2020年09月06日

早川タダノリ『「日本スゴイ」のディストピア』

嫌韓本と日本礼賛本の氾濫

嫌韓や愛国心高揚を掲げた日本を自画自賛する新書等が、本屋の目立つ場所に平積みされ始めたのはいつ頃からだろうか。現政権を担う内閣総理大臣、安倍晋三首相が「美しい日本」、「一億総活躍社会」等、きな臭い言葉を使い始めたことは、おそらく、嫌韓本や日本礼賛本の氾濫の結果だと思われる。安倍晋三首相をあげつらうのならば、むしろ、「アベノミクス」という経済的な造語を揶揄するべきかもしれない。実際、マイノリティ排斥と自国礼賛は、経済的な問題に起因するからだ。

経済的に凋落し始めた国家は革新なき保守に向かい、閉塞的で自国礼賛的言説によって、現実から逃避し始める傾向があることは歴史が証明している。もちろん、自国礼賛、つまり、ナショナリズムの高揚とはナルシシズムの慰撫とも関連しているだろう。

早川タダノリ著『「日本スゴイ」のディストピア―戦時下自画自賛の系譜』(青弓社、2016年6月)は、昭和のはじまりから大東亜戦争敗戦までの間に出版された日本礼賛本、それも皇国史観を背景にした大東亜戦時下の「トンデモなく日本スゴイ本」が、丹念な資料蒐集によって集約された本である。思わず笑ってしまいそうになるくだらない「トンデモ本」から(実際には笑えないのだが)、天皇を頂点とした国体下での臣⺠のあるべき姿を大真面目に論じた「トンデモ本」まで、約50冊の「トンデモなく日本スゴイ本」が夥しい参考文献とともに紹介されている。それらすべてをここで列挙することはできないが、私がこの本の中で特に目についた箇所は、著者自身も本書で述べているように、現代の日本において尚残存しているものも多い。

『「日本スゴイ」のディストピア』からの一部抜粋

『「日本スゴイ」のディストピア』で紹介されている「日本スゴイ本」の多くは、基本的に、中国大陸侵略と英米との全面戦争としての大東亜戦時下国家総動員体制によって統制された日本国⺠に「わたしたちは正しく、過酷な忍耐の後には輝かしき栄光が待っている」という、まったく根拠のない観念的希求を植え付ける意図に端を発しているように思われる。以下、数冊の「トンデモ本」と著者引用部分を挙げてみたい。

竹下直之『師魂と士魂』(聖紀書房、1943〔昭和18〕年)

師たるものの魂、師魂はすなはち士たるものの魂、士魂に相通ずるものでなければならぬ。(略)まさにガダルカナルの転進について深く思ひを致すべきの時である。一万六千余柱といふ将兵の英霊を弔うて、引続く忠誠勇武な士をまもり育てることこそ、われらの聖戦である。(9ページ)

関⻄急行鉄道パンフレット「参宮の栞」(1942〔昭和17〕年4月)

我が大日本帝国をしろしめし給ふ万世一系の天皇の御先祖、天照皇大御神をお祀りしてあるお杜で、三種の神器のうちの八咫御鏡をその御霊代として奉安してある事は皆さん既に御存じでせう。このお杜の尊さは申すも畏れ多い極みでありまして。

原了『決戦下の⻘少年』(協和書房、一九四三年〔昭和十八年〕)

「大東亜戦争」開始による戦時増産のかけ声のもと、軍需産業に対して労働力が重点的に配分され、徴用工をはじめとした工場労働者が男女問わず一挙に増大した。すでに二十歳代の男性労働者の多くが応召して出征しつつあったなかで、1943(昭和18)年に国⺠徴用令と総動員法が改正され、未熟練労働者が一気に増えたのである。(略)この1943(昭和18)年をピークに、若年労働者向けの自己啓発書が多数出版されるようになった。(略)ところがこれらの書籍は、コレ一冊読めばよい日本人=よい労働者になれることを目的として書かれていたために、〈皇国思想+勤労道徳+アメリカ・イギリス憎悪+日本スゴイ〉がワンセットになったきわめて濃厚な総力戦体制動員マニュアルになっているのだった。(『「日本スゴイ」のディストピア』から引用)

《君臣同祖》
我が国では、皇室は国⺠総本家であらせられ、臣⺠はその分家である。かくて次ぎ次ぎに祖先を求めて歴史を遡れば、天皇も臣⺠も、共に同一祖先である天照大神に到達する。我が日本人はみな神の子孫で、神の血が我等の体内に流れてゐる。(29ページ)

《日本に生れた喜び》
我等はかかる立派な国に生れ、君臣一体となって、祖先伝来の皇国を護り、更に発展せしめようとしてゐる。何たる生き甲斐のあることであらう。(35ページ)

《天業翼賛》
日本人と生れた者は、それぞれの職務を通じて天皇陛下の御仕事の一部分を、お輔け申し上げてゐる。官吏は政治で、教育者は子弟教育で、実業家は国富増強で、商人は品物の売買で、農夫は食糧増産で、我等工員は生産増強で、みな大君の御為に働いているのである。(37ページ)

難波田春夫『日本的勤労観̶̶産業報国運動の理論的基礎付けの試み』(〔「産報理論叢書」第一巻〕、大日本産業報国会、1942〔昭和17〕年)

「日本的勤労観」の確立を求める産業報国会中央からの要請(序言によれば1941〔昭和16〕年夏に応えるかたちで、当時東京帝国大学経済学部助教授だった難波田春夫が書き下ろしたのがこの『日本的勤労観』だ。(略)一方で「ナチス的労働観」では、⺠族共同体を最高の理念とし、「経済は⺠族のために奉仕」するものでなくてはならず、資本と労働は相争うものだが、政治の力で統制して「その対立を止めて、生産増大に努力し、⺠族の手段としてみづからの利益を⺠族のために犠牲としなければならない」。難波田は「⺠族のためには資本や労働の私益が犠牲とならねばならぬことを、ナチスは「公益は私益に優先す」という言葉を以てあらはした」と記している。難波田によれば、経済の目的を⺠族共同体の実現という点においたナチス的労働観には格段の進歩が認められるが、しかしいずれも資本と労働との分離を前提としているかぎりで限界があるという。労働者は、労働者をやめることができても、⺠族の一員であることをやめることはできない。ナチスは資本と労働の対立を前提としながらも⺠族共同体の建設のためにその対立を超えるべきことを説くが、それでは不十分である。⺠族こそが経済の存在を根本的に規定するものであり、この認識に立つことによってはじめて、「自由主義的・マルクス主義的労働観」と「ナチス的労働観」を超えることができる䣍ということなのだそうだ。(『「日本スゴイ」のディストピア』から引用)

小島徳弥『働く女性の力』(国⺠教育会出版部、1942〔昭和17〕年)

《心の隙をつくるな》
近頃は次第にさういふ馬鹿な男もすくなくなつたやうですが、一時よく電車の中などで、若い女性にいたづらをする男がありました。気の弱い女学生などは、そのために学校へ通ふのを厭がるやうなことさへあると聞いてゐました。神聖な大学の学生でありながら、又、立派な紳士の仮面を冠つて、さういふ下劣きはまるいたづらをする男子には、大いに反省を促さねばならないと思ひますが、また、一面、さういふいたづらをされる若い女性にも、それだけの手落がなかつたとはいへないでせうか。(略)如何に身動きのならぬ満員電車などの中であらうとも、そのやうないたづらをされるのは、やはり女性の方にもそれだけの隙がつて、その隙につけこまれたのだと思ひます。(27ページ)

笠原正江『働く婦人の生活設計』(〔勤労⻘年文化叢書〕、東洋書館、1942〔昭和17〕年)

誰でも「御国のために」といふことをよく口にはいたしますが、その「御国」とは一体どういふものでせう。「御国」とは「すめらみくに」のことであり、「すめらみくに」といひますのは、大変おそれ多い神秘さを持つてゐて、それは私たち⺠族の伝統的な血のみのよく理解する事がらで、なかなか言葉には尽せませんが、極くわかりやすく平たく申しますと、私たち、日本⺠族どほしがつくり合つてゐる「集団」です。この「集団」は高天原の天照大御神から引きつづき御代々の天子様を中心に「日本⺠族」といふ血のつながつたものどほしでつくつてゐるものです。それは、天子様を頂点にいただいてピラミツド型に拡がつた大きい「家族」のことでもあります。そしてその頂点の天子様の大陵威と御統御とは、ピラミツドのどこの隅にもあまねく滲み透つてゐて、私たち一人一人の生命と力との真実の源となつています。(18〜19ページ)

もつとやさしくいひますと、例えばここに沢山の炭俵を積みあげたといたしませう。一番下が五俵、次が四俵、次が三俵、次が二俵、一番上が一俵で丁度ピラミツド型になりました。それは見たところ、いかにもどっしりしてゐますが、しかし、これを一俵でも引き抜きますと、そのあたりがぐさりと凹んで、わけなく型が崩れます。私たち日本⺠族の「集団」もまた同様です。(19ページ)

どれほど山が大きくても、その山は、一俵一俵の炭俵が重なり合つたものですから、どのやうな片隅が崩れても、直ぐ全体に影響して、すつかり山がゆがみます。山全体がゆがんでくると、おたがひに重なり合つて、その山をつくってゐる炭俵の一俵一俵も、そのままにはすみません。やはり山のゆがみにつれて、それ相応に型がくづれるわけです。ですから、「集団」の生活では、その「集団」が正しくなければ、その中にゐる一人一人も正しいものにはなれません。さうした意味から考へますと、「御国のために」働くことは、結局「自分のために」働くことにもなりませう。(19〜20ページ)

大串兎代夫『大東亜戦争の意義』(〔「教学叢書」第十二輯〕、文部省教学局、1942〔昭和17〕年〕)

大東亜共栄圏の構想に於いては、かくのごとき個別国家の観念は許さるべきではなく、大東亜共栄圏に属する各国は、一種の運命共同体を形作り、かくのごとき共同体の運命を離脱して共栄圏以外の国家と結合するがごときは許さるべからざることである。(略)大東亜共栄圏に属する各国が主権を有することは、言うまでもないが、この主権は大東亜共栄圏全体から離れて個別的に存するものではなく、共々に大東亜共栄圏に属する各国は、兄弟の関係に於いて結びつけられるべく、大東亜の各国の結合関係の中には、家の観念が内在してゐることを指摘しなければならない。(24ページ)

文部省教学局編『臣⺠の道』(文部省教学局、1941〔昭和16〕年)

皇国臣⺠は国体の本義に徹することが第一の要件である。人は孤立せる個人でもなければ、普遍的な世界人でもなく、まさしく具体的な歴史人であり、国⺠である。従つて我等にあつては、人倫即ち人の履践すべき道は、抽象的な人道や観念的な規範ではなく、具体的な歴史の上に展開せられる皇国の道である。人たることは日本人たることであり、日本人たることは皇国の道に則とり臣⺠の道を行ずることである。即ち我等は、国体に基づく確固たる信念に生きることに於いて皇国臣⺠たり得る。(61ページ。以下、内閣印刷局版による。)

日常我等が私生活と呼ぶものも、畢竟これ臣⺠の道の実践であり、天業を翼賛し奉る臣⺠の営む業として公の意義を有するものである。(略)私生活を以つて国家に関係なく、自己の自由に属する部面であると見做し、私意を恣にするが如きことは許されないのである。一椀の食、一着の衣といえども単なる自己のみのものではなく、また遊ぶ閑、寝る間と雖も国を離れた私はなく、すべて国との繋がりにある。かくて我等は私生活の間にも天皇に帰一し国家に奉仕しするの念を忘れてはならぬ。(71ページ)

所謂勤人には官公吏・銀行員・会社員など種々の種類があるが、その勤務は何れも国家の仕事の一部であるとの自覚の下に、精励すべきことに於いて変わりはない。このことは官公署・学校等に於いてはもとより明瞭であるが、⺠間の会社・工場等にあつても国策の運営の即応せねばならぬことはいふまでもなく、従業員各自その勤務を通じて国運進展の職責を担つてゐるのである。凡そ勤務はすべて天皇に仕え奉るつとめの真心から出発しなければならぬ。利を追ひ、私欲の満足のみを追求するが如きを厳に戒め、全精神を打ち込んで自己の職務の精励しなければならぬ。昔はすべてのつとめを奉公といつた。婢僕のつとめも奉公、職人や商人の見習ひも奉公と呼んだ。奉公の精神が旺盛であれば、自我功利の心の起こることはなく、そこに初めて己を滅した真の奉公が成立するのである。(87ページ)

明治と昭和の平行性、そして平成

早川タダノリ著『「日本スゴイ」のディストピア』に列挙されている昭和のはじめから敗戦までの日本礼賛本出版の氾濫には、ある下地があったと思われる。自国礼賛が始まる契機として、私は経済的な行き詰まりがあると前述した。明治維新から始まった日本の近代化、及び、経済成⻑はめざましく、それは⻄洋を驚かせるほどで、実際に日本は日清、日露戦争で勝利し、第一次世界大戦では連合国側で参戦して領土割譲、更には大国の一員にまで登りつめている。それが、昭和に入ってからの世界的な経済的不況と⻄洋のブロック経済化、そして軍部の暴走から中国大陸侵略と英米との開戦、更なる経済状況の悪化を招くに至った。

柄谷行人は明治と昭和の平行性について随所で述べている。やや⻑い文章だが、岩井克人との対談本『終わりなき世界』からその平行性についての箇所を引いてみよう。
ぼくはその時明治と昭和が著しい平行性をもっているということを見つけたのです(14頁年表参照)。明治10年に一方に⻄南戦争があり、他方に昭和11年に2.26事件がある。しかもこれらは相互に連関している。⻄南戦争は、明治維新の徹底化であり、第二の明治維新とも言われているのですが、一方「昭和維新」を唱えた2.26は明らかに⻄郷隆盛を担いでるわけですね。明治の場合、45年に乃木将軍が殉死しましたが、彼が死んだのは、⻄南戦争のときに軍旗を取られたからということですね。つまり彼も明治10年にかかわっているのです。夏目漱石は『こゝろ』のなかで「明治の精神」という言葉を言いましたが、それはいわゆる「明治人」とか「明治の時代精神」なのではなくて、いわば「明治10年」に象徴されるもののことです。昭和45年に三島由紀夫がやったのは、2.26をファルス的に再現することだったわけですね。じつは、2.26さえそうだった。「歴史は二度くりかえす、一度目は悲劇として、二度目はファルスとして」というマルクスの言葉を使えば。漱石によれば、乃木将軍の殉死でさえ当時アナクロニズムの極致として見られたわけですから、三島の切腹は、いわんや当然ですけどね。乃木の死によって漱石が「明治の精神」の終焉を語ったのだとしたら、われわれも三島の死に「昭和の精神」の終焉、したがって、「昭和の終焉」を見てもいいのではないか。漱石が乃木自身の思想になんら共感していないように、ぼくも三島の思想に共感していません。しかし、いろんな意味で「昭和的なもの」がここで決定的に終ったと言っていいと思うのです。たとえば、「明治的なもの」は、じつは明治天皇の死よりも、日露戦争(明治37年)で終っています。それ以後の日本は変質している。しかし、この変質を自覚しそれに抗議したのが、戦後に小説を書き始めた漱石だったのです。そして、それが明治時代の終焉とともに、ある悲劇的な表現をとったのが『こゝろ』であったと言っていいと思います。

同様に、「昭和的なもの」というのが実質的に終ったのは1965(昭和40)年)ではないか。それは東京オリンピックのあとであり、高度成⻑期のなかにおいてです。事実、われわれは慣用的に、「昭和30年代」という言い方はしますが、めったに「昭和40年代」という言い方はしません。「1960年代」とか「1970年代」という方が普通です。三島由紀夫は、1965年あたりから変質した日本に対して反撥していきます。それは、60年代高度経済成⻑の結果としての学生運動のラディカリズムと通底しあうわけです。しかし、これらは1970年において一つの頂点を迎えた。しかも、1970年は、戦後的な世界構造においても頂点だったと言えると思います。翌年からは、オイル・ショックや為替自由化、米中接近などが相次いで起こった。アメリカのドルで支えられた自由主義経済とか、自由主義と共産主義の冷戦構造といったものが、すでにこの時期に揺らぎ始めたからです。それが窮極的に1989年の事件に示されたにすぎない。その発端は1970年にあるのです。

日本はそれ以後オイル・ショックを切り抜けて、一方的に経済的に成⻑し、経済大国としてあらわれるようになります。これは、先の年表で言うと、日本の大正期に対応しています。この時期には、第一次大戦がありましたが、日本はたんに漁夫の利を得ただけで、ヨーロッパが体験したような深刻な問題をもたなかった。それはヴェトナム戦争の特需でもうけながら、アメリカがベトナム戦争によって体験した問題をなんら感じなかったのと同じです。1970年代以降の日本は、大正時代と似て、外に開かれているように見えながら自閉的なのです。

大正時代のコスモポリタニズムとはそういうものですね。そこには、他者としての⻄洋との質的差異への緊張がない。すべて同一なのだから。だからまた、⻄洋との「差異」が見いだされるんですね。日本の独自性みたいなことを言い出したり、「日本人論」が流行ったのはこの時代なんですよ。これはまた、アジアに対する意識についても言える。なにしろ、明治43年に朝鮮を併合しているわけですが、大正ヒューマニズムなんてものはそのことを忘れてしまっている。一口で言えば、開かれた自閉化というか、開かれた鎖国ですね。明治の知識人はだいたい、漱石もそうですけど、岡倉天心にしても、内村鑑三にしても、普遍的なものへの緊張をもっていた。彼らは特に日本ということを言っていない。「東洋」と言っているのです。だから日本主義はまったく出てこないわけです。それに対して、大正期になると、⺠俗学もそうなんですが、「南島」へ行くという感じでして、日本の内部の同一性に向かっていくわけですね。

同様に、1970年以降の日本というのは、アジアに経済的に侵入しているにもかかわらず、言説においてはそれは存在していない。いっさい国際関係などないかのように存在している。無制限に開かれているように見えながら、実際は閉じられているわけです。天皇制に関しても同じことが言える。

さっきの年表で言うと、昭和天皇は、「昭和45年」が終った後にも、18年間生き続けたわけですね。1970年以後は、ちょうど大正天皇のように目だたないゼロ記号としてあった。だから、この時期の天皇論も、人類学者によるものが支配的だった。天皇を、アフリカやオセアニアの王権と比較すればいいというような。しかし、もともと「天皇」は、中国の皇帝を意識した国際的な概念であり、そんな王権論では、奈良時代の天皇制でさえわからない。明治以後はドイツ皇帝をモデルにしている。つまり、王権論が妥当するようにみえたのは、この時期日本が開かれた鎖国状態にあって、いわば孤立した「島」のようにあったからです。しかし、1985年以後はそうではない。天皇を問題にするようになったのは、外国であり、特にアジアです。と言うのは、さっきの年表の続きで言えば、1980年後半はまさに「昭和」に戻ってしまったのです(笑)。彼は再び強国、経済的な侵略国家としての日本を「象徴」することになってしまった。もっと前に死んでいれば、昭和天皇の死はこれほどまでに国際的な関心を集めなかったでしょう。

こうして、この年表からは、1989年の世界的事態が1930年代にある意味で回帰しているということが言えるわけです。

〈年表〉
明治10年⻄南戦争
22年憲法公布
27年日清戦争
37年日露戦争
43年韓国併合・大逆事件
44年条約改正
45年乃木将軍殉死

昭和11年2・26事件
21年新憲法公布
26年講和会議・日米安保条約
35年安保闘争・新安保条約
39年東京オリンピック
43年全共闘運動
44年沖縄返還
45年三島由紀夫自決

『「日本スゴイ」のディストピア』が今書かれる事由

柄谷行人が各書で述べている明治と昭和の平行性をここで考察することはしないが、明治と昭和に「平成」を加えると、また一味違ったものになってくる気がする。明治と昭和、そして平成にも平行性があるのかどうかはわからないが、近年、再度氾濫している日本礼賛本にも、昭和の日本礼賛本と同じく下地があることは確かだろう。

柄谷がいう1985年以後を考慮するまでもなく、戦後復興から高度経済成⻑を成し遂げた日本は、「世界一成功した社会主義国」、「日本株式会社」などと半ば揶揄されつつも、いまや死語になった終身雇用や勤勉さを欧米各国から賞賛された。その後、バブル経済で有頂天になった日本は、1990年代以後、経済的に凋落していく。

2015年10月、安倍晋三首相の私的懇談会「「日本の美」総合プロジェクト懇談会」が設置された。「日本人の美意識や、自然への畏怖、礼節、忍耐といった日本人の価値観が表出した日本の文化芸術」の振興や継承、国内外へのアピールのために設置されたものだという。座⻑を務める俳優の津川雅彦は、第二回会合で次のように述べている。
我々が自然を愛する心を持った多神教であること、そして、一万年以上前から今日に至るまで自然崇拝というアニミズムを続けてきた世界で唯一の国であることに起因している。今こそ、日本という国の持つ不思議とともに、奥深き日本の美を世界に提示するべき。それも、無邪気かつ狡猾な方法で提示する必要がある。異物の混在を許容する日本固有の価値観は、多様性に富む文化であるが故に、世界の平和に貢献できるはず。
(「日本の美」総合プロジェクト懇談会第2回〔2015年12月18日〕議事要旨。首相官邸公式ウェブサイトで公開されている)


映画や映像は、日本の奥深さを伝達する最も効率のよいメディアであり、戦略的に活用してはいかがか。まず、「天孫降臨」をアニメ化する。日本の神話を小中学生に、世界の子供たちに、まるで我々がかつて見た孫悟空のように、「天孫降臨」を面白く見せたいと思う。(『「日本スゴイ」のディストピア』より)

かつて、世界経済が行き詰ったとき戦争がそれを打開してきた。もちろん、現代も軍需産業を回している限り、一部の国々、一部の企業群は経済的に潤うだろう。しかしながら、先進各国が足並みを揃えて緊縮財政といった国家財政危機に陥っている今、膨大な人口を抱える中国の台頭や先進各国の搾取の終焉、そしてグローバルな資本主義経済、自由主義経済が産み出した貧富の格差などを鑑みると、今後、先進各国が経済的に成⻑できる足掛かりはないように思える。アメリカ大統領選やイギリスのEU離脱から垣間みえるように、先進各国の保守化は進むのではないだろうか。

それにも関わらず、安倍晋三首相の私的懇談会座⻑を務める津川雅彦の呑気な発言、及び、安倍晋三首相自身も二度目の東京オリンピックとリニア計画等によって、過去の栄華を夢みているように思える。それは一時的な経済効果をもたらすかもしれないが、日本を覆う不穏な雰囲気と貧富の格差、経済発展等の抜本的な解決には決してならないだろう。明治と昭和が平行しているように、平成が平行しているのかはわからない。しかしながら、前述したように、あらゆる条件が出揃っている今、早川タダノリ著『「日本スゴイ」のディストピア』が書かれた事由は自ずと明らかだろう。

幻冬舎グループの作品投稿サイト
読む Cafe
【書評】早川タダノリ/『「日本スゴイ」のディストピア』
橋本浩
http://www.yomucafe.gentosha-book.com/contribution-48/

posted by fom_club at 12:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三浦まり「日本の女性議員、どうすれば増えるのか」

「3本の矢」など安倍政権の象徴だったアベノミクス。
景気拡大は戦後2番目の長さだったとされるが、実感はひとさまざまでその本質はみえづらい。
社会問題の解決を目指す署名サイト「Change.org」アジア・ディレクターのハリス鈴木絵美さんは、成長戦略の柱の一つに掲げていた女性の活躍する社会づくりについて、どこまで本気だったのかと疑問視する。

 辞任の会見をする安倍晋三首相は非常に疲れているように見え、コロナという目に見えない敵との終わらない闘いの中、首相が置かれてきた状況の大変さを察しました。
 とはいえ、それと実績に対する評価は別のもの。
 アベノミクスの第3の矢で最重要課題だった、女性が活躍する社会づくりの政策と結果を振り返ると、評価できる点は少ないと言わざるを得ません。

 安倍首相は2014年に、20年までに指導的地位にいる人の3割を女性にすると宣言しました。
 そんな首相は過去にいなかったので、そのときは期待しました。
 しかし、企業での女性管理職は1割程度のままで、宣言した目標は先送りになりました。

 ジェンダーギャップ指数では年々他国に追い抜かれ、2019年は153ヶ国中121位と過去最低の順位を記録しています。
 政治の場でも女性は極めて少なく、政治分野のランキングでは、ワースト10に入ってしまうほどです。

 こうなった理由は、本気で後押しする政策が少なかったからだと思います。
 国政選挙で候補者の一定数を女性にする「クオータ制」の導入や、企業への女性役員3割の義務づけなど、できたはずです。

 首相が誇ったように、雇用は増えました。
 しかし、若者、特に女性の多くは、不安定で低賃金な非正規雇用であることは大問題です。

 女性の4割は年収200万円以下。
 女性の役割という固定概念からか、ケアワークに女性の雇用が偏っている。
 加えて、その労働への対価は低いままです。
 このような職種の最低賃金は大幅に引き上げるべきです。
 待機児童問題が過熱していた当時、保育士の賃金を上げようとしましたが、月数千円規模、多くても4万円で制限付きでした。
 この仕事の価値の高さを考えれば、10万円規模の引き上げは当然です。
 この国のリーダーたちは、ひとときも目が離せない乳幼児と1日を過ごした経験があるのでしょうか。

 30〜40代で育児をしながら働く女性を多く知っています。
 私もその一人です。
 その世代に最も必要なのは、子どもを安心して預けられる先があること。
 ところが、保育園は増えているとはいえ、都市部を中心に足りないのが現実です。
 ベビーシッターなど、幅広い育児サポートの費用を国が大幅に補助するなど、やり方はいろいろあるはずです。
 女性活躍のために必要な政策が10あるとすれば、そのうち1しかやっていない。
 大胆さ、真剣さが足りません。

 私が勤める団体は、ネット上で署名を集めて社会を動かすもので、日本で立ち上げて約8年になります。
 その間、日本のユーザーは270万人を超えました。
 ヒールの強制に疑問を投げかけた#KuTooや、外出時や災害時に便利な液体ミルクの販売を求めたキャンペーンなど、女性が直面する課題についても多くのキャンペーンが社会にインパクトを与えてきました。
 この間、声は上げやすくなったと実感しています。
 安倍政権はほぼ同じ期間続きましたが、この国の凄(すさ)まじいジェンダーギャップをなくすために必要な改革が成し遂げられないまま幕を閉じたことはとても残念です。

 次期首相候補の顔ぶれは60歳超の男性ばかり。
 男女問わず、誰もが輝ける社会に必要な政策が先延ばしされないよう、声を上げ続けないといけません。

    
[写真]
Change.orgアジア・ディレクターのハリス鈴木絵美さん
1983年生まれ。米大統領選でバラク・オバマ陣営スタッフ、社会活動系のコンサル会社を経て2012年に現所属の日本版を設立。15年からタイ、インド、インドネシアなどを含むアジア圏を統括する現職につく。

朝日新聞、2020年9月5日 16時00分
女性活躍、期待したのに
本気の後押しなかった安倍政権

(聞き手・後藤太輔)
https://digital.asahi.com/articles/ASN943SHSN92UPQJ00G.html

 2019年12月、世界経済フォーラムが2006年から調査している「グローバル・ジェンダー・ギャップ指数(GGGI)」の最新版が発表になった。
 政治、経済、教育、健康の四分野で男女格差がどのくらいあるかを数値化した国別のランキングである。
 日本は105位(2013年)、104位(2014年)、101位(2015年)、111位(2016年)、114位(2017年)、110位(2018年)と、第二次安倍政権発足後ずっと100位以下をうろうろしていたが、2019年の調査では、なんと過去最低の153ヶ国中121位!

 ついに中国(106位)にも韓国(108位)にも抜かれ、120番台の大台に乗った最大の理由は政治分野の低迷で、政治分野のみの順位は2018年の125位からさらに転落して144位。
 女性国会議員と女性閣僚の少なさが足を引っ張ったらしい。

 こうした傾向を是正するため、2018年5月には、政党や政治団体に男女の候補者数を均等にする努力義務を課す「政治分野における男女共同参画の推進に関する法律」が成立したが、このこと自体を知らない有権者もまだ多い。
 順位の低さを反映し、現在、日本の衆院に占める女性議員の割合は10.2%(下院の国際平均は24.3%)、参院でも22.9%。
 地方議会では女性ゼロの議会が2割を占める。

 なぜ日本では女性議員が増えないのか。
 もしかして私たちはひどく特殊な国に住んでいるのか。
 女性議員の少なさは政策にどう影響するのか。
 ここはしばし、マジメに考えてみたい。

そもそも「政治」に女性は存在しない?

 日本に女性議員が少ない理由はむろん多々ある。
 だがその前に、女性議員の進出を阻む要素として、彼女らを見るこの国の人びとの目が、いかに幼稚で差別的か、は認識してくおくべきだろう。

 その悪しき見本が、たとえば古谷経衡『女政治家の通信簿』(小学館新書、2018年)だ。
 小池百合子東京都知事のほか、与野党約30人の女性議員をえらそうに論評したこの本は、〈自民党は元より、野党にも、議員としての資質を疑いたくなる女性議員が一定数存在し、一部を除いて常に国政に災いをもたらしてきた〉と臆面もなく書く。

〈彼女たちがもし男性であったら、閣僚はおろか議員にすらなれていなかったに違いない。美人代議士、女政治家というだけで下駄を履かされて政界に進出してきた彼女たちは、結局のところその素養・実力のなさが災いして搦め手をメディアに突かれ、辞職や辞任に追い込まれていく。「女だから」という理由で無理矢理下駄を履かされて政治の中に登場してきた彼女たちの大半は、何ら政治的実績を残していない〉

 よくもまあぬけぬけと。
 仮にこの苦言に事実が混じっているとしても、それ以上に国政に災いをもたらし、辞職や辞任に追い込まれた(どころか、いまものさばっている)男性議員がどれほどいると思ってる?
 素養も実力もないのに「男だから」というだけの理由で下駄を履き、議員になれたのは、むしろ男たちのほうだろう。

 とはいえ、こんな駄本にかまっているヒマはない。
 日本の政治をめぐる男女格差は想像以上に悲惨なのだ。

 前田健太郎『女性のいない民主主義』(岩波新書)は、国会議員の少なさに加え、日本では事務次官や局長といった中央官庁の最高幹部の女性占有率が3.9%(OECD加盟国の平均は33%)であることを指し、〈日本の政治には、まず何よりも、男性の手に権力が集中しているという特徴がある。今日、これは少なくとも先進国の間ではあまり見られない現象である〉と述べている。

 民主主義にとっては、さまざまな階級、ジェンダー、民族などの代表が人口に応じて反映された議会が望ましい。同じ経験を共有する女性政治家が多ければ、女性の意見は争点化されやすく、男女比が均等に近いほど、その政治体制は民主的といえる。

 ところが、これまでの政治学はジェンダーの要素を考慮してこなかった。
 民主主義の手本として通常思い浮かべるのはイギリスやアメリカだが、女性参政権に注目すると、最初に女性参政権を導入したのはニュージーランド(1893年)で、オーストラリア(1902年)、フィンランド(1906年)、ノルウェー(1913年)がそれに続く。
 同じ制度をアメリカが導入したのは1920年、イギリスは1928年、フランスは1944年だ。
 この観点でいけば、英米は民主主義の後発国。

〈女性参政権も含めた形で民主主義の概念を厳密に適用するならば、政治学の教科書における民主主義の歴史は書き換えられねばならない〉

 この事実は、私たちが「政治」というとき、どれほど女性を排除して考える癖がついているかを如実に物語っていよう。

 男女比の不均衡は幾多の弊害を生む。
 男性が一方的に説明し、女性は聞き役に回るとか(マンスプレイニング)、男性が女性の意見を遮って発言するとか(マンタラプション)、女性の発言を自らの意見として男性が横取りするとか(ブロプロプリエイション)。
 いずれも女性にとっては「あるある」だろう。
 名称がついているくらいだから、こうした男性の態度がいかに横行していることか。
〈このような現象が生じるのは、組織の男女比が、組織規範のシグナルとなるからだ〉と本書はいう。
 男性が多い組織に属する女性は〈その組織では男性らしい行為が要求されているというシグナルを受け取る〉ため、本来の力を発揮できないのだ、と。

 では、男女が対等に議論できる比率はどのくらいなのだろうか。
 国際機関や各国政府機関は、この数字を議員の女性比率30%以上としている(クリティカル・マスという)。
 日本の男女共同参画社会基本法が指標としているのもこの数字で、実際多くの国はクリティカル・マスを達成するための努力を続けてきたのである。

 男女平等が進んでいるのはEU加盟国や北欧諸国のイメージかもしれないが、女性議員の比率でいうと、上位に並ぶのはアフリカや中南米の国々だ。
 2019年2月現在、トップはルワンダで61.3%。
 以下、キューバ53.2%、ボリビア53.1%、メキシコ48.2%、スウェーデン47.3%、グレナダ46.7%、ナミビア46.2%、コスタリカ45.6%、ニカラグア44.6%、南ア42.7%。

 少し前の本だが、辻村みよ子『ポジティヴ・アクション、「法による平等」の技法』(岩波新書)を読むと、女性議員の数を増やすために、各国がどんな取り組みをしてきたかがよくわかる。
 ヨーロッパでは1970年代に女性議員増加策が模索されたが、アジア・アフリカ諸国がめざましい進歩をとげたのは20世紀終盤、中南米諸国が著しく進歩したのは21世紀初頭だった。
 1990年代の内戦で大きなダメージを被ったルワンダは、2003年に施行された憲法で意思決定機関の少なくとも30%を女性に与えることと定め、「議席リザーヴ制」によって男性だけでなく一部の部族への権力の集中も防ぐ方式をとってきた。
 ただし、これは例外で、多くの国が採用しているのは、候補者のうちの一定の割合を女性に割り当てる「ジェンダー・クオータ制」である。

 こうした制度は現在100近くの国で取り入れられており、韓国では2000年、中国では2008年にクオータ制が導入され、その後も整備が続いている。
 例外はアラブ諸国と日本だけという不名誉。

世界各国の努力と日本の無策

 とはいえ、日本も低迷しっぱなしだったわけではない。
 三浦まり編著『日本の女性議員、どうすれば増えるのか』(朝日選書)によれば、1990年代は女性議員の「躍進の時代」だったという。
 1989年の衆院選で女性が躍進した「マドンナ旋風」も大きかったが、1990年代は、社会党には土井たか子、自民党には森山眞弓という、選挙区で勝ち上がった有力な女性議員がおり、また1996年に発足した「自社さ」連立政権は、新党さきがけの代表・堂本暁子を加えて、与党三党中二党の党首が女性という稀有な状況が出現した。
 結果、1990年代後半から2000年代初頭には、母体保護法、男女共同参画社会基本法、ストーカー規制法ほか、女性に直結する多くの法律が制定された。
 まさに〈女性当事者として女性問題に関心と憂慮を持つ女性議員が政治的《ポジション》を手にしたとき、女性の視点を反映した女性政策が進展する〉のである。

 そんな追い風はしかし、2000年代後半にはぴたりとやみ、女性政策は低迷する。
 2005年の総選挙における「小泉チルドレン」や、2009年の政権交代選挙における「小沢ガールズ」など、2000年代は女性議員が飛躍的に増加した時代だったが、小泉純一郎や小沢一郎は女性の積極的登用を制度化するまでには至らず、せっかく誕生した民主党政権も女性議員の増加を政策化はせず、女性閣僚を積極的に登用もしなかった。
 主体的に政治にかかわった前の世代の女性議員とは違い、彼女らは〈男性の目線から使い勝手のいい女性が選別されるという構図〉の中で「政治的客体」として扱われた。

〈メディア報道を通じて「客体化される女性像」が流布し、次世代の女性たちの主体性獲得の可能性を狭めたとしたら、その功罪のうちの罪の重さはずっと重いものになるだろう〉

 こうしてみると、日本のGGGIが121位である理由は明白だろう。

 各国が女性議員の数を増やし、ジェンダー平等政策に腐心している間、何の手も打たなかった日本は世界から完全に取り残されたのだ。

 冒頭にあげた女性議員を茶化す風潮も、選択的夫婦別姓法案がいつまでも通らないのも、セクハラやレイプに対する法整備が進まないのも、女性議員の少なさと無縁ではない。

 昨年2019年7月の参院選で、各党の女性候補者が占める割合は、自民党14.6%、公明党8.3%、立憲民主党45.2%、国民民主党35.7%、共産党55%、日本維新の会31.8%、社民党71.4%、れいわ20%だった。
 野党には改善のきざしが見えるが、与党は相変わらずである。
 状況を変えるには有権者が女性政治家の数に敏感になることだろう。
 寝てても事態は変わらないのだ。

※ PR誌ちくま2020年2月号


webちくま、2020年2月20日更新
世の中ラボ[第118回]
日本で女性議員が増えないわけ
斎藤 美奈子
http://www.webchikuma.jp/articles/-/2006

[参考]
パリテ・アカデミー(Academy for Gender Parity)
http://parity-academy.org/index.html

[驚愕]一部の男性高齢者だけで後継総裁、首相選びの流れをつくる「密室談合政治」と批判されても一向に動じない有力者たち:
菅義偉氏は1948(昭和23)年12月生まれ
麻生太郎氏は1940(昭和15)年9月生まれ
細田博之氏は1944(昭和19)年4月生まれ
二階俊博氏は1939(昭和14)年2月生まれ

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2020年09月05日

安重根を犯罪者、テロリスト呼ばわりしていいのか

 2020年9月2日、安倍晋三首相の辞任を受けた自民党総裁選挙を前に、韓国では最有力候補となっている菅義偉官房長官の歴史観に注目が集まっている。

 韓国で安倍首相は「歴史修正主義」「反韓」「極右」とみなされていることから、辞任表明を歓迎するムードがある。
 与党「共に民主党」のイ・ゲホ議員は安倍首相の辞任発表後、SNSに「本当に万感の思いだ。これまで韓国の国民と政府を苦しめてきたから」と書き込んだ。

 そのため次期首相にも関心が寄せられているが、メディアで菅官房長官の過去のある発言が大きく取り上げられ、波紋を広げている。

 韓国・アジア経済は2日、菅官房長官について「2012年12月に第2次安倍内閣が発足したときから官房長官としてほぼ毎日、記者会見を行ってきたが、会見中の発言には韓国に対して角を立てる内容も少なくなかった」とした上で「特に注目すべき発言は伊藤博文を狙撃した安重根義士に関するもので、韓国との歴史認識の違いが顕著に示された」と伝えた。

 菅官房長官は2013年11月19日、安重根記念碑の設置に向けた中韓の動きについて質問を受けた際に「日本は韓国政府に対し、安重根は犯罪者だという立場を伝えてきた」と述べ、「記念碑は日韓関係にプラスにならない」との立場を示していた。

 また2014年1月に中国に安重根記念館がオープンした際も「安重根は日本の初代首相を殺害し、死刑判決を受けたテロリスト」と述べていた。

 これに対し韓国のネットユーザーからは「ひど過ぎる発言だ」「戦犯国が被害国に向かって犯罪者だと!?」と驚く声や、「日本にはまともな考えを持つ人がいないのか」「こんな人が次の首相に?もう日韓関係は終わりだ」と落胆する声が続出している。

 一方で「誰が首相になっても、日韓は互いの立場の違いをしっかり確認してから対話を始めた方がいい。外交問題は実利を考えて解決していくべき」「韓国では英雄だけど、日本の立場では当然テロリストだ」など冷静な意見も見られた。

 ただ、アジア経済は最後に「菅官房長官は日本政府の報道官であるため、こうした発言を菅官房長官の考えとみなしてはならない」と指摘し、「菅官房長官が過去に、安倍首相の靖国神社参拝を引き止めたり、韓国を刺激する発言をした一部の政治家に注意を促したりしたことを考えると、日韓関係のさらなる悪化を阻止する可能性もある」とも伝えている。


[写真]
2日、安倍晋三首相の辞任を受けた自民党総裁選挙を前に、韓国では最有力候補となっている菅義偉官房長官の歴史観に注目が集まっている。写真はソウル日本大使館前の安重根のポスター。

Record China、2020年9月3日(木) 17時20分
これが菅官房長官の歴史観?
過去の発言に韓国ネット仰天「日韓関係は終わりだ…」

(翻訳・編集/堂本)
https://www.recordchina.co.jp/b832946-s0-c10-d0058.html

 2014年は安重根の名前が一挙に注目を集めた年と言える。
 2014年1月19日、伊藤博文を暗殺した朝鮮の独立運動家、安重根(アンジュングン)の記念館が暗殺現場の黒竜江省ハルビン市のハルビ ン駅に開館された。
 その伏線として、2013年6月27日、韓国の朴槿恵(パククネ)大統領が、訪中の際に中国の習近平(シーチンピン)国家主席との首脳会談で記念碑の設置を提案していた。
 記念碑が紀念館に「格上げ」された理由は、その年の12月26日、(第2次安倍政権発足の1年後にあたる)安倍晋三首相は靖国神社に参拝したため、中国側の日本への牽制と日本では受け取られた(注1)。

 記念館の開館に対し、菅義偉官房長官は、記者会見で「安重根に対する日本の見解はわが国(日本)の初代総理である伊藤博文を殺害し死刑判決を受けたテロリストというもの」とし「今まで韓・中両国に何度も我が国の見解を伝えたのに、こういう結果が出たことは極めて遺憾」と不快感を示した。

 菅義偉官房長官のコメントは、菅氏自身が安重根の実像に関して無知であるということに加え、日本社会では未だ朝鮮に対する植民地支配に対する理解や加害者としての意識が希薄であることを物語っている。

 なぜなら東京都品川区にある伊藤博文の墓地案内板にさえアンジュングン、 「朝鮮の独立活動家」と表記されているからである。
 菅官房長官は、安重根に関する知識を持ち得ていないのであろう。
 このような無知に基づく政治判断は日本の未来を危険にさらすことになる。

 2015年は、第二次世界大戦終結70周年、1965年の日韓国交正常化から50周年を迎える。
 日韓国交正常化当時、人的往来はわずか年間1万人だったのが、2012年には556万人と最多記録を達成した。
 この人的交流から生まれた互いの信頼関係は地域の安定と平和に貢献したことは間違いないが、今日の外交関係の悪化の影響からか、2013年は520万人に減少してしまった。
 日韓間の主要な懸案事項は、竹島問題、「慰安婦」問題、朝鮮半島出身者の「旧民間人徴用工」をめぐる裁判などが挙げられるが、二国間の対話は平行線を辿り、解決策の糸口すら見えていない。
 また日本国内では、コリア系住民をターゲットにしたヘイトスピーチと呼ばれる憎悪表現や嫌がらせを扇動するデモが増え、「憎悪」の感情がまかり通っている。
 日本のレイ シズムは明らかに日本の戦後処理の不十分さに起因している。

 安重根東洋平和研究センターは、東アジアの平和と安定の実現に向けて、戦後補償問題や歴史認識から生じる問題の解決の糸口を模索するため市民活動と関連した研究活動を展開することを目的とし、2013年5月に龍谷大学社会科学研究所に設置された。
 センター名の由来は、安重根と浄土真宗、そして龍谷大学の重要な関係性を社会に発信するためである。
 安重根は、大韓帝国時代の朝鮮の民族主義活動家で、初代韓国統監を務めた伊藤博文(日本の初代内閣総理大臣)を、1909年10月26日に満州のハルビン駅構内で狙撃し、死に至らしめた。
 しかし、安重根は、自ら「義兵参謀中将」として「捕虜」としての処遇を主張したが、 安の主張は聞き入れられず国際裁判管轄権の観点からも正当と言えない裁判で(注2)、1910年3月26日に処刑された。

 安重根の伊藤暗殺の真の意図は、東洋平和の実現であったことは日本でほとんど知られていない。
 彼が裁判のなかで、朝鮮の独立を侵す暴力的な日本の植民地支配を批判し、東洋平和のためには、日中韓が互いに独立国として対等な立場で協力することの必要性を訴えたことは、今日、重要な意義をもつ。
 菅官房長官の発言のように、安重根を 「テロリスト」、「犯罪者」の一言で評価してしまうことは今まで積み上げてきたものを無にする。
 それでは、日本政府がこれまで積み上げてきた歴史認識を「日本の負の財産」にしてしまうばかりか、日中韓の和解、ひいては、東アジアの平和を目指す方向に逆行するおそれがあるからである。
 今こそむしろ、日中韓の政府関係者、市民、そして研究者が積極的な対話をすすめ、安重根について理解を深めることが必要である。

 龍谷大学の図書館(深草キャンパス所在)には、 安重根の遺墨が3筆所蔵されている。
 この遺墨は、死刑囚の教戒師として安重根と接した津田海純師(旅順西本願寺出張所住職)が安重根から譲り受けたものである。
 この遺墨と関連資料を、龍谷大学が、貴重資料として1997年、所有者である浄心寺から研究と教育のために寄託を受け、現在、深草図書館特別書庫で保管している。
 今日、歴史認識の違いや戦後補償問題で日本と隣国との関係はかつてないほど緊張度が高まっている。
 教育機関が、和平構築に貢献できるのかどうか、また過去に犯した同じ失敗を繰り返すのかという問いが私たち教育者、研究者にも突き付けられている。

 安重根はたった3ヶ月という短い収監時に千葉十七を始め、多くの日本人看守たちと信頼関係を構築できた人物である。
 安重根と日本人看守たちは 「異質」なものと対話する能力を持ち得た。
 今日、私たちに最も欠落していることは、そのような「異質」なものとの対話する能力ではないか。
 東北地方宮城県栗原市には、安重根遺墨「為国献身軍人本分」の石碑を建立した大林寺(斉藤泰彦住職)があり、安重根を生涯ひそかに供養してきた故千葉十七元看守・憲兵の菩提寺になっている。
「日本で一番韓国に近いお寺」としてかなり知られるようになっている大林寺が、安重根に関する 啓蒙活動の重要な役割を担っている。
 日本社会においても市民運動は着実に進展してきた。
 しかし、戦争体験者が少なくなるにつれて、排外主義者や「ネット右翼」の台頭が強まり、歴史認識の広がりと進化、植民地責任への反省への妨げになっている。

 いまこそ、当事者能力に基づいた責任倫理による対話力を覚醒させることが重要である。
 いたずらに関係国家間の対立をあおるような不適切な発言をくり返すことをやめ、日中韓の間の歴史認識の溝をうめるために、政府関係者のみならず、民間、市民、研究者による対話と研究の深化をはかるために、力をあわせるべきである。
 龍谷大学の建学の精神である「真実を求め真実に生きる「自立」の心」と「人類の対話と共存を願う「平和」の心」を大切にしながら、ソウル南山(ナムサ ン)に位置する安重根義士紀念館と当センターの間で学術的交流を発展させている。
 以下で紹介する牧野論文と田中論文は、2014年10月26日にソウルで開催された国際会議(安重根義士紀念館共催)で発表された報告である。


(1)朝日Digital「安重根記念館「両国のきずな」中韓首脳、日本を牽制」2014年3 月24日付(2014年3月25日アクセス)。
http:// digital.asahi.com/articles/ASG3S338GG3SUHBI007.html? iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASG3S338GG3SUHBI007

(2)戸塚悦朗「東アジアの平和と歴史認識(1)─安重根東洋平和論宣揚の必要性をめぐって─」『龍谷大学法学論集』(2012)45-3,227-263頁を参照。


龍谷大学『社会科学研究年報』2014(No. 45)
〈共同研究〉
「日韓未来平和交流事業の学際的研究
─ 龍谷大学所蔵の安重根の『遺墨』 『丹波マンガン記念館』に代表される歴史・文化資産の調査研究とその有効利用 ─」
日本の応答責任を果たすために東洋平和を願った安重根の実像を知る
李 洙任(Lee Soo im、共同研究代表、龍谷大学社会科学研究所付属安重根東洋平和センター長)
http://www.biz.ryukoku.ac.jp/~lee/pdf/skk-np_045_020.pdf

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森達也「群れるな、声をだそう、顔をあげよう」

 ヤッホーくんのこのブログ、ちょっと古いけど次の日付けの日記をぜひお読みください:

☆ 2016年02月13日「蜀山人の出番」
☆ 2016年04月15日「国谷裕子」
☆ 2018年03月23日「新しいものさし」
☆ 2018年04月25日「財務省・矢野官房長」
☆ 2018年08月01日「“遺言”: 真実を伝えて、権力を監視する」
☆ 2019年02月20日「完全なデマ !」
☆ 2019年03月31日「幹事長時代から16年間、常任番記者」
☆ 2019年04月09日「NHKの暴政人事」
☆ 2020年04月01日「国谷裕子『クローズアップ現代』」
☆ 2020年04月01日「永田浩三『なぜNHKは政権による嘘と誤魔化しに加担する?』」
☆ 2020年04月02日「対談=望月衣塑子×永田浩三(第2回目)」
☆ 2020年04月15日「木村草太『政府をリアルタイムで批判すべき』」
☆ 2020年09月01日「白井聡『民衆の力を否認し、民衆に自らを無力だと感じ続けさせること』」

 国の私物化という国の乗っ取り計画に忠実に従い、実行する部隊、アイヒマン部隊については、これも3年前と言う古い論評ですが、今も有効な指摘をしている以下の文書もお読みください:

 ナチス・ドイツ親衛隊(SS)に所属していたアドルフ・アイヒマンは、「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)を決定したヴァンゼー会議のコーディネーターを務め(発言はしていない)、その後に数百万のユダヤ人を強制収容所に移送する最高責任者に任命された。

 ドイツ敗戦後はアルゼンチンに逃亡して名前を変えて潜伏していたが、イスラエルの特殊工作機関モサドに1960年に拘束された。
 エルサレムの劇場で行われた彼の裁判には、全世界からメディアが集まり、テレビ中継もされている。

 ところが、最後のナチス高官として悪鬼のように語られてきたアイヒマンが法廷に登場すると同時に、テレビを観ていた全世界の人びとは息を飲んだ。

 その外見が、あまりに普通であったからだ。
 度の強い眼鏡に背広姿。

 少しだけ貧相で実直そうな中間管理職そのままの雰囲気で被告席に立ったアイヒマンは、ホロコーストにおける自分の責任を問われるたび、「私は指示に従っただけだ」とくりかえすばかりだった。

 裁判は何日も中継された。
 やがて一部の人びとは気づく。
 邪悪で狂暴だから殺したのではない。
 普通の人間だからこそ、人は人を大量に殺すことがあるのだと。

 人は群れる生きものだ。
 一人では生きてゆけない。
 さまざまな集団に帰属する。
 社会的な動物と言い換えることもできる。

 群れる生きものは他にもたくさんいる。
 その共通項は弱いこと。
 だから天敵に対抗するために群れる。
 強い生きものは群れない。
 群れる必要がないのだ。

 あなたも水族館で見たことがあるかもしれないけれど、イワシなど小魚の群れは、全体がひとつの生きもののように動く。
 小魚だけではない。
 これはすべての群れのルールだ。
 それぞれが勝手な動きをしては群れの意味がない。
 真っ先に天敵に狙われる。

 つまり不安や恐怖が高まるほど、群れは動きが統率される。
 同じ動きをするようになる。
 要するに同調圧力が強くなる。
 野生の生きものは鋭い感覚で全体の動きを察知するが、進化の過程で鋭敏な感覚を失った人類は、代わりに言葉を得た。
 こうして人は、指示や命令が欲しくなる。

 同調圧力が強まれば強まるほど、人は支持や命令を求める。
 なければ不安になる。
 だから無自覚に作りだす。
 これが組織内における忖度だ。

 こうしてアイヒマンが誕生する。
 それは決して特異な現象ではない。
 群れる本能を保持してしまった人類は、誰もがアイヒマンになる可能性を持っている。

 だからこそ裁判を間近で傍聴したハンナ・アーレントは、アイヒマンを「凡庸な殺戮者」と形容した。

 群れが走り出したとき、なぜ走るのかと声をあげることは難しい。
 全体から遅れることは群れから脱落することを意味する。

 さらに、もしも声をあげればその瞬間に、群れの中の異物になってしまう。
 こうして群れは暴走する。

 人は周囲に併せて走り続ける。
 全体が右に曲がれば自分も曲がる。
 左に曲がれば自分も曲がる。
 目的や意味は考えない。
 考えていたら取り残される。
 こうして群れは徐々に加速する。

 このときに「文書は存在していた」とか「私は騙されていた」などと声をあげることができるのは、心ならずも群れからはじき出されてしまった人たちだ。

 でも群れは止まらない。
 内心では「何かがおかしい」とか「誰かが嘘をついている」などと思っていても、群れの中にいるかぎりは声をあげることが難しい。
 孤立は怖い。
 一人にはなりたくない。
 やがて群れは暴走する。
 大きな過ちを犯す。

 それから人びとは言う。
 いったい誰が悪いんだ。
 でもよくわからない。
 だから責任の所在が曖昧になる。

 特に日本人は集団と相性がいい。
 言い換えれば集団化しやすい。
 個が弱い。
 組織に摩擦なく従属してしまう。
 こうして同じ過ちを何度も繰り返す。

 群れとは組織だ。
 学校に会社、地域や地縁共同体、行政や国家、自民党や公明党、文科省に財務省、内閣府やメディア各社に地検特捜部、これらすべても当てはまる。
 これが今の状況だ。

 だから僕は訴えたい。
 文科省や財務省の職員たち。
 自民党の議員や官邸の職員たち。
 政権の意向を代弁するばかりのメディアに帰属する記者やディレクターたち。

 声をあげてほしい。
 姿を現してほしい。


 アーレントはアイヒマンの凡庸さ(普遍性)を認めながら、ひとつの共同体に埋没して他の共同体(パブリック)で生きる人たちへの想像力を欠如させたことで有罪であると主張した。

 もしもこのまま口を噤むのなら、あなたはきっと一生後悔する。
 組織はさらに暴走する。
 あるいは停滞する。
 目を逸らす。
 不正義がまかり通る。
 弱いものが責任を押しつけられる。
 真相を隠したい人たちは胸を撫で下ろす。

 あなたは今の群れからは孤立するかもしれない。
 でもあなたが発言すれば、きっと賛同者が現れる。
 決して一人にはならない。

 顔を上げよう。
 声を出そう。


 胸を張って内なるアイヒマンを否定してほしい。
 そのタイミングは今しかない。


HuffPost、2017年06月21日 23時10分 JST
アイヒマンと加計と森友
もしもこのまま口を噤むのなら、あなたはきっと一生後悔する。

(森達也・映画監督、作家)
https://www.huffingtonpost.jp/tatsuya-mori/kake_moritomo_b_17238046.html

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岩波律子「岩波ホールで”体感”してなにかを得てほしい」

今回のコロナ禍のエンタメ業界において危機が叫ばれたひとつに挙げられるのがミニシアターだ。
その苦境が多くのメディアで伝えられたことは記憶に新しい。
緊急事態宣言解除後、営業が再開されたものの、その現状は厳しい状況が続く。
その置かれた状況は老舗のミニシアターであっても例外ではない。
50年以上続き、ミニシアターの草分け的存在である岩波ホールもまた、これまでにない事態に直面した。
いち早い劇場の休業から、今年上映が予定された作品の来年公開への延期。
そして休館から約4ヶ月、過去に上映した名作を集めた特集上映<岩波ホールセレクション>で再スタートを切る。
老舗ミニシアターがこれからどんな“re:START”を切るのか? 
岩波ホールの岩波律子支配人に話を聞いた。

2月下旬にいち早く休業を決定。その決断に至った理由は?


 はじめに、岩波ホールが劇場の休業を決めたのは2月下旬のこと。まだシネコンなど多くの映画館は稼働している頃だった。その中で、いち早く劇場を閉める決断に至った理由はどこにあったのだろうか。

「正直申しますと、もう少しやりたい気持ちはありました。ただ、その時点で、爆発的な感染拡大が世界で起きていましたし、おそらく日本もその波は避けられない。そう遠くはないところで劇場を閉めなくてはならないだろうなと。
 その中で、やはり考えたのは安全面です。万が一の可能性でも、感染者を出してしまったらお客様に多大なご迷惑がかかりますし、スタッフの安全も守れないことになってしまう。また、一度、そういう事態が起きますと、やはりお客様もなかなかお越しになりづらくなる。どうしても足が遠のいてしまうと思うんです。それで、苦渋の決断でしたけど、いち早く、館を閉めることにしました。当時、上映されていた作品の配給会社さんにはご迷惑をおかけしてしまったんですけど」

 岩波ホールの場合、エキプ・ド・シネマの会(※世界の埋もれた映画を発掘・上映することを目的とした岩波ホールの会員組織。“エキプ・ド・シネマ”はフランス語で“映画の仲間”)の会員をはじめ、長年にわたって館を支持するファンが多い。そのことから分かるように、シニア層がメイン。映画館に長年通ってくれている常連への考慮もあったという。

「高齢の方の病状が悪化する事例が多く伝えられていましたから、やはり私どもとしてはひとりもそういう方を出したくない。大切なお客様ですから、なにかあってからでは遅い。それも早く決断した理由のひとつですね」

 さらに岩波ホールは自社ビルであることから、他のフロアへの配慮も考え、独自の判断が求められた。

「ビル全体のこととして考えなければならなかったところもありました。もし万が一、私どものホールで感染が起きてしまったら、テナントとして入ってくださっている各所の皆様にもご迷惑がかかる。皆様それぞれに経営がありますから、そこに支障をきたすようであってはならない。そこも考慮しました。
 現に、今回の劇場を開けるにあたっても、全フロアにご挨拶にうかがって、エレベーターで混むことがないようにといった対策をご説明して、再開に至っています。早く閉めすぎと思われた方もいらっしゃると思うんですけど、私どもとしては正しい判断だったのかなと思っております」

お客様が来ない、問い合わせの電話もない。休業期間中に思ったこと

 コロナ禍での、ミニシアターをめぐる大きなムーブメントとしては、クラウドファンディングの“ミニシアター・エイド基金”が記憶に新しい。有志が声を上げて始まったミニシアター・エイド基金は目標額を大きく上回り、3億円を突破。支援の輪が広がった。

 ただ、先に触れたように岩波ホールは自社ビル。大手メジャーのシネコンでもないが、テナントとして間借りしている多くのミニシアターともちょっと立場が違う。そういう微妙な立ち位置で、このムーブメントは遠巻きに見るしかないところがあった。

「置かれた状況、映画館としての気持ちとしては同じなんですけどね(笑)。これは仕方がないです。私どもとしては、自分たちでやっていくしかないなと思いました」

 ただ、こうしたムーブメントが起きたことはうれしかったという。

「ミニシアターをこれだけの方々が大切な場所と思ってくれていたことは、すごくうれしかったです。私どもの映画館にも、“少しでも早く開くことを待ってます”とか、“まだ始まらないんですか?”とか、皆様からの声が寄せられて、それが再開に向けての大きな励みになりました。
 年に1回、会員の方とお会いする会を実施しているんですけど、創立(1968年)した翌年から岩波ホールに通われている方もいらっしゃるんですね。お話しすると、映画とともに人生があったような方ばかり。私も気持ちは一緒です。ですから、私どもは映画を届ける側で、会員の皆様はそれを受け取る側ですけど、気持ちとしては映画の同志。そういう方がいらっしゃって映画館を支えてくださっていることを、あらためて実感する機会になりました。
 休業期間中はオフィスにいても電話が鳴らない。問い合わせのお電話がない。もちろん劇場にはどなたもいらっしゃらないわけで、これほど寂しいことはありませんでした。お客様と接する機会がまったくないことが、本当につらかった。お客様の声が、再開に向けての大きな原動力になったことは間違いないです。
 それから私どもの場合、配給会社さんらとそれこそ膝を突き合わせて、さまざまなことを徹底的に話し合う。題名ひとつでも100案ぐらい出したりすることもある。そうして1本の映画を皆様にお届けしているんですね。今回の休業期間というのは、この現場仕事のことを思い出しまして、配給会社さんをはじめとする関係者の皆様もまた同志なんだなと実感しました」

再開しようとしたら更なる問題が。上映する作品がない!

 劇場の再開を考え始めたのは、緊急事態宣言の解除が視野に入り始めた5月中旬ぐらい。ただ、ここで問題に直面する。

「私ども岩波ホールは、たとえば1カ月半ならその期間、1本の作品を途中で打ち切ることなく上映し続ける。でも、今回休業に入る前に上映していた作品の配給会社さんにはびっくりされたんですけど、その後上映を予定していた3作品に関しては、“上映するならばこういう不安な形ではなく、万全の形でやりたい”ということで、来年に公開を延期することですんなりとお話がまとまったんですね。
 ということで、その3作品が来年に回ってしまった。そのため、いざ6月ぐらいからの劇場再開が視野に入ったとき、8月22日から公開を予定している『シリアにて』までの間、上映する作品が不在といいますか。ぽっかり空白になってしまった。これは困ったなと(笑)」

 しかも、『シリアにて』公開後の今秋からは元々予定されていた改修工事が。劇場が再びオープンするのは2021年の2月となる。「このままではいけない。なにか映画をお届けしよう」ということで、急遽組まれた特集プログラムが<岩波ホールセレクション>だった。

「幸い、今回上映が中止や延期となった昔からおつきあいのある配給会社の皆様から、この機会にという声をいただいたので、リストアップしていただいたんですけど、結構いい作品の権利をまだお持ちで。かつて岩波ホールで上映してはいるんですけど、私たちもあらためて観てみたい作品がいっぱいあった。それで突貫工事じゃないですけど、急いでプログラムを組みました」

名監督たちとの思い出深い作品も。岩波ホール過去の名作を再上映

 プログラムは、ムヴィオラ配給作品『オレンジと太陽』が第1作目として6月13日から19日まで上映済みで、現在は同配給の『パプーシャの黒い瞳』を上映中。この後も、岩波ホールで上映された過去の名作が、配給会社ごとに次々と上映される。

「我ながらと言ったらおこがましいんですけど、名作シリーズと言っていい、なかなか見ごたえある作品がそろったなと思っております。いずれの作品も思い出深いのですが、中でも、ザジフィルムさんにお願いして実現したアニエス・ヴァルダ特集は組めて良かったです。(※アニエス・ヴァルダはベルギー出身の映画監督)
 昨年、お亡くなりになってしまったのですが、ヴァルダさんは本当にパワフルな女性で。もっと長生きするものと思っていたので、まだお亡くなりになったのが信じられないところがあります。何度かご一緒する機会に恵まれたのですが、私の中では“肝っ玉かあさん”と言いますか(笑)。社会活動家やフェミニストといったパブリックイメージがあると思うんですけど、おっかさんと呼びたくなる、真の意味で、強い女性でした。
 本当にお母さんみたいな人で、常に周囲に目配りしている。岩波ホールの前総支配人、高野(悦子)が存命だった頃、フランスでご一緒したことがあって、お昼を食べないかと言われたのでついていったら、なんとご自宅で。台所で料理を作り始めたら、ずっと作っていてテーブルに戻ってこないんです(笑)(※“高野”は正しくははしご高)。その後日本にいらしたときにも、私とたまたま一緒に帰ることがあったんですけど、“この後食べるごはんはあるの?”と聞いてくる。
 それから、銀座の山野楽器に行きたいということでお連れしたことがありました。なんでかなと思ったら、ビデオコーナーで夫であるジャック・ドゥミ監督のソフトをチェックし始めて、“コレは権利が切れてるはず”とかぜんぶチェックしていましたよ(笑)。それぐらい目配りの人でまめ。おそらくジャック・ドゥミ監督は相当、彼女に助けられたんじゃないでしょうか」

 岩波ホールとゆかりの深い監督といえばポーランドの巨匠、アンジェイ・ワイダも外せない。彼の作品は遺作となった『残像』が上映される。

「何度も来日してくれましたし、いろいろな思い出がある監督さんです。1987年に京都賞の思想・芸術部門を受賞されて、賞金が4500万円と聞いて、私たちは“これで次の作品が撮れるだろう”なんて考えていたら、ワイダ監督はこれを基にポーランドのクラクフに日本の美術館(日本美術技術センター)を作りたいと。それで高野(悦子)も協力して募金活動を一緒に行ったのはいい思い出です。日本の文化や美術を大切してくださる監督さんでもありました(※“高野”は正しくははしご高)」

 そんな<岩波ホールセレクション>だが、この上映の機会についてはさまざまな思いがあるという。

「本も映画もそうなのですが、再度観たり、読むと印象がずいぶん変わることがある。時を経て、自分も歳を重ねると、当時観たときには気づかなかったことに気づいたり、汲み取れなかった意味が分かったりと、新たな発見がある。あと、10年経てば、忘れていることもありますよね(苦笑)。
 今回の自粛生活で、私自身もいくつか映画を観直したりしたのですが、やはり印象がまったく違ったりする。より深いことを感じるときがある。良い映画は、何度も観ることで理解が深まる。より味わい深く感じられるものなのではないでしょうか。お客様にとって、1度観た作品と再会して、新たな魅力を体感する場になってくれたらいいなと思っております。
 あと、この特集上映期間の座席は、縦は1列おき、横は1席を空けるようにして、見えづらい位置の席も空けて、220席のうち60席のみでの上映になります。もちろん安全面に最大限配慮してのことではあるのですが、長く休業していましたから、これぐらいの席数でお客様をお迎えするのが私どもとしても万全を期せるかなと。もちろん多くの方にご来場していただきたい気持ちはやまやまなのですが。
 そういう意味で、劇場再開のウォーミングアップのようなところもある。ですので、お客様にとっても、映画館に足を運ぶウォーミングアップになってくれたらいいかなと思っております」

単なる知識ではない体験を得られる場。岩波ホールはそういう場でありたい

 前述のように、今回の<岩波ホールセレクション>、そして『シリアにて』の上映後は改装工事へ入る。

「映写関係、天井、椅子などのメンテナンスです。見かけはあまり変わらないと思います。新しくなったと思っていらっしゃったら、“どこが違うの?”と逆に驚かれるかもしれません(苦笑)。
 もう古いので内装なども変えたほうがいいのかなと思いつつ、今の若い方は“レトロ”と言ってくれて喜んでくださったりする。この雰囲気がいいとおっしゃってくれる外国人の方もけっこういらっしゃる。これも私どもの劇場らしさであり、なくしてはいけないのかなと。まったく別の映画館に変化していることはないので、安心していらしてください」

 劇場の再開は来年2月。そこからがまた新たなスタートと言っていいのかもしれない。老舗ミニシアターとしてこれからをどう考えているのだろうか?

「多くの方が当分は、密集することを避けたい気持ちを消すことはできないと思うんです。ですから通常に戻るにはかなり時間がかかることは覚悟しております。
 もう一方で、現在のような席数を限定して、ソーシャルディスタンスをとっての上映というのが、果たして、真のスクリーン体験、劇場体験、映画体験と言えるのかなと。やはり、多くのお客さんと場を共有しながら時間を過ごす。暗闇の中で、見ず知らずの人と観ることが真の映画体験ではないでしょうか。それがこのコロナ禍で、なくなってしまってはいけない。
 もちろん作品を楽しむことはDVDやVODでもできます。ただ、実感を伴うということに関しては、音楽にしても舞台にしても、ライブが長けている。映画を映画館で観るということも、変な言い方になりますが、“半ライブ”だと思うんです。演者や奏者は目の前にいませんけど、映画が代わりとなってくれて、体感としてこちらに伝わってくるものがある。
 そうやって身をもって実感したことは、自分でなにか物事を判断する際の素養を作るんです。情報として素通りしていかない。単なるデータで終わらない。自分の身に置き換えて考えたり、そのことに思いを馳せたりすることができる。そのように物事を感じたり、見たりすることができるのは、とても大切だと思うんです。
 単なる知識では得られない、体験できてこそ得られることがある。映画館もそういう場所のひとつではないか。岩波ホールはそういう場でありたいし、皆様が体感してなにかを得られるような作品を今も昔もこれからも届けていきたい。
 もちろん今回が再スタートではあるんですけど、岩波ホールとしては良い意味で変わらないといいますか。よく“愚直”と言われるんですけど、1本1本、映画を大切に届けることをこれからも続けていきたい。先々のことを考えても仕方がないので、そのとき、そのときでベストを尽くしていければいいかなと思っております」

[写真‐1]
『シリアにて』8月22日(土)公開

[写真‐2]
『パプーシャの黒い瞳』6月20日(土)〜6月26日(金)上映

[写真‐3]
特集:アニエス・ヴァルダ監督 (※写真は『落穂拾い』)7月18日(土)〜8月7日(金)上映

[写真‐4]
『残像』6月27日(土)〜7月3日(金)上映

ぴあ、2020/6/22(月) 18:00
支配人・岩波律子氏に聞く、ミニシアターの草分け・岩波ホールの“re:START”
(取材・文:水上賢治 撮影:源賀津己)
https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_aeee19f7-b6a5-4d8f-a621-954c49cd59f0.html

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映画『シリアにて』

 ヤッホーくん、昨9月4日金曜日、神田は神保町の岩波ホールにおりました。

 戦地シリアの今。
 死と隣り合わせの日常。
 アパートメントの一室に身を寄せる家族とその隣人。
 数々の映画祭を席巻し18冠を獲得した、今こそ世界に伝えたい、終わらない悲劇の物語。

 三児の母であるオームは、自らが住むアパートの一室をシェルターにして、家族と隣人ハリマの一家を市街戦の脅威から守っている。
 一歩外に出ればスナイパーに狙われ、爆撃が建物を振動させ、さらに強盗が押し入ろうとする。
 果たしていつまで持ちこたえられるだろうか…。
 第72回カンヌ国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した映画『娘は戦場で生まれた』や『アレッポ 最後の男たち』『ラッカは静かに虐殺されている』などのドキュメンタリーで繰り返し描かれてきた、死者数十万人、戦後最悪の人道危機ともいわれるシリア内戦の悲劇を、武器を一切持たない一般市民の女性の視点で捉えた、家族を守るための、いつ終わるとも知れぬ24時間の密室劇。

 映画『シリアにて Insyriated』(2017年)の公開を記念して、イラク戦争などの取材経験が豊富なジャーナリスト・映画監督の綿井健陽さんと、本作の舞台となるダマスカスへの留学経験もある東洋文庫研究員、柳谷あゆみさんのトークショーを開催いたします。

https://www.iwanami-hall.com/topics/event/3493

 そうなんです、映画を観てきました、お話も聴いてきたんです。

公式サイト
https://in-syria.net-broadway.com/

『シリアにて』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=3Wwyf1RrRe0

 3児の母であるオームは、自らのマンションをシェルターとして家族と隣人を市街戦の脅威から守っている。
 外の広場はスナイパーに狙われ、爆撃が建物を振動させ、さらに強盗が押し入ろうとする。
 果たしていつまで持ちこたえられるだろうか…。

 シリアの内戦を一般市民の目から見た緊迫のドラマ。
 監督は、フィリップ・ヴァン・レウ Philippe Van Leeuw。
 監督は、2012年に友人の父親がアレッポの住居から3週間出てこられないという話を聞き、危機感を募らせて早急に映画化する手段を講じたという。
 つまり、舞台をアパートの一室に限定し、24時間の出来事とした。
 脚本の信ぴょう性をシリア難民やシリア系映画人に読んでもらい、活火山の上に暮らすような家族の物語を仕上げていった。
 暴力を視覚化した衝撃描写でいたずらに煽る手法は避け、聴こえてくる音と住人の反応によって恐怖を伝える演出は、かの地の戦争に実際に立ち会っているかのような臨場感を醸し出す。
 血も凍る戦慄のドラマである。
 しかし、そのサスペンス性は映画としての見応えに繋がり、2017年ベルリン映画祭パノラマ部門で見事観客賞に輝いている。

(東京国際映画祭)
http://2017.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=113

 空からはロシア軍戦闘機の爆撃が、建物を一歩出ればスナイパーの銃撃が待っている内戦下のシリア。
 閉じ込められたマンションの一室で、愛する者の命を守るために、人はどんな行動をとるのか。
 ベルリン国際映画祭をはじめ、世界で計18冠に輝いた衝撃作がついに日本で公開。

 1974年以来、世界中から数々の名作を発掘し、上映してきた日本のミニシアターの草分け、岩波ホールが9月26日から来年2月5日まで、4ヶ月間の大規模な工事に入る。
 休館前の最後に上映される作品がこの『シリアにて』だ。

 2017年のベルリン国際映画祭パノラマ部門で観客賞を受賞し、45ヶ国以上で上映され、獲得した賞は少なくとも18を数える。
 本国ベルギーでは、アカデミー賞に当たるマグリット賞で作品賞、監督賞、脚本賞など6冠に輝いた。

 監督は、ベルギー人のフィリップ・ヴァン・レウ。
 これまで20年以上にわたり、フランスやベルギーの名匠たちの下で撮影監督を務めてきた。
 2009年にルワンダのジェノサイドを題材にした『Le Jour où Dieu est parti en voyage』(神が旅立った日、日本未公開)で監督デビューし、これが2作目となる。

『シリアにて』公開初日のあいさつに立った岩波ホール支配人の岩波律子氏が、監督の言葉として紹介したのは、「戦争映画ではなく、戦争についての映画」という表現だった

 確かに、戦争の恐怖をまざまざと伝える映画でありながら、戦闘のシーンはまったく出てこない。

 それどころか、マンションの一室からカメラが出ることすらない。

 しかし上空を旋回するヘリコプターの音、遠くから聞こえる爆弾の破裂音や銃声によって、まさに外は戦争中であることが分かる。

 周りの建物のどこかに、敵の狙撃手が潜んでいる。

 そのため、いつ始まるかもしれない空爆の危険にさらされながらも、一歩も外へ出ることができないのだ。


 監督はシリア人の友人に聞いた話から、この設定の着想を得た。
 友人の父親は2012年の暮れ、市街戦と空爆の激化するシリア北部のアレッポで、3週間にわたって自宅マンションに閉じ込められたという。
 監督はこの一人の老人に起きた出来事を、家族の物語にして脚本を書いた。
 さらに、一家の使用人、爆撃された上階から逃げてきた乳飲み子を抱える若い夫婦、遊びに来ていた娘のボーイフレンドまで登場させ、1日の間に部屋の中で展開する人間ドラマを描いていく。

 観客は、少ない会話の端々から背景や関係を推測しながら、極限状況に置かれた人間の姿を見つめ、究極の問いを突き付けられる。
 家族の命を危険にさらしてまで他人を救えるか。
 家の中に身をひそめて災厄が過ぎるのをただ待てばいいのか。
 動かぬことがかえって致命的になる可能性があるなら、危険を覚悟で外に飛び出すことも必要ではないのか?

 考えておきたいのは、監督がどこでもない架空の場所を舞台にこれを描こうとしたのではないことだ。
 その意図は原題の「InSyriated」という英語的な造語に表れている。
 シリアで起きている現実を喚起しながら、かつてのヒロシマ、ベトナムやバルカンのように、一般名詞として普遍概念化し、この次また、どこにでも起こり得る惨事として示そうとしたように思える。

 日本では毎年8月、戦争を題材とするドキュメンタリーや、映画、ドラマを目にする機会が多くなる。
 1年のうちで最も日本人が戦争について、平和の尊さについて、思いをめぐらす期間だ。
 終戦から75年後の今年も、過去の戦争について学び、数々の悲話に触れ、二度と戦争を起こしてはならないという教訓を、あらためて胸に刻んだ人も多かったはずだ。

 ところが世界には、そんな季節行事のような回顧ではなく、進行中の戦争を日々生きている人たちがいる。

『シリアにて』には、それを見過ごしてはならないというヴァン・レウ監督の強い決意を感じる。

 爆撃によって命を奪われる兵士や市民を生々しく描いて視覚に訴えるのとは違う手法だからこそ、惨劇の舞台から遠く離れた私たちにも、より現実感のある恐怖となって伝わってくる。

 戦争を新たな視点で描くこの野心作との出会いは、目に見えない脅威に対する想像力の質が問われる今、貴重な思索の時間を与えてくれるに違いない。


[写真‐1]
家の外で一体何が起きたのか? フランス映画を中心に輝かしい経歴を持つパレスチナ出身の名女優、ヒアム・アッバス(右)が戦地に赴いた夫に代わって一家を守る母を熱演

[写真‐2]
暴行や略奪も横行し、市街の至るところに「敵」が潜むのが内戦下の状況。扉の向こうがすでに戦場なのだ

[写真‐3]
乳飲み子を抱えて階下に避難してきた若妻ハリマを演じるディアマンド・アブ・アブードはレバノンの実力派女優

[写真‐4]
死と隣り合わせの状況で、行動の選択が問われる

ニッポンドットコム、2020.08.30
映画『シリアにて』
留まるべきか、出るべきか、命懸けの二者択一を迫られるとき

(松本 卓也)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c03099/#
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2020年09月04日

日野秀逸「日本型”無”福祉国家」

。。。

4) 日本型福祉社会

(1)『新経済社会7ヶ年計画

 公式に日本型福祉社会が唱えられたのは、1979 年の『新経済社会7ヶ年計画』(1979年8月10日 閣議決定)である。
 ここでは、自助・互助が強調 された。
 次のようにのべている。

「個人の自助努力と家庭や近隣、地域社会等の連帯を基礎としつつ、効率の良い政府が適正な公的福祉を重点的に保障するという自由経済社会のもつ創造的活力を原動力とした我が国独自の道を選択創出する、いわば日本型ともいうべき新しい福祉社会の実現を目指す」

 この文章には、現在に至るまで繰り返し財界や保守政党から提出される社会保障改悪の「論拠」ともなるキーワードが並んでいる。
 まずは自己責任であり、次に互助が並び、最後に政府が出る。
 この政府は効率の良い=小さな政府であり、「重点的」になされる給付は「適正」である。
 重点的とは給付の絞り込み・削減を意味するし、適正とは 80年代に強行された生活保護適正化を想起すれば足りる。
 要するに、窓口で申請を実質的に受け付けない行政対応である。
 また「医療費適正化」も繰り返し持ち出された。
 本質は憲法第25条による給付を極力値切ることである。
第25条
 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
A は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の 向上及び増進に努めなければならない


(2)『日本型福祉社会の構想』(1979年)=日本の福祉水準が国際的に高水準

 1979年8月に自民党が『日本型福祉社会』を刊行した。
 自由民主党全国組織委員会国民生活局が編集した『日本型福祉社会の構想』が1982年5月に出た。
 文字通りに「日本型福祉社会の構想」を題名にした本であり、簡単にでもこの本を紹介しておこう。
 その基本的スタンスは、日本の福祉水準が国際的に高水準であるというものである。
「日本の福祉水準は、国際的にみても最も高い水準に達し」「世界にも誇りうる福祉国家となってきている」(3ページ)と、手放しで自画自賛している。

 客観的にみて当時の日本の福祉水準は、W・A・ ロブソン(イギリスの行政を戦後30年以上に亘ってリードした行政学者で、日本にも美濃部都政の1970年代から調査や都政への助言をしている)『福祉国家と福祉社会』(辻清明、星野信也訳、東京大学出版会、1980年)では、「日本は未完成もしくは、停滞状態にある福祉国家と見ることができる」(xviiページ)、あるいは「日本は福祉国家 の初期発展の段階にある」(同前、xixページ) と評価した。
 この見方が、多数の研究者の評価である。
 自民党の評価は、日本の福祉は十分になっ た。これからは、むしろ「西欧福祉国家におけるいわゆる先進国病の悪化」(『日本型福祉社会の構想』3ページ)を回避しなければならない、という主張を持ち出すためになされたものである。

(3) 日本型福祉社会の骨格 ─ 家族と企業への依存

『日本型福祉社会論の構想』は、自己責任+家 族+近隣+企業を柱とし、政府の責任を免除した特異な「日本型無福祉国家」を詳細に語ったものである。

「日本社会は、次のような特質を有して いますが、これらは各個人、各家庭、各職場にお ける自立自助の努力が、いかに真剣に追求されているかを示しているものともいえましょう。
@ 貯蓄率、生命保険加入率が世界一高いこと。
A 企業組織における職場の人間関係が、家族的性格を強く持っていること。
B 老親と子ども世帯の同居率が著しく高く、家庭が最も大切なものと思われていること」
(同書、375ページ)という主張が骨格 をなしている。

 @ の貯蓄では、1980年代半ばまで日本の家計貯蓄率はスイスと並ぶ世界のトップクラスであった。
 しかし、社会保障の不備を自分で防衛するために貯蓄せざるを得なかったのである。
 貯蓄の面から言えば、政府が社会保障をやらないから、やむを得ず貯蓄をした段階から、社会保障をやらないので、貯蓄を取り崩すか、そもそも低賃金・低所得のために貯蓄ができない、という段階になっていると言えよう。

 A の「企業組織における職場の人間関係が、家族的性格を強く持っていること」は、企業が社会保障の肩代わりをし、労働者が家族を含めて自らの生涯を企業に委ねることを意味する。

 B の「老親と子ども世帯の同居率が著しく高く、家庭が最も大切なものと思われていること」は、果たして誇るべきことであろうか。
 個々人の独立と平等が重視され、自分の進路を自分で決めることが当たり前の社会では(例えばスウェーデン等)、老親および高卒後の子どもと同居するのは珍しいことである。
 夫婦を単位とした世帯が、安心して暮らしていけることが先決であり、その上で、比較的頻繁に子どもや老親と会うという生活スタイルを築いている。
『日本型福祉社会論の構想』が大家族を誇るのは時代錯誤であり、特に女性を犠牲にして、児童福祉をサボり、高齢者福祉をサボる、自民党の姿勢が問われるべきである。

5)「新時代の『日本的経営』」と企業の社会保障からの撤退

「臨調・行革」が進行する中で、1985年9月にニューヨークのプラザホテルで先進5ヶ国蔵相・ 中央銀行総裁会議が開催され、アメリカの貿易不 均衡解消を名目とした協調介入についての合意がなされた(プラザ合意)。
 対日貿易赤字の是正を狙(ねら)い、円高ドル安をもたらすものであった。
 翌日には円は約20円上昇、1年後にはほぼ半減し、 120円台で取り引きされるようになった。
 日本はこれによって輸出産業が大打撃を受け、円高不況に陥るきっかけをつくった。
 特に中小零細輸出企業が深刻な状態になり、多くの業者が自殺に追い込まれ、戦後自殺の第2のピークをつくった。
 ちなみに第3のピークが1998年以降現在に続くものである。

 プラザ合意は、輸出に軸足を置くわが国の大企業に、製造・営業拠点の国際化をもたらした。
 いわゆるグローバル化である。
 国内においては、総賃金の抑制と下請け単価の切り下げを中心とする、労働者・中小業者への厳しい攻撃をもたらし た。
「グローバル化」という新たな条件下での利潤確保体制を築くために、財界主流は日本社会の大改造(「構造改革」)に乗り出した。
 1995年には 当時の日経連が「新時代の『日本的経営』」を出 し、従来の雇用政策を転換した。
 幹部社員を想定した「長期蓄積能力活用型グループ」は全体の3分の1以下でよい。
 あとは、特殊な能力のある技術者などの「高度専門能力活用型グループ」は年俸制、任期雇用で使えば良い。
 最後の「雇用柔軟 型グループ」は全体の過半数を占めるものとされ、定型的業務を中心とし、派遣や下請けで対応する。
 年俸制の労働者や派遣・下請労働者の社会保険を負担する必要はない
 こういう内容の労働力政策である。

 この方針が実施され始めて15年余りになる。
 この戦略の底にあるのは不安定雇用を常態化することであり、人減らしである。
 したがって、リストラが先行し、賃金は低下し、下請け・孫請け企業への単価切り下げや融資中断に会い、倒産は急増し、シャッター通りが日本中に広がった。
 多くのホームレスを産み出し、自殺者を産み出した。
 さらに重大なことは、幹部社員を想定した「長期蓄積能力活用型グループ」(3分の1程度)以外の 労働者に対しては、企業は社会保障の責任を持たないという方針である。
 第2、第3のグループは、医療で言えば「国民健康保険」に加入する。
 国保の保険料(税)が非常に高いことは周知の通りである。
 このルートから無保険者(国保証明書や短期保険証を発行された人)が発生し、受診を阻まれてくる(湯浅健夫「71人の死が告発したも の 皆保険制度の崩壊──国保など死亡事例調査 から」『月刊保団連』9月号)。
 また、無・低年金者へのルートにもなる。

※ 保団連は「全国保険医団体連合会」の略。全労連は「全国労働組合総連合」の略。

 かつて財界は自民党と共に「日本型福祉社会」 などという、国民・労働者の生活と社会保障に対する政府の責任を軽減し、その分を個人、家族、 地域、とりわけ企業に委ねる戦略を打ち出したが、今度は企業が雇用にも責任を負わず、社会保障にも責任を負わない、無責任戦略を持ち出したのである。

。。。

『月刊全労連』2012年7月号(通巻185号)
論文
いまこそ総合的生活保障としての社会保障を
(日野秀逸、1945年生まれ、医師、医学博士、東北大学経済学部教授・名誉教授、労働総研常任理事)
https://www.zenroren.gr.jp/jp/koukoku/2012/data/201207-185_01.pdf

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三浦まり「日本の国家家族主義と自助・共助・公助」

自民党の 「国家家族主義」イデオロギー

 長期にわたって政権に就いてきた自民党 が「国家家族主義」と呼ぶべきイデオロギーを保持しており、これが桎梏となり家族支援策が発展して こなかったことを明らかにしたい。

 国家主義は他の先進民主国家では見ることできない日本の保守の独自かつ根底にある価値観といえよう(中野晃一『戦後日本の国家保守主義̶内務・自治官僚の軌跡』岩波書店、2013年)。
 それは福祉を社会権としてはとらえず、自助を基本として、それでは立ち行かない場 合にのみ、なかば恩恵として福祉政策を与えるという発想である。
 自助・共助・公助と区分する呼び方が近年多用されるが、この場合の公助が国家による福祉に相当し、臨時の恩恵的な措置として位置づけられる。

 ヨーロッパでも「補完性の原理」のもと、まずは身近である家族・地域社会で支え合い、最後に国家が役割を担うという発想はあるが、ここでは国家が最終的に社会権を担保する存在として位置する。
 他方、国家主義の場合は国家の存続が第一の目標としてあるため、国民が国家の負担になることは避けられなければならない
 国家と家族の関係に光を当てると、国家主義のあり様はより鮮明になる。

 国家は家族を支援するものではなく、家族が国家を支えるのであり、できるだけ国家に負担をかけないよう自助努力と家族福祉を強いられる

 日本も大陸ヨーロッパも「家族主義」的であると括られることが多いが、単に福祉の担い 手として家族の役割が大きいことだけに注目すると、大切な政治的文脈を見失う。

 重要な点は、家族は国家に犠牲を強いられることはあっても、国家に対して家族を支援するよう権利を求める可能性は閉ざされている点である。
 こうした日本の家族主義は国家家族主義として理解しなければ、日本の家族支援の手薄さは理解できない。

 家族主義では、家族は国家に対して権利を求める主体として位置づけられていないが、逆に国家は家族をどのように統制しているのであろうか。

 欧米および日本における近代家族を規定する法制度と して、丸山茂(※1)の議論に基づき二宮周平(※2)は異性愛規範、法律婚規範、嫡出性規範、永続性規範(限定的な離婚)を挙げる。

※1 丸山茂「家族の変容と国家」慶応義塾大学経済学部編『市民的共生の経済学3 家族へのまなざし』弘文堂、2001年。  
※2 二宮周平「新しい家族が求める『自由』―家族法の視点から」岡野八代編『自由への問い7 家族』岩波書店、2012年。

 さらにこれらの法制度を支える基本原理として家父長制と性別役割分担が存在する。
 近代家族を支える法制度は欧米先進民主国において徐々に変革が進み、同性婚、婚姻登録をしない共同生活の保障、婚外子差別の解消が整えられつつあるが、日本では婚外子の相続差別が撤廃された以外は進捗が見られず、選択的夫婦別姓さえ実現していない状況である。
 さらには当事者の協議と合意を優先する法構造となっているため、離婚に裁判所が関与することは稀であり、結果的に当事者間の力関係や社会的圧力、つまりは残存する家父長制と性別役割分担の影響をうけやすいという特色を有する。
 性別役割分担を前提としてジェンダー化された二重構造̶つまりは雇用の場における男女格差̶が維持されている点をこれまで述べてきたが、個々人が性別役割分担を引き受けるという「選択」を行うことは、私的な領域における「当事者の合意」として法的に合理化されている(二宮、前掲書)。
 家族法と雇用環境は女性を婚姻に取り込み、安定的にケア労働に従事するよう促す作用を持っているという意味で循環構造を形成しているのである。
 日本の国家家族主義においては、国家は家族を基礎単位として社会を統制し、またその家族が国家に代わって福祉機能を果たすことを求めている以上、近代家族法制度は決して緩めてはならない法規範として中核に据えられているのである。

政治における発露

 この国家家族主義が現在の政治において発現している幾つかの例を引いてみよう。
 家族による福祉の奨励はさまざまな局面で確認することができる。
 まず、自民党が野党にあった2012年4月に公表した改憲草案において、かなり率直に自らの信奉する思想を語っている。

 全面的に書き換えられた憲法前文には、「日本国民は、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」という文言が入り、家族の助けあいという自助と社会全体の助け合いという共助が強調されている。

 さらに24条では、「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本とし て、相互の協力により、維持されなければならない」という原文から、両性の合意のみの「のみ」が削除された。
 当事者の意思だけではなく家族・共同体の利益も勘案されるべきことがここからは窺われる。

 さらに重要なのは、24条に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」との一項を付け加えたことである。

 自民党は世界人権宣言16条を参照にこの条項を加えたと主張するが、世界人権宣言にあるような、「成年の男女は家庭をつくる権利を有する」であるとか、「家族は社会および国家の保護を受ける権利を有する」という重要なくだりは自民党案には入っていない。

 自民党自身、この規程を設けた理由は、「家族の絆が薄くなってきていると言われています。こうしたことに鑑みて」新しい規定を設けたと説明している(※3)。

※3 自由民主党「日本国憲法改正草案Q&A」増補版(2013年)

 国家が家族を支援する のではなく、自分たちで支え合うべきであるという明快なメッセージとなっている。

。。。

 さらに警戒すべきは新自由主義と国家家族主義の結合である。
 本稿が新自由主義的母性として言い表しているように、両者は女性活用と母性活用という点で手を取り合っている。
 第二次安倍政権下において、女性の活躍推進法案と女性の健康の包括的支援法案の検討が進んでいるのは偶然ではない。
 経済再興のためにも健康な母親が早期になるべく多くの子どもを産むことは望ましいと考えられているのである。
 (少なくとも短期的な)経済合理性に貫かれた新自由主義と、古色蒼然たる国家家族主義が伴奏関係にあることは矛盾しているように見えるかもしれないが、両者は「女性の客体化」の点で一致している。
 目的は異なるにせよ、女性を何らかの目的の道具として位置づけ、活用している点で両者は共通している(※4)。

※4 三浦まり「女性『活躍』推進の罠」『世界』867(2014)pp. 52-58.

。。。

お茶の水女子大学『ジェンダー研究』第18号(2015)
〈特集論文〉
新自由主義的母性―「女性の活躍」政策の矛盾
(三浦 まり、上智大学法学部教授)
http://www2.igs.ocha.ac.jp/wp-content/uploads/2016/02/18-Miura.pdf

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菅氏、「国の基本は自助、共助、公助だ」

 毎月3日、国会議事堂前で暴政に抗議するスタンディングが始まったのは5年も前のことだ。毎月3日としたのは憲法記念日が「5月3日」であることなどによる。
 当時、安倍政権は憲法9条の解釈を勝手に変更して集団的自衛権の行使を可能にしようとしていた。そして思い通りになった。
 安倍首相が先月8月28日、辞意を表明した。それでも、きょう3日は170人が国会議事堂前に「アベ政治を許さない」と書かれたプラカードを持って集まった。
 作家の澤地久枝さんが呼びかけ人だ。抗議運動が始まった頃、澤地さんは元気にプラカードを持ってスタンディングしていたが、今では車イスに乗っての参加となった。安倍政権の歳月の長さを感じずにはいられなかった。
 田中が「安倍政権がやっと倒れましたね」と水を向けると、澤地さんはウンザリした表情で「長すぎた」とポツリ。
「『アベ政治を許さない』運動を今後どうしますか?」と聞くと「皆で決めたらいい」と答えた。
 約170人の多数決を取ったところ、圧倒的大多数で「アベ政治を許さない」運動の継続が決まった。
 情勢によって「アベ『的』な政治を許さない」などと文言を微妙に変えることも決まった。

 澤地さんの言葉が事態の深刻さを物語っている―
「アベ政治はスガによって拡大されて悪くなる。選挙民の声がどこにありますか? 私たちが思うような総理が誕生すれば、私たちの運動の成果ですが、形勢はそうではない」。
 スタンディングのメンバーである作家の落合恵子さんは開口一番「私たちで(安倍を)引き摺り降ろせなかったことが悔しい」。そして「負のレガシーを問い直さなければならない」と呼びかけた。

「アベ政治を許さない」運動はまだまだ続きそうだ。


[写真‐1]
きょうは澤地さんの90歳の誕生日でもあった。炎暑であったにもかかわらず、170人もが参加し「アベ政治を許さない」のプラカードを掲げた。=3日、国会議事堂前

[写真‐2]
常連参加者の女性は「このままだともっと悪くなる」と菅政権を憂えていた。=3日、国会議事堂前

田中龍作ジャーナル、2020年9月3日 16:49
菅首相になっても「アベ政治を許さない」
https://tanakaryusaku.jp/2020/09/00023560

菅義偉官房長官総裁選出馬表明

9月2日に自民党総裁選への出馬表明をおこなった菅義偉官房長官。
官房長官の立場から、安倍首相の政策を引き継ぐ方針を打ち出し、後継者のイメージを植え付けている。
<首相辞任表明後に熟慮>
 菅氏はこれまで公式の場で首相への意欲を一度も表明していないが、「この国難にあって政治の空白は決して許されない」として、出馬は「道半ばの首相辞任表明後に熟慮を重ねて判断した」と説明した。
 政策面では「新型コロナ対策を最優先するのが務め」と強調するとともに、「安倍首相が全身全霊を傾けて進めてきた取り組みをしっかり継承し、さらに前に進めるために持てる力を尽くす」と述べた。
<状況みて金融政策「更にしっかり進める」>
 政府・日銀が第2次安倍政権発足直後に結んだ政策協調を維持するかとの質問に対して「アベノミクスの成果で、経済が厳しい状況でも為替がドル円105円だ」と強調した。
 金融政策の出口戦略を問われると、「今の(経済)状況では雇用を守るため、状況をみて金融政策を更にしっかり進める」とし、強力な金融緩和と財政出動を柱とする「アベノミクスはしっかり責任を持って前に進めていく」と明言した。
 これまで菅氏が取り組んだ政策実績としては、携帯電話料金の引き下げを挙げ、今後も事業者間で競争が働く仕組みを徹底したいと語った。省庁の縦割りを廃した水害防止のダム放流も実績として披露した。
 今後は、これまで注力してきた地方の活性化や、北朝鮮による日本人拉致問題の解決にも取り組む考えを表明。コロナ対策を念頭に「目の前の危機を乗り越え、少子高齢化や外交安全保障、とりわけ拉致問題、憲法改正など山積する課題に取り組む」と語った。
 自民党内で検討されている敵基地攻撃能力の保有については、与党と議論して進めると述べた。
<森友「結論出ている」、政府は国民からの信頼必要>
 安倍政権の負の遺産とされる森友学園・文書改ざん問題については、「財務省、検察の捜査も終わっておりすでに結論が出ている」との認識を示した。桜を見る会については「国会での指摘を踏まえ開催を中止し今後のあり方を見直している」と説明した。
 同時に「国の基本は、『自助、共助、公助』だ。自分でできることは自分でやり、地域や自治体が助け合い、政府が責任を持って対応するという、国のあり方を目指すには、国民から信頼され続ける政府でなければならない」とも述べた。
出典:菅氏が自民総裁選に出馬表明、「安倍政権の政策継承し前進させる」 9月2日 ロイター通信

菅義偉官房長官の「自助・共助・公助」は国の基本なのか?

 菅官房長官は記者会見上で「国の基本は、『自助、共助、公助』だ。」という発言をしている。私はこの発言に懸念を有している。
「自分でできることは自分でやり、地域や自治体が助け合い、政府が責任を持って対応する」となかなか否定しがたい言葉を発せられている。
このもっともらしい言葉が安倍政権でも厄介だった。
 自助、共助と呼ばれる努力をし、それでも苦しかったり、困っている場合、政府が責任を持って対応してきただろうか。
 つまり言葉に内実が伴わないのである。
 国に言われるまでもなく、公助としての社会保障政策が弱い日本では、すでに全ての人が可能な限り、自分のことは自分でやりながら生きている。
 例えば、どれだけ過酷な労働環境でも働かなければ暮らしが成り立たないので、懸命に無理な働き方をして我慢もしている。
 いわゆるブラック企業などと労働者自身から揶揄する言葉が出て、海外でも驚かれるほど長時間労働による「過労死」が起こっている。
「公助」が生活を下支えしないので、いくら過酷でも仕事を辞められないのである。
 また、家族や仲間、友人、地域の関係性、ボランティア、福祉サービスに支えられ、生きている場合もある。
 それでも個人や家族では、新型コロナ禍など不確定なリスクに備え切れないから「公助」が責任を持たなければならない。
 国がおこなうべきは自助や共助を持ち出すよりも先に公助の整備だろう。
 早速、以下のように、Twitter上でも懸念を示す言葉と賛同が広がっている。
 菅氏が掲げた政治理念が「自助・共助・公助」だって。
 役所言葉でこのフレーズは、自助共助でどうしてもできないことだけ公が力を貸すよ、という意味です。つまり、国は積極的には何もやらないよ、ということです。
自助共助公助.jpg

子どもの貧困対策でさえ「公助」を強めないで「自助」「共助」まかせ
 例えば、わかりやすく子どもの貧困対策を取り上げてみたい。
 2018年の子どもの貧困率(17歳以下)は13.5%(厚生労働省2020)だった。
 2015年の子どもの貧困率は13.9%であるため、0.4ポイント改善しているように見えるが、新基準で計測した場合、14.0%という数字になる。つまり、子どもの貧困対策は進んでおらず、相変わらず約7人に1人の子どもが貧困状態にある。
 政策効果が見られない。

 シングルマザーを中心とした「大人が1人」のひとり親世帯では48.1%の貧困率であり、パートナーと離別・死別を経験しただけで、約半数が子どもを抱えて貧困に陥っている。世界各国と比較してもあり得ない数字である。

 安倍政権では定期的に子どもの貧困対策会議を開催しながら、政策推進に力を入れているように見せてきた。
 ただ、実態は何ら改善が見られていないのである。「やっている感」だと非難されても仕方がない。
 新型コロナ禍でも、パートやアルバイト、派遣で働く親たちが自分たちで何とかしようと必死に耐えてきた。
 ボランティアでは、子ども食堂やフードパントリーの食材提供、衣料提供などもおこない、市民団体・ボランティアも共助で、子どもの貧困と懸命に向き合っている。
 しかし、国は「政府が責任を持って対応する」と言いながら、何をしてきただろうか。
 子どもの貧困対策として、ほぼ効果的な政策は打ち出していないではないか。
 一貫して過度な自助、共助まかせであり、これ以上は限界だと伝えても何もしないのである。
 むしろ、公的な責任で対応するのではなく、あくまで地域福祉推進、地域共生社会づくり、というきれいな言葉を利用して、ボランティアまかせ、安上がりで無責任な福祉体制を構築してきた。

 つまり国は何もしたくない、財源もないから共助で勝手に考えて勝手にやれ、というだけである。
 他の先進諸国では、子どもの貧困対策として、生活保護による支援、家賃補助、教育費無償化、男女の賃金格差是正など、具体的な公助政策が実施されている。
 だから子どもの貧困率を低く抑え込む力が働く。
 日本のように、自助、共助がすでに限界で効果が薄いにもかかわらず、国が手を差し伸べないのも珍しい。

 強調しておきたいのは、貧困対策として、自助や共助で対応可能な範囲はすでに大幅に超えている。
 これからも政治が形式的にやっているフリをして、子どもの貧困などを政治利用する醜悪な姿は見たくない。
 実効性のある政策を打ち出すなら、自助や共助などを持ち出さず、懸命に公助を追求すれば良いはずだ。


Yahoo Japan! News、2020/9/3(木) 16:11
菅義偉官房長官「国の基本は『自助、共助、公助』」
もっともらしい危険な言葉。国の基本は『公助』

(藤田孝典・NPO法人ほっとプラス理事、聖学院大学心理福祉学部客員准教授)
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200903-00196527/

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2020年09月03日

中村文則 “蓮は泥より出でて泥に染まらず”

”公正なはずの世界”で、社会の悪化は加速する

「人に迷惑をかけたくないと思うので、人前ではスイッチを入れて明るくしているだけですね。小説のほうが本当の自分です」

 ダークな作品世界とは異なり、中村は明朗に歯切れよく話す。だがその目は、決して人間に警戒心を解かない野生動物のようだ。

 コロナ感染拡大を受け、7都府県における緊急事態宣言が発令された直後。インタビュー取材は広い会議室の中で社会的距離を保ち、全員マスク姿で行われた。今回のコロナ禍では初期にインフォデミックという象徴的な造語も出たほど、ネットを介した社会不安と憎悪の増大が特徴的だ。コロナ社会は中村の目にどう映っているだろう。

「僕自身は、このウイルスは世界全体が悪いほうへ向かう速度を劇的に上げてしまうと考えています。世界的な経済好景気という流れはまやかしだとずっと思っていたんですが、コロナによって差別や格差というものがまた浮き彫りになり、しかも広がってしまった」

 差別とは公衆衛生や快不快と関わった途端に激烈になるものであることは、人間の歴史が証明してきた。

「究極的には、自分か自分以外かということになってくる。断絶は進むでしょう。人と人との距離は離れ、より人は内向きになっていく」

 中村は2018年10月から約1年間にわたり、中日新聞など4紙の朝刊で小説「逃亡者」を連載した(幻冬舎より2020年4月刊)。第二次世界大戦中、日本軍のある作戦を劇的な成功に導いたと言われる伝説のトランペット”熱狂”を隠し持って追われ、ひたすら逃げる主人公。物語の終盤、黒い大きな建物がそびえ立つ。

「それは人災を表しているんです。今、コロナは天災に近いものですが、コロナ後に起こることはおそらく人と人の断絶の果てに起こる、何らかの人災。これからどんどん悪化する社会にどういう言葉と物語が必要だろうかという思いでコロナの前に書いた小説が、ちょうど当てはまってしまったなという感じはありました」
 
 中村がコロナ発生以前から感じ取っていた人災とは「公正世界仮説による個人攻撃」だという。公正世界仮説とは、世の中は公正で安全で秩序のある世界だと信じたい人びとの認知バイアスを表す心理学用語だ。世の中が理不尽で不合理なものだと知ると、人間は無力感と恐怖に耐えられない。

「だから公正世界仮説を信じる人は、社会的な問題が起こった時、それを社会システムのせいと考えず被害者の落ち度だと責めるんです」

 近年の日本で、思い当たることの多い話である。

「この傾向は日本中に広がっている。コロナにしても、検査の絶対数が圧倒的に少ないという事実を無視して『感染者が少ない日本はすごい』と持ち上げる人もいる。今の状況になってさすがにそう言う人は減りましたけどね。これを読んでいる方々にはいろいろな政治信条を持っている人がいらっしゃると思うんですが、僕自身は安倍政権の特徴である、実体よりイメージ優先、虚偽と隠蔽、個人を蔑ろにする傾向に危機感を持っています。有事においてこれは最悪です」

今と戦前戦中の空気はすごく似ている

 中村は「例えば、コロナの問題で非常に厄介なのは休業補償の問題です」と指摘した。

「この政権は十分な補償を提示せずに補償しているフリをする傾向がある。そんな政権を擁護すると、結果的に個人攻撃につながることに、多くの人は気づいていない。補償がないから休めないという現象に対して『国がもっと補償すべきだ』と言うのではなく、『いや国はちゃんとやっているんだから我慢しろ』という非難が出るようになってくると、『うまくいかない人は努力が足りない』とか、『いざというときの蓄えがないお前が悪いんだ』ということになる。そんな殺伐とした個人攻撃が広がっていくんです」

「この先には日本のさらなる右傾化がやってくる。さらに、過度に個人を攻撃する方向性に向かいます」と、中村は予言する。

「今回の小説でも第2次世界大戦に着目しています。公のシステムを人々が信じれば信じるほど、個人が生きづらくなってしまう。すごく似ているんですよね、戦前戦中の空気と今の時代の空気って」

 戦時中の日本で、”うちの息子は戦地へ行ったのにあそこは行っていない”という相互監視が強まった。現代も”あそこは自粛しているのにここはしていない”という批判は、完全に社会正義の顔をしている。

「時代はつながっているんですよね。戦時中も感動ポルノが多くて、日本は大丈夫だ、とにかく日本は絶対勝つと、人は自分の聞きたいことしか聞かず、マスコミもみんなが聞きたいことしか言わず、フェイクニュースも今に劣らずたくさん流されました。その結果のあれですから」

 中村は、近代国家日本の成立にも疑念を感じていた。

「今の政治の土台にあるのは明治だと思うんですが、今の政権は結局、明治時代の政治を幼稚に再現しようとしていると僕は考えているんです。明治はまだ新しいですし、日本古来の伝統ではない。小説でも、明治というちょうど日本が新しく始まるところでも起きていたキリシタン弾圧を書くことによって、日本の国家のスタートとはそもそもこんな感じだったというのを見せたかった。これもまた、現在とすごく共通していた」

『逃亡者』では、中村の筆は現在と過去、ヨーロッパとアジアを目まいの起きるようなスピードで走り抜け、暴力や狂気、ヘイトに満ちた暗い争いの歴史や政治をみるみるうちに巻き取っていく。すべてを連れて今の時代へと帰着させる技に、表層に満足せず事実を抉り込むような中村の歴史観、政治観の真骨頂を見るようだ。

「思い返すと、僕は18年前のデビューからずっと公正世界仮説には沿っていないものばかり書いてきました。人びとが求める物語を聞かせるのは物語を作る側として本当にいいことなのか、本当に提示するべき物語とは何か。僕が今回、小説を書く際に立てた問いです。世の中に溢れている物語は公正世界仮説に沿っているものかそうでないかで大きく二分できます。日本の御伽噺しかり、ものすごく広がり受け入れられる物語は、大体沿っているんです」

リベラルであるとは、生きにくい者の側に立つこと

 保守政権に厳しい視線を投げかける中村に、創作者としてリベラルであるとはどうあることかと尋ねてみた。

「生きにくい人たちの側に立つ、全体に押し潰されそうになる個人を大切にするということが基本的なリベラルの立場だと思います。だから僕は今の政権のやり方を看過できない」

「正直言うと、政権批判なんかやらないほうがよっぽどいいんですよ」、中村は目を落とす。

「でも本を出して読者に読んでもらう小説家である以上、やはり避けられない。僕が政治や社会に対してまったく興味がなければ、政治的なことを言う必要なんていっさいないんですけれど、そうではないから言います。作家とはそういうもの。1人称で主人公と一緒に考えたり世の中を見たり、必然的に個人に寄り添う。世界のブックフェスティバルにもいろいろ参加しますけれど、差別など感じたことがなく、ものすごく美しい時間が流れています。本や小説を読む人は、人を内側から見て、個人に寄り添う癖を持っている人が多いからとも感じます。社会的に発言できる立場にある人が思っていることを恐れて黙っているのは、読者に対して誠実ではない。だから僕は言うべきことを言うわけです」

インターネット言論は論理的じゃないものも多い

「批判の中身を見てみると、政治的なことも、歴史についても、こちらはかなり調べて書いていますから、論理的な指摘というより、ただただ政権を批判するなって、それしか言われていない。自分に自信がない時に強い国家と同化したいという彼らの気持ちはわかるんです。それは何も生まないけれど、そういう気持ちも無視しないように、今回の小説は書きました。自分たちの政権が駄目と思うのは恐いし、考えるのも面倒だから、大丈夫と思いたい心理が働く。大丈夫と思いたいから、問題が発生した時に国にではなく、個人に責任を転嫁する。この流れを断ちたい」

 中村自身、大学を卒業してから25歳で新潮新人賞を受賞し作家デビューするまでの2年間は、言葉と思想がぐるぐると渦を巻く若者だったであろうフリーター時代がある。

「インターネット言論は論理的じゃないものも多い。小説にも書きましたが、発光する画面を見ている時、人間はどうやら前頭葉が抑制的になるらしいと。前頭葉が抑制されている時の言葉なので、そりゃネット議論は劣化しますよね。本音を言うと、もしSNSがなくなったら、確かに大きな恩恵は失いますがずいぶん世の中は良くなると思います」

 デビュー以来18年。中村は専業作家としてすでに21冊の本を出版し、芥川賞、大江健三郎賞をはじめとする各賞を手にし、著作は15の言語に翻訳され、世界からも注目を浴びてきた。そして近未来の独裁政権を描いた『R帝国』の文庫版(中公文庫)も、5月の発売を待つ。ノワール作品への貢献を評価されてアメリカでデイビッド・グディス賞を受賞したほどの重厚な作品世界だけでなく、小説家としての中村の生き方に憧れて支持する読者も多い。

「今回の『逃亡者』は重くて長い? いや、僕のこれまでの作品と比べると、たぶん最近の中では随分読みやすいです。僕の読者さんなら楽勝です。だって僕は、純文学作家ですからね。僕がそんな甘ったるいわかりやすいもの書いたら、読者さんが怒りますよ」

 中村は、自分の重厚な創作世界観は「発信側の、文化側の責任」なのだと言った。

「たとえば音楽に政治を持ち込むなとか言う人がいますけど、ボブ・マーリーなんか聴いていれば、そんな言葉は出てこないですよ。それは日本の人びとがこれまでそういったものにあまり触れてきておらず慣れていないというだけで、それは人びとの責任じゃなくて、無害でわかりやすいものを多く供給してきた文化の責任だと思う」

 中村文則は、若者を中心に男女問わず幅広い年齢層に支持され、いまや純文学作家でありながら”出せば確実に売れる”作家の1人だ。

「僕は読者に恵まれています。だからこういった好きなものを、文学だけを考えて堂々と書いて出版できるのかもしれない(笑)。さすがにこのパンデミックの時に出す本がどれだけ広がるかはわかりませんが、少しでも書店の助けになりたいので、いま出すことができてよかった」

『逃亡者』の見本が刷り上がったのは、まさに緊急事態宣言が発出されたその日だった。翌日、打ち合わせのために幻冬舎を訪れた中村は、各地の書店の営業状態を聞くうちに書店へのメッセージを直筆でしたため、それは多くの書店へと届けられたという。2度使うことで強調された「共に」という言葉にこそ、中村文則という作家の真髄があるのかもしれない。

内容がいいものをバズらせるという自負

 情報の需要と供給という問題では、マスコミ関係者ならときに”数字を取るか、それとも内容の良さを取るか”と、自分の信条を曲げざるを得ない局面に立たされることもある。

「数字か内容か、なんて2択がそもそも違うと僕は思っています。本当に内容がいいものを広げればいいんじゃないですか。こういうのが受けるだろうと、法則に乗って書くものほどつまらないものはない。そういう作家もいるかもしれないけど、バズるのを目的としてやっていたら作家でいる意味がない。全然売れなそうな、でも内容のいい作品を広げると、世の中が公正世界仮説から外れて個人に優しい社会になっていく。僕はこれからもそうやっていこうとしています」

 作家は、いっさいのてらいなく言った。

「僕が小説家だからこう言うんですけれど、ビジネスマンの皆さんも、普段読まないものも読んだほうがいいかもしれないです。時間がないと自分が読みたいものだけを読むようになりますけど、時々ちょっと小説なんかも読んでみるとすごく新しい視野が開けてくる。どこにヒントがあるかわからないですからね。自分の興味の幅を限定していくと視野が狭くなることがある。本はたくさん読んでいると、内面に面白い海みたいなものができるんです。そこから色んなものが生まれるし、どんな職業でもその海はあって損はない。その面白い海みたいなものは特に純文学がいいと思うんです。個人に着目して、個人に寄り添うものを。ビジネスだって、相手は人ですからね」

「単純な話、小説とか読んでいるビジネスマンのほうがカッコいいですよ」

 なんて力強く言い切れてしまう著者だろう、と思わず声に出た。最前線で結果を出してきた。いま文壇には中村文則に似た人さえいない、唯一無二の個性だ。中村はすかさず「18年やってますから。何というか、こういう風に言わないと、世の中つまらなくないですか? いかにも売れなそうな『教団X』みたいな本が売れる世の中のほうが面白いじゃないですか(笑)。世の中も少しずつ変えていくことができる」と、手の内をちらりと見せてくれた。18年書き続け、戦い続け、数々の栄誉を受けてきた中村の手の内も、なかなかどうして傷だらけだ。

基本的に、小説家なんてみんな不幸です

『逃亡者』は中日新聞など4紙の朝刊連載だった。中村はこれまで毎日新聞、読売新聞、そして中日・東京新聞で小説連載をし、現在は朝日新聞朝刊の『カード師』連載に取り組んでいる。一般紙はほぼ一周したと言ってもいい、驚異のキャリアだ。『逃亡者』『カード師』ともに「新たな代表作にするつもり」と意欲的だが、「新聞連載は、すげー大変です」と苦笑する。

「書き方ですか? パソコンで打って、でもパソコンは光る画面なので、手直しは必ずプリントアウトしたものの上で直す。それをまたデジタルに移し直して、というのをずっとやっています。1文字取るとか、助詞を省くとか、”る”じゃなくて”た”で止めよう、”た”じゃなくて”く”で止めよう、そんなふうに編集者に渡す前に10回くらい直しています。語尾の「た」は停まる感覚があって、「く」や「る」は進んでいく感覚を得られる。文章はプリントアウトしてから見ると全然違うので、ビジネスマンも企画書などをデジタルの画面だけで見ないで、プリントアウトするといろいろアラが見えてくるかもしれません」

 中村の創作の集中力は、担当編集者曰く”お隠れあそばす”というレベルらしい。いったんモードに入ってしまうと、電話も取らずメールもせず、そのドアの向こうで何をやっているか誰も知らない。生活は「小説に全部持っていかれている」という。

「作家ですから、そういうものですよ。すべてにおいて、小説にとってどうかが基準です。小説とは一蓮托生で、いい小説ができたなと思うと健康状態も良くなるところがあります。小説家はオンオフが難しい。休んでいてもふとアイデアが浮かんだり、どこ行っても何やっても常に何かしら考えてしまったりする。ビジネスマンも同じかもしれないですね。オンオフをつけるのは難しいけれども、今は年齢的に余裕があるのでこれでいいかなと。25歳でデビューしてから18年くらい、ずーっとそんな感じです」

 なんて幸せな人生なのだろうか。

「ある意味そう見えるのかもしれない。だけど小説家って基本的に不幸だから小説家なのであって、小説を書いている人なんてほぼみんな不幸です(笑)。俺すっげえ幸せ、なんていう人が書いた本って面白いかな。いや、もちろん面白いものもあるだろうけど」

「基本的に不幸」と繰り返す中村は、だからなのか、成功に落ち着かないのだという。

「出版界のいいところだけ取るっていうのが嫌で、だから政治とかリスクのあることを言うのかもしれない。でも僕なんかが言っても、政治的、社会的発言をしたときの無力感ったらないです。『逃亡者』に出てくるトランペットは”ファナティシズム(熱狂)”という名ですが、それはヘイトスピーチであるとか、人々を故意に煽動し誘導するものの象徴なんです。僕は、人を悪い方向へと誘導させて行く物語や文化とは対極にありたい。
 そして……作中に出て来るアインというベトナム人の女性が大切にしている言葉があって、“蓮は泥より出でて泥に染まらず”というものです。たとえ周囲の泥が汚くても、蓮は美しく咲く。コロナ禍の果てに、これから社会全体が悪くなっていく時、この言葉を大切にしていきたいと自分では思っています。いくら時代が悪くなっても、自分の精神までは汚されないように。難しいですが」

出版界にはフェアな言論を試みる作り手たちがまだいる

 最後に、中村はこんな種明かしをして驚かせた。

「僕のこの小説があの『日本国紀』と同じ版元(幻冬舎)から出るのも面白いと思う(笑)。恐らくあの本と思想は真逆ですね。幻冬舎はあのときさまざまに誤解されたけど、本当はいろんなタイプの本を出していますよ」

 フェアな言論を試みる作り手たちがまだいる限り、出版界にもフェアな言論がある。18年間、”公正なはずの社会という仮説”から逸れた数々の作品を世に送り出してきた反骨の小説家の言葉にも、希望の響きがあった。

[写真‐1]
芥川賞作家・中村文則は「コロナの前に書いた小説が、ちょうど当てはまってしまったなという感じはありました」と語る

[写真‐2]
『逃亡者』(中村文則/幻冬舎)中日新聞など4紙の朝刊で連載された同名の小説をまとめ上げた。

[写真‐3]
「この先には日本のさらなる右傾化がやってくる」中村は現代日本の空気と、戦前戦中の空気がよく似ていると指摘する

[写真‐4]
緊急事態宣言下で営業縮小を迫られた多くの書店に向けて、中村は直筆でメッセージをしたためたという

[写真‐5]
「“蓮は泥より出でて泥に染まらず”。この言葉を大切にしていきたい。いくら時代が悪くなっても、自分の精神までは汚されないように」

東洋経済オンライン、2020/05/03 7:50
中村文則「僕は小説家だからこそ恐れずに言う」
安倍政権に疑念投げかける芥川賞作家の信条

(河崎 環・フリーライター、コラムニスト)
https://toyokeizai.net/articles/-/347641

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「ポスト安倍」政権誕生を前に考える

 コロナ対応を巡り、激しい舌戦を繰り広げる小池百合子都知事と菅義偉官房長官。
 菅官房長官が「(国内感染者増は)東京の問題」と仕掛ければ、小池都知事は感染拡大防止策を「冷房」、「Go Toキャンペーン」を「暖房」に例え、「冷房と暖房の両方をかけている」とやり返す。
 しかし、この“暗闘”の裏には、ある企業を巡る金の匂いがして――。
***
菅官房長官の意向

 7月19日、菅官房長官はフジテレビ系の報道番組「日曜報道 THE PRIME」に出演した際、ある計画について述べた。

「お台場に、機動隊のオリンピック用の宿舎があって、これをベッドに改造して4月中に完成している。約800室。ここも最終的には使うことができる用意はしている」

 東京都江戸川区、江東区、大田区の湾岸部に建設中だったプレハブ宿舎計4カ所を改修し、コロナ感染者向けの一時滞在施設とする計画が報道されたのは去る4月のことだった。
 この件について東京都とやり取りを行った「現場指揮官」は、総理大臣補佐官で菅官房長官の「懐刀」と言われる和泉洋人氏。
 厚労省幹部の大坪寛子女史との「コネクティングルーム不倫」を「週刊文春」に暴かれた、あの人だ。

「和泉さんは当初、都側に対して『プレハブ宿舎を軽症または無症状のコロナ感染者向けの療養施設として活用せよ』との指示を出していました」と、政府関係者が明かす。
「しかし、都側は『軽症者、無症状者向けの滞在施設は十分足りている』と回答。
 すると和泉さんは、『軽症者向けの施設ではなく、中等症患者向けの臨時医療施設として活用する』『実際の運営は都にやらせるが、都の意向如何によることなく、施設整備を進める』と方針転換した」

 菅官房長官の意を受けて動く和泉補佐官はなぜそこまでプレハブ宿舎の活用にこだわるのか。
 都側から困惑の声が漏れたのは当然の成り行きだったが、そんな折、和泉補佐官の口から告げられたのは、
「プレハブで医療行為にあたる運営主体は、菅長官の意向により、『湘南美容クリニック』(SBCメディカルグループ)に既に内定している」、「『湘南美容』の創業者でグループ代表の相川佳之氏の内諾も取れている」との衝撃的な事実だった。
「菅官房長官と相川さんは『幻冬舎』の見城徹社長を通じた知り合いで、度々会食する間柄だと聞いています」
(湘南美容クリニックに詳しい関係者)

金の匂い

 医師たちが次々と登場して「好きな言葉」を披露するCMで有名になった「湘南美容クリニック」。
 自身もクリニックの“顔”としてCMに出演、好きな言葉として「情熱」をあげた相川氏が神奈川県藤沢市に最初のクリニックを開設したのは2000年である。
 それからわずか20年でSBCメディカルグループは全体で100院を展開するまでに急成長した。
 相川氏がメディアのインタビューに答えたところによると、グループの売上高は美容医療市場ではトップ。全国の医療法人の中でも23位に入っているという。
 が、利益優先で拡大のみを指向してきた同グループは悲劇をも生み出している。
 2013年、本誌「週刊新潮」が「『ヒアルロン酸』お粗末手術で鼻が壊死した『湘南美容外科』」とのタイトルの記事でお伝えしたのは、初歩的な施術ミスによって鼻の一部が“溶けた”20代女性の悲痛な声だった。
 そんな光と影を抱える「美容整形業界の雄」が、呼吸器系の専門でもないのに、なぜコロナ対応を――。
 誰もが頭に浮かべる疑問について、前出の政府関係者はこう解説する。

「実は『湘南美容』は最近、保険適用の一般医療の分野にも進出しており、相川さんは現在の目標として『総合医療グループとしての世界ナンバー1』を掲げているのです。相川さんとしては、コロナウイルスの治療にあたったという実績が欲しいのでしょう」

 和泉補佐官は都側に対し、“プレハブ宿舎で医療行為にあたるのは、SBCグループの医療法人の一つであり、東京・両国にある湘南メディカル記念病院”と、伝えていたというが、
「この病院は戦前に両国の地に『田島病院』として開設され、その後、両国駅前病院と改称されたものをSBCグループが2015年に買収。内科などの一般医療を行う総合病院の世界に手を伸ばす先駆けとなった病院です」
(先の湘南美容クリニックに詳しい関係者)
 もっとも、いくら総合医療の分野に進出しようと、このグループに通底する「理念」は不変である。
「今年2月に『週刊東洋経済』に載った記事によると、湘南メディカル記念病院では自由診療で、充分なエビデンスもないのに高額な『がん免疫療法』を行っており、“73%のがんを縮小させた”と主張しているようです」
(同)
 やはり「金の匂い」がするのだ。

都は猛烈に反対

「湘南メディカル記念病院を強引に押し付けようとする和泉補佐官に対し、都側は猛烈に反発しました」と、先の政府関係者。
「『国立病院か、もっとまっとうな医療法人にして欲しい』と主張する都側に対し、和泉補佐官は『国立病院は独自の役割があるからダメ。他の医療法人は人員を出す余裕がない』として拒否。さらに都側が『公募で選定すべきだ』と主張するなど、運営主体を巡る攻防がありました」

 そのうちに感染自体が落ち着いたこともあり、この計画は宙に浮いた格好になったという。
 そのため「即時の計画スタートがなくなったとのことで、政府はわざわざ相川さんに詫びを入れている」
(同)

幻冬舎・見城社長が仲介

 これまで表沙汰にならなかったこうした一連の経緯について、当事者たちは何と言うか。
 取材依頼に対する各者の回答は次の通り。
「厚生労働省から、(SBCメディカルグループを)運営主体候補の1つとして紹介されていたことは事実です」(東京都)
「政府の発表の内容以外に当社からお答えできかねます」(SBCメディカルグループ)
「厚生労働省と東京都で検討した結果、(プレハブ宿舎の)医療施設としての利用は考えていないと、5月に聞いています」(菅義偉事務所)

 相川氏に菅官房長官を紹介した「幻冬舎」の見城社長はこう語る。

「私が会長のような役割で『義士の会』という菅さんを囲む経営者の会を主催していて、2年から2年半ほど前、そこに相川を呼んだのが菅さんと相川の最初の出会い。この会は年に2回ほど開催しており、相川は毎回参加しています」

 件の「計画」については、
「コロナがここまで大変なことになる前くらいに相川から『菅さんに、治療のための施設に入る医療法人を公募することになったら応募して欲しい、と言われた』といった話を聞いたような気がします」

計画は今も生きている

 自宅で取材に応じた和泉補佐官に、「湘南美容グループ」がプレハブ宿舎で医療行為にあたるのか、と質したところ、
「それは一時あったんだけど、今は消えた」
―― 湘南美容といえば、美容整形が主体だが?
「実はすごく幅広くやっているらしくて、病院もやってるらしいよ。総合医療もやっている」
―― 菅官房長官と相川氏は懇意だと聞いたが?
「へえ、そうなんだ。それは知らない」

 要は「計画」はすでに過去のものとなっている、と言いたいようなのだが、
「計画は今も生きており、病院の中等症患者の受け入れが逼迫した時、実行に移されることになっている。菅さんが東京のホテル不足を繰り返し叩くのも、この計画にこだわっているからこそ、です」
(前出の政府関係者)

専門家「間違いなくトラブルが」

 菅官房長官や相川氏にすれば、検査の拡充で東京都の感染者が再び増大し始めた今こそチャンスというわけだろう。
 現在、都内のコロナ患者の療養にあたっている東京都医師会の幹部はこの計画について「知らされていない」とした上でこう警告する。

「コロナの治療を『湘南美容』がやるなんて荒唐無稽。間違いなくいろいろなトラブルが起こりますよ」

 日本美容外科学会元理事長で日本医科大学名誉教授の百束比古氏は、
「『湘南美容』が新型コロナに関わろうとする理由は、美容外科医も医師であることを世間に理解してもらい、美容外科のイメージアップを図る狙いがあるからでしょう。そのような人的余裕があることは羨ましい限りです」と推し量るが、医療法人社団・形成会「酒井形成外科」の酒井倫明院長はこう“感心”してみせる。

「相川さんの、こういう時の機転の利かせ方はすごいなと思いますね。天変地異を利用してめきめきと伸びていくといいますか……。ただ、これは人命にかかわることですから、なぜ相川さんのところがやるのか、納得できるだけの説明が必要だと思います」

 悪夢のような計画が実行に移される日が来ないよう、祈るしかあるまい。

※「週刊新潮」2020年8月6日号掲載


コロナ禍に菅官房長官が狙う「湘南美容」利権
幻冬舎・見城社長が繋いだ関係

https://www.dailyshincho.jp/article/2020/08060556/?all=1&page=1

 安倍晋三首相が8月28日、辞任を表明した。
 報道によれば、自民党は9月中に新総裁を選出し、臨時国会で首相指名を行い、新政権が発足する見通しらしい。
 9月中旬には立憲民主党と国民民主党の合流新党の結成大会も予定されている。
 これからしばらくは流動的な状況が続くのだろう。

 しかし、次にどういう状況がやってくるのか、ただ待っているのでは、「見たいものしか見ない」「言いたいことしか言わない」「やりたいことしかやらない」「不都合な指摘には耳を貸さない」といった現政権の悪弊が、新しい政権になっても繰り返されるだけだろう。

 そうならないためには、批判を受けとめない政権に、なお批判を続けることは必要だし、不当な事態に対する怒りを持ち続けることも必要だ。
 ただし、それだけでは、いいかげんうんざりする気持ちに襲われかねない。
 あるいは、熱意を示した一人の政治家に過剰な期待を抱く、といったことにもなりかねない。
 私たち一人一人が、ポジティブな足場を持ちながら、よりよい社会に向けて、自ら行動していけるためには、何が必要だろうか。

■ 映画「パブリック」が問うもの
 
 ここで紹介したい公開中の映画がある。
 エミリオ・エステベス監督の「パブリック 図書館の奇跡」だ。
 舞台は米オハイオ州シンシナティ市。
 凍死の危険に直面したホームレスたちが、閉館後の公共図書館に立てこもる騒動に、主人公である図書館員、スチュアート(監督自身が主演)が、不本意ながら巻き込まれていく様子を描く。
 平和的交渉で、事態の収拾を図ろうとする市警のビルに対し、市長選に立候補している郡検察官のデイヴィスは、図書館の監視室に乗り込み、早期制圧によって自らの手腕をアピールしようともくろむ。

 映画の初めの方と最後に、「the public」と原題が映し出される。
 立てこもりの顚末(てんまつ)を見守る中で、「パブリック」とは何であるかを、見る者におのずと考えさせる(以下、ネタバレ全開のため、ご注意を)。

「パブリック」を「公共」と訳し、日本人の感覚で「公共」を捉えると、この映画のテーマを見失う。
 公的な機関が場を作り、ルールを決め、利用者はそのルールに従う――そういうものが「パブリック」なのではない。
 同じ社会を共に生きる異なる事情を抱えた人びとが、ままならぬ現状の中で、互いにどう折り合いを付けながら関わっていくか――。それが問われる場が、ここで言う「パブリック」だ。
 一人ひとりの行動のありようが、「パブリック」な場のありようを作っていく。
 映画は、そのことを群像劇によって描き出す。

 主人公スチュアートは、難しい判断を次々迫られる中、おろおろとしてしまう。
 おろおろと対処し、その中のある行動は手ひどいしっぺ返しをくらい、別の行動は相手に力を与える。
 迷いながら行動する姿は、私たちの等身大に近い。
 他の登場人物たちもそうだ。

「体臭」を理由に図書館から利用者の退去を求めることは是か非か。
 冒頭、私たちには、図書館員が日常的に抱えている課題が示される。
 その後、スチュアートは、利用者のホームレスたちによる館内への立てこもりに巻き込まれる。
 市が用意した緊急用シェルターは満杯。
 図書館前ではホームレスの凍死者も発生していた。
 その現実を前に、人道的な配慮として一夜のフロア開放を求めるスチュアートに、館長のアンダーソンは、自分にはその権限はないと拒む。
 ホームレスたちはフロアの入り口にバリケードを築き、スチュアートは現場に残された職員として、監視室に詰めた市警のビルとの交渉窓口を担わされる。
 一方、検察官デイヴィスは、スチュアートを立てこもりの首謀者であるかのようにメディアに語り、メディアは彼を前科者の危険人物のように報じていく。
 押しつぶされそうな状況を主人公たちがどう覆していくかが見どころだ。
 
「法と秩序」は絶対か

 検察官デイヴィスが繰り返すのは、「法と秩序」(Law and Order)。
 犯罪と闘ってきた自分が、市長になってこの街に法と秩序を取り戻すと選挙キャンペーンの中で語る。
 そしてこの騒動も、強行突入によって一晩で制圧しようと意気込む。

 それに抵抗するのは、図書館の開放を拒んでいたアンダーソン館長だ。

「私は市民の情報の自由のために全人生をささげてきた。公共図書館はこの国の民主主義の最後の砦(とりで)だ。あんたらチンピラどもに戦場にさせてたまるか」

 そう言い放つと、デイヴィスらが詰める図書館の監視室を出ていき、スチュアートとホームレスたちが立てこもるフロアへと向かう。
 警戒するホームレスたちを前に、館長はネクタイを外し、スチュアートが配達させたピザを手にとり、腰掛ける。
 アンダーソン館長が、姿勢を変えた背景に何があったのか。行動の基になったのは、ライブラリアン(librarian)としての職業的使命であり、「図書館の権利宣言」であっただろう。
 ライブラリアンを名乗り、職業的使命を忘れないのは、スチュアートや他の図書館員にも共通する。

 検察官デイヴィスはどうか。
 スチュアートを公共図書館の従業員(employee of the public library)と呼ぶ。
「われわれの大切な施設を混乱に陥れている」人物とみなし、公的施設の従業員が、ルールに従わずに勝手な行動を取っている、と見ているのだ。

 この映画には、もう一人、自らの使命に従い、既存の秩序を超えて行動しようとする人物が登場する。
 市長選における検察官デイヴィスの対立候補、ブラッドリー牧師だ。
 ブラッドリーは図書館前の規制線で侵入を阻止する警察官に「通してくれ(I have to go through.)」と語る。
 立てこもるホームレスたちに応援物資を届けなければいけないのだ、と。
 ブラッドリー牧師の行動は神の教えに支えられたものだろう。

■ ポジティブな足場

 では、職業的な強固な理念も、信仰も持たない私たちが、既存の権威に立ち向かう際に依拠すべき足場はあるだろうか。
 押しつぶされそうな現実の中で、私たちがあきらめないためには、ポジティブな足場が必要だ。
 日本国憲法はその大事な足場だろう。
 ここでは映画の初めの方でさりげなく示された三つの言葉に目を留めたい。

 図書館員に調べものを問う利用者の「探してるんです(I’m looking…)」という声が響く館内に、三つの大きな垂れ幕がかかっている。

Open your mind. Read
Feed your hope. Read
Find your truth. Read

 図書館利用の勧めの言葉であるとともに、映画を読み解く補助線となっている。
 首謀者であるかのように報じられた図書館員スチュアートは、同じアパートメントに住むアンジェラから、立てこもり現場の様子を動画に撮って送るよう求められる。
 内部で起きていることをテレビに伝えさせて市民を味方に付けようというのだ。
 スチュアートは、スマホのカメラをホームレスたちに向ける中で、顔と名前は知っていた彼らの姿にもう一歩、近づいていく。
 路上生活を脱出したいかと問うスチュアート。
 立てこもりの首謀者ジャクソンは、路上ならではの自由もあるさとつぶやき、伏し目がちになる。
 その様子を見て、スチュアートは、ジャクソンの隣に静かに腰掛ける。
 そのスチュアートに対し、ジャクソンは「俺たちの存在を世に知らせたい(We still matter.)」とつぶやき、「声をあげろ(Make some noise.)」と気持ちを高揚させていく。
 眼鏡をはずして耳を傾けていたスチュアートは、あわてて眼鏡をかけ、その様子を動画に収める。

 ジャクソンの「心の声」を引き出したのはスチュアートであり、スチュアートの行動を促したのはアンジェラだ。

 スチュアートが、アンジェラと出会ったのは自室の壊れたヒーターの前。
 金づちでたたいて何とかしようとしていた管理人のアンジェラに、持ち帰ったピザを勧めたスチュアートの行動が、語り合いにつながった。
 2人が互いの弱さを開示し合えたのは、アンジェラがアルコール依存症者の会に参加し、自らの弱さを語ることに慣れていたからだろう。

 心を開き、相手に関心を示し、語りに耳を傾ける――。そのことが相手を励まし、行動を促す。そうしたエンパワーメントの連鎖が、この映画には織り込まれている。

 ところが、そうして撮られた内部の映像に、実況アナウンサーは関心を示さず、「緊迫した現場と危険な図書館員」という筋書きで、視聴率を上げようとする。
 しかし実況中継で、立てこもりの文脈を問われたスチュアートは、ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』の一節を読み上げる。
 アナウンサーの意図をすり抜け、立てこもりの文脈を、アメリカの歴史の中に位置付けてみせたのだ。

 さらに、放送された図書館内部の映像には、疲れて横たわるホームレスの姿の他に、母親に向け、あいさつの言葉を笑顔で贈る首謀者ジャクソンの姿も残されていた。
 力を持つ者が描く「都合の良いストーリー」の枠内に押し込めず、事実を伝えようとする者の存在が、暗示される。

 この映画では、大きな権力の圧力や、メディアの決めつけに抗する一人ひとりの思いと行動が巧みに描かれている。

 最後の場面は、決してハッピーエンドではなく、しかし決して全面降伏でもない。
 スチュアートらは、完全制圧という成果を検察官デイヴィスに与えず、流血の事態を回避して状況を収束させ、立てこもり参加者の心に希望の種を残す。
 もちろん、これはフィクションだ。
 しかし大事なことは、そこから私たちが何をくみ取れるかだ。

 私たちにはそれぞれ、自分だからこそできること、すべきことがある。
 望む奇跡は誰かが起こしてくれるのを待っていれば訪れるわけではなく、私たち一人ひとりの行動の積み重ねの先にしか、起きない。


 最後に先ほどの三つの言葉を、この映画に即して意訳しておこう。

 ■ 心を開いて語りかけ、耳を傾けよう。
 ■ 目指す未来を描き、希望の種を育てよう。
 ■ 印象操作に釣られずに、事実を見つめ、広げよう。

◇ ◇ ◇
「パブリック 図書館の奇跡」公式サイト:
https://longride.jp/public/


[写真‐1、2]
「パブリック 図書館の奇跡」7/1(金)、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開

47News、2020/9/3 07:30 (JST)
権力の圧力とメディアの決めつけに「抗う」
「ポスト安倍」政権誕生を前に考える

(上西充子、法政大学教授、国会パブリックビューイング代表)
https://this.kiji.is/673845137342514273?c=39546741839462401

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中島岳志x若松英輔(後編)「空海の世界観」

ライバル・最澄との決裂

中島岳志: 続いて、唐から戻ってきた後の空海の歩みを見ていきましょう。
 当初の予定よりもかなり早く留学を切り上げて帰ってきたために、しばらくは朝廷から都入りを許されず、九州に留め置かれたりしていた空海でしたが、帰国から約3年後の809年にようやく入京。高雄山寺(現在の神護寺)を拠点に、真言密教の教えを説いて回るようになります。
 高雄山寺入りには、同じく唐での留学生活を経て帰国した僧・最澄の手引きがあったともいわれています。最澄は空海よりも7歳年上で、すでに僧として一定の地位を得ていたエリートでしたが、空海の能力を誰よりも正確に見極めていた人でもあった。それで、密教についてもっと深く学びたいと、空海に弟子入りして教えを請うようになるのです。
 しかし、この二人の交友関係は、7年ほどで終わりを迎えます。弟子の処遇をめぐっての対立などがよくいわれますが、私はもっと根本的なずれがそこにあったと考えています。「コトバの人」であった空海に対し、最澄はどこまでも「言葉の人」であった。だから、仏の教えもまた言葉で把握できる、ゆえに経典は翻訳可能なものだと考えて、サンスクリット語の学習を重要視しませんでした。一方、空海はサンスクリット語の経典とは言葉であると同時に真言、それそのものがコトバの一端であると考えた。だから翻訳して解釈するのではなく、そのまま音として自分の中に取り入れなければならないと考えて、サンスクリット語を熱心に学んだのです。井筒俊彦がいう「純粋シニフィアン」ですね。シニフィアンとは言葉の「音」そのもので、まさに言葉以前のコトバですね。コトバと言葉を繋ぐ「真言」と言ってもいい。その世界観の違いが、二人の決裂を決定づけたのではないでしょうか。

若松英輔: そもそも仏教の伝統というのは、口移しに伝える「口授」(こうじゅ)なんですよね。これを文字に直して伝えることはできない──というよりも、文字に直した時点で違うものになってしまうんだと思います。
 プラトンが書簡(第七書簡)の中で、「哲学の本質は言葉にできない。それは人間の魂から魂へ、火花のように飛び火するものだ」ということをいっています。学びというのはそうして、魂から魂へ火花が飛んでいくことであり、それが蓄積されて燈明になっていくということなのでしょう。それに近い感覚を持った空海と、言葉を基軸にした最澄の違いとは決定的だった。もちろん、最澄は最澄で、非常に優れた人物です。しかし、二人の世界観の差異は容易に埋めがたいものだった、ということだと思います。

「彫り出す」ように山を開く──高野山という曼荼羅

中島: この最澄との決裂と前後して、空海は国家との関係を深めていくのですが、その際に空海が朝廷に求めたのは権力ではなく、修行の場としての高野山の下賜でした。そしてその山内に、大伽藍の建立を進めていくのです。
 私は、これは空海にとって単なる寺院の建立ではなく、それによって高野山全体を立体的な曼荼羅にしたいという思いがあっただろうと考えています。それも、自分が主体となって山を開いていくという感覚ではない。一流の仏師が仏像を彫るときに、木の中にすでに眠っている像を彫り出していくといわれるように、高野山に宿る仏の姿を現すために、「彫り出すように」山を開いていく。それによって高野山という立体曼荼羅を表出させるというように、空海は考えていたのではないでしょうか。インドのエローラに、実際に巨大な岩を彫り出してつくられた石窟寺院群がありますが、空海もそれと同じように「寺院をつくる」というよりも「寺院を彫り出す」という感覚をもっていたのだろうと思います。

若松:「彫り出すように」高野山をつくっていったというご指摘は卓見ですね。そして、これからの私たちの世界のあり方を考えるときにも非常に重要な考え方だと思います。
 今ある世界に何かを足していく、たとえばビルをどんどん建てていくというのではなくて、すでに世界に潜在しているものを彫り出すようにして街をつくっていく。世界そのものがすでに「何ものか」であるわけだから、私たちがやるべきことは、その秩序を整えていくことだけ。高野山は、そういうあり方を教えてくれているのではないかと思います。

中島: 先日、料理研究家の土井善晴さんと対談をさせていただいたのですが、土井さんの料理にも同じような姿勢を感じました。西洋料理は味をつくって、足していくのが基本だけれど、和食はそうではないと土井さんはいうんですね。自然の素材に宿る味をどう引き出し、生かしていくかの作業が日本料理だというわけです。
 柳宗悦のいう「民藝」もまさにそうだと思うのですが、分野は違っても、ある一定レベル以上にいる職人の方たちは、多くが同じようなことを言っている気がします。
 自分は何かをつくり出す存在ではなく「器」にすぎないということですね。土井善晴さんが料理を作るように、あるいは志村ふくみさんが布を染めるように、濱田庄司が器をつくるように、空海は高野山を開いたのではないでしょうか。そして、そこにある感覚こそが、これからの私たちが目指すべき、自然との関わり方なのではないかと思います。

若松: おっしゃるとおりだと思います。
 さらに、そうした「関わり方」を考えるときに重要なのが、自然や「聖なるもの」に対する畏怖、畏敬の念ではないでしょうか。これもまた、現代の私たちが失いつつあるものであり、取り戻していかなくてはならない感覚だと思います。

中島: 高野山に籠もっていた数年の間、空海は爆発的に……といってもいいほどすごい勢いで文章を書き続けているのですが、そこに表れている中でも重要なのが「六大」という思想だと私は考えています。「六大」とは、宇宙の万物はすべて地、水、火、風、空、識の6つの要素から成立しているとする考え方です。人間であろうが、草花であろうが石ころであろうが、あるいは大日如来であろうがそれは同じだというのです。
 もちろん「私」も六大によって成り立っている、と空海はいいます。その意味で万物は一つであり、仏も人間も自然も本質的な違いはなく、すべてが大日如来の現れであると考えたわけです。
 この自然と自分との関係性の捉え方は、私たちの存在は草や木を含めた、すべての「生類」の命とともにあるのだと述べた聖武天皇の姿勢と非常に連続的だと思います。
 自分と自然環境とを切り離さず、一体のものとして見るというのでしょうか。
 あらゆるものが同じ構成要素をもって、森羅万象の中で生きている。
 それこそがいのちの現れだという感覚
ですね。

若松: 同感です。また、先ほどおっしゃった、空海が高野山に籠もった時期に膨大な著作を残しているという話も興味深いですね。中島さんがご専門のガンディーも、獄中にあった時期にたくさんの文章を書いていますが、人生にはそうした「籠もりの時期」も必要なのかもしれません。沈黙し、人ともあまり会わずにいる、その中でこそ、長く後世に残っていくような深いコトバが生まれてくるということですね。
 現代では、非常に短い時間でいろんなことをアウトプットし、発信するということが習慣づけられていますが、人生のある時期だけでも、長い沈黙の中で深いものをつくり出していくということも必要なんじゃないか。空海の生涯を見ていると、そんなことも考えさせられます。

調和を創造する──「科学」による満濃池改修工事

中島 さて、空海の場合は、その「籠もり」の時期の後に、そこで得たものを社会に還元していく時期に入ることになります。
 それが現在の香川県仲多度郡、讃岐平野にある満濃池の改修工事という国家プロジェクトでした。
 満濃池は700年代初頭に掘られた、灌漑用のものとしては日本最古・最大のため池ですが、当初から何度も決壊を起こしており、特に818年の大雨では、大規模な決壊が起こってあたりが泥の海になってしまいました。朝廷は役人を派遣して改修工事を試みるのですが、なかなかうまくいかない。そこで讃岐国の国司が、讃岐平野出身の空海に築池別当(工事責任者)になってくれるよう、朝廷に上申するのです。
 背景には、地元の農民たちの「ぜひ空海を呼んでほしい」という懇請があったといわれます。そして、その前提になっていたのは、旱魃(かんばつ)が続いた時期に、空海が各地で雨乞いをして結果を出していたことでした。
 これは、「空海に霊力があった」といったスピリチュアルな話ではありません。空海の「雨乞い」とは、現代でいう科学と非常に密着した行為だったのだと思います。もちろん、彼は現代のような気象学や天気図を熟知していたわけではありませんが、山での長年の修行を通じて、雲の動きや風の吹く方向、強さ、空気の匂いなどをもとに、天気がどう動くのかを感知することができたのではないでしょうか。海を熟知している漁師たちが、長年の経験から「これから嵐が来る」と予測するのと同じような感覚であって、それが空海の「科学」だったのだと思うのです。
 その「科学」によって雨の予兆を感じ、降雨をいい当てる姿が、人びとにとっては民衆救済の菩薩像に見えたのでしょう。そうして待ち望まれて讃岐にやってきた空海のもと、民衆が力を結集させることによって、朝廷が何度も失敗を繰り返していた改修工事がわずか3ヶ月で完了するのです。
 有名なのが、高い水圧に耐えるための「アーチ型の堤防」ですが、空海が現代的な構造理論によってその構造にたどりついたわけではありません。彼にはおそらく、アーチが描く曲線の中に、ある種の「霊力」が宿っているという感覚があったのではないでしょうか。レヴィ・ストロースのいう「野生の思考」のようなものですね。長年にわたって山に籠もり、自然と向き合い続ける中で見出された「科学」。土木、建築、灌漑、地質、気象、医薬……すべてが彼にとっては、自然と交わる総合的な技術だったのだと思うのです。

若松: 江戸時代の思想家で農村改革指導者の二宮尊徳が、治山の名人としても知られていたことを思い出します。彼もまた、綿密な数学や理学の知識があったわけではありません。しかし、儒教を深く学び、理を説き続ける中で、山における「理」をもまた理解するようになっていった。それによって暴れる山を治め、農業を成功させる力を身に付けていったのだと思います。

中島: もともと空海は唐での留学中、宗教学のみならず土木技術や医学・薬学、天文学など、多岐にわたる学問を学んでいました。
 現代なら宗教学は文系、土木や薬学は理系と単純に分けられてしまうでしょうが、空海にとってはまったく一体のものだった。それを彼は、ある宗教的な次元、あるコスモロジーのもとで体得して帰ってきているんですよね。

若松: それは今、一部の大学でいわれている「文理融合」といったこととはまったく違いますね。単純に理系と文系とを足し算しても、そこからコスモロジーは生まれてこない。むしろ、何か一つのテーマを深く学んでいく中で、コスモロジーを見出していけるような学びの場をつくることの必要性を感じます。
 またもう一つ、満濃池改修において重要だと思うのは、空海が水をコントロールしようとしたのではなく、水と人間との間に調和をもたらそうとしたことです。

中島: おっしゃるとおりです。水もまた「六大」、人間を構成する要素の一つなのですから、それをコントロールして従わせるという発想はあり得ません。空海の土木は「自然との調和」を掲げる合気道と重なる部分があると思います。水と心はつながっているというコスモロジーに基づいて、世界の循環を整え直すことが空海にとっての土木だったのでしょう。

若松: 空海がやってくる前に行われていた朝廷による改修工事は、おそらくは「水を人間に従わせよう」とするものだった。それがうまくいかず、人びとは人間が水とともに暮らしていけるように調和をもたらしてくれる空海を選んだ、ということだと思います。
 この「調和を創造する」という発想も、現代に非常に失われているものかもしれません。来るべき社会は、「調和を創造する」ような社会であるべきではないのか、と考えています。
 それは、治水そのものの話だけではありません。私たちにとっての「満濃池」は、私たちの心、意識の動きそのものかもしれない。荒れ狂っている民衆の心を前に、政治家が「ちょっとガス抜きのように穴を空けて流しておけばいい」といった態度でいれば、いつか水は枯渇してしまうでしょう。そうではなく、その「水」の流れをどう調和させ、整えていくのか。そういう発想がもてるかどうかが問われるのではないかと思います。

民衆の力を信頼した学びの場

中島: 先ほど、学びの場という話が出ましたが、空海が晩年に最後の大事業として取り組んだのも、「学びの場」をつくることでした。それが828年に京都九条に開設された「綜藝種智院」(しゅげいしゅちいん)です。空海がつくったこの「学校」には、三つの大きな原理原則がありました。
 一つは「誰でも学べる」ということ。
 身分の高い家の師弟しか入学できない学校がほとんどだった時代に、空海は庶民にも開かれた学び舎をつくろうとした。「平等な学び」を担保しようとしたのです。

 二つめが「幅広く学ぶ」ということ。
 当時における「リベラルアーツ」といえるかもしれません。しかも現代のリベラルアーツよりもさらに幅広く、空海自身が唐で学んだように、仏教や文学はもちろん、薬学や医学、工学など、あらゆる分野をともに学べる総合的な学びの場だったのです。

 そしてもう一つが、完全給費制だったということ。
 つまり、学ぶ生徒たちからお金を集めるのではなく、お金を支給し、教師・生徒双方の生活を保障する。
 自分たちがすべて面倒を見るから学びに来なさい、というわけです。

 この学校を通じて、空海がやろうとしたのは「知識」の担い手を育成することだったと思います。
 前回、聖武天皇のところで出てきましたが、人びとの自律的・非強制的な行動によってさまざまな事業を展開していく「知識」を、国家レベルでつくろうとしていたのではないでしょうか。

若松: 完全給費制の意味は、経済格差が拡大し、奨学金返済などに苦しむ学生たちが多くいる今、まさに喫緊の課題としてあるわけです。空海はけっして古くないんですよね。

 満濃池改修工事も、空海のもとに集った民衆の力があってこそ実現したものですが、空海という人は一貫して、民衆の中に眠っている力に大きな信頼を置いていたように感じます。
 だからこそ、完全給費制の学び舎をつくれた。世にいう「学習」ではない、民衆の知恵のようなものを強く信じていたのだと思います。そして、その民衆の叡知(えいち)を真ん中に置きながら、国全体を大きな曼荼羅にしようとしたのが、綜藝種智院という事業だったと思います。
 先ほど中島さんが「彫り出すように高野山をつくっていった」という話をされましたが、ここで空海が意図した学びの手法も、それに通じるものがあるような気がします。つまり、新しいことをただ詰め込むのではなく、私たちの中にすでにあるものを想起し、整えていくという学び方。
 現代の私たちは、「これが足りない、だから学ぼう」と、学ぶということを足し算式に考えがちです。空っぽの中にいろんなものを詰め込んでいくというのが近代教育の手法だといってもいいと思いますが、空海の学びはそれとはまったくベクトルが違うんですよね。
 そうして「彫り出す」ように学んでいく経験こそが、一人ひとりが内に備えている特性を開花させていくはずだし、綜藝種智院はまさにそういう場所だったのではないでしょうか。

中島: 本来なら、大学の教育がそういうものであるべきですね。今の大学の教育は、情報を詰め込むようなやり方に偏りがちです。

若松: そうなんです。学びの結果として、政治家になる人もいれば実業家になる人もいる、社会事業家になる人もいる。そういう多様な人が育っていく場を設けることが、これからの大学、そして社会にとって非常に重要だという気がします。

観察型の社会から、参与型の社会へ

若松: ここまで空海の歩みや思想をたどってきて、改めて強く感じるのは、「観察する」という態度を改めない限り、私たちの社会は変わらないだろうということです。
 曼荼羅のところでお話ししたように、私たちに「参与する」ことを強く求めるのは、空海の思想の根幹でもあります。
 そしてそれが、現代に生きる私たちが今、取り戻さなくてはならない感覚だと思うのです。
 現代の私たちはこれまで、何においても「観察」しすぎてきたのではないでしょうか。「観察」とは「他人事」ということでもあります。環境問題、差別の問題、貧困の問題……あらゆる問題に対して、常に他人事のように距離を置いて観察し、解説するということを続けてきた。それをやめて、わがこととして「参与する」ことができてこそ、社会は変わっていくのではないか。そういう感覚を、空海の著作を読んでいると強く促されます。
 たとえば今、アメリカで人種差別反対を訴える「Black Lives Matter」の運動が広がっています。そのニュースを前に「アメリカは大変だな」「人種差別はいけないよな」と考えるだけでは「観察」で終わってしまう。そうではなく、自分の中にどんな差別心が働いているのかを考え、自分の中にもある差別心と正面から向き合う。そのときに初めて参与が始まるのではないかと思うのです。

中島: 環境問題などでもそうですね。CO2の排出量が云々、というデータだけを見て、地球規模の危機を語るのでなく、自分の日常にどう引きつけて考えることができるのか。その感覚をどう取り戻すかが重要だと思います。

若松: その意味では、今回のコロナ危機こそは誰にとっても「わがこと」だったはずです。しかし、安倍首相はそのコロナの問題さえ「わがこと」として語れなかった。この「わがこと」という姿勢から生まれてくるのが「哀れ」です。これは単なる同情の言葉ではなく、「ああ、われ」という心情を表すものなのです。
 今、政治的リーダーに欠落しているのは、真の意味での「哀れ」の感覚と「哀れ」の叡知だと思います。
 さらに問題なのは、政治的リーダーが役割を果たしていないことを、国民が認識できていないことです。だから、体制は代わらない。仮に首相が代わっても、国民がこのままであれば世のなかは変わりません。
 今、「リーダー論」といえば、当然のように「どうすればリーダーになれるか」という内容ばかりが扱われますよね。でも、実は今の私たちが学ぶべきなのは、「リーダーの選び方」なのではないでしょうか。どんなリーダーを選ぶべきなのか、本当のリーダーとはどんな人なのかを知っておくことのほうが、はるかに重要なのではないかという気がしています。
 というのは、本来ならリーダーを選ぶというのはきわめて参与的なことであるべきなのに、日本の選挙においてはそれさえが観察的になっているからです。候補者の話をよく聞いて、政策を細かく読んで比較検討するというのが「正しい選び方」のように考えられている。でも、本来はそれだけではなくて、曼荼羅の中に入るのと同じように、自分を真ん中に置いて考える必要がある。自分だったらどういう社会をつくっていきたいのか、たとえば経済的に弱い立場の人、障害のある人などいろんな人の立場に立ちながら、どんな人が「よいリーダー」なのかを考えることが、リーダーを選ぶときには必要なはずです。

中島: 各政党が掲げるようになった「マニフェスト」も、本来は「宣言」という意味ですから、「私たちの党はこんな社会をつくっていきます」という理念が先に謳われるべきなんです。それが日本では「政権公約」と訳されて、理念なきままに細かい場当たり的な政策だけが並ぶリストみたいになってしまっています。

若松: 私たちみんなが、聖武天皇や空海のようなリーダーになることはできません。でも、彼らのようなリーダーを選ぶことはできるはずなんです。
 そうして観察型の社会から参与型の社会に変わっていくことができるかどうか。それが、これからの世界の大きなテーマになるのかもしれない。空海の言葉を読みながら、そんなことを考えています。

[写真‐1]高野山根本大塔

[写真‐2]現在の満濃池(香川県)

[写真‐3]14世紀に制作された空海の肖像画

イミダス・集英社、2020/08/07
いのちの政治学〜コロナ後の世界を考える
「空海の世界観が教える〈参与する〉ことの大切さ」

中島岳志(政治学者)、若松英輔(批評家・随筆家)
(構成・文/仲藤里美)
https://imidas.jp/inochinoseiji/1/?article_id=l-93-006-20-08-g812

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東大新聞、「瀧本ゼミ」生ふたりの追悼の言葉

8月10日、京都大学准教授で自主ゼミナール「瀧本ゼミ」を主催していた瀧本哲史さんが47歳で死去した。
死因は明らかにされていない。
東大のOBで、投資家として活動の傍ら、政策分析と企業分析のゼミを主催、学生との交流を深めていた瀧本さん。
亡くなって1ヶ月の9月10日、瀧本ゼミに所属する学生2人に追悼の意を寄せてもらった。

我らが師・瀧本哲史に寄せて


 瀧本哲史先生、謹んでご冥福をお祈り申し上げますと共に、生前の先生との思い出や学びを書かせていただき、追悼文とさせていただきます。

 ゼミに入会した昨年5月から先生が亡くなる今年8月まで、短い期間でしたが自分は先生からいろいろなことを得られたと思っています。
 特に代表として伴走した今年1月からの7ヶ月間は、企業分析のスキル以上にプロフェッショナルとしての「卓越への意識」を学び取ってきたのではないかと思います。
 この半年間で学んだことは、今後の人生においても何か「標準」のようなものとして自分の中に残り続けると感じています。

 瀧本先生は自分にも他人にも非常に厳しい方でした。
 瀧本ゼミには”Adhere Performance”つまり「成果にこだわる」「常に卓越を志す」という考え方が強くあります。

 自分も特に1回目の発表と新歓戦略会議では、それを一番体現する先生から厳しく詰められたことを覚えています。
 凄まじいスピードで咀嚼し、ロジックの穴を突いてくる。
 一方で、厳しく詰めるだけでなく「こうしたらいい」と案を示してくれる方でしたし、何より徹底した成果主義であるからこそ、成果に対しては誰よりも素直に喜んでくれる方でもありました。
 良い発表はその場で褒めてくれるだけでなく、誇らしげにさまざまなシーンで「昔、ゼミ生がしたリサーチで〇〇という会社が・・・」と語り継いでくれたりもします。

 このスタンスは6月末に行った京都瀧本ゼミとの交流会の時まで変わりませんでしたから、ニュースに先んじて卒業生から訃報を聞いた時は、起きたことがにわかに信じられませんでした。
 しかし15日の午後にNHKの速報で訃報が届くと一気に現実のこととして突きつけられ、自然と涙が出てきて止まりませんでした。
 今まで何度詰められても堪えてきたものが、その時は堪えられなかった。
 まだ先生は47歳、ゼミは創設8年目、先生自身もゼミもこれからだったのに・・・自分は無念でなりませんでした。

 ただ、いつまでも落ち込んでいるわけにはいきません。
 瀧本ゼミはこれからも半学半教の精神の元、創設者である瀧本哲史先生の志を学生たちで引き継ぎ、活動を続けていきます。
 そして自分自身もいつか、卓越したプロフェッショナルとして天国にいる先生に良い報告ができるよう“Do my homework”を続けていきます。

 今までありがとうございました。
 ご冥福をお祈り申し上げます。
東京大学文科二類 2年 余越優

 僕が瀧本先生と初めてお会いしたのは、大学1年生のときの瀧本ゼミ春新歓でした。
 イタリアンレストランの隣の席に、やけに早口で話す人が来たなと思ったら瀧本先生でした。
 ゼミ生の活躍を嬉しそうに語る先生が印象的で、こんなに頭の回転が早い先生と、この人と渡り合うほどの優秀なゼミ生がいるのかと、驚いたのを今でも覚えています。

 先生がゼミに実際にいらっしゃることは僕の代の入ゼミ後は稀でしたが、いらっしゃったときは的確なフィードバックをくださり、そんな視点・考え方があったのかといつも驚かされました。
 また発言のなかの情報量が誰よりも多く、頭をきちんと働かせてついていくのにいつも必死でした。
 一つ質問をすると、想定した返答の10倍くらいの情報を返してきて圧倒されたことも多々あります。
 でもそんな今までにない体験が楽しく、瀧本ゼミには大学在学中の時間を割きたい、と強く思えました。

 ゼミを続けた最初の動機は、実はこのように「先生からたくさんのものを吸収したい」という気持ちだったのですが、新歓戦略を練るとき先生が「権威に学びたい人はゼミで取りたい人ではないんですよ」と仰っていて、自分の浅さに気づかされました。
 今思うと僕は先生から直接アドバイスを受けたことは少なく、このように先生の発言から自分を振り返ることが多かったです。
 それでも自分にグサリときたことは一度や二度ではなく、先生にはお見通しなんだな……と勝手に反省していました。
 だから先生は気づいていないと思いますが、僕は先生の言葉に何度も凹んでいます(笑)。
 ただそれでも不思議と悪い気はせず、むしろその後のやる気や勇気をもらえるのでした。
 先生の振る舞いや言葉には、そんな力が宿っていたような気がしています。

 今回のことで、先生は本当にお忙しいなかゼミに時間を割いてくださっていたのだとようやく気づきました。
 亡くなる直前まで、遠隔でゼミに参加してほしいとしつこくお願いしていたことが恥ずかしく、申し訳ないです。
 微力ながら、これからもゼミを発展させていけるよう尽くしたいと思います。
 1年半という短い間でしたが、本当にお世話になりました。
 ご冥福をお祈りします。
東京大学文科二類 2年 藤田健司


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2020年09月02日

東大新聞、ジャーナリスト志望の大熊将八(くまりん)さんによる寄稿

 東大新聞・・・ヤッホーくんのこのブログ、2020年08月27日付け日記「追悼 瀧本哲史さん」を読み返していただけたらうれしいです。
 東大新聞にこんな記事が:

こちらの記事は、ジャーナリスト志望の東大生・大熊将八(くまりん)さんによる寄稿です。
『君に友達はいらない』『僕は君たちに武器を配りたい』の作者である瀧本哲史さん(京都大学客員准教授)に、東大新入生の「意思決定」について語っていただきました。

――  本日は、東大を卒業されている先生に東大新入生に向けてのアドバイスをお話しいただきたいです。

瀧本: まず受験と大学生活、就活は非連続であるという前提を知る必要があります。大学入試というのは採点しやすいように答えが一意に決まっていて、時間をかければ誰だってできるようになるものです。だから時間の制限がある中で及第点に達することを目指すゲームです。
 しかし、これからは違います。大学では自分で問いを立てて答えを探していかなければなりません。
 みんながやっていることにとりあえず合わせるなんてしていてもダメです。もちろん、それで何とか凌ぐことも可能ですが、今度は就活、社会に出て、あるいは研究をしようとしたところで、より苦労することになります。
 ここで、東大生にとって不幸なのは”進振り”(進学選択制度)があること。これは受験と全く同じゲームなので、こちらに最適化してしまうと、間違った方向で癖がついてしまうわけです。

大人数講義は”中世の仕組み”で、効率が悪い

瀧本: はっきり言って大人数の講義に出ても効率が悪い。大人数講義は、中世のボローニャ大学で、入学希望者が増えてきて教員の数が足りない、どうしようという問題に直面した時に編み出された知恵です。中世のイノベーションを現代でそのまま使っているだけで何の意味もない。だって、教授がどれだけ早口でしゃべったところで、自分でノートを読んだほうが圧倒的に速いでしょう。
 それに、教授が義務感でやっていて、研究成果がつながっていない、誰も満足していない内容の講義を聞くよりも、図書館に行けば名声の確立した教科書が必ずあります。特に本郷の図書館は学部ごとにあって専門書も充実しており、1・2年生も利用できるのでぜひ使うべきです。
 マスプロの授業が非効率なことは教員側も知っていますが、文科省が時代に追いついていないのです。実は、”出席点”というのは文科省的には本来認めないことになっている。というのも、全部授業に出るのは当然だろうと考えているわけです。
 幸い、昔の東大生たちはこうした問題に対して”シケプリ”という制度を発明しました。この賢い先人達の知恵に乗っかりましょう。

[ヤッホーくん注:シケプリ]
授業の内容や過去問の解答などをまとめたもので各クラスごとに毎年作られます。数人で1つの授業を担当してシケプリを作成し分業によって試験を乗り切ろうという作戦

 では、そうやって捻出した時間で何をするべきか?ゼミはおすすめです。駒場にも全学ゼミナールという名称でいくつもゼミがあります。これは先生の趣味で開かれていることもありますが、それがゆえに逆にとても熱心ですし、少人数で実践的なものが多い。昔とっていたOBOGとの繋がりが濃いところもあってネットワーキングもできます。

サークル選びで考慮すべき3つの要素

―― 僕自身3年前に東大に入学したときは右も左もわからない青年でした。そうした学生にとって、サークルの選択は重要だと思います。サークル選びのアドバイスはありますか。

瀧本: 考慮すべき要素は少なくとも3つあります。
 まず、どういう分野であれ、強いサークルをおすすめします。
 というのは弱いサークルに入ると負け癖がついてしまう。東大には、ニッチだけど強いサークルというのがたくさん存在します。総長賞を獲った競技ダンス部とか、世界大会に出ているレゴ部(デンマーク発のおもちゃ、レゴブロックで作る)だとか、奇術愛好会なんかもそうですね。こうした団体には短期間でその分野で勝てるようになるノウハウが蓄積されていて、それを学ぶことの意義は大きい。
 2つ目はインカレ(intercollege)の組織であること。東大生以外と関わりを持っておく機会は貴重です。私が学生時代所属した弁論部は、インカレの組織と連携していて、そこにはいろんな大学の人が集まってきていました。
 3つ目は社会人とのかかわりを持てること。会いたいと思えばいろんな社会人に会えるのは学生の特権です。

―― 学生のサークルや部活での取り組みというのは、社会人から「しょせん学生レベル」みたいに言われることもあります。一方で学生で起業してそのまま成功を収めるような学生レベルを超えた人もいると思いますが、その差はどこにあるんでしょう?

瀧本: 普通の会社で社会人を数年やったぐらいで人はそれほど変わらないし、学生は本当はしょぼくなんてないですよ。要はチャレンジングな環境に早く飛び込めるかどうかの違いだけです。
 ただ、学生への期待、要求水準が低いというのはよいところもある。言い換えれば、なめてもらえるわけです。学生だから得られるチャンス、入り込めるところは結構あります。それを有効活用しない手はないですよね。

正解は自分で見つけるしかない

瀧本: いろいろと要素を挙げてきましたが、ここでも、やはり、全員にとって正しい答えなんていうのはない。多くの人がやっていることにとりあえず従うのと同様、私が言っていたから従う、とかは無意味です。
 同様に、取り合えず何かやっておかないと不安だからとりあえず、国家試験のために予備校に通おうとする人のことを、これからの官界なり法曹界が求めているわけでもない。受験までとは違う新しいゲームが始まったことを理解して、自分なりの答えを見つけていくしかないわけです。

―― 先生にとっての正解は弁論部だったかと思います。出会ったきっかけは何ですか?

瀧本: 高校の同期のサークル訪問につきあったら、たまたま優秀な先輩に出会ったのがキッカケです。そして、その入りたがっていた同期は入部せず、関心がなかった自分が入部したという。入学してみると、「東大生もこんな程度か」と失望することも多いかとは思いますが、優秀な人を見つけて、ついていくのも手です。そこに行きつくまでにはいろいろなところを回る必要もあるし、いわゆる”サークルジプシー”にも一定の意味があるんじゃないでしょうか。

―― 1年の時には出会えなかった人、わからなかった人もいると思います。特に地方出身者には情報がない。実際僕が今所属している競技ダンス部を見つけたのも1年生の終わりの時期です。そういう人はどうすればいいでしょう?

瀧本: 出遅れる人が多数派です。気付いた時点で、自分で意思決定していくしかないですね。大事なのは以前に行った意思決定による投資に固執しないこと。これを経済学では「サンクコスト」と呼びますが、サンクコストに縛られて不本意なのに方針を変えないとかはもったいない。

[ヤッホーくん注:サンクコスト]
埋没費用(sunk cost)。それまでに費やした資金や労力、時間を惜しんで事業を継続すると、損失が拡大するおそれがある。

瀧本ゼミはあるべき大学教育の一ケース

―― 僕自身もゼミ生ですが(笑)、改めて、先生が開催されているゼミの目的をお伺いします。

瀧本: もともと京大で持っている「起業論」の授業を一コマ駒場でやったのですが、そのゼミ生から、授業が終わっても引き続きゼミをやって欲しいという要望があって、京都でもやっている「企業分析」を行う自主ゼミを開きました。東大はパブリックセクターに関心を持つ学生も多いので、企業分析に加えて、「政策分析」の自主ゼミも作りました。
 どちらも、答えがわからないものをリサーチするという手法は同じです。ニッチなテーマですが、コンテストで優勝したりして強いサークルといって良いでしょうし、慶応医学部の人が入っていたりとインカレであり、実際の一流のファンドマネージャーや政策担当者を審査員に招いたりと社会人との接点があるという要素は先ほどサークル選びの三要素は充たしています。
 同時に、瀧本ゼミは、サークルとしてだけではなく、所属する組織一般としても卓越した場にしたいと思っています。
 私はよく「どういう会社がおすすめですか?」と聞かれるのですが、その時に
@ みはらしが良く、
A ブートキャンプ(アメリカの軍隊の新兵訓練施設)的なトレーニングで鍛えてくれる場所であり、
B クラブ的であること
を挙げています。
 要は、世の中を幅広く観察し、徹底的に学ぶ場であり、その苦労をともにした仲間のネットワークが長く続く組織ということです。
 瀧本ゼミは、これらの条件を充たすように設計しました。
 最初の話に通じますが、あるべき大学教育の実験モデルとして実践しているつもりです。

「東大でもこんなもんだ」で終わらせない

―― 本日は貴重なお話をありがとうございました。最後に何か一言いただけますか

瀧本: 東大に入る価値のひとつは、「東大でもこんなもんだ」と思えることです。入れなくて後々までくやしがったりすることは生産的ではないです。そうした後ろ向きなことを考えないで良いことは大きいですね。ただ、「こんなもんだ」と思う人の大部分は、東大の価値を十分に味わっておらず、もったいないこともあると思います。
 例えば、理系に限られますが設備ひとつとっても、学費を考えればあり得ないぐらい恵まれています。
 しかし、東大の価値はそういったわかりやすい目に見えるものと言うよりも、日本、あるいは世界の知的あるいは人的ネットワークと繫がるハブとして最も優れている場の一つだということだと思います。
 機会があってもその価値がわからない人には、活用できません。
 宝の山に入って、手ぶらで帰ってくることだけはないようにして下さい。

※ 瀧本哲史(たきもと・てつふみ)
京都大学客員准教授、エンジェル投資家。東京大学法学部卒業後、学卒で助手(現在の助教)となるも、外資系コンサルティング会社マッキンゼーに転職する。3年で独立して、投資業、コンサルタント、評論活動など幅広い活動を行う。現在はエンジェル投資家のかたわら京都大学で意思決定理論、起業論、交渉術の授業を担当している。


東大新聞、2018年4月13日11:50(初出は、2014年4月9日)
瀧本哲史さんインタビュー
受験と大学生活は別のゲームであると理解せよ
 
(大熊将八)
https://www.todaishimbun.org/takimoto/

[「エンジェル投資家」についてヤッホーくん、調べてみました]

米大統領選に向けて、野党民主党の候補者による討論会がラスベガスで開催された。今回は大富豪のマイケル・ブルームバーグ氏の初参加ということで、私も生中継を見た。そこで見たのは、他の5人の候補者からの「傲慢な大富豪」という大合唱だった。私は、政治的な視点ではなく、シリコンバレーの視点から違和感を感じた。

確かにブルームバーグ氏の個人資産は約6兆円と言われており破格の額だが、「GAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)」などシリコンバレーを中心とする西海岸の代表的成功企業の創業者たちの資産も軒並み5兆円を超えている。

民主党の討論会でブルームバーグ氏は「資産は誰からの遺産でもなく、自分で作ったものだ。それを社会に還元していくのが私の役目だ」と述べたが、それはシリコンバレーの感覚に近いと思う。「金が権力の源となる」という負の側面は否定しないが、外に再投資をして新たな事業、産業、人材を育てることは素晴らしいという考え方もある。

シリコンバレーでは、先の人たちのような桁違いの資産がなくても、生活の基盤がしっかりしていて余剰の資金があれば、スタートアップに出資する人は非常に多い。このような個人投資家は「エンジェル」と呼ばれる。投資したスタートアップが何社も成功し大きなリターンが得られたエンジェルの中には、それを生業にする人も出てきた。

当初これらは「スーパー・エンジェル・ファンド」と呼ばれていたが、ベンチャーキャピタル(VC)としての基盤が確立したので、今では「マイクロVC」と呼ばれている。出現から10年ほどたった今では、1千社以上の数まで増え、ベンチャーエコシステムで重要な地位を占めるようになった。一方、個人のエンジェル投資もさらに盛んになり、スタートアップの創業時の資金調達では欠かせない存在となっている。

さらに、シリコンバレーでは、大企業出身者によるエンジェル投資も盛んだ。なぜ投資が可能かと言うと、日本企業と比べて幹部の報酬が桁違いに高いからである。十分な貯金があり、家のローンも無く、子供も巣立っていれば、エンジェル投資は可能だ。

最近では、このような大企業出身のエンジェルの年齢が若くなっている。GAFAなどの巨大成長企業では昇進が早く、報酬も実力主義とストックオプションにより大きく膨らむ可能性があるという背景がある。

スタートアップでの成功者や大企業で活躍した幹部は、成功するほど報酬が膨らむ仕組みになっている。より付加価値を出せる成功者が起業家やスタートアップに再投資し、育成を加速するという正のサイクルが形成されることになる。

一方、シリコンバレーで活躍してきた日本企業の幹部は、引退後にエンジェル投資するほどの余裕がない。年功序列による悪平等により、シリコンバレーでの日本企業の土壌がますます痩せてきている。6兆円とは言わない。6億円でいいから、あなたの企業で突き抜けた貢献者に託してみてはどうか。

※ 日経産業新聞2020年3月3日付


[写真]
校條浩(めんじょう・ひろし、1954年生まれ)
小西六写真工業で新事業開発に従事。BCG(ボストン・コンサルティング・グループ)を経て1991年にシリコンバレーに移住。新事業コンサルティングを経て、ベンチャーキャピタル及びファンド・オブ・ファンズを組成。

日本経済新聞、2020/3/3付
エンジェル投資の担い手
新風シリコンバレー
  
校條浩氏(米NSVウルフ・キャピタルマネージングパートナー)
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO56284070S0A300C2XY0000/

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東大新聞、土屋和代准教授による論考

米ミネソタ州ミネアポリス市で、黒人男性が警察官に拘束された際に亡くなった事件を受けて、米国各地に広まった人種差別に対する大規模な抗議活動。
なぜ黒人に対する暴力が繰り返されるのか、そして人種差別の問題について日本に暮らす我々にはどのような態度が求められるのか。
米国現代史が専門の土屋和代准教授(東大総合文化研究科)による論考だ。

「警察ではなくケアを」


 アメリカ史上最大規模と呼ばれる、今日のブラック・ライヴズ・マター(BLM)運動。BLMを突き動かすのは、度重なる警察や自警団の暴力によって、黒人の命が奪われ続けてきたことへの怒りである。2012年2月26日、フロリダ州サンフォードでコンビニエンス・ストアから帰る途中に自警団員によって殺された17歳のトレイボン・マーティンさん。2020年3月13日、ケンタッキー州ルイビルの自宅で就寝中突然押し入ってきた警官に撃たれ亡くなったブレオナ・テイラーさん。2020年5月25日、ミネソタ州ミネアポリス市で、偽札の使用容疑で駆け付けた白人警官に膝で首を地面に押し付けられ、「息ができない」と何度も訴え、「お母さん」と声を絞り出し亡くなったジョージ・フロイドさん。黒人の生命が簡単に奪われてきた/いること――黒人を潜在的な「犯罪者」とみなし、監視・取り締まり、収監する(そして、黒人の命を奪った人びとの犯罪行為を厳正に裁かない)社会のあり方そのもの――を問うているのだ。

 トランプ大統領はミネアポリスのデモ隊を「ちんぴらども」と形容し(2020年5月29日)、BLMを「憎しみの象徴」と呼び(7月1日)、司法長官のW・バーは抗議デモが「凶暴な暴徒と無政府主義者」に乗っ取られたため連邦治安要員を抗議行動の場に送り込むことは必要だったと述べた(下院司法委員会の公聴会、7月28日)。しかし、7月28日に公表されたギャラップ調査によれば、アメリカ人の実に3分の2が抗議デモを支持している(@)。黒人たちが一体いつまでこの暴力に耐え続けなければならないのかという問いこそが、人種・エスニシティや国籍、世代を超えて多くの人びとを大規模で長期にわたる抗議行動へと駆り立てている。

 今日、アメリカ人は世界人口の5%を占めるにもかかわらず、刑務所や留置所に拘禁されている世界の囚人人口の25%を占める。なぜこのような事態になったのか。この問いに答えるためには、黒人が奴隷制下であらゆる権利を剥奪され重労働を強いられた上、南北戦争後は「黒人取締法」により放浪や労働現場からの離脱、労働契約違反、銃の所持、無礼な態度や行動等を理由に処罰され、「犯罪者」として強制労働に従事させられてきた歴史を理解する必要がある(A)。

 囚人人口が激増したのは、ジム・クロウと呼ばれる人種隔離制度にメスを入れた1964年公民権法及び1965年投票権法成立以降のことであった(B)。人種・肌の色による差別は過去の遺物となったはずだったが、拡大する刑罰国家の下で黒人や他の有色人種の人びとの市民権は大幅に制限された。一度でも重罪人になれば、雇用や住宅において差別され、投票権や教育の機会、公的扶助が制限され、生涯にわたり「二級市民」として扱われるためである。

 BLMは「投資―脱投資(警察・刑務所・刑事司法制度の予算を削減/脱投資し、教育・雇用・住宅・医療・コミュニティに暮らす人びとのために投資する)」や「警察ではなくケアを」というスローガンに示されるように、刑罰国家の拡大とともに福祉国家の後退・解体が進んできたことを問う。そしてその流れの転換を目指す。BLMの共同創設者のひとりであるパトリス・カラーズは、社会の問題に対して、警察を増強することではなく、黒人や他の有色人種の人びとの生活をコミュニティのレベルで支える事業を拡充することで、解決を目指すべきだと訴えた(C)。この「投資―脱投資」や「警察ではなくケアを」という考えは、今日BLMを支える多くの団体によって支持されている(D)。BLM運動は黒人や他の周縁に追いやられた人びとの命が幾重にもわたり軽んじられてきたことを俎上に載せ、新しい社会のあり方を模索・提示している。

日本における重層的差別

 BLMはけっして遠いアメリカで起きた出来事ではない。6月7日に大阪市中心部で行われた行進には1000名以上が参加し、6月14日の東京・渋谷における行進の参加者は約3500人にのぼった。東京における行進の発起人で運営メンバーであるアメリカ出身の大学生シエラ・トッドさんは、2015年にミス・ユニバースの日本代表に選ばれた宮本エリアナさん(黒人の父、日本人の母のもと、長崎で育った)が「日本人らしくない」と批判されたことを例に挙げ、日本に暮らす黒人が日本人であること≠否定される状況こそ、日本でBLMを話題にする理由であると語る(E)。

 BLMは日本における黒人の表象や報道の在り方をあらためて問い直すきっかけにもなった。2017年末には、「ガキの使い!大晦日年越しSP絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時」(日本テレビ)における「ブラックフェイス(黒塗りメイク)」に対して、国内外で「人種差別的だ」と非難の声があがり署名活動が行われた。また、2019年1月に日清食品が「カップヌードル」のPRで同社所属の大坂なおみ選手を起用しアニメーション動画を作成した際、大坂選手を「白人化」し、批判を受け削除に至ったことは記憶に新しい(F)。今年6月7日には日本放送協会(NHK)が放送した国際報道番組『これでわかった!世界のいま』において、Twitterで発信された動画のなかで黒人を筋肉隆々で「暴力的」、「感情的」な存在として描いたことに対して国内外で厳しい批判が寄せられた(この結果、NHKは「お詫び」とともに見逃し配信を停止し、動画投稿を削除し、14日の放送で謝罪した)(G)。ここで問題となったのは動画だけではない。警官が抱く黒人への「恐怖」を強調し、黒人を「脅威」として描き(こうしたステレオタイプこそが黒人への暴力を助長してきたことは言うまでもない)、白人警官による黒人の殺人、暴力の問題を正面から取り上げない報道の姿勢こそが問われたのだ。

 今から45年前の5月、在日大韓基督教会の招きによって日本を訪れた黒人神学者のジェームズ・H・コーンは、自分が黒人について述べたことは、在日の人びとが置かれた状況と「多くの平行関係」にあると気づかされたと語った(H)。BLMについて考えることは、在日の運動の歴史について学び、日本に暮らす「マイノリティ」の人びとから見た日本社会の問題について考えることでもある。民族、国籍、出身地域、性規範、性的指向、性自認、貧困によって「息ができない」思いをさせられている住民の声に耳を傾けることでもある。そうした重層的差別、交差する抑圧を問う考え方―「インターセクショナリティ」と呼ばれる―こそ、BLMの特徴だ。

 BLMが問う刑罰国家の拡大と人種主義の関係についても「対岸の火事」では済まされない。出入国在留管理庁の収容施設において収容期間の長期化が問題となり、各地でハンガーストライキが続いた。2019年6月には大村入国管理センターでナイジェリア国籍の男性が餓死する事件が起きた。批判を受けて入管庁が設置した専門部会は、早期に帰国した場合には短期間での再入国を可能にし自発的出国を促す一方で、従わない「送還忌避者」には刑罰を科す、難民申請が認められず二回目以降に申請を行った者の強制送還を可能にする、「仮放免」中に逃亡した外国人への罰則の創設を検討するなどの提言を2020年6月にまとめた(I)。これに対して難民や外国籍の住民を支援してきた市民団体や東京弁護士会、日本弁護士連合会などが次々と声明を発表し、異議を唱えている(J)。この「改革」は日本に暮らす外国人の権利を保障し生活を支える方向ではなく、「刑罰化と難民申請者の送還というさらなる厳格化」により収容期間の長期化という「問題」解決を目指すものだと弁護士の指宿昭一は指摘する(K)。

 BLMの共同創設者の一人アリシア・ガルザは、アメリカにおいて、国家暴力に晒されてきた黒人が解放されれば、その影響を広範囲に及び、社会全体を変えることになるだろうと語った(L)。その「社会」はアメリカだけではない。黒人の命を軽んじてきた社会を変革するために起ち上ることは、日本における重層的差別に向きあうことでもある。

@ “Two in Three Americans Support Racial Justice Protests,” Gallup News, July 28, 2020
A アンジェラ・デイヴィス、上杉忍訳『監獄ビジネス―グローバリズムと産獄複合体』(岩波書店、2008年)
B 詳しくは拙論「刑罰国家と『福祉』の解体―『投資―脱投資』が問うもの」『現代思想』臨時増刊号(総特集 ブラック・ライヴズ・マター、2020年9月刊行予定)参照
C パトリス・カラーズ、グリスティーナ・ヘザートン(聞き手・文)、酒井隆史・市崎鈴夫(訳)、「#BlackLives Matter運動とグローバルな廃絶に向けてのヴィジョンについて」(2020年6月24日接続)
http://www.ibunsha.co.jp/contents/blacklivesmatter01/
D 拙論「刑罰国家と『福祉』の解体」
E 「『Black Lives Matter Tokyo』デモの主催者が伝えたいこと―『誰もが公平に扱われるのは当たり前』」『ハフポスト日本版』2020年6月14日
F John G. Russell, “Historically, Japan Is No Stranger to Blacks, Nor to Blackface,” Japan Times, April 19, 2015;
「『ガキ使』浜田雅功の黒塗りメイク BBCやNYタイムズはどう報じた?」『ハフポスト日本版』2018年1月6日;
バイエ・マクニール 「黒塗りメイクは世界では人種差別行為だ」―在日13年の黒人作家が書き下ろした本音」『東洋経済ONLINE』2018年1月17日;
「大坂なおみ選手『私の肌は明らかに褐色』、『次は私に相談して』物議のアニメに反応」『BBC NEWS JAPAN』2019年1月25日
G 詳しくは以下を参照。
吉原真里「炎上したNHK『抗議デモ特集番組』、何が問題だったのか徹底解説する―『歴史』と『構造』を知る必要性」『現代ビジネス』2020年6月16日;
「『黒人よりもアジア人が差別されている』の誤解 日本人に教えたい米国の『制度的人種差別』一橋大学教授・貴堂嘉之先生インタビュー」『文春オンライン』2020年6月23日;
「NHKは何を間違ったのか〜米黒人差別の本質」特集インタビュー(坂下史子・立命館大学教授、藤永康政・日本女子大教授、矢口祐人・東大教授に聞く)『毎日新聞』2020年6月24〜26日
H 拙論「『黒人神学』と川崎における在日の市民運動―越境のなかの『コミュニティ』」樋口映美編『流動する〈黒人〉コミュニティ―アメリカ史を問う』彩流社、2012年、173-202頁
I 第7次出入国管理政策懇談会「『収容・送還に関する専門部会』報告書 『送還忌避・長期収容問題の解決に向けた提言』」2020年6月
J 詳しくはFRJなんみんフォーラムによる以下のHPを参照(2020年8月14日接続)
http://frj.or.jp/news/organization/frj/4023/
K 指宿昭一「人権無視の恐るべき入管法改正案―『送還忌避罪』まで創設」『世界』第935号(2020年8月)、10-14頁
L Alicia Garza, “A Herstory of the #BlackLivesMatter Movement,” the feminist wire, October 7, 2014
https://thefeministwire.com/2014/10/blacklivesmatter-2/

[2020年9月1日号から転載、寄稿者]
土屋 和代(つちや かずよ)
准教授(東京大学総合文化研究科)。
2008年米カリフォルニア大学サンディエゴ校でPh.D.取得(歴史学)。神奈川大学外国語学部准教授を経て16年より現職。

[写真‐1]
ロスアンジェルス郡ハモサ・ビーチ市でジョージ・フロイドさんの死に抗議し、拳を突き上げる人びと(2020年6月2日)

[写真‐2]
ニューヨーク市ブルックリン区にあるキャッドマン・プラザで行われた抗議行動の際に掲げられた手書きのプラカード(2020年7月25日)

[写真‐3]
Black Lives Matter Tokyoの創設者でBLM Tokyo Marchの企画者の一人であるシエラ・トッド(Sierra Todd)さん(2020年6月14日)。Jes Kalled氏撮影。 出典:“Black Lives Matter Forever And Everywhere: A Tokyo March,” Tokyo Weekender, June 15, 2020, https://www.tokyoweekender.com/2020/06/black-lives-matter-tokyo-march/

東大新聞、COLUMN、2020年9月2日
【論説空間】
ブラック・ライヴズ・マター運動と日本における重層的差別
(土屋和代)
https://www.todaishimbun.org/blacklivesmatter20200902/

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平野啓一郎「恥ずべき事件を直視し続ける」

「友好と信頼願う」
関東大震災の朝鮮人犠牲者追悼式 保守系団体とトラブルなし

https://www.youtube.com/watch?v=12EdODsqA-0

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡散と「順法誓約書」論議で開催に迂余曲折を経た関東大震災朝鮮人虐殺犠牲者97周年追悼式が開かれた。

「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典実行委員会」(以下、実行委)は2020年9月1日、東京都墨田区の横網町公園で取材陣と行事関係者のみが参加した中で追悼式を実施した。
 新型コロナの感染拡散で例年とは異なり一般参加者は受け付けず、代わりにユーチューブを通じて行事を中継した。
 毎年数百人が朝鮮人犠牲者追悼碑の前に列をつくり、菊の花を供えたが、今年は代表数人による献花に代えた。
 宮川泰彦実行委員長はこの日の追悼式で、
「悲惨な虐殺で尊い命が奪われた歴史的事実から目を背けてはならない。二度と同じ誤りを繰り返してはいけない」
と話した。

『日蝕』などの小説で韓国でも有名な小説家の平野啓一郎氏は、
「罪もなく亡くなった朝鮮人のために祈る。この恥ずべき事件を直視し続けることなしに、日本社会は真の多様性と共生を実現することは出来ません」
という書面メッセージを送った。


 ハリウッド映画監督のオリバー・ストーン氏もアメリカン大学のピーター・カズニック教授と共同で書面メッセージを送った。
 ストーン監督は、
「過去に正直に向き合うことは、どの国にとっても容易なことではないでしょう」
として、
「皆さんのように真実の歴史のために戦う人々との連帯を強固にして、このような憎しみに土台を置いた犯罪が繰り返されないよう皆さんと共に決意する」
と明らかにした。

 実行委は1974年から追悼式を行ってきたが、右翼指向の小池百合子都知事が在任中の東京都が昨年末から追悼式を行うには一種の「順法誓約書」を出すよう要求して波紋が生じた。
 同じ公園で集会を開いている右翼団体「日本女性の会 そよ風」側と同様に誓約書を出せということだった。
 この右翼団体は、2017年から追悼式典妨害集会を開いているが、東京都が右翼団体のヘイトスピーチと朝鮮人犠牲者追悼式を同じ基準で規制しているとの批判が強かった。
 つまり右翼団体が望む朝鮮人犠牲者追悼式の妨害に力を貸す措置だという指摘だった。
 日本の市民3万人余りが東京都の措置に反対する声明に署名し、東京都は先月8月3日に誓約書提出要求を撤回した。

 小池百合子東京都知事は、最初の当選の翌年である2017年から歴代の都知事が毎年送っていた朝鮮人犠牲者のための追悼文を送らず、今年も送らなかった。
 東京都は最近、この右翼団体の集会で「不逞(朝)鮮人により殺害され家屋を焼かれた多くの日本人」などの発言がなされたことに対して「ヘイトスピーチ」にあたると認める趣旨の決定を下したが、この団体の今年の集会自体は許可した。


[写真‐1]
1日、東京墨田区の横網町公園で開かれた関東大震災朝鮮人犠牲者97周年追悼式で、参席者たちが追悼碑に献花している。今年は新型コロナ感染拡散の影響で、一般参加者なしでユーチューブによる中継で進行され、献花も行事関係者が代表となって行った=東京/共同・聯合ニュース

[写真‐2]
昨年9月1日、東京墨田区の横網町公園で開かれた関東大震災朝鮮人虐殺犠牲者96周年追悼式で、無形文化財保有者のキム・スンジャさんが白の喪服を着て関東大震災当時に虐殺された朝鮮人の霊魂を慰める踊りを踊っている=資料写真/ハンギョレ新聞社

ハンギョレ新聞 The Hankyoreh、2020-09-02 10:06
右翼の妨害にも折れず…今年も開かれた関東大震災朝鮮人虐殺追悼式

97周年追悼式…新型コロナで関係者のみ出席 
小池知事、4年連続で追悼文送らず 
オリバー・ストーン監督など、追慕メッセージ

(チョ・ギウォン記者)
http://japan.hani.co.kr/arti/international/37635.html

 平野啓一郎・・・天才クラシックギタリストの蒔野聡史(福山雅治)と、国際ジャーナリストの小峰洋子(石田ゆり子)、あの映画(2019年11月公開)にもなった『マチネの終わりに』(文春文庫)の作者、平野啓一郎。

平野さん、かっこよすぎ

福山雅治: セットでの撮影中、平野さんが見学に来てくださったことがありましたよね。平野さんはパリに住んでいたこともあるから、フランス語が堪能で。蒔野と洋子、イラク人女性のジャリーラと3人のシーンだったんですが、平野さんはジャリーラ役の女性にフランス語で声をかけて、風のように去って行った。「平野さん、かっこよすぎだろ!」って、みんなで話していたんですよ。

平野啓一郎: いやいや、そんな大したことじゃなくて……。

福山: 実はあのとき、撮影が長引いて現場が少しピリついてたんですね。フランスは労働時間の制約が厳しいので、日本みたいに長い時間拘束しないので。

平野: そんなタイミングだとは全く知りませんでした(笑)。

福山: 平野さんに雰囲気をほぐしていただいて助かりました。パリに住まわれていたのは……。

平野: 2004年です。文化庁派遣の文化交流使として1年。そのとき、「どうしてフランスに住み始めたんですか」と軽い気持ちで周りの日本人に聞いていたのですが、言葉を濁す方が少なからずいたんです。そこで、ポジティブな理由ではなく、人生の複雑な事情で海外にきた方もいるのだと気付きました。

福山: 洋子は母が日本を出た理由は長崎で被爆したからだと考えていましたよね。

次の作品はぜひ長崎を

平野: 僕は北九州育ちなので、もしかしたら小倉に原爆が落ちていたかもしれないと子供のころから聞かされていました。だから被爆2世はずっと気になる存在でした。
 でも、それは別にして、長崎の街が本当に好きなんですよ。こぢんまりとしているけど、丘や坂が多く、立体的できれいな街ですよね。

福山: そうなんですか! 次の作品は、ぜひ長崎を舞台でお願いします(笑)。
 僕も10代の頃は見識が狭く、長崎を出て東京でバンドを組むっていう勢いだけで上京しました。でも、大河ドラマで坂本龍馬さんを演じるオファーをいただいて、改めて長崎の歴史を勉強しました。その時、凄惨な歴史もありますが、長崎という街を自分の表現で何らかのかたちにして残したいと思いました。その衝動はどこからきたのかの答えが平野さんの小説にありました。
「未来は常に過去を変えてる」という言葉。未来を良くすることでしか、過去を肯定できない。未来をよくしていくためのアクションをしなくちゃいけないというのは30代、40代になって思うようになりました。

平野: ハリウッドの俳優たちは温暖化とか社会的な問題に積極的にコミットしますよね。日本でもしかるべき地位にいる人がそういうことに関心を持つのは大事だしかっこいいんだとなれば、世の中はもっと良くなると思います。

福山:『マチネの終わりに』は本当に挑みがいのある原作でした。西谷監督をはじめ、スタッフ、キャスト全員でこの巨大な小説をどう映像化するかに向き合って来ました。

平野: 好きな音楽って、何度も聞くじゃないですか。でも、小説は1回読んで終わりという人が多いのが悔しくて。音楽みたいに「あのシーンをもう一度読もう」と繰り返しページを開いてもらえる小説を書きたかったんです。この映画も「もう1回、あのシーンが見たい」という人がきっとたくさんいると思います。

福山: 映画も何度も観てもらいたいですし、小説も何度も読んでほしい。この映画に期待してくださってるのは大人の女性の方が多いと聞いています。皆さんには是非とも資金力をフルに使っていただいて(笑)、というのは冗談ですが、ご期待にそえる作品になってると思います。


文藝春秋・特別全文公開(から一部)、2019/11/21 06:00
「マチネの終わりに」対談
平野啓一郎×福山雅治「まさか自分の作品で泣くとは」

https://bungeishunju.com/n/nf5a0b9f02115#tSyRB

 私とは何か――。
 アイデンティティーを考える作品を書き続けてきた。
 平野啓一郎さんの長編小説『ある男』(文芸春秋)は改めて個人を形作るものを問いかける。
 名前なのか、経歴なのか、思い出なのか。
 社会問題が色濃く投影された小説には「現代を考えることが文学を豊かにする」という思いがある。

「読者が現実の世界にうんざりしている。僕もそう」

 2016年に出した前作『マチネの終わりに』はしっとりした大人の恋愛小説で、18万部を超えるベストセラーに。
「優しさのあり方を小説で追究したい」という今作も、フィクションにすっと誘い込む仕掛けが施されている。

 主人公は弁護士の城戸。
 作者を思わせる小説家の「私」はある夜、バーで城戸に出会う。
 そのとき彼が語った名前や経歴はすべてうそだった。
 バーで再び2人は会い、城戸はうその理由を話し始める。
 それは、彼が追っていた「ある男」にあった。

 城戸は元依頼人の里枝から異様な相談を受けていた。
 再婚した夫、大祐(だいすけ)が伐採中の事故で命を落とした。
 仲たがいしていた大祐の兄は遺影を見て、別人だ、と言う。
「ある男」は大祐の戸籍を手に入れ、大祐の経歴や思い出を里枝に語り、「大祐」として里枝を愛し、家族になった。

 40代に入り、「自分の人生、知人の人生、つくづく考えるようになった」という。

「出自や親は選べない。こうは生まれたくなかったという思いを抱く人生がある。それに、どんなに幸せだろうとまあまあだろうと、変身願望はあるんじゃないですか」

 僕もね、と続ける。

「取材旅行でひとり見知らぬ土地に出かけると解放感がある。別人として生きるっていいなあと思う。編集者だと名乗ったりして。結局その程度のうそしかつけないんですが」

 東日本大震災で浮かびあがった無戸籍の問題や戸籍ロンダリングといったニュースのキーワードに、出自と差別の問題が絡まり合う。
 城戸は高校時代に日本国籍を取得した在日3世という設定。
「まったく別人として生き直す」という想像に静かに興奮し、自分の住む町で関東大震災直後、朝鮮人虐殺があったと知り、苦痛にあえぐ

共感し、しっかり書く 感じ取ってほしい

「白昼堂々とヘイトスピーチが語られる日本の現状に憤りと憂いがある。震災前から気になっていて、どこかで向き合うべきだと思っていた」

 差別やヘイトが問題になるたび、敏感にニュースに反応し、SNSでメッセージを発してきた。

「文学では、批判の言葉よりも、言われる側の人間に共感し、しっかり書き、感じ取ってもらうことが大事かなと思う」

 在日文学は金石範、金時鐘、柳美里といった当事者の手から生まれてきた。

「自分がアプローチできるのか、心もとないものがありましたが、友達の問題としてなら書けると思った。みんな主人公に作者自身を見ようとしますが、作者の大切な友達だということもある」

 デビュー作「日蝕(にっしょく)」を文芸誌に発表して20年。
『一月物語』『葬送』までの初期3部作は「デビュー時にはっきりとイメージがあった」という。
 それが、「『葬送』の執筆時に9.11が起きて世界が変わった。インターネットの広がりも僕にとって大きかった」。

 初期の耽美(たんび)的な文体から、同じ作家の手によるものとは思えないほど文体も作風も大きく変わる。

「昔は自分の理想的な読者のイメージを持っていたが、もう文学の前提が共有されていない。扱うテーマは普遍的なのに、純文学のマーケット、数千人にしか届かないというのは……」

「普段本を読まないけれど、救われました」と言われたことがある。

「僕の文学を必要としている人は、必ずしも文学の読者だけじゃない。読者のリアルな声に接した時に、現代の読者を考えぬこうと思った。それは、現代を考えることでもあります」


[写真]
平野啓一郎さん=東京都千代田区紀尾井町の文芸春秋

朝日新聞、2018年10月3日掲載
わたしたちを形作るものとは
平野啓一郎さん新刊「ある男」

(中村真理子)
https://book.asahi.com/article/11860126

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中島岳志x若松英輔(前編)「真言密教の開祖、僧・空海」

言葉の世界からコトバの世界へ──高野山での原体験

中島岳志: 今回は、真言密教の開祖として知られる僧・空海を取り上げたいと思います。私は真言密教については、原体験ともいえる忘れられない経験があるんです。
 実は、通っていた高校が真言密教の学校で、3泊4日くらいの高野山修行のプログラムに参加させられたんですね。長時間座らされて、護摩(ごま)を焚(た)いて、最後には「はい、これで皆さんはお大師さんの弟子になりました」といわれたのを覚えています(笑)。
 でも、その修行が私は嫌で嫌でしょうがなくて、2日目の夜だったか、友達と宿坊を抜け出したんです。そうしたら、外は深い深い闇。歩きながら、自分が闇の中に溶け込んでいくような、自分と世界の区別がなくなってしまうような、不思議な感覚を味わいました。結局行く当てもなく、自動販売機でジュースを買っただけで宿坊に戻ったんですが、あの恐ろしさは今もよく覚えています。
 ただ、その後も真言密教と空海に対しては、かなり意識的に距離を置いてきた部分がありました。厳しかった学校への反発と「空海」が自分の中でセットになっていたということもあるし、20代でインドに留学し、過激化するヒンドゥー・ナショナリズムを目の当たりにしたことも大きかったと思います。真言密教にも共通する徹底した一元論の危うさを感じて。同じ仏教者でも、むしろ阿弥陀仏の世界(=浄土)と世俗の世界との距離を強調する親鸞などに興味を向けてきました。
 しかし、やはり空海を改めて読まなくてはならないと考えるようになったのは、今回のコロナ危機がきっかけです。
 前回もお話ししたように、新型コロナウイルス問題の本質は「環境問題」だと思います。
 感染拡大の背景には、人間があまりにも地球環境を破壊し続けてきたために、森の奥にいたウイルスがすみ処を失って人間社会へと移りすんできたという事実がある。それと向き合うのであれば、人間の生命にとどまらない、「いのち」全体の問題を考えなくてはならないのではないか──。
 そう考えたとき、やはり空海の世界に踏み込んでいかなければならない、という思いが強くなってきました。前回お話しした、聖武天皇の大仏建立の際の「詔」(みことのり)にある「草や木や、生命あるものすべてとともに栄えていく」という世界観。後で述べるように、空海の思想にもまた、そこに連なるものがあるように感じるのです。

若松英輔: 高野山には私も以前、行ったことがあります。大人になってからのことで、昼間だったのですが、それでもものすごく怖かった。寺院に近づけば近づくほど怖くなって、到着したころには同行者に「ちょっとすみません」といってしゃがみ込むほどでした。
 そのとき感じたのは、明らかに違う次元の世界がそこにある、ということでした。私たちが暮らす世界は通常、すべてのものが言葉で区切られています。自分と他者、自分と自然……それが高野山に登ったとき、言葉で区切られない世界、井筒俊彦のいう「コトバ」の世界に入った、という気がしたのです。井筒は、1984年に日本密教学会大会で行った特別講演をもとにした文章の中で、真言宗とは「コトバの深秘学」であり、「特異な言語哲学」であると述べています。
 真言密教が本来的、第一義的に問題とするコトバというものが、我々の普通に理解している言語とは違って、いわばそれを一段高いレベルに移したもの、つまり異次元の言語であるということである。
(井筒俊彦「意味分節理論と空海」:『意味の深みへ』岩波文庫)

「コトバ」については、この対談の第1回でもお話ししました。言語による言葉たり得ない、人の態度や存在そのものによる意味の表れのことです。

中島: コトバとは存在そのものであり、世界が言葉によって区切られる「意味文節」よりも以前に存在する「異次元の言語」である、と書かれていますね。そして真言密教においては、そのコトバこそが仏そのものであり、根源的なものである──。空海の本質に迫る文章だと思います。

若松: 今、コロナ危機に直面している私たちも、言語を超えたコトバがこの社会にとっていかに重要かということに、ようやく気づきつつあるのかもしれないという気がしています。
 つまり、人と人が物理的に離れて過ごさざるを得ない今の状況において、見えてきたのは「言葉」だけでは人と人の交わりは足りないということでした。言葉は人の思いと思いをつなげるものではなく、そのための「窓」にすぎない。その「窓」を通じて奥に入り込み、互いの言葉たり得ないコトバを理解していくことこそが大事だということ、そのコトバの交換が、親しい人との関係性においても、社会や福祉、政治、あらゆる社会活動においても足りていなかったのではないかということを、私たちはやっと理解しつつある気がするのです。空海は、そのことをはるか昔の時代に、当然のこととして捉えていた人だったのではないでしょうか。
 彼は「三筆」の一人として、文字を書くことを極めた人でもありますが、文字もまた、彼にとってはその奥にあるコトバに至るための「窓」だった。そうした世界観が今、私たちにとって重要なものになっているのだと思うのです。

唐に渡った空海──空と海の「化身」として

中島: まず、空海の人生を、重要な部分をピックアップしながらたどっていきたいと思います。
 774年生まれの空海は、奈良から平安へと時代が移ろうとする時期に青年期を過ごしています。つまり、奈良のいわゆる旧仏教と平安の新しい仏教、二つの時代の境目に立った人だった。このことは、彼の生涯において非常に重要な意味をもっていると思います。
 しかもその中で、彼はアカデミズムにおける出世の道を自ら投げ捨てています。19歳のとき、一年間通った都の大学を「こんなところでは本当の学びは得られない」といって飛び出し、山に向かうのです。学校に籠もって書物をめくるのではなく、在野で学び、厳しい山岳修行をすることによって、真理と対話しようとした。奈良の旧仏教の影響を受けつつも、そこからなんとかして抜け出したいという空海の強い思いが、そこに見えるような気がします。

若松: 奈良時代には三論宗や華厳宗などの「南都六宗」が栄え、平安時代になってそこに空海の真言宗、最澄の天台宗の「平安二宗」が加わって八宗になって、現在の仏教の形がほぼ定まった──というのが、多くの仏教の本に書かれている解説です。しかし、この説明だけでは空海がのちに真言宗を開いたことの本質的な意味が見えてきません。重要なのは空海が、仏教の次元そのものを決定的に転換させてしまったことだと思います。
 つまり、それまでの仏教は、修行の目的や方法によって大乗仏教や上座部仏教に分かれてはいても、仏の教えは言語や文字という明らかな形で示されるとする「顕教」(けんきょう)でした。そこに空海は、教えの本質、真理は目に見えず、容易に人に伝えられるものではないとする「密教」の考え方を持ち込んだわけです。

中島: そこに至る空海の原体験となっているのが「明けの明星」のエピソードですね。大学を離れて山に籠もった後、空海は仏の真言(マントラ)を唱え続けることで虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)と一体化するという修行法「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)と出合います。そして各地でその行を重ねるのですが、その中で、「明けの明星が口から体内に飛び込んでくる」という経験をした──という下りが、後に空海が記した仏教書『三教指帰』(さんごうしいき)にあります。
 阿國大瀧嶽(たいりょうのたけ)に躋(のぼ)り攀(よ)ぢ、土州室戸崎に勤念(ごんねん)す。谷響(たにひびき)を惜まず、明星来影す。(弘法大師『三教指帰』加藤精神訳註 岩波文庫)

 山や海、洞窟といった自然に囲まれての修行の中で味わった、大自然と自分とが一体化していくような感覚。それが空海の説く密教の原点となりました。そして彼は、その感覚に与えるべき言葉や体系を学ぼうと、留学生として唐へと渡ることを決意します。遣唐使の一行と唐の長安に入ったのは、空海、31歳のときでした。
 彼の幼名は「真魚」(まお)といって、いつから空海の名を使い始めたのかははっきりとわかっていません。ただ、遣唐使船に乗り込んだときには、すでに空海と自称していたようです。
 当時の人々にとって空や海とは、現代の私たちにとって以上に謎めいたものであったはずです。空の雲の動き、海の波の動きの一つひとつが、自分の心の動きと連動しているようにも見えたかもしれない。その「空と海」を、彼が自分の名前として選んだというのは非常に興味深いと思います。

若松: 仏教には、仏には法身、報身、応身(ほっしん、ほうじん、おうじん)の三種類のあり方をとるとする「三身」(さんじん)という考え方がありますよね。その奥に「化身」(けしん)という考え方があって、これを含めて「四身」という人もいる。「化身」、つまり教えを説く相手に応じて、仏がさまざまな姿を現すという考え方ですが、空海という名にも、自分は空と海の化身だという思いが見えるように思います。
 つまり、自分は何者でもない、主体は空と海であって、その働きを世にあまねく知らせる道具となるのが「私」なんだということ。人間の立場から空と海を理解するのではなく、自分のほうが空と海に使われる存在だという世界観を感じます。

中島: 人間と超越的な存在との媒介になるという、意識もあったのでしょうね。

若松: 空海が唐に行ったこともまた、彼自身がそう志したというよりも、何か超越的な存在に動かされた、大いなるものの「道具」となって動いた結果という感じがします。

中島: 唐で空海の師となった僧・恵果などは、少なくともそう捉えていたでしょうね。彼は中国密教の確立者ともいうべき人物ですが、空海が唐を訪れた次の年の終わりに亡くなっています。自分の後継者が目の前に遣わされたという感覚はあったでしょう。
 では、空海の唐行きを「導いた」のは誰だったのか。私は、それはやはり盧舎那仏(るしゃなぶつ)だったと思います。空海は唐に渡る前、東大寺の大仏殿で「われに最高の教えを示したまえ」と誓願をかけていました。そしてその数日後、夢に大仏──盧舎那仏が現れて、「おまえの求めている経典はこれだ」と、密教の経典である「大日経」を示されたのだといいます。その大日経を学ぶために唐に渡ることを決意するというプロセスが、そこにはあったわけです。
 かつて、国家の安寧を願って大仏建立を思い立った聖武天皇、あるいはその労働を担った「知識」の人びと。そうした死者たちの思いを継ぎ、そして盧舎那仏に背中を押されるようにして、空海は唐に向かったといえると思います。

両界曼荼羅は、「中に入る」ことで初めて完成する

若松: 当時の唐は、単なる「大都会」ではなく、世界の文明の中心地の一つだった。
 盧遮那仏の導きでそこを訪れた空海が何を学び、何を持ち帰ってきたか。私が面白いと思うのは、それが仏教の枠組みをはるかに超えたものであったことです。
 井筒俊彦と作家の司馬遼太郎が、ある対談の中でこんな話をしています。
司馬 空海という人はふしぎですね。たまたま非常にヨーロッパ的な人ですね。
井筒 まったくそうです。私は、空海の真言密教とプラトニズムとのあいだには思想構造上のメトニミィ〔若松注:換喩〕関係が成立するだけじゃなくて、実際に歴史的にギリシア思想の影響もあるんじゃないかと考えているんです。
司馬  長安に入った空海は、当然なことですけれども、ネストリアンのキリスト教の教会は見たらしいですし、ゾロアスター教の火のお祭りも見たはずです。ですから当然、プラトン的なものが〔若松注:日本に〕来ていないということは、いえませんですね。
井筒 いえません。絶対いえないと思います。
(対談「二十世紀末の闇と光」:『井筒俊彦全集』第十巻 慶應義塾大学出版会)

 キリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、そしてプラトン。
 私たちが考えているよりもずっと早い時代に、東西は「霊性」の次元で出合っていた。
「仏教」の枠組みにこだわりすぎることは、真言密教を小さく捉えることになってしまうのかもしれません。先ほど、空海は仏教の次元を転換させた、といいましたが、むしろ彼がやったのは、仏教を軸にした宗教次元そのものの転換だったというべきかもしれませんね。

中島: そうですね。もちろん、唐での空海はサンスクリット語を学び、恵果のもとで密教を学んでいるのですが、持ち帰ってきたものはそれだけではありません。彼が帰国後に朝廷に提出した、「御請来目録」(ごしょうらいもくろく)という文書があって、つまりは唐から持って帰ってきたものの目録なのですが、これを読むと、「自分は文明のコンタクトゾーンである唐からあらゆるもの、世界そのものを持って帰ってきたんだ」という気概を感じます。
 ただ、その「持ち帰ってきたもの」の中でもやはり非常に重要なのは、大日如来の説く教えを視覚的に表現した「両界曼荼羅」(りょうかいまんだら)──胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅と金剛界(こんごうかい)曼荼羅だと思います。
 空海は、大日如来の教え──つまりはコトバの世界が私たちの世界に現れてくるときの多元性を、非常によく認識していた人だったと思います。そして自ら、手を替え品を替えながら、コトバの次元をあらゆる形で表象しようとし続けた。その意味では、詩をつくることも書をなすことも、あるいは高野山に修行の場をつくり上げることも、のちに関わることになる満濃池改修のような土木工事も、空海にとっては「同じことをやっている」という感覚だったのではないでしょうか。
 そして、彼がそうした多様な行為を通じて表現しようとしたコトバの世界を、そのまま図像化したのが「両界曼荼羅」だったのだと思うのです。

若松: 私は、この両界曼荼羅というのは、二つの向かい合った曼荼羅の間に私たち自身が入ることで、初めて曼荼羅たり得るものだと考えています。空海が開いた高野山壇上伽藍金堂においても、二つの曼荼羅は対面するような形で配置されていますが、その間に私たちが入ることで、ようやく曼荼羅空間が完成すると感じるのです。
 以前、ある美術館で、二つの曼荼羅が絵画のように並べて置かれているのを見たとき、非常に居心地の悪い思いがしました。そうして正面から二つの曼荼羅を眺めていると、私たちは曼荼羅を離れたところから「観察する」ことになります。それが、曼荼羅をわからなくするのだと思うのです。
 そうではなく、曼荼羅の間に私たち自身が「入る」ことによって、曼荼羅と共振する。その経験を通じて、曼荼羅に描かれている胎蔵界でもない、金剛界でもない、二つの世界のあわいに存在する人間というもののありようを、コトバで理解する。曼荼羅というのは、そのための仕組みなのだと思います。曼荼羅を「観察する」対象としてしか捉えず、「ここに何が描かれていて、こちらには何が描かれていて……」と、美術品のように鑑賞しているだけでは、曼荼羅を本当に理解することはできないのではないでしょうか。

中島: よくわかります。最初にお話ししたように、高校での「修行」体験は私にはとても苦痛だったのですが(笑)、一つだけ感謝していることがあって。それが、まさにその「曼荼羅の間に入る」という経験をさせてもらったことなんです。
 実際に曼荼羅の間に身を置いてみて感じたのは、曼荼羅が「動いている」ということでした。もちろん、そのときはうまく言語化できなかったのですが、感覚としてそう思ったんですね。紙に描かれているはずの曼荼羅が潮のように大きく渦巻いていて、そこに自分が巻き込まれていくような感じがしたのです。
 胎蔵界曼荼羅は英語でいうspread(広がり)、真ん中に配置された大日如来から放射状に力が広がり、また大日如来へと戻っていくという形ですね。一方、金剛界曼荼羅はspin(回転)型。大日如来の力が渦のようにぐるぐると回っているんです。その意味でも、曼荼羅とはとても動的な存在だと思うのです。

若松: spreadとspinというのは、まさに空と海ですね。つまりは、世界のあり方そのものともいえると思います。

中島: その双方がうごめいている曼荼羅の間に、自分が入っていく。それは、曼荼羅そのものの中に入っていくような、自分が森羅万象と溶け込んでいくような感覚でした。
 まさに、それこそが修行を通じて空海の味わった世界であり、彼はそれを人々に体現させるために両界曼荼羅を持ち帰ったのだと思うのです。

若松: 空海に『吽字義』(うんじぎ)という著作があるのですが、その最初で空海は「字相と字義」について書いています。「字相」とはその文字の上っ面、つまり表面上の意味のこと。一方、「字義」はその奥にある深み、文字の真の意味のことを指します。
 曼荼羅にもそれと同じように、絵の相と絵の義というものがあるんだと思います。「義」のほうを理解するためには、観察しているだけではなくて、ぐっと中に入って、自分自身がそこに「参与」していかなくてはならない。そうして相と義の両方を理解することが、とても大事だと思うのです。
 しかし、私たちは多くの場合、絵のように並べられた曼荼羅を「観察する」だけで終わってしまっています。それは曼荼羅の中に入っていく、参与していくための準備ができていないからともいえるのではないでしょうか。では何の準備が足りないのか、何が私たちを「参与する」ことから遠ざけているのかを、考える必要があると思います。

※ 中島岳志 (なかじま たけし、政治学者)
1975年大阪府生まれ。専門は南アジア地域研究、近代日本政治思想。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。北海道大学大学院准教授を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授に。『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)で、2005年に大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『インドの時代―豊かさと苦悩の幕開け』(新潮社)、『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社)、『「リベラル保守」宣言』(新潮社)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)など多数。幅広い評論活動を行っている。

※ 若松英輔 (わかまつ えいすけ、批評家・随筆家)
1968年新潟県生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授、未来の人類研究センター教授を兼任。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選。16年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞を受賞。詩集『見えない涙』にて第33回詩歌文学館賞(18年)を、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)で第16回角川財団学芸賞(18年)及び、第16回蓮如賞(19年)を受賞している。近著に『内村鑑三 悲しみの使徒』(岩波新書)、『詩と出会う 詩と生きる』(NHK出版)、『本を読めなくなった人のための読書論』『いのちの巡礼者 教皇フランシスコの祈り』(ともに亜紀書房)などがある。

[写真-1]
高野山奥之院御廟橋から望む参道

[写真‐2]
両界曼荼羅図
左:金剛界(桃山〜江戸時代)右:胎蔵界(桃山〜江戸時代)
高野山金剛峰寺/提供:高野山霊宝館

イミダス・集英社、2020/08/06
いのちの政治学〜コロナ後の世界を考える
「空海の世界観が教える〈参与する〉ことの大切さ」

中島岳志(政治学者)、若松英輔(批評家・随筆家)
(構成・文/仲藤里美)
https://imidas.jp/inochinoseiji/1/?article_id=l-93-005-20-08-g812

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2020年09月01日

白井聡「民衆の力を否認し、民衆に自らを無力だと感じ続けさせること」

 安倍政権、この無惨なるものを支えてきた制度・機関の筆頭としてマスメディアを挙げなければならない。

 数年前、とあるシンポジウムで大谷昭宏氏(元「読売新聞」社会部)と同席したことがあったが、その時大谷氏は次のように語った。
「安倍政権が言論統制していると言われているが、ナンセンスだ。権力がメディアに圧力をかけるのは当たり前のことで、安倍政権のやり方は大変に露骨で稚拙だ。こんな程度の低い抑圧を弾圧だの統制だのと言ってしまったら、もっと巧妙な抑圧と戦ってきた先輩たちに、草葉の陰から笑われてしまう」

 その通りだと思う。
 この7年余りの間、報道への圧力は高まったが、そのやり方はあまりにもあからさまなものであり、それだけに跳ね返すことは困難ではないはずだった。
 圧力を受けている事実を率直に報道すればよかったのである。

メディアの退却

 しかし実際のところ、メディアは後退に後退を重ねた。
「クローズアップ現代」(NHK)の国谷裕子氏は降板させられ番組は模様替え、「報道ステーション」(テレビ朝日)も古舘伊知郎氏が降板となり熟練スタッフは総解雇された。
 NHKの「7時のニュース」に至っては、ほとんどフィクションに近くなり、明らかに崩壊している総理の国会での答弁をあたかもまともな答弁をしたかのように見せかける編集技術は、達人の妙技と呼ぶべき域に達した。

 帰責されるべき層は二つあると考えられる。
 ひとつには、メディア機関の経営幹部層である。
 本来彼らは、権力からの圧力から現場を守る役割を負っている。
 しかし、安倍から会食に誘われた回数を競い合うようになった幹部連中に、そのような役割の自覚などあるはずがなかった。
 ジャーナリストとしての矜持などとうの昔に失い(あるいは最初から持っていなかったのか)、大層な肩書のみを追い求めて長年ヒラメ生活をしてきたサラリーマン・メディア人の成れの果ての姿がそこにはある。
 海外のジャーナリストからこのような日本のメディア人の行動に対して驚きの声が寄せられても馬耳東風。
 トップの座に就いても習い性になったヒラメ行為はやめられないのである。

 そして、経営トップの権力との癒着・忖度は、その下で働く者たちの層へトリクルダウンする。
 ヒラメがヒラメをヒラメし、ヒラメがヒラメからヒラメされる。
 ヒラメがヒラメを引き上げ、ヒラメがヒラメから引き上げられる。
 大マスコミ各社は、さながらヒラメの養殖場と化したかのようだ。

 この現象が集約されたのが、各社の政治部である。
 事前に通達された質問に対し、これまた事前に準備された回答を読み上げるだけの総理記者会見は、「『台本』営発表」と揶揄され、官邸詰めの記者たちは「劇団記者クラブ」と蔑称されるまでに至った。
 公人から本音を聞き出すために、公人と接近して情報を取るという日本独特のメディア人と権力者の「親密さ」は、安倍政権の7年余りの間に権力とその監視者との間にあるべき緊張感を完全に失い、政治部は政府の公式見解の伝動ベルトへと堕してきた。

 南彰氏(「朝日新聞」記者、新聞労連委員長)は、この惨状のなかで味わってきた苦悩を率直に綴り、どのような自己変革がメディアに求められているかを真摯に考察している。
 彼は、次のように書いている。
 迷っていた時、政治記者の大先輩から言われたことを思い起こした。
「君、大丈夫なのか。まともな政治記者≠ニして出世できなくなるよ。変えるためには権力を取らないといけないんだから」
 心配はうれしかったが、「まともな政治記者」という言葉で迷いが断ち切れた。
(南彰『政治部不信――権力とメディアの関係を問い直す』朝日新書、2020年)

 自分の持っている「まともさ」の基準が狂っていることにいまだに気づけないメディア人が、おそらくは多数派なのである。
「権力を取って変える」といった李登輝気取りの言辞が、今日どれだけアホらしい戯言に聞こえるか、想像もつかないのであろう。
 メディアの退却は、大手報道機関に蔓延るこうした空気によるものであった。

「体調不良による辞任」の演出、共犯者としてのメディア

 上に述べてきた退却、堕落の延長線上に、安倍首相辞意表明の過程においてメディアが果たした役割の問題性がある。
 安倍が健康を害してきており、政権を投げ出すのではないかという観測が広がり始めたのは、7月頃であっただろうか。
 確かに、安倍の表情からは生気が失われ、足取りは重く、いかにも体調が思わしくない様子が見て取れるようになった。

 そして、8月半ば過ぎから局面は一気に動き始める。
 8月16日に、盟友甘利明が「数日でもいいから強制的に休ませなければならない」と発言し、その翌日には安倍が慶応病院で検査を受ける。
 同日夜には、麻生太郎が「147日間休まず働いたら、普通だったら体調としては、おかしくなるんじゃないの」と発言して、首相の健康問題を「アピール」した。
 そして、24日、慶応病院での「再検査」に際してはわざわざマスコミに情報を事前に流し、安倍を乗せた車の車列が慶応病院に入って行く画を大々的に撮らせた。
 安倍の病状の詳細を伝える報道(おそらくはリークに基づく)も、週刊誌では相次いだ。

 強調せねばならないのは、国家のトップの健康不安がこのように大々的に報道されるのはきわめて異例であることだ。
 民主国家であれ独裁国家であれ、権力者とりわけその頂点にいる者の健康状態は、最高の国家機密のひとつだ。
 対外的にも対内的も、弱みを見せるわけにはいかないからである。
 だから、権力者は、健康を害した際には、秘密裏に検査や治療を受けるのが通例である。

 しかるに、安倍は関係の近い有力政治家と呼吸を合わせて、自分の病気を故意にアピールした。
 非常識の極みであると言える。
 そして、8月28日の記者会見は、持病の再発により志半ばで職を辞さなければならないことになったという趣旨を、「神妙な」面持ちで語る場となった。

 だが、辞意表明に至る経緯の実態は何なのか。
 確かに、持病は再発したのかもしれない。
 あるいは、別の深刻な病気(癌など)が検査により発見されたとの噂も流れている。
 だがしかし、病状が悪化しようがしまいが、安倍晋三はかつてないかたちで追い込まれていた。

 黒川弘務を無理矢理に定年延長させて検事総長の職に就かせようとした策動が、広範な国民からの激烈な批判を受けて頓挫し、さらに賭け麻雀問題で黒川は完全に失墜。
 これで検察への抑えは効かなくなってきた。
 そうしたなかで河井夫妻の審理は進行しており、安倍自身に刑事責任の追及が及ぶ事態は現実味を帯びてきた。
 他方、アベノマスクをはじめとして、政権の打ち出す新型コロナ対策はことごとく失望と怒りを買い、支持率の低下が止まらない。
 臨時国会を開こうにも開けない――それは憲法違反にほかならないのだが――状況に立ち至っていた。
 かつ、来年に延期された東京五輪の開催はもはや絶望的であり、ホスト国の元首という晴れがましい役割を果たすチャンスももう消えた。

 そのような情勢下で、安倍晋三にとっての火急の課題は、「いかにして身の安全を確保して政権を投げ出すか」というところに必然的に定まる。
 ここで下手を打てば、国民の批判は自民党本体にも及んで政権を失うかもしれない。
 あるいは、影響力を及ぼせない人物が総理総裁に就任するかもしれない。
 いずれの場合でも司直の手が自らの身に及ぶ可能性が高まる。

 ゆえに、このタイミングでの持病の悪化は、大変な好材料として機能する。
 大衆の感情のモードを「もう引っ込め、馬鹿野郎」から「色々あったけれど、病気は気の毒だ。長い間、お疲れ様でした」へと転換させること、これが安倍の自己保身のために決定的に重要な事柄となったのである。

 案の定と言うべきか、辞意表明後の世論調査(共同通信)によれば、政権支持率は20ポイントも上昇し、目下のところ安倍の仕掛けは成功を収めている。

「民意に追い込まれた退陣」を否認する工作

 そしてまさに、この転換の片棒を担ぐ、というか転換を実現する主体となっているのがマスメディアである。
 ここまでくれば、報道機関は民主主義の敵であると言っても過言ではない。
 なぜなら、この転換によって実現されるのは、「民意に押されての退陣」から「体調不良による余儀のない、また同情に値する退陣」への意味づけの大転換であるからだ。

 要するに、この半月ほどの健康不安をめぐる演出は、「民意によって追い込まれての退陣」という現実を誤魔化し否認するための手の込んだ工作にほかならなかった。
 この工作は、安倍個人の自己保身という次元をはるかに超えて、深刻に罪深いものだ。
 というのは、そこに懸けられているのは、民衆の力を否認し、民衆に自らを無力だと感じ続けさせることにほかならない
からである。

 そして、民衆が自らの力を自覚してしまうことを、安倍政権がどれほど恐れてきたことか。
 思い起こされるのは、2015年8〜9月の新安保法制をめぐる政治攻防が頂点にあったとき、私も国会前でのデモ等の反対運動に参加していたが、その際、警備・デモ規制体制は日々強化されて行ったことだ。
 警察は、交通安全の確保を名目として、デモ参加者を歩道に閉じ込めようとした。
 しかし、8月30日のような日には、膨れ上がった人波のために歩道と車道を仕切る線(警察の置いた障害物による)が決壊し、車道に人がなだれ込んで道路が解放された。
 その翌日には、警備・規制の体制は著しく強化された。

 その動機を推察するならば、国会前の道路が民衆によって埋め尽くされている絵柄を撮られて拡散されることを、国家権力は極度に嫌がっている、ということだ。
 私もその場に居合わせたからわかるが、車道に人がなだれ込んでせいぜい数時間そこが解放されることになど、実質的には大した意味はない。
 しかし、その光景は、民衆の力、民衆が本当は何をなし得るかということの象徴となりうるのだ。
 だからこのちっぽけな出来事を権力は恐れているのである。
 その恐れの真剣さが、警備・規制体制の強化からは如実に伝わってきたのだった。

メディアの堕落の真犯人

「権力を取って変える」などといった言葉を口にするメディア人は、自らを民主主義の守護者か何かだと思っているようだが、勘違いも甚だしい。
 彼らが実際にやっていることは、民意の無力化に血道をあげることにほかならない。

 そんな彼らの現実の姿が遺憾なく暴露されたのが、8月28日の総理辞任表明記者会見での質疑応答の場面だった。
 フリーランス以外の記者で権力の私物化の問題に切り込んだのは、「東京新聞」と「西日本新聞」の記者のみ。
 しかも、一記者一問に規制されているから、安倍が「私物化していない」という自らの主張を一方的にまくし立てて終わった。
 記者間の連携も取れていないから、別の記者がさらに突っ込んだ質問を続けて追及することもなかった。
 ただの一人も、安倍晋三が訴追される可能性について言及しなかった。
 政治部記者の実像をあらためて見せつけられて、新聞の購読を中止する読者が多数出たとしても全く不思議ではない。

 会見が終わるとテレビ各局は、「総理辞任表明に対する街の反応」といった映像を流し始め、マイクを向けられた街ゆく人びとが、異口同音に「病気で大変だったんですね、お疲れ様でした」といった類の言葉を発する様を延々と流した。
 街頭でのインタビューには、当然別様の、もっと厳しい反応もあったはずだ。
 まともな政治意識の持ち主ならば、「お疲れ様でした」で済ますはずがない。

 あたかも官邸の意図を汲むかのように、テレビは「同情する人びと」を映し続けた。
 ウンザリしてテレビのスイッチを切った者も多かっただろう。
 ここでも問題は、安倍が逃げ切りに成功するか否かのみではない。
 これらの放送は、同胞に対して絶望することを促している(意図的にであるかは知らぬが)のである。
 民主制は同胞への信頼なくして成り立たない。
 だからそれは、民主制に対する根本的な否定なのである。

 けれども最後に、ここまで厳しい批判を書き連ねてきたマスメディアに対して、同情する気持ちもあることを書いておきたい。
 この7年余りの間に多くの報道関係者と会い、話をしてきた。
 親しい友人もいる。
 だからわかるのだが、権力を監視し適切に批判することがメディアの務めだということを理解していない報道人などほとんどいない、ということもまた事実なのである。

 ならばなぜ、彼らは安倍政権に敗北し続けてきたのか。
 唯々諾々と後退を続け、卑屈な阿りにまで転落したのか。

 その根本の理由は、権力批判の言説を生産することに、報道人の多くが自信を持てなくなってしまった、というところにあるのだと思う。
 権力を批判することには当然リスクが伴う。
 怖いことだ。
 その恐怖を乗り越えられるのも、批判に対して多くの支持が寄せられるだろうと思えればこそである。
 逆に、支持なき批判は孤立を招く

 この7年余りの間に報道人が失ったのは、「私が放つ批判の言葉は世の中に届くはずだ」という確信ではなかったか。
 徒労感、孤立への恐怖。
 これらが、報道人の姿勢を内側から崩して行ったのではなかったか。

 そうだとすれば、私は、「空気に屈するな」とは思うが、同時に同情の念を禁じ得ない。
 確かに、「安倍的なるもの」が覇権を握ることにメディアは加担してしまったのだとしても、「安倍的なるもの」をメディア自身がつくり出したのではないのである。

 だから、安倍長期政権をもたらした「メディアの変質・劣化」の前提、より本質的な条件として、社会そのものの変質・劣化がある。
 それこそが、安倍政権の長期化を可能にした本当の主役として分析の俎上に載せられなければならない。


[写真‐1]
日本テレビ系「スッキリ!!」に出演し単独インタビューに応じた安倍首相(中央)=2013年4月18日放送

[写真‐2]
慶応病院に到着した安倍晋三首相=2020年8月24日、東京都新宿区

[写真‐3]
集団的自衛権の行使を認める新安保法制に反対し国会前を埋めたデモ=2015年8月30日

[写真‐4]
記者会見に臨む安倍晋三首相(中央)=2020年8月28日、首相官邸

朝日新聞、2020年09月01日
無惨なる安倍政権を支えたマスメディア
民衆が自らの力を自覚してしまうことを、権力は恐れてきた

(白井聡、京都精華大学人文学部専任講師)
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020083100002.html

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原発ゼロ

 安倍首相が辞任し、自民党は新しい党の代表を選出する。
 新しい内閣はコロナ緊急事態対応、選挙管理内閣の色彩を帯びる。
 衆院任期は2021年10月。
 これまでに次期衆院総選挙が実施される。
 2021年に延期した東京五輪の環境は一段と悪化している。
 IOCは2020年10月には実施の可否について判断するものと見られる。
 現状では感染は収束しておらず、本秋から来春にかけて感染拡大の第2波が襲来する可能性も高いと見られる。
 最終的に五輪は中止に追い込まれる可能性が高まっている。

 衆院の解散・総選挙のタイミングは狭まりつつあり、年内に実施される可能性が高まっている。
 安倍政治に対峙する勢力は、この機会に一気呵成に政権奪取を目指す必要がある。
 安倍政治が長期化してしまった最大の理由は、国政選挙で野党陣営が市民の強い支持を得られなかったことにある。
 選挙に参加する有権者は5割。
 その半分が自公に投票している。
 反自公に投票する有権者が5割存在するのに、反自公陣営は議席全体の3分の1しか獲得できなかった。
 小選挙区、1人区の選挙では当選者が一人しか出ない。
 この選挙制度に的確に対応できてこなかった。

 安倍政治に対峙する明確な政策路線を明示する。
 その上で、候補者調整を進め、一つの選挙区に一人の候補者を擁立することが勝利の必要条件だ。
 この必要条件が満たされずに来た。

 野党の失態は二つの側面から捉えることができる。
 第一は、安倍政治に対峙する明確な政策路線を明示することができなかったこと。
・ 憲法・安全保障政策
・ 原発
・ 経済政策
に明確な政策路線を明示することが必要不可欠だ。

 安倍内閣の憲法破壊を認めない。
 原発推進を認めない。
 弱肉強食推進の経済政策を共生の経済政策に転換する。
 この政策路線が明確に示されてこなかった。

 第二に、候補者調整が十分に実行されなかった
 一人しか当選者が生まれない選挙で野党が複数の候補者を擁立すれば、与党候補が勝利するのは自明だ。
 候補者調整が十分に行われなかったことが安倍政治の長期化を許した大きな原因である。

 この失態の責任を負うのが旧民主党、旧民進党である。
 この政治勢力の最大の欠陥は、党内に自公政治の主張と反自公政治の主張が同居していること。
「水と油の混合物」なのだ。
 この状態を放置したままで、主権者に支持を求めても無理だ。
 この問題の解消が必要不可欠なのだ。

 紆余曲折を経て、今回、立憲と国民が合流することになった。
 創設される新党では、
「立憲主義の深化」
「原発ゼロ」
が綱領に盛り込まれる方針になった。
 これこそ、この政治勢力に求められてきたことだ。

 連合の一部をなす「電力総連」などは、この綱領を受け入れられず、新党を支持しない方針を表明している。
 所属議員のなかでも、この方針に賛同できない者は新党に参加しないと伝えられている。
 これこそが、この政治勢力に求められてきた対応だった。
 ようやく、政策の明確化が実現し、新党が発足する状況である。

 ところが、最後になって、再び政策のあいまい化が取り沙汰されている。
 新党を意義ある存在にするためには、
「立憲主義の深化」
「原発ゼロ」
を綱領から排除することは致命的だ。

 新党が連合に縛られた「隠れ自公」の存在と認識されることになる。
 枝野幸男氏がこの点を明確に認識しているのかどうかが目下の最大の焦点である。


植草一秀の『知られざる真実』2020年8月29日 (土)
原発ゼロ明記しないなら新党はご臨終
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-22c25e.html

2011年の東京電力福島第一原発事故以降、多くの原発が運転を停止しており、その維持費は電気料金として請求されています。
そこで電力各社の有価証券報告書に記載されている原子力発電費を検証しました。
2011年度から2019年度の原子力発電費総額は15.37兆円、うち発電に寄与していない原発分は10.44兆円だったことがわかりました。
何も生み出さなかった10兆円
−有価証券報告書をもちいた原発のコスト検証結果−

[概要]
・ 2011年の東京電力福島第一原発事故以降、多くの原発が運転を停止している。
 その一方で、維持費は電気料金として請求されている。

 そこで電力各社の有価証券報告書から、原子力発電費を取り出し、発電に寄与していない原発のコストを検証した。
・ 2011年度から2019年度の原子力発電費は15.37兆円。
 うち、原発で発電した分を除くと、10.44兆円に上ることが分かった。
 電力消費者は、2011年度から2019年の間、何も生み出さなかった原子力の維持コストを10兆円以上負担させられていたことになる。
・ 原発が再稼働した電力会社の原発発電単価は事故前の2倍に増加している。
・ 再生可能エネルギー賦課金(FIT賦課金)の2012〜2019年度総額は11兆円であり、まったく発電しなかった原発のコストはこれに匹敵する。
・ 原発依存度低減のために、廃炉に関連する費用を託送料金に転嫁する「廃炉円滑化負担金」が2020年度から導入された。
 原発依存度を低減するために廃炉のコストを消費者転嫁するのであれば、廃炉を推進するために少なくとも原発維持費の経過措置料金への原価算入は見直すべきだ。


原子力資料情報室、2020/08/31
調査レポート
https://cnic.jp/9414

 国民民主党に所属する連合の組織内議員約10人が2020年8月31日、立憲民主党との合流新党への参加を見送る方針を固めた。
 新党の綱領案に明記された「原発ゼロ」に反発する連合傘下の民間産業別労組(産別)の意向を踏まえた。

 その他に玉木雄一郎代表ら10人近くが参加しない方針で、新党不参加は合わせて20人近くになりそうだ。
 連合系議員は無所属で活動するか、玉木氏らの「分党」側に加わるかどうかを検討する。

 関係者によると、電力総連やUAゼンセンなど民間産別トップが31日、連合の神津里季生会長に「参加は見送らざるを得ない」と伝えた。
 約10人のうち大半が参院の比例選出議員となる。


Yahoo Japan! News、2020/8/31(月) 22:08
国民の連合系議員、新党不参加へ
約10人、原発ゼロに反発

(共同通信)
https://news.yahoo.co.jp/articles/4868a31e7a3260f8ac0ef981b77266f314303f7b

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2020年08月31日

白井聡「低温火傷のような不快感」

 安倍政権の7年余りとは、何であったか。

 それは日本史上の汚点である。
 この長期政権が執り行なってきた経済政策・社会政策・外交政策等についての総括的分析は、それぞれの専門家にひとまず譲りたい。
 本稿で私は、第二次安倍政権が2012年12月に発足し現在に至るまで続いたその間にずっと感じ続けてきた、自分の足許が崩れ落ちるような感覚、深い喪失感とその理由について書きたいと思う。
 こんな政権が成立してしまったこと、そしてよりによってそれが日本の憲政史上最長の政権になってしまったこと、この事実が喚起する恥辱と悲しみの感覚である。

 この政権が継続することができたのは、選挙で勝ち続けたためである。
 直近の世論調査が示す支持率は30%を越えており、この数字は極端に低いものではない。
 これを大幅に下回る支持率をマークした政権は片手では数え切れないほどあった。
 要するに、多くの日本人が安倍政権を支持してきたのである。

 この事実は、私にとって耐え難い苦痛であった。
 なぜなら、この支持者たちは私と同じ日本人、同胞なのだ。
 こうした感覚は、ほかの政権の執政時にはついぞ感じたことのなかったものだ。
 時々の政権に対して不満を感じ、「私は不支持だ」と感じていた時も、その支持者たちに対して嫌悪感を持つことはなかった。
 この7年間に味わった感覚は全く異なっている。

 数知れない隣人たちが安倍政権を支持しているという事実、私からすれば、単に政治的に支持できないのではなく、己の知性と倫理の基準からして絶対に許容できないものを多くの隣人が支持しているという事実は、低温火傷のようにジリジリと高まる不快感を与え続けた。
 隣人(少なくともその30%)に対して敬意を持って暮らすことができないということがいかに不幸であるか、このことをこの7年余りで私は嫌というほど思い知らされた。

「公正」「正義」の破壊

 安倍政権がなぜ許容できないのか、許容してはならない権力なのか。
 あれこれの政策が問題なのではない。
 政策が時に奏功しないことは致し方のないことである。

 無論、あちこちで指摘されてきたように、どの領域においても安倍政権は長期安定政権にもかかわらずロクな成果を出せず、ほとんどの政策が失敗に終わった。

 だが、真の問題は、失政を続けているにもかかわらず、それが成功しているかのような外観を無理矢理つくり出したこと、すなわち嘘の上に嘘を重ねることがこの政権の本業となり、その結果、「公正」や「正義」といった社会の健全性を保つために不可欠な理念をズタズタにしたことにほかならない。

 したがって、この政権の存在そのものが人間性に対する侮辱であった。


 その象徴と目すべき事件が、伊藤詩織氏に対する山口敬之のレイプとそのもみ消しである。
 失政を重ね、それを糊塗しなければならないからこそ、山口のごとき提灯持ちの三下が安倍晋三にとっては大変貴重な人材となった。
 この事件は、犯行そのもの、逮捕の撤回、明るみに出た際の安倍支持者による被害者への誹謗中傷、もみ消し当事者の中村格警視庁刑事部長(=当時)のその後の出世(現在、警察庁次長、すなわち次期警察庁長官の最有力候補である)という経緯のすべてが腐りきっている。
 このような事件を起こした政権を合法的に継続させているという一事だけでも、現在の日本国民の悲惨な道徳的水準を十分に物語っている。

 こうして腐敗は底なしになった。
 森友学園事件、加計学園事件、桜を見る会の問題などはその典型であるが、安倍政権は己の腐りきった本質をさらけ出した。
 不正をはたらき、それを隠すために嘘をつき、その嘘を誤魔化すためにさらなる嘘をつくという悪循環。
 それはついに、一人の真面目な公務員(財務省近畿財務局の赤木俊夫氏)を死に追い込んだ。
 高い倫理観を持つ者が罰せられ、阿諛追従して嘘に加担する者が立身出世を果たす。

 もはやこの国は法治国家ではない。

 そして、公正と正義に目もくれない安倍政権がその代わりとする原理は「私物化」である。
 私物化されたのはあれこれの国有財産や公金のみではない。
 若い女性の身体や真面目な官吏の命までもが私物化された。
 だから結局、目論まれたのは国土や国民全体の私物化なのだ。

 例えば、新元号の発表と改元の時の政権の振る舞いを思い出してみれば、それは明白だ。
 先の天皇(現上皇)の譲位の意思に対しては執拗な抵抗を試みたくせに、新元号の発表となれば、安倍は前面にしゃしゃり出て、「令和」に込めた自分の「思い」を滔々と語った。
 国民主権の原則に立つ現行憲法下における元号は、「天皇と国民の時間」を意味するはずである。
 したがって、その発表に際しては、国民の一時的な代表にすぎない為政者の振る舞いは抑制的であるべきだという発想は、そこには一切見て取れなかった。
 むしろ反対に、安倍晋三こそが「令和」の産みの親であるというアピールが盛んにされたのである。
 それは国家の象徴的次元における「私物化」にほかならなかった。

 より実体的な領域を挙げるならば、大学入試改革の問題を見てみればよい。
 十分に機能してきた制度(センター試験)をわざわざ潰して民間業者を導入する主たる動機は、安倍の忠実な従僕たちの利権漁りである。
 安倍自身の知性に対する憎悪がそれを後押しした。
 もちろん、次世代の学力などは完全にどうでもよい。
 ある世代が丸ごと私物化されようとしたのであり、それは言い換えれば、この国の未来を犠牲にして利権に引き換えようとしたということにほかならない。

 かくして、モラルは崩壊し、政治の場、国家機構そのものが、政官財学で跋扈する背広を着た強盗どもによる公金のぶん取り合戦の空間と化してきた。

 新型コロナ対応のための補助金支給業務において、この腐敗は鮮やかに現れた。
 私物化の原則は権力の頂点から発し、恥を知る者を除く万人を私物化競争へと誘い出して行ったのである。

日本を取り戻す

 一体何から私たちは始めなければならないか。
 相も変わらず、テレビのワイドショーは、「スシロー」こと田崎史郎といった面々を毎日起用して、次期総理は誰だ、小泉進次郎がどうのこうの、といった愚にもつかない政局談義を垂れ流している。
 おそらくテレビ局は、自分たち自身と視聴者がどこまでの愚物になり果てることができるのか、人間の限界に挑戦しているのであろう。

 日本の再生のためには、こうしたジャンクな光景が一掃されなければならない。
 そしてそれに代わって、安倍政権下で失われたもの、すなわち公正と正義をめぐる議論が提起され、それが実行に移されなければならない。

 安倍晋三の健康問題をめぐってはその扱い方をめぐってさまざまなことが言われているが、体調不良とこれまでの政権運営における責任の問題は、完全に無関係である。

 健康問題のために、この7年間余りに犯してきた罪に対する追及がうやむやになることは、絶対に避けられなければならない。

 仮に、健康問題が深刻化してその最も極端な事態、すなわち当人の死亡という事態が起こったとしても、すでに行なった悪行が消えるわけでは全くないのだ。

 私たちの再出発は、公正と正義の理念の復活なくしてあり得ず、その復活のためには、総理自身の違法・脱法行為の究明が絶対的に必須である。

 少なくとも、山口敬之レイプ事件、森友学園事件、加計学園事件、桜を観る会、河井夫妻の事件の計5件の事件については、徹底的な究明がなされなければならない。

 そして当然、究明に引き続いて、安倍のみならず関与した他の者の訴追と処罰もなされなければならない。

 この過程を検察に任せきりにするのではなく、国会内に真相解明の特別委員会のような機関が設置されることが望ましいと私は思う。
 赤木俊夫氏の妻、雅子氏は、総理辞意表明を受けて、「次に総理大臣になる方は、夫がなぜ自死に追い込まれたのかについて、有識者によって構成される第三者委員会を立ち上げ、公正中立な調査を実施していただきたいと思います」とコメントしているが、私は心から同意する。
 この異常な7年余りの間に法治国家の原則が崩れ落ちたことに対する深い危機感を持つ議員は、与党内にもいるはずである。

 それにしても、安倍政権におけるこうしたスキャンダルを列挙すると、それぞれの件の矮小性にあらためて驚かされる。
 かつて戦後日本政治を揺るがしたスキャンダル、すなわちロッキード事件やリクルート事件は、それぞれ時代を画するものであった。
 ロッキード事件については、国際的な謀略の存在がささやかれ続けているし、戦後保守政界の裏舞台で重大な役割を果たした児玉誉士夫など、超大物が関係していた。
 あるいは、リクルート事件は、製造業から情報産業へという資本主義経済における中心産業の転換を背景として発生したものであり、その意味で時代を象徴するものだった。

 これに対して、安倍晋三がらみの事件の実質は、山口敬之レイプ事件=性犯罪とそのもみ消し、森友学園事件=昭恵夫人の暴走・国有地の叩き売り、加計学園事件=単なる身びいき・公金の横流し、桜を見る会=有権者の買収、河井夫妻の事件=私憤と子分への肩入れの行き過ぎ、であるにすぎない。
 どの事件にも、その背後で進行する社会構造の大変化などを感じさせるものは何もなく、ただひたすら凡庸でケチ臭い。
 それは、安倍晋三という人間のパーソナリティの身の丈にまさに合致しているとも言えるのだが。

 しかし、このことは、これらの事件の社会的有害性の小ささを意味するものではない。

 まさにこうしたスケールの小さい悪事の積み重ね、その隠蔽、嘘に次ぐ嘘といった事柄が、公正と正義を破壊し、官僚組織はもちろんのこと、社会全体を蝕んできたのである。

 その総仕上げが、黒川弘務を検事総長に就任させようという策動であったが、これが国民の意思の爆発的な噴出(ツイッター・デモ)によって阻止されたことの意義は巨大であると言えよう。
 公正と正義が完全に葬り去られ凡庸な悪による独裁が完成する事態が、民衆の力によって差し止められたのである。

 安倍の辞任は、病気を原因とすると称してはいるが、支持率の低下と民衆からの批判によるストレスがそこには介在しており、その意味で民衆の力によって追い込まれたという側面を確実に持つ。
 そして、いま始まったお馴染みの面々(麻生だの菅だの)による跡目争いは、そうした力の作用に対する否定にほかならない。
「一般大衆の意図など無意味だ。実際に事柄を差配するのはわれわれだけだ」と。
 安倍を補佐する共犯者であった彼らが、失われた公正と正義を回復する意図など持っているはずがない。
 彼らは、安倍が手放した腐った力を拾い上げ、それを振り回そうとしているにすぎない。

 繰り返して強調するが、後継者が誰になろうが(仮に政権交代が起こったとしても)、安倍時代の不正の追及が正面から行なわれない限り、本質は何も変わらない。
 第二・第三の安倍がまたぞろ現れて、日本社会の腐敗を一層促進するだけのことになる。

 だが、安倍晋三によって私物化された日本を取り戻すという民衆のプロジェクトは、いま確かにひとつの成果をあげたのである。
 私たちは、選挙はもちろんのこと、デモ、SNS等、あらゆる手段を通じて声を発し、公正と正義の実現に向けてさらなる努力を重ねる必要がある。
 安倍政権とは、腐食してしまった戦後日本の産物であり、その腐食を促進加速させる動力ともなった。
 腐食から破滅に向かうのか、それとも急カーブを描いて上昇気流を摑むことができるのか。
 私たちはいまその瀬戸際に立っているのである。

[写真‐1]
地下街のマルチビジョンで、安倍首相の記者会見に見入る人たち=2020年8月28日、札幌市中央区

[写真‐2]
ケント・ギルバード氏、百田尚樹氏などに囲まれて「桜を見る会」で記念撮影する安倍晋三首相、昭恵夫人=2019年4月13日、東京都新宿区

[写真‐3]
参院選で広島選挙区に自民党から立候補した河井案里氏(左)と街頭演説する安倍晋三首相=2019年7月14日、広島市

朝日新聞、2020年08月30日
安倍政権の7年余りとは、日本史上の汚点である
私たちの再出発は、公正と正義の理念の復活なくしてあり得ない

(白井聡、京都精華大学人文学部専任講師)
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020082800004.html

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2020年08月30日

梯久美子、樺太を行く

 狭い賃貸暮らしで、また手に入ると思われる本は譲るか売るかしてしまうので、『下駄で歩いた巴里』もだいぶ前に手放したのだが、昨年また買い直した。
 理由は、収録されている「樺太への旅」を読み直したかったから。
 昭和10年、林芙美子は当時の樺太に旅をしているのである。

 昨年2017年秋、私はサハリン(旧樺太)に旅をした。
 戦前の樺太には多くの作家が旅をしているが、その一人が芙美子である。
 無謀と紙一重の天真爛漫さが横溢するシベリア鉄道・パリ編に比べればいささかおとなしいが、例によって描写が具体的で、「河岸には、キスのような色をしたキウリと云う魚がすだれのように干してありました」などと書いてあるので嬉しくなる。
 あのキュウリ(北海道以外ではほぼ知られていない魚)に目をつけるとは、さすが芙美子だ。

 芙美子の10年前に樺太に旅行したのが北原白秋で、その紀行文が『フレップ・トリップ』である。

 大正12年、鉄道省によって稚内と樺太の大泊の間に連絡船が就航し、観光客も増えた。
 白秋が参加したのはその2年後、大正14年8月に鉄道省が各界の名士を招待した総勢300名の樺太観光団である。

 旅のハイライトは、小さな岩礁に5万頭のオットセイと30万のロッペン鳥(ちょう)が繁殖のためにやってくる海豹島(かいひょうとう)。
 そこで白秋が書いた詩は、
「生きている、生きている。
 動いている、動いている、動いている。
 生長し、生殖し、受胎し、産卵し、展望し、喧騒し、群立し、思考し、歓喜し、驚異し、飛揚し、飜躍し、―島そのものから、ああ、島そのものからすばらしい創世紀にあるのだ」
といった調子である。

 ロマンチックでやや陰鬱な白秋の詩や短歌のイメージを期待して読むとびっくり仰天する、ほとんど躁状態の紀行文。
 読んでいると樺太がものすごく楽しいところのように思えてくるから、鉄道省の目論見は成功したといえるだろう。

※「週刊新潮」2018年6月7日号 掲載


北原白秋『フレップ・トリップ』(岩波文庫)
大正14年、白秋の“心もはずむ”樺太紀行

[レビュアー]梯久美子
https://www.bookbang.jp/review/article/553852

 あらゆる列車は歴史の上を走る。

 バラストが砕けて砂になり、枕木がコンクリートに替わり、レールが敷き直されても、それらを支える地面は変わらずそこにある。そして、自分の上を通っていった者たちの物語を記憶するのだ。

 生きかわり死にかわりしながら、軌道の上に見えない層をなす人々。そこをまた別の人生が駆けてゆく。

 小学生のころ、母親くらいの年齢の知らない女の人と、汽車に乗り合わせる夢を見た。その人はむかしこの汽車に乗っていて、いまはもう死んでいるのだということを、夢の中の私は知っている。だが私は怖くなかった。少し離れたボックスシートに座り、車窓の景色を眺めていた。

 10歳かそこらだった私が、鉄道で旅をすることの本質をすでに体験していたことに、いまになって驚く。死者とは「むかし生きていた人」のことだ。その彼/彼女たちと、時空をこえて、つかのま、同じ軌道をゆく。身体がここではないどこかへ運ばれている間、魂は過去といまを往還する。水平の旅と垂直の旅が、線路の上で重なりあう。

 2017年初冬、私はサハリンを縦断する列車の中にいた。窓の外は真夜中のオホーツク海。
 乗り合わせたのは、1934年の樺太を旅していた林芙美子である。

 芙美子にみちびかれて、私は100年前に死んだひとりの男に出会うことになる。革命を夢見た流刑囚にして、アイヌを愛した人類学者。移動と越境の宿命を生きた、ブロニスワフ・ピウスツキという名のポーランド人である。

旧国境をこえる寝台急行

 私は寝台車に乗っている。白いカバーのかかった薄い枕に頭を乗せると、耳の下から、車輪がレールの継ぎ目を乗りこえる音がする。コットン、カタタン。コットン、カタタン。思ったより軽く、濁りのない音だ。振動もそれほどではなく、快適な乗り心地に気持ちがなごむ。昼間、雪まじりの強風が海から吹き上げるホルムスクの丘──大砲を載せたソ連軍の巨大な戦勝記念碑が日本の方を向いて建っている──で、日本軍のトーチカ跡を探して歩きまわったので、コンパートメントの暖かさに全身がとけそうだ。

 うとうとして目がさめる。腕時計を見ると午前0時少し前。発車してから1時間ほどたっている。ちょっと横になるだけのつもりが寝てしまったようだ。いまどのへんを走っているのかと思い、時刻表を見る。ドーリンスク駅を過ぎたあたりのようだ。ドーリンスクは樺太時代の落合である。ちなみにソ連軍の戦勝記念碑があったホルムスクは、そこで戦いがあった当時は真岡といった。

 私が乗っているのは、サハリン最大の都市ユジノサハリンスクから北上し、かつての国境である北緯50度線をこえてノグリキに至る寝台急行だ。ユジノサハリンスクは樺太時代の豊原である。

 現在サハリンを走る鉄道のうち、50度線より南は樺太時代に日本が敷設したもので、総延長は724キロに及んだ。これは一般鉄道だけの数字で、そのほかに木材や石炭を運ぶ軽便鉄道もあった。そのすべてが第二次大戦後にソ連軍に接収され、主要路線はその後、ソ連の国鉄に編入された。現在はロシア鉄道(Российские железные дороги)が99パーセント出資するサハリン旅客会社(Пассажирская компания Сахалин)によって運行されている。時刻表は、この会社のホームページからプリントアウトして持ってきたものだ。

 私の乗る寝台急行は、ノグリキ駅に着くまでに、樺太庁が敷設した部分、日本の製紙会社の私鉄だった部分、第二次大戦中に日本軍が突貫工事で国境の南側に敷いた部分、同じくソ連軍が国境の北側に敷いた部分、戦後にソ連が敷設した部分を、順番に通っていくことになる。

 ユジノサハリンスク駅を発車したのは午後10時42分。ノグリキ駅には翌朝の10時16分に到着する。所要時間11時間34分、距離にして613キロ。中間駅は32あるが、急行が停まるのは、マカロフ(知取)、ヴァフルシェフ(泊岸)、ポロナイスク(敷香)、スミルヌィフ(気屯)、ティモフスク、ヌィシの6駅のみだ。ティモフスク、ヌィシ、そしてノグリキは50度線の北側にあるので、日本時代の駅名はない。

 サハリンの地図を開く。乗車前にユジノサハリンスク駅の近くで買ったものだ。出発前に旅行会社から渡された日程表の冊子に、日本で発行されている地図を持ち込まないようにという注意書きがあった。「北方領土が日本領土として記載されているため」だそうだ。

 それを読んだのは成田から飛行機に乗りこんだあとのことだったが、どちらにせよ、現地で役に立つレベルのサハリン全島の地図を日本で入手するのはむずかしいようで、探してみたが見つけられなかった。

 樺太時代の地図なら、古書店で比較的容易に入手できる。いくつか買った中で一番詳しいもの(1930年発行の『日本地理大系10 北海道・樺太篇』の付録で縮尺120万分の1の地形図)を持ってきていた。この時代のものなら、万一どこかで見とがめられても(どこだろう? 税関?)たぶん問題になることはないだろう。

 ユジノサハリンスクで買った地図はB4サイズの地図帳形式で、縮尺はユジノサハリンスク市内が1万分の1、そのほかの地域は10万分の1。等高線や各種の地図記号も入っているちゃんとした地形図だ。いま走っている区間のあたりを見ると、海にずり落ちそうなくらい海岸線に近いところを線路が通っている。オホーツク海が見えるだろうかと思い、引き戸を開けて通路に出た。

宮沢賢治とシベリア鉄道

 サハリンは北海道の北に位置する、南北に細長い島である。私の乗っている列車は、サハリン島の東岸、つまりオホーツク海に面した側を南から北へ走っている。進行方向に向かって左側に客室、右側に通路があるので、通路の窓は海の方を向いていることになる。

 2段になった寝台ふたつに挟まれているコンパートメントの窓は1メートルほどの幅しかないが、通路には大きな窓がある。厚手のカーテン(色は真紅だ)がかかっているのは断熱のためだろうか。いまは11月中旬だが、外気温は0度を下回っている。

 窓がある側の壁にそって、車両の端から端まで、腰の上くらいの高さの手すりが渡してある。発車前に車掌が窓と手すりの間にカーテンの裾を手際よくはさんでいくのを見たが、なるほどこうすれば人が通ってもひらひらしない。

 隣のコンパートメントから灰色の髪をうしろで束ねた年配の男性が出てきてカーテンを開ける。外は真っ暗で、窓ガラスが車内の様子を映し出す。男性は腕組みをして、窓に映った自分の顔を見ている。あるいはその向こうの闇を見ているのかもしれない。彼が半袖のTシャツ姿であることに一瞬驚くが、気がつくと車両内は強力な暖房で暑いくらいになっている。

 私も自分の目の前のカーテンを開けてみる。窓の外は闇が続くばかりで、そこが海岸なのかどうかもわからない。

 コンパートメントに戻り、ペットボトルのぬるい水をのむ。お茶がのみたいと思い、乗車してまもなく車掌が紅茶の注文を取りに来たことを思い出す。

 サハリンの寝台急行では車掌が紅茶の注文を取りにくるとガイドブックに書いてあったから、メモ帳のようなものを手にした女性車掌が戸口に立って何か言ったとき、紅茶のことを聞いているのだとわかったが、曖昧に首を振ってやり過ごしてしまった。私はロシア語ができないし、サハリンの鉄道は駅でも車内でも英語はまったく通じない。それでも頷いてオネガイシマスとでも言えばわかってもらえただろうにと後悔する。ロシアの鉄道といえば、なんといっても紅茶なのに。

 気弱なタイプではないはずなのに、見知らぬ土地での最初の何日かはきまって、なんでもない場面で気後れしてしまう。今回の旅もまた、小さな自己嫌悪を積み重ねながら始まるようだ。

 帰りの列車ではかならず紅茶を頼もうと決心したが、復路の車掌は注文を取りに来てくれなかった。
「紅茶はいかゞですか。紅茶はいかゞですか」
 白服のボーイが大きな銀の盆に紅茶のコツプを十ばかり載せてしづかに大股にやつて来ました。
「おい、紅茶をおくれ」
 イーハトヴのタイチが手をのばしました。ボーイはからだをかゞめてすばやく一つを渡し銀貨を一枚受け取りました。
 そのとき電燈がすうつと赤く暗くなりました。
 窓は月のあかりでまるで螺鈿(らでん)のやうに青びかりみんなの顔も俄(にはか)に淋しく見えました。
「まつくらでござんすなおばけが出さう」
 ボーイは少し屈(かが)んであの若い船乗りののぞいてゐる窓からちよつと外を見ながら云ひました。
「おや、変な火が見えるぞ。誰(たれ)かかがりを焚(た)いてるな。をかしい」
 この時電燈がまたすつとつきボーイは又
 「紅茶はいかがですか」
と云ひながら大股にそして恭しく向ふへ行きました。
(宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」より)

「氷河鼠の毛皮」は、イーハトヴからベーリングに向かう夜行列車の中で起こる出来事を描いている。イーハトヴはよく知られた宮沢賢治の造語で、理想郷としての岩手県のこと。ベーリングは北方にある架空の都市の名で、おそらくベーリング海からとったのだろう。

 季節は冬。氷河鼠を450匹も使った毛皮の上着を着こんだタイチという男が、北極の近くまで行って黒狐の毛皮を900枚とってくると豪語する。

 北方を走り、紅茶を供する列車といえば、昔もいまもシベリア鉄道だ。白服のボーイが「紅茶はいかがですか」と各車両を回るこの童話にも、シベリア鉄道の雰囲気がある。

 ロシアの鉄道といえば紅茶、という私のイメージは、シベリア鉄道を題材にした古今のさまざまな紀行文や小説からきている(かの宮脇俊三氏の『シベリア鉄道9400キロ』にも女性車掌が紅茶の注文を取りにくる場面がある)が、賢治もきっとそうだったのだろう。

 シベリア鉄道の全線開通は1904(明治37)年。与謝野晶子をはじめ、多くの作家や著名人がこの鉄道でヨーロッパへ向かった。1912(明治45)年、日本が初めて参加したストックホルムオリンピックの選手団も、シベリア鉄道で渡欧している。新聞や雑誌で著名人のシベリア鉄道の旅が記事になることも多く、鉄道好きだった賢治に、この鉄道への憧れがあったとしてもおかしくない。

賢治、チェーホフ、ピウスツキ

「氷河鼠の毛皮」は1923(大正12)年4月15日の「岩手毎日新聞」に掲載された。それから3か月半後の7月31日から8月7日まで、賢治は樺太を訪れ、鉄道の旅をしている。

 当時の樺太は、日露戦争の勝利によってロシアから割譲されて18年しかたっていなかった。シベリア鉄道はあまりに遠く、かつ長大だが、樺太を走る鉄道なら、学校の夏休み(賢治はこの頃、花巻農学校の教師をしていた)を使って行けないことはない。

 シベリアは無理でも樺太なら、と賢治は考えたのではないかと私は推測するのだが、その理由のひとつに、賢治の樺太行きの3か月前(1923年5月1日)、稚内と樺太南部の港・大泊の間に、鉄道省による連絡船(稚泊連絡船)の就航が始まったことがある。それまで樺太に渡るには小樽から民間の船に乗るしかなく、時間も費用もかかったが、稚泊連絡船は狭いところで42キロしかない宗谷海峡を渡る最短の航路である。

 注目すべきは、すでに就航していた青函連絡船と同様、これが鉄道省の連絡船である点で、これで内地と樺太が鉄道で1本につながり、どの駅からも──もちろん賢治の住む花巻からも──切符1枚で行くことができるようになった。荷物についても、乗車した駅で預ければ、樺太の降車駅までそのまま運んでくれたのである。「氷河鼠の毛皮」が、シベリア鉄道を思わせるイメージを持ちながら、乗車駅がイーハトヴ=岩手であるのは、最寄駅から北方へ直行できるようになったことを反映しているのかもしれない。賢治は実際に、樺太への旅を花巻駅から始めている。

 当時の賢治は26歳。全集の年譜は、この旅は樺太の大泊にあった王子製紙の工場に勤める旧友、細越健氏に教え子の就職を頼みに行くためだったとしている。たしかに賢治は樺太で細越氏に会っているが、本当の目的は、鉄道で旅をすることそのものだったのではないかと私は思っている。

 樺太旅行の旅程は複数の研究者によってほぼ判明しているが、それによると、連絡船が大泊港に着いたのが8月3日午前7時37分、細越氏との面談をはさんで、午前9時30分に大泊駅を出発する汽車に乗っている。

 大泊の滞在はわずか2時間足らず。港での艀の乗り降りの時間などを考えると、9時30分発には間に合わず、次の午後1時10分発の汽車に乗ったとする研究者もいるが、その場合でも4時間半ほどしか滞在していない。しかも賢治は、事前の連絡なしに細越氏を訪ねたという。樺太行きの主目的が教え子の就職依頼だったかどうか、ちょっとあやしいではないか。

 早々に用事をすませた賢治は、初めて樺太の鉄道に乗る。大泊駅から1時間ほどで豊原駅だ。豊原は官公庁、新聞社、ホテル、官幣大社、博物館、学校、カフェーに料理屋と、あらゆるものがある樺太の中心都市である。だが賢治はここで降車せず、そのまま終点の栄浜駅まで行く。栄浜はオホーツク海に面した港町で、栄浜駅は当時の樺太の最北端、すなわち日本最北端の駅だった。

 下車した後、賢治は栄浜の海岸を夜通し歩いている。そこで何を見たのか、そして樺太を走る汽車の車窓から見た景色はどんなものだったのかについては、のちに書く機会があるだろう。いまは、この旅が『銀河鉄道の夜』の執筆につながったこと、そして、アントン・チェーホフとブロニスワフ・ピウスツキもまた、かつてそれぞれに栄浜と、その先にある白鳥湖を訪れていたことを記しておくにとどめる。

 チェーホフとピウスツキが栄浜(当時はドブキと呼ばれていた)にやってきたのは、この島全体がロシアの領土で、流刑地として利用されていた時代だ。チェーホフは、のちに大部のルポルタージュ『サハリン島』に結実する囚人たちの聞き取り調査を行い、膨大な数の記録カードを残したが、政治犯と面会することは禁止されていた。

 もしそれが許されていたら、彼はピウスツキと対面していたかもしれない。ロシア皇帝暗殺未遂事件に連座して21歳でサハリンに送られ、青年時代のほぼすべてをこの地で暮らしたポーランド人について、何か書き残していたかもしれない。

 ふたりは同時代人である。チェーホフがサハリンにやって来たのは1890年、30歳のとき。チェーホフより6歳下のピウスツキは当時、流刑囚としてこの島で暮らしはじめて4年目だった。ふたりの足跡をたどると、あちこちで同じ土地を踏んでいることがわかる。

 それはまだこの島に鉄道のない時代だった。チェーホフやピウスツキが馬車で、あるいは徒歩で通った道にやがてレールが敷かれ、その上を賢治が旅することになる。チェーホフから数えて33年後のことだ。そして賢治の94年後、私も同じレールを走る列車の中にいるのである。

時間の遠近が狂った風景

 私がサハリンに来たのは、日本がかつてこの地に敷設した鉄道の跡をたどるためだ。いまも存続している路線には乗り、使われなくなった路線は、古い地図を見ながら痕跡を探す。

 もともと鉄道好きである私は、10年ほど前から廃線探索の面白さにとりつかれ、国内では60以上の廃線跡を訪れている。そのうちに、台湾や樺太、旧満州などで日本が敷設した鉄道の跡を訪ねてみたいと思うようになった。まずサハリンを目指したのは、北海道育ちの私にとって身近な島でありながら、その歴史について無知であることが、齢を重ねるにつれて気になってきたからだ。

 私は島にひかれる人間であるらしく、若い頃から東南アジアのさまざまな島を旅してきた。ノンフィクションの仕事でも、戦争に巻き込まれた国内外の島を取材し、とくに小笠原諸島の硫黄島と奄美群島の加計呂麻島には、繰り返し通っている。だが、このふたつの島と同様に、近現代史の中で特異な運命をたどった島であるサハリン/樺太には、まったく目を向けてこなかった。

 人生の残り時間を意識すると、人はそれまで取りこぼしてきたこと、見ないふりをして通り過ぎてきたことに心が向くのだろう。私が札幌で暮らしたのは22歳までだが、周囲には、戦後、樺太から引き揚げてきた人々やその家族がいたし、写真で見る戦前から戦中にかけての樺太は、自然や風物も、人々の暮らしの様子も、家のつくりや衣服までが、私が子供だった頃の北海道とほとんど変わらなかった。

 私は戦後16年たって生まれたが、いまあらためて資料を見ると、時代が進んでも、北方の人々の暮らしのおおもとは、それほど変わらないのではないかという気がする。かつての樺太の写真の中にいるのは、私と同じようなものを食べ、同じような服装をして同じような遊びをし、同じような家に住む子供たちだ。同じだからこそ、彼らのたどった運命を直視できずにきたのかもしれない。

 現在のサハリンを写真や映像で見て、独特の風景にひかれたことも大きい。あるいは朽ちかけ、あるいは用途を変えて使われている日本時代の遺構──海岸 にぽつんと残る鳥居や風化した奉安殿、廃墟と化す途上にある工場、美術館や博物館に姿を変えた官公庁や銀行など──がある風景は、時間の遠近を狂わせたコラージュのような、一種異様ともいえる美しさと懐かしさがある。

 もうひとつの理由は、ロシアの寝台急行に乗ってみたかったことだ。実をいうと私も、賢治と同じようにシベリア鉄道に憧れていた。

 ロシアの長距離列車には等級があり、最優等のものには列車名がつく。シベリア鉄道ならロシア号、オケアン号、バイカル号などがその代表である。「名称列車」と呼ばれるこれら最優等列車の番号は、001から150と決まっている。私がサハリンで乗ったユジノサハリンスク発ノグリキ行きの寝台急行の列車番号は001で、サハリン号という名称がある。つまりはシベリア鉄道の列車と同格なのだ。シベリア鉄道は遠すぎ、また長すぎるが、サハリンなら成田から2時間と少しで行くことができるし、オホーツク海の沿岸を通って島を縦断する613キロを2泊3日で往復できる。

 そういうわけで、いくつかの出版社にサハリン紀行の企画を出し、採用してくれた社の編集者とともに、この島にやって来たのだった。

 ちなみに復路で乗車したノグリキ発ユジノサハリンスク行きの列車は列車番号604で、寝台車を連結してはいるがサハリン号ではなかった。車掌が紅茶の注文を取りに来てくれなかったのは、そのせいかもしれない。

林芙美子が見た樺太

 コンパートメントに戻った私は、寝台に寝転んで文庫本を開いた。林芙美子の紀行文を集めた『下駄で歩いた巴里』。表題作は、1931(昭和6)年のパリ滞在記である。このとき芙美子はシベリア鉄道に一人で乗り、モスクワ経由でパリに行った。その鉄道旅を描いた「巴里まで晴天」も収録されており、鉄道好きとしては、車内の様子や車窓の景色、乗り合わせた人々の姿が生き生きと描かれ、かかった費用の明細まで載っているこちらの方が、表題作よりもむしろ面白い。

 日本からこの本を持ってきたのは、「樺太への旅」と題された一篇──1934(昭和9)年6月に樺太を訪れた際の旅行記──が収録されているからだ。芙美子が樺太を旅していたことを知ったのは出発の少し前で、せっかくだからサハリンで読もうと思い、文庫本を買って鞄に入れてきたのだった。

 芙美子は賢治と同じように、稚内から連絡船に乗って大泊に着き、そこから汽車に乗っている。栄浜までは行かずに豊原で下車し、駅に近い花屋ホテルで荷をほどいた。

 豊原には数日滞在したようだ。その間、近郊の小沼という集落まで汽車に乗って日帰りで出かけ、養狐場を見学している。 

 樺太は養狐の適地と考えられていて、当時は毛皮産業が有望視されていた。この養狐場には、1925(大正14)年に樺太に行啓した皇太子(のちの昭和天皇)も視察に訪れている。

 翌日、芙美子は本格的な鉄道の旅に出発する。目指すは敷香(ポロナイスク)。ソ連との国境の手前にある町だ。当時、国境は樺太の主要な観光資源のひとつで、内地からやって来た人の多くが国境見物に出かけた。敷香はその拠点となった町で、見物客はここに宿をとり、国境標石のある北緯50度地点まで行くのだった。

 賢治の旅から11年後のこのとき、樺太の鉄道はさらに北へと伸延していたが、まだ敷香までは達していない。敷香の43キロ手前の南新問(現在のノーヴォエ)が終点で、そこからは乗合自動車かハイヤーを利用するしかなかった。敷香まで開通するのは、2年後の1936(昭和11)年である。

 芙美子は豊原駅から早朝の汽車に乗った。
 窓外は蕭々たる山火の跡ばかりで、この陰惨な木の墓場は写生するにも困難です。戦場の跡のような木の根株ばかりの林の上を烏が餌をあさって低く飛んでいます。(中略)
 私の眼に写った、大泊から豊原に至る間、豊原から、北豊原、草野、小沼、富岡、深雪、大谷、小谿、落合の沿線に見える一望の山野に、私は樹らしい木を見ませんでした。文字通り焼野原であったり、伐材した生々しいままだったり、これがもし人間であったならば、夜になって鬼火でも燃えあがる事でしょう。
 私は車中で、一王子製紙の社員に、何故植林をしないのですかとたずねると、「まァ無尽蔵ですからねえ。」と云う応えでした。植林もしているのでしょうが、伐る方も忙しいのでしょう。樺太はこの樹木のお蔭で、王子製紙工場が、殆ど全島に勢力を持っています。列車の中も、鉄道員と王子製紙の役員でにぎわっています。
 或人は、樺太島ではなくて、王子島だと云った方が早いと云っていました。どの駅へ着いても、木材が山のようです。
(林芙美子「樺太への旅」より)

 樺太の主たる資源のひとつだった森林は、1910年代から開発が進み、王子製紙などの大手だけでなく、内地や北海道の中小の木材業者も続々と参入した。文中で王子製紙の社員が「無尽蔵」という言葉を使っているが、このころすでに乱伐採のため、森林資源は枯渇の危機に瀕していた。山はますます荒れ、盗伐の跡を隠すための放火が横行する。自然発火も多かったことから、山火事は樺太の名物とまで言われていた。

 山火事の跡、伐採したまま放置された切り株だらけの山、資源は無尽蔵だと言い放つ製紙会社の社員。植林はなされないまま、どの駅にも木材が大量に積まれている。車窓の景色を芙美子は実によく観察しており、その目は厳しい。樺太に到着した日にすでに、大泊−豊原間の車中から樹木のない山々を見て憤慨し、こう書いている。
 名刺一枚で広大な土地を貰って、切りたいだけの樹木を切りたおして売ってしまった不在地主が、何拾年となく、樺太の山野を墓場にしておくのではないでしょうか。(中略)
 汽車の中は私には様子の知れない洋服の紳士諸君が多い。どのひとの顔も樹を切りに行く人の顔に見えて仕方がありません。私は左翼でも右翼でもありませんが、此様な樹のない荒寥とした山野を眼にしますと、誰にともなく腹が立ってならない。樺太の知識階級の夫人たちは、ストーブのそばで景色も見ないで編物ばかりしているのでしょうか。女が、平気でこの切株だらけな朽ちた山野を看過しているとするならば、それはもはや、植民地ずれがしているとしか云えません。
(同前)

 植民地行政を統括していた拓務省、樺太庁、そして、樺太を単なる資源の供給地としてしか見ていない資本家や知識階級への痛烈な批判である。この「樺太への旅」は、1935(昭和10)年に改造社の雑誌『文藝』に掲載された。こうした内容の文章を発表することは、当時、かなり勇気のいることだった。

芙美子が買ったロシアパン

 豊原駅を発って2時間ほどで、芙美子を乗せた汽車は落合駅に着いた。当時は落合駅までが公営の樺太庁鉄道で、その先は王子製紙系の私鉄である樺太鉄道の区間だった。

 落合駅で芙美子は弁当を買い、樺太鉄道の車両に乗り換えた。落合は現在のドーリンスク。私が乗っている寝台急行がさっき通過してきた駅だ。

 ああそうか、と、2017年の車中で文庫本を読んでいる私は気づく。83年前の芙美子と同じ線路の上を、私はいま走っているのだ。
 落合を出て六ツ目の白浦と云う町へ着くと、露西亜人のパン屋が、「パンにぐうぬう。パンにぐうぬう」とホームを呼売りしている。このパン屋は、なかなか金持ちだそうです。美味しいパンだと聞いておりましたが、あまり美味しいパンとは思いませんでした。味は子供の好きそうな甘さで、内地で日本人の焼いたパンの方がよっぽど美味しい。野天のホームには電話室のような蕎麦屋も出ています。樺太の土地は馬鈴薯や蕎麦を植えるに大変いいらしい。だからでしょう、時々ホームで蕎麦を売っているのを見かけます。── 女の人たちは着ぶくれしているように着込んで、ここでは季節が何時(いつ)も冬らしい。そろそろオホーツクの海が見えます。雨もよいのせいか、髪洗粉を流したような灰色の海です。
(同前)

 食べものと女性の服装の描写が多いのが芙美子の紀行文の特徴である。雨の降り出しそうなオホーツクの海の色を髪洗粉にたとえているのも芙美子らしいな……と思いながら、この白浦という駅はどこだろうと、樺太時代の地図を取り出す。白浦駅の場所を探し、ユジノサハリンスクで買った地図と照合したところ、白浦は現在のヴズモーリエ駅だとわかった。

 時刻表を見ると、私が乗っている列車は、ちょうどそのあたりを通っているではないか。初めての土地でこういう偶然があるとうれしくなる。

 83年前の芙美子と一緒に旅をしている気分になった私は、彼女が白浦駅で買ったというパンが気になった。売っていたのはロシア人だという。日露戦争のあと、樺太に残留したロシア人なのだろうか。芙美子が評判を聞いていたということは、内地でも有名だったということか。

「樺太への旅」の続きを読みながら、頭の隅で、それがどんなパンだったのかと想像をめぐらせた。あまり美味しくなかったというそのパンが、私をピウスツキという人物に出会わせ、やがて長い旅にいざなうことになるとは思いもせずに。


[写真‐1]
ユジノサハリンスク駅のホームで、寝台急行サハリン号に乗り込む人たち。

[写真‐2]
1945年8月、国境線をこえて侵攻してきたソ連軍と日本軍が戦った真岡(ホルムスク)の丘の上にある戦勝記念碑。

[写真‐3]
宗谷海峡をこえて樺太に着いた日、宮沢賢治が訪ねた大泊の王子製紙工場。廃墟になりかけている。

[写真‐4]
サハリンを縦断する東部本線。宮沢賢治も林芙美子も、この線路を走る列車に乗って旅をした。

[地図]
樺太の地図.png

岩波書店「たねをまく」2020.03.25
天涯の声 ブロニスワフ・ピウスツキへの旅
梯久美子
https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/3252

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2020年08月29日

安倍政権下の政策をどうみるか

 安倍晋三の首相連続在職日数が2020年8月24日で2799日となり憲政史上最長となった。

 安倍は「政治においては、何日間在職したかでなく、何を成し遂げたかが問われるんだろうと思うが、この7年8ヶ月、国民の皆さまにお約束した政策を実行するため、結果を出すために一日一日、その積み重ねの上にきょうの日を迎えることができたんだろうと考えている」とコメント。
 え?
 どこのパラレルワールドの住人か知らないが、成し遂げたのは社会の破壊くらいだし、国民との約束を守らなかったことが現在問題になっているのにね。

 自民党は2017年に党則をねじ曲げ総裁任期を「連続3期9年」に延長したが、二階俊博も甘利明も麻生太郎も安倍4選に言及。
 永久に安倍を担ぐ算段だったのかもしれない。
 しかし、現実世界ではそれは無理。

 8月17日、東京・信濃町の慶応大病院を安倍は訪れ、約7時間半滞在。同24日にも再び病院を訪問した。
 安倍周辺は「前回の続き」と説明したが、持病の潰瘍性大腸炎が悪化したという説や、検察の捜査(公職選挙法違反)から逃れるための入院の準備といった説も流れた。

 こうした中、SNSでは「さっさと死ね」といった類いの意見が散見されたが、乱暴なことは言ってはいけない。
 病気になったのは安倍の責任ではない。それに今、死んだら逃げ得だ。一連の「安倍晋三事件」の追及がうやむやになる可能性もある。

 安倍が7年8ヶ月で日本に与えたダメージは凄まじい。
 北方領土をロシアに献上し、アメリカからはガラクタの武器を買い、拉致問題を放置。
 国のかたちを変えてしまう移民政策を嘘とデマで押し通し、森友事件における財務省の公文書改ざんをはじめ、防衛省の日報隠蔽、厚生労働省のデータ捏造などで国家の信用を地に落とした。

 安倍は、水道事業の民営化や放送局の外資規制の撤廃をもくろみ、「桜を見る会」には悪徳マルチ商法の会長や反社会勢力のメンバー、半グレ組織のトップらを招いていた。

 この悪党を支えてきたのがカルトや政商、「保守」を自称するいかがわしい言論人だった。

 今、安倍がやるべきなのは無理をせずにしっかりと体調を整え、わが国で何が発生したのか、この先の検証に協力することだ。


日刊ゲンダイ、2020/08/29 06:00
安倍政権が7年8ヶ月で「成し遂げた」のは国家と社会の破壊
(適菜収)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/277950/

「失敗続き」の出生率関連政策

 政治にはさまざまな課題がある。時々の政権は、課題に対する取り組みや成果を国民にアピールする。ただそのアピールの内容あるいは受け止められ方と、長期的に見たときのその評価はずれやすい。為政者は、さまざまにある評価点のなかから、都合の良いものをピックアップして強調する。

 政治課題への取り組みのアピールの仕方には、分野ごとの特徴がある。昨今では多くの国でナショナリズム(あるいは自国第一主義)に基づいた動きが顕在化していることもあり、外交で強硬な態度を示すことが政権への支持につながっている。外交は、実質的成果とパフォーマンスの区別が曖昧になることがあるため、ある意味でアピールがやりやすい分野である。

 2020年、終りを迎えることになった第二次安倍政権が第一級の成果として掲げたいのは経済であろう。ただ、経済という分野も、成果をどこに置くのかについて、十分に共有された見解がない。安倍政権下で高く評価されるのは雇用の増加であるが、これにしても、それがほんとうに経済政策の効果なのかどうか、雇用の質、賃金、可処分所得の点ではどうだったか、といった反論をすぐに受け付けてしまう。

 概して、何らかの成果があっても、またなくても、政権側は評価できるポイントを探し出して強調してみせるし、反政権側はその逆を行く。論点の選択は多くの場合恣意的で一貫せず、また噛み合わない。支持者は政権が提示する評価ポイントのみを見てさらに支持を強め、非支持者はその逆をする。ネットの一部言説空間では、この増幅メカニズムがさらに歪んだ姿を見せる。政治の世界に「白々しさ」を感じるとすれば、一部にはこの茶番のせいであろう。

 その点で、出生率問題の政治はある意味で清々しい。

 日本で現在まで続く出生率の低下傾向が始まって40年以上が経過するが、第二次安倍政権を含め、出生率についてその「成果」をアピールできた政権は存在しなかった。その理由は、何よりも時々の政権が出生率低下という人口課題に対してそもそも正面から取り組まなかったか、あるいは誰からもわかりやすく端的に「失敗続き」であったからだ。

第二次安倍政権の少子化対策

 安倍内閣についていえば、少子化問題が重要課題として認識されていなかったわけではない。

 2012年12月に第二次安倍内閣が発足してほどなく、2013年3月に「少子化危機突破タスクフォース」が発足し、4月には「待機児童解消加速化プラン」が策定された。5月には上記タスクフォースが「『少子化危機突破』のための提案」を発表し、「3本の矢」(子育て支援、働き方改革、結婚・妊娠・出産支援)で少子化対策を推進すると宣言された。

 ただ、すぐに日本の社会政策ならではの「ちぐはぐさ」が顔を出す。社会保障分野の研究では、日本の政治・政策の特徴について、「その場しのぎ」「非一貫性」といった概念で語られることがある。長期的に一貫したビジョンのもとで政策を組み立てることができていない、ということだ。

 第二次安倍政権にしても、働き方改革では一方で労働時間の上限規制を導入しておきながら、高度プロフェッショナル制度で経済界への配慮を見せ、「女性活躍推進」を掲げておきながら、配偶者控除制度の見直しは遅れている。政策パッケージの内容が混乱し、また中途半端であるために、個々の政策の効果が見えにくく、また矛盾した政策どうしがその効果を打ち消し合ってしまう。

 少子化対策についていえば、このちぐはぐさをもたらしているのは、安倍政権が基本的に「保守」政権であるという点である。現在的な意味での「保守」は、家族観とそれに基づいた家族政策に顕著に現れる。日本の「保守」層は、1970年代前後に一時的に支配的となった「男性稼ぎ手+女性専業主婦」というモダンな家族のあり方を「伝統家族」と認識した上で、これを標準家族とした政策を支持してきた。これが共働き世帯を増やすために必要な抜本的な働き方改革、それにあわせた税・社会保障制度が進まなかった背景である(※)。
(※)あまり知られていないが、2015年時点で子育て世代の核家族に限っていえば、専業主婦世帯の数はフルタイム共働き世帯の2倍以上いた。現在の日本はいまだ「共働き社会」からは程遠い。この状況において未婚女性は、数少ない安定した所得を持つ未婚男性を探し続ける。そういった未婚男性はあまりいないので、多くの人は結局結婚できないのである。

 政府の少子化社会対策の柱となる「少子化社会対策大綱」にも、「保守」層からすれば「望ましい」家族の姿が忍び込む。典型的なのが「三世代同居」の推進である。三世代同居の推進は2015年に閣議決定された「第三次少子化社会対策大綱」に盛り込まれた。筆者が検討会策定のメンバーに加わった「第四次少子化社会対策大綱」(概要、2020年5月閣議決定)では、多少その表現は抑えられつつも、「三世代同居・近居しやすい環境づくりを推進する」という文言が入っている。

 これは各界の有識者がメンバーとなった大綱検討委員の共通見解というよりは、おそらく政権の「保守」グループの意向であった。大綱検討委員会では、比較的一貫して働き方改革を通じた未婚化の抑制が強調されていた。少なくとも筆者はそう感じた。未婚化、あるいは結婚したい者が結婚できない状態が継続していることが、日本の少子化の最大の原因であるからだ。婚外子が少ない日本では、未婚化はすなわち晩産化である。結婚タイミングの遅れから、2019年の女性の第一子出産年齢の平均は30歳を超えている。キャリアを維持しながら2〜3人目をもうけることは非常に難しい。

 もっとも、政策の方向性のちぐはぐさは、第二次安倍政権独自のものではなく、「包括政党」たる自民党政権下でずっと続いてきた「クセ」のようなものだ。安倍政権は「女性活躍」「働き方改革」など、生活に近い分野での改革に取り組んだがゆえに、逆にちぐはぐさがわかりやすく露呈してしまったという面もあるだろう。

今後の政権に期待したいこと:「家族主義」からの本格的な脱却

 すでに述べたように、第二次安倍政権初期では、少子化対策はそれなりに重点課題として認識されていたことは間違いない。ただ、途中から政権のスローガンとして「一億総活躍」が提起され、2015年10月の第三次内閣では、加藤勝信氏が少子化対策担当、一億総活躍、女性活躍担当の3つの大臣職を兼ね、少子化対策の位置づけはどこかあいまいになった。結局一貫した取り組みが整わないまま、そうこうしているうちに次々と表に出てきた各種の疑惑・不正の問題の釈明に追われ、さらに2020年からは新型コロナウイルス感染拡大という未曾有の危機に見舞われ、少子化対策はすっかり後景に退いてしまった。

 2016年5月に発表された「ニッポン一億総活躍プラン」では、出生率を2025年度までに1.8にする、という数値目標が掲げられた。この数値目標が達成される見込みはゼロに近い。図に示されるように、2005年に最低水準(1.26)に落ち込んだ合計特殊出生率は、2015年に1.45まで回復したが、その後はふたたび下落し、2019年は1.36まで落ち込んだ。出生数も、2019年は86万4千人と急な落ち込みを見せ、1899年の統計開始以来初めて90万人を下回った。2006年から2015年までの一時的な回復が、主に人口母体が大きい団塊ジュニア世代の駆け込み出産によるものであったことがはっきりした(※)。
(※) 団塊ジュニア世代、1974年生まれの人は、2006〜2015年では32〜41歳である。

 ただ、出生率に関しては先進国の多くが思うようになっておらず、日本でも日本以外でも、政治家にとっては「最難関」の課題である。出生率の低下は経済先進国の宿命のようなものだ。したがって、人口構成の歪み*の問題に対処するためには、非労働力にとどまりがちであったグループ(女性や高齢者)を労働力化し、同時に国外からの働き手を招き入れる政策に頼ることになる。この方針に例外はない。どの経済先進国でも、外国からの労働力の受け入れは「課題」ですらない。それは「必須」であり、課題があるとすれば、受け入れたあとでの軋轢の緩和と共存・定着である。

 一人あたりGDPが日本より上位でかつ日本より人口が多い国はアメリカくらいであり、人口が少ないことはそれほど問題ではない。少子化の深刻な問題は人口「減」ではなく人口構成の「歪み」(働き手に対して、働き手に依存する人口が多いこと)にある。

 ただ、アジア圏の出生率の低さは格段である。2019年の韓国の合計特殊出生率は、なんと0.92である。ほぼ例外なく非常に低い出生率に悩むアジア諸国のなかでは、社会保障体制を先行して整えることができた日本はどちらかといえば優等生グループである。

 さて、アジア圏の極低出生率の背景にあると指摘されているのが、広い意味での「家族主義」である。
 家族主義とは、「家族を大事にする」ことではなくて、いろんな負担や生活の安定性を家族に依存すること、為政者側からすれば(公的援助ではなく)家族に頼ること、社会支出のうち家族に対する支出が小さいこと、したがって、社会的に家族を支えない体制を指す(※)。アジア社会というのは、家族の安定性がなければ(たとえばシングルペアレント)とたんに生活が苦しくなる社会である。こういう体制だと、人びとの家族を作るハードルが高くなり、未婚化が進んでしまう(結婚するならしっかりとした人と、という考え方)。同時に、家族の中での問題も深刻化しやすい(たとえば介護負担の家族への押しつけ)。
(※)家族主義の内部でも一定の多様性はある。育児について言えば、シンガポールでは移民女性のドメスティックワーカーが、中国や台湾では親族ネットワークが活用される度合いが、日本や韓国に比べて強い。ただ、ドメスティックワーカーに給与を払うのは雇用している家族であるし、親族ネットワークも広い意味では家族である。したがってこれらも広い意味では家族主義的な育児体制であると言えよう。

 アジア圏よりも相対的に出生率が高いヨーロッパ諸国のなかでも、南欧社会(イタリア、スペイン、ポルトガル)は家族主義的志向が強く、こういった地域ではやはり低い出生率に悩まされている。家族主義と出生率の低さは、かなりクリアに関連している。

 少子化問題を少しでも緩和したいのなら、「家族を作ること、家族を維持すること」の負担をできるかぎり社会で分かち合うしかない。政策の方向性のちぐはぐさを狭め、長期的に、筋の通った展開を今後に期待したい。


Yahoo Japan! News、2020/8/29(土) 15:57
安倍政権下の少子化対策をどうみるか
(筒井淳也、立命館大学産業社会学部教授)
https://news.yahoo.co.jp/byline/tsutsuijunya/20200829-00195552/

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8月23日は山歩クラブで「林芙美子記念館」


 山歩クラブ、8月23日日曜日はお散歩会。
 しかし待ち合わせ場所に来た仲間はたったのお一人。
 空模様がどうもあやしく雨模様だったのです、案の定、降ってまいりました。
 仲間は履いてきた靴、靴下が雨でぐっしょりに濡れて歩く動機を見失い、「林芙美子記念館」でお帰りになりました。
 この雨はマレ−シアのスコールのようなもの、小一時間もしないうちに止んでしまったのです、最近多いと思いませんか?

日本を取りまくエネルギーの今を伝えるべく、Concent編集部きっての好奇心旺盛なCon(コン)ちゃんが突撃取材!
第2回は、天気のプロである気象予報士さんに、年々増え続ける異常な気象状況についてインタビュー。
「50年に一度の!」「観測史上初!」ってよく聞くけれど、これからの日本は大丈夫?Conちゃんが聞いてきました!

Conちゃん、大雨の危険性におののく!


 Conちゃんが訪れたのは、東京・赤坂のとあるビル。気持ちいい快晴の空のもと、この空模様を読み解くプロフェッショナルに会いにきたのだ。たどり着いたのは、ウェザーマップという会社。たくさんの気象予報士さんが所属し、気象情報を提供するサービスを行っている。中に通してもらうと、そこで待っていたのが……。気象予報士の手塚悠介(1982年生まれ)さんだ。「全国好きな気象予報士ランキング」で2年連続1位になったこともある素敵な笑顔の持ち主で、現在は、テレビ朝日の気象デスクを担当し、各番組のサポートなどを行っている。

―― あの……日本の天気、さいきんおかしくないですか?

手塚: いきなりですね!でも、少しおかしくなってきているのは確かです。昔に比べると、大きく変わっていることが2つ。それは、雨と気温ですね。
 一つずつ説明しましょう。
 まずは雨。降水量が年々増えているというわけじゃなくて、降り方が激しくなり、滝のように降る雨の回数が増えているんです。
『ゲリラ豪雨』って知っていますか?
 つまり、突発的で局地的な大雨が増えてきているということなんです。
 ちなみに、『夕立』って知っていると思いますが、あれも言ってしまえばゲリラ豪雨なんです。
 でも、『なんだか昔よりすごい』と一般的に認識されるようになってきたので、メディアで『ゲリラ豪雨』と名付けられました。
 つまり、ゲリラ豪雨自体は日本でも古くからある現象で、今はその激しさが変わったということなんです。
 それに伴って、やはり災害級の雨がとても増えてきているように感じています。
 最近だと2018年の西日本豪雨、少し前だと2015年に鬼怒川の堤防を決壊させた関東・東北豪雨など、雨が原因になった大きな災害が増えてきています。

Conちゃん、大雨を甘く見て叱られる!

 ここ数年、ちょっとおかしいなーくらいに軽く考えていた天気のこと。聞けば、災害級なんて背筋が凍る言葉が手塚さんの口から出てきてしまった。

手塚: 近年の雨は、量と期間、両方に問題があると言えます。
 単に長い時間降ることで降水量が多いケースももちろんありますし、逆に短い時間でたくさん降ってしまって災害につながることもあります。
 そして土地によっても、雨による災害の影響度に違いがあるんです。
 例えば、広島だと総降水量200〜300mmくらい雨が降っただけでも土砂災害の危険度がかなり高まるのですが、一方で、高知だと総降水量が1000mmまで達しても災害があまり起こらないとか。
 災害になってしまうかは、水はけなど土地の特性も関係するんですよ。
 なので、気象庁が設定している大雨警報などには地域差があるんですね。
『50年に一度の大雨』や『観測史上初めての大雨』とは言葉通り、50年に一度起こるか起こらないかの大雨ということです。
 最近たくさん聞くと感じるのは、昔より情報を集める場所が細分化されているからで、よりピンポイントなデータが取れるようになったからというのも理由の一つとしてはあります。
 だから、ある場所では観測史上初めての大雨だとしても、少し離れれば普通ということはよくあります。

―― そんなに気にしなくっていいってことね

手塚: その考えは危ないですね。自分の周りで降ってなくても、少し離れた場所では実際に大雨は降っているんです。
 狭い範囲で起きることだからといって甘く見てはいけません。
 確かに頻繁に見聞きするようになったので、危険と感じなくなっている人はいるでしょう。でも警報は警報。
 出ていたら『またか…』とは思わないでほしいです。同じ県内や隣の県で起こっていることは、もしかしたら自分の場所に来るかも、と考えた方がいいと思いますよ。
 先ほども言ったように大雨の回数が増えてきているという事実もあり、降り方が強くなっているので、『50年に一度の大雨』という滅多にないようなことが頻繁に起こるようになっている。そのような捉え方もできるんです。

 最初に言った2つのうちのもう一つの変化、気温です。温暖化が激しい雨を降らせている原因の一つと言われています。
 豪雨も含めて、『異常気象』というのは、過去に経験した現象から大きく外れていることを『異常』として扱っているんです。
 具体的には、『30年に一度あるかないか』という現象のことを指しています。
 そして、世界で起こる熱波や大寒波といった異常が起こるのは、『偏西風の蛇行』が大きな要因とされているんです。
 上空を西から東へ吹いている偏西風は、常に南北に蛇行しています。この蛇行の幅が、いつもより大きくなると、異常と思えるような暑さや寒さになるんです。そして、この大きな蛇行の頻度が“温暖化”によって増えるのではないかと言われているんです。

Conちゃん、温暖化が身近で深刻なことに気付く!

 二酸化炭素などの増加によって、地球全体の平均気温が急激に上がる現象「温暖化」。それが豪雨や大寒波といった一見関係のなさそうな異常気象にも関わっていることに驚くConちゃん。確かに何となく気温が上がっているなーと思うことはあるけど、いまいち実感できてないのが正直なところ。

手塚: このまま温暖化が進めば、60年くらい先の未来、2080年〜2100年ごろには今より気温が3〜4℃上がると言われています。そうなると、例えば東京は鹿児島や奄美大島の気候に近くなりますし、仙台は東京のようになるかもしれません。
 気温が上がると、四季の景観も変えてしまいます。桜の開花は、50年に5日くらいのペースで早くなってきていて、2080年には3月中旬ごろの卒業式の時期に満開なんてことになるかもしれません。お茶なら、茶摘みの時期はもともと5月の頭ごろだったのに、静岡ではもう4月の後半には始まっているんです。さらに紅葉は全国的なデータでみると、年々遅くなっていることも分かります。肌感覚で春と秋が短いと感じることがあると思いますが、やっぱりそれは気温が上がってきているからなんですよ。
 さらに言えば、真夏日と呼ばれる30℃以上の日数。これは現在、東京で年間50〜60日ほどありますが、50年後にはそこからさらに40日くらい増えると言われています。
 逆に、冬日といわれる0℃未満の日数はどんどん減る。東京では例年10日前後しかないので、ほぼなくなってしまうと予測されています。

 日本のようにきれいに四季がある国があまりないのですが、ちょっと近いと思うのは、ベトナムのハノイ。ベトナムはすごく暑いのですが、北部は四季に近いものがあって、日本の気温変化に似ているんです。ずっと温暖化が続いていけば、そのあたりの気候に近付いていくかもしれません。
 極端にレベルが上がれば、インドのニューデリーくらい暑く……いや、正直ないと思いますけどね。

 もちろん、これから20〜30年の間では、大きく生活は変わらないですよ。でも、植物や農作物にはすぐに大きな影響が出てくると思います。
 気温が上がっていくと、植物が生息できる範囲が変わるんです。各地で特産品とされる農作物が作りにくくなったり、もしくは作れなくなったりするかもしれません。
 例えば、ミカン。九州では温暖化の影響で気温が上がってきていて、栽培するミカンが病気になるなど既に影響が出始めているというレポートがあります。なので、暑さに強いデコポンという品種に変えている農家さんもいるそうです。
 もし今の特産品を維持しようとしたら、農家さんは設備投資をしなければならないでしょうし、そうするとコストがかかる。その上、設備を動かそうとすれば、今よりもエネルギーが必要になってくるでしょう。それは、温暖化の原因とされる二酸化炭素をさらに出してしまうことにつながるかもしれないし、結果的にはもっと温暖化を進めてしまうかもしれないという悪循環になるんです。
 その先には、日本の農業や食料自給率への影響も考えられますし、温暖化の影響で海水温も上がってきているので、水産業にも同じことが言えるでしょう。
 これって、各地の文化が変わってしまうことなんじゃないかと思っています。特産品が変わったり、失われたり。暖かくなれば新しく生まれるものもあると思いますが、今あるものがどんどん少なくなってきてしまうのはさみしいですよね。
 それを維持するか別の道に進むかの瀬戸際に今、立たされているんだと思います。
 地球規模で考えれば、今よりももっと暑く、もっと寒いときは当然あったので、温暖化が進んだからといって人類が死滅することはありません。ですが、雨の問題も含め、私たちが温暖化によって増えるリスクとどううまく付き合っていくか、それが大事だと思います。
 個人的には、日本の四季がとても素敵だと感じているので、後世に受け継いでいきたいと思っているんです。今あるもの、自分が経験したものがなくなってしまうのは、やっぱりさみしいですよね。

 天気の話を聞きにいったら、温暖化が四季や特産品にまで悪影響を及ぼしている事実があったなんて……。
 怖い話が多かったので、最後に明るい天気の話題は何かないかと聞いたら、「今の予報精度は、かなり高いですよ!」と手塚さん。今日からもっと真剣に天気予報を見ようと思ったConちゃんでした。


Concent、 Conちゃんが行く! 2019.05.15
日本の天気って本当に異常なの?
気象予報士の手塚悠介さんに突撃インタビュー!

https://www.concent-f.jp/enrepo/enrepo_02

「林芙美子記念館」では受付のおじいちゃんが「雨宿りができるところが入って右のアトリエ近くにあるのでそこでどうぞ」とすすめてくれましたが、ヤッホーくん、雨宿りに入館したのでなく「実は林芙美子が樺太から下駄をはいてパリに向かったという話を聞いてきまして、その資料はありませんでしょうか」
 受付のおじいちゃん「中国からシベリア鉄道で向かいましたが、資料は図書館でお調べください。ここにはありません」

 約80年前の日本の女性が、こんなにまで堂々とした一人旅をしていたとは。

『放浪記』がベストセラーになった林芙美子は、下関から連絡船に飛び乗る。
 三等列車で哈爾濱(ハルピン)・西比利亜(シベリア)を経て巴里へ。
 巴里と倫敦では下宿を借り、下駄の音高らかに街を歩く。

 帰路のお金もこころもとないほどの、気ままな道行き。
 揺るぎなき楽観主義に支えられた痛快な紀行集。
 シベリア・ヨーロッパ旅行のほかにも摩周湖、下田港、京都・奈良・大阪といった国内紀行も本編に収録。

 哈爾濱であけびの籠を買ってそれに毛布や葡萄酒、リンゴやバターやパンを詰め、西比利亜に向かう列車の三等車に乗りこむ。
 ことばはもちろんできない。
 だが、そこで知り合う「随分と人のいい貧乏人」たちへのまなざしは柔らかく、優しい。
 満州事変を前に情勢が緊迫する地帯を夜もすがら列車は通り過ぎたときも、
「私は戦争の気配をかすかに耳にしました。空中に炸裂する鉄砲の音でしょう」
と情緒に流れ過ぎることなく、日記を綴っていく理知が小気味良い。

 原稿をかかえて仕事はかどらず、「今日も終日無為、顔そむけたし」と呻吟する日々が続くことも。
 それでも、旅を通して、書き続ける人生への覚悟をひとりごちている箇所の凛々しさに、こちらの背筋も伸びる。

「人間は、捨身になって仕事に溺れるべきだ」

「小説を書いていると、恋びとが待ってくれているように愉しくなる」

「私はいったい楽天家でしめっぽいことがきらいだが、そのくせ孤独を全我としている。私の文学はあこがれ飢えることによって、ここまで来たような気がする。いまでも、私の目標は常に飢え、常にあこがれることだ」

 食事についての記述は中々に痛快だ。
 車中で「歯の砕けそうに冷たい林檎」をかじっていたかと思えば、天津ではすきやきの買い出しをして仲間と肉をふんだんに食べ、モスクワの一流料理店で高価な黒いイクラをごちそうになり、巴里のホテルのサロンでコニャックを愉しみ、マルセーユでは牡蠣にレモンをしたたらせて喉を鳴らす。

 文明国家とはまだ目されていなかった戦前の日本に、ヘミングウェイと同時代の巴里の空気を知り、こんなにも磊落に本分をまっとうした女性がいた。
 自分探し、などで答えがみつからないのを、不確実な時代や経済の混迷のせいにすることはよもや、許されない、と思った。


office bluemoon、2011-01-24 00:35
林芙美子『下駄で歩いた巴里』
https://officeblue.exblog.jp/15384377/

「よく眠った。ぼんやりとよく寝た。寝ている事は、実に快い。」

 林芙美子のパリ滞在中の章を開く。
 4月3日付けの文章はこう始まる。
 ここだけではない。
 
 今回ご紹介するこの紀行集の表題作「下駄で歩いた巴里」の冒頭も、初めてパリに着いたその日から一週間眠り続ける。
 林芙美子さんは、よく眠る人だ。
  
 外国の憧れの地に、たった一人でいても、日本で生活しているのと同じように彼女は何も変わらない。
 おそらくどこにいても彼女は彼女のままだろう。
  
 この本は、『放浪記』などで知られ昭和を代表する女性作家・林芙美子の国内・外問わず旅した記録を20編が収められた一冊。
 彼女が旅好きだったということは意外と知られていないのではないだろうか。
 当時、まだ外国へ行くのもめずらしかった時代。
 しかも女性一人で。
 
『放浪記』がベストセラーになったおかげで手にした資金で、念願の旅に出る。
 中国からシベリアを経由して渡欧。
 パリの街には約8ヶ月も滞在している。
 この本の中の日記を読むと面白い。
 その頃の彼女の生活の様子が事細かに綴られている。
 
 巴里のキャフェのコヒーの美味しさ、三日月パンを毎朝食べる様子など。
 下駄を履いて、着物姿でパリの街を闊歩する林さんにはきっと好奇の視線が注がれたはず。
 
 でもそんなことはおかまいなしに、自分の思うがままに、自由にその生活を楽しむ彼女の姿勢に憧れる。
 彼女の旅には、よくありがちなあまり浮かれた様子が見受けられない。
 もちろん、目にするもの、聞こえてくる音、出会う人たちとの交流が生き生きと描かれるのだけれど、同時に冷静な、ストレンジャーとしての自覚が常にあって消えることがない。
 だからこそ、彼女の旅の記録には奥行きが感じられる。
  
 旅は本来、非日常を楽しむ行為。
 でも彼女の場合、日常が旅先でも日常のまま続いている。
 どこにいてもフラットで生活の基本姿勢が変わらない。
 それが彼女の魅力だと私は思う。
  
 あまり恵まれなかった子ども時代を送った林芙美子。
 幼いふみこには大人になった自分がパリの街を歩いているなどとは思いもしなかったに違いない。
 彼女の作品を読むと、人生はたくさんの「未知」の可能性を秘めている、ということを考える。
 
 もしかしたら、同じことの繰返しのような毎日にも、いつだって「未知」のものが隠れている。
 そう思うと、今見ている世界がちょっと変わって見えてきませんか?

 
CALEND-OKINAWA、2013.04.23
『 林芙美子紀行集 下駄で歩いた巴里 』よく笑い、よく食べ、よく眠る。非日常を日常のまま生きた人
OMAR BOOKS(オマーブックス)
https://calend-okinawa.com/culture2/book/geta-pari.html

『地下鉄のザジ』といえばレーモン・クノーの原作もさることながら、それを映画化したルイ・マル監督の同名作品(60年)を思い出す人は多いだろう。
 十歳の女の子、ザジが地下鉄に憧れてパリに遊びに来る。
 ところが36時間の滞在中、地下鉄はストライキで動いていない。
 最後、ようやくストが終って地下鉄は動き出すが、疲れたザジは車内で眠ってしまう。
 結局、パリで「何をしたの?」と聞かれ「ひとつだけ年を取ったわ」。

 大いなる徒労の物語。カトリーヌ・ドモンジョというおかっぱ頭の子役が可愛く日本でも評判になった。
 女の子が憧れのパリに行く。
 林芙美子は、昭和3年『放浪記』がベストセラーになり、本格的に作家として活動をはじめた昭和6年に長年の憧れだったパリに行った。
 約一年滞在した(途中、ロンドンにも)。

 当時、芙美子は28歳だったが、なにしろ背が低い。
 パスポートによれば143センチ。
 フランス人からみれば子供だろう。
『下駄で歩いた巴里』はパリ滞在記を中心にした芙美子の紀行文集。
 パリへはシベリア鉄道で行く。
 若い女性が異国を一人で旅するのはたくましい。
 少女時代、行商人の両親と木賃宿に泊ったこともある芙美子はホテルには泊らない。
 安下宿を転々とする。
 キッチン付き。
 場所は下町で物価が安い。
 食材を買ってきて自分で料理する。
 書名どおり、下駄を履いて町を歩きまわる。

「買物に行くのに、塗下駄でポクポク歩きますので、皆もう私を知っていてくれます」

 それはそうだろう。
 異国の小さな女性が見慣れぬ下駄なるもので歩くのだから。
 芙美子のパリ行きは恋人(画家の外山(とやま)五郎)を追ったためと言われるが、それよりも何よりも芸術の都への憧れが強かっただろう。
 芙美子は永井荷風を愛読した。
 荷風の『ふらんす物語』を「ぼろぼろになるまで愛読したものだ」とある随筆で書いている。
 これもパリへの憧れゆえだろう。

※「週刊新潮」2018年5月31日号 掲載


林芙美子『下駄で歩いた巴里 : 林芙美子紀行集』(岩波文庫)
身長143センチの林芙美子が憧れのパリを描く

[レビュアー]川本三郎
https://www.bookbang.jp/review/article/553684

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安倍応援団「病気で弱っている人を叩くな」

 8月17日、安倍首相が慶應義塾大学病院を受診したというニュースが流れた直後、本サイトは「公然の受診や健康不安情報流出は安倍首相の“政権投げ出し”を正当化するための演出ではないか」という疑惑を指摘した。

 昨日28日の辞任表明会見をみて、その疑惑はますます濃厚になったというべきだろう。
 それは、安倍首相自身の病気や健康状態、辞任決断の経緯などに関する説明が、矛盾だらけのシロモノだったからだ。

 まず、安倍首相は、今回、辞任を決断した原因が持病の潰瘍性大腸炎の再発であるとして、その経緯をこう語った。

「本年、6月の定期健診で再発の兆候が見られると指摘を受けました。その後も薬を使いながら、全力で職務に当たってまいりましたが、先月中頃から、体調に異変が生じ、体力をかなり消耗する状況となりました。そして、8月上旬には潰瘍性大腸炎の再発が確認されました」

 つまり、安倍首相は、6月の段階で潰瘍性大腸炎再発の兆候があることを知り、7月中頃には体調が悪化していたというのだが、しかし、それにしては安倍首相、その6〜7月にやたら会食ざんまいの生活を送っているのだ。

 首相動静から、ざっとあげてみよう。
 まず、6月19日には、東京・虎ノ門のホテル「アンダーズ東京」のレストラン「ザ タヴァン グリル&ラウンジ」で麻生太郎副総理兼財務大臣、菅義偉官房長官、自民党の甘利明税制調査会長と会食しているが、この店は〈高温のオーブンで香ばしくジューシーにグリルした熟成肉〉(HPより)がウリの店だ。

 安倍首相はその翌日、6月20日にも永田町の「ザ・キャピトルホテル東急」のレストラン「ORIGAMI」で秘書官と食事。
 さらに、6月22日には、丸の内の「パレスホテル東京」の日本料理店「和田倉」で自民党の細田博之・元幹事長と、6月24日には赤坂の日本料理店「たい家」で自民党の二階俊博幹事長、林幹雄幹事長代理と食事している。

 安倍首相が「体調に異変が生じ、体力をかなり消耗する状況になっていた」と説明した7月中旬以降もこの会食ざんまいは変わらない。
 というか、6月よりさらに料理がこってりしている感じさえする。

 7月21日には松濤のフランス料理店「シェ松尾 松濤レストラン」で長谷川榮一首相補佐官、前秘書官の鈴木浩外務審議官、秘書官らと食事し、翌日22日には銀座のステーキ店「銀座ひらやま」で二階幹事長、林幹事長代理、自民党の元宿仁事務総長、野球の王貞治氏、俳優の杉良太郎氏、政治評論家の森田実氏、洋画家の絹谷幸二氏と会食。

 さらに、7月30日には、丸の内の「パレスホテル東京」内の「和田倉」で自民党の岸田文雄政調会長と会食している。
 和田倉は日本料理店だが、新聞各紙の報道によれば、安倍首相はここでもステーキを注文。
 鶏の生姜焼きを注文した岸田政調会長とビール、ウイスキーの水割りを酌み交わしたという。

 これがほんとうに「潰瘍性大腸炎の再発の兆候」があり、「体調が悪化」した人の食生活なのだろうか。
 潰瘍性大腸炎の活動期は、消化しやすく、高たんぱく・低脂肪の大豆製品や鶏肉、魚類などが推奨され、脂肪の多い食品や、油を使用している料理、アルコール類は控えめにするよう指導されるはずなのだが……。

体調を理由に辞任表明しながら、同じ会見で「私の体調のほうは絶対に大丈夫」と豪語

 また、辞任を決断したというタイミングの説明も不可解だ。
 安倍首相は「先週と今週、検査を受け、今週の診察を受けた際に判断をした。月曜日に」と答えたが、一方で、「新しいお薬を使いまして、2回目のときにですね、検査もおこなったんですが、効果が出ているということでございました」とも答えている。

 つまり、今週月曜日、2回目の検査のときに効果が出ていることがわかったのに、逆に辞任を決めたというのである。

 しかも、説明を聞く限り、現在の病状もまったく逼迫したものにはみえない。
 安倍首相は今後、入院するわけでも静養するわけでもなく、「次の総理が任命されるまでの間、最後までしっかりとその責任を果たしてまいります」と宣言。
 質疑応答でも、「幸い、いま、新しい薬が効いておりますので、(次の総理が決まるまで)しっかりと務めていきたいと、こう思っております」と繰り返し、さらに、ロイターの記者が次期総裁決定までの期間を質問すると、こう答えた。

「ま、これは、私の体調のほうはですね、基本的には、その間は絶対に大丈夫だと、こう思っております」

「私の体調は絶対に大丈夫」──。
 これって、安倍首相の体調がいますぐ辞職しなければならないようなものではまったくなかったということではないか。

 にもかかわらず、安倍首相がこのタイミングで辞任を決断したのはなぜか。

 答えはただひとつ、コロナが招いた危機的状況に嫌気がさし、政権を投げ出してしまったのである。

「安倍首相がやる気がなくなっている、辞めたがっているという話は、すでに5月くらいから出ていて、週刊誌が書き立てていたからね。6月になると、それに拍車がかかって、判断能力が停止しているのかと思うくらい投げやりな態度を示すことも珍しくなくなった。それと、6月に国会を閉じた後は、とにかくもう国会に出たくない、の一点張り。病気以前に、モチベーションが完全に低下していた」
(政治評論家)

 しかも、これから安倍首相を待ち構える事態は、さらに厳しくなるのが確実視されていた。
 新型コロナ感染は一向に収束する気配を見せず、対応の失態が次々明らかになる。
 経済はこれからますます悪化するのに、アベノミクスで金融緩和を限界までやっているため打つ手がない。
 政権浮揚のために一縷の望みを賭けてきた東京五輪は中止の可能性が高く、年金積立金の巨額損失や財政悪化など、自らの政策と政権運営のデタラメがバレて、責任を問われる問題が次々浮上する。

 おそらく、安倍首相はこれ以上政権に居座っても良いことはない、むしろこれまでの失政を追及され、責任をとらされると判断し、かなり早い段階で、総理在任最長記録を打ち立てた後の辞任を決めていたのではないか。

 そして、その日に向けて健康不安情報を少しずつ流し、潰瘍性大腸炎が再発したことを理由にして、辞任した。

 潰瘍性大腸炎の再発が「仮病」だとまで言う気はないし、実際、自分への批判が高まったストレスで持病が悪化した可能性もあるが、しかし、前述したように、それは少なくとも辞任が必要なほどではなかった。
 賭けてもいいが、6月くらいの時点で支持率が回復していたら、もしくはコロナ感染が収束して東京オリンピック開催が確実になっていたら、安倍首相は絶対に辞任なんて表明しなかったはずだ。

安倍首相はもう元気 会見では「次なる政権に対して、影響力を発揮したい」と本音ポロリ

 そう考えると、これはまさしく第一次安倍政権の再現と言ってもいいだろう。
 第一次政権の辞任の理由も、いまは「持病の潰瘍性大腸炎が悪化したから」ということになっているが、これは完全に後付けで出てきたものだ。

 当時、第一次安倍政権では、次々と大臣の「政治とカネ」問題が噴出して“辞任ドミノ”が起こり、さらには「消えた年金」問題が追い打ちをかけ、2007年7月29日の参院選で安倍自民党は惨敗。
 与野党勢力が逆転する「ねじれ国会」となって、さまざまな法案審議がストップした。
 すると、それからわずか約1ヶ月半後の9月12日、安倍首相が唐突に辞意を表明するのだが、この辞任会見で安倍首相が語った理由は、テロ対策特別措置法に基づく海上自衛隊のインド洋での給油活動を続けるために「私が辞することによって局面を転換したほうがよいだろうと判断した」というものだった。

 翌13日に慶應大病院に入院し、24日にあらためて会見を開いて、「この1ヶ月間、体調は悪化し続け、ついに自らの意思を貫いていくための基礎となる体力に限界を感じるに至りました」と健康問題が理由であると修正したが、この時点でも「潰瘍性大腸炎」だとは一言も言わなかった。
 公表された医師団の診断も強度のストレスと疲労による「機能性胃腸症」というものだった。

 ところが、翌2008年1月発売の「文藝春秋」に安倍首相は「わが告白 総理辞任の真相──突如、襲った体の異変。今、初めてすべてを明かす」と題した手記を発表。
 そこで「潰瘍性大腸炎」という持病を抱えていることを告白して、辞任を正当化。
 これが復活の狼煙となって、最終的に政権に返り咲くわけだ。

 今回は辞任発表と同時に「潰瘍性大腸炎」を持ち出したという違いはあるが、やり口はこのときと同じなのではないか。
 辞任の本当の理由は政治的に追い詰められ、嫌気がさしたからにすぎないのに、政権投げ出しを正当化するために潰瘍性大腸炎を持ち出す──。

 昨日、立憲民主党の石垣のりこ参院議員が安倍首相の辞任を受け、「『大事な時に体を壊す癖がある危機管理能力のない人物』を総理総裁に担ぎ続けてきた自民党の『選任責任』は厳しく問われるべき」とツイート、大炎上しているが、この指摘はけっして間違ってはいない。

 おかしいのは「病気をネタに攻撃するのは不謹慎だ」「人の病状を取り沙汰する行為は醜い」「病気で弱っている人を叩くな」「仮病扱い」などといって、追及を封じ込める意見のほうだ。

 何度も言うが、相手はその政策判断によって国民の生命や生活が一変するような権力を握っている一国の総理大臣なのだ。
 そんな人物が自ら健康不安情報を流しているのだから、その真偽や詳しい病状を追及するのは当然だろう。

 ところが、この国のマスコミはそういうくだらない批判に怯えて、追及や検証を放棄。
 その結果、安倍首相のような無責任な総理大臣を復活させ、同じことを繰り返させてしまった。

 いや、それは過去形ではない。
 今回の辞任会見で、テレビ朝日記者の「今後、対中・ロシアなどの外交に取り組まれる意欲はありますか?」という忖度丸出し質問に、安倍首相はなんと、こう答えたのである。

「次なる政権にですね、対しても、影響力……ま、当然のことなんですが、いち議員として協力してしっかり支えていきたいと思います」

 聞かれてもないのに「次なる政権に対しても影響力」と宣言……

 そう、この男、コロナの重圧からまんまと逃れてすでに元気を取り戻し、院政を敷く気満々なのである。

 安倍応援団の「病気で弱っている人を叩くな」などという圧力に従っていたら、みたび無責任男の復活を許すことになるだろう。


リテラ、2020.08.29 07:59
安倍首相が会見で語った「病状」が矛盾だらけ!
「潰瘍性大腸炎の兆候」「体調異変」と説明した時期に連日会食、しかも仏料理にステーキ

https://lite-ra.com/2020/08/post-5606.html

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鳩ノ巣の由来

 西野淑子さん……「鳩ノ巣渓谷」の紹介記事を書いておられました。
 この方は、山歩クラブで歩いた陣馬山も紹介してくれておりました。
 ヤッホーくんのこのブログ、2020年5月17日付け日記「コロナ禍に陣馬山855mを歩く」参照。

[週末、山へ行こう]
 外出自粛要請が解除になったら、山を歩きにいきたい。
 まずはリハビリモードで低山歩きから。
 いきなりガツガツ歩くのではなく、森林の中にいること、緑と間近に触れ合える喜びを感じながらのんびり過ごしたい。
 心の中で候補地として挙げているのが東京・奥多摩、鳩ノ巣渓谷だ。

 多摩川の上流、鳩ノ巣から白丸(しろまる)にかけて、川沿いに散策路がしつらえられている。
 JR青梅線は多摩川に沿って走っているので、駅からすぐに渓谷歩道に出られるのも嬉しい。
 吊り橋で川を渡れば、色鮮やかな木々の緑と、青白い水がゆるやかに流れていくのを眺められる。
 渓谷沿いの遊歩道は高低差もなく歩きやすい。
 ところどころで水辺に近づくことができるが、近づいてみると思ったより川の流れが早く、水深も深そうなことに気付く。
 白い大岩と深い森の緑、青白い水のコントラストが美しい。

 散策路の途中から現れる白丸ダムも、鳩ノ巣渓谷の魅力のひとつ。
 エメラルドグリーンのダム湖に、周囲の木々が映り込み、なんとも幻想的だ。
 新緑の時季もよいのだが、紅葉の時季は映り込む木々が赤や黄色なので余計に美しいと感じる。
 ただ、非常に残念なことに昨年の台風により湖畔の遊歩道は現在通行止めとなっている。
 ダム手前で川を渡り、青梅街道を歩いて白丸駅に向かう。

 渓谷歩道自体は鳩ノ巣から白丸の区間だが、もう少したくさん歩きたいと思うなら、古里(こり)駅から大多摩ウオーキングトレイルを歩いて渓谷歩道につなげてもいいし、白丸から先、奥多摩駅まで歩いてもいい。
 大多摩ウオーキングトレイルはちょっとした山道歩きもあり、そこそこ歩きごたえがあっていい。
 奥多摩駅まで足を延ばせば下山後に日帰り入浴施設や温泉宿が点在する。

 久しぶりの山歩き、日帰りのゆるい山から徐々に…と思う方におすすめの書籍が、2020年4月下旬に発売された拙著『もっともっとゆる山歩き まいにちが山日和』(東京新聞)。
 今回紹介の鳩ノ巣渓谷をはじめ、のんびり歩いて楽しめる自然散策路や低山をたくさん紹介しているので、ぜひ活用していただきたい。 

■ 鳩ノ巣渓谷おすすめルート: 古里駅…寸庭橋…雲仙橋…鳩ノ巣小橋…白丸ダム…数馬峡橋…白丸駅、歩行時間2時間

■ コースガイド: JR青梅線古里駅から白丸駅へ。多摩川沿いの舗装道路から山道に入る。渓谷沿いの散策が楽しめるのは雲仙橋から先だ。いいとこ取りで楽しむなら鳩ノ巣駅からスタートして白丸駅へ出るとよい。白丸ダム湖岸道の状況は奥多摩ビジネスセンターのサイトで確認を。

■ おすすめシーズン: 1年を通じて楽しめる。新緑は5月、紅葉は11月が見頃。渓谷に近い歩道の部分は荒天時には水没する可能性があり、雨上がりは注意が必要。

■ 西野淑子(にしの・としこ)
オールラウンドに山を楽しむライター。日本山岳ガイド協会認定登山ガイド。著書に「東京近郊ゆる登山」(実業之日本社)、「山歩きスタートブック」(技術評論社)など。NHK文化センター「東京近郊ゆる登山講座」講師。


産経デジタル iza、2020.5.27 20:00
のんびり渓谷歩道と幻想的なダム湖
鳩ノ巣渓谷(東京・奥多摩)

(西野淑子)
https://www.iza.ne.jp/smp/kiji/life/news/200527/lif20052720000020-s1.html

東京奥多摩・鳩ノ巣渓谷
https://www.youtube.com/watch?v=4z-wQMgoF0g

 JR青梅線鳩ノ巣駅から青梅街道を横断して多摩川へ降りると、そこはもう多摩川随一の景勝の地「鳩ノ巣渓谷」です。
 11月中旬には渓谷が紅葉に包まれ、きっての渓谷美を存分に味わうことができます。

 鳩ノ巣渓谷の清流は、巨岩奇岩の間を縫うように白波を立てながら勢い良く流れていきます。
 左右に渓谷を見渡すことができる釣り橋「鳩ノ巣小橋」から下流を望むと、渓谷中央に高さ20m程のひときわ大きな岩がそび立っています。
 ここには、「鳩ノ巣」という名の由来の地である「玉川水神社」があります。

 1657(明暦3)年、江戸に振袖火事と呼ばれる大火があり、町の復興と江戸城の一部を修理するために奥多摩の木材が必要となりました。
 木材は多摩川を利用して運搬されるため、多摩川沿岸には人夫を泊める飯場小屋が各地に建てられました。
 現在の鳩ノ巣渓谷にも飯場小屋が建てられ、そこに祭った玉川水神社の森に二羽の鳩が巣を作りました。
 朝夕えさを運ぶ様が睦まじかったので、村人たちは霊鳥として愛護したことから、やがてこの地は「鳩ノ巣」と呼ばれるようになったそうです。


[写真‐1]紅葉をはじめた鳩ノ巣渓谷

[写真‐2]「鳩ノ巣」由来の地「玉川水神社」

[写真‐3]玉川水神社と鳩の巣渓谷

武陽ガス
多摩川遊歩記
鳩ノ巣渓谷と玉川水神社 ≪鳩ノ巣付近の名所≫

https://www.buyo-gas.co.jp/public/tamagawa/tamagawa08.php

鳩ノ巣の由来.jpg

☝ 鳩ノ巣の由来

「松平伊豆守信綱の命により、奉行松波正春が材木商太田某に命じて、氷川・日原・丹波山から木材を切り出させた」
「この材木を多摩川を利用して運搬させた」
「このため、多摩川ぞいの各地に人夫を泊める飯場小屋が造られた」
「現名、鳩ノ巣渓谷にも、魚留滝の上に飯場が造られていた」
「たまたま、その飯場に祭った水神社の森に2羽の鳩が巣を営んでいて、朝夕エサを運ぶ有様がまことに睦まじかったので、人びとはこれを霊鳥として愛護した。そのため、この飯場は「鳩ノ巣飯場」と呼ばれて、道行く人の目標にされる様になり、いつかこれが地名となって今日にいたった」


Choi-Boke 爺ちゃん、木瓜爺ブログ・木瓜爺撮歩75-12、2013/12/25
奥多摩町鳩ノ巣
玉川水神社
(No.1815)
https://bokejii.wordpress.com/2013/12/25/20131225-奥多摩町鳩ノ巣%EF%BC%9B木瓜爺撮歩75-12-玉川水神社%E3%80%80no-1815/

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2020年08月28日

鳩ノ巣渓谷歩き(後編)

 長梅雨で気温の低い日が続いた7月から一転、記録的な暑さとなった8月。
 浜松市で17日に国内史上最高気温に並ぶ41.1度を観測したことを筆頭に、最高気温の1位を更新した地点が全国で続出した。
 ただ、今年の8月の暑さはこうした際立つデータだけではなく平均値≠ゥらも裏付けられているようだ。

 まず、今月の天気を簡単に振り返りたい。
 遅い梅雨明けが発表された後に迎えた8月上旬、広く高気圧に覆われた列島は35度以上の猛暑日になる地点が徐々に増え始める。
 全国921観測点のうち6地点で記録した1日に始まり、5日67地点、9日には86地点で観測した。
 ただ、これは序の口。
 中旬になると暑さにまつわる数値が跳ね上がっていく。

 230地点で猛暑日となった11日、群馬県伊勢崎市と桐生市で最高気温40.5度と、全国で今年初めて40度台に。
 その後も16日に浜松市天竜区で40.9度、そして翌17日には浜松市中区で41.1度を記録し、埼玉県熊谷市で2018年7月23日に観測した史上最高気温に並んだ。
 また、17日は兵庫県洲本市、愛媛県大洲市、鹿児島県鹿屋市など26地点で観測史上の最高気温を更新した(タイ記録を含む)。

 以上は最高気温など暑さがピークを迎えた時の記録だが、月平均でみた場合でもこの8月の特異さが浮き彫りになってくる。
 気象庁のホームページから主要都市の月平均気温(27日時点)を抜き出しみると―。

 大阪市 30.7度(平年差プラス1.9度)、
 京都市 30.6度(同2.4度)、
 高松市 30.6度(同2.5度)、
 名古屋市 30.3度(同2.5度)、
 岐阜市 30.2度(同2.2度)、
 福岡市 30.2度(同2.1度)―。

 ニュースなどで連日のように猛暑日が報じられていた東海から西日本では、月平均気温が30度を超える都市が続々出てきた。
 もちろんこれは27日時点の数値であり、月末までに変動はあるかもしれない。
 ただ、上の6市のうち岐阜と福岡を除く4市は、このまま推移すると8月の平均気温としては観測史上の最高記録となる。

 その一方で、史上最高に並ぶ気温をたたき出した浜松市の27日時点の平均気温は29.8度と、大阪市に比べ0.9度低かった。
 それでも、平年差はプラス2.3度で、7年前に観測した過去最高記録の28.8度を上回り、異常に暑い8月だったことは間違いない。
 ちなみに、東京は29.0度(平年差プラス2.6度)で、過去最高だった2010年の29.6度には及ばなさそうだ。

 では、各地の平均気温が例年と比べてここまで上昇した理由はなぜなのか。
 気象庁の担当者は「梅雨が明けたあと、太平洋高気圧に覆われ晴れの日が続いたため」と説明。
 さらに「太平洋高気圧より高層を覆うチベット高気圧が張り出したこと」も大きな要因という。
 より詳しいデータや分析などを盛り込んだ8月の天候まとめについては、気象庁が9月に発表する。

 また気象庁は25日、9〜11月の3ヶ月予報を発表。
 気温は東日本(関東甲信、北陸、東海)、西日本(近畿、中国、四国、九州)と沖縄・奄美で高く、北日本(北海道、東北)で平年並みか高い。
 11月は北・東・西日本で平年並みの見込み。
 暖かい空気に覆われやすい一方、前線や南からの湿った空気の影響を受けやすいとしている。


[写真‐1]
猛暑日の大阪市の御堂筋を歩く人たち=18日午後

[写真‐2]
熱中症警戒アラートの発表を伝える東京・渋谷の大型ビジョン=18日

47 NEWS、2020/08/28 11:00
特別暑い8月、裏付けるもう一つのデータ
平均気温30度超の都市続々、過去最高レベルも

(共同通信=松森好巨)
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/特別暑い%EF%BC%98月-裏付けるもう一つのデータ-平均気温%EF%BC%93%EF%BC%90度超の都市続々-過去最高レベルも/ar-BB18rxLC?ocid=spartanntp

 こんな暑い日が続くので、山歩クラブの仲間たちにはこんな涼風が届けばいいな、とヤッホーくんのサービスで、「鳩ノ巣渓谷歩き」の写真を5葉、以下に添付します:

[写真‐1]最初の休憩舎から☟

鳩ノ巣休憩舎.JPG

[写真‐2]渓谷☟

鳩ノ巣渓谷.JPG

[写真‐3]ダムの放流(下見のとき)☟

ダムの放流.JPG

[写真-4]ダムの魚道(下見のとき。魚道は写真向かって左側に河川に沿って写真上部に向かって延びています)☟

魚道.JPG

[写真-5]ダムの見晴台(本番で)☟

ダム見晴台.JPG

posted by fom_club at 16:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

安倍首相の負の遺産

総理大臣としての連続在職日数が憲政史上最長となった安倍首相ですが、マスコミ各社の調査では支持率が軒並み過去最低水準に。
国民は長期政権に厳しい目を向けています。
そもそも安倍首相は長きに渡る在任期間中、どんな成果を上げてきたのでしょうか?
メルマガ『きっこのメルマガ』を発行する人気ブロガーのきっこさんは、安倍首相は「拉致問題」や「北方領土問題」で何の成果も得られておらず、むしろ状況を後退させたと分析。
世界各国に累計60兆円をばら撒くなど「負の遺産」だけを残してしまったと指摘しています。

負の遺産だらけの安倍政権


 8月24日、安倍晋三首相の連続在職日数が2,799日となり、自身の大叔父でもある佐藤栄作氏の2,798日を超えて、憲政史上最長となりました。どうしてこのようなミラクルが起こったのか、それは2017年に安倍首相が行なった自民党の党則改正にあります。

 自民党は1974年の田中角栄氏の時代から、総裁の任期を党則で「連続2期6年」と定めていました。これは、同じ人物が2期以上総裁をつとめると、総裁が力を持ち過ぎてしまい、党内の派閥のバランスが崩れてしまうからです。しかし、2012年12月に政権に返り咲いた安倍首相は、自身の「2期満了」が翌年に迫った2017年、この党則を「連続3期9年」に変更したのです。

 自分に都合よくルールを変える、卑怯な安倍首相らしい姑息な手口ですよね。安倍首相は、ことあるごとに「悪夢の民主党政権時代」と言い、「アベノミクスで民主党政権時代よりGDPが増えた」と胸を張りますが、これも同じこと。民主党政権時代にはGDPの試算に含んでいなかった「開発費」や「不動産取引」など、ありとあらゆるものをGDPに加算して、思い切り上げ底にして数字を膨らませたのです。そのため、景気が良くなったという実感などまったくないのに、GDPだけは右肩上がりだったのです。

 話を戻し、この党則改正を行なわなければ、安倍首相は2018年9月で自民党総裁の任期が満了していました。それに伴い、自民党の総裁選が行なわれ、新しい総裁が首相になっていましたから、今回の安倍首相の連続在職日数の記録は生まれていませんでした。まあ、それはどうでもいいのですが、もしも自民党総裁の任期が、以前から「連続3期9年」だったとしたら、どうなっていたでしょうか。

 あたしは、やはり安倍首相の連続在職日数の記録は生まれていなかったと思います。それは、小泉純一郎氏がいるからです。2001年4月から2006年9月まで、第87代、88代、89代の首相をつとめた小泉純一郎氏は、連続在職日数が1,980日ですが、もしもこの時、自民党総裁の任期が「連続3期9年」だったとしたら、小泉純一郎氏は間違いなく、もう1期、総裁をつとめ、首相としての連続在職日数は3,000日を超えていたからです。

……そんなわけで、今回の連続在職日数の最長記録更新について、安倍首相は当日の午後、首相官邸で会見を行ない、次のように述べました。

「政治においては、その職に何日間、在職したかではなく、何を成し遂げたかが問われるのだろうと思いますが、この7年8カ月、国民の皆様にお約束した政策を実行するため、結果を出すために、一日一日、日々、全身全霊を傾けてまいりました。その積み重ねの上に、今日の日を迎えることができたんだろうと考えております。全ては、これまでの国政選挙において、力強い支持を頂いた国民の皆様のおかげでございます。心から御礼を申し上げたいと思います」

 2014年2月の山梨の豪雪災害の時は赤坂の高級料亭でお友だちと天ぷら三昧、2014年8月の広島の土砂災害の時は緊急連絡を受けても無視してゴルフを継続、2018年7月の西日本豪雨災害の時は赤坂自民亭で酔っ払ってドンチャン騒ぎ、2019年9月の千葉の台風災害の時は組閣に夢中で完全スルー、こんな人物に「全身全霊を傾けてまいりました」などと言われても「はぁ?」としか答えられませんよね。でも、冒頭の「政治においては、その職に何日間、在職したかではなく、何を成し遂げたかが問われる」というのは「その通リ」です。

「政治は結果」ですから、どれほど長く首相をつとめたかではなく、何をやったか、どんな成果を挙げたのかが、その政治家を評価するすべてです。たとえば、これまで連続在職日数が最長だった佐藤栄作氏を見てみると、日韓基本条約を批准し、非核三原則を提唱し、沖縄返還を成し遂げています。

 長期政権のメリットは、このように大きな外交問題とがっぷり四つに組むことができる点です。毎年のように首相が代わっていては、相手国の首脳と信頼関係を築くことが難しいだけでなく、政府内の引継ぎの手間も増えるため、複雑な外交問題を解決することは不可能です。しかし、長期政権であれば、これが可能になります。佐藤栄作氏の成果である沖縄返還は、長期政権だからこそ成し遂げられたのです。

 佐藤栄作氏に関しては、非核三原則を提唱しながらも、米軍による核兵器の日本への持ち込みを米政府と密約していた問題など、叩けば埃が落ちる問題がいくつもありますが、それでも沖縄返還を成し遂げたことは大金星です。ちなみに、さっきから「がっぷり四つ」だの「大金星」だのと書いていますが、あたしは、お相撲はまったく見ませんし、知識ゼロです。横綱の下が大関で、大関の下が関取だと思っていたほど無知です。

 ま、それはともかく、首相を5年半つとめた小泉純一郎氏も、2002年には北朝鮮の金正日氏に拉致を認めさせて謝罪させ、2004年に5人の拉致被害者を取り戻しました。これに関しても、小泉政権が水面下で北朝鮮へ100億ドル(約1兆円)を支払ったとか、さらに莫大な金額を支払ったとか言われています。しかし、仮にそれが事実だったとしも、長年、まったく動かなかった拉致問題を、わずか5年半の政権で大きく動かした功績は称賛に値します。

……そんなわけで、5人の拉致被害者を取り戻した小泉純一郎氏よりも、沖縄返還を成し遂げた佐藤栄作氏よりも、さらに長く政権の座にいる現在の安倍晋三首相は、いったいどのような成果を挙げて来たのでしょうか。2006年9月、小泉純一郎氏の後を引き継ぐ形で、戦後最年少の52歳の若さで首相の座についた安倍晋三氏は、第1次安倍政権の最重要課題として「憲法改正」と「拉致問題」と「北方領土問題」を掲げました。そして、このメルマガを読んでくださっている皆さんの中にも覚えている人が多いと思いますが、この時、安倍首相は、拉致問題について次のように述べたのです。

「北朝鮮による拉致問題は、私の内閣で必ず解決いたします。拉致被害者を最後の1人まで取り戻し、全員が家族と抱き合える日まで、私は必ずやり遂げると国民の皆さまにお約束いします」

 前任の小泉首相が5人の拉致被害者を取り戻してから2年しか経っておらず、世論も北朝鮮への怒りで一色だったため、このような目標を掲げざるをえなかったのかもしれません。しかし、この日から14年、拉致被害者は1人でも帰って来たでしょうか。たとえ1人も取り戻せなかったとしても、できる限りの努力をして、あらゆる手段を使って北朝鮮との対話を試みて、それでも進展しなかったのなら仕方ありません。

 しかし、安倍首相の場合は、何もして来なかったどころか、国内の保守層の支持率をキープするために「対話より圧力」という真逆の政策を推し進めて来たのです。これにより、拉致問題は一歩も二歩も後退してしまいました。一方、口だけでなく行動もするアメリカのドナルド・トランプ大統領は、2018年5月、北朝鮮に拘束されていた米国人3人を開放させた上で、翌6月12日、シンガポールで史上初の米朝首脳会談を成功させました。

 すると、安倍首相は、ここぞとばかりにトランプ大統領の成果に飛びついたのです。国内向けに「トランプ大統領と緊密に連携して日本人拉致問題についても米朝の議題に上げていただいた」と発表したのです。しかし、安倍首相が「トランプ大統領と30分にわたって拉致問題について電話会談した」と発表した、まさにその時間帯に、トランプ大統領はまったく関係ないことをセッセとツイートしていたのです。

 いくら破天荒なトランプ大統領でも、同盟国の首相と電話会談しながらツイッターをいじるようなことはしないでしょう。安倍首相の発表が嘘であり、国内向けに「やってる感」を演出しただけと考えるのが普通です。この人の場合、一事が万事、すべてこれなのです。できもしない目標や、やる気もない目標を次々と掲げ、ご立派なネーミングを付けたり担当大臣を決めたりと「やってる感」だけは演出しますが、どの政策も成果を出せぬままフェードアウトか先送り。そして、野党からツッコミを入れられると「道なかば」、逆から読むと「ばかな道」、これが安倍首相の本質なのです。

 拉致問題だけでなく北方領土問題も、安倍首相は第1次安倍政権の発足時に「私の政権で必ず解決する」と豪語しました。しかし、今日までにプーチン大統領と30回近くも会談をしたのに、14年前より大きく後退させてしまいました。他にも「最後の1人まで、最後の1円まで、私が責任を持って解決するとお約束いたします」と公約した「消えた年金問題」は、「最後の1人まで」どころか「最初の1人」も解決せずに丸投げしてしまいました。

 福島第1原発から太平洋へ流出し続けている放射能汚染水についても、安倍首相は2013年9月に「今後は東電に丸投げせず、政府が前面に立ち、私が責任者となって完全に解決するとお約束いたします」と公約しました。しかし、それから7年、責任者を自称した安倍首相は何もせず、たった1回、たった15分間、現地を視察しただけでした。お陰様で、高濃度の放射能汚染水は今も流出し続けおり、太平洋を汚染し続けているのです。

 そんな安倍首相ですが、この8年間、何もしなかったわけではありません。安倍首相は政権に返り咲いた直後から、「TPP承認案」や「特定秘密保護法案」や「年金カット法案」や「共謀罪法案」を始めとして、国民の過半数が反対していた悪法を次から次へと数の暴力で強行採決して来ました。また「黒川弘務検事長の任期延長」だけは賭け麻雀スキャンダルで白紙となりましたが、「集団的自衛権の行使の容認」や「国会の開催拒否」などの憲法違反を繰り返して来ました。

 他にも安倍首相は、2014年4月と2019年10月、二度にわたって消費税の増税を強行しました。二度とも「社会保障の財源」と説明しましたが、2014年4月の増税分を1年後にチェックしたところ、「社会保障の財源」に使われていたのは全体のわずか18%だけで、70%以上が、消費税増税の直後に減税した法人税の穴埋めに使われていたのです。また、昨年10月の消費税増税の直後にも、法人税を軽減させるための複数の法改正がコッソリと行なわれました。これでは、何のための増税だか分かりません

 また、安倍首相は、高齢者の医療費の自己負担額の引き上げ、生活保護者の受給額の減額や母子加算の減額など、社会的弱者には容赦ない鞭を振るって来ました。しかし、自分たち国会議員を始めとした公務員の給与や賞与は毎年のように引き上げ続けました。生活保護者の受給額も、公務員の給与も、どちらも「世の中の平均所得や物価などを参考にして増減する」と決められているのに、生活保護者の受給額は引き下げられ続け、公務員の給与は引き上げられ続けるなんて、まるで手品のようですよね。

 もちろん、これだけではありません。以前も指摘しましたが、安倍首相が昨年までの7年間で世界各国にバラ撒いた総額は、累計60兆円にも及ぶのです。もちろん、途上国への支援など必要な支出もありますが、原発推進のためにイギリスへ1兆円とか、プーチン大統領のご機嫌をとるためにロシアに3,000億円とか、この中には考えられないバラ撒きが数多く含まれているのです。

 その極めつけは、アメリカ製欠陥兵器の大量購入です。147機も大人買いした欠陥戦闘機F35は、1機116億円、維持費307億円なので、147機で合計6兆2,000億円です。すでにベテランの航空自衛隊員が青森沖に墜落して死亡しており、事故状況はアメリカのベテランパイロットが開発時から指摘している欠陥そのものなのに、防衛省は「操縦ミス」として片付けたのです。何故なら、欠陥を認めると147機というビッグビジネスが白紙になってしまうからです。

 もしも、安倍首相が世界へのバラ撒きをしなかったら、アメリカ製欠陥兵器の大量購入をしなかったら、今回の新型コロナの給付金は、1人当たり10万円ではなく、7〜80万円ずつ給付できたのです。あたしたちが納めている税金なのですから、まずはあたしたち納税者のために使い、余ったぶんをよその国のために使うべきだと思います。 

 さて、ここまでが、安倍首相による長期政権の政治的な「成果」ですが、この他にも、忘れてはならない多くの「成果」があります。そう、森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会問題、自衛隊の日報改竄問題などから、安倍首相に任命責任がある閣僚たちの不祥事や逮捕の問題です。どれ1つ取っても未だに「説明責任」が果たされていません。

 24日のTBSラジオ『森本毅郎 スタンバイ!』では、月曜コメンテーターの時事通信の山田惠資記者が「歴代最長の長期政権なのに、安倍さんには『これを成し遂げた』というレガシーが何ひとつない」と指摘した上で「安倍さんの一番の問題は、モリカケや桜を見る会など『負のレガシー』がたくさん残っているということ。そして、多くの国民が安倍さんを疑っていること。これは安倍さん自身が説明責任を果たさずに、隠そう隠そうとして来たから」と述べていました。

……そんなわけで、解散総選挙が行なわれなければ、安倍首相の任期は来年9月まで、あと1年1カ月となりました。でも、あたしが驚いたのは、24日の会見での「最後の1年で取り組む最重要課題は何か」との質問に対する答えでした。なんと安倍首相は「憲法改正」と「拉致問題」と「北方領土問題」を挙げたのです。これを聞いた瞬間、あたしは思い切りデジャブーしてしまいました。だって、これって2006年9月に第1次安倍政権が発足した時に掲げた最重要課題そのままだからです。この日から14年、そのうち9年近くも首相をやっていたのに、どれ1つ一歩も前に進められなかったばかりか、「拉致問題」と「北方領土問題」は後退させてしまったのです。ここまで無知で無能で無策で無責任な首相が、残り1年で何ができると言うのでしょうか。結局、あたしたち国民は、最後の最後まで「絵に描いた餅」を見せられて終わるのです。

※『きっこのメルマガ』2020年8月26日号より一部抜粋

MAG2NEWS、2020.08.27
60兆円 世界にばらまき 成果ゼロ。
安倍首相の負の遺産で日本は終わるのか?

https://www.mag2.com/p/news/463822

・・・[やらせ質問、棒読み記者会見]アベは本日28日夕方に記者会見で継続を表明という。桜の会は逃げても、河井法相夫妻や秋元カジノ買収で腐った内閣。コロナは来年前半までワクチン確保という神風頼み。コロナの死者数増加の責任を回避するために、やらせ質問と嘘にはうんざり。
 アベは長い夏休みだったと、ふざけた記者会見。クロダ日銀にお札を剃らせて財政ファイナンスすれば短期国債210兆円発行でばらまく。あとは、ネトウヨと、下駄の雪の公明党、イソジン維新と提灯マスコミと、最後は公安警察がごまかして、次世代国民にツケ回しだ。
 アベの出てくるタイミングをみれば、卑劣な性格がよくわかる。7月下旬のコロナ拡大期に、緊急事態宣言の失敗から逃げて回り、お盆休み効果で減ると、出てくるアベ。何もせずに「ピークアウト」と出てくるゴミ分科会。街の中にこそ情報がある。今こそ無症状者の徹底検査を・・・

・・・「病気辞任と思われた安倍さんが記者会見に出てきたら、国民の不安はパッと消えますよ」アベノマスクの次は、アベノマジックみたいなノリですかね。天岩戸か。
 直ちに国会開け、ってば。もう憲法規定に則った開会要求から4週間経って、憲法違反状態が続いてる・・・

・・・「首相非常に元気」「お変わりはない」と、閣僚のみなさんが、口をそろえて太鼓判をおすのなら、総理が国会に出席できない理由はないと思うのですが・・・

・・・日本のマスメディアは、権力を見張る番犬どころか、統治機構の一部と認識したほうが実態に近いし、また実際そう自認している人たちがメディア・エリートにも多い。ま、経歴も日常の付き合いも統治側との距離のほうが一般市民よりはるかに近いですから。日本の民主化への道は実に険しいですね・・・

・・・コロナ感染対策、経済危機、カジノ汚職、河合夫妻への1億円などなど、そもそも国会を開いて答えなくてはいけないことがいっぱいあるのに。政府がマスコミだますのって、何て簡単・・・

posted by fom_club at 12:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鳩ノ巣渓谷歩き(前編)

 8月の山歩きの様子をヤッホーくんのこのブログに投稿していないことに今朝、気づいたって。
 これも、馬齢を重ねてきた結果のホワイトアウト?命の危険がある暑さのせい?それとも病院通いをせねばならないほどの重篤な病のせい?

 8月2日(日)は下見、8月9日(日)が本番、JR古里(こり)駅から奥多摩駅までの「鳩ノ巣渓谷歩き」だったんです。

 コロナ禍のもとでの先生方PTAの方、関係者のがんばりをたたえ、古里小学校(1873(明治6)年開校、奥多摩町小丹波75 Tel 0428-85-2016)の「学校だより、やまなみ」をご紹介:

 8月に入った途端に梅雨が明け、夏らしい日差しが校庭を照らしています。
 梅雨の間は、よく見かけた大きなカタツムリも姿を見せなくなり、代わりにセミが元気に鳴いています。
 6月から再開した学校の教育活動も、一学期終業式を迎えることができます。
 消毒や三密の回避など、新しい生活習慣の中での教育活動には、さまざまな制限がありましたが、おかげさまで 1 学期に学習すべき内容は、概ね終了することができました。
 子どもたちは本当によく頑張りました。
 さまざまな面でご協力いただきありがとうございました。

 さて、いよいよ夏休みに入ります。
 例年ですと「長い夏休み」と言っていますが、今年は13日間だけです。
 夏休みにしかできない貴重な体験をする時間や環境も少ないと思いますが、有意義に過ごしてほしいと思います。
 8月21日(金)には2学期が始まります。
 2学期には、運動会、学芸会、全校遠足、移動教室等、多くの行事があります。
 どれも子どもたちの豊かな成長のために大切な行事です。
 子どもたちには、友達と力を合わせ、努力を積み重ねて一つのことを成し遂げる経験を積んでほしいです。
 オンラインでは学べない、学校ならではの成長の機会だと思います。

 しかし、最近の新型コロナウイルス感染状況を見ますと、やはり不安が絶えません。
 特に、4年生以上の移動教室は、保護者の皆様もご心配のことと思います。
 先日、該当学年の保護者の皆様には、移動教室の実施についてプリントでお知らせしました。
 概要は次の通りです。
 4年生の移動教室は、行先を「奥多摩湖畔公園 山のふるさと村」に変更して実施予定。
 5年生、6年生の移動教室は実施予定、ただし、大島や奥日光で感染経路不明の感染者が出た場合、大島町や日光市から旅行自粛要請が出た場合、奥多摩町立学校が新型コロナウイルス関係で臨時休校になった場合等は、延期または中止とします。

 児童数の多い学校では、さまざまな行事が中止になっていると聞きますが、本校は小規模校の利点を生かし、感染症対策をしながら、可能な範囲で実施していきたいと思っています。
 引き続き、ご理解・ご協力くださいますようお願いいたします。
 感染症、熱中症に気をつけ、良い夏休みを!
校長 拝原茂行

奥多摩町立古里小学校「やまなみNo,5」(2020.8.6)
よくがんばりました、良い夏休みを!
http://korisyo.jp/img/gakkoutayori_3.08.06.pdf

 つばめが巣をつくっている駅舎を後に寸庭橋(すにわばし)へ。
「大多摩ウォーキングトレイル(3時間半コース)」……やさしい流れを見せる寸庭橋あたり、奇岩怪石が迫る鳩ノ巣渓谷、神秘さが漂う白丸ダムと、変化に富んだショートトレイル……のはじまり、はじまりぃ〜っ!

 なんとか休み休みでしたが、上の滝、下の滝がある沢筋を登りつめると、休憩舎。
 本仁田山(ほにたやま、1225m)って、あれか、これか、山座同定をにぎやかに。
 われわれは、さらに歩をすすめ、雲仙橋、鳩の巣小橋をわたって、渓谷に沿うように遊歩道を歩き、階段をはあはあしながら上り詰めて、もうひとつの休憩舎へ。
 ここをお昼の場所とします。
 本番のときになんと大ぜいのベトナム人の若い子たちが空手部の稽古着をつけてはだしで歩いているのに出くわし、思わずヤッホーくん、「がんばれぇ〜っ!」。

 ここから、後半戦。
 まずは白丸ダム見学です。
「魚道」と遭遇!

■ 魚に優しい環境、多様な工夫

「ダム萌(も)え」にとって、今金町の「美利河(ピリカ)ダム」は魅力のスポットだという。
 川をせき止める堰堤(えんてい)(堤頂)の長さが、複合ダムとしては日本一の1480メートル。
 流れ込む後志利別(しりべしとしべつ)川は、国土交通省の水質調査で4年連続18回目の「清流日本一」に。
 そしてもう一つ、ダムを迂回(うかい)する「魚道」の長さも日本一だ。
* * *
 美利河ダムは、1級河川の後志利別川をせき止めて1991年に完成した。
 ダム直下の後志利別川とチュウシベツ川をつなぐバイパス水路式の「魚道」が2.4キロにわたって整備されている。
 さらに6キロまで延長する計画だ。

 河川環境の回復を願う地元の要望を受け、魚類や河川工学の専門家らで検討を重ねた。
「魚道」には、魚の遡上(そじょう)と降下を助けるさまざまな工夫が施されている。

 餌や日陰をもたらすように両岸に木々を植えて自然の小川を再現した「多自然型」と、約30メートルの高低差を休みながら上れる「階段式」を組み合わせた構造だ。
 中州をあしらった待避プールでは越冬もできるほか、観察窓をのぞくと、魚の表情などが間近に楽しめる。

 問題は、春先に海へと下るとき。
 間違えてダム湖に入り込まないよう「魚道」へとうまく導く必要がある。
 そのために造ったのが取水堰(せき)の「分水施設」だ。
 暗いところを好む魚の習性をいかし、実験を重ねて形状を決めた。
「魚道」につながる右岸側にひさしを設けて魚を誘導し、逆に、ダム湖に水を流す左岸側は魚が嫌う白色でのり面を塗り、照明を当てて魚が近づかないようにしている。

「魚道」で魚が見られるのは、4月下旬から10月にかけて。
 海と川を行き来する回遊魚のサクラマスをはじめ、カワヤツメやアユ、エゾウグイなど5科8種(昨年実績)が遡上する。
* * *
「実は、もうすぐ抜かれてしまうんですよ」

 国交省美利河ダム管理支所長の山本裕之さん(52)が残念そうにつぶやいた。
 下川町に昨年2017年11月完成した「サンルダム」は、約7キロの魚道を備える。
 供用が始まる来年2019年にも、トップの座を明け渡さなければならないという。

 施設案内の最後に山本さんに勧められ、近くの料理店で評判の「ピリカダムカレー」を味わってみた。
 ご飯(堤体)でせき止められた皿にルー(湖水)をたたえ、川を模した白ネギなど野菜もおいしい。
 でも残念なことに「魚道」は表現されていなかった。
 日本一でいられるのもあと少しと知った店主は、「えっ? そうなる前に考えないと」。


[写真‐1]
海に下る魚を右側のひさしに誘い込み、魚道へと導くチュウシベツ川の分水施設=いずれも今金町美利河

[写真‐2]
左:魚の様子を自由に見られる観察窓 右:魚が休みながら上れる階段式魚道

[地図]

朝日新聞・わがまち遺産、2018年11月25日
魚道の長さ日本一「美利河ダム」(今金町)
(阿部浩明)
http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20181126011580001.html


posted by fom_club at 09:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

People were already watching Osaka closely, and on Friday when she returns to the court, even more will.

Naomi Osaka has decided that she will take to the court to compete in her semi-final at the Western & Southern Open on Friday after she joined the widespread boycott by stars from various American sports. The 2018 US Open champion’s match against Elise Mertens was scheduled to be played on Thursday until Osaka joined strikes by players from the NBA, WNBA, MLS following the shooting of Jacob Blake by police in Kenosha.

The tournament later responded to Osaka’s announcement with a significant concession by “pausing tournament play” and rescheduling all of its matches, including the men’s and women’s semi-finals, for Friday. Caught up in the shuffle was the men’s world No 1, Novak Djokovic, who was due to face Roberto Bautista Agut in the semi-finals.

After Osaka informed the WTA of her imminent announcement, she and her team had numerous meetings which included the WTA chief executive officer, Steve Simon, and the interim Western & Southern Open CEO, Wayne Richmond, and even the ATP. They spoke about the possibility of her returning to compete on Friday. Despite remaining more than happy to not compete, she deemed the concessions from the tournament sufficient and she decided that her presence would allow her to further underline her statement on Wednesday.

“As you know, I pulled out of the tournament yesterday in support of racial injustice and continued police violence. I was (and am) ready and prepared to concede the match to my opponent,” Osaka said in a statement to the Guardian.

“However, after my announcement and lengthy consultation with the WTA and USTA, I have agreed at their request to play on Friday. They offered to postpone all matches until Friday and in my mind that brings more attention to the movement. I want to thank the WTA and the tournament for their support.”

The past six months of Osaka’s life have been building steadily to this. She spent much of her time away from tennis exploring her life beyond the court. She flew to Minneapolis and protested in pursuit of justice for George Floyd. She later wrote an op-ed in Esquire, affirming her commitment to fight racism and support the movement to defund the police. She had started off the tour suspension by vowing to shed her shyness, yet she returned to the sport having found her voice in ways she could have never imagined.


However, on Wednesday, like the Milwaukee Bucks, the WNBA activists and those involved in the extraordinary cascade of cancellations that followed, Osaka came to the conclusion that words were not enough. Osaka’s decision was particularly impressive because it was a singular choice: in an individual sport such as tennis, the top players are alone on their own island. There are no teammates to collectively debate each decision, the people who support her are technically her employees and she is in sole control of her own destiny. That in isolation seems overwhelming.

It was also a rare example of actionable activism from a tennis player, and numerous players have since publicly backed her. The former world No 3 Milos Raonic, who had been in the midst of a gruelling three-set win against Filip Krajinovic during Osaka’s announcement, had to be talked through the events during his post-match press conference. Without a moment of hesitation, he supported her.

“I think having a sign somewhere of support, banners at a tournament or wearing a shirt in a warmup in a NBA game, it can only do so much,” he said. “I think real disruption and, you know, I think that’s what makes change. I think a lot of real disruption is caused by affecting people in a monetary way, and that can force some kind of change.”

Earlier in the week, as Osaka returned to competition for the first time in six months and narrated her time away, she was asked how it feels to be named the highest-earning female athlete of all time. She pointed out that her goal had only ever been to earn enough for her family. Then she shrugged: “It’s a bit weird, because I feel like people are looking at me differently now. I don’t know. I mean, I’m weird, right? It’s kind of a fact. So people were always looking at me differently. But now people are just kind of looking, looking. It’s a different vibe.”

Though she was aware of the eyes on her, Osaka still wasn’t quite aware of the power she wields until Wednesday. As she registered her refusal to take to the court on social media, in her statement she noted her uncertainty about the effect it would actually have: “I don’t expect anything drastic to happen with me not playing, but if I can get a conversation started in a majority white sport I consider that a step in the right direction.”

The response was more than a conversation and now she is reacting again. Had Osaka decided not to compete, there is the feeling the tournament would have eventually moved on as tennis always does, just one fewer match on the order of play. But people were already watching Osaka closely, and on Friday when she returns to the court, even more will.

[photo-1]
Naomi Osaka, pictured during the Western and Southern Open in New York this week.

[photo-2]
Naomi Osaka’s success at the 2018 US Open has led her to become the highest paid woman in sport.

The Guardian, Last modified on Thu 27 Aug 2020 20.58 BST
Naomi Osaka opts to play semi-final after Thursday postponement

World No 1 had withdrawn to protest racial injustice

Western & Southern Open matches off until Friday

Exclusive by Tumaini Carayol
https://www.theguardian.com/sport/2020/aug/27/naomi-osaka-opts-to-compete-in-western-southern-open-semi-final-tennis


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2020年08月27日

Naomi Osaka "Before I am an athlete, I am a black woman"

Naomi Osaka has spoken about her experiences of being black and Japanese, as well as her memories of her mentor Kobe Bryant, in an interview with WSJ Magazine published online on Tuesday.

The two-time grand slam champion was born in Japan to a Japanese mother and Haitian father. The family moved to the US when she was a child, but she says she noticed she stood out when she was in Japan, the country she competes for.

“I’m just trying to put a platform out for all the Japanese people that look like me and live in Japan and when they go to a restaurant, they get handed an English menu, even though it’s just a little microaggression,” she said.

The 22-year-old recalled an incident when she was a girl, and playing against a Japanese opponent.

“She was talking with another Japanese girl, and they didn’t know that I was listening [or that] I spoke Japanese. Her friend asked her who she was playing, so she said Osaka. And her friend says, ‘Oh, that black girl. Is she supposed to be Japanese?’ And then the girl that I was playing was like, ‘I don’t think so,’” Osaka told the magazine.

“I remember that specifically because, yeah, I sometimes feel like a lot of people think that way about me.”

The US has seen a wave of protests against racism and police brutality in the last few months. Osaka said she believes problems of race in Japan are down to ignorance rather than hate.

“The issues of America don’t really translate that well in Japan, so sometimes they do blackface and things like that, and it’s a bit ignorant. ... It’s not really a hate thing,” she said.

Osaka attended Black Lives Matter protests this year, and dismissed the idea that athletes should only focus on sports.

“I hate when random people say athletes shouldn’t get involved with politics and just entertain,” she said. “Firstly, this is a human rights issue.

Secondly, what gives you more right to speak than me? By that logic if you work at Ikea you are only allowed to talk about [furniture]?”


Osaka also reflected on the help Bryant, who died in a helicopter crash at the start of this year, gave her as she found fame following her victory at the 2018 US Open.

“There would be some reNaomi Osaka: ‘I’m just trying to put a platform out for all the Japanese people that look like me’. ally tough losses. I didn’t even know he was paying attention, but he would text me positive things and tell me to learn from it,” Osaka said of the NBA superstar. “For me, it was definitely helpful.”

Osaka will compete at this year’s US Open, which is due to start next week.


[photo]
Naomi Osaka: ‘I’m just trying to put a platform out for all the Japanese people that look like me’.

The Guardian, Last modified on Tue 25 Aug 2020 16.52 BST
Naomi Osaka reflects on challenges of being black and Japanese

‘It’s a bit ignorant. ... It’s not really a hate thing’

Grand slam winner also pays tribute to mentor Kobe Bryant

https://www.theguardian.com/sport/2020/aug/25/naomi-osaka-reflects-on-challenges-of-being-black-and-japanese

Naomi Osaka, the highest paid female athlete in the world, has joined the wave of strikes across the major US sports leagues in protest of racial injustice by withdrawing from her semi-final at the Western & Southern Open, which was scheduled to be played on Thursday afternoon.

Minutes after Osaka completed her media duties following a 4-6, 6-2, 7-5 win over Anett Kontaveit in New York, the Milwaukee Bucks refused to contest their NBA playoff game against Orlando Magic following the shooting of Jacob Blake by police in Kenosha, near to Milwaukee. The strikes have now spread across the US sports world and include teams from the NBA, WNBA, MLB and MLS.

“Hello, as many of you are aware I was scheduled to play my semi-finals match tomorrow,” Osaka wrote in a statement on her social media accounts. “However, before I am an athlete, I am a black woman. And as a black woman I feel as though there are much more important matters at hand that need immediate attention, rather than watching me play tennis.

“I don’t expect anything drastic to happen with me not playing, but if I can get a conversation started in a majority white sport I consider that a step in the right direction. Watching the continued genocide of Black people at the hand of the police is honestly making me sick to my stomach. I’m exhausted of having a new hashtag pop up every few days and I’m extremely tired of having this same conversation over and over again. When will it ever be enough?”

Osaka, who was one of the first athletes to travel to Minnesota in the summer to protest for and pay tribute to George Floyd, punctuated her message by hashtagging the names of Black people who had been killed by the police: Blake, Breonna Taylor, Elijah McClain and Floyd.

Earlier on Wednesday, Osaka faced a 4-6, 0-2 and 30-40 deficit against Kontaveit before crushing an 114mph ace to save the break point and then reeling off nine games in a row. She eventually eked out a tight final set to secure her third win of the week. She was scheduled to face Elise Mertens of Belgium in the semi-final, who will now receive a walkover into the final. The US Open begins on 31 August.

The former No 1 Victoria Azarenka later beat the in-form Ons Jabeur to reach her first significant semi-final since March 2018. Azarenka is currently ranked 59th and she has struggled since she returned to the tour in 2017 after giving birth to a son, in part due to an enduring custody battle that contributed to her missing the Australian Open this year.

Azarenka is set to play Johanna Konta in the semi-finals after she defeated Maria Sakkari 6-4 6-3. The British No 1 eased past her Greek opponent who had eliminated Serena Williams in the previous round. Their semi-final is now set to take place on Friday, after the entire day’s play in New York was suspended in protest at racial injustice.

In the men’s draw, Novak Djokovic continued his peerless start to the season as he secured his 21st consecutive win by dismantling Jan Lennard Struff of Germany 6-1, 6-3 in only 62 minutes. Djokovic will face Roberto Bautista Agut in the semi-final.

Although female players had the option of easing back into competition earlier this month, the men have all restarted their seasons in New York and it is yet unclear who is prepared to challenge Djokovic.

The defending champion, Daniil Medvedev, appeared to be a worthy challenger for one set, but he was eventually smothered 1-6, 6-4, 6-3 by Bautista Agut.

Elsewhere, the 2009 US Open Champion Juan Martín del Potro announced that he has undergone a third surgery on his right knee as his career continues to hang in the balance after fracturing it at the Shanghai Masters in October 2018. It marks the 31-year-old’s seventh career surgery across a desperately unfortunate career.


[photo]
Naomi Osaka of Japan (right) greets Anett Kontaveit at the net after defeating her in three sets in their Western & Southern Open quarter-final.

The Guardian, Published: Thu 27 Aug 2020 03.33 BST
Naomi Osaka pulls out of Western & Southern semi in protest at racial injustice

‘Before I am an athlete, I am a black woman,’ says world No10

Elise Mertens receives walkover into final

By Tumaini Carayol
https://www.theguardian.com/sport/2020/aug/26/naomi-osaka-beats-kontaveit-in-three-and-reaches-western-southern-semi

・・・彼女の勇気に拍手・・・

・・・こういう言葉を口にできるアスリートをリスペクトする。日本の政治家よくよく感じて欲しい。アスリートの気持ちを弄び、五輪を利権化し、しがみつく我が国の総理大臣やお偉いさん方とは異次元差、私のボキャブラリーでは表せられない程の大差の価値の違いがある・・・

・・・大坂なおみ 選手が試合のボイコットを表明。NBAのミルウォーキー・バックスがボイコットに動き、女子のWNBAも参加。大リーグでも試合の中止、延期を決めたチームが相次ぐ事態。なによりスポーツを愛してる人たちが、こう口にする重み。
 米国での黒人差別事件、あまりにも酷い現実だ:
https://twitter.com/i/status/1298859861153705984
・・・
・・・大阪なおみさんの試合ボイコットに対する日本語コメントが最悪すぎる。

「やっぱり日本人じゃなかった」
「スポンサーに対して迷惑」
「こんなことしても無駄」
「警察に殺されるようなことをした本人が悪い」

全て拾いきれない。本当に酷い(日本語が他国の人に読まれにくい言葉でよかった。翻訳ボタン押す人あまりいませんように)・・・

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武井涼子氏はソプラノ歌手でもありました

Foster Japanese Songs ニューヨーク公演 ハンターカレッジ
https://www.youtube.com/watch?v=R53d2CpMqYA

Foster Japanese Songs ニューヨーク公演 国連チャーチセンター
https://www.youtube.com/watch?v=6NQSKRob0QM

 武井涼子氏は、この「Foster Japanese Songs」の母体であるNPO法人「日本伝統文化交流協会」のメンバーでした。

日本の伝統文化の一つ、日本の心の歌「日本歌曲」が国際的に広まったら、素敵な世界が広がります。

「さくらさくら」「浜辺の歌」「からたちの花」…
 美しいメロディと叙情たっぷりな歌詞で豊かな情景が広がる日本の歌は、 日本の伝統文化の一つです。
 私たちの心の歌ともいうべき日本歌曲は、世界で通用する力を持っています。

[動画]
Hamabenouta Live
https://www.youtube.com/watch?v=l0O5D1a6nWE

日本歌曲で国際交流、日本ブランドの発信を
Foster Japanese Songs(フォスター・ジャパニーズ・ソングス)」とは?


 日本歌曲コンサートを日本や世界で開催するほか、世界に羽ばたく日本人声楽家を育成し、 彼らによって日本歌曲が世界中で歌われることを目標に、著名な海外の音楽家と共演の オペラ公演や、世界的指導者によるワークショップを通じ、国際交流を行っています。

「Foster Japanese Songs」の母体、「日本伝統文化交流協会」について

 日本伝統文化交流協会(代表:梅若和子)は、世代を超えて育まれる日本の文化(能楽、日本工芸品、日本音楽、日本歌曲など)への理解と普及を促進し、21世紀を担う若い世代の人々の育成に努めるとともに、日本及び地域社会はもとより、海外の人びとへの紹介や交流を通じて相互理解を深め、豊かな国際社会の実現に貢献することを目的として運営されている特定非営利法人です。
 もとより、海外の人々への紹介や交流を通じて相互理解を深め、豊かな国際社会の実現に貢献することを目的として運営されている特定非営利法人です。
「Foster Japanese Songs」や「つなぐ文化」などのプロジェクトを通じて、日本伝統文化の日本国内外での振興を実現していきます。

 今は教科書からも消えてしまった日本の春を代表する歌「さくらさくら」が世代や国境を越えて世界中で口ずさまれ歌い継がれる、そんな日が来ることを私たちは目指しています。


日本伝統文化交流協会
日本の心の歌を、世界のクラシックに
https://www.jtcia.org/lp/

 新型コロナウイルスの感染拡大を受けたコンサートや舞台の相次ぐ中止で、フリーの音楽家や舞台関係者の生活が脅かされている。
 クラシック音楽などの公演を手掛けるNPO法人、日本伝統文化交流協会(東京・中野)が音楽家ら千人以上に実施したアンケート調査によると、6割以上の人が2020年3月だけで10万円以上の収入減になる見込みだと回答した。

 調査は4日から、同協会がSNSなどを通じて実施。
 声楽家、ピアニスト、指揮者といった音楽家や俳優、ダンサー、音響などの舞台スタッフら約1120人から回答を得た(5日午後3時時点)。

 調査によると、3月分の収入が予定通りの人はわずかで、9割以上が減収になるとみている。
 減少額は5万〜10万円が17.9%で最も多く、20万〜30万円が11.4%、30万〜50万円も10.6%いた。

 3月の生活費を「収入で賄える」との答えは13.9%だけで「不足分は貯蓄を取り崩す」と答えた人が65.1%にのぼった。
 収入と貯蓄では不足分を補えず借金する予定の人も16.8%いる。

 3月中に関わる予定だったが中止となった公演数を聞いたところ、5回以上が38.4%に達した。
 1回が15.3%、2回が21.9%だった。

 中止・延期が現在のペースで続いた場合の影響を尋ねたところ、「3月まで生活を現状維持できる」が24.2%、「4月まで」が34.8%と約6割を占める。
「7月以降も現状維持できる」とした人はわずか9.9%で、台所事情は切羽詰まってきている。

 同協会によると、回答者の約8割が特定の事務所や楽団などに所属せずに活動するフリーランス。
 年収が400万円未満の人が全体の約6割を占めるという。
 著名音楽家や主役級の俳優たちが急場をしのげても、彼らを支える中堅以下の出演者やスタッフらがいなければ興行は成り立たなくなる。

 調査を担当したグロービス経営大学院准教授で、声楽家としても活動する武井涼子氏は「新型ウイルスの影響が長引けば、芸術活動だけでは暮らしが成り立たない人が増える。芸術家にとって危機的状況だ」と話している。


「写真」
新型コロナウイルス感染拡大の影響で、3月は多くのコンサートや舞台が中止に追い込まれた(写真は広島交響楽団)

日本経済新聞、2020/3/7 9:30
フリー音楽家ら、6割超が10万円以上減収 新型コロナ
NPO「日本伝統文化交流協会」が1000人超に調査

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56523060X00C20A3CR0000/

 しかし、日本の音楽家たち、コロナ禍に負けてなんかいません。
 負けてる暇なんかありません。
 活動は、Tokyo International Vocal Arts Academy(TIVAA)にまでひろがっているのです。

「日本の心の歌を世界のクラシックに」をモットーに日本歌曲の世界での振興活動を行う、NPO法人 日本伝統文化交流協会のプロジェクト、Foster Japanese Songs は、日本人歌手や声楽専門ピアニストが世界で活躍し、各地で日本歌曲を歌う日を実現するために、日本の声楽家と、声楽専門ピアニストの皆様に、Tokyo International Vocal Arts Academy(TIVAA)を開設しております。

 毎年夏に、浦安市のTIVAA実行委員会の委託を受けて開催される「東京サマー・ワークショップ」と、イタリアで「モンテフェルトロ 音楽祭(Montefeltro festival)」に参加するイタリア ワークショップを開催。
 世界から集う音楽家と一流の日本人音楽家が切磋琢磨することで、技術の向上と海外での演奏機会の提供を行っています。

 TIVAA では、皆様に世界に羽ばたく若手音楽家や、世界一流のTIVAA ファカルティ、ファカルティに認められたスタッフ、ワークショップ卒業生のコンサートも開催。
 これらのコンサートで、皆様がオペラという総合芸術に気軽に触れていただくことを願っております。
ウェブサイト:https://www.tivaa.org/

国を超えた世界共演をご自宅でお楽しみください!

 クラシック音楽は、人の心を豊かにするために、機械を通さず音楽をお届けする芸術です。
 中でも声を使った芸術である声楽は、フルオーケストラを越え、たった一人の人間の声を何千人という会場のお客様に届けるために発展してきました。

 しかし、現在の環境では、歌手は物理的にオーケストラと共に演奏し、オーケストラを越えるこの声をたくさんの方に同時にはお届けすることができません。

 そこで、私たちは、インターネットの力を借り、国境と時差を越え、日本とアメリカから海を越えての競演を実現。
 皆様のご自宅に演奏を直接お届けします。
「オペラや声楽に興味はあるけれど、なんだか敷居が高い。。。」
 そんな方でも自宅でお茶やお飲み物と共にのんびり気軽に楽しめる本格的なオンライン・オペラ・コンサート。
 解説や字幕(字幕制作:三浦真弓)もついているので歌詞の意味もよく分かります。

 配信にはVimeoを利用することで高音質な音声を実現。
 ネットにつながる環境(1Mbpsで視聴可能。5Mbps以上で高品質で安定的に視聴可能)とクロームなどのブラウザさえあればお楽しみいただけます。
 視聴券をご購入いただきますと、Peatixの視聴タブからご覧いただけます。 
。。。
 今回は三つの歌の世界をお届け!

オペラ・アリアの世界...
 オペラの見どころと言えば、メインキャストがその心情を歌うソロ曲、アリアが真っ先に挙げられるでしょう。
 世界一の歌劇場メトロポリタン歌劇場の副指揮者でもあり、つい先日もカウフマンとディドナートが演じたオペラ《ウェルテル》でもピアノを担当したハワード・ワトキンスがニューヨークから奏でるピアノでは、竹下みず穂がオペラ《マノン》から名曲ガボットを歌います。
 テノール界のプリンス山本耕平はオペラ《ラ・ボエーム》から名アリア「冷たき手を」を世界で活躍するオペラ指揮者、ニューヨークからのホルヘ・パローディのピアノでお届けします。

歌曲の世界...
 ピアノと歌がともに作り上る、絵画ともたとえられる歌曲は、今回共演する3名のピアニストがそれぞれの持ち味を発揮します。
 ホルヘ・パローディはピアノでワーグナー「夢」(ソプラノは武井涼子)、ハワード・ワトキンスはモーツアルト、そして田中健がトスティの名曲を。
 ピアノと歌の奏でる妙なる世界をお楽しみください

デュエットの世界...
 メインキャスト二人の感情がもつれ合うのがオペラのデュエット(二重唱)。
《ラクメ》からは誰もが聴けば「ああ、聴いたことがある」と思われる、「花の二重唱」。
《ロメオとジュリエット》からは二人が愛を誓った後に歌う後朝の二重唱。
 そして《トスカ》からはスカルピアがトスカの嫉妬心に巧みに火をつける一幕の二重唱をお届けします。

出演者の解説やトークも!
 出演者インタビューはNHKなどで数多くの番組を担当してきた桑原りさがナビゲーターとして担当。
 聴きどころを詳しくお届けします。
 日本音楽コンクール一位の岩下晶子、二期会での活躍も目覚ましい後藤春馬、そのマルチ・キャリアがメディアにも取り上げられる武井涼子、新進気鋭の浦野美香、そして数多くの世界的な歌手から共演ピアニストとして信頼される田中健と、TIVAA芸術監督のホルヘ・パローディが選んだ音楽家が集い、皆様を声の世界に誘います。
。。。

イベントは 終了 です
TIVAA "at Home" アフタヌーン・オペラ・コンサート「三つの世界」
https://threeoperaticworld.peatix.com/

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追悼 瀧本哲史さん

今日は、ある人と私の思い出話にお付き合いいただきたい。2020年8月10日、惜しまれながらも逝去された瀧本哲史君のことである。

彼の業績や、仕事については多くの人が書くであろうし、すでに彼自身が自分の言葉を紡いでいる。であるから、そういうことではなくて、天才だった彼が、人間としていかに大きくあたたかく、やさしい人であったか。彼の性格や人となりについて書きとどめておきたいのだ。

大学3年になる春、マッキンゼーという、当時誰にも知られていない会社で、大学生向けに大変割の良いアルバイトがあった。なんと一週間で10万円もくれるというのだ。その内容は、今でいうインターンで、実は明確に就職活動だったのだが、そんなこととは知らなかった私はのそのそと面接に出かけて行き、無事10万円を手にする権利を得たのであった。

バイトの当日に会社に行くと、6人ほど仲間がいた。そのうちの一人が、発想はぶっとんでいて、発言の切れ味も、あまりにすごい。それが瀧本君だった。バイトを通じて、彼とよく話をするようになり、彼が所属していた東京大学弁論部への勧誘を受け、私も入ろうじゃないか、ということになった。

そして弁論部の活動や合宿などに参加していく中で、さらに彼と話をする機会が増え、彼の、次元の違う天才ぶりをより一層知ることになった。

彼は、いつも本質的にとてもポジティブなポジションを取る。そして一度ポジションを取ると、絶対ぶれないし、論の立つ弁論部の仲間をやすやす論破する。もちろん、たまに、ちょっと痛いところを突かれたりもする。でも、強引に論破していく。しかし、そんなやや強引でちょっとムキになってぶった切っていく時ですら、議論には嫌味なところが一つもないのは、どこか純粋で、素直な人を基本的に信じるという彼の性格によるのだろうな、と思っていた。

卒業するとき、彼は法学部で一番の成績を取った。成績の計算は、留年者が有利になるため、主席卒業生に対して授与される金時計は一年留年していた先輩に譲ったものの、当然のように、法学部の助手になった。これは、東大法学部においてはもっとも優秀な人が取るコースで、助手として給与をもらいながら研究し、論文を書くと博士と同じ扱いになるのである。

マッキンゼーからも強く勧誘を受けていたけれど、「いつでも行けるからまずは助手になる」と言っていたのを覚えている。

卒業後は、直接会う機会はなかった。数年後、彼がマッキンゼーに就職した、と聞いた。そして、その後、マッキンゼーで彼の同僚であった川鍋一朗氏が日本交通の経営再建に従事する、という時に、川鍋氏を助けに日本交通に入ったとも聞いた。私と彼との直接の交流は一時途絶えていた。

同世代でぶっちぎりの天才

そんな彼と再会したのは、東京大学の小宮山総長が始めた、東大生が自らのキャリアを主体的に選択できるよう卒業生と気軽に、本音で語り合える場を創設する「知の創造的摩擦プロジェクト」だった。当時、今度は私がマッキンゼーに務めており、「知の摩擦」のフェローのような役割を東大から依頼されていた。

ある日、イベントに参加すると、「武井さん」と声をかけてきた人がいた。それが久しぶりに会う彼、瀧本君で、すでにエンジェル投資家としても京都大学の客員准教授としても活躍をしていたのだった。余談だが、エンジェル投資家という存在とその定義を教えてくれたのも彼だった。

その後は、「知の摩擦」のイベントやその飲み会で会っては、昔のように話しこむようになった。「東大の卒業生活動がこれからどう面白くなるのか」という直接関係ある話題から、「今後の世界はどうなるか」「その中で日本は何をするべきか」といった話題まで、何でも意見を聞いては、相変わらずのものすごいメタ認知と天才ぶりに舌を巻いていた。

私の考えを言うと、「それは見方が狭くて……」と言われることが多かったが、彼が思いついていないことを私が言ったりすると「そうか、その考え方はあるね。それは考えつかなかった。でも、そうだとしたらこうじゃないの?」と、思いついた私にちょっと敬意を示してくれたうえで、さらに上を行く意見を出してくる。正直で素直な人なのだ。

人によっては、彼に意見をさえぎられ、切り捨てられたように思う人もいたようだが、実は、さえぎってるわけではなく、彼にとっては「意見はすでに聞いた」ということなのである。つまり、もう相手が言うことがわかってしまっていて、それ以上聞いても時間の無駄だから、自然とさえぎってしまう。意見を聞いていないわけではないのだ。

しかもその意見を否定するにしても何にしても、常に「それだったらこうしたほうがいいのではないか?」と、ポジティブな提案をしてくれる。彼は、いつでも誰にでも、アイデアを分け与えてくれる懐の大きい人だった。

私の個人的な名刺のデータベースには世界各国の5000人以上の登録がある。データ化していない人にも沢山会ってきた。そんな私から見て、どう考えてみても、同世代でぶっちぎりの天才が、瀧本哲史君であった。

彼はあたたかい人でもあった。実は人情にあつく、この人のことは味方してやろう、と思うと、その頭脳を駆使して頑張ってくれる人であった。

ある日、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの起業家がまだ若いとき、適当なことを言って学生をアジっているのに腹が立ち、私がその起業家に論戦を吹っ掛けたことがあった。そのときの私への彼の素晴らしい加勢は今でも覚えている。

もっとも瀧本君は冷静にその起業家に「お前の言っていることはおかしい」と言ってくれていたが、酔っぱらいで多分支離滅裂だった私と、同じく酔って支離滅裂だった相手を前に、加勢するのは大変だったろう。

独特の気遣いをする人だった

そう、彼は決してお酒を飲む人ではなかった。「酔うと多少タガが外れて楽しいからたまにはどう?」と勧めたら「アルコールの脳細胞に与える影響」について一席ぶたれた後に、「頭がクリアでない瞬間は一瞬たりとも持ちたくない」「でも飲んでいる人と話しているのは面白い」という趣旨のことを言われたことがあった。

その話が相当おもしろかったので、その後、二度と彼にお酒は勧めないけれど、私はいつも好き放題飲んでいた。彼はそういう独特の気づかいもする人だった。

2012年くらいだったろうか。日本歌曲を世界に広める活動がしたくて、時間をもらって相談したことがあった。すると、「それじゃ、僕がまず200万円業務発注しますよ」と、ぽんと最初の活動資金にあたる収益を出してくれた。あの時の驚きは忘れられない。その資金があったから、ニューヨークで国連のイベントとしてコンサートを開催することも、さまざまな資料も整えることもでき、充実した活動の端緒ができた。

この活動は形を変えつつ、今はたとえば、浦安市の教育委員会の後援を得て毎年ワークショップを行うまでに発展しているが、そんな過程もあたたかく見守ってくれていた。収益が出たら、今度は真っ先に彼に私が仕事をお願いして、200万円発注し返す予定だと繰り返し伝えていたのだが、まだトントンか赤字でそうなっていないことが悲しい。でも、私の活動を見ている中で、真っ当な文化事業の収益化はとても難しいことも感じてくれてもいた。

その頃の瀧本くんは、『僕は君たちに武器を配りたい』(講談社)という、彼にとって初めての本を出し、NHKのニュース番組「NEWS WEB24」で初代のネットナビゲーターも務めるなど、最も忙しい時期であったろう。そんな中、時間を使ってくれたことには感謝しかない。

もしかしたら、大学時代からの気の置けない友人だし、自分の思ったことを言っても大丈夫な相手、そして多少は面白い反応が返ってくる相手と思って貰えていたのかもしれない。日本歌曲の活動の話だけではなく、投資先の話や学生の話、行政の話、そして日本の可能性の話……いろいろな話を聞かせてくれた。彼の天才ゆえの悩みであろうことなども聞いた。これは、公の場ではさすがに書けないなぁ。

当時、私は離婚したばかりで、彼は独身でそろそろ結婚したいかも、と思っていたこともあって、結婚についてもよく話をしていた。まだメールが主流の時代だったけれど、時にはメッセンジャーかのようにやり取りしていたなぁと懐かしく思い出す。

彼にかかると結婚も「アラフォーの高学歴高収入男性市場」と「同様条件の女性市場」の比較となり、「男性に一定の市場があるのに対して、女性には市場はほぼない。でも、可能性が全くないわけではなく、あるのはこういったところ」と、本質を突いた指摘の後に、その狭い可能性の中で私に誰か紹介しようと具体的に動いてくれるといった具合だった。

人生で最も成功した「紹介」

常にそうやってポジティブで、頼られれば誰にだって何か役立つ具体的なことを考える、というのが、彼であった。投資先についても同様で、手じまいすることになってしまった事業はほとんどないはずだ。なったとしても、うまくいかなかったから閉じるというよりは、理念が変わってしまったから閉じるという感じであった。

さて、残念ながら、私に誰かを紹介しようという彼の努力は実らなかった。一方で、瀧本君も大いに癖のある人だから、彼にふさわしい人というのもなかなかいなかった。ただ、実は私には、彼の求める条件にぴったりなうえ、彼を面白いと思ってくれそうで、しかも彼も彼女との意見交換を面白いと思ってくれそうな、つまり、結婚して楽しくやっていけそうだと思うMBA同期の友人がいた。

私がNYに住んでいた頃、ボストンに住んでいる彼女のNY滞在時の宿はいつも私の部屋だったし、私が離婚したときに家出先になってくれたのも彼女、茜さんである。

ずっと彼女のことが頭にあったので、タイミングを見て彼に紹介をすると、瀧本君は「ちょっと今は考える」と言っていたが、一年ほど経った後に「前に紹介してくれた茜さん、今誘ってもいいだろうか?」と律儀な状況確認があり、しばらくすると、二人は結婚したのだった。

今までに何組か結婚につながる紹介をしてきたけれど、こんなにぴったりな相手を紹介できたのは私の人生最大の成功だと思っている。というのも、彼女にはもしかしたらいろんな選択肢があったのかもしれないが、瀧本君には彼女しか選択肢はなかったろうと思うし、私の知りうる限り、二人はとても良い夫婦でお互いを尊敬しあっていた。

彼が結婚した後は、奥様になった茜さんとも、瀧本くん本人とも連絡を取ることもあった。そのころからは私も各所でいろいろな発信を始めていたから、互いに生息状況を確認してはいたし、折に触れて共通の知人に会うことなどはあり、そんなときに話題が出たよ、なんていう話をSNS上やメールでちょっと話す程度であった。

たとえば、私が教えているグロービス経営大学院で、日本交通の川鍋氏に講演をお願いしたときに、彼が「(日本交通再建)当時、瀧本さんは『いいですよ川鍋さん、僕も行きますよ』と、いとも簡単に日本交通に来てくれた。火中の栗を拾うかの状況だったのに、さも軽々と決断してくれた。彼は本当に大恩人で、瀧本哲史に足を向けて寝られない」なんて話を聞く。それを瀧本君に伝える。そんなちょっとしたやりとりを続けていた。

実は、彼に関しては、直接関わった人から良い話しか聞いたことがない。それも彼の人間性であった。彼が「大丈夫だろう」とか、「やりますよ」「できるはずだ」と言った際には、必ず彼の中に根拠があり、無責任な発言は一つもない。

できないと思ったときは容赦なく「無理だ」と言ったし、代替のアイデアを提示する。だから、彼の言葉は力があるし、信用でき、実際に一人ひとりに力を与えてきた。

彼が天才たる3つの所以

彼の天才たる所以は、その視座の高い発想力と、批判に終わらない提案力にある。それを可能にしていたのは、私がわかっている範囲では3つの要素がある。

第一に、彼が常人には計り知れないレベルで記憶力が優れていたこと。彼の場合、映像記憶ができるので、どんな細かいことも記憶していた。読んだ本のどこにそれが書いてあるかを一度読んだだけで把握してしまう。それだけでなく、日常のちょっとしたことも、もちろん憶えていた。

次に、論理的に考え切ってから、論を構成する能力である。彼は、単に記憶しているだけでなく、その情報を縦横無尽に組み合わせ、精緻な論理を作ることにも長けていた。

最後に、しつこく考え抜くタフさ。何か知ろうと思ったら、普通の人よりはるかに粘り強く、とことんまで調べ、追求し、考え続けることも徹底していた。

結果的に、常に知識データベースが強化され、論理構成力も磨きこまれていた彼の頭は、時を経るにつれ、常人には計り知れない量の知識を、自由に操っていたのだと思う。

ご夫人の茜さんも彼をこう評価する。

「人が学習することを、彼はいつもすでに知っている感じだよね。だけれど、常に考えていて、自分なりに考えがまとまるまでは、調べて、考え続けていたタフさがあった。元々すごく頭もよかったけれど、知的なタフネスさがあった」

まさに一を聞いて十どころか数億兆、数京を知る、そのように見えたのが彼だった。

ある日、私が「日本語は将来、割とすぐなくなると思う。せめてラテン語のようになれるようにできないかと思っている」と言ったことがあった。すると彼は、「そうそう、でも、頑張ってもヘブライ語が限界」と言った。

私はそのとき、「話す人があまりいなくなくなっても、それなりのレピュテーションを保つ言語」という意味で、「ラテン語」しか思いつけなかった。それを瀧本君は、「ラテン語は宗教で支えられていて、昔からキリスト教圏では広範に利用されているが、日本語はそうじゃない」。そして、目指すべきは、ラテン語ではなく、「著述語としてのみ1800年生き延び、ついに現代に復活したイスラエル民族の言葉、ヘブライ語のほうがぴったりくる」という提案であった。

たったメッセンジャーにして4行くらい。時間にして一秒程度のやり取りである。私が考えに考え抜いた末、見出した結論を、彼はとっくに知っていて、さらに深い考えを常にもっているのだ。

このとき、私たちは「日本語がなくなるまでには、あと数百年くらいはあるかな」なんて長い期間の話題をしたし、何かをやり遂げるためには時間が必要だから、お互いに絶対に長生きすることを大事に頑張ろうよと言っていたのに。

彼が残した最大のもの

今年2020年の3月に、彼が出資しているフォニムという音楽教室事業を行う会社のイベントで、彼と対談をすることになり、昨年末からはかなり頻繁にやり取りをしていた。最近あまり人前に出ていなかったし、この対談は彼の公の対談としては最後になったようで、その相手が私だったことは、彼にとって良かったのだろうか、どうだったんだろうか。

私にとっては、それは、相変わらずたくさんの示唆があった会話だった。いずれにせよ、彼とコミュニケーションすればいろんな話題が出てくる。これからは、また仕事で絡みがたくさんありそうだなぁ、と互いに話していた。

その後、6月に出た彼のNewsPicksのインタビュー記事を私がピックしたときに、ありがとうというメッセージをくれた。その記事自体も1000以上のpick数がついたし、私のコメントもLike数が1位になったことで、読まれるコンテンツになってよかったね、なんてことをメッセンジャーでやり取りしたのがつい先日のことのようだ。

彼にはあまり無駄な時間を取らせたくないと思っていたから、用事もないときはほとんど連絡はしない。次は9月に見てもらいたいものがあるから連絡しようと思っていた。

そんな矢先、ボローニャの街角で、茜さんからメッセンジャーが入った「今、海外だよね、ヨーロッパ?」。知っていることもあったから、ちょっとだけ嫌な予感がした私は「そうそう、何か買っていこうか?9月になるけど」、そんな返事をわざとしたのだ。すると、「このまま、少し話せるかな」と。

人通りの多い街角で、大の大人がおいおい泣くなんて恥ずかしいことは死ぬまで絶対しない自信があった。

でも、人は人目もはばからず泣くときもあるのだ、ということを知った。

家族からしても、とても急なことだった。最後までとても前向きで、一つも誰に対しても、いやなところがなく旅立っていった、と聞いた。

彼の投資家として、そして京都大学の准教授としての功績は、授業や影響を受けた皆様の記憶にとどまり、企業などは実際に世の中に存在し続けることで彼のことを未来永劫語り続けるであろう。そして、世界の未来を「若者の教育」に託していた彼が残した最大のものは、著作とネット上などで発表されている彼の言葉であろう。

処女作にしてベストセラーとなった『僕は君たちに武器を配りたい』から、最後の著作になった『ミライの授業』(講談社)に至るまでの彼の著書はもちろんだが、最後のロング・インタビューになったのではないかと思われるNews Picksの「僕武器2020」をはじめ、各所で発表されている彼の講演や対談の書きおこしには、素直な気持ちで読むと必ず誰にでも示唆を得られる何かがあると思う。

自分でも改めて何かおすすめを選べないかと思ったが、どの文にも違ったよさがあり、選ぶのは難しいという結論に至った。

彼の言葉は、どんなに何かをぶった切っている発言であっても、よく全体を見ると常にポジティブで前向きな提案がある。そのうえ、彼が許可をして発表された彼の発言は考えつくされていて、単なる思いつきに見える一言すら、深い思考と根拠に支えられているから、思考のし甲斐も必ずある。

たとえば、『僕は君たちに武器を配りたい』は8年前の本だが、今やっと時代が彼の思考に追いついてきた感があり、まさに今からの本になっている。そういう本質や先を見る力が天才であった彼にはあったからだと思う。

今、私は国外にいる。夏季休暇に加え、テレワークの実験中である。だから、ということもあるだろう。まだどうしても実感が湧かない。まだいくらでも新しい言葉や記憶が生まれてくるような気がしている。常に進化し続けていた彼だから、もっと進化した言葉が聞けるような気もしている。でもそれはもうかなわないことだと理解しなくてはいけない。

ちょっとずるいかもしれないが、大事な宝物のように思っている彼の言葉や様々なエピソードは私だけのもの、または、彼と近しかった人たちだけのためにとっておきたい。それに、もしかしたら、ご葬儀の弔辞で、彼の人となりはもっとうまく紹介されていたかもしれない。

けれど、それでも、今実感がないからこそ、どうしても、本当に彼が天才であったこと、そして彼がとてもあたたかく、心の大きな素晴らしい人であったということを伝えたいという強い衝動にかられてこの文章を書いた。

まだまだ本当はたくさん書きたいこともある気がする。それに、安らかに、なんてまだとても言えない。でも、今、彼のことを何か書いておくべきだ、と思ったのだ。

Forbes JAPAN、2019/08/18 19:00
追悼 瀧本哲史さん
30年来の友人が語る「天才の人間性」

文=武井涼子(グロービス経営大学院大学 准教授/声楽家)
https://forbesjapan.com/articles/detail/29132/1/1/1

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シーボルト事件

 一昨日2020年08月25日付けのヤッホーくんのこのブログ、日記「間宮林蔵の“二つの顔”」について補足があるそうです。
 まずは「シーボルト」関連年表を長崎新聞から引用します。

1796 ドイツで生まれる
1823 出島オランダ商館医として来日
 24 鳴滝塾を開く
 26 オランダ商館長の江戸参府に随行
 27 娘いねが生まれる
(女性で日本人初の西洋医学を学んだ産科医となります。1903年、食中毒のため東京の麻布で亡くなりました、享年77歳)
 28 シーボルト事件
 29 国外追放
 59 再来日
 66 死去
(シーボルトが日本をさって30年後、国外追放がとかれ、1859(安政6)年、ふたたび日本に来ることができました。長崎に到着したシーボルトは、なつかしい鳴滝に住み、昔の門人たちや娘・いねたちと交流しながら日本研究を続けました。また、幕府にまねかれて、江戸でヨーロッパの学問を教えました。3年後に日本をさり、1866年10月18日、ドイツのミュンヘンで70歳で亡くなりました)

 シーボルト事件は、国禁の日本地図などを積んだ船の座礁により発覚したという通説が長年知られてきた。
 しかし、1996年に、横浜薬科大教授(現在)の梶輝行さん(1961年、東京都生まれ)がオランダ商館長の日記を基に通説を否定する論文を発表。
 昨年2019年、見つかった新たな史料もそれを裏付けている。
「座礁事件で発覚」という通説は、どうして生まれたのだろうか−−。

 通説はこうだ。1828年9月、オランダ商館医・シーボルトが帰国のために乗船予定だった蘭船が、暴風雨(シーボルト台風)により長崎港で座礁。
 積み荷を降ろしたところ禁制品が次々に見つかり、後に多くの人が処罰される一大事件へ発展した−−。

■ 伝聞、脚色

 梶さんによると通説の論拠とされたのが、江戸期の国学者・中島広足(1792 - 1864)の「樺島浪風記」。
 暴風雨の去った2日後に長崎を訪れて被害を目撃していた中島は、後年同著で「こたびの大風は、まさしく神風なり(略)船をふきあげられしかば、(略)つみ入れたる物どもとりおろし、とかくせらるゝついでに、さるもの(禁制品)どもみなあらはれ出て…」と記し、蘭船による国防機密の海外流出に警鐘を鳴らした。

 長崎市長崎学研究所の藤本健太郎学芸員は「国学者である広足は、外国人が日本で活動することを良く思っていなかった。人から人へ事件が伝聞、脚色されるなかで“シーボルト台風”による蘭船からの積み荷露見説が信ぴょう性を帯びていった」と指摘する。
 最終的にはシーボルト研究の第一人者である呉秀三(1865 - 1932)が、幕末の外交官僚・田邊太一(1831 - 1915)の回顧談「幕末外交談」などを引用しながら「座礁で発覚」という通説を著書で扱い、定着していったという。

■ 発覚の端緒

 これに一石を投じたのが梶さんの論文で、当時の商館長メイランの日記から、座礁当時、船には安定性を保つために銅500ピコル(約30トン)だけが重し(バラスト)として積まれていたことを確認した。
 修理の際に荷物を臨検したという記載も無く、メイランの日記からは通説を立証できないことを明らかにした。

 さらに今回新たに見つかった史料には、幕府天文方兼書物奉行の高橋景保への家宅捜索と逮捕を契機に、シーボルトと高橋の間での日本地図などの受け渡しが露見し、その情報が長崎にも伝えられ出島のシーボルトに対する調べが進められていく過程が記されている。
 つまり座礁事件は関係ない。
 同史料をメイランの日記などと併せて読み解くと、事件の発覚と経過がよく分かるという。

 梶さんは「論文の反響が強くなったのは発表から約10年後のことで、歴史事典の内容が書き換えられたり、シーボルト関連の書籍に私の論が紹介され始めたりして手応えを感じた」と振り返る。

■ 大きな背景

 では、シーボルト事件発覚の端緒となった高橋景保の逮捕は、どのような背景があったのか。

 1823年に来日したシーボルトは、医務官としての任務だけでなく、日本の博物学調査も担っていた。

「欧米では当時、日本の風俗習慣をはじめとした総合的な情報の需要があり、日本と通交したオランダはそれらを発信する役割も演じた」
(梶さん)。

 シーボルトは精力的に資料収集をするにあたり、日本人へ物品を贈るその見返りに資料を要求するという方法も採った。
 1826年の江戸参府では高橋と出会い、物品の授受を伴う交流を開始。
 この交流が幕府に疑われ、高橋やその部下らが尋問によって日本地図などの贈与を認めたため、まもなく長崎でもシーボルトらへの取り調べが始まった。

 高橋に疑惑の目が向けられたのは、高橋と確執のあった北方探検家で幕府勘定方普請役の間宮林蔵が、シーボルトから間宮への書簡類を幕府に提出したことがきっかけとされる。

 しかし、シーボルト事件発覚の端緒は、単なる高橋と間宮の確執というより、1825年の異国船打払令の策定を巡る幕府の内部対立や、幕府の政治的、外交的、海防的な政策の問題も絡んだ、より大きな背景があったという見方が現在強くなっているという。

 また今回発見の史料は、事件が日蘭貿易にも影響を及ぼすことを警戒した三井呉服商の長崎駐在員が江戸の本店に内密に収集した情報を伝えたもの。
 梶さんは、「輸入反物などを扱う貿易商人にとって経済的なダメージが回避されるよう注視していることがうかがえる貴重な史料。改めてシーボルトの日本滞在中の動向と日本研究の内容を確認しながら、この事件について政治、外交、国防、経済そして学術など複眼的な考察を通じて研究を進めたい」と話す。


[写真]
昨年2019年発見されたシーボルト事件に関する史料の一部(長崎学研究所提供)

長崎新聞、2020/1/19 16:52 (JST)
なぜ通説が生まれたのか シーボルト事件
「座礁で発覚」否定裏付ける史料発見
幕府内部対立、外交問題… 複眼的な研究必要

https://this.kiji.is/591440751427486817?c=174761113988793844

 江戸時代後期に来日し長崎を拠点に近代医学を広めたが国外退去処分となったドイツ人医師シーボルト(1796 - 1866)に、日本での妻の滝が送った手紙が、オランダのライデン大学で見つかった。
 遠く離れた夫への愛情がつづられている。

 シーボルトは1823年、長崎・出島のオランダ商館に赴任。
 滝との間に娘いねを授かった。
 1828年、帰国の際に禁制品の日本地図などを持ち出そうとする「シーボルト事件」を起こし、退去処分を受けて欧州へ戻った。

 帰国の途中でシーボルトは妻子へ書簡を3通送っており、手紙は最初の返信。
 長さ約3.4メートルの巻紙につづられ、1830年12月25日付。


[写真-1]
妻の滝がシーボルトに宛てた手紙(ライデン大図書館蔵、西南学院大学・宮崎克則教授提供)

[写真-2]
シーボルトの日本人妻の滝(宮崎克則教授提供)

西日本新聞、2018/10/27 3:36
シーボルトへ妻が送った手紙発見
オランダに追放後、つづる愛情

https://www.nishinippon.co.jp/item/o/460714/

たきからシーボルトへの手紙(部分)

 3通の手紙は届きました。ありがたく思っています。お元気でいらっしゃると聞いて、とてもめでたく思っています。私とおいねも無事に暮らしています。船の旅を心配していましたが、滞りなくバタビアにお着きになって安心しました。

 不思議なご縁で数年間おなじみになっていたところ、日本でいろいろと心配事が起こり、あなたは去年帰られました。涙が出ない日はありません。

 お手紙をもらい、あなたのお顔を見た気持ちになり、とてもゆかしく思います。この手紙をあなたと思って、毎日忘れることはありません。おいねはなんでもわかるようになりました。毎日あなたのことばかり尋ねます。私もあなたへの思いを焦がしています。
(中略)

 私とおいねのことは心配しないでください。おじさんのところにいますからご安心ください。病気にならないよう祈っています。どうした縁でこうなったのでしょう。そのことばかり考えて暮らしています。
(中略)

 来年のお手紙を、首を長くして待っています。私は朝と夕にあなたの息災と延命を祈るよりほかはありません。来年はちょっとでもいいからお手紙をください。ひとえに待っています。申し上げたいことはたくさんありますが、次の手紙にします。名残惜しい筆を止めます。めでたくかしく。

寅十一月十一日 其扇
シーボルト様
(以下略)

[写真]
たきの手紙。なかほどにシーボルトの名が見える(ライデン大学図書館所蔵、宮崎教授提供)

朝日新聞、2018年10月27日 16時54分
シーボルトへ妻が送った手紙発見
オランダに追放後、つづる愛情

(編集委員・中村俊介)
https://www.asahi.com/articles/ASLBJ470JLBJTLZU001.html

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2020年08月26日

衆議院議員中村喜四郎、インタビュー

市民連合は、2015年12月の発足以降、国政選挙において、野党統一・市民連合推薦候補の擁立を実現してきました。また、同時に投票率のアップのため、街頭宣伝などさまざまな取り組みをしてきました。
その私たちに対して、中村喜四郎議員が事務総長を務める「全国108万ネットワーク国民運動本部」から、国民運動本部がすすめる「投票率10%アップをめざす108万6288人国民運動」署名の協力要請がありました。国民運動本部には、立憲民主党の枝野代表を本部長として、日本共産党志位委員長、社会民主党福島党首などが名を連ねています。
投票率をアップさせることは、私たち市民連合の取り組みにとっても非常に大切なことです。このため、今回、事務局で、署名運動の趣旨等をうかがうために、中村喜四郎議員のインタビューを行ないました(2020年8月19日 於 衆議院第二議員会館)ので、掲載いたします。

―― 今日はお忙しいところ、ありがとうございます。最初に、これまでの経歴と、政治家として何をめざしてきたのかについてお聞かせください。

中村: 私は1976年の第34回衆議院議員総選挙に旧茨城3区から無所属で出馬し、初当選。
 当選後、自民党に入党しました。
 1989年宇野内閣で科学技術庁長官に任命され、1992年、宮澤内閣で建設大臣に任命されました。
 1994年のゼネコン汚職事件の時も政治活動を続け、2005年のいわゆる郵政解散にともなう総選挙の時に、無所属で再び当選、今に至るまで当選14回を数えます。
 これは有権者のみなさんに、私の政治姿勢を評価しつづけていただいたからだと考えており、感謝しております。

 私のめざして来たことは、「社会正義」を貫く、と言うことです。
 公平・公正な政治をやるべきで、その前提として民主主義を守り抜くことが大切だと思っています。
 そのために、これまで、一切妥協することなくやって来ました。

―― 自民党内閣で、建設大臣までつとめられた中村さんが、なぜ今、野党陣営に身を置いているのでしょうか。

 私の知っている自民党は中選挙区時代の自民党です。90年代の選挙制度改革には、私は反対でした。政権交代が可能となる二大政党制は、それぞれの確固たる支持層があって、初めて成り立つものです。そのようなものが全くないまま、政党交付金の制度で「政治とカネ」の問題が解決するなどと言う短絡的な発想で改革が進んでしまいました。

 その後、私は無所属になって、自民党がどう変わっていくのかを、じっと見続けて来ましたが、私が懸念していたことが、現実のものとなってしまったのが、この安倍政権の7年間でした。

 安保法制をめぐる解釈改憲などは、公平・公正な方法ではなく、まさに民主主義は危機に瀕しているといわざるを得ません。
 
―― 安倍政権、安倍自民党の問題点はどこにあるのでしょうか。
 
中村: 最大の罪は「権威主義的な政治を加速させ、国民に政治をあきらめさせたこと」にあると思っています。原因の一つは、小選挙区制度によって、「一強多弱」の状況が作られてしまったことだと思いますが、もう一つの原因は「公務員制度改革」によって、内閣人事局が、中央省庁の幹部人事を官邸でコントロールする仕組みが出来上がってしまったことにあると思っています。かつての自民党は、役所の皆さんには、専門知識や情報を活かしてもらって、政治家が責任を取る、という形でやって来ましたが、今は常に官邸を守る役所になってしまった。だから森友の問題にしても、平気で公文書を改竄する。役人が嘘に嘘を重ねなければ、やっていけないようになってしまった。さらに、マスコミの報道に対する介入も目に余るものがあります。特定秘密保護法とか、共謀罪とか、表現の自由を制約するような法律をいくつも通している。これは民主主義にとって、とても危険なことです。

 一方で、安倍首相は、言っていることに全く中身がない。例えば、消費税に関しても、4年半にわたって、国会で154回、「社会保障のための財源にする」と言って来たにもかかわらず、突然、「教育のため」と言い出す。2020年度までに基礎的財政収支(プライマリーバランス)の黒字化をすると、衆参の本会議で30回も答弁したにもかかわらず、突然撤回する。アベノミクスにしても、何の成果が上がったのか、さっぱり分からないうちに新アベノミクスとか言い出す。もう出鱈目です。

 そして、安倍首相に人事権を握られているので自民党の中でも、異議を申し立てる人がいない。国会議員が300人もいても、十分な議論をしない。今の自民党は自浄能力を失った政権与党になっている。これではダメです。

―― 私たちも、安倍政権に対しては同じような認識を持っていますが、それではこれから、野党はどうしていけばいいと思われますか。

中村: このままでいけば、安倍総理が辞めても次の人も、同じことをするでしょう。そして、政治をあきらめた国民は、どんどん投票に行かなくなる。ここをどうにかしなければいけない。投票に行かない1000万人の人たちが投票に行けば、一強多弱の状況を変えられる。いわゆる「保革伯仲」となれば、政治に緊張感も生まれる。このことで「あきらめない政治」を作り出していくことが必要だと思っています。

―― なるほど、それで中村さんは「投票率10%アップをめざす108万6288人国民運動」を進めていらっしゃるのですね。

中村: そうです。私は、この運動に賛同してもらうにあたって、自分の足で、野党の議員の事務所を一軒一軒、これまでに4回訪ねて回りました。そのようなことをする国会議員は、これまでにはいなかったのでないかと思います。私自身、土日は必ず選挙区を歩くようにしています。四日で一回り、一年で25回、4年で100回、これを正確なルートで回ることが必要です。そうするとそのうち、有権者が「ああ、今日は中村が来る日だな」と、待っていてくれるようになる。そのような人たちから、直に話を聞くことが必要です。

 今の野党議員に足りないところは、まさにそこだと思っています。本やインターネットで情報を得るだけでなく、じかに話を聞いて、国民の声を受け止めていく。そうすると、「ああ、この人は自民党の議員よりも私たちの話を聞いてくれるな」となり、本気度が伝わっていくのです。その時に、「投票率10%アップをめざす108万6288人国民運動」の趣旨を伝えていく、すなわち、みんなで投票に行ってくれと、訴えてもらえればと思っています。

―― わかりました。最後に、野党共闘を進めて来た私たち市民連合に、メッセージをお願いします。

中村: 政治の原点は、国民の中に飛び込んで、そこに根差したものでなければならないと思っています。市民連合で、市民運動をやっていらっしゃる皆さんとも、一緒にやっていかなければなりません。その際、市民連合の皆さんにも、ぜひ、投票率をどうあげていくのか、ということを、活動の柱にしていただきたい。この度の選挙では、野党は、自民党に対する批判票で勝つのではなく、実力をつけて勝っていく。そのためには、多くの人たちに、政治を変えるために投票に行ってもらわなければなりません。私もそのために、精一杯頑張ろうと思っています。よろしくお願いします。

―― ありがとうございました。


市民連合、August-21-2020
衆議院議員中村喜四郎さんインタビュー
https://shiminrengo.com/archives/3124

野党再編の新たなキーマンとして注目される中村喜四郎元建設相(70)=無所属、衆院茨城7区=が、本紙のインタビューに応じた。
かつて自民党で将来の総裁候補と目された経験も踏まえ、現在の自民党には自浄能力がなくなったと批判。
野党が政策の違いを超えて結束し、安倍政権との対立軸を示すべきだと訴えた。
 
◆ 今の自民は「あきらめさせる政治」


―― 昨年から知事選や参院選で「オール野党」の体制づくりに奔走している。

中村: 私がいたころの自民党には謙虚さがあり、権力を使うことに抑制的だった。
 何か問題があれば新しい党の顔が出てきた。
 自分で自分を批判できたから野党は必要なかった。
 安倍政権は官邸に権力を集中させた。
 権威主義が強まり、国民を諦めさせる政治が進んでいる。
 野党が強くなれば政治は国民を無視できない。

―― 第二次安倍政権の成果をどう評価する。

中村: 基礎的財政収支(プライマリーバランス)を2020年度に黒字化と言ったのに実現できていない。
 国の借金と企業の内部留保は増えたが、国民の所得は増えていない。
 皇位継承問題など喫緊の課題は急がずに、70年以上守ってきた平和憲法の見直しを『待ったなしにやる』と言う。
 優先順位が間違っている。

◆ 政策違って当たり前 歩み寄れる点を探せ

―― 対する野党の現状は。

中村: 野党同士でけんかするのは滑稽だ。
 党ごとの政策が違うのは当たり前。
 自民党も憲法の考え方が全く違う公明党と連立しているのだから、野党の違いなんて大した話ではない。
 共産党を排除したら野党はいつまでも弱いままだ。
 歩み寄れる点を探せばいい。

―― 立憲民主党が国民民主党などに合流を呼び掛け、協議を続けている。

中村: この流れは評価する。
 一つになるだけで国民が評価するか分からない。
 本当のことを言わない限り誰も動かない。
 トランプ米大統領に付いていくしかないという外交・安全保障では国益を守れない。
 野党は外交の継続だけでなく転換も主張しなければならない。

◆ マスコミ嫌いが「満を持して」

―― れいわ新選組は消費税率5%への引き下げを旗印に野党結集を唱えている。

中村: 『税金を安くする』と言えば『なるほど』と思ってくれるほど、国民は情報を持っていないわけではない。
 上げた税率を下げることなんてできるのか。
 5%に気を取られず、与党に堂々と財政論議を挑むべきだ。
 国を財政破綻させないことは戦争してはいけないということの次に大事だ。

―― ゼネコン汚職事件で逮捕されて以降、メディアの取材に応じてこなかった。どう心境が変わったのか。

中村: 満を持してだ。
 事件は決して軽いものではない。
 時間がたたなければ何を言っても信じてもらえない。
 もう一回、日本再建を目指すにはこの時期だと思い、野党にかじを切った。

※ 中村喜四郎(なかむら・きしろう)
茨城県生まれ。日本大法学部卒。田中角栄元首相の秘書を経て1976年衆院選で初当選。1989年、旧科学技術庁長官で初入閣。1994年にゼネコンからのあっせん収賄容疑で東京地検に逮捕され、自民党を離党。2003年に有罪が確定、失職。2005年に返り咲き。当選14回。「最強の無所属」と呼ばれる。現在は立憲民主党などの野党新会派に所属。


[写真]中村喜四郎氏

東京新聞、2019年12月27日 12時09分
野党再編のカギ握る"最強の無所属" 中村喜四郎氏が今、取材に応じる理由
(聞き手・大野暢子、妹尾聡太)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/14759

 元自民党で無所属の中村喜四郎元建設相は2020年8月25日、立憲民主、国民民主両党が結成する新党に参加する意向を表明した。
 国会内で記者団に「野党で政治改革のために汗をかきたい。自浄能力をなくした今の自民党を復元するのは簡単でない」と述べた。
 新党への参加で「反自民」の姿勢を明確化することになる。

 これに先立ち立民の枝野幸男代表と会談し、参加の意向を伝えた。
「次の選挙で『保革(与野党)伯仲』を実現し、その次に政権を取れるよう基礎をしっかり築くべきだ」と助言したという。

 中村氏は衆院当選14回。
 新党では小沢一郎衆院議員に次ぐベテラン議員となる見通しだ。


東京新聞、2020年8月25日 18時43分
中村喜四郎氏が新党参加へ
元自民「政治改革進める」

(共同通信)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/51071

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社会を変革させるパンデミック

 歴史を振り返れば、私たちは、これまでにも幾度ものパンデミックを経験してきた。
 14世紀ヨーロッパで流行した黒死病(ペスト)や1918年から19年にかけて世界を席巻したスペイン風邪などである。 

 14世紀にヨーロッパで流行したペストは、最終的にヨーロッパ全土を覆った。
 流行は、居住地や宗教や生活様式に関係なくヨーロッパ社会を舐(な)め尽し、最終的に当時のヨーロッパは、人口の4分の1から3分の1を失う。
 当時のヨーロッパ社会がいかにこの病気を恐怖したか。
 ジョヴァンニ・ボッカッチョの『デカメロン(十日物語)』に詳しい。
 作品の背景には、ペストに喘(あえ)ぐ当時の社会状況が色濃く反映されている。

「一日千人以上も罹病しました。看病してくれる人もなく、何ら手当てを加えることもないので、皆果敢なく死んで行きました」
(「デカメロン−十日物語」野上素一訳、岩波文庫)

 ドイツ・バイエルン州にオーバーアマガウというアルプスに囲まれた小さな村がある。
 10年に一度、村人総出で世界最大規模の「キリスト受難劇」を上演する。
 それは、16世紀のペスト流行時の猛威に、神の救いを求めた代わりに、キリストの受難と死と復活の劇を10年に一度上演すると誓ったことに始まり、今に至るまで、400年近く続く。
 それほど、ペストの恐怖は、ヨーロッパ人の記憶に深く刻まれている。
 そのペストは、ヨーロッパ社会に大きな影響を与えた。

 ペストがヨーロッパ社会に与えた影響は、少なくとも三つあった。
 第一に、労働力の急激な減少とそれに伴う賃金の上昇。
 農民は流動的になり、農奴に依存した荘園制の崩壊が加速した。
 第二は、教会の権威の失墜。
 ペストの脅威(きょうい)を防ぐことのできなかった教会はその権威を失った。
 第三は、人材の払底。
 それはそれまで登用されることのなかった人材の登用をもたらした。
 結果として、封建的身分制度は実質的に解体へと向かった。
 同時にそれは、新しい価値観の創造へと繋(つな)がった。

 半世紀にわたるペスト流行の後、ヨーロッパは、ある意味で静謐(せいひつ)で平和な時間を迎えたという。
 それが内面的な思索を深めさせたという歴史家もいる。
 そうしたなかで、ヨーロッパはイタリアを中心にルネサンスを迎え、文化的復興を遂げる。
 ペスト以前と以降を比較すれば、ヨーロッパ社会は、まったく異なった社会へと変貌し、変貌した社会は、強力な主権国家を形成する。
 中世は終焉(しゅうえん)を迎え、近代を迎える。
 これがペスト後のヨーロッパ世界であった。

 新型コロナウイルス感染症のパンデミックが今後どのような軌跡をとることになるのか、現時点で、正確に予測することはできない。
 ただパンデミックが遷延すれば、私たちは、私たちが知る世界とは異なる世界の出現を目撃することになるかもしれない。

 それがどのような世界かは、もちろん誰にもわからない。
 しかしそれは14世紀ヨーロッパのペストのように、旧秩序(アンシャンレジーム)に変革を迫るものになる可能性さえ否定できない。
 そうした変化は、流行が終息した後でさえ続く。

 感染症は社会のあり方が流行の様相を規定し、流行した感染症は時に社会変革の先駆けとなる。
 そうした意味で、感染症のパンデミックは社会的なものとなる。

 歴史が示す一つの教訓かもしれない。

 ただ、希望はある。
 それは、私たち自身の心の持ちようによる。
 そう信じたい。

 ちなみに、検疫は、14世紀のペスト流行時にヴェネツィアで始まった海上隔離に起源を持つ。
 当初、隔離期間は30日であったが、その後40日に延長された。
 検疫(クアランティン)は、「40」を表すイタリア語が語源となった。

※ 山本太郎(やまもと・たろう)
長崎大熱帯医学研究所国際保健学分野・教授。専門は国際保健学、熱帯感染症学。1964年生まれ。著書に「新型インフルエンザ 世界がふるえる日」「感染症と文明 共生への道」など。


[写真]
1951年2月、天然痘が集団発生した福岡県岬村(現宗像市)で行われた消毒作業

西日本新聞、2020/3/16 16:32
社会を変革させるパンデミック
流行終息後でさえ続く変化
(「歴史が教えること」寄稿・山本太郎氏)

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/592363/

◆ コロナ対策首長の指導力

 新型コロナウイルス感染症大流行の今、都道府県知事ら首長の強いリーダーシップが求められている。
 明治期にコレラが大流行した際、国に先駆けてコレラ禍と闘った県令(現在の県知事)がいた。
 第4代福岡県令の渡辺清である。

 渡辺は大村藩出身で、戊辰戦争を官軍重職として歴戦し、「江戸城無血開城会談」に同席。
 維新後は奥羽復興に尽力した後、1874(明治7)年9月、福岡県令に就任した。

 コレラは明治期、最も恐れられた感染症であった。
 1877年9月、中国から横浜、長崎にもたらされて全国的に広まり、以後、大流行を繰り返した。
 大流行各年の感染者数と致死率は次の通りである。

・ 1877年=1万3816人(58%)
・ 1879年=16万2637人(65%)
・ 1882年=5万1631人(65%)
・ 1885年=1万3824人(67%)
・ 1886年=15万5923人(70%)
・ 1890年=4万6019人(77%)
・ 1895年=5万5144人(73%)

 1879年には福岡県でも夏から大流行が始まった。
 8月までに感染者は2937人を数えた。

 政府はこの夏、太政官布告「虎列刺(コレラ)病予防仮規則」を発布する。
 これにより各府県は予防撲滅に努めたが、福岡県はいち早く最初の流行年の77年に、10月3日付布令をもって、渡辺県令より次のように全県民へ通達していた。

 概略を示す。

▽ 家屋道路を清潔にし、特に食物の注意として魚市場や料理店などで汚穢物の隔離埋棄に努めること。
▽ 当分の間、登礼や説教、相撲、芝居など多人数の群集を一切禁止する。
▽ 石炭酸(クレゾール)をはじめとする薬品を、代価騰貴販売する者がいれば処分する。

 さらに伝染病院についてである。
 法制上、感染症患者を隔離するに至った措置は、1880年7月太政官布告第34号「伝染病予防規則」および、同年9月内務省乙第36号「伝染病予防心得」による。
 しかし、福岡県における伝染病院の設置は、渡辺県令が全県民通達を行って間もない1877年10月30日付で内務卿(大久保利通)と大蔵卿(大隈重信)宛てに提出した「避病院諸費御下金之儀ニ付伺」書に、端を発する(当時、伝染病院は避病院と称した)。

 これら国に率先する衛生行政を、渡辺県令はなぜ立案実行し得たのか。
 そこには同郷の畏友、長与専斎の存在があった。

 専斎は大坂適塾、長崎医学伝習所に学び、明治維新後に上京して岩倉具視遣米欧使節団に同行、米欧の医学教育・医制制度を視察した後、コレラが大流行する2年前、内務省の初代衛生局長に就任していた。
「衛生」をわが国で最初に提唱し「日本衛生の祖」と称される。
 渡辺の孫の健康診断は専斎が行ったほど、二人の絆は強かった。

 要は、コレラ大流行という眼前の危機に接し、直ちに人脈を駆使して医学、衛生学の専門知識を吸収し、中央政府の指示を待つことなく行動した決断力の証しと言えよう。

 ひるがえって今回の新型コロナウイルス禍を巡っても、都道府県知事それぞれの対策手腕に対し、さまざまな評価の声が上がっている。
 官選、民選の違いは承知の上で、首長らは渡辺県令の事績など歴史に学び、当面の感染抑止策はもちろん、中長期的には「人口分散」によるリスク低減を図るなど、連携しながらも果断な対処が求められよう。

※ 後藤 恵之輔(ごとう・けいのすけ)
長崎大名誉教授。1942年、福岡県志免町生まれ。長崎県大村市市史編さん委員などを歴任。著書に「暮らしと地球環境学」「新長崎ことはじめ」など。福岡市南区在住。


西日本新聞・社説、2020/5/11 11:22
「明治の福岡県令に学べ」
寄稿・後藤恵之輔氏

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/607088/

 1400年以上の歴史を誇る鳥海山大物忌神社(山形県遊佐町)でこのほど、140年前に国内で流行していたコレラ終息を願って作られた印が見つかった。
 新型コロナウイルスが世界的に猛威を振るう中、神社は印を押したお守りを発案。
 高橋広晃宮司(65)は「早期終息を祈る」と話している。

 倉庫を整理していた5月下旬に見つかり「偶然、新型コロナ流行と重なり驚いた」(高橋宮司)。
 印は木製で長さ5・5センチ。漢字で「鳥海山疫病除御守」と彫られている。
 1880年6月27日の神社の日誌に記録が残っており、当時の宮司が作ったとみられる。

 お守りの初穂料は500円。
 郵送でも受け付ける。


西日本新聞、2020/7/3 8:52
コレラ流行時の印でお守り、山形
(共同通信)
https://www.nishinippon.co.jp/item/o/622634/

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フランスからジャック・アタリ

世界で甚大な被害を引き起こしている新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)は、社会生活を大きく制限した。
以前から新たなウイルスの大流行に警鐘を鳴らしてきたフランスの経済学者で思想家のジャック・アタリ氏(76)は社会の準備不足を懸念、命を重視した経済システムへの転換を訴える。

◆ 保健分野への準備不十分


 2016年の著作で、新しいタイプのインフルエンザが明日にでも流行する兆しがあると指摘した。
 世界は気候変動の危機に加え、疾病大流行のリスクがあるが、準備してきたとは言い難い。
 とりわけ欧州は、米国に比べても保健分野への投資が不十分だった。
 今後も温暖化によって蚊が大量発生すれば、新型ウイルスが大流行しかねない。

 今回の新型コロナでは、中国当局による感染者数の公表に疑問も残るが、世界が大損害をこうむったのは間違いない。
 一方、韓国は2015年に流行した中東呼吸器症候群(MERS)を教訓に疾病管理本部を強化し、流行後の管理態勢を整備した。
 今回の対策の成功例といえる。

 感染実態を把握する検査とマスク着用を徹底し、感染者が出た際には行動確認をする。
 ロックダウン(都市封鎖)ではなく、韓国式対策をしていれば、各国は経済的、人的にも被害を抑制できただろう。
 これまでは自動車や航空、化学などの産業が重視されてきたが、見直す時が来た。
 医療衛生や教育、研究、食糧…。
 今後は命に関わる分野を重視した「命の経済」を目指す必要がある。

◆ 欧州、経済・医療で強い連帯

 パンデミック後の世界秩序をめぐり、感染の広がった欧州で中国が存在感を高めたといわれる。
 だが、それは誤りだ。確かに各国に医療支援はしたが、マスクなど象徴的な物資を少々送った程度で、政治的な打算が働いたやり方だ。

 欧州には非常に強い連帯があった。
 欧州中央銀行(ECB)は量的金融緩和政策を拡大し、各国経済を支援。
 フランスの患者をスイスやドイツが受け入れるなど、各国は医療でも相互に協力した。
 7500億ユーロ(約92兆円)規模の復興基金も動き始めている。
 自然なやり方で助け合っており、中国の影響力が強まったとはいえない。

 国際社会の中で、中国は米国の代わりにはなり得ず、将来の超大国でもない。
 国の指導者に対する表現の自由がない国は真の超大国ではないし、恐怖政治で国は良くならない。
 崩壊したソビエト連邦は軍事大国以上でも以下でもなかった。

◆ 超大国は存在しなくなる

 中国は独裁国家であり、世界に示せるモデルも持っていない。
 自国民を養うという強迫観念にとらわれて食糧の入手先を血眼になって探している。
 太平洋の支配をもくろむが、ベトナム、カザフスタン、ロシアなど周辺国は中国に対して疑心暗鬼だ。
 地域ですら覇権を握れていないのだ。

 とはいえ、今後は米中の二大国が併存する世界になる。
 日本や欧州、世界的な大企業は一大勢力かもしれないが、超大国は存在しなくなる。
 あえて巨大な勢力があるとすれば、自然だ。
 人類を圧倒するほどの力を持っているのだから。

 米中対立が深刻化する中、これからは13世紀以降初めてリーダーがいない世界になる。
 世界秩序はなくなり、ますます分裂していく恐れがある。

◆ 利己的な利他主義が鍵

 私が今後の世界で鍵となると考えるのが「利他主義」だ。
 他人のために尽くすことが、めぐりめぐって結局は自らの利益になる。

 例えばマスクを考えてみよう。
 他人を感染から守るために着けるが、同様に他人も着ければ自分の身を守ることにつながる。
「利己的な利他主義」の好例だ。
 自らに利益がなければ、人は利他的になりにくい。
 外出制限は利他主義の対極にある。
 自己の中に閉じこもるだけの愚策であり、経済危機も引き起こした。

 パンデミック後の世界は他者としての将来世代の利益を考慮しなければならない。
 何が将来世代にとって重要なのか。
 政治家らも考える時だ。

 人類の安全保障や将来のため、生活のあり方や思考法を変えて「命の経済」に向かわなければならない。
 新型ウイルスに限らず、気候変動による危機なども叫ばれる中、国際社会には総力を挙げた取り組みが求められている。

※ ジャック・アタリ
1943年、アルジェリアの首都アルジェ生まれ。思想家、経済学者、文筆家。フランスのミッテラン元大統領の経済顧問を務めた後、欧州復興開発銀行の初代総裁、経済成長に関する仏政府委員会委員長などを歴任した。マクロン大統領は委員会の元報道官。9月に近著「レコノミー・ド・ラ・ビー(命の経済)」の邦訳を出版予定。


[写真]
パリ郊外の自宅で新型コロナ流行後の世界を語るジャック・アタリ氏

東京新聞、2020年7月26日 06時00分
仏経済学者ジャック・アタリ氏
「命の経済」に転換へ国際社会は総力を

(聞き手=パリ支局・竹田佳彦)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/44841

Qu’ont de commun Caton l’ancien, Voltaire, et Pierre Mendes France ? Tous les trois, comme beaucoup d’autres hommes politiques, ou intellectuels du monde entier, ont compris que, pour qu’une idée fasse son chemin, il fallait la répéter à l’infini. Caton martelait qu’il fallait détruire Cartage ; Voltaire signait toutes ses lettres de sa haine de l’obscurantisme ; et Pierre Mendes France a clamé toute sa vie son obsession de la vérité.

Et là, ce qu’il faut répéter, sans limite, c’est la nécessité de concentrer tous les efforts de relance sur certains secteurs, que, depuis plus d’un mois, je nomme ≪ l’économie de la vie ≫.

Elle regroupe tous les secteurs qui, d’une façon ou d’une autre, de près ou de loin, se donnent pour mission, la défense de la vie, et dont on constate tous les jours, très pragmatiquement, l’importance vitale : la santé, la prévention, l’hygiène, la gestion des déchets, la distribution d’eau, le sport, l’alimentation, l’agriculture, la protection des territoires, la distribution, le commerce, l’éducation, la recherche, l’innovation, l’énergie propre, le numérique, le logement, les transports de marchandises, les transports publics, les infrastructures urbaines, l’information, la culture, le fonctionnement de la démocratie, la sécurité, l’assurance, l’épargne et le crédit .

Ces secteurs sont évidemment liés les uns aux autres : la santé utilise l’hygiène et le numérique, qui est aussi utile à l’éducation ; et rien ne se fera, dans aucun de ces domaines sans la recherche, dont dépend la découverte du vaccin et du médicament, nécessaires à la maîtrise de cette pandémie. Cette économie regroupe donc toutes les activités permettant à la fois de vivre pendant la pandémie et de sortir des crises (économique, financière, sociale et écologique) qu’elle nourrit.

Ces secteurs, ne regroupent pas que des activités distanciées ; il faut donc les aménager en conséquence, en apportant tous les moyens de protection à ceux qui y travaillent.

Aujourd’hui, ces secteurs représentent, selon les pays, entre 40 et 70% du PIB ; et entre 40% et 70% de l’emploi. Ce sont ces ratios qu’il faut changer : il faut passer à 80%. Les ménages doivent dépenser une part plus importante de leur budget pour se soigner, se nourrir, apprendre ; les employeurs doivent augmenter la rémunération et le statut social de ceux qui y travaillent ; l’Etat doit soutenir les entreprises, grandes ou petites, qui travaillent dans ces secteurs.

C’est aussi vers cette économie de la vie qu’il faut réorienter les entreprises des autres secteurs, qui, aujourd’hui, attendent, en vain à mon sens, le retour de leurs marchés antérieurs : les entreprises automobiles, aéronautiques, celles du textile, de la mode, de la chimie, de la machine-outil, de l’énergie carbonée, du luxe, du tourisme, du spectacle vivant, de l’armement ne reverront pas leurs marchés antérieurs : même si on trouvait maintenant un vaccin et un médicament, il faudra deux ans au moins pour que tout retrouve un équilibre ; d’ici là, bien de ces entreprises mourront. Il ne serait donc pas acceptable de financer, sans limite de temps, des entreprises sans avenir.

Ces entreprises ne sont pourtant pas condamnées : si leurs dirigeants, et les dirigeants politiques et syndicaux, se mobilisent pour trouver des façons de rendre tout autrement le même service, et pour en rendre d’autres, dans les secteurs de l’économie de la vie. Toutes ont des compétences dont elles peuvent réorganiser l’usage. Le secteur du tourisme en donne déjà l’exemple.

Si, jusque très récemment, les secteurs de l’économie de la vie étaient faits principalement de services, et donc ne portaient pas de potentialité de croissance, (qui ne vient qu’avec l’augmentation de la productivité découlant de l’industrialisation d’un service), ces secteurs sont faits, aussi, de plus en plus, d’industries, capables d’augmenter leur productivité, et donc d’améliorer sans cesse leur capacité à remplir leur mission.

C’est en mettant tous les moyens dans l’économie de la vie qu’on évitera la pire récession de tous les temps et qu’on sortira le monde du cauchemar dans lequel il s’enfonce.

Cette idée commence à faire son chemin, dans quelques entreprises, et dans quelques pays. Quelques pays commencent à s’y risquer ; quelques entreprises commencent à comprendre que leur survie passait par leur reconversion dans l’un de ces secteurs.

Mais rien encore de massif, de systématique ; aucun pays n’a encore déclaré qu’il allait se focaliser sur ces secteurs, en leur donnant la priorité dans les crédits, les marchés publics, le financement de l’innovation. Et pourtant, tout passe par là : Il est plus que temps de passer de l’économie de la survie à l’économie de vie.


Jacques Attali, 17 avril 2020
De l’économie de la survie à l’économie de la vie.
http://www.attali.com/societe/de-leconomie-de-la-survie-a-leconomie-de-la-vie/

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2020年08月25日

広尾の鼠(ねずみ)塚

「東京都立広尾病院は、1889(明治28)年8月6日にコレラの流行にともない、伝染病院として開院した病院で、非常に歴史の古い病院です」
……ヤッホーくんのこのブログ、2020年07月02日付け日記「パンデミックとの闘い」の一節です。
 今日もヤッホーくん、広尾病院通い!
 で帰りに不図、そういえばこの近くに『祥雲寺』というお寺さんがあって、誰かがなんとかと蘊蓄(うんちく)を傾けておられた方がいましたね、とか思いながら、商店街の方に道を聞き聞き、立ち寄ったのでございます。
 どうして『祥雲寺』?もう、ホワイトアウトで分かりません、これって、馬齢を重ねてきた結果?命の危険がある暑さのせい?それとも病院通いをせねばならないほどの重篤な病のせい?
 ヤッホーくん、お寺さまに入り聞いておりました。
「ぼく、どうしてこのお寺さまにお参りしないといけないな、と思ったのでしょうか?すっかり忘れてしまいまして、お助けください」
「そうですか、でもそうお尋ねになられてもあなた様の記憶のなかにまでは入り込んでいけませんので、これでも読んでみてください」

 祥雲寺は臨済宗のお寺です。
 江戸時代を通じて臨済宗大徳寺派の触頭で、かつ「独札」(登城し将軍に単独謁見でき、乗輿も許される)の格式を誇っていたそうです。
 祥雲寺は、福岡藩2代藩主の黒田忠之が、父の黒田長政の冥福を祈るために創建しました。
 黒田長政は大徳寺の龍岳宗劉和尚を崇敬していたため、龍岳を招いて開山として、赤坂溜池の屋敷に建立し、長政の法名・興雲をとって龍谷山興雲寺といったのがはじまりです。
 1629(寛永6)年、市兵衛町いまの麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺といいましたが、1631(寛永8)年、火災に遭い現在地に移りました。

 こうした創建の経緯から、祥雲寺は黒田家の菩提寺となっていて、黒田長政のお墓は渋谷区の史跡に指定されています。
 
 祥雲寺には、黒田家の他にも久留米藩有馬家など、多くの大名家の墓地がありますが、もっとも有名なのが黒田長政のお墓です。
 黒田長政は、安土桃山から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、秀吉の参謀であった黒田官兵衛(来年2014年の大河ドラマの主人公)の子供で秀吉子飼いの武将でした。
 しかし、石田三成とは仲が悪いため、関ヶ原の戦いでは、東軍に属して戦い、戦功をあげました。
 そのため、戦後、福岡藩52万3千石を与えられて福岡藩の初代藩主となりました。
 1623(元和9)年、京都知恩寺で、56歳で死去しました。
 長政のお墓は、黒田家の墓所のなかにあり、屋根で覆われています。
 墓は大変大きく5メートルもあると書いてあるものもあります。
 墓碑名には、金粉が塗られています。


気ままに江戸♪散歩・味・読書の記録、2013-05-01 14:40
広尾散歩
黒田長政の墓(祥雲寺)
https://wheatbaku.exblog.jp/19967269/

軍師官兵衛 メイン・テーマ
https://www.youtube.com/watch?v=8Kg30GksVao

2014年の大河ドラマは「軍師官兵衛」。岡田准一が官兵衛に!
https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/134013.html

 いえ、いえ、黒田官兵衛でなく、黒田長政でなく、「ねずみ塚」だったのかな……

 大使館や、流行のショップやレストラン、高級スーパーなどが並ぶ「広尾」。
 おしゃれな街の代名詞ともいえるこの街と「ねずみ」はどんな関係があるのでしょう。

 東京メトロ日比谷線「広尾駅」の近くにあるお寺、祥雲寺(しょううんじ)。
 ここの墓地には、関ヶ原の戦いで武功を挙げた黒田長政のほか、数多くの大名家の墓碑が並んでいます。
 第二次大戦の空襲からも免れているため、往時の大名家の墓所を偲ぶことができます。
 この祥雲寺の奥へと進み、墓所に入ってすぐ右側にある大きな碑が『鼠塚』です。

 1900(明治33)年に東京でペストが流行した際、感染源としてねずみが大量に駆除されました。
 この碑は、そのねずみ達を慰霊するもので、1902(明治35)年に建造されました。

 碑の裏側には
数知れぬ 鼠もさぞや
うかぶらむ この石塚の
重き恵みに

という歌が彫られています。

犠牲となったねずみ達のおかげか、1926(大正15) 年を最後に日本では今日までペストの発生は全くありません。

※ 祥雲寺【住所】渋谷区広尾5−1−21【交通】東京メトロ日比谷線「広尾」駅 2番出口から徒歩5分


東京さんぽ
広尾の鼠(ねずみ)塚
https://www.jk-tokyo.tv/zatsugaku/245/

 ペストが日本に“来日”したのは20世紀になる直前だった。
 カミュの小説と同じく大量の鼠が死んでいるのが発見された。
 なお、当時、ペストを運んできた患者は、香港から横浜港に入港した中国人だった。

 その後、日本政府は厳格な水際対策を港で実施する。
 しかし、日本での感染拡大を防ぐことはできなかった。
 多くの医療関係者が喪われた。
 1900年は奇しくもネズミ年にあたり、そのときに行政は鼠を買う作戦に出た。
 市民が鼠を買って感染源を防ごうとしたのだ。

 このペストも、絶対的な解決策はないまま、数年後にピークを迎え、そして収束・終息していく。
 本書には未知なる病と繰り返し闘わざるを得なかった人類の歴史が書かれるとともに、変わらない人間性や、人間の哀しみも感じさせてくれる。
 現代、とくに新型コロナウィルスの流行するいま、本書を読む意味は大きい。
 ところで、最後に私的なことを書いておきたい。

 東京の地下鉄・広尾駅から10分ほど歩いたところに祥雲寺がある。
 ここでは、先に書いたペスト流行時に買い上げた鼠(ねずみ)を供養する、「鼠塚」がある。

 この写真を撮ったころは、2020年4月の上旬で、日本全体でふたたび新型コロナウィルスへの感染防止のため緊張感が高まっていたタイミングだった。

 取材を受ける仕事がなくなった平日の昼、がらんとする祥雲寺に行ってみた。
 まわりにはかすかに、草刈りの音が聞こえるだけだった。

 私は息子と、長い散歩に来ていて、「日本中、世界中が大変なことになっちゃったね」とつぶやいた。
 鼠塚を見に来た人など誰もいない。
 たぶん、周囲の住民も、これが何を意味するか知らないかもしれない。

 鼠塚を見ると、ふいに胸を衝かれた。
 その衝動がいったいなんだったのかはわからない。
 ただ、鼠塚の前には地蔵が立っていて、何かの哀しみを封印したような顔をしていた。
 過去の人たちの苦悩や葛藤、そして、未知なるものとの格闘する努力。現代の人たちは忘れようとも、たしかにそれらはあったのだ、と。

 すると静かに動けなくなった私を見て、息子が小さく「帰ろう」と言った。

 私たちは過去から何を学べるだろうか。


[写真‐1]
祥雲寺にある鼠塚

[写真‐2]
鼠塚の前に立つ地蔵

東洋経済 On Line、2020/04/16 15:00
日本は過去「海外発の感染症」にどう対応したか
人類は未知なる病と繰り返し戦い続けてきた

(坂口 孝則、調達・購買業務コンサルタント、講演家)
https://toyokeizai.net/articles/-/344119?page=3

 
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間宮林蔵の“二つの顔”

 樺太探検で知られる間宮林蔵(1775−1844)は、晩年を深川で過ごした。
 没時の住所は、深川蛤町(現=江東区門前仲町)と深川冬木町(現=同区冬木)の二通りが伝えられ、本所外手町(現=墨田区本所)とする説もある。
 かつては蛤町にあった本立院(ほんりゅういん)が林蔵の菩提寺(ぼだいじ)であることから、江東区の史蹟(しせき)紹介ではこの説を採っているが、冬木町説は晩年の1841(天保12)年に水戸藩の使者が訪問したという記録によると思われる。

 墓は、菩提寺である本立院(同区平野一丁目)から数区画離れた住宅街の一画(同区平野二丁目)に建つ。
 墓石の碑文によると生前に本人が建てたものだという。
 現在あるものは第二次大戦後、四代目の間宮馨さんらにより1946年に再建された。
 また、本立院境内には1955年に間宮林蔵顕彰会が設立した記念碑があり、「間宮林蔵先生之塋域」の筆は前年に総理大臣になった鳩山一郎によるものだ。

 富岡八幡宮(同区富岡)に像のある伊能忠敬とのかかわりも深く、20代のころに函館で出会い、後年深川黒江町(現=門前仲町)の忠敬宅に通って測量術を学んでいる。
 忠敬の測量図のうち蝦夷地(北海道)の北、西部分の多くは林蔵による。
 また、高齢の忠敬が亀島八丁堀(現=中央区日本橋茅場町付近)に引っ越す際に黒江町の家屋売却に協力し、買い手探しをしたという記録もある。

 林蔵の墓は二つあり、両方とも生前に建てたとされている。
 もう一つの墓は、出身地・茨城県の上平柳(現=つくばみらい市)の専称寺にあり、墓石に本人の法名(後年付けられた)も没年月日も記されていなかったことが、生前墓の根拠となっている。
 建てた時期については諸説あるが、ロシア人からの襲撃などの恐れもある未踏の地(樺太=サハリン)に赴く際、決死の覚悟でふるさとに墓を造っておいたと理解されている。

 後年の林蔵と水戸藩とのつながりは深く、大津浜の異国船襲来事件の調査に隠密としてかかわったり、蝦夷地経略に意欲的だった第九代藩主徳川斉昭(烈公)の家臣に北方事情を語ったりしている。
 江東区の墓の墓標を烈公が撰(せん)したことから関係の親密さが語られることも多い。

※ 本立院: 江東区平野1の14の7
※ 本立院墓地: 江東区平野2の7の8


東都よみうり、2月 8, 2008
ゆかりの人物ゆかりの地
間宮林蔵

http://t-yomiuri.co.jp/江東%EF%BC%94区ゆかりの人物24%E3%80%80間宮林蔵/

 江戸時代の測量家、伊能忠敬が作成した日本地図で、北海道は全域が探検家、間宮林蔵の測量に基づくとする分析を伊能忠敬研究会が2014年8月18日、発表した。
 北海道は北岸部分が間宮、南岸は伊能の測量によるとされていたが、定説を覆す可能性が出てきた。

 研究会は、伊能が1800年に北海道南岸を測量してつくった地図のデータと、約20年後に完成した全国地図の画像を比べた。
 2つの地図を重ね合わせると、南部の海岸線は最大数キロ程度ずれていたことが分かり、「同じ測量データを使ったとは考えにくい」(研究会)として間宮の寄与が浮かび上がった。

 間宮は、伊能が北海道南岸を測量した際に弟子入りし、樺太探検を終えてから江戸の伊能宅を頻繁に訪れるなど親しい関係が続いていた。
 このため研究会は、伊能が調査した南岸を、再測量できる立場にあったのは間宮以外いなかったとみる。

 研究会の渡辺一郎名誉代表は「伊能は最初に測量した北海道の結果には自信がなかったと日記に書いている。間宮の能力を評価して再測量を依頼したのではないか」と話している。

 伊能の地図は火災で多くが失われたが、2001年に米国で最終版の写しが見つかった。
 研究会は発見資料と、日本の国立公文書館が所蔵する地図の電子データを比較し、分析した。


日本経済新聞、2014/8/18付
伊能忠敬の地図
間宮林蔵が北海道全域測量か

〔共同〕
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG1803L_Y4A810C1CR8000/

 間宮林蔵といえば、江戸時代の探検家で、「間宮海峡」を発見した人物として有名です。
 ですが、彼が幕府の隠密、つまりスパイだったことはあまり知られていません。

 林蔵は常陸国(現・茨城県)筑波郡上平柳村の出身で、幼少から学問の才能を発揮しました。
 10代で江戸に出て地理学者の村上島之丞に弟子入り、蝦夷への随伴を許されます。
 その後、伊能忠敬の弟子となり、1808(文化5)年、忠敬の推挙を受けて、幕府天文方の高橋景保のスタッフとなり、樺太調査班の一員に加えられました。

 これがきっかけで、その後、林蔵は単身で北樺太を探検し、樺太が島であることを発見します。
 この快挙を、日本に来ていたドイツ人学者シーボルトがヨーロッパに紹介したことから、「間宮海峡」として広く認知されることになりました。

 しかし、彼にはもうひとつの顔がありました。

 例の隠密の顔です。
 林蔵は調査と称して日本各地を回り、各藩の不正を調べては幕府に報告しました。
 そのひとつが、石見国(現・島根県西部)浜田藩の密貿易の摘発。
 当時、浜田藩は財政危機に苦しんでおり、家老の岡田頼母は、倹約を励行し、殖産興業に取り組んでいました。
 しかし状況を打開できず、頼母はついに密貿易という禁じ手を使ってしまったのです。

 彼は廻船問屋で、藩の御用船を務めていた会津屋八右衛門を使い、当時は渡航禁止海域であった竹島(江戸期の呼称で現在の鬱陵島にあたる)をひそかに基地とし、現地の木材・海産物などを藩に持ち帰り、さらには同島を拠点として南洋の珍品を輸入しました。
 この密貿易がもたらす利益のおかげで、藩の財政はたちまち好転しました。

 が、密貿易の噂はまもなく江戸に達し、幕府は探検家として名声を得ていた林蔵を、浜田藩に派遣。
 林蔵は密貿易の動かぬ証拠をつかんで、幕府に報告しました。
 1836(天保7)年のことです。

 その結果、頼母には江戸出頭の幕命が――。
 もはやいかなる弁解もかなわじ、と頼母は浜田の自宅で自刃して果てました。

 会津屋とその協力者の藩勘定方橋本三兵衛は、死罪となっています。

 また、林蔵のスパイ活動で最も有名なのが、「シーボルト事件」です。

 1828(文政11)年、シーボルトが忠敬の「大日本沿海輿地全図」を、国外に持ち出そうとしたことが発覚。
 林蔵の上司だった景保が、洋書を借りたお礼として地図を貸したことが事件の発端でした。
 シーボルトは幕府の咎めを受けて、国外追放。
 景保は捕らえられ、獄死に追い込まれました。
 シーボルトが景保を通じて林蔵に渡した荷物を、林蔵は開封もせずに奉行所に届け、これによって2人の密接な関係が発覚したのです。

 林蔵の密告によって、景保が命を奪われたのは紛れもない事実でした。
 そのため林蔵は、蘭学者たちから「公儀の犬」と呼ばれ、蔑まれます。

 密告屋として功績を上げながら、幕府の林蔵への評価は低いものでした。
 一度、役料の加増を受けたものの、彼の生涯は報われず、江戸蛤町で寂しい晩年をおくりました。
 1844(天保15)年に死去。
 享年70でした。

■ もう一人のスパイ 松尾芭蕉

 江戸時代の人物で間宮林蔵とは別にもう一人、スパイとみなされている人物がいる。
 俳人の松尾芭蕉だ。

「実は芭蕉は忍者だった」といわれる理由のひとつが、彼が伊賀上野(現・三重県伊賀市)の出身だったこと。
 この地は伊賀忍者の里として有名だ。
 芭蕉は伊賀に生まれ育ち、探索技術を身につけたのではないかというのである。

 芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出たのは1689(元禄2)年。
 150日かけて2300キロ余りを走破した。
 一日に数十里を歩くこともあった。
 当時46歳の芭蕉がこの強行軍を達成できたのは忍者の修行で足腰を鍛えたからだという。

 芭蕉の弟子の河合曽良は本名が岩波庄右衛門という信州上諏訪出身の武士だった。
 彼は元禄7年に芭蕉が死亡したあとしばらく消息が途絶え、1709(宝永6)年に幕府の巡見使として表舞台に出てきた。
 巡見使とはおおっぴらな隠密のこと。
 曽良こと岩波庄右衛門は幕府から多大な支度金をもらい、総勢200人を引き連れて小倉藩などを視察した。
 このことも「芭蕉=忍者」説の材料になっている。


日刊ゲンダイ、2018/12/26 06:00
有名な探検家と非情なスパイ…
間宮林蔵は“二つの顔”を持つ

(加来耕三、歴史家・作家)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/244414/

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2020年08月24日

豊原(現在のユジノサハリンスク)訪問記

[見聞録、ユジノサハリンスク訪問記]

 サハリンというとどんなイメージをお持ちでしょうか。

 文豪チェーホフ(Anton Pavlovich Chekhov、1860 - 1904)は1890年にサハリンを訪れ、『サハリン島』(翻訳:原卓也、中央公論新社、2009年7月)を著しました。
 当時は流刑地だったサハリンで囚人を含む住民たちと交流した記録(調査カードを用いた非常に体系的なもので1万点にも及ぶ)は今でも貴重な資料とされていますが、その結果、チェーホフはこの島を「堪え難い苦しみの土地」であると書き残しています。

 ちなみに今年2019年、ロシアでは全国の主要空港に歴史上の人物の名が冠されましたが、ユジノサハリンスク空港はチェーホフのサハリン旅行を記念して「アントン・チェーホフ空港」と命名されました。

 1945年には当時の大日本帝国領であった南樺太にソ連軍が侵攻し、多くの日本人が島を追われました。
 私の中学校2-3年の担任も当時の豊原(現在のユジノサハリンスク)に住んでおり、3歳で島を脱出しています。

 そして1991年、ソ連が崩壊すると、サハリンは北方領土と同様、非常な苦境に置かれます。
 革命後のソ連政府は辺境地域の開拓を進めるために手厚い補助金を出して住民を誘致したわけですが、そうした手当が突然途絶したためです。

 1990年代にサハリンに駐在していた方から話を聞くと、インフラはめちゃくちゃ、行政機関はまともに機能せず、マフィアが跋扈し…と非常に大変な状況であったようです。
 私が知っているサハリン出身のロシア人女性も最初の夫がマフィアに殺されてサハリンに居られなくなり、日本に移り住んだと聴きます。

 こういうわけでどうも薄暗いイメージがまとわりつくサハリンなのですが、行ってみると全く拍子抜けでした。
 たしかに低い雲が常にたれ込める気候(もっとも私はピカピカの晴天というのがどうにも落ち着かず、こういう気候が性に合います)ではあるものの、街はこじんまりとして穏やかな様子で、やたらと巨大なロシアの大都会に比べて日本人にはなんだか馴染みがある雰囲気。基本的な街区は大日本帝国時代のままなので、「日本人スケール」でできた街と言えるでしょう。

 現地でアテンドしてくれた総領事館の職員も、「なんだか札幌みたいですよね」とおっしゃっていました。
 たしかにそんな感じがします。

 こういうこじんまりした街なので、軍隊との距離も非常に近いようでした。
 サハリンには東部軍管区第68軍団が置かれていますが、その司令部は街の中心部にある旧樺太庁舎跡に置かれており、市内観光をしていると普通に目に入る場所にあります。
 その少し離れた場所には通信部隊の基地もあり、アンテナがニョキニョキ立っているのがやはり通りから見えています。
 こういう距離感の街というのはロシアでも初めて見ました。

 この他にも旧樺太守備隊司令官の官舎が軍事裁判所に転用されており、これも前まで行って見物することができます。

 さらに目に付くのが、新しい建物の建設が活発に行われており、街区が広がっていることです。
 サハリン州全体の人口は1991年の71万3981人をピークに徐々に減少し、2019年には49万人を割り込んでいますが、州都ユジノサハリンスクの人口はむしろ増加傾向にあり、1991年の16万4000人に対して2019年には20万人を超えています。

 街中では歩道のアスファルトをペーブメントに敷き変えたり、公園を整備したりと景観にも気を使う余裕が出てきているのが印象的でした。
 それもそのはずで、2008年には308億ルーブルに過ぎなかった州内総生産は2018年には782億ルーブルと1.5倍にもなっており、経済は非常に好調なようです。

 この活況をもたらしているのがサハリン沖合で採掘される石油・天然ガスであることは言うまでもありません。
 この10年間でユジノサハリンスクが様変わりしたのだという話はいく先々で耳にしました。
 街の中でも、エネルギー企業の建物は群を抜いて立派なものが多く、目立ちます。

 また、今回の訪問ではギドロストロイの本社も目にしました。
 北方領土の択捉島や色丹島で操業する水産企業であり、社長のヴェルホフスキー氏はロシア版フォーブスでトップ10に入る符号として知られています。
 果たして本社も新築の非常に立派な建物で、スポーツ施設も併設するなど、サハリンで随一の大企業振りでした。

 サハリンで印象的だったもう一つの点は、アジア色が非常に強いということでしょう。

 特に目立つのは韓国系住民です。
 拙著『帝国ロシアの地政学、「勢力圏」で読むユーラシア戦略』(東京堂出版、2019年6月)でも紹介したように、ロシアには朝鮮族の人びとがかなり住んでいますが、ここで「韓国系」と書いて区別したのは理由があります。
 というのも、彼らはロシア帝国以来の住民ではなく、大日本帝国の国民としてサハリンに移り住んだ人びとであるからです。

 1945年の大日本帝国崩壊により、日本人がサハリンを追われることになったという事情はすでに紹介しました。しかし、朝鮮半島出身者は突如として日本人ではなくなったために、日本に引き揚げることもできなくなってしまいます。

 この結果、多くの朝鮮半島出身者がソ連国民として暮らしていくことを余儀なくされたわけで、サハリン州の人口約49万人中、2万6000人ほどをこうした朝鮮半島出身者が占めるという現状につながりました。

 何しろ空港を降りてタクシーに乗ると運転手は韓国人、ホテルにチェックインするとフロントも韓国人ですから、一体どこの国に来たのがちょっと戸惑うほど。
 また、サハリンでは韓国語の新聞『セウォル新聞』も発行されていると聞いて早速入手してみたところ、(当たり前ですが)最初から最後までハングルで書かれていました(本当に当たり前ですが、やはりこれをロシアの地で手にするとなかなか面食らいます)。

 さらに翌日はまず韓国系住民出身の元州議会議員に韓国総領事と面談したので、ほとんど韓国人とばかり会っていた出張でした。
 ちなみに前者の話によると、サハリンでやたらと韓国系住民の姿が目立つのは、やはりアジア系には商才がある、という点も影響しているようです。
 実際、人口比率ではロシア系住民の方が圧倒的であるにも関わらず、ホテル、レストラン、商店などでは韓国系住民の姿が非常に目立っていました。
 彼らはまた物腰も柔らかいので、つっけんどんなロシア人に慣れている身からするとちょっとしたカルチャーショックでもありました。

 韓国に次いで目立つアジア勢は、嬉しいことに日本です。

 サハリンのエネルギー事情の投資していること、北海道の新千歳空港からわずか1時間という近さであることなどから日本のプレゼンスは非常に大きく、サハリンでは韓国と並んで総領事館を置いている唯一の国でもあります。
 日本食レストランや日本製品を売る店も多いですし、日本語のできる人もちらほらといます。

 とはいえ住民登録をしている在留日本人はサハリン全体でわずか40人に過ぎず、年間の来訪者も1000人ほどとのこと。
 2017年から簡単な電子ビザが導入されたことでサハリンは非常に行きやすい場所になっていますので、是非訪れてみてもらいたいと思います。

[編集後記、内なるロシア]

 というほどのこともないんですが、サハリン行きの前から妻のお母さんがモスクワから来ておりまして、例によって家庭内がロシアになっています。
 食事なんかも作ってくれるのでありがたい限りなんですが、言語も食事もロシアとなるともうこの何十平米だかの中だけロシアになってしまうのですね。

 国家の境界が変わるというのはこういうことが遥かにマクロなスケールで発生するわけですから、歴史の教科書で「XX年、XXがXX領となった」というそっけない記述の背後には大変な社会的変動があったのだろうなぁなどと想像が膨らみます。
 サハリンでも同様だったでしょう。

 ちなみに今回面談に応じてくれた元州議会議員は、ソ連時代には結局国籍を取らずに通し、ソ連が崩壊してからロシア国民になったのだそうです。
 ソ連でそういうことが可能だったというのも驚きですが、そこには大国の間で翻弄された朝鮮半島の人びとの悲哀と気概が感じられました。

[発行者]
小泉悠(軍事アナリスト)

メールマガジン第60号、2019年11月11日
ユジノサハリンスク訪問記
(ユーリィ・イズムィコ)
https://note.com/cccp1917/n/n1eb593273dff

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2020年08月23日

「間宮海峡」の発見から210年が過ぎた

 司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』(1979年4月1日から1982年1月31日まで1014回に渡って、『産経新聞』に連載)にもわずかながら間宮林蔵が登場する。
 そこには、林蔵の人となりが描かれていて興味深い。
かれは、自分一個ですべて完結していた。
 のち、稀代の地理的探検家として後世に知られるこの男は、測量もでき、政治情勢、風俗、民情を見る眼力もあり、観察した事物を報告しうる文章力と画才をもっていた。
 どんな環境でも眠ることができたし、食べ物を自然の中から採集して飢えをしのぐこともできた。
 また、仲間がいなくてもすこしも淋しくなく、むしろ孤独であるほうが目的を達成するのに都合がいいと思っていたし、人間関係に気配りしたり、心をわずらわしたりする感覚に欠けていた。
 たしかに野心的な感じのする男であったが、しかし男をときに物狂いさせる立身欲が、どう屈折しているのか、それともないのか、印象として世間から孤立したがっているというふしぎな感じがあった。
司馬遼太郎「菜の花の沖(五)」より

 林蔵の樺太再検分は、司馬氏のいう林蔵の風俗と民情を見る眼力に拠るところが大きかった。
 それはとくに、1809(文化6)年の樺太再検分のときに大きく発揮された。
 彼のこの秀でた能力がなければ、栄光を手にすることはできなかっただろう。

 林蔵の独行にとって、樺太北部は魔境であった。
 和人(林蔵ら)に親和的なアイヌ人以外にニブフ人(ギリヤーク)、ウィルタ人(オロッコ)、山丹人という異なる民族が居住し、往来していた。
 アイヌと和人は意思疎通がとれるが、樺太北部に棲むニブフやウィルタはアイヌ語を介さないと難しい。
 とくにアイヌは山丹人の凶暴さを恐れていた。
 林蔵は幾人かのアイヌを同行している。
 また、海路は山丹舟という沿岸航海用の小舟で移動をする。
 林蔵は、アイヌたちに米や酒を分け与え、親切に優しく接して彼らの心をつかむのに巧みだった。

 まず、屈強なアイヌのラロニという男を得たことであった。
 樺太南部のトンナイで年を越して1月29日、林蔵はラロニたちと北に向かった。今度は凍結した海の上を歩いていく。
 4月9日、ノテトという地に着いた。ここは、前回の樺太調査のとき、松田伝十郎に追いついた地であった。最南端の白主からは500キロ以上も北、東京からだと岩手県くらいの距離になる。ここには60人ほどのニブフ人と二人のアイヌ人男女が住む集落があった。
 林蔵は前回調査でこの地のニブフの酋長・コーニの知遇を得ていたが、彼も林蔵の再検分にとって非常に大きな存在になった。
 林蔵はラロニやコーニなど異なる風俗文化を持つ者との相互理解や信頼作りがとても上手かった。孤高狷介とは対比した林蔵のもうひとつの異能であった。

 アイヌ人が通訳をしてくれて、林蔵は酋長のコーニが大陸にある清国領の役所からカーシンタ(郷長)という役人の資格を与えられていることを知った。
 林蔵はコーニから山丹人の作った舟を貸してもらうことができた。ノテトから先は波も荒く潮の流れも急な未知の領域になる。

 山丹舟でなければ航海は困難だ。

 進むと、海が少しづつ広がり、大陸側に大きな河口が見えた。大河・アムール河である。 
 ノテトから北100キロのユクタマーという地だ。

 林蔵の目的は、島の最北端をまわり東海岸へ出てそのまま南下して、南端基地シラヌシに戻り、樺太が島であることを完全証明することだ。

 最北端まで行こう。

 同行している酋長コーニがつけてくれた通訳を介して聞いてみると、この地の北は荒海しかない、という。
 確かにアムール河の河口を過ぎると、潮流は二分し、北にも流れていた。これは北側が半島で遮られているのではなく、広い海が開けていることを示している。舟は北流に乗っており林蔵にもそれが実感できた。

 その日の夕方、林蔵らはナニオーという最北端あたりに達した。
 この後しばらくは、吉村昭著『間宮林蔵』(1982年9月、のちに講談社文庫)の記述が追うことが最もふさわしい。

 このナニオーの北は、どのような地勢になっているか、という林蔵の問いに、ニブフは、荒海だ、と答えた。
 荒海?すると陸地はないのか?
 彼は甲高い声で言った。
「ない」
 決定的な一言だ。
 それはナニオーが樺太の最北端に位置していることを意味していた。
 林蔵は執着心が強い。
「この地の北方で、東韃靼大陸と地続きではあるまいな」と尋ねた。
 ニブフは、
「地続きになどなっていない、陸地の果てからは広い海だ」と、言った。
 林蔵は、北流する潮流、ニブフの証言から、樺太が島であると断定した。
 次の瞬間、林蔵は吟味役高橋三平に言った樺太一周を思った。
「島の北端を周って東海岸へ行きたい」とニブフに言うと彼は激しく首を振った。
「馬鹿なことを言うな、生きて帰れやしないと言っているようだった。
 これまでか、林蔵は失望した。

 しかし、林蔵は樺太一周が不可と知った直後、ある秘策を思った。
 よく考えてみれば、以前から考えていたことかも知れなかった。
 2年前、択捉島で敗走し箱館に着いたとき、敗走者の汚名をそそぐために、ロシアに潜入し、彼の地を徹底的に探索すると心に決めていたからだ。
 そう、ノテトの酋長コーニが教えてくれた東韃靼のことだ。
 樺太北部の村々の酋長らは、海を隔てた東韃靼大陸にある清国の出張所に貢ぎ物を持っていくという。
 そこに行けばロシアのことがわかるやも知れぬ。択捉島にも奴らは来た。樺太にも来襲した。ロシアの策源地がどこかにあるはずだ。
 林蔵はノテトに戻り、コーニに東韃靼行きのことを願い出た。
 しかし、海峡を渡ることは鎖国の国是を、破ることになる。
 国禁を犯すというこの林蔵の決断はいかなるものなのか。
 ロシアの来襲、海峡の発見、樺太北部の踏査など林蔵の功績に対して幕府のお咎めはないと見切ったのか。
 とはいえ、処断されない保証はどこにもない。悪夢を見た夜もあったろう。
 渡海の一件も生命の保証はなく、極めて危険だ。むしろ命を落とす確率の方が高い。

 要するに志のために死ねる男なのだろう。

 林蔵はそのことをコーニにも素直に言った。
「死を悔いぬ」と。

 6月26日、10メートルほどの山丹舟にコーニと林蔵を含めて8人が乗り込み、貢ぎ物や交易品を積んで、東韃靼を目指した。
 林蔵は持参した羅針で西を示した。14キロほど進むと、ようやく霧の中に陸影が現れた。
 林蔵らは、のちに自分の名のつくその海峡をついに渡ったのだ。

 近くの湾に舟を着け、しばらく陸行してアムール河に出る。そこから数十キロも河を遡って、ようやく清国の出張所・デレンに着いた。

 おびただしい数の仮小屋、奇異な構造物、人々の喧騒。荒涼とした大陸に突然の大集落。
 林蔵は清国役人の前に連行された。
「お前は本当に日本人か」
 林蔵が日本から来たと言い、漢字を書いて見せると役人たちは吃驚したという。
 清国以外の野蛮人が文字の読み書きができるとは信じられないのだろう。

 林蔵は清国役人に最も知りたいことを聞いた。
「ロシアとの国境はどこか」と尋ねると、
「国境などあるはずがない。我が国はロシアを追い払ったのだ」と答えた。

 清国はこの地に大軍を出して各種族を降伏させ、支配していたが、ロシアが進出して攻防を繰り返した。
 結局ロシアは敗退し、1689年に結ばれた条約でこの地方から完全に手を引いたという。
 清国がヨーロッパと初めて結んだ対等な条約、有名なネルチンスク条約だ。
 林蔵がデレンに来た120年前のことである。

 清国は海を隔てた樺太北部にも関心を示し、軍船を率いてニブフ、ウィルタ、アイヌらを従属させた。
 そして村落の酋長に役職を与えて清国への忠誠を誓わせたという。

 林蔵はデレンでの見聞を貪るように記録した。
 林蔵はデレン滞在中、凶暴な山丹人に取り囲まれて暴行され、死をも覚悟したが、危うい所をコーニたちに救われた。

 林蔵は多くの知見を得て、デレンを去った。
 舟は進みアムール河の河口を離れ、やがて樺太の陸影を見た。
 林蔵の樺太再検分の旅は終わった。
 すべてが夢のように思えた。

 信じがたい奇跡だった。

 地球が大きなジグソーパズルだとすると、埋まらない最後の1つのピースを埋めたのが林蔵であった。

 江戸に戻った林蔵は、樺太と東韃靼との間に海峡があることを示した地図を作成し、紀行文もまとめて、幕府に提出した。林蔵32歳。

 その後、林蔵は十分に生きた。
 多くの人士と交流したが、シーボルト事件に関わったり、隠密を務めるなど波乱に満ちてもいた。

 シーボルト事件によって、国外追放になったシーボルトは林蔵の地図のコピーを大切に持っていた。
 シーボルトはオランダに戻り、1832(天保3)年、『ニッポン』を著し、出版した。
 その中には、林蔵が樺太、東韃靼へ旅をしたことも紹介されていた。
 彼は、林蔵が事件の密告者であるという噂を信じ、日本政府側から我々に対する審問のきっかけを作った人物として憎しみを抱いていたが、地理学の上で偉大な功績をあげたことを認め絶賛した。
 さらに、その著書でシーボルトは、林蔵の海峡発見を証明するために海峡とアムール河の河口を描いた地図も挿入し、その海峡を「マミヤノセト1808」と名付けた。

 間宮林蔵は、世界地図の地名に、日本人としてただ一人その名が刻まれたのである。

 ひとつの逸話がある。
 シーボルトがロシアのペテルブルクで、あのクルーゼンシュテルンと会い、樺太と東韃靼との間に海峡があることを示した林蔵の地図を見せたとき、クルーゼンシュテルンが叫んだ言葉が、『ニッポン』に記されている。

 これは日本人の勝ちだ!

 1844(天保15)年、間宮林蔵、死去。齢65。


[写真‐1]
間宮林蔵の生家(つくばみらい市上平柳64、小貝川河畔の田園地帯に保存されています)

[写真‐2、3]
国立公文書館デジタルアーカイブより

天地温古堂商店、2020-07-22 19:08:18
間宮林蔵の孤独な戦いB
〜 世界地図に載ったただ一人の日本人 〜

https://ameblo.jp/dodongo-neroga/entry-12612555661.html

 1844(天保15)年、マルクス『経済学・哲学草稿』(Penguin Classics 英訳版 Economic and Philosophical Manuscripts)書かれる。マルクス齢26歳。

 歴史小説で知られる作家、吉村昭(1927 - 2006)のファンは今も多い。
 史実に忠実であることも理由の一つだ。

『三陸海岸大津波』(1970年、吉村の死の2年前、2004(平成16)年に文春文庫版が再刊)はルポルタージュに近いが、初版発行から40年、東日本大震災後に防災を問う一冊として脚光を浴びた。
 江戸時代の探検家の生涯を追った『間宮林蔵』も知られざる史実に光を当てた力作だ。

 林蔵は1780(安永9)年、常陸国の筑波郡(現在のつくばみらい市)の農家に生まれた。
 日本地図をつくった伊能忠敬に測量技術を学び、幕府の命で松田伝十郎と樺太へ渡った。
 のちにシーボルトが命名し紹介した「間宮海峡」を発見し、樺太が島であることを確認した。

 70年に及ぶ生涯。
「地球一周分歩いた」という師に負けないぐらい健脚だったといわれる。
 一方、伝十郎の功績は林蔵の名声の前に隠れてしまったが、司馬遼太郎は「偉大さについてはかわりはない」と紀行『街道をゆく』で2人の偉業を等しくたたえた。

 吉村のペンは『間宮林蔵』の終盤、幕府の隠密として暗躍した後半生に向けられる。
 希代の探検家として功を成した評価は一変。
 中には密告者扱いする者も現れ、江戸の庶民の目に敬意が消えたという。

「人間は長所あり短所ありで、それが等分にあるところで、ひとりの人間が成立している」

 吉村は史実と正面から向き合い、人間の本質をあぶり出そうとした。

「間宮海峡」の発見から210年になる。


産経新聞、2019.4.21 07:08
間宮林蔵、晩年の「顔」
(日出間和貴)
https://www.sankei.com/region/news/190421/rgn1904210009-n1.html

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韓国には権力から独立した報道機関があるが、日本にはない!

東京には「報道の自由」がない

 外国メディアが東アジアをカバーする東京支局を閉鎖し、中国の北京、上海やシンガポールなどへ移転し始めたのは今世紀に入った頃だっただろうか。
 東京支局のスタッフを減らす通信社もあった。
 日本外国特派員協会(FCCJ)の記者たちは、「毎週のように特派員仲間の送別会がある」と言っていた。

 国際メディアが東京に見切りをつけた理由は、日本の国力の低下、政変がないため国際ニュースが少なくなったという事情もあったが、最も大きな理由は、日本にしかない「記者クラブ制度」の存在で、外国人記者の取材が困難だという理由が最も大きいと思われる。   

「日本では証券取引所にまで『兜クラブ』という記者クラブがあり、経済ニュースの取材も自由にできない。クラブに入っていないフリーランス記者、外国メディア記者は常に差別されている」とFCCJの記者たちは嘆いていた。
「一党独裁の中国の方が、記者クラブがないから、日本よりましだ」(上海に移った仏紙特派員)ということだった。

 米紙『ニューヨーク・タイムズ』(以下、NYT)は7月14日、来年までに、デジタル・ニュース部門のアジアでグローバル拠点を香港から大韓民国の首都ソウルに移転を進めると発表した。
 東京も移転先候補になったが、「報道の自由」がないという理由でソウルになった。
 NYTがそう判断した理由は、記者クラブのある日本を避けたのだと筆者は見ている。

 中国が「国家安全維持法」を制定(6月20日)し、伝統的に自由だった香港での「報道の自由」が脅かされているための措置だ。
 記者クラブ制度のある日本は、外国メディアにとって中国と同程度の取材・報道環境と受け止められているのだ。

香港のメディア状況が「中国本土並み」になることを危惧

 NYTはニューヨーク、ロンドン、香港の3都市にあるグローバル拠点で、24時間体制でオンライン・ニュース(電子版)を発行している。
 香港のスタッフが24時間のうち7時間の編集を担っているが、7月14日、香港にあるデジタル部門をソウルにシフトすると発表し、報じた。
 香港で勤務するスタッフの3分の1が、来年までにソウルへ移るという。

 8月5日に発表されたNYTの2020年4〜6月期決算で、デジタル・ニュース部門の売上高(電子版の購読料とデジタル広告)が、伝統的な紙媒体を初めて上回った。
 NYTの紙を含む購読者数は650万人を超え、2025年には1000万人の購読者を目指している。

 米中対立もあり、中国本土でNYTなど米国人記者への記者としての就労許可査証(ビザ)の更新の拒否、ビザの剥奪などが続いている。

 NYTの北京特派員だったクリス・バックリー記者(2012年入社、オーストラリア国籍)は、今年5月に記者ビザを奪われて香港に移っていたが、香港の入管当局は7月上旬に記者ビザの更新を拒否した。
 香港では前例のない措置だった。
 NYTは、香港のメディア状況が「中国本土並み」になると恐れている。

 NYTの編集幹部は社内向けの文書で「国安法がジャーナリズムに対し多大な不安を生んだ」「我々の運営やジャーナリズムにどのような妨害を及ぼすかを考慮することが今ほど重要な時はない」と述べた。

 NYTはアジア太平洋地域の都市の中から香港以外の適切な場所を探す中で、バンコク、ソウル、シンガポール、東京、シンガポールなどを検討した。
 その結果、さまざまな理由の中でとりわけ、
@ 外国企業に対して友好的である
A  独立した報道(independent press)が存在する
B 主要なアジアのニュース分野で中心的な役割を担っている
――の3点で魅力があるとして、ソウルを選んだ。

 NYTはこの決定にもとづき、香港にいるジャーナリスト(記者・編集者)のチームを来年にかけてソウルに移すと決めた。
 香港をカバーする記者と、NYT国際版(紙)の印刷、広告マーケティングの両部門はそのまま香港に残留する。

「みんなで書かない」という、記者クラブメディアの悪弊

 “世界で最も信頼される新聞”とも言われるNYTが、「韓国には権力から独立した報道機関があるが、日本にはない」と判断したことは、日本の政府とメディア界にとって衝撃的なできごとだったはずだ。
 しかし、日本メディアはソウルが選ばれた理由を報道しなかったため、多くの日本の人々はこのことを知らない。

 それでは、NYTが東京でなくソウルを選んだことを日本メディアがどう報じたかを見てみよう。

『朝日新聞』は7月16日、「香港のNYT配信拠点、ソウル移転へ」という見出し記事(ニューヨーク、藤原学思記者)で、「ソウルが選ばれたのは、外国企業に好意的な環境や独立した報道機関の存在などが影響した」と報じた。
 藤原記者が短い記事の中で「独立した報道機関の存在」に触れたことを評価したい。

『朝日新聞』を除く日本の新聞・テレビは、NYTがソウルを選定した3つの理由のうちの1番目と3番目を紹介して、2番目の「報道の独立性」について触れていなかった。
 記者クラブメディアの、「ブラックアウト」(black out、停電、報道管制)と呼ばれる「みんなで書かない」悪弊だ。

ほとんどの日本の新聞・テレビは、「報道の独立性」について触れず

『日本経済新聞』は「米NYタイムズ、香港から一部移転 国安法を懸念」との見出しを立てて、「ソウルを選んだ理由として、外国企業が活動しやすく、アジア地域の主要な報道拠点になっている点などをあげた。バンコク、シンガポール、東京も候補だったと明かした」と書いた。

 NHKは7月15日、「ニューヨーク・タイムズ 編集拠点を香港からソウルに移転へ」の見出しで、「移転先としては東京、バンコク、シンガポールも候補にあがっていたということですが、ニューヨーク・タイムズは最終的にソウルを選んだことについて『外国企業に友好的であることや、アジアの主要なニュースにおいても中心的な役割を果たしているためだ』と説明しています」と伝えた。
「報道の自由」でソウルが勝ったことが省かれている。

 海外ニュースで日本の新聞・テレビに大きな影響力を持つ『共同通信』は、7月14日午前11過ぎに配信した「NYタイムズ拠点ソウルへ 香港から、国安法を懸念」という見出しのNY支局発の見出し記事(渡辺陽介支局長)で、「同紙によると、東京、バンコク、シンガポールも候補だったが、韓国が外資企業に友好的で、ニュース面でも中心的な役割を果たしていることなどからソウルが選ばれた」と伝えた。

 また『共同通信』は同日午後8時半過ぎ、ソウルが選ばれたことについて同じ理由を報じ、「中国外務省の華春瑩(か・しゅんえい)報道局長は15日の記者会見で、同紙の発表に関連し『法律を守り規則に従って報道しさえすれば、何も心配に感じることはないと思う』と述べた」と書いた。

『共同通信』も「報道の自由」でのソウルの優位性は報道しなかったのだ。
 
 また、『時事通信』は香港発のAFP時事電として、「NYタイムズ、香港からソウルへ」との見出しで、「タイムズ紙は数十年にわたり香港をアジア報道の拠点と位置づけ、最近では24時間態勢のデジタル・ニュースの編集にも力を入れていた」と報じた。

 日本テレビ系(NNN)も16日午後、「NYタイムズ香港拠点を韓国ソウルに移転へ」とのタイトルで、「移転先には東京も候補にあがっていたということですが、外国企業に友好的でアジアの主要なニュースで中心的な役割を果たしているソウルに決めたとしています」と報じた。

『東洋経済オンライン』は7月17日、「NYタイムズが「デジタル拠点」を韓国に移す訳 アジアにおける重要拠点に東京は選ばれず」というタイトルで、東京が選ばれなかったことを詳しく書いた。

 しかしその内容は「移転先としては東京、バンコク、シンガポールも候補にあがっていたということですが、ニューヨーク・タイムズは最終的にソウルを選んだことについて『外国企業に友好的であることや、アジアの主要なニュースにおいても中心的な役割を果たしているためだ』と説明しています」と伝えたNHKと、同じような報道になっている。

海外メディアはソウルの「報道の独立性」について報道

 海外メディアは、英BBCが「報道機関を動揺させ、ジャーナリズムのハブとしての香港の将来を不確実なものにした」「香港で中国が施行した、広範囲にわたる新たな治安維持法は、私たちの事業とジャーナリズムにその新規則がどう影響するのかをめぐって、多大な不安を生んだ」と指摘した。

 BBCの日本語版サイトによると、NYTの広報責任者のアリ・アイザックマン・ビヴァクワ氏の「私たちはビジネスと印刷のハブ機能を香港に置き続ける予定だ。一方で、徐々にデジタル編集のハブをソウルに移し、動きやすさを確保すると同時に、地域の資源(情報)に簡単にアクセスできるようにしていく」とのコメントを伝えた。
 ソウルでは情報に自由にアクセスできる環境があるという見解だ。

 米CNNも「中国による香港の統制が強化されたことを受け、地域の拠点をほかにも設ける必要があるとの判断に至った」というNYT幹部の見解を伝えている。

 日本でNYTが「報道の独立性」でソウルが選ばれたことが報道されなかったのは、『共同通信』と『時事通信』がともにその点を報じなかったことの影響も大きい。米国など海外メディアが「日本には報道の自由が存在しない」と見ていることを、日本の政府・民衆が知らないことは危険だ。

「日本には高水準の『報道の自由』がある」という錯覚

 多くの日本人は「日本では民主主義が機能している、報道の自由もある」と思い込んでいる。

 日本語だけで情報が流れ、完結しているので、外国から見たらどう見えるかを考えない。
 かつては、NYTや『ワシントン・ポスト』の日本論評が紹介されたが、最近はそれも激減している。

 NYTには東京支局(朝日新聞東京本社ビル内)があり、東京特派員は韓国・朝鮮(DPRJ)、台湾もカバーしてきた。
 NYTがアジアの編集拠点を香港からソウルに移すことは、NYT東京支局がソウル・オフィス(実質的にはアジア太平洋支社)の傘下に入るということになる。
 東北アジアの政治・経済・文化の勢力関係が大きく動いている。
 
 NYTのノリミツ・オオニシ東京支局長(日系カナダ人)は2005年9月7日、「なぜ日本は一党に統治されることに満足なのか」と題する記事でこう書いたことがある。

日本の民主主義体制は東アジアにおいて最古だが、政権党は中国、北朝鮮の共産党とほとんど同じくらい長期間権力を掌握している。南朝鮮や台湾の民主主義体制の歴史は日本より短いが、すでに政権政党の交代を何度か経験しており、生気にあふれる市民社会から強固で独立した報道機関まで民主主義を支持している点で、日本よりも輝いているように見える

 オオニシ記者の認識は、今でも東京にいる外国人記者に共通しているのではないか。
 しかし不幸なことに、日本の政財界のエリート、記者クラブメディアの幹部と記者は、「日本は民主主義国で、高水準の『報道の自由』がある」と錯覚している。
「国境なき記者団」が「報道の自由度」ランキングで日本を66位にしていることも、あれこれ理由をつけて素直には認めようとしない。

記者クラブという「既得権益」

 筆者は2012年9月13日、当時、NYT支局長だったマーティン・ファクラー氏に記者クラブについて聞いた。
『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』(双葉新書、2012年7月)の著者だ。
 ファクラー氏は、2011年3月の東電福島第一原発事故の翌日に南相馬市へ入ったが、市役所記者クラブにいるはずの記者たちは全員逃げてしまっていたという。

 ファクラー氏はこう語った。

NYTの記者になる前はウオールストリートジャーナル(WSJ)にいて、日銀担当だった。日銀総裁の記者会見に参加するには記者クラブの幹事の許可が必要だった。質問をしてはだめだった。WSJという世界的な新聞が日本の中央銀行の総裁の記者会見に行っても、質問をしてはだめという。中国にもない状態だ。
 記者クラブ制度でいちばん損をするのは日本の雑誌、フリー、ニューメディアなどの記者と日本の読者だ。当局の発表をそのまま紙面に載せる記者クラブメディアにジャーナリズムはない。記者クラブは情報の寡占というビジネスモデルを既得権益として守ろうとしている


 国連人権委員会の「報道の自由」特別報告者のデービッド・ケイ教授が2016年4月に東京で「記者クラブの廃止」を提案した時も、記者クラブまったく報道しなかった。
『朝日新聞』に至っては「『記者クラブの改革』を訴えた」とケイ氏の発言を改竄した。
「改革」と「廃止」ではまったく違う。

 日本の大手メディアは、NYTが「日本に報道の独立性がない」と認定し、「韓国には独立した報道がある」と見なしたことを日本人に知られたくないのだ。
 まさに島国根性だ。

 他の先進国では「メディアのあり方」がメディアの重要な取材対象になっている。
 NYTなどはメディア担当の専門記者を置いている。

 日本に権力から独立したメディアを構築するためには「情報カルテル」と呼ばれる記者クラブ制度を解体し、長野県庁と鎌倉市役所にあるような「広報センター」を設置するしかない。

EUが日本の記者クラブ全廃を日本政府に要求

 記者クラブ制度は1941年、日本がアジア太平洋戦争(「大東亜戦争」)突入と同時に生まれた。
 戦時体制下で今の形になった記者クラブが、戦後も存続して今日に至っている。

「記者クラブ」のことを、海外メディアは「press club」とは訳さずに「kisha kurabu」とか「kisha club」と表現している。
 海外のどこにでもある「プレスクラブ」との混同をさけるためだ。

キシャクラブに私は入らない。キシャクラブは政府がつくっている。政府は私たちの敵。敵の政府に取り込まれ、愛玩犬にされているのがキシャクラブの記者たちだ」と『ワシントン・ポスト』のトーマス・リード支局長は語っていた。

 こうした日本の記者クラブ制度を全廃するよう、欧州連合(EU)が日本政府に要求しているということも多くの人が知るべきだ。

 欧州連合(EU)の行政機関、欧州委員会は2002年11月25日に東京で開かれた日本政府との規制改革に関する日・EU高級事務レベル協議で、「日本の記者クラブ制度は外国の報道機関を不当に差別している」などとして改善を求めた。
 2003年も同じ提案をし、2003年11月14日開催の同協議で、前年に引き続き「記者クラブ制度の撤廃」を申し入れた。

 また、EUが2002年と2003年の各10月に日本政府へ提出した「日本の規制改革に関するEU優先提案」には、「記者クラブ制度を廃止することにより、情報の自由貿易に係る制限を取り除くこと」と明記された。

記者クラブ問題の存在を“なかったこと”にする記者たち

 一方、日本新聞協会は2003年12月10日、「歴史的背景から生まれた記者クラブ制度は、現在も『知る権利』の代行機関として十分に機能しており、廃止する必要は全くない」との見解を公表している。

 この見解では「情報公開に消極的だった議会や行政に対し、記者クラブは結束して情報公開を迫る役割を100余年にわたって担ってきた」と主張した。
 この見解は、新聞協会のウェブサイトに掲載されている。
 
 記者クラブ存置派の記者や学者は「記者クラブがなくなると、官庁の中にある取材報道の拠点がなくなる」という詭弁を弄している。
 しかしこれは、日本の植民地統治時代の遺制として残っていた「記者団」制度を2004年に全廃した、韓国の歴史に学べばいい。

 韓国だけでなく、日本にも記者クラブを廃止したケースがある。

 元『朝日新聞』政治部記者の竹内謙氏が市長になった鎌倉市は1996年に市政記者クラブによる記者室の独占使用を廃止し、広報センターを設置した。

 続いて、田中康夫長野県知事は2001年に「脱記者クラブ宣言」を発して長野県庁記者クラブを廃止、「表現道場」(その後、「表現センター」と改称、現在は「広報センター」)を設けた。

 記者クラブを廃止することは、何も難しいことではない。
 日本の記者が海外に行けば、所属する媒体がどこであれ、当局に記者証を申請すれば取材できる。
 このような、海外で普通に行われている形にすればいいだけだ。

 安倍晋三首相は4月17日の会見で、「記者クラブのあり方については、皆様方に議論をしていただきたい」と答えている。
 このことは筆者記事「『記者クラブ問題の議論を』フリー記者の問いかけに応えた安倍総理発言を内閣記者会が“黙殺”」ですでに報じた。

『東京新聞』の望月衣塑子記者はネットの討論会(5月3日)で南彰・新聞労連委員長に対し、「浅野健一さんがこの(首相の)言葉について、官邸側と内閣記者会に質問したいというお話を耳にしたこので、改めてそうだなと思った」と前置きしてこう語った。

首相の答えがあって以降に、官邸側ではなく、記者クラブの中にいる私たちの社の人間たちが、それぞれもっと考え、知る権利にこたえ、報道の自由を高めていくために話し合って変えていかなければならない。まさに、外側のせいにするのではなく、記者会側にいる私たちがこういう声を外に広げていかなければならない。記者会側、この問題に関わってくるみんなで考えなければならないと思う

 ところが南委員長は「この問題は長年言われてきたことだ」と言っただけで、議論を進めなかった。
 日本のメディアの労使が双方で、記者クラブ問題を「ないこと」にしているのだ。

内閣記者会は官邸報道室と“共犯関係”にある


 首相会見でフリー記者らの質問が可能になり、時間が長くなったなどで「会見が改革された」と一部では評価されていたものの、安倍首相は6月18日の国会閉会後に記者会見して以降、広島・長崎の平和式典後にホテル宴会場でそれぞれ約15分の「会見」を行っただけで、本格的な記者会見を開いていない。

 広島では、会見が「東京に帰る飛行機の時間が迫っている」という理由で打ち切られた際、質問を続けようとした『朝日新聞』記者の右腕を首相官邸報道室の男性職員が掴んで制止したとして、『朝日新聞』が抗議した。
 菅義偉官房長官は「腕をつかんだ」という事実を否定しているが、記者クラブ全体でこれに抗議するという動きはない。

 長崎では、首相が会見終了時に読み終わったカンニングペーパーをしまおうとして、演壇の上に立てた際、幹事社による「問」と首相側の「答」の文字がはっきりテレビに映り、「やらせ会見だ」とネット上で話題になっている。

 首相が身内ばかりの御用記者を前にして、隠しもせずに一問一答メモを見せたことで、権力とメディアの癒着の実態がまた明らかになった。
 安倍会見のほとんどは「事前に質問が各社から文書で出され、首相秘書官が回答を用意し、首相はそれを読んでいるだけ」だということが知られてしまったのだ。

 南委員長は7月10日、元メディア記者のメディア学者らと「ジャーナリズム信頼回復のための6つの提言」を新聞協会加盟129社の報道責任者へ送った。
 しかしこの送り先は、内閣記者会にすべきだったのではないだろうか。

 内閣記者会は官邸報道室とともに、日本の報道の自由を阻害する“共犯関係”にある。
 内閣記者会のメンバーの多くが新聞労連・民放労連傘下の労組の組合員だろうから、南委員長は組合員に、記者クラブ問題に関して議論するよう指令を出してほしいと思う。


ハーバー・ビジネス・オンライン、2020.08.21
ニューヨーク・タイムズの香港拠点が、東京ではなくソウルへ移転した「本当の理由」
<文・写真/浅野健一(あさのけんいち、ジャーナリスト、元同志社大学大学院教授)>
https://hbol.jp/226189/

posted by fom_club at 07:14| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする