2020年01月07日

小熊英二「日本の社会における働き方」

 お正月の飲みすぎ、食べすぎには注意しましょうね、ってヤッホーくん、でも、ね、もう遅すぎない?
 いえ、いえ、暴飲暴食は時節とは関係なく行なわなければなりません、だって。これって新年の決意?

・・・戦争がはじまりそうなところに自衛隊をどうしても送る、汚職だらけなのにカジノをどうしても導入する、正当な理由が無くても公文書はどうしても出さない。教師が足りない。もう、吐きそう

 宮城県内の公立の小中学校で教師の数が必要な定数よりも少ない学校が増え、去年、不足している教師の人数が100人を超えたことが分かりました。

 これは県教職員組合が各学校にアンケート調査をして明らかになったものです。
 それによりますと去年2019年11月1日時点で、県内の公立の小中学校で実際に働いている教師の数が本来配置すべき人数よりも113人少ないということです。
 県教組によりますと病気や出産などで休職する教師の代役となる臨時講師が見つからないということです。
 このため、各学校では教頭が学級担任を兼務したり、校長が授業を担当するケースもあるということです。
 一方、文科省は教師の残業時間を月45時間以内に抑えるなどとしたガイドラインを作り、教師の働き方改革を進めていますが、県教組は現在の教育現場では実現が難しいと指摘します。

「人を増やすことと業務を削減すること、この二つをきちんとやらなければ決して時間外勤務を解消することにはならない」
(宮城県教職員組合 渡辺孝之 執行委員長)


[動画]

Yahoo Japan! News、1/6(月) 20:37配信
100人以上…教師が足りない
宮城県内の公立小中学校

(仙台放送)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200106-00000010-oxv-l04

働き方は「大企業型」「地元型」「残余型」に大別できる

 日本の社会における働き方は、「大企業型」「地元型」「残余型」という3つの類型に大別できると思います。

 「大企業型」は、大学を出て大企業や官庁に勤め、「正社員・終身雇用」の人生を過ごす人たちとその家族を指します。
 収入はそれなりの額を安定して得られるけれども、進学や就職で生まれ育った地域を離れることが多く、また転勤もあることが多いので、地域との結びつきを養いにくいというデメリットがあります。従って、育児で頼れる人がいないとか、定年後の生き方に迷うといった困難に直面しやすく、ローンで家を買うなど支出も多いと見られます。

 「地元型」は、地元の中学や高校を卒業後、農業や自営業、地方公務員、建設業などその地域にある職業に就くタイプです。
 収入は大企業型より少ないことが多いけれども、親から土地や持ち家を譲られる、地域の人間関係に恵まれる、地域で存在感を発揮できる、自営業や農業は定年がない、といったメリットがあります。

 大企業型は「カイシャ(職域)」を通じたソーシャルキャピタルを持ち、地元型は「ムラ(地域)」を通じたソーシャルキャピタルを持っていると言い換えることができます。両者は見ている世界が違うし、不満の持ち方も違うわけです。

 もう1つの「残余型」は、長期雇用されておらず、しかも地元に足場があるわけでもない人びとです。
 都市部の非正規労働者がその象徴ですが、新卒で一度は正社員になったものの、何らかの事情で職を転々とする人などもここに含まれます。必ずしも一概にはいえませんが、平均的にみれば恐らく所得は低く、企業にも地域にも足場がなく、高齢になっても持ち家がなく、年金は少ないという人びとが多いでしょう。大企業型と地元型のマイナス面を集めたようなタイプといえます。

大企業型を前提とした制度が時流に合わなくなっている

 3つの類型の比率は、さまざまなデータから、大企業型が26%、地元型が36%、残余型が38%と推定しています。
 大企業型が少ないと思われるかもしれませんけど、正社員になって終身雇用を実現できる生き方をした男性は1950年生まれでも34%、1980年生まれでは27%に過ぎないと見られます。昭和の時代でも3割に過ぎないわけです。

 ですから満員電車で通勤するのが苦痛だとか、保育園不足に悩んでいるといった不満は、実は全就労者の3割程度が感じているに過ぎないと見ることができます。

 もちろん比率が小さいからといって、そうした課題を軽んじていいわけではないけれども、3割の人の悩みがあたかも日本全体の課題のようにとらえられ、残り7割のあり方を結果的に規定してしまうことには注意が必要だということです。年金制度や健康保険制度など、会社員・公務員と自営業者・非正規雇用者の社会保障の違いをめぐる不公平感も、このアンバランスさに根差していると考えられます。

 いま、日本の社会では残余型が増えています。
 正社員の数はそれほど減少していないけれども、地元型に多い自営業の人が事業を継続できなくなって非正規雇用に転じるケースが増えているんです。会社にも地域にもつながりを持たないこのタイプが増えているのは、大企業型を前提とした過去の制度が社会の変化に合わなくなっているということの証左ではないかと思います。

「能力」によって全社員を査定し、「資格」を与える職能資格制度が企業に浸透

 大企業の働き方が始まったのは明治期であると考えられます。
 明治期の官庁制度では、棒給(給与)は成果や職務でなく、学歴と勤続年数によって決まりました。この官庁の「任官補職」* の原則と、軍隊型の階級制度が、明治期の日本企業に広まっていったんです。

 戦前の企業には「大卒の上級職員」「高卒の下級職員」「中卒の現場労働者」という三層構造があり、現場労働者には年功制や長期雇用は適用されていませんでした。これは学歴による身分差別だと受け止められていました。

 戦後の民主化の中で「社員の平等」への道が開かれ、労働運動は年齢と家族の人数に応じた生活給のルールを確立していきます。長期雇用も定着していったため、企業は採用を慎重化すべく、学校から情報が得られる新卒一括採用を現場労働者レベルまで拡張しました。こうして企業の三層構造は解消され、従業員全員が「社員」となります。このタイミングで導入されたのが「能力」によって全社員を査定し、「資格」を付与する職能資格制度だったわけですが、この制度に官庁や軍隊の階級制度の名残が見て取れます。

 職能資格制度というのは、いってみれば職務とは別に作用するランキングシステムなんですね。軍隊でいえば、少佐というのは例えば大隊長になることもあれば、補給基地の司令官になることもあるし、航空隊の司令官になることもあるわけだけれども、そんなふうに職務が変わっても少佐という階級=ランクは変わりません。
 同じように日本の企業でも、例えば「参事」「理事」「主事」だといった資格がランク機能を持ちました。「部長」や「課長」も、そういう側面があったかもしれません。仕事の内容や求められる専門性とは違ったところでランク付けされるわけで、そんなところも企業が軍隊や官庁のシステムを踏襲していることの裏付けになると思います。

出向・非正規・女性・高齢者などの「社員の平等」の外部が生まれる

 1950年代半ばから、官吏の恩給を起源として社会保障制度も固められていきました。
 大企業から長期雇用と年功賃金が広がり、中堅以上の企業で働く人はカイシャ(職域)、それ以外の人はムラ(地域)を基本単位とする制度が作られていった。すなわち日本の社会保障はまず大企業従業員をカバーする制度からでき始め、大企業以外のところをカバーする制度が後からできたというわけです。

 1960年代ごろから現行の年金や健康保険などの社会保障が全国に拡大し、働き手のあり方が大企業型、地元型、残余型とに大きく類型化されていくことになります。

「日本型雇用」が完成したのは高度成長期以後のことです。大企業の正社員の量的拡大は1974年のオイルショックを契機にほぼ止まり、増えなくなったパイの奪い合いが受験競争の激化となって表れました。一方、企業は年功賃金や終身雇用がもたらす負荷に苦しんだ末、人事考課を厳格化しつつ、出向・非正規・女性・高齢者などの「社員の平等」の外部を作り出していきます。

 1980年代に正社員と非正規雇用の二重構造が注目され始め、1990年代以降、日本型雇用の改革や成果主義の導入が唱えられたものの、基本的な慣行は変わらず、コア部分ではいまも大企業型の雇用をベースとした仕組みが維持されている――というのが、日本型雇用の生成から現在までの大まかな流れです。

モノづくりの時代においては日本型雇用はうまく効いた

 明治期からこの令和の時代に至るまで、大企業の雇用制度が革新されなかった理由としては、1つは、それでやれてきてしまったということがあるんでしょうね。

 軍隊という組織の構造を知る人びとが、労働運動を通して将校だけに適応されていた年功賃金や長期雇用という待遇を持ち込んだんです。それは働き手にとっては好待遇なんですよ。しかも、一般労働者にまで適応されたわけです。戦後の企業では全員が将校になれる可能性が開けたようなものです。

 それによって現場労働者の士気が上がりましたし、長期雇用されることで技能蓄積が進みましたから、モノづくりの時代においては年功賃金や長期雇用といった日本型モデルはよく効いたといえます。

 その成果は意図して生み出したものではなく、あくまで結果としてそう働いたというだけのことなんですが、ともあれ日本型雇用がうまく機能したことが、このモデルが長期的に維持されることになった1つの要因であると考えられます。

国際的に見ると日本は低学歴化している

 もう1つ大きな要因は、人材の採用を国内市場だけで進めてこられたからだと思います。

 日本はモノの輸出入も国際的にみれば比率が低い方ですが、労働市場はもっと閉鎖的です。
 国内の高校や大学の卒業生を新卒で入社させる形で、人材を調達し続けることができた。他国の人材と交流する必要も全く感じていなかったでしょう。

 それは日本が大きな国だったからできたことだと思います。日本はよく小さい国だといわれますけど、世界的に見れば実は大きな国です。人口は1億3000万人もいて、外交力もそれなりにあって、教育を受けた人材がたくさんあるという意味で、消費市場としても、労働市場としても規模が大きい。EUの約半分くらいを一国で稼いでいるわけで、だから閉鎖的でも人材が調達できたんです。

 ただ、日本の教育程度が高い間はそれでよかったけれども、いまは状況が変わっています。

 現在、他の国でそれなりのレベルの職に就こうとするなら、大学院に進学して修士号や博士号を取らないと難しい。そういうわけで、アメリカもヨーロッパもアジア圏も中南米もアフリカも、みんな学歴がどんどん上がっています。
 日本は相対的に見ると低学歴化しているので、それは日本の1つの課題といえるかもしれません。

※ 2019.9.17 小熊英二氏(社会学者、慶應義塾大学総合政策学部 教授、1962年東京生まれ)の自宅にて取材


ワークサイト、Jan. 6, 2020
3割の「大企業型」の働き方が日本社会を規定している
「大企業型」「地元型」「残余型」という働き方の3類型

(text: Yoshie Kaneko)
https://www.worksight.jp/issues/1592.html

posted by fom_club at 06:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月06日

首相補佐官の和泉洋人氏

 沖縄県東村高江の米軍ヘリパッド建設問題に、じつはあの腰巾着が絡んでいたと知ったヤッホーくん、御用始めにもかかわらず、何んにも手付かず、始められないでおります……

 沖縄県東村高江の米軍ヘリパッド建設に関し、和泉洋人首相補佐官が2016年、米政府に成果を示すことを最優先し、電源開発( Jパワー、本社東京)に協力を求め、見返りに便宜を図る約束をしていたことを記す Jパワーの内部文書を本紙は2019年12月27日までに入手した。
 文書には「何とか年内、オバマ政権のうちにケリをつけたい。海外案件は何でも協力しますから」と記されていた。
 文書は和泉補佐官と Jパワーの北村雅良会長が同年2016年9月14日に首相官邸で面談した際の発言録。
 高江のヘリパッド建設や辺野古新基地建設を主導してきた官邸が便宜をちらつかせて企業に協力を迫った可能性がある。

 和泉首相補佐官は沖縄の基地問題を担当する菅義偉官房長官の下で実務を担う官邸の中心人物。
 和泉首相補佐官室は本紙の取材に対し「米軍北部訓練場のヘリパッド建設事業は沖縄防衛局所管の事業ですので、同局に問い合わせください」と回答。
 面談や発言内容の事実関係について言及を避けた。

 Jパワーが協力を求められたのは、ヘリパッド建設予定地に隣接する Jパワー所有の「沖縄やんばる海水揚水発電所」(国頭村、2016年7月に廃止)の施設の貸し出し。
 実際に施設は沖縄防衛局職員の作業や宿泊所として完成まで3ヶ月間使用された。

 Jパワーは本紙の取材に、沖縄防衛局からの協力要請に基づいて「施設の一部分の使用を認めた」と回答した。
 一方、首相官邸での北村会長と和泉首相補佐官の面談や内部文書の事実関係については「回答を差し控えたい」とし、海外事業で政府が便宜を図った事実があるかについては「ない」とした。


琉球新報、2019年12月28日 06:30
高江工事、企業に協力迫る
2016年首相補佐官 電源開発に便宜約束か

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1049822.html

 この腰巾着、和泉補佐官は、厚労省・大坪官房審議官と京都に不倫旅行して、バカップルで京大、山中伸弥教授を恫喝したのでした。

いま、医療に携わる人間の中で、最も評判が悪いのが、大坪寛子・厚生労働省大臣官房審議官(52)でしょう。彼女は慈恵会医科大学から厚労省に入った医系技官ですが、医師としての実力はたいしたことはありません。ところが、菅義偉官房長官の信頼が厚い和泉洋人・首相補佐官(66)と極めて近い関係になったことで、とんでもない権力を握ってしまったのです
(厚労省の行政に詳しい医師)

 今年2019年8月に和泉補佐官と大坪氏は、山中伸弥教授が所長を務める京都大学 iPS 細胞研究所を訪問。
 予算削減を一方的に通達し、山中教授を「恫喝した」と医薬専門メディアで報じられた。
 一方の山中教授は会見を開いて予算削減の理不尽を訴え、最終的に削減は見送られる見通しになった。
 そこに週刊文春が二人の京都旅行と銀座デートを報じたのだ。

和泉補佐官と大坪氏の『ただならぬ関係』が厚労省内で噂されるようになったのは、夏頃でした。内閣官房に出向していた大坪氏は7月に厚労省に戻ってきて、審議官に抜擢されます。しかし、課長になったことのない大坪氏が、なぜ(課長よりも上の)審議官をやるのかと話題になり、和泉補佐官と『昵懇(じっこん)の仲』だったことが判明した
(全国紙厚労省担当記者)

 前出の医師が続ける。

山中教授と同じような手口で予算をカットされた『被害者』の話はよく耳にします。厚労省には自由に使える数十億円規模の『調整費』というものがあり、大坪氏がその予算を握っている。そのため、彼女の傍若無人な振る舞いを知っていながら、誰も表立って批判することができないのです。ただ、疑問なのが、なぜ彼女はそんなに権力を行使したいのか、ということ。威張りたいだけで日本の医療行政がねじ曲げられているとしたら、彼女の罪は大きいと思います

 それにしても、この「最悪カップル」がこれほどの権力を握っているのはなぜか――。
『官邸官僚、安倍一強を支えた側近政治の罪』 (文藝春秋、2019年5月)の著書があるジャーナリストの森功(1961年生まれ)氏はこう説明する。

和泉補佐官は菅官房長官の腹心と言われ、その威光を背景に自分の好きなように政策を進めてきました。元々は国土交通省の技官ですから、国土交通分野の政策には以前から強かったのですが、最近はそれに限らず、『官邸官僚』として省庁に関係なく首を突っ込んでいて、医療分野まで牛耳ろうとしているのです

 無能な人物が能力以上の権力を握ると組織を根っこから腐らせる――。
 そんな恐ろしい状況が、この国の中枢で進行しているようだ。


※『FRIDAY』2020年1月3日号より


[写真]
2017年7月、加計学園の獣医学部新設問題で文部科学省に圧力をかけたとされ、国会に参考人として招致された和泉補佐官(左)

Friday、2019年12月29日
京大・山中伸弥教授を恫喝 霞ヶ関を牛耳る“最悪カップル”

菅官房長官の信頼の厚い和泉洋人・首相補佐官。和泉氏と“ただならぬ関係”にある大坪寛子・厚労省審議官。2人が日本の医療行政を歪ませている

https://friday.kodansha.co.jp/article/87095

 この腰巾着は、加計学園で国会にも呼び出され、なんか変な空気(NHK)を醸し出したことでも知られていました:

「あの時、あんた『◯◯』って言ったよね」と言われて、「そんなこと言ったっけ。覚えてないなぁ」と返しつつ、でも、やっぱり言ったかもしれないと思う。
 これは誰にでもあることだ。これが普通の感性だろう。

 だが、加計学園問題等に関する国会閉会中審査には、かなり感性が違う人々が出てきた。

「そうした記憶はまったく残っていない。従って、言っていない」

 首相補佐官の和泉洋人氏がそう答弁していた。

 これは凄い。
 言ってない。だから記憶にない。これならわかる。
 だが、だからといって逆も真なりということにはならない。

 ここで、ポスト・トゥルース(post−truth)という言葉に思いがおよぶ。
 オックスフォード英語辞典がこれを2016年のイメージ用語に選んだ。

 ポスト・トゥルースを邦訳すれば、「脱真実」あるいは「超真実」という感じになる。
「ポスト・ホント」の世界の住人は、真実を超越しているのである。
 真実を超越してしまえば何とでもなる。
 記憶にないことは、言っていないことにできてしまうのだ。

 もし、記憶にないことが記録にあったらどうするか。
 それでも平気。
 だって、その記録はフェイク(fake=偽物)だもん。
 だって、僕ちゃん、代替事実すなわち「オルタナティブ・ファクト」(alternative fact)を示すことができるもん。

 ポスト・ホント国は、ご都合主義者の駆け込み寺だ。
 そこに逃げ込んでしまえば、ひたすら手前勝手なファンタジーに浸り続けることができる。

 さて、そこで思う。
 ポピュリズムとポスト・ホントが出合う時、その十字路に出現するものは何か。
 ただし、ここで言うポピュリズムは近頃はやりの偽ポピュリズム。
 人心扇動家たちがやることだ。
 人民主義を意味する本来のポピュリズムではない。

 古来、十字路は怖い。
 ホラー話がお好きな向きはよくご存じの通り、十字路は魑魅魍魎の集合場所だ。
 間違っても、十字路に立って願い事などをしてはいけない。
 悪魔が願いをかなえてくれてしまうかもしれない。

 誰かがそれをやったのか。
 だから今、あんな国会答弁をする人びとや、ドナルド・トランプの出現に見舞われているのか。

※AERA 2017年8月7日号


dot.asahi.、2017.8.2 07:00
ポスト・ホントと偽ポピュリズムが出会う時
(浜矩子)
https://dot.asahi.com/aera/2017073100071.html

 この腰巾着、やっほーくんのこのブログ、2017年10月12日付け日記「モリカケ隠し!」にもご登壇なされていたようで。
http://fom-club.seesaa.net/article/454119739.html

 そして、今朝も登場!「総理は自分の口からは言えないから、私が代わりに言」ってるのかな、ひどい、ひどすぎる!!

 きのう2020年1月5日の毎日新聞のスクーㇷ゚記事で私たちは知った。
 在日米軍空母艦載機の訓練施設にするため鹿児島県の無人島である馬毛島を買収するように日本は米国に命じられていたことを。
 そしてモタモタする日本を見て米国が怒り狂って怒鳴りつけていたことを。
 それに震え上がった安倍首相は、あわてて約160億円もの税金を使って地権者の言い値で買ってしまったのだ。

 そうしたら、今度はフィリピンに対する経済援助でも米国に怒鳴られていたことが分った。
 これも毎日新聞のスクープ記事である。
 すなわちきょう1月6日の毎日新聞がやはりこれも一面で報じた。
 安倍首相は4月の習近平主席の国賓来日にあわせ、フィリピンに対する日中協力プロジェクトを発表するつもりで準備を進めて来たという。
 その構想の概要は、一言で言えば、日本の援助で日本型スマートシティをフィリピンにつくり、そこに中国のインフラ企業が参加するというものだ。

 これもやはり、安倍・菅政権の首相補佐官である和泉洋人が動いている。

 ところが、中国と対立する米国が、日本は一体何を考えているんだといわんばかりに怒鳴り込んできたというのだ。
 このプロジェクトの担当省である経済産業省幹部はそのけんまくに驚いたと言う。

 安倍首相の日本はトランプの米国に怒鳴られっぱなしだ。
 安倍首相はどうするんだろう。
 安倍首相は国内の批判に耳を貸さずに習近平主席の国賓来日を最優先にしている。
 私は、それは日中関係の強化の為に正しい選択だと思っている。

 しかし、もし米国に怒鳴られて中国へのお土産を断念するなら、あまりにも情けない。
 今度は習近平主席が怒って訪日を止めると言い出しかねない。
 せめてひとつぐらい自主外交を示して見せろと、安倍首相に檄をとばしておきたくなる毎日新聞のスクープ記事である。


天木直人のブログ、2020-01-06
米国に怒鳴られっぱなしの情けない日本
http://kenpo9.com/archives/6440

posted by fom_club at 10:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

沖縄・東村高江の12年

 アキノ隊員こと宮城秋乃さん、ヤッホーくんがポレポレ東中野でお話を聴いたのは何年前のことでしょう……
 やっほーくんのこのブログ、2013年10月09日付け日記「高江の虫」を読みますと、2013年10月7日の月曜日夜のようです。

http://fom-club.seesaa.net/article/390228874.html
 
 今もきちんと筋を通してご活躍なされているようでヤッホーくん、慶賀に存じております。

 青々と茂る森や壮大な太平洋を見下ろせる高台が広がる。
 昼はヤンバルクイナやノグチゲラが鳴き、夜は満天の星空に包まれる。
 そんな自然豊かな沖縄本島北部、東村の端にある人口100人の小さな集落が高江だ。
 全国一の生産量を誇るパイン産業を生活の糧にする人が多い、のどかな集落に米軍普天間飛行場所属の CH53E 大型輸送ヘリコプターが不時着、炎上して2019年10月11日で2年になる。
 自然に囲まれたこの場所に米軍のヘリが不時着し炎上したのはなぜか。
 ヘリ炎上にとどまらず、ヘリ発着場(ヘリパッド)新設など米軍基地問題に翻弄(ほんろう)される高江住民の苦悩の12年間を当時の記事や写真を基にまとめた。

[写真]
やんばるの山々=2013年、東村

 不時着場所は民家からわずか200メートルしか離れていない牧草地だった。

「死んでいたかもしれない」

 牧草地を所有し隣接する民家で暮らす西銘晃さん(66)の妻・美恵子さんは当時、琉球新報の取材にこう答えた。収穫時期を迎えようとした牧草地に誰もいなかったことは奇跡に近かった。

[写真]
牧草地に不時着し炎上する米軍普天間飛行場所属の大型輸送ヘリコプター CH53E。飛んでいる飛行機はバケツから水を流して消火活動中=2017年10月11日、東村高江

米軍基地に囲まれた集落

 
 実は、高江は米軍基地に囲まれている。集落の周りを囲む森そのものが米軍の訓練場となっている。

[写真]
米軍北部訓練場=2016年10月、東村(小型無人機で撮影)

 1957年に米軍に接収されて以来、7543ヘクタールが米軍の北部訓練場となった。沖縄県のホームページによると、ゲリラ訓練などができる訓練場のほか、ヘリ発着場が2019年現在、21ヶ所ある。ベトナム戦争の頃には、米軍が訓練場内に「ベトナム村」を造り、高江の住民をベトナム人役にさせていたこともあった。猛毒のダイオキシンを含む枯れ葉剤が散布されたとの証言もある。

 1996年12月、日米合同特別委員会(SACO)で、北部訓練場の過半に当たる3987ヘクタールの返還が決まった。しかし、返還地域の国頭側にある発着場6ヶ所を高江集落周辺に移設し、新たに建設することが返還の条件となった。普天間飛行場の名護市辺野古移設と同様、県内移設が高江住民に突き付けられた。

国が住民を訴えた
 
 高江住民はヘリパットの移設に伴う新設に強く反対した。幾度の決議で中止を求めてきた。しかし、2007年7月早朝、沖縄防衛局は工事に着手。大型トラックによる資材搬入を止めようと、高江住民たちが座り込みを始めた。

[写真]
住民が座り込みを行う中、警備員がゲートを開ける=2007年7月3日午前8時2分ごろ、東村高江

 2008年には、防衛省と沖縄防衛局が8歳の子どもを含む住人15人(子どもは後に取り下げ)を相手取り通行妨害禁止を求める仮処分命令を那覇地裁に申し立てた。国が個人の表現活動を萎縮させる「スラップ訴訟」と、専門家から批判の声が相次いだ。裁判に発展し、2014年に最高裁が住民の上告を棄却、住民側が完全に敗訴した。

[写真]
工事着工を阻止しようと、ダンプカーを取り囲み緊迫した雰囲気になるヘリパッド工事現場=2011年年2月22日午後2時すぎ、東村高江

 昼夜問わず座り込む住民をよそに、国は工事を強行し続けた。2014年までに南側のヘリパット(N4地区)の2ヶ所が完成。2016年からは北側の4ヶ所(N1地区2ヶ所、G地区、H地区)の建設工事を再び開始した。

ヘリパッド工事再開

[写真]
資機材搬入に抗議する住民らをごぼう抜きする機動隊員=2016年7月11日午後1時22分、東村高江の北部訓練場メーンゲート前

 ヘリパッドの工事再開は、参議院選挙投開票日翌日の2016年7月11日の朝だった。午前6時すぎ、国は100人の機動隊と20人の民間警備員を高江のゲート前に送り込んだ。高江住民をはじめ村外から駆け付けた市民60人と機動隊とのにらみ合いが始まった。それから5ヶ月間、双方が激しく対立する中、市民から逮捕者が出たり、記者が機動隊に囲い込まれて取材妨害を受けたり、機動隊が住民に対して差別発言をしたりするなど、さまざまな問題が噴出した。

[写真]
機動隊にごぼう抜きされる反対市民ら=2016年7月21日午後10時54分、東村高江

※ やっほーくんのこのブログ、2016年10月20日付け日記「どこつかんどんじゃボケ。土人が」も併せてお読みください。

 それでも国は工事を進め、2016年12月までに全てヘリパッドが完成。北部訓練場の4010ヘクタールが返還された。国は、返還による沖縄の負担軽減を強調するとともに、返還跡地もやんばる国立公園に組み込み、世界自然遺産候補地として再推薦する方針だ。

[写真]
ヘリパッド建設工事再開に着手した沖縄防衛局ら=2016年7月22日午後1時半すぎ、東村高江

そしてヘリ炎上…
 

[写真]
高江の牧草地で墜落炎上する米軍の CH53E 大型輸送ヘリコプター=2017年10月11日午後6時すぎ、東村(読者提供)

 6ヶ所のヘリパットが完成し、南側の2ヶ所で米軍による運用が始まっていた2017年10月11日午後5時20分ごろ、事故は起こった。大型輸送ヘリが東村高江の車地区の牧草地に不時着し、炎上したのだ。機体は大破、しかし周辺住民や乗組員ともにけがはなかった。
 当時、事故現場周辺は消防や警察、米軍の車両が行き来し、赤色灯とライトで照らされた。油が燃える匂いが充満し、集落は騒然となった。

 牧草地を所有し近くに住むのは西銘晃さんの一家。事故当時、妻の美恵子さんは自宅の庭で草刈りをしていた。現場から100メートルの豚舎にいた義父の清さんに声を掛けられ、庭にあるタンクに上ると牧草地から黒煙が上がり、炎が上がっているのを目撃したという。

[写真]
牧草地に不時着し炎上する米軍のヘリコプター CH53E=2017年10月11日午後6時15分、東村高江

 西銘さん一家は、牛やヤギの餌になる乾燥させた牧草を売って生計を立てている。事故当時、牧草は収穫時期のピークを迎えていた。事故を受け、沖縄防衛局は牧草の品質が事故前と同等に回復するまで損害を補償することを決めた。国が約束していた損害補償は依然支払われず、西銘さんは「突然音沙汰もなくなり、まるで忘れられたようだ」と懸念する。西銘さんは「何事もなかったかのように畑や民家の上を(米軍機が)飛んでいく。2年たっても何も変化はない」と語った。

[写真]
事故現場の牧草地で、見通しの立たない補償への不安を吐露する西銘晃さん=2019年10月8日、東村高江

 米軍は事故現場となった牧草地の土壌を持ち去った。2004年の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故と同様の行動に出た。その一部は日本政府に知らせずに既に県外で処分していた。沖縄県民からは事故の実態を検証する重要な材料が失われたことへの反発が高まった。

高江での生活は続く

[写真]
高江集落=2019年10月8日、東村高江

 ヘリ炎上事故当時やヘリパッド建設で大規模な抗議行動があった2年前と比べ、高江に報道関係者や村外から駆けつける人の数も少なくなった。一見、集落住民に平穏な生活が戻ったかのように見えるが、南側のN4地区の発着場が米軍に提供された2015年2月以降、騒音が激化している。防衛局による調査では2014年度(午前7時〜午後7時)に牛道で記録した年間の60デシベル以上の騒音は1280回、提供後の2015年度には3686回と約3倍。2018年度は最多の5327回を記録した。深夜に及ぶ米軍機の飛行もあり、今も住民の静かな夜を脅かし続けている。

[写真]
県道70号沿いの上空で同時に訓練をするオスプレイと米軍ヘリ=2017年1月18日午後0時9分、東村高江の米軍北部訓練場N4地区付近(宮城秋乃さん提供)

 ことし2019年9月には約11キロ離れた隣村の国頭村安田の返還地に米軍がヘリを誤って着陸させた。国は北部訓練場過半の返還で負担軽減を強調するが、住民は常に危険と隣り合わせの暮らしを強いられているのが現状だ。
 9月、高江の人たちは久しぶりの豊年祭の準備に精を出していた。ヘリパッド建設による混乱で開催できなかった前回の豊年祭の分も取り戻すように、住民が毎日集まり、練習に励んでいた。集落の人口は、高齢化が進み、この6年で少なくとも50人減少した。かぎやで風の練習を見ていた仲嶺久美子区長(69)は「かぎやで風は中学生が踊る演目だけど、高江は中学生が1人しかいない。だから1人は小学生なんです」とつぶやいた。

[写真]
6年ぶりの豊年祭に向けて踊りの練習をする区民ら=2019年9月9日、東村の高江公民館

※ 琉球舞踊 ( かぎやで風節 ) in 沖縄めんそーれフェスタ 2011
https://www.youtube.com/watch?v=xmVTUt02K1E

 人口は少ないながらも、昔から住んでいる住民も県外から移住してきた人も一緒になって豊年祭を作り上げ、盛り上げていた。

[写真]
高江の豊年祭=2019年9月13日、東村高江公民館

 一番のみどころとなったのは成人会によるオリジナル劇「パイン太郎」。高江の自然を壊して開発をしようとする業者をパイン太郎とヤンバルクイナ、イノシシなどが止めるという物語。最後は自然を生かした村おこしを提案し、みんなが仲良くなってハッピーエンドで終わる。高江生まれ高江育ちの西銘芳さん(90)は「最高」の一言。高江に住む石原岳さん(49)は高江住民の苦悩を脳裏に思い起こしながらこう強調する。

「(高江では)いろいろとあった。それでもまたみんなでつながりを確かめ合ってやっていく」。

[写真]
パイン太郎の演劇を披露する高江の成人会。拍手が広がる=2019年9月13日、東村高江公民館

琉球新報、2019年10月11日 07:00
人口100人の集落で起きたこと
米軍ヘリ炎上、発着場の建設、住民が国に訴えられる…沖縄・東村高江の12年

(田吹遥子)
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1005008.html

 沖縄やんばるの森で調査活動を続けるチョウ研究者のアキノ隊員をゲストに迎え、米軍基地によるやんばるの環境被害の最新レポートに加えて、海兵隊移転の予定地とされ被害が広がるグアムの状況について聞く。

第1部:2019.12.22(日)グアムトーク(13:30〜15:30) 
 沖縄からの海兵隊移転計画に伴い、米軍基地の拡張工事が進められているグアム。日本も費用を支払っている工事でどんな問題が起きているのか、ONE LOVE 高江の中村みずきがお話します。アキノ隊員にはグアムの昆虫や生態系に対する米軍基地の影響について聞く。

第2部:2019.12.22(日)やんばるトーク(16:00〜18:00) 
「北部訓練場周辺の米軍基地にかかわる環境問題」
 アキノ隊員が、北部訓練場周辺の返還地における米軍廃棄物と土壌汚染の状況、米軍機の飛行状況、米軍ヘリパッド建設と米軍機の飛行が生物に与えた悪影響の具体例を紹介する。

● アキノ隊員プロフィール

本名:宮城秋乃。沖縄県浜比嘉島出身。 沖縄県内の森林性のチョウの生態を研究。2011年の秋より、東村高江・国頭村安波の米軍ヘリパッド建設地周辺の生物分布と、ヘリパッド建設や米軍機の飛行が野生生物に与える影響を調査。2017年、新崎盛暉平和活動奨励基金で活動が評価され助成交付者に選ばれる。日本鱗翅学会、日本蝶類学会会員。ブログ「アキノ隊員の鱗翅体験」


OTS沖縄ツーリスト
アキノ隊員のグアム&やんばるトーク
同時開催:アキノ隊員「やんばるの生きものたち」写真展

https://piratsuka.com/top/detail?id=591158#visited

 沖縄県の国頭村と東村にまたがる米軍北部訓練場の部分返還から2019年12月22日で3年を迎えた。
 
 返還後、政府は汚染物質の撤去など「支障除去」を終えたとして、返還1年後の2017年12月に地権者に土地を引き渡した。だが支障除去の対象とされたヘリコプター着陸帯「FBJ」付近では、今もライナープレート(防護壁)や鉄板が大量に残っているほか、他の返還地でも廃棄された弾薬などが多数見つかっている。
 沖縄防衛局はライナープレートや鉄板を「2020年3月までに撤去する」としているが地中に埋まったり腐食が進んだりしており、撤去は困難視されている。

 米軍基地返還後の支障除去には通常2〜3年の期間が設けられるが、政府は北部訓練場の場合は1年と大幅に期間を短縮した。背景に早期の引き渡しで地元に「負担軽減」をアピールする狙いがあるとされた。

 返還対象となった国有林について、沖縄防衛局は引き渡し時の2017年12月22日に沖縄森林管理署と「協定」を締結していたことが判明している。協定はライナープレートや鉄板について「適切な時期に撤去する」と定めている。

 この協定書を情報公開請求で入手した環境保護団体「インフォームド・パブリック・プロジェクト」の河村雅美代表は、「跡地利用法では引き渡しは返還地の支障除去が完全に終わってからになるはずだが、協定からは支障除去が不完全だった実態が分かる。引き渡しに合わせて協定書を結ぶことで、支障除去の責任が曖昧になった。跡地利用法の不備も示している」と指摘。「返還地を世界自然遺産の登録地にする政治スケジュールを優先した結果だ」と批判する。

 河村氏が入手した鉄板搬出を検討する沖縄防衛局の報告書(2019年3月)は、周辺の植生などを勘案すれば搬出は「重機等を使用した工法を避け人力による施工とする」としている。

 だが現場を訪ねたチョウ類研究家の宮城秋乃さんは「相当な重量の鉄板が多く、人手による搬出は不可能だ。だが重機を使えば生態系を破壊する」と指摘する。防衛局の報告書も、専門家への聞き取りで鉄板の残存は「やむを得ない」との意見があったと記している。防衛局は本紙の取材に「土砂崩れなどが誘発されることになれば土地所有者と調整して対応する」としており、撤去の“断念”も示唆する。

 政府が1年で終えた支障除去は、対象を
(1)着陸帯があった
(2)墜落事故が起きた
(3)米軍車両が通行した
――場所に範囲を限定した。
 一方、過去には北部訓練場で猛毒の枯れ葉剤を散布したという退役米軍人の証言もあり、今も弾薬などの廃棄物が相次いで見つかっている。防衛局による調査地点以外の場所でポリ塩化ビフェニール(PCB)などによる土壌汚染が引き渡し後に見つかったこともある。

 宮城秋乃さんは「100%の範囲は無理だが、訓練で使われたであろう獣道などを探し、できるだけ広い範囲を時間をかけて調査、除去すべきだった」と支障除去の不備を指摘している。


[写真]
米軍北部訓練場の返還地のヘリ着陸帯跡地で残存しているライナープレートの一部=2019年9月、国頭村(宮城秋乃さん提供)

琉球新報、2019年12月22日 06:00
米軍北部訓練場部分返還3年
鉄板、今も残る
腐食進み撤去困難か

(島袋良太)
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1046344.html

 えっ、国頭村?
 ヤッホーくんたち、山歩クラブの2019年春季沖縄合宿で、国頭村をかすめて通ったことを思い出しておりました、官庁御用始めの2020年1月6日のこと。
 やっほーくんのこのブログ、2019年05月23日付け日記「沖縄そば お休み処 森の家」をお読みください:
http://fom-club.seesaa.net/article/465877874.html

posted by fom_club at 09:14| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

平和のために〜海とぅ詩とぅ音楽とぅ

Ryuichi Sakamoto Trio_Merry Christmas Mr.Lawrence
https://www.youtube.com/watch?v=DHy1iKBtTq4
https://www.youtube.com/watch?v=ewJYtcgvYU4

坂本龍一、チャリティコンサート
https://www.youtube.com/watch?v=xdHYgyPpGP4

Ryuichi Sakamoto-Energy Flow
https://www.youtube.com/watch?v=btyhpyJTyXg

『安里屋ユンタ』夏川りみ(琉球伝統歌舞集団チーム琉神)
https://www.youtube.com/watch?v=wXYMGispJ7s

『てぃんさぐぬ花』夏川りみ(沖縄民謡)
https://www.youtube.com/watch?v=QUeiw3T0Z9Y

 吉永小百合・坂本龍一チャリティーコンサート in 沖縄「平和のために〜海とぅ詩とぅ音楽とぅ」(同実行委員会主催)が2020年1月5日、宜野湾市の沖縄コンベンションセンター劇場棟で開かれた。
 俳優の吉永さんと音楽家の坂本さんが共演し、戦後75年の節目に詩の朗読とピアノ演奏で平和の尊さを伝えた。
 観客は、清らかな吉永さんの声と坂本さんのピアノの音色に聴き入り、共に平和を願った。

 吉永さんは、2冊の詩集から沖縄の死生観や自然、沖縄戦などをつづった7編と、沖縄戦全戦没者追悼式で子どもたちが作り、読み上げられた「平和の詩」から「へいわってすてきだね」など4編を、坂本さんのピアノ演奏にのせて朗読した。

 坂本さんは「沖縄で演奏するのは初めて。長年の夢がかなった」と感慨深げにあいさつし、映画「戦場のメリークリスマス」より「Merry Christmas Mr.Lawrence」や映画「米軍が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」より「Gui」、「energyflow」など7曲を演奏した。
 また、坂本さんの演奏にのせてゲスト出演の古謝美佐子さんが歌った「安里屋ユンタ」は観客も歌い、会場一体となって盛り上がった。

 アンコールでは吉永さんと坂本さん、古謝さん、県内の子どもたち約40人が「てぃんさぐぬ花」を歌い幕を下ろした。

 公演は白梅同窓会、ひめゆり平和祈念資料館、対馬丸記念館、県文化協会、琉球新報社、沖縄タイムス社が実行委を務めた。
 収益金はひめゆり平和祈念資料館、白梅同窓会、対馬丸記念館、辺野古基金の4ヶ所に寄付し、平和推進活動に役立てる。


[写真]
朗読する吉永小百合さんとピアノ演奏をする坂本龍一さん=5日、宜野湾市の沖縄コンベンションセンター劇場棟

琉球新報、2020年1月5日 18:39
吉永小百合さん、坂本龍一さん「長年の夢がかなった」沖縄コンサート
詩の朗読とピアノ演奏で平和訴え

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1052539.html

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故で相馬市に避難している浪江町の詩人・作詞家根本昌幸さん(73)の詩「沖縄の空」が、2020年1月5日に沖縄県で開かれるチャリティーイベントで朗読される。
 女優の吉永小百合さんと音楽家の坂本龍一さんによる「チャリティーコンサート in 沖縄 平和のために〜海とぅ詩とぅ音楽とぅ」で、吉永さんが朗読する6編の詩の一つ。
 戦後75年を迎える年の初めに平和の尊さを発信する。

「沖縄の空」は、コールサック社(東京都)が昨年2018年6月に発刊した『沖縄詩歌集〜琉球・奄美の国〜』に根本さんが寄せた作品。
 米軍基地問題で揺れる沖縄と、原発事故の風評に苦しむ福島、原爆被爆地の広島と長崎を思い「この4つの県は カタカナ文字が似合うようになってしまった」と、古里を離れて暮らす原発被災者の悲しみをにじませる。

 10月中旬ごろ同社から根本さんに、イベントの主催者側から朗読許諾の依頼があったと連絡が入った。
 朗読する6つの詩は、詩歌集の中から吉永さん自身が選んだという。

 一時期体調を崩していた根本さんだが、自作の詩が朗読されることになり「励みになる。まだまだ創作に励みたい」と目を輝かせる。
 一方で「沖縄と福島が抱える苦しみは違っても平和を願う心は同じ。それぞれの県民の思いが沖縄の地から伝われば」と願っている。

《沖縄の空》

沖縄の青い空の下では
さわわ さわわと
風に吹かれて
さとうきびの葉擦れの音がする。

どこかでは三線の音もする。

島唄があって
独特のメロディーがある。

この青くて美しい空を
アメリカの軍用機が
爆音をたてて
飛んでいる。

この音がいつになったら消えるのか。

なかなか消えることはないであろう。

沖縄、オキナワ、ここではたくさんの人が死んだ。

広島、ヒロシマ、ここでもたくさんの人が死んだ。

長崎、ナガサキ、ここも同じだ。

そして
福島、フクシマ、ここでもたくさんの人が死んだ。

戦争とは別に。

いつの間にか
この四つの県は
カタカナ文字が似合うようになってしまった。

はるかに遠い
みちのくフクシマから
沖縄の青い青い海と
空を思っている。

それから平和を。


[写真]
「沖縄の空」が掲載された詩歌集を開き、作品への思いを語る根本さん

福島民報、2019/12/24 08:44
浪江の詩人・作詞家根本昌幸さんの詩
吉永小百合さん朗読
来月5日、沖縄の平和イベント

https://www.minpo.jp/news/moredetail/2019122471064

 今年2018年の6月『沖縄詩歌集〜琉球・奄美の風〜』が出版されました。
 沖縄を含めた全国の詩人、歌人、俳人200人余りの作品を集めたアンソロジーです。
 佐相憲一さんはこの『沖縄詩歌集』の4人の編者の一人として、現役の詩人たちの参加を呼び掛け自らも寄稿しています。
 佐相憲一さんは横浜生まれの50歳。
 17歳のころから詩を書き始め大学を卒業してからは、横浜、東京、京都、大阪で、料理店のウエーター、学習塾の講師、高層ビルの窓ガラスの清掃などさまざまな職業につき、その経験が自分の詩の創作に生きているとおっしゃいます。
 これまでに『共感』、『永遠の渡来人』など4冊の詩集をだしました。
 7月には初めての小説、『痛みの音階、癒しの色あい』を出しています。

紹介のあと、お話が続きます。
 
『沖縄詩歌集〜琉球・奄美の風〜』(320ページ)詩人歌人は200人を越えました。没故詩人も含まれていますが。
 琉球古図も入っている。
 沖縄はいろいろ注目されているが、沖縄が占めているものは何なのか、それを現地の沖縄の方々の気持ちに寄りそってみんなが理解しているかというと、なかなかそうは言い難い状況にあると思う。

 戦争、平和、琉球文化、歴史的重み、基地問題などで注目されている現在、詩歌の道を通じて、沖縄、奄美等の周辺をもっと知ってもらおうということで刊行されました。
 詩歌集を製作する過程で、沖縄の詩人さんとの交流が強まったんじゃないかと思います。
 沖縄の二つの新聞がこの詩歌集を取り上げて下さいまして大きな反響がありました。
 初版発行日が2018年6月23日、沖縄慰霊の日でもあります。
 公募趣意書で呼びかけました。
 私は現代詩の分野で今活躍している、現役の詩人さんたちに呼びかけて参加してもらいました。

 1968(昭和43)年に横浜で生まれて今年50歳なりました。
 家庭環境が複雑だったこともあり、一人で野原、森、海などで親しんでいました。
 小さい頃珍しい病気にかかり、30分後遅れていたら死んでいたと医師から言われました。
 心臓が止まる恐怖というのが感覚としてあって、これが私のその後の人間観、平和への考えに繋がりました。

 世界中のどの国の子供も大人も命を尊重されなければならない、これが私が体で感じた原点となりました。
 引っ込み思案でいじめっ子にいじめられました。
 小学校3,4,5年の時に担任になったおおわともあき?先生との出会いで大きな転換点がありました。
 国語の時間に朗読したら凄く褒めてくれて、作文もとてもいいと言って下さって、私の得意なところをほめてくれて、もっと積極的になるように励ましてくれました。
 学級新聞を手掛けるようになり、小説もどきを書いたらみんなに受けて連載になり、これが文芸作品的なものを初めて書いた機会でした。

 中学校時代でも学校でも家でも辛いことがありましたが、高校では孤独感が深刻になりました。
 17歳のころに死んでしまいたいような気分になっていました。
 その時に救ってくれたのがまた文学でした。

 ヘルマン・ヘッセの詩と小説に出会ってから、世界文学、日本文学に目覚めて夢中になって、死にたいと言うことも遠のいたような感じになりました。
 詩を書いてみたいと思って書き始めたのが17歳でした。
 文学の不思議な魅力に取りつかれました。

 早稲田大学の政治経済学部に進みました。
 国際関係などを学びましたが、お金を稼ぐために働いてさまざまな現場を体験して、人と交流する機会があって、生の現実に触れて影響を受けたことが大学時代一番大きかったと思います。

 社会人になったときもいろいろな仕事をしました。
 料理店のウエーターとか、工事現場のガードマン、建築現場の荷上げ仕事、学習塾の講師、家庭教師、高層ビルの窓ガラスふきなど、いろいろしました。
 住み家も東京、京都、大阪などいろいろな所に住みました。
 ヨーロッパも放浪しました。
 さまざまな人たちと出会うことが出来て良かったと思います。

「この地球自体が詩を書いている」ーーこれを実感しました。
 この視点を持った時に、初めていろいろ点々とした人生の全てが繋がりました。
 全て無駄なことは無くて、繋がっていて受けとめられていて、一つひとつの心臓が地球の中で、地球の詩の中で息づいているんだと感じて励まされました。

 20代も人には見せずに詩を書いていましたが、20代の後半に転機が訪れました。
 世に出さないとだめだと思って、2冊詩集にまとめて出版しました。
 その後投稿するようになり、詩を書くことに自信を持ちまして、第3集を出しました。
『愛、ゴマフアザラ詩』という題名で、小熊秀雄賞を頂きました。
 今まで9冊出しました。

《波止場》

夜の港に来ています
しぶきが腹の底に響きます
鳩の公園から霧の中の汽笛まで
夢ばかりみてきました
もしかすると〈希望〉って
前を向いている時の後ろ姿なのかもしれません

昼間の喧騒も闇の中でしずめられ高層ビルや百円ショップや携帯メール
もまれて、もがいて、流されて、ぶつかって
そんな中でも今日、どこかで権利を認められたひとがいて今日
どこかで結ばれたひとたちがいて 海はつながっています

心の波打ち際から
今夜各地のひとたちの後ろ姿へ
この詩を贈ります
ラッシュアワーの駅で聞く人身事故を
ダイヤの乱れと苛立つ社会で
夢をばかにしないで生きるひとびとの
人生の波音を
わたしは大切にしたいのです


 読み手側の意義 テーマについての論文を読むのではなくて、詩の形、文学作品の形でいろんな人がいろんな角度で深めているので、それが一堂に会したアンソロジーを読むことで、そのテーマに関心のある方が新鮮にその問題をより掴むということで還元されます。

 書き手側、交流の無い詩人と自分の作品が同じテーマで、違う書き方で並んでいると創作意欲にプラスになる。
 詩、文学がこの世に存在したお陰で命の根底の処から救われた人間が一人(私ですが)いるということを強調したい。

 文学を大切にしないあり方は、心の問題を疎かにするということで、それは不幸なことだと思います。
 詩の心で生きるということは、こういう悲惨な今だからこそ大切なんじゃないかと思います。
 痛み(心の)というものは人から人へ伝わって共感するんです。
 心のキャッチボールが瞬時にできる、それが詩や小説などの文学の魅力だと思います。

 子供のころからマイナスモード全開の人生ということで、生きるとか、死ぬとか根源的なところに敏感でした。
 もうこの世に生きる希望が無いという人が、詩を書いたり読んだりすることで、心の底の方を癒されて新しい自分へと再生して行く、そのお手伝い役のところに、なぜか私がいる、ということが多くなってきています。

 8年前に今の妻に出会って、3年前に結婚しました。
 愛に関する詩も多くなってきました。
 初めて小説文庫を刊行しました。
『痛みの音階、癒しの色あい』(コールサック小説文庫、2018年7月)。
 詩の心で小説を書く、これが私の道だと感じました。
『もり』(澪標、2018年6月)、心の森を総合的にテーマにした詩集です。
。。。


aoiwasi-k135、2018-11-16 09:56:23
テーマ:2018年11月6日火曜日、明日へのことば
佐相憲一(詩人・編集者)・『沖縄詩歌集』 刊行と詩人の歩み
https://ameblo.jp/aoiwasi-k135/entry-12417651557.html

posted by fom_club at 07:18| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月05日

Sanna Marin’s New Year’s message

 ヤッホーくんのこのブログ、2019年12月10日付け日記「社会民主党サンナ・マリン Sanna Marin(34)次期フィンランド首相」を再読してみてください。

Sanna Marin has been a rising star on Finland's political scene for some years now.

At 34 she has become the world's youngest prime minister, and her country's youngest ever, at a difficult time - as Finland is hit by strikes and populist nationalism looms over its politics.

Her new finance minister is even younger. Katri Kulmuni, 32, is one of four other female party leaders in the five-party ruling centre-left coalition. Only one of them is over 35.

Their appointments are an attempt to inject some new blood into a demanding body politic as their parties flounder in the polls, just six months after election victory.

"Politics is getting harder," says Kristiina Tolkki, a political journalist from Finland's national broadcaster YLE. "We need some younger people who can be there 24/7, some fresh faces, always ready to react and not say anything stupid."

The new government is also set to have 12 female and seven male ministers, a high gender ratio even for a country which in 1907 became the first in the world to elect women to parliament.

Sanna Marin comes from a modest background.

Her parents split up when she was very young and in her early years her mother raised her alone. The family faced financial problems.

In a blog, Ms Marin describes how she got a job in a bakery at 15 and distributed magazines for pocket money during high school.

In an interview for the Menaiset website (in Finnish) in 2015 she spoke about the stigma she encountered when her mother was in a same-sex relationship. She said that she felt "invisible" because she was unable to talk openly about her family.

But her mother had always been supportive and made her believe she could do anything she wanted, she said.

She was the first person in her family to finish high school and go to university.

Through the ranks

Ms Marin went into politics at the age of 20 and two years later was already running for a council seat in Tampere, a city north of Helsinki.

She wasn't elected, but within just five years she had not just won a seat but become council leader, aged just 27.

She rose quickly through the ranks of the Social Democrats (SDP), Finland's main centre-left party, becoming an MP in 2015.

She is seen as being a left-winger in the party, and a strong advocate of Finland's welfare state.

Kristiina Tolkki says her rise to the top was almost inevitable.

"I met her at a ladies' sauna night some years ago and asked her if she was going to be leader," she says. "She just looked at me as if to say - are you even asking me this?"

As an MP she quickly caught the attention of party leader Antti Rinne, becoming his deputy and essentially his favourite.

Last winter, Mr Rinne fell ill with pneumonia on holiday and was later diagnosed with coronary thrombosis, meaning he was out of action as his party geared up for an election campaign.

This was a chance for Ms Marin, then still only a first-term MP, to shine. After several months with her at the helm, Mr Rinne returned from sick leave to lead his party to victory.

Tough in-tray

Ms Marin was appointed transport and communications minister in the new government, but it didn't take long for the clouds to gather.

A row over the prime minister's handling of a postal strike led to his resignation within months of taking office.

Ms Marin narrowly won a party vote to replace him on Sunday.

The mother of a 22-month-old daughter, she has dismissed questions about her suitability for the job.

"I have never thought about my age or gender. I think of the reasons I got into politics and those things for which we have won the trust of the electorate," she told reporters after being chosen for prime minister.

But she takes office with more strikes threatened, and production expected to come to a halt at some of Finland's largest companies.

Meanwhile, the populist True Finns party has risen to nearly 25% in the polls, while the SDP and its largest coalition partners, the Centre Party, are slipping.

Ms Marin is Finland's third female prime minister. The first, Anneli Jaatteenmaki, lasted barely more than two months in 2003 and the second, Mari Kiviniemi, was only in power for a year (2010-11).

But by riding a popular wave just six months into the coalition's four-year term, the 34-year-old can surely expect to do better.


BBC News、10 December 2019
Sanna Marin: The rising star who leads Finland's 5.5 million
By Robert Greenall
https://www.bbc.com/news/world-europe-50712230

 そして、どんな新年のメッセージを述べたかと申しますと:

Today we stand on the cusp of a new decade.
The new year will bring many changes in its wake, but it will also bring much that is familiar and safe.

After the Christmas holidays, we will resume our daily routines, as schools open and we return to our work and our hobbies.
Our family and friends will still surround us, and we will take the experiences of the past year with us into 2020.

The start of a new decade provides the perfect opportunity to gaze into the future.
However, at the same time we would do well to pause for a moment to look back, to consider how Finland has grown over the generations into the country we know today.

Finland’s strength lies in its people and their knowledge.

We have survived because of our desire and ability to learn.
We have risen from modest beginnings to become one of the most highly educated and skilled nations in the world.
This was the secret of our success yesterday; this will remain the key to our success tomorrow.
That is why we must have the courage to keep investing in people and knowledge.
We must dare to create something new.
In a rapidly changing world, simply reworking old recipes is not good enough.

The Finnish Government has taken up the challenge of delivering bold, stable and sustainable reform.
The aim of our Government programme, and of our efforts to implement it, is to build up Finland as a financially responsible, socially equitable and environmentally sustainable society.
We believe that society can and must be developed in a balanced way, keeping all citizens and regions on board.

We are aiming to achieve economic sustainability by strengthening employment.

In addition to pursuing an active labour policy, this means investing in education, research and infrastructure, and carrying out climate-sustainable reforms of our economic structure.

A great deal depends on global economic developments.
Finland is a sparsely-populated country on the edge of Europe, with an economy that relies heavily on exports.
The Government is not omnipotent, but it can do its part.
A stable and predictable operating environment is essential for companies.
We need to avoid purely reactive policies, while responding to cyclical changes.
Indeed, this is the approach we adopted in the national budget for next year, which is mildly expansionary in view of slowing growth.

We are aiming for social sustainability by reinforcing basic security and services.

As of the beginning of 2020, the smallest pensions will rise, increases in basic security will enter into force, funding for education and training will increase at all levels, and financing of basic services will be strengthened.
Equal rights for all children to full-time early childhood education and care will be restored, and group sizes in child care will be reduced.

As of January, low-income pensioners will have more euros to live on.

The pensions of more than 600,000 Finns will increase.
70 per cent of Finns will enjoy a higher disposable income.
With the repeal of the activation model, unemployed jobseekers will be able to focus on looking for work without having to worry about losing income.

The strength of a society is measured not by the wealth of its most affluent members, but by how well its most vulnerable citizens are able to cope.
The question we need to ask is whether everyone has the chance to lead a life of dignity.


We are seeking to attain environmental sustainability by doing our part in mitigating climate change and safeguarding biodiversity.

We are committed to making Finland carbon-neutral by 2035.
We are entering a decade during which we must find solutions for combating climate change.
This calls for decisions that reduce emissions and strengthen carbon sinks.
We will rely on scientific data, while taking account of the social and regional impacts of the solutions proposed.

We will take climate action in Finland; but it is at least as important for us to contribute to halting global warming on an international scale.
Climate change knows no state boundaries.
Every country must do its part.
Finland and Europe can be at the forefront of development while also improving the competitiveness of our own industries and businesses.
There is enormous demand and a huge market for new climate technology.

Will our country have the bold pioneering spirit needed to prosper?

This has been a busy and eventful year.
Notably, in 2019 we conducted national and European parliamentary elections and held the Presidency of the Council of the European Union.
In the course of the year, Finland had three regular governments and two caretaker governments.

This year’s Christmas holiday fare in many Finnish homes, including mine, has included a television series on the life and times of President Mauno Koivisto.
It is an excellent reminder of the colourful political history of our country.
The historical context provided by the series also serves to put the current political turbulence into perspective.

These words of President Koivisto’s are very apt for the eve of a new decade:

“If we can’t know for sure how things will go, let’s assume that all will go well.”

I wish all Finns a Happy New Year and New Decade!


Sanna Marin
Prime Minister

Government Communications Department、31.12.2019 4.00
Prime Minister Sanna Marin’s New Year’s message, 31.12.2019
https://vnk.fi/en/article/-/asset_publisher/paaministeri-sanna-marinin-uudenvuoden-tervehdys-31-12-2019

posted by fom_club at 18:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本のバカ殿、まじヤバイ。

 安倍晋三首相は22020年1月4日、米軍がイラン革命防衛隊の司令官を殺害し、緊迫する中東情勢について記者団から問われ、「今月、諸般の情勢が許せば中東を訪問する準備を進めたいと思っている」とだけ述べた。
 政府は昨年末に自衛隊の中東派遣を閣議決定し、首相は今月中旬にサウジアラビアなどへの訪問を調整中だが、具体的言及を避けた形だ。

 千葉県袖ケ浦市のゴルフ場で、妻・昭恵氏の弟・松崎勲氏らとのプレーの合間に答えた。
 昨年2019年6月に米国との橋渡し役を自負してイランを訪問した首相は12月28日から休暇に入り、イラン革命防衛隊のソレイマニ司令官が殺害された3日には昭恵氏とともに東京都内で映画を鑑賞。
 ゴルフをしたのは4日で4回目。
 記者団には「おかげさまでゆっくりできました」と語った。

 年末には日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告(65)がレバノンに逃亡。
 カジノを含む統合型リゾート(IR)事業をめぐる汚職事件で、新たに中国企業側が自民党などの国会議員計5人に現金を渡したとする供述も明るみに出た。
 しかし、昨年2019年12月28日以降、菅義偉官房長官による記者会見はなく、日本政府はこれらの問題に対する公式見解をまだ出していない。

 首相は6日に三重県伊勢市の伊勢神宮に参拝し、年頭の記者会見に臨む予定。


[写真-1、2]
ゴルフを楽しむ安倍晋三首相=2020年1月4日午前10時15分、千葉県袖ケ浦市

朝日新聞、2020年1月4日20時45分
首相、中東情勢言及せず
イラン訪問時「橋渡し役」自負

(野平悠一)
https://www.asahi.com/articles/ASN144TH5N14UTFK00C.html

安倍総理は4日、冬休み中4回目となるゴルフを楽しみました。週明けから公務に復帰します。
「おかげさまで、ゆっくりできましたので」
(安倍首相)

https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3870677.html

・・・これ千葉のゴルフ場なんですね。未だにブルーシートの家がたくさんある地域に行って、こういうことよくできるよね?自分の至らなさを恥じいる気持ちも全くないんだ。心底呆れる
・・・恥ずかしい
・・・ゴルフしてない時も、頭の中はパーでんでん
・・・プロンプターもカンニングペーバーもないゴルフ場で、記者は米-イランの緊張について質問すべき。能力がない首相は辞任すべき
・・・まぁとにかく、ゴルフをする神経が分からないけど、「○○首脳から電話会談の申し入れが」みたいな話が一つもなくて、官邸にいる必要がないって、自ら暴露してるよね
・・・「トランプからの指示までゴルフ」という感じ
・・・日本のバカ殿、まじヤバイ。

 米国がイランを先制攻撃したと言うのに、そしてイランが報復攻撃を宣言したというのに、米国とイランの仲介役を吹聴している安倍首相の声が聞こえてこないのは、どう考えてもおかしい。
 そう思っていたら、きょうの報道で知った。
 きのう2020年1月4日、安倍首相はゴルフ場で中東情勢の受け止めを記者団に聞かれ、こう答えたという。
 今月、諸般の情勢が許せば、中東を訪問する準備を進めたいと。

 これには笑ってしまった。
 そういえば、安倍首相は国会が始まる前にサウジアラビアなど中東を外遊することになっていた。
 この期に及んでまだ意味のない中東外遊に未練を持っているのだ。

 聞くほうも聞くほうなら、答えるほうも答えるほうだ。
 なぜ安倍首相は、記者団に対し、そんな重要な質問はゴルフ場でお答えすべきではない、と切り返さなかったのか。
 そして、そのプレー後に官邸に戻って緊急閣議と国家安全保障会議を開き、堂々と記者会見を行わなかったのか。
 その記者会見で、自衛艦船の中東派遣延期と、サウジ外遊に変えて急きょ米国とイランを訪問する事を発表しなかったのか。

 正月休暇中ぐらいはいくらゴルフをやっても構わない。
 問題はその後の対応だ。
 どうせ何も出来ないのはわかっている。
 しかし、やった振りをするのが安倍首相のお得意芸だったはずだ。
 なぜ米・イラン仲介外交のパフォーマンスをしなかったのか。

 ついでにいえば、その記者会見で、ゴーンの逃亡を日本は決して許さないと、ゴーンの日本批判の記者会見の前に先制パンチをかませばパフォーマンスはパーフェクトだ。
 なぜ安倍首相はそれをやらないのか。
 そうすれば、中東の事など何もわからない世論は、安倍首相もよくやっているとなる。
 もはや安倍首相も官邸官僚も、そんな智恵さえ思いつかないほどやる気がなくなってしまったのか。
 正月休み明けの安倍首相の言動に私は注目している。


天木直人のブログ、2020-01-05
臨時閣議も国家安全保障会議も開こうとしない安倍首相
http://kenpo9.com/archives/6439

安倍内閣のモラルハザードが問われていますが、私は総理自身の問題を質問します

 2019年11月8日の参院予算委員会で、そう口火を切ったのが「桜を見る会」疑惑の始まりだった。
 火付け役の田村智子氏がきっかけを語る。

なぜ『桜を見る会』の支出や参加者が増え続けているのか調べてみたら、いつの間にか『安倍晋三後援会祭り』になっていました。まさに政治と税金の私物化そのものだということで、国会で取り上げたのです

 安倍政権では森友・加計学園問題、自衛隊日報隠し、毎月勤労統計不正など多くの問題が噴出したが、「桜を見る会」への市民の反応は、これまでとは明らかに違うと感じている。

招待された人たちは、自ら積極的にネットを通じて情報を発信していました。それを官邸が抑えることはできません。森友・加計問題などでは、私たち議員が、行政側にどうやって資料を出させるかに苦闘してきました。だけど、今度はみんなが捜索活動と追及活動ができます(笑)。ですから『こんなの見つけました』『こう攻めたらどうですか?』という提案型のメールが増えています

「桜を見る会」の招待者には総理「枠」ばかりか、閣議決定で私人とされた昭恵夫人の「枠」まであったことが明らかになった。
 会を私物化したばかりではなく、ホテルニューオータニで安倍晋三後援会が主催した「桜を見る会」前夜祭では、赤字分を補てんした可能性があり、公職選挙法違反の疑いも指摘されている。
 さらには半グレ組織など反社会的勢力が参加。
 マルチ商法で多数の被害者を出した「ジャパンライフ」の元会長に招待状が送られ、顧客の勧誘に利用されていた実態まで発覚した。

ジャパンライフのセミナー会場で、スタッフが招待状をスライドで映し『安倍総理から招待を受けました』と宣伝材料に使うのです。すると、他のスタッフたちが『すごい!』と言いながら拍手して会場を盛り上げる。セミナーに参加した高齢の被害者の方に話を聞くと『田舎の年寄りはそんなことをされたらコロッとだまされる。次から次へと政治家との関係を見せられて、すっかり信じ込んでしまった』と語っていました。蓄えのほとんどをはたいて、磁気ネックレスや医療代替機器などを買わされてしまったのです

 元会長が「桜を見る会」に招待されたのは2015年のことで、その後の被害拡大につながったとされる。
 元会長の招待状にあった受付票番号は「60」だが、60〜63は「総理、長官等推薦者」の区分とされている。
 安倍首相が「悪徳商法」のドンを公費で招いたのが事実ならば、深刻さはいっそう増してくる。

安倍総理は国会で追及されても何の反省の弁も述べようとしない。被害者の方々はそのことにものすごい怒りを感じています。安倍総理は来年の『桜を見る会』を中止して『私の責任で検証します』と言いましたが、それは違う。私たちの検証を妨げているのが安倍総理じゃないですか

 野党の追及本部での官僚答弁にも驚かされてばかりだ。
 文書の提出や聞き取り調査を求めても「持ち帰らせて下さい」を連発。
 結局、名簿、文書の類は一切提出されない。

データは復元不可能だとか、バックアップは公文書ではないとか説明が破綻(はたん)しています。総理に都合の悪いことは公文書であっても廃棄される。総理に都合の悪いデータは公文書と認めない。総理に都合の悪いことは聞き取りもしない。もはや説明不能状態です。行政が壊れていく様を私たちは目の当たりにしています

 危機感を募らせる田村氏の20年の抱負は何か。

何より公正な政治を取り戻すこと。ドロドロした闇を晴らして、満開の桜が見たいなぁと思います

 1月20日召集が見込まれる国会でも、攻勢を強めていく構えだ。

※ 「週刊朝日」2020年1月3‐10日新春合併号に加筆


dot.asahi.、2020.1.4 17:00
[100人の顔]
田村智子(54)共産党参院議員
「闇を晴らして満開の桜を見たいなあ」

(本誌・亀井洋志)
https://dot.asahi.com/wa/2019122600115.html

posted by fom_club at 13:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

初春の宴

琴.JPG

 正月二日目、牡丹会の皆さまによる宮城道雄の音の世界にたっぷりとひたることができました。

牡丹会ホームページ
https://botankai.com/

 そのあとは、小腹もすいたことだし、お隣の部屋に用意された宴の会場へ、と案内されます。

餅.JPG

宴.JPG

 でも、鏡餅ってなに?

鏡餅を飾るのはなぜ?

 元旦には年神様(としがみさま)という神様が、一年の幸福をもたらすために家庭にやってくるとされています。
 その年神様の依り代(よりしろ)(※1)となるのが鏡餅。
 一連のお正月行事とは、その年神様を迎え入れてお祝いし、たくさんの幸せを授けてもらうためのものなのです。
(※1)神霊が依りつく対象物のこと

◆ なぜ「鏡餅」というの?

 古来より、「鏡」には魂が宿るものだと信じられてきました。
 鏡餅の餅が丸いのは、鏡のかたちに由来する、あるいは人間の心臓の形を表している、と言われています。
 また、大小2つの餅を重ねているのは<円満に年を重ねる><縁起がいい>という意味が込められています。

 そして、日本人にとって「稲」は特別なものでした。
 稲は一年という長い月日と労力をかけて育てられます。
 だからこそ、毎年一回ずつ収穫される新しいお米を食べることで、生命力を得られるとされてきました。
 そんなお米をついて固めた「餅」は、生命力を倍増させるものとして特に重要視されてきたのです。

 このように、新しい年に良い縁を運んでくる年神様に入っていただくための相応しい器(依り代)として「鏡餅」が親しまれてきました。

◆ いつから始まった?

 鏡餅には「歯固め」という意味があり、鏡開きは「歯固めの儀(式)」に由来しています。
 歯固めの儀とは、長寿を祈願して正月に鏡餅などの固いもの(容易に噛み切れないもの)を食べる習わしのこと。
 年齢の「齢」にも「歯」という字が使われており、年を重ねるには丈夫な歯が大切だと古くから考えられてきました。
 正月行事は古い一年に区切りをつけて、一度リセットして、新たな年を始める節目になるのです。

◆ 鏡餅の飾り方は?

 基本的な飾り方を紹介します。
 まず四方紅を敷きましょう。
 その上に、紙垂、裏白、譲り葉と重ねていきます。
 鏡餅をのせたら、昆布や橙で飾ります。
 飾りには縁起の良いものが選ばれるので、串柿、勝栗など家や地方によって特色がみられます。
 それぞれの飾り物には正月飾りにふさわしく、次のような意味が込められています。

〇 四方紅(しほうべに)、四方からの災いを退ける、繁栄
  裏白(うらじろ)、長寿、末永い繁栄
  譲り葉(ゆずりは)、家督相続、家系の存続
  御幣(ごべい)、魔よけ、繁栄
  橙(だいだい)、代々の子孫繁栄
  昆布(よろ「こぶ」)、子孫繁栄(子生・こぶ)
  串柿、日本の三種の神器をあらわす(「鏡:鏡餅、玉:橙、剣:串柿」)

「家族の繁栄」「災いをはらう」「長生きをする」という願いが、今も昔も変わらない共通の想いなのです。


クックビズ、2019年12月26日
「鏡餅」の由来は?飾るだけではない本当の意味って?
https://cookbiz.jp/soken/culture/kagamimochi/

 じゃあ、ね、おとそって何?

お屠蘇とは

「お屠蘇」とは、酒やみりんで生薬を浸け込んだ一種の薬草酒。
 お屠蘇に入れる「屠蘇散」は正式には屠蘇延命散と言います。

「屠蘇」と難しい漢字を書きますが、これにも意味があります。
 ひとつに「屠」は「屠(ほふ)る」、「蘇」は「病をもたらす鬼」という意味で、すなわち鬼退治。
 あるいは「屠」は「邪気を払う」、「蘇」は「魂を目覚め蘇らせる」という意味にとるなど、微妙に違う解釈がいくつかあるようです。

 いずれにしても邪気を払い無病長寿を祈り、心身ともに改まろう、という願いを込めていただく、お正月ならではのセレモニー酒です。

 お正月にお屠蘇を飲む習慣は中国で始まったと言われています。
 これも諸説ありますが、三国時代の魏の名医・華蛇(かだ)が考案したとも、唐代に仙人が考案したのだ、とも言われています(仙人の住んでいた洞窟が「屠蘇庵」というので「屠蘇」という)。

 いずれにしても日本には平安時代に伝わり、嵯峨天皇の頃に宮中の正月行事として始められ、江戸時代には一般に広まりました。

本みりんを使ってつくる美味しいお屠蘇
(略)

 我が家のお屠蘇もいいけれど、酒蔵が造ったこだわりの屠蘇酒はいかが。
 上質なリキュールとして素直に美味しい屠蘇酒は、年賀のご挨拶や新年会などホームパーティの手土産にしても喜ばれます。

〇 春鹿(はるしか)延壽(えんじゅ) 屠蘇酒(とそざけ)(奈良県奈良市、今西清兵衛商店)

 奈良の老舗漢方薬局と老舗酒蔵がコラボ、ちょっと贅沢な屠蘇酒

 奈良の老舗蔵元「春鹿」と、平安時代の創業以来、薬を処方するかたわら春日大社の警護や奈良市中の治安を守る家柄であった菊岡漢方薬。
 この奈良町の老舗が協力して造った贅沢なお屠蘇です。
「春鹿」の清酒と本みりんをブレンドしたものに、「菊岡漢方薬」処方の屠蘇散を絶妙の加減で浸け込みました。
 サラリとした口あたりで、トロリとした優しい甘さが心地良く、シナモン(桂皮)や山椒などの香りが、新春にふさわしい清々しい爽やかさを感じさせます。
 そのまま、あるいは少し冷やして、日本酒で割って、スィーツと一緒に、と、和のリキュールとしてもいろいろお楽しみいただけます。
 邪気を払い新しい年を迎えるお酒としてどうぞ。

〇 大七(だいしち)『大七の七福おとそ』(福島・二本松、大七酒造)

 大七酒造が4年9ヵ月の歳月をかけて完成させた至高のお屠蘇が登場。
 最高のお屠蘇を造ろうと考えた「大七」は、2015年春に「粕取り焼酎」の蒸溜から着手。
 その焼酎を3年間しっかり熟成させた後、米麹ともち米を加えて「本直し」を造り、さらに蔵が誇る最高級の「生酛純米大吟醸雫原酒」をたっぷりとブレンドし、ベースとなるお酒を完成させました。
 屠蘇散は、蔵元にゆかりのある高野山から屠蘇散の原料となる生薬を取り寄せ、一年間じっくり吟味を重ねて選び抜いた七種の生薬をオリジナル配合。
 こうしてこだわりの「大七の七福おとそ」が完成しました。
 七つの福を呼び寄せる、金色に輝く甘やかで芳醇な味わいのラグジュアリーなお屠蘇を、令和最初の初春に。


日本名門酒会公式サイト
https://www.meimonshu.jp/modules/xfsection/article.php?articleid=379

posted by fom_club at 09:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月04日

宮城道雄を知っていますか

宮城道雄「春の訪れ」/フルート&箏
https://www.youtube.com/watch?v=KZS7mNsBEHM

MIchio Miyagi "A Spring Visit"-Koto & Violin
https://www.youtube.com/watch?v=Gl7CIcZLrTk

春の海(Haru No Umi)宮城道雄
https://www.youtube.com/watch?v=BeVYO-2wDK0

Japanese Koto/ Haru no Umi (Spring Sea)/ Composer (Michio Miyagi)
https://www.youtube.com/watch?v=29WgFkhv62w

 幼くして失明した箏曲家(そうきょくか)の宮城道雄(みやぎみちお、1894 - 1956)は毎春、庭先で鳴く小鳥が同じ鳥なのを聞き分けたという。
 目の見える家人には分からぬこの秘密を「春の訪れ」という曲にした。
「自然の音はどれもこれも音楽でないものはない」とはその言葉である。

 なるほど「長閑(のどか)な日に飛んでいる蠅(はえ)の羽音を聞くと、蠅も可愛(かわい)いもの」で、蚊ですらも「二、三匹よって、ブーンと立てる音は、篳篥(ひちりき)のような音がしてなかなか捨て難い」というから、生半可(なまはんか)でない(「新編・春の海」)。

 その宮城は1956年に東海道線の刈谷(かりや)駅近くで夜行の急行列車から転落して亡くなった。
 当時の新聞によると、未明、一人でトイレに行こうとして誤って転落したらしい。
 日ごろから音に敏感な一方、物に対する勘は自ら「非常に悪い」とぼやいていた当人だった。

 こちらは3日前の痛ましい事故である。
 東京の地下鉄で盲導犬と歩いていた目の不自由な男性が駅ホームから転落、電車にはねられて亡くなった。
 盲導犬を連れていての事故はまれで、視覚障害者団体は状況の調査を行うという。
 利用者のショックが大きかったのだ。

 ただこの団体の調査では視覚障害者の37%にホームからの転落経験があり、落ちそうになった人は60%に達する。
 今回の事故の教訓を見極めつつ、やはりホームドアの普及など根本的対策を急ぎたい。
 いつ誰であれ転落しそうな人を見たら声をかけるのはもちろんだ。

「自分の歩くところは狭いが、耳や心に感じる天地は広い」も宮城の言葉である。
 目の不自由な人にとってホームがどれだけ怖い場所か−−少しの想像力が人の安心して歩けるところを広げていく。


毎日新聞・東京朝刊、余録、2016年8月18日
幼くして失明した箏曲家の宮城道雄は毎春…
https://mainichi.jp/articles/20160818/ddm/001/070/115000c

London no yoru no ame - Tomoko Kawahara, Koto Shamisen Recital ~A Relief Concert for Japan
https://www.youtube.com/watch?v=QOzcbnza7OA

Koto: Saeko Kujiraoka
https://www.youtube.com/watch?v=0ZPWK1SvTMU

「宮城道雄を知っていますか」

 ロンドンでの打ち合わせは、こんな僕の発言で始まった。
 2018年9月初旬の1週間、イギリスに出張した。
 旅の目的は、誰もが楽しめる演劇の制作に協力すること。
 では、盲目の箏曲家として活躍した宮城と演劇に、どんな関係があるのだろうか。

 視覚障害者がテレビ番組や映画をみる際、副音声(音声解説)が用いられる。
 視覚的な情報を言葉で説明するのが副音声である。
 近年、スマホのアプリで副音声が聴けるようになり、映画を鑑賞する視覚障害者が増えている。
 ただし副音声の利用者は少数であり、また即興性の強い演劇やライブパフォーマンスには対応しにくいなど、普及に向けた課題も多い。

 今回の英国のプロジェクトでは、視覚障害者の鑑賞も想定し、音と声で理解できる演劇が目標とされている。
 イメージとしては、アクション付きのラジオドラマという感じである。
 副音声がなくても、劇中の音と声を聴いていればストーリーが把握できる。
 たしかに、これは視覚芸術をユニバーサル化する試みとして有意義である。

 この演劇の中に日本の琵琶法師のエピソードを取り入れたいということで僕が招聘(しょうへい)された。
 琵琶法師は「目に見えない世界」を音と声で表現した芸能者である。
 平安中期に登場した琵琶法師は、南北朝期に『平家物語』を獲得する。
 琵琶法師はさまざまな語り物を創造し広めたが、『平家物語』はその代表といえる。
 目の見えない師弟間で、口から耳へと伝承されたのが『平家物語』の特徴である。

 源平の合戦が終わり数十年経過すれば、リアルタイムで戦いを見た人はいなくなる。
 写真やビデオもない。
 そんな時、音と声で合戦の情景を鮮やかに再現したのが琵琶法師だった。
 中世の日本人は琵琶法師の音と声を介して、誰も見たことがない世界に遊んでいたのである。
 僕は「見る」(視覚で事物をとらえる)と、「みる」(全身の感覚を使って思い描く)を意識的に区別している。
 見ることができない琵琶法師は、みる奥深さを熟知する職能者だった。

 打ち合わせは僕が琵琶法師の歴史を紹介し、英国人スタッフが質問する形で進められる。
 意見交換が深まる過程で、僕がロンドンに招かれた理由が明確となった。
 琵琶法師が保持した「見えない世界をみる」精神を現代に伝えることは、僕の大切な役割なのかもしれない。

 琵琶法師の話に入る前に、僕は宮城道雄の業績を取り上げた。
 1953年、イギリスを訪れた宮城は「ロンドンの夜の雨」を作曲している。
 彼は道路や建物に当たる雨音、行き交う人々の靴音から、「目に見えない」街の様子を思い描いた。
「ロンドンの夜の雨」は宮城が琵琶法師の後継者だという証拠であるのみならず、人間の想像力の可能性を見事に具現した作品ともいえよう。

 打ち合わせの最後に、スタッフから尋ねられた。

「琵琶法師や宮城のことはわかったが、広瀬さんはロンドンに来て、どんな音を感じましたか」

「日本と違うのは救急車のサイレン、地下鉄の走行音くらいかな」

 ああ、なんと貧弱な感性なのか。
 ロンドン滞在中、何度か「夜の雨」を体験したが、僕には音で街をみることは難しかった。
 演劇は来年2019年2月に公開される。
 それをじっくりみるために、ロンドンを再訪するつもりである。
 今度は番傘でも持っていこうかな。


日本経済新聞、2018年9月18日 14:00
見えない世界をみる
(広瀬浩二郎、文化人類学者) 
https://r.nikkei.com/article/DGXMZO35323920T10C18A9FBB000

 広瀬浩二郎……、広瀬さんは全盲の文化人類学者。1967年、東京生まれ。13歳で失明。筑波大学附属盲学校から京都大学に進学。

 僕が射真という語を使うようになったのは、琵琶法師・瞽女など、盲目の芸能者との出会いがきっかけである。

 琵琶法師は音と声で、さまざまな口承文芸を創造した。
 彼らが視覚を使わずに、口から耳へと伝承してきたのが『平家物語』である。

 瞽女は三味線を持って全国を旅し、聴衆のリクエストに応じて多彩な唄を披露した。

 古来、盲人は文字を媒介としない語りの世界に生きていた。
 琵琶法師や瞽女が活躍した中世・近世は、写真がない時代である。

 源平の合戦が終わり数十年過ぎれば、リアルタイムで戦闘を見た人はいなくなる。
 そんな時、音と声で源平合戦を鮮やかに再現したのが琵琶法師だった。
 彼らの語りには画像がない。
 しかし、その語りを聴く中・近世の民衆は「見たことがない風景」を自由に思い描くことができた。

 瞽女は1970年代まで、新潟県下で活動していた。
 彼女たちは視覚を使わずに、自らの足で各地を歩くことで、目に見えない風景を感じていたのである。
 瞽女は聴覚・触覚、そして第六感で森羅万象をとらえていたともいえる。
 彼女たちが身体で獲得する風景の情報が、瞽女唄に独特の色彩を与えたのは間違いない。

 琵琶法師や瞽女の射真は語り物、唄の形で表現された。
 視覚優位の現代にあって、彼らが残した芸能は再評価されるべきではなかろうか。


国立民族学博物館・旅・いろいろ地球人、2019年6月22日刊行
写真がない時代
写真から射真へ

(広瀬浩二郎、国立民族学博物館准教授)
http://www.minpaku.ac.jp/museum/showcase/media/tabiiroiro/chikyujin495

―― どのような子ども時代を過ごしましたか。

 僕の目の病気が分かったのは1歳半のときです。
 まず左目が見えなくなり、弱視の右目もだんだん視力が下がっていきました。
 それでも、小学生のときはまだ0.05前後の視力があったので、日常生活にそれほど不自由はなく、地域の小学校に通っていました。
 ところが小学5〜6年くらいから、さらに視力が下がって教科書の文字が読めなくなり、体育の球技では、ボールが見えなくなりました。
 そこで、中学校から筑波大学附属の盲学校に通うことになりました。
 しかし、当時の僕は盲学校に「暗くて後ろ向きな場所」とのイメージを持っていました。
 それまで地域の小学校で目が見える友達と一緒に過ごしてきた自負もあり、子どもながらに複雑な心境で入学式を迎えたことをよく覚えています。
 その後、13歳で完全に失明したこともあり、高校卒業までの6年間を盲学校で過ごすことになるのですが、結論から言うと、とてもよい年月だったと思っています。
 周りの友達と話すのは、野球や相撲、アイドルのことなど、小学校の同級生とまったく同じで、すぐになじめましたし、視覚以外の感覚を使うことをじっくり身に付けられたこともよかったですね。
 点字での学習をはじめ、美術では粘土など触覚を生かした制作をしたり、体育では水泳などあまり視覚に頼らなくてもできる競技をしたり。
 視覚障害があっても学べることやできることはたくさんあると実感し、自分に自信を持つと同時に、友達との競争も楽しめました。
 最近はインクルーシブ教育が導入され、盲学校に賛否両論はありますが、僕は人生のある期間、同じ個性を持った者同士で切磋琢磨することは大切だと感じています。


―― 琵琶法師や瞽女(ごぜ)を研究テーマとしたのはなぜでしょうか。

 高校では2年生くらいから進路指導が始まりました。
 僕は中学生のころから司馬遼太郎の歴史小説を読んでいて歴史が好きだったので、大学に進学して日本史を学ぼうと考えました。
 しかし、高校の先生はあまり賛成してくれませんでしたね。
 視覚障害者にとって古文書を解読するのは大変で、ボランティアに頼むとしても、専門的な知識がないと読めないからです。
 実際、いくつかの大学を受験する際、「視覚障害者に日本史学科は難しい」と受験を断られたこともあります。
 また、ある大学からは「過去に視覚障害者を受け入れた前例がない」との理由だけで受験を拒否されたこともありました。
 僕はそれまで、強がりでもやせ我慢でもなく、目が見えないことはそんなに大したことではないと思っていました。
 しかし、自分の感覚と社会の認識にはズレがあることを、大学受験で初めて実感しました。

 それでも、一浪して京都大学に進学し、僕は日本史学科で障害者の歴史について研究を始めました。
 昔は医学が発達していませんから、障害者の数は今より多かったと思うのですが、教科書にはほとんど登場しません。
 これは、そもそも教科書を書いている人たちが障害者と接する機会が少なかったために、障害者の存在を忘れているからではないでしょうか。
 その忘れられた歴史を掘り起こすのは、当事者である僕たちがするべきだと考えていました。

 そうした中で、出会ったのが「琵琶法師(注1)」です。
 僕が大学生だったころは、まだ九州に琵琶法師の方たちが何人か残っていたので、直接お話を聞くこともできました。
 時代は全く違うとしても、自分と同じように目の見えない人たちが、平安中期からさまざまな物語を語り、職業集団として生き抜いてきたことに勇気づけられました。

 大学院では、もう少し範囲を広げ、イタコ(注2)や瞽女(注3)に関する研究も行い、そうした方々の拠点であった東北や新潟にも足を運び、聞き取り調査を行いました。
 受験や就職活動のなかで痛感したことは、社会は視覚障害者の“できないこと”ばかり数えて、あげつらうということです。
 しかし、琵琶法師や瞽女といった人びとは、見えない世界で“できること”を見つけて個性を発揮していた人びとでした。

 視覚障害者を「視覚を使えない人」から「視覚を使わない人」と見方を変えてみる必要があると考え始めました。


―― 国立民族学博物館でのお仕事について教えてください。

 実を言うと、僕は失明してからというもの、博物館にあまりいい思い出がありませんでした。
 大抵の博物館は資料保存のために照明を暗くし、展示物をガラスケースに入れているので、視覚障害者は楽しめないのです。
 今でこそ、全国の博物館では視覚障害者向けにさまざまな取り組みを行っていますが、僕が盲学校に通っているころは、ほとんどありませんでしたから。
 当時はそれほど深くとらえていませんでしたが、就職後、博物館について改めて考えてみると、「博物館は視覚障害者から一番縁遠い場所だ」と思いました。
 そして同時に、「僕も博物館を楽しみたい」との思いが湧き上がってきたのです。
 僕が楽しめれば、きっと多くの視覚障害者も楽しめるのではないかとも思いました。

 そこで最初に取り組んだのは、点字パンフレットの作成や、広報誌『月刊みんぱく』のカセットテープ版の作成です。
 こちらはその後CD版になり、現在はホームページで音訳データを提供する仕組みを構築しているところです。

 そして2006年、初めて視覚障害者に開かれた展覧会として「さわる文字 さわる世界」と題した企画展を行いました。
 京都と東京の盲学校の資料などを展示し、直接さわっていただくことに重点を置いたものです。
 これが予想以上に好評をいただき、その後も関連したワークショップの依頼をいただくようになりました。

 2回目の企画展は2009年で、点字考案者のルイ・ブライユ生誕200年記念として「点天展」と題した展覧会を行いました。
 このころから、僕の仕事は博物館の展覧会を通して、社会にメッセージを届けることが中心になっていきましたね。
 2012年には、当館に常設の展示コーナーを設け、いつでも展示資料にさわる体験ができるようになりました。


――「さわる」展覧会を通して「みえる」こととは。

 この展示コーナーは、当初から、視覚障害者だけでなく、目が見える人たちにも何かメッセージを届けるものにしたいと考えていました。
 そこで、「目が見える人は視覚に頼るため、意外と触覚を使っていない」との視点から、「目が見える人もさわろう。日常生活の中にさわることを取り戻そう」と呼びかけました。
 結果的には、「さわって楽しかった」、「見るだけでは気づけないことに気づけた」などの感想をいただき、それなりの手ごたえはありました。
 しかし、「見えない人がさわるのと、見える人がさわるのとでは、根本的に違う」と感じたのも事実です。
 いいか悪いかは別として、目が見える人にとって、さわることはあくまでも視覚を補助する意味合いが強いということです。

 そこで、もっと触覚に特化した体験ができるようにとプロデュースを始めたのが「無視覚流鑑賞の極意」と題した展覧会です。
 初回は2016年に兵庫県立美術館で開催しました。
 来館者には入口でアイマスクをしてもらい、最初から視覚を使わない状態で彫刻作品にさわってもらうという企画です。
 果たして受け入れてもらえるだろうかと不安でしたが、来館者には主旨が伝わったようで、さわることをより深めることができたかなと感じています。

 そして、この企画展を通してもう一つ伝えたいのが「さわるマナー」についてです。
 露出展示をすると、多くの場合、「さわってもいいなら、遊んでもいいし、壊してもいい」と思われがちで、特に子どもの遠足などでは破損事故が起きることも少なくありません。
 では、どうすれば優しく丁寧にさわってもらえるのか。
 僕としては、さわりながら、その展示物を作った人や使った人の思い、今日まで伝えられてきた歴史など“物の背後にあるもの”を追体験する気持ちが大切だと考えています。
 また、そうした気持ちがあると、より深い感動を得ることにもつながると思うのです。

 実際、2017年の国民文化祭の関連イベントの中で、僕自身が奈良県文化会館で興福寺の「 銅造仏頭(どうぞうぶっとう)」の精巧なレプリカをさわったときのことです。
 僕は歴史が好きなので、その仏頭が国宝で、頭部だけが焼け残った歴史的背景も知っていました。
 しかし、素材も見た目も忠実に作られたそのレプリカを、自分の手で確認できたことに、まず大きな喜びを感じました。
 そして忘れられないのが、火災に遭い、欠けてギザギザになった左耳にさわったときです。
「これは痛いだろうな」と、まるで自分のことのように感じました。
 冷静に考えれば、その仏頭は本物そっくりとはいえレプリカですし、実際に僕の耳が切られたわけでもないのでおかしな話です。
 でも、さわることで仏頭と自分がダイレクトにつながるような感覚を味わえたのだと思います。
 こうした感動を、より多くの人に体感していただくためにも、優しく丁寧にさわることを根付かせていけたらと思っています。


―― 最後に、障害者の人権を考える際に大切なことは何でしょうか。

 僕は、障害者が健常者と同じことができるように保障することはもちろん大切だと思っています。
 ただし、平等とはマジョリティと同じになるということではありません。
 私はラーメンが好きという面では健常者のラーメン好きの人と同じ人間です。
 しかし例えば点字を使うという違いもあるのです。

 平等を保障するだけでなく、違いを認めて「対等」に付き合うことこそが大切なのだと思います。

 現代社会は、あまりにも視覚が優位な時代です。
 しかし、視覚にだけ頼っていると分からないこともあります。
 僕の役割は、そうした「目に見えない世界」の魅力を多くの人に伝えていくことだと考えています。
 これからも「さわる」ことをテーマにしたユニークな展示や、研究活動を続けていくつもりです。


(注1)琵琶の弾き語りを職業とした盲目の僧侶
(注2)盲目の巫女
(注3)三味線の弾き語りなどをして各地を巡る盲目の女芸人

TOKYO人権、第80号(平成30年12月20日発行)
広瀬浩二郎さんにインタビュー
「目に見えない世界」の魅力を伝えたい
全盲の文化人類学者が世界を「さわる」

インタビュー/林 勝一(東京都人権啓発センター 専門員)、編集/小松 亜子
https://www.tokyo-jinken.or.jp/publication/tj_80_interview.html

posted by fom_club at 18:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

獅子が舞う

 埼玉県白岡市の高橋裕一さん(70)は1993年に自宅に隣接する二階建ての別棟を建て替え、獅子舞の獅子や玩具を展示する「獅子博物館」を開設し、館長となった。
 1988年には博物館の前身の「ミニ獅子博物室」を自宅内に設置して公開。
 同年から起算すると昨年2018年は節目の30周年で、獅子舞文化の普及や継承、発展に寄与することを目指し、活動を続けている。

 獅子と出合ったのは幼い頃。
 地元のだるま市の露店で、張り子の獅子頭を親に買ってもらい、親しんだ。
 地元に伝わる「小久喜のささら獅子舞」は獅子の衣装が黒っぽかったり、てんぐが登場したりして「怖いという印象だった」と話す。

 獅子の玩具の収集を本格的に始めたのは東京都庁に勤めていた30代のころ。
 職場に獅子の玩具を集めている先輩がいて、仕事帰りに先輩の自宅で見せてもらい触発された。

「獅子はさまざまな表情で、日本全国それぞれの土地ごとに特徴があり、愛着を持たれていることに感動した」

 休みを利用して各地を旅し、獅子舞を見て玩具を購入した。

「獅子舞は年に一回のお祭りでしか、お目にかかれない。いつでも楽しめるようにというのが獅子の玩具の目的」

 やがて購入の対象は実物の獅子頭へと進展し、職人に会って制作を依頼するなどした。

 現在、博物館で展示しているのは約2000点(獅子以外の郷土玩具や仮面も含む)。
 他に写真や資料も多数ある。

 これまで入手した獅子は中国や韓国、インドネシア、ネパールなどアジア各国にも及ぶ。
 思い出深いのは、豪華な装飾を施されたバリ島の「バロン・ケット」。
 1986年に都内のデパートであったバリ島の仮面舞踊劇で使われたものを終了後に譲り受けた。

 獅子舞の起源は古代ペルシャで守り神とされたライオンで、アジアに来て獅子舞という形になったという。

「獅子舞は人類の共通した遺産。民族、地域ごとの歴史や文化が込められていて、見て楽しい」

 日本の各地には約7500の獅子舞があるが、後継者不足などで減少傾向にあるという。
「2人で1組の獅子が基本だが、3人以上、果ては200人というスタイルもある。獅子舞の世界は、ものすごい広がりとバリエーションがあることを紹介したい」と話す。

 2015年からは各地の獅子舞の演舞を披露し、団体などを表彰する「全日本獅子舞フェスティバル白岡」を白岡市中央公民館で開催。
 今後については「フェスティバルを継続させ、獅子舞文化の研究を深めていきたい」と意欲を見せる。
 

[写真-1]
収集した獅子頭や玩具を公開している高橋さん

[写真-2]
アジアの獅子も多数並ぶ博物館の1階=いずれも白岡市で

※ 「獅子博物館」公式ブログ
https://ameblo.jp/5431hibcdq/

東京新聞、2019年1月21日
<ひと物語>
人類共通の「文化」広める
獅子博物館館長・高橋裕一さん

<高橋裕一 たかはし・ゆういち>
白岡市出身・在住。東京都内の高校を経て、立教大卒業後に都庁に入った。建設局で公園の管理に関する仕事に従事。日比谷公園管理所長などを歴任し、定年退職。1993年4月、「獅子博物館」(埼玉県白岡市小久喜1262-8)を開設。入館料は一般540円など。通常観覧は要予約。問い合わせは、同博物館=電0480-92-9105=へ。
(中西公一)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/list/201901/CK2019012102000132.html

 中国の旧正月「春節」を迎えた2019年2月5日、横浜中華街(横浜市中区)で同国の伝統行事「採青(ツァイチン)」が行われた。
 爆竹と太鼓の音が鳴り響く中、白や黄の獅子が飲食店などで店主らに向かって五穀豊穣(ほうじょう)と商売繁盛を願って舞い、店先につるされたお金が入った赤い袋「紅包(ホンパオ)」を口にくわえた。

 獅子舞は、横浜山手中華学校の卒業生と生徒らが担当した。
 主催の横浜中華街発展会協同組合の竹本理華常務理事(46)は「採青は店、住民、観光客、皆で祝うイベント。より多くの人に楽しんでもらうため、今年は2回実施した」と話した。
 夫婦で訪れた埼玉県上尾市の地野成雄さん(77)は「日本の獅子舞に似ていた。爆竹の音に迫力があった」と語った。

 2月19日まで、中華街内の山下町公園などで伝統芸能の披露をはじめとする各種イベントがある。
 また、今年初めて10の飲食店で中国のおせち料理「年菜(ニェンツァイ)」を提供する。
 問い合わせは同組合=電045-662-1252=へ。

[写真]
大ぜいの観光客らの前で披露された獅子舞=横浜市中区で

東京新聞、2019年2月6日
中国旧正月
横浜中華街で春節祝う
獅子が舞い、爆竹と太鼓の音

(福浦未乃理)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201902/CK2019020602000143.html

【八重瀬】沖縄戦で消失し、1969年に故山田真山さん(画家・彫刻家)によって再制作された八重瀬町友寄の2代目神獅子50周年記念式典が2019年7月14日、友寄公民館で開かれた。
 区民や関係者ら約70人が集まり、50年受け継いできた神獅子の勇壮な獅子舞に、大きな指笛と「シタイヒャー」の声が上がった。

 初代神獅子は1828年、王府お抱えの彫刻師・田名宗経が制作した。
 友寄出身で三線の地謡として首里城に仕えた玉那覇親雲上の功績に対する御拝領(ぐへーろー)として、尚育王から授けられた。
 伝染病で多くの死者が出ていた友寄の住民は、神獅子を村の守護神として迎えた。

 獅子の頭は沖縄戦の地上戦が始まる前、箱に入れて避難壕に隠された。

 しかし1945年8月、捕虜として玉城村船越(現・南城市)にいた金城明さん(84)が父親と一緒に芋を調達するため友寄を訪れた際に箱を確認すると、中身が空になっていた。
 神獅子を消失し、獅子舞も行えなくなったが、1968年に復活委員会が発足。

 糸満市摩文仁の平和祈念像を制作中だった山田さんによって翌年1969年、2代目神獅子が誕生した。
 14日の式典には山田さんの娘や孫も参加した。
 次女の山田多津子さん(78)は「守り神として長く大事にされ、父も喜んでいるはずだ」と笑顔を見せた。
 式典で獅子舞を踊った大城佑介さん(30)は「地域の先輩たちが守ってきた獅子で踊れることがうれしい」と話した。
 2代目神獅子誕生後、最初の十五夜で獅子舞を踊った金城勝さん(82)は「デイゴの木で作られた獅子の頭の重さを今も覚えている。今でも多くの若者が踊っていてうれしい」と涙目で語った。


[写真]
故山田真山さんによって制作された友寄の2代目神獅子。勇壮な舞に、指笛が鳴り響いた=14日、八重瀬町の友寄公民館

琉球新報、2019年7月15日 06:00
勇壮な獅子舞に指笛
八重瀬・友寄2代目神獅子、制作50周年で式典

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-953846.html

The lion dance is a vigorous form of dance that is usually performed during Chinese festivals such as Chinese New Year. The origins of the lion dance are linked closely to the origins of the Chinese New Year celebrations. It is said that in ancient times, a mythological creature known as Nian terrorised China and devoured its people on the eve of the new year. The only animal that managed to wound this beast was the lion. Thus, in an attempt to frighten the beast, the villagers decided to mimic the lion with lions made of cloth.

In accordance with this legend, the dance is believed to usher good fortune, as well as ward off evil spirits. The lion dance calls for perfect co-ordination, elegance and nerves of steel.

Two dancers are usually needed to give life to a "lion" - one to control the movements of the head, eyes and mouth; the other to act as the body. The first dancer that controls the head determines the movements, while the second must work in tandem with him.

This isn't a simple task as the lion's head, which is brilliantly adorned with feathers, fur and glitter, weighs from 9kg to 15kg, a considerably heavy burden to hold aloft while moving vigorously. The head is usually constructed of papier mache and bamboo, complete with eyes that blink and a mouth that snaps. Therefore, the first dancer must have perfect co-ordination inspite of the burden.

The dancers are usually enticed with gifts, usually ang pow (money in red packets) attached to a vegetable, which are tied to a pole. The pole is then placed at a door or a window. The dancers would then try to get these gifts, making it look as though the lion devours them. Often, the lion dancers are accompanied by two other masked dancers who act as jokers, provoking the lion; the dance is commonly performed to the beat of the tagu (Chinese drum) and the clanging of cymbals.

In Malaysia, troupes of lion dancers travelling from one place to another in trucks are a common sight during the 15-day period of Chinese New Year. They are usually hired to perform at individual homes and business premises such as hotels and shopping complexes during this auspicious period.

However, it is not unusual to see it outside of the new year season for it is also in demand among the Chinese community for ceremonies such as the launch of new business premises or for the welcoming of dignitaries. Lately, the dance has become a form of sport where dancers from all over the world compete to determine the best.


Langkawi Gazette
Chinese Lion Dance in Malaysia
http://www.langkawi-gazette.com/malaysia-s-festivals/2018-chinese-lion-dance-in-malaysia

Lion Dance in Malaysia
https://www.youtube.com/watch?v=w8Et757ZEJM

posted by fom_club at 15:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

獅子舞(砂村囃子睦会)

 ヤッホーくんのこのブログ、2014年01月20日付け日記「新春民俗芸能の集い」をお読みください。
 獅子だけじゃない、ひょっとこもいたし、「おかぐら」って「おっかない」と震えていたような。
 今年、何年ぶりかの下町での新春、マレーシアではライオン・ダンスって呼んでいる演目を見に。

江東区指定無形民俗文化財5つ

 木場の木遣は、徳川家康が江戸城造営の時に連れてきた材木商が伝えたものと言われていますが、確かなことは不明です。
 木場の筏師(川並)が、鳶口一つで材木を操る時の労働歌で、たがいの息を合わせるため、掛け声のように即興の詩をつけて歌ったものです。
 そのため木の大きさによる仕事のテンポの違いから、それぞれフシ(間)の異なるものができました。
 近年は各地からの職人が集まるようになって、仕事場では歌われなくなり、今では保存会の人たちによって祝儀の場などで歌われています。

 木場の角乗は、江戸時代に木場の筏師(川並)が、水辺に浮かべた材木を、鳶口一つで乗りこなして筏に組む仕事の余技から発生しました。
 これに数々の技術が加わり、芸能として発達しました。
 角乗に用いられる材木は、角材を使用するため、丸太乗りより技術を必要とします。
 角乗の演技に合わせて、葛西囃子が速いテンポで、演奏されます。

 富岡八幡の手古舞は、富岡八幡宮の三年に一度の大祭に行われる芸能で、江戸時代以来の伝統をもっています。
 手古舞の語源は不明ですが、石や木を大勢で運搬するときに、先頭に立って指揮をする人、梃子前(てこまえ)の転訛であるといわれています。
 現在、手古舞をつとめるのは、かつての辰巳芸者と有志の人たちです。
 装束は、男髷に台肘(だいつき)の長襦袢を片肌脱ぎにして、肩抜き染めの上着と裁着(たっつけ)にわらじばきという男装です。
 所作は特にありませんが、神輿行列の先頭に立って、木遣で練ります。

 深川の力持は、江戸時代からの倉庫地帯であった佐賀あたりで、米俵や酒樽などの運搬から発生した余技で、種々の力自慢が加わり、芸能として発達したものです。
 文化・文政のころ(19世紀初め)には、興行として行われるほど盛んになり、長唄「近江のお兼」にもうたわれています。
 演技には、米俵、臼、小舟、脚立、長柄、小桶、木箱などが用いられ、砂村囃子がはやします。

 砂村囃子は、享保年間(1716〜36)の初めに金町の香取明神社(現在の葛西神社)の神官能勢環が、農民に囃子を教え、それが近隣の農村に広まったものと伝えられています。
 葛西囃子や神田囃子と同じく江戸近辺の祭囃子の一つで、大太鼓1、締太鼓2、篠笛1、鉦1で演奏します。
 富賀岡八幡をはじめ、区内神社の祭礼、祝儀の場などで演奏されています。


https://www.city.koto.lg.jp/bunkasports/bunka/bunkazaisiseki/minzokugeno/index.html

 江東区の清澄庭園では2018年1月2日、区の無形民俗文化財「砂村囃子(ばやし)」を継承する「砂村囃子睦会」が、獅子が立ち技や寝技を繰り広げる「寿獅子舞」を披露した。

 都立8庭園が2、3日に行う新年行事の一つ。

 獅子が、観客の頭にかみつくしぐさをする「厄落とし」では、その迫力に泣き出す子どもたちも。

 家族で訪れた千葉市の勝山舞子さん(中学2年)は「獅子がかんだときにカツッと音がして、身がひきしまる感じがして、縁起がいいと思った」と話していた。

 獅子舞は3日午後0時半にも予定。
 園内では同日まで、カルタやすごろくなどの正月遊びも楽しめる。
 入園は一般150円など。


[写真-1、2]
清澄庭園で披露された獅子舞。迫力に泣き出す子どもも

朝日新聞、2018年1月3日03時00分
清澄庭園で獅子舞披露
(青木美希)
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180102000751.html

 そうなんです。
 2020年正月2日のヤッホーくん、獅子とは、清澄庭園ではなく、屋内は「深川江戸資料館」でお会いしました。

獅子と.JPG

獅子舞い.JPG

 ムカシ、そうなんです、ヤッホーくんが幼い頃の風物詩でしたけど、春先だったのか、村の鎮守のお祭りだったのか、囃子のご一行様がやってきて、軒先で演じ、じいちゃんが「おひねり」を渡していたことを思い出しておりました。

「深川江戸資料館」ではリーダーの方が、「イマじゃ、笛や鐘、太鼓の音がうるさい、赤ん坊が目覚めて泣き出す、目障りだ、ここは公共の道だろう、常識で考えてよ、と言われるので、街で演じることはできなくなりましたぁ」って。

正月獅子舞・川越での門付け
https://www.youtube.com/watch?v=jAgVLvAxQTE

美空ひばり- 角兵衛獅子の唄
https://www.youtube.com/watch?v=rJo37GR2TtE

https://www.youtube.com/watch?v=JtWZNpMMm78

posted by fom_club at 11:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月03日

重要文化財、冬木小袖

 到来物の栗きんとんをほおばりながら、何げなく深川界隈(かいわい)の地図を眺めていた。
 長い冬籠もりを前に、「こよない自然のおくりもの」などと独り言(ご)ちていた。
 ふと地図の上に、季節感あふれる「冬木」なる地名を見つけた。

 不思議なことに、周りは東に木場三丁目、西に深川二丁目、南に富岡一丁目とあるのに、ここだけ「冬木」としか記されていない。
 この手の住居表示は、いずこかの大地主がこの一帯を所有していた名残ではないかと何かで読んだことがある。

 しかも、冬木のはずれには「冬木弁天堂」というお社がある。
 ひょっとしてこれも、冬木某が寄進した可能性がある。
 地名の由来は、江東区のホームページですぐに割れた。
 冬木は材木商「冬木屋」の屋号に由来するという。

江東区の地名由来
https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/joho/6379.html

「冬木屋は、上野国(群馬県)から江戸に出た上田直次がおこした。三代目冬木屋弥平次は一族の上田屋重兵衛と、仙台堀川の南の地を材木置き場として、幕府から買い取った。1705(宝永2)年町屋をたてて、深川冬木町と名付けたのがこの町の始まりである」

 冬木のはずれにある冬木弁天堂も、もとは豪商冬木屋の邸内の弁天堂に安置されていたもの。
 ここは深川七福神のひとつ弁財天があって、銭洗いすれば商売繁盛に通ずるらしい。
 境内の句碑に大正期の俳人、岡野知十(ヤッホーくん注1)の「名月や 銭かねいはぬ 世が恋し」(ヤッホーくん注2)とあり、なにやら身につまされる。

 直次が1652(承応3)年に江州竹生島(滋賀県)の弁財天の分霊を日本橋茅場町の邸内にまつり、その孫、弥平次がこの地に移したと伝えられている。

 徳川家康が江戸を本拠地にすると、城と町の建設に必要な材木が関東一円から集められた。
 この縁で、冬木屋も上州からやってきたのだろう。
 さらに、1657年、明暦の大火で江戸の中心部が焼き尽くされ、材木置き場が隅田川対岸の深川に集められた。
 かくして、材木商が軒を連ねる木場が誕生する。

 冬木にはいま、高層住宅やオフィスビルが軒を連ね、名残といえば冬木弁天堂しか見当たらない。
 経済分析の先端を走る大和総研のビルが威風堂々、当地にあるのもおもしろい。
 江東区の文化財マップには、1939(昭和14)年以降に和倉、大和、亀久、そして冬木の各町が合流して「冬木」になったとあるから、冬木屋の敷地はもう少し狭かったのだろう。

 往事、冬木屋は豪商らしく、江戸・元禄に活躍した日本画の尾形光琳(1658〜1716)を住まわせていた。
 光琳は京都の呉服商「雁金」に生まれ、成長して多額の遺産を受け継いだものの、享楽的な趣味が災いして破産。
 40歳から本格的に画家生活に入るが、彼を支えたのが冬木屋であった。

 光琳が冬木屋の妻女のために筆をとり、白綾地の小袖に秋草模様を描いたのが、重要文化財の「冬木小袖」である。
 いまは東京国立博物館に収蔵されている(ヤッホーくん注3)。

 秋草の文様にはキキョウと菊があしらわれ、光琳はさすがに呉服商の家に育ったせいか、帯が当たる部分には十分な空間を配している。
 丈は147.2センチあり、この清艶な小袖を着こなしたのは、どんな女だったかを想像するのも楽しい。

 ちなみに、時代小説に登場の冬木には、
・ 山本周五郎(1903 - 1967)の「しじみ河岸」(新潮文庫『日日平安』所収)、
・ 藤沢周平(1927 - 1997)の「闇の歯車」(講談社文庫新装版)、
・ そして山本一力(1948年生まれ)の「峠越え」(PHP文庫)
と、おなじみの作家たちがここを舞台に選んだ。
 共通しているのは、庶民が肩を寄せ合う裏店を舞台に、職人や博打(ばくち)うちが事件に巻き込まれる市井ものが多い。

 冬木から北に30分ほど歩いた白河一丁目の深川江戸資料館に、界隈の家並みを実物大で再現した展示物がある。
 モデルは深川佐賀町だというが、冬木町の裏店もこうだったかと想像ができる。
 近くにある清澄庭園に寄って帰ろう。


産経新聞、2019.12.10 08:52
銭かねいはぬ 世が恋し
(湯浅博、ゆあさ ひろし、東京特派員)
https://www.sankei.com/column/news/191210/clm1912100007-n1.html

ヤッホーくん注1)岡野敬胤またの名を岡野知十(1860 - 1932)。
 
 この時期の「函館新聞」の編集人・・・(略)・・・佐久間健寿のあと野村庸直(石川県士族)が編集長となり、1890(明治23)年2月に北溟社を離れるまでの約12年間その任に就いた。
 その間、野村と交代で編集の責任者となるのが岡野敬胤である。
 岡野は岡野知十ともいい北海道様似(さまに)の生まれ、1879(明治12)年創刊の「与し余誌」の編集人で、のち東京の小新聞界で活躍、1881(明治14)年函館師範学校付属小学校の予備教員として来函、まもなく病気のため退任して函館新聞の記者となり、野村と交代で編集長を勤めた。
 1889(明治22)年7月仕事を降り上京後、「東京毎日新聞」「報知新聞」などの記者として活躍した人物である
(宮武外骨・西田長寿『明治新聞雑誌関係者略伝』、以下『関係者略伝』とする)


ヤッホーくん注2

 永井荷風(1879 - 1959)。
 1933(昭和8)年12月の日記にこの一句を書き留めている。
「右の句……境内の石碑にあり」というから、深川散策の道すがらに冬木弁天堂で目に留めた。

ヤッホーくん注3)冬木小袖(ふゆきこそで)

 江戸時代前期から中期にかけて活躍した日本画家、尾形光琳(1658〜1716)。
 彼が自ら筆をとって、江戸深川の材木商・冬木屋の夫人のために、小袖に秋草模様を描いたと、附属する文書によって伝えられている。

 白無垢の綾地小袖は、光琳が描くためにあらかじめ用意されたのだろうか。
 藍と墨の濃淡による奥行のある秋草模様は、一叢の桔梗、あるいは一叢の菊花と、小袖を縦長の画面に見立てて直接描かれている。
 金泥や黄、赤の暈しが彩りを添える。
 単純化された桔梗の造形や、墨筆を生かした菊葉の表現は、当時、光琳が描いた秋草図屏風にも見られる、彼特有の装飾的なデザインに通じる。
 あえて植物そのものの色を用いずに、藍や黒といった寒色を好んで用いる特徴は、享保年間(1716〜36)前後に小袖模様に流行する光琳模様を思わせる。
 光琳が直接デザインした小袖模様は他になく、一見余興で描いたかのように思われる。
 しかし着付けた時に帯が秋草の景を損ねないよう、帯の当たる部分には十分な空間を配している。
 京都の呉服屋・雁金屋の次男として生まれた、光琳の心くばりだろうか。
 この小袖と同様の秋草模様小袖が伝存しているが(静岡・MOA美術館)、なぜ、同じ模様の小袖が2領残っているのかは不明である。


重要文化財 小袖 白綾地秋草模様(こそで しろあやじあきくさもよう)
http://www.emuseum.jp/detail/100547/000/000

posted by fom_club at 16:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

深川の禅寺、陽岳寺

 地下鉄東西線門前仲町から清澄庭園方面に道をとりますと、ちょうど中間に陽岳寺があります。
 陽岳寺は1637(寛永14)年に向井左近衛将監忠勝によって開かれた臨済宗の寺です。

 天明伏見義民と本所深川は、実は深い繋がりがあるのです。

 徳川時代の伏見(現京都市伏見区)は、京・大阪を結ぶ交通の要衝であり、経済的にも豊かな商業都市でした。
 小堀家は二代目に茶人として有名な遠州がおり、27年間も伏見奉行を務め大名に列せられました。

 六代目政方(まさみち)は1770(明和7)年、若くして伏見奉行に任ぜられ、最初のうちは善政を行いました。
 しかし、しだいに側近の誘惑にのって悪政を行うようになりました。
 思い余って、1781(天明元)年5月28日、侍医水島幸庵が諌言したものの、聴き入れられず幸庵は自刃して果てました。

 1785(天明5)年、伏見奉行小堀政方の悪政に耐えかねた京都伏見の町人七人衆の代表3名(文殊(もんじゅ)九助・丸屋九兵衛・麹屋(こうじや)伝兵衛)が幕府に直訴するために江戸に上りました。
 奉行の追手を逃れ、陽岳寺に逃げ込んだ3人は、住職、照道和尚に助けられます。
 が、高齢の伝兵衛は重病に陥り、病死。
 9月26日九助・九兵衛の2名で寺社奉行の松平伯耆守の奉行駕籠に向かって決死の直訴をしました。
 ついに小堀政方は罷免せられ、領地没収となり、伏見町人の一応の目的は達せられました。
 が、伏見では関係した者二百余名が厳罰に処され、4人が牢死。
 直訴した九助・九兵衛も再吟味のため江戸送りとなり、取調べ中に牢死しました。
 その2人の遺体を引き取り、伝兵衛の遺体と一緒に懇ろに葬ったのも、陽岳寺の照道和尚でした。
 3人の墓は今も「伏見義民の墓」として陽岳寺内の本堂の前にあり、常にお参りがあります。

 ところで、医学史的に述べると、小堀政方の別の面が見えます。
 1782(天明3)年6月25日に伏水刑場で奉行の侍医の橘南谿と京都の医師の小石元俊らが平次郎を解剖しました。
 平次郎は銭五百文を盗んだため打首刑ににされて、その遺体を侍医に下げ渡したのは政方でした。
 政方は実証的医学の理解者ではあったのです。
 このとき画家の吉村蘭洲らが写生した解剖図鑑が『平次郎臓腑』であり、62図からなり、各臓器の形状・色沢・重さなどを注記し、また病理学的所見も記載されている我国の解剖学史上極めて重要な史料です。
 しかし、当時の伏見町人の住民感情からすると、解剖は不快に映りました。
 伏見騒動を綴った「雨中のカン子」(御香宮義民保存会刊行、上田写本『雨中之鑵子』)でも、この解剖を政方の罪状の一つに掲げています。

 伏見義民の勇気ある行動も幕府にとっては公にはしたくない事件でした。
 時代は移って、1887(明治20)年、百年祭を機に京都伏見御香宮神社(近鉄桃山御陵前駅より徒歩5分。862(貞観4)年9月、境内に清泉が湧き出し、この水が香しく病にきくことから、御香宮と称す)境内に義民の記念碑が建設されました。
 以来毎年5月18日に義民祭があります。
 このとき伏見義民顕彰碑の碑文を書いたのは勝海舟でした。
 勝海舟は本所で生まれ育ちました。
(生誕の地:墨田区両国4−25−24両国公園)
(揺籠の地:墨田区緑4−21−2)。

 江戸っ子の照道和尚や勝海舟にとって、義のために死をも厭わぬ伏見義民の潔さは、大いに共感できたのでしょう。

※ 本記事は1999(平成11年7月1日発行のJMC全医協連ニュースNo.73よりの転載です。


陽岳寺公式サイト、投稿日:2001年1月1日 更新日:2019年8月13日
伏見義民と本所深川
(日本医師学会会員 ^狩明美氏より)
http://www.yougakuji.org/archives/574

陽岳寺公式サイト、投稿日:2001年1月1日 更新日:2019年8月13日
天明伏見町一揆越訴顛末記〜田沼意次失脚の一要因についての一考
(京都東山学園教諭 石橋昇三郎より)
※ 本作品は昭和63年3月31日東山学園研究紀要第33集別冊記載を筆者の石橋昇三郎教諭の承認を得て本ホームページに掲載するものである。
http://www.yougakuji.org/archives/572

陽岳寺公式サイト、投稿日:2001年1月1日 更新日:2019年8月13日
天明伏見町一揆越訴顛末記_訳注
http://www.yougakuji.org/archives/577

 陽岳寺には、小津家本家の墓があり、小津安二郎にとって、父母、兄が眠る。
 ここ深川には、小津映画には欠かせないモノが数多くある。
 生誕の地であると同時に、懐かしくはかない下町の人情のなかに育まれた小津は、ここで、実家の関東大震災、大東亜戦争の惨状を、つぶさに経験する。
 戦後、人びとはたくましく復興をとげるが、それは、同時に生活に追われ、在りし日の下町の人情は消えるはめとなるのか。
 東京物語、麦秋、秋刀魚の味、晩春に、小津を思いだし、懐かしみ、彼がたどった道を見たいと思う。

小津安二郎(1903 - 1963)

 映画を見ることに、こんなに感心しながらビデオ映像をながめた年はなかった。
 その画面からは、懐かしさや、しっとりとした、ごく普通の家族や家庭がほのぼのと浮かびあがってくる。
 それも淡々として、月日が過ぎ去るさまに似て、達観して言葉を慎重に探しながら送り出す背後の作者の創作姿勢を考えさせられるのです。

 徹底してローアングルの場面があり、場面の外から人物が登場し、場面の外に去ってゆく。
 ときおり、誰も登場しないで音もないシーンが挟まれるのですが、それが、加えもしない、削りもしない、写実そのもの、私たちがとるスナップの景色と何ら変わらぬものの不思議さなのです。
 ズームインもアウトもないし、カメラ自身も移動しない。
 場面が替わる感覚も、単純に単調に決められた時を、言葉と沈黙を混ぜながら進むことで、心地よさや安心感が生まれる。
 どんな映画より、ゆったりとして、もはや過ぎ去ってしまった日本の原風景が横たわっているのではないかと。
 それが、2003(平成15)年12月12日、生誕100年を迎えた小津映画ではないかと。

 題材は、時代の中の人間。
 人間であるかぎり、死という別れにまつわるもの、結婚という出会いにからむもの、その間の夫婦、親子、友人のドラマであり、それが、日常ということなのでしょう。

 2003(平成15)年12月7日(日)夜11時より、NHKのBS2で、“小津映画秘められた恋”が放映されました。

 それより以前の11月9日(日)午前11時、出演である旅人役の佐野史郎が雨が上がった陽岳寺の山門をくぐって、小津家の墓地を参詣しました。
 案内した私は、そこで、佐野史郎より、この訪問の目的を知らされ、その時のことを語ったのです。

「それは、2年前ぐらいの、今頃の季節だったと。庫裡の玄関を、一人の大柄な、お年寄りの婦人が、訪ねてきました。杖をついてはいたものの、しっかりとして、大きく見えたご婦人でした。たしか40年ぶりの墓参で、足がおぼつかなく、これが最後となるかもしれませんが、小津家の墓をお参りしたいと言われたと思いだします。そこで、場所が解らないだろうからと、線香を灯し、樒(しきみ)を手わたして、案内したのです。墓前で、すぐに、私は失礼しました。しばらくたって、その老婦人は再び庫裡の玄関のチャイムを鳴らしました。そこで、応答に出た私に、ご自分の名前をメモ用紙に記されて、先祖のために、お搭婆をあげたいと申しこまれたのです。」
 
 そして、数日がたち、お寺の近くで、ここ深川での小津安二郎のブームの先頭に立つ、長谷川氏(全国小津ネットワーク会議会長)がやはり墓参に訪れたときです。
 帰りしな、血相を変えて、
「あのお搭婆は、いったい、いつ来られたのですか。ご住職は、その訪問された方をご存じないのですか。」
と問われたのです。私はそんなこと知るよしもなく、そこではじめて、その老婦人が、小津安二郎の“小田原の女性”だと聞かされたのでした。

 その後、三上真一郎という、晩年の小津映画に出演していた男優が、やはり長谷川氏と来られて、その話をしていることを思いだしました。
 その事件が、どこかで伝わり、この“秘められた恋”という番組の最後で、そのエピソードを語りながらの出演だったのです。
 小津監督が他界して40年がたちます。
 今になっても、偉大な監督の残した伝説の女優『原節子』と、鎌倉の居宅に出入りを許された『小田原の芸者』という、ういういしく、神秘的で、美しい話しがあるものだと、“坊さんかんざし買うをみた”。

 小津安二郎生誕90周年が開催されたのは、1993年、平成5年でした。
 その翌年、小津家の人が、寺に私たち小津家の人たちと小津安二郎監督の記念のものとして何か、お寺に置いておきたいけれどと、写真や手紙を持ってこられたのでした。
 私は、
「それなら、明治小学校に通われていたのだからと、子ども達にもよい励みになるし、記念にもなると、学校に寄付してくれないか」
とお願いして、実現したのが1994(平成6)年7月5日です。
 その時の読売新聞切り抜きを、今、発見して、ちょうど10年前、江東区では、小津映画も、出生が深川であることや、明治小学校に通っていたことすら語られずにいたことを思いだします。

 私と小津監督の接点は、直接ではなく、あくまで、父と母の眠る墓を通してのことです。
 監督のお兄さんである新一さんとは、特に親しくさせて頂いたものです。
 80歳を過ぎて、本堂の玄関の上がり間淵に腰掛けて、よく話しをしたものです。
 私は、とても気に入られて、その頃の新一さんは、弟安二郎の写真で見る姿とそっくりの顔立ち、体つきでした。
 冬になると、トンビというマントを着ていた姿が忘れられません。
 そして、威厳のある風格を漂わせていたものですから、その姿を小津監督にダブらせて、私は今でも見ることしかできないのです。
 無邪気さを持ちながら、子どものようなところもあり、それでいて、やはり大きな人だったのだろうと、想像するのです。

 小津安二郎監督の言葉を拾い集めてみました。

「映画とは、一人の人間の、ほんとうの個性を描くものだ。ほんとうの人間は、いくらそれを行動の上で、どぎつく描いても、描ききれるものではない。喜怒哀楽だけを、一生懸命写しとってみても、それで人間のほんとうの心、気持が表せたとは言えない。悲しい時に笑う人もいるし、嬉しさを現すために、泣かす場合もある。要はその人間の風格をだすことだ。」

「いたずらに激しいことがドラマの面白さではなく、ドラマの本質は人格をつくり上げることだと思う。」

「私は、画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど、穢(きたな)いものを、とり上げる必要のある事もあった。しかし、それと画面の清潔、不潔とは違うことである。現実を、その通りにとり上げて、それで穢いものが、穢らしく感じられることは、好ましくない。映画では、それが美しく、とり上げられなくてはならない。」

「社会性がないといけないと、言う人がいる。人間を描けば社会が出てくるのに、テーマにも社会性を要求するのは、性急すぎるんじゃないか。ぼくのテーマは、“ものの哀れ”という極めて日本的なもので、日本人を描いているからには、これでいいと思う。」

「なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う。」

 俳優の笠智衆は、小津映画の大半に出演している。
 その笠が、『父ありき』の撮影に小津が語った言葉が、2001年7月30日発行の文芸別冊に掲載されている。

「おお、笠さん、ちょっと来い。話しがある。いま試写を見ていたんだが、君は嬉しいときは嬉しい顔をする、悲しいときは悲しい顔をする。いつも表情に出すけれども、ぼくの映画には表情はいらんよ。今度『父ありき』という作品を撮るんだが、表情無し、お能の面でいこう」

 小津の映画の基本は“お能の面”であり、感情抑揚はすべてストーリーの展開に含まれている。
 そのことについては吉田喜重が前田英樹との対談において話していた。

《レンズを向けることは、ここに現にある、実在しているものに何か手を加えることなんですね。いわばそこにある現実を映像に切り取るわけですから、持続している時間を壊し、中断してしまう。それはもう生きているものではなくて、撮られてしまった被写体というのは死んでしまったものにすぎない。なぜ映画監督というのは、こんなに死屍累々たる映像を手にして映画をつくるかとうような、不安というか、疑いをもっていたと思います。
 本当は小津さんはこうした映画のまやかしを嫌っていた。だから、それを乗り越えるために、その死せるモンタージュで誤魔化していくのではなく、一枚一枚止まっている映像として、前田さんの言葉を使えば「絶対的断絶」といった、そういう非連続の映像として映画を発想した。したがって小津さんが求める演技というのは、要するに演技をしないことがいちばんいいんだ、ということになる。現実にキャメラを向けた瞬間に現実を破壊するのと同じ、他人に向かって「こういう演技をしろ」といった瞬間に、その人の肉体から持続している演技を破壊してしまうわけです。》

 連続した時間のなかでしか生きられない人間の、絶対的事実とは、死屍と云う。
 それは切り取った時間でもあります。
 連続した時間は、人における行為であり、その一瞬は、行為を引き裂くことになります。
 しかし生きていく上でこそ、その連続した時間の人の一瞬は、もっとも唯一にして大切な絶対的事実であることも確かなことです。
 大きな矛盾を感じますが、それを“ずれ”と言った人がいました。

 小津は、いつも愛用のライカを手に離さずに持っていました。
 ファインダーを覗き、あえて、世界の現実から、四角い映像現実として、自分に従って、切り離した世界を描いてきたのです。

◎この一年、小津安二郎生誕100年のブームに、随分と映画に親しみました。確か、このブームは生誕90年からだと思うのです。没後40年となり、見る側の意識や社会がかけ離れてしまったからこそ、ますますノスタルジアと考えさせられる映画になりました。私のようなものが、こうしてビデオを鑑賞にひたること自体、その輪に影響されてのことだからです。
2003(平成15)年12月24日記す

陽岳寺公式サイト、投稿日:2003年12月24日 更新日:2019年8月13日
監督 小津安二郎
http://www.yougakuji.org/archives/565

posted by fom_club at 10:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

伏見義民

 そうですかぁ〜、190年前の松平定信が亡くなったころに、深川が、深川で江戸随一の蘭学の花が咲いたとはねぇ〜
 なんとか身を起こしたヤッホーくん、すたすたとまた歩きだしますが、またまたひっくり返ってしまったのですぅ〜
 だってぇ〜霊厳寺に墓所のある松平定信は「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」(太田南畝)、
 そのころ、あ、あれでしょ、天明の大噴火に天明の大飢饉や田沼意次、だから、松平定信の前でしょ、そんな時空間を
 2020年の元旦に徘徊しちまうなんて、もう、たちくらみにめまい、目が点になったり丸くなったり、もうたいへん……
 文殊九助(もんじゅくすけ)は232年前の今日、正月3日、亡くなっておりまするぅ〜
 遺骸は、深川の陽岳寺(江東区深川2-16-27 Tel 03-3641-1580)に:

伏見義民事蹟

  1785(天明5)年、時の伏見奉行小堀政方(まさみち)の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助ら7人を伏見義民という。
 江戸時代(1603〜1867)、伏見は交通の要衝として栄え、政治・経済上重要な地であったため、幕府の直轄地として奉行所が置かれた。
 1779(安永8)年に奉行となった小堀政方は数々の悪政を行ない、住民に対する苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)は言語に絶するものがあった。
 文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛の7人は、奉行の悪政に虐げられた住民の苦難を坐視するに忍びず、苦心惨憺の末、天下の禁を破って幕府に直訴した。
 このため、1785(天明5)年、政方は奉行を罷免されたが、九助ら7人も獄中で相ついで病死した。
 この碑は1887(明治20)年に建てられたもので、碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書である。
 毎年5月18日には伏見儀民顕彰会によって慰霊祭が執行される。
(京都市)

小堀政方(まさみち)略伝

 近江国浅井郡小室の藩主。
 祖先、小堀新助正次は関ヶ原の合戦に徳川軍に従ひ、その手柄に依って、630石を賜はる。
 その子、政一は従五位(じゅごい)下遠江守に任ぜられ、伏見奉行を25年間勤めた。
 茶道遠州流の始祖弧蓬庵大有宗甫大居士とはこの人のことである。
 政方はその6代目で、父の政峯が伏見奉行在任中にここで生まれた。
 当時羽振りを利かした老中、田沼意見次が、かくまで出世したその糸口をつけたのが政峯であったことを非常に徳とし、その子、政方を若くして二条城番、大阪城番を経て、1778(安永7)年11月、伏見奉行に任じ、1779(安永8)年2月27日に赴任した。
 在職凡そ8ヶ年、1785(天明5)年12月29日免職され、1788(天明8)年5月6日最後の判決が下り、政方は相州(相模国の別称)小田原の城主大久保加賀守の江戸藩邸に永預かりとなった。
 時に47歳。
 その後、わづかに茶事を以って心を慰め、謹慎の余生を送り、1803(享和3)年9月8日、62歳で没す。
 法名(ほうみょう)、修禅院殿宗友大居士、菩提寺、江戸下谷の円満山広徳寺に葬る。

義民略伝

文殊九助(もんじゅくすけ)

  近江源氏佐々木氏の余流より出で、名工包利(かねとし)を祖とし、代々刃物鍛治をしていた。
 明和、天明の頃、下板橋2丁目に住み通称九助、宗兵衛包光といふた。
 生まれつき剛毅沈着、義侠心に富み、思慮綿密、また文筆の才あり。
 同志の中心人物として結束を固め、最後までその志を緩(ゆる)めず、終に素志を貫徹したのは、主としてこの人の人物によるといふも過言にあらず。
 江戸で再吟味の際、天明8年正月3日、公事宿(くじやど)で死んだ。
 深川陽岳寺の照道和尚その遺骸を得て自坊に葬った。
 宿坊は向島庚申町の慶念寺、戒名(かいみょう)は文質玄殊信士。

丸屋九兵衛(くへえ)

  京町北7丁目に住み農業。
 九助の半身としてよくこれを助け、最後まで奮闘した人。
 九助と同じく江戸で再吟味中、天明8年正月23日に没し、同じく陽岳寺に葬られた。
 戒名は大用鉄心信士、宿坊は伏見中之町の源光院。

麹屋伝兵衛

  大文字町に住み、麺製造業。
 九助、九兵衛と共に最初に江戸に行ったが、不幸病気になり、天明5年11月11日、深川の陽岳寺で死んだ。
 戒名は源宗勝善浄和居士。宿坊は榎町の宝国寺。

伏見屋清左衛門

  両替町13丁目に住み、塩屋。
 天明7年9月19日、京都町奉行東役所で牢死。
 戒名は釈浄徹。宿坊は新町8丁目真西寺。

柴屋伊兵衛

 京町南8丁目に住み、薪炭商。
 天明7年9月23日、京都町奉行東役所で牢死。
 戒名は正誉義山浄因信士、宿坊は石屋町の勝念寺。

板屋市右衛門

  村上町に住み製材業。
 天明7年10月20日京都町奉行東役所で牢死。
 戒名は晴山院了月信士、宿坊は堀詰町の顕正寺。

焼塩屋権兵衛

  深草直違橋9丁目に住み、土器製造業。
 天明7年11月4日、京都町奉行東役所で牢死。
 法名は釈塩浄、宿坊は深草瓦町の善福寺。

伏見義民之碑            

  いにし天明の頃 此(この)伏見のさと司(つかさ)どれる某(なにがし)とかや奢(おご)りつよく私多かりけれど、酷吏(こくり)ねぢけ人等、時を得其私を助け、政(まつりごと)あらぬ方にみだれ行民(ゆきたみ)其(その)たづきを失ひ、歎(なげ)きのさぎり深くして、払いはむすべなかりしに、里人(りじん)文殊九助ぬし、才賢(さえかしこ)く志実(こころざしまめ)やかにて、思を潜(ひそ)め、もろ人の為に身の難をかへり見ず、同じ志の友、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、柴屋伊兵衛、焼塩屋権兵衛、板屋市右衛門、伏見屋清左衛門等と密(ひそか)に謀(はかり)、心思を一にし、万苦をしのぎ、いくかへりか江戸に出で、歎き訴ふる所あり。

 終(ついに)に此真心貫(このまごころつらぬ)きて、呉竹の伏見の里人の為に、直(すぐ)なる道ふみ開き、其苦厄を払ひたりしに、此事半(なかば)にして伝兵衛ぬしは病に死、九助ぬしは事(こと)果(はた)し後、天明8とせ正月3日、九兵衛ぬしは同じく23日、江戸の旅寝の露と消えぬ。

 今哉(や)其没後百とせを経ぬ。
 此里人遠(とおき)を慕ひ義にいさみ、ももとせも猶一日のここちして其なきたまを祭り其いさをを世々に伝へむとす。
 嗚呼(ああ)むかしもいまも鬼いばらよもぎはことに茂りやすし。
 九助ぬしの如きは、そをかり払ふよき利鎌(とがま)といはむ歟(か)
明治20年 月 日 海舟散人誌
(内大臣三条実美書)


都旧跡 伏見義民墓
所在 江東区深川2‐1陽岳寺内
指定 大正14年1月

 全国に渡る天明の大飢饉(1783〜87年)の頃、山城国伏見奉行小堀政方は幾多の悪政を重ねた。
 このため、伏見住民は塗炭の苦しみにあえいた。
 文殊九助、丸屋九兵衛及び麹屋伝兵衛らは幕府に直訴を企てひそかに江戸に入ったが、伝兵衛は小堀が放った捕吏に殺され、ようやく逃れた九助と九兵衛は直訴に成功して小掘は罷免されたが、両人は天明8年(2788)獄死した。
 3名の遺体はそれぞれ陽岳寺に引き取られ、厚く葬られたが、これはかれら3名が江戸にあって直訴をうかがっている間、当寺に庇護され、多大の援助を受けたからである。
昭和43年3月1日 建設 東京都教育委員会


伏見義民の碑
http://hino.anime.coocan.jp/monjyukusuke/husimigiminnohi-4.htm

都旧跡.JPG

伏見義民.JPG

posted by fom_club at 09:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月02日

「坪井信道」生誕225年の物語

 以前、「功名が辻」というNHKの大河ドラマが放映されたが、日本を中世から解き放った希代の傑物である、従三位参議・織田弾正忠信長が本能寺で自刃し、その御首印が未だに行方知れずとなっておりますが、その信長のまごうこと無き直系の子孫が皆様の足元である、この深川に住んでいたということなどは案外知られていないようですので、今回はこの辺を少々……。

「光忠、これえ〜」、これが信長が出陣する際に発する決まり文句なのですが、この場合の光忠とは信長の愛刀の刀工名で、備前国長船住の光忠と云う刀鍛冶のことでご猿。

 信長の所持刀は数多あり、全てが天下の名刀ばかりなれど、中でも特にこの光忠を好み、生涯で25腰を集めたと伝えられている。
…本能寺で最後の供をしたのも光忠であろう…

 備前(岡山)は古来より刀剣王国として知られ、現存する古刀の数ではダントツである。
 その中でも長船は名門鍛冶の集団としてその名は高く、光忠はその長船鍛冶の頭領であり、“注進物”(鎌倉幕府が1313(正和2)年に全国に良く出来た刀を注進させた刀工の名簿)に記載のされている名刀、切れ味に優れ、華麗で優美なスタイルは如何にも信長好みである。

 当時の多くの武将にも好まれ、信長の他にも、豊臣秀吉の常指し、福島正則、池田輝政、小西行長、小早川隆景(高麗鶴光忠)等の愛刀で有名でもある。
 ただし寡作で、数が少ない。

 信長、信忠の親子が明智光秀に討たれたのが1583(天正11)年、その光秀が山崎の合戦で豊臣秀吉に討たれ、織田家の跡目相続は清州会議で信忠の嫡男の三法師丸に決定をした。

 この秀吉の肩に乗って登場した三法師丸は1580(天正8)年生まれで、この時は三歳。
 織田本家の居城である安土城で天正11年に元服して、秀吉の偏偉も受け織田秀信と名乗る。
 その後、小田原後北条氏が潰れ、大掛りな転封で、1592(文禄元)年に13万石で岐阜城主となる。
 時に秀信13才、因みにこの年に秀吉の養子の羽柴小吉秀勝と浅井長政 x お市の方の三女の小督(淀君の妹)との間に生れた娘と結婚をしている。
 この辺りから織田家は段々と豊臣の一族の扱いを受けるようになっていく。
 これは信長の次男の信雄が暗愚であったためでご猿。

 以後は秀吉の庇護により、階位も従四位下侍従から左近衛少将となり、更に参議を経て1596(慶長元)年には16才で従三位・権中納言となっている。

 このような訳で関ヶ原の戦いでは東西両軍に誘われたが、必然的に西軍に属することとなり、結果、1600(慶長5)年8月23日、福島正則、池田輝政、浅野幸長、黒田長政、山内一豊、細川忠興、藤堂高虎、加藤嘉明の豊臣恩顧の各将に囲まれ、関ヶ原で正式な開戦となる直前に総攻撃を受け、搦手・二ノ丸・大手口と破られ落城寸前、ここで老臣の木造具政と池田輝政が仲介に入り、秀信の降伏と城兵の助命を条件に開城となった。

 はじめ秀信は、切腹を覚悟したが、輝政の執り成しにより主従十余人は高野山に送られ無事。
 しかし秀信は、今までの心労から1605(慶長10)年、この地で病を得て、25才を一期として「グッドバイ」。

 かくして家は滅んだが、子孫は岐阜の揖斐川の周辺に潜み、姓を「坪井」と変え、市井に隠棲し、辛うじて生き延びて、信長のDNAは後代に継承されたという。

 それが開花したのが230年後の1833(天保3)年で、信長より数えて7代目の直系となる「坪井信道」である。

 信道は、1795(寛政7)年1月2日、美濃国(岐阜県)池田郡脛永村に生れた。

 四男一女の末子であり、名は道、幼名は環、長じて一助、のち道庵、号は誠軒、と称した。

 幼少より利発であったが家は貧しく、その上に父母は信道が10才と12才の時に亡くなり、以後は僧侶になっていた長兄の浄界に頼ることになる。
 浄界は信道の大志が再び家を起こすことにあると聴き、尾張の秦鎗浪(しんそうろう)で漢学を学ばせ、基礎を築かせたが、更に一段と学を深めるために当時著名であった豊前中津藩の倉成善司の門に入れた。
 そこで藩医である辛島成庵や宇田川榛斎に出会い、その影響を受け蘭学を学び、ついに蘭方医となった。
 時に信道21才。

 その後、広島で蘭方医の中井厚沢や岡研介(岩国藩医、シーボルトの鳴滝塾の初代学長)と出会い、周防(山口)の赤間関で開業して一年半で1500人の患者を診療したとのことである。
 そこで多少の蓄えが出来たので、更に江戸にて勉学に励む志で周防を出たが、途中で兄の浄界が病に罹ったと聴き、京都に立ち寄り看病の後、全てを与え、従手空拳で江戸に出て来た。

 1821(文政4)年、26才の時に信道は宇田川榛斎の門に入り、葛飾の燈明寺から江戸の鍛冶橋まで6キロの道を毎日通い、後に神田の借家に移る。
 終日塾で勉強し、帰路に按摩をして、灯油代を稼ぎ、残りで食料を買った。
 こうした生活がたたって、ある日、塾の門前まで辿り着いたが、そこで卒倒してしまう。
 見かねた榛斎は彼を塾の玄関番に採用し、何とか食住は確保した。

 信道は志が高く努力家でもあったので、直に頭角を現わし、師匠に代り、新入塾生に蘭学の手ほどきをしたり、夜分は和蘭語辞典の「長崎ハルマ」を筆写して筆耕料を稼いだりした。
 2年後の1823(文政6)年、榛斎はライデン大学のベルハーベェの著書を渡し翻訳を命じた。
 信道はこれを3年かけて訳し、32才の時に「万病冶準」の題名で完成した、全21冊で718章からなる大書である。
 しかし、この本は出版されず筆写で伝えられたので幻の本となってしまった。

 この年、榛斎は家督を倅に譲り、当家の近くの深川2丁目辺に移り、翻訳を続けることになったので、信道も共に深川に引越し、師の手助けをするようになった。
 これが信道と深川の初見である。

 1826(文政9)年3月、「診断大概」を刊行した。
 これは前述の「万病冶準」を要約したもので、この本により西洋流の診断が日本に確立された。
 この本には体温計の使用法まで細かく説明をされていた。

 1829(文政12)年、信道35才の時に師の榛斎から五両(約50万)を借り、深川三好町の借家で診療を始め、直後に安懐堂」と云う名の蘭学の塾をオープンした。
 この年こそが深川で蘭学が花開いた記念すべき年である。
 直に入門者相次ぎ、隣家を買収し、塾を拡張する。
 信道は蘭学の指導に文法を導入した。
 これは蘭学教育の革命で、子弟の蘭学の上達に多大な成果を挙げた。

 医学教育はライデン大学そっくりの臨床講義が行なわれた。
 毎月、三と五の日に病床で患者を前にして、性別年齢を確認し、現在の主訴を聞き、自ら病状を診断して所見を語り、病名を決定し、その原因を教え治療の方法を定め、患者自身の摂生法と講義を進めたので、「安懐堂」の名は全国に広まった。

 信道は自ら貧困の苦しさを体験しているので、塾の謝礼は入門時に大豆一升を受け取り、授業料は年に大豆二升だけであった。
 経費は極力切詰め、寄宿生は各自交代で自炊をさせた。

 1831(天保2)年、37才の時に水戸藩医で蘭学者の青地林宗の長女久米(22)と結婚したが、当時でもかなり晩婚である。
 この年、信道の亡き後に日本医学界の元締となった、大阪の「適塾」の緒方洪庵(1810 - 1863)が入門しており、後には逆に信道の養子の信良が福沢諭吉らと共に洪庵の門下生になっている。

「安懐塾」はますます繁盛して門人があふれたので、塾から500メートル程の深川冬木町に塾舎を新設して「日習堂」と命名した。

 かくして信道は「安懐堂」・「日習堂」という二つの塾を擁し、江戸第一の蘭学の殿堂となった。

 1832(天保3)年信道38才、今から約200年程前のことである。

 場所は仙台堀川に面し、木更木橋と亀久橋の間の江東区冬木14〜15番地、現在の江東区立深川第二中学校の辺りである。


 思うに、「冬木町」は深川に出現して330年程が経つが、町全体が輝いた時が二度ある。

 一度目、始めはご存知、紀伊国屋文左衛門より以前の豪商で冬木(上田)弥平次「冬木屋」三代目の弥平次が戸田土佐守から1万2500坪の荒地を買収して、これは現在価格にして4億8千万位、(元禄期は一両が30万位の計算)1600両で買収して町屋とした時。
 この時、1705(宝永2)年。
 名前も「永代裏」から「冬木町」となった。
 この「冬木町」という町名は現在迄一度も変わらず継承されており、このような例は非常に稀である。
 大概は世の中の移り変わりと共に、吸収・合併されている。
 冬木家の広大な庭園の中に「冬木弁天」の御堂も祭られ、尾形光琳(1658 - 1716)、乾山(1663 - 1743)の兄弟を始め、日本を代表する一級の文化人が数多く参集し、サロンとして賑わっていた正徳・享保(1711〜1735)の時代である。

 二度目がこの坪井信道の「安懐堂・日習塾」の全盛の時であろう。
 この塾の門下生には緒方洪庵がおり、後に洪庵は大阪で有名な「適塾」を開き、福沢諭吉等を育てることとなる。

 洪庵は22才の時、信道の塾に入り、信道の若い頃と同様、清貧のため、塾の玄関番をしている。
 また、諭吉も中央区の鉄砲州の中津藩下屋敷で蘭学塾を開き、これが慶應義塾の前身となる。
 洪庵も信道と同じく働き盛りの54才で急死をしている。
 不思議な符合であるが、福沢諭吉は信道の法要に出席して焼香をしている。
 洪庵が信道を師と仰いでいたためであろう。

「幕末のジェンナー」と呼ばれ、種痘で数万人(7〜10万人)を助けたと云われる桑田立斎。
 福井藩の藩医で藩政改革がオーバーヒートして、安政の大獄に連座し獄死した橋本佐内。
 また、佐久間象山、川本幸民、青木周助等とも大変に親しく、幕末の日本の蘭学を一手に引き受けていた感がある。
 この両塾からトータルで2000人もの塾生が巣立っているが、もう少し信道が長命であったら、今頃は他の蘭学塾と同様に一流の医科大学になっていたことを思うと、信道の晩婚と短命が惜しまれる。

 信道は1848(嘉永元)年11月8日、胃癌が肺に転移して、54才を一期として亡くなった。

 その後、塾は養子の信良が引継いだが、7年後の1855(安政2)年の江戸・大地震で崩壊し、その上に翌年の大津波にて壊滅的状態となり、1856(安政3)年に名実共に終わりを告げた。

 なお、信道の長兄の浄界は摂州小浜村米谷(宝塚市)の清澄寺の第30代の住職となっている。
 次男の兄の実覚は深川永代の万徳院の住職となるも、3年前の1843(天保14)年に病死をしている。
 万徳院(真言宗)は冬木弁天堂と縁が深く、実質的な堂守りであり仏事の指導寺である。

 また、信友は信道の長男である。
 幼名は安貞、後に信友から二代目信道となった。
 1852(嘉永5)年に緒方洪庵の適塾に入門、江戸で開業して長州藩の侍医となり、「好生堂」の教授にもなった。
 同時に長州藩の軍備拡充のために、桂小五郎らと「蘭書会読会」を始め、軍事関係の翻訳及び研究をした。
 1864(元冶元)年7月に禁門の変が起こり、結果、長州征伐の沙汰となり、信友も江戸で糾問所に幽閉された。
 後に山口に送られ、好生堂医学館長兼病院総督と厚遇されたが、元来が病弱であったので、1867(慶応3)年5月25日に肺結核の為、36歳の若さで亡くなる。

 信良は信道の塾生から見込まれて養子になり、後に長女の牧と結婚して「坪井塾」を継いだ。
 福井藩主松平春嶽の侍医兼藩校の教授、幕府の蕃書調所教授より西洋医学所の教授を経て、幕府の奥医師、のち医家の最高位の法眼。
 大政奉還の時には徳川慶喜の供で二条城にいた。
 維新後は徳川家と共に静岡に移り、静岡病院副院長、1874(明治7)年に東京府病院長に就いている。

 同じく信道の養子になった門人に、坪井為春がいるが、為春は本来は大木忠益と、いった。
 1840(天保11)年に入門、1848(嘉永元)年に養子縁組し、坪井姓となる。
 翌年の1849(嘉永2)年、塾頭となった。
 1852(嘉永5)年に芝浜松町にて開業して、信道の次女の幾(16)と結婚。
 後に医学所の教授、埼玉県医学校の校長を務めた。

 また、信道の適孫の時代以降になると各界で著名な人物の名前が躍り出して来る。
 例えば東京大学在学中に本郷キャンパスで弥生式土器を発見した、考古学・人類学の泰斗である坪井正五郎は孫、その子が地質学の坪井誠太郎、その長男が化学の坪井正道であり、他に物理学の坪井忠二が居り、彼等は全て東大教授であり、織田信長の末裔なのでご猿。

東京木材問屋協同組合・文苑随想
実録、〜「深川と織田信長」・「坪井信道」考〜
(花筏)
https://www.mokuzai-tonya.jp/05bunen/zuisou/2013/hanaikada/12/index.html

「坪井信道」・・・ヤッホーくん、元日のウオーキングのときに江東区立深川第二中学校の塀に由来を記した板を発見、へなへなと倒れこんでしまったのです:

日習堂.JPG

「坪井信道」生誕225年の物語、だったのですぅ〜

posted by fom_club at 18:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

七福神のミステリー

Me & my family are fine here. Planning to try my challenge this year too, getting working experiences, I want to fulfill my dreams. I wish to have a good 2020 year, be a better me.

2020.jpg

 幸福をもたらしてくれる神さまを1神ずつ参拝して回る「七福神めぐり」。
 恵比寿(えびす)、大黒天、毘沙門天(びしゃもんてん)、福禄寿、寿老人、布袋(ほてい)、弁財天の7体は、日本の正月に欠かせない存在だ。
 中世の民間信仰から広まったものだが、この中で日本出身は恵比寿さまただ1人
 あとは海外から招来した神さまたちだ。

■ 夷、戎、蛭子、恵比寿…みな「えびす」

 恵比寿は「夷」「戎」「蛭子」などの漢字でも表記される。

 蛭子(ひるこ)は「古事記」「日本書紀」に出てくる国造りの神「イザナギノミコト」と「イザナミノミコト」の子供とされる。
 しかし3歳になっても自分で立つことができなかったため、葦(あし)の船に乗せて海に流されたという。
 七福神にしては気の毒な前半生だが、その後、漁民に大漁をもたらす「エビス」として戻ってきたとされる。
 キーワードは「海」だった。

 漁民たちには時折、浜に打ち上げられる鯨やサメなどを、神さまからの授かり物として受け止める習わしが古くからあったという。
 皆で分け合い一時の「福」を得る。
 流された蛭子が海人たちに漁業や交易、交通などの神、恵比寿さまとして敬われる素地は、古くからあった。
 かつて海は陸上よりも発達した交通路だった。
 恵比寿さまを祭る神社は、瀬戸内海や日本海の海岸線などに散在する。
 遠方から福を運んできてくれる寄神、客神(まろうどがみ)と信仰を集めてきたようだ。

 大黒天はインドの「マハーカーラ」と日本の大国主命が習合した。

 マハーカーラは「偉大な黒」を意味し、ヒンズー教で暗黒をつかさどる神さまだった。
 日本に持ち込んだのは最澄という。
 同時に財運をもたらす神として信仰され、日本では財神として渡ってきた。
 大国主神は古事記の国譲りのエピソードで知られる重要な神さまで、「だいこく」ともに読めたことから合体したという説が有力だ。

 毘沙門天も元来はインドの財宝神「クベーラ」だったという。

 この神さまが中国を経由する時は仏教を守護する四天王に変わる。
 日本でも戦国時代の上杉謙信が信仰していたことで知られている。
 だから七福神を乗せて航海する「宝船」では唯一甲冑(かっちゅう)をまとっている。
 日本では改めてクベーラの性格が重視された。

 唯一の女神、弁財天もインド由来。

 ヒンズー教で水と豊穣(ほうじょう)の神さま「サラスバティー」だ。
 音楽もつかさどるほか悪神を退治する戦いの神さまでもある。

 福禄寿寿老人は中国・道教がルーツの仙人。

 この福禄寿と寿老人は南極星の化身として双子とも同一人物ともされ、ややこしい。

「七福神めぐり」普及させたのは家康?

 その点、布袋は中国・唐の時代に実在した仏僧だという。

 契此(かいし)という名で、太鼓腹を突き出し常に大きな布の袋を背負っていた。
 弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身と噂されていたという。
 最初に日本に入ってきたのは禅画などの画題としてだった。
 平安期には恵比寿と大黒天とが信仰の対象となり、さらに毘沙門天、弁財天らが加わっていった。
「7」神になったのは仏教経典の「七難即滅、七福即生」にちなんだともいう。

「七福神」めぐりが全国に普及したのは江戸時代から。
 徳川家康が七福神の絵を狩野探幽に宝船に乗った七福神を描かせたという。
 家康の政治参謀だった天海僧正が七福神信仰を勧めたという逸話が残っている。
 恵比寿は正直、大黒天は有徳、毘沙門天は威光、弁財天は愛敬、布袋は大量、福禄寿は人望、寿老人は寿命を表し、敬愛すれば7徳が身に備わるというわけだ。

 なぜこれだけ外国の神さまが多いのか。
 恵比寿さまも異邦人を意味する「夷」とも書かれてきたように、七神とも「海」に縁が深い。
 理由の一つは、古代からの漂着物信仰だ。
 日本人にとって海のかなたは、福と富を運んできてくれるものだった。

 もう一つは室町時代に発展した貨幣経済だろう。
 商業が盛んになるにつれ、天照大神のような日本神話の神さまや貴族階級の氏神さまではなく、商工業者の信仰の対象が必要になったのだろう。
『七福神の謎77』(祥伝社、2013年12月)の武光誠(1950年生まれ)・明治学院大教授は、
「最初は豪商が、武士や旧家が祭る神さまと異なる福の神を自分たちの心のよりどころとして信仰した。すぐさま豪商にあこがれる中流以上の商工民に広がっていった」としている。

 兵庫県の西宮神社は、恵比寿さまを祭る神社の総本山(西宮市社家町1−17)。
 毎年1月10日を中心に9日から11日までの3日間行われる「十日えびす」は、100万人を超える参拝客でにぎわい、その年の福男を決める行事でも知られている。

 七福神巡りは不況の時に参拝客が多いという。
 アベノミクス効果が浸透しつつも、消費増税を前にした今年の正月はどうなっているだろうか。

[写真-1]
七福神は日本、中国、インドの神々の連合体だ(2013年1月、東京・渋谷の西武百貨店)

[写真-2]
西宮神社に奉納された冷凍マグロにさい銭を張り付ける子どもたち(2013年1月8日午前)

[写真-3]
西宮神社の本殿参拝の一番乗りを競う「開門神事福男選び」で一斉に駆けだす参加者

開門神事 福男選び 西宮神社

https://www.youtube.com/watch?v=W16f-FmKBfs

約5000人が境内を走る 西宮神社平成最後の福男
https://www.youtube.com/watch?v=WlspuVsdki4

日本経済新聞、2014/1/3
日本出身の神様はただ1人
七福神のミステリー

(電子整理部 松本治人)
https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK27028_X21C13A2000000/

posted by fom_club at 15:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヤッホーくんの「深川七福神」めぐり

With the arrival of the new year, which also marks the start of a new decade, and in the spirit of “new year, new you”, we should take this opportunity to reset some stupid resolutions and adopt healthier habits.

new year.jpg

 ヤッホーくんの「深川七福神」めぐり、昨日の日記の復習です:

 深川神明宮・寿老神 → 深川稲荷神社・布袋尊 → 龍光院・毘沙門天

 今日2日は、その続きです:

 円珠院・大黒天からです。

円珠院.JPG

大黒天.JPG

 円珠院は、享保のころ旗本永見甲斐守の娘、お寄の方が起立しのち、円珠院殿妙献日寄大姉の法名で、1730(享保15)年末にこの寺に葬られました。
 1720(享保5)年11月13日画かれた大黒天の掛軸があり、木造の大黒天が安置、境内に石造の破顔大黒天が安置されています。
 江戸時代から、深川の大黒天として有名でした。

 大黒天信仰には二つの流れがあります。
 一つは、大黒天を大国主命とする流れ、これは多く神社に祀られています。
 もう一つは、インド名をマハカーラという仏神の大黒天、これは多く寺院に祀られています。

 円珠院に安置されているのは、仏神の大黒天です。
 インドのシバ神が、悪神を退治した神話から、仏教に取入れられ、摩訶迦羅天すなわち大黒天となり、夜叉荼吉尼衆を降伏する大日如来の化身となり、忿怒の戦闘神の姿をしていました。
 ところが大黒天はしだいに招福の神となり、忿怒の相が、笑顔の姿になり、台所財宝糧食をつかさどる大黒天となりました。

 わが国でもっとも古い有名な大黒天は、比叡山の出世大黒といわれる三面六臂の大黒天です。
 正面が大黒天、右面が毘沙門天、左面が弁財天、これは大黒天が、降魔と施福の二つの面を持っているのを表したものです。
 その後は、大黒天は施福の一面のみが、強調され信仰されるようになりました。
 大黒は大国に通じ、大国主命に結合して福神の形となり、烏帽子、狩衣をつけ、右手に小槌をかざし、左手に大きな袋をかつぎ、米俵の上に座すようになりました。
 小槌と袋は限りない財宝糧食を蔵していることをあらわし、人びとに財宝を授ける福神であります。
 米俵に縁のあるところから、鼠は大黒天の神使になっています。
 子の日、特に甲子の日は大黒天の祭日となっています。


 つぎに訪れたのが、心行寺・福禄寿です。

心行寺.JPG

福禄寿.JPG

 福禄寿の安置してある心行寺は、1616(元和2)年、京橋八丁堀寺町に創立された浄土宗の寺。
 開山は観智国師の高弟である屋道上人。
 開基は岩国城主吉川監物の室、養源院殿であり、1633(寛永10)年、現在地、深川寺町に移った由緒ある名刹である。
 関東大震災と昭和20年の戦災により二度も焼失したが、現在の本堂は1967(昭和42)年に再建された。
 1975(昭和50)年に福禄寿が安置されている六角堂が完成した。

 福禄寿は、心行寺の六角堂に安置されています。
 福禄寿は、星宿の神、南十字星の化身ともいわれて、長寿をつかさどる人望福徳の福神であります。
 一説には、中国の宋の時代、嘉祐年間(1056年〜)に実在した道士であるといわれています。
 福禄寿は、背たけが低く、頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年といわれ長寿をつかさどる福神、杖を右手に、左に長命の鳥、鶴を従え長命と円満な人格を人びとに授ける福神であります。
 また福(幸福)と禄(財)と寿(長命)の三つの福徳を授ける神ともいわれてきました。


 そして、冬木弁天堂・弁財天、です。

冬木弁天堂.JPG

 冬木弁天堂は、木場の材木豪商、冬木弥平次が1705(宝永2)年、茅場町(中央区)から、深川に屋敷を移転した際、邸内の大きな池のほとりに、近江竹生島(ちくぶしま)から移した弁財天を安置しました。
 そのためいまでもこの町を冬木町といいます。
 この弁財天は、等身大の裸形弁天にして、毎年一回衣装の着替行事をおこなってきましたが、大正十二年の関東大震災に焼失しました。
 冬木弁天は、明治三年から一般に参詣を開放しました。
 現在の弁天堂は、昭和28年に再建されました。
 尾形光琳が、冬木家に寄寓中、冬木家の妻のために書いた秋草の小袖が、上野国立博物館に保存されています。
 冬木弁天堂は、古義真言宗に属しています。

 冬木弁天は、以前大きな池のある材木豪商冬木家の邸内の弁天堂に安置されていました。
 現在は境内が狭くなってしまいました。
 弁財天は、インド名をサラスバティという川の名、意訳して、大弁天、美音天といわれこの川の神が、悪声を変じて美声に変える音楽の神、芸術の神でした。
 仏教の神となり、才智弁舌の神とされ、最勝王経に説かれているように、「もし財を求むるならば多財を与える」とあります。
 わが国では、弁才天より弁財天として、財宝を施す福の神として信仰されるようになり、商売繁盛の富有の福徳を授け、芸道音楽の仏神として位置づけられ、池、川、沼、湖などに多く祀られ、蛇が神使とされてきました。
 また、同経に、弁財天は、智慧、延命、安楽を与えるととかれています。
 江の島、竹生島、厳島の弁財天が、昔から有名であり、お姿は、女神、白色の美顔、頭に宝冠、一般には青色の衣を着し、左手には琵琶を抱き、右手でこれを弾いている座像が多いのですが、中には八臂、各手にいろいろな器杖を持っています。
 正月最初の巳の日を昔から初巳、初弁天として弁財天への参詣者が多く、巳成金という海運のお守りをうけ、これは金持ちになるというならわしであります。
 弁財天を宇賀神として信仰しているところもあります。


 もう、ラストです。それは、富岡八幡宮・恵比寿神です。

恵比寿神.JPG

 深川七福神の恵比須神がお祀されている富岡八幡宮は、1627(寛永4)年、当時永代島と呼ばれていた小島に創建されました。
 周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と居住地を開き、今日の八幡宮境内・深川公園地・富岡町・門前仲町を含む、総じて6万508坪の社有地を得ました。
 以来、隅田川両岸一帯(深川及び現中央区新川・箱崎地区)の氏子を始め、広く世の崇敬を集めている江戸最大の八幡さまで、「深川の八幡様」として親しまれています。

 深川七福神は三つの神社と四つのお寺にまつられており、どこから参詣されても かまいませんが、 富岡八幡宮の恵比須神から深川神明宮の寿老神へ、もしくは その逆のコースが巡りやすい道順に なっています。
 徒歩約2時間のコースですが、周辺には多くの史跡・旧跡や、いろいろな魅力のあるお店もたくさんありますので、美味しいお食事やお土産など下町情緒あふれる深川ならではの魅力を十分堪能されてはいかがでしょうか。

 恵比須神は、富岡八幡宮境内の西側にある恵比須宮に奉祀されています。
 エビス神は、イザナギノミコトの第三子にあたる蛭子尊であるといわれ、全国のエビス信仰の中心は兵庫県西宮市の西宮神社です。
 一説によるとエビス神は、大国主命の子にあたる事代主命で、釣好きの神であるといわれています。
 また鯛の故事にちなみヒコホホデミノミコトともいわれます。

 エビス神は烏帽子をかぶり、狩衣を着て、右手に釣竿を持ち、左手に鯛を抱き、岩の上に座った姿をしておられます。
 最初は、航海安全の神として信仰されてきましたが、のちに商売繁盛の神として、ひろく信仰されるようになりました。
 エビス顔といわれるように、笑顔愛敬、和顔愛語の福徳を人に授け、かつ富財の神として、信仰されてきました。
 また釣り関係の人々の信仰もさかんであります。
 一月十日を初えびす、十日戎ともいい、九日を宵戎、十一日を残り戎といって、西宮神社を中心として、関西にさかんであります。


 え〜と、ヤッホーくんの元旦ウオーキングは、2時間半、1万3千歩に及んだと言われています。
 ですので、「七福神めぐり」の報告は以上だけど、それだけではすまなかったって言ってます。
 あれっ、これはなんじゃ、という名所旧跡にも遭遇、また日を改めて日記にしておきたい、と。

posted by fom_club at 09:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月01日

七福神めぐり

It’s 2020. Welcome to the future!
To everyone, I can only wish you happy 2020, good health, good luck with a strong heart to steer our nation in the year ahead.

happy new year 2020 (2).jpg

 やっほーくんの元日は深川七福神めぐり。

 先ずは、寿老神。
 深川神明宮、そして寿老神社へ。

深川神明宮.JPG

寿老神.JPG

 深川神明宮は、深川において創立の最も古い神社であります。
 大阪摂津の深川八郎右衛門が、この付近に、深川村を開拓し、その鎮守の宮として、1596(慶長元)年、伊勢皇大神宮の御分霊をまつって創建しました。
 徳川家康が、この村に来て、村名を尋ねたがないので、深川八郎右衛門の姓をとって、深川村と命名せよといわれた由以来、深川村が発展し、深川地区の各町に冠せられたりし、深川の地名のもとになりました。

 寿老神は、深川神明宮の境内の寿老神社に安置されています。
 寿老神は、寿老人とも書き、中国道教の神であります。
 また中国の老子の化身の神ともいわれています。
 寿老神は、白髪長寿の老人の姿をして、杖を手にし、杖には人命の長寿を記した巻物を吊し、鹿を伴っています。
 鹿は、長寿を司る寿老神の神使とされています。
 寿老神は、人に延命長寿の福徳を授ける福神として、信仰されてきました。


 やっほーくんのこのブログ、2016年11月25日付け日記「朝丘雪路」をご覧ください。
 伊東深水の掲示板前を越して、今度は深川稲荷神社の布袋尊。

深川稲荷神社.JPG

布袋尊.JPG

 布袋尊のまつられている深川稲荷神社は、1630(寛永7)年の創立、深川地区では、創立の古い神社です。
 祭神は、宇賀魂命、西大稲荷ともいいます。
 この付近の旧町名は、深川西大工町でしたが、1932(昭和7)年8月1日、深川清澄町と改称し、その旧名から西大稲荷と称しました。
 この神社の裏の小名木川は、江戸時代初期から、船の往来がはげしく、この付近一帯に船大工が住み、船の修繕、造船をしていましたので、この町名が生まれたといわれています。
 この神社は、無住社にして、町会によって管理運営されています。

 布袋尊は、中国五代のころ、浙江省奉化県に実在した契此という高僧といわれています。
 大きな袋を持ち、これに食べ物や日常品を入れ、杖をたずさえ、大きな団扇を手にし、身体は低いが、腹は太鼓腹、半裸身、粗衣をまとい、常に笑顔、清貧にあまんじ、諸国を遊行し、子供と遊び、酒脱、楽天的な和尚として親しまれてきました。
 また人の吉凶、時の晴雨を予知したといわれました。
 916(後梁貞明2、日本では平安時代、延喜16)年3月3日、高齢をもって寂したが、年齢は不詳とされています。
 中国において、布袋尊を弥勒菩薩の化身として、一般に信仰せられ、画像に描き、彫塑に刻まれ、あるいは置物として、ひろく親しまれるようになり、わが国に伝来し、清廉潔白、大気度量を人びとに授ける福神として、禅画や置物までなって親しまれ、信仰されるようになりました。
 仏法を永く護る羅漢として十六羅漢がありますが、それに布袋尊を加えて十八羅漢とすることも古くからおこなわれています。


 ヤッホーくん、布袋尊のそばに小さなお稲荷様を発見:

三穂道別稲荷神社.JPG

『御府内寺社備考』[神社]に「深川海辺大工町裏町 満穂稲荷社 境内除地四十八坪持添 町並御年貢地五十六坪 当社者慶長元申年[1596]起立之由」と書かれ(慶長18年[1613]、寛永7年[1630]との説もある)、
『寺社書上』には「深川元町神明別当泉養寺持」とあり、
『葛西志』には「里人の伝に、古は社地わずかに三坪あり、世に三坪の稲荷といへり」とも書かれています。
 ここ小名木川の南岸は海辺で、埋め立てられた土地であるといわれています。
 小名木川の関係で船大工の集落ができ、海辺大工町と呼ばれるようになったと思われます。
 当神社は、いにしえ、泉養寺の管理であったこと。
 泉養寺(現・市川市国府台)は、深川の開拓者・深川八郎右衛門一族の菩提寺であります。
 また、社地が三坪だったので、三坪稲荷と呼ばれていたのを満穂となり、さらに三穂に変えています。
 三坪の三が関係しているのかも知れません。
 満穂稲荷社とは別にあった道別稲荷の創立は「長禄年間(1457-1459)とも伝えられている」とのことですが、昭和40年4月に隣り合わせにあった道別稲荷を合祀しました。
 町会では毎年4月に富岡八幡宮の神主を呼んでお祓いし、例大祭をおこなっています。
(平成24年5月吉日 江東区清澄三丁目北部町会 境内配布由緒書より)


 そうですか、いつも素通りで申し訳ございませんでした、とやっほーくん、深々と頭をさげお参り。
 そして清洲橋通りを超え、資料館通りに入っていきますが、この辺たくさんの神社仏閣があります。
 まずは、霊厳寺では、江戸六地蔵さまのひとつにごあいさつ。もちろん松平定信のお墓にもお参り。

江戸六地蔵.JPG

 初冬、江東区の健康診断を受けた同友会・深川クリニックの前を通り、龍光院、毘沙門天へと歩を進めます。

龍光院.JPG

 龍光院は、浄土宗雲光院の塔頭寺院で、1611(慶長16)年馬喰町(中央区)に創立、1657(明暦3)年の大火に焼失し、岩井町(千代田区)に移転、1682(天和2)年の大火に焼失し、同年深川の地に移転しました。
 龍光院が現在地に移ったとき、鬼門除けとして境内東北角に、三尺ほどの石造の毘沙門天が安置され、1936(昭和11)年には境内の東南角に一間半四面の毘沙門堂が建立されました。
 1945(昭和20)年、戦災のため、堂宇は焼失しましたが、復興し、1975(昭和50)年、木彫の立派な毘沙門天が安置されました。


毘沙門天.JPG

 毘沙門天はインド名バイスラバンナ(ベイシラマダヤ)の音写で、もともとヒンズー教の財富の神であったクヴェーラ神が仏教に取り入れられ、仏神となったものです。
 経典によると、毘沙門天は四天王(持国天・増長点・広目天・多聞天)の随一として須弥山の中腹に住み、大ぜいの夜叉や羅刹を率いて北方を守護しています。
 常に仏の道場に在って多くの法を聞き、あるいはその福徳の名声が遠く十方に聞こえることから多聞天と訳され、また財を授けることから施財天ともいわれます。
 その姿は、身に甲冑をつけ、左手に宝塔を捧げ、右手には三叉戟(三つまたの鎗)を持ち、忿怒の形相で邪鬼を踏みつけ毘沙門立ちをしています。
 毘沙門天はわが国では仏教守護から転じて、国土守護の武神として、とくに武将の間に信仰されるようになりましたが、中でも上杉謙信が毘沙門天を守護神としてあがめ「毘沙門の申し子」といわれたことや、志貴山の毘沙門天に祈願してうまれた楠正茂が、幼名を多聞丸と名づけられたことなどは、あまりにも有名です。
 また毘沙門天は護法と施福を兼ねる仏神として、七福神の一神にも数えられ、民衆に勇気や決断力を与え、財福を授ける福神として広く信仰されています。


 以上、深川七福神会(江東区深川2-16-7 心行寺内)発行(発行人は、深川七福神会会長外山寛穂、著者は江東区史談会会長細田隆善)『深川七福神』によります。
 富岡八幡宮でいただきましたが、巫女さんに、
「今年こそ明るい年になりますように」とヤッホーくん、お礼の言葉を申し述べましたところ、
「ご主人こそ佳い年になるますように」と言葉がかえってきて、ヤッホーくん、会話が成り立って嬉しさのあまり、元旦から涙しておりました。
 希望に満ちた、明るい未来のある日本らしい、常識のある日本人が暮らすこの国にまた戻せるよう、皆の衆、力をあわせませんか 😃✋❗

(この稿、まだ続きます)

posted by fom_club at 17:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

おせち料理

happy new year 2020.jpg

 お正月の定番と言えばおせち料理。
 お重の中に、たくさんの種類の料理がひしめくイメージですが、意外にもその歴史は新しいそうです。
 そもそもおせちには、どんな由来があるのでしょうか。

もとは神様へのお供え

 おせちを漢字で書くと、「御節」。
 正月のほか、ひな祭り、七夕などの五節供(せっく)(今は節句)に神様に供えた「御節供(おせちく)」が語源といわれる。
 江戸時代後期の書物には、「節供は神に供えるもののことを言うのに、女子どもは正月の食べもののことだと思い違いをしている」という内容の記述があり、このころには「おせち=正月料理」となっていたことが分かる。
 数の子、田作りなどおなじみのメニューも江戸時代にはすでに作られていた。
 当時、各地の習俗を調べた「諸国風俗問状答(といじょうこたえ)」には、「数の子、田作り、たたきごぼう、煮豆」の4品が江戸では定着していたとみられる記述がある。
 現在のおせちは、
「一の重」に「口取り」、
「二の重」にブリやエビなど魚介の焼きもの、
「三の重」になますなど酢の物、
「与の重」に煮物を詰める、
これが「正式」とされている。
 口取りというのは会席料理で最初に出すものの意味で、主に宴が終わって自宅に持ち帰って食べるものだった。
 江戸時代の「基本の4品」や、かまぼこ、栗きんとん、だて巻きなどがそれにあたる。

大正時代にすでに「洋風おせち」

 ただ、この形式が全国的に広まったのは、意外に新しい。
 国立歴史民俗博物館の山田慎也教授によると、大正から昭和の初めにかけておせちの中身が模索され、戦前に今のおせちの基本ができたものの、戦争を挟み、全国に画一的に広まったのは、高度成長期以降という。
 団塊の世代が上京し、核家族化して地方の食の伝承が途切れ、雑誌やテレビの料理番組で紹介されるものがお手本になった。

 山田さんは、明治の終わりごろに創刊された「婦人之友」「婦人画報」といった雑誌を手がかりに、各時代のおせちの規範を研究している。
 江戸時代の「基本の4品」に、かまぼこときんとんが加わったのが明治時代。
 現在の定番の一つ「だて巻き」は、元々プロの料理だったが、大正時代に女学校などで調理を教える「割烹(かっぽう)教育」や大人向けの料理教室が盛んになり、家庭のおせちにも入るようになったという。

 大正期には「刺し身のお重」「サンドイッチやチキンゼリーを詰めた洋風のお重」などが紹介されており、お重の詰め方も中身も模索されていた。
 それが昭和に入り、口取り、焼きもの、酢の物、煮物の形に落ち着いた。

 また、戦時中には外地に出兵していた人たちにも正月気分を味わってもらおうと、かまぼこ、きんとん、田作りなどを詰めた缶詰が作られたこともあるという。

重箱を出るおせち

 昭和後期から百貨店が扱うようになったおせちのお重詰めは、核家族化や共働きの増加が進んだ平成の間に支持され、「作るもの」から「買うもの」への流れはさらに強まった。

 しかし、「婦人画報」のおせち特集を20年にわたり手がけてきた平田剛三さんは「ここ数年は『やっぱり何品かは作りたい』という揺り戻しがある」と言う。
 1990年代の新年号は毎年のように有名料亭のおせちを紹介しているが、その後は「おせちの基本」をおさらいする内容が増えている。

 また、最近ではコンビニの「ローソンストア100」が、少量を1品100円で売る「100円おせち」がヒットするなど、おせちとセットだったはずの重箱が、なくていいものになりつつある。
 婦人画報でも今年は「時代は“詰める”から“盛る”へ」とうたい、お皿に盛るおせちを特集している。


[写真-1]
1938(昭和13)年に撮影されたおせち料理の講習会の様子

[写真-2]
大正時代のお重詰めしつらえのイラスト。1918(大正7)年の「婦人之友」に掲載された=自由学園資料室所蔵

[写真-3]
プレートに盛りつけたおせち=ローソンストア100提供

朝日新聞、2020年1月1日11時00分
意外と新しいおせちの「伝統」
高度成長期から画一的に

(栗田優美)
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20191226003213.html

「おせち料理」には、年始を迎えるにあたってのさまざまな祈りが込められています。
 毎年何気なくいただいている「おせち料理」には、五穀豊穣、不老長寿、子孫繁栄などを願い、海の幸、山の幸がふんだんに盛り込まれています。

祝い肴三種

祝い肴三種はその代表的なもので、この3つが揃えばおせちの形がととのうといわれています。

☆ 田作り: 片口いわしを冬の風にあてて乾燥させたごまめは、かつて田の肥料にもしたことから「田作り」とも呼ばれています。「五万米(ごまめ)」の文字をあて、豊年豊作の願いを込めています。

☆ 黒豆: 日に焼けて真っ黒になるまでまめ(勤勉)に、過ごせますようにという願いを込めたものです。関西風は丸くふっくらと煮ますが、関東風は「しわが寄るまで元気ではたらけるように」としわができるように煮上げます。

☆ 数の子: 数の子は粒が多いだけでなく、親の「にしん」が「二親健在」に通じます。子孫繁栄の縁起物です。

縁起のよいおせち料理のレシピ

* えび: えびはゆでたり焼いたりすると背が丸くなることから、腰が曲がるまで長生きできるようにという長寿の願いを込めています。

* 昆布巻き: 昆布は「養老昆布(よろこぶ)」に通じ、不老長寿の意味があります。

* きんとん: 「金団」と書き、財宝という意味があります。色も金銀財宝を連想させる黄色をしています。

* 錦卵: 卵の白味と黄味を分けて二色にした料理の「二色(ニシキ)」と豪華な「錦」との語呂合わせ。

* だて巻き: だて巻きは、卵、白身魚のすり身、砂糖を混ぜた生地を焼き、巻きす(鬼すだれ)で渦巻き状に巻いてつくります。この鬼すだれで巻かれただて巻の形状が、巻物に似ていることから「読み書きがしっかりとできるように」という学業成就の願いが込められているようです。

* なます: めでたいこと、よろこびをあらわす紅色、清浄・神聖をあらわす白を組み合わせています。大根は大地に根を張るので、家の土台がしっかりして栄えるともいわれています。

* 菊花かぶ: 菊は国花であり、長寿を表します。おめでたいことの象徴。

* 鯛: 「めでたい」に通じる語呂合わせ。鯛は恵比寿様が持っていることから、江戸時代に始まった七福神信仰とも結びついています。

* ごぼう: 根づく野菜であることから家の土台がしっかりとするようにと願いを込めて。

* れんこん: たくさんの穴が開いていることから、先が見える、見通しがよいことをあらわします。

* 里芋: 親芋からたくさんの小芋が収穫できることから、子孫繁栄をあらわします。


キッコーマン
おせち・正月料理、伝統的なおせち料理・祝い肴のいわれ
https://www.kikkoman.co.jp/homecook/college/10shoga/iwaizakana.html

posted by fom_club at 16:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月31日

カルロス・ゴーン被告 arrives in Lebanon by private plane from Turkey

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 日産自動車元会長、カルロス・ゴーン被告が自身の広報を担当するフランスの企業を通じ声明を公表したことが31日、判明した。
 全文は以下の通り。

レバノンにいることを公表した日産自動車のゴーン元会長の声明文(31日)

「私は今、レバノンにいる。もはや、有罪が予想される日本の偏った司法制度の下でのとらわれの身ではなくなった。そこでは差別がまん延し人権が侵害され、日本が順守すべき国際法や条約が全くもって軽んじられていた」

「私は裁判から逃れたのではなく、不公平さと政治的な迫害から解き放たれた。ようやくメディアと自由にやりとりできる身となり、来週から始めるつもりだ」


日本経済新聞、2019/12/31 14:21
「私はレバノンにいる」
ゴーン元会長声明全文

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54000320R31C19A2I00000/

TOKYO − Nissan’s former Chairman Carlos Ghosn said Tuesday from Lebanon he was not fleeing justice but instead left Japan to avoid “injustice and political persecution” over financial misconduct allegations during his tenure leading the automaker.

Ghosn had been released on bail by a Tokyo court while awaiting trial but was not allowed to travel overseas. He disclosed his location in a statement through his representatives that did not describe how he left Japan, where he had been under surveillance. He promised to talk to reporters next week.

“I am now in Lebanon and will no longer be held hostage by a rigged Japanese justice system where guilt is presumed, discrimination is rampant, and basic human rights are denied, in flagrant disregard of Japan’s legal obligations under international law and treaties it is bound to uphold,” the statement said.

Japanese media quoted prosecutors speaking anonymously who said they did not know how Ghosn had left.

Ghosn, who is of Lebanese origin and holds French, Lebanese and Brazilian passports, was arrested in November 2018 and was expected to face trial in April 2020.

Prosecutors fought his release, but a court granted him bail with conditions that he be monitored and he could not meet with his wife Carole, who is also of Lebanese origin. Recently the court allowed them to speak by video calls.

Japan does not have an extradition treaty with Lebanon. It is unclear what steps the authorities might take.

Ghosn has repeatedly asserted his innocence, saying authorities trumped up charges to prevent a possible fuller merger between Nissan Motor Co. and alliance partner Renault SA.

He has been charged with under-reporting his future compensation and of breach of trust.

During his release on bail, Ghosn had been going daily to the office of his main lawyer Junichiro Hironaka to work on his case.

Hironaka told reporters Tuesday afternoon he was stunned that Ghosn had jumped bail and denied any involvement in or knowledge of the escape. He said the lawyers had all of Ghosn’s three passports and was puzzled by how he could have left the country.

The last time he spoke to Ghosn was on Christmas Day, and he has never been consulted about leaving for Lebanon, Hironaka told reporters outside his law office in Tokyo.

He said the lawyers still need to decide on their next action, besides filing a required report to the judicial authorities. His office was closed for New Year’s holidays in Japan.

“Maybe he thought he won’t get a fair trial,” Hironaka said, stressing he continues to believe Ghosn is innocent. “I can’t blame him for thinking that way.”

He called the circumstances of Ghosn’s arrest, the seizure of evidence and the strict bail conditions unfair.

Ghosn had posted $14 million bail on two separate releases. Ghosn had been rearrested on additional charges after an earlier release.

Earlier, Ricardo Karam, a television host and friend of Ghosn, told the Associated Press that Ghosn arrived in Lebanon on Monday morning.
“He is home,” Karam told the AP in a message. “It’s a big adventure.”

Karam declined to elaborate.

Lebanon-based newspaper Al-Joumhouriya said Ghosn arrived in Beirut from Turkey aboard a private jet.

The French government reacted with both surprise and confusion.

“Mr. Carlos Ghosn is not above the laws, be they French or Japanese,” said Agnes Pannier-Runacher, a junior finance minister. But she added that “he has French nationality and we owe him consular support, as we owe all French nationals.”

Speaking to broadcaster BFM-TV, she said: “I was surprised as you when I learned about this escape.”

Ghosn was credited with leading a spectacular turnaround at Nissan beginning in the late 1990s, rescuing the automaker from near-bankruptcy.

The Lebanese took special pride in the auto industry icon, who speaks fluent Arabic and visited regularly. Born in Brazil, where his Lebanese grandfather had sought his fortune, Ghosn grew up in Beirut, where he spent part of his childhood at a Jesuit school.

Before his fall from grace, Ghosn was also a celebrity in Japan, revered for his managerial acumen.

Nissan did not have immediate comment. The Japanese automaker of the March subcompact, Leaf electric car and Infiniti luxury models, has also been charged as a company in relation to Ghosn’s alleged financial crimes.

Japanese securities regulators recently recommended Nissan be fined 2.4 billion yen ($22 million) over disclosure documents from 2014 through 2017. Nissan has said it accepted the penalty and had corrected its securities documents in May.

Its sales and profits have tumbled and its brand image is tarnished. It has acknowledged lapses in its governance and has promised to improve its transparency.

Another Nissan former executive Greg Kelly, an American, was arrested at the same time as Ghosn and is awaiting trial. He has said he is innocent.

Hiroto Saikawa, who replaced Ghosn as head of Nissan, announced his resignation in September after financial misconduct allegations surfaced against him related to dubious income. He has not been charged with any crime.

The conviction rate in Japan exceeds 99% and winning an acquittal through a lengthy appeals process could take years. Rights activists in Japan and abroad say its judicial system does not presume innocence enough and relies heavily on long detentions that lead to false confessions.

The charges Ghosn faces carry a maximum penalty of 15 years in prison.

Ghosn’s case has drawn intense media attention in Japan. In one instance when he was released from custody in March, the former executive normally seen in luxury suits wore a surgical mask and dressed like a construction worker to avoid media scrutiny under the advice of one of his lawyers. Japanese media still spotted him and followed his car.


[photo-1]
Carlos Ghosn, Nissan’s former chairman.

[photo-2]
Junichiro Hironaka, a lawyer for former Nissan Chairman Carlos Ghosn, talks with reporters in Tokyo.

Los Angeles Times, Dec. 31, 2019 12:21 AM
Former Nissan chief Carlos Ghosn says he left Japan because of ‘injustice’
By Associated Press
https://www.latimes.com/world-nation/story/2019-12-31/ghosn-in-lebanon-says-he-left-japan-because-of-injustice

Former Nissan-Renault chairman Carlos Ghosn has arrived in Lebanon, sources told FRANCE 24 on Monday. It was unclear if Ghosn traveled in violation of a house arrest order in Japan or if a deal was struck for his release.

Ghosn arrived at Beirut's Rafic al-Hariri international airport on a private plane from Turkey, according to Lebanese media reports.

A member of Ghosn’s entourage told Europe 1 French radio that he is not seeking to evade justice but that the legal circumstances in Japan do not allow him to adequately defend himself.

The 65-year-old businessman was arrested in November 2018 as he stepped off his private jet at Tokyo airport over financial misconduct charges. Ghosn has maintained his innocence.

Ghosn has been charged with under-reporting his post-retirement compensation and breach of trust in diverting Nissan money and allegedly having it shoulder his personal investment losses.

A Brazilian-born Frenchman of Lebanese ancestry, Ghosn contends that the allegedly underreported compensation was never approved nor paid, and that the payments considered to be a breach of trust were legitimate.

Prosecutors are also looking into allegations that Ghosn funnelled funds from Nissan to a dealership in the Middle East and siphoned off around five million dollars for his personal use.

Ghosn was released in April after paying 500 million yen ($4.5 million) in bail. Ghosn was earlier released on bail in March, but re-arrested and detained again April 4 on new allegations.

His bail conditions included agreeing not to leave the country and living under surveillance.

Ghosn was sent to Japan by Renault in the late 1990s and is credited with turning around a then near-bankrupt Nissan and helping transform it into one of the world's top auto alliances.

His lawyers said in October that they had requested the financial misconduct charges against him be dismissed. The statement said they filed papers in Tokyo District Court alleging prosecutorial misconduct that would prevent Ghosn from having a fair trial.

The filings allege collusion between prosecutors, government officials and executives at Nissan Motor Company to drum up criminal allegations in order to remove him as chairman.


[video]
In this file photo taken on March 6, 2019 former Nissan Chairman Carlos Ghosn leaves his lawyer's office in Tokyo after he was released earlier in the day from a detention centre after posting bail.

FRANCE 24, 30/12/2019 - 22:13
Former Nissan chief Carlos Ghosn arrives in Lebanon despite house arrest in Japan
(FRANCE 24 with AP and AFP)
https://www.france24.com/en/20191230-former-nissan-chief-carlos-ghosn-arrives-in-lebanon-apparently-defying-house-arrest-in-japan

Former Nissan chief Carlos Ghosn said Tuesday he had fled to Lebanon to escape injustice in Japan, where he was on bail awaiting trial on financial misconduct charges.

The auto tycoon's abrupt departure was the latest twist in a rollercoaster journey that saw him fall from boardroom to detention centre and it sparked questions over an embarrassing security lapse in Japan.

In a statement, the 65-year-old tycoon said he would "no longer be held hostage by a rigged Japanese justice system, where guilt is presumed, discrimination is rampant, and basic human rights are denied."

"I have not fled justice -- I have escaped injustice and political persecution," said Ghosn, who vowed to communicate "freely" with the media "starting next week."

It is not clear how he managed to leave Japan, as his bail conditions prevent him from exiting the country he had been held in since his sudden arrest in November 2018 sent shockwaves through the business world.

He and his lawyers have repeatedly voiced fears over the impossibility of a fair trial in Japan and have called for the case to be thrown out, citing mis-steps by the prosecutors' office.

Lebanese media reported Ghosn had flown by private plane from Turkey to Lebanon, where his parents were born and where he spent most of his childhood, after arriving there as a toddler.

Many Lebanese view Ghosn as a symbol of their country's large diaspora, and a prime example of Lebanese entrepreneurial genius and have been shocked by his arrest.

But in Tokyo, the unexpected turn of events will spark questions about how he could apparently have given authorities the slip.

His Japanese lawyer Junichiro Hironaka said he was "dumbfounded" by the news and confirmed that lawyers were still in possession of Ghosn's passports.

"I don't even know if we can contact him. I don't know how we will proceed beyond that," Hironaka told reporters.

Public broadcaster NHK cited a foreign ministry official as saying: "He was not supposed to leave the country. Had we known about it beforehand, we would have reported that to proper law enforcement authorities."

Taichiro Motoe, a lawmaker from Shinzo Abe's ruling Liberal Democrat Party (LDP), said the news had come as a "shock."

"There have been so many flight cases in 2019 by criminally accused individuals on bail and by those facing imprisonment after their crimes have been confirmed," said Motoe, calling for "swift and effective" improvements.

- 'Conspiracy' -

His sudden departure from Japan is nearly as dramatic as his arrest out of the blue at a Tokyo airport.

Prosecutors stormed his private jet in scenes captured by a local paper, and whisked him off to a Tokyo detention centre where he spent more than 100 days in spartan conditions far removed from his sometimes extravagant lifestyle.

He eventually won bail, striding out of the detention centre disguised in a workman's uniform complete with mask and cap in an apparent bid to fool the world's media camped outside.

Then one morning in April, he was rearrested on another set of charges just days before he was due to give a hotly anticipated news conference.

He released a video apparently pre-recorded in which he accused "backstabbing" Nissan executives of a "conspiracy".

Later that month, he was released again on bail -- this time leaving in a business suit -- and he had been in Tokyo ever since preparing for his trial in "combative" mood, according to his lawyers.

He stands accused of two counts of under-reporting his salary to the tune of 9.23 billion yen ($85 million) from 2010 to 2018, deferring some of his pay and failing to declare this to shareholders.

Prosecutors also allege he attempted to get Nissan to cover around 1.85 billion yen in personal foreign exchange losses during the 2008 financial crisis.

The fourth charge against him is that he allegedly transferred millions from Nissan funds to a dealership in Oman, from which the executive supposedly skimmed off $5 million for his personal use.

He has consistently denied all charges against him, saying they are a "plot" by Nissan executives to get rid of him because they feared he was moving the Japanese firm to a closer tie-up with Renault.

In the meantime, Ghosn has lost the business empire he was once lauded for creating. Sacked from Nissan and Mitsubishi Motors, he resigned from Renault -- the third firm in the uneasy car alliance he forged.


[photo-1]
Once revered for rescuing the struggling car manufacturer, Ghosn was arrested at a Tokyo airport in a case that sent shockwaves through the business community

[photo-2]
Factfile on the arrest and charges against Carlos Ghosn, the former Nissan chief who unexpectedly turned up in Lebanon on December 30, according to a Lebanese security source.

[photo-3]
Carlos Ghosn's Japanese lawyer Junichiro Hironaka said he was "dumbfounded" by the news and confirmed lawyers were still in possession of Ghosn's passports

AFP, 31 Dec 2019
Bailed tycoon Ghosn 'escapes' to Lebanon from 'rigged' Japan
https://www.afp.com/en/news/15/bailed-tycoon-ghosn-escapes-lebanon-rigged-japan-doc-1nd41h25

・・・除夜の鐘がゴ〜ンと鳴る前に、ゴーンさんレバノン到着。
 検察も外務省もが〜ん。
 冗談を言っている場合じゃないな。
 レバノン政府がゴーンさんを受け入れるとすれば「日本の司法は信用できない」くらいのことは言うだろう。
 山口敬之氏の逮捕状もみ消し、検察審査会での不起訴などがその例になるかもね・・・

posted by fom_club at 19:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

公金私物化と大企業、富裕層優遇と大軍拡はストップ!

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 先日、日本の出生数がついに90万人を割って大きな話題になりました。

★ 出生数86万人に急減、初の90万人割れ 2019年推計(日本経済新聞 2019/12/24)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53727740U9A221C1MM8000/

 とはいえ、これは、「明日降水確率が100%」という予想が出ていたところに「雨が降った」と報じているようなものです。

 これまでの出生数減少の流れの中で、いずれ90万人を割り込むことがわかっていました。
 もし来年多少増加したとしても、長期での減少トレンドは変わりません。
 そもそも子供を生む世代は昔より減少し、さらに出生率が低下しているのですから、当然の結果です。

 そしてもう、日本の人口は回復不能、ポイント・オブ・ノーリターンを超えており、これからはこんな出生数の変化に一喜一憂している場合ではなく、人口減少を前提とした社会運営をしなくてはならないというところまで追い詰められているのです。

 それよりも「なぜそうなったのか?」ということに全く触れない報道にも疑問があります。

 現在の日本社会は、本来であれば結婚し、子育てをする世代にどんどん負担ばかり押し付けているのです。
 給料は上がらず、むしろ下がり気味で、かつ「失われた30年」とも言われる経済的には挫折ばかりの平成を生きてきた世代。
 そんな人たちが結婚し、子供を生んで育てるために使うはずのわずかなお金さえも、うなぎのぼりの社会保険料などを通じて高齢者に回ってしまい、消えて終わっているのです。

 そもそも日本社会は、団塊ジュニアというある意味人口減少最後の砦だったボリュームゾーンを、非正規雇用や社会保険料負担でさんざん叩きまくってしまったのです。
 さらに共働きが基本になっている社会なのに、かつての専業主婦家庭前提のような長時間労働を皆に強いて、婚期は遅れ、未だに育休をとるとらないに文句をいう高齢者がたくさんいたら、結婚しても出産しない人が増加するのは当然でしょう。

 もし1990年代にちゃんとした子育て政策を展開していれば、と思いますが、時既に遅しです。

 今から何をやっても出生数は増えません。
 それでも生涯結婚しない人は非難され、結婚しても出産しないと非難され、かと言って未婚出産もまた非難される。
 金はむしり取られて、さらに非難されるのですからやっていられません。
 もはや現代の若者たちに出口なし。
 その結果が今なのです。

 30年間も平均給与のあがらない国で、社会保険料はぐんぐんあがり、手取り額が下がっている昨今、どうして若者に、将来の希望をもって早めに結婚して子供を生み育てろといえるのか、考えほしいものです。

 そんな中で、少子化対策みたいな話で、地方に若者を移住させれば出生率が改善するだとかいった愚かな政策を行ったり、意味不明な政策を展開するわけです。

 企業はまともな給料を払え!
 高齢者の資産家は同じ高齢者を支援しろ!
 そして社会保障費は子供に向けた予算に徹しろ!
 経済成長路線は大切だから、生産性の低い産業部門、企業はさっさと撤退させればよいものを、妙な補助金で支えたり、外国人労働者を入れて無理やりゾンビ企業を延命させるのをやめろ!

と吠えてみたところで、物事は変わらず、未だに過去の価値観を押し付けて、子供を生むのはあたりめーだくらいの話をしている爺たちが亡国の政策を進めているわけです。
 戦時下の竹槍だの特攻だのと同じで、若者を酷使して、どうにもならない結果を若者の責任だといって押し付けていくのです。
 結果、結局は年寄りはいずれ死ぬので、若者たちが負うことになるのです。

 それではどうして、上の世代の人びとは無邪気なまでに現代感覚が乏しいのか。
 それは戦後の良い時代を経験した世代と、平成以降の世代とでは生きている国が違うといっていいくらいに経済前提などが全く異なるからです。

給料が下がっていく時代

 最近の若者はお金がないとかそんなことばかり言ってまじめに働かない――そんな話題で盛り上がる高齢経営者が集まる国の会議に出るたびに嫌気が差すわけですが、この時代感覚の齟齬は、生きてきた時代の違いから発生していると言って間違いないでしょう。

 というのも、高齢経営者は本当に、最近の若者は単にわがままを言っていると思っていて、ゆとり教育がよくないだとか、根性が入っとらんだとか意味不明なことを念仏のように繰り返すのです。
 これは、想像力の欠如、事実と向き合う気がないということに起因しているように思います。

 それでは、こういう時代感覚の齟齬はどうして生まれるのか。

 大きく3つの問題があります。
 まず第一に「給料が上がらない」という問題です。
 以下のグラフと国税庁のデータをもとにしてグラフ化しているものです。

★ 税金の雑談:自分の年収は平均より上? 下? 給料の高い業種は? 国税庁の統計を見てみよう(奥川浩彦@アイピーアール 2018年3月9日)
https://internet.watch.impress.co.jp/docs/special/1110709.html

 さてさて、注目すべきはこの中の平均給与の伸びグラフ(略)です。

 1950年代から働き始めた皆さん、ものすごいですよね。
 ぐいぐい給料があがっていきます。
 もちろん、今と比較すればお金はない時代ですが、毎年これだけ上がるわけですから、先の見通しは明るいでしょう。
 1945年生まれで中卒、高卒が当たり前で、15〜20歳前後から働き始めた方々が多くいた時代と考えられます。

 敗戦直後で厳しい子供時代を過ごしたとはいえ、働き始めるのが中学卒業直後16の春とすれば1960年代。
 平均値とはいえ給与は年間25万円程度でしょうか。
 そこから1965年にかけて年間50万円程度に上昇し、30代を迎える1970年代には年間100万円程度まで上昇していきます。

 中間管理職などでバリバリ働くような40代を迎える1980年代には年間300万円程度まで急上昇。
 さらにバブルを謳歌してエグゼクティブな年代を迎えるころには年間450万円という日本平均給与の最高値まで上がっています。

 スタートは厳しかったとしても、まさに人口急増、冷戦体制、平和産業への注力などによって、給与はうなぎのぼり、というのが今の高齢者たちの若い時代の感覚なけですね。

 このアゲアゲな時代の感覚は、今の若い世代には全く分からない世界です。

 例えば私は1982年生まれですから、小学校入った1989年にはバブル経済を迎えて日本のピークですぐにバブル崩壊。
 物心ついて経済ニュースなどが分かるようになる1990年代には、まさに「失われた30年」突入。
 その後は給料は下がり続ける、リストラが起こる、大きな会社がつぶれたり、非正規雇用が増加、就職氷河期世代の苦難というの暗いニュースを毎日のように見続け、徐々にその当事者世代になっていきます。

 団塊ジュニアである今の40代は、そういう意味では本当に厳しい世代です。
 就職時点でバブルが崩壊して雇用環境が冷え込み、就職したらしたでバブルを起こしてバブルで踊った世代の割を食わされる、戦後処理のような仕事という始末。

 挙句の果て、従来から働いている上の世代の雇用構造を守ったまま、人手はほしいものだから、非正規雇用という中途半端な雇用改革をし、低賃金化が加速します。
 やるなら全員の正社員構造を破壊しろよ、という話ですが、「自分たちは切られたくないけど、若者は仕方ないよね」という発想でやってしまったわけですね。

 かくいう私も氷河期末期の世代ですが、本当に自殺者が多く、暗い時代だったのを覚えています。

 結果として、日本の人口が再び急増するチャンスだった1990年代〜2000年代、団塊ジュニアの出産状況は冷え込みまくり、少子高齢化にターボエンジンをつけちゃったみたいな話になったわけです。

 少子高齢化がここまできたといって今さら大騒ぎするのは馬鹿げています。
 90年代のうちに本気で取り組むべきだったのです。
 それが最後のチャンスだったのです。

 今ごろになって人手不足ということもあり、40代を一部雇用しますとか救済措置みたいな話が出てきていますが、本当に、戦後の日本で一番いい思いをしたのは団塊の世代であり、そして一番割りを食ったのは団塊ジュニアではないでしょうか。

 そりゃ給料が毎年確実にあがっていくと思えば誰しも楽しく使えるでしょうが、今の世代は子供の頃から経済が冷え込みまくっていたのを知っているので、コンサバティブになるのは当然です。
 なのにその差異が全く伝わらないのです。

 とてつもなく給料があがっていた時代と、給料がどんどん下がっていく時代とでは、人の行動が変わるのは当然です。

社会保険料が15倍に増えている!

 2つ目の問題は「社会保険料の負担増加」です。

 さらにこの間、社会保険料もぐいぐいあがるのです。
 こちらのサイトで分かりやすく戦後時系列データで分析してくれていますのでご紹介します。

★ 60年あまりにわたる収入と税金の変化をグラフ化してみる(家計調査報告(家計収支編))(ガベージニュース 2019/03/16)
http://www.garbagenews.net/archives/2391955.html

 この中で注目すべきは、実収入に占める各種比率というこのグラフ(略)です。
 これは税金や社会保険料という非消費支出が家計に占める割合を示したものです。

 直接税こそ若干の軽減がなされていますので、表向きは「減税しています」という形になるわけですが、天引きされる社会保険料の割合がとんでもなくあがっています。
 給料はあがらないのに、社会保険料はがっぽりいかれています。
 税金と社会保険料をあわせると約20%程度が抜かれていくということです。

 社会保険料だけみれば、物価を考慮しても1953年には約4,000円しか世帯で負担をしていなかったものが、2016年には約60,000円になっています。
 つまりは15倍になっているわけです。
 これは年額かつ平均ですからね。

 給料があがらなくなった1990年代以降もこちらは上昇を続けており、「非消費支出」が増加していく原因になっているわけです。
 つまりは消費が冷え込むのは当然なんですよね。

 給料は下がり、非消費支出が増加しているのだから、消費支出が縮小するのは当然です。
 日本がバリバリ内需中心経済になっているのだから、肝心の経済成長さえも止まってしまい、すべての社会構造負担を軽減する仕掛けも機能しなくなってしまったわけです。

 若者に金を貯めろ、と言われても日々の生活で精一杯という人たちがたくさんいるのは当然と言えるでしょう。

 就職も困難だった団塊ジュニア世代がボリュームゾーンとして存在し、今や40代。
 給与は伸びず、むしろ減ってしまったりして、さらに社会保険料はうなぎのぼりで、手取りは減る一方。
 結婚だ、子育てだ、なんて余裕はないか、共働きでどうにかという方が多いのです。
 そしてこの後に団塊の世代の後期高齢者入りが控えていますから、社会保険料がどうなってしまうのか・・・もはや未知数です。

 まだまだ負担が増えそうだという恐怖感から、現役世代が消費や出産を控えるのも、当然のことです。

定期預金が年率5%だと!?

 さらに、たとえ、どうにかこうにか貯蓄したとしても、なかなか増えないのです。
 その理由である、3つ目の問題は「資産運用の環境の違い」、つまり金利の話です。
 
 昔の人は金ためて、郵便局や銀行に入れておけば自動的に増えたのです。
 今でこそゼロ金利時代、0.001%金利しかつかなかったりするわけですが、かつては全然違ったわけです。

 以下の記事でこのあたりは整理されています。

★ 預金復活なお遠く 運用金利で見る歴史(東京海上アセットマネジメント執行役員運用本部長・平山賢一 2018/8/7)
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO33624910R30C18A7000000/

 このように常にインフレ率を上回る金利が続いていたわけであり、資産は着実に形成されます。

 つまり、ちゃんと働いて金は銀行に預けておけば自動的に資産が増えたのです。
 もしも日本株で良いタイミングに投資でもしていたら、とんでもない金額になってしまうわけです。
 素晴らしい時代です。

★ 130年間の超長期株価チャートから分かること(The Capital Tribune Japan 2012年6月9日)
http://www.capital-tribune.com/archives/77

 ゆうちょの定期預金で年率5%とかになったりするんだから、そりゃあ預けておけばどんどん資産形成が進むわけです。
 100万円が10年後には160万円になるわけです。
 500万円預けたら10年で800万円ほどに増えるのです。
 しかもペイオフ前だから全額元本保証。
 すごい時代です。

★ 100年以上にわたる郵便貯金の金利推移をさぐる(不破雷蔵 2018/8/16)
https://news.yahoo.co.jp/byline/fuwaraizo/20180816-00092752/

 ということでまさにこの時代を生きた人と、1990年代以降を生きた人とでは、同じ日本でも「違う国」といっても過言ではないレベルの違いだと言えます。
 同じ国でも生きる時代が違うと、こうも違うわけです。

 こうなれば、子育てに対するスタンスが異なるのも当然ですね。
 結婚するのにも、子育てするのにも保守的になるわけです。
 お金ないんだから仕方ないことです。
 働いても給料はあがらない、しかも将来的もあがらなさそうで、社会保険などの負担はどんどん拡大していくわけです。

 逆をみれば、1910年代〜1920年代に生まれた方などは、若い頃に従軍して亡くなられた方も多くいるわけです。
 本当に時代というか、生まれるタイミングというものは残酷なものです。

これ以上若者をいじめるな!

 そして今、このような結果として世代別の貯蓄額などを見ていくと、当然ながら、高齢世帯の資産額はずば抜けて高いわけです。
 というか、給与がバリバリ上がり、社会保険料は安く、金利がつきまくりな黄金時代に生きて、金が貯まらなかった、資産ありませんとかいっている人たちは何をやっていたのだろう・・・どこぞの番組みたいに「喝!!!」と言いたくなるところです。

 高齢世帯にはこういうラッキー世代として潤沢な資産を形成している人たちも多くいるわけで、人口も多い高齢者同士で資産を出し合って、可能な限り助け合って欲しいなと思うところです。

 若者が高齢者を支えるという仕組みが、昔はできたけど今はできないというのは、数字をみれば分かりきった話であります。
 これ以上若者をいじめると経済成長どころか、消費も出生率も低迷して、より一層厳しい経済状況になり、結果として高齢者の方々の生活不安も拡大していくことになりますからね。

 ていうか、出生数と出生率について言わせてもらえば、今の若い世代だけが子供を産まないと責められるいわれはなく、そもそも1970年代からどんどん産まなくなっているわけです。
 ま、「日本は人口が多すぎる。人口爆発問題」とかいっていた時代でもあり、国をあげて「明るい家族計画」とかいって人口減少促進政策をやってきた成果の賜物です。

 つまり日本はずっと人口減少政策をやっていたわけなのです。
 団塊の世代だって彼らの親世代のように5人だ8人だみたいな数は生んでいないわけです。
 そういう意味では、団塊の世代前からずっと出生数は減少していたのです。

 団塊の世代が生まれた1946年から1949年。
 団塊の世代がジュニアを生んだのが1973年のピーク。
 その後はだだ下がりで、本来の団塊ジュニアの出産時期のはずの1990年代がだだだだだだ下がりですからね。
 その要因は上に説明した通りです。

★ 日本の出生率と出生数をグラフ化してみる(最新)(ガベージニュース 2019/12/15)
http://www.garbagenews.net/archives/2013423.html

 データを見ない高齢者と話が合わないのは当然。
 怒らずに冷静にデータをみせながら時代感覚の違いを共に認識する、「世代ギャップを埋めようワークショップ」でもやってください。
 ロールプレイングゲームにして、若者が団塊役、団塊世代が若者役をやってみるというのもよいかもしれませんね。
 まあ、やりながら喧嘩になりそうですが……。

 ということで、老人と若者とで、なんでこうも話が噛み合わないのかというのは、生きた時代、その環境が「別の国」といっていいほど違いすぎるからなのです。
 同じ日本人だから通じるはずだ、なんてことは思わず、まさに偉い高齢の政治家の先生方には数字をみつめながら政策を考えていただきたいと思う次第であります。

現代ビジネス、2019.12.31
出生数低下・人口減少を止めたいなら、給料払って社会保険料下げろ!
戦後データでみる給与・社会保険・金利

(木下 斉)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69568

posted by fom_club at 18:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

香港デモ

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 2019年3月から続いている香港のデモ。
 6月9日には主催者発表で約100万人が参加した大規模デモへと発展した。
 その勢いは衰えておらず、12月のデモには約80万人が参加した。
 抗議者たちはいま何を考えているのか。
 このデモは今後どこに向かうのか。写真家の初沢亜利氏が現地で声を聞いた――。

デモの資金はどこから出ているのか

 12月19日、香港警察はデモ活動を支援するため、クラウドファンディングで資金を募っていた非営利組織「星火同盟」の4人を逮捕し、集められた約10億円を凍結した。

 香港の知人によると、星火だけでなく他の小規模な抗議者支援グループも12月に入り次々と運営休止になっているようだ。
 香港理工大学で多数の抗議者が逮捕され、抗議活動が弱体化した、と言われる中、彼らへの資金を遮断することで、抗議デモを根絶する狙いがうかがえる。

 半年以上続く香港デモのニュースを見る度に、「活動を支える資金はどこから出ているのか?」と疑問をもつ人は多いはずだ。

 親中派香港人が好む考えは、中国共産党を潰すための拠点としてアメリカが香港を利用し、デモ参加者にお金を流している、という類いの話。

 党派を問わず香港人がよく口にするのは、中国国内の反習近平派からの金の流れだ。
 香港の民主化を応援する台湾人が、金を渡している、という説もしばしば耳にする。

 実態は全く分からない。
 だからこそ陰謀論が渦巻くのだ。
 そんな中で1つだけ確かなことがある。
「金を出した」と認める人たちの話だ。
 9月、12月と香港で多くの民主派市民に会ったが、半年間で10万円以上クラウドファンディングで寄付した、と話す人が大勢いた。
 就職したての20代前半でさえ、月に1万円は出す、と話してくれた。

「最前線には行けないが、せめて怪我をした抗議者の治療費くらいはカンパしたい」
「逮捕された者の弁護士費用の足しにして欲しい」

 今回凍結された10億円は、1人1人の思いが集約された資金ではないのか。

4カ月ぶりの合法デモは平和的だった

 12月7日からの10日間、2カ月半ぶりに香港を訪れ、デモに参加する抗議者や市民の姿を取材した。

 入国の翌8日は、6月9日の100万人デモから半年を迎える週末で、80万人が香港島を東から西へと練り歩いた。

 約4カ月ぶりに香港警察の許可が下りた民陣(民間人権陣線)主催のデモ行進だったこともあり、平和的な市民が数多く参加した。

 午後3時にスタート地点、銅鑼湾(コーズウェイベイ)に集まった人たちは緊張に包まれていた。
 警察はこれまで幾度も終了時間を前倒しして、「この場にいる者は違法である」と理不尽な逮捕を繰り返してきた。

 この日も夜10時まで許可が下りていたが、誰も警察を信用していなかった。
 若い抗議者らは、秘匿性の高いSNSテレグラム内で「何時に短縮されるか」を巡り投票を行っていた。
 4時、6時を予想する投票が多かったようだ。

 結果として、その日は抗議者と警察の激しい衝突はなく、おおむね平和に1日が終わった。
 理由は幾つか考えられた。
 11月中旬、香港理工大学での抗議者による籠城で、多くの若者が逮捕され、前線に出る要員が大幅に不足したこと。
 この日のデモを主催した民陣と警察の交渉がギリギリのところで折り合いが付いたこと。

 11月24日の区議会選挙での民主派圧勝を受け、警察側が市民の声をある程度尊重した可能性もある。
 11月19日に香港警察トップがより強硬と言われる人に交代したことで、抗議者側が警察の出方を慎重に見極めた、という見方もできた。

民主主義のために闘った半年間

 週が明け、10人を超える若い抗議者にインタビューを行った。
 彼らの抗議活動への意欲は一様にトーンダウンしていた。
 第一に、皆疲れ切っていた。現場に出る回数は減り「今後の人生についても考え始めている」と口にする者が増えた。
 学業、仕事、余暇を犠牲にして、逮捕や負傷、命の危険も顧みず闘った半年だった。

 香港にこれまで存在した「自由」と「法の支配」が脅かされるのであれば、「民主主義」を手に入れるしかない。
「逃亡犯条例改正案」の撤回にとどまらない「5大訴求」を掲げ未来の香港人のために闘ってきた。

 家族、友人、恋人、さまざまな人間関係にも変化が生じた。
「親中派の親と激しくけんかし、家を出た」と嘆く若者もいれば、「あまり仲が良くなかったいとこと、安全確認のため頻繁に連絡を取り合い絆が増した」と語る若者もいた。

 最前線の勇武派で20代後半の男性に話を聞くことができた。
 カフェなどの公の場ではなく、警察が立ち寄る可能性の低い密室で、全身を隠すいでたちで向かい合った。会うことができたのは、知人の仲介でインタビューを申し出てから4日後のこと。
 こちらが普段どのような媒体で仕事をしているのか、といったことも事前に細かくチェックされた。

「民主派と勇武派の分断」は幻想だった

 警戒心には理由があった。

「警察は12月に入ってから懐柔策を取っている。公式のFacebookページを見ても、抗議者をなだめるような投稿が増えている。トップが変わり方針を変えたのだろう。しかし、水面下では仲間の逮捕が相次いでいます」

 香港理工大学の籠城では逮捕者以外も多数の若者がIDを登録させられた。
 監視カメラ映像、警官自身が現場で映す映像、交通機関やコンビニ、カフェなどで使えるオクトパスカードの記録など、さまざまな情報が警察に集約された可能性は高い。

 わざわざ衝突現場で大立ち回りして逮捕することは、警官にとっても危険を伴う。
「ある日突然帰宅した家の前で逮捕されるケースが増えている」と苦しい表情を浮かべた。
 一方、勇武派内に警察のスパイが紛れ込むケースもみられ、外部に情報を漏らしているのは誰なのか、互いに疑心暗鬼になっているようだ。
「警戒してすみません」と彼は何度も頭を下げた。

 半年間で自然発生的に生まれた標語は幾つもあるが、その一つに「各自が努力する。仲間割れはしない」という言葉がある。
 日本人には現在の香港デモをかつての学生運動になぞらえて見てしまう傾向がある。
 だから、「仲間割れしないはずがない」「平和主義的な民主派市民と勇武派との間で分断が起きている」と考えがちだ。
 しかし区議会選挙の結果、それに続く80万人デモは、分断が事実ではないことを内外に示すこととなった。

「中国の支配を排除し自由を維持したい。香港警察の過剰な暴力は許せない」

 シンプルな感情を土台にした闘いなのだ。
 そこには細かなイデオロギーも歴史観も存在しない。
 理論が細分化し対立する素地がないのだ。

「日本の報道が最も中国寄りだ」と感じる抗議者

 抗議者たちは、自分たちの活動が世界でどう受け止められているか、について敏感だった。

 今回の取材で数人に告げられたことがある。

「欧米、韓国などと比べると、日本の報道や、それを受けた日本国民のネット上のコメントが最も青い(中国寄り)と、抗議者の間で話題になっている」

「欧米メディアは、民主化を暴力で押さえ付ける政府、警察を絶対悪とし、軸がブレない。日本では抗議者と警察の暴力を併記した上で、市民は抗議者の暴力に批判的だ、と結論付ける報道が目立つ。中国メディアに近い報じ方です」

 あまり知られていないが、香港人が日本に渡航する割合は人口の4分の1に上り、その多くは年に3回、4回と通っている。
 世界一親日の国(地域)が香港なのだ。

 2019年10月の台風19号の被害に際し、抗議者たちは即座に街頭募金を行い100万香港ドル(約1400万円)を日本赤十字社を通じて寄付している。
 10月1日、4日と香港警察が実弾を発砲し、抗議者の怒りが頂点に達したさなかの行動だった。
「われわれは日本に片思いをしているようです」と、20代前半で抗議者の女性は寂しそうだった。

 10月くらいから抗議者や民主派市民に浸透し始めているスマホアプリがある。
 飲食店、雑貨店などが、民主派が黄、親中派が青と色分けされ、地図上で一目で分かるようになっている。
 青い店には金を落とさず、黄色い店を皆で応援する、との合意のもとに作られたアプリだ。

 私が滞在したホテル近くに静かで居心地の良いスターバックス(親中派)があった。
 抗議者数人が代わる代わる来てくださり話をうかがったが、誰一人飲み物を注文しなかった。
「親中派の飲食店に複数人が予約の電話を掛け、誰も行かない、というやり方もある」と聞かされた時は、さすがに閉口したが、時間をかけて親中派を追い込むさまざまな方法を日々編み出していることは分かった。

勇武派の行動にはしっかりとした根拠がある

 平和に年越しを迎える予感に包まれ、使用しなかった防毒マスクをスーツケースに詰め込んでいた帰国前夜、九龍半島旺角エリアで突如抗議者と警察の衝突が起き、急いで現場に駆け付けた。

 黒ずくめの抗議者は数えるほどだったが、警察は催涙弾を撃ちまくっていた。
 隣にいた香港人プレスも「残業代稼ぎとしか思えないな」とあきれていた。
 6月以降に警官1万1000人が受け取った残業代は133億円、一人当たり毎月20万円になる。

 交差点で抗議者がバリケードを築き始める中、タクシーが横切ろうとした。
 その前に黒いゴミ袋を置き、道をふさいだ抗議者に対し、怒った乗客が車から降り「子供が中にいるんだ。通してくれ」と語気を強めた。
 抗議者は即座にゴミ袋をどかし2人は和解し肩を組んだ。
 抗議者たちには、彼らなりの倫理観がある。
 年寄りと子供には迷惑をかけない。

 インタビューに応じた勇武派男性は「理由なき破壊は1つもない。自発的暴力ではなく、必要だったから行った暴力です。金や物も取りません。親中派の路面店舗に火を放つ時も、建物の上層階の住民の様子を見ながら慎重に行う」と、単なる暴徒ではないことを繰り返し主張した。
 半年間テレビ中継で勇武派の行為を眺めてきた市民の多くが、彼らを全面的に批判しないのは、攻撃対象と根拠を理解してのことだろう。

「抗議者の犯罪行為もちゃんと撮れ」という警官のメッセージ

 数の上で余りに非対称な夜の攻防だったが、深夜1時過ぎ、これまでに感じたことのない恐怖に襲われた。
 警官隊が見詰める大通りの100メートル先で抗議者数人がバリケードに火を放った。
 プレスと書かれた黄色いベストと防毒マスクを着用した私は、両者の間で警官隊寄りに1人で立ち、成り行きを見守った。
 火は勢いを増してきた。

 警官50人近くが突如私に向かって指や警棒をさし、広東語でわめき立てた。
 位置取りがまずかったかとキョロキョロしたが何しろ全く言葉が分からない。
 怒鳴り声へと声量は増した。
 警察のプレスへの暴行が相次いでいることもあり、全身に鳥肌が立った。
 ふと、燃え盛るバリケードにカメラを向けた。
 すると、警官から、今度は拍手が湧いた。
 振り返ると数人が親指を立てている。

「警察の暴力だけではなく、抗議者の犯罪行為もちゃんと撮れ!」という意味だったと気が付き、胸をなで下ろした。

「デモによる金融へのダメージはない」と言い切る関係者

 帰国当日、金融系の企業で働く2人の日本人にそれぞれ話を聞いた。

 彼らは一般的な予想に反する見解を述べた。
 半年のデモを経ても金融に関してはほとんどダメージがないと言い切る。

「香港経済はわずかに衰退傾向にあるが、米中経済戦争、中国経済の伸び悩みが主たる要因でデモの影響は、あって3番目の要因でしかない。香港ドルの価値は下がっていない。日本からの投資も減ってない。観光客が激減し観光業者や小売業者が苦境に立たされているのは事実ですが」

「日本から取材に来る、とりわけ経済ジャーナリストは、デモの影響で香港の国際金融センターとしての信頼は失墜し、次々とシンガポールに拠点を移し替えている、という筋書きに現実を当てはめようとするが、実態は全く違う」と念を押した。

 香港の最大の強みは、国際社会からの信用ではないのか?
 政府、警察の市民への弾圧は、法治の崩壊そのものを露呈した。
 香港経済が無傷で済むとは到底思えないのだが。

 抗議者たちが頻繁に使う標語の中に「死なば諸共」がある。
 香港経済もろとも破壊してしまえ、という意味だ。

 親中派の料理屋が廃業に追い込まれた、といった話は頻繁に聞くが、香港経済の土台が強固ならば、抗議者の戦略は貧する者同士のつぶし合いにしかならないのだろうか?
 慎重な取材を継続したいポイントだ。

陰で搾取する権力者に市民たちは気付いているか

 帰国途上の機内で、香港社会が抱える貧富の格差について考えた。
 この問題は世界各地で見られる、植民地主義がもたらした典型的な現象でもある。
 金融関係者は小さくつぶやいた。

「われわれの仲間は、このデモについて何一つ語りません」

 ここからは彼らが発した言葉ではなく、私の主観だ。
 抗議者たちは、「敵は中国だ、香港政府だ、警察だ、さらには、政府、警察を擁護する身内をもつ飲食チェーンだ」と怒りをぶつけてきた。
 一方、香港社会には沈黙を保ちながら、香港経済を牛耳り、市民を搾取する者たちがいる。
 自分たちに怒りの矛先が向かなければ怖くない。
 そう考えている不気味な支配者たちの像をイメージしてしまう。

 市民が権利を勝ち取り民主主義が採用されれば、福祉国家となり、今のような税率は必ずしも維持できなくなるのではないか。
「未来の香港人のために」と命がけで闘う若者たちの隣には、物言わぬ権力者が潜んでいるはずだ。

 2020年の香港情勢を予測することは難しい。
 抗議活動の勢いを見る限り、徐々に収束へと向かうのではないか、と感じている。

「結局何も変わらなかった」「闘いは無意味だった」と冷めた見方をする向きもあるだろう。

 最前線の抗議者はかみしめるように語っていた。

「われわれの暴力は必ずしも許されないだろう。しかし、デモをきっかけに、今まで政治に無関係だった多くの香港人が、歴史上初めて自分たちの置かれた政治的状況について深く考え、未来を見据えて議論を始める入り口に立ったと思う」

デモはこれからどこへ向かうのか

 このままデモは収束するのだろうか?
 彼らに問い掛けても、皆「分からない」と口にした。

「これまでと同じ闘い方では状況は変わらない。運動のコンテンツは正直に言うと飽和状態です。次なる方法をおのおのが模索しSNSで議論し道筋を付けていく。そのやり方は続けていく」

 目に見えて弱体化した勇武派が目指す先はどこか?

 われわれはまた日本の過去の記憶から連想してしまう。
 一部の先鋭化した若者がテロリズムに走るのでは?

 インタビューに応じた抗議者たちは、最前線だけが闘いではなく、役割は状況に応じて変化する、という。
 ある者はポスターを作り、別な者はインターネットに記事を書く。
 密室で向き合った勇武派男性の言葉が印象に残っている。

「周庭(アグネス・チョウ)さんの発言が最近おかしくなっている」

 とっさに仲間割れを疑ったが趣旨はこうだ。

「彼女は外国への発信力が強い。世界の民主主義国では、勇武派の暴力への懸念が増しています。なのに、彼女は勇武派を擁護する発言をしてしまう。それでは世界中の市民の共感を得られない。われわれの活動を否定した方がいい」

 各自が努力し、仲間割れをしない、という標語の真髄に触れたような気がした

「デモの原因は林鄭月娥の失策」が香港人の共通認識

 ところで、親中派も含めた香港人のほぼ全ての意見が一致する見解が1つだけある。
「逃亡犯条例改正案」問題に端を発し長期化した香港デモは、ひとえに林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官の相次ぐ失策が原因である、という点だ。

 そもそも改正案に危機感を示したのは親中派富裕層だった。
 区議会選挙で民主派が圧勝したことで、親中派の行政長官への怒りは頂点に達したようだ。

「なぜ、こじれる前に手を打たなかったのか? なぜ、香港人の感情を逆なでばかりするのか?」

 党派を超えて、香港人は皆あきれ果てているようだ。

 年が明けると、1月中旬には香港政府常設の警察監視機関(IPCC)による調査結果の中間報告が行われる予定だ。
 警察の市民への暴力に対し、香港人が納得できる説明が行われる、とは考えにくい。
 5大訴求の1つ、独立調査委員会の設置を求める市民感情が再燃する可能性は否定できない。

 9月の立法会選挙に向けて、香港政府、民主派市民の攻防が続く1年になるだろう。

 引き続き現地に赴き、情勢の変化を見守っていきたい。

President Online、2019/12/28 11:00
「日本が最も親中」と肩を落とす香港デモ抗議者
日本に片思いをしているようです

(初沢亜利)
https://president.jp/articles/-/31854

・・・日本メディアは親中というより、民主主義=選挙でしかなく、直接抗議を民主主義として理解できないのだ。
「欧米メディアは民主化を暴力で押さえる政府を絶対悪とする。日本は抗議者と警察の暴力を併記し、市民は抗議者の暴力に批判的とする報道が目立つ。中国メディアに近い」・・・

posted by fom_club at 11:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月30日

事件から70年近い「鹿地亘事件」

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

☆ 旧岩崎邸庭園

 三菱財閥・岩崎家の本邸として1896年に完成。かつては1万5000坪の敷地に20棟以上の建物があったが、今は3分の1ほどの面積に洋館、和館、撞球(ビリヤード)室が残る。

 西欧建築を日本に伝えた英国人建築家、ジョサイア・コンドルが設計した。

「こんな立派な明治の洋館が残っているのは珍しいんですよ」

 ボランティアガイドを務める「茅町コンドル会」の三村善美会長は胸を張る。

 しかし、財閥の華やかさとは異質の暗い時代もあった。戦後まもなくGHQが接収。「キャノン機関」と呼ばれる秘密機関が拠点にしたのだ。
 キャノン中佐が率いた同機関は、国鉄総裁が遺体で見つかった1949年の下山事件など戦後の不可解な事件で関与が噂された。真相は不明だが、ベールに包まれた姿が垣間見えたのが鹿地事件だ。

 1951年11月、神奈川県藤沢市の自宅付近を散歩中だった作家の鹿地亘が拉致された。
 翌年1952年12月の解放まで監禁場所は転々としたが、最初に連れてこられたのが旧岩崎邸だった。

「きみは人知れず死にたいか、それともぼくらに協力するか?」

 鹿地の手記「暗い航跡」に、すごむキャノンが描かれている。

 鹿地は戦時中に中国で反戦活動をした際、米側に協力。しかし、戦後はソ連のスパイの疑いをかけられていた。
 作家の松本清張は「日本の黒い霧」で、キャノン機関が拉致したのは「アメリカとの協力を裏切ってソ連の手先となった背信に怒ったためかもしれない」と書いている。

 旧岩崎邸に連れ込まれたのは鹿地だけではないという。
 サンフランシスコ講和条約で日本が独立を回復した後も、人知れずうごめく米国の秘密機関。
 戦後日本の闇を知っているのは白壁の洋館だけかもしれない。


日本経済新聞、2017/10/14 14:14
旧岩崎邸、戦後の闇見つめた白亜の館
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO21876040U7A001C1CC0000/

◆ 軍隊の闇の部分、今に通じる問題

 戦後の占領下にあった1951年11月、神奈川県藤沢市で一人の日本人作家が拉致された。
 連合国軍総司令部(GHQ)直属の秘密工作機関「キャノン機関」による事件は、翌年1952年12月に被害者の鹿地亘(かじ わたる、1903〜1982)が解放され、国会でも取り上げられるなどして世に知られた。
 その救出を導いたのが当時20代前半の日本人青年。
 川崎市の監禁先で働いていた山田善二郎さん(1928年新潟生まれ、91歳)だった。

―― 事件から70年近い。「鹿地亘事件」とは。

 藤沢市の鵠沼海岸を散歩していた鹿地さんが数人の米国軍人に拉致、監禁され、文化人の立場で米軍に協力するよう強要された事件。
 当時は朝鮮戦争の最中。
 米軍の出撃基地となった日本では、平和を求める国民が米日二つの権力に弾圧される最中の事件でした。

―― 鹿地さんとの出会いは。

 私は九段中学(東京)で軍国主義に染まり、15歳で予科練に志願。
 三重海軍航空隊で飛行練習生でしたが、燃料が無くて訓練できずに終戦を迎えました。
 英語が少しできたので進駐軍の将校クラブで働き、その紹介で横浜にあった将校の家でコックに。
 その将校がキャノン機関のジャック・キャノンでした。
 キャノンは当初、私がどんな人間か警戒していましたが、ある日、私のいる台所に来て「おまえは朝鮮戦争をどう思う」と尋ねてきました。「北朝鮮の侵略軍に対し、日本も軍備を持たなくてはならない」と答えると、キャノンは満足そうに笑い「そのうち軍隊をつくってやる」と言いました。
 それ以降は米国のたばこをたくさんもらいました。
 信頼され、川崎市内にあった機関のアジトで、監禁された人と兵隊の食事を作ることに。
 私は米国側の人間となったのですが、兄が戦中に中国で消息を絶つなど私の家族は窮乏のどん底で。
 大切な収入でした。
 戦争孤児の少年とか何人も監禁されました。
「お客さん」と呼びました。
 1951年11月、二世のウイリアム・光田軍曹に「今度のお客さんは結核の重症患者だ。(消毒液の)クレゾールなどを購入してくれ」と言われました。
 それが鹿地さん。
 監禁された人には私が食事を運ぶ役でしたが、鹿地さんにだけは近づけさせず、光田が運びました。

―― なぜ助ける気持ちに。

 12月2日の朝、光田に鹿地さんの部屋に呼ばれました。
 でもベッドに姿がない。
 電灯が天井から落ち、ネクタイとタオルが結び付けられていました。
 自殺を図ったと気付きました。
 部屋にはトイレが二つ並んでいて、右のトイレからザーザーと呼吸音がしましたが、内側から鍵をかけられ開きません。
 私は左のトイレに入り、懸垂で仕切りの上の隙間から右側に入りました。
 クレゾールを飲んだらしく、鹿地さんの意識はありません。
 光田が見つけた紙切れに書かれた遺書には「信念を守って死にます」と書かれていました。
 その言葉、命を絶とうとした姿を見たら、「この人をなんとか助けたい」との思いに駆られていました。
 この自殺未遂以降、光田は怖がって。
 私が鹿地さんに食事を運び、鹿地さんとのおしゃべりも豊かになりました。
 日本人従業員を管理するロイ・尾崎に、鹿地さんのことを、プロレタリア文学運動に参加して国内で弾圧を受け、中国に亡命して反戦活動をした国際的な著名人だと聞きました。
「中国事情にも詳しいから米国の協力者に仕立てるため拉致、監禁したのか?」と考えると、「信念を守る」の意味が理解できました。
 光田も「お客さんは、俺たちに協力してくれないかなあ」と漏らしていました。
 鹿地さんが神奈川県茅ケ崎市の建物に移されると聞き、1952年2月、私が「これを機会に私はここを辞めたいから、ついでにご家族に連絡をとりましょう」と言いましたら、鹿地さんは非常に喜びました。
 ご家族への手紙は休日に、鹿地さんが遺書の宛先にしていた内山完造さんを介して届けました。
 日中文化交流の懸け橋と知られた書店主です。
 店に向かう途中で警察官に会いドキッとしました。
 留守でしたが弟さんが応対してくれました。

―― 監禁が外部に伝わった。

 二度目は内山さんに「鹿地君に子どもは元気だと伝えて」と言づてを頼まれました。
 内山さんの店にも警察がよく来るから、ヒソヒソ話です。
 伝えると鹿地さんは安堵(あんど)の表情で何度も「ありがとう」と言って。
「やって良かった」と思いましたが、不法監禁の事実を外部に漏らしたことが発覚すると自分はどうなるか、不安な日が続きました。
 スタッフのふるう暴力を理由にして1952年6月、私が辞めて両親のいる伊豆に戻る時、鹿地さんから娘さんへの遺書を託され、ボストンバッグの一番下に隠しました。
 ハワイ生まれのジェイムス・川田軍曹が車で送ってくれたのですが、まず逆方向の東へと走りだして。別の場所に連行されるのかとゾッとし、慌てて「方向が違う」と言いました。
 私はその後、横須賀の米海軍基地で働きましたが、9月に鹿地さんの監禁が英文の怪文書でマスコミに流れました。
 10月、光田が私の行方を追っていると知り、焦りました。
 11月には情報の出所として「山田とか言って伊豆に住んでいる」と週刊誌に書かれて。

―― 身に危険が及ぶのでは。

 そう。
 全身がガタガタ震えて。
 人生で一番怖かった。
 書いたマスコミが、鹿地事件の向こう側とツウツウになって私を威嚇しているんだと勘繰りました。
 でも別の新聞記者が、会社や下宿先に泊めてくれて。
 内山さんと相談してかくまってくれた。
 その時、社会党(当時)の衆院議員猪俣浩三さんに国会で事件を明るみに出してもらい、私を消す意味をなくそうと決めました。
 12月6日、内山さん、猪俣さんらと記者会見に臨んだ私は、やせこけた顔で、監禁の事実を訴えました。
 翌7日、鹿地さんが明治神宮外苑近くで解放され、帰宅しました。

―― 12月8日の衆院法務委員会の会議録に、そのことが残されていますね。

 はい。
 10日には鹿地さん自身も法務委で証言に立ち、「殴り倒されて、両手を後ろにねじ上げて車に引きずり込まれた」と拉致された状況を話しました。
 しかし、外相が当初「そんなことは考えられない」と答弁するなど米軍の犯罪を覆い隠すかのような政府の姿勢を見て。国内の日本人拉致事件でも相手により態度が違うんですね。
 このままではやはり消される、と不安になりました。
 その後も、鹿地さんをソ連(当時)のスパイだとでっちあげてまで、被害者を「犯罪者」に仕立てる動きがありましたが、1953年8月には法務委で鹿地事件を「不法監禁の疑いがある」と結論し、スパイの件は1969年6月に東京高裁で鹿地さんに無罪判決が出ました。

―― 鹿地亘事件の意味は。

「民主主義の国」米国の行為、隠された闇の部分を、いわば内側にいた私が暴露したことも、国会の場で究明されたことも、歴史的な役割があったと思います。
 でも、東京・中日新聞も報道してきたように、米中枢同時テロ(2001年)の後、米中央情報局(CIA)が確証もなしに「敵戦闘員」と見なした人びとを拉致、監禁して拷問したことなどは、同じことの繰り返しに見えますね。

 軍隊には特殊なスパイ組織がつくられる伝統があります。
 なのに国内では自衛隊を通常の「軍隊」「国防軍」にしようとする動きもあります。

 今につながる問題と知ってほしいのです。

◆ インタビューを終えて

 川崎市を拠点に社会問題にも切り込む劇団民芸のスタッフに「近くにすごい人がいる」と山田さんを紹介された。
 お年も考え、健康状態が良好な時を選んで複数回、ご自宅を訪ねた。
「キャノンも、猪俣先生も、鹿地さんも亡くなった。私はその分、長生きしなければ」と決意していた。
「アジト」の見取り図を描いてつまびらかに説明する姿に、その思いが表れる。
「鹿地さんは髪の毛を染めて国会に立ったことがある。そのままの姿でないと、当時は特に、疑いを持つ人も出たと思う。あれは良くない」とも話していた。
 フェアに、支えた人への批判も語る証言者であろうとしていた。
 かくありたい、と思う。


中日新聞、2019年12月27日
山田善二郎
「鹿地亘事件」生き証人

(山本哲正)
https://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2019122702000240.html

 戦前・戦中は李香蘭、戦後も国際女優として活躍した元参院議員の山口淑子(本名・大鷹淑子)さんが2014年9月7日、心不全のため死去した。
 享年94歳だった。告別式は親族で執り行われ、喪主名も公表されない、ひっそりとした最後だった。

 彼女の戦前戦後の芸能人としての活躍や、参院議員を3期務めたことなどはよく知られており、各紙は彼女の死を1面、社会面、文化面に評伝なども大きく掲載、「波乱の生涯」などと伝えた。

 しかし、彼女が戦後、父親と中国情報当局との関係などを指摘されて、連合国軍総司令部(GHQ)防諜部隊(CIC)の監視を受けていたことは伝えられなかった。
 筆者は約20年前、米国立公文書館で彼女のファイルを発見し、彼女自身にも取材した経験がある。

 父親に関する情報のほか、「山口は戦時中、中国大陸で日本のスパイ訓練を受けた」「山口は中国共産党の情報連絡員」「妹の1人は共産党員」などといった情報が集められていた。
 その中には確度が低い情報も含まれており、「山口はむしろ反共」といった友人の否定証言があったが、修正されないまま、ファイルには誤った情報も残された。

 彼女は中国大陸で、満州映画協会(満映)の看板女優として、事実上の文化プロパガンダ作戦に従事したことが「スパイ活動」とみられたようだ。
 他方、戦後対中情報工作に乗り出したCICが何らかの形で彼女を利用しようと考えた可能性もある。
 
 その美貌にひかれ、「情報収集」を名目にして、彼女に近づいたCIC情報将校も何人かいたようだ。
 その中に、特殊工作に従事していたジャック・キャノン中佐がいた。
 キャノンは「キャノン機関」を率いて、東京・本郷の岩崎邸に陣取り、対中国工作にも従事していた。
 キャノンは横浜市中区の米軍将校用住宅で頻繁にパーティーを開き、山口さんを招いたことがあった。
 キャノンは1949年の国鉄3大事件(下山、三鷹、松川)への関与が指摘されているが、確実な証拠はまだ見つかっていない。

 約15年前、筆者は山口さんに電話インタビューした。
 彼女はキャノン邸でのパーティーで「支那の夜」を歌ったこともある、と話してくれた。
 鎌倉で歌のレッスンを受けに行く、と言うと、ジープに乗せて送ってくれたこともあったという。
 しかし、「運転が荒っぽく、急ブレーキを掛けて停車し、鳥を撃ったりしたので、恐ろしくなった」。
 山口さんはそんな経験があったので、キャノンを遠ざけて、防諜担当の大尉と親しくなったところ、キャノンは彼を韓国に左遷した、という情報もファイルの中にはあった。

 1950年、彼女は訪米、ブロードウエーのミュージカル「マルコ・ポーロ」や映画「東は東」への出演が決まり、注目されたが、在米中は連邦捜査局(FBI)が彼女を監視した。
 ニューヨークではユル・ブリンナーらとも知り合い、画家・石垣栄太郎氏の紹介で彫刻家のイサム・ノグチと会って恋に落ち、結婚した。
 2人はしばらく鎌倉に住んだが、1953年ノグチが仕事のためニューヨークに戻ったところ、アメリカ政府は山口さんへのビザ発給を拒否した。
 当時は「赤狩り」の時代で、ビザの拒否は、戦前アメリカ共産党との関係を指摘された石垣氏、さらに「追放」されたチャーリー・チャップリンと接触した山口さん自身も疑われたためだった。

 山口さんはこうした疑いをすべて否定し、犬養健法相らが国務省に要請して、1954年9月ようやくビザは出たが、すれ違いが重なって、それから2年後離婚した。
 疑り深い米情報機関のせいで翻弄された戦後の半生だった。


HuffPost、2014年11月15日 19時12分 JST
キャノン中佐との恐ろしいデート:山口淑子さん追悼

戦前・戦中は李香蘭、戦後も国際女優として活躍した元参院議員の山口淑子(本名・大鷹淑子)さんが7日、心不全のため死去した。享年94歳だった。告別式は親族で執り行われ、喪主名も公表されない、ひっそりとした最後だった。

(春名幹男)
https://www.huffingtonpost.jp/foresight/memorial-writing_b_5827310.html

李香蘭・蘇州夜曲
https://www.youtube.com/watch?v=6iYKiOcLYWg

李香蘭・夜来香
https://www.youtube.com/watch?v=Dt7QJ9_nY38
https://www.youtube.com/watch?v=HLgvB3-j5z0
https://www.youtube.com/watch?v=NTQdRZZau6E

posted by fom_club at 09:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月29日

ひめゆりの塔

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

「知らんぷりしていい問題ではない。どうしても基地が必要と言うなら、沖縄の痛みを他の県(本土)も引き受けないといけない。それが嫌だったら、沖縄にもつらい思いをさせてはいけない」――。

 辺野古新基地に象徴される安全保障の負担が押し付けられる沖縄の不条理を巡り、きっぱりと語るのは、「国民的スター」と称される女優・吉永小百合さん(74)だ。
 来年2020年1月5日に、音楽家の坂本龍一さんと共演するチャリティーコンサートを前に、沖縄への思いを熱く語った。
 1968年、映画「あゝひめゆりの塔」に出演して以来、沖縄戦の継承、米軍基地の過重な負担にあえぐ基地の島への思いを深め、自らの言葉で発信してきた。

「ひめゆりの塔」の「泣いてばかりいた」演技への反省と、本土の盾となった沖縄戦で多数の県民が犠牲になったことを学び、「沖縄には遊びには行けない」と思い込んでいた、という。

 プライベートの沖縄の旅がようやく実現したのは2018年6月。
 沖縄中が鎮魂に包まれる初夏、南部戦跡や米軍基地、新基地建設海域などを巡り、あらためて沖縄の現実に息をのんだ。

「驚くほどきれいな辺野古の海が無残な形にされていくこと」に胸を痛め、「(埋め立ては)本当に悲しい」と、沖縄の民意を無視して進む新基地工事に強い疑念を示す。

「忘れない、風化させない、なかったことにしないために」原爆詩や福島原発事故被害者の詩の朗読をライフワークとし、反戦平和、反核、反原発を明確に打ち出す発言をためらわない。

「自分にできることは表現者として声に出して伝えること」
「どう思われようと、自分の思ったことを伝えることが大事だ」

 かれんな笑顔から繰り出される眼光が鋭さを増した。

 首里城の焼失に衝撃を受け、県民が切望する再建に向けて「できる限りのサポートをしたい」と支援を誓った。
 坂本さんも県民へメッセージを寄せ「辺野古の基地建設工事の状況について、直接お話を伺いたい」と述べた。


[写真]
沖縄戦、基地負担などを巡り、琉球新報、沖縄タイムスのインタビューを受ける吉永小百合さん=17日、東京都内のホテル

琉球新報、2019年12月29日 05:00
吉永小百合さん
辺野古埋め立て「本当に悲しい」
沖縄戦、基地問題……思い語る

(松元剛)
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1050201.html

映画「あゝ ひめゆりの塔」(1968)
https://www.youtube.com/watch?v=sc3OD-VpczM
https://www.youtube.com/watch?v=bOY_YsfAHTQ

 
ひめゆりの
 いしぶみ深くぬかづけば
 たいらぎをこいのむ 
 おとめらの声す

(歌碑 井伊文子)

山歩クラブ2019年5月17日「ひめゆり平和記念資料館」☟ 

ひめゆりの塔.JPG

posted by fom_club at 16:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヘイトが蔓延する社会

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

厚労省キャリア官僚や年金機構職員までもが差別感情をあらわに

 今年3月のことだ。韓国・ソウルの金浦空港で酒に酔った日本人男性が叫んだ。
「アイ・ヘイト・コリアン!(韓国人が嫌いだ!)」
 この様子を撮影した動画には、空港職員に物を投げつけながらローキックを浴びせる男性の醜態がはっきりと映っていた。
 暴行容疑で韓国警察に現行犯逮捕されたのは、なんと厚生労働省のキャリア官僚だった。しかもこの人物、 逮捕当日の夜にはフェイスブックで「 なぜか警察に拘束されています」「変な国です」などと投稿。 反省どころか、居直ったのである。

 同じ頃、日本年金機構の世田谷年金事務所の所長が、匿名のツイッターアカウントで差別的な投稿を繰り返していたことが発覚した。
 韓国人を「卑怯な食糞民族」「属国根性」と中傷、さらには在日コリアンを「新規入国拒否」すると息巻いた上に、国会議員の実名を挙げて「帰化議員」といったデマ情報も流していた。
 差別書き込みの常態化、ヘイトの暴走、そして官民挙げての嫌韓感情。ここに記した二つの「風景」は、まさに2019年の”ヘイト模様”を如実に表したものだった。

底が抜けたワイドショーの「嫌韓」報道

 「戦後最悪」の更新を続ける日韓関係を材料に、メディアも悪乗りを繰り返した。特に日本が韓国を「輸出優遇国(ホワイト国)」から外すことを決めた夏以降、テレビのワイドショーは「嫌韓報道」で染まった。
 8月27日放送のTBS系『ゴゴスマ〜GOGO!Smile!〜』(CBCテレビ制作)では、コメンテーターの武田邦彦・中部大特任教授が「路上で日本人の女性観光客を襲うなんていうのは、世界で韓国しかありませんよ」「日本男子も韓国女性が入ってきたら暴行しないといかん」などと発言。
 これは韓国で起きた日本人女性への暴行事件を報じるなかで飛び出した発言だったが、「世界でも韓国しかありませんよ」といった物言いから浮かび上がるのは、韓国と韓国人に対する差別と偏見のまなざしだ。結局、番組は謝罪に追い込まれた。
 7月19日のテレビ朝日系『大下容子ワイド!スクランブル』で、日韓の国交断絶を呼びかけたのは、同番組のコメンテーター・黒鉄ヒロシ氏(漫画家)である。フリップに朝鮮出兵した豊臣秀吉のイラストを描き、その横に「断韓」と大書した。
「断韓」は、街頭におけるヘイトデモではおなじみの文言だ。「韓国人追放」などを訴えるデモでは、これを記したプラカードが林立することもある。以前はヘイトデモやネットの差別書き込みに限定されていた言葉が、堂々とテレビの地上波に乗せられる時代になった。
 韓国について「手首切るブスみたいなもん」と表現したのは作家の岩井志麻子氏だ。これは、関西テレビ(大阪市)制作のバラエティー番組『胸いっぱいサミット!』のなかで飛び出した。韓国人の気質を問われたことに対して答えたものだった。
 韓国人だけでなく、自殺を図る女性をも揶揄したもので、典型的な複合差別といえよう。しかも番組は生放送ではなく、事前収録。当然、番組考査を経たうえでの放送だった。
 放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は、この発言を「放送倫理に抵触する疑いが大きい」として、現在審議中である。

 まさに「底が抜けた」といってもよいだろう。これら発言が、隣国への差別と偏見を煽るだけでなく、在日コリアンにも向けられてしまうといった”被害”に対して、いかに無頓着、無神経であるのか、おそらく制作者にはその自覚がない。いや、それとも、自らがヘイトの片棒を担いでいることに自覚的であるからこそ、こうした番組をつくり続けてきたのだろうか。
 あるテレビマンは私の取材に対してこう答えている。
「(嫌韓報道は)視聴者が望んだものだ」
 それが正しいものかどうかを論じる必要はないだろう。問題は、こうした時代だからこそ、憎悪の抑制に努めるべきメディアが、結果的にそれを扇動していることなのだ。

「売れればそれでいい」メディアが憎悪を煽る

 私が属する出版界も同様だ。保守系雑誌は毎号、「反日」糾弾記事を掲載し、大手週刊誌「週刊ポスト」(小学館・9月13日号)までもが、「韓国なんて要らない」と銘打った巻頭特集を組んだ。
 記事の中身も、韓国と比較して日本がいかに優れているのかといったお粗末なものだったが、新聞各紙に掲載された同誌広告だけでも、在日コリアンの多くに恐怖を与えたことは間違いない。
 作家の柳美里氏は、自身のツイッターに次のように書き込んだ。

<日本で暮らす韓国・朝鮮籍の子どもたち、日本国籍を有しているが朝鮮半島にルーツを持つ人たちが、この新聞広告を目にして何を感じるか、想像してみなかったのだろうか?想像出来ても、少数だから売れ行きには響かないと考えたのか?売れれば、いいのか、何をしても>

 そう、売れればよかった。数字が取れればよかった。一部の人に強いられる”被害”など念頭になかった。テレビも活字も、差別される側には興味も関心もなかった。
 そうした回路でメディアは動く。回る。
 だが、想像してほしい。メディアが差別を煽ることで、負の歴史がどれだけ積み上げられてきたのかを。

 1990年代半ば、ルワンダで起きた民族対立は、ラジオ放送が「敵を殺せ」と煽ったことで、大量虐殺につながった。
 日本も例外ではない。1923年、関東大震災直後には、朝鮮人であることだけが理由で、多くの人が殺された。新聞はガセ情報に基づき、裏どりもせずに記事を書き、虐殺の片棒を担いだ。
 ちなみに第二次世界大戦における日米開戦時、在米日本人、日系人が強制収容所送りとなった際、日本人への憎悪を煽ったのも米国の新聞だった。
 メディアの体質は、社会が危機に陥った時にこそ明らかとなる。

名古屋市長の扇動であいちトリエンナーレへの抗議は激化した

 今年は「ヘイトと表現の自由」に関しても議論が白熱した。
 話題となったのはあいちトリエンナーレの「表現の不自由展」。慰安婦をイメージした平和の少女像が出品されたことなどで抗議が殺到。なかにはテロまがいの脅迫もあったことから、開幕からわずか3日で一度は中止に追い込まれた。
 トリエンナ ーレ実行委員会事務局によると、開幕からの1ヶ月間だけで、 同事務局と愛知県庁が受けた抗議は11万379件にも及ぶ。
 抗議の9割は匿名で、そのうちの半数が少女像を問題としたものだったという。「電凸」と呼ばれる電話による抗議に関しては悪質なものが多く、「サリンをまく」「高性能な爆弾を仕掛けた」「愛知県職員を射殺する」といった殺戮予告もあった。
 逮捕者も出ている。「ガソリン携行缶持って館にお邪魔する」などと書いた書面を事務局にファックスで流した男性は、威力業務妨害の容疑で愛知県警に逮捕された。この男性が利用していたと思われるツイッターでは、フォロー先のなかに、人種差別団体として知られる「在特会」(在日特権を許さない市民の会)元幹部などの名前を見ることができた。
 かつてはその在特会とも連携し、地元愛知県で差別扇動活動を展開してきた右派グループも、閉幕まで連日、「不自由展」に対する抗議を続けた。
 よりにもよってそのような差別集団の隊列に加わってしまったのが、名古屋市の河村たかし市長だった。
 「不自由展」再開に抗議するため現地を訪ねた河村市長は、同集団メンバーらと一緒に座り込み、「公金不正使用を認めるな」とスピーチ。メンバーらが繰り返す「大村(愛知県知事)やめろ」のシュプレヒコールに合わせてこぶしを突き上げた。
 河村市長はこの集団が、これまで名古屋駅前などで”日韓断行”を訴える街頭宣伝を繰り返してきた他、地元在住の中国人が旧正月を祝う「春節祭」や、「韓国フェスティバル」の会場近くにも押し掛け、差別プラカードを掲げた妨害活動をおこなってきたことなどを知らなかったのだろうか。
 そもそも、トリエンナーレ開幕直後に少女像の展示が中止となった流れをつくったのも、河村市長だった。8月2日に「表現の不自由展」を視察した直後に、市長は「日本人の心を踏みにじるものだ。税金を使っているから、あたかも日本国全体がこれを認めたようにみえる」と発言。この犬笛に呼応したかのように、世間の一部は一斉に飛び掛かった。
 枯草に火を放ったようなものだった。抗議電話やメールが事務局に相次ぎ、ネット上では影響力のある著名人をも巻き込んで憎悪の書き込みが増えていく。

川崎市はヘイトを許さない姿勢を明確に示した

 一方、日本人(日本国)を貶める表現など許されないと積極的に行動した者たちの多くは、川崎市議会で年末に成立した「反ヘイトスピーチ条例」に関しては、「表現の自由の危機」だとして強く反発した。
 同条例は、市内の公共空間におけるヘイトスピーチを禁じたもの。警告などを無視して繰り返した場合には罰金(最大50万円)が科せられる。全国で初めて、ヘイトスピーチに刑事罰を適用した条例だ。
 市の担当部局には「表現が制限されてもいいのか」「日本人に対する差別は許されるのか」といった抗議が殺到した。
 では、 ヘイトは野放しでよいのか。被害が積み重なることを、傍観していてもよいのか。そもそも特定の人々を、その属性だけを理由に排除、抹殺しようとする言動が許されたままでよいのか。人間の尊厳を傷つけ、奪い取るような行為を、「表現」 として放置してもよいのか。
 外国籍住民の多い川崎ではこの数年間、 ヘイトデモが幾度も繰り返されてきた。市の選択は、ヘイターたちによって蹂躙された結果を踏まえての回答でもある。

 私は繰り返し主張してきた。

 ヘイトスピーチは、人間と、地域と、社会を壊していく。だからこそ、人間と地域と社会を守るためにこそ、ヘイトスピーチをなくしていかなければならないのだ。

 競うように差別と偏見、憎悪を扇動する者たちを許さない、そして、負けない。その意志を私は来年の希望につなげたい。


 なお、私がフリー編集者の野間易通氏と一緒にMCを務めるネット番組「NO HATE TV」では、今年最後の放送で恒例の「今年度ヘイトトップ10」を発表した。視聴者のネット投票などをもとに、ヘイト関連ニュースの上位10件を選定した。「令和」で浮かれた今年のもうひとつの「風景」である。参考にしていただきたい。

1.  川崎反ヘイト条例成立
2.  対韓輸出規制などによる韓国ヘイト
3.  あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」におけるヘイト騒動
4.  入国管理局による外国人収容者に対する人権無視の施策
5.  ヘイト選挙(選挙に名を借りたヘイトスピーチ)
6. 『ゴゴスマ』放送事件
7.  ミルクシェイク・チャレンジ(欧州でヘイト政治家に対してミルクシェイクを投げつける者が続出)
8.  アイヌ新法成立(初めてアイヌ民族が日本の先住民族であると明記された)
9.  厚生労働ヘイト省(金浦空港事件など)
10.  令和ナショナリズム


wezzy、2019.12.28
排外主義が日本を覆った2019年、ヘイトが蔓延する社会の片隅で見えた希望
(安田浩一)
https://wezz-y.com/archives/71697/

差別と貧困、声をあげた若者は「力」に押しつぶされた

 今年2月、韓国映画「金子文子と朴烈」(イ・ジュンイク監督)が日本公開された。朴烈と金子文子の「大逆事件」を正面から取り上げ、韓国では2年前に公開され、観客235万人を動員する大ヒット。日本でもミニシアター上映の韓国映画としては異例のヒットで、作品の評価も高かった。筆者も興味深く見たが、日本ではまず製作は無理な題材を映画化したことに感心した反面、2人は無政府主義者(アナーキスト)とされたのに、映画では「日本の植民地支配に抵抗し、独立を求める民族主義者」の面がより強調されて描かれていたのが気になった。

 確かに、朴烈は「俺は最初、民族的独立思想を抱いていた。次いで広義の社会主義に入り、その後無政府主義に変じ、さらに現在の虚無的思想を抱くようになったのだが、いまでも民族的独立思想を俺の心底からぬぐい去ることはできぬ」というような思想遍歴をたどった(予審尋問調書)。
 一方で、文子の獄中手記『何が私をこうさせたか』によれば、文子は2度目に会った時、朴に「あなたは民族主義者でしょうか?」と聞いている。自分は朝鮮人ではないから、「あなたがもし独立運動者でしたら、残念ですが、私はあなたと一緒になることができないんです」と。
 これに対して朴は「僕もかつては民族運動に加わろうとしたことがあります。けれど、いまはそうではありません」と明言している。尋問の中では2人とも「無政府主義ではなく虚無主義」とも強調している。どれが本当なのか。いずれにしろ、反日の流れが強い現在の韓国では、民族主義者の面を強調した方が国民に受けるのは間違いないのだろう。

今でもいくつかの謎が残る「朴烈事件」とは

 その点に限らず、この事件はナゾが多い。
 2人の「犯罪」は、関東大震災後の混乱の中で、さまざまな思惑から「大逆罪」をでっち上げられたというのが定説。2人に死刑判決を出した大審院の牧野菊之助裁判長は「十数年前幸徳秋水を出し、さらに難波大助が現れ、今また朴烈のような人間が出たことは誠に遺憾に堪えぬ」と語った=1926(大正15)年3月26日東京日日夕刊。
 そのいずれも「大逆事件」だが、他の2件は多少なりとも実行行為があった。しかし、朴烈事件はほとんど思いつきで爆弾入手を考えただけ。震災時の保護検束から始まって大逆罪まで、犯罪が“製造”された感が強い。
 弁護人の布施辰治弁護士は「いかなる大逆不逞の思想といえども、これを実行に移さない中は、最大最悪の不敬罪であっても、大逆の犯人とはならない」と雑誌『改造』上で述べた。
 事件そのものよりも、それを政治的に利用しようとするさまざまな動きが入り乱れたのが事実だった。その結果、差別と貧困の中から声をあげようとした若者2人が、政治やメディアなどの「力」に翻弄され、押しつぶされた印象が強い。
 翻って、格差と貧困など、数多くの問題を抱える現在の若者はどうなのだろうかと、考えてしまう。

「不快」か「なごやか」か 事件を象徴する怪写真の真偽

「両人が和服姿に晴れやかな微笑を浮かべ、朴がイスに座したる上に文子が腰を下ろし、一見春画を見る如き不快を感ぜしむるものである」

 1926年7月30日の報知新聞は、前日29日に政治家や報道関係に投げ込まれた怪文書に載った朴烈と文子の写真について、「朴烈と金子文子の奇怪な写真配布さる」の見出しで報じた。「これは偽写真だ」「偽ものと断言する」という刑務所長や法相の談話も。同じ写真を『明治百年100大事件』は「親しい関係の男女の愛情がこぼれるような、なごやかな写真である」と書いた。「不快」か「なごやか」かは大きな違いだが、見る側の先入観と意図で変わるのだろう。

 怪文書は「『大逆事件の共犯者である朴烈と文子の両人は男囚監と女囚監に別れて収容されているはずであるにもかかわらず、この二人の面会を許し、或は入浴等も自由にさせるなど、不当に好遇を与えている、これは刑務所の紀律が甚しく紊乱している証拠である』として政府の責任を追及したものであった」(『警視庁史 大正編』)。
 最初に報道した報知も「あまりに奇怪な写真であるがため、あるいはためにせんとする者の巧妙な偽造かとも思われる」が、本物であれば「司法当局空前の大失態で、当局の責任は到底軽微ではすまざるべく、必ずや重大な結果をもたらすであろう」と予測した。同紙は「あまりに醜怪な右の写真を国民の前に公にするに忍びず、あえて掲載しない」と写真を載せなかった。

政争を引き起こした大事件の末路

 当時は憲政会の第1次若槻礼次郎内閣。
 大正天皇の病状が日に日に悪化し、結果的に大正最後の年となったこの年は、大阪・松島遊郭移転に絡む疑獄事件と、陸軍機密費横領事件が表面化し、与党と野党政友会の間で足の引っ張り合いの泥仕合に。期待された「2大政党時代」は名ばかりになっていた。
 その中で「社会的反響が大きく、また政治的影響が最も大きかったのは朴烈怪写真事件だった」(筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』)。「政友会が政府攻撃の具に供して政治問題化し、世に大きな波紋を投げたのであった」(『警視庁史 大正編』)。
 その後、怪写真は、本編(「朴烈文子大逆事件」https://bunshun.jp/articles/-/13072)に登場する立松懐清・予審判事が、2人が同席するのに便宜を図った上、自分で撮影。獄中の朴から人手を介して外部に出たことが分かった。連日、国会内外での追及と反撃、新聞の過熱報道が繰り広げられた揚げ句、立松判事は追い込まれて辞職。
 さらに8月末、首謀者として国家社会主義者の北一輝(二・二六事件で死刑)が検挙され、翌27年1月には内閣不信任案が提出されるなど、泥沼の政争の最大の原因となった。

[怪写真]
1926年に政界や報道関係者に公開された怪写真 「朴烈文子 怪写真の真相」より

 実は金子文子は怪写真が出る6日前の7月23日、収監されていた宇都宮刑務所栃木支所の監房で首つり自殺していた。23歳だった。

 新聞各社の報道は怪写真とほぼ同時。朝日の31日夕刊は1面トップで「鉄棒に麻糸をかけて朝の光の下で縊死 わづか十分間余の監視の眼を盗んで獄死を遂げた金子文子」と報じ、その右下2段で「怪文書犯人 大捜索を開始す」と警視庁の動きを伝えている。
 遺書などはなく、動機ははっきりしないが、想像はできる。
 本編(「朴烈文子大逆事件」https://bunshun.jp/articles/-/13072)にある「英雄主義」以上に、自分たちが否定していた天皇の名で恩赦を受けてまで生き延びたくなかったように思える。幼いころから父母に見捨てられて貧しく寂しい、砂をかむような人生を強いられた。特に、7年間にわたる朝鮮の叔母の家での「地獄」のような体験は、肉親による仕打ちだっただけに大きかったのではないか。それを本編(「朴烈文子大逆事件」https://bunshun.jp/articles/-/13072)のように「特異な性格」で片付けられるのか。
「今度の事件を具体化したような(ことを)未然に防ごうと(いう)思し召しなら、この際です。私を殺してしまわなければ駄目ですよ。私に何年でも牢獄生活をさせても、再び私を社会に出したなら、必ず必ずやり直してお目にかけますよ」と文子は立松判事に“宣言”している(予審尋問調書)。

「朴烈事件」を取り巻く”誤認”の数々

 その点に限らず、今回の本編(「朴烈文子大逆事件」https://bunshun.jp/articles/-/13072)には問題が多い。
 著者の江口渙氏は、1933年に虐殺された作家・小林多喜二と親交が深く、葬儀委員長も務めた左翼作家で、無政府主義にも理解があったが、朴烈事件との関わりは不明。記憶を基に書いたようだが、記述には誤りが多い。朴烈の生年は1902(明治35)年なのに、1899(明治32)年としている。文子の故郷も静岡県ではなく横浜。自殺も「6月のはじめ」ではない。文中「愛人金子文子」とあるが、2人は獄中で結婚している。特別裁判初公判の日付も誤っている。よくこういう原稿がチェックされずに掲載されたと思う。2人が大逆罪に問われた理由が関東大震災時の朝鮮人虐殺の理由づけだったことや、その罪状を2人が自分から引き受けた経緯は、作家らしい筆致で説得力があるが、いずれも1つの見方だろう。

 問題が多いといえば、この事件の新聞報道もそうだろう。
「事件」を最初に報じたのは、震災から約40日後の1923年10月10日の朝日夕刊か。検閲で文字が一部消えているが、1面2段で「大〇〇発覚 全国的に大捜査」の見出し。どうしてこの事件と分かるかというと、「急電を発して逮捕したるを初め市外代々木富ヶ谷某所から〇〇」とあるためだ。当時、朴烈、文子夫婦はそこに住んでいた。「内容は○○○〇の○○○〇よりなる○○○〇の大陰謀が発覚せるもので……」。特ダネを検閲でズタズタにしたのか。ただ、予審尋問での陳述状況と突き合わせると疑問もある。
 記事が全面解禁になったのはそれから2年以上たった1925年11月25日夕刊。「鮮人朴烈等にかかる恐るべき不敬事件 震災に際して計画された鮮人団の陰謀計画【本日記事差止め一部解除さる】」(朝日)、「震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件 罪の裏に女!躍動する朴烈が内縁の妻金子ふみ」(東京日日)。朝日に「大逆罪」の記述がなく、東日は「金子ふみ」としているのが不思議。「鮮人」という差別語が大手を振って紙面に登場していた。大審院の特別裁判初公判は26年2月26日。「朴夫妻、朝鮮礼装で裁きの庭に晴れ姿 士扇を斜に得意げに入廷」(27日東日夕刊)。「鶴を織った紫の朝鮮服に黒の紗帽という礼装で、手に紗扇を持ち刺繍のある白靴を穿ち……」(同日時事新報)。
 本編(「朴烈文子大逆事件」https://bunshun.jp/articles/-/13072)で判決の日の服装のように書いたのは、この初公判の日のことだ。

後の「大本営発表」に通じるメディアの態度

 第一審で最終審である公判は4日連続で開かれたが、冒頭の6分以外は非公開。
 27日朝日朝刊は「聞くところによると、朴も文子も憎々しいまでに落ち着きはらって恐ろしい企てを述べたらしく」と先入観丸出し。28日の東日夕刊も、2人が2日目は和服だったことからか、「飽くまでも…お芝居気分……出廷した朴夫妻」の見出しを付けた。同年3月25日、判決。

「満廷を見渡していた金子文は淋しくひとみを落とし、何やら小さい声で口ずさみながら双手を動かし、続いて朴も『裁判長ッ……』と言いかけるや遅し、廷外に引き出され、さびしい後姿に一生の名残りをとどめて刑務所へ送られた」と26日朝日夕刊1面トップ記事は書く。
 これに限らず、紙面での2人の表情を「寂しい」と表現した記事が目立つ。
「天皇、皇太子を襲おうという、天人ともに許さざる不敬の重大犯罪だが、境遇には同情を禁じ得ない」という認識が記者にあったようにもとれるが、「本当は冤罪では?」という疑問が根底にひそんでいたのではないか。

 あざとさが表れたのは恩赦決定の場面。
「聖恩逆徒に及び朴烈夫妻は減刑」「仁慈に富ませられる雲上の思召(おぼしめし)はこの逆徒の上にも加えさせられて、特に減刑の恩命が降ることとなった」(3月26日東日朝刊)。
 そして、恩赦を言い渡した際の記事。
「『死から生へ』の輝く歓喜」「かねて死を覚悟していた彼らではあったが、出し抜けの恩命を拝した時は、死より生への歓喜がサッと走って、しばらくは感謝の眼をしばたたいていた」「再び監房に下げられる時の両名の足どりはさすがに軽かった」と4月7日東日夕刊は書く。刑務所長の談として「さすがにあるショックを感じたらしく、ヒョイと顔をあげ感謝の色を現わし、快くお受けして引き下がったが、文子は『ありがとう』と口ごもったようにも思った」と付け加えた。「文子は天皇からの特赦状を受け取るや、刑務所長の目の前で破り捨てた」という弁護士の証言とどちらが真実に近いのか。自殺という結果から見ても明らかだろう。文子は以前から短歌を作っており、判決を受けた時のことを、

我が心嬉しかりけり公判で死の宣告を受けし其の時
と詠んでいる。
「天皇の恩沢」を強調するとしても、ここまで書くか。
 メディアの態度はのちの大本営発表の受け売りにまでつながる。罪は重い。

出所後の朴が歩んだ社会運動家としての人生

 文子の死後、朴は4ヶ所の刑務所をたらい回しにされた。
 獄中で詠った短歌には、ある種の諦観と落ち着きが感じられる。

此の我が身秋の木の葉と散るならば春咲く花の肥やしともなれ

 日本の敗戦後の1945年10月27日、秋田刑務所大館支所から出獄。獄中にあったのは22年2カ月間で、政治犯として最長記録という。結成されたばかりの「在日本朝鮮人連盟」秋田県本部は大館駅前に1万7000人を動員。「朴烈出獄歓迎会」を開き、市内をパレードした。「祖国解放」のシンボルで「在日朝鮮人のスター」に祭り上げられたということだろう。その後、思想信条の違いなどから在日朝鮮人の間で対立が深まり、朴烈は一派に推されて「新朝鮮建設同盟」の委員長に就任。46年10月、改組された「在日本朝鮮居留民団」の初代団長となった。当時、大韓民国臨時政府の国務総理だった李承晩を支持し、同政府の国務委員にも就任した。

 しばらくして、年の離れた女性と再婚。一男一女が生まれた。しかし、長い獄中生活の影響は大きく、「彼は独断であり、憎愛が極端であり、偏狭性のために、多人数を統率する人格を欠いている」(金一勉『朴烈』)と長年の親友が語るように、偶像的人気はあったが、指導的人格は欠けていた。1949年の団長選挙に破れて組織を追われ、帰国。1950年の朝鮮戦争の際、逃げ遅れて北朝鮮に連行された。平壌で「南北平和統一委員会」の副委員長を務めたといわれる。
 1974年1月17日、死去。文子の死から48年がたっていた。
 満71歳のはずだが、1月18日の朝日夕刊に写真入りで載った「新亜=東京」の訃報は、「平壌放送が発表」とし、「77歳」としている。「『在北平和統一推進協会』の会長となっていた」とも。「大逆事件の首謀者」「民族独立運動の英雄」という「看板」を徹底的に利用され、自分も利用した後半生だったようだ。それだけ「朴烈大逆事件」のインパクトは強大だった。だが、それで本人は満足だったのだろうか。

「私は犬ころである」朴烈と金子文子の出会いから2人の関係

 東京の片隅で生きるために、朴がこなした仕事は本編にあるが、文子も仕事を転々とした。新聞の夕刊売り、夜店での粉石鹸売り、「女中」、印刷屋の植字工、女給、朝鮮ニンジン販売……。いまで言うなら、2人とも底辺の非正規労働者だった。文子は「犬ころ」という詩の作者として朴を知った。「私は犬ころである。空を見てほえる。月を見てほえる。しがない私は犬ころである……」。
 2人は文子が働いていた新宿のおでん屋で会い、意気投合。すぐ同棲生活に入った。「私の探しているもの、したがっている仕事、それはたしかに彼の中にある。彼こそ私の探しているものだ。彼こそ私の仕事を持っている」と文子は『何が私をこうさせたか』に書いている。この時、それぞれ朴は20歳、文子は19歳になったばかりだった。朴は「彼女の虚無思想的気持がおれのそれと一致しているのを知って、同志として共同生活をすることを決意した」。文子も「幾度か朴と主義思想を論じ合いましたが、朴はほとんど私と同様に権力に反逆して生物の絶滅を期する思想の持主でありました」と述べた(予審尋問調書)。

 朴は黒濤社の機関誌「黒濤」を2号出した後、1923年に「不逞社」を結成。機関誌「太い(ふてえ)鮮人」を出した。差別語を逆手にとったわけだ。創刊号で朴烈は「『太い鮮人』発刊に際して」と題し、「日本の社会でひどく誤解されている『不逞鮮人』が果して無暗に暗殺破壊、陰謀をたくらむものであるか、それともあくまで自由の念に燃えている生きた人間であるかを、我々と相類似せる境遇にある多くの日本の労働者諸君に告げるとともに」(以下、検閲で抹消)と述べている。
 これは建前ばかりだとは思えない。文子も第2号に「所謂不逞鮮人とは」の見出しでもっと戦闘的とみられる文章を書いているが、抹消部分が多く、完全には意味が読み取れない。ただ、2人の関係は終始、文子の方が“腰が据わっている”印象。本編(「朴烈文子大逆事件」https://bunshun.jp/articles/-/13072)で書いているように、実際も文子がリードする形で朴烈に覚悟を迫っていたのかもしれない。

現代にも通ずる”若者をとりまく絶望”にもがいた金子文子

 予審尋問調書や獄中手記を読んで驚くのは、金子文子の高い精神性と現代性だ。
 死後5年の1931年に出版された『何が私をこうさせたか』は、その3年前に発表された林芙美子の「放浪記」と好一対といっていい。事件報道解禁直後の1925年11月25日の東日朝刊では、朴と文子の短歌が紹介されている。
友と二人 職を求めてさすらいし 夏の銀座の石だたみかな
これ見よと いわんばかりの有名な 女にならんと思いしことあり
 これらの文子の歌は、朴の詩が萩原朔太郎の影響を受けているらしいのに対し、「啄木ばりであるのも面白い」と同紙に評された。その通り、
我が好きな歌人を若し探しなば夭(わか)くて逝きし石川啄木」という歌もある。
 そればかりでなく、私には、石川啄木が「時代閉塞の現状」で描いたのと同じような、若者を取り巻く絶望的な状況を文子も感じて、もがいていたように思える。
 文子は『何が私をこうさせたか』にこんなことも書いている。いまの若い世代が抱える問題意識とどこかで共通しているのではないだろうか。

私は人のために生きているのではない。私は私自身の真の満足と自由とを得なければならないのではないか。私は私自身でなければならぬ

【参考文献】
▽ 小松隆二編「続・現代史資料3 アナーキズム【オンデマンド版】」 みすず書房 2004年
▽ 金子文子「何が私をこうさせたか=獄中手記」 春秋社 1931年(岩波文庫、2017年12月) 
▽ 金一勉「朴烈」 合同出版 1973年
▽ 布施辰治「怪写真事件の主点と批判」 「改造」1926年10月号
▽ 筒井清忠「戦前日本のポピュリズム」 中公新書 2018年 
▽ 警視庁史編さん委員会「警視庁史 大正編」 警視庁 1960年
▽ 松本清張監修「明治百年100大事件」 三一新書 1968年
▽ 我妻栄ら「日本政治裁判史録 大正」 第一法規出版 1969年 
▽ 鈴木裕子編「女性=反逆と革命と抵抗と」 社会評論社 1990年
 

文春オンライン、2019/08/04
怪写真も残る謎多き「朴烈事件」2人の若者が叫び続けた”差別”と”貧困”のすべて
声をあげた若者は「力」に押しつぶされた

(小池新・解説)
※ 昭和初期に日本を揺るがせた35の大事件・怪事件のレポートを文藝春秋臨時増刊『 昭和の35大事件』(1955年刊行)より転載。ジャーナリスト・小池新氏による解説付き。
https://bunshun.jp/articles/-/13070

※ ヤッホーくんのこのブログ、2019年07月20日付け日記「日本がこれ以上分断しないため」もぜひお読みください。

posted by fom_club at 15:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「丁寧に説明」とカンニングペーパーかプロンプターを読むだけ

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 先週の2015年6月4日、衆議院の憲法調査会で行われた参考人招致で、与党推薦を含む憲法学者3人が、政府が今国会に提出している「安保法制」(戦争法案)について、揃って憲法違反だとしたことが波紋を広げています。

憲法9条と閣議決定のねじれ

 今更ですが、憲法9条は次のように定めています。
[第二章第9条…略…]
 この憲法9条の下、つい1年前まで、我が国の政府は、海外での武力行使も、集団的自衛権(典型的には米軍が他国に攻撃されたときに日本国が反撃すること)の行使も、憲法違反として禁止する立場を取ってきました。
 ここで「禁止」とは、主権者である国民が憲法によって権力(今は安倍政権)に対して「やってはいけない」と命令している、ということです。
 このように国民が憲法によって国家権力を制限する考え方を立憲主義といいます。

 ところが安倍政権は、昨年2014年7月1日の閣議決定でこのような政府の憲法解釈を根底から変えてしまいました。
 すなわち、「後方支援」名目で主に米軍の兵站活動を行える範囲を大幅に拡大し、タリバン政権陥落後のアフガニスタンのようなところで治安維持名目で掃討作戦を行うことを容認し、さらには次の要件(いわゆる「新三要件」)を満たすときには自衛隊が海外での武力の行使と集団的自衛権行使ができることに(勝手に)してしまったのです。

 この7.1閣議決定に基づいて今の国会に提出されているのが一連の「安保法制」です。
 全体像を政府が作成した図で示すと以下の通りです。
[「平和安保法制」の主要事項の関係…略…]
 戦争を放棄し、武力の行使を否定した憲法9条の下で、結論において海外での戦争も武力行使も辞さない解釈をとることはおよそ無理があります。
 憲法9条と7.1閣議決定には大きなねじれがあると言えます。
 そして、いずれにせよ新三要件の下での武力行使は、この要件を文字通りに解釈するのか、これをさらに緩やかに解釈して行くのかで、許容される範囲が全く変わります。
 常識的な日本語の解釈では、他国が攻撃を受けて、日本国の存立が脅かされる事態はほとんど想定できないはずなのです。
[新三要件…略…]
7.1閣議決定と法案のねじれ

 ところが、国会論戦開始後の安倍政権は、むしろ「新三要件」すらも形骸化し、歯止めを設けない姿勢を明らかにしています。

「重要影響事態」における米軍に対する兵站活動(後方支援)については、中東やインド洋でも行えるとし(読売「後方支援可能は「中東とインド洋」…首相が示す」)、それを行うか否かの要件は、
(1)事態の発生場所や規模
(2)米軍の活動内容
(3)日本に戦禍が及ぶ可能性というもので(産経「首相、「重要影響事態」の判断基準例示」)、もはや憲法9条とは何の関係もない要件になっています。
「イスラム国」掃討作戦への兵站活動すら、法律上は可能とされます(日本テレビ「対「イスラム国」後方支援「法律上は可能」」)。

 国際的には「後方支援」などという用語はなく、これらはすべて兵站活動です。
 米軍の武力行使や戦争と不可分のものであり、当然、敵対勢力からは攻撃の対象となります。

 また、安倍首相は、タリバン政権陥落後のアフガニスタンにおける「ISAF」のような治安維持活動の名の下での掃討作戦への従事も否定しませんでした(しんぶん赤旗「ISAF(国際治安支援部隊)型への派兵 否定しない首相」)。
 これは掃討作戦といいつつ、実際は現地の新旧政権の権力闘争としての戦闘行為である可能性もあるわけで、治安維持活動が武力の行使になる可能性も十分にあります。

 米軍が攻撃を受けたときに自衛隊が反撃して武力行使する「武力攻撃事態」についても、相手方勢力が日本への攻撃を否定している場合でも行える、と明言しています(時事「攻撃意図否定でも可能=集団的自衛権行使−安倍首相」)。
 安倍首相は海外での武力行使の前提となる自衛隊派遣の要件について、
(1)日本の主体的判断
(2)自衛隊にふさわしい役割
(3)外交努力を尽くすこと
という要件を述べましたが(前掲産経)、これも憲法9条とはもはや何の関係もない要件になっています。
 第一次安倍政権で安全保障担当の内閣官房副長官補をつとめ、元防衛庁官房長の柳澤協二氏は、南沙諸島で中国と米国がつばぜり合いをするときに日本が巻き込まれていく可能性を指摘しています(「安保法制で事実上の戦争に巻き込まれる 柳澤協二さんの講演から」)。

 結局、安倍政権は、自ら閣議決定で「新三要件」を定立しながら、実際に国会に提出されている法案は、「我が国の存立が脅かされる」などという範囲をはるかに超え、米軍と一緒であれば海外での軍事活動は何でもあり、という様相を呈しています。
「安保法制」は、7.1閣議決定とすらねじれを起こしているのです。
 このような「法律上は何でもあり」の状況を推進派の産経新聞の社説がいみじくも述べています(産経「安保法制 法律と政策判断、混同で不可解に」)。
 産経新聞はこの社説で安倍政権を擁護しようとしているようですが、擁護になってないように見えるのは筆者だけでしょうか。

 このように、憲法9条と7.1閣議決定のねじれ、7.1閣議決定と「安保法制」のねじれ、という二重のねじれにより、国会での政府答弁は、もはや憲法9条とは関係のないものになっています。
 この問題に関する政府の国会答弁が著しくわかりにくいのは、誰がどう考えても憲法上許されないことを、曖昧な答弁で切り抜けようとしているからに他なりません。

憲法審査会での違憲発言の重み

 6月4日の衆院憲法審査会での三学者の意見発言は、このような国会論戦が行われる中でのものでした。
 発言要旨は以下の通りで、三人の憲法学者はいずれも安保法制を違憲としています。
長谷部恭男氏(早大教授)
「憲法違反だ。従来の政府見解の基本的枠組みでは説明がつかず、法的安定性を大きく揺るがす」「外国軍隊の武力行使と一体化する恐れが極めて強い」
小林節氏(慶大名誉教授)
「憲法9条は海外で軍事活動する法的資格を与えていない。仲間の国を助けるために海外に戦争に行くのは憲法違反だ」
笹田栄司氏(早大教授)
「内閣法制局と自民党が(憲法との整合性を)ガラス細工のようにぎりぎりで保ってきた。しかし今回、踏み越えてしまった」
出典:毎日新聞

 ダイジェスト版の動画も公開されているので、お時間のある方は本物をご覧下さい。

2015年6月4日 衆議院憲法審査会 集団的自衛権の行使は違憲
https://www.youtube.com/watch?v=N61Bv505D9U

 与党が推薦した長谷部氏が「違憲」と明言したところに強い覚悟を感じます。
 大学で憲法の勉強をしたことがある人なら大抵分かると思いますが、三人の教授は決して左派の学者ではありません。
 長谷部氏は東大系の正統派の憲法学者ですし、小林氏はむしろ明確な憲法9条改憲派です。
 しかし、小林氏は、憲法9条を改憲しないまま法律で現状を変えてしまうことに強い異議を唱えているのです。

 政府与党からは“代打”で招致した長谷部氏の人選について「誤り」という意見もあるようですが、では、本来、招致するはずだった京大系の正統派の学者である佐藤幸治氏がその後の6月7日の講演で何を言ったかというと、以下の通りで、安倍政権を名指しすらしないものの、改憲を目指す政権の動向を強く批判しています。
 引用は一部ですので、是非、記事全体をご覧下さい。
 基調講演で佐藤氏は、憲法の個別的な修正は否定しないとしつつ、「(憲法の)本体、根幹を安易に揺るがすことはしないという賢慮が大切。土台がどうなるかわからないところでは、政治も司法も立派な建物を建てられるはずはない」と強調。
 さらにイギリスやドイツ、米国でも憲法の根幹が変わったことはないとした上で「いつまで日本はそんなことをぐだぐだ言い続けるんですか」と強い調子で、日本国憲法の根幹にある立憲主義を脅かすような改憲の動きを批判した。
出典:毎日新聞

 この他も、近い過去に例えば安倍政権下で内閣法制局長から最高裁判事になった山本庸幸氏が就任時の記者会見で「法規範そのものが変わっていない中、解釈の変更で対応するのは非常に難しい。実現するには憲法改正が適切だろう」と述べたことが思い出されます(共同通信記事)。
 若干脱線して色々紹介しましたが、このように、我が国を代表する法律家らが、「安保法制」実現に突き進む安倍政権を一斉に批判しているのが今日の特徴です。

広がる波紋(政府与党の言い訳)

 三学者の“違憲表明”に対して、政権側は火消しに躍起になっています。
 まずは菅義偉官房長官が「法的安定性や論理的整合性は確保されている。全く違憲との指摘はあたらない」「全く違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」などと述べました(産経)。
 しかし、これに対しては、ツイッター世代の憲法学者が突っ込みを入れます。
 長谷部恭男先生が憲法違反と指摘。 菅氏「全く違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」とのこと。その「著名な憲法学者」の名前を教えてほしい今日この頃。
出典:木村草太氏(首都大准教授)のツイッター
 菅官房長官によれば、「全く違憲でない」と言う「著名な」「憲法学者」が「たくさん」いるらしい。是非ご教示賜りたい。
出典:南野森氏(九州大学教授)のツイッター

 また、若手弁護士で作る「明日の自由を守る若手弁護士の会」も面白い図を作って菅官房長官を批判しています。
[合憲3人対違憲189人…略…]
 中谷元・防衛大臣は国会で「武力行使の新3要件というものをかぶせて、集団的自衛権は、あくまで、わが国の存立を全うし、国民を守るためのやむをえない自衛の措置として必要最小限度のものに限られる。他国の防衛それ自体を目的とする集団的自衛権を認めるものではなく、今回の法案は憲法の範囲内であるという認識に至った」などと述べました(NHK)。
 しかし、中谷氏については、過去に「私は、現在の憲法の解釈変更はすべきでないと考えている。解釈の変更は、もう限界に来ており、これ以上、解釈の幅を広げてしまうと、これまでの国会での議論は何だったのか、ということになり、憲法の信頼性が問われることになる」「政治家として解釈のテクニックで騙したくない。自分が閣僚として「集団的自衛権は行使できない」と言った以上は、「本当はできる」とは言えません。そこは条文を変えないと……」などと述べていたことを暴露されています(日刊ゲンダイ)。
 自民党の高村正彦副総裁は「憲法学者はどうしても(戦力不保持を定めた)憲法九条二項の字面に拘泥する」(東京新聞)と述べましたが、法の字面に拘泥しないでどうやって法治をするのでしょうか。日本の政治家の言葉がデタラメであることを自白するかのような醜い言い訳です。
 全体的に、政府・与党は、憲法学者の直言に対して全く答えを与えられていません。
 三学者の意見陳述の最大の功績は、政府・与党がやっていることが憲法違反であると、満天下に知らしめたことだと言えるでしょう。

ならぬものはならぬのです

 日本国憲法は我が国の国政上の絶対の価値観です。
 国政選挙にしろ、その前提となる解散にしろ、議会の運営にしろ、予算や法律の制定をはじめとする日々の政治にしろ、全て日本国憲法に基づいて行われています。
 憲法が一度破られれば、やがては人権条項だって無視されていくことになります。

 この点、明治憲法制定に関わった伊藤博文、森有礼らは立憲主義を深く理解していたと言われます。
 しかし、今の与党の政治家は下記のように立憲主義を丸々否定する発言を平気でします。
 私たちの選良たる国会議員たちのレベルはこと憲法に関して言えば明治以前なのです。
 時々、憲法改正草案に対して、「立憲主義」を理解していないという意味不明の批判を頂きます。
 この言葉は、Wikipediaにも載っていますが、学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。
 昔からある学説なのでしょうか。
出典:礒崎陽輔参院議員(国家安全保障担当内閣総理大臣補佐官)のツイッター

 このような人びとが日本国憲法を冒しても罰則は、ありません。
 政治家が憲法を守ることは大前提で、憲法違反を平気でやることは想定されていないからです。

 そして、憲法違反についてただちに違憲確認訴訟を提起できる訳でもありません。
 さらに、最高裁判所は、国会の議員定数不均衡について「違憲状態」と言いながら選挙を無効としないようなことをくり返しているので、政治家に舐められています。
 今のような政治が続いたら、10年後くらいに最高裁がボソボソと「違憲」と言っても、もう政治は従わないかもしれません。
「裁判所が何とかしてくれる」という期待はあまりしない方が良いでしょう。

 昨年7月1日の閣議決定以降の憲法の危機状況は法律家の間では広く共有されていましたが、テレビ・新聞等の報道機関は、自らが憲法21条の恩恵を全面的に受けながら、「中立」報道をするばかりで、この絶対の価値観を前提に報道しなければならない、という認識が根本的に不足していました。
 しかし、政権が本気で憲法を破ろうとしているとき、そのような報道姿勢では間尺に合わないのは自明でしょう。
 報道機関が(例え改憲派であっても)憲法を前提にした報道をすることが何よりも求められます。

 最後に。
 このような状況の下、安倍政権を慌ててさせ、走らせているのは、日本国憲法による我が国の統治を承認する全ての国民であり、その力の源泉が日本国憲法なのです。
 政府与党の動揺振りは、日本国憲法が少なくともこの瞬間は正常に機能していることの現れと言えます。
 ツイッターでも、フェイスブックでも反対の声を上げていくことが重要でしょう。
 近いうちに、私たち日本国民が野田政権に対してしたように、国会前に大挙しなければならない日も来るかもしれません。
 とにかく、安倍政権の主人である国民が旗幟を鮮明にすることが重要なのです。
 安倍政権に「ならぬものはならぬのです」と言って聞かせましょう。


Yahoo Japan! News、2015/6/8(月) 2:30
憲法9条、安倍政権を走らす
(渡辺輝人、弁護士、京都弁護士会所属)
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabeteruhito/20150608-00046419/

 通常国会が2017年6月18日に閉会したところ、6月19日(月)18:00〜安倍首相が記者会見を行いました。
 各種世論調査で支持率の急落が伝えられた後なので注目はしていましたが、支持率急落の要因の一つにもなっていると思われる共謀罪(政府がテロ等準備罪と称するもの)法案が参議院の委員会採決すら省略されて本会議で可決される状況についてはほとんどテレビ中継しなかったNHKが首相の記者会見は丸々中継したので、その点をまず驚きました。

 記者会見の内容について、評価はさまざまでしょうが、筆者は報道機関各社の記者の質問の手ぬるさにとにかく驚きました。
 そう思っていたところ、ツイッター上で、安倍首相の発言には全部カンニングペーパーがあったのではないか、という旨の指摘を見つけたので、そんなことあるだろうか、と思って政府のサイトで安倍首相の記者会見の動画を見返してみました。
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2017/0619kaiken.html

 安倍首相の会見については政府自身が文字起こしをしており、何を発言したのかも分かります。

安倍首相がいつ原稿をめくっているか観察してみた

 安倍首相が原稿に目を落としている時間をカウントする気力はさすがにありませんでしたが、安倍首相がカニングペーパーと思われる原稿をめくっているタイミングを計測するのは比較的容易です。
 そこで、どのようなタイミングで原稿をめくっているのか、計ってみました。
[表…略…]
 表中、時刻は、政府が公表している安倍首相の記者会見の時刻を示します。安倍首相の発言は赤、カニングペーパー関係の動きをオレンジ色、司会の発言を緑、記者の質問を青で表してみました。
 記事に掲載できる画像サイズの関係で便宜的に前半と後半を分けます。

評価

 安倍首相は入室した時点で何ももっていないのに、演台上に黒ファイルの原稿(カンニングペーパーらしきもの)が用意されています。
 安倍首相はプロンプター(安倍首相の両脇にある、ドラえもんのタイムマシンの角部分のような形状をした透明のプラスチック板。原稿が投影されます。prompter)を用いた冒頭発言のあと、プロンプターを下げる演出をしています。
 なお、筆者は、細川護煕元首相がプロンプターを初めて使った首相と記憶しており、なにやら懐かしい道具です。
 安倍首相が冒頭発言中にやたら左右に見得を切るのも実はプロンプターを見るためと思われます。

 そして、記者の質問に移った後、質問をする記者はすべて政府の側の司会者が指名しました。
 安倍首相は素手で入室しており、冒頭発言の後にプロンプターをわざわざ下げているので、記者の質問にぶっつけ本番で答えているようにも見えます。
 ところが、良くみると確かに、かなりの割合で原稿に目を落として発言をしていますね。
 しかも、よく観察していると、上記の表で分かるように、安倍首相がカニングペーパーらしき原稿をめくるタイミングは、きれいに、
(1)安倍首相自身の発言の終了時、
(2)安倍首相の発言中に発言内容が次の話題に移行するとき、
(3)記者の質問がされているときであり、
要するに、次の安倍首相の発言に備えるべきタイミングです。
 成長戦略については、発言中に原稿をめくっていますが、これは、安倍首相の発言が長かったときに発言のかなり後半になってめくっており、カニングペーパーらしき原稿一枚に発言概要が収まらなかったからだとも考えられます。

 そして、カンニングペーパーらしき原稿は該当箇所を探すというより、めくる動作の度に一枚ずつ安定してめくっているように見えます。
 記者たちの質問が任意のぶっつけ本番のものである場合、安倍首相がこのようにタイミング良く、一枚ずつめくっていくことは中々考えがたいように思います。
 安倍首相自らの回答終了時にめくった原稿をその後の記者の質問でそのまま読んでいるように見える場面もあります。
 最後の場面などは、安倍首相がめくる動作をしたところ原稿に次のページがなくて、司会が終了を宣言する前なのに「ああ、終わった」感すら漂います(40:03)。
 そして司会の終了宣言のあとに黒ファイルを閉じます(40:07)。

 一方の記者からの質問について、幹事社の質問で驚いたのは、今国会を総括するような質問をしているのに、国会前半で大問題になった南スーダンPKOに関する防衛省の日報隠ぺい<註:訂正しました>問題について全く触れなかったことです。
 その後の質問も安倍首相を鋭く追及すると言うより、全体として、安倍首相の政策宣伝の場をアシストしているように見えました。
 要するに、記者たちの質問にもなにやら首相官邸との馴れ合い感が漂います。
 菅官房長官の記者会見で鋭い追及をして有名になった東京新聞の社会部の望月記者も現場にいたようですがそもそも指名されていません。

 率直に言って、安倍首相の記者会見は、記者との問答についても、官邸記者クラブとの談合で全て問答が最初から決まっており、結局、安倍首相は国民の疑問に答えているようで、徹頭徹尾、筋書きが作られた役柄を演じ、言いたいことを言っただけの可能性はないのでしょうか。
 そもそも、視聴者にこのような疑いをもたれる時点で、首相官邸の記者クラブに存在意義があるのか疑問が湧いてきます。
 そして、なるほど、都道府県知事の選挙など地方選で負けたり不戦敗をしたりを繰り返しているのに(当然ですが地方選挙に官邸記者クラブは直接関係ありません)、なぜか選挙に強い印象がある安倍政権の権力構造を見た気がしました。

さっそく裏切られた「丁寧に説明」

 安倍首相は、加計学園の獣医学部を今治市に設置することにかかる問題について、以下のように説明しました(太字強調は筆者)。

 国家戦略特区における獣医学部の新設につきましては、文書の問題をめぐって対応は二転三転し、国民の皆様の政府に対する不信を招いたことについては、率直に反省しなければならないと考えています。
 今後、何か指摘があれば、政府としてはその都度、真摯に説明責任を果たしてまいります。国会の開会・閉会にかかわらず、政府としては今後とも分かりやすく説明していく。その努力を積み重ねていく考えであります。
 今国会の論戦の反省の上に立って、国民の皆様の信頼を得ることができるように、冷静に、そして分かりやすく、一つ一つ丁寧に説明していきたいと思います。

 共謀罪の強行採決と並び安倍内閣の支持率低下の要因の一つと言われている加計学園問題等の政府中枢の不正疑惑について、国会に対して連帯して責任を負っている内閣が説明責任を果たすのは当然のことです。
 しかし、6月20日、自民党はさっそく、国会の閉会中審査を拒みました。
 自民党の竹下国対委員長は、民進党の山井国対委員長と電話会談し、民進が求めた閉会中審査開催を拒否した。
2017年6月20日共同通信

 一部には「安倍首相は総理として記者会見に臨んだのであり国会のことは国会が決めること」という意見もあるようですが、記者会見の記者の質問には都議選に関することもあり、自民党総裁でもある安倍首相はその質問に回答をしています。
 真摯に説明責任を果たす、といいながら、国会の閉会中審査を拒むのは、安倍首相は、記者会見で、また一つ虚偽の発言をしたことになると思います。

 そして、6月19日夜のNHKクローズアップ現代で、国家戦略特区諮問会議で、獣医学部の新設が決定された2016年11月9日より前の同年10月21日、萩生田光一内閣官房副長官が、
・ 四国に新設し愛媛大学との連携
・ 総理は「平成30年4月開学」とおしりを切っていた
・ 加計学園事務局長を浅野課長の所に行かせる
という内容を含む発言をしていた旨を文部科学省がまとめた「10/21萩生田副長官ご発言概要」というメモが曝露され、文科省はたまらず本物と認めました。
 これでは、萩生田副長官の国会答弁が大方虚偽であったことになってしまいます。
 萩生田副長官と言えば、国会の実質最終日の答弁で、安倍首相と加計孝太郎氏が「腹心の友」だったことを知らなかった旨の発言をした途端、自身のブログに、2013年5月5日撮影のものと思われる下記のような、安倍首相・加計孝太郎氏・萩生田副長官の三人で大変仲が良さそうに写っている写真を掲載していることが発覚しました。

 この写真についても、今国会で萩生田氏が説明する機会はありませんでした。

まとめ・野党は臨時国会の開催を求めてはどうか

 結局、安倍首相の記者会見は、反省している体で国民の疑念に答えるフリをして、自分の言いたいことだけを言う印象操作に他ならないと考えます。
 そして、「丁寧に説明」といいながら、結局、国会の閉会中審査すらせずに済まそうとするのは、現実からの逃亡と言われても仕方ないのではないでしょうか。

 日本国憲法53条は以下のように定めます。
 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

 今、民進・共産・社民・自由の4党で、衆院の議席は4分の1以上あるようです。
 東京都議選も控えていますが、野党は早期に臨時国会の召集を要求して、一向に解決しない森友学園・加計学園・防衛省日報隠滅の三大疑惑を国会の場で追及してはどうかと思います。
 安倍政権はこの憲法の条項に基づく要求を受けたのに、国会召集を決定しないという憲法違反を犯した前科があるだけに、手を打つなら早い方がいいと思います。


[写真-1]
安倍首相とプロンプター

[写真-2]
はぎうだ光一の永田町見聞録 2013年5月10日の記事より引用

Yahoo Japan! Japan、2017/6/21(水)1:30
安倍首相の印象操作−
記者会見で黒ファイルを見るタイミング

渡辺輝人(渡辺輝人、弁護士、京都弁護士会所属)
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabeteruhito/20170621-00072349/

posted by fom_club at 08:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自衛隊中東派遣

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 安倍晋三政権が海外での武力行使を禁じた憲法9条の形骸化を進める政策に、また一歩踏み出した。

 政府はきのう、海上自衛隊の中東派遣を閣議決定した。
 日本関連船舶の安全確保に必要な情報収集態勢の強化が目的としている。

 船舶防護の緊急性は否定していながら、国会審議も経ず、あまりに拙速な決定で容認できない。

 米国はイラン近海での安全確保のため、自ら主導して結成した有志連合に参加するよう、日本に繰り返し求めてきた。

 有志連合への参加は見送りつつも、別の形で派遣を実現し、米国への同調をアピールする政府の狙いが透けて見える。

 国会軽視も甚だしい。

 閉幕後に閣議決定することで、派遣の必要性や武器の使用基準などに関する国会の熟議を避けた。

 対米追従ありきで、法的根拠も説得力を欠く。

 安倍政権は積極的平和主義の名の下、専守防衛から逸脱する政策を次々と遂行し、自衛隊と米軍の一体化を進めている。

 対米追従を優先し、国会論議は後回しにして、紛争の近接地域に自衛隊を出すことは、隊員を無用な危険にさらすだけだ。

■ 核合意復帰が最優先

 米国とイランの核問題を巡る対立で、中東海域の緊張は続いている。
 日本は中東に原油輸入の9割近くを依存しており、海上交通路の安全確保は欠かせない。

 安倍首相は先週、来日したイランのロウハニ大統領と会談した。
 有志連合への不参加や、イランに接するホルムズ海峡とペルシャ湾を活動地域から外したことを説明し「理解」を得たとしている。

 ただイランは経済制裁を続ける米国への反発を強めている。
 自衛隊派遣に積極的に賛同したわけでもない。

 一方、日本は米国と、中東での情報を密に交換するとしている。

 友好国であるイランに配慮した姿勢を見せながら、二枚舌のような対応では信頼を失いかねない。

 そもそも中東の緊張は、トランプ政権がイラン核合意から一方的に離脱したことに起因する。

 米主導の有志連合への参加は7カ国にとどまり、国際的な支持が広がっているとは言えない。

 首相が仲介外交を買って出るなら、親密さを強調するトランプ氏に、核合意への復帰を粘り強く求め続けることが最優先だ。

■ ご都合主義で法運用

 今回の閣議決定が、政権の都合のいいように法を解釈、運用していることも問題である。

 派遣は防衛省設置法の「調査・研究」に基づくとしている。

 政府が2001年の米中枢同時テロ後、海自艦船をインド洋に派遣する際にも適用した規定だ。

 ただこの条文は抽象的で、拡大解釈の余地が大きい。
 しかも防衛相の判断のみで実施できる。

 法の曖昧さを逆手に取って、海外派遣の既成事実を積む意図がのぞく。

 インド洋への派遣時は、テロ対策特別措置法を適用するまでの一時的な措置だったが、今回は1年単位の初の長期派遣となる。

 加えて問題なのは、船舶が攻撃されれば、武器が使用できる自衛隊法の海上警備行動に切り替えて対処するとしていることだ。

 防衛省設置法の下で地理的制約なく自衛隊の活動範囲を拡大しておいて、行った先で不測の事態が生じたら別の法律で対処する――。

 国会承認が必要のない法の規定を、政権の意図にかなうように組み合わせた、こんなやり方は不誠実だ。

■ 閣議の歯止め形だけ

 今回、政府は閣議決定という体裁をとり、国会報告を義務付けた。
 活動終了時や、閣議決定の内容を変更する際も国会で報告する。

 だが国会に派遣を中止させる権限はない。
 政権の判断で自由に延長でき、歯止めにはならない。

 現地には護衛艦1隻とP3C哨戒機、約260人の部隊が派遣される予定だ。
 早ければ来月から活動を始める。

 派遣海域はイランだけでなく、イエメンなども含む紛争が頻発する地域の沿岸だ。

 防衛省は「米軍からの防護要請は想定していない」とするが、米軍が自衛隊の眼前で攻撃され、防護を求めてくる可能性は否定しきれない。

 陸上自衛隊を南スーダンに派遣した際は、部隊の日報の隠蔽(いんぺい)が問題となった。
 後から公開された日報には「戦闘」の記述があった。

 自衛隊員に危険な任務を強いながら、国民の目を欺いて事実を隠すようなことが繰り返されてはならない。

 憲法解釈を覆し、集団的自衛権の行使を可能にした安全保障関連法を強引に成立させた政権である。
 危惧は尽きない。
 通常国会で徹底的に論議すべきである。


北海道新聞・社説、2019/12/28 09:24
自衛隊中東派遣を決定 国会軽視の対米追従だ
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/379122

 政府は2019年12月27日、海上自衛隊の中東派遣を閣議決定した。

 護衛艦1隻を新たに派遣し、アフリカ・ソマリア沖で海賊対処活動に当たっているP3C哨戒機を活用するという。
 日本独自の派遣で期間は1年とし、延長の際は再び閣議決定するという。

 派遣の法的根拠は防衛省設置法の「調査・研究」である。
 防衛相の命令だけで実施でき、国会の事前承認を必要としない。

 所掌事務などを定めた法律を海外派遣に適用するのは拡大解釈というほかない。
 地理的な範囲の限定もなく適用が無制限に広がる懸念がある。

 閣議決定時と活動終了時の国会報告を義務付けたが、事後報告では歯止めになることはないだろう。

 自衛隊の活動中に不測の事態が生じた場合は、武器を使用できる海上警備行動を発令するとしているが、保護できるのは日本船籍だけである。
 日本人が乗船する外国船籍などについてどう対処するかは不明確だ。

 こんな状態で軍事衝突に発展した場合に自衛隊員の安全は保障できるのか。

 そもそも今年6月に日本の海運会社のタンカーなど2隻がイラン沖のホルムズ海峡付近で何者かに攻撃されて以来、日本船舶への被害は出ていない。

 菅義偉官房長官が記者会見で「日本関係船舶の防護の実施を直ちに要する状況にはない」と認めた通りである。

 そんな中で自衛隊を派遣する緊急性も必要性もないのは明らかではないか。

■ ■

 トランプ米大統領が2018年5月にイラン核合意から一方的に脱退。
 イランへの制裁を全面復活させたことに対し、イランが猛反発したのが両国の対立の発端である。

「自国の船舶は自国で守るべきだ」と要求するトランプ大統領はホルムズ海峡などの安全確保を目指す「有志連合」を11月に発足させた。

 安倍晋三首相は友好国イランを刺激するのを避けるため、有志連合への参加を見送る一方で、ロウハニ大統領と会談し理解を求めた。

 自衛隊の活動海域をオマーン湾やアラビア海北部、バベルマンデブ海峡東側の公海に限定。
 イランと接するホルムズ海峡やペルシャ湾を対象にしないのはこのためだ。

 米国の要求を受け入れると同時にイランとの対立を避けた形である。
 だが米軍とは情報共有する方針であり、イランから有志連合側と受け止められる恐れがある。

■ ■

 国会で十分な審議もなく、国会閉幕後に海外派遣を閣議決定するやり方は看過できない。

 なぜ、この時期に自衛隊を中東に派遣しなければならないのか、安倍首相が記者会見して国民に説明してしかるべきだが、それもない。

 閣議決定では「わが国は米国と同盟関係にあり、イランと長年良好な関係を維持する」と捉え、「これを生かし、中東の緊張緩和と情勢安定化に向け外交努力を行う」と明記している。

 日本がなすべきことは自衛隊派遣ではなく、米国とイランの対立を解くための橋渡し役にこそ徹するべきである。


沖縄タイムス、2019年12月28日 10:07
[自衛隊中東派遣]
「国会抜き」は許されぬ

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/515982

 2019年12月27日、日本政府は日本関係船舶の安全確保に必要な情報収集活動を目的として、護衛艦1隻及び海賊対策のためにソマリア沖に派遣中の固定翼哨戒機P−3C1機を、中東アデン湾等へ派遣することを閣議決定した。

 2018年5月に米国がイラン核合意を離脱後、ホルムズ海峡を通過するタンカーへの攻撃等が発生していることから、米国はホルムズ海峡の航行安全のため、日本を含む同盟国に対して有志連合方式による艦隊派遣を求めてきた。

 これに対し日本は、イランとの伝統的な友好関係に配慮し、米国の有志連合には参加せずに上記派遣を決定するに至った。

 今般の自衛隊の中東海域への派遣は、防衛省設置法第4条第1項第18号の「調査及び研究」を根拠としている。
 しかし、同条は防衛省のつかさどる事務として定めている。

 そもそも、自衛隊の任務、行動及び権限等は「自衛隊法の定めるところによる」とされている(防衛省設置法第5条)。
 自衛隊の調査研究に関しても、自衛隊法は個別規定により対象となる分野を限定的に定めている(第25条、第26条、第27条及び第27条の2など)。
 ところが、今般の自衛隊の中東海域への派遣は、自衛隊法に基づかずに実施されるものであり、防衛省設置法第5条に違反する疑いがある。

 日本国憲法は、平和的生存権保障(前文)、戦争放棄(第9条第1項)、戦力不保持・交戦権否認(第9条第2項)という徹底した恒久平和主義の下、自衛隊に認められる任務・権限を自衛隊法で定められているものに限定し、自衛隊法に定められていない任務・権限は認めないとすることで、自衛隊の活動を規制している。
 自衛隊法ではなく、防衛省設置法第4条第1項第18号の「調査及び研究」を自衛隊の活動の法的根拠とすることが許されるならば、自衛隊の活動に対する歯止めがなくなり、憲法で国家機関を縛るという立憲主義の趣旨に反する危険性がある

 しかも、今般の自衛隊の中東海域への派遣に関しては、「諸外国等と必要な意思疎通や連携を行う」としていることから米国等有志連合諸国の軍隊との間で情報共有が行われる可能性は否定できず、武力行使を許容されている有志連合諸国の軍隊に対して自衛隊が情報提供を行った場合には、日本国憲法第9条が禁じている「武力の行使」と一体化するおそれがある。
 また、今般の閣議決定では、日本関係船舶の安全確保に必要な情報の収集について、中東海域で不測の事態の発生など状況が変化する場合における日本関係船舶防護のための海上警備行動(自衛隊法第82条及び第93条)に関し、その要否に係る判断や発令時の円滑な実施に必要であるとしているが、海上警備行動や武器等防護(自衛隊法第95条及び第95条の2)での武器使用が国又は国に準ずる組織に対して行われた場合には、日本国憲法第9条の「武力の行使」の禁止に抵触し、更に戦闘行為に発展するおそれもある。

 このようなおそれのある活動を自衛隊法に基づかずに自衛隊員に行わせることには、重大な問題があると言わざるを得ない

 政府は、今回の措置について、活動期間を1年間とし、延長時には再び閣議決定を行い、閣議決定と活動終了時には国会報告を行うこととしている。
 しかし、今般の自衛隊の中東海域への派遣には憲法上重大な問題が含まれており、国会への事後報告等によりその問題が解消されるわけではない。
 中東海域における日本関係船舶の安全確保が日本政府として対処すべき課題であると認識するのであれば、政府は国会においてその対処の必要性や法的根拠について説明責任を果たし、十分に審議を行った上で、憲法上許容される対処措置が決められるべきである。

 よって、当連合会は、今般の自衛隊の中東海域への派遣について、防衛省設置法第5条や、恒久平和主義、立憲主義の趣旨に反するおそれがあるにもかかわらず、国会における審議すら十分になされずに閣議決定のみで自衛隊の海外派遣が決められたことに対して反対する。


2019年12月27日 日本弁護士連合会会長 菊地裕太郎

日本弁護士連合会、会長声明
中東海域への自衛隊派遣に反対する会長声明
https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/2019/191227.html

posted by fom_club at 07:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月28日

ユニバーサルサービス

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 日本郵政グループ3社で保険の不正販売が発覚した問題で、金融庁と総務省が行政処分を発表した。

 保険の新規販売の3ヶ月間停止を命じたほか、経営責任の明確化や企業統治の強化などを求める業務改善命令も出した。
 これを受けて3社のトップは総退陣し、政府は日本郵政の社長に増田寛也(1951年生まれ)元総務相を起用する方針を固めている。

 高齢者に虚偽の説明をするなど、社員はノルマに追われ法令違反にまで手を染めた。
 しかし経営陣は現場の実情を掌握できず、不正の拡大を招いて郵便局に対する信頼を失墜させた。
 社長辞任は当然だ。

 しかしそれだけで、巨大企業の組織風土が刷新されるとは考えにくい。
 これまでメガバンクや大手メーカーの社長経験者が日本郵政の社長を務めながら、ノルマ体質を払拭(ふっしょく)できなかった。

 全国津々浦々にある郵便局が国民の信頼を取り戻し、必要なサービスを持続的に提供できる存在になるために、組織のあるべき姿から考え直すことが必要だ。

 金融庁は処分に際して、かんぽ生命と日本郵便を「顧客保護の意識を欠いた組織風土」と断じた。
 民営化の目的とおよそかけ離れている。

 日本郵政株は政府が57%を保有する。
 グループ4社の社長はいずれも民間出身だが、副社長は所管官庁の旧郵政省や旧大蔵省出身者が務めている。

 総務省の事務次官が、役所の先輩だった日本郵政の上級副社長に行政処分案の情報を漏えいしていたことも発覚した。
 守秘義務より役所内の先輩後輩の秩序を重視するのは、政や官の影響力が、今も色濃く残っている証しだ。

 政府は、株式を全て民間に売却する完全民営化をゴールに見据えている。
 しかし民業圧迫を避けるため、日本郵政グループの事業展開には制約がある。
 貯金や保険も全国の郵便局で扱うユニバーサルサービスが義務付けられている。

 経営の自由度が乏しいままでは、変化が激しい金融や物流の世界で生き残っていくのは容易ではない。
 結局は、従業員のノルマに依存する体質に回帰する可能性も否めない。

 小泉純一郎元首相が「行政改革の本丸」と位置づけ、世論の関心を引き付けた郵政民営化法の成立から、来年で15年になる。
 この間、法改正により日本郵政グループは5社から4社に集約された。

 しかし国民は、民営化のメリットをどれだけ享受できただろう。

 民営化の功罪や、当初目指した姿との乖離(かいり)が生じた要因などについては、政府が責任を持って検証する必要がある。


神戸新聞・社説、2019/12/28
日本郵政の処分
民営化の意義から再考を

https://www.kobe-np.co.jp/column/shasetsu/201912/0012995062.shtml 

郵政・通信―民営化による国民サービスの後退許さず、全国一律サービスの確保を
国民サービスを後退させないために郵政事業の抜本的見直しを


 日本共産党は郵政民営化について、ユニバーサルサービス(全国一律サービス)が守れないと反対してきました。

 郵政民営化は、その当初から簡易郵便局の相次ぐ閉鎖、郵貯ATMの撤去、各種手数料の引き上げ、時間外窓口の閉鎖、集配郵便局の統廃合など、国民サービスに大きな後退をもたらしてきました。
 ゆうパック(旧小包)事業と日通・ペリカン便の宅配便事業の統合失敗では、郵便事業に大きな損失を負こととなりました。

 また郵便局はがん保険を取り扱っていますが、民営化委員会で新事業・第三分野商品はアメリカ企業でと要求した当人がトップを務めるアフラックと提携しています。
 郵政職員に営業量を強制し、日本での契約件数を伸ばすために、異常な力の入れぶりとなっています。

 株式上場(2015年11月)後、はがきや定形外郵便の値上げ(17年6月)やゆうパックの値上げ(18年3月)を公表するなど、郵便は「なるべく安い料金で、あまねく、公平に提供」とした郵便法と逆行する事態がうまれています。
 しかも、トール社買収の失敗で大きな損失を生み出すなど、値上げの理由も国民に説明されたとはいえない状況です。

 上場のもと、日本郵政は収益拡大策として、いっそうの事業の多角化につきすすんでいます。
 そのもとでさらなる国民サービス後退をまねきかねない状況です。

 日本共産党は、民営化によって後退した郵政事業を再生するために、改めて公共の福祉の増進を目的とする公的事業体であることを明らかにしていくとともに、郵便貯金、簡易生命保険にユニバーサルサービスを義務付ける、分社化をやめて一社体制とする、という抜本的な見直しを求めます。

 また、郵政民営化とともにすすめられた郵便市場の規制緩和により、もうかる都市部へのメール便の「いいとこ取り参入」が進み、郵便市場は限界を超えたコスト競争にさらされています。
 郵便事業と民間宅配業で働く労働者の非正規雇用化や、長時間で過酷な労働、低賃金といった労働条件の悪化がまん延し、人員不足も深刻です。
 しかし、こうした雇用実態が社会的な問題となり、是正が課題となっています。

 郵便のユニバーサルサービスの維持・向上ためにも、郵便市場の規制緩和の見直しと非正規労働者の正社員化や均等待遇、有給休暇や手当など労働条件の格差是正の実現が問われています。
 日本共産党は、郵便市場の規制緩和の見直しと雇用改善を求めます。


日本共産党の政策、2017年10月
各分野政策(2017年)
https://www.jcp.or.jp/web_policy/2017/10/2017-26-yuusei-tuusin.html

はじめに

 日本の郵政事業は諸外国とは異なる展開を遂げてきた。日本では郵政3事業とは郵便サ ービス、(郵便)貯金サービス、および(簡易)保険サービスを意味するが、ヨーロッパでは郵便サービス、(郵便)貯金サービス、および電気通信サービスを意味するのが通常であ った。
 そのヨーロッパの郵政事業は1980年代から大きな変化を遂げ、日本でも21世紀に入り小泉純一郎首相(2001年4月〜2006年9月)のリーダーシップのもとで大きな変化が生じようとしている。
 郵政3事業を直営形式で掌ってきた郵政省は2001年1月の行政改革の一環として行われた省庁再編製で総務省に組み入れられ、企画立案と管理を行う郵政企画管理局と現場の郵政3事業サービスを行う郵政事業局に分けられた。その郵政事業局が2003年4月1日、日本郵政公社となったのである。
 2005年に民営化関連法案を提出するために2004年2月より経済財政諮問会議は日本郵政公社の再検討を開始し、9月10日に「郵政民営化の基本方針」が閣議決定された。もともと小泉純一郎氏は郵政3事業の民営化を唱えてきたが(小泉純一郎・梶原しげふみ『郵政民営化論』PHP 研究所、1999年)、郵便貯金と銀行は「100 年戦争」といわれるほどのライバル関係にあり、郵便貯金の民営化問題は第2次大戦後から論じられ、関連文献の枚挙にいとまのないほどである。しかしその民営化実現の可能性が高まったのは1980年代から 90年代にかけてヨーロッパをはじめ多くの国で郵政事業の分割・民営化が推進されたことに原因があると思われる。

 その場合、民営化の議論は「日本の郵政事業は諸外国と比べて効率的か」という観点から行なわれる事が多い。しかし経済学では「効率性」と「公平性」という 2つの観点から分析する必要があるという立場からすればこの実状には不満が残る。

 本論稿の目的は公平性という観点から諸外国との比較を行なうことである。
 その場合、「公平性」をどう測るかという問題が生じる。郵政事業における公平性は最近ではユニバーサルサービスという概念で表現される事が多い。
 具体的にはアメリカ合衆国法典第101条には、
「USPS(アメリカ郵便公社 United States Postal Service)はその基本的機能として個人的、教育的、文化的および企業的通信を通じて、国家を統合するために郵政事業を営む義務を負い、迅速で信頼性があり、効率的な義務をあらゆる地域に提供し、郵便業務をあらゆる地域共同体に付与するものとする」
との規定があり、これがUSPSに課されたユニ バーサルサービス義務条項であるとみなされている(全逓総合研究所(編)『変革期の郵政事業』日本評論社、2000年p.205)。
 日本の場合も、郵便法第1条に、
「郵便の役務をなるべく安い料金で、あまねく公平に提供する」
ことが定められ、郵便局に課されたユニ バーサルサービス義務条項であるとみなされている。

 それでは、その公平性が実現しているかどうかをどのように判定すべきであろうか。
 本論稿ではそのための1つの判定基準を提示し、この判定基準を用いて諸外国との比較を行なう。

 この判定基準を考えるに当って参考にしたのは課税制度としての「累進課税」である。
 所得が高くなればなるほど税率を高くするという累進課税は公平性を測る1つの尺度と考えられる。すなわち、課税の累進性が大きくなればなるほど公平な社会であるといえるであろう。

 本論稿では一国において地域が県や州といった行政単位に分かれている場合、貧しい県(州)になればなるほど手厚く郵政サービスが提供されていれば郵政サービスの観点から「公平である」と定義する。
 アメリカ合衆国法典第101条の精神を尊重しようとすればこのような状況が発生するのではないかと考えられるからである。
 具体的には統計処理を行なって平均所得(あるいはメジアン)が低い行政単位であればあるほど一人当たり郵便サービスが利用可能であると確認できればその国は郵政サービスの観点から「公平である」と定義する。

 筆者はこの立場から日本、アメリカ、ドイツ、イギリス、ニュージーランド、およびオ ーストラリアについて比較を試みた。
 最近はIT(information technology)時代を反映して各国の郵政事業当局は年次報告をインターネットのホームページに発表しているのでその情報を利用して公平性を
評価できた場合がある。その年次報告の情報を用いて分析できない場合,郵政事業当局(会社)に情報提供を依頼した。その場合、情報提供を拒否された場合もある。それは「公平性」が民営化により損なわれるのではないかとの批判に利用されることへの配慮であるかもしれない。
 本論稿で行なった国際比較では国のサンプル数が少ないので本論稿で行なう結論を一般化するのは危険が伴なうが、その危険性を承知で敢えて結論付けるとすれば民営化により 公平性は低下するといってよいであろう。

5 結論と課題

 本論稿の目的は限られた時間の中でできるだけ多くのデータを集め、公平性という観点から世界の郵政事業を比較することであった。
 この限られた時間内に調査した国は日本、アメリカ、ニュージーランド、オーストラリア、ドイツ、およびイギリスであった。
 もともと民営化路線で知られるニュージーランドにおいては公平性は成り立たないであろうとの予測をしていたが、実際、このことが確認された。
 最も興味があったのはドイツであったが、ドイツポストの返事を信ずれば公平性は成り立たないというものであった。
 従って、イギリスの官僚制の非効率による問題はあるが、最初の予測、「民営化に重点を置く国であればあるほど公平性は犠牲にされざるを得ない」はほぼ確認されたように思われる。

 そこで問題は現在の日本の郵政3事業の改革に本論稿をどう生かすかということである。
 日本の郵政3事業は効率性の観点から論じられる場合が多い。
 例外は、財部誠一・織坂濠『郵貯が危ない』(徳間文庫、2001年)であろう。
 この著書は John P. Caskey "Fringe Banking: Check-Cashing Outlets, Pawnshops, and the Poor"(Russell Sage Foundation, 1994)などに拠りながら、「公平性」の観点から日本の郵貯をライフライン銀行として位置付ける事を提案している。
 もし日本の金融サービスの国際化がイギリスやニュージーランドで見られるような「ウ ィンブルドン現象」をもたらすとすれば「効率性」重視の外国銀行の行動は financial exclusion をひき起こす恐れがある。
 その意味でライフライン銀行としての郵貯という議論は一考の価値があろう。
 ただ、世界的に郵政事業の赤字体質はオーストラリアの免許制郵便局の導入の動きに代表されるように各国で郵便政事業の直営方式から「請負」方式への転換が行なわれている。
 イギリスでも直営郵便局はサブ郵便局と比べコスト高であるとの判断から前者から後者への転換が図られている。
 このように「公平性」を維持しながら「効率性」を模索しているのが世界の郵政事業の現状であり、これは日本も考慮すべき点であろう。

 本論稿は時間の制約から「民営化」という観点で注目されているオランダ(『変革期の郵政事業』2000年、pp.222-3)についての分析を行なっていない。
 オランダをはじめフランスなどの郵政事業を吟味して「公平性」という観点から世界の郵便事業の比較を完成させることは将来の課題としたい。


郵政事業の国際比較:公平性の観点から
(広島大学経済学部 吹春俊隆)
https://home.hiroshima-u.ac.jp/fukito/postalservice.pdf

posted by fom_club at 19:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小泉郵改革

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 かんぽ生命保険の不正販売問題から始まった日本郵政の大騒ぎは、郵政グループトップの総辞任でひとまず幕引きとなった。
 しかし、そもそも、なぜあのような不正が起きたのか。
 それは長門正貢(1948年生まれ)日本郵政社長の辞任の弁が端的に物語っている。
 厳しい現状の中で最善を尽くしたが力不足だったと。
 あしもと(現場)の把握が足りなかったと。

 民営化とは市場原理にさらされることだ。
 職員は収益を上げるためにノルマを課せられる。
 その結果としての不正だったことは既に報じられている通りだ。
 しかも、郵便にしても、金融・保険にしても、民間との過当競争ははじめから分かっていた。
 民間圧迫になるとさんざん言われた。

 なぜ郵政民営化をしなければいけなかったのか。

 それを強引に推し進めたのが小泉純一郎(1942年生まれ)首相だった。
 いまこそ小泉純一郎首相を引っ張り出して、郵政民営化は正しかったのか、その是非について議論をし直す時だ。
 誰もがそう思うだろう。
 しかし見事にメディアはそれを封印している。
 あの時メディアも一緒になって小泉郵改革を持ち上げたからだ。
 そう思っていたら、きのう12月27日の日経新聞に一段の小さな記事を見つけた。

 小泉純一郎首相が26日のテレビ番組で日本郵政グループの引責辞任についてこう語ったという。
「徹底した民営化の会社だという方向で立て直してもらいたい」と。
「改革を中途半端にしてしまった。国家でないと出来ない事業ではない」と。
 民営化の努力が足らないと言っているのだ。

 もちろん私はその番組を見ていないが、その時、司会者や出演者はどう反応したのだろうか。
 出演させるぐらいだから、おそらく小泉批判は封印されていたに違いない。
 今になっても小泉首相は批判されないのだ。
 安倍首相をここまで悪しざまに批判する野党や国民も、小泉純一郎首相は批判しない。
 そこで思い出すのが平成の最後に行った読売新聞の世論調査だ。
 平成の30年を振り返って一番印象に残る人物に、なんと天皇陛下(いまの上皇)を抜いて、ダントツが小泉純一郎首相だった。
 そのことを当時のメルマガで私は驚きをもって書いた。
 小泉純一郎にはかなわないと。
 元祖小泉批判の私が言うのだから間違いない。

 小泉純一郎の人気が続く限り小泉進次郎の人気は終わらない。
 小泉進次郎のスキャンダルを書いた週刊文春も、今度ばかりは売り上げを落としたに違いない。


天木直人のブログ、2019-12-28
誰も問わない小泉純一郎の責任
http://kenpo9.com/archives/6427

 日本社会が急激な劣化を始めたのは2001年からだ。

 小泉政権が誕生し、経済の弱肉強食化が推進された。
 経済的な勝者は決して「がんばった人」ではなかった。
 政治権力を不正に利用した「よこしまな人」が濡れ手に粟の不当利得を得る構造が構築されたのである。

「民営化」と表現すると聞こえは良いが、実態は公的事業の「営利化」、「利権強奪」である。
「民でできることは民に」のかけ声で推進された「郵政民営化」がどのようなものであったのか、現時点で総括する必要がある。

 郵政民営化法が制定される際に、「かんぽの宿」売却が法律に潜り込まされた。
「かんぽの宿」をオリックス不動産に破格の安値で払い下げるプロジェクトが密かに進行したのだ。
 かんぽの宿79施設をオリックス不動産が109億円で取得する寸前まで事態は進行した。
 売却される79施設の1施設に過ぎない「ラフレさいたま」だけで時価は100億円相当というものだった。
 詳細は割愛するが、はじめからオリックスに払い下げることを仕組んだ「出来レース」であった疑いが濃厚だ。
「民営化」の名の下に私腹を肥やそうとする勢力が蠢(うごめ)いていたと見て間違いないと判断できる。

 間一髪のところで不正払い下げは未遂で済んだ。
 この「かんぽの宿」払い下げを推進したのが日本郵政の「チーム西川」である。
 日本郵政社長に三井住友銀行の西川善文(1938年生まれ)頭取が起用された。
 西川氏とともに三井住友銀行から出向した者などが中心になって「チーム西川」が編成され、この不正払い下げ事案が推進された。
 その「チーム西川」の中心人物が横山邦男(1956年生まれ)氏だった。

 日本郵政における横山氏の「実績」はこれだけではない。
 日本郵便に900億円を超える損害を与えたJPEX事業(ゆうパック・ペリカン便の統合)失敗でも中核的役割を果たした。
 横山氏はこれらの「実績」をあげたのちに銀行に戻ったが、経営企画担当の専務執行役として日本郵政に勤務中も、横山氏は三井住友銀行の社宅に住んでいた。

 当時の日本郵政はまだ完全な公的機関である。
 その公的機関の要職にある者が一私企業の職員であれば、当然、重大な利益相反問題が発生し得る。
 横山氏は日本郵政に重大な損失を与えて銀行に戻ったが、第2次安倍内閣が発足して日本郵便社長に抜擢されたのだ。
 その日本郵便が保険販売で史上空前の不正を行ったことが明らかになっている。
 保険販売を担当したのは日本郵便の職員である。

 日本郵便社長の横山邦男氏が最大の責任を負う。
 横山氏が引責辞任に追い込まれるのは時間の問題と見られるが、これが「郵政民営化のなれの果て」なのだ。

 郵政民営化は、そもそも米国が、日本郵政グループが持つ有形無形の巨大資産に目をつけて、これを収奪するためのプログラムだった。
 この指令を受けたのが小泉純一郎氏である。
 米国はその執行役として米国のエージェントである人物(竹中平蔵)を郵政民営化担当相に指名した。
 米国は同時に日本の金融機関の収奪プロジェクトも進めていた。
 この件についても米国は、その執行役に米国のエージェントである人物を(竹中平蔵)金融担当相に指名したのだ。

 自己資本比率に関するルールを突然変更する方針が示されたときに、烈火のごとく怒りを示したのが三井住友銀行の西川善文氏だった。
 しかし、金融担当相は西川氏と米ゴールドマンサックス最高幹部を引き合わせて自己資本不足に対応する資金調達を斡旋した。
 この時点から西川氏の態度が一変した。
 小泉政権に正面から異論を唱えた人物が頭取を務めるりそな銀行が標的とされ、「風説の流布」、「株価操縦」、「インサイダー取引」という巨大な犯罪的行為によってりそな銀行が乗っ取られた。

 この悪魔のプロジェクトの邪魔になった関係者が2名も不審な死を遂げた。
郵政民営化なれの果て」の一つの断面がかんぽ生命保険不正販売事案である。
 日本郵便はすべての保険商品の販売を自粛したが、たったひとつの例外がある。
 米国アフラック生命の保険商品だけ、いまなお販売を続けているのだ。

 日本は完全に腐り切っている。


植草一秀の『知られざる真実』2019年8月22日 (木)
郵政民営化という名の究極売国政策を糺す
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-af6f0b.html

「郵政民営化」の見直し論議が活発化しているが、2005年9月の「狂気の郵政民営化選挙」の結果成立した「郵政民営化法」には「3年ごとの総合的な見直し」が明記されている。
「小泉竹中一家」が慌てふためいて「郵政民営化見直し」を阻止するための言動を示しているが、「郵政民営化を総合的に見直す」ことは法定事項であることを忘れてはならない。

「かんぽの宿」疑惑の核心は以下の点にある。
  
@「日本郵政株式会社法案」決定直前に「かんぽの宿」売却規定がすべり込むように盛り込まれた。この法案化を指示したのは竹中平蔵担当相(当時)であったことが国会答弁で確認されている。理由は「本業でない=コア業務でない」ことだと竹中氏は著書に明記している。

A 竹中氏はその後、東京駅前郵便局の再開発など、日本郵政が不動産事業に本格進出することを奨励する発言を示している。「不動産事業」は「本業=コア業務」ではない。駅前ビル事業の奨励と「かんぽの宿」売却とは完全に矛盾する。

B「かんぽの宿」79施設は2400億円の資金を投入して取得された貴重な国民資産である。79施設の固定資産税評価額は857億円である。一般に不動産の実勢売買価格は固定資産税評価額の1.3倍から1.5倍と言われている。「かんぽの宿」79施設は1000億円程度で売却されるのが順当と考えられるが、これがオリックス不動産に109億円で売却されることが決定された。

C 日本郵政は「かんぽの宿」売却を当初、「一般競争入札」によるものと説明したと見られるが、実際の売却先決定プロセスを見ると、事実上の「随意契約」であることが判明した。

D 日本郵政で「かんぽの宿」売却担当の責任者は横山邦男専務執行役と伊藤和博執行役であるが、横山氏は三井住友銀行から、伊藤氏はオリックスが出資する不動産会社「ザイマックス社」から西川義文社長が引き抜いた人物である。「かんぽの宿」売却決定は西川社長直轄の特命チームで行われた。

E「かんぽの宿」安値売却の根拠は、「かんぽの宿」の収支が赤字であることを背景とする、政府の財産評価委員会による著しく低い簿価決定にあるとされる。しかし、赤字は「かんぽの宿」が加入者福祉施設であることと巨額の原価償却負担が原因であり、この赤字を前提とした資産価値評価は適正でない。政府の財産評価委員会で資産価値鑑定の中心的役割を果たしたと考えられる奥田かつ枝委員はオリックス関係者であることが判明した。

F 今回の一括売却以前に日本郵政公社が「かんぽの宿」等の売却が実施されているが、このなかに1万円売却が6000万円転売事例や1000円売却が4900万円転売事例などが多数含まれている。これらの資産売却の全容解明も求められている。

 これらの疑惑が存在しており、国会で疑惑追及が進められているものの、全容解明には程遠いのが現状である。

 竹中平蔵氏は宮内義彦(1935年生まれ)氏が郵政民営化のプロセスには一切関与していないと発言しているが、そうではないとの証拠が残されている。

 宮内義彦氏は小泉政権時代、総合規制改革会議議長を務めていた。総合規制改革会議は政府の行政改革推進本部に設置された政府機関である。一方、「郵政民営化」について、竹中平蔵氏が小泉元首相から経済財政諮問会議での論議を指示されたのは、竹中氏の著書によると2003年6月25日である。2003年9月に総選挙が実施され、10月3日の経済財政諮問会議で「郵政民営化」が諮問会議の正式議題に設定された。

 この経済財政諮問会議の直後にあたる2003年10月7日に開かれたのが2003年度第5回総合規制改革会議である。この会議冒頭に金子一義(1942年生まれ)行政改革担当相が以下に示す発言を示している。
 本年夏以降、総合規制改革会議の委員の間では、郵政三事業の民営化などについて同会議で取り扱うべきとの議論があったと聞いている。一方、ご存知のとおり小泉総理からは、本件を経済財政諮問会議において集中的に取扱うこととし、そのとりまとめを竹中大臣にお願いしたいとの指示が公式にあった。
 そこで、こちらの会議との関係について、先週の閣議終了後、小泉総理と相談させていただいたが、総理は総合規制改革会議でそのような議論があったことについては、石原前大臣からも聞いていたとのことである。しかし、2箇所で検討を行うよりは1箇所に集中して、来年の秋までに基本方針をまとめるというスケジュール感をもって取り組んでいきたいので、経済財政諮問会議で一元的に検討させたいとのことであった。委員の皆様には何とぞご理解願いたい。

 金子行革相の発言を受けて、宮内義彦議長が次のように発言した。
 当会議と経済財政諮問会議とは、引き続きできる限り連携を保っていくことを考えているので、同会議から本件についていろいろな検討依頼がされることも想定できるのではないかと思うが、大臣が話された事情のとおり、当面、アクションプランの追加項目からは外すこととしたものである

 つまり、郵政民営化論議は経済財政諮問会議に一元化されることになったが、総合規制改革会議でも「郵政民営化」は論議されてきたのだ。さらに、2003年10月以降も、宮内義彦氏は総合規制改革会議と経済財政諮問会議とは「引き続きできる限り連携を保っていく」ことを明言しているのだ。宮内氏も「郵政民営化」について政府関係機関で論議した実績を有しており、竹中氏の発言は事実と異なっている。

 「かんぽの宿」疑惑の核心は、国民の貴重な財産が、一部の特定関係者によって「私物化されている」のではないかとの点にある。

 竹中氏は2007年10月1日に日本郵政株式会社が発足したことをもって「民営化」が実現したと判断しているようだ。竹中氏の考え方を端的に示しているのが、竹中氏の著書『構造改革の真実』239ページの以下の記述だ。
 辞書によると、民営化とは「民間の経営に任せること」とある。文字通り郵政民営化とは、郵政の経営を民間に任せることであり、政府はそれが可能なように、また効率的に行われるように枠組みを作ることである。これで西川氏に、経営のすべて、民営化のすべてが委ねられることになった

「民営化」された日本郵政の経営に、政治も行政も国民も、一切口を出すな、というのが竹中氏の主張のようである。竹中氏は株式会社経営に移行したのだから、西川善文社長の一存で、すべてを決定できると勘違いしているのだ。

 しかし、「かんぽの宿」一括売却のような行動が全面的に展開されたのでは国民の貴重な資産はぼろぼろにされる。「かんぽの宿」問題は国民に対する重大な背任行為である。重大な背任行為の疑いが生じた以上、日本郵政の経営の現状を全面的にチェックすることが不可欠だ。

 「かんぽの宿」疑惑が拡大すると、小泉元首相が「笑っちゃうくらいあきれている」と「笑っちゃうような」発言を示し、マスメディア報道が小泉元首相発言に集中した。その後は、小沢一郎民主党代表に対する「国策捜査」疑惑が表面化し、マスメディア報道は西松建設問題一色になった。

 小泉元首相が「政局から手を引く」発言を示したと同時に、鳩山総務相の日本郵政に対する態度が急激に軟化したように見える。鳩山総務相は自民党内「小泉竹中一家」による倒閣運動をけん制するために「かんぽの宿疑惑」を取り上げたと考えられなくもない。

 テレビ朝日、日本経済新聞は相変わらず、「郵政民営化」推進活動を展開し、テレビ朝日はクイズ番組「パネルクイズアタック25」、「徹子の部屋」に竹中平蔵氏を登場させる異様な対応を示している。

「かんぽの宿疑惑」を闇に葬ってはならない。
 田中真紀子(1944年生まれ)議員が示唆したように、政局の裏側にCIAと「小泉竹中一家」の連携が蠢(うごめ)いているように見える。
 ネットから真実を追求し、国会で野党勢力が問題の核心を追及してゆかなければならない。
 民主、社民、国民新党による「かんぽの宿」追及チームの一段の活躍が強く望まれる。


植草一秀の『知られざる真実』 2009年3月10日(火)
徹底追及「郵政民営化・かんぽの宿の闇を暴く」
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-0da3.html

posted by fom_club at 16:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月27日

時には母のない子のように もしくは déraciné

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 半世紀、50年も前のこと、

時には母の ない子のように
だまって海を みつめていたい
時には母の ない子のように
ひとりで旅に 出てみたい
だけど心は すぐかわる
母のない子に なったなら
だれにも愛を 話せない

時には母の ない子のように
長い手紙を 書いてみたい
時には母の ない子のように
大きな 声で呼んでみたい
だけど心は すぐかわる
母のない子に なったなら
だれにも愛を 話せない

時には母のない子のように……

「時には母のない子のように」作詞:寺山修司、作曲:田中 未知(ヤッホーくん注1)

カルメン マキ「時には母のない子のように」(1969)
https://www.youtube.com/watch?v=Iyf3Qy9Ro5I

 劇団「天井桟敷」に入団し、主宰者の寺山修司が作詞した「時には母のない子のように」を歌い、1969年に17歳で衝撃的なデビューを飾ったカルメン・マキさん。
 当時は作曲家の武満徹、詩人の谷川俊太郎、写真家の篠山紀信、画家(イラストレーター)の横尾忠則ら錚々たるメンバーに囲まれた。

「寺山さんのおかげというか、寺山さんの人望ですよね。今は偉くなっちゃった人達ばかりですけど、当時はまだ新人でした。」

 今でも寺山修二の作品はライブで朗読する。

「天井桟敷出身なので朗読は得意。ジャズミュージシャンなどの即興演奏をバックに寺山さんのエッセイや詩を読んでいます。長いお話を語るっていう感じ。ほとんど寺山さんの作品ですね。あとは自分の詩とか友達の作品です」

 マキさんにとって寺山修二はどのような存在だったのか。

「稀有な才能を持った方ですよね。最初は俳句とかから始まって、詩を書き、戯曲を書き物語を書き演出家になり、劇団を作って、競馬の評論家でもある。出会った当時、彼は30代ぐらいと思いますが、すごく大人に見えました。私が若かったせいかもしれませんけど…」

 その後も寺山修二が詩を書いた「戦争は知らない」などフォークソングを歌った。

 小さい頃から詩が好きだった。
 米国人の父親はマキさんが生後間もなく帰国。
 母子家庭で育ち、1人っ子だったので、おのずと自分と向き合う時間が多かった。
 読書したり、思いついたまま散文詩をノートに書いたりする少女だった。
 しかし、運動も大好きで中学時代は文芸部とバスケットボール部に入っていたという。

「私って二面性があるんですよね。歌も朗読などのアングラとロックというように静と動があります」

 マキさんの大きな転機になったのは、1970年頃。ジャニス・ジャップリンらに感化され、ロック転向を突然、表明した。

「デビューがソニーだったので会社に通っていると嫌でも洋楽LPがあるので、サンプル盤をたくさんもらうんですね。ソニーにはピンクのワイシャツに水玉のネクタイとかしている有名なディレクターがいて、洋楽の知識が豊富。『マキ、これがいい』とくれたものの中にジャニス、ジミ・ヘンドリックス、フリートウッド・マック、マイクブルームフィールドがあり、うちに帰って聞いて影響されました」

 紆余曲折を経て1972年にはロックバンド「カルメン・マキ&OZ」を結成。

 75年には自ら作詞した「私は風」を発表した。

<あぁ もう涙なんか枯れてしまった 明日からは身軽な私 風のように自由に生きるわ ひとりぼっちも あぁ気楽なものさ>

 この曲が収録されたアルバム『カルメン・マキ&OZ』は10万枚以上をセールスし、当時のロックアルバムとしては異例の大ヒット。
「私は風」は中森明菜・B’zなど多くのアーティストがカバーした。

「好き、惚れたとかのラブソングよりも、外に向かって書いてる詩が多いですね」

 マキさんが作詞作曲した『NORD〜北へ』は、サックス奏者の阿部薫と作家の鈴木いづみの破局的な恋を歌ったものだ。

「彼らは稲葉真弓さんの小説『エンドレス・ワルツ』でも描かれています。あの詞の『誰よりも早く 誰よりも遠く 誰よりも強く 誰よりも深く』は阿部薫が亡くなったときに彼のポケットの中に入っていた殴り書きなんです。これを発端に曲を作りました。彼らは絶対に南には行かず、極寒の地、北を目指すだろうと。真剣に向き合って作品を作った結果、破滅に向かうアーティス達の歌を作りたかった」

 2011年に東北大震災が起こった後、『デラシネ』(根無し草)という歌詞を書いた。

「3.11の事故によって故郷を失って帰るところのない人が日本中にあふれていると思い、デラシネという言葉が漠然と浮かびました。あの時、原発問題にちゃんと向き合わなければ、いけなかったのに結局、日本は何も変らなかった。今は思考停止し、人の体温のようなものがあまり感じられない世の中になってきていると思えてなりません」

 マキさんは3・11まで自分の胸のうちにある孤独、デラシネ感は個人なものと考えていた。

「生い立ちからなのか、やっぱり私は1人なんだという孤独が子どもの頃からずっとありましたから…」

 しかし、最近は五木寛之の「デラシネの時代」(角川新書)という本も出版されるなど社会現象化しつつある。

「今の時代は日本中、みんな孤独を抱え、いつ『デラシネ』になるかわからない危機の中で生きているような感じがします。これまで根無し草って特殊な人に対する言葉だったけど、今はそうではないと思います」

 マキさんの中にあったデラシネ感を決定的にしたのは一昨年春。

「母が亡くなり、もう誰もいなくなり、本物のデラシネになっちゃった。でも私のようなデラシネ、たくさんいるでしょうという思いを込めて、歌っています。絶望感はあっても生を全うしないといけないなと思っています」

 今年でデビュー50周年となる。

「17歳から社会に出て歌ってきたので。唄うことしかできない私ですが、私の歌を聴いてくれる人がいるおかげだと思います。まさか50年も続けられるとは…。当時、マスコミには一発屋と言われましたが、その悔しさもあって。ざまあみろだよね(笑)」

※ 週刊朝日5月3-10号より加筆


[写真]
カルメン・マキさん(撮影・大野洋介)。米国人の父と日本人の母との間に1951年、神奈川県で生まれる。デビュー曲「時には母のない子のように」はミリオンセラーとなり、NHK紅白歌合戦への出場も果たす。70年以降、ロックに転向、今はノンジャンルの音楽スタイル。「私は風」「閉ざされた町」「デラシネ」などの曲を発表。

dot.asahi.、2019.4.24 11:30
カルメン・マキが語るデラシネの時代
「歌って生き抜く」

(本誌 森下香枝)
https://dot.asahi.com/wa/2019042300059.html

美空ひばり- 時には母のない子のように
https://www.youtube.com/watch?v=4bNY8H4Uu3c

石原裕次郎- 時には母のない子のように 
https://www.youtube.com/watch?v=ErIyiYuBxFE

(ヤッホーくん注1)田中未知『寺山修司と生きて』(新書館、2007)

 そもそも田中未知が寺山修司と出会ったのは、彼女が20歳そこそこで西銀座デパートの一角にイラスト展を開いたとき、寺山が見に来てくれたことに始まっていた。
 寺山が30歳のときのこと、1966年だ。
 未知さんのお姉さんが買っていた寺山の『ひとりぼっちのあなたに』に記されていた住所に、イラスト展の案内状を送ってみたところ、寺山がひょっこり見に来ていたのだという。
 だからイラストレーションにも才能が光っていたのだが、この顛末は、実は未知さんを決定づけたものともなった。
 その話をついでに紹介しておく。

 翌年の1967年に、天井桟敷が結成されたのである。
 貧乏劇団は何でもしなければならない。
 劇団員は好きな芝居にかかわるために夜中の仕事や早朝のアルバイトをして、生活費と劇団費を稼ぐ。
 劇団側もつねに資金稼ぎをしなければ、食ってはいけない。
 そのための詩のサロンなども開いていて、あるとき未知さんもそこに出かけた。
 その帰り際、寺山が「劇団員になりませんか」と声をかけたのだ。

 これでうっかりメンバーになったのだが、旗揚げ公演の『青森県のせむし男』を見て、そのドロドロの雰囲気にあまりにも自分の肌にあわないものを感じ、「やめたい」と申し出た。
 ところがそこで寺山は意外なことを言ったのだ、「それなら秘書としてぼくの仕事を手伝ってくれませんか」。

 これが決定的だったようだ。
 それから16年、田中未知は「自分の職業は寺山修司である」と言い切るまでの日々を送っていく。
 寺山修司が47歳で死ぬまで、一番のそばにいつづけた。


松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/1197.html

 もう一冊、ヤッホーくんお勧めなのがこちら:
「田中未知(作曲家)ここが約束の地
稲泉連『こんな家に住んできた、17人の越境者たち』(文藝春秋、2019年2月)所収

(ヤッホーくん注2)カルメン・マキ デラシネ
https://www.youtube.com/watch?v=537NsRVN1_0
https://www.youtube.com/watch?v=I_wUrTU4dIY
http://zicca-records.net/carmenmaki/

posted by fom_club at 10:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

放置国家なのか、法治国家なのか、秋元司逮捕から見えてくるもの

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

「あいうえお」の法則で当選、落選

 秋元司衆院議員はカジノを含む統合型リゾート施設(IR)への日本参入を目指していた中国企業の外為法違反事件に関連し、便宜を図る見返りに現金数百万円を受け取った疑いが強まったとして、2019年12月25日、逮捕された。
 秋元氏は即座に自民党に離党届を提出、受理された。
 国交省副大臣としてIRを担当、職務権限を有していた秋元氏に対する贈収賄事件に発展、今後が注目される。
 さて、そもそも秋元司衆議院議員とはどんな人物なのだろうか。

 大物政治家の世襲議員でもなく、また大臣を経験した訳でもなく、地元の選挙区である東京15区(江東区)以外ではよっぽどの政治通でなければ顔を浮かべることはできないのではないだろうか。

 衆議院議員としては「3期生」。
 しかし、2012年で初当選したいわゆる「魔の3期生」とは違う。
 2004年から一期参議院議員を経験しているのだ。
 その際は自民党の比例代表候補として30万票以上を集め、竹中平蔵の次、つまりは自民党第2位で当選している。

 ところが、6年後の改選時には得票を22万票余り減らし8万票で落選。
 現職有利と言われる選挙。
 有力団体が他候補についた等の事情もあるだろうが、自民党関係者によればそれは秋元氏の実力ではなく、単に「あいうえおの法則」ではないかと言われていたという。

 選挙で「あいうえおの法則」と言うのは、全国比例名簿の名簿記載順と当選の因果関係のことだ。
 政党支持者で比例区では誰に入れていいかわからない人は自動的に最初に名簿に書かれた名前に投票するから、あ行の名前は有利という「法則」である。

 「秋元司(あきもとつかさ)」。

 確かに2004年、当選した際の候補者名簿では秋元氏が最も右側に記載された。
 2010年の落選時には「秋元司」の前に「赤石清美(あかいし清美)」がいた。
 赤石氏は10万票あまりを獲得、法則通りに最下位ながらも当選し、落選した秋元氏とは明暗を分けた。

「陳情さばき」が日常業務 「票田のトラクター」モデル

 2010年の参議院選挙で落選した秋元氏は、その後衆議院へと転出を図る。
 そして2012年、野田内閣での解散総選挙で当選。
 しかし、この時の衆議院選挙は民主党に逆風が吹いており、東京25小選挙区のうち22選挙区は自民党・公明党の現与党候補者が圧勝している。

 落としたのは長妻昭氏、長島昭久氏、柿沢未途氏がいる3選挙区だけだが、秋元司はまさに柿沢氏の選挙区で、重複立候補での比例復活当選だった。

 保守系議員にとって選挙が弱い、厳しいとなると、やることは一つである。

「(秋元氏だけでなく)自民党の議員はいかに陳情をさばくか。政策秘書や地元秘書を窓口に、支援してくれる企業と官庁の担当者をつなぎ恩を売ることは日常業務となっている」

 就職・縁談も含めた陳情をさばき、有権者と切っても切れない関係を作る…いわば古い自民党が行ってきた陳情政治を徹底的に行うことが今も奨励される。

 秋元氏は小林興起氏の秘書を学生時代から勤めたことからみても、平成以降も小沢一郎氏とその秘書たちがモデルと言われる漫画「票田のトラクター」に描かれた昭和の選挙を体験してきているだろうし、そこに違和感も感じることはなかっただろう。

 相手候補は先代からの地盤を引き継ぎ、都議、衆議院議員として時間を変えて選挙区を醸成してきている選挙巧者の柿沢氏である。
 飲酒運転等のマイナスがあっても復活できたのはそうした分厚い基盤の上での日常活動があってからのことだろう。

 それに対抗し、相手を超える票を集めるためにはそれなりの金が必要だ。

 それを端的に表しているのが「政治資金収支報告書」である。
 秋元氏は個人献金等もそこそこ集めているが、一方でその屋台骨は企業団体献金であることがわかる。
 秘書としての経験も生かしながら、率先して金集めに奮闘していただろうことがみて取れる。

職務権限=「口利き」「あっせん利得」の成立要件

 有権者からの「陳情」「要望」を聞き、その解決に向けて動くことは一国会議員としてはさして問題ではない。
 個人の問題にとどまらず社会化できることであれば、それは是としてとらえられる場合も多い。

 一方で、個人の益だけに閉じたものや、企業利益を目途にした陳情等はどうであろうか。
 一国会議員が職務権限なしに問い合わせ先や情報収集先として官僚等を紹介することはそう珍しいことではない。
 それがなぜ許されているかといえば、大前提として一議員には直接の「職務権限」がないからである。

 ただ、たとえば「職務権限」がないからといって、総理や官房長官から声がかかれば、何らかの厚遇をせねばならないと現場が感じてそう動く場合は往々にしてあるだろう。
 これがまさに「忖度」で、森友、加計の問題でも散々言われたところでもあるが、結局は口利きをした方に明確な「職務権限」があったか、なかったかと言うのは重要なポイントである。

 大物議員ほど「職務権限」には敏感で、これまでの付き合い等で口利きを頼まれても、正面から議員本人が乗り出すことはしないし、ある意味「忖度」されるよう外堀を埋めるのだ。
 数々の体験等の積み重ねの中でグレーゾーンの「キワ」を見極め、また疑いがかけられたときにどう言い逃れできるかを想定しながらどう攻めるのかを考えるのだ。

 秋元氏のように国交省副大臣になり自らが担当したIR案件で「口利き政治」を展開するなどといった初歩的ミスは、秋元氏が残念ながら小物で、また政治家になる過程で秘書として、議員として所詮そのレベルの教育しか受けてなかったということに尽きるのである。

 前述通り、選挙区で無理をしなければならなかった背景もあるだろうが、同僚議員の横のつながり等があれば逮捕にまでいく案件には手を出してはならない等の諫めを受けることもできたかもしれない。

 昨今、なかなか勝てない野党の選挙文化を見直す必要性があるとの流れの中で、前述の「票田のトラクター」で展開されたような過去の選挙スタイルに活路を見出そうとする向きがある。
 しかし、それはかなりの毒薬。
 陳情政治との裏表の関係を生み出し、その後に政治家が背負う政治文化が生み出す負の側面があるということも、あえて付け加えておきたい。

巨悪はなぜ捕まらないのか

 自民党には秋元氏同様、疑惑のある議員がたくさんいるではないか。
 なぜそこに捜査は及ばないのか――。
 多くの人々が持つ疑問であろう。

 最近でいえば、菅原一秀、河井克行・あんり夫妻。
「桜を見る会」でいえば安倍総理も含めてなぜ逃げおおせているのか、と。


 検察には、エリート集団で将来は検事総長を生み出す組織としての「赤れんが組」と、現場で地道に事件を追う「現場叩き上げ組」があり、時に反目し合いながら社会正義≠フ実現を目指している。

 政権に対する配慮や忖度等はなかったのか。
 今回の秋元司氏の一件に関しては、東京地検特捜部が捜査する中で十分に「証拠」が確保されたこと、十数年ぶりの贈収賄事件という、ある意味組織の威信を示せるチャンスでもあったというのが、政界関係者の大方の見方である。

 今後、他の議員への広がり等が見られないであろうことも、安心して立件できるということだったのかもしれない。
 秋元氏の個人的な話に閉じて広がらないのであれば、「忖度」の必要もないからである。

 ただ、東京地検特捜部はそう見られるのを否定するかのように秋元議員の贈収賄事件の関係先として、千葉県印西市にある自民党の白須賀貴樹衆院議員の地元事務所に家宅捜索に入った。
 こちらは「魔の3期生」でもある。

 一方でなぜ菅原、河井氏らについては警察・検察が積極的に動こうとしないのか。

 彼らの件は警察や検察主導ではなく、告発等があって初めて動くもの。
 検察等からすると証拠等の確保も含めて、基本的には他力案件なのである。

 前述通り、強い政治家ほど、不法行為と認識していても、ギリギリのところで疑惑を否定できるような担保はとる。
 公職選挙法や政治資金等の問題でも相手の政治家はすでに筋書きも用意していて「秘書がやった」で終わることも多く、取りざたされているような公職選挙法がらみの事件は、労多くして警察や検察にとって積極的にやりたい案件とは言えないのだ。


「グレー」部分の多い法律が「都市伝説」を生む

 ただ、もしかすると「桜を見る会」は例外になるかもしれないと思っている。

 というのも、ある意味、安倍政権にとってはそう重要視していない行事で、だからこそ「突っ込まれた時の備え」を全くしていなかったのである。

 ツギハギだらけの答弁、資料等の隠蔽、抹消はさらなる疑惑を生む。
 もしもどこかのタイミングでそれに付随して思わぬ疑惑が発覚、政治案件として警察・検察主導型で特捜部案件、つまりは「事件」となる展開にならないとも限らない。

 ただ、「疑惑」から「事件」に発展する途中では詰まり、滞りが幾多もある。
 それをどうほぐしていくのかが課題となる。
 政権に近ければ近いほど誰が見ても「クロ」でなければ公判等が持たないからである。
 つまり少しでも「グレー」である限りは負ける可能性があるということだ。

 政治家がらみの法律=公職選挙法等は、その言い訳が効くように、作ってあると言っても過言ではない。
 それが今回のあまりにわかりやすい「職務権限」案件である秋元事件との違いである。

 ちなみに、よしんば「クロ」となってもその努力がちゃぶ台返しということも起こりうる世界でもある。
 どんなに検察が頑張っても最後は法務大臣の指揮権発動で事件は止めることができるのだ。

 指揮権発動については、1954(昭和29)年の造船疑惑がある。

 自由党幹事長佐藤栄作に対する収賄容疑による逮捕許諾の請求を行ったが、犬養健法相が吉田茂首相の意向を受け、指揮権を発動し拒否した。
 以後、捜査は挫折、構造汚職事件の追及は阻止されたが、65年前の事件に思いをはせなければならないほど、政治の世界に流れる水は出口を失い、よどみの中にある。

「巨悪は捕まらない」
「権力の近くにいれば、要件に満たなくとも学校設立ができる」
「レイプをしても捕まらない」
「普通の人がいけない場にも招待される」
・・・それはまるで「都市伝説」のように私たちの中でもはや「自明」のものとなっている。

 ことの本質を見極めて、健全な流れを生み出し、「巨悪」が正当に裁かれる状況にするためには、結局は政治に緊張を持たせることしかないのだ。

 それは「都市伝説」ではなく、「犯罪」。
 単純明快にそう言い切れる2020年にせねばならない。


[写真-1]
秋元司衆院議員の地元事務所から段ボール箱を運び出す東京地検特捜部の係官ら=2019年12月19日、東京都江東区

[写真-2]
カジノ解禁法案が採決された衆院内閣委員会で、委員長を務めた秋元司衆院議員=2016年12月2日

[写真-3]
秋元司衆院議員の自宅があるマンションには、報道陣が集まった=2019年12月25日、東京都江東区

[写真-4]
辞表提出後の記者会見を終え、国会を出る菅原一秀経産相(左)=2019年10月25日

[写真-5]
造船疑獄事件で犬養健法相は1954年4月21日、佐藤栄作自由党幹事長に対する逮捕状請求を延期するよう指揮権を発動した。指揮権発動で逮捕を免れ、国会内で記者団と会見する佐藤栄作自由党幹事長=1954年2月21日

朝日新聞・論座、2019年12月26日
「巨悪は捕まらない」は都市伝説か? 
数々の疑惑のなか、秋元司逮捕で見えるもの

(井戸まさえ、ジャーナリスト・元衆議院議員)
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019122500007.html

※ ヤッホーくんのこのブログ、2018年07月10日付け日記「カジノ法案は、安倍首相からトランプ大統領への“貢ぎ物”」は、ぜひともお読みください。

posted by fom_club at 08:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

生きづらさを抱える日本

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 社員の自殺が相次ぐ三菱電機で、3年前に自殺した男性新入社員(当時25)と、今年2019年8月に自殺した20代の男性新入社員が同じ社員寮に入っていた。
 どちらも、職場での上司とのやりとりを記したメモを残していた。遺族側は、三菱電機の再発防止策に不備があったとみて詳しい説明を求める構えだ。

 3年前に自殺したのは、この年2016年4月に入社した新入社員。
 通信機製作所(兵庫県尼崎市)に配属され、ソフトウェア開発を担当していた。
 同年11月、鉄道などを使って1時間ほどの距離にある兵庫県三田(さんだ)市の社員寮で自殺し、遺族が翌2017年9月に損害賠償を求めて同社を提訴した。
 今年2019年、自殺した社員も同製作所と同じ敷地内にある生産技術センターに配属され、同じ社員寮に入寮。
 寮の近くの公園で自ら命を絶った。

 3年前に自殺した社員が書き残し、遺族側が2017年9月の提訴時に公開したメモには、複数の上司や先輩が質問にまともに答えず、同僚の前で激しく非難したことなどが記されていた。

「5年10年やってる先輩上司が非難しかしないことに絶望しました」
「家族との別れがつらいですが、人格を否定してくる三菱で○○(先輩の名前)と一緒に働き続けるほうがツライので私は死を選びます」
「私を死に追いやった関係者には罰を受けて欲しいです」
とも書かれていた。
「三菱は私のことを一生忘れないで欲しいです」
との記述もあった。

 今年自殺した社員の上司だった30代男性は自殺教唆の疑いで書類送検された。
 この上司から、
「次 同じ質問して答えられんかったら殺すからな」
「お前が飛び降りるのにちょうどいい窓あるで、死んどいた方がいいんちゃう?」
「自殺しろ」
などと言われたと記したメモが残っていた。

 遺族側代理人は今月12月18日の記者会見で、
「(遺族は)きちんと謝罪を受けていないし、納得できるような説明も受けていない」
としたうえで、新入社員の自殺が繰り返されたことについて、
「法的責任を前提として説明を受けたいと思っている」
と述べた。

 三菱電機は「再発防止には取り組んだが、具体的な内容は、当局が捜査中のためコメントできない」(広報)としている。
 上司の書類送検が報じられた直後から、「ニクイねぇ!三菱」のセリフで知られる家電などのテレビCMの放映を中止している。

 三菱電機の労務管理や、情報開示に後ろ向きな姿勢に対して、疑問の声が広がっている。
 関係者によると、遺族側代理人の会見後、三菱電機は新入社員の自殺と上司の書類送検について職場単位で社員に説明したが、報道の範囲を超える内容はなく、報道機関からの取材に一切応じないよう求めているという。
「労務案件」を理由に、来年2020年1月末まで社内外の宴席を自粛するよう通知も出した。
 50代の男性社員は、
「会社は力を入れるべき点をはき違えている。問題を隠蔽(いんぺい)しようとするのでなく、可能な範囲で説明して再発防止につなげるべきなのに」
と憤る。

 労働組合の中央組織・連合の神津(こうづ)里季生(りきお)会長は今月12月19日の会見で、三菱電機で社員の自殺や労働問題が相次ぐことについて、「対策を相当講じてきたと言われていたが、(対策が)現場にどう適用され、浸透が図られていたのかを考えると重大な疑問を持たざるをえない」と指摘した。
 三菱電機の元社長が副会長を務める経団連の中西宏明会長も23日の会見で、新入社員の自殺や書類送検について「個社の経営にごちゃごちゃ言ったらおかしくなる」としたうえで「そういう事象は誠に残念です」と述べた。


朝日新聞、2019年12月27日05時00分
三菱電機の新入社員自殺、3年前も同じ寮で
メモも残す

(内藤尚志)
https://digital.asahi.com/articles/ASMDV5DPLMDVULFA01R.html

 ことし2019年8月に起きたある事件。
 50代の女性が軽乗用車に92歳の母親の遺体を放置したとして逮捕されました。
 女性は家族3人で1年にわたって車上生活をしていました。
 “家族で車上生活”
 いったい家族に何があったのか。
 なぜ、そうした生活を送っていたのか。
 事件の背景に迫ろうと、私たちは取材を進めました。

車上生活家族の死体遺棄事件

 お盆休みも終わった8月20日。
 群馬県内では、最高気温が30度を超える暑さが続いていました。
 この日、群馬県警がある事件について発表しました。

死体遺棄被疑者の逮捕

 これが、すべてのきっかけでした。
 内容は「50代の女性が92歳の母親とみられる女性が死亡しているにもかかわらず、遺体を軽乗用車に放置した」というものでした。
 これだけでは、ニュースの原稿にするための情報が不足していたため、後輩の警察担当の記者が警察署の幹部に取材しました。
 すると「逮捕した女性が、母親と息子、家族3人で1年にわたり軽乗用車の中で生活していた」ことがわかりました。

家族で車上生活をしていた?
路上生活者とはどう違うの?
しかも、家族で?

 私たちの疑問は膨らみました。
 警察の発表で、女性の出身地が大まかにわかったので、私たちは取材班を組んで周辺を回りました。
 しかし、家族がどこで車上生活を送っていたか具体的な手がかりはつかめませんでした。
 私たちは、車上生活の拠点は自由に駐車することができて、トイレが利用できる「道の駅」ではないかと仮説を立てました。
 この時点では“勘”です。

近くに「道の駅」はないか

 取材でたどりついた女性の住んでいた家から車で10分ほどのところに広大な駐車場つきの「道の駅」がありました。
 当然、トイレは24時間使用できます。

 8月末、ある日の夕方、道の駅の駐車場の隅に車を止め、様子をうかがいました。
 店舗が閉まった午後7時。
 まだ空に明るさが残っていました。
 そして、1時間後の午後8時、空は真っ暗に。
 駐車場には、わずかな街灯しか明かりはありません。
「1台2台・・・・10台」
 一定の距離を置いて車が止まっていて、動く気配はまったくありません。
 中には、外から見えないように目張りをしている車もありました。
 明らかにキャンプやレジャーのためではない雰囲気を感じました。
あの家族と同じように、車の中で生活する人ではないか
 この日は、状況だけを確認し、引き上げることにしました。
 捜査関係者に、“勘” だけを頼りに、家族がいたのは「道の駅」ではないかと聞き続け、9月6日、ある道の駅の名前をつぶやいてくれました。
 ついに現場がわかりました。
 私たちが状況を確認した道の駅とは場所が違い、少しがっかりしましたが…。

家族が生活していた道の駅

 翌日、私たちは、家族が生活していたという道の駅を訪ねてみました。
 道の駅は、駐車場やトイレが24時間開放されていて食事をとることもできます。
 道の駅にある店舗では、地元産の野菜などが販売されていて、日中は家族連れでにぎわっていました。
 店舗の営業が終了し、人の姿がなくなった午後9時。
 この道の駅でも、駐車場には、動く気配がない車が数台止まっていました。
 車の中で生活する人たちが、ここにもいました。
 道の駅の従業員や頻繁に利用している運転手などに話を聞くと、この家族と見られる人たちを目撃していました。

 9月9日、逮捕された女性が不起訴となりました。
 これによって公開の法廷で裁判が行われないことになり、なぜ家族で「車上生活」を続けてきたのかは、詳しいことはわかりませんでした。
 事件としては、ここで区切りとなりました。

各地の道の駅に車上生活者が

 私たちはここであきらめず、取材を続けました。
 ほかの道の駅にも、同じように車上生活をしている人たちがいるのではないかと考えたからです。
 関東地方のすべての道の駅132か所に、記者とディレクターあわせて4人で電話取材したところ、驚くべきことがわかりました。
「車で生活している人がいた」と答えた道の駅が全体の36%にのぼったのです。

 さらに、車上生活をしていたとみられる人が少なくとも9人亡くなっていたこともわかりました。
 ある道の駅の従業員は、「駐車場の出入り口にある看板の近くで、脳梗塞と見られる症状で突然倒れたり、熱中症みたいな症状で救急車を呼んだりしたことが何度もあった。きっと声をかけて話ができていれば、死ななくて済んだかも知れない」と話してくれました。
 さらに、こうつぶやきました。

道の駅で亡くなっているのを、珍しく思わなくなっている自分がいる

 衝撃的なことばでした。
 これは、いったいどういうことなのか。
 私たちは、社会の“新たな断面”と捉え、さらに取材を進めることにしました。

厳しい車上生活

 9月に入り、私たちは、事件の取材と並行しながら、群馬県内の「道の駅」を1ヶ所1ヶ所、毎晩のように回りました。
 車上生活をしている人が乗っていそうな車を見つけては声をかけ続けました。
 群馬県内には32か所の道の駅があります。
 各地の道の駅の従業員に車上生活をしている人がいるか尋ねると「あそこにいるよ」と即答してくれますが、車上生活をしている人とは、ほとんど接点はありませんでした。
 従業員たちは、車を自由に駐車できる場所に止めているので、黙認しているというのが現状でした。
 私たちは道の駅で車上生活をしている人たちに取材を申し込みましたが、話を聞かせてくれる人はなかなかいませんでした。
 わかってはいましたが…。

 取材を始めておよそ2週間、群馬県内のある「道の駅」で66歳の男性に出会いました。
 軽乗用車の中で1年近く生活を続けているといいます。
 最初は取材を断られましたが、2週間通い、ようやく取材に応じてくれました。
 男性は、車の中を見せてくれました。

 車のドアを開けると、生活用品がぎっしりと詰め込まれていました。
 後部座席の後ろにはカセットコンロ、座席の背もたれ部分には鍋のふたが2つ掛けられていました。
 食材があれば調理することもあるといいます。
 後部座席のシートの上には座いすが置いてあり、毎日、ここで寝ているそうです。
 あおむけに足を伸ばして眠ることはできない広さでした。

 男性は、少しかすれた声で話し始めました。

この生活を始める前は体重が70キロほどあったが、40キロぐらいまで落ちた

“生活保護を受けようと考えないのか”。素朴な疑問をぶつけてみました。
 男性は、少し憤った口調でこう話しました。

知らない人は、こんな生活をしているのだったら、生活保護でも受けたらいいと簡単に言うよね。でも、1回市役所に行って聞いたら“車、持ってんでしょ”と言われ却下された。パッと切られて終わり

 厚生労働省によると、車は資産とみなされるため、原則、車を持っていると生活保護は受けられないということです。

車を手放さない理由は

 男性は去年、トラック運転手を辞め、生活が行き詰まるようになりました。
 新たな仕事を探すためには、車が必要だと考え、手放すことは考えなかったといいます。
 さらに生活費の収支にも、手放さない理由がありました。

 男性の現在の収入は、月に10万円の年金だけ。
 アパートで暮らすと家賃4万円に加え、食費や光熱費などもかかるため支出はあわせて14万円。
 毎月4万円ほどの赤字になります。

 車上生活では、家賃、光熱費がかからなくなり、支出は年金の範囲内で済みます。
 しかし、冷蔵庫がなく、その都度食材を買うため、食費がかさみ、ギリギリの生活です。

 私たちは取材の中で、男性の半生について聞いているとき、あることに気づきました。

 車を「手放さない」のではなく「手放せない」のではないか。

 男性は、私たちにあるものを見せてくれました。
 妻の写真です。
 長年連れ添った妻を7年前に亡くしていました。
 旅行に行って、妻と腕を組んでいる写真。
 手をつないで正面を向いた笑顔の写真もありました。
 男性には、子どもはおらず、この車でドライブに出かけるのが夫婦の楽しみでした。
 妻との思い出が詰まった車を手放せないのです。
 男性が、絞り出すように私たちに発したことば。

いなくなるとがっかりだよね。夢も希望もなくなっちゃった

 車という小さな空間に、男性の人生やプライド、思い出までも詰まっているように感じました。

頼る人がいない親子も

 家族関係のトラブルから車上生活を余儀なくされた家族もいました。
 出会ったのは、幼い子どもを連れている30代の女性。
 今は、行政の支援を受け、夫と3人の子どもとアパートで暮らしています。

 車上生活をしていたのは3年前の冬。
 当時、長女は1歳、長男を妊娠中でした。
 女性は、当時の生活を切々と語りました。

車がなかったら野宿するしかないので、雨風をしのげる唯一の場所だった。インターネットカフェは子どもがいたらダメで、どうしようもなかった

 なぜ家族で車上生活に。

 夫婦とも両親とは疎遠で、きっかけは同居していた親戚とのトラブルでした。
 日雇いの仕事をしていた夫婦の収入は、月10万円ほど。
 アパートを借りる余裕はありませんでした。
 女性は、車上生活を送っていたときの子どもへの思いを口にしました。

仕事は夫婦でどちらかが交代で行って、空いている方が子どもを寝かせる。永遠にこの生活かと思った。車上生活で一番つらかったのは、子どもが泣いたとき。寒い中、外であやしていた、ごめんねって

全国の車上生活者

 私たち取材班は3ヶ月にわたり、全国で50人を超える「車で生活する人」や「過去に車で生活していた人」を取材しました。
 車上生活は「貧困」の問題としてひとくくりにはできない難しさがあります。

 小さい頃から家族に虐待を受けるなどした影響で人を避けるようになった20代の男性。
 70代の男性は、認知症の妻がはいかいして近所に迷惑をかけないかと心配し、夫婦でアパートを出たケースもありました。
 失業や家族間のトラブルなど、ふとしたきっかけで「車上生活」を余儀なくされる人たちが多くいました。

 取材を通して、車が、社会に居場所が見つからない人の逃げ場になっているのではないかと感じました。


NHK WEB特集、2019年12月25日 18時08分
“車上生活” 漂うわけは
(前橋放送局記者 渡邉亜沙)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191225/k10012226861000.html

posted by fom_club at 08:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月26日

進次郎大臣「人妻セクシー不倫」報道

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 2019年8月8日、小泉進次郎衆議院議員とタレントの滝川クリステルさんは婚姻届を提出した。
 滝川さんは妊娠中で来年2020年1月に出産予定とされる。

 小泉議員が育休を取るか否か等、今から注目されているが、その前に二人が直面するのは出生届だ。
 民法の規定をそのまま当てはめれば小泉進次郎議員は「父ではない」ということになる。

小泉進次郎が「父ではない」理由

 詳しく説明しよう。

 クリステルさんの出産日予定日は1月。
 たとえば1月31日だとして、婚姻から177日目となる。

 日本の親子関係を規定する民法772条2項によれば「姻後200日」を経過していないため、小泉氏は父とは推定されず、夫婦は婚姻しているにもかかわらず、子の出生届の父欄は「空欄」で提出するのが法に則った正式な届け出となるのだ。

 というのも、民法の規定は「婚姻中に懐胎した子は夫の子と推定する」のであって、婚姻前に懐胎した場合は夫の子であるかは推定の外、わからないとしているのだ。

 夫の子か否かわからない以上、その疑わしさを排除するために「婚姻後200日」後でないと父とはしないという規定が設けられているのだ。
 つまり、平たく言えばこの規定は夫がいわゆる「托卵」、つまり他人の子を自分の子と思い込んで育てることのリスクを排除するために置かれた規定で、200日=妊娠から6ヵ月以上が経てば流石にお腹が目立ってきて隠せないだろう。

 他の人の子を妊娠している女性が身重であることを隠して結婚することができなくなるための期間であり、夫側が妻に騙されないための規定だったのだ。

「そんな失礼な、父親は自分以外にいない」

 小泉氏だけでなく、「できちゃった婚」での夫たちがそう主張しても、これは民法の規定である。
 明治民法以来、変わっていない。

できちゃった婚のリスク

 もっとも、こうした「できちゃった婚」「授かり婚」に対しては第二次世界大戦前の昭和15年の民事局長通達で200日経っていなくとも婚姻した夫の名を記したことを「認知準正」として、瞬時に「非嫡出子」→「嫡出子」とトランスフォームする戸籍実務上の措置が取られている。

 明治民法制定時から戦前は慣習として「祝言」をあげたら世間に夫婦として認識され、役所に届け出を出すことはそれほど重要視されていなかったという背景もある。

 ただ繰り返しになるが、民法に照らせば婚姻後200日以内に生まれた場合は父欄に夫の名前を書くことができず「非嫡出子」となると子どもが差別の対象となるという事情もあり、「婚姻後200日以内」に生まれた子どもでも親が婚姻している場合はそれに先んじて内縁関係が生じていたと解され、法的手続きを踏まなくとも、出生届の父欄に夫の名前を記入すれば「嫡出子」として届け出が可能となったのだ。

「誰が父か」は子にとって、また親にも最も重要な話だが、その変更が法改正でなく、「民事局長」が出したペラ一枚の通達によって変わる適当さは、面倒臭い議論は先送りしようという「法治(放置?)国家」日本らしいとも言える。

 ただ、認知準正は必ずしもしなくても良い。
「婚姻後200日」経たないで出生した子の出生届の父欄を「空欄」で出す選択肢は母には残っている。
 クリステルさんもそのような選択をしようと思えばできる。

 実際、事実上の父親と婚姻した父が違う場合はあるわけで、そうした場合は事実上の父が子を認知し、夫婦の戸籍に別の男性の名前が戸籍に入ってくることもあるのだ。

 出産までに何かあった場合は、子どもの戸籍作成に一手間かかる。
 婚姻後200日以降に生まれた嫡出子とは違い、死後認知を3年以内に申請しないと父は確定しない。
「できちゃった婚」のリスクとも言えよう。

小泉純一郎氏は離婚後300日規定の典型例

 一方、小泉進次郎議員の父純一郎氏は、報道によれば、進次郎氏の母である妻が第三子を妊娠中に離婚している。

 生まれた三男は「離婚後300日以内に出産」しているため、離婚しても父欄には小泉純一郎氏の名前が入る。

 もし、この規定がなければ、父親が小泉氏であることが明らかであっても、出産後速やかに父を確定し、養育費等も含めた扶養や相続の権利を得ることができなかったかもしれない。

 まさに明治時代、民法が作られた当時の趣旨――夫が離婚した妻の子どもを自分の子どもと認めず、義務を放棄しないよう、母親と子どもを守る――が発揮された事例であろう。

 ただ、この規定も「300日」は長すぎる。

 そもそもこの規定ができた19世紀後半は血液型さえ発見されていない時代だ。
 妊娠期間も明確ではなかった。

 現代医学では最終月経日から40週、懐胎していない2週間を含めて280日を基準とする。
 予定日に生まれても266日目で、早産ならもっと早くなる。

 このため300日規定を適用すると、離婚して1ヵ月後に別の男性との間に受胎して子どもが生まれた場合、その子は前夫の子どもになるという奇妙な事態が発生し、社会問題となっている1万人以上とも言われる無戸籍児・無戸籍者を生み出しているのだ。

明治以来の民法改正の中身

 こうして奇しくも政治家一家の小泉親子が経験することとなった民法772条の「嫡出推定」規定が今、見直されようとしている。

 山下貴司法相は参議院選挙に入る前の2019年6月、民法のうち、「嫡出推定」と「監護権」の改正に関して法制審議会に諮問、これに先立ち昨年から開催されていた研究会の最終報告書をベースに今、改正議論が進んでいる。

 その最終報告書の内容は、婚姻後200日規定については、妊娠をきっかけに結婚する夫婦が増え、結婚後200日以内に生まれた子も出産時点で再婚していれば、「例外規定」として現夫の子とすべきだと提案している。
 ただし200日規定は残り、「空欄」での出生届も認められることになるような制度設計が検討されている。

 一方で社会問題ともなっている「無戸籍問題」を生む主原因の離婚後300日規定については出生時に母親が元夫以外の男性と再婚していた場合などは、元夫の子とみなさないとしている。

「300日」「200日」が残るわけ

 ちょっと待った。

 明治以来120年ぶり、初の改正というのに、民法772条の「200日」「300日」と言った医学的な根拠のない数値はそのまま残すということなのだろうか?
 日本の英知を集めた研究会や法制審議会で、抜本的な議論に至らない理由はなんなのだろうか?

「婚姻後200日」とか「離婚後300日」に合理性がないことがわかりながらも、撤廃の議論もされないということは、暗黙の「数字縛り」にそれなりの意味を感じているということになる。

 つまり、「婚前交渉はするな」「離婚後は女性は反省して性交渉は控えろ」と言った一方的で懲罰的な「道徳律メッセージ」である。

 逆に言えば、この国は女性を信用しておらず、女性に対する男性の支配力を正当化する言い訳としてこの規定が使われてきたとも言える。

 そうではないというのであれば300日規定も、200日規定も今すぐ撤廃できるはずなのに……。

 小泉議員は、育児休暇を取得することも検討中という。

 子どもの寝顔や泣き顔を見ながら、すでに医学的にも否定されていることが法の中ではいまだに父子関係が決まっていることの理不尽さを、父親の一人として感じ、考えてほしいとも思う。

 真実の父を父とする権利が子から遠ざけられ、父も我が子を我が子とできない規定という側面を残すことで、日本社会に生きている人の具体的な人権、特に子どもの人権が脅かされている国、日本。

 小泉氏は来週にも行われるであろう内閣改造では入閣も取りざたされているが、責任ある立場に立つのであればなおのこと、日本人として生まれるすべての子どもが人生に出会う法律=民法772条を妥当なものに変えることに、「当事者」として、真っ先に取り組んでもらいたい。


現代ビジネス、2019-09-05
小泉進次郎は「父ではない」…できちゃった婚の「意外なリスク」
小泉親子孫三代も直面する明治民法の壁
(井戸 まさえ)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67001

 小泉進次郎環境相(38)の資金管理団体「泉進会」および、小泉氏が代表をつとめる「自由民主党神奈川県第11選挙区支部」から4300万円以上の政治資金が、実態のない“幽霊会社”に支出されていることが「週刊文春」の取材でわかった。
 税金を原資とする政党交付金も支出されており、小泉環境相の説明が求められそうだ。

「泉進会」と「第11選挙区支部」の政治資金収支報告書を「週刊文春」が調査したところ、両団体からエムズクリエ(以下エムズ社)に対し、 2012年から2018年までで ポスター代や印刷代などの名目として約4300万円が支出されていた。

 小泉氏のポスターに〈印刷者〉として記載されているエムズ社の住所は、千葉県野田市。
「週刊文春」取材班がこの住所を訪れると、そこには一軒家が建っていた。
 エムズ社の表札などはなく、世帯主としてM氏の名前が掲げられているだけ。
 周辺にも印刷工場はなかった。
 地方法務局に問い合わせたが、エムズ社の法人登記はされていなかった。

 M氏の知人によると、「M氏は長年B社という老舗の印刷会社に勤める営業マン。永田町担当でしたが、すでに退職している」という。
 B社の社長が取材に応じ、次のように答えた。

「元々ウチは純一郎さんの代から小泉事務所と取引していました。そのときからMは小泉事務所の担当でした。エムズ社の名前は聞いたことはないが、そもそもBは営業担当だからポスターのデザインや製作なんてできない」

 さらに、続けてB社の社長は「個人で請け負っている割には受注額が高すぎるように感じる」と指摘する。
 たとえば2017年の衆院選における支出。
「選挙運動用ポスター印刷」1200枚分としてその代金116万円が計上されている。

「ポスター1200枚であればせいぜい30〜40万円が相場です。腕のいいデザイナーを使って高く見積もっても70〜80万円。なぜ小泉事務所は幽霊会社にわざわざ相場より高い値段で発注しているのか。もしかしたら、発注額のうち何割かをキックバックされている可能性もあるのでは」

 また、エムズ社の下請け業者はこう明かす。

「エムズ社って何もしていないですよ。うちの会社みたいなところに全部投げて、手数料をとっていくだけ」

当事者のM氏を直撃すると……

 エムズ社のM氏を直撃した。

―― エムズ社は法人登記していない?
「法人登記というより、個人事業主として登録していて、税務申告も毎年しています。小泉事務所サイドからは『株式会社じゃないとダメだよ』と言われましたが」

―― 実際の製作は外注している?
「看板、たすき、街宣車は同じ会社に発注していて、ポスターは別の会社にお願いしている。まあ昔風に言えば、ブローカーってやつだね」

―― 受注額が相場より高いと言われているが?
「選挙はキワモノなんです。高いか安いかは、お客さんの判断です」

 飄々と取材に応じていたM氏だが、記者が「キックバックはしていないのか?」と尋ねると、語気を強めて、こう答えた。
「そういうことは一切していない」

 このエムズ社への約4300万円の支出には、税金を原資とする政党交付金が支出されている。
「第11選挙区支部」の現在閲覧できる2014年〜2018年の「政党交付金使途等報告書」を調べると、エムズ社への支出のうち、約9割(約1200万円)が、税金を原資とする政党交付金から拠出されているのだ。

 なぜ、小泉事務所は、実態のない会社に巨額の発注をするのか。
 キックバックはないのか。
 質問状を送ったが、期限までに回答はなかった。

 政治資金に詳しい神戸学院大学教授の上脇博之氏はこう指摘する。

エムズ社への支出額には、血税が原資となる多額の政党交付金が含まれています。この異常に高額の税金が登記されていない幽霊会社に流れていることは、政治資金の適切な使い方とは到底いえない。キックバックなどの疑いをもたれても仕方ない状況を自ら招いている。きちんと説明するべきです

 実は、小泉環境相の不明朗な政治資金の支出はこれだけではない。

「週刊文春」12月26日(木)発売号では、
・ 交際していた人妻実業家との「不倫ホテル代」を政治資金から支払っていた問題、
・ 4度の衆院選で約3600万円の余剰金が消えている問題、
など、総額約8000万円となる小泉氏の政治資金に関する疑惑を6ページにわたり報じている。

※ 週刊文春 2020年1月2・9日号


[写真-1]小泉環境相

[写真-2]ポスターには「エムズ社」が明記されている

[写真-3]お洒落なポスターだが

[写真-4]滝沢クリステル

文春オンライン、2019/12/25
小泉進次郎環境相 “幽霊会社”に高額発注で政治資金4300万円を支出
(「週刊文春」編集部)
https://bunshun.jp/articles/-/22184

 週刊文春が26日発売の最新号で、小泉進次郎環境相が「幽霊会社に高額発注で政治資金4300万円を支出していた」という疑惑と、「交際していた人妻実業家との不倫ホテル代を政治資金から支払っていた」という疑惑について報じている。

小泉環境相、幽霊会社に政治資金を流用か

 記事によると、小泉進次郎環境相の資金管理団体「泉進会」および、小泉氏が代表をつとめる「自由民主党神奈川県第11選挙区支部」がエムズクリエ(以下エムズ社)に対し、 2012年から2018年までで ポスター代や印刷代などの名目として約4300万円が支出されていたという。
 週刊文春が取材したところ、エムズ社の所在地とされる千葉県野田市の該当地へ出向いたが、エムズ社の表札などはなく、地方法務局に問い合わせても、エムズ社の法人登記はされておらず、実態のない幽霊会社ではないかと記事では伝えている。

 実際にエムズ社の当事者とされる男性に話を聞いたところ、「法人登記というより、個人事業主として登録していて、税務申告も毎年している」とし、受注額が相場より高いのではという記者の質問に対しては、「選挙はキワモノなんです。高いか安いかは、お客さんの判断です」と答えたという。
 さらに「キックバックはしていないのか?」との問いに、「そういうことは一切していない」と語気を強めて答えたと伝えている。

 週刊文春が「実態のない会社に巨額の発注をするのか。キックバックはないのか」という質問状を送ったが、期限までに回答はなかったという。

小泉環境相に「セクシー不倫疑惑」

 また、週刊文春が記事の中で報じているのはこれだけではない。
 何と過去に不倫関係に陥り交際をしていたという人妻実業家との不倫ホテル代を政治資金から支払っていた疑惑があるというのだ。
 果たしてこの報道は真実なのか?
 そして小泉進次郎環境相はこの疑惑に対してどう説明するのか?

 26日に発売される記事では、4度の衆院選で約3600万円の余剰金が消えている問題や、総額約8000万円となる小泉氏の政治資金に関する疑惑など6ページにわたり報じているという。

ネットで広がる小泉環境相に失望の声

 今年8月にフリーアナウンサーの滝川クリステルさんとの結婚を発表、翌9月には環境大臣にも任命され、小泉氏にとっては大きな節目となった2019年。
 しかし、その年を締めくくるこの年末に、思わぬクリスマスプレゼントとなってしまったようだ。
 ネット上ではさまざまな声が挙がっている。


MAG2 NEWS、2019.12.25
政治資金でホテル代を捻出?
進次郎大臣「人妻セクシー不倫」報道

(編集部サトシュウ)
https://www.mag2.com/p/news/432670

・・・グレタさんに「大人を糾弾するだけではダメだ」と言っといてこれですか……
 政治資金でホテル代を捻出?進次郎大臣「人妻セクシー不倫」報道 - まぐまぐニュース!・・・

・・・ちょっと前まで、この小泉進次郎が次期首相候補のトップにいたわけだ。
 この国に相応しいリーダーは、こんなのしかいないのか。安倍晋三の次は、こんなのかと思うと、うんざりする。マスコミの世論誘導もあるのだろうが、こんなのを次のリーダーに担ごうとする国民の未熟性が問題だ。
 これは進次郎個人の問題というよりも、国民の側の問題なのだ・・・

・・・ただバカなだけかと思っていたら、普通に薄汚い自民党議員だった・・・

posted by fom_club at 17:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

公金に対して身綺麗であること、真摯に向きあうこと

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 安倍政府は2012年12月の発足後、初外遊先となったベトナムで466億円の円借款を表明したのを皮切りに、精力的なばらまき外交を展開してきた。
 約4年半でのべ百数十ヶ国を訪れ、ODA支援や諸諸のインフラ投資を総計すれば100兆円をはるかにこす。
 最近もインドに総額で5兆円を超す支援を約束し、イギリスが日立から買う原発に2兆円規模の政府補償まで検討し始めた。
 ばらまき癖はエスカレートする一方だが、いったいどのようなばらまきがやられ、だれが利益を得ているのか。
「カネがない」はずの国家財政のどこからばく大な「ばらまき資金」を捻出しているのか。
 その実態を見てみた。

[表参照]☟

バラマキ一覧.jpg

 安倍首相は2017年9月14日にインドを訪問し、モディ首相と会談した。
 日本の新幹線方式を導入する高速鉄道の建設支援などに約1900億円の円借款を供与すると表明するためだ。
 日本はすでに2016年度までにインドへ5.3兆円の円借款を供与しており、今回の円借款も加えるとその規模は5.5兆円規模にふくれ上がる。
 これは日本が円借款を供与する国のなかで最大規模である。

 ムンバイ〜アーメダバード間の約500`を結ぶ高速鉄道建設は総額2兆円規模で、両駅間には線路とともに12駅をつくる予定だ。
 すでに双日、三井物産、日立製作所などの日本企業が軌道敷設工事を受注し、JR東日本や川崎重工は企業連合をつくって、車両建設、車両部品供給、土木・建築・軌道・電気・信号・運行管理システム・旅客サービス設備・一定期間のメンテナンスなどに食い込むため暗躍してきた。
 インドへのばく大な円借款はこうした企業の海外進出・ビジネスを全面支援することが最大眼目である。
 日印間でかわした調印内容は償還期間は50年で金利は0.1%(各事業ごとに償還条件は違う)、調達条件は「タイド」(調達先は円借款供与国限定)で、大半がひも付き事業である。
 こうして日本からインドに供与された円借款はインド政府の手を通って、最終的にはインドの高速鉄道事業を受注した日本の大企業がつかみどりし、ため込んでいく構図になっている。

 しかも今回の円借款は「プログラミング(課題解決型)ローン」と呼ばれ、日系企業のニーズの高い港湾や道路などのインフラのなかから、メニューを選ぶもので、「インドの支援」は建前でしかない。
 国内の製造拠点を足蹴にして海外へ進出する日本企業のために尽くすことが目的だ。

 インドではホンダが二輪車の工場を構え、スズキも四輪車の生産を始めている。
 スズキは第2、第3の工場稼働を計画し、豊田通商など自動車向け部品会社の進出も加速している。
 こうした日本企業が多数進出するインド西部のグジャラート州に合計250億円規模の円借款を出すことも明るみに出た。
 これも道路や電力、水道などのインフラを整備し、企業活動の環境整備に使われる。
 ここには日本語教師を今後5年間で1000人養成し、人材育成する計画も含んでいる。

 ODAや円借款で現地政府に貸し付けた資金が数十年後に帰ってくるメドはない。
 途中で「日本に戻さなくてもいいです」といって帳消しにする「債務救済措置」(公的債務免除)が横行しているからだ。
 そうしたケースは企業進出が活発な東南アジアやアフリカに多い。
 2003年から2016年の13年間で2兆2848億円(のべ94ヶ国)もの貸付が帳消しになっている。

英原発建設に政府補償

 さらに国民を驚愕させたのは、日立製作所がイギリスで進める原発建設計画をめぐって、日本政府が全額補償の検討を開始したことだ。
 日立は現在、2012年に買収した英電力会社ホライズン・ニュークリア・パワー社を通じ英中部で原発2基の新設計画を進めている。
 事業費は2兆円を超す規模といわれ、2020年代前半の稼働をめざしている。

 だが原発をめぐる情勢は2011年の福島原発事故で大きく変化した。
 ベトナムでの新設計画が中止になるなど世界で新設計画はストップし、日本での新設計画は軒並み破綻した。
 発電コストは高すぎるし、事故リスクは甚大であり、欧米の原子力メーカーは早くから原発事業から足を洗っていった。
 ところが日立はそれを「チャンス」と位置づけて英電力会社・ホライズン社を買収し、英国での原発建設に乗り出した。
 しかも日本政府はそれを国際協力銀行(JBIC)や日本政策投資銀行が投融資し、全事業費の4割に及ぶ1兆円規模の援助をする計画を打ち出した。
 今回はこの政府系金融機関を通じた支援に加え、メガバンクが融資する資金も含め政府が全額補償すること、すなわち2兆円規模の原発建設資金をみな日本政府が肩代わりすることを検討し、年末に結論を出すとしている。

 福島原発事故で住民に多大な被害を与え、いまだに事故の全貌も掴めず、終息すらできないのが東電である。
 さらに米原発事業の巨額損失で債務超過に転落し破綻したのが東芝である。
 こうしたなかで日本だけが、日米原子力協定による原子力産業の維持の責任を負わされて、原発輸出に奔走し、しまいには他国に建設する原発費用まで政府が肩代わりするところまできた。
 東芝は原発事業から逃げ遅れ、米原子力メーカーに巨額の損失をかぶせられた。
 日立の原発も同様の損失を抱える危険をはらんでおり、完成後に事故を起こせば、その補償額も計り知れない額になる。
 それを見越した政府補償であり、単なる2兆円規模のばらまきで終わるとは限らない。
 今後のばく大な巨額損失、国家財政からの補償まで、場合によっては国民がかぶらなければならないという破滅的な仕組みでもある。

 近年でもっとも巨額なばらまきは、トランプが大統領になって初めての日米首脳会談で安倍首相が約束した「51兆円のインフラ投資」である。
 日本政府はなにも要求されていないのに、アメリカで70万人の雇用を創出することをうたったインフラ整備の資金拠出(10年間で51兆円の投資)を表明した。
 この内訳は、
@ 米国でのインフラ投資に17兆円、
A 世界のインフラ投資で連携する事業に22兆円、
B ロボットと人工知能(AI)の連携に6兆円、
C サイバー・宇宙空間での協力に6兆円
というものだ。
 しかもそこに老後の生活のために積み立ててきた年金積立金を注ぎ込もうとしていることも表面化した。
 アメリカとの関係でいえばオバマ前大統領のとき、リニアモーターカー整備にかかる5000億円(総工費1兆円の半額)の融資をみずから買って出たのも安倍首相だった。

原資は郵貯や年金など

 問題はこのような資金がいったいどこから出ているのかである。
 通常、公表される一般会計の予算は90兆円規模で、このうち外務省のODA予算は年間5000億円規模だ。
 第2次安倍政府登場後、ODA予算は2012年=4180億円、2014年=4230億円、2016年=4342億円と推移し、2018年度の概算要求では4903億円を要求した。
 ODA予算の額が大幅に増えたのは確かだが、とても100兆円規模のばらまきを続ける資金額には届かない。

 だがODA資金の詳細を見ると、外務省が公表しているODA事業予算は総額2兆1000億円にのぼり、外務省のODA予算はODA事業予算全体の4分の1に過ぎない。
 ちなみに2017年度ODA事業予算の財源構成は、外務省のODA予算を含む一般会計が5527億円、特別会計が14億円、出資・拠出国債(交付国債の一種で日本が国際機関へ加盟する際に、出資・拠出する現金の代わりに発行する国債)が2312億円で、もっとも大きいのは郵貯資金や年金資金で構成する財政投融資等の1兆3147億円だった。

 2012年度のODA事業予算は総額1兆7016億円で、このとき財政投融資等は8768億円だった。
 それが安倍政府登場以後、財政投融資等のODA事業費に占める額が伸びていき、この5年間で4000億円以上も増加した。
 焦げ付いたり、目減りしようがお構いなく、国民資産の郵貯・年金資金を海外にばらまく原資に使い、大企業に奉仕する姿が浮き彫りになっている。

 さらにもう一つの原資には、特定の歳入と特定の歳出をもつ特別会計が絡んでいる。
 これは税収以外の年金を扱う年金特別会計や労働保険特別会計など14の特別会計で構成している。
 2017年度の特別会計の総計は196.8兆円で一般会計よりはるかに大きい。
 年金資金や外貨準備高などとり扱っている資金額が大きいのも特徴だ。
 しかし一般会計予算と違って全貌はほとんど明らかにされたことがなく、「ブラックボックス」ともいわれる予算である。

 このなかに約130兆円規模の外貨準備高を運用する外国為替資金特別会計があり、これも海外へのばらまきに運用されている。
 同特別会計は2013年4月にこれまでの「円高対応緊急ファシリティ」を「海外展開支援融資ファシリティ」に改変した。
 それは日本企業の海外展開支援に外貨準備高など、外為特会の資産を積極的に運用するための制度改定だった。
 2015年度末の「海外展開支援融資ファシリティ」は564億j(約6.7兆円)にのぼる。

 こうしてあまり表に出ない200兆円を超す規模の特別会計、120兆円規模の外貨準備、150兆円規模の年金資金、280兆円規模の郵貯資金など、国民の金融資産1800兆円に裏付けされた資産が回り回った形となって、吐き出されている。

 国民生活とかかわっては増税につぐ増税で、介護、医療費の自己負担の増加を押しつけ、介護苦による殺人や自殺が絶えない。
 3万人規模の自殺者が毎年出て、家族にも近所の人にも発見されずに孤独死したり餓死する悲劇がよそごとでない事態になっている。
 失業や貧困、生命の再生産すらできない少子高齢化が進み、日本の人口が1億人以下に落ち込むことも現実味を帯びている。
 ご飯を食べることができない子どもたちが増えすぎて、子ども食堂をつくらなければならない事態にもなった。
 このなかで海外に数十兆円もばらまきながら一方では「カネがない」と搾りあげていく国民収奪政治が横行している。

 国内に富を反映させるのではなく、多国籍化した大企業に利益誘導し、彼らの懐に富を移転していく経済構造、政治構造のもとでは、生活の改善も景気回復もあり得ないことを示している。
 国家を私物化し、社会と国民に寄生して暴利をむさぼる一握りの勢力と、まともな社会を求める圧倒的多数の国民との矛盾は非和解的なものといえる。
 一方が富を独り占めする以上、巻き上げられる側におこぼれが滴り落ちてくるようなものではなく、トリクルダウンなど人欺しである。
 森友や加計どころでない資金を国家財政からかすめとっている独占企業の存在にも光を当てなければならない。


長周新聞、2017年9月20日
日本社会を打ち出の小槌にするな
バラマキ外交の原資はどこから?

https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/4788

 下関市議会12月定例会の17日の一般質問のなかで、本紙がこの間、「飲み会帰りのタクシー代を公金で支払っているのではないか? 下関市長、市議会議長等の公務用タクシー券使用について」を連載してきたこととかかわって、当事者である戸澤昭夫前議長がはじめて公式の場でみずからの見解をのべ、議場で執行部に対して「今後、執行部はこの新聞(長周新聞)を庁舎で読むことをやめましょう」と要求する一幕があった。

 質問通告にはなかった議題だったが、もう一人の当事者である林透議長は笑みを浮かべて同じ会派に所属する前議長の振舞を制止することなく黙認し、翌日の議会冒頭になって「不適切な発言があったため、議長が精査して対応する」として、「今後、執行部はこの新聞を庁舎で読むことをやめましょう」の発言部分のみ議事録から削除する顛末となった。

 戸澤昭夫前議長をはじめ、議会トップが公務の証明もできない状態で何十万円ものタクシー代を浪費している問題は、下関市民のなかで驚きをもって受け止められ、同時に「どうしてこんなことが許されるのか」と議会の有り様が問題視されてきた。
 そして、当事者である議員たちはもちろん、下関市議会としてどのように対応をとるのか、市議会で自浄作用は働くのかが注目されてきた。
 しかし、いまのところ何をどう改めるのかはっきりとした見解は見られず、公務が証明できない使用分を返金するのか否かも釈然としない。
 林透現議長も本紙の取材を拒否し続けている状態だ。
 そんななかでの戸澤昭夫前議長の見解を以下に全文紹介する。
 多くの下関市民の皆様に、彼らの現時点での心象を映し出すものとして、是非とも精査していただきたい。
 議事録から削除された「今後、執行部はこの新聞を庁舎で読むことはやめましょう」の部分以外が以下の通り。
戸澤
 時間がまだあるので独り言をしたいと思う。
 私は9月定例議会の終盤に、歪んだ目と歪曲編集が得意なある地元紙に、議長時代のタクシーチケットの使用について頼んでもいないのにとりあげていただいた。
 いかにも不正使用したかのごとく印象編集し、連載もされた。
 これまでのルールを逸脱してもいないし、私の前の議長との比較も事務局でしてもらったが大差なく、問題なしと確認もされた。
 なぜ今になって私の議長時代のことをとりあげたのか不可解で不名誉で、何よりも不愉快だ。
 まったく不正はない。
 しかも私の住んでいる周辺や市内の広範囲にわたりポスティングをしたり、市役所内にも無料配布をしている。
 悪意による行為としか思えない。
 また上田中庁舎では私がいるにもかかわらず、私の目前で配布するデリカシーのなさだ。
 自分たちでポスティング行為や無料配布をするほどの、価値のない紙面だと私は思っている。

 以上が戸澤昭夫前議長の発言である。

 主として長周新聞への文句及び不満のようで、中心問題である「飲み会帰りのタクシー代を公金で払っているのではないか?」の全市民が抱いている疑問について、真摯に向き合う姿勢が見られなかったことは残念であった。
 なお、関谷元議長の使い方と同じなので問題ない、ではなく、関谷元議長の使い方も同じだったなら、それもおおいに問題があるので、下関市議会全体としてタクシーチケットの使用について過去にさかのぼってメスを入れ、その実態を市民に公表すること、公務の証明ができないような夜中の使用分については、関谷も戸澤も林も分け隔てなくみんなで返金するなり、改める方向に進むべきといえる。
 戸澤前議長及び林透議長がすべきは、下関市議会をまとめる議長ならば市民の不信を払拭する対応ができるか否かである。
 現状では議会内外で「関谷がやっていたから僕らも許される」などといっているところが、ちょっと情けないを通りこして、だいぶ情けない印象を与えており、なによりも公金に対して身綺麗であること、真摯に向きあうことが求められている。

 なお、この問題について住民監査請求をした場合、当事者である亀田前副議長は監査委員として監査に加わることができない模様。


[写真]戸澤昭夫・前議長

長周新聞、2019年12月21日
戸澤前議長が本紙の購読中止を呼びかけ
公務用タクシーチケット乱用問題追及への反応

https://www.chosyu-journal.jp/yamaguchi/14892

posted by fom_club at 08:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月25日

誰も置き去りにしない年末年始を!

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

「ヤッホーくん、『年越し派遣村』や『もやい』に取材に行ったことがありました、あれからもう10年も経つのですかぁ〜」(2019年06月29日付け日記でのつぶやき)。
 ほかにも・・・ヤッホーくんのこのブログ、2019年02月21日付け日記「年越し派遣村から10年」など、関連日記をお読みください。

 今日はクリスマス、そしてサンタクロースを求めているのは子どもだけではないのです:

「ふだんは派遣の仕事をしながらネットカフェで寝泊まりをしているが、年末年始の休みに入って収入がなくなり、路上生活になった。途方に暮れて、サンシャインシティの中をうろうろしていたら、窓越しに下の公園で炊き出しをやっているのが見えたので、おそるおそるのぞいてみました」

「仕事がなくなる年末年始に備えて、1週間分のネットカフェ代を貯めてきたが、マクドナルドの店内でウトウトしている間に、スリに遭ってしまった。どうしたらいいのか、わからない」

 年末年始になると、このような相談が私たちホームレス支援団体のもとに寄せられるようになる。普段は仕事をしながら、ネットカフェ等に暮らしている人たちの中から、所持金が尽き、この時期だけ野宿をせざるをえない人が出てくるのだ。

 2017年に実施された東京都の調査では、都内のネットカフェ、漫画喫茶、カプセルホテル、サウナ、24時間営業の飲食店等に暮らしている人は約4000人と推計されている。
 そのうち約3000人が派遣、契約、パート・アルバイト等で働く非正規労働者で、働いている人の平均月収は約12万円である。
 東京で賃貸住宅を借りて、家賃を毎月払うのは難しい金額だ。

お金が尽き、年末年始に「人生初の野宿」を経験する人が続出

 私はこれまで多くの「ネットカフェ難民」の相談を受けてきた。
 その年齢層はさまざまだが、共通しているのは、日払いや週払いの仕事をしながら、働いて得た収入からネットカフェ等の「その日の宿代」を払うという自転車操業的な生活を余儀なくさせられている人が多いという点だった。

 そのため、仕事が数日間休みになる年末年始やゴールデンウィークの時期には、お金が尽きてネットカフェにも泊まれなくなり、「人生初の野宿」を経験せざるをえない人が続出する。

 特に寒さが厳しくなる年末年始に屋外で寝ることは体力的に厳しいものがある。
 また、年末には帰省をして家族と正月を過ごすという慣習がある日本社会において、一人きりで路上で年を越さなければならないことがもたらす絶望感は想像に難くない。

 こうした事態を避けるため、年末年始を乗り切るためのお金を貯めている人もいるが、節約のため、ネットカフェではなく、ファストフード店で夜を過ごしていたところ、窃盗被害に遭ったという人にも会ったことがある。

公的支援は事実上、機能を停止

 生活困窮者にとって最後の頼みの綱である公的な支援は、この時期、事実上、機能を停止する。
 役所が閉庁している期間であったとしても、各自治体の夜間・休日窓口で生活保護の申請書を提出したり、ファクスで申請書を送付したりすることは可能だが、各自治体が独自の対策を行わない限り、期間中に宿泊の支援や一時的な生活費の貸し付けを受けることはできない。

 東京では民間によって「年越し派遣村」が行われた一年後にあたる2009年の年末から翌2010年の年始にかけて、都が国立オリンピック記念青少年総合センターの宿泊棟を借り上げて、生活困窮者への宿泊支援を実施したことがあるが、それ以降は年末年始の特別な公的支援は実施されていない。

 ホームレス支援団体の中には、この時期、各地の公園で連日の炊き出しや医療・福祉相談等、集中的な支援活動を実施しているところが多い。
 私の経験では、12月30日、31日と年越しが近づくにつれて、普段の炊き出しの場では見かけない顔が増えてくるという印象がある。
 ネットカフェ等から押し出されるように路上に出てくる人が増えていくのだ。

 だが、冒頭で紹介した発言に「おそるおそるのぞいてみました」という言葉があったように、「人生初の野宿」という事態に直面した人がホームレス支援団体に助けを求めるには、心理的なハードルを越える必要があるだろう。

仙台で始まった「大人食堂」の取り組み

 ネットカフェ等に暮らすワーキングプアの人たちが、野宿に至る前の段階で気軽に立ち寄れる場を作れないか。
 そんなことを私は自分が代表を務める「つくろい東京ファンド」のスタッフと共に考えるようになった。

 そんな中、今年のゴールデンウィークから仙台で「大人食堂」という取り組みが始まったのを知った。

 「大人食堂」は、若者の労働問題に取り組むNPO法人POSSEの仙台支部と仙台けやきユニオンが中心となった取り組みである。
 18歳〜65歳の労働者や失業者、その家族を対象に無料で食事を提供するとともに、弁護士や労働組合相談員による労働・生活・住居の無料相談会や、仕事や生活の悩みなどを気軽に話せる談話会も同時に開催している。

 2019年5月の初回開催から、すでに8回開催され、12月27日には第9回が予定されている。

「大人食堂」というネーミングは、全国に広がる「こども食堂」を意識したものだろう。
 子どもが気軽に行くことのできる「こども食堂」の取り組みが今の日本社会に必要であったのと同様に、大人にも居場所と支援は必要である。

東京でも「年越し大人食堂」を開催

 そこで、仙台の取り組みに見習って、東京でも年末年始に「年越し大人食堂」を開催することにした。

 今冬の年末年始は9連休になる予定である。
 安定した住まいを失っていなくても、「無事に年を越せるのか」と不安に思っている人は少なくないだろう。
「年越し大人食堂」は、そうした大人たちに開かれた場にしていきたい。

「年越し大人食堂」は、NPO法人POSSEと「つくろい東京ファンド」が中心になり準備を進めている。
 食材はパルシステム連合会、調理は料理研究家の枝元なほみさんが、それぞれ全面的に支援してくれることになっている。

 宿泊の支援が必要な人には、今春に設立した「東京アンブレラ基金」から1人あたり1泊3000円の宿泊費を支援する。
 同基金による緊急宿泊支援は通常4泊までだが、この年末年始に限り、9泊まで延長を可能にする。

「年越し大人食堂」だけでなく、年末年始の期間も孤立する人びとを支援する民間団体は少なくない。
「東京アンブレラ基金」では、「誰も置き去りにしない年末年始を!」を合言葉に各団体の活動をバックアップする寄付キャンペーンを始めている。

 ぜひ多くの方々のご支援をお願いしたい。

※「年越し大人食堂」等、東京都内の各団体の年末年始(2019年12月28日〜2020年1月5日)相談支援スケジュール

■「年越し大人食堂」(つくろい東京ファンド・POSSE)
開催日@:12月31日(火)12時半〜19時半・会場[東京都新宿区四谷4-29-12 the Moto B1]
開催日A:1月4日(土)12時〜20時頃・会場[東京都新宿区大久保2丁目2−6 パルシステム連合会ビル 2F 多目的ルーム]
できること:働きながらも社会的に孤立していたり困窮状態にある方々へ、無料の食堂開催と無料の労働・生活相談
■ NPO法人POSSE
実施日程:12月28日(土)〜1月5日(日)
電話受付時間:13時〜17時
電話番号:03-6699-9359
できること:労働・生活相談
■ 一般社団法人Colabo
できること:十代の女の子を対象としたバスカフェ&緊急相談
実施日程@:12月25日(水)18:00〜22:00 [新宿]東京都新宿区歌舞伎町1丁目4 新宿区役所 本庁舎
実施日程A:1月2日(木)11:00〜17:00頃 [渋谷]東京都渋谷区神宮前6丁目21 神宮前6丁目22-8 渋谷神宮通公園
※中止・変更の可能性があります。最新情報はTwitterを確認ください。
■ NPO法人TENOHASI
開催日:12月30日(月)1月1日(水)1月3日(金)1月5日(日)
時間:医療・生活福祉相談 17:00〜18:30 配食 18:00〜
場所:東池袋中央公園
■ NPO法人 豊島子どもWAKUWAKUネットワーク
実施日程:12月28日(土)〜1月5日(日)
電話受付時間:11時〜18時
電話番号:090-3519-3745
できること:豊島区近辺の子どもや親についての相談対応や、緊急宿泊支援
■ NPO法人 ピッコラーレ
実施日程:年中無休
電話受付時間:16:00〜24:00(受付は23:00まで)
電話番号:03-4285-9870
メール(フォーム)での相談:24時間受付
できること:妊娠葛藤相談。にんしんにまつわる全ての「困った」「どうしよう」への対応。
■ 府中緊急派遣村
実施日程:12月28日(土)〜1月5日(日)
電話受付時間:11時〜18時
電話番号:090−3085−7557(松野)
メール:t.matsu.194927@gmail.com
できること:府中市近郊で、生活や食べるものに困った方への緊急ご相談と対応。


[写真]
東池袋中央公園で行われた炊き出し=2014年12月27日、東京都豊島区

※ 誰も置き去りにしない年末年始を!アンブレラ基金年越しプロジェクト2020にご協力を!(東京アンブレラ基金)

朝日新聞・論座、2019年12月24日
貧困の現場から
「無事に年が越せる」安心をすべての人に
「年越し大人食堂」開催へ

(稲葉剛、立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科特任准教授)
https://webronza.asahi.com/national/articles/2019122200002.html

山本太郎が新党「れいわ新選組」を立ち上げ、参院選に臨んだのが2019年春のこと。
過労死など労働環境の取材を続け、『過労死:その仕事、命より大切ですか』の著書もある牧内昇平(1981年生まれ)氏は、最初は訝しく思いながらも、「生きづらさ」を感じる人びとが山本氏に希望を託していると実感するようになった。
そこから、なぜこの「れいわ現象」は起きたのか、という視点で取材をし、まとめたのが『「れいわ現象」の正体』(ポプラ新書)だ。
社会学者の橋本健二(1959年生まれ)早稲田大学教授は著書『アンダークラス 新たな下層階級の出現』で、非正規労働者の現実を伝えている。
では橋本氏は山本氏を支持する人たちや山本氏に対してどのような意見を持っているのか。
そして、社会はどうしたらよくなるのか。
牧内氏が橋本氏にインタビューした部分を、『「れいわ現象」の正体』より抜粋掲載する。

れいわ支持者の取材で思い出した『アンダークラス』

 れいわ支持者たちの取材を続けながら、わたしは一冊の本のことを思い出していた。
 社会学者の橋本健二・早稲田大学教授が書いた『アンダークラス 新たな下層階級の出現』(ちくま新書)である。
 橋本氏はこの本で専門・管理職やパート主婦をのぞいた非正規労働者を「アンダークラス」と呼んだ。
 日本には低賃金のアンダークラスたちが約930万人いて、正社員への道は険しいため、ほとんど階級のように固定化しているという。
 
 わたしが興味をおぼえたのは、この本がアンダークラスの過酷さを認識しつつ、そのなかに希望の光を見いだしていた点だ。
 橋本氏はアンダークラスの人びとのことを「日本の現状を変える社会勢力の中心となり得る」と評していた。
 アンダークラスの多くは現状に不満を感じ、心の中では格差対策を切実に求めている。
 だが一方で政治への関心が薄く、選挙があっても投票に行かない。
 このため、実際には格差是正がいっこうに進まない。
 それが現実だが、逆にアンダークラスが政治に関心をもち、この層を主な支持基盤とする政治勢力が生まれれば、世の中は変わる――。
 橋本氏の本からは、このような主張が読み取れる。

れいわはアンダークラスを代表する政党になるか

 れいわ新選組が橋本氏の言う「アンダークラス」の受け皿になるのではないか。
 取材をはじめた頃からわたしにはそういう期待があった。
 2019年6月半ば、橋本氏に直接聞いてみた。
 都内のマンションの一室にある彼の私用オフィスは、図書館のように部屋中に本棚が並び、「知の隠れ家」といった感じだった。
 以下はそのときのインタビューである。
(中略)
貧困は自己責任じゃない !

 いわゆる自己責任論についても橋本氏の考えを聞いた。
 
 世の中にはいまだに「貧困=自己責任論」がはびこっている。
 貧しいのは本人の責任。
 努力しなかった本人が悪い。
 こんな考え方が広く行き渡ってしまった感がある。
 タチが悪いのは、「貧しい人びと自身がその考えに浸っている」という言説である。
 たしかに意識調査をすれば、貧困層にも自己責任論が広がっている。
 だが、新聞などのメディアがそれをそのまま報じてはいけない。
「本人がそう思っているのなら仕方ない」となるからだ。
 貧困層が自己責任論に傾いてしまう「理由」を深掘りすべきである。

―― 世の中に貧困を自己責任とする考え方が広まっているようで、残念です。

橋本「ものごとを選択する余地がある場合に限り、人びとは責任を問われるべきです。アンダークラスの人びとに自己責任論は成立しません。低賃金で不安定な仕事を社会的に強制されているのです」

―― でも、生活が苦しい人たちの中にも、自己責任論を受け入れる人たちがいますよね。

橋本「たしかに、自己責任論はアンダークラスの人びとにもある程度まで浸透しています。『貧乏な自分』という現実がある中で、自分は努力している、自分には能力があると思い続けるのは難しいことです。矛盾と葛藤を抱え込むことになるからです。しかし、自分は努力しなかったし能力がないんだからしかたがないと考えてしまえば、現実を静かに受け入れることが可能になります。そのように自分を納得させてしまう人びとが、アンダークラスの中に一定程度いるのは事実でしょう」

――アンダークラスの人びとがすすんで自己責任論に賛成しているわけではない。むしろ貧困の現状に折り合いをつけるため、「自己責任だ」と考えざるを得ない人びとがいる、ということですね。

橋本「そうです。一方で、自分は努力している、自分には能力があると思い続けるなら、社会が間違っているという認識にたどり着く可能性が大きくなります。やはりセルフリスペクトが大切です」

エリートたちの自己責任論をいかに崩すか

 れいわから話が少し離れるが、大事だと思うので書いておきたい。
 当然のことながら自己責任論は、貧困層よりも金持ち階級の方が信じている割合が高い。
 大企業のエリートサラリーマン、橋本氏が「新中間階級」と呼ぶ人びとにも深く浸透している。
 この層の人びとに自己責任論から脱却してもらうには、どんな言葉が必要なのか。

―― 新中間階級の人びとに自己責任論が広がっているのですか。

橋本「新中間階級に自己責任論の傾向が強まっていったのは、ここ20 年のことだと思います。わたしが関わっている調査によると、1995年まではかろうじて新中間階級はリベラルだった。不公平がこの世の中にあることをはっきり認識していた人が多くて、富裕層から貧しい人にお金を回す『所得再分配』にも割と好意的でした。ところが2005年からアレっという結果が出るようになりました」

―― なぜ、2000年代から新中間階級に自己責任論者が増えてきたのでしょうか?

橋本「戦後民主主義の成果と言えるのか分からないですが、これまでは弱者との連帯、弱者への共感という心性があったのかもしれません。そうしたものの見方が、高学歴な高所得者から急激に失われてきたと感じています」

―― なぜ新中間階級で目立つのでしょうか?

橋本「自己責任論には表と裏、プラスとマイナスのふたつの側面があります。プラスは『自分が恵まれているのは自分のおかげだ』、『自分が努力し、能力があったからだ』という側面です。これがマイナスにはたらくと、『自分が貧乏なのは自分のせいだ』となります。これは表裏一体の関係です。新中間階級はこれまで勉強や仕事で成功してきた人たちです。この人たちはまず、自身の成功を プラスの側面で考える。『自分の地位や財産は自分で築いたものだ』という見方です。
 そしてこの層の人びとは論理的にものを考えますから、いま世の中にある貧困についても同様の考え方をする。『貧しいのは本人の責任だ』。そうしておかないと論理整合性がとれないのです。こうして、強固な自己責任論が成り立ちます」

―― 論理を大事にする人びとに自己責任論から脱却し、貧困対策に積極的に なってもらうには、どうすればいいですか?

橋本「正義や倫理だけで多くの人が一斉に動くとは考えられない。わたしは『自分の利益にもなりますよ』と伝えることが必要だと思っています。いまは恵まれていても、子どもがアンダークラスに入る可能性は低くありません。大学を出てもいい仕事に就けるとは限りません。だとしたら、アンダークラスが生まれないような社会の方がいいし、仮にアンダークラスになったとしても、最低賃金で1500円もらえる社会の方がいいわけですよね。1500円だったら子どもがフリーターになってもそんなに絶望する必要はない。
 子どもだけでなく、いま新中間階級の人たち自身が老後に転落することもあり得ます。退職金は減っているし、年金の水準も下がっていきます。よほどの大企業に勤めている人のほかはアンダークラスに転落する可能性があります。いくらか貯金があっても大きな病気をしたら1千万円くらい簡単になくなるでしょう」

―― 新中間階級の人びともいつ生活が苦しくなるか分からない、ということ ですね。

橋本「もう一つ言いたいのは、格差の大きい社会とは不健康な社会であるというこ とです。貧困に直面している人びとだけでなく、それ以外の人びとにもさまざまな悪影響がある。格差の大きい社会ではストレスが高まり、病気になる確率が増える。追いつめられて犯罪をおかしてしまう人が増えるので、犯罪被害にあう確率も高まる。社会全体から連帯感が失われていき、助け合いによって問題解決する雰囲気がなくなります」
 
…… 説得力のある言葉だった。
 貧困・格差はすべての人びとを息苦しくさせるのだ。
 社会全体で貧困・格差をなくす努力を続けねばならない。
 そのためにも声を大にして言いたい。
 自己責任論をふりかざすのは間違っている。
 これからも 自己責任論・撲滅キャンペーンを張っていく。


[写真-1]
生活に余裕がないと政治に関心も持てない。しかし政治が変わらないと生活は変わらない

[写真-2]
自分の生活に苦しんでいなかがら、沖縄の基地建設問題のことまで頭が回らない。それも当然のこと

[写真-3]
2017年6月、新宿で演説をしたときの山本太郎氏。「生きててくれよ !  死にたくなるような世の中やめたいんですよ !」2019年参院選でのスピーチが多くの人の心を打った

[写真-4]
普通の学校に通う7人に1人は貧困と言われている。その状況は、自己責任で片付けられるものでは決してない

[写真-5]
わずかなきっかけで、アンダークラスになってしまうことのある状況。それが現実の日本だ

現代ビジネス、2019-12-21
社会学者・橋本健二氏が語る「アンダークラス」と山本太郎の関係
自己責任論はすべての人を追い詰める理由

(牧内昇平)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69315

posted by fom_club at 11:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

キム・ソギョンさん、キム・ウンソンさん夫妻

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、
日韓の政府間対立が続いています。
日本の芸術祭では今年、慰安婦をモチーフにした作品展示に「反日だ」との批判も。
戦争と植民地支配の歴史にどうアプローチすればいいのでしょう。
作家・高橋源一郎(1951年生まれ)さんが韓国を訪ねました。
寄稿を掲載します。

 戦後を代表する詩人、茨木のり子(1926 - 2006)の代表作「自分の感受性くらい」に、こんな一節がある。

「駄目なことの一切を/時代のせいにはするな/わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」

 いい詩だと思う。
 そしてその後、胸に手をあてて考えたくなる。

 その茨木のり子に「ハングルへの旅」という本がある。
 50歳になった茨木は突然、韓国語を学びはじめた。
 すると、周りのみんなが異口同音にこういったのだ。

「また、どうしたわけで?」

 明治以降、目は西洋に向け、東洋は切り捨てる。
 こんな国家の方針に、人びとは何の疑いもなく従ってきた。
 だからこそ「また、どうしたわけで?」となるのだろう。
 そう嘆きながら、茨木は、自分が韓国語を学び始めた理由を、いくつもあげていき、最後にこういうのである。

「隣の国のことばですもの」

 本の中に、強い印象を残すエピソードが一つ。
 同年代の韓国の女性詩人に会って、「日本語がお上手ですね」とその流暢(りゅうちょう)さに感嘆すると、彼女はこう返した。

「学生時代はずっと日本語教育されましたもの」

 植民地時代、日本語教育を強いられた彼女は、戦後になって「改めてじぶんたちの母国語を学び直した世代」だったのだ。

 自分の無知さに茨木は身をよじる。
 いちばん近い国なのに、ほんとうは何も知らない。
 知らないことさえ知らなかったのだ。

 ソウル市内、日本大使館に向けて設置された「平和の少女像」を見に行った。
 それは、わたしたちの国と「隣の国」の間に深刻な亀裂を生み出したものの一つだ。

 その「亀裂」はなぜ生まれ、そして、修復は可能なのか。

 それを知りたくて、わたしは出かけた。
 行けば少しはわかるのではないかと思った。
 いろんなことが。
 何より自分が何を知らないかを。

 冷たい雨が降る中、レインコートをはおった像は、毛で編まれた靴下をはいていた。
 銅製の足と座台の間に隙間がなく、だからその靴下は、ある日本人によって現場で編まれた、と聞いた。

 わたしは傘をさして、その像の傍らに立ち、その像の視線が指す方向を見つめながら、いくつかのことを考えた。

「彼女」の「正しい」名前は「慰安婦像」ではなく、「平和の少女像」(もしくは「平和の碑」)だ。
 女の子が椅子に座っている。
 そこにあるのは、ただ、それだけの彫像だ。
 髪は、一見おかっぱのようにも見えるけれど、よく見れば、髪の先が不揃(ふぞろ)いであることがわかる。
 もしかしたら、無理やり、切られたのかもしれない。

 韓国には、わたしたちの国にはない「民衆美術」のぶあつい歴史がある。
 それは、自国の軍事独裁政権と「美術」を武器にして戦って来た歴史だ。
 いつの間にか、敗戦によって軍による支配が終わっていたわたしたちの国とは異なる「戦後史」をこの国は持っている。
 自国の軍隊や政府と戦いながら、歴史を作ってきた彼らは、作品に強い政治的メッセージを載せることを拒まない。
 その感覚は、わたしたちにはないのである。

 慰安婦たちの「奪われた少女時代」を象徴しているという、その「像」は、もっと別の何かを象徴しているようにも見えた。
 それが、何なのか、わたしにはうまくいうことができない。
 そこに置かれているのは、どんな「ことば」でも載せることができる、ただの硬い金属製の彫像だからだ。

 人びとが行き交う大通りに面して、夥(おびただ)しい写真や横断幕に囲まれるように置かれたその少女像の横には、若い学生たちが守るように待機しているテントがあった。

 その情景を見ながら、わたしは、その前日に済州島で見た、もう一つの像のことを思い出した。

 ベトナム人の母子の像(「ベトナムのピエタ」像)は、済州島の南、江汀(カンジョン)村の聖フランシスコ平和センターの敷地の隅に、ひっそりと置かれていた。
 その像は、ベトナム戦争での韓国軍の民間人虐殺を記憶し犠牲者を鎮魂するために作られた。
 愛(いと)おしむように赤ん坊に頬を寄せる母親の周りを、土地の花と水牛が囲んでいる。
 この自国の加害責任を問いかける像の作者は、実は日本大使館の前の少女像と同じキム・ソギョンさん、キム・ウンソンさん夫妻だ。

 この像を設置する場所を求めて、キム夫妻は済州島にたどり着いた。
「少女像」とは異なり、自国の歴史的加害責任を問う像を喜んで受け入れてくれる場所を見つけることは難しかったのである。

 ふたつの像は、同じ作者(たち)の手で作られた。
 片方は、植民地支配と戦争の犠牲者に、もう片方は、戦争や軍隊の直接的な犠牲者に、それぞれ寄り添って。
 どちらもおそらくは同じ目的で、つまり、国家や権力という強いものに蹂躙(じゅうりん)される弱き存在の側に立つことを目指して作られた。

 けれども、ふたつの像は切り離され、片方を支持するものの多くは、もう片方を見ないようにしたのである。
 このことの意味も考えたい、とわたしは思った。

 済州島は、自民族が南北に分断されることに抗した島民を韓国軍と警察が弾圧・虐殺した「四・三事件」で知られる。
 日本にとっての敗戦、朝鮮半島の人たちにとっての解放から間もない1948年に起こり、50年代半ばまで続いた一連の悲劇で虐殺された島民は数万人といわれる。
 韓国政府がこの暗い記憶に立ち向かい、軍・警察が公式に謝罪したのは、事件発生後半世紀以上たつ今年だった。
 島民の気持ちの奥底には国家や軍への懐疑がいまもあるように思えた。
「ピエタ像」がこの島で可能だったのは、そのせいなのかもしれない。

 その像から、車を少し走らせた広大な畑の真ん中に、軍用機を攻撃から守るためにコンクリートで造った掩体壕(えんたいごう)跡がある。
 戦争中、ここには日本軍の戦闘機が収納され「決戦の日」を待っていた。
 この国が日本の植民地であった時代の遺物である。
 そんな場所があることを、わたしたち日本人の大半は知らないだろう。

 いまは、戦闘機の骨組みの形をしたモニュメントが静かに眠り、そこを訪れた人たちがハングルで書き記した短冊が結びつけられている。
 わたしは、通訳の担当者に訳してもらい、複雑な思いで、そのことばを読んだ。
 そこを訪れる人たちにとって、過去は終わってはいないのである。

 ふたつの像が、「弱き者たち」を象徴しているのだとしたら、それは、隣の国の人たちにとって、支配され、ことばも奪われていた植民地時代の自分たちの肖像にも繋(つな)がるのだろう。

 では、わたしたちは、「弱き者たち」をどう見ているのだろう。

 いま、わたしたちの社会は、声をあげる「弱き者たち」をうとましく思ってはいないだろうか。

 ただ佇(たたず)むだけの「像」たちは、ことばを持たない。
 だが、そのことによって、わたしたちからことばを引き出す力を持っている。
 もしかしたら、それは、怒りや憎しみや蔑(さげす)みに満ちた、わたしたち自身の社会が発することばなのかもしれない。

■ ともに歩いて

 ベトナムの母子像は支持されていますか。
 高橋源一郎さんの質問に聖フランシスコ平和センター幹部は「軍が謝罪すべきだと言う住民は済州島でも少数派だろう」。
 自国の負の歴史に光を当てる作業の難しさが伝わりました。
 済州島は軍基地建設への反対運動が続く島でもありました。
 同センターで車に「Heoko, NO(辺野古ノー)」というステッカーが貼られているのを見つけたのは高橋さんでした。


[写真-1]
韓国・済州島に残る旧日本軍の掩体壕跡の一つ。ゼロ戦を模したアート作品が置かれ、作品には無数の短冊が結びつけられていた

[写真-2]
済州島南部にある聖フランシスコ平和センターの敷地内に置かれたベトナム人の母子像

[写真-3]
ソウルの日本大使館近くの歩道に設置された平和の少女像

朝日新聞、2019年12月19日05時00分
高橋源一郎の「歩きながら、考える」
隣の国のことを知らない私たち
(編集委員・塩倉裕)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14299716.html

28年にわたり韓国ソウルの日本大使館前で「慰安婦」問題の解決を目指したたかってきた被害者の若かりし日をモチーフにつくられた「平和の碑」(少女像)。
制作した韓国の彫刻家キム・ソギョンさんとキム・ウンソンさん夫妻に、「少女像」に込めた思いや、展示が中断された国際芸術祭・あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」について聞きました。

手を取り被害想像して

 少女像は1992年1月から現在も毎週行われている「慰安婦」問題解決のための水曜行動が、1000回を迎えたことを記念して2011年12月に建てられました。
 日本の一部の政治家や保守系のメディアは、少女像を「反日の象徴」などといいますが、それは違います。
「慰安婦」被害の歴史を記憶し、人権のためにたたかい続けるハルモニ(おばあさん)をたたえ、運動を継承するためのものです。

 少女像には、ハルモニの苦しく長かった人生や未来への夢など、すべてを込めました。

韓国社会の問題も

 少女の後ろに伸びている影は、ハルモニの姿になっています。
 少女の時代に動員され、謝罪を受けることのないまま年を重ねたハルモニの悲しみを表現しました。
 肩に乗っている小鳥は、平和と自由を象徴し、いまもこの地でたたかい続けているハルモニと亡くなって天にのぼったハルモニをつなぐ絆です。

 被害に遭った当時、朝鮮の女性は長い髪を三つ編みにするのが一般的でしたが、あえて短く、毛先のそろっていないおかっぱ頭にしました。
 それは大切な家族や故郷から無残に引き離されたことを意味します。
 当初そっと重ねようと考えていた両手は、日本政府が建立を妨害していると聞き、ハルモニのたたかいを表す握り拳にしました。

 擦り切れているはだしの足は、彼女たちの歩んできた人生の険しさを表しました。
 その足は少し、かかとが浮いています。
 これは被害者たちを受け入れることをしなかった韓国社会の偏見と、無策だった韓国政府の無責任さを表しています。

 韓国は、大家族の家父長制でした。
 被害を受けたことが恥ずかしく、解放後も故郷に戻れなかった人がいます。
 帰ることができても、家族や親せきにさえ疎まれ、再び故郷を去らざるを得なかった人もいる。
 被害者が、罪人のようにひっそりと生きていかなければならなかったのです。

 金学順(キム・ハクスン)さんが実名を公表し、被害を告発したのは1991年8月でした。
 その時、私たちは、その事実に心を痛めつつも、被害者がいて加害者もはっきりしている、解決はそう遠くないだろうと考えていました。

 しかし2011年1月、水曜集会に遭遇しました。
 まだ解決していなかったのかという驚きと、そのことを知らなかったという申し訳なさが募りました。
 集会の主催団体を探し訪ねると、支援者から寄付を募り「平和の碑」建立プロジェクトが進行中で、芸術家としてできることをやろうと決意しました。

再展示求める声に希望

 芸術家たちの表現の自由が守られることは民主主義の基本です。
「表現の不自由展」で、少女像が最後まで展示することができれば、日本に民主主義があるということが証明されると考えていましたが、そうはなりませんでした。
 短い時間でしたが、私が会場にいて感じたのは、日本の市民の成熟した姿勢です。
 説明を熱心に読みメモをとる人や、ハルモニたちの境遇を思って涙しながら鑑賞する人もいました。
 多くの人から「展示してくれてありがとう」「反日の象徴だと誤解していた」と声をかけられました。
 中断している「不自由展」の再開を求め行動する市民もいて、被害者の人権を無視している安倍政権とは違うと感じ、本当にうれしく思いました。

反日ではなく共感

 少女像の隣には誰も座っていない椅子を置きました。
 亡くなったハルモニたちが隣で見守っているよ、という意味があります。
 そして通りかかった人が、なぜここに椅子があるのかと考え、座って少女像の手を握り、ハルモニが夢見る平和を想像したとき、この作品は完成します。

 少女像を訪れた人は、暑い日には帽子をかぶせたり、寒い日にはマフラーをまいたりします。
 手紙を書いてくる人もいます。
 そこにあるのは「反日」ではなく、つらい人生を歩んできた被害者への「共感」です。

 安倍政権は憲法9条を変えて戦争ができる「普通の国家」になろうとしていますよね。

 いま、戦争は絶対にダメだという日韓の市民の連帯が大事だと思います。

 少女像が、その懸け橋になることを願います。
 一人ひとりの小さな行動、その小さな炎が、大きな歴史をつくるはずです。


[写真-1]
彫刻家のキム・ソギョンさん(左)とキム・ウンソンさん

[写真-2]
ソウルの平和路に設置された「少女像」

[写真-3]
「少女像」と影

[写真-4]
握りしめた拳

しんぶん赤旗、2019年8月28日(水)
「表現の不自由」考える
「少女像」日韓の懸け橋に
制作の彫刻家キム・ソギョンさん キム・ウンソンさん語る

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-08-28/2019082803_01_0.html

posted by fom_club at 09:14| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月24日

富士には、月見草がよく似合ふ。

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 太宰治と山歩クラブの縁・・・はですね、曽我梅林へのお散歩会にまでさかのぼるんじゃないかな、とヤッホーくん。

 太宰治と太田静子、つまり「斜陽の家」は山歩クラブの面々、前を通っているのです。不審火で焼失する2009年の前。

 2003年2月8日(土)朝一番の小田急ロマンスカーに乗って曽我の里を散策してきました。
 JR御殿場線の下曽我駅をでると、小田原ボランティア協会の方がおられ、里の史跡を案内していただきました。
 歩きながら、二宮尊徳の「積少為大(せきしょういだい)」について教えていただきました:
(注略)
 文学散歩にもなりました。
 尾崎一雄文学碑があります。なぜでしょうか?
 尾崎一雄(1899 - 1983)は、祖父の代まで小田原-下曽我の宗我神社の神官をつとめた家の長男として、1899(明治32)年12月25日に生まれました。
 小田原中学在学中の1916(大正5)年、志賀直哉(1883 - 1971)の「大津順吉」を読み深く感動、作家を志す契機となりました。
 やがて当時新設の早稲田高等学院に進み、1927(昭和2)年、早稲田大学国文科を卒業、この間、数々の同人雑誌や「早稲田文学」に作品を発表していきます。
 長い雌伏の時代を経た1937(昭和12)年、短篇集『暢気眼鏡』で第5回芥川賞を受賞、出世作となりました。
 1944(昭和19)年、44歳のとき大病の療養を機に下曽我に帰郷して以後は、この父祖以来の地で執筆を続け、「虫のいろいろ」「まぼろしの記」「虫も樹も」など数多くの心境小説、自伝的作品を生み出していきます。
 晩年に至っても長大な自伝的文壇史「あの日この日」(正・続)を著すなど、83年の生涯の最後まで衰えることのない筆力を示しました。

 そして、城前寺には高浜虚子(1874 - 1959)の句碑「宗我神社 曽我村役場 梅の中」もあるのです。
 尾崎一雄が早稲田を卒業して10年たった春のことでした。
 梅といえば、今日では曽我の里が知れわたっている。
 2月、曽我梅林では3万本の梅が咲き揃い、春の到来を告げる。
「今の世の 曽我村はたゞ 梅白し」と詠じたのは、1937(昭和12)年2月にここを訪れた高浜虚子だった。
 ホトトギス一門26人がその日の吟行に参加した

のだそうです。
 さらにはびっくり、この里は太宰治とも縁があったのだす。
 ホトトギス一門が訪れてから10年後の1947年(昭和22)年、自殺する前年の38歳のことだす。
 下曽我の大雄山荘に疎開していた太田静子は、戦後すぐに母親が亡くなったこともあり、太宰に手紙を出します。
 太宰からは雑用山積のため手紙を出せなかったことを詫び、「いま『ヴィヨンの妻』という100枚見当の小説にとりかかっている、仕事部屋を借りて仕事をしているが、よかったらそこに来ないか、来るときには前日に電報をよこすように、正月5日間は客が多いから6日すぎがよい」との返事をもらい、期待を持って1947(昭和22)年1月6日三鷹に太宰を訪ねます。
 そして1ヶ月後の2月21日、今度は『斜陽』を書くために太宰が下曽我に来て、5日間滞在。
 太田静子の日記を下曽我の大雄山荘で借ります。
『斜陽』はその後、伊豆の三津浜に行き、『斜陽』として起稿され、3月上旬までかかって第1、2章を書き上げる。
 4月、三鷹の仕事部屋で『斜陽』を書き続け、6月に完成します。
 なお、この2月の出会いで太田静子は身ごもり、5月24日太田静子は子供のことで太宰と相談するため再び三鷹を訪ねます。
 11月、太田静子との間に、治子が誕生。
 太宰は認知書を書いています。


 写真は城前寺の前で。
 
城前寺.jpg

 中央に金時山、矢倉岳をしたがえた富士山が見えます。
 このお寺は曽我兄弟の菩提寺。
 仇を討った後、叔父の宇佐美禅師がその遺骨を携えてこの地に庵を結び、兄弟の菩提を弔ったのが寺の始まりと伝えられている。
 兄弟の討ち入りの時、暗夜だったので、傘を燃やして松明とした故事から、仇討ちの日に当たる5月28日には境内で「傘焼き祭り」が行なわれる。

・・・山歩クラブ会報「こまくさ No. 2」、2003年4月12日発行・・・

 ヤッホーくんのこのブログ、2015年05月18日付け日記「河口の森」で前日のお山歩会、天下茶屋から御坂山1596mを経て御坂峠越えをする山歩きの報告記事がつづられています。
 2015年05月25日付け日記「新金沢八景」あたりまで続くのかな……、

 その前の年、2014年5月11日日曜日は、山歩クラブのお山歩会で三つ峠山1785.2mに富士見山行。23人で向かっています。
 2014年05月15日付け日記「太宰治『新樹の言葉』」、翌日の日記「太宰治『富嶽百景』」、翌々日の「富士山」などもどうぞ、振り返ってみてくださいな。

 ヤッホーくん、どうして富士山と月見草を対比させていたのかな、中心と周縁?上級と下級?出世と落ちこぼれ?選民と貧民?もっと、もっと?考えていきたいんだって、それで『富嶽百景』から四つのエピソードを書き写しておくんだって、忘備録?襤褸の繕い?
 だって、クリスマスイヴだというのにヤッホーくんのところに、ケーキもなければ、がぶがぶ飲む酒もない。

 東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。
 冬には、はつきり、よく見える。
 小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。
 なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。
 しかも左のはうに、肩が傾いて心細く、船尾のはうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる。
 三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。
 その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。
 一睡もせず、酒のんだ。
 あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。
 小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。
 窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆(しつく)し、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、など呟(つぶや)きのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。
(中略)
 井伏氏は、ちやんと登山服着て居られて、軽快の姿であつたが、私には登山服の持ち合せがなく、ドテラ姿であつた。
 茶屋のドテラは短く、私の毛臑(けづね)は、一尺以上も露出して、しかもそれに茶屋の老爺から借りたゴム底の地下足袋をはいたので、われながらむさ苦しく、少し工夫して、角帯をしめ、茶屋の壁にかかつてゐた古い麦藁帽(むぎわらばう)をかぶつてみたのであるが、いよいよ変で、井伏氏は、人のなりふりを決して軽蔑しない人であるが、このときだけは流石(さすが)に少し、気の毒さうな顔をして、男は、しかし、身なりなんか気にしないはうがいい、と小声で呟いて私をいたはつてくれたのを、私は忘れない。
 とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台といふ、断崖(だんがい)の縁(へり)に立つてみても、いつかうに眺望がきかない。
 何も見えない。
 井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆつくり煙草を吸ひながら、放屁なされた。
 いかにも、つまらなさうであつた。
(中略)
 私には、誇るべき何もない。
 学問もない。
 才能もない。
 肉体よごれて、心もまづしい。
 けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言はれて、だまつてそれを受けていいくらゐの、苦悩は、経て来た。
 たつたそれだけ。
 藁(わら)一すぢの自負である。
 けれども、私は、この自負だけは、はつきり持つてゐたいと思つてゐる。
(中略)
 私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶(いうもん)でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥(いちべつ)も与へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。
 老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
 さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。
 さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。
 三七七八米の富士の山と、立派に相対峙(あひたいぢ)し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。
 富士には、月見草がよく似合ふ。


青空文庫、1999年1月9日公開
富嶽百景
(太宰治)
(底本「筑摩現代文学大系59太宰治集」筑摩書房、1975(昭和50)年9月
(初出「文体」1939(昭和14)年2、3月)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/270_14914.html

posted by fom_club at 21:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

雄山荘、10年前に不審火で焼失

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

「君に、出来るものか。」少年は、力弱く笑った。
「出来るとも。出来るよ。」とむきになって言い切った。
 それから一時間のち、私は少年と共に、渋谷の神宮通りを歩いていた。
 ばかばかしい行為である。
 私は、ことし32歳である。
 自重しなければならぬ。
 けれども私は、この少年に、口さきばかり、と思われたくないばかりに、こうして共に歩いている。
 所詮は私も、自分の幼い潔癖に甘えていたのかも知れない。
 私は自分の不安な此(こ)の行動に、少年救済という美名を附して、わずかに自分で救われていた。
 溺れかけている少年を目前に見た時は、よし自分が泳げなくとも、救助に飛び込まなければならぬ。
 それが市民としての義務だ、と無理矢理自分に思い込ませるように努力していた。
 全く、単に話の行きがかりから、私は少年の代りに一夜だけ、高等学校の制服制帽で、葉山家に出かけて行かなければならなくなったのである。
 佐伯五一郎の友人として、きょうは佐伯が病気ゆえ、代りに僕が参りましたと挨拶して、「早春の北海道」というその愚にもつかぬ映画を面白おかしく説明しなければならなくなった。
 私には、もとより制服も制帽も無い。
 佐伯にも無い。
 きのう迄は、あったんだけれど、靴もろとも売ってしまったというのである。
 借りに行かなければならぬ。
 佐伯は私の実行力を疑い、この企画に躊躇(ちゅうちょ)していたようであったが、私は、少年の逡巡(しゅんじゅん)の様を見て、かえって猛(たけ)りたち、佐伯の手を引かんばかりにして井の頭の茶店を立ち出で、途中三鷹の私の家に寄って素早く鬚(ひげ)を剃(そ)り大いに若がえって、こんどは可成りの額の小遣銭(こづかいせん)を懐中して、さて、君の友人はどこにいるか、制服制帽を貸してくれるような親しい友人はいないか、と少年に問い、渋谷に、ひとりいるという答を得て、ただちに吉祥寺駅から、帝都電鉄に乗り、渋谷に着いた。
 私は少し狂っていたようである。


青空文庫、2000年2月10日公開
太宰治「乞食学生」
(底本:「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房、1988(昭和63)年10月25日第1刷発行)
・・・文芸雑誌『若草』に1940(昭和15)年7月号から12月号まで、6回にわたって連載・・・
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/285_15065.html

 ところでヤッホーくんの冬至、井の頭公園には渋谷から「京王井の頭線」の急行電車で向かっています。
 太宰治の短編「乞食学生」の「私」は吉祥寺から渋谷へ「帝都電鉄」に乗っていますけど、これって…:

 ちなみに井の頭線も、もとは京王が敷設した鉄道ではない。
 東京山手急行電鉄という会社が手掛けた。
 東京山手急行はその後帝都電鉄と名前を変え、小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)と合併した。
 井の頭線は当時、小田急帝都線と呼ばれていたという。
 東京山手急行も小田急の創始者、利光鶴松(1864 - 1945、ヤッホーくん注)氏が代表であり、実質的には小田急系の路線といえる。

 その証拠に、京王線と井の頭線は線路の幅が違う。
 京王線は幅1372ミリだが、井の頭線は1067ミリで、小田急と同じ。
 京王線と井の頭線は明大前駅で接続してはいるが、乗り入れることはできないのだ。

 ところで井の頭線を手掛けた東京山手急行電鉄は当初、「第2山手線」という壮大な計画をぶち上げていた。
 品川区の大井町から江東区の洲崎(現在の東陽町)まで、山手線の外側を走る路線だ。
 資金難から頓挫したが、そのエネルギーは井の頭線や小田急線へと引き継がれていく。


[年表]☟
h井の頭線.jpg

日本経済新聞、2013/6/14
井の頭線、消えた延伸計画と「日本一」の三鷹球場
(東京ふしぎ探検隊)
https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK12033_S3A610C1000000/?page=2

(注)ヤッホーくんのこのブログ、2017年04月25日付け日記「豆相人車鉄道」参照

 さて、ヤッホーくん、三鷹駅前の「みたか観光案内所」にお聞きし、「三鷹市太宰治文学サロン」へと向かうのですが、ゆかりの地「千草」と遭遇します。
 作家仲間・編集者との打合せの場所でもあった小料理屋。
 1947(昭和22年)年7月から2階を仕事部屋にもしていました。
 太宰治の行方不明後は捜索本部となり、遺体発見後は検死場所ともなりました。主人鶴巻幸之助さんは、桜桃忌の御世話をしていた」
 その向かいにはいっしょに入水自殺をする山崎富栄の下宿もありました。
・ 1946(昭和21)年11月、疎開先の青森から妻子とともに三鷹に戻ってきます。
・ 1947(昭和22)年1月、太田静子の訪問を受け、2月、太宰は下曽我の大雄山荘に出向き、日記を借り5日滞在し、太田静子と結ばれます。
・ 同年5月、太宰は山崎富栄と結ばれます。
・ 同年7月、小料理屋「千草」2階も仕事場にします。その向かいが山崎富栄の下宿先で、9月に仕事場を富栄の部屋に移す。
・ 1948(昭和23)年6月13日、山崎富江と玉川上水に入水。太宰の誕生日の19日に遺体発見。

『斜陽』のご婦人、太田静子は1947年2月の下曽我での太宰との出会いで身ごもったため、同年5月に再び三鷹を訪れます。
 この時は当時新潮社の社員だった野原一夫(1922 - 1999)も最後まで同席します。
『回想 太宰治』(新潮社 新装版、1998年5月)では、
 生れてくる赤ちゃんのことで、あの方に御相談したかったのです。
 それで東京に会いに行ったのです。
 わたくしは、なにもかも、すべて、あの方のおっしゃるとおりにしようと心を決めていました。
 お父さんと呼んでいけないのなら、言われるとおりにしようと思いました。
 どこか遠いところで、ひっそり隠れて暮せと言われたら、それに従がおうと思いました。
 どんなことでも、おっしゃるとおりにしようと。
 それで、お会いしたいとお手紙を出したのです。
 午後3時すぎに、三鷹駅の南口からまっすぐに行った橋のたもとの屋台のうなぎ屋へという御返事でした。
 弟の通が心配してついてきてくれました。
 三鷹に着いたのは4時頃だったでしょうか。
 うなぎ屋さんにはあの方の姿は見えませんでした。
 そこの若い御主人が心得顔にうなずいて、自転車で呼びに行ってくれました。
 あの方は、なにか疲れているように見えました。
 面馨れ、さえ感じました。
 セルの上着に灰色のズボンをはいて、下駄ばきでした。

と書いています。
 
五月二十四日

「先生が、貴女のところにウィスキーがあるっていうんですけど――」
「あらそう、どうぞ」
 六月の御誕生日の御祝にと思ってとってあった品だったけど。夕食を持参してお手伝いにいく。七人のお客様と私。野原さんのお隣りで飲む。ウィスキーの甘味な舌ざわり。皆さんに喜ばれて、今宵の私の心も酔う。放送劇団の人達。綱さんや、加藤さんのお話――懐かしい。
“すみれ”で二次会。野原さんの楽しいベレー帽から、話は咲いて……、人に喜びを与え得る人はいいなあ、そして、人に悲しみを与え得る人もいい。そして、この二つのどちらかしか、世の中に生きていく強さはないでしょう、と野原さんと握手。そういう御方と一緒でなければ、こうして酒席へなど、私は、はべりませぬ。今夜は私の顔も赤い。真実のことを、ちょっと語ってしまう。
「斜陽」の御婦人も御一緒だったけど……。


青空文庫、2017年4月3日作成
雨の玉川心中
太宰治との愛と死のノート

(山崎富栄)
(底本:「雨の玉川心中」真善美研究所、1977(昭和52)年6月13日初版発行)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001777/files/56258_61595.html

 没後70年を迎える今も根強いファンを持つ小説家太宰治が「斜陽」の構想を得た場所として知られ、9年前に焼失した旧別荘「雄山荘」を紹介する「『斜陽』の家 雄山荘資料展」が、小田原駅東口のおだわら市民交流センターUMECO多目的コーナーで開かれている。
 2018年6月19日の桜桃忌には朗読会を開催し、太宰と小田原の縁(えにし)をしのぶ。
 入場無料、24日まで。

 1930年に旧下曽我村(小田原市曽我谷津)に建てられた雄山荘(当時は大雄山荘と呼称)には戦争中、太宰が交際していた歌人、太田静子が母とともに疎開。
 太宰も滞在したことがあり、そこでの暮らしをつづった静子の日記を基に代表作「斜陽」を書いた。

 資料展はUMECOの主催で、施設登録団体である小田原鉄道歴史研究会と西さがみ文芸愛好会が協力。
 雄山荘の歴史や静子と太宰の交流、「斜陽」執筆の経緯などを丹念に調べた年表や図解などを作成した。

 このほか、雄山荘の写真や間取り図、復元模型、太宰と雄山荘にまつわる書籍や雑誌、2009年12月26日に不審火で焼失した際の新聞記事など、60点以上が並ぶ。

 開催を知った人から寄せられた太田静子の着物も先月下旬から展示。
 会場に置かれた感想ノートには「読み応えがあった」「雄山荘は保存運動があったのに、失われ残念」などの声が寄せられている。

 太宰は「斜陽」発表の翌年の1948年6月13日、愛人と玉川上水で入水。
 誕生日の19日に遺体が見つかり、この日が忌日(桜桃忌)とされた。

 文芸愛好会の朗読グループ「さくらの会」による「桜桃忌ろうどく会」は19日午後2〜3時、UMECOの会議室で。
 無料。
「斜陽」、静子と太宰の娘である作家太田治子さんの「明るい方へ」など5作品を抜粋して朗読する。

 資料展、朗読会の問い合わせはUMECO電話0465(24)6611。


[写真-1]
新聞記事の切り抜きや関連書籍・雑誌なども並ぶ「『斜陽』の家 雄山荘資料展」=おだわら市民交流センターUMECO多目的コーナー

[写真-2]
雄山荘にまつわる年表や、焼失前の姿を写した写真も展示されている

[写真-3]
資料展が始まってから情報提供があり、展示されるようになった「太田静子」の着物

神奈川新聞、2018年06月18日 11:08
太宰「斜陽」ゆかり
小田原で9年前消失「雄山荘」資料展

https://www.kanaloco.jp/article/entry-31789.html

posted by fom_club at 11:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

松本訓導殉難100周年

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 私は、家の方角とは反対の、玉川上水の土堤(どて)のほうへ歩いていった。
 4月なかば、ひるごろの事である。
 頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い、青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。
 ひっそりしている。
 ああ、こんな小説が書きたい。
 こんな作品がいいのだ。
 なんの作意も無い。
 私は立ちどまって、なお、よく見ていたい誘惑を感じたが、自分の、だらしない感傷を恥ずかしく思い、その光るばかりの緑のトンネルを、ちらと見たばかりで、流れに沿うて土堤の上を、のろのろ歩きつづけた。
 だんだん歩調が早くなる。
 流れが、私をひきずるのだ。
 水は幽かに濁りながら、点々と、薄よごれた花びらを浮かべ、音も無く滑り流れている。
 私は、流れてゆく桜の花びらを、いつのまにか、追いかけているのだ。
 ばかのように、せっせと歩きつづけているのだ。
 その一群の花弁(はなびら)は、のろくなったり、早くなったり、けれども停滞せず、狡猾(こうかつ)に身軽くするする流れてゆく。
 万助橋(まんすけばし)を過ぎ、もう、ここは井の頭公園の裏である。
 私は、なおも流れに沿うて、一心不乱に歩きつづける。
 この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死(できし)なされた。
 川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。
 この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで、恐怖している。
 私は、少し疲れた。
 花びらを追う事を、あきらめて、ゆっくり歩いた。
 たちまち一群の花びらは、流れて遠のき、きらと陽に白く小さく光って見えなくなった。
 私は、意味の無い溜息(ためいき)を、ほっと吐(つ)いて、手のひらで額(ひたい)の汗を拭き払った時、すぐ足もとで、わあ寒い! という叫び声が。


青空文庫、2000年2月10日公開
太宰治「乞食学生」
(底本:「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房、1988(昭和63)年10月25日第1刷発行)
・・・文芸雑誌『若草』に1940(昭和15)年7月号から12月号まで、6回にわたって連載・・・
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/285_15065.html

 冬至の日の山歩クラブお散歩会は井の頭公園からはじまりました。
 われわれはさっそく「松本訓導という優しい先生」を探す探偵団と化しておりました。
「井の頭自然文化園(水生物園)」で優しいお姉さまから教わりました。
 え〜、ヤッホーくん、その前に「動物園にムカシ花子さんが住んでましたよね」とさっそく知ったかぶりを示し、会話を楽しみました。
 え〜、ヤッホーくんのこのブログ、2010年06月13日付け日記「井の頭自然文化園」をお読みください。
 そのあとも何度か、花子さんとの面会を求めてきていました。

 松本先生の碑、ありましたねぇ〜

P1010193.JPG

松本訓導.JPG

松本訓導殉難の碑文

 1919(大正8)年11月20日、東京府麹町区(現在千代田区)永田町小学校全校児童は、井の頭公園に秋の遠足を行った。
 当時の井の頭公園は都心から離れた郊外で来園する人も少なかった。
 従ってこの遠足は文字通りの遠出で、児童達は大変期待していたものである。

 到着後、喜びのあまり遊びに夢中になっていた一児童が足をすべらせて玉川上水の急流に落ちた。
 急を聞いた松本虎雄訓導は、わが身の危険もかえりみず上水に飛び込み児童を救おうとしたが、急流にのまれて殉職した。
 時に33才であった。

 命を捧げて児童を救おうとした尊い行為は、人びとに深い感銘を与えた。
 松本訓導の児童愛に燃えるこの勇敢な行為は、教師の鑑(かがみ)といえるものである。
 これを後世に顕彰するために、殉難のあったこの地に記念碑が建てられたのである。
(東京都の案内板より)


 1919(大正8)年11月、玉川上水の急流に落ちた児童を救おうとして、教員(訓導)であった松本虎雄氏が川に入り命を落とされるという悲しい事件がありました。
 この殉難から100年が経過し開催された「松本訓導殉難100周年講座」に参加しました。

 いのけん一級合格者の会「あか井の」(*)主催の「松本訓導殉難100周年講座」は30名の定員が満席となり、年月を経ても関心の高いトピックであると感じました。

 講座の前半は講演会。
 松本虎雄氏の妹の御子息である松本吉見氏(写真左)から事件当時や反響についてお話を伺いました。
 当時、井の頭公園は開園まもなく人気の遠足地だったこと、公園の外を流れる玉川上水は現在の15倍もの水量があり事故も多く「人喰い川」と呼ばれていたことなど。
 現在の静かでのどかな雰囲気とは全く異なる場所であったようです。

 また、武蔵野大学教授で書写書道を専門とされる廣P裕之先生(写真右)からは、石碑についてご説明いただきました。
「松本訓導殉難碑」は、一流の石材である仙台石を用い、中国の伝統形式に則って岡田起作(本文の書家)、井亀泉(石工)という名人が手掛けられた優れた作品であるとのことです。

 講座の前半(ママ)はフィールドワーク。
 あいにくの雨降りでしたが、松本虎雄氏が殉職された場所に建てられた殉難碑を訪問し、献花を行いました。
 右下の写真は殉難碑の刻字。
「食人川(人喰い川)」とあるのが読めます。
 殉難碑にまつわるさまざまなお話を聞いた後では、これまで何気なく眺めていた碑が少し異なって見えてくる気がします。
「松本訓導殉難碑」は、井の頭公園の西側、万助橋の近くにあります。
 公園を散策されるときに、足を延ばしてみてください。


武蔵野市観光機構公式ブログ、2019年11月25日
「松本訓導殉難100周年講座」に参加しました。
https://blog.musashino-kanko.com/?p=23406

(*)いのけん一級合格者の会「あか井の」

井の頭公園検定(通称:いのけん)とは・・・

「いのけん」は、2012年の井の頭自然文化園開園70周年と2017年の井の頭恩賜公園開園100周年の周年記念事業として、広く市内外のかたがたに、井の頭公園のさまざまな魅力を再発見していただくことを目的とした検定試験です。
 井の頭自然文化園開園の70周年にあたる2012年度に第1回を開催し、井の頭恩賜公園開園100周年にあたる2017年度の第6回まで実施しました(現在、検定試験は終了)。

「あか井の」とは・・・
「いのけん」1級合格者が、学んだ知識を活かそうと、自主的に「あか井の」というグループを結成し、公園の魅力を伝えるガイドやイベントを積極的に実施しています。
 グループ名は、いのけん1級合格者がもらえる「あかいバッジ」と「井の頭」の二つの名前を合わせたものから由来しています。


三鷹市公式サイト[報道発表]2018年8月20日
「Park Guide 井の頭恩賜公園ボランティアガイド」がスタート!
https://www.city.mitaka.lg.jp/c_press/075/075114.html
posted by fom_club at 07:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月23日

太宰治、生誕110年

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 青森県五所川原市出身の文豪、太宰治生誕110周年に合わせ、津軽鉄道(五所川原市)は2019年11月17日、レトロな列車に揺られながら、ウイスキーの炭酸割りを味わえる「ハイボール列車」を運行した。
 石炭ストーブを設けた車内で、県内外の約70人が奥津軽の景色と、洋酒のハイカラな味を楽しんだ。

 列車は津軽五所川原(五所川原市)−津軽中里間(青森県中泊町)を約2時間で往復。
 東京の人気バー「銀座ロックフィッシュ」(中央区銀座7-3-13 ニューギンザビル1号館 7F)の店主間口一就(かずなり)さんが同行し、乗客にハイボールを注いで回った。
 青森県産食材を使った間口さん監修の特製弁当が提供されたほか、石炭ストーブであぶったスルメイカが車内販売された。

 ハイボール列車は、五所川原市の一般社団法人「かなぎ元気村」などでつくる実行委員会が主催。
 津軽鉄道の活性化を目的に企画した。

 「銀座ロックフィッシュ」に通っているという横浜市の会社員杉浦葉子さん(49)は「特製弁当がおいしくてお酒が進んだ。石炭ストーブも暖かいし、良い雰囲気だった」と笑顔で話した。


[写真]
ハイボールで乾杯する乗客

河北新報、2019年11月18日月曜日
銀座のハイボール列車、津軽を行く
太宰にあやかり2時間の旅

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201911/20191118_22001.html

 青森県五所川原市出身の文豪、太宰治の生誕110年を記念した特別企画展「太宰治展−生誕110年−」が同市の立佞武多(たちねぷた)の館で開かれている(2019年6月30日まで)。

 企画展は市や青森県西北地域県民局などによる太宰治生誕110年誘客促進実行委員会の主催。
 市や県近代文学館(青森市)が所蔵する太宰にちなんだ資料約100点を並べた。
 直筆原稿や書簡、太宰が描いた自画像なども展示され、作家以外の側面も感じ取れる。

 金木太宰会の木下巽会長は「書や絵画、直筆原稿などが集まった非常に密度の濃い内容となっている」と話す。

 実行委は企画展を皮切りに、6月19日には生誕記念祭、22〜23日には朗読会やコスプレイベントを盛り込んだ記念フェスティバルと太宰文学映画祭を開催。
 7月6日には芥川賞作家で芸人の又吉直樹さん(*)を招いた講演会も開かれる。


[写真]
太宰が実際に着用していたマント「二重廻(まわ)し」(手前)などの愛用品も並ぶ

河北新報、2019年5月14日火曜日
太宰の魅力 斜陽なし
生誕110年、出身の青森・五所川原で企画展

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201905/20190514_23032.html

(*)又吉直樹(1980年生まれ)

 小栗旬主演の映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」が絶賛公開中だ。
http://ningenshikkaku-movie.com/
https://www.youtube.com/watch?v=h18i2we4T94
https://www.youtube.com/watch?v=CztNDtBdV9U

 世界で活躍する写真家・蜷川実花氏がメガホンをとり、小栗が天才作家・太宰のスキャンダラスな人生を快演。
 太宰を取り囲む女たちを宮沢りえ(太宰の正妻・美知子)、沢尻エリカ(作家志望の愛人・静子)、二階堂ふみ(最後の女・富栄)という豪華な女優陣が演じていることでも話題だ。

 太宰と言えば、ピースの又吉直樹を思い起こす人も多いことだろう。
 芥川賞作家である又吉は、大の太宰マニアで有名。
 スマホの待ち受け画面を太宰にしていた時期があったほど、その作風や生き様に心酔している。

 だからだろうか、又吉と太宰は不思議な縁で結ばれていた。

「例えば、又吉が貧乏芸人だった頃に交際していた女性の名前が“ミチコ”さん。太宰の本妻の美知子さんと同じです。その彼女と初めてキスをした日は、太宰の命日(6月13日)だった。これは狙ったわけではなく、後日知ったそうです」
(芸能記者)

 “作家先生”になった現在は自宅とは別に執筆専門のアパートを借りている又吉だが、売れっ子になるまでは東京都三鷹市にある築60年以上の風呂なしアパートに住んでいた。
 のちに知ったことだが、ここも太宰に所縁ある場所だった。

「三鷹図書館で調べたところ、その旧住所が太宰宅だったのです。アパートの下見に行ったとき、なんとなく近くのお寺に立ち寄って手を合わせたら、そこは太宰が眠る寺だったというコワい偶然もあったそうです」
(同前)

 又吉の祖母は沖縄在住。
 その自宅がテレビCMのロケ場所に使われたことがあった。
 オンエアをテレビで確認すると、設定は太宰の「走れメロス」だった。
 表札も「又吉」が「太宰」に変えられており、否が応でもテンションが高まったという。

 シンクロする2人。
 太宰作品の映像化に次があるのなら、又吉を起用しない手はない?


Asagei Biz、2019年10月16日 6:00
太宰治に心酔するピース・又吉直樹、偶然と呼ぶには怖すぎる文豪との奇縁
(北村ともこ)
https://asagei.biz/excerpt/8318

posted by fom_club at 21:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三鷹事件70年

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

三鷹事件.JPG

 昨日12月22日は冬至。山歩クラブは吉祥寺駅から三鷹駅までの駅から駅お散歩会!
 もちろん、三鷹事件の碑も訪れ、当時のこの国について思いを馳せてきましたよ!

 国鉄三大謀略事件の一つ「三鷹事件」の支援集会が2012年1月19日、東京・武蔵野市の武蔵野公会堂で開かれた。

 三鷹事件は1949年7月、国鉄中央線三鷹駅で無人列車が車庫から暴走して6人が死亡、20人が重軽傷を負った事件。
 警察は、人員整理された当時28歳の竹内景助氏らを逮捕し、検察も電車転覆致死罪などで起訴した。

 当時、一橋大学の学生で偶然現場に遭遇した堀越作治氏(※)は、「電車の下には人の体が見えた。必死に救助していたらMP(米軍警察)に追い出された。日本の警察はMPに言われるままで何もしない情けない姿だった」と、当時の日記を手に紹介した。

『下山事件』(新潮文庫)などの著作がある映画監督の森達也氏も登壇。
「下山事件では国鉄OBが国鉄マンは絶対に線路で自殺しないと言っていた。三鷹事件は一目瞭然。再審請求すら恥ずかしいという低レベル」と話した。

 時代背景について森氏は「三つの国鉄事件で共産党は大打撃を受けた。リベラリズムは後退し米国支配が強化されていった。そんな頃、中曽根康弘が原子力予算を提案し、正力松太郎の『読売新聞』を筆頭に原発をプロパガンダして安全神話を形成した。三鷹事件などの事件がなければ今、日本に54基の原発なんてない。歴史はすべて繋がっている」などと解説した。


週刊金曜日、2012年2月17日 5:47PM
三鷹事件も原発も歴史的に繋がっている
(粟野仁雄・ジャーナリスト、2012年2月3日号)
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2012/02/17/「三鷹事件も原発も歴史的に繋がっている」/

(※)堀越作治(1930年生まれ、著書に『戦後政治裏面史』岩波書店、1998年12月)

 旧国鉄三鷹駅で無人の電車が暴走し、6人が死亡した1949年の「三鷹事件」から70年となった2019年7月15日、東京都三鷹市内で市民グループ「三鷹事件の真相を究明し、語り継ぐ会」の集会が開かれた。
 代表世話人の一人で、当時学生で事件に偶然、遭遇した元新聞記者の堀越作治さん(89)=世田谷区=が現場の様子を語った。

「70年前の今日の午後9時15分。夏時間(サマータイム)だったので、今で言えば8時15分に目の前で事件が起きた」と振り返る堀越さん。
 当時は一橋大生で東京都小平市に住んでおり、友人を新宿に送った帰りに三鷹駅近くのラーメン店に寄るため、二番線ホームに降りた。

「ホームの目の前に引き込み線があり、空っぽの電車が入ってきた。あれ、と思ったらスピードが落ちない。ガラガラ、ガターンという大音響とともに悲鳴が聞こえ、砂ぼこりが舞った。車止めのコンクリートの壁が粉々になり、どうにも手のつけようがない。人の体が動くのが見え『みんなで救おう』と、ひしゃげた連結器を飛び越え、下へ降りた。車輪の下に人はいないかと(探したら)、体に手が触れた。なま温かさにブルブルと震えた」

 間もなく警官と米軍のMP(憲兵)がやってきて「早いな」と不思議に思った。
 片言の英語で「レスキューだ」と伝えたが、「ノーノー、ゲラウェイ(立ち去れ)」「アウト」と追い出されたという。

 堀越さんは大学卒業後、朝日新聞記者となり、政治部で岸信介、佐藤栄作両元首相らを担当した。
 事件の単独犯とされた元運転士の竹内景助元死刑囚は無実を訴えながら病死し、長男が東京高裁に再審請求中だが、堀越さんは「当時の吉田茂政権は、日本共産党の仕業と決めてかかっていた」と指摘。

「今もMPに追い払われたことが、頭を去らない。どうみても臭い」

 米軍や政権の思惑が事件に関連していたのではないかと考え、今も資料収集を続けている。 

<三鷹事件>
 1949年7月15日夜、旧国鉄三鷹駅の車庫から無人電車が暴走し26人が死傷。捜査当局は、国鉄の人員整理に反対する共産党の組織的犯行とし、国鉄組合員ら10人を逮捕。
 1950年の東京地裁判決は、検察側が主張する共同謀議を「実体のない空中楼閣」と退け、共産党員9人を無罪とする一方、非党員の竹内元死刑囚の単独犯として無期懲役を言い渡した。控訴審で死刑、最高裁も死刑を維持した。
 事件当時は中国の内戦で中国共産党の勝利が決定的となり、日本でも共産党の勢力が伸びていた時期で、共産党の弱体化を狙った連合国軍総司令部(GHQ)が関与した説もある(※2)。


[写真]
70年前の三鷹事件当時、三鷹駅のホームにいて目撃した様子を語る堀越作治さん(右)=15日、東京都三鷹市で

東京新聞・朝刊、2019年7月17日
三鷹事件70年
「語り継ぐ会」
米兵・警官に救出阻まれ
目撃者「どうみても臭い」

(花井勝規)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201907/CK2019071702000127.html

(※2)B級記者どん・わんたろうが「ちょっと吼えてみました」

 下山、三鷹、松川――。この3つの言葉を聞いて何のことかすぐに答えられる方は、もはやそう多くはないのかもしれない。

 敗戦間もない1949(昭和24)年に、日本国有鉄道(国鉄、今のJR)をめぐって相次いで起きた「鉄道三大事件」である。
 学校の授業で戦後のことを教わる機会は少ないし、語り継ぐ当事者たちが少なくなっている事情もあるから、世の記憶から遠ざかっていくのもやむを得まい。

 3つの事件の中で、容疑者の有罪が確定したのは三鷹事件だけだった。
 しかも、起訴された10人のうち9人が無罪になり、有罪の1人は死刑、という異例の展開をたどった。
 有罪とされた竹内景助・元死刑囚は冤罪を訴え再審請求したが、東京高裁が予備審査に入った段階の1967年、脳腫瘍のため拘置所で死去した。
 45歳だった。

 竹内元死刑囚の長男が改めて第2次再審を申し立てたのは、死後45年近くが経った昨年2011年11月のことだ。
 マスコミの扱いは地味だったので、あまり知られていないのではないか。
 2012年1月19日に東京・吉祥寺で開かれた支援集会で関係者の話を聞き、事件の問題点や再審請求のポイント、今日に通じる教訓を学んできた。

 三鷹事件とは、どんな事件だったのだろう。

 1949年7月15日の夜、東京の国鉄三鷹駅構内で、車庫から無人の電車が突然、暴走を始める。
 7両編成の電車は脱線し、民家や交番に衝突して転覆。
 利用客や市民がはねられ、死者6人、負傷者20人の惨事となった。
 当時、国鉄では大規模な人員整理が進められており、これに反対していた国鉄労働組合の組合員10人が電車転覆致死罪で逮捕・起訴された。

 1審の東京地裁は、10人の中で唯一、共産党員でなかった竹内元死刑囚の単独犯行と断じて無期懲役を言い渡し、9人を無罪にした。
 2審の東京高裁も単独犯行を支持したうえで、死刑に。
 最高裁は1955年、口頭弁論を開かないまま8対7で上告を棄却して、刑が確定した。
 再審請求も、本人の死亡を理由に東京高裁が手続き終了を決定。
 以後40年余、三鷹事件が社会の関心を集めることはなかった。

 集会で報告した弁護団によると、そもそも単独犯行だったのかどうか、現場の状況から疑問だという。
 判決では、運転士だった竹内元死刑囚は運転台の速度制御装置を駅構内で拾ってきた針金で開錠し、そのハンドルを紙ひもで固定するなどの細工を施したうえで、発車直前に飛び降りたとされている。

 再審請求にあたって、暴走した電車の構造や破壊状況から「単独犯行は不可能」と分析する鉄道工学の専門家の鑑定が得られた。
 また、パンタグラフは7両のうち先頭車両だけ上げたと認定されたが、先頭車両の操作だけでは上げられないはずの「2両目のパンタグラフも上がっていた」との目撃者がいるそうだ。

 竹内元死刑囚のアリバイも、もとの裁判では十分に検証されなかったらしい。
 当時、竹内元死刑囚は電車区の共同浴場に入っていて、事件の影響で停電した時に会話をしたという同僚の証言があった。
 一方で「事件現場付近で竹内さんを見た」とする目撃者もいたが、この晩は月がなかったことがわかり、当時なら真っ暗で信用できないうえ、「その目撃者から『警察に言わされた』と聞いた」との証言もあるという。

 何より、竹内元死刑囚の自白は変転が激しい。
 逮捕当初は全面否認だったのが、捜査が進むにつれて単独犯行に、そして共同犯行に変わる。
 このことだけでも自白には信用性が欠けており、刑事事件に詳しい弁護士からすると「むしろ冤罪の証明」だそうだ。
 竹内元死刑囚の書簡の記述から、弁護団は「長期にわたる脅迫的な取り調べがあった」とみている。
 自白偏重による冤罪事件に共通する現象ですね。
 ちなみに、竹内元死刑囚の公判での供述も二転三転し、上告して以降は一貫して無罪を訴え続けている。

 再審請求にあたり弁護団は、こうした主張を裏付けるべく、上述した鑑定書や証言を中心に28点を新証拠として東京高裁に提出した。
 今後、種々の目撃者の捜査段階での供述調書や、電車の装置の鑑識報告書などについて、検察に証拠開示を求めていく方針だ。

 三鷹事件を語るうえで、時代の背景も無視できない。
 事件発生は朝鮮戦争が勃発する前年のこと。
 東西冷戦を受けて占領下の国内でも、勢力を伸ばしつつあった共産党への圧力が強まっていた。
 連合国軍総司令部(GHQ)の謀略による事件だとする説が、根強く語られるゆえんである。

 検察側は共産党員の共同犯行にしようと画策したが、1審判決が「空中楼閣」と批判したように、あまりに無理な筋書きだったため維持できなくなった。
 穿った見方かもしれないが、党員でなかった竹内元死刑囚が途中で単独犯行を供述したこともあり、全員が無罪になることだけは避けたい検察側、まずは党員が関与していないことを証明したい共産党側の双方にとって好都合な落としどころだった、とは言えまいか。

 党員だった他の9被告に比べて、竹内元死刑囚は必ずしも十分な弁護を受けられなかったとの指摘もある。
 これまで再審請求の動きがなかったのも、竹内元死刑囚が最後に信頼を寄せた弁護士が上告審の途中で亡くなって以降、熱心に取り組む弁護士が現れなかったからのようだ。

 竹内元死刑囚の長男は再審請求に際して、「母親が亡くなった後は、社会から隠れるようにして暮らすしかなく、父親の無罪を信じながら、再審を申し立てることなど、とても出来ませんでした」とコメントしている。
 ようやく弁護団が編成され、支援の輪も着実に広がってきた。
 事件発生から62年が経つだけに、真相解明には多くの壁が立ちはだかっているに違いないが、これが最後のチャンスであろうことも、また事実だ。
 遺族の気持ちを、そして竹内元死刑囚の遺志を汲んで、十分な審理が実現するように望みたい。

 もうひとつ。
 集会で講演した映画監督・作家の森達也さんは「今の状況へのつながりがとても深い事件だ」と読み解いていた。

 人間が「群れ」をつくると、一つの方向へみんなで動きながら、同調圧力を強める。
 外部に敵を見つけるとともに、内部で異物を探し攻撃する。
 その代表が「犯罪者」である。
 三鷹事件で権力側が共産党に担わせた役割は、それをマスコミが煽る点を含めて、オウム真理教事件以降の今日の流れに共通する、というのだ。
 再審の動きにとどまらず、さまざまな教訓を学ぶべき事件なのだろう。

<1949年>
 下山、三鷹、松川の「三大謀略事件」が相次いで起こった1949年は、1月の衆院選で共産党が3議席から45議席へと大躍進を遂げた年。
 しかし、事件への関与を疑われた共産党のダメージは大きく、3年後に行なわれた衆院選挙では、共産党公認候補の全員が落選するという結果に。
 3つの事件の真相は今も謎とされたままですが、「同調圧力の危険性」という森達也さんの指摘、ぜひ頭に留めておきたい。


マガジン9、2012-01-25 up
62年前に無人電車を暴走させたのは誰だ?
〜「三鷹事件」の雪冤は果たせるか

(B級記者 どん・わんたろう)
http://www.magazine9.jp/don/120125/

posted by fom_club at 11:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月22日

三鷹事件再審請求棄却

 あんなこと、こんなこと、あったとさ、忘れはしないよ、時が流れたって、

 2019年7月31日、裁判所から帰社してこの原稿を書いている。午後2時、三鷹事件の再審請求について東京高裁が決定をくだした。裁判所前には炎天下の中で1時間前から支援者が大勢つめかけて決定が出るのを待っていたが、弁護士が掲げたのは「不当決定」の文字。再審請求は棄却されたのだった。

 私が住んでいる三鷹の地元で起きた事件ということで、7年前に再審請求が起こされた時点から集会などには毎回参加してきた。間もなく決定が出ると言われたこの1カ月ほどは、再審弁護団団長の高見澤昭治弁護士ともいろいろ接してきたし、「無実の死刑囚」竹内景助さんの長男にも話を聞いた。高見澤さんはこの7年間、ほかの仕事を入れずにこの再審請求一筋に仕事をしてきたし、竹内さんの長男・健一郎さんは高齢で重い病気にもかかっている。

 事件が起きてから親子2代にわたり、70年間も竹内景助さんの無実を明らかにするために闘ってきた健一郎さんや、今回の再審請求に尽力してきた人たちの無念さを思うと、裁判所前で弁護団の話を聞きながら、本当に重く悲しい気持ちになった。

 高見澤弁護士は決定をすぐに再審請求人である健一郎さんに伝えたところ、今後も負けずにがんばるという返事をもらったという。しかし、後述するが、これだけいろいろな鑑定を行い、新証拠を提出したのに退けられたというのは、再審をめぐるハードルがかなり高いことを見せつけられたわけで、このところの「再審をめぐる逆流」の動きとともに気になるところだ。再審をめぐる流れを前に進めるために法的整備などを訴えていこうという動きも高まる中で、冷水を浴びせるようなこうした動きには注意しなければならないと思う。

 三鷹事件は、戦後の三大謀略事件のひとつと言われるものだ。他の下山事件、松川事件も真相は闇に覆われたままだが、松川事件など冤罪で逮捕された元被告らは全員無罪になっている。この三鷹事件の竹内景助元死刑囚のみが、当時の自白偏重の司法状況の中で自白を強要され、しかも第1次再審請求の過程で本人が獄死してしまうなど、不幸な状況が重なっていまだに無罪が勝ち取れないままになっているのだ。

 70年にも及ぶ、親子2代の苦しみについて、本当に裁判官は理解しているのかと憤りさえ感じるが、月刊『創』次号9月号(8月7日発売)のためにこの1カ月ほど取材してきた内容をここでお伝えしたい。

70年前の1949年に起きた三鷹事件とは

 7月15日、三鷹市の禅林寺を高見澤昭治弁護士が訪れるのに同行した。その寺の一角に「三鷹事件遭難犠牲者慰霊塔」がある。高見澤さんはそこを訪れたのだった。ちょうど70年前に、三鷹駅で突然電車が暴走し、6名が死亡、20名が重軽傷を負うという、いわゆる三鷹事件が起きた、その日だった。

 三鷹事件が起きた1949年には、下山事件、松川事件と、当時の国鉄に関わる大事件が相次ぎ、戦後の三大謀略事件とも言われている。いずれも真相が明らかになっていないのだが、松川事件では逮捕された者全員が無罪になっている。三鷹事件も逮捕された10名のうち9名は無罪になったのだが、その残る一人には1955年、死刑が確定している。その竹内景助元死刑囚は1967年、脳腫瘍で獄死してしまうのだが、遺族によって再審請求が行われてきた。高見澤さんは、その再審弁護団の団長だ。

 逮捕された10名のうち9名は共産党員で、三大謀略事件とは国鉄に影響力を持っていた共産党を弾圧するために行われたものと言われているのだが、党員でなかった竹内さんだけが有罪となった。厳しい取り調べを受けて、供述を単独犯行、共同犯行、無実と二転三転させ、一審では無期懲役、二審では死刑判決が出された。その後は一貫して無罪を主張するのだが、最高裁で上告棄却。死刑が確定してしまう。

 最高裁での判決は裁判官の間でも意見が分かれ、8対7で決定した。当時は新憲法が制定され、新刑事訴訟法が施行されたにもかかわらず、自白偏重は変わっていなかった。死刑確定には批判的な世論も多く、すぐに再審請求を申し立てたが、10年も放置され、ようやく裁判官から再審のために本人から意見を聴取するという連絡があった矢先に竹内さんは獄死してしまう。冤罪を晴らそうとした志なかばでの無念の死だった。その遺志を継ごうとしていた妻も、その後1984年に死去している。

竹内景助さんの長男、健一郎さんに話を聞いた 

 三鷹市に事務所兼自宅があった高見澤さんが、三鷹事件に関心を持つようになったのは2008年、地元で開催された集会に参加したのがきっかけだった。そして2009年、『無実の死刑囚 三鷹事件 竹内景助』(日本評論社)という著書を上梓。事件から60年目の7月15日に出版されたその本を、竹内景助さんの遺族に送本。そして長男の健一郎さんを埼玉県の自宅に訪ねたのだった。著書をまとめる段階から、この事件については遺族を請求人として再審請求を起こすべきと考えていたのだった。

 竹内景助さんが存命中の1956年、第1次再審請求の手続きが行われていた。当時は、竹内さんの無実を訴える署名が80万筆も集まるなどしていたのだが、請求人の死去という不幸な事態によってそれは実現しないままになってしまったのだった。

 新たな再審請求は、高見澤さんが竹内健一郎さんと接触したことによって2011年に動き出した。ちなみに私自身、その再審請求が起こされたことを報道で知って、支援集会などに参加するようになった。三鷹市在住である私も、地元に住む者として関心を持たないわけにはいかなかったのだ。

 さて禅林寺を訪れた翌日の7月16日、高見澤さんの案内で竹内健一郎さんの自宅を訪れた。健一郎さんは76歳と高齢で、しかもがんが発見されて肺を摘出するなど健康状態は思うようではない。

 その自宅を高見澤さんが初めて訪ねた時のことを健一郎さんはこう語った。

「おやじの無実の罪を晴らすために何とかしないといけないと、いつも思っていたのですが、そこに弁護士さんが訪ねてきてくれた。うれしかったですね。最後の望みだと思いました」

 健一郎さんの妻・光子さんは、国民救援会のメンバーとして竹内景助さんの支援運動に関わっていた女性だった。しかし、高見澤さんが訪れた時は病に侵され寝たきりの状態だった。二度目に高見澤さんが訪れた時には、病床に伏したままの光子さんも再審請求への足がかりができたことをとても喜んでいたという。ただ残念なことに、次に連絡をとった時には、健一郎さんから、妻が亡くなったと聞かされたという。

再審請求にあたって読み上げられたメッセージ

 第2次再審請求が起こされた2011年11月10日には都内で集会が開催され、私も参加した。そして集会の最後に、健一郎さんのこういうメッセージが披露された。

《三鷹事件は私が小学校に入学した年の7月に起りました。父親は国鉄職員であることを誇りにして、私の入学式にも国鉄の帽子をかぶって学校まで駆けつけてくれ、校庭での集合写真に写っています。父はいつも私たち子どもたちを可愛がり、出勤前によく畑に連れて行ってくれたことなどが、今でも懐しく思い出されます。
 その父親が、どういうわけか、国鉄を解雇されてしまいました。父親は生真面目で、直ぐに就職先を探しながら、家族を養うためにキャンデー売りなどをしていました。ところが事件から半月後、突然に警察に連れて行かれ、それ以降、一度も家に帰ることはなく、死刑判決を受けたまま、45歳の若さで獄死してしまいました。
 そのため、私たち家族は、生活に困ったばかりか、社会の偏見と差別にあい、文字通り塗炭の苦しみを味わいました。私たちは、父親のような家族思いで子煩悩なものが三鷹事件を起こすはずがないと、家族全員、父親の無実を信じ、苦しい生活の中、母親は父が死んでからもあちこちに出向いて一生懸命訴え、私もそれに同行したことも何度もありました。
 しかし、死刑囚の子どもだということで、就職や結婚にも言葉では言い尽くせないさまざまな困難を経験し、母親がなくなった後は、社会から隠れるようにして暮らすしかなく、父親の無実を信じながら、再審を申し立てることなど、とても出来ませんでした。
 このたび、父親がなくなってから45年を前にして、弁護団の先生方のお力添えで、ようやく再審を申し立てることになりました。こんなに有難いことはありません。何も悪いことをしていないのに、死刑という最も重い罪を着せられた本人はもとより、最後まで父を愛していた母親も、そして無実を信じて私と結婚してくれた妻も、草葉の陰で喜んでくれていると思います。(中略)
 私も父親の冤罪を晴らすために最後まで頑張りますので、皆さん方には、これからもご支援ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。
平成23年11月10日 合掌》


 健康上の問題ももちろんあるが、健一郎さんが集会に参加できない理由がもうひとつあった。再審請求にあたって当初、テレビなどの取材に応じた健一郎さんに対して、遺族の間で戸惑いや反発が起きたのだった。

 竹内景助さんには女性2人、男性3人の5人の子どもがいた。景助さんが逮捕され無念の死を遂げた後も、妻の政さんは子どもたちを育てながら景助さんの無実を訴え続けてきた。その政さんが1984年に亡くなって以降、景助さんの無実の罪を晴らす取り組みは一時中断することになった。

 健一郎さんの兄弟姉妹は、それぞれ自分の人生を歩み、子どもができるなどしたのだが、景助さんのことは敢えて話さないできたらしい。それが健一郎さんがテレビに登場して話し始めたことで、甥や姪が初めて知るところとなり、戸惑いや反発の声が上がったらしい。

 死刑囚の子どもだということで世間の偏見にさらされるといったことは健一郎さん自身経験してきたから、その戸惑いも理解できたのだろう。健一郎さんは、その後しばらくマスコミの取材にも応じず、支援集会にも顔を出すことはなかった。今回、いろいろなマスコミの取材に応じているのは、再審の決定が近づいたためだ。

 三鷹事件の再審については、今年も竹内景助さんの命日である1月18日には集会が開かれたし、いろいろな支援活動が行われてきた。そういう集会に健一郎さんが顔を出せないというのは、この問題の複雑さを物語っていた。

父親の逮捕後、家族はどんな状況だったのか

 1949年の事件の後に竹内景助さんが逮捕されて以降、残された6人の家族は、生活していくだけでも大変な状況に追い込まれた。健一郎さんがこう語る。

「あんな優しいおやじが事件を起こすはずがないと家族は皆信じていました。でも家の前を通りかかった人がこちらを指さしているのを見て、ああまたおやじのことを話しているんだなと思うことはたびたびでした。子ども心にもそういうことはわかりましたよ」

 ただ近所の人たちは、竹内家を気遣ってくれたという。

「おはぎを作ったから食べてくれとか近所の人たちはよくしてくれました。なかには学校にまで食べ物を持ってきてくれる人もいました。当時、生活保護は受けていましたが、それだけではとても生活できないので、新聞配達や牛乳配達、リヤカーの後押しなど、いろいろなアルバイトをしました。おやじに対する支援でおふくろも大変でしたが、おやじの裁判がどうなっているかについては、私は新聞配達をしていたために新聞で見て知っていました」

 健一郎さんは中学卒業後、働きに出るのだが、映写技師やトラック運転手など仕事を転々とする。

「大きな会社に就職する時は履歴書におやじの名前を書いて提出するから、たぶんそれで落とされた会社もあったと思います」

再審請求に提出した「新証拠」とは… 

 今回の再審請求で、弁護団はどういう新証拠を提出したのか。

 まず第一の大きなポイントは曽根悟・東大名誉教授の鑑定書だ。高見澤さんがこう説明する。

「曽根教授は交通工学の第一人者で、電気関係が専門です。その先生が暴走した電車のパンタグラフについて明確な鑑定をしてくれました。
 実は、三鷹事件が起きた時、構内の合図所という高いところから状況を見ていた人が『暴走して行く時に、目の前でスパークが続けて二度した』と法廷で証言しています。そのことからも、2つの車両のパンタグラフが上がっていたことは間違いないのですが、確定判決では先頭車のパンタグラフしか上がっていなくて、2つ目の車両のパンタグラフは衝突したときに何かに引っかかって上がったのだということになっているのです。
 これは目撃証言を無視しており、おかしいなと思ったのです。2つ目のパンタグラフを上げるのには、犯行に関わった者がもう一人いないといけない。2つ目のパンタグラフが上がっていたことを物理的に、電気的に証明できれば、この確定判決はひっくり返せるのではないかと思いました。正確に申し上げるとパンタグラフでも一斉に上げるのだったら前の運転席でもできる。ところが後ろの方にもパンタグラフがあるのですが、それは上がっていない。確定判決の通りだとすると2つのパンタグラフを先頭車の運転席での操作だけでは上げることはできない。2つのパンダグラフが走行中に上がっていたことを、曽根先生は現場検証の際に撮られた写真を解析し、さらに独自の検証データを照合して鑑定したのです。
 その鑑定に対して検察側は、あくまでもパンタグラフは1つしか上がっておらず、もう1つは衝突の時に上がったものだと反論を行いました。それに対して私たちもさらに反論し、衝突後の変形の仕方から、パンタグラフは確実に衝突前に上がっていたという主張を行いました」

 それと関連して第2に、前照灯と手ブレーキに関する証拠だ。

「暴走した後ろの車両の前照灯が煌々と付いていた。これも、停止させた時に前照灯をつけたまま、パンダグラフを下げたということであれば別ですが、後ろの前照灯を付けるのには最後尾の車両の運転席に行ってスイッチを入れなければならないことがわかりました。これらは、いずれも竹内死刑囚が単独で行ったという確定判決と矛盾するわけです。
 そもそも裁判の時に、前照灯は消しておいたはずだという証言はなされていたのですが、検察がそうでないと言うものだから、私たちも当時の規定がどうなっていたかなど、いろいろな資料を集めて提出しました。前照灯を消して手ブレーキがかかっていたはずだというのが私たちの主張です」

 以上の争点は裁判の時にも言及はされていたが、今回の再審にあたって新たな鑑定書が提出された。三鷹事件は、物証が少なく主に自白によって有罪とされてしまったのが特徴だが、その自白も二転三転していた。そしてそれを補強するものとして検察側が提出していたのが目撃証言だった。これについても再審弁護団はいろいろな鑑定書を提出している。

検察の証拠開示でわかったことも

「確定判決では目撃証人がいたことになっています。事件当時、竹内さんが正門のところを家の方に歩いていくのを見たという、これが自白以外で唯一の補強証拠なのです。ただし、目撃者は5メートル離れて竹内景助さんとわかったと言っているのですが、天文台に弁護士照会をしたところ、事件当時、まだ月は出ていなかったことがわかりました。目撃者の法廷での証言もしどろもどろで、同人は知人に『警察にそういうように言わされた』と語っている。再審請求にあたっては、その天文台の『22時04分まで月は出ていなかった』という回答書と知人の聴取書も新証拠として提出しました。
 さらに心理学が専門の日大の厳島行雄教授に依頼して、実際に学生を使って当時と同じ状況で竹内景助さんを認識できたのかという実験をやってもらいました。実験では目撃証言のような状況で竹内さんを認識するのは不可能ではないかという結論が出ています。
 しかも街灯の明るさが100ワットとされていたのですが、開示された証拠によって実は60ワットだったことがわかりました。検察はそれを隠していたわけで、そのことも私たちは昨年12月27日に提出した最終意見書で指摘しました」

 この再審請求の過程でも、検察側が持っていた新たな証拠が幾つも開示されたのだが、例えばそれによって新たな事実がわかったのは、竹内景助さんのアリバイに関する事柄だった。もともと竹内さんが存命中に起こした第1次再審請求では、事件当時、竹内さんは寮の風呂に入っており、衝突によって停電が起き、そこにいたのが誰だったかなど同僚たちの証言が新証拠として提出されていた。しかし、今回の再審で開示された証拠によって、状況は異なることがわかった。

「新たに開示された資料によると、衝突の起きた夜の9時23分に電気がついたり消えたりしたんです。そして9時58分に今度は長い停電があった。竹内さんは最初の再審請求の時に、その停電の時に風呂に入っていて多くの同僚が見ていたとしてアリバイを主張したのです。ところが実はそれは後者の停電の時の話で、最初の衝突の時には彼は自宅にいたらしい。それは政さんが第1審の法廷で、衝突の時に夫は家にいて布団に入っていた、その後電気がついたので風呂に行ったと証言していたのです。それが正しかったのですね。だから私たちはその供述調書があるはずだと何度も検察側に要求しました。その結果、政さんと景助さんの初期供述調書が開示されたのです。
 衝突時に自宅にいたという調書をどう扱うか、それまで主張していた風呂のアリバイの話を変更するのか、弁護団でも大きな議論になりました。でも、初期供述でそう言っていたということは、竹内夫妻が口裏合わせなどやっていなかったということだから、真実性が高いことの証明ではないかと私などは主張しました。結果的に、第1次再審で主張された風呂場でのアリバイの話は変更したのです」

不幸な偶然も重なった 

 そのほか、後になって考えると、自白通りの方法での犯行は不可能であることを立証できる箇所はいろいろあったと思われるのだが、裁判では弁護側によってそういう主張はほとんどなされていない。当時は竹内さんが厳しい取り調べによって「自分がやった」と供述してしまっていたため、無罪ではないかという前提での検証がなされていなかった。

 無実の竹内景助さんの冤罪が今日まで晴らされないままだったのは、不幸な偶然も重なっている、と高見澤さんは語る。

「1955年に竹内さんの上告が棄却され死刑が確定してしまうんですが、実はその時はまだ松川事件が審理中で、その後被告全員が無罪となる判決が出たのです。恐らく竹内さんの裁判が続いていたら松川事件の判決が影響したはずだと思うのです。弁護団長だった布施辰治弁護士が最高裁の途中で亡くなってしまったのも不幸でしたね。
 そしてそもそも竹内さん自身が第1次再審の過程で亡くなってしまう。彼は面会に行った妻の政さんに『悔しいよ』と言って亡くなっているのですが、本当に無念だったと思います」

 悲惨な事件から今年でちょうど70年。今回の棄却決定によって真相解明はまたしばらく遠のくことになった。この再審は、ある意味では戦後の歴史を見直し、新しい問題を提起することにもつながる。重たい判断が迫られる事件なのだ。

 再審請求がなされた直後の2011年に高見澤さんにインタビューした記事を『創』は2012年1月号に掲載しているのだが、その中でこう述べられていた。

「事件の起きた1949年は、中国では共産党政府ができ、朝鮮戦争はいつ勃発するかわからないという状況ですから、日本を占領していた連合軍としては国鉄がストライキで止まるようなことがあっては全体の作戦行動に影響する。労働組合がストライキを起こすなどして、そういうことが絶対に起こらないようにと考えていたことは間違いありません。ところが、その年の総選挙で共産党が4議席から35議席に大躍進しており、日本政府も共産党を何とか非合法化して、押さえ込みたいという意図があったと思います。
 それが端的に現れているのが事件翌日7月16日の朝刊に載った吉田茂首相の声明文です。待ってましたとばかりに事件の背後に共産党や労働組合がいるように匂わせたすごい内容の文章です。
 この事件が謀略事件であることは間違いないのですが、そのあたりの真相については、今でも闇に葬られたままです。再審ではそういうことは論点にはなりませんが、再審請求書では背景として簡単に触れました。
 例えば、事件当時、共産党が暴走事故を起こすというような、共産党の秘密指令のような形をとった怪文書、怪情報が出回っており、それも裁判所に証拠として提出されています。
 それから警察内部では、事件直前に三鷹駅で事故が起きるという電話連絡が来ています。さらに、事故の直前に三鷹駅脇にジープが止まっていたとか、事故直後にMPが来て見物人を追い出し、日本側の捜査に待ったをかけたとか、証拠がありますので、そういうことも再審請求書に書いておきました。
 そうした状況からしても、竹内景助さんが思いつきで、単独でできるような犯罪ではない。組織的な何かが動いて、この事件は起こったんだということを知ってもらう必要があると思ったのです。下山、三鷹、松川と三大謀略事件とよく言われるのですが、冤罪であることを明らかにするためには、そうした社会状況や時代背景を、裁判所も正確に理解する必要があるだろうと思います」

 竹内健一郎さんも弁護団も、今回の決定にめげずに闘いを続けることは明らかだ。真実が1日も早く明らかになってほしいと強く思う。

 なおこの再審をめぐる資料などは「三鷹事件再審を支援する会」のホームページに公開されている。

 関心ある方はご覧いただきたい。
http://www.maroon.dti.ne.jp/mitaka-saishin/

[写真-1]
2019年7月31日午後2時過ぎ、裁判所前にて

[写真-2]
裁判所前で報告をする再審弁護団の高見澤弁護士

[写真-3]
三鷹市の禅林寺にある慰霊塔を訪れた高見澤弁護士

[写真-4]
父親の思い出を語る竹内景助さんの長男、健一郎さん

[写真-5]
2019年1月18日、竹内景助さんの命日に開かれた集会

Yahoo News Japan、
三鷹事件再審請求棄却と「無実の死刑囚」
竹内景助さんの長男が語った70年に及ぶ闘い

(篠田博之 、月刊『創』編集長)
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20190731-00136471/

posted by fom_club at 08:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする