衛研修所戦史室には、所蔵資料の目録さえなかった。存在そのものが伏せられていた資料も多かったんです。

― 遅れた間に、当事者はどんどん死んでいきますから、研究自体も難しくなりますね。

吉田裕: あの戦争について、外交史、政治史、経済史などの研究はかなり進みましたが、最後の空白地帯が戦史です。軍隊や戦場そのものを歴史分析の対象にする。それが『日本軍兵士』で一番書きたかったことなんです。天皇と戦争のかかわりもその一部です。

―「日本軍兵士」があれだけ読まれたのはなぜでしょう。

吉田裕: 読者の感想を見ると、ブラック企業など、いまの問題に引きつけて読んでいる人も多いようです。バブル時代のCMで『24時間戦えますか』というのがありましたけれど、疲労の激しいパイロットに覚醒剤を打って出撃させる発想と、基本的には変わってないですよね。

― 戦史の空白を埋めていく上で、重要なことは何でしょうか。

吉田裕: 非売品や私家版で出された部隊史、兵士の回想録や日記の復刻などの資料の散逸が一番心配ですね。私家版だと納本義務がないので、国会図書館にないものも多い。活字になっていない日記やメモなども多く残されているはずなのですが、本人が亡くなると処分されてしまいます。戦争体験の記録を国が収集して、保存する仕組みをつくるべきだと思います」

◇ 吉田裕(よしだゆたか、1954年生まれ)
 専門は日本近現代史。一橋大学特任教授。著書に「昭和天皇の終戦史」など。6月から東京大空襲・戦災資料センター館長。


2019-08-07 23:40:00
(インタビュー)大元帥たる昭和天皇
歴史学者・吉田裕さん

(聞き手)シニアエディター・尾沢智史
朝日新聞、2019.8.7付け
https://ameblo.jp/lovemedo36/entry-12502683964.html

映画「この世界の片隅に」(2016年公開)が8月3日、NHKによって地上波放送で初めて放映された。
こうの史代さんのマンガを原作とする劇場版アニメだ。
主人公は、すずさん。
絵を描くのが好きな18歳の女性だ。
広島から呉に嫁ぎ、戦争の時代を生きる。
(関連記事「『この世界の片隅に』は、一次資料の塊だ」)
https://business.nikkei.com/atcl/interview/15/230078/120600064/
アジア・太平洋戦争中の、普通の人の暮らしを淡々と描いたことが共感を呼んだ。

一方、アジア・太平洋戦争中の、戦地における兵士の実態を、数字に基づき客観的に描写したのが、吉田裕・一橋大学大学院特任教授の著書『日本軍兵士』だ。
「戦闘」の場面はほとんど登場しない。
描くのは、重い荷物を背負っての行軍、食料不足による栄養失調、私的制裁という暴力、兵士の逃亡・自殺・奔敵、戦争神経症に苦しむ様子−−。
同書の記述からは、軍が兵士をヒトとして遇そうとした跡を感じることはできない。
加えて、第1次世界大戦から主流となった「総力戦」(*)を戦う態勢ができていなかった事実が随所に垣間見られる。

(*)軍隊だけでなく、国の総力を挙げて行う戦争。軍需物資を生産する産業力やそれを支える財政力、兵士の動員を支えるコミュニティーの力などが問われる。

なぜ、このような戦い方をしたのか。
終戦記念日 を迎えたのを機に考える。
吉田特任教授に話を聞いた。

ー 吉田さんはご著書『日本軍兵士』の中で衝撃的な数字を紹介しています。
 支那駐屯歩兵第一連隊の部隊史を見てみよう 。(中略)日中戦争以降の全戦没者は、「戦没者名簿」によれば、2625人である。このうち(中略)1944年以降の戦没者は、敗戦後の死者も含めて戦死者=533人、戦病死者=1475人、合計2008人である。(後略)(支那駐屯歩兵第一連隊史)(出所:『日本軍兵士』)

 この部隊の戦没者のうち約76%が終戦前の約1年間に集中しています。しかも、その73%が「戦病死者」。つまり「戦闘」ではなく、戦地における日々の生活の中で亡くなった。敗戦色が濃厚になるにつれ、兵士たちは戦闘どころではなく、生きることに必死だった様子がうかがわれます。
 戦病死の中には、「餓死」が大きなウエイトを占めていました。
 日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数はすでに述べたように約230万人だが、餓死に関する藤原彰の先駆的研究は、このうち栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は、140万人(全体の61%)に達すると推定している*。(『餓死した英霊たち』)(出所:『日本軍兵士』)
*:諸説あり

 飢餓が激しくなると、食糧を求めて、日本軍兵士が日本軍兵士を襲う事態まで発生しました。
 飢餓がさらに深刻になると、食糧強奪のための殺害、あるいは、人肉食のための殺害まで横行するようになった。(中略)元陸軍軍医中尉の山田淳一は、日本軍の第1の敵は米軍、第2の敵はフィリピン人のゲリラ部隊、そして第3の敵は「われわれが『ジャパンゲリラ』と呼んだ日本兵の一群だった」として、その第3の敵について次のように説明している。

 彼等は戦局がますます不利となり、食料がいよいよ窮乏を告げるに及んで、戦意を喪失して厭戦的となり守地を離脱していったのである。しかも、自らは食料収集の体力を未だ残しながらも、労せずして友軍他部隊の食料の窃盗、横領、強奪を敢えてし、遂には殺人強盗、甚だしきに至っては屍肉さえも食らうに至った不逞、非人道的な一部の日本兵だった。(前掲、『比島派遣一軍医の奮戦記』)(出所:『日本軍兵士』)

負傷兵は自殺を強要される
 この後の質問の前提にある日本軍兵士の悲惨な事態を読者の皆さんと共有するため、もう少し、引用を続けます。
 兵士たちは飢餓に苦しむだけでなく、自殺を強要されたり、命令によって殺害されたりすることもありました。以下に説明する行為は「処置」 と呼ばれました。
(前略)戦闘に敗れ戦線が急速に崩壊したときなどに、捕虜になるのを防止するため、自力で後退することのできない多数の傷病兵を軍医や衛生兵などが殺害する、あるいは彼らに自殺を促すことが常態化していったのである。
 その最初の事例は、ガダルカナル島の戦いだろう。(中略)撤収作戦を実施して撤収は成功する。しかし、このとき、動くことのできない傷病兵の殺害が行われた。(中略)
(中略)視察するため、ブーゲンビル島エレベンタ泊地に到着していた参謀次長が、東京あて発信した報告電の一節に、次のような箇所がある。

 当初より「ガ」島上陸総兵力の約30%は収容可能見込にして特別のものを除きては、ほとんど全部撤収しある状況なり
(中略)
 単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、敵至近距離に進撃せば自決する如く各人昇コウ錠[強い毒性を持つ殺菌剤]2錠宛を分配す
 これが撤収にあたっての患者処置の鉄則だったのである。
(『ガダルカナル作戦の考察(1)』)

 つまり、すでに、7割の兵士が戦死・戦病死(その多くは餓死)し、3割の兵士が生存しているが、そのうち身動きのできない傷病兵は昇コウ錠で自殺させた上で、単独歩行の可能な者だけを撤退させる方針である。(出所:『日本軍兵士』)

第1次大戦時に修正できなかった精神主義
 食糧が不足し餓死と背中合わせ。戦闘で負傷すれば、自殺を強要される。こうした“踏んだり蹴ったり”の環境では、戦闘どころではありません。戦争はもちろんしないに越したことはありません。しかし、仮にしなければならないとするなら、兵士をヒトとして遇し、十分な食糧と休息を与えるべきだったのではないでしょうか。
 なぜ、アジア・太平洋戦争では、そんな態勢が作れなかったのでしょう。日清・日露というそれ以前の戦争では、兵士をヒトとして遇していたのでしょうか。

吉田裕: アジア・太平洋戦争の時ほど極端ではありませんが、日本軍に独特の精神主義が存在していました。典型は、歩兵による白兵突撃です。銃の先に銃剣を付け突撃し攻撃路を開く、というやり方。その背景には、「精神力で敵を圧倒する」という精神主義がありました。
 日露戦争後、こうした考え方が軍内に広まっていきます。例えば、陸軍は歩兵操典などの典範令(教則本)を大改正して、ドイツ製の翻訳から、独自のものに改めました。内容的には、日本古来の伝統、精神を重視するものにした。例えば夜襲を重視しています。

ー 日露戦争当時の軍は、日露戦争は白兵突撃によって勝ったと認識していたのですか。司馬遼太郎さんが同戦争を描いた小説『坂の上の雲』の影響かもしれませんが、「二〇三高地の戦いにおける白兵戦は愚かな作戦だった」という印象を持っていました。乃木希典・第三軍司令官は、効果が小さいにもかかわらず、犠牲の多い、白兵突撃を繰り返した、と。

吉田裕: 事実はともかく、「白兵戦によって勝った」「日本精神によって勝った」という“神話”を作ってしまったのです。
 本来なら、その後に起きた第1次世界大戦を研究する中で、こうした精神主義を修正すべきでした。しかし、それができなかった。
 例えば、歩兵による白兵突撃主義を取ったのは、日本軍だけではありません。欧州諸国の軍も同様でした。派手な軍服を着て、横一列に並んで突撃していったのです。しかし、第1次世界大戦を戦う中で挫折した。機関銃と戦車の登場が契機でした。
 日本軍は、第1次世界大戦中の欧州の状況を詳しく研究しました。しかし、研究するのと参加するのとでは話が違います。欧州戦に参加しなかった日本軍は、第1次世界大戦をリアリティーをもって感じることができなかったのでしょう。

部下による反抗恐れ私的制裁を容認

ー 兵士たちは餓死や処置を覚悟しなければならないだけでなく、私的制裁にも苦しめられました。私的制裁を苦にして、逃亡、奔敵(敵側に逃亡すること)、自殺に至る兵士が多数いました。
 初年兵教育係りの助手を命じられたある陸軍上等兵による、初年兵への執拗な私的制裁によって、彼の班に属する初年兵28人のほとんどが「全治数日間を要する顔面打撲傷」を負った。このため、私的制裁を恐れた初年兵の一人が、自傷による離隊を決意して自分自身に向けて小銃を発砲したところ、弾丸がそれて他の初年兵に命中し、その初年兵が死亡する事件が起こった。(『陸軍軍法会議判例類集1』)(出所:『日本軍兵士』)

 なんとも悲惨な話です。なぜ、私的制裁を取り締まることができなかったのでしょう。

吉田裕: 当時は、徹底的にいじめ、痛めつけることで、強い兵士をつくることができると考えられていました。この考えから抜け出すことができなかったのです。
 加えて、私的制裁が古参兵にとってガス抜きの役割を果たしていたことが挙げられます。兵士たちは劣悪な待遇の下に置かれています。この鬱屈とした激情が上官に向かって爆発すると、軍としては困る。実際、上官に逆らう対上官犯 は戦争が進むにつれて増えていきました。これを、単に規制するだけでは、火に油を注ぐことになりかねません。そこで、「下」に向けて発散するのを容認する傾向がありました。
 鬱屈とした激情を、「下」だけでなく「外」に向かって発散するのを容認する面もありました。
 そうした教育の戦場における総仕上げが、「刺突」訓練だった。初年兵や戦場経験を持たない補充兵などに、中国人の農民や捕虜を小銃に装着した銃剣で突き殺させる訓練である。
 藤田茂は、1938年末から39年にかけて、騎兵第二八連隊長として、連隊の将校全員に、「兵を戦場に慣れしむるためには殺人が早い方法である。すなわち度胸試しである。これには俘虜(捕虜のこと)を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるから、なるべく早くこの機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」、「これには銃殺より刺殺が効果的である」と訓示したと回想している。(『侵略の証言』)(出所:『日本軍兵士』)

軍刑法に私的制裁の禁止条項なし


ー 軍法会議は機能していなかったのですか。

吉田裕: 陸軍や海軍の刑法には、私的制裁を禁止する条項がありませんでした。
 陸軍刑法に「陵虐の罪」の規定があります。しかし、これは、兵士を裸にして木にくくりつけるなど非常に極端な行為を対象にするもので、日常的に起こる私的制裁を対象にするものではありませんでした。
 取り締まるとすれば、一般の刑法の「暴行及び傷害の罪等」を適用する。

ー 確かに、初年兵28人に「全治数日間を要する顔面打撲傷」を与えた陸軍上等兵は刑法の傷害罪で懲役6カ月の有罪判決を受けています。この事件は初年兵の一人が自傷を試みたことによって発覚しました。かつて見た、「ア・フュー・グッドメン」という映画を思い出しました。トム・クルーズ氏が主演で、軍に勤める法務官。海軍の基地で、ジャック・ニコルソン氏演じる司令官が「コードR」(規律を乱す者への暴力的制裁)を命じて、若い兵士を死に至らしめる。法務官が法廷で大ばくちを打って、司令官を有罪に持ち込む、というストーリーです。この「コードR」に相当するものが、当時の日本の軍刑法には存在しなかったのですね。

吉田裕: 軍法会議に関する研究は実は進んでいないのです。法務省が資料を保管し、公開してこなかったのが一因です。今は、国立公文書館に移管されたようですが。二・二六事件をめぐる軍法会議の資料が閲覧できるようになったのは敗戦後50年もたってからのことです。これから新たな研究が出てくるかもしれません。

ー 食糧の調達が十分でなく、多くの餓死者が出ました。そこから容易に想像がつくように、他の軍需工業品についても、供給力が伴っていませんでした。産業に、総力戦を支える力がなかった。例として、吉田さんは軍靴に注目されています。
 雨のために凍死するものが続出した。軍靴の底が泥と水のために糸が切れてすっぽり抜けてしまい、はきかえた予備の新しい地下足袋もたちまち泥にすわれて底が抜けてしまった。そのために、はだしで歩いていた兵隊がやられてしまったのである。雨水が体中にしみわたり、山上の尾根伝いに、深夜はだしで行軍していたら、精神的肉体的疲労も加わって、訓練期間の短くて、こき使われることの最も激しい老補充兵が、倒れてしまうのも当然のことであろう。(『遥かなり大陸の戦野』)
(中略)
 頑丈な軍靴を作るためには、縫糸は亜麻糸でなければならなかった。亜麻の繊維から作られる亜麻糸は細くて強靭であり、特に、陸海軍の軍靴のように有事の動員に備えて長く貯蔵しておく必要があるものは、「絶対にこの糸で縫うことが必要である」とされていた(『製麻』)。
 しかし、亜麻は日本国内では冷涼な気候の北海道でしか栽培することができない。そのため、日中戦争が始まると軍の需要に生産が追い付かなくなった。北朝鮮や満州での栽培も試みられたが十分な成果をあげることができず、結局、品質の劣る亜麻の繊維まで使わざるをえなくなった。
(中略)
 以上のように、こうした基礎的な産業面でも、日本はかなり早い段階から総力戦上の要請に応えられなくなっていたのである。

 なぜ、このような準備不足のまま、アジア・太平洋戦争に突入したのでしょう。日中戦争については、意図せず戦線が拡大していった面があります。満州事変は、関東軍が勝手に始めたもの。時の若槻礼次郎内閣が意思決定して開始したわけではありません。日中戦争の火蓋を切った盧溝橋事件にしても偶発的に始まった。しかし、対米戦はそうとは言えません。真珠湾攻撃によって、こちらから仕掛けたわけですから。

吉田裕: おっしゃるとおりですね。対中戦争は国家意思に基づいて始めたものではありません。盧溝橋事件も、偶発的に始まったことが最近の研究で明らかになっています。他方、対米戦は4度の御前会議を経たのち、閣議決定して開戦しました。

統一した意思決定ができない明治憲法

ー 盧溝橋事件(1937年)によって日中戦争が始まる前の1935年に、陸軍で軍務局長を務めていた永田鉄山が刺殺されました。総力戦をにらみ、それに耐える国家体制を作るべく様々な構想を練っていた戦略家です。彼が生き続けていたら、その後の展開は違ったものになっていたでしょうか。

吉田裕: そういう考えは、あり得ます。彼は非常に優秀な軍事官僚で、重要人物です。しかし、彼一人で状況を変えることができたかは判断がつかないところです。私は、より大きなシステム上の問題があると考えています。

ー システム上の問題とは?

吉田裕: 明治憲法です。これが定める統治構造は分散的で、総力戦を戦うのに必要な統一的な意思決定をするのに不向きでした。さまざまな決定が折衷案もしくは両論併記になってしまうのです。
 例えば、陸軍は対ソ戦をにらみ北進を主張する。海軍は石油をはじめとする東南アジアの資源を求めて南進を主張する。すると、結論は「南北併進」になってしまうのです。1941年7月に開かれた御前会議はこのような決定をくだしました。
 さらに言えば、南北併進に基づく決定をしながら、政府は米国との外交交渉を継続するのです。戦争の準備をすれば日米関係は悪化します。外交交渉は進まない。つまり、その場しのぎの決定しかできず、それが悪循環を引き起こしたのです。陸海軍の間に統一戦略はない。政府と軍も進む方向が異なる。三つどもえの状態に陥っていました。

ー 明治憲法のどこに問題があったのですか。

吉田: いわゆる統帥権(*)の独立ですね。

(*)作戦・用兵に関する命令。陸軍の統帥部として参謀本部が、海軍の統帥部として軍令部があった。それぞれのトップは参謀総長と軍令部長

 総力戦を戦うのであれば、本来なら、国務(政府)と統帥(軍)が統一した戦略をもって臨む必要があります。しかし、これはなかなか実現しませんでした。
「国家機関の分立制」「政治権力の多元性」といわれる仕組みを採用していたからです。「統帥権の独立」を盾に、軍は政府の外に立つ。軍の中でも陸軍省と海軍省が分立している。軍令*については陸軍の参謀本部と海軍の軍令部が分立している。政府においても、各国務大臣は担当分野についてそれぞれが天皇を輔弼(ほひつ、補佐)する仕組み。各国務大臣の権限が強く、首相の権限は弱かったわけです。

ー 明治憲法は、なぜ「国家機関の分立制」を採ったのですか。

吉田裕: 同憲法の起草者たちが政党勢力を恐れたからです。政党が議会と内閣を制覇し、天皇大権が空洞化して、天皇の地位が空位化することを恐れた。
 総力戦を戦うならば、明治憲法を改正しこれを改める必要があったと思います。

高橋是清が主張した参謀本部の廃止

ー 総力戦をにらんで、憲法を改正しようという具体的な動きがあったのですか。

吉田裕: 首相や蔵相を務めた高橋是清が1920年に参謀本部廃止論を唱えています。この軍事上の機関が内閣のコントロールから独立して、軍事、外交、経済の面で影響力を及ぼしている、とみなしていました。陸軍大臣や海軍大臣の統制に服していた参謀総長や軍令部長が、だんだんそれを逸脱するようになってきたのです。
 首相に在任中だった原敬も、「何分にも参謀本部は山県(有朋)の後援にて今に時勢を悟らず。元来先帝(明治天皇)の御時代とは全く異りたる今日なれば、統率権云々を振廻すは前途のため危険なり。(中略)参謀本部辺りの軍人はこの点を解せず、ややもすれば皇室を担ぎ出して政界に臨まんとす。誤れるの甚だしきものなり(下略)」(『原敬日記』)として参謀本部に批判的でした。
 ただし、憲法改正までは言っていません。明治憲法は欽定憲法(天皇が国民に下賜した憲法)なので、「欠陥がある」とは言い出しにくいのです。もちろん、明治憲法も改憲の手続きを定めてはいたのですが。
 参謀本部や軍令部は明治憲法が規定する機関ではありません。これらは、そもそも統帥権をつかさどる機関として設置されたのではありません。最初は、政治(政府)の影響力が軍に及ぶのを遮断する役割でした。明治の初期は、政治家であり軍人である西郷隆盛のような人が力を持っていました。そうすると、軍が政争に巻き込まれる可能性が生じます。それを避けようとしたのです。
 統帥権の独立と言うけれど、明治憲法のどこにもそのような規定はありません。内閣が担う輔弼の役割の範囲外と書かれてはいないのです。そうではあるけれども、既成事実の積み上げによって、政治や社会が容認するところとなった。戦前の日本にはシビリアンコントロールが根付かなかったですし。内閣には常に陸海軍大臣という軍人の大臣がいたので、純粋なシビリアンの内閣は存在しませんでした。
 そして、ある段階から、軍が自分の要求を通すための口実として統帥権を利用するようになったのです。ロンドン海軍軍縮条約(1930年に締結)あたりからですね。それに、政党も乗じるようになりました。

ー 当時、政友会の衆院議員だった鳩山一郎が、同条約の調印は統帥権の干犯だとして、時の浜口雄幸内閣を糾弾しました。

吉田裕: そうですね。

ー 高橋是清と原敬はどちらも政友会を率いて首相を務めました。政友会は親軍的なイメージがありますが、そうではないのですね。

吉田: ええ、少なくとも1920年代は親軍的ではありませんでした。

日中、日米、日ソの3正面で戦う

ー ここまでご説明いただいたような事情で、戦前・戦中の日本はずっと統一した意思決定ができなかった。

吉田裕: はい。そのため、1941年ごろには、3正面作戦を戦おうとしていました。なし崩し的に始まった日中戦争が泥沼化し、1941年12月には対米戦争が始まる時期です。
 1941年6月に独ソ戦が始まると、陸軍はこれを好機ととらえ、対ソ戦を改めて検討し始めました。ドイツと共にソ連を東西から挟み撃ちにしようと考えたわけです。関東軍が満州で特種演習(関特演)を行ったのはこの文脈においてです。
 この時、兵力はもちろん、大量の物資を満州に集積しました。「建軍以来の大動員」を言われる大きな動きでした。つまり、日露戦争よりも大規模な部隊を配備したわけです。しかし、予想に反してソ連が踏ん張り、極東に配備していた戦力を欧州戦線に移動しなかったので、対ソ戦は実現しませんでした。動員した兵力と物資は無駄になり、その後、ソ連とのにらみ合いに終始することになったわけです。

ー ゾルゲ事件はこのころの話ですか。駐日ドイツ大使館員をカバーに利用していたソ連のスパイ、ゾルゲが、「日本が対ソ戦を始めることはない」との情報を得て、ソ連に通報。スターリンはこの情報を元に、対独戦に集中した、といわれています。

吉田裕: この頃の話ですね。ただし、スターリンはゾルゲがもたらした情報をさして重視しなかったといわれています。

ー 対中、対米、対ソ戦を同時に戦う。後知恵ではありますが、無謀に聞こえますね。

吉田裕: その通りですね。しかも、1942年の春ごろ、陸軍は再び対ソ戦を考えるのです。マレーシアを落とし、フィリピンを占領して、初期作戦を予定通り終えたことから、南方は持久戦に持ち込み、対ソ戦を始めようと考えた。満州に配置された関東軍の規模がピークを迎えるのはこの頃です。
 同じ時期に海軍は、ミッドウェーやソロモン諸島に戦線を拡大します。米国の戦意をそぐのが目的でした。いずれも失敗に終わりますが。
 初期作戦が終了した後も、陸海軍で統一した戦略がなかったわけです。陸海軍が統一した軍事戦略をようやく作ることができたのは1945年初頭のこと。本土決戦を前にしてのことでした。
日露戦争時の「勝利の方程式」から抜け出せなかった

ー 陸軍がなぜそれほど対ソ戦にこだわったのか、また海軍はなぜマリアナ諸島やソロモン諸島のような遠くにまで戦線を拡大したのか、素人には理解できないところです。

吉田裕: 日露戦争の時から続くロシア、ソ連の脅威が陸軍の頭から離れなかったのでしょう。加えて、満州事変のあと満州国を建国し、ソ連と国境を直接接するようになったことが大きい。しかも、ソ連の部隊増強ペースはかなり速かったのです。

ー 満州というソ連との緩衝地帯を自ら無くしておいて、その脅威におびえるとのいうのは、皮肉な話です。

吉田裕:その通りですね。
 海軍も日露戦争の成功体験から逃れることができませんでした。海軍の基本的な考えは、日本海海戦(*)のような艦隊決戦で決着をつけること。そのため、太平洋を西進する米艦隊の戦力を、「漸減邀撃(ぜんげんようげき)」してそいでいく。具体的には、第1陣は潜水艦部隊、第2陣は一式陸上攻撃機を使った空爆、第3陣は魚雷を積んだ軽巡洋艦です。この一式陸上攻撃機の基地がマリアナ諸島のサイパンなどに置かれていました。

(*)東郷平八郎司令官が率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を破った海戦

 そして、艦隊の規模が同等になったところで、西太平洋で艦隊決戦を挑む。そのために巨大な戦艦「大和」や「武蔵」を建造したわけです。
 しかし、艦隊決戦は対米戦争の最後まで行われることはありませんでした。マリアナ沖海戦は、空母を中心とする機動部隊同士の戦いになりました。ミッドウェー海戦も機動部隊が前衛を構成し、大和は後ろに控えているだけでした。燃料の石油を食いつぶしただけです。むしろ、空母を戦艦が守るかたちで布陣すべきでした。
 ソロモン諸島の基地は、米国とオーストラリアを結ぶシーレーンを遮断する役割を担っていました。
 前に陸軍は「白兵戦によって勝った」という“神話”ができたお話をしました。陸軍も海軍も、日露戦争の総括が甘かったのです。


日経ビジネス、2019年8月14日
飢餓、自殺強要、私的制裁−−戦闘どころではなかった旧日本軍
日経ビジネス、2019年8月15日
米中ソ3国と同時に戦う! また裂き状態だった旧日本軍の意思決定

(聞き手)森 永輔、日経ビジネス副編集長
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00005/080700039/
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00005/080700040/

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2019年09月21日

[インタビュー]一橋大学・吉田裕教授

[インタビュー]
一橋大学 吉田裕教授(大学院社会学研究科)

― 先生が日本の近現代史・軍事史の研究に進まれたきっかけは何ですか?

吉田裕: 生まれたのが埼玉県の豊岡町(現入間市)なんですが、そこは戦前は陸軍の航空士官学校があって、戦後は米軍のジョンソン基地となり、その後返還されて航空自衛隊の基地となったという、戦前からの基地の街なんですね。
 僕が子供のころまだ米軍基地だったんですが、そういう基地の街で育ちました。
 ただ、過去の戦争についての興味というのはほとんどなかったんですね。
 実は、僕らの世代は隠れ軍事オタクで軍事のことについて妙に詳しいひとが多いんですよ。
 それは、50年代末にマンガ週刊誌が出てきて、その第一世代になるんですが、当時のマンガ週刊誌はほとんど戦争の話で満ち溢れているんですね。
 その内容自体は、戦争に対する反省というよりは戦争をスポーツのように描いたり、過去の日本軍の兵器の優秀さを強調したりといったことに力点があって、戦争の悲惨さとか日本の戦争責任にかかわることはまったく触れられていない本ですね。
 そういう子供文化の中で育ってきたので、日本の海軍の戦艦の名前を全部言えるとかはありましたね(笑)。

 そんな中でもなにか感じるとこがあったのは、やっぱりベトナム戦争ですね。
 ベトナム戦争でお茶の間でテレビを通じて戦争というのを目にして、自分でどう消化していいか分からないけど非常にショックでしたね。
 僕の家の隣が米軍将校のハウスで、奥さんが日本人でその子供とよく遊んでいたんですけど、父親がベトナムに行くことになったとき、母親が半狂乱状態になっていたのを、すごくよく覚えています。
 そのベトナム戦争のことがずっとひっかかっていた。


―  当時の中学生の間では、やはりベトナム戦争は話題になっていましたか?

吉田裕: 議論した記憶はあまりないけれども、やっぱりショッキングですよね。
 戦場が初めてお茶の間にもちこまれた最初の戦争でしたから。
 南ベトナムの秘密警察の長官が路上で解放戦線の将校を頭にピストルをつきつけて射殺するシーンを見たときは、本当にショックでした。
 こういうマンガの子供文化の戦争とは違う戦争の世界というのがあるんだなって漠然と感じました。

 高校時代は、受験勉強ばっかりで本はろくに読んでいませんでした。
 大学は、東京教育大学に行ったんですね。
 大学で一番最初に読んでショックを受けたのは、家永三郎さんの『太平洋戦争』(岩波書店、1968年、2002年7月に岩波現代文庫)ですね。
 公文書とか日記など、政治家や高級軍人の一次史料、そうした従来の歴史学の正統的な史料だけではなく、一般の民衆の戦争体験記・回想録・日記、そういうものの膨大な史料にもとづいて太平洋戦争の歴史を描いてるんですね。
 日本軍の残虐行為等々も含めて描いていて、これは非常にショッキングでした。
 もう一つは、、熊沢京次郎というペンネームで本多勝一さんたちが1974年に現代評論社から出した『天皇の軍隊』(1991年8月に朝日文庫)ですね。
 これは、中国戦線での治安粛清戦に参加した兵士たちからの聞き取りに基づいて、日本軍の治安作戦の実態を本格的に明らかにした最初の本といっていい。非常に生々しい戦場の現実が描かれていて、同時に戦争の中でほんの少しだけど社会上昇を遂げていく、たとえば中国戦線に行って除隊して、満州国の警察官になったり、今まで日本で体験した生活より上にあがっていく。
 そういうある種の社会上昇を、一番下層のひとたちが、戦争の中で遂げていくという面にも触れていて、そういった面でも非常にショッキングでしたね。

 あとは、82年の教科書検定の国際問題化ですね。
 一部初期の報道に誤報があったのは確かですが、日本の文部省(現文科省)側が一貫して「侵略」という言葉を排除してきたのは紛れもない事実です。
 アジア諸国と日本との間に歴史認識の面で大きなずれがあって、日本の歴史学自体は、戦争の実態、たとえば戦争犯罪の解明ということで言えば、今までほとんど何もやってきてないのではないか、ということで、歴史学界の中で論争にもなりました。
 従来、戦争犯罪とか戦争の責任とかいった問題は、政治的問題としてタブー視されてきた、触れられないできた、そういう傾向があって、アジア・太平洋戦争の歴史について、戦争犯罪とかそういう負の問題を含めての研究というのがない、ということが教科書問題のあたりから日本人のなかで認識されてきたんですね。
 そんな中で書いたのが、1986年に青木書店から出した『天皇の軍隊と南京事件』ですね。
 南京戦にかかわる回想録は、部隊史を別にしても、私家版とか非売品という形、場合によると手書きで書いたものをコピーして図書館に寄贈したりという形で、膨大な量の史料があります。
 また、その頃からようやく防衛庁の防衛研究所戦史部が史料を少しずつ見せるようになってきたんですね。
 戦闘が終わった後に公式の記録として戦闘詳報というのを出すのですが、それを読むと載ってるわけですね、捕虜を160人刺殺したとか公然と。
 そういう形で回想録や、部隊の公式の記録の中に、戦争犯罪の痕跡がどう残されているかを、いわば拾い上げていく、こういう手法で『天皇の軍隊と南京事件』を書いた。
 ただ、そのときちょっと自分自身で違和感があって。要するに記録をざーっとみて戦争犯罪の記録のところだけ、つまみ食いしているような感じがして、それでいいのかなっていう意識はかなりありました。
 その頃からもうちょっと戦争や軍隊を支えた一般の庶民兵の生活史とか意識とかそういうのを考えなきゃいけないんじゃないか、と思うようになって、それをまとめたのが岩波新書の『日本の軍隊』ですね。

 そのあと、今度は逆に戦後史の中での日本人の戦争観みたいなものを考えてみようと思ったんですね。
 戦時中の士官学科出とか兵学校出とかの正規将校というのは、やっぱり学歴的にはエリートなんですよ。
 彼らは、戦争が終わった後、大学に入り直して、それで大学を出て、戦後の高度成長期を担っていくエリート集団になったわけですね。
 そのひとたちはやっぱりものを書く能力を持っているし、機会もあるし、いろんな形で記録を残していると思うんです。
 そうではない一般の兵士の戦後史、彼らが戦争の歴史と葛藤しながらどういう風に戦後という時代を生きてきたのかっていう問題を書いてみたいなあと思い始めたんですね。

 ちょうどその時、戦友会関係の雑多な文献、戦友会誌みたいなもの、そういうものが膨大に靖国神社の靖国偕行文庫があるのが分かったんですね。
 よく調べてみたら、要するに2000年前後くらいから戦友会が急速にみんな解散してしまって、それに伴って戦友会関係の文献を靖国偕行文庫に寄贈しているんですね。
 それを読み始めたら、やっぱりおもしろいんです。
 それでかなり一般の庶民の意識の変遷を追えるんじゃないかって思いました。

 一方、奈良県立図書情報館に戦争体験文庫ができたり、傷痍軍人の労苦をしのぶという目的で日本傷痍軍人会が運営する「しょうけい館」ができたりもしました。

 そういう新しい資料状況が生まれたんですね。
 戦争の時代を知る必要があるとともに、戦後史の中で、その戦争の時代にひとりひとりの人間がどう向き合ってきたかということまで含めてみないと、戦争の時代全体を総括したことにはならないって気持ちが非常に強く、むしろ戦後に焦点をあわせて侵略戦争と諸外国から非難されている戦争を戦った兵士たちの戦後の意識の変化と生き方のようなものを、そういった文献をもとにして少し書いてみたいと思ったんですね。
 それで寄り添いつつ、半歩距離を置いて批判的にながめつつ、というスタンスで書いてできたのが、この『兵士たちの戦後史』(岩波書店、2011年7月)ですね。


― 戦争体験ということでいえば、藤原彰先生など実際に兵士として戦争体験をされて、その後研究に入られたという方と、吉田先生のような戦争経験がない世代の研究者で、研究に対して何か大きな違いはありますか?

吉田裕: それは結構ありますね。
 やっぱり、戦後の第一世代の歴史家というのは、戦時下に沈黙をよぎなくされていた世代ですね。
 遠山茂樹さんとか服部之総とかの世代です。

 第二世代くらいが藤原さんたちの世代で、戦争に直接行った経験を持った世代ですよね。
 学徒出陣組といってほぼいいと思うんですけど。
 その世代には、戦争や軍隊につながることにはもう関わりたくないという意識が強くって、軍隊そのものを研究する、狭い意味での戦闘とか軍事というものを研究することにはある種の心理的タブーがあったと思うんですね。
 藤原さんはちょっと例外で、将校であった経験を活かして、マルクス主義的な軍事史研究をやった。
 その藤原さんにしても自分の体験を語るようになったのは晩年ですもんね。
 そういうタブーの意識は分からないでもないんですけど、その分だけ狭い意味での軍事史とか、戦場・戦闘とかそういうものの研究については日本ではなかったんですね。
 そういう点である種のタブーがあった。

 それが僕らの世代くらいから全然そういう研究がないこと自体がやっぱりおかしいんじゃないのかという気持ちが出てきました。
 少なくともあれだけ巨大な軍隊が存在して、自滅するわけではなくて、外国の軍事力によって打倒されまでは存続していた、社会もそれを支えていた、そのことの意味を考えなければいけないという気持ちが出てきたんですね。
 それで、軍隊の問題、さらには地域や地域の民衆がいかにして軍隊を支えてきたのか、という地域と軍隊の関係性を問うような研究がたくさん出てきました。


― 今日の研究動向をみると、植民地研究やメディア論的な研究がひとつの潮流としてあるように思いますが、そういった研究が出始めるのも先生の世代からでしょうか?

吉田裕: そうですね。
 戸ノ下達也さんなんかは、戦時下の音楽、「海ゆかば」のような戦時下の国民歌謡といわれるようなものの研究をしてますね。
 吉川弘文館から『「国民歌」を唱和した時代 昭和の大衆歌謡』(吉川弘文館、2010年7月)を出してます。
 戸ノ下さんには、戦時下の音楽会を再現して、「海ゆかば」を演奏したりということをされて同時代のひとの感性みたいなものを自分の皮膚感覚で感じとってみるところから始めるというような問題意識があるんですね。
 彼は1963年生まれですけど、彼なんかの世代になると、僕らより「ぶっとんでる」ところがありますね(笑)。
「原爆の図」で有名な丸木美術館で「海ゆかば」をやったりしているんですね。
 当然だけど反発も出てきて、反戦を柱にしている丸木美術館でなんで「海ゆかば」を演奏するんだという反発が出てきたようですが、ともかく当時の時代の雰囲気みたいなものを追体験するという意味もあって、戦時下のコンサートを再現するということを熱心にやっているんですね。
 それは、戦争体験世代の研究者にはない感性ですね。

 あとは、これは議論が分かれるところなんですが、戦前と戦後の連続と断絶という問題があって、総力戦論というのが盛んになって、むしろ戦時下に社会の現代化が進んでいくという側面に注目する。
 つまり、8月15日で切れているんじゃなくて、大きな変化というのが戦時下から進んでいて、戦後につながってくるんだと考える考え方があるんですね。
 私はその考えには、一面賛成、一面反対で、断絶してる面も明らかにあり、連続だけで歴史を読みとくのはおかしいと思っています。
 ただ、連続面をも視野に入れなければいけないというのが共通の問題意識として出てきているのが現状でしょうね。
 ですから、この『兵士たちの戦後史』での問題意識も、戦争の時代のそのものの歴史像の再構成というだけでは不十分で、やはり戦前と戦後とを串刺しにして考える必要があるんじゃないかという問題意識があるんですね。
 その時代に兵士たちがどう戦ったのか、どういう意識だったのか、地域や民衆、銃後が彼らをどう支えたか、あるいは政府が彼らをどう煽動したか、という研究も必要なんですけれど、戦争の時代に、ひとりひとりの人間が、戦後、向き合ってきたのか、向き合ってこなかったのか、向き合ってきたとすればどういう向き合い方をして、結局どういう風にその時代を総括しようとしたのか、ということを含めて解明して、初めて完結するということですよね。
 そして、戦後の問題までやらないと、当事者意識の欠けた自分とは関係のない問題になってしまう。
 僕も戦争に行ったわけではないけれど、その意味では直接の当事者ではないけれど、戦後史も含めて考えれば、まったく関係がないとはいえないわけですよね、誰しも。そうすると、戦後史というものを、きちんと視野に入れれば、自分の問題としてどうその問題を受け止めるかという視座が獲得できるんじゃないかというのがあって、それで戦後史ということを取り上げたんですね。
 いままでこういった本はないと思うんですね、そういう意味でもかなりの冒険をした本だと思います。

 ただ、本当はもうちょっと時間が欲しかった、調べたかったというのはありますね。
 たとえば、士官学校や海軍の兵学校を出たエリート幕僚将校で、衆議院議員になったのがどれくらいいるかとか。
 つまり、戦前のエリート軍人が「国防族」などの族議員につながって行くのかという問題です。
 初期は辻政信とか有名な人がいるのですけど、全体としてみたらあんまり多くないような気がする。


― ほとんど一般の兵士だったということですか?

吉田裕: そうですね。
 あとは学徒兵。
 ざっと見た印象だと、学徒兵だと社会党や共産党に入っているのが少なくないですね。
 そんなことを含めて調べてみようと思って、『議会制度百年史』を調べてみたんですね。
 だけど、ひとりひとりの経歴が書いてあるんですが、軍歴の取り方がばらばらで詳しい軍歴がわからなくて、全然役に立たなかった(笑)。


― 若い世代への戦争体験の継承という問題については、どう思いますか?

吉田裕: 若い世代に戦争の時代のことをどうやって継承していくかは非常に難しい。
 この本でみてきたひとたちは体験と記憶に基づいて、やっぱりひどい戦争だったということは実感として持っているわけですよね。
 決して聖戦を戦ったわけじゃないというのは実感として持っていて、その実感は重みがあった。
 たとえば日本が軍事大国になることを抑制する力としてずっと長い間作用してきたと思うんです。
 侵略戦争でない、という考えを持つ人も含めてのことです。
 そういうことがあって、政治的立場とか戦争に対する評価は別にしても、やっぱり戦争の悲惨さというようなところを共通に体験してきて、そういう意味での戦争はもういやだという意識をかなり強固に持った集団が日本社会に存在したわけですけど、今その世代が消滅しようとしているんですね。
 今までのように共通の体験とか共通の記憶を前提とした、歴史研究とか平和教育とかは、自明のことですけれど、通用しない時代になってきているということなんでしょうね。

 今の十代をみたら、アメリカと戦争をしたことすら知らない人がいますからね。
 東京裁判史観の克服なんて、「新しい歴史教科書をつくる会」は言っていますが、世論調査でみても、言葉としては知っていても東京裁判の内容を知らないひとのほうが多い時代ですからね。愕然としますけど(笑)。


― そういった戦争を知らない若い世代にお勧めする本はありますか?

吉田裕: 兵士たちの証言をすごく丁寧に集めているという意味で言えば、『証言記録 兵士たちの戦争』(NHK出版、2009年2月、全7巻、2011年7月)がいいですね。
 実際の生身の兵隊の声とか感性とかを知ることができます。それから、今、インターネットでみられるNHK「戦争証言アーカイブス」もいいですね。
 兵士の生の証言だけではなく、「日本ニュース」という当時の戦意高揚のためのニュース映画も一本ずつ全部見られます。
 松野 良一 (監修)『戦争を生きた先輩たち』(中央大学出版部、2010年8月)は、現役の中央大の学生が自分たちの先輩のところをまわって戦争体験を聞くという本です。
 彼らは全然戦争に関する知識がないんで、最初はかなりとんちんかんなことを聞いたと思うんだけど、何度かインタビューを重ねるうちに、自分の問題に置き換えて考え始めるんですよね。
 自分がその時代に学生として生きてたら、どうしただろうって、そう考えながら若い人たちがレポートを書いているので、これはとてもよかったですね。
 自分の問題に置き換えてとらえなおすという発想が前面に出てる本です。
 このあたりから入っていくのがいいんじゃないかと思いますね。

 あと、オーソドックスな本で言えば、吉見義明さんの『草の根のファシズム』(東京大学出版会、1987年7月)ですね。
 戦争を支えた兵士や銃後のひとたちの意識を日記等々から最初に分析した本です。


―最後に、先生の今後のご関心・ご研究はいかがですか?

吉田裕: 今まで、戦場・戦闘そのものを研究の対象にしてきたのは、純軍事的にひとつひとつの戦闘を分析して、次の戦闘に備え生かしていくために、戦争の教訓、いわゆる戦訓を研究するというものばかりなんですね。
 基本的には、日本では、戦場・戦闘そのものを研究の対象にしてきたのは自衛隊を中心にした戦訓研究しかないんですよ。
 それとは違う形で、もっと色々な角度から戦闘・戦場研究をやりたいなという思いがありますね。
 そこで気になるのは、軍医などの問題ですね。
 軍医とか衛生兵が書いたものの中には、生々しいことが書かれていることが多々あります。
 それと、その軍医の問題と自分の中でうまくまだつながってないのですが、傷痍軍人の問題、傷病兵の問題もやってみたいですね。

 それから、最近注目されている戦争神経症、兵士の心の傷という問題にも関心があります。
 これが史料がなかなかないんですね。
 帝国陸海軍にはそういうやわな兵士はいない、という建前がありましたからね(笑)。
 また『兵士たちの戦後史』にも書きましたけど、実際の戦闘で死んだ兵士たちが、はたしてどれくらいいるのかは甚だ疑問なんですね。
 餓死、海没死、自殺だけでなく、玉砕の場合は、最後の万歳突撃に参加できない兵士は殺害してしまうんですね。
 そういうことを考えると、特に激しい戦闘があったところでは、純粋に戦闘で死んだ人というのは、そんなに大きな割合ではないんじゃないか、と思うんです。
 そういう問題をちょっと描けないかなと思っています。

 ともかく戦場・戦闘の現実を、戦訓研究とは違う形で、歴史学的に再構成してみたいと思っています。


― 本日はお忙しい中ありがとうございました。

Knowledge Worker
これまでの本、これからの本
第6回 吉田裕教授

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鈴木志郎康

 昨日9月20日金曜日のヤッホーくんの”eチャリ”による徘徊は、政治経済研究所(江東区北砂1-5-4 Tel 5683-3325)での公開研究会でした。 
「戦後歴史学と軍事史研究、『日本軍兵士』を手がかりにして」という題での吉田 裕氏(東京大空襲・戦災資料センター館長、一橋大学大学院特任教授)のお話があったのです。
 その会場で、詩人で映像作家の鈴木志郎康が江東区は亀戸生まれ(1935年)で、その亀戸で東京大空襲に遭っていたことを教えてもらい、びっくり、びっくり!

朝日が玄関の格子戸に当たっている
記憶に残るその家。
69年前の
1945年3月11日の朝の記憶ですよ。
東京大空襲の翌朝、
旧中川の土手を火に追われて逃げてきて、
平井橋の袂で命拾いした9歳のわたしが
母と祖母と兄と共に生き延びた直後に落ち着いたその家。
風向きが変わって焼け残ったその家。
その家に今年の10月12日の夕方、
突然、訪れたんですね。
69年振りですよ。
戦災の焼夷弾の炎に追われて逃げて助かって、
その翌朝、祖母の実家のその家に落ちついてから、
69年振りですよ。
戦災の体験を語り伝えるという映像作品のロケーションで、
旧中川に掛かる平井橋の袂で、
電動車椅子に乗った姿で、
カメラを前に、
「ここまで逃げてきた」と語った後、
「ちょっと行ってみよう」と訪れたその家。
その家はわたしが9歳まで育って戦災で焼けてしまった家と
そっくりだったんです。
驚いた。焼ける前の家がそこにあったんです。
今は墨田区によって、
「立花大正民家園 旧小山家住宅」として保存されている家です。
玄関の格子戸。
あの朝、朝日が当たっていた格子戸。
懐かしいなあ。
そして小沢さんのカメラに撮られながら中庭に回ったら、
ガラス戸がはまった長い縁側、
雨戸の溝に心張り棒を電車にして走らせていた9歳のわたしが
突然、蘇った。
家の中にいるスタッフの藤田功一さんに
「六畳と八畳が続いて床の間があって、
縁側の突き当たりが便所でしょう」と家の外から声を掛けると、
「そうです、そうです。その通りです」と藤田さん。
戦前の焼ける前のわたしが育った家と全く同じだ。
その八畳の間に風邪を引いて寝ている子供のわたしが
母がリンゴを擦って持ってきてくれるのを今か今かと
待っていた、母を待っていた
その家じゃないですか。
79歳まで生きて、
69年ぶりに、
この家と出会えてよかったなあ、ですよ。
戦災体験者が少なくなって、
その記憶を体験していない者たちにどう伝えるかってことで、
東京大空襲・戦災資料センター主催の
「秋の平和文化祭2014」が
11月1日から3日まで開かれてね、
「詩を読み、映像が語る
空襲と詩と下町と
鈴木志郎康さんの詩をフィールドワークする」ってのに、
わたしは参加したんです。
「大空襲 若者が伝える」(注1)
「戦争 記憶のバトン
空襲・焼け跡・・・少年時代の詩人が見たもの」(注2)
という見出しで新聞記事になっちゃったんですね。
詩作品の、「この身の持ち越し」と
「記憶の書き出し 焼け跡っ子」が引用された。
おお、わたしの詩が新聞の記事になったんですね。
小沢和史さんと小沢ゆうさんと息子の鈴木野々歩君が
「この身の持ち越し」を
山本遊子さんが
「記憶の書き出し 焼け跡っ子」を
映像でフィールドワークしたんですね。
そのフィールドを69年前の戦災の夜、わたしは
「母と共に、よろめき倒れそうな祖母の手を引いて 中川の土手を歩き、平井橋の袂に辿り着き、風向きが変わったから、わたしたち三人は 偶然に逃げた身で生き残った」
わたしは小沢和史さんにこの旧中川の土手と平井橋の袂に連れて行かれて、
当時のことをカメラに向かって語った。
「わたしの父はあの夜、逃げ遅れて、炎に阻まれて、この中川に飛び込んで、浮いているものに掴まって助かった」
ところが、どっこい、今の中川の土手の中は、
すっかり変わってしまって、
川の中の水際にゆるく下る坂道の遊歩道になっていて、
燃えさかる川岸を逃れて川の中で一夜を明かす情景を
思い浮かべることはとうていできない。
そこで多くの人が死んだのだった。
焼けてしまったわたしの育った家の跡も
区画整理で道筋が変わってしまって
9歳の頭に叩き込まれた亀戸4丁目232番地が、
どこだか分からなくなちゃってる。
戦災前の下町の亀戸の街は記憶の中で薄れて行くばかりですね。
小沢ゆうさんは自分のおばあちゃん新名陸子さんに、
詩を朗読して貰って、
自分の子供と友達にその言葉を復唱させた。
「焼夷弾」から書き抜いた「夷」の字を
おばあちゃんは
「エビス」と読んだ。
「エビス」
「エビス」
「エビス」
子供たちは詩の最後のことばの
「ハイ、オジギ」
と言って可愛らしくオジギした。
8歳の小沢元哉君、村宮正陸君、桑原大雅君たちは
69年も昔の戦災をどう受け止めたのだろう。
鈴木野々歩君はわたしの詩の
「夜空にきらめく焼夷弾。 焼夷弾。 M69収束焼夷弾、と後で知る。 三百四十三機のB29爆撃機の絨毯爆撃、と後で知る。焼夷弾に焼かれそうになった記憶。黒こげに焼かれなくてすんだ。」
というこの詩をフィールドワークした。
インターネットのアーカイブから、
アメリカの空軍が撮影した東京大空襲の映像を探してきて、
それを自分の部屋の窓に重ねて、
B29が飛び、
余裕のパイロットの姿、
焼夷弾がばらまかれるイメージ。
そして、フィールドワークの後半では
わたしと母と祖母が逃げた北十間川から平井橋辺りまでの
現在の情景がモノクロ写真になって燃やされる。
今だって爆撃されれば焼け跡になっちまうというメッセージか。
戦後の焼け跡で遊んだ九歳のわたし。
その焼け跡の、
「その瓦礫の果ての冬空に見えた富士山。亀戸から上野動物園まで焼け跡を歩いていったのよ。子供の足で」ってところを、
山本遊子さんは12歳の少年と亀戸から上野まで歩いて、
空襲があったことなどを話し歩きながら撮影した。
その少年高橋慧人君が辿る道筋には立ち並ぶビル、ビル、ビル、
そして東京スカイツリーに行き当たるんだ。
何も無かった焼け跡には、今や、立ち並ぶ圧倒的な建造物。
焼け跡は言葉と写真でしかないじゃん。
その言葉を体験してない者に押しつけるなんて、
傲慢なんじゃないか、
と少年と歩いた山本遊子さんは感想を語ったんですね。
わたしは息子たちに自分の戦災の体験を話したことがなかった。
敗戦後の焼け跡体験も話したことがなかった。
息子たちはもう30歳代40歳代になっている。
これまでの日々の生活では、
自分の体験や来歴を彼らに話す機会がなかった。
考えてみると、
家族に自分のことを語るということがない。
わたし自身、親から彼ら自身の口から彼らのことを、
まともに殆ど聞いたことが無かった。
だが、洗いざらい自分のことを詩に書いてやろうと、
詩に戦災体験を書いたのだった。
戦災資料センターの山本唯人さんの目に止まって、
その詩のフィールドワークってことになったんですね。
わたしは電動車椅子で会場に行って、
被災者として、
戦争では犠牲者になる立場を自覚して、
映画を見ても漫画を読んでも、
主人公ヒーローの立場でなく、
そこで犠牲になるその他大勢の立場で、
ばったばったと殺される者たちの一人に
身を置いてきたと話した。
久し振りに人前で話をしたんだ。
そして電光が煌めく宵の東京の街中を
藤田功一さんが運転する車で家に帰ったきた。
電光が煌めく宵の東京の街中を。
電光が煌めく宵の東京の街中を。
もう一度、あの家に行ってみたいと思った。
花見ドライブに誘ってくれた戸田さんに頼んで、
戸田さんの車で夫人の紀子さんと一緒に再び、
戦災で焼けた亀戸のわたしの家があった場所を確かめて、
旧中川沿いの「立花大正民家園 旧小山家住宅」に行ったんですね。
玄関の上がりかまちを上がるのにちょっと苦労して、
座敷に上がって、
部屋の中を歩き回ったんです。
この家の中を歩き回るってことは、
9歳の記憶を歩き回るってことでしたね。
この居間の棚の上にラジオがあって
真珠湾攻撃の放送を聴いて、
「東部軍管区情報、空襲警報発令」を聞いて、
ああ、ここで。
ああ、ここで。
ああ、ここで。
わたしはしばし感傷に浸った。
オーセンチなのね、シロウヤスさん、ヤスユキさん。
9歳ではヤッチャンだったね。
そうだ、わたしはこの家で思いっきり感傷に浸れる特権者なのだ。
この家が戦災前の鈴木家の家と殆ど全く同じだと体験できるのは、
わたしと兄しかいないのだから。
神棚とその下の仏壇のある居間で、
戸田さんと並んで写真に撮って貰ったんです。
そして暮れなずむ東京の街を自宅に戻ったってわけです。
電光煌めく街中を走り抜けて帰って来た。
「夜空のきらめく焼夷弾。
焼夷弾。」
やっぱりこの「夷」ですよ。
焼かれちまった夷ですよ。
劫火に追われて逃げ延びた夷ですよ。
選挙が近く「国民」という漢字が、
新聞紙面に踊っている。
写真には、
二本の杖を突いた白髪のわたしが写ってた。


(注1)読売新聞2014年11月5日
(注2)朝日新聞2014年10月30日

浜風文庫’S Store、2014年11月27日
その家の中で九歳の記憶を歩き回った。
鈴木志郎康
https://beachwind-lib.net/?m=20141127

東京大空襲・戦災資料センター所蔵。映像作品。詩人・鈴木志郎康の詩とインタビュ―をもとに現代の少年が、元・焼け野原の東京を歩くショートドキュメンタリー。作品尺22分。
山本遊子作品
Youtube
少年と鈴木志郎康の詩を歩く―予告編

https://www.youtube.com/watch?v=6T0mzZtnU-c

 ヤッホーくんのこのブログ、2019年03月14日付けの日記「天沢退二郎」もお読みください。

film by Shirouyasu Suzuki .1991 16mm film 15min
『戸内のコア』の紹介
 この作品では、詩人の福間健二さん夫妻の生活の仕方を描いた。福間さんの詩集「カントリー・ライフ」を読んで気に入って、文通をするようになった。福間さんは、近代の都市生活というものに疑問を持っていて、自らの生活のよりどころとするところを探っている。そして、中国伝来の太極拳や輸気に関心を持って、それを始めている聞いたので、自然に気持ちを通わせる夫妻の姿を撮影することにした。制作、1991年。作者、56歳。
演出・構成・撮影・編集:鈴木志郎康
録音協力:小口詩子
スタジオ録音:林 智明
登場する人たち:福間健二
        福間恵子
(Shirouyasu Homepage 志郎康ホームページ Ring, Link, Rip.より引用)
catnet.ne.jp/srys/films/konai/konai.html
『戸内のコア』/ The core of family(詩人・福間健二)

https://vimeo.com//239098507

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2019年09月20日

雨宮処凛「この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代」

■ 酷使される労働者、重なる現代

「今のフリーターと状況が似ている」「プロレタリア文学が今や等身大」「蟹工船(かにこうせん)がリアルに感じられるほど、今の若い人の労働条件はひどい」――。
 作家・活動家の雨宮処凛(かりん)さん(44)は2008年1月の毎日新聞に載った作家・高橋源一郎さんとの対談でそう語った。

『蟹工船』の刊行は1929(昭和4)年。
 工業化や大正デモクラシーといった変化の一方、労働者の基本的権利が認められていなかった時代に、人間扱いされない労働環境と乗員らのストライキを描いたプロレタリア文学の代表作だ。
 作者の小林多喜二は特高警察に拷問されて死んだ。

 雨宮さんの発言などをきっかけに関心が高まり、新潮文庫版はこの年だけで約55万部。
 漫画版も売れ、翌年には映画化された。
 戦後の民主化と労働運動を経て働く環境は改善し、労働者の人権は守られた――。
 刊行から約80年後のブームは、そんな「幻想」はとうに終わっているという一人一人の叫びに見えた。

* * *

 戦後、労働三法が成立し、組合活動も定着。
 働く環境は確かに良くなった。
 一方で1986年には労働者派遣法が施行、フリーターが「新しい働き方」として注目された。

 だが90年代にバブル経済が崩壊、グローバル化と就職氷河期の中で労働市場の規制緩和が進むと、パートやアルバイトなどの非正規雇用が増加。
 主に正社員を守ってきた労働運動の擁護も十分に受けられないその割合は、1990年の20.2%から2008年には34.1%へと膨らんだ。

 雨宮さんは仕事や生活が不安定な非正規労働者を指す「プレカリアート」という言葉を06年に知った。「引きこもりやうつ、その背景にある就職難や過労死・過労自殺の現場を取材するうちに、労働環境が原因だと気づいた」。『蟹工船』を読んだのは08年の記事の対談前日。「多喜二が描いた生きるか死ぬかの切実な問題が、今の日本にも広がっている」と思った。

 この年にはリーマン・ショックの影響で大量の雇い止め(派遣切り)が起き、年末には「年越し派遣村」ができた。
 翌年、労組の支持を受ける民主党に政権交代。
「派遣村」村長の湯浅誠さんが内閣府参与に就き、労働問題の改善が期待された矢先の2011年、東日本大震災が起きた。翌年には自公政権が復活する。

「2011年以降は反原発、反安保法制などのデモに関心が移った。団体交渉、ストといった労働運動への期待感が薄れている」

 フリーターの立場から就職氷河期世代の窮乏を訴えてきたフリーライターの赤木智弘さん(44)は言う。
 氷河期世代は「人生再設計第一世代」。
「非正規雇用」という言葉は使わない。
 そうした政治家や経営者を「やさしいお父さん」のように敬い、従っていれば仕事や社会的承認が得られると期待する人びとがいて、「父」にあらがうデモやストに冷ややかな視線を注いでいると感じる。
「まずは当事者が狭い範囲で自分の問題に取り組むしかない」と語る赤木さんは、自らに言い聞かせるようだ。

 批評家の杉田俊介さん(44)は、氷河期世代の当事者として声をあげてきた。
 だが働く人は正社員、パート、アルバイト、外国人などとより細かく分断され、社会を動かすにはほど遠い。

「仕事がある人にも被害者意識や不安が広がっている。若者の間には、今後もっと悪化するだろうという諦めがある」

* * *

 蟹工船のストライキに加わった登場人物は「先の成算なんて、どうでもいいんだ」「死ぬか、生きるか、だからな」と語り合う。
 ストライキの失敗にもめげずに「もう一度!」と立ち上がる。

 捨て鉢気味ながらも諦めはしない彼らの姿に、杉田さんは自らを重ねているように見える。

「『蟹工船』では学生が船に乗り込み、乗員にストという手段と団結の理念を伝える。一人一人の生存を無条件に肯定する新たな理念を誰かが紡ぐ必要がある」
(大内悟史)

■ 貧困・格差…頼れない労組 甲南大名誉教授(労使関係論)・熊沢誠さん(80)
 半世紀も労働問題を研究した立場からは、2008年の『蟹工船』ブームは大変悲しい思いでした。
 ブームの背景には、労働運動が後退局面に入って久しく、現状が戦前の労働環境とそれほど遠くなくなった現実がありました。

 長時間の過酷な肉体労働を強いられる職場は、今のサービス業や製造業にも少なくない。
 会社間の競争は船同士の競争と同じで、間接雇用の非正規雇用の多くは身分保障がなく、「ブラック企業」の要求に異議申し立てのすべがない。
 不況下で福祉政策の充実が叫ばれましたが、肝心の労働現場で貧困や格差が際立ってきました。

 労組への逆風は、多くの労組が本来果たすべき役割を果たしていないから。
 1980年代以降の非正規雇用の増加を見過ごし、正社員の既得権を守るにも、年功制が廃れて人事評価による能力主義が浸透し、個人の「受難」は自己責任にされています。
 不況が長引き、非正規の条件改善を求めようにも若者も中高年も疲弊しています。

 少数の当事者による切実な訴えを白眼視し、同調圧力をかけるのは多数の暴力です。
 憲法28条が定める労働三権(団結権、団体交渉権、団体行動権)、つまり産業民主主義のためには、企業別から産業別・職種別の再編が必須。
 運転手や美容師、看護師、塾講師など専門性が高い分野、特に福祉社会の最前線の担い手でもある非正規の女性公務員の組織化が急務です。

■ 本の内容

「地獄さ行(え)ぐんだで!」の声を始まりに、オホーツク海でカニをとり缶詰に加工する船内の過酷な労働状況を描く。
 海軍の姿も見え隠れする「国策」の横暴に、乗員らはストライキで対抗するが失敗。
 再び立ち上がろうとするところで物語は終わる。

『蟹工船』と戦後の労働環境

1929年『蟹工船』刊行
 33年 小林多喜二が拷問を受け死亡
 45〜47年 労働三法が制定
 50年 日本労働組合総評議会(総評)結成
 64年 全日本労働総同盟(同盟)結成
 86年 労働者派遣法施行
 89年 総評、同盟などが統一、日本労働組合総連合会(連合)結成
 91年 バブル経済崩壊へ
 96年 労働者派遣法が認める派遣先が専門26業務に拡大
 99年 人材派遣が原則自由化
2001年 小泉純一郎内閣発足
 08年『蟹工船』がブームに
    リーマン・ショック
 09年 映画「蟹工船」公開
    民主党に政権交代
 11年 東日本大震災
 12年 自民党・公明党が政権奪還
 13年「ブラック企業」が流行語に
 18年「働き方改革」関連法成立


朝日新聞・時代の栞(Toki No Shiori)、2019年9月18日16時30分
小林多喜二「蟹工船」(1929年刊)
80年後に訪れた「ブーム」

https://digital.asahi.com/articles/DA3S14183839.html

 “今、この国を表す言葉をひとつ挙げてみよ”。

 そう問われたら、あなたはどんな言葉を挙げるだろうか。

 私が迷わず挙げるのは、「不寛容」という言葉だ。
 ゼロトレランスとも呼ばれるその言葉は、今のこの国の窮屈さ、息苦しさ、生きづらさなどなどを象徴しているように思う。

 そんな「不寛容」さは、あらゆるところで幅を利かせている。

 収まる気配のない生活保護バッシングや貧困バッシング。
 在日外国人へのヘイトや嫌韓、嫌中という言葉。
 ワイドショーで堂々と韓国ヘイトや女性差別を繰り広げる高齢男性。
「たらたら飲んで食べて、何もしない人の金(医療費)をなんで私が払うんだ」という麻生大臣の発言や、過労死も過労自殺も病気になるのも「自己責任」という空気。
「生産性」ばかりを求め、どれほど金銭的利益を生み出したかで人間の価値が測られるような社会のあり方。
 自分と異なる意見を持つ人への強烈な批判。
 選挙中、野次を飛ばしただけの人を排除した警察。
 有名人のスキャンダルや不倫などに対するバッシングの嵐。
 安田純平さんが帰国した際にメディアをまたもや賑わした「自己責任」という言葉。
 そして「少子高齢化」社会で財源不足という言葉のもと、「命の選別」が正当化されてしまうような空気。

 2007年、世界各国で、貧困問題への意識調査が行われた(The Pew Global Attitudes Project)。
 そこで、
「自力で生きていけないようなとても貧しい人たちの面倒をみるのは、国や政府の責任である。この考えについてどう思うか?」
という質問に対して、「そう思わない」と答えた人が突出して多いのが日本だった。
 実に38%の人が「助けるべきとは思わない」と回答したのだ。

 他国を見ていくと、ドイツでは「そう思わない」と答えたのはわずか7%、イギリスでは8%、中国では9%、そして「自己責任社会」と言われがちなアメリカでさえ28%だったという。

 この調査がなされたのは12年前。
 今、同じ調査をしたら、もっと多くの人が「国や政府は助けるべきとは思わない」と答えるのではないだろうか。
 そんな予感がするのは私だけではないはずだ。

 2007年頃、フリーターや非正規労働の問題を論じていた私たちは、よく「椅子取りゲーム」の話をした。
 現在の労働市場は、全員には決して行き渡らない正社員の椅子を奪い合う椅子取りゲームの状態である。
 どんなに頑張っても、どんなに「自己責任」と言われようとも、非正規雇用率3割の状況では、10人中、3人は必ず正社員の椅子に座れない。
 だから少ないパイを奪い合うのではなく、「椅子を増やせ」「10人に対して10の椅子を用意しろ」と主張すべきではないか、と。

 しかし、10人中、4人は必ず「正社員の椅子」から漏れるという非正規雇用率4割の今、もう誰も椅子取りゲームの話はしていない。

 気がつけば、「均等待遇」「働き方改革」「非正規という言葉をなくす」といった名目で、「もう全員の椅子をなくして、みんな地べたでいいのでは?」と国が率先して椅子を片付けようとしている状況だ。
 その上「椅子に座っているなんて贅沢だ」などと言う人まで出てきて、その椅子が「AIに置き換えられる」「椅子に座るのは移民になる」なんて噂も飛び交っている。
 しかも椅子を乗せた床はどんどん沈み、浸水し始めているような状況。
 それがこの国の多くの人たちの心象風景ではないだろうか。

 過酷なサバイバルに勝ち抜かないと、生き残れない。
 誰かを蹴落とし続けないと、リアルに死ぬ。
 そんな危機感はこの20年くらい、どんどん強まっている。
 毎日、毎分、毎秒、人生も、近い未来も人質にされている。
 みんなが崖っぷちで、「手を離したら死ぬ」と思い込まされている。
 そんな中、人に優しくなれるはずなんてないし、余裕が持てるはずもない。

 そんなふうに「寛容さ」が枯渇したこの国で、3年前の夏、障害者19人が殺される相模原事件が起きた。

「障害者470人を抹殺できる」と、それが「世界経済と日本のため」だと衆院議長に宛てた手紙に書いた植松被告は、今も獄中で「日本の借金問題」についてさかんに言及している。

「日本は社会保障を充実させていって100兆円もの借金を抱えることになりました。あなた自身はそれをどう思いますか?」

「僕の言うことを非難する人は、現実を見てないなと思います。勉強すればするほど問題だと思いました。僕の考え、どこか間違っていますか?」

「日本の借金だってこれ以上もう無理ですよ。これで大地震でも起きたら無茶苦茶になりますよ」

 借金はいけない。
 人に迷惑をかけることもいけない。
 国の将来を憂い、危機感を持っている。
 それらの思いをすべて凝縮し、危機感と正義感をもって彼が実行したこと、それは障害者の大量殺人だった。

 この飛躍は、どう考えても異常である。

 しかし、「彼のしたことは決して許されない」としつつも、その主張について「否定できない」と語る人が一定数いることも知っている。
 このまま「生産性がない/低い」とされる人びとを生かし続けると社会は大変なことになるから、「命の選別は、ある程度仕方ないよね」というような空気。
 言い訳として必ずつくのが「財源不足」という言葉だ。
 生活保護バッシングや公務員バッシングはするのに、タックスヘイブンの問題には決して怒ったりしないこの国の善良な人びとがまとうマイルドな優生思想は、じわじわとこの国を侵食している。

 そんな相模原事件をめぐるあれこれについて、6人と対談した本を9月中旬に出版する。
 タイトルは『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』(大月書店)。
 事件について、優生思想について、財源論について、私たちが抱える剥奪感について、対話について、神戸金史さん、熊谷晋一郎さん、岩永直子さん、杉田俊介さん、森川すいめいさん、向谷地生良さんと語り合った。

 RKB毎日放送の記者である神戸さんは、事件後、重度の自閉症の長男について、「障害を持つ息子へ」という文章を書いた人だ。
 ある朝、目が覚めたら息子に障害がなかったことに気づき、安堵する。
 そんな夢を何度も見てきたという告白から始まる神戸さんの文章は事件後に書かれて瞬く間に拡散され、多くのメディアで報じられた。
 そんな神戸さんは、植松被告と面会を重ねている。

「いつまで息子を生かしておくのですか」

 植松被告が神戸さんにぶつけた言葉である。
 二人の間で、どんな言葉が交わされているのか。

 熊谷晋一郎さんは、脳性まひの当事者であり、医師であり、また東大先端研で当事者研究をする人である。
 事件が起きてから、車椅子で通勤中に「知らない人に突然殴られるんじゃないか」という恐怖を感じたと率直に語る熊谷さんと、「社会モデル上、新たに障害者になった層」などについて語った。

 BuzzFeed Japanの記者である岩永直子さんとは、終末期医療、尊厳死などについて語りつつ、「ファクト」を重視した冷静な議論の大切さについて話し合った。

 批評家で介助者でもある杉田俊介さんとの対談は驚くほど多岐に渡った。

 また、精神科医の森川すいめい氏とはオープンダイアローグなど対話について語り、そうして本書の最終章では「生きづらさ界のラスボス」が登場。
 べてるの家の向谷地生良氏である。
 向谷地氏とは、無差別殺人を匂わす青年と向谷地氏の交流、その青年の変化などについてが語られた。

 自分で言うのもなんだが、今だからこそ読まなければならないテーマが詰まりまくった一冊になったと思っている。
 何より、私と対談してくれた人びとが素晴らしい。

「生産性」「自己責任」「迷惑」「一人で死ね」という不寛容な言葉が溢れる今だからこそ、ぜひ手にとってほしい。
 そして、一緒に考えてほしいと思っている。

マガジン9、2019年9月4日
命の選別は「仕方ない」のか? 〜
『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』の巻

雨宮処凛
https://maga9.jp/190904/

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2019年09月19日

佐藤信「60年代のリアル」

 先日、大学生協の書籍売り場で、「今、この本話題なんですよ」と教えてもらいました。
 佐藤信さんが書いた『60年代のリアル』(ミネルヴァ書房、2011年12月)という本です。

 この方がまだ学生の頃に書いた論攷が元になっていて、『毎日新聞』に連載されていました。
 私も、何回かは眼にしたことがあります。

 最近送られてきた雑誌『POSSE』を手に取りましたら、「絶望の国の困ってる若者たち」という対談が目に入りました。
 対談しているのは大野更紗さんと古市憲寿さんです。

 この二人はそれぞれ、大野『困ってるひと』(ポプラ社、2011年6月)、古市『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社 (2011年9月)という本を書いており、これまた話題を呼んでいます。
 この対談の表題は、この二人の本のタイトルを上手く組み合わせたものになっています。

 対談には、途中からPOSSE事務局長の川村遼平さんも加わりました。
 この川村さんも、『ブラック企業に負けない』という本を書いています(NPO法人 POSSE、今野晴貴との共著、2011年9月)。

 つまり、ここまでに名前を挙げた4人の方はいずれも本を書くなどのオピニオン活動をされているわけです。
 しかも、20代だという点で共通しています。

 これに、最近、福島第1原発の過酷事故に関連して注目されている関沼博さんの『「フクシマ」論−原子力ムラはなぜ生まれたか』(青土社、2011年6月)という本もあります。
 この方も20代という若さです。

 以上の5人の方の生年と年齢を並べれば、以下のようになります。
 皆さん、1980年代の生まれなんですね。

  佐藤 信 88年生 23歳 『60年代のリアル』
  川村遼平 85年生 26歳 『ブラック企業に負けない』
  古市憲寿 85年生 26歳 『絶望の国の幸福な若者たち』
  大野更紗 84年生 27歳 『困ってるひと』
  関沼 博 84年生 27歳 『「フクシマ」論−原子力ムラはなぜ生まれたか』

 この一世代上に当たる30歳代にも、社会運動や言論活動に取り組んでいる人々がいます。
 たとえば、雨宮処凜、赤木智弘、松本哉などの方々です。

 これらの方は、1970年代中頃の生まれで、生年を並べれば、以下のようになります。

  雨宮処凜 75年生
  赤木智弘 75年生 
  松本 哉  74年生

 さらに、この一世代上には、反貧困や労働運動で頭角を現した湯浅誠、河添誠、関根秀一郎などの方々もいます。
 これらの方は1960年代の生まれで、いずれも40歳代です。

 同じように生年を並べれば、以下のようになります。

  湯浅 誠   69年生
  河添 誠   64年生
  関根秀一郎  64年生

 こう並べてみれば、ある種の世代論が可能なように思われてくるから不思議です。
 それぞれの世代には、生活環境や社会体験、問題意識などにおいて、何か共通なものがあるのかもしれません。

 私は、拙著『労働再規制、反転の構図を読みとく』(筑摩書房、2008年10月)の中で、2006年反転説を唱えました。
 このような社会状況の下で登場してきたのが、先ず、60年代生まれの3人だったように思います。

 これに70年代生まれの3人が続き、最近になって20代の若手の登場が相次いだということでしょうか。
 ただし、若くなるにしたがって、運動との関わりは徐々に薄れてくると言えるかもしれません。

 しかし、運動や言論、労働や社会などという点での違いはあっても、これらの人々が現代の日本社会のあり方に対して大きな問題意識を持ち、積極的な発言や行動を行っているという点では共通しています。

 頼もしい限りです。
 草の根における若き日本のリーダーになりうる論客たちではないでしょうか。

 元気で若いリーダーがこれだけいれば、「絶望の国」もなんとかなると思いたい。
 混迷し、閉塞状況を強めている日本ではありますが、これらの若者たちの活躍に大いに期待したいと思います。

 暗闇のどん底に突き落とされたような2011年でしたが、その最後に見えてきた微かな灯りかもしれません。
 来るべき2012年に向けて、一縷の希望を託したいものです。


BLOGOS、2011年12月23日 06:30
「絶望の国」に頭角を現してきた若き論客たち
五十嵐仁(元法政大学大原社会問題研究所教授・所長)
https://blogos.com/article/27626/

佐藤信『60年代のリアル』

 御厨貴氏(東京大学)、推薦! 政治学のプリンスによる気鋭の論考がついに刊行!
 何がリアルなのか? ぼくらは何によって生を実感できるのか?

 今も昔も、若者に常に課せられた問いに著者はまっすぐと逃げることなく向き合う。
 著者が試みるのは、60年代の若者たちの行動や思想を、「若者」という視点から描くことである。
「リアル」という根本的な問題意識を軸にして、60年代の世相を読み解きながら、現代の若者のあり方、これからの政治のあり方を逆照射する。
 それは執筆当時大学生/大学院生であった著者が、過去の若者と現代の若者とをつなぐ「リアル」という回路を開く試みでもあった。

 本書の第T部は、著者が東京大学法学部在学中に、『毎日新聞』紙上に9ヶ月間にわたって連載された「60年代のリアル」がもとになっている。
 主として題材とされるのは60年安保闘争と60年代末の学園(大学)闘争であるが、著者は「リアル」という側面に着目することで、小熊英二著『1968』(新曜社、2009年7月)(〈上〉若者たちの叛乱とその背景、〈下〉叛乱の終焉とその遺産)に代表されるような従来の60年代論とはまったくちがう「肉体感覚」という概念によって大衆・学生運動を捉え直した。
「肉体感覚」を刺激するものとしての「痛み」、それを求める「若さ」と、それが不可避的に持つ「焦り」、そして「死」への願望・・・それらがいかにして60年代の若者の「アツさ」を生み出していったのか。
 そうした経緯が、64年の東京オリンピックが象徴するような高度経済成長下での社会変革と連関されて描かれ、現代人にとっては理解しがたい彼らの「アツさ」が説明されることになる。

 さらに著者は第U部で、60年代の若者をみるなかで発見された若者特有の「リアル」や「肉体感覚」や「皮膚」、さらには「ジャズ」的なつながりといったようなモチーフを用いて、現代社会の特質をも明らかにしようと試みる。
 そこで俎上に載せられるのは、『エヴァンゲリオン』や『攻殻機動隊』など、これまで宮台真司氏、東浩紀氏ら社会評論家たちがその分析対象としてきたアニメであるが、著者はその60年代との接続を意識することで、インターネットと社会とのつながりについてまったく新しい視覚を提示する。
 そこで強調されるのは、インターネットが肉体感覚を喪失させる一方で、その「ざわめき」を非肉体的な社会構成要素のなかに生み出す可能性を胚胎させていたということである。

 以上のような分析をもとにして、最後に著者は、その専門分野である政治における可能性に言及する。
「公」とはわれわれにざわめきを与えるものとして再編成され、それに伴って「公」を扱うものとしての政治の姿も再編成を余儀なくされるというのである。
 著者のいう「リアルな政治」とは、「肉体感覚」や「皮膚感覚」を持った政治であり、著者はそれが政治的無関心で溢れた日本政治の現状を改善しうると主張している。

 著者の処方箋である、国民が政治家という「個人」に「委託」することで責任意識をもって政治に「所属」すべきとする見方は、これまでの政治学者たちが主張してきた「政策」ないしマニフェストを重視するイギリス型の政治像とはまったく相反するものであることも注目される。

 かくして、本書はこれまでになかった60年代論であると同時に、新たなアニメ評論、社会評論でもあり、これからの政治像をも描く、画期的な著作である。


ミネルヴァ書房
https://www.minervashobo.co.jp/book/b94048.html

─ なぜ60年代に興味を持ったのですか。

佐藤: 最初のヒントは御厨貴先生に与えていただいた。
 親の世代も60年代を経験していない。まったくつながりがない世代だが、関係ないはずの時代や世代に相通じるものが感じられ、面白く見えた。
 なぜこんなに時代の離れている人たちに対し、ある種の感情移入といった不思議な感覚が起こるのか。
 まず「若さ」という面からとらえてみようというのが興味・関心だった。
 60年代ブームが出版界に一時的にあった。
 ただそれらは60年代を経験した世代が書いている。
 でも読む人は意外に若い人であったりして、そういう感覚は僕らの世代全般にも共有されているのかな、と思った。

─ なぜ、60年や68年、69年ではなくて、60年代なのですか。

佐藤: 60年代を書けるのはそれと切り離された世代の特権かもしれない。
 これまでフタコブラクダのこぶのように別々の文脈で語られてきた60年安保闘争と60年代末の大学紛争を引っくるめて、より大きなうねりとしてとらえた。
 そういう視点を持って初めて60年代のリアルは見えてくる。
 組織形態や思想がまったく違うことを承知のうえで、全学連も全共闘も引っくるめて、熱かった時代の全部を扱ってみようと思った。

─ この本の前半は、毎日新聞に36回にわたり連載したものがベースになっています。

佐藤: 新聞という媒体に書くには、不特定の読者への商業的な価値を満たさなければいけない。
 そういう文章を書くにはどうしたらいいのか。
 そもそも毎回1500字程度の字数で何を伝えていくか。
 いろいろな方々と話をしながら文章を書けたのが自分にとって大きなステップになった。
 もともとの僕の関心は国際政治にある。
 現在の恩師は北岡伸一先生。
 ただ、当初の御厨ゼミの趣旨は、いわゆる政治、政治学といった枠の文献にとらわれずに、広い分野に当たり、そこに現れてくる政治をとらえようとするもの。
 さらに原稿執筆という経験もさせてもらい、既存の見方と離れた政治のとらえ方を磨く契機になった。

─ では、60年代の政治をつかみ取るキーワードは。

佐藤: 最初から注目したのがリアルという概念。
 題名にもなっているが、60年代の人たちが考えていたことが僕にとって新鮮で、持っている問題意識や感覚が、実は僕らとさほど遠くないのではないかとの思いがある。
 僕の先生の世代は多くが全共闘世代のちょっと下。
 その世代は、全共闘世代に反発した世代で、新左翼運動の起こりを「論外」として切り捨てる部分があった。
 それは政治学の発展としてはふさわしい部分もあるが、同時にそうでない部分もあって、革命を言い出すまでもなく、社会運動は政治学の中心的な命題だったはず。
 それがだんだん薄れていく。
 単純に政策につながらないと、政治における意味を持たせない。
 政治学で失われている視点が、そこに凝縮されている。
 そうしたものをもう一度見えるようにするというのが、この本のグラウンドメッセージだ。

─ リアルとは、皮膚感覚や肉体性とも結び付く?

佐藤: なぜ60年代の彼らはあんなに熱かったのか。
 僕らはニヒリスティックとかクールとかいわれる。
 ところが、彼らはイデオロギーを信奉でき、国会議事堂に向かって行動的に出ていったりする。
 そういう熱さ、この根源的といってもいい感覚が理解しにくいし、そういう感覚について彼ら自身も語ってくれない。
 その当時は革命の雰囲気があったのだと言われても、僕らには釈然としない部分がある。
 その説明し切れていない部分を何とか明らかにできないかと考えていく中で、それはリアルとか皮膚感覚なのかな、と思うようになった。
 それが政治学徒とどう関係しているのか振り返ると、見捨てられてきた皮膚感覚、根源的な感覚としてのリアルが、いかに政治ないし政治学に結び付くかという問題意識もある。

─「連帯を求めて孤立を恐れず」という標語に注目しています。

佐藤: それ自体はよく言われてきたフレーズ。
 ただ、それをリアルの観点から読み解いてみると、この皮膚感覚で生み出された言葉には宿ったものがある。
 単純に皮膚を重ね合わせると、人と人が理解し合える側面があると同時に、皮膚によって分け隔てをはっきり意識する側面もある。
 それが皮膚の二面性。
 一体化ではなく連帯という言葉を使うこと自体にその意味が込められている。
 群衆が集まって一体化したように感じるのとは違う意味が連帯にはある。
 この二面性を彼らは感じていたのではないか。

─ この本ではその彼らを「彼/彼女」と記述しています。

佐藤: 単純に洋書に出てくる表現でそう書いた。
 時に順番を変えているのは、男女どちらの影響力が大きかったかによる。
 連合赤軍の話をしている部分では、永田洋子の影響力が強かったから彼女から始めた。
 運動、闘争では男性的な部分が強調されるが、そこに女性ももちろん含まれ、フェミニズムにもかなりの影響を与える。
 文体や用語によって自分の思考が影響されるという認識もあって、そう表現した。
 若者の運動だから性の問題と無関係ではないはずとの問題意識も持っていたが、資料がそろわず、この点は書き逃した。

─ あなたを最若年ルーキーとして、20〜30歳代が社会問題に積極的に発言を始めました。

佐藤: 学者として書ける、あるいは若くして書ける媒体があるという感覚はいつも持っている。
 それこそ、今では大物観がある東浩紀さんや宮台真司さんにしても、30歳代前半から世に出てきたのでは。
 決して最近の特異な現象だとは思わない。
 傾向的なものがあるとすれば、デフォルトやロスジェネを前提にしている人たちが目立つ。
 それに政治を除外して議論する。
 僕の専門に近い高坂正堯、永井陽之助、坂本義和先生のように、若くして60年代の雰囲気からずれて、厳しい言説に打ち込んできた諸先生が過去にはいた。

─ 厳しい言説?

佐藤: 60年代を見るにしても、単純にそこに寄り添うだけではなくて、今まで取り除かれていた部分から、まったく違うものを見いだしていくのが自分としてやりたかったこと。
 60年代は雑誌が、活字が元気だった。
 議論する雰囲気があった。
 ネットは議論を深めてはくれない。
 言葉の、中でも活字の力を今も信じている。

※ 佐藤信(さとう・しん、1988年奈良県生まれ)
2011年東京大学法学部卒業。東大大学院に進学。学部2年から東大先端科学技術研究センター学内共同研究員を続け、オーラルヒストリー研究を手掛ける。このほかの著書に『鈴木茂三郎 1893−1970 統一日本社会党初代委員長の生涯』(藤原書店、2011年)がある。

※ 週刊東洋経済 2012年1月14日号


東洋経済、2012/01/20 0:00
彼/彼女の皮膚感覚が熱かった時代を作った--
『60年代のリアル』を書いた佐藤信氏(東京大学大学院法学政治学研究科修士課程在籍)に聞く

(聞き手:塚田紀史)
https://toyokeizai.net/articles/-/8431

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2019年09月18日

翫右衛門の心得

 書きたい題材を記録しておく頁が筆者の手帳にはある。
 いくつかの雑誌やWebサイトの仕事を掛け持ちしているため、媒体ごとに頁を用意しておき、「この話は日経ビジネス向き、あの話は日経コンピュータ向き」と思いついた時、忘れないようにそれぞれの頁に書いておく。
 こうした題材はできる限り早く原稿にすべきなのだが、物によってはなかなか書けず、手帳に記録してから実際の記事に仕上げるまで数年かかってしまうこともあれば、最後まで記事にならない場合もある。

 当然、Tech-On!向けの頁もある。
 2007年に記録した題材は何かとその頁を見ると、筆頭に「技術者の心得 山口瞳」とあり、その次に「大和」、三番目に「記者はプロか」と書いてあった。
 この三番目の題材は本連載の第1回目に書いたものである。
 二番目の大和とは戦艦大和の話なのだが、戦争を取り上げるのは非常に難しい。
 Tech-On!に2006年9月から硫黄島戦について書き出したが難航し、書き上げるまでに1年半近くかかってしまった。
(「史上最悪のプロジェクトに挑む〜硫黄島決戦と栗林中将から学ぶ」)
https://tech.nikkeibp.co.jp/dm/article/COLUMN/20061206/125042/

 硫黄島戦に関する原稿を書く際、かなり以前に買っておいた『戦艦大和ノ最期』(吉田満著、講談社学芸文庫)を読んだ。
 日米両軍の考え方、取り組み方の決定的違いがこの本にも明記されており、Tech-On!読者にぜひとも紹介したかったのだが、硫黄島戦について書くだけで精一杯で、大和については手帳に記すだけに留まった。
 本欄で挑戦したいものの、硫黄島関連の連載時のように記事公開の日程が定まらなくなる危険があるので、取り組むのはもう少し先にしたい。

 そこで今回はTech-On!向け題材の筆頭にあった「技術者の心得 山口瞳」について書く。
 と言っても、山口瞳(1926 - 1995)氏が技術者の心得を書いた訳ではない。
 同氏は朝日新聞に連載したコラムの中で、歌舞伎役者中村翫右衛門(1901 - 1982)の「演技心覚え」を紹介した。
 筆者は一読して「これはそのまま技術者の心得として読み替えられる」と思い、手帳に書いておいた。

 その文章は2006年に出版された『衣食足りて』(河出書房新社)という単行本にある。
 山口氏は1995年に亡くなったが、文庫を含め単行本はそれ以降も刊行され続けている。
 特にここ数年、河出書房新社が単行本に未収録の文章を発掘しては本にまとめ出版しており、『衣食足りて』はそうした「単行本未収録エッセイ集」の一冊である。

 「演技心覚え」という一文は1963年12月1日、朝日新聞に掲載された。
 当時、山口氏は「季節風」と題したコラムを朝日新聞に26回書いており、「演技心覚え」はその中の一つである。
 この連載コラムは、山口氏が感銘を受けた文章を雑誌や書籍から引用して紹介するものであった。
 1回当たりの分は非常に短く、冒頭にその文章を選んだ理由が手短に記され、その後に引用文が掲載された。

 26回中、「演技心覚え」の回は最も山口氏の文章が短く、ほとんどが引用で占められている。
 それ以外の回には引用の後、山口氏の締めの文章が入っていたがこの回にはない。
 山口氏は冒頭に、
「戦前にあった前進座の機関誌が再刊された。第一号では中村翫右衛門の『おもちゃ箱』という随筆がおもしろい。(中略)翫右衛門の古い日記にあったという自戒のための『演技心覚え』をぬき書きしてみる」
とだけ書き、以下に引用する十一の文章を紹介している。
一、俳優は、いつでもこれでよいという満足を感じずに一生を過ごすものだ。

一、 批評は大切なものだが、善悪を見極めずにあまりに批評に動かされては自分を見失うことになる。

一、 俳優はいつまでも若く、感激性を保持せねばならない。でないと舞台の感激・役の感激にひたれず、合理主義的演技に陥ってしまう。

一、 俳優は絶対の確信と、限りない反省と、この裏表を絶えず忘れてはならない。

一、 巧くやろうと思うな、唯全力をつくせ。

一、 人の真似をするな、拙くとも自ら創り出せ。

一、 行詰まれ、打破れ!行詰まれ!!そして打破れ。

一、 昨日よくできても昨日のように演ろうと思うな、今日は今日の気もちで演れ。

一、 稽古中は臆病に、舞台に出たら自信をもて。

一、 早く言う時は、心もちゆっくりしゃべれ。

一、 修業はこれからだ。

 先に、
「『技術者の心得として読み替えられる』と思ったので、手帳に書いておいた」と書いた。
 確かにTech-On!の題材頁に書いてある。
 さらに筆者は以上の全文を手帳の別な頁に転記し、時折眺めている。
「記者の心得」として読めるからである。
 山口氏は「おもしろい」としか書いていないが、翫右衛門の心得が俳優だけではなく、作家にも、いや、あらゆる人に通じると思ったから、紙幅の許す限り抜き書きしたのであろう。

 芝居における俳優の演技は、上演中は確かに目の前にあるものの終演後は消えてしまう。
 技術の進展により、芝居を動画のまま記録できるようになったが、映画やテレビで見る芝居は劇場で見る芝居とは別物である。
 本コラムの主旨文に、
「実用を優先する技術を実とすると、仮説や理論を優先する科学は虚と位置付けられる。(中略)現実の課題解決に関わる政治や経済の諸活動を実とするなら、理想に関わる宗教や芸術、哲学や思想は虚である」と書いた。
 芝居は虚の典型の一つであり、中村翫右衛門の「演技心覚え」は虚の作法と言える。

 作家や記者の仕事は文章を残すものの、やはり虚であるから、演技心覚えを「作家心覚え」「記者心覚え」と読み替えて服膺することができる。
 念のためお断りしておくと、本稿で使っている虚や実は優劣を意味しない。
 俳優や作家より政治家や経営者の方が偉いということはない。
 もちろん、政治家や経営者より俳優や作家の方が偉いということもない。

 それでは筆者はどのように読み替えているか、いくつか例を挙げてみよう。

一、 記者は、いつでもこれでよいという満足を感じずに一生を過ごすものだ。

「この話を取材でき、しかもうまく書けたらもう満足だ」と思ったことは一度もない。
 そう思ったら引退(失職)ではないだろうか。

一、 読者評価は大切なものだが、あまりにそれに動かされては自分を見失うことになる。
 
 Tech-On!読者に関係のない話になって恐縮だが、日経BP社には読者評価の仕組みがある。
 雑誌を発行した後、読者にアンケートをして、どの記事を読んだか、役に立ったか、と聞き、それを集計して記事ごとに点数を出す。
 読者評価であるから、結果に噛みつく訳にはいかないが、といって点数に一喜一憂するようではろくな記者にならない。
 若い記者ほど点数を気にする傾向が強い。
 若手には、
「点数が良かった時は胸を張り、悪かった時は早く忘れて次の企画を考えるべし」と言っている。

一、 記者はいつまでも若く、感激性を保持せねばならない。でないと合理主義的な取材と執筆活動に陥ってしまう。

 記者に成り立ての頃、先輩から「記者のピークは30代前半」と言われた。
 10年くらいやると取材のこつがつかめてくるし、この辺りが一番元気だからである。
 ただ、ピークをとうに過ぎた記者として最近思うのは、実年齢はあまり重要ではない、ということだ。
「その話、面白いです」と言い続けられれば記者を続けられる。
 逆に若くても新事実に感激しない人は記者には向かない。
 この話を書くにはこことあそこに取材すればよい、と常に合理的に動く記者も大成しない。
 筆者はどうかと言うと、専門であるはずのIT(情報技術)分野で滅多に感激しなくなった。
「その話は前に聞いた」と思ってしまう。
 その代わり怒ることが増えているが、立腹して原稿を書いてはならない、と自戒している。

一、 取材中は臆病に、原稿を書く時には自信をもて。

 人に会って話を聞くというのはかなり神経を使う仕事である。
 聞いた話をまとめる時にも気を使うが、その使い方は取材時とはまったく違う。
 原稿を書く行為は、目の前にはいない読者に向かって球を投げるようなものだから、ある程度の思い切りがいる。
 細かいことばかりに気を使っても、球が届かなければ意味がない。
 断っておくが、細部に配慮しなくてよいということではない。
 筆者の原稿を読んでいた方が筆者に初めて会った時、
「想像していた人とまったく違いますね」と驚くことがある。
 人に会っている時の低姿勢な筆者と、原稿を書いている時の強気の筆者とどちらが本当かと聞く人もおられるが両方とも筆者である。

 以上のようなことを書いたり、言ったりすると、
「人に会った時は芝居をしているのか」と詰問調で聞かれたりする。
「そうだ」と答えると面倒な事態を引き起こすので「いえ、そういうわけでは」と曖昧な返事をする。

「俳優や作家より政治家や経営者の方が偉いということはない」のだが、芝居をしたり、架空の話を作ることを実業の世界に持ち込むのはいけない、とする人がいる。
 確かに、「一芝居打つ」と言った時の芝居は人を騙すという意味だし、「芝居気がある」も人物評価に使う場合、あまり良い意味ではない。

 しかし、実はすべての人が何らかの芝居をしている。
 上司に対して、部下に対して、常に素のままで接している人はいないはずだ。
 他人に対してではなく、自分に対しても芝居をする。
 心得にあった「俳優は絶対の確信と、限りない反省と、この裏表を絶えず忘れてはならない」は、すべての人に通じる名言と思う。
 仕事をしていて、ここぞという時には、「自分よりうまくこの仕事をこなせる人はいない」と強気の役を演じる必要があるが、それだけではうまくいかない。
「自分のやっていることは問題ばかり目につくなあ」と反省し続ける気弱な役を同時に演じないといけない。

 技術者や研究者の方は「自分には確かな技能がある」と自信を持ったり、「いや、まだまだ」と反省することを繰り替えしておられるのではないか。
「昨日よくできても昨日のように」取り組むのではなく「今日は今日の気もちで」取り組む。
 翫右衛門の心得は技術の世界にも通じると思う。

日本経済新聞・XTECH、2008/05/14 10:26
谷島宣之の「虚實の谷間に花が咲く」
俳優の心得、記者の心得、そして技術者の心得

https://tech.nikkeibp.co.jp/dm/article/COLUMN/20080514/151676/

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2019年09月17日

日本社会党

鈴木茂三郎・千恵の墓.JPG

 そうなんです、ヤッホーくんの一昨日、15日の朝キンで春日通を歩いていて遭遇したのが、なんと「鈴木茂三郎、千枝」の墓碑!
 日ごろから平和を叫んでいるヤッホーくんが呼ばれたのかもしれない、ともうビックリびっくりして、手をあわせておりました〜
 改憲か壊憲はだめ、現憲法を主権者コクミンが生かすことが、アジアでも世界でも存在価値のある、希望溢れる日本になるのだと
 それにしても、どうしていま、政治も政治家も、活動家もメディアも、こんなひどい状況にあるんだろうなとフシギなんですう〜

社会党時代は自民党にとって最大の脅威でもあった社民党。
しかし今ではすっかり鳴りを潜め、衆参合わせてわずか4議席となっています。
同じく党名を変えた民進党もパッとしません。
なぜ急激に野党の力が失われてしまったのでしょうか。
無料メルマガ『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』では、自らの保身の為にブレてばかりいる姿勢に問題があると指摘しています。

存亡危機の社民党。かつては改憲勢力3分の2を止めた党だった

 参院選も終わり本日は政党の力についてお話したい。
 今回の参院選の結果を見ると、野党には存亡の危機を迎えているような政党も見受けられた。
 また、「改憲勢力が3分の2を超した」と言うけれども、熱気・興奮は感じられず、政党の力が衰弱しているなとも感じた。
 今回、特に「社民党」の凋落が際立った。
「社民党」はもともとは二大政党であった「社会党」。
 今回社民党の吉田党首が落選し、比例で1議席、福島瑞穂氏のみが当選。
 この結果により衆参合わせてわずか4議席となった。
 我々には社会党というイメージがあるため、この状況に驚きをかくせない。

かつては市民を魅了した社会党

 かつての社会党を振り返ってみると、他の党とは違うぶれない主義主張があり、それが市民をひきつけていたように思う。
 1955年に55年体制ができ、民主党と自由党が合同し自由民主党が誕生した。
 社会党も左派と右派が合流し、鈴木茂三郎氏、浅沼稲次郎氏、成田知己氏、石橋政嗣氏などが共に闘っていた。
 1956年の参議院選挙では新聞に「憲法改正是か非か。争点は3分の2」という見出しが躍って、まさに今を丸写ししたような状況。
 自民党と社会党が真っ向から対立していた。
 自民党の総理は鳩山一郎氏、幹事長が安倍首相の祖父である岸信介氏。
 社会党委員長は鈴木茂三郎氏で、書記長が浅沼稲次郎氏だった。
 今考えても両人とも大物である。

かつての選挙でも改憲を問うていた!

 その当時の事象で興味深いのは、自民党は今と同様に「重点政策10項目」に「憲法改正」を盛り込まず、争点を隠した。
 それほど憲法の問題は日本人にとってタブーでもあったのだろう。
 選挙戦では護憲連合、労働組合、女性団体、学生など、実に72団体が野党を応援。
 この現象は本当に政党としての力を持っていた表れといえる。
 全国的に運動は盛り上がり、憲法改憲に反対する有名人のポスター10万枚が全国津々浦々に張られた。
 結果、社会党は3分の2を阻止し、全体の議席の3分の1を超える80議席と大躍進。
 改憲勢力が3分の2を獲得することはできなかった。
 これが、市民に護憲運動が定着したきっかけとなった。

政党の力が拮抗したことも

 その後、安保闘争等いろいろあり、社会党も分裂していくが「男女平等」という柱を掲げ、70年代から「男女雇用平等法案」を提出していた。
 その後ようやく、1986年に「男女雇用機会均等法」が施行される。
 これは、その当時一つ核となる大きな柱を持っていた表れといえる。
 さらに、冷戦終結直前の1989年の参院選では自民党の宇野総理(当時)の女性問題もあり、社会党党首の土井たか子氏が「やるっきゃない」と言い、女性候補を次々立て自民を過半数割れに追い込む大躍進を果たした。
 この結果を受けて土井氏は「山が動いた」という言葉を述べ話題となった。
 リクルート事件があり金権政治への批判もあったが、社会党を中心とする政党力が一本化し、自民党と対立し合う政党と政党の力がぶつかり合う小気味好い闘いであった。

何事も軸が重要

 社会党が凋落するきっかけは、1994年の「自さ社連立政権」誕生だ。
 自民党と社会党の力が徐々に弱まり始めた際、「自民党」は生き残るために「社会党」を取り込み、さらにそこに「新党さきがけ」が合流し村山氏を党首にし村山政権を作った。
 一旦、権力の味を占めるが、ここで自分たちも権力をとれるという過信により、本来の社会党の本質を見失っていった。
 これらの過程の中で、護憲政党だったにもかかわらず自衛隊に対する憲法解釈の違う党と組んだことがその本質をさらに見失わせたのだろう。
 その後、1996年に「社会党」から「社民党」に党名を変更。
 本来、この時、基礎理念が表わされている「社会党」という党名を踏襲すべきだったと思う。
 さらに、2000年代に入ると、社会主義で一本通っていた大物たちの世代交代が進み、さらにぶれが加速していったようにも思う。
 今回の選挙においても、「民主党」は今年2016年3月に党名を「民進党」に変え、参院選に臨み、敗れた。
 さきほど紹介したように民主と投票用紙に書いたものは無効となっている(同日の番組内「現場にアタック」にて紹介)。
 結局、市民をひきつける力というのが政党の一番の魅力だと思うが、その力をドンドン失っている。

 世界は大動乱で、イギリスのEU離脱、中東の内戦、中国の成長の鈍化といったように世界は大乱の時代に向かっている。
 日本も財政赤字、イノベーションの進行がみえない、格差拡大、少子高齢化などさまざまな問題を抱えている。
 その状況下で、株価が乱高下すると安全な日本株を購入する動きが出ている。
 その現象を日本は、なんとなく良いと思っているけれども、これは一時的なしのぎであって状況が悪化した途端に別に移動するということに気が付いていないように思う。

政党力の復活は…

 特に野党は、自分たちの政党力をきちんとアピールするために政策を骨太の力として出すべきだと思う。
 現在、日本では先に述べたような問題が山積しているが、それを懸命に訴えれば野党は今回勝てる可能性が十分あった。
 これまで今と昔の参院選を比較し、同じようなテーマで選挙を闘ったということがあった事を振り返ってきた。
 憲法に関して何十年も前と同じものを引き継いでよいのかという世論もある中で、今後野党はどうするかが問われている。
 今回の選挙戦では、与党による憲法に関する明示がない中で、野党はそこに本格的な論争を挑んでおらずバラバラで収束していない。
 それらも含め、野党がもう一度一本化できるかどうかが、今後問われるところであろう。
 今回の総括をきちんとして、力を蓄えて欲しい。

(TBSラジオ「日本全国8時です」2016年7月12日音源の要約です)


MAG2NEWS、2016.07.14
見る影もない凋落ぶり。
参院選で惨敗
「社民党」の役割は終わったのか

嶌信彦『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』
https://www.mag2.com/p/news/212003/

 1994年9月、社民党の前身である社会党は真っ二つに割れた。
 新政治方針を決める臨時党大会。
「自衛隊合憲」「日米安保堅持」「原発容認」。
 従来路線の大幅転換が、党から約半世紀ぶりに誕生した首相村山富市の発言に沿う形で提示された。
 沖縄など反対する県本部は修正を求めていた。

「修正したら村山政権は持たない」

 幹部の発言に、反対派をたき付けた党政策審議会の河野道夫(71)は憤った。

「自民と交渉もせず、何をおびえている」

 結局、予想以上の大差で原案が可決。
 河野は「野党から責められる村山が気の毒、という同情論にやられた」とうめいた。

 改称した社民党からは、旧民主党に半数の議員が流出。
 1996年の総選挙で、議席数は15にまで落ち込んだ。
 かつての野党第一党の凋落(ちょうらく)を、村山の首相秘書官も務めた河野は「党大会が分水嶺(れい)。護憲政党としてのアイデンティティーを失った」と悔やむ。
■ ■ ■
 2003年7月、戦地イラクに自衛隊を派遣するための特措法が、国会で議論されていた。
 自民党元幹事長の古賀誠(72)は、ハト派の重鎮、野中広務とともに衆院での法案の採決を棄権した。

 湾岸戦争以降、次々と自衛隊が海外へ派遣される現状に、危機感を抱いていた。

「たとえ小さな穴でも、一つあけば広がっていく。先の戦争の時もそうだった。きちんとした歯止めが必要」

 それが、太平洋戦争で父を亡くした古賀の政治哲学だった。

 護憲政党が力を失う中、自民の重しとなったのが、戦争を体験した世代の議員だった。
 だが、その思いとは裏腹に、自民、民主の二大政党は改憲に向け歩調を合わせていく。

 2005年には、約40年ぶりに設置された憲法調査会が5年間の活動を終え、報告書を提出。
 改憲手続きに必要な国民投票法案の成立に向け、両党と公明の三党担当者は毎週のように議論を重ねた。
 2007年、「私の内閣で憲法改正を目指したい」という首相安倍晋三の発言が民主の反発を招くまで、蜜月関係は続いた。

 昨年2012年末、安倍が首相に返り咲き、改憲論は再び勢いを増す。
 古賀や野中らハト派の多くは政界を去った。
 2007年まで自民の憲法調査会長だった船田元(59)は、3年余の自らの落選期間の間に、憲法への自民の姿勢が「乱暴になった」と懸念している。

「われわれの考えを憲法に書き込めばいい、という欲求が高まってきた」
■ ■ ■
 社民党職員を退職した河野はイラクに自衛隊が派遣された2003年、国際法を学ぶため渡英した。
 九条が空洞化するのは、国連が機能せず、日米安保に頼らざるを得ないからだと、長年の経験で痛感した。

「ならば国連憲章を抜本改革できないか」

 英語の習得から始め、足かけ6年で、資料の豊富なスコットランドの大学の修士課程を終えた。
 帰国後、勉強会を立ち上げ、なお国際法の研究を続ける。

 1年半前には、住まいを沖縄に移した。
 基地負担を強いられる人々の「怒り」を共有するためだ。

「世界情勢に合わせ改憲するのでなく、国際社会の秩序を九条に近づけたい」

 高すぎる理想のために、怒りのエネルギーが必要と信じている。
◇ ◇ ◇
「憲法と、」は大幅加筆の上、岩波書店から単行本『憲法と、生きる』として出版されています。


[写真]
首相秘書官を経て、在野の研究会を立ち上げた河野道夫=東京都台東区で

東京新聞・憲法と、2013年6月30日
第4部 9条の21世紀<2>
政界去った戦争体験世代
https://www.tokyo-np.co.jp/hold/2014/kenpouto/list/CK2013063002000171.html

 きょう2019年5月8日の朝日で、編集委員の国分高史編集委員が河野道夫さん(76)という人物について教えてくれた(多事奏論)。
 河野さんは、自・社・さ連立政権の首相になった村山富市氏の首相秘書官だった人だという。

 その村山首相は、1994年7月20日の衆院本会議の代表質問に対し、
「私としては専守防衛に徹し、自衛のための必要最小限度の実力部隊である自衛隊は、憲法9条の認めるものであると認識するものであります」と答弁した。
 この事を国分編集委員は次のように書いている。

「自衛隊は違憲との立場をとってきた社会党委員長の、歴史的な政策転換だった」と。
「これはまた、戦後長らく続いた国会での自衛隊をめぐる憲法9条論争に、事実上の決着がついたことを意味した」と。

 社会党はその年1994年の9月に臨時党大会を開き、村山首相の路線転換を党の方針として追認する。

 その時、河野さんは、村山答弁を追認する執行部案に反対し、内閣と党の政策に違いがあってもいいとする修正案を出した議員たちを裏で支えたという。

 つまり、連立政権の経験を積んだ西欧では、政権の方針と各党の政策に違いがあって当たり前。
 自民党だってそうだ。
 だから社会党も「自衛隊違憲論」を変えなくてもよかった、村山答弁を追認しなくてもよかった、と主張したのだ。
 私もそれが正しかったと思う。

 しかし、内閣と党の方針を使い分けては野党に攻められ、「首相が持たない」との追認派との激しい論争の末、河野さんたちは破れる。

 そして社会党は、1996年1月の村山首相の首相辞任後、党名を社民党に変えるが、社民党は民主党へ移る者と、社会党の方針を貫く新社会党の三つに分裂し、衰退していく。

 河野道夫さんは、2002年の60歳定年まで社民党に勤めた後、自らの信念を貫く道を歩み出したという。
 すなわち、翌年に単身渡英し、スコットランドのアバディーン大学で国際法を学び始めた。
 そのきっかけは、村山首相の中東歴訪に同行した際、パレスチナの厳しい現実に、
「なぜ国際法は中東問題を解決できないのか。なぜ平和憲法を持つ日本は何もできないのか」と疑問を抱いたからだという。

 国連憲章の制定過程を調べ上げ、対テロ戦争と国際法の矛盾を指摘した論文で2008年に修士号を取り、学んだことを実践したかったが、「日本人がひとりパレスチナに飛び込んでも何も出来ない」と気づいて、沖縄ならできると、2011年に読谷村に移り住んで、いまは辺野古の新基地反対運動に身を投じているという。
 これだけでも私にとっては尊敬に値するに十分だが、私がもっとも共感を覚えたのは次の河野さんの言葉だ。

憲法の精神と理念の実現できる世界をめざし、国際協調体制の確立と軍縮の推進を図りつつ、国際社会で名誉ある地位を占める事が出来るように全力を傾ける

 これは、村山首相が自衛隊合憲を認めた答弁の中で、同時に「もう一度お聞きください」と強調して、続けた決意であるという。
 それを書いたのはもちろん河野道夫さんだ。
 その決意が忘れさられてしまっていることが残念でならないという。

 そして河野さんは次のように今の政治に失望する。

安倍改憲に異を唱える議員は与党にも野党にもいるけれど、武力に依存しない国際関係を築く9条の理想や軍縮を真正面から訴える政治勢力は、わずかになってしまった・・・

 わずかどころか、私に言わせれば皆無だ。
 私は河野道夫さんこそ新党憲法9条の名誉会長にふさわしい人物だと、この朝日の国分編集委員の記事を読んで確信した。
 誰か私を河野道夫氏に紹介してもらいたい。
 読谷村まで訪れて、新党憲法9条構想について語り合いたい。
 そして賛同いただけるなら、三顧の礼で名誉会長就任をお願いしたいと思っている。


天木直人のブログ、2019-05-08
河野道夫さんに会って新党憲法9条構想について話したい
http://kenpo9.com/archives/5928

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2019年09月16日

青年よ再び銃をとるな

1951年1月21日
青年よ再び銃をとるな
委員長就任挨拶
鈴木茂三郎

 私は皆さんの御推薦によりまして中央執行委員長の重職を汚すことになりましたについては、私一個としては感激にたえないものがございます。

 私は自分の分をよくわきまえておるつもりでございますが、せっかく皆さんの御期待に副い得るやいなやに関してはひそかにこれを憂えるものでございます。
 しかしながら私があえて火中の栗を拾う決意をもってこの重職をになう決意をもちましたことは、御承知のように、内外の情勢に対しまして社会党といたしましては、この危局を乗り切って日本を救い日本の民族を救うものは社会党よりないという固い決意をもっておるものでございます(拍手)。
 この際社会党はこの情勢に対する確固不動の方針を確立いたしますと同時に一歩も動かない不退転の態勢を確立したいと思いまして、この際委員長を空席とすることを許さざる客観的情勢にあるから、私はあえて皆さんの御推薦によって、皆さんの御期待に沿い得ないことをおそれながらもお受けいたした次第でございます。

 内外の情勢に関しましては大会において皆さんが十分審議、討議されたように、第一に国際的な情勢に関してはいわゆる軍備拡張が行われ、第三次大戦はアジアにおいては朝鮮に起るとみるものがあり、ヨーロッパにおいては1951年7月ごろユーゴの国境においてみるであろうと言われておりますが、しかしこうした世界大戦の危機がだんだんと深まってまいるに対しても、ただいまは平和機構としての国連の内部における二大勢力の対立でございまして、この国連の内部または外部においては、一たん戦争が起れば人類を破滅に陥れる戦争を絶対に防止しなければならないという強い運動がまき起っておるのであります(拍手)。
 こういう情勢に対して、私は大会後、新しい執行部と協議いたしまして、幸いにして機関の御決定を得ることができれば、この際世界における私共と同じ民主的な勤労大衆と固く結合するために、コミスコ(Commitee of the International Socialist Conference)を通じて提携を深めるために、その背景となっておる勤労大衆の支持を受けるために、社会党は正式に各国に対して代表を派遣いたしたい、と存じておるものでございます(拍手)。

 国内の情勢に関しては、占領後6ヶ年、欧米と同じような資本主義的な再建の方式がとられておりまするが、欧米と経済的に根本的に事情を異にいたしておりまして、敗戦後御承知のように領土は狭隘となり、産業は中小企業を主体とする弱い産業態勢でございまして、その中にたくさんな国民の生活を保障いたしますには、こうした条件の根本的に違う欧米と同じ資本主義的な態勢によって、国民の生活を安定させ、行動させるということは不可能だということは、今日の事態が証明いたしております。
 資本主義的な再建方式をとってきた政府並びに資本家階級は、この不可能なことを可能ならしむるために、朝鮮の事変を利用して、朝鮮の事変によって利得を上げて資本主義的な態勢をささえようとしたり、これがむずかしいとみると世界戦争への危機に便乗いたしまして、戦時利得を上げて軍事産業によって資本主義を再建しようとして、資本家階級は再軍備を主張しておるではありませんか(拍手)。
 これは明らかに資本主義の本質を暴露したものであるではありませんか(拍手)。

 この中へ、幸いにして講和の目的のために近くダレス氏が来朝されると聞いております。
 ダレス氏は一部に伝えられるように、そんなに講和がさしせまったという用件ではなくて、アメリカのヨーロッパとアジアにおける政策の調整などに関連して来朝され、その際日本の国民のあらゆる方面の率直な意見を、率直な要望を検討し調査することが目的であるように存じておりますが、この際、ダレス氏の来朝を前にいたしておりますが、わが社会党の第7回大会は皆さんによって新たに講和に対する原則、平和に対する方針、具体的な方針を確立されましたが、私は皆さんによって確立された講和、平和に対する原則その具体的の方針をあくまで追求することと、これこそわが日本の民族をして、日本の独立を確保するただ一つの道であるということを確信をいたします(拍手)。

 私はこの皆さんの決定を遂行いたしますために、私はとって57歳、日本の民族を救い、日本の独立を確保いたしますために、私一個の命はきわめて軽いものでございまして、私は死を決して日本の独立と平和を確保するためにこの大会の決定を確保せんとするものであります(拍手)。

 私はこの際特に党の青年の諸君、婦人の諸君に一言訴えてその奮起を促したいと思いますが、青年の諸君に対しましては、ただいま再武装論がございます。
 再武装を主張する当年60余歳の芦田均氏が鉄砲を特ったり背嚢を背負うのではないのでございます。
 再武装をするとすればいわゆる青年の諸君が再武装しなければならないことは当然でございます。
 私は青年諸君はこの大会の決定を生かすために断じて銃を特ってはならない。
 断じて背嚢をしよってはならない(拍手)。
 青年諸君は確固とした方針をもって、ただ党内の問題、組合の中の問題にとどまらないで、党の問題は私ども新しい執行部におまかせを願いまして、青年諸君は広く青年大衆の中に入って党の方針を諸君が中心に確保願いたいのであります(拍手)。

 婦人に対しましては、労働階級の犠牲によって資本主義的再建のとられておる今日、勤労大衆の家庭生活を通じて、働く人たちの生活がいかに蹂躙されておるかということを現実を凝視してもらいたい。
 あるいは不幸にして戦争になったような場合に、5400万人、女、子供合わせて5400万人以上のこの婦女子を戦争の惨害から、この爆撃の下から、どうしてこれを守ろうとするのであるか(拍手)。
 私は幸いにして一党の代表者がダレス氏と会見する機会を得たならば、世界の第三次戦争に対して、国際的な紛争に対して何ら関知しないところの日本が、こういう国際的な紛争のために日本が、不幸にして戦争に巻き込まれた際、ダレス氏は日本の5400万の婦女子を何によってこの戦禍から防衛してもらえるか、ということを聞きたい(拍手)。

 私はこの困難な段階に重要なる任務をにないましたが、しかし幸いにして新しく顧問になられた先輩の諸君、あるいは中央執行委員会の諸君、こういう方々の御協力によって任務をあやまちなく遂行いたしたいと存じますが、とりわけわが意を強くいたしてこの重任を負いましたのは、前の5回、6回の大会における講和の三原則を、朝鮮問題から起ってきたあらしの中から、皆さんの大会の決定を、委員長のないもとにおいて確守されてきた大書記長・浅沼稲次郎君が、同じように書記長として御協力をいたしていただくことができるということと同時に、なおそれより私がこれをお引受けいたすことのできましたのは、皆さんの御承知のように、片山前委員長は同志的な友愛と信義の道を私どもに説かれ実践をされ、かつ、いわゆる派閥解消に関して今日この大会にみられるような効果をあげてこられた。
 きわめて公正な立場をとり堅実な識見をもっておられまする前委員長・片山さんが、私の最高顧問として重要な問題についてはお力ぞえを受け、私の足りないところを補っていただくことができるということ、今日ここに病中ながら、それがために御列席を得ました片山前委員長が、私に全力の御協力をしていただくということと、そのために私はあえてこの重任をお引受けいたした次第でございます(拍手)。

新しい役員を代表いたしまして一言ごあいさつ申上げ、皆さんのご協力をお願い申してやまない次第であります(拍手)。


[写真]
左社大会で演説する鈴木茂三郎

日本社会党第7回大会最終日におこなわれた鈴木茂三郎の就任あいさつ。
文中の「青年よ銃を取るな」の訴えは広く国民の共感を呼び、戦後社会党躍進の原動力の一つになった。
出典は日本社会党結党40周年記念出版『資料日本社会党40年史』(日本社会党中央本部、1986年7月)。


http://roudousyaundou.que.jp/syakaitou_025.htm

 今日5月7日は、日本社会党を結成、第2代委員長、初代「統一社会党」委員長をつとめた政治家の鈴木茂三郎(すずき もさぶろう)が、1970年に亡くなった日です。
 1893年に愛知県蒲郡に生まれた鈴木茂三郎は、新聞や牛乳配達など苦学しながら中・高等教育を修め、旧制海城中学を経て、1915年に早稲田大学政治経済科を卒業しました。
 卒業後は、「報知新聞」や「東京日日新聞」の記者となり、主として経済部に所属しながら、経済ジャーナリストとして知られるようになりました。
 1918年に特派員としてシベリアへわたったとき、「ロシア革命」に対する干渉戦争ともいうべき軍部のシベリア出兵を目にしたことで、生涯戦争反対をうったえつづける素地ができあがりました。
 1920年から2年間の渡米、その後、何度か特派員としてソ連の社会主義をまのあたりにしたことで、しだいに社会主義思想に傾倒するようになります。
 そして、1927年に山川均(1880 - 1958)らとともに雑誌「労農」を発刊、東京日日新聞を退社して、社会主義運動に専念するようになりました。
 1928年7月、無産大衆党が結成されると書記長に就任し、以後、東京無産党、社会大衆党など合法的な労働者・農民の政党をつくり、役員をつとめました。
 しかし、社会大衆党が軍部との関係を深め、国家社会主義的な路線をとるようになると、鈴木はあくまでも戦争とファシズムに対する反対を貫いたことで、1937年の人民戦線事件に連座して検挙され、1945年8月15日の敗戦まで、政治的活動を禁止されてしまいました。
 敗戦直後に「日本社会党」の結成に加わり、1946年の総選挙で衆議院議員に初当選すると、党内の左派を指導し、1949年に書記長、1951年には第2代目の委員長となりました。
 就任したときの党大会で、再軍備の動きに反対し、「青年よ、再び銃をとってはならない。婦人よ、再び夫を戦場におくってはならない」という名演説をしました。

 この演説は大きな反響を引き起こし、以後、日本の平和運動のスローガンのひとつとなっています。

 1951年のサンフランシスコ講和条約の批准をめぐって、日本社会党が左・右に分裂すると、鈴木は「左派社会党」の委員長となり、分裂時、衆議院に16議席しかなかった左派社会党を、1955年総選挙では89議席に躍進させました。
 1955年に社会党が統一されると、ふたたび委員長に選ばれました。
 しかし、1958年の総選挙での伸び悩み、翌年の参議院選挙での敗北により、党内の左右両派の対立が再び高まりました。
 1960年には西尾末広らが脱党して、民主社会党(のちの民社党)を結成したことでその責任をとり、浅沼稲次郎に委員長の座をゆずりました。
 その後の鈴木は、社会主義理論委員長となり、「日本社会主義の道」の作成にあたるなど、社会党の左傾化を推し進め、1967年に政界を引退しました。


いずみ書房・創業者・酒井義夫のこだわりブログ、2013.5.7
「青年よ再び銃をとるな」 の鈴木茂三郎
http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2013/05/post_1619.html

 2002年6月4日(火)未明、法政大学名誉教授であり、大原社会問題研究所名誉研究員でもあった鈴木徹三先生が亡くなられた。
 享年79歳であった。
 ご本人の遺志により、ごく限られた方々による密葬とすること、大学および研究所などには後日、お知らせするようにとのことであり、私どもが先生の訃報に接したのは、ほぼ1週間後であった。

 亡くなられる約1ヶ月前であるが、『大原社会問題研究所雑誌』2002年5月号には、鈴木徹三「戦後社会運動史資料論−鈴木茂三郎(2)」 が掲載された。
 その雑誌と抜き刷りは、すでに生前、先生のお手元に差し上げられていた。
 おそらく、それが先生の絶筆となったと推測される。
 夫人の鈴木玲子氏によれば、先生はその続編(3)を執筆され、さらにその続きを執筆中であったという。
 だが、病状が極度に悪化し、ついに執筆ができなくなったが、それでもなお、その原稿のことを気にかけて居られたということである。

(*) 鈴木徹三先生は、1923年1月22日、東京・幡ヶ谷で、父・鈴木茂三郎、母・鈴木ゑんの3男として生まれた。父・鈴木茂三郎は、のちに日本社会党委員長として活躍したことでも著名である。
 鈴木先生に鈴木茂三郎に関する研究が多いのは、その生まれと育ちの縁によるものであろうか。
 たとえば、著書では、『鈴木茂三郎(戦前編)−社会主義運動史の一断面』(日本社 会党機関紙局,1982年)、『片山内閣と鈴木茂三郎』(柏書房、1990年)などがある。
 鈴木先生は、1947年に京都帝国大学経済学部を卒業後、東京大学大学院で有沢広巳教授のもとで学んだ。
 1949年4月、法政大学の専任教員となり、経済学部で工業政策論、日本経済論を担当した。
 1962年4月以降は、ずっと経済政策論を担当されてきた。
 私事にわたって恐縮であるが、私は、法政大学経済学部の学生時代、その鈴木先生の経済政策論の講義を1年間、受講させていただいた。
 当時の経済学部では、宇佐美誠次郎先生の財政学、大島清先生の日本農業論、上杉捨彦先生の社会政策論などの人気講義があったが、鈴木先 生の経済政策論も同様に人気があり、多くの学生が受講していた。
 先生の講義は、立て板に水といった流ちょうな講義ではなく、どちらかといえば、とつとつと語る感じの講義であった。
 ただ、その語り口 のなかから、経済政策の主体である国家をいかに捉えるか、客体の捉え方はどうかなど、捉えた結果を結論として断定的に講義で与えるのではなく、「捉え方」における諸見解、諸学説などを丁寧に紹介され、学生自身にもっと考えさせるといった講義であった。 *

 1972年4月、鈴木徹三先生は、法政大学常理事(財務担当)に就任された。
 法政大学大原社会問題研究所と鈴木先生との公式の関わりは、その年1972年の9月、先生が財団法人法政大学大原社会問題研究所の理事に就任されて以来、続いた。
 研究所理事としては、1986年3月、財団法人法政大学大原社会問題研究所の解散まで携わった。
 その後、法政大学の付置研究所となってからも、研究所の多摩キャンパス移転後の同年4月より、学部の教授会にあたる研究所の運営委員会の委員となられ、1993年3月、法政大学を定年退職されるまで、その任にあった。
 その間、20年以上にわたり、研究所の運営について尽力された。
 さらに、研究所所蔵資料の復刻・刊行にも貢献された。
 たとえば、現在、207冊に達している戦前史料の復刻シリーズ 『日本社会運動史料』(法政大学出版局刊)では、『無産階級評論雑誌 大衆』(1976年)の解題を執筆されたし、戦後史料の復刻シリーズ『戦後社会労働運動資料』(法政大学出版局刊行)では、『社会主義政治経済研究所機関誌 社会主義』(1992年)および『社会主義政治経済研究所機関紙 政治経済通信 社会主義政経週報 週刊社会主義政経通信』 (1993年)の解題も執筆された。
 それだけではない。
 鈴木茂三郎関係資料(鈴木茂三郎文庫)について、これを順次、大原社会問題研究所に寄贈された。
 この寄贈は、定年退職後も続いており、まだ終わっていない。

 大原社会問題研究所は、鈴木先生の研究所への長年にわたる貢献に感謝の意を込めて、1994年4月より、大原社会問題研究所の名誉研究員という称号を冠している。

(*)鈴木徹三先生は逝去されたが、先生と大原社会問題研究所との関係は、鈴木茂三郎資料の受贈という関係では、これからも続いていく。
 今後は、夫人の鈴木玲子氏およびご子息の鈴木徹太郎氏をつうじ、研究所は寄贈を受けることになっている。
 大原社会問題研究所は、すでに寄贈されている鈴木茂三郎資料について、これまで順次、整理してきた。
 今後、寄贈される予定のものを含み、できるだけ早い機会に、鈴木茂三郎資料の整理を完了して、広く世間に公開するのは研究所の社会的責務であり、鈴木先生の研究所へのご尽力にお応えする最善の道でもある。
 その資料は、日本社会党研究の一大資料宝庫であるのは間違いない。
 そのデータ数は膨大で、現在でも図書約1500件、原資料約1万件にのぼっている。
 鈴木徹三先生の名は、その鈴木茂三郎資料とともに、研究所の歴史に残るであろう。
 ここに、謹んでご冥福をお祈りします。


大原社会問題研究所雑誌No.525/2002.8
鈴木徹三先生のご逝去を悼む
早川征一郎(はやかわ・せいいちろう、法政大学大原社会問題研究所教授) 
https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/525-7.pdf

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安倍政権6年半の「なれの果て」

上から下まで総腐敗

 いつから、日本はこんな国になってしまったのか。

 時代が令和に変わって以降、日本社会の理性とモラルを疑うような事件が相次いでいる。

 例えば、詐欺的手法が次々と明るみに出た日本郵便の「かんぽ生命」不正販売。
 ターゲットは主に地方の高齢者で、詐欺的手法を担ったのは、高齢者に身近な郵便局員たちだった。

「郵便局」という地方で圧倒的な信頼を持つ肩書を悪用し、営業成績維持のため、組織ぐるみで数字をカサ上げ。
 契約を取りやすい独居老人を「ゆるキャラ」「半ぼけ」「甘い客」と陰で呼び、ひとりに数十件も契約させるなど、特殊詐欺グループも真っ青の悪質さ。

 日本郵便はかんぽ販売のノルマを廃止するというが、問題の本質は「過剰なノルマ」だけでは片づけられない。
 底流にあるのは、理性とモラルを喪失した日本社会の劣化ではないのか。

 報酬不正で日産を追われた西川広人社長も同類だ。
 検察とタッグを組んだ報酬不正事件でゴーン前会長を追い出しながら、自らも業績連動型報酬の権利行使日をズラし、4000万円超を不正に受け取る犯罪的チョロマカシ。
 こんなトップが企業統治改革の旗を振っていたとは、冗談にも程がある。

 日産のほかにも、神戸製鋼、東芝、三菱マテリアル……と日本を代表する大企業が、ドミノ倒しのように「不正」や「改ざん」に手を染める。
 最近も日立製作所が外国人実習生に計画外作業を指示して、業務改善命令をくらったばかり。
 同社の中西宏明会長は経団連のトップだ。
 企業の模範となるべき立場すら守れない倫理観の逸脱。
「公正」「正直」「勤勉」という日本人の美徳は、とうに死語と化している

 ここ数年、児童の虐待死のニュースは後を絶たず、「最低限の責任」すら果たせない親が増えている。
 ちょっとしたことでキレる大人も増え、厳罰化が求められるほど、あおり運転が社会問題化。
 鉄道各社が啓発ポスターを掲出せざるを得ないのも、駅員への暴力沙汰が数多く発生している証拠だ。

 言うまでもない常識がもはや通用しないほど、この国は堕落してしまったのである。

美徳破壊の政権が生み落とした卑怯な社会

「日本社会の構造的な劣化が、いよいよ覆い隠せなくなって一気に表面化した印象です」と言うのはコラムニストの小田嶋隆氏だ。
 こう続ける。
 私は2012年を境に日本社会は変容したと感じています。
 リーマン・ショックからの長引く不況と、3.11の一撃を経たタイミングで誕生したのが、第2次安倍内閣でした。
 粛々と日本を立て直すことを期待したのに、結果はモラルぶっ壊し政治。
 改ざん、隠蔽は当たり前で、平気でごまかし、嘘をつく。
『総理のご意向』の忖度強要で官僚機構のモラルは崩れ、今や機能不全に陥っています。

 強行採決の連発で民主的手続きを無視し、集団的自衛権容認の解釈改憲で憲法をタテマエ化。
 この春から予算委員会の開催すら拒み続けているのです。
 日本社会の寛容性が失われていく中、率先して『公正』『正直』『勤勉』という美徳を破壊。
 こんな政治が許されるなら、正直者はバカを見るだけとなり、卑怯な社会に拍車がかかるのは当然の帰結です

 落ちるところまで落ちた政界劣化の象徴が、「日本人の知性の底が抜けてしまった」と文筆家の古谷経衡氏が喝破したN国の出現だ。
 同党所属の丸山穂高議員は竹島を巡り「戦争で取り返すしかないんじゃないですか?」と自身のツイッターに投稿。
 昭和の時代なら、こんな暴言を吐いた時点で即刻、議員の職を失ったものだ。
 そうならないのが、政治の劣化とメディアの堕落を物語る。

 今やメディアは「関係悪化の全責任は韓国にある」とケンカ腰の政権をいさめるどころか、一緒になって朝から晩まで嫌韓扇情一色(※)。
 日本の内閣改造の“お友だち”人事よりも、韓国法相の疑惑のタマネギ男の追及に血道を上げているのだから、権力の監視役を期待するだけムダである。

韓国叩きで留飲を下げる世の中でいいのか

 前出の小田嶋隆氏はこう言った。
 不安なのは国民の嫌韓感情をあおって、安倍政権が維新の会を巻き込み9条改憲に突き進みそうなことです。
 改造内閣のメンバーを見ても、最側近の萩生田光一氏をはじめ、安倍首相の親衛隊のような“ネトウヨ”大臣ばかり。
 日本社会のモラル喪失を逆に利用して、この国をガタガタにした張本人である首相が、
『社会がほころんでいるからこそ、改憲でこの国を変える必要がある』
『“お花畑”の憲法では今の日本は治められない』
などと言いだしかねません


 民衆の不安や危機感につけ入るのが、権力者の常套手段。
 6年半を過ぎたアベ政治も常にそうだ。
 そんな腐臭漂う政治が社会全体に伝播し、上から下まで総腐敗の惨状を招いているのが、安倍政権6年半の「なれの果て」である。
 政治評論家の森田実氏はこう言う。
 競争第一、弱肉強食の『新自由主義』がはびこりだしてから、この国はおかしくなってしまった。
 新自由主義に潜むのは『今だけカネだけ自分だけ』の考え。
 この発想に国の指導層が完全に染まっています。
 かつては政治家も経営者も官僚も『国民の生活を豊かにする』との気概に満ちていましたが、今や見る影もない。
 コスト重視で賃金を減らし、大衆からの収奪しか考えていません。
『貧すれば鈍する』で、生活が苦しくなれば精神もすさんでいく。
 日本社会の荒廃は『今だけカネだけ自分だけ』主義が招いた必然なのです。
 加えて戦争を知らない政治家ばかりとなり、隣国に対する過去の反省や責任も放り出しています。
 はたして嫌韓扇情に留飲を下げる世の中でいいのか。
 腐敗した社会への批判精神に国民が目覚めなければ劣化は止まりません

 劣情国家の行く末を危ぶむ気持ちがあれば、批判の声を上げ、うねりに変えていくしかない。


日刊ゲンダイ、2019/09/15 17:08
劣化が止まらない日本
安倍政権6年半の「なれの果て」

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/261886

(※)ヤッホーくん注

 他国への憎悪や差別をあおる報道をやめよう。

 国籍や民族などの属性を一括りにして、「病気」や「犯罪者」といったレッテルを貼る差別主義者に手を貸すのはもうやめよう。

 先月末、テレビの情報番組で、コメンテーターの大学教授が、
「路上で日本人の女性観光客を襲うなんていうのは、世界で韓国しかありませんよ」と発言した。
 他の出演者が注意したにもかかわらず、韓国に「反日」のレッテルを貼りながら、
「日本男子も韓国女性が入ってきたら暴行しないといかん」などと訴える姿が放映され続けた。
 憎悪や犯罪を助長した番組の映像はいまもなお、ネット上で拡散されている。

 今月に入っても、大手週刊誌が「怒りを抑えられない韓国人という病理」という特集を組んだ。
 批判を浴び、編集部が「お詫びするとともに、他のご意見と合わせ、真摯に受け止めて参ります」と弁明したが、正面から非を認めることを避けている。
 新聞も他人事ではない。
 日韓対立の時流に乗ろうと、「厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんて要らない」という扇情的な見出しがつけられたこの週刊誌の広告が掲載されるなど、記事や広告、読者投稿のあり方が問われている。

 日韓対立の背景には、過去の過ちや複雑な歴史的経緯がある。
 それにもかかわらず、政府は、自らの正当性を主張するための情報発信に躍起だ。
 政府の主張の問題点や弱点に触れようとすると、「国益を害するのか」「反日か」と牽制する政治家や役人もいる。

 でも、押し込まれないようにしよう。
「国益」や「ナショナリズム」が幅をきかせ、真実を伝える報道が封じられた末に、悲惨な結果を招いた戦前の過ちを繰り返してはならない。
 そして、時流に抗うどころか、商業主義でナショナリズムをあおり立てていった報道の罪を忘れてはならない。

 私たちの社会はいま、観光や労働の目的で多くの外国籍の人が訪れたり、移り住んだりする状況が加速している。
 また、来年にはオリンピック・パラリンピックが開催され、日本社会の成熟度や価値観に国際社会の注目が集まる。
 排外的な言説や偏狭なナショナリズムは、私たちの社会の可能性を確実に奪うものであり、それを食い止めることが報道機関の責任だ。

 今こそ、「嫌韓」あおり報道と決別しよう。
 報道機関の中には、時流に抗い、倫理観や責任感を持って報道しようと努力している人がいる。
 新聞労連はそうした仲間を全力で応援する。


日本新聞労働組合連合(新聞労連)2019年9月6日
「嫌韓」あおり報道はやめよう
南 彰(中央執行委員長)
http://www.shinbunroren.or.jp/seimei/20190906.html

posted by fom_club at 08:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする