2020年10月27日

追悼 デヴィッド・グレーバー(酒井隆史)

 ニューヨーク在住の著述家・翻訳家の友人、高祖岩三郎氏から、ニューヨークにいま、おもしろいヤツがいる、と聞いたのは2000年代の半ばをすぎたころだった。
 街で会ってはしょっちゅう話をしている。人類学者でありながら、オルタグローバリゼーション運動に参加し、ときにスポークスマンとなり、しかもブラック・ブロック(日本ではいまだ、おそるべき「テロリスト」としての表象しかないのではないか)として行動し、なおかつそれを理論化し、大学をクビになった、あるいは、なりそうな人物がいる(実際、2004年にイェール大学からの契約を「政治的理由」で、打ち切られている)。しかも、その書くものがとんでもなくおもしろい、と。
 高祖氏がさっそく翻訳してくれた。
 それが『アナーキスト人類学のための断章』(以文社)である。2004年公刊、翻訳は2006年である。
 その時点で、著作はこの本とあわせて2冊にすぎなかったが、それでもかれはすでに、運動と研究の領域で高祖氏が「グレーバー現象」と呼ぶ小さな旋風を起こしていた。

 この小さな可愛らしい ― 英語版だとさらにそう ― 小冊子が、とてつもない起爆力を秘めていた。
 わたし自身、いまだにときおりこの本に立ち返っては、あたらしい発見に興奮しているありさまである。
 もちろん、頁をめくった最初からそうだった。
「まだ見ぬ日本の読者へ」という短い文章が日本語版にはある。
 かれの好む自伝風の記述から、本の意図するところを要約するといった体裁のテキストである。
 そこでは、アナキズムがなんであるのか、そしてなぜ人類学はアナキズムの特権的媒体であるのか、あざやかに説明されていた。
 いわく、ひとはだれもが警察もボスもおらず、権威に服従することもなく暮らすことを望んでいる、しかるに、本来、人間の本性からしてそれが不可能であるという想定から、アナキズム以外のすべての「主義」は出発している(つまり権威がなければおそるべきカオスであるという「ホッブズ的論理」である)。しかし、それは可能であることを経験しているものは、アナキストになる傾向がある。そして、人類学は、それが可能であることを実証する学問なのである、と。
 なんということだ。自分がうすうす感じていたことが、明晰に言葉になっている。
 しかも、それがアナキズムだって!?

 おなじみのグレーバーのスタイルに最初に接したのである。
 親密なおしゃべりのなかで、ついでにといった感じで、マダガスカルの先住民の慣習からメソポタミア、古代ギリシア、中国哲学、イスラームの小話など、時空を自由自在に往還し、さらにそこから、現代世界についておそるべき常識転覆的含意がひきだされる。
 そういったスタイルである。

 とはいえ、全体としてみると、そのテキストは、それまで遭遇したことのない知的宇宙に属していた。
 人類学であるというだけではない。それまで接した人類学のどのテキストとも違うのだから。人類学と革命理論とはどういうとりあわせなのか?
 グレーバーはそうした疑問にも答えを用意していた。
 人類学者あるいは元人類学者の多数が、資本主義のオルタナティヴをめざす活動家であり、自分はその伝統の末端に位置しているにすぎない、と。
 社会主義者、マルセル・モースしかり、アナキスト、ピエール・クラストルしかり、などなどなど。
 なるほど、しかし、グレーバーは、世界の変革に対してかれらよりもはるかに直截であり、その点ではマルクスやアナキストの思想家たちを彷彿とさせた。
 いずれにしても、晩年にいたるまで、かれいうところの人類学的探究と自由な世界の構築の追求、つまり、理論的課題と実践的課題の両輪がかれの持ち味であった。
 そして、それらはたがいに深奥で絡まり合っていた。

 2008年、洞爺湖サミット反対行動に合わせ、かれは日本にやってきて、わたしたちに強烈な印象を与えた。
 居合わせたヨーロッパの知識人たちとは違い、まるで好奇心旺盛な子どものように、いつも落ち着きがなく、いろんなことに関心をよせ、なにかいいたくていつもうずうずしている ― でも言葉の壁もあってか遠慮がちにしている ―、そんな感じだったが、口を開くとその場の左派系(おおよそマルクス派)知識人からは聞こえてこない話題が次々に出てくる。

「資本主義の終わりはすぐにでもありうる」として、資本主義後の世界を大事な焦点のひとつにくり込むといったような話題のつくりがそうである。
(日本ではわからないが)いまでは世界でかなり共有されるようになった問題意識ではある。
 しかし、「資本主義を歴史にする」といったスローガンを共有していたはずなのに、わたしたちはショックを受けた。
 おそらく、スローガン以上にまじめにそれを考えていなかったということでもあるが、それだけではない。
 似たようなことだったら、イマニュエル・ウォーラーステインがずっと前からいっている。
 やはりマルクス派の枠のなかにわたしたちはいて、グレーバーの発想は、それとはなにか根本から違っていたのだ。

 2008年の時点でかれの著作は、人類学にかかわる理論的著作『人類学的価値論にむけて』(未訳、2001)と、師・マーシャル・サーリンズの主宰になる小冊子シリーズの一冊(つまり『アナーキスト人類学のための断章』である)、そして、方法論からフィールド報告、そして文明論など、それまで書かれたさまざまな論文を集めた『諸可能性』(未訳、2007)、自身ベストという、マダガスカルにおけるフィールド調査のモノグラフ『失われた人々』の4冊であった。

 以降、運動のフィールドワーク『直接行動』(未訳、2009)をへて、2011年の『負債論』が登場する。
 この本は、金融危機とその余波のなかでのオキュパイ運動の高揚という雰囲気のなかで公刊された。
 その初期からこの運動に参加していたグレーバーは、さまざまなアイデアを運動に提出し―「われわれは99%である」もそうだが、かれいわく、自分は「99%」だけで「われわれ」と「である」をくわえひとつのスローガンにしたのは別の活動家たちだそうである。
 いずれにしても、運動的局面の出来事であればなおさら、それに「作者性」をあてがうのは間違っているのだが―、ときにはその声になった。
 そして行動の合間に書き上げられたこの著作は、オキュパイ運動の拡大とあいともなって、グレーバーの名を国際的に知らしめる。
 小さな旋風は国際的な旋風へと拡大をみせたのである。

『負債論』は、グレーバーの資質 ― 博識のみならずその個別の専門領域にとどまっている人文社会科学の地道な研究成果にはらまれる転覆的潜在性を爆発させる能力 ― を全面開花させたとてつもない著作である。
 そしてこの本の内蔵する意義はいまだ尽くされていない。
 わたしは翻訳にあたったが、その一文一文を訳した作業ほど研究者としての幸福をおぼえた経験もあまりない。
 この本は、これからも長く読まれ、さまざまな状況でさまざまなひとの手によって、さまざまにその意義がみいだされていくだろうが、すべての人文社会科学の知にたずさわるものを励ますテキストでもあるといまだにおもう。

 それからもグレーバーの知的勢いはとまることがなかった。
『官僚制のユートピア』(以文社、2015)『ブルシット・ジョブ』(岩波書店、2018)の破壊力は、これからもっとその効果を発揮するだろう。
 そして、国家と主権について、めくるめく知的興奮を誘うサーリンズとの共著『諸王論』(未訳、2018)。
 さらに、最後の本格的著作である考古学者デヴィッド・ウェングロウとの共著が待っている。
 グレーバーの知的野心は、人類史へと広がっていた。
 その壮大なプロジェクトの中断が、心から惜しまれる。

 このひたすら前衛的なもの、権威主義的なもの、アカデミズムな儀式を嫌悪した人類学者デヴィッド・グレーバーが、世界中で闘う人びとの希望となりえた(ある新聞の追悼記事のタイトルによれば「21世紀の世界でもっとも影響力のある左翼知識人」。そして現時点で追悼サイトはおよそ30ヶ国語に翻訳されている)理由の、いくつかは説明できる。
 もちろん、その卓越した知的能力がある。
 ただし、その知的能力は、支配的な知的態度とは正反対にはたらいた。
 そうしてはだめだ、こうしてはだめだ、それは不可能である ― 国家は必然である ―、そしておもむろに、これからの世界の道筋(たいてい一つか二つ)を描いてみせる(要するに指導する)わけである。
 このように不可能性に知性を捧げることは、リベラリズム、保守主義、そして正統的マルクシズムと呼ばれる部分をもふくむ、知的態度におよそ共通するものである。

 ネオリベラリズムがその風潮を強化させているとはいえ、ひとに対して、そんなバカなこと考えるんじゃないよ、そんなことは不可能だよ、夢みたいなこといってんじゃないよ、なんとなれば、というふうな語り口で優越感にひたりたい誘惑は、知的活動に携わるものにつきまとう罠である。
 ところが、グレーバー、そしてグレーバーのいう人類学とアナキズムは違う。
 その発想いいね、おもしろいこと考えるね、それも可能だよね、実際やったひとたちがいるからね、といったふうに、可能性を開くために知的能力が捧げられるのである。
 しかも、その可能性も、いまここにない未踏の理想という領域のものでは必ずしもない。
 人類のほとんどがやってきたこと、あるいは、いまここでやっていることのなかに、つまり、この地球のすべての民衆の知と実践のなかにひそんでいる。
 知性は潜伏したそれらを注意深く聞き取り、その意味を開示することにむけられる。
 別の世界は可能だ、あるいは、別の世界はすでにいまここにある。資本主義の外は、いまここにある。サパティスタの蜂起からオルタグローバリゼーション運動のなかで育ってきたこのような発想は、デヴィッド・グレーバーの頭脳を介して、ひとつの知的宇宙となった。
 グレーバーにかぎれば、このような理論的態度は『負債論』ではマルセル・モースとクロポトキンに由来する「基盤的コミュニズム」という概念に結晶している。

 そして、現代世界のはらむ危機が、もはや近代のさまざまな道具立てでは解決できないこと。
 ただし、これはもはや聞き飽きた常套句であって、だれが口にしようと、たいてい意味をなしていない。
 しかし、グレーバーの著作のひとつの効能は、近代の乗り越えを唱える無数の議論が、どれほど近代の閉域をうろついているにすぎないか、身に沁みておもい知らせてくれることにある。

 人類学という知のもつ時間的・空間的スケール、そのスケールによって西洋近代をトータルに相対化できる力能は、必要条件である。
 しかし、その知に、アナキズム、というより「別の世界は可能だ」という革命的意志がつらぬいてはじめて、人類学のはらむ転覆的潜勢力が開花する。


 つまり、そのとき、人類学のもろもろの発見は、近代的人文諸科学との「平和的共存」をやめる。
 まさに、「欲望の二重の一致」という実証的にはなんの根拠もない経済学の空論が、その虚偽を実証してやまない人類学的知と、ずっと共存をつづけてきたように。
 デヴィッド・グレーバーにおけるアナキズムと人類学の交錯は、時代の要請であったのだ。
 そして、そうした危機をもっとも深く感受している世代の心性 ― オキュパイ運動のみならず気候正義運動あるいはBLMにもあらわれる「ミレニアル・レフト」と呼ばれる「ミレニアル世代」を中心として根づいてきた心性 ― 脱資本主義・脱ヒエラルキー・直接行動・直接民主主義などへの指向性―を、もっともよく知的に汲み上げ、そして、それを破格の構想にむすびつけ ― ブルシット・ジョブ! ―、そのウィットとユーモアに充ちた卓越した語り口で、だれにもやさしく語りかけたのが、かれだった。

 もうひとつ、ふれておきたいことがある。
 ロジャバである。
 かれが最後の10年、情熱をかたむけていたのは、シリア北部の三つのおもにクルド系の居住する地域からなるロジャバの支援であった。
 そこでは、シリア内戦のなかでクルド系による「リバタリアン自治主義」― 社会的エコロジ ー、直接民主主義、女性の解放、民族的多元主義などを理念とした ― を理念とした共同体構築の実験がおこなわれていたし、いまも苦境のなか継続している。
 かれらはISとの戦争の前線にたち、そのかぎりで気まぐれなアメリカの支援を受けていたが、いずれにせよ、クルドの戦いがISへの軍事的勝利の鍵となった。
 その厳しい戦いと実験への国際的無視のなか(その悲劇的状況をかれはスペイン内戦になぞらえていた)、グレーバーは機会があるごとに、かれらの苦境を報告し、諸国家の無法を告発し、その実験の世界史的意味を力説し、シリア北部へいくどか足をむけながら、支援を呼びかけていた。
 以下はトルコ人民民主主義党のある人物による追悼文の一部である。
 今日、複合的な危機によって、世界中の人びとの搾取と分断を基礎としたシステムが持続不可能であることがますます認識されている。
 わたしたちは他者の闘争から予断なしに学び、言葉を超えた連帯に関与することを学ばなければならない。
 グレーバーの死去とともに、わたしたちはこうした普遍的原理を日常的に生きている人間を失った。
 わたしたちが失っていないものは、かれが示した模範であり、かれの擁護した理念である。
 かれがISISとの戦いに身を捧げたロジャバの人びとを記憶したように、わたしたちもかれを記憶することができる ― 実践としてこうした理念を生きることによって

 あまりにも不意打ちだったかれの訃報に、わたし自身は、混乱状態から立ち直れておらず、その喪失がどれほどのものか、はかりかねている。
 かれの知的独創性はきわだっていて、現代世界のどの知的潮流にも帰属をゆるさなかった。
 もちろん、細部をみれば、いろいろ影響関係は特定できる。
 しかし、全体としてみると、あきらかにかれの知的活動は孤立していた。
 むしろ、かれの言葉をもっともよく受け取ったのは、世界の闘う人びとであり、あるいは、日々の暮らしに苦闘する「ふつうの人びと」であった。
 そして世界が ― あるいは民衆の闘争が ― 要請する課題にむかって、おそるべき知識の累積をひたすら総合していくその手つきは比類のないものであった。
 たとえば、かれはずっと以前から、人文社会科学の創造性への桎梏となりつつあるようにもみえる「フレンチ・セオリー」の重力を、ほとんど単独で吹き飛ばそうとしているように、わたしにはみえていた。
 これから長期にわたってときに爆発しつつ円熟をみせたであろう、ひとつの驚嘆すべき知的冒険のとば口に立ったばかりのはずだった。
「ブルシット・ジョブ」なんて、序の口のはずだ。
 こればかりは順番が間違っている。

 もはや収拾しがたい混沌へと突入していく世界を前にし、わたしたちは、強靱な知性に裏打ちされた「永遠の楽天家」そして町一番の「地図作製者」である心強い仲間を失ってしまった。
 とはいえ、かれが後続の世代にばらまいた養分豊かな種は、世界中で実をむすぶであろう。
 もちろん、だれもかれのまねはできない。
 しかし、かれからえたものを、わたしたちの力の及ぶかぎりで結実させていくことは、この破格の知識人と時代を共有しえた、わたしたち自身の負った課題でもある。

※ 本稿は『世界』2020年11月号に掲載されました

※ 酒井隆史(さかい・たかし)
大阪府立大学教授。専攻は社会思想史。1965年生まれ。著書に『通天閣 新・日本資本社会主義発達史』(青土社)、『完全版 自由論:現在性の系譜学』(河出書房新社)など。

岩波書店・お知らせ、2020/10/13
追悼 デヴィッド・グレーバー
そこで開かれた諸可能性は、二度と閉じられることはない

(酒井隆史)
https://www.iwanami.co.jp/news/n37353.html

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追悼 デヴィッド・グレーバー(1961-2020)

 ヤッホーくんのこのブログ、次の日付の日記をお読みください:
★ 2020年09月24日「斎藤幸平<世界のマルクスの読まれ方>」
★ 2020年09月23日「斎藤幸平×水野和夫<ポスト資本主義>を語る(後編)」
★ 2020年09月18日「<ブルシット・ジョブ>」
★ 2020年09月18日「David R. Graeber(1961 - 2020年9月2日)」
★ 2020年06月04日「斎藤幸平 × 後藤正文」
★ 2019年09月08日「斎藤幸平」

 ヤッホーくん、25日のお墓参りの歩きのせいか、自分の臨死体験を経たせいなのか、どうも気になる訃報のこと。

 世界的に著名な英国在住の米国知識人、デヴィッド・グレーバーが59歳で急逝した。
 王道を歩む人類学者として、この分野の拠点ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの教授職にあった彼は、より公正な世界を訴える2011年のウォール街占拠への関与によって、国際的に知られた活動家でもあった。

 グレーバーは学問と政治を峻別(しゅんべつ)し、「私をアナキスト人類学者と呼ばないでください」と絶えず求めていたけれど、とはいえ二つの領域はまったく無縁だったのではない。

 人類学とは彼にとって、「人間とはなにか、人間社会とはなにか、またはどのようなものでありうるのか」(『負債論』以文社、2016年11月)を探究する学問だった。
 マダガスカルのような他なる文化地域に赴いたのも、人間一般の本性をより広く深く理解するためにほかならない。

 そんな彼が関わったからこそ、ウォール街占拠では、「私たちは99%だ」という驚くほど包括的なスローガンが掲げられた。
 もちろん彼は、富と権力の集中する1%以外の残りの99%の内部にも、さまざまな隔たりや対立や闘争が存在することを認めないのではない。
 けれどもグレーバーはどんな人間にも共通の本性が備わっていると確信し、その探究をすべての仕事の中心に据えていた。

 今年2020年夏に翻訳が出た話題作『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)は、占拠参加者らがウォール街勤めの人びとと交わした対話を背景に生まれた著作だ。
 後者はしばしば自分たちの仕事の空虚さを自覚し、魂に傷を負っていた。
 こうしてグレーバーは、社会を回すのに必須でありながら低処遇の「エッセンシャルワーカー」と高処遇のホワイトカラーを対立させず、両者がともに解放される「本当に自由な社会」を求めた。

 対立をまたいだ共通性は、やはり今年翻訳刊行の『民主主義の非西洋起源について』(以文社、2020年4月)でも探究されている。

 民主主義は古代ギリシア起源ではない。
 とはいえ、他の諸文明のもとでより立派に体現されてきたわけでもない。
 それはむしろ、文明と文明、文化と文化の「あいだの空間」で、人びとが非暴力的な共存を希求する中に生まれるのだとグレーバーは説く。
 民主主義とは、意見を異にする人びとが粘り強い交渉を通して行う合意形成のプロセスにほかならないのだ。
 賛否の分断を生む古代ギリシアの多数決方式は、むしろ特殊事例にすぎない。


 彼によれば、互いを理解し配慮するという人間一般の「ケア的」本性が共同体を可能にする。
 こうした楽観性を、彼は誠実に生きたように見える。

 グレーバーは人間的に尊重しあえるなら、立場を超えた対話をも拒まなかった。
 米共和党支持者として知られるシリコンバレーの顔役ピーター・ティールとの6年前の対談は、今なお話題の種だ。
 自由を平等に分かちあえるかという論点では対立しても、二人には共通の願いがあった――空飛ぶ車の実現という願いが(『官僚制のユートピア』以文社、2017年12月)。

 元SF少年のグレーバーは、基本的に、技術革新の味方だった。
 単純な進歩史観を退ける一方、原始の自由と以後の堕落といった説も採らず、技術発展の先に自由と平等が両立しうるのではないかと展望していた。
『負債論』では過去5千年の歴史をひもときながら、貸し借りに還元されないつながりを人間の本性ととらえ、債務帳消しの運動を提起した。
 新たな代表作となるはずの遺作「The Dawn of Everything: a New History of Humanity」(共著、来年2021年原著刊)は実に5万年の時空を探索し、『サピエンス全史』の歴史学者ハラリに典型的な、陰鬱(いんうつ)な未来像を打ち破ろうとする野心的な仕事だ。

 何世紀も生きられるとしても決して退屈しない、それなら新しい言語や楽器や核物理学の勉強を始めたいと語った人類学者の早すぎる死を、筆者はまだ適切に受け止められずにいる。

※ 話しを聞いた⼈、片岡大右(かたおか・だいすけ)
1974年生まれ。社会思想史、フランス文学専攻。グレーバー『民主主義の非西洋起源について』を翻訳。著書に『隠遁(いんとん)者、野生人、蛮人』など。

※ 朝日新聞、2020年9月16日掲載
 

[写真]デヴィッド・グレーバーさん

朝日新聞・好書好日、2020.09.19
批評家・片岡大右さん寄稿
人類学者デヴィッド・グレーバーさんを悼む
人間の本性、対立超えると信じた

https://book.asahi.com/article/13735729

2020年9月2日、文化人類学者でアクティヴィストのデヴィッド・グレーバーが、滞在先のイタリア・ヴェネツィアで急逝した。
以下は、グレーバーが学生の頃に指導を受けた、文化人類学者マーシャル・サーリンズ Marshall Sahlins, University of Chicago による追悼文の訳出である。
原文は、The New York Reviews of Books に掲載された複数人の著者たちによる追悼記事 “David Graeber, 1961–2020” より抜粋し、中川理氏に訳出いただいた(最終アクセス2020年9月10日)。
故デヴィッド・グレーバーに謹んで哀悼の意を表するとともに、邦訳の掲載を快諾してくださったマーシャル・サーリンズ、The New York Reviews of Books、そして、翻訳を担当いただいた中川理氏に心より感謝申し上げたい。
なお、デヴィッド・グレーバーとマーシャル・サーリンズの共著 On Kings(2017, HAU)の日本語訳版は、小社より刊行予定である。

 何年か前、デヴィッドがロンドンで行われる権威あるマリノフスキ・レクチャーの講演者に選ばれた時、紹介役のオリヴィア・ハリスが、博士課程で彼の指導教官だった私の経験について聞くために電話してきた。
「彼はアイデアの湧き出す泉でしょう」と彼女は言った。
「そんなデヴィッド・グレーバーをどのように指導したのですか」。
「指導なんてしませんでしたよ」と私は彼女に答えた。
 そもそも、どうすればアナキストを指導することなどできるだろうか。

 デヴィッドは、私が持ったなかで最も創造的な学生であり、型にはまった人類学の常識を絶えずひっくり返そうとしていた。
 そしてしばしば、表向きは支配されている人びとが、彼らを苦しめる国家や王などの強制的制度をいかに自分たち自身の力でくつがえし、自己統治するコミュニティの飛び地をつくりだしてきたかを示そうとしていた。
 マダガスカルの村での2年間のフィールドワークで、人びとは納税申告書に記入はしても税金は支払っていないこと、周辺地域における国家の存在についての報告は誇張されてきたことを、彼はじっさいに確かめることができた。

 デヴィッドのアクティヴィズムと彼の人類学は、一体化していて切り離せないものだった。
 小冊子『アナキスト人類学のための断章』は、彼のアナキストとしてのマニフェストである。
 とはいえ、これは爆弾を投げることや暴動についての本ではない。
 アマゾニアからアフリカのコンゴにいたる世界中の人びとが、どのようにして霊魂や政府の権力に抗して自己決定のための避難所を徐々につくりだしてきたかについてのものだ。

 こうしてグローバルな再構築を進めていくうちに、デヴィッド自身が多くの意味でグローバルな人間となっていった。
 私たちが共同で本を執筆していた2016年のあいだ、彼はこの本についてのコメントを、ヨルダン川西岸地区のナーブルスや、シリアや、トルコのどこかからEメールで送ってきていた。
 それらの場所で彼は、地元のアナキストたちのそれぞれの果敢な戦いに加わってきたのだ。
 時間においても、知識においても、困難な状況にあるすべての人びとに対する共感においても、誰よりも惜しみなく与える人であったデヴィッドは、人間的・知的存在感をグローバルに広げ、考えをともにする同志たちの国際的ネットワークの中心人物になった。

 彼の政治的意見も、同様にグローバルだった。
 そのなかには、国境を廃止して人びとがどこにでも移動できる自由を与えよ(そして、ラオス人であればラオスで幸福に生きられるように以前の支配国が努力する誘因をつくれ)という要求や、世界規模の「大恩赦の年(Jubilee Year)」にすべての国の負債を帳消しにせよという要求が含まれていた。

 そして、これらすべてにおいてデヴィッドは、知的奥行きのある人類学者であり続けていた。
 彼は、学問においてもグローバルな、人類経験の多様性についての深い専門知と世界の諸文化について百科全書的知識を備えた最後の人類学者の一人だった。
 後期旧石器時代の狩猟民、西アフリカの諸王国、ポリネシアの首長、マダガスカルの諸国家、海賊の共和国をはじめとする多くのことは、彼にとっては無関係ではなかった。
 そこから彼は、多くを学ぶことができた。

 デヴィッドの著作の一つには、『さまざまな可能性 (Possibilities)』というタイトルがつけられている(Possibilities: Essays on Hierarchy, Rebellion, and Desire by David Graeber、Published September 1st 2007 by AK Press)。
 この言葉は、彼の仕事全体を見事に描き出している。
 彼の人生のタイトルにつけたほうがよいくらいだ。
 想像もされていない自由の可能性を示してくれたこと、それが、彼から私たちへの贈り物だった。


以文社、2020年9月10日
追悼 デヴィッド・グレーバー(1961-2020)
(マーシャル・サーリンズ、中川理 訳)
http://www.ibunsha.co.jp/contents/sahlins-graeber/

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2020年10月26日

25日は山歩クラブお散歩会(広尾〜麻布十番)

 ヤッホーくん、昨日の10月25日日曜日は山歩クラブのお散歩会。
 駅から駅までタウンウオーキングでした、広尾駅〜麻布十番駅。
 一斉報告メールが発信されていたようですので、ご紹介します:

 皆さん、こんばんは。今日は秋晴れのいいお天気!きっと皆さん、それぞれ良い一日を過ごされたことと思います。
 山歩クラブは8人で駅から駅までタウンウオーキング(広尾駅〜麻布十番駅)。広尾でおりましたら明治時代の避病院(伝染病院)だった都立広尾病院経由、明治時代のコレラパンデミックの際、感染源となったネズミ退治で集め焼いたネズミの霊を鎮める慰霊碑のある祥雲寺(写真)行き、お参り。同時にイマ、地球規模で流行しているコロナに感染しませんように、とお祈り!
 そして麻布十番では、赤い靴履いていっちゃった「きみちゃん像」(写真)経由、「善福寺」へ。
「越路吹雪の碑」前(写真)で望月さん、加藤さんの素晴らしいデュオが「ラストダンスは私に」をご披露。

 歌声に魅了された8人衆、別れがたく、その後は時間を忘れるほどのお茶会をガスト・麻布十番店で。
 おしゃべり三昧。
 お天気にも恵まれ、楽しい一日を過ごしてきました。
 また、昭和初期の大事件、1936(昭和11)年の二二六事件までお勉強した今日の歴史散策、詳しくは会報「かわらばん」をお読みくださいね。
 では皆さん、次回まで御身お大切に。ご・き・げ・ん・よ・う・ヤッホー!


[写真]ねずみ塚
ねずみ塚.JPG

[写真]きみちゃん像
きみちゃん塚.JPG

[写真]越路吹雪の碑
越路吹雪の碑.JPG

 どうして、広尾? 実は都立広尾病院だけでなく、「北里柴三郎記念室」もあったのです(日曜日はお休み)。

 低迷する東京株式市場で、逆行高を演じる銘柄がある。
 医療機器大手のテルモだ。
 2020年4月3日までの1ヶ月間で日経平均株価が15%下げたのに対し、テルモ株は1%上昇した。

 同社は人工心肺装置の国内最大手だ。
 装置は新型コロナウイルスに感染した重症の肺炎患者の治療に欠かせない。
 感染拡大による患者の急増で装置が不足する恐れが出ており、増産に乗り出した。

 1921年に同社を立ち上げた1人に、ノーベル賞候補にもなった「細菌学の父」、北里柴三郎(1853〜1931)がいる。

 1894年、北里はペストの流行で崖っぷちにあった香港に乗り込んで菌を発見、対処法を割り出した。
 ペストは香港から世界に広がったが、被害は過去のペスト禍と比べて小さく済んだ。
 こうした経験から北里は「社会に役立ってこそ研究の意味がある」と確信する。
 その理念を実現しようと創業を手伝ったのが同社だ。

「厳しい環境でも医療を止めない」

 テルモの佐藤慎次郎社長は1日の入社式で、感染症の予防に生涯をささげた北里を紹介しつつ、新入社員を奮い立たせた。

 新型コロナは危機の連鎖を引き起こした。
 まず、人びとを「健康の危機」に陥れた。
 次に襲ったのが「グローバル化の危機」だ。
 保護貿易主義の連鎖などで以前からグローバル化は後退していたが、コロナ封じの副産物として世界の分断が進み、より深刻になった。

 2つの危機が生み出したのが「資本主義の危機」だ。
 経済活動の停止やサプライチェーンの分断で景気が悪化。
 おびえた投資家は株に手が出せなくなり、企業にマネーが流れなくなった。
 企業は成長に向けた投資に加え、配当や自社株買いを手控えてでも現金を確保したいので投資家に報いられない。
 投資リターンが落ちるので、投資家の株離れは加速する。

 ところがテルモの株価上昇は大荒れの市場に隠れた別の断面に光を当てる。
 社会が不安に覆われた今だからこそ、社会に尽くすことで企業が成長する機会も多いはずだ。
 そのようなストーリーが見えれば投資家も株式に資金を投じ、資本主義も息を吹き返すだろう。

 北里は健康の危機に立ち向かったが、グローバル化の危機を乗り越えようとした科学者出身の経営者が北里と同時代にいた。
 高峰譲吉(1854〜1922)だ。
 消化剤「タカヂアスターゼ」の開発で知られ、三共(第一三共の前身)の初代社長になった。

 高峰は米国から指揮を執るなど同社のグローバル化を担った人物だが、民間外交官としての顔も見逃せない。
 1910年代の米国は日本人移民への反発が強まった時代だ。
 高峰は日米要人の関係作りに奔走し、ニューヨークとワシントンに大量の桜を寄贈した。
「無冠の大使」の別名もこのためだ。

 さらにこの時代は、北里と高峰の活動を支えた実業家がいた。
 明治以降500社もの創業に携わり「資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一(1840〜1931)だ。

 妻をコレラで亡くした渋沢は、結核を予防する北里の事業のトップに就いて資金を集めた。
 高峰にも呼応し、日米企業が合弁や人材交流で共に成長することを米国に提案、緊張の緩和を目指した。

 今3人がいれば、資本主義をどう立て直すだろうか。

 北里が感染の現場に飛び、ウイルスへの対処法を見つけて事業化の道を探るのは想像に難くない。

 高峰も治療薬の開発を急ぐだろう。
 そのためにも、世界の感染症の専門家が反グローバル化の壁を乗り越えて情報を共有できる仕組みを作ろうと、奔走するにちがいない。

 そして、「会社は社会の公器」との持論を持つ渋沢は、資本を集めて企業に流す「キャピタリスト」として、2人やそれに続く社会的な企業家を支えるだろう。
 医療や医薬のビジネスは莫大な先行投資が欠かせない。
 ましてや数年に1度の未知の感染症への対策は、研究開発投資への支持が得にくい。
 それでも渋沢は投資家を説得して資金を集め、業績が軌道に乗るまで頭を下げて説明を続けるだろう。
 自ら立ち上げた第一国立銀行(現みずほ銀行)の創生期でそうしたように、だ。

 危機の連鎖に立ち向かう3人の行動を想像するにつれ、現代の日本の経営者に足りないキーワードが浮かんでくる。
リーダーシップ
 3人が起業家としての顔を持っていたのも、新たな事業を立ち上げるためにリーダーシップを発揮したからにほかならない。

 日本生産性本部によると、日本の1人当たり労働生産性は経済協力開発機構(OECD)に加盟する36ヶ国中21位にすぎない。
 生産性を高めるには、製品やサービスのイノベーションが有効だ。
 しかし、実現するまでには失敗がつきもの。
「責任は取る」という強いリーダーシップが欠かせない。

 だが多くの日本の経営者は同業他社との横並びに代表される「ノーリスク・ノーリターン」の意識が染みついていると、経営学者や投資家は以前から指摘してきた。
 コロナの衝撃は今、経営者に「萎縮したままでいいのか」と問いかけている。

 北里が終生大切にした一言がある。

奉公人根性なきこと

 指示されていないことを試みて失敗すれば出世の道が閉じる。
 それを恐れるあまり何もしないようなサラリーマンの発想を捨てろと戒めた。
 高峰も渋沢も同意するだろう。
 資本主義の危機にあって光る、1世紀前の金言だ。


[図像]
コロナは危機の連鎖を招いた/逆境をリーダーシップで乗り越えた
リーダーシップ.jpg

日本経済新聞、2020/4/4 2:00
起業家・北里柴三郎に学ぶ
100年前の危機の教訓

(本社コメンテーター 梶原誠)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57647000T00C20A4TCR000/

posted by fom_club at 21:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

核兵器禁止条約 1月22日発効

 核兵器の開発、実験、保有、使用を全面禁止し、核で威嚇することも禁じる核兵器禁止条約の批准数が、発効に必要な50ヶ国・地域に達した。90日後に効力を発する。
「核なき世界」の実現を求める国際世論が各国の批准を後押しした。
 広島や長崎の被爆者が果たした役割も大きい。
 原爆投下から75年。
 被爆者は心身に苦しみを抱えながら自らの過酷な体験を伝え、被爆の実相や核兵器の非人道性を訴えて続けてきた。
 長年にわたる粘り強い努力が条約誕生への原動力となった。
 条約は前文で「ヒバクシャの受け入れ難い苦しみに留意する」と明記しており、その思いは国際社会に確実に届いている。
 発効決定を歓迎すると共に、尽力した被爆者らに敬意を表したい。

 ただ、核廃絶への今後の道のりが極めて険しいのも事実だ。
 米英仏ロ中の五大保有国は条約への参加を拒否している。
 インド、パキスタン、北朝鮮なども参加していない。
 唯一の戦争被爆国である日本も、米国の「核の傘」に頼る安全保障上の理由から加わっていない。
 条約不参加の国への法的拘束力はなく、実効性を疑問視する見方は強い。
 確かに事態がすぐに前進するとは考えにくい。

 だが核兵器を違法と断じる国際規範があれば、核保有国に核軍縮を迫る強い圧力となり得る。
 米国が複数の批准国に撤回を強く要求したのも、その効果を警戒して切り崩しを図ったものとみられる。発効の意義は決して小さくない。
■ ■ ■
 被爆地である広島市や長崎市は、日本政府に条約への参加を求めてきた。
 しかし日本は核戦力増強を続ける中国や北朝鮮への懸念などから日米同盟を優先し、署名に背を向けたままだ。
 菅義偉首相が9月に行った国連総会一般討論のビデオ演説でも条約に触れることは一切なかった。
 日本は戦争被爆国として核廃絶の目標を掲げ、核兵器保有国と非保有国の「橋渡し役」を担うと強調してはいるものの、具体的な成果は見えない。

 核兵器は「絶対悪」である。
 日本が「核の傘」に固執して条約に参加せず、核廃絶への「橋渡し役」を担えると考えるのは矛盾している。
 被爆者や非保有国の人々の間に失望が広がっている。

「甚大な被害を受けた日本が参加しないことで、国際的にも日本の信用を落としている」

 条約を推進してきたカナダ在住の被爆者サーロー節子さんの言葉を重く受け止めなければならない。
■ ■ ■
 日本世論調査会の全国調査によると、核禁止条約に日本も「参加するべきだ」と答えた人は72%に上った。
 被爆国としての責務を国際社会で果たすため、日本は条約に署名・批准すべきである。
 核廃絶に向けた議論をリードしてもらいたい。
 条約発効後の締約国会議には、非締約国にもオブザーバー参加が認められるという。
 議論の場に加わり、条約の実効性を高める方策を一緒に探るべきだ。


沖縄タイムス・社説、2020年10月26日 05:00
[核禁止条約発効へ]
日本こそ批准すべきだ

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/653485

 核兵器禁止条約の来年2021年1月の発効が決まったと伝わった2020年10月25日、世界に向けて核兵器廃絶を訴えてきた宮城県原爆被害者の会の木村緋紗子会長(83)=仙台市=が、訪問した広島市中区の基町高で生徒と喜びを分かち合った。
「原爆の絵」の制作をする生徒に被爆体験を伝え、核兵器廃絶の訴えを一緒に世界に広げていこうと語り合った。

 今回の絵の制作は、この夏の平和記念式典の際に「原爆の絵」を描く高校生に出会って感動した木村さんが、基町高に依頼して決まった(※)。
 同校生徒が県外に住む被爆者の絵を描くのは初めて。
 この日は2年の川崎あすかさん(17)が木村さんの話に聞き入った。

 木村さんは、8歳だった袋町国民学校(現袋町小)2年の時、爆心地から1.6キロの大須賀町(現南区)で被爆した。
 大きなけがはなかったが、全身やけどを負った祖父の体からうじ虫を取った記憶が強烈に残っていることを伝えた。

 20代で被爆者運動に関わり、日本被団協の代表団として10年前に渡った米ニューヨークでは、タイムズスクエアで一瞬で人びとの人生を狂わせる核兵器の恐ろしさを訴えた体験も語った。
 川崎さんは「『核兵器が違法だ』と言える活動を、私たちもつなげていきたい」と気持ちを引き締めた。

 木村さんは「いいニュースを広島で若い世代と聞けてうれしい」と目を潤ませ、条約の不参加を表明する日本政府に対して「核兵器をなくそうと一生懸命な高校生の姿を見習ってほしい」と力を込めた。


中国新聞・ヒロシマ平和メディアセンター、2020年10月26日
核兵器禁止条約 来年1月発効
廃絶へ 世代超え喜び分かつ
宮城の被爆者木村さんと基町高生

(山本祐司)
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=101716

(※)ヤッホーくん注

 広島市立基町高等学校創造表現コースは美術を専門に学ぶコースとして1999(平成11)年に設置されました。
 本コースの生徒たちは、国際平和文化都市広島に学ぶ高校生として美術を学ぶ中で、「平和」と「文化」について想いを馳せながら日々制作を行なっています。
 また「広島平和記念資料館」では、被爆体験証言者の記憶に残る被爆時の光景を若者が絵に描き、当時の状況を伝える「次世代と描く原爆の絵」事業に2004(平成16)年度より取り組んでおり、本コースでは2007(平成19)年度より継続して、有志生徒が「原爆の絵」の制作ボランティアとして参加させていただいています。

 この取り組みは、被爆者が高齢化するなか、被爆の実相を絵画として後世に残すこと、そして、絵の制作を通して、高校生が被爆者の思いを受け継ぎ、平和の尊さについて考えることを目的として行っているものですが、何度も打ち合わせを重ねながら制作される絵は、当時の惨状を克明に描き出すものでありながら、証言者の記憶や思いに高校生が寄り添い、双方の気持ちを共に伝えるものです。
 
 生徒たちは証言者の被爆体験を聴き、想像を絶する光景をどう描くのか悩みながらも、資料を集め、証言者と何度も打ち合わせを行い、約半年から1年かけてこの「原爆の絵」を描きあげます。
 完成した「原爆の絵」は「平和記念資料館」に寄贈され、それぞれの証言者が修学旅行生などに被爆体験を話す際に、当時の状況をより深く理解してもらうために使われます。

 また基町高校では、それとは別に独自の取り組みとしての「原爆の絵」の制作にも取り組んでいます。


広島市立基町高等学校 普通科 創造表現コース
(広島市中区西白島町25-1 Tel 082-221-1510)
次世代と描く原爆の絵
https://www.sozohyogen.jp/abombdrawings

 たったひとりでこの2年半、核兵器廃絶を求める「ヒバクシャ国際署名」3481筆を集めた。
 元プロ野球選手張本勲さん(80)の姉で、広島で被爆した小林愛子さん(82)=兵庫県加古川市。
 核兵器禁止条約の来年2021年1月発効が決まり、「核兵器がこの世から全てなくなるまで、命ある限り署名活動はやめない」と思いを新たにしている。

◆ 断られても「被爆死した姉の無念を思えば」

 「お仕事中、失礼します!」

 市役所、郵便局、銀行、企業―。
 小林さんは兵庫県内外、どこへでも飛び込み「子どもたちが幸せになるために、お願いします」と署名用紙を差し出す。
 かばんにいつも用紙を忍ばせ、旅先でもチャンスがあれば喫茶店やスーパーで署名を願い出る。
 断られても、決してくじけない。

「原爆で亡くなった姉の無念を思えば、何てこともない」

 1945年8月6日、小林さんは広島の爆心地から約2.3キロの自宅で、母と張本さんと共に原爆に遭った。
 爆風で家は崩壊。
 子2人に覆いかぶさった母の背中にはガラス片が突き刺さり、小林さんのシャツは母の血で真っ赤に染まった。
 その血が生臭かったのを、今も鮮明に覚えている。

 勤労動員で市中心部に出ていた4歳年上の姉点子(てんこ)さんは、全身にひどいやけどを負い、数日後に息を引き取った。
 優しくてかわいかった自慢の姉。

「姉が何か悪いことでもした? 原爆さえなければ、今も仲良く話ができていたのに」

 父を早くに亡くし、強い絆で結ばれていた家族に点子さんの死は重くのしかかり、戦後、原爆の話題が出ることは一切なかった。

◆「条約が発効しても、核兵器がなくならないと」

「こんな悲しい話なんて思い出したくないし、誰も聞きたくないはず」

 そう考えていた小林さんだったが、十数年前、熱心な依頼を受けて小学校で初めて証言をした際、児童らの感想文の熱量に圧倒された。

「私の話で何かを感じてくれる人がいるなら、話さなければ」

 原爆と向き合い、核廃絶の活動をしていこうと腹をくくった。

 署名集めを始めたのは2018年春。
 当初の目標は、弟の張本さんが誇るプロ野球最多安打記録の「3085」。
 地道に活動を続け、昨年末ついに追い抜いた。

 75年たつ今も脳裏に焼き付いているのは、目も鼻も分からないほど焼かれ死んでいった姉の姿だ。

「あんな悲劇は2度と起こさせない。条約が発効しても、核兵器がなくならないと意味がない」


[写真]
「ヒバクシャ国際署名」に取り組む、元プロ野球選手張本勲さんの姉で被爆者の小林愛子さん=兵庫県加古川市で

東京新聞、2020年10月26日 11時45分
行く先々で集めたヒバクシャ国際署名3481筆
弟・張本勲さんのプロ野球最多安打記録超える

(共同通信)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/64293

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川島なお美、生きていれば今年で還暦

 そうですか〜、そうでしたか〜、ムッシュかまやつはもう先に逝っちゃったんですね〜
 川島なお美も……

 女優の故・川島なお美さんが肝内胆管がんのためこの世を去ってから、2020年9月24日で5年となる。
 54歳という若さで旅立った彼女の死を悼む声は今でも多い。

 この6月には、55万部を売り上げた伝説の写真集『WOMAN』(1993年)(※)のデジタルリマスター版が発売され、話題を呼んだ。
 撮影を担当したカメラマンの渡辺達生氏は「ヌードを撮る際もためらいは一切見せず、彼女の強い覚悟を感じた」と週刊誌の取材で当時を振り返っていた(「NEWSポストセブン」7月2日付)。
 写真チェックも渡辺氏を信頼し、すべてを任せたという川島さん。
 彼女に会うことはもう叶わないが、その美しさは写真集の中で生き続けている。

 生前「私のからだはワインでできている」という名言を残すほど、川島さんを語る上で欠かせないのがワインとの関係だろう。
 ただ嗜むだけでなく、豊富な知識を持っており1999年には日本ソムリエ協会認定のワインエキスパートを取得している。
 また、ワイン普及に貢献したことが認められ、フランスの4大ワイン産地から騎士号も授与されているほどだった。
 ワイン好きということでお酒が強いイメージがありますが、公私にわたって親交のあった俳優の川崎麻世さんは彼女の逝去時にブログで、川島さんは決してお酒は強くなく、3杯くらい飲むと寝てしまうと意外な一面を明かしていました。
 また、非常に努力家で、ワインエキスパートの資格取得のため、仕事の合間にワインスクールに通ったり、海外ロケの際は、自作の単語帳を持参し朝から晩まで勉強したり、飛行機内にあるワインを全部ブラインドで出してもらい当てっこをしたりしていたとか。
 その甲斐もあり、合格率30〜40%の試験に一発で合格したそうです。
 ほかにも、チーズプロフェッショナル、シガーアドバイザー、アクアアドバイザーなど多くの認定資格を取っていて、とても勉強熱心な方だったんだなと改めて感じます。
(週刊誌の芸能担当記者)

 また、川島さんといえば愛犬家としても有名だった。
 ミニチュアダックスフント2匹を仕事現場に連れている姿を目にした読者も多いだろう。
 生前は、著名な文化人ら約240人で作る「エンジン01文化戦略会議」のメンバーとして動物愛護活動にも携わり、動物愛護法改正を求める署名運動などに関わっていた。
 2017年には「イヌ(ネコ)の殺処分を限りなくゼロにする運動に役立ててほしい」という彼女の遺言による寄付をもとに、「川島なお美動物愛護賞」が設立された。
 毎年、犬や猫の愛護に関する貢献・活動を続けている個人や団体を表彰しており、4回目となった今年はタレントの坂上忍がMCを務める「坂上どうぶつ王国」(フジテレビ)が受賞した。

 もちろん、仕事に対する情熱も人一倍強かった。
 30代で社会現象となったドラマ「失楽園」に主演。
 大胆なヌードや「子宮が呼吸できない気がする」と前張りなしで挑んだベッドシーンなどが話題に。
 その後、42歳でブロードウエイ・ミュージカルのオーディションを新聞で見つけ、自ら応募。
 結果は不合格だったが、「劇団四季」の浅利慶太氏から「うちでレッスンしてみれば」と声がかかり、3ヶ月間にわたって朝からバレエ、ジャズダンス、発声の厳しいレッスンに通い、舞台女優としての基礎を学んだ。
 過去、女性誌の取材に対し「年に何本も舞台に立たせていただいているのは、あの日々のおかげです」と語っている(「WEB女性自身」2013年9月6日付)。
 川島さんを取材した際、白いロングブーツを履いて、さっそうとスタジオに入ってこられて。
 女優オーラがすごかったのを今でも覚えています。
 付き人に指導する際はときに厳しく、インタビュアーに対しては真摯で笑顔を絶やさない。
 その切り替えがプロっぽく印象的でした。
 質問にわかりやすく的確に答えてくださったり、私たちが見出しにしやすいようなキャッチーな言葉も出してくださったり。
 頭の回転が速くスマートな方でした。
(取材したことのあるファッション誌の編集者)

 放送作家でコラムニストの山田美保子氏は川島さんについて「取材を受けたとき、自分が何を言えば視聴者や読者を喜ばせられるか瞬時に理解し、キャッチーでセンスにあふれるフレーズを放つ、唯一無二の存在だった」と評している(「NEWSポストセブン」2015年9月26日付)。
 逝去時の報道を見ると、多くの芸能リポーターやスポーツ紙、週刊誌の記者らからも同じ感想が述べられており、「頭の回転が早い、サービス精神旺盛な女優」として業界で有名だったようだ。
 亡くなる1週間前まで舞台に立っていた川島さんは、腹水が5リットルも溜まり、公演の合間に水を抜く治療を受けるなど、まさに満身創痍でした。
 夫でパティシエの鎧塚俊彦さんは告別式の喪主あいさつで、医師から『あんなからだで舞台に立てたのは奇跡』と言われたことを明かしていました。
 川島さんは、自身のからだにできた腫瘍を『戒め君』と呼び、自分を戒めるためにやってきてくれた存在だと前向きにとらえていたそうです。
 川島さんのことを振り返るたびに『がんばらなきゃ』という気持ちにさせてもらえるのは確かです。
(前出の記者)

 TVウォッチャーの中村裕一氏は、改めて彼女の軌跡についてこう振り返る。
 ドラマ『失楽園』での大胆な演技やワインへの造詣の深さから“オトナの女性”というイメージを抱いている人が多いと思いますが、それ以前、10代後半から20代にかけて、いわゆる女子大生タレントの走りとして活躍していた川島さんの姿も忘れられません。
 1981年には青山学院在学中に文化放送の深夜ラジオ『ミスDJリクエストパレード』のパーソナリティを務め、1982年からは中京テレビ制作のバラエティ番組『お笑いマンガ道場』のレギュラー回答者としてお茶の間に笑いをふりまき、親しみやすいキャラクターとして人気でした。
 ちなみに、ヘアヌード写真集を出版したのが33歳、『失楽園』に出演したのが37歳。
 流れが早く、浮き沈みの激しい芸能界でしっかりと実績を残せたのはセルフプロデュースの賜物でしょう。
 最後まで“自分らしく生きる”ことを貫いた彼女の代わりとなる人はおそらく今後も出てこないと思います。

 生きていたら今年2020年、還暦を迎えた川島なお美さん。
 強く、やさしく、勤勉で、サービス精神旺盛で、どんな困難な状況でも常に前を向き続きた彼女だったら、コロナ禍の今、いったいどんな言葉を紡ぎ出してくれたのだろう。


[写真]愛犬と川島なお美さん

dot.asahi、2020.9.23 11:30
没後5年「川島なお美」生きていれば今年で還暦
女優を貫く強さと唯一無二の名言

(高梨歩)
https://dot.asahi.com/dot/2020092200009.html

※ 『WOMAN』
創業40周年を記念して、1993年に発売した川島なお美さんの『WOMAN』など、懐かしいレジェンド写真集の数々をデジタルリマスター版としてリリース!
出版社ワニブックスが運営するWEBマガジン、News Crunch、2020.7.1
https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/888

 川島なお美さんの伝説のベストセラー写真集『WOMAN』がデジタル版で完全復活する。55万人が買った写真集撮影の思い出を、カメラマンの渡辺達生氏が振り返った。
* * *

 彼女がまだアイドルだった時代に撮影したことはあったけど、有名な女優さんになった川島なお美を撮るのは初めてだった。
 彼女は撮られたい自分のイメージがしっかりあって、最初は僕が撮りたいイメージとうまくかみ合わなかった。でも撮影を重ねていくうちにお互いの呼吸が合っていき、最後は言葉は必要なかった。
 ヌードを撮る際もためらいは一切見せず、彼女の強い覚悟を感じた。写真チェックでも僕を信頼してすべてを任せてくれたのはさすがだった。
 撮影中は写真集の構成をどうするかで頭がいっぱいで、まさかこんなに多くの読者に見てもらえるとは思っていなかった。そんな写真集を、27年の時を超えて、電子写真集としてまた多くの読者に届けることができるのは、写真家として素直にうれしい。
 彼女にはもう会えない。
 でも彼女の美しさはこの写真集の中に生きつづけている。
 彼女を知っている人も、知らなかった人も、永遠の川島なお美に出会ってほしい。

● 川島なお美(かわしま・なおみ、1960年11月10日生まれ、愛知県出身)
 青山学院大学在学中にデビューし、グラビアなどで人気に。1981年には『ミスDJリクエストパレード』(文化放送)の初代DJとして人気が沸騰。1997年のドラマ『失楽園』(日本テレビ系)が話題となるなど、女優・歌手として活躍。2015年9月24日に胆管がんのため逝去。享年54。川島なお美電子版写真集『WOMAN』(ワニブックス刊、1800円+税)は各電子書店で発売中。創業40周年を記念したワニブックスの電子版写真州シリーズは今後も名作を続々と復刻予定。

● 撮影: 渡辺達生

※ 週刊ポスト2020年7月10・17日号


[写真]3枚

NEWSポストセブン、2020.07.02 16:00
55万部売った川島なお美写真集がデジタルで復活、撮影者の感慨
https://www.news-postseven.com/archives/20200702_1574311.html

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歌は不老長寿の薬みたい!

 アキノ歌……いいですねぇ、歌は……「不老長寿の薬みたい」だってェ……そうですか〜

あなたの好きな人と 踴ってらしていいわ
優しいほほえみも そのかたにおあげなさい
けれども 私がここにいることだけ
どうぞ 忘れないで

ダンスはお酒みたい 心を酔わせるわ
だけどお願いね ハートだけは盜られないで
そして私のため のこしておいてね
最後の踴りだけは
あなたに夢中なの
いつか二人で誰も來ないとこへ旅に出るのよ


どうぞ踴ってらっしゃい
私ここで待ってるわ
だけど送って欲しいと頼まれたら斷ってね
いつでも 私がここに居ることだけ
どうぞ 忘れないで

きっと私のため殘しておいてね
最後の踴りだけは
胸に抱かれて踴る ラスト・ダンス
忘れないで


越路吹雪 ラストダンスは私に
https://www.youtube.com/watch?v=LpJkJLJg-Sc

Baby, don't you know I love you so?
Can't you feel it when w touch?
I will never never let you go
I love you, oh, so, much

You can dance ev'ry dance with the girl
Who gave you the eye
Let her hold you tight
You can smile ev'ry smile with the girl
Who held your hand
In the pale moonlight

But don't forget who's waithing at home
And in whose arms you're gonna be
So darlin', save the last dance for me

Oh, I know that the music is fine
Like sparkling wine
Go and have your fun
Laugh and sing, but while we're apart
Don't give your heart to anyone

But don't forget who's waithing at home
And in whose arms you're gonna be
So darlin', save the last dance for me

Baby, don't you know I love you so?
Can't you feel it when w touch?
I will never never let you go
I love you, oh, so, much

But don't forget who's waithing at home
And in whose arms you're gonna be
So darlin', save the last dance for me

You can dance, go and carry on
Till the night is gone and it's time to go
If she asks if you're all alone
If you take you home, you must tell her so
'Cause don't forget who's waiting at home
And in whose arms you're gonna be
So, darlin', save the last dance for me


Save the last dance for me - The Drifters
https://www.youtube.com/watch?v=n-XQ26KePUQ

The Drifters front Act of The Beatles at Budokan, Japan
https://www.youtube.com/watch?v=6HQ4gyfINaQ

 スパイダース、でしょ、ドリフターズじゃなかったでしょ、ムッシュかまやつは、……

ザ・スパイダース 『バン・バン・バン』
https://www.youtube.com/watch?v=ar9qMlAU_T0
https://www.youtube.com/watch?v=iBDR_2v4ln8

 グループサウンズ「ザ・スパイダース」のメンバーとして一時代を築いた歌手ムッシュかまやつさん(本名・釜萢弘=かまやつ・ひろし)が2017年3月1日午後6時5分、膵臓(すいぞう)がんのため都内の病院で死去していたことが2日、分かった。
 78歳。東京都出身。通夜、葬儀は近親者で営む。後日、お別れの会を開く予定。喪主は長男のミュージシャンTAROかまやつ。
 かまやつさんの妻も、夫の亡くなる数日前に死去していた。

 長髪にニット帽がトレードマーク。
 ひょうひょうとした語り口で、世代を超えた音楽ファンに愛されたかまやつさんが、長い闘病の末に逝った。
 都内の自宅マンションには生花が届けられ、遺体は都内の別の場所に安置されたとみられる。

 関係者によると、今年2017年1月10日に体調を崩して都内の病院に入院。
 当初は食欲もあったものの徐々になくなり、約2ヶ月の入院生活の末に、親族らにみとられて息を引き取った。
 苦しむことはなく、おしゃれなかまやつさんらしく、大好きなニット帽をかぶっていた。
 この数日前には、同じく長い闘病生活の末に、妻も亡くなっていた。

 最初に体調を崩したのは2015年秋だった。
 黄疸(おうだん)が出たので病院で検査をすると、膵臓がんと判明。
 昨年2016年5月の検査では肝臓がんが見つかった。
 通院治療をしたが、8月には脱水症状を起こして病院に緊急搬送された。
 9月に「肝臓がん」の病名を発表した際には「絶対に復活するから心配しないでください」とコメント。
 再起を誓っていた。
 10月に退院してからは、いとこの歌手森山良子(69)宅に身を寄せながら通院治療を行った。
 12月には堺正章の70歳記念ライブに飛び入り参加。
 スパイダースのヒット曲「サマーガール」をデュエットして、元気な姿を見せた。
 この日、堺は「先月に自宅に遊びに来て、大好きなカレーうどんを食べた。病気は良い方向にいっているみたい」と話していた。

 1939(昭和14)年に、日本ジャズ界の草分けであるティーブ・釜萢の長男として生まれた。
 青山学院高在学中からカントリー&ウエスタンの学生バンドを結成。
 米軍キャンプでの演奏を中心に活動をした。

 1960年代にはザ・スパイダースのメンバーとして活躍。
 かまやつさんが作曲した「あの時君は若かった」「バン・バン・バン」「ノー・ノー・ボーイ」などが大ヒット。
 グループサウンズブームをけん引した。
 1970年に解散をした後はソロ歌手として活躍。
 1975年には吉田拓郎(70)が作詞作曲した「我が良き友よ」が大ヒット。
 TBS系連続ドラマ「時間ですよ」などでは俳優としても活躍した。

 最近は10代のメンバーらとファンクバンド「LIFE IS GROOVE」を結成するなど、精力的に音楽活動を行ってきた。
 生前には、音楽のことを「不老長寿の薬みたい」と話し、長く第一線で活躍するこつを「好きなんでしょうね。ライブをやっていないと調子悪いんだ」と語っていた。

 音楽は世代や時代、分野を超えて愛される。そのことを体現した78年の生涯だった。

◆ ムッシュかまやつ(本名・釜萢弘=かまやつ・ひろし)1939(昭14)年1月12日、東京都生まれ。
 父は日本ジャズ界の草分け的存在のティーブ・釜萢。青山学院高時代に、カントリー&ウエスタンの学生バンドを結成、米軍基地を中心に活動。1960年代前半に「ザ・スパイダース」に加入、ギターとボーカルを担当。解散後はソロで活動。1999年、堺正章と結成した「ソン・フィルトル」でNHK紅白歌合戦に出場。TBS系ドラマ「時間ですよ」シリーズ、同局系「ビートたけしの学問のススメ」などにも出演。歌手森山良子はいとこ、長男TAROかまやつはミュージシャン。


[写真]
2016年12月、堺正章(右)の70歳記念ライブに飛び入りで登場したムッシュかまやつさん

日刊スポーツ、2017年3月3日11時42分
ムッシュかまやつさん後追い死
妻他界から数日後に

https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1786619.html

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2020年10月25日

日本政治学会理事会ほか声明文

日本政治学会理事会
日本学術会議第25期新規会員任命に関する声明

 日本学術会議の第25期の発足にあたり、同会議が推薦した会員候補者105名のうち、6名が内閣総理大臣による任命から外されました。

 6名のなかには、本学会の理事である宇野重規氏も含まれています。
 宇野氏は私たちの尊敬する同僚であり、日本学術会議法第17条が定める「優れた研究又は業績がある科学者」として推薦されるにふさわしいと考えます。

 本学会は、学会としては特定の政治的見解を標榜しないことを原則としています。
 しかし、見解の多様性は擁護されるべきです。
 異なる見解が共存・競争することこそが、何よりも研究の発展を促し、有益な知見を生み出すからです。
 そして、その多様性の基盤となる学問の自律性は、最大限に尊重されなければなりません。

 以上の観点から、日本学術会議が10月2日付で提出した「第25期新規会員任命に関する要望書」に賛同し、同会議が推薦した通りに会員が任命されることを希望します。


(以上)


本学会について

 日本政治学会は、第二次世界大戦後に「従來政治學研究の自由を制約していた政治體制がのぞかれ、永久平和の実現と文化國家の建設とをめざす新しい體制が前進すると共に、學會各分野に於ける全國的諸學會の設立に伍して、新にひろく政治學の研究者の全國的組織を確立しようとする機運」(*)により、1948年11月5日に東京で設立された。

 初代理事長は南原繁である。
 以来60有余年にわたり、日本における政治学研究の中心としての役割を果たしてきた。
 会員数は約1800人である。
(*)『日本政治學會年報政治學』創刊号より

About Us

Japanese Political Science Association was established in November, 1948, in Tokyo, "in view of the removal of the political regime which had restricted the freedom of political studies, and seeing the advancement of the new regime which aims at the realization of eternal peace and the building of a cultural state".

The original purpose of the association was "to consolidate a new national association of political scientists in general, acting in concert with the national associations of other academic fields".

The first president was Shigeru Nanbara.

Since then, our association has been the center of political studies in Japan.

The present membership is around 1,800.

* quotations are from the first issue of our periodical.


日本政治学会公式ページ
本学会について
http://www.jpsa-web.org/about/

[参考‐1]

 任命拒否された日本学術会議の新会員候補6人のうちの1人、東京大の加藤陽子教授(日本近代史)は2020年10月23日、任命拒否についてのメッセージを発表した。内容は次の通り。

◆ 違法な決定、なぜか?政府に尋ねたい
 今回の任命拒否を受けて感じたのは第1に、2011年施行の公文書管理法制定まで有識者として関係してきた人間として、法解釈の変更なしには行えない違法な決定を菅義偉首相がなぜ行ったのか、意思決定の背景を説明できる決裁文書があるのか、政府側に尋ねてみたい。

 任命拒否の背景を考える際に留意すべきなのは、拒否された6人全員が学術会議第1部(人文・社会科学)の会員候補だったこと。
 日本の科学技術の生き残りをかけるため1995年に制定された重要な法律に科学技術基本法というものがあるが、この法は今年25年ぶりに抜本的に改正され「科学技術・イノベーション基本法」となった。
 改正前の法律では「人文・社会科学」は、科学技術振興策の対象ではなかった。
 つまり法律から除外されていた分野だった。
 しかし、新法では人文・社会科学に関係する科学技術を法の対象に含めることになった。

 世の中のSNS上では「役に立たない学問分野の人間が切られた」との冷笑的な評価があったが、真の事態は全く逆で、人文・社会科学の領域が、新たに科学技術政策の対象に入ったことを受けて、政府側が改めてこの領域の人選に強い関心を抱く動機づけを得たことが事の核心にあると、私は歴史家として考える。
 新法の下では、内閣府の下に「科学技術・イノベーション推進事務局」が司令塔として新設されるという。
 自然科学に加えて、人文・社会科学も「資金を得る引き換えに政府の政策的な介入」を受ける事態が生まれる。

◆ 国民の負託ない官僚の統制は幸福増進の道ではない
 日本の現在の状況は、科学力の低下、データ囲い込み競争の激化、気候変動を受け「人文・社会科学の知も融合した総合知」を掲げざるを得ない緊急事態にあり、ならば、その領域の学術会議会員に対して、政府側の意向に従順でない人びとをあらかじめ切っておく事態が進行したと思う。

「科学技術」という日本語は、意外にも新しい言葉であり、1940年8月、総力戦のために科学技術を総動員した際に用いられ始めた言葉だった。このたび、政府は「科学技術・イノベーション」という新しい言葉を創ったが、国民からの負託がない、官僚による科学への統制と支配は国民の幸福を増進する道ではない。
 私は学問の自律的な成長と発展こそが、日本の文化と科学の発展をもたらすと信じている。


東京新聞、2020年10月24日 06時00分
東大・加藤陽子教授が学術会議問題でメッセージ
「政府に従順でない人びとを切っておく事態」

https://www.tokyo-np.co.jp/article/63859

[参考‐2]

― 真理探究への政治の介入に反対する ―
(日本学術会議第25期推薦会員任命拒否に関する声明)

 今般、安倍元首相の政策を引き継ぐとして総理大臣となった菅義偉氏は、日本学術会議が推薦した新しい会員候補のうち6人の任命を拒否しました。
 拒否された6人は、刑事法学、憲法学、行政法学、政治学、歴史学、キリスト教学など、いずれも人文科学の領域で顕著な業績をもつ方々です。
 同会議の会員となるためには、「優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦する」(日本学術会議法第17条)ことになっています。

 自然科学の分野と異なり、人文科学の分野では、時代や社会を超えて「真理」として認められたものが数多くあるとは必ずしも言えません。
 しかし、だからこそさまざまな立場の研究者が、自由な発想で多方面から研究を進め、議論を深めていくことで、より「真理に近い」研究成果を見出していく営みが不可欠です。
 そのような専門的な営みの中では、何が「優れている」かを門外漢が決めてはならないし、ましてや時の為政者の判断によって、研究者間の合意を反故にするような行為があってはなりません。

 生長の家は宗教ですが、真理を追究し、真理を現実世界にもたらすことで、人類と地球社会とを「より善なる方向」へ近づけるという目的では、科学と変わらないと考えます。

 かつての宗教と政治が未分化の時代には、科学者が発見した真理が、宗教の教えと矛盾するという理由で、“宗教政治”によって真理が歪められたという苦い歴史を人類は共有しています。
 21世紀の今日でも、一部の国では、科学的真理を認めない政治家によって国政が歪められ、多くの国民が犠牲になるという残念な例が散見されます。
 また、科学的真理を認めない宗教があることも事実です。
 しかし、その中にあっても、20世紀に多くの悲惨な戦争から学んだはずの日本が、再び国権によって真理探究の動向を操作しようという誤った方向に進むとしたら、私たちは声を上げて反対せざるを得ません。
 今の時代、科学的真理の探究を操作しようとする政治が、宗教的真理の探究を尊重するなどということはあり得ないと考えるからです。

 現代の議会制民主主義下の内閣総理大臣には、公序良俗を侵す危険がないにもかかわらず、宗教や学問の営みを自分の好みの方向に操作する権限は与えられていません。
 従って生長の家は、真理探究への為政者の介入に断乎反対します。
2020年10月14日
宗教法人「生長の家」

https://www.jp.seicho-no-ie.org/news/20201014/

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戦後レジームからの脱却

[意見広告]日本学術会議は廃止せよ

 日本を否定することが正義であるとする戦後レジームの「遺物」は、即刻廃止すべきです。

 国家機関である日本学術会議は、その代表格です。

 学術会議は、連合国軍総司令部(GHQ)統治下の昭和24年に誕生しました。
 亀山直人初代会長は設立の際、GHQが「異常な関心を示した」と語っていますが、日本弱体化を目指した当時のGHQは学術会議にも憲法と同様の役割を期待したのでしょう。
 会議はこれに応えるように「軍事目的の科学研究は絶対に行わない」との声明を何度も出してきました。

 憲法も学術会議も国家・国民の足枷と化したのです。

 他方、学術会議は、国家戦略として「軍民融合」を推進する中国とは研究者の交流、科学情報の共有について覚書を交わしています。
 会員らは、学問の自由が脅かされていると政府批判をしますが、矩(のり)を越えた学者の政治活動で自由な学問・研究を阻害しているのは、学術会議自体ではないでしょうか。
 そんな組織に毎年10億円以上の税金を注ぎ込むとは何ごとでしょう。

 真の独立国家としての土台を蝕む組織は、一掃すべきです。
 日本を私たち国民の手に取り戻し、前向きな光を当てる第一歩が学術会議の廃止です。

10月23日(金)付け産経新聞、読売新聞、日経新聞に掲載

 だが、問題なのは、こうしたミスリードを誘ったりデマを喧伝しているのが、産経の阿比留氏やフジの平井氏といった御用ジャーナリストのみならず、政権与党幹部である甘利氏や下村氏、内閣官房参与に引き立てられた高橋氏、菅首相と親密な関係にある橋下氏など、菅官邸の中枢に近い人物たちだということだ。
 そして、このようなデマを流すことで、任命拒否という問題から論点をずらそうとしてきたのである。

 そして、この「論点ずらし」を主導しているのは、菅官邸だ。
 実際、菅首相は「日本学術会議は政府の機関であり、年間約10億円の予算を使って行動している」と予算額をわざわざ持ち出して強調。
 さらに日本学術会議を「行政改革」の対象にするとぶち上げた。
 ここに「中国の手先」だの「学者たちは高額の年金をもらっている」だの「米英では税金は使われていない」だのといった数々のデマが重なることで「無駄な税金投入を見直そう」という声が高まったことは言うまでもない。
 さらに、デマにくわえて日本学術会議の会員を「既得権益者」だと攻撃することでエスタブリッシュメントに対する反感を利用、反知性主義を煽っている。

 だが、デマに次ぐデマが飛び出している状況をひとつ見ても、いかに菅政権が本質である任命拒否問題から話をそらしたがっているのかがよくわかる。
 そして、安倍応援団と呼ばれてきた者たちがものの見事に菅応援団へとスライドし、その擁護がパワーアップしているということもはっきりしたと言えるだろう。

 今後もデマによって劣情を煽り、論点をずらそうとする動きはつづくと思われるが、問題の本質は違法かつ不当な人事介入によって政権批判を封じ込めようとする強権政治にあるということを忘れてはならない。


リテラ、2020.10.15 09:36
甘利明、下村博文、高橋洋一、橋下徹も……
日本学術会議を攻撃する言説は菅政権を擁護するためのフェイクだらけ

https://lite-ra.com/2020/10/post-5672.html

「だが、」問題の本質はだんだんと見えてきました。
「任命拒否」もさることながら、権力側が何を非難されてもびくともしないのは、意見広告にあったように、いまの平和日本を変えてきた、という強い自負と意志、「戦後レジームからの脱却」だったのです!
 えっ、やっぱりミンシュシュギからグンコクシュギへが権力側の「未来志向」!
 そうしたら、国民主権は……国民の人権は……平和志向は…… 血塗られていくニッポン……
 そんなんで本当にいいのかな・・・と10月25日日曜日、遅く起きた朝のヤッホーくん。

 安倍晋三前首相が会長を務める自民党の保守系議員連盟「創生日本」が再始動することが2020年10月23日、分かった。

 第2次安倍内閣発足後はほぼ休眠状態にあったが、25日夜に安倍氏の慰労を目的に会合を開く

 党内では「保守団結の会」(代表世話人・高鳥修一衆院議員)や「日本の尊厳と国益を護る会」(代表・青山繁晴参院議員)なども保守再興を期待し、前首相に熱い視線を送っている。

 派閥横断型の創生日本は、2012(平成24)年の総裁選で安倍氏の勝利を後押しした。
 首相退任を機に本格的な活動再開を目指す動きが浮上。東京都内のホテルで開かれる25日の会合には、加藤勝信官房長官や下村博文政調会長、古屋圭司元国家公安委員長、稲田朋美前幹事長代行ら約20人が出席する予定。
 安倍氏が講師役を務める勉強会の開催など、今後の活動方針についても話し合われる見通しだ。

 創生日本の前身は、第1次安倍内閣が退陣した2007(平成19)年に中川昭一元財務相が立ち上げた「真・保守政策研究会」で、2009(平成21)年の中川氏死去に伴い安倍氏が会長に就任した。
 その後、現在の名称に変わり、運動方針に「戦後レジームからの脱却」などを掲げて安倍氏の再起を支援した。

 再始動について、ある幹部は「菅義偉首相は国家観を示す前にデジタル庁設置などの政策をアラカルトに打ち出す傾向があるので、党内で国家観を重視した活動も必要になる」と指摘。
「保守の火を絶やさないためにも安倍氏との活動を再開したい」と語る。

 安倍氏に対しては、党内の別の保守系グループも連携を模索している。

 年内にも慰労会を計画している「保守の会」の幹部は「安倍氏は保守の精神的な支柱だ。首相辞任後も本領を発揮してもらいたい」と期待を寄せる。
「護る会」も27日に開く創立1周年を記念した懇親会に安倍氏を招待している。

 さらに、尖閣諸島(沖縄県石垣市)の実効支配強化を目指す保守系議員連盟「尖閣諸島の調査・開発を進める会」の代表を務める山田宏参院議員も23日、安倍氏の活動参加をめぐり記者団に「当然、声はかけていかないといけない」と述べた。

 首相辞任後に靖国神社に2回参拝するなど安倍氏が活動を活発化させる中、自民党内で保守のシンボルである前首相の「争奪戦」が激化しつつあるようだ。


※ 2020年10月23日 20時53分 産経新聞(広池慶一、奥原慎平)


「保守の火絶やさぬ」安倍氏に熱視線
自民「創生日本」再始動へ

https://news.livedoor.com/article/detail/19106475/

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2020年10月24日

Hymne A L'amour

 アキノ歌。再見エディット・ピアフ!

愛の讃歌
https://www.youtube.com/watch?v=SbMtfYBlbm8

Hymne A L'amour

Le ciel bleu sur nous peut s’effondrer
Et la terre peut bien s’écrouler
Peu m’importe si tu m’aimes
Je me fous du monde entier

Tant que l’amour inond’ra mes matins
Tant que mon corps frémira sous tes mains
Peu m’importent les problèmes
Mon amour, puisque tu m’aimes…

J’irais jusqu’au bout du monde
Je me ferais teindre en blonde
Si tu me le demandais…
J’irais décrocher la lune
J’irais voler la fortune
Si tu me le demandais…
Je renierais ma patrie

Je renierais mes amis
Si tu me le demandais…
On peut bien rire de moi,
Je ferais n’importe quoi

Si tu me le demandais…

Si un jour la vie t’arrache à moi
Si tu meurs, que tu sois loin de moi
Peu m’importe, si tu m’aimes
Car moi je mourrai aussi…

Nous aurons pour nous l’éternité
Dans le bleu de toute l’immensité
Dans le ciel, plus de problèmes
Mon amour, crois-tu qu’on s’aime ?...

Dieu réunit ceux qui s’aiment !

 そして、越路吹雪!

越路吹雪 愛の讃歌 1954 / Hymne A L'amour
https://www.youtube.com/watch?v=J6btKA0tWfI
https://www.youtube.com/watch?v=Vzo7hp7FfTI
https://www.youtube.com/watch?v=1Qgcu1Czdrw

あなたの燃える手で あたしを抱きしめて    
ただふたりだけで 生きていたいの    
ただいのちのかぎり あたしは愛したい    
いのちのかぎりに あなたを愛したい    

頬と頬よせて 燃えるくちづけを 
かわす喜び かわす喜び    
あなたとふたりで 暮らせるものなら 
なんにもいらない    
なんにもいらない 
あなたとふたりで 生きていくのよ    
あたしの願いは ただそれだけよ 
あなたとふたり

かたくいだき合い 
燃える指に髪を    
からませながら いとしみながら    
口づけを交わすの 
愛こそ燃える火よ    
あたしを燃やす火 
心とかす恋よ


 ”シャンソンの女王”越路吹雪(1924 - 1980)の波乱の生涯を、盟友・岩谷時子(1916 - 2013)との友情を軸に描いてきたテレビ朝日系帯ドラマ劇場『越路吹雪物語』(2018年1月、月〜金 後0:30〜0:50)。
 越路吹雪役の大地真央が、都内のスタジオでクランクアップした時の様子が明らかになった。
 宝塚歌劇団の大先輩を演じきった大地は、涙で感謝の思いを口にしていたという。

 ラストの撮影は、越路が入院した病室でのシーン。
 藤田明二監督の「カットOK!」の声がかかると、大地の歌う「愛の讃歌」が大ボリュームで流れ、親友・岩谷時子役の市毛良枝、夫・内藤法美役の吉田栄作に花束が贈られた。
 そして、「越路吹雪役・大地真央さん、オールアップです!」と、スタッフから最後に名前をよばれると、大地は感極まって涙を流し、監督から花束を受け取った後は、市毛のもとに歩み寄った。
 抱き合って、「お疲れさまでした」とねぎらいあう姿は、深い友情で結ばれた“越路吹雪と岩谷時子”のよう。
 続いて、大地は最愛の“旦那様”を演じた吉田ともハグを交わし、撮影終了を喜び合った。

 大地は涙を流しながら、「この作品と、そして皆さまと出会えたことを本当に心から感謝しています。本当に素晴らしい経験をさせていただきました」と、深く一礼。
「あっという間に終わってしまったような感覚で寂しいですが、こんなになっちゃったので(=病気メーク)、終わるしかないのかなと思います。ありがとうございました」と、ジョークを交えて、スタッフ&共演者への感謝を口にしていた。

 吉田は「途中からの参加だったのでスルッと終わってしまうのかなと思っていたら、足かけ4ヶ月間も皆さんとご一緒することができ、昭和の芸能界の歴史を勉強させていただきました。こんなに素敵な奥様(大地真央)にコーヒーを入れていただいて、ただただ幸せでした」とあいさつ。

 市毛も涙を浮かべながら、「私も感無量です。越路吹雪さんの舞台を観て育ってきた世代なのですが、大地さんが越路さんをとても素敵に再現してくださいました。岩谷さんご本人はその姿をお見かけするだけで近づくことのできない存在だったのですが、その方を裏方みたいな私が演じさせていただけるなんて…。“最上級の役”に出会うことができて幸せでした」と、作品への思いを語っていた。

 最後に藤田監督が「小さい美保子(=幼少期を演じた子役・岩淵心咲)、真ん中の美保子(=青年期を演じた瀧本美織)、大きい美保子(=絶頂期を演じた大地真央)、みんな最後に泣くんだよね。もらい泣きしちゃうんだよな」と言いながら、男泣き。
 そんな監督に、大地は「大きい美保子? “デカ美保子”でしょ(笑)。私のことそう呼んでいるって聞いているんだから…(笑)」と返し、スタジオは涙から一転、大きな笑いと拍手に包まれていた。

 ドラマは残すところあと4話。
 毎回、プレッシャーにさいなまれながら舞台に立つ越路吹雪(大地)の身体を案じ、時子(市毛)が“越路吹雪の引き際”について考えはじめた矢先、なんと越路本人は演劇界の重鎮・宇野重吉(1914 - 1988)のもとで“本格的な芝居”に挑戦したいと言い出す。
 その挑戦は大成功をおさめる(「古風なコメディ」1980年)ものの、直後、ある異変が彼女を襲う。
 愛と歌に生きた大スター・越路吹雪が、人生という名のステージの幕を降ろす時が迫っていた。


ORICON NEWS、2018-03-27 06:00
大地真央、『越路吹雪物語』涙でクランクアップ
https://www.oricon.co.jp/news/2108335/full/

※ ヤッホーくん注「越路吹雪の碑」
 記念碑が善福寺境内(港区元麻布1−6−21)にありました。

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2020年10月23日

Autumn Leaves

 アキノ歌、レジェンドたちの肖像:

Autumn Leaves

The falling leaves
Drift by the window
The autumn leaves
Of red and gold
I see your lips
The summer kisses
The sunburned hands
I used to hold
Since you went away
The days grow long
And soon I'll hear
Old winter's song
But I miss you most of all
My darling
When autumn leaves
Start to fall


Frank Sinatra(1915〜1998) - Autumn Leaves
https://www.youtube.com/watch?v=Q9vZ3hHyJL8
https://www.youtube.com/watch?v=yvmZpCIM88M

Nat King Cole(1919〜1965) - Autumn Leaves
https://www.youtube.com/watch?v=ZEMCeymW1Ow
https://www.youtube.com/watch?v=YVedK1VUfLM

Edith Piaf(1915〜1963) - Autumn Leaves
https://www.youtube.com/watch?v=n2s2tPORlW4

Natalie Cole(1950〜2015) - Autumn Leaves
https://www.youtube.com/watch?v=_mT55bUMh90

Chet Baker(1929〜1988) & Paul Desmond Together - Autumn Leaves
https://www.youtube.com/watch?v=sgn7VfXH2GY

Chick Corea acoustic band & Bobby McFerrin - Autumn Leaves
https://www.youtube.com/watch?v=5jiXQmWBXbY

Chick Corea (1941年生まれ)& Bobby McFerrin Duet - Autumn Leaves; Rendezvous in New York (2005) -
https://www.youtube.com/watch?v=uRbVAPJ3zyI

 世界的なジャズピアニスト、チックコリア(79歳)。
 米国で音楽業界最高の栄誉とされるグラミー賞を23回も受賞しているジャズ界の生きるレジェンド。
 チックは新型コロナウイルスが流行した春以降、世界中の音楽を学ぶ人たちに向けたオンラインの授業を始めた。

 今回、そのことを知った福島の高校が授業に参加したいと手を挙げた。
 東北には何度も訪れ、親しみを持っていたチック。
 日本からの申し出を快く引き受けてくれた。

 授業を受けるのは「帝京安積高校」吹奏楽部の生徒たち。
 部員は現在59人で、その多くは幼い頃に東日本大震災を経験し全国大会にも出場している。
 去年夏の東北大会でも上位に入った。
 しかし、去年2019年10月の台風19号の影響で近くの阿武隈川が氾濫。
 楽器や教室が水没し、練習できなくなった。
 しかも今年は新型コロナの影響でコンクールや定期演奏会がことごとく中止に。

 この日、顧問の先生が特別授業に参加することを告げた。
「チックコリア」という名前を聞いてスマートフォンで調べる部員の様子。
 多くの生徒はネットの情報で、チックが世界を代表するジャズのレジェンドだと知った。
 ブラスバンドの曲は演奏できてもジャズは全く未知の世界。
 期待と不安が高まる。
 部員のコメント。
 福島・郡山の映像。


2020/10/23 NHK総合[ニュース シブ5時]
特集・伝説のジャズピアニストが特別授業
https://jcc.jp/news/16501456/

 福島県郡山市のピアノ教室、小林音楽教室の小林です。

 あれは一昨日だったかな、テレビを観て驚いた。
(2020/09/04 NHK総合[明日へ つなげよう]音楽で心をひとつに)

 世界的なジャズピアニスト、チックコリア氏が「帝京安積高校」の吹奏楽部にオンライン授業 ♪

 すっげー羨ましいっ!!
゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。
 調べてみると、2011年3月11日の東日本大震災。
 その直後に、被災地の人びとに音楽の力を届けようと内外のミュージシャンが立ち上がった“Music for Tomorrow”というプロジェクトがあったそうなんです。

 これが今の新型コロナウイルスの拡大に際して再始動。

 どうやらその一環で、チック氏がワークショップを行なったそうです。

 それにしても福島県で、しかも「帝京安積」という身近な高校に対して。
 こんな幸せなことってあるんだねぇ ☆
゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。
 授業はオンラインを通じてフロリダから発信されます。

 高校側は感染予防対策として、練習場には「8人」だけ。
 部員は59人いるそうで8人以外は他の教室で、そのまたリモートにて参加。
 ホントは同じ練習場で共有したいだろうなぁ。
 
 … そんななか、さ、さすがジャズ界のレジェンド、人間の「器」が違う。チック氏はなんと…部員全員の名前を読み上げてくれた ♪
 これは感動するよ。
 関係ない私までなぜか目頭が熱くなったし(笑)。

「音楽」が人を救う、とかよく耳にしますけど、やっぱりさ、「人」が「人」を救うのだよな。
゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。
 まぁ仕方ないというか、吹奏楽部の質問が、どうしても技術的なことに走ってしまった。

「ビブラートをもっと上手に使いたい」

 すぐに答えないチック氏。
 しばらしくして、「吹いてみて」とその生徒に話す。
 生徒の演奏を聴いた後、チック氏は言った。

君がやりたいようにやればいい

 … 私なんかがソコに解説をするなんて、おこがましいのですが、たとえばショートケーキを食べたときに、とっても美味しく感じて嬉しくなり、「美味しいっ!」という気持ちを発言にしたいのですが、どんな音量で、どんなフレーズがいいですか?って質問に似ていると私は思うのです。

 つまり、自分が思うようにやることが、この世でたった一つの正解なんだと思います。
「自分らしい」音楽の表現の仕方を、譜面通りの演奏と比較して演奏してくれたチック氏。
 これは分かりやすい。
 そして羨ましい(笑)。
゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。
 クラシックの厳格な音楽性の順守だったり、コンクールに対して「やってはいけないこと」を徹底的に守ったり、そこで学ぶ音楽ってどこか本質があやふやで、やや不完全なものだと危惧しております。

 だからこそ、福島に向けてチック氏がフロリダから発信したこの「提案」は、至高の「音楽の授業」だと私は感じました。

 子どもたちの音楽を守るということは、こういうことなんだね。

 私も心から感動して、反省もして、コロナ禍での教室活動に気合が入りました ♪

 最後の挨拶、「サンキュー、チックさん」という響きがなんとも面白く、素敵でした ☆
゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。
 今日のあいうえお作文。
 お題は「ちっくさん」。
「ちっ」ぽけなプライドを
「く」るしさで水洗いした
「さん」みが強い私の音楽

「上手だね!」とさんざん褒められてしまったゆえに、芽生えてしまったプライド。
 しかもしょーもないやつ。
 音楽大学に入学、いや、卒業するまでに、何度も何度もボロボロに、それを打ち壊されます。
 それは自身の悩みの壁、ライバルの台頭など。
 それで味わう水分は、汗、涙、そして血。
 じゃぶじゃぶじゃぶじゃぶ…。


「私にとっての音楽」、それはたぶん誰のものも、すっげー酸味が強くて、やっかいで、愛おしいもの ♪


福島県・郡山市で1000人の生徒さんと作り上げたピアノ教室が故郷を元気にしていく奮闘記、こぱてぃピアノ日記、2020/09/0612:00
今日のあいうえお作文
「ちっくさん」

http://kopatymusic.blog.fc2.com/blog-entry-1104.html

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三代目の若社長とコワモテの番頭

 2020年8月28日、安倍晋三首相が突然、辞任を表明した。
 持病の潰瘍性大腸炎が悪化したというのが理由。
 24日に連続在職日数が佐藤栄作内閣を抜いて歴代最長を記録した直後の発表だった。
 第二次安倍政権が発足して7年8ヶ月。
 長かった!

 とはいえ、やれやれやっと解放される、という気分には全然なれない。
 解釈改憲、公文書の改ざん、官僚の忖度体質。
「負の遺産」があまりにも多すぎて、壊れたものをどうやって修復したらいいのか見当もつかない。
 しかも安倍は第一次安倍政権のときと同様、持病で辞任するのである。
「こころざし半ばにして倒れた悲劇の宰相」という美しいイメージすらひきずって!

 案の定というべきだろう。
 辞任発表後の9月2〜3日に行われた朝日新聞の世論調査では、安倍首相の実績を「評価する」が71%で、「評価しない」の28%を大きく上回り、また読売新聞9月4〜6日の世論調査では、安倍政権の支持率が前回調査の37%から52%に跳ね上がった。

 気分が晴れないもうひとつの理由は、次の宰相の問題である。
 形ばかりの総裁選には、菅義偉官房長官、岸田文雄政調会長、石破茂元幹事長の三人が立候補したものの、党員投票は行われず、最初から菅の当選は確実という出来レース。
 テレビのニュースやワイドショーはさっそく菅の「素顔」を紹介すべく、秋田の農家に生まれ、ダンボール工場で働きながら大学を出た苦労人だとか、じつはパンケーキ好きな好人物だとかいうヨイショ報道をくり広げた。

 その結果、同じ読売の世論調査の「次の首相には誰がふさわしいか」という質問では、菅がトップで46%、石破は33%、岸田は9%。
 共同通信が8月29・30日に行った世論調査では、石破が34%、菅が14%(以下、河野太郎13%、小泉進次郎10%、岸田7.5%)だったのだから、たった一週間で菅は石破を抜きさったことになる。
 おそるべき宣伝効果である。

 この菅内閣の元で秋からの日本は歩みだすのである。
 安倍から菅への権力の委譲ははたして何を意味するのだろうか。

三代目の若社長とコワモテの番頭

 まず安倍政権とは何だったのかを思い出してみよう。

 適菜収『国賊論』のサブタイトルは「安倍晋三と仲間たち」。
 こんな表題の本だけあり、適菜の安倍批判は激烈である。

安倍晋三は、国を乱し、世に害を与えてきた。文字どおり、定義どおりの国賊である〉と彼は書きだす。

安保法制騒動では憲法破壊に手を染め、北方領土の主権を棚上げし、不平等条約締結に邁進。国のかたちを変えてしまう移民政策を嘘とデマで押し通し、森友事件における財務省の公文書改竄、南スーダンPKOにおける防衛省の日報隠蔽、裁量労働制における厚生労働省のデータ捏造など、一連の「安倍事件」で国の信頼性を完全に破壊した。
 安倍は、水道事業の民営化や放送局の外資規制の撤廃をもくろみ、皇室に嫌がらせを続け、「桜を見る会」問題では徹底的に証拠隠滅を図った。
 要するに悪党が総理大臣をやっていたのだ


 あらためて列挙されると、すごいよね。

 適菜の批判はさらに安倍の「仲間たち」に及ぶ。

この究極の売国奴・国賊を支えてきたのが産経新聞をはじめとする安倍礼賛メディアであり、カルトや政商、「保守」を自称する言論人だった。
「桜を見る会」には、統一教会の関係者、悪徳マルチ商法の「ジャパンライフ」会長、反社会的勢力のメンバー、半グレ組織のトップらが呼ばれていたが、そこには安倍とその周辺による国家の私物化が象徴的に表れていた


 安倍政権の「罪」は三つに分類できるだろう。

@ 無体な法律(特定秘密保護法、安保法、共謀罪を含む改正組織的犯罪処罰法、IR法、水道民営化法、改正種子法ほか)の制定、二度の消費増税、沖縄県辺野古の新基地建設、米国からの武器の爆買いなど、平和憲法軽視や生活破壊に通じる数々の政策。
A 数を頼んだ強行採決、メディアへの圧力、電通や吉本興業と結託した政治宣伝など、官邸主導の独善的な政権運営。
B 森友問題、加計問題、「桜を見る会」問題に代表される政治の私物化と、それに伴う公文書の隠蔽や改ざん。

 @については賛否が分かれるとしても、Aは民主主義の原則にもとる専制だし、Bに至っては犯罪ないし犯罪すれすれの大スキャンダルである。
 それでも安倍政権は野党やメディアや追及をかわし、まんまと難局を乗り切った。
 ひとえにこれは、官邸の要たる官房長官・菅義偉の手腕によるところが大きい。

「アベ政治を許さない」というスローガンに象徴されるように、左派リベラルは首相個人を最大の敵と見定めてきた。
 でも、もしかしたらそれは買いかぶり、幻想だったのかもしれない。

大事なことは、安倍には悪意すらないことだ。
 安倍には記憶力もモラルもない。
 善悪の区別がつかない人間に悪意は発生しない。
 歴史を知らないから戦前に回帰しようもない。
 恥を知らない。
 言っていることは支離滅裂だが、整合性がないことは気にならない。
 中心は空っぽ。
 そこが安倍の最大の強さだろう
〉と適菜はいう。

 もしもこの通りなら、安倍は祖父の遺産を継いだ、無能な三代目の若社長である。
 自分の手で憲法を変えたい、日本を「美しい国」にしたい。
 そんなファンタジーはあるけど、実現の仕方はわからない。
 それで失敗したのが第一次安倍政権だった。

 そんな失意の安倍に再起を促したのが菅だったというのは有名な話。
 菅という人事権をにぎったコワモテの番頭が、裏で議員や官僚に睨みをきかせ、メディアを牛耳り、三代目のスキャンダルをもみ消し、毎日の記者会見で追及の矢面に立つ。
 いわば裏の「汚れ仕事」を一手に引き受ける番頭がいたからこそ、三代目若社長は、国政は側近や官僚に任せて、外遊だ、オリンピックだ、有名人との会食だと、浮かれていられた……。
 もしそうだとしたら、道半ばで倒れた三代目に代わって、権力の座につく番頭がどんな政治をやるかは想像がつく。

番頭が権力者になるとき

 9月2日の会見で、菅は「安倍総裁が全身全霊を傾けた取り組みをしっかり継承し、さらに前に進めるために全力を尽くす覚悟だ」と述べた。
「番頭として先代のレガシーをしっかり受け継いでいく」という従来の顧客(財界・産業界・富裕層など)に向けた宣言にほかならない。
 一般の国民? 眼中にあるわけないっしょ。

 彼の手腕の一端は『伏魔殿――菅義偉と官邸の支配者たち』という本の中でも垣間見ることができる。

2019年9月の内閣改造後、菅氏の周辺で、まるで狙い打ちにされたかのようなスキャンダルが続発した。
 河井克行法相(当時)、菅原一秀経産相(同)の大臣辞任と、河井氏の妻・案里参議院議員の公選法違反疑惑。
 河井氏、菅原氏はいずれも菅氏の側近で、入閣は「菅人事」と呼ばれた。
 また、同時に入閣した小泉進次郎環境相についても、就任以降の発言が「意味不明」と酷評され、私生活上のスキャンダルも報じられている。
 小泉氏もまた菅派≠フ1人だ

 さらに、
菅氏の懐刀と呼ばれる和泉洋人首相補佐官と、厚労省の女性幹部官僚の「京都不倫旅行」〉、
 12月には伊藤詩織さんが民事裁判で勝訴して、
かつて菅官房長官の秘書官をつとめた中村格警察庁官房長が、山口敬之氏(元TBSワシントン支局長)の「逮捕を止めた」一件がクローズアップされた
 さらにまだある。
 やはり12月に、IRをめぐる汚職事件で秋元司衆院議員が逮捕された一件も、
IRの旗振り役をつとめてきた菅氏にも「火の粉」が降りかかる可能性は十分にある

 ちなみに河井夫妻はその後、逮捕されている。
 剛腕な番頭のほころびが目立ちはじめたことを指摘した記事ではあるが、逆にいうと菅はそれほど強引な人事をやってきたってことである。

 官邸の初期のコロナ対策を批判した、乾正人『官邸コロナ敗戦』では、安倍と菅の間の「すきま風」について書く。

 菅は、
一度たりとも「ポスト安倍」に明確な形で意欲を示したことはな〉かったが、
とはいえ、永田町では権力のあるところ門前市をなす

 新元号の発表会見で人気が出た「令和おじさん」との握手を求める人びとで、2019年4月の「桜を見る会」では首相より長い列ができた。
 これによって、
「ポスト安倍」の有力候補に菅が躍り出たことを強烈に印象づけた

 こうして菅の存在感が増すにつれ、安倍は菅を遠ざけ、コロナ対策でも菅を外して畑違いの西村康稔経産相を担当大臣に起用した。

コロナ禍の水面下で、「ポスト安倍」をめぐる静かな、そして激しい駆け引きが始まった〉というのだが、コロナ対策で安倍のストレスが限界に達し、ひいては持病の悪化につながったとも考えられる。
 そして菅はその間、「アベノマスク」や「Go To トラベル・キャンペーン」などのトンチキな対策を粛々とこなしながら、ついに「ポスト安倍」の座を射止めたわけだ。

 今日の事態を見こしたかのように、
この先「安倍政権にはずっと疑問を感じていましたが、立場上、発言できなかったんです」と言い出す人間のクズがたくさん出てくるはずだ
と『国賊論』は予言する。
しかし、安倍に見切りをつけて、泥船から逃げ出したとしても、一件落着という話にはならない。社会の空気が腐っている限り、同じようなものが担がれるだけ

 その通りだろう。
 下手すると、菅は安倍よりたちが悪い。
 番頭は所詮番頭、イメージを取り繕う必要がないからだ。
 先代のレガシーを継承しつつ、番頭時代そのままのコワモテの政治を、今度は表でやる。
 安倍時代のほうがマシだったという話にもなりかねない。

この記事で紹介された本

・ 適菜収『国賊論――安倍晋三と仲間たち』(KKベストセラーズ、2020年)
バカがバカを担いだ結果わが国は3流国に転落した……これは「第2の敗戦」だ!〉(帯より)。

 保守としての独自の視点から安倍政権を一貫して批判してきた著者による、「日刊ゲンダイ」連載のコラムなどを中心にまとめた本。
今は左右で小競り合いをしている時間の余裕はない。日本人は決起すべきだ〉とし、安倍政権とその周辺を痛罵する。
 口は悪いが主張は真っ当。

・ 別冊宝島編集部ほか『伏魔殿――菅義偉と官邸の支配者たち』(宝島社、2020年)
「国政私物化」10のスキャンダルを暴く! 「ウソつき政権」の検証〉(帯より)。

 複数の論者の論考、編集部記事、インタビュー記事で構成された雑誌風の本。
 桜を見る会、ジャパンライフ、ポスト安倍、NHK会長人事、山口敬之「性暴力裁判」など、安倍政権下の疑惑を検証。
 菅については「『陰謀論』まで渦巻く菅義偉官房長官『急失速』の深層」で詳しく書かれている。

・ 乾正人『官邸コロナ敗戦――親中政治家が国を滅ぼす』(ビジネス社、2020年)
新型ウイルスで迷走する安倍政権の内幕!〉(帯より)。

 著者は産経新聞の論説委員長。
 中国からの入国拒否が遅れたなどの水際作戦の失敗を痛烈に批判。
 緊急事態宣言発令までの初期の対策の話に限られ、また新型コロナを「武漢ウイルス」と呼ぶなど「反中」意識が鼻につく本だが、安倍礼讃報道の本丸である産経の記者でさえ官邸に苛ついていたと分かる点では興味深い。

※ PR誌ちくま2020年10月号

webちくま・世の中ラボ、2020年10月22日更新
「安倍辞任」でも気分が晴れない理由(わけ)
(斎藤 美奈子)
http://www.webchikuma.jp/articles/-/2185

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坂野潤治、逝く

 明治憲法体制の確立や日中戦争に至る過程など日本近代政治の流れを解明した歴史家で、東京大学名誉教授の坂野潤治(ばんの・じゅんじ)さんが2020年10月14日、進行性胃がんで死去した。
 83歳だった。
 葬儀は近親者で営んだ。
 喪主は妻和子さん。

 1937年、横浜市生まれ。
 東大生時代には60年安保闘争に全日本学生自治会総連合(全学連)の幹部として加わった。
 千葉大助教授や東大教授などを経て、東大社会科学研究所所長も務めた。
 東大を退職後は千葉大教授を務めた。

 日本近代政治史を専門とし、精密な史料分析に基づいて独自の視点を提示した。
・『明治憲法体制の確立、富国強兵と民力休養』(東京大学出版会、1971年1月)、
・『大正政変、1900年体制の崩壊』((Minerva21世紀ライブラリー、ミネルヴァ書房、1994年4月)、
・『近代日本の外交と政治』(研文出版、1985年12月)、
などの著作では、近代国家が確立し展開していく政治過程を各政治勢力が影響しあうメカニズムとみなした。
 幕末や明治、大正から昭和の戦前にかけての政治の流れを描く歴史叙述も得意とした。

 1997年に吉野作造賞を受賞した『近代日本の国家構想、1871‐1936 』(岩波現代文庫、2009年8月)は、廃藩置県から昭和の戦時体制の確立に至る間に、政治家や思想家がいかに多様な国家像を描き、実現しようと競っていたかを論じた。
 幕末から戦前までの約70年間にさまざまな立憲思想が広がり、明治憲法の制定から運用されていく過程をたどった『日本憲政史』(東京大学出版会、2008年6月)では、2009年の角川源義賞を受賞した。

 大学を退いた頃から、日中戦争に至る歴史の転換点に迫った『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書、2004年2月)や、激しく揺れ動く「武士の革命」の実像を描いた『未完の明治維新』(ちくま新書、2007年3月)といった新書などの一般向けの執筆活動も精力的に続けていた。
 今年9月には『明治憲法史』(ちくま新書、2020年9月)を出版した。

政治学者・御厨貴さんの話

『明治憲法体制の確立』をはじめとして、史料を読み込み、かつ史料に溺れることなく、彼自身の明治国家像を見事に描き出した。それは当時の権力者たちの対立や妥協のもようを通じて語られ、明治を単に歴史上の出来事として眺めるのではなく、まるで現代の政治を見ているかのようなリアルさがあった。


朝日新聞、2020年10月20日 21時16分
坂野潤治さん死去
歴史家、日本近代政治の流れを解明

https://digital.asahi.com/articles/ASNBN6RYCNBNUCLV00D.html

『帝国と立憲――日中戦争はなぜ防げなかったのか』(筑摩書房、2017年7月)の「はじめに」を公開します。
近代日本の立憲勢力は、軍部らの暴走にくり返し抵抗し、日中対立の激化への歯止めとなってきました。
しかし、それにもかかわらず、80年前の夏、この国の民主主義が対外侵略を阻止しえなかったのはなぜでしょうか?
今年80歳を迎えた第一人者が、その真因を60数年におよぶ近代史に探りました。
ぜひ、ご覧ください。

 現代日本が領土や特殊権益の獲得をめざして対外進出に着手したのは、1874(明治7)年の「台湾出兵」からです。
 獲得目標は琉球(今の沖縄)でしたが、出兵したのは中国(当時は清国)領土の台湾でした。
 他方、近代日本が立憲制の導入に向けて具体的な一歩を踏み出したのは、その翌年、1875年の明治天皇による「立憲政体樹立の詔勅」からです。
 前者を「帝国」化、後者を「立憲」化と呼ぶとすれば、この時から1937(昭和12)年7月に日中全面戦争が始まるまでの62年余りの間、「帝国」化も「立憲」化も、それぞれ拡大の一途をたどったと言えます。

 現代の観点からすれば、言うまでもなく、「帝国」化は悲しむべきことであり、「立憲」化は喜ぶべきことです。
 しかし、今の私たちには矛盾するかのように見えるその両者を、近代日本がともにごく限られた期間のうちに成し遂げたことを、どう理解したらいいのか。
 明治末年には、国内の民主化と中国・朝鮮への侵略との同時進行を肯定した「内に立憲、外に帝国」などという恥ずかしい標語が流行りました。
 その標語が意味するように、近代日本の歩みを、対外的な膨張政策と国内の立憲政治とが矛盾なく並行的に進展した時代としてとらえる見方も、少なからずあります。
 しかしこのような理解は、はたして正当でしょうか。

 筆者の個人的期待は、「立憲」化が進んだ時には「帝国」化が停滞する、という事実が見出されることでした。
 本書が明らかにするように、この期待は果たされたと言えます。
 約60年間の日本近代史をこの両者の関係に絞って検討した結果、「立憲」化の盛んな時には、「帝国」化が抑えられていたことは確かです。

 しかし、それにもかかわらず、近代日本の「帝国」化は、周期的に抑えられることはあっても、また段階的に進んでいきました。
 その様子はひと昔前に旅先の旅館などでよく見た“もぐら叩き”を思い出させます。

 「立憲」勢力がひと休みすると「帝国」勢力が頭をもたげる、と言えば事は簡単ですが、その正反対の場合も少なくありません。
 相手国の軍事力や国民的な抵抗の強さの前に「帝国」勢力が一時休止を強いられたお蔭で、日本国内で「立憲」勢力が息を吹き返したような場合もありました。

 戦後70年余りが過ぎた今日の日本人が戦争反対を唱えるとき、その念頭にあるのはいつも“先の大戦”、つまりは1941年末から45年8月にかけての対米戦争です。
 しかし、1874年から1941年までの67年間、日本の「帝国」勢力が膨張の対象としてきたのはつねに朝鮮と中国であり、1904年から1905年の日露戦争を唯一の例外として、相手国はいつも中国でした。

・ 1874年の台湾出兵、
・ 1894年の日清戦争、
・ 1915年の対華二十一カ条要求、
・ 1931年の満州事変、
・ 1937年の盧溝橋事件、
と年表風に見ただけでも、このことは明らかでしょう。
 念のために付言しますが、ほとんどの日本人が知っている1941年から45年にかけての日米戦争の間も、日中戦争は続いていました。
 1874年に始まり1945年に終わる日本「帝国」の膨張過程のすべての時期において、日本と中国は対立しつづけていたのです。

 時代を日中全面戦争が始まる1937年以前に限ってみれば、日本国内の「立憲」化への努力も同時並行的に続いていました。
「帝国」化と「立憲」化の間に時期的なズレがあったと大筋でみなしうることは指摘したとおりですが、にもかかわらず「立憲」化は漸進的に進んでいたのです。
・ 1875年の立憲政体樹立の詔勅、
・ 1880年代の国会開設運動、
・ 1912年から13年の第一次憲政擁護運動、
・ 1925年の男子普通選挙法の成立、
・ 1925年から32年までつづく二大政党制の時代、
・ そして1936、37年の二度の総選挙における合法社会主義政党の躍進。
 このように列挙しただけで、それは明らかでしょう。

 問題は両者の因果関係です。
「帝国」化の時代と「立憲」化の時代が重なることは、事実としては存在しませんでした。
 二つの時代は交互に訪れたのです。
 このことは喜ぶべき発見でした。
「内に立憲、外に帝国」という標語は、実際の政治の上では存在しなかったのです。
「帝国」と「立憲」は相対立するものだったといえるでしょう。

 だからといって、「立憲」が「帝国」に正面から立ち向かった事例は、むしろ少数でした。
 しかし、反対に「帝国」が国内の「立憲」勢力を正面から押しつぶした事例も、そう多くはありませんでした。
 両者は正面衝突を繰り返すよりも、むしろ輪番制を守った時の方が多いのです。

 本書は、「内に立憲、外に帝国」という標語の当否を――そして、最終的には「立憲」が「帝国」への歯止めとなりきれなかったことの意味を――、戦前日本の歴史の中で再検討したいと思い書き始めました。
 そのために「帝国」と「立憲」という言葉を対概念として使っています。
 日中関係を主として対外関係をとらえる本書に、近代史研究では高度に発達した資本主義国家の対外膨張を指して使われてきた「帝国主義」は不適当です。
 しかし、琉球、台湾、朝鮮、満州、華北へと領土や特殊権益を拡大していく戦前日本が、「帝国」化をめざしていたことは間違いありません。

 その対をなす「立憲」という言葉は、本論でも説明するように、今日の「立憲主義」とは異なる意味で使っています。
 戦後憲法の下で用いられる「立憲主義」とは、憲法によって時の政権による権力の濫用を抑えるという意味ですが、戦前の日本にあっては、大日本帝国憲法(明治憲法)に頼っていたのでは、権力の濫用を防ぐことは不可能だったからです。

 たとえば、1889(明治22)年に発布された大日本帝国憲法は第11条で、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定めていました。
 ここでいう「統帥権」とは、軍隊の作戦と用兵に関する指揮・命令権のことです。
 それは陸海軍の統帥部(参謀本部・海軍軍令部)の補佐のもとに行使され、政府(内閣)も介入できないことを定めたものと解されました。
 有名な「統帥権の独立」です。
 詳しくは本書の中で見ていきますが、明治憲法に頼っていては、権力の濫用どころか陸海軍の暴走すら防げませんでした。

 この軍部の暴走に歯止めをかけるために生まれた議論は、「合憲」だけれども「非立憲」だというものでした。
「合憲」と「立憲」を別々のものとしたのは、民本主義者の吉野作造です。
 1922(大正11)年2月に発表した論文の中で、吉野は次のように問題を提起しています。
 参謀本部と海軍軍令部〔統帥部〕とは、制度の上で既に明白に国務大臣の輔弼の責任〔国政においては内閣が天皇を補佐すること〕と衝突する。
 これが立憲の本義に悖ることは言うまでもない。
 しかしながら、これを憲法違反といえるかといえば、この点は少しく他の観点を交えて考えて観る必要がある。
(「帷幄上奏論」『日本政治の民主的改革』14頁参照、〔 〕内は筆者による注)

 吉野はこの観点から、リベラルな憲法学者美濃部達吉が『憲法講話』で説いた議論の限界を指摘しています。
 軍部優位の大日本帝国憲法をいくら自由主義的に解釈改憲してみても、第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という規定には手をつけられません。
 陸海軍参謀本部の独走は「合憲」です。
 戦前日本では、(「憲法による権力の抑制」という意味での)「立憲主義」では軍部の独走は防げなかったのです。

「大日本帝国憲法」の制限を超えてそれを抑え込むためには、憲法論争ではなく、「立憲の本義」に立ち戻るしかない、と吉野は論じました。
 本書で、「立憲主義」ではなく「立憲」を「帝国」に対置したのは、吉野の言う「立憲の本義」にヒントを得たものです。

 それでは「立憲の本義」はどうやって憲法の明文を超えられるのか。
 普通選挙論者の吉野にとっては、もしもそれが実現すれば、全国民に支えられた衆議院を基盤とする政党内閣の力で(憲法解釈ではなく民主主義の力で)、陸海軍という「統帥部」の独走を抑え込めるはずでした。

 たしかに吉野の期待どおりに、男子普通選挙制の下で衆議院の過半数を握った浜口雄幸や若槻礼次郎の率いる立憲民政党の内閣は、ロンドン海軍軍縮条約についても満州事変にあたっても、「統帥部」の主張や行動に、相当な抵抗を試みました。
「立憲の本義」は「帝国」に対立しつづけたのです。
 しかし、「帝国」と「立憲」の対立は、普通選挙制と政党内閣慣行(「制度」ではありません)の成立によっては、解消できませんでした。
 戦前の日本では、両者の対立は、太平洋戦争という総力戦に突入するまでは解消しなかったのです。

 しかも、太平洋戦争の勃発によりまず「立憲」が敗北し、その戦争の敗北によって「帝国」の方も敗北したのです。

 1874年の台湾出兵により始まる「帝国」化と、翌75年の詔勅によって始まる「立憲」化の相克の歴史は、最終的にこうした不幸な結末へといたりました。
 しかし、そうであるにせよ――あるいは、そうであればこそ――そこから私たちが汲み取るべき教訓は大きいはずです。
 近代日本における「帝国」と「立憲」の相克とはいかなるものだったのか。
 以下、詳しく分析していきましょう。


webちくま、2017年8月7日更新
試し読み
日中戦争を二度と起こしてはならない
坂野 潤治
http://www.webchikuma.jp/articles/-/732

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2020年10月22日

"Quad"

 菅義偉首相は2020年10月18日から21日にかけてベトナムとインドネシアを訪問した。
 目的は「自由で開かれたインド太平洋」、つまり中国が進めている一帯一路のうち「海のシルクロード」を潰す体制作りにある。

 アメリカが2018年5月に太平洋軍をインド・太平洋軍へ変更したのもそのため。
 太平洋側の拠点を日本、インド洋側の拠点をインド、そしてインドネシアで領海域をつなごうという構想で、力と威圧によって中国を封じ込めようというわけである。
 アメリカが中国を挑発していることは本ブログでも書いてきた。

 アメリカの​マイク・ポンペオ国務長官(Michael Richard "Mike" Pompeo、1963年生まれ)は10月6日、東京で日本、インド、オーストラリアの代表と会って中国との戦いについて話し合い​("Quad" to serve as a counterweight to China and promote their vision of a "free and open Indo-Pacific")、​8日には岸信夫防衛大臣(1959年生まれ)が横田基地で在日米軍のケビン・シュネイダー司令官(Kevin B. Schneider、He was raised in Springfield, Virginia and graduated from the US Air Force Academy in 1988 with a degree in engineering science)と会談​している。

 太平洋とインド洋を統合して支配しようというアメリカの構想ではインドネシアが重要な役割を果たすことになっているのだが、ポンペオと東京で会談した相手の中にそのインドネシアが含まれていない。
 菅義偉首相はポンペオの使いっぱしりとしてインドネシアとベトナムへ行かされたのだろう。
 フィリピンは訪問しても無駄だと諦めていたのかもしれない。

 かつて、ベトナムはアメリカの侵略を受けた。
 アメリカ軍による「秘密爆撃」ではカンボジアやラオスでも国土が破壊され、多くの人びとが殺されている。
 戦争でアメリカ軍は通常兵器だけでなく化学兵器の一種である枯れ葉剤(エージェント・オレンジ Agent Orange)やナパーム弾を使用、CIAはフェニックス・プログラム(Phoenix Program)という農民皆殺し作戦を展開して共同体を破壊した。

 しかし、1991年12月にソ連が消滅して後ろ盾を失ったこともあり、ベトナムはIMFなどに要求された政策、つまり新自由主義を受け入れることになった。
 ベトナム戦争中にアメリカ側が行った犯罪的な行為は不問に付され、ベトナムの庶民は低賃金労働者として西側巨大資本の金儲けに奉仕させられている。

 そのベトナムでの反応は悪くなかったようだが、インドネシアの大統領は会談後、アメリカの軍事的な要求に対し、消極的な反応しか示さなかった。
 実は、東京での会談でもインドやオーストラリアはインドネシアと似たような反応だった。
 日本がアメリカに対し、「身も心も捧げます」という態度を示しているのとは対照的だ。


櫻井ジャーナル、2020.10.22 02:25:12
中国締め上げの軍事同盟を強化したい米国の意向で東南アジアを訪問した菅首相
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010210000/

 名護市辺野古の新基地建設に関し、沖縄防衛局が公有水面埋立法に基づく設計変更を申請してから半年。
 県の最終判断は年明け以降になる見通しだ。
 埋め立てに使う土砂の採取場所を県内全域に広げ、その中に本島南部が含まれる。

 沖縄戦で多くの県民が犠牲になった南部は、いまだに遺骨が残り、ボランティアによる収集が続く。
 遺骨が含まれる可能性のある土砂を、米軍基地建設のために使用することは人道上許されない。
 日本政府に設計変更の撤回を強く求める。
 県は今回の変更を許可すべきではない。
 当該自治体も意思表示してほしい。

 沖縄防衛局は設計変更に伴い、土砂採取場所を離島を含む7地区9市町村と明記した。
 当初計画は、埋め立て土砂の7割以上を県外から搬入する予定だった。
 しかし、県外からの土砂搬入には、特定外来生物の侵入を防止するための県条例が適用される。
 条例適用を避けるため県内全域からの採取に変更したとみられている。
 県内調達量は当初の約6.7倍となり、その7割超が新たに加わった南部地区(糸満市・八重瀬町)だ。

 遺骨収集を30年以上続ける沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんは「遺骨は石灰岩や土の色と同化している。見た目ではほとんど分からず、手で持った重さでようやく判別できる」と語る。

 重機を使って土砂を採取する際に遺骨が混ざる可能性がある。
 実際に、新たに採取場所に盛り込まれた糸満市と八重瀬町の採石場で遺骨が発見されている。

 南部は沖縄戦の激戦地として知られる。
 日本軍は司令部が置かれた首里で降伏せず、1945年5月末に南部に撤退したため、日本軍約3万人、住民約10万人が混在することになった。
 日本兵によるガマ(自然洞窟)からの住民追い出し、食料強奪、乳児殺害、住民虐殺など数々の悲劇が起きた。
 米軍の攻撃にさらされ犠牲者が増加した。
 沖縄戦で犠牲になった県民(軍人・軍属含む)の6割が南部の戦闘(5、6月)に集中している。

 1971年12月、衆院沖特委で質問した瀬長亀次郎氏(人民党)は、佐藤栄作首相に南部で犠牲になった人びとの白骨写真をかざしながら「沖縄の大地、われわれの同胞の血を吸ったこの大地は、そうして遺骨は土と化しておる」と指摘した。
 その上で、半年後に迫る沖縄の施政権返還後もほとんどの米軍基地が残ることを批判している。

 瀬長氏の国会質問から半世紀が経過した現在、米軍の基地機能は強化され、民意を無視して日本政府は辺野古新基地建設を強行している。
 そして新基地建設に伴い「同胞の血を吸った」南部から土砂を採取しようとしている。
 到底県民の理解を得られないだろう。
 政府は新基地建設を中止し、南部を中心に遺骨収集に全力を尽くすべきだ。


琉球新報・社説、2020年10月22日 06:01
激戦地の土砂投入
人道上許されない行為だ

https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1211716.html

「完了まで12年を要すると、政府も認める埋め立て工事を直ちに中断し、問題解決に向け県との対話に応じていただきたい」
(沖縄県 玉城デニー知事)

 沖縄県の玉城知事は、名護市辺野古の建設予定地で見つかった軟弱地盤に対応するための設計変更によって完成が大幅に遅れる見通しで、普天間基地の危険性が温存されることなどを指摘しました。
 また、去年の県民投票で示された移設反対の沖縄の民意を尊重し、移設を断念するよう迫りました。

「着実に工事を進めていくことこそが、普天間飛行場の一日も早い全面返還、その危険性を除去することにつながると考えております」
(岸信夫防衛相)

 これに対し岸大臣は、「辺野古移設が唯一の解決策」などと従来の政府方針を繰り返し、両者の議論は平行線をたどりました。


[動画](22日18:36)

MBS News、2020-10-22 19:27
岸防衛相と玉城知事が会談、辺野古移設で考えに溝
https://www.mbs.jp/news/zenkokunews/20201022/4108444.shtml

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わが人生に悔いなし

 アキノ夜長、シャンソンもいいけど、日本の、日本語の歌もいいね、ってヤッホーくん。

★ 氷川きよしの「」は、2020年2月2日発売(作詞:なかにし礼、作曲:杉本眞人、編曲:若草恵)。
 ヤッホーくんのこのブログ、2020年10月21日「氷川きよし『母』」をお読みください。

★ その1年半前、2018年8月28日に発売されたのが、五木ひろしの「VIVA・LA・VIDA!〜生きてるっていいね!〜」(作詞:なかにし礼、作曲:杉本眞人)でした!
 ヤッホーくんのこのブログ、2019年02月04日「VIVA・LA・VIDA!〜生きてるっていいね!〜」をお読みください。

 今日は、このなかにし礼が30年以上も前、石原裕次郎(1934 - 1987)に贈った「わが人生に悔いはなし」(1987年4月21日発売)。
https://www.youtube.com/watch?v=K_-7aMAdFXI
https://www.youtube.com/watch?v=YnhIDLdxzAE

 作曲した加藤登紀子の歌でも、どうぞ:

わが人生に悔いなし 加藤登紀子 ピアノ 羽田健太郎
https://www.youtube.com/watch?v=HZFOKGj-91s

鏡に映る わが顔に
グラスをあげて 乾杯を
たった一つの 星をたよりに
はるばる遠くへ 来たもんだ
長かろうと 短かかろうと
わが人生に 悔いはない

この世に歌が あればこそ
こらえた涙 いくたびか
親にもらった 体一つで
戦い続けた 気持ちよさ
右だろうと 左だろうと
わが人生に 悔いはない

桜の花の 下で見る
夢にも似てる 人生さ
純で行こうぜ 愛で行こうぜ
生きてるかぎりは 青春だ
夢だろうと うつつだろうと
わが人生に 悔いはない

わが人生に 悔いはない

 故・石原裕次郎さんの妻・まき子さんが、2011年8月2日放送のトーク番組『うたの旅人』(毎週火曜 後10:00 BS朝日)で、裕次郎さん最後の楽曲「わが人生に悔いなし」の誕生秘話を語っている。
 インタビューは北海道・小樽の石原裕次郎記念館(※)にて行われ、まき子さんは「確かに声に力は無いけれども、なんとなくムードが物悲しいというか男の覚悟とか雰囲気のある歌でしょ。私、そう思ってるんですよね。それこそ神様が救ってくれたんだと思います。奇跡だったんですよ、2日間」と、在りし日の裕次郎さんとの思い出を振り返った。

 レコーディングは当時ハワイの別荘にあるスタジオで2日間行われた。
 すでに病魔に冒され、末期症状だった裕次郎さんだが、本人だけが病名を知らされていなかったという。
 最も体調が悪かったタイミングでレコーディングに臨んだ裕次郎さんを、まき子さんは「ここがまた不思議なことで裕さんも神懸かり的なものがありまして。前の日まで延々と続いていた40度の熱がピタッとレコーディングの日に止まるんです。これは七不思議のひとつに入るんですけれども」と微笑む。
 そのほか知られざる裕次郎さんの人生や病魔との闘いなどのエピソードを明かしている。

 歌手の渡辺美里がナレーターを務める同番組は、朝日新聞の土曜別冊版『Be』で連載中の同名コーナーを映像化。
 毎回ひとつの歌に焦点をあて、その故郷を訪ねることで歌を生んだ土地の歴史や風土、秘められた物語などを映像を交えて紹介していく。
 8月2日放送回では、まき子さんのほか「わが人生に悔いなし」の作詞を手がけた、なかにし礼、作曲を手がけた加藤登紀子がゲスト出演する。


※「北海道・小樽の石原裕次郎記念館」
 1991年、裕次郎さんが幼少期を過ごした北海道の小樽に開設した同記念館。2017年8月31日、26年の歴史に幕を下ろした。
 
 また、〈2021年1月16日(1963年1月16日石原裕次郎起業)を持ちまして 株式会社石原プロモーションの商号を故石原裕次郎氏仏前に返還することに全員一致で決定致しました〉(差出人は石原プロおよびまき子夫人)。

[写真‐1]
インタビューに応じる石原まき子さん 

[写真‐2]
神田正輝の結婚式で仲人を務めた裕次郎さんとまき子さん 

Oricon News、2011-07-12 05:00
石原まき子さん、夫・裕次郎さんの最後の楽曲秘話語る
「奇跡の2日間だった」

https://www.oricon.co.jp/news/89751/full/

なかにし礼『わが人生に悔いなし 時代の証言者として』
(河出書房新社、2019年6月)

「北酒場」(細川たかし)をはじめ数々の名曲を作詞し、小説「長崎ぶらぶら節」で直木賞に輝いたなかにし礼。
 言葉を自在に紡ぎ、人びとに感動を与えてきた彼が、これまで三度、死の淵をさまよった。

 旧満州からの引き揚げ、
 心臓発作、
 そしてがん闘病、

 そのつど生の側にいるのは何故か。
 80歳に達した作家、作詞家のその人生を淡々と語り続ける中に、実は答えが隠されている。
 自らの人生は自らで切り開く。
 そのエネルギーを生み出す力を持って生きてきたことがわかる。

 壮烈な人生は小説でも語られている。

 引き揚げ時に体験した戦争の実像、
 日本に戻っての貧しさといじめ、
 東京での高校生活とクラシックの名曲喫茶、シャンソン喫茶でのアルバイト、

等々、運命に引きずられるように作詞や文学の世界にはいっていく。
 授業料が払えず、立教大学英米文学科に三度も試験を受けて入り直すエピソードは、生きる姿の真摯さを示している。

 著者は人間の原石を見ることにより生を積み重ねてきた。
 本書に登場する人たちの多くは著者によって磨かれ、著者もまた磨かれたのである。
 結びの問いかけはそのことを示唆する。


朝日新聞・好書好日、2019年08月10日
「わが人生に悔いなし」書評
人気作詞家・なかにし礼の壮烈な人生

(評者:保阪正康)
https://book.asahi.com/article/12615898

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変わった日本

 学術会議任命拒否問題の説明をせず、国会を開いて所信表明すらせず、外遊に出かけていった菅首相。
 しかし、初外遊でもさっそくそのポンコツぶりを露呈している。

 たとえば、ベトナム・日越大学でスピーチを披露したのだが、それがひどかった。

 冒頭ベトナム語でリップサービスしたのだが、その内容が「私はベトナムが好きです」「私はASEANが好きです」。
 現地の言葉で挨拶するのはいいが、芸能人の海外公演でももうちょっと気の利いたことを勉強してくるだろう。
 だいたい「ASEANが好き」って、意味がわからない。
 言うまでもなく「ASEAN」とは「東南アジア諸国連合」という地域協力機構のことだが、菅首相は「ASEAN」を「ヨーロッパ」みたいな地域名か何かと勘違いしているのだろうか。
 今度はパリに行って「OECDが好き」とか、ブリュッセルに行って「NATOが好き」とか言い出すんじゃ……と心配になってくる。

 そのあとは日本語でスピーチしたのだが、例の「雪深い秋田で私は農家の長男としてとして〜」という総裁選でも繰り返していた叩き上げ話を、出来の悪いロボットのように繰り返す。
 いちおう自身の立身出世譚を、日本の発展、そしてベトナムの発展になぞらえたりもしていたが、それにしても浅すぎるだろう。
 ベトナムについて、「世界の成長センター」という認識しかなく、ベトナムの文化や歴史に対する理解も興味もまったく感じられない。

 おまけに「ASEAN(アセアン)」と言うべきところを「アルゼンチン」と言い間違える始末。

 機構名と国名でそもそもレイヤー layer が違うし、わざわざ「ASEANが好き」とか言っておいて、「ア」しかあってない。

 ハッキリ言って、これは外交儀礼以前のレベルで、一国の総理大臣としてあまりにお粗末だ。恥ずかしすぎる。

 しかも、菅首相の外交でのポンコツぶりはこれだけではない。たとえば、トランプ大統領がコロナに感染したときのツイートもひどかった。

〈Dear President Trump, I was very worried about you when I read your tweet saying that you and Madam First Lady tested positive for COVID-19.〉

 この英語が稚拙だと話題になっていたが、実は同時に投稿していた日本語バージョンはもっとひどかった。

〈親愛なるトランプ大統領へ、貴大統領とメラニア夫人がコロナに感染したとのツイートを見て心配しました〉

 英語ツイートはまるで自動翻訳しただけみたいなどと指摘されていたが、日本語バージョンは「親愛なるトランプ大統領へ」「貴大統領とメラニア夫人」とか自動翻訳でもこうはならない。
 どうやったらこんな日本語が書けるのかというような、珍妙きわまりないものだったのだ。

 もちろん、菅首相本人がすべてのスピーチを自分で考えたり、ツイートを投稿しているわけではないだろうが、菅首相自身がスタッフを決定し、このクオリティで問題ないと判断しているのだから、これはイコール菅首相に知性のかけらもないということだ。

総理大臣に学歴は必要ないが、教養は絶対に必要だ!無教養な為政者が生む政治の恐怖

 本サイトでは総裁選中からいち早く菅首相のトークのポンコツぶりについて指摘していたが(https://lite-ra.com/2020/09/post-5621.html)、それは単に口下手だとか滑舌が悪いだとかそういうことではなく(政治家なのに口下手というのもそれはそれで問題だが)、問題はその内容のなさ、知性のなさだった。
 対立候補だった石破茂氏や岸田文雄氏と比較しても、その知性のなさは際立っていて、政策などに対する理解もボキャブラリーも論理性も圧倒的に劣っていた。
 むしろ滑舌の悪さで、その知性のなさがごまかされているくらいだ。

 菅首相については、日本学術会議の任命拒否問題をめぐって、静岡県の川勝平太知事が「菅首相の教養レベルが図らずも露見した。学問をされた人ではない。単位を取るために大学を出た」と発言して批判を浴び、撤回した。
 しかし、この菅首相のスピーチをきちんと聞けば、川勝知事の指摘が決して間違いでないことがよくわかる。

 菅首相は、学歴とか地頭とかの問題ではなく、教養が圧倒的に欠けているのだ。

 総理大臣に学歴は必ずしも必要ではないが、教養は絶対に必要だ。
 もちろん教育格差が広がる現在の日本社会では、家庭環境などから幼少の頃に教養を身につけられる環境になかった人も少なくなく、そうした人が教養のなさだけで不当な扱いを受けることはよくない。
 しかし、少なくとも政治家になり一国の総理大臣になるような人間はその過程で自ら教養を身につける努力をするべきだ。

 外交だけの問題ではない。
 総理大臣は、いま現在起きている問題に場当たり的に対応するのでなく、人類の歴史や文化を俯瞰し、その背景や本当の問題を見出し、歴史の検証に耐えうる施策をとらなければならない。
 それには、教養が必要だ。

 菅首相が、自分たちの政権に楯突いたというだけでその学者の研究や実績なども知らず学術会議から排除したり、とっくに破綻が明らかになっている新自由主義政策をいまさら掲げたり、「携帯電話料金の値下げ」「不妊治療の無料化」など場当たり的な政策だけをアピールするのも、教養のなさとも無関係ではない。

 しかし、今回の初外遊を報じるニュースでも、真理子夫人のふるまいを盛んに取り上げたり、せいぜい外遊先がなぜベトナムとインドネシアだったのかを解説するくらいで、肝心の菅首相の言動については、「無難な初外遊」というもの。

 外遊も終え、ようやく来週から国会が始まる。

 所信表明や国会答弁でも露呈するであろう菅首相ポンコツぶり、教養のなさを、メディアはきちんと批判・検証してもらいたい。


リテラ、2020.10.21 04:00
菅首相のベトナムでのスピーチが幼稚で恥ずかしすぎる!
静岡県知事の指摘「菅首相に教養がない」は事実だ

https://lite-ra.com/2020/10/post-5678.html

 菅義偉(Yoshihide Suga)首相は2020年10月19日、就任後の初外遊でベトナムを公式訪問し、首都ハノイでグエン・スアン・フック Nguyen Xuan Phuc 首相と会談した。その中で両国は、安全保障と防衛面での連携強化で一致し、日本からベトナムに向けて防衛装備と技術を輸出することで大筋合意した。

 共同通信 Kyodo News は、今回の合意により、日本から哨戒機やレーダーなどの装備をベトナムに輸出することが可能になると伝えている。

 豊富な資源に恵まれている南シナ海 South China Sea をめぐっては、中国が全域の領有権を主張する一方、ベトナムをはじめ、フィリピン、マレーシア、ブルネイや台湾がこれに異議を唱えている。

ベトナムで閲兵.jpg
☝ ベトナムの首都ハノイにある首相府で、儀仗(ぎじょう)兵を閲兵する菅義偉首相(中央左)とグエン・スアン・フック首相(中央右、2020年10月19日撮影)。

 菅首相は、南シナ海問題を含めた地域の課題に直面し、ベトナムとの協力を密にしていくこと、また北朝鮮による日本人拉致問題でも連携していくことを明らかにした。


[写真‐1]
ベトナムの首都ハノイの首相府で、池のコイにえさをやる菅義偉首相(中央左)とグエン・スアン・フック首相(中央右、19日)。

[写真‐2]
ベトナムの首都ハノイの首相府で、菅義偉首相の公式訪問を歓迎する人々(19日)。

[写真‐3]
ベトナムの首都ハノイの首相府で開かれた歓迎式典で、子どもたちに手を振る菅義偉首相(中央右)、真理子夫人(左から2人目)、グエン・スアン・フック首相(中央左)、トゥー夫人(左、19日)。

[写真‐4]
ベトナムの首都ハノイの首相府で、記念撮影する菅義偉首相(中央左)、真理子夫人(左)、グエン・スアン・フック首相(中央右)、トゥー夫人(右、19日)。

AFPBB News 2020/10/19 23:09
菅首相、初外遊でベトナム訪問 防衛連携強化で一致
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/菅首相、初外遊でベトナム訪問-防衛連携強化で一致/ar-BB1aao19

中曽根元首相・合同葬.jpg
☝ 中曽根元首相・合同葬。「ザッザッザッ」。振り向くと軍靴の足音だった。歴史は繰り返す。=17日、都内

 10年ぐらい前だったか。中曽根元首相が外国特派員協会(FCCJ)で記者会見を持った。
 背はやや前かがみだったが、足取りはしっかりしていた。なにより滑舌明瞭で話しぶりからは老いを感じられなかった。
 いざ記者会見が始まると、外国記者の質問は、戦時中、海軍中尉だった中曽根氏がインドネシアで作った慰安所に集中した。
 海外の記者たちは具体的な証拠をあげ「prostitution(売春)」という単語まで用い、元海軍中尉を追及した。
 中曽根氏は「将兵の娯楽施設がないため、それを作った」と苦しい言い訳に終始した。
 ウンカのごとく押し寄せたグラマンが爆撃を浴びせ、戦艦大和を沈没させた時も、こんな光景だったのだろうか。田中はそう思わずにはいられなかった。
 「政治家は歴史法廷の被告」と豪語していた中曽根氏だったが、海外記者の前では形無しだった。威風堂々とした体躯が小さく見えた。
 記者会見で日本の記者が中曽根氏を追及する場面はほとんどなかった。

海上自衛隊・儀仗兵.jpg
☝ 戦前戦中にタイムスリップしたのだろうか。そんな錯覚をおぼえた。=17日、中曽根元首相・合同葬の会場入り口に整列した海上自衛隊の儀仗兵=

「歴史を曲げる民族は滅びる」と言われる。
 日本は「曲げる(=改竄する)」どころではない。破棄する国でもある。
 終戦直後、役人たちは公文書を焼却した。霞ヶ関には黒煙が立ち上った、と聞く。都合の悪いことは無かったことにする。
 その伝統は安倍政権に受け継がれた。そして今、スガ政権にリレーされた。劣化コピーとなって。それでも日本の記者たちは尻尾を振って、政権に気に入られようとする。
 歴史を改竄し破棄させる政治家を追及できない日本のメディアは、「歴史の法廷」に立てるだろうか。


田中龍作ジャーナル、2020年10月20日 15:01
日本のメディアは「歴史の法廷」に立てるか
https://tanakaryusaku.jp/2020/10/00023870

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2020年10月21日

きよす花壇

江東区登録史跡 陸奥宗光宅跡

 陸奥宗光 は、明治時代の外交官・政治家で、1844(弘化元)年、和歌山藩士伊達宗弘(千広)の第六子として生まれ、1897(明治30)年、西ヶ原(北区)の自邸で逝去しました。
 父宗広は藩の要職にありましたが、政争により失脚、宗光は15歳で江戸へでました。
 1862(文久2)年に脱藩し、京都で尊王攘夷 運動に加わり、のち坂本龍馬 の海援隊 に参加しました。
 このころより陸奥の姓を用いるようになりました。

 明治維新後は、外国事務局御用掛、神奈川県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しました。
 1877(明治10)年、西南戦争に呼応した土佐立志社内の挙兵派の政府転覆計画に加担したとして、翌1878(明治11)年に免官、5年間投獄されました。
 出獄後は外務省に入り、1890(明治23)年、第一回衆議院選挙で当選、第二次伊藤内閣の外務大臣として日英通商航海条約締結を実現、日清戦争(1894~95)の開戦と講和に関わりました。

 宗光が深川清住町(現清澄)に在住したのは1872(明治5)年から1877(明治10)年までの間で、大蔵省で地租改正事業に手腕をふるい、また薩長藩閥勢力による政権の独占を批判した論文「日本人」を書き上げた時期にあたります。
 この邸宅は、墨田川に面して眺望がよく「三汊水碧楼」と呼ばれていました。
(江東区教育委員会)


 そうなんです、今日のヤッホーくん、秋晴れに誘われ墨田川リバーサイドウオーク!
 ヤッホーくんの大好きな「清洲橋」。東詰めには秋の花もヤッホーくんをお出迎え!

P1020048.JPG

 目指すは、「きよす花組」が手入れしてくれている「きよす花壇」!

 この度、墨田テラス(清洲橋東詰)の花壇を中洲町会のグループで申請していましたところ、公益財団法人東京都公園協会より、OKが出ました。
 2011年9月末から10月初めに公園協会の方で作業に入って頂きます。
 現在、墨田テラス周辺には『花守さん』のグループが21あります。
 既に申請手続きに必要な人数の10名は、メンバーとしていらっしやいますが、広く町会の皆様にご参加頂きたく、今回、大募集するものです。
○ 名称: 『きよす花組』(申請段階で名前が必要でしたので、清洲橋と好きよ花の意味)
○ 場所: 清洲橋東詰・下流(三日月型で石のモニュメント横、30uの場所)
○ 目的:
1.中洲町会は既に『中洲あやめ会』という立派な花守さんのグループの花壇が(清洲橋西詰・上流)ありますが、清洲橋の両側を中洲町会の花壇で、飾りたいと考えました。
2.中洲町会はマンションに住む方が多く、花が好きでも花壇まではなかなか持てません。自分たちの花壇を持ち、その上、町内コミュニケーションの一環になるように。
○ 活動内容:
1.花壇のこしらえ、散水など
2.植栽(花)の植え替えなど
3.花壇の栽培計画の策定
4.花壇周辺の清掃
。。。


中洲町会 広報、2011-09-28
https://nakasu.cho-kai.com/2011/09/28/2011年9月25日%e3%80%80花の好きな人大募集/

 そうしたら、もう秋の花でいっぱいでしたが、そのなかからヤッホーくん、お気に入りのお花をご紹介:

P1020050.JPG
☝ 「コキア」。別名をスコーパリア、ホウキギ(箒木)、ホウキグサ(箒草)といいます。南ヨーロッパが原産地です。和名のホウキギ(箒木)は、枝を乾燥させて束ねて箒(ほうき)を作ったことと、江戸時代に箒として利用したことからホウキグサ(箒草)とつけられています。成熟果実は秋田県の郷土料理「とんぶり」の材料。
〇 花言葉:「恵まれた生活」「私はあなたに打ち明けます」
〇 誕生花: 1月31日
〇 英語: Belvedere

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☝ 「トレニア」。別名をハナウリクサ、ナツスミレ、ムラサキミゾホオズキといいます。東南アジア、アフリカが原産地です。開花時期は6月〜10月。花色は白色、紫色、ピンク色、赤色など。
〇 花言葉:「温和」「可憐」「欲望」「愛嬌(あいきょう)」
〇 誕生花: 8月4日、9月21日、9月27日
〇 英語: Bluewings、Wishbone flower

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☝ 「ミニ向日葵」といいます。北アメリカが原産地です。花壇やプランターで長い期間花が楽しめる新しい魅力がある品種です。開花時期は6月〜8月。花色は黄色。
〇 花言葉:「崇拝」「敬慕」「愛慕」「憧れ」「高慢」「光輝」「あなたを見つめる」「貴方は素晴らしい」
〇 誕生花: 誕生花のない花
〇 英語: Common sunflower

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☝ 「鑑賞用トウガラシのブラックパール」。唐辛子の「唐」は中国のことではなく「外国全般」を指しており、海外から渡来した辛子という意味です。
〇 花言葉:「旧友」「雅味」「嫉妬」「生命力」「悪夢がさめた」「辛辣」
〇 誕生花(トウガラシ):トウガラシは8月22日・10月12日の誕生花です。

P1020065.JPG
☝ 「コリウス」。日本では金襴紫蘇(きんらんじそ)、錦紫蘇(にしきじそ)と言った名前が付いており、東南アジアが原産地です。開花時期は6月〜10月。花色は紫色。園芸品種が多い植物、観葉植物のひとつ。赤、黄、緑など美しい斑模様の葉の色が美しく、花壇に寄せ植えしているのを見かける。
〇 花言葉:「善良な家風」「恋の望み」
〇 誕生花: 8月18日、10月2日、10月11日、10月15日、11月17日
〇 英語: Coleus

 ヤッホーくん、「今回のテーマは『オリンピック』です。(残念ながら来年に延期となりましたが)」という「きよす花壇」の標識板を後にして、大きく背伸びして、日差しをたっぷりいただいて、さ、帰ろ、だって。

P1020068.JPG

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氷川きよし「母」

 歌はいいですね、とくに秋の夜長には。

島津亜矢・天童よしみ/瞼の母
https://www.youtube.com/watch?v=sNriKkqttCU&list=RD5D3G5R2elO0&index=17
(セリフ)
おかみさん
今何とか言いなすったね
親子の名のりがしたかったら
堅気の姿で訪ねて来いと
言いなすったが
笑わしちゃいけねぇぜ
親にはぐれた子雀が
ぐれたを叱るは無理な話よ
愚痴じゃねぇ未練じゃねぇ
おかみさん
俺の言うことをよく聞きなせぇ
尋ね尋ねた母親に
倅と呼んでもらえぬような
こんなやくざに誰がしたんでぇ


(セリフ)
何を言ってやんでぇ
何を今さら忠太郎だ
なにがせがれでぇ
俺にゃおっ母さんはいねぇんでぇ
おっ母さんは俺の心の底に居るんだ
上と下の瞼を合わせりゃ逢わねぇ
昔の優しいおっ母の面影が
浮かんでくらぁ
逢いたくなったら逢いたくなったら
俺ぁまぶたをつむるんだ


氷川きよし/番場の忠太郎
https://www.youtube.com/watch?v=rg5SsBnp3Ik
 
氷川きよし / 母
https://www.youtube.com/watch?v=9Orzp5Ohgdo

 2020年2月2日にデビュー20周年を迎える氷川。
 ニューシングルの表題曲「母」はいつの時代も変わらない母への思いを表現した楽曲で、作詞をなかにし礼、作曲を杉本眞人、編曲を若草恵が担当した。
 シングルはAタイプ、Bタイプ、Cタイプの3形態。
 Aタイプには離ればなれになってしまった父親を思う歌「いつか会えますように」、
 Bタイプには氷川が女性の声を出して1人2役を務める「東京ヨイトコ音頭2020」、
 Cタイプには好きな男性に対するピュアな女心を描いた演歌「おもいで酒場」、
がカップリングとして収録される。

氷川きよし コメント

 おかげをもちまして、 2020年2月2日にデビュー満20年を迎えます。
 2月4日発売、氷川きよし21年目の新曲は「母」です。
 3年くらい前に、なかにし先生とお仕事をさせて頂いたときに作詞をお願いしました。
 私の心の中に曲のテーマは具体的に決まっているものがあり、なかにし先生に「母」一文字で作ってくださいとお伝えしました。
 3年近くの月日が経ち、出来上がった作品です。
 世界中どなたにも母がいる。
 母に応えたい、
 母を喜ばせたい、
 母に対する思いは世界共通です。
 もしかしたら、生き別れた母かもしれない。
 天国に旅立った母かもしれない。
 そんなみなさんの母。
 どんな時も私のことを一番理解しているたった一人の大切な母、
 年を重ねて小さくなって私のために生きてくれているそんな母、
に捧げる魂を込めた歌です。


音楽ナタリー、2020年1月15日 0:00
氷川きよし、ニューシングル「母」発売
https://natalie.mu/music/news/363161

「第七回新藤兼人平和映画祭」のトークイベントが本日2018年8月11日に東京・新文芸坐で行われ、山田洋次が登壇した。

「平和を祈る女性たち 〜映画が伝えた原爆・引揚げ〜」と副題が付いた今回の映画祭では、戦争や原爆によって平穏な暮らしを奪われた女性たちを描いた新旧5本の作品を上映。
 この日は山田監督の作「母と暮せば」と、山田が選んだ新藤兼人の監督作「さくら隊散る」がスクリーンにかけられた。

 新文芸坐のある池袋にはゆかりがあるという山田。

 松竹で助監督をしていた頃、“芝居”を勉強するために池袋の舞台芸術学院に通っていたことを明かすと、
「撮影所のある大船から池袋に毎日通って。帰り道は『疲れたな、明日も朝が早いな』と思いながら物騒な夜の池袋を歩きました。修行時代でしたね」
としみじみと懐かしんだ。

 今回の企画のために、山田は1952年に日本で初めて原爆の被害を公開した雑誌「アサヒグラフ」を持参。

終戦後、日本を占領していたアメリカは、原爆の被害を一切報道してはならないと規制をしていたんです。それで日本が独立してしばらくして、この雑誌が出版されました
と説明すると、
当時僕は大学生でしたけれども、1日で売り切れちゃって。雑誌のページを1枚1枚貼った大学の立て看板に、黒山の人だかりができました。僕たちは『これが原爆なんだ』ということを、実はそこで初めて知ったのです
と当時の状況を振り返った。

 2008年公開の「母べえ」、2015年公開の「母と暮せば」と近年になって戦争を題材にした映画を撮っていることについて尋ねられると、山田は、
「こういうことを訴えなければならない、という気持ちが先にあって映画を作るわけではない。表現したい物語に出会ったのが、たまたまこの時代だったんです」
と述べる。
 それぞれの作品についてはこう語った。
『母べえ』の原作を読んだときは、とても面白くてユーモラスなんだけど、その背景には軍国主義時代の空気が漂っているということが興味深かった。
『母と暮せば』は、井上ひさしさんの構想を娘さんから聞きました。むごたらしい戦争をそのまま描くのではなく、どうしても息子が死んだことに納得できない母親の悲劇と、息子の恋人が新しい恋人を見つけるプロセスを描くことで1つのドラマになるんじゃないかと思ったんです。

 山田は1950年代から1960年代にかけての日本映画界を回想して、
「豊かな時代だった。その時代に映画界に入れたことは幸運でした」
と目を細めつつ、
「こういう映画館が健在であることはうれしい。今はいろんな鑑賞方法がありますが、映画館に行くことをむしろ新しい体験として、若い人も含めて楽しんでほしい。それで日本の映画を愛する人が回復してほしいですね。ぜひ皆さん映画をいつまでも愛してください」
と観客に呼びかけ、イベントを終えた。


音楽ナタリー、2018年8月11日 17:26
山田洋次、平和映画祭で原爆被害や「母べえ」「母と暮せば」制作を語る
https://natalie.mu/eiga/news/295062

映画 『母(かあ)べえ』予告篇
https://www.youtube.com/watch?v=Av4KW8dJIw0

映画『母と暮せば』予告篇
https://www.youtube.com/watch?v=hvrs_103jRw

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2020年10月20日

Léo Ferré

L'invitation au voyage (Charles Baudelaire in Les Fleurs du Mal) - Léo Ferré
https://www.youtube.com/watch?v=d4tZ27VcrM8

Mon enfant, ma sœur,
Songe à la douceur
D'aller là-bas vivre ensemble !
Aimer à loisir,
Aimer et mourir
Au pays qui te ressemble !
Les soleils mouillés
De ces ciels brouillés
Pour mon esprit ont les charmes
Si mystérieux
De tes traîtres yeux,
Brillant à travers leurs larmes.

Là, tout n'est qu'ordre et beauté,
Luxe, calme et volupté. Des meubles luisants,
Polis par les ans,
Décoreraient notre chambre ;
Les plus rares fleurs
Mêlant leurs odeurs
Aux vagues senteurs de l'ambre,
Les riches plafonds,
Les miroirs profonds,
La splendeur orientale,
Tout y parlerait
À l'âme en secret
Sa douce langue natale.

Là, tout n'est qu'ordre et beauté,
Luxe, calme et volupté. Vois sur ces canaux
Dormir ces vaisseaux
Dont l'humeur est vagabonde ;
C'est pour assouvir
Ton moindre désir
Qu'ils viennent du bout du monde.
− Les soleils couchants
Revêtent les champs,
Les canaux, la ville entière,
D'hyacinthe et d'or ;
Le monde s'endort
Dans une chaude lumière.

Là, tout n'est qu'ordre et beauté,
Luxe, calme et volupté.

Charles Baudelaire, in Les Fleurs du Mal.

Les Assis (Arthur Rimbaud) - Léo Ferré
https://www.youtube.com/watch?v=hwLJQUUM6_A

Noirs de loupes, grêlés, les yeux cerclés de bagues
Vertes, leurs doigts boulus crispés à leurs fémurs,
Le sinciput plaqué de hargnosités vagues
Comme les floraisons lépreuses des vieux murs ;

Ils ont greffé dans des amours épileptiques
Leur fantasque ossature aux grands squelettes noirs
De leurs chaises ; leurs pieds aux barreaux rachitiques
S'entrelacent pour les matins et pour les soirs !

Ces vieillards ont toujours fait tresse avec leurs sièges,
Sentant les soleils vifs percaliser leur peau,
Ou, les yeux à la vitre où se fanent les neiges,
Tremblant du tremblement douloureux du crapaud.

Et les Sièges leur ont des bontés : culottée
De brun, la paille cède aux angles de leurs reins ;
L'âme des vieux soleils s'allume, emmaillotée
Dans ces tresses d'épis où fermentaient les grains.

Et les Assis, genoux aux dents, verts pianistes,
Les dix doigts sous leur siège aux rumeurs de tambour,
S'écoutent clapoter des barcarolles tristes,
Et leurs caboches vont dans des roulis d'amour.

- Oh ! ne les faites pas lever ! C'est le naufrage...
Ils surgissent, grondant comme des chats giflés,
Ouvrant lentement leurs omoplates, ô rage !
Tout leur pantalon bouffe à leurs reins boursouflés.

Et vous les écoutez, cognant leurs têtes chauves,
Aux murs sombres, plaquant et plaquant leurs pieds tors,
Et leurs boutons d'habit sont des prunelles fauves
Qui vous accrochent l'oeil du fond des corridors !

Puis ils ont une main invisible qui tue :
Au retour, leur regard filtre ce venin noir
Qui charge l'oeil souffrant de la chienne battue,
Et vous suez, pris dans un atroce entonnoir.

Rassis, les poings noyés dans des manchettes sales,
Ils songent à ceux-là qui les ont fait lever
Et, de l'aurore au soir, des grappes d'amygdales
Sous leurs mentons chétifs s'agitent à crever.

Quand l'austère sommeil a baissé leurs visières,
Ils rêvent sur leur bras de sièges fécondés,
De vrais petits amours de chaises en lisière
Par lesquelles de fiers bureaux seront bordés ;

Des fleurs d'encre crachant des pollens en virgule
Les bercent, le long des calices accroupis
Tels qu'au fil des glaïeuls le vol des libellules
- Et leur membre s'agace à des barbes d'épis.

Arthur Rimbaud (Poésies)

Léo Ferré - La solitude
https://www.youtube.com/watch?v=KBt36Bw7_8Q

Je suis d´un autre pays que le vôtre, d´une autre quartier, d´une autre solitude.
Je m´invente aujourd´hui des chemins de traverse. Je ne suis plus de chez vous. J´attends des mutants.
Biologiquement, je m´arrange avec l´idée que je me fais de la biologie : je pisse, j´éjacule, je pleure.
Il est de toute première instance que nous façonnions nos idées comme s´il s´agissait d´objets manufacturés.
Je suis prêt à vous procurer les moules. Mais...
La solitude...
La solitude...

Les moules sont d´une texture nouvelle, je vous avertis. Ils ont été coulés demain matin.
Si vous n´avez pas, dès ce jour, le sentiment relatif de votre durée, il est inutile de vous transmettre, il est inutile de regarder devant vous car devant c´est derrière, la nuit c´est le jour. Et...
La solitude...
La solitude...
La solitude...

Il est de toute première instance que les laveries automatiques, au coin des rues, soient aussi imperturbables que les feux d´arrêt ou de voie libre.
Les flics du détersif vous indiqueront la case où il vous sera loisible de laver ce que vous croyez être votre conscience et qui n´est qu´une dépendance de l´ordinateur neurophile qui vous sert de cerveau. Et pourtant...
La solitude...
La solitude!

Le désespoir est une forme supérieure de la critique. Pour le moment, nous l´appellerons "bonheur", les mots que vous employez n´étant plus "les mots" mais une sorte de conduit à travers lequel les analphabètes se font bonne conscience. Mais...
La solitude...
La solitude...
La solitude, la solitude, la solitude...
La solitude!

Le Code Civil, nous en parlerons plus tard. Pour le moment, je voudrais codifier l´incodifiable. Je voudrais mesurer vos danaïdes démocraties. Je voudrais m´insérer dans le vide absolu et devenir le non-dit, le non-avenu, le non-vierge par manque de lucidité.
La lucidité se tient dans mon froc!
Dans mon froc!


Léo Ferré - Avec le temps
https://www.youtube.com/watch?v=ZH7dG0qyzyg

Avec le temps...
Avec le temps, va, tout s´en va,
On oublie le visage et l´on oublie la voix
Le cœur, quand ça bat plus, c´est pas la peine d´aller
Chercher plus loin, faut laisser faire et c´est très bien

Avec le temps...
Avec le temps, va, tout s´en va 
L´autre qu´on adorait, qu´on cherchait sous la pluie 
L´autre qu´on devinait au détour d´un regard
Entre les mots, entre les lignes et sous le fard                
D´un serment maquillé qui s´en va faire sa nuit  
Avec le temps tout s´évanouit                            

Avec le temps...
Avec le temps, va, tout s´en va 
Même les plus chouettes souv´nirs ça t´as une de ces gueules
A la gal´rie j´farfouille dans les rayons d´la mort
Le samedi soir quand la tendresse s´en va toute seule

Avec le temps...
Avec le temps, va, tout s´en va
L´autre à qui l´on croyait pour un rhume, pour un rien
L´autre à qui l´on donnait du vent et des bijoux
Pour qui l´on eût vendu son âme pour quelques sous
Devant quoi l´on s´traînait comme traînent les chiens 

Avec le temps, va, tout va bien

Avec le temps... 
Avec le temps, va, tout s´en va
On oublie les passions et l´on oublie les voix
Qui vous disaient tout bas les mots des pauvres gens
Ne rentre pas trop tard, surtout ne prends pas froid

Avec le temps...
Avec le temps, va, tout s´en va
Et l´on se sent blanchi comme un cheval fourbu
Et l´on se sent glacé dans un lit de hasard
Et l´on se sent tout seul peut-être mais peinard
Et l´on se sent floué par les années perdues
Alors vraiment... avec le temps... on n´aime plus


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2020年10月19日

学術や知性、教養へのリスペクトの欠如、反発、嫌悪

 日本学術会議が推薦した6人が菅総理から任命されなかった問題について、山極寿一前会長が10月11日に行われたシンポジウムで、「会長であった私がきちんと交渉すべき問題だった」などと語りました。

 この問題をめぐっては、学術会議側が菅総理に対し任命を拒否した理由の説明と6人の任命を求める要望書を提出しています。

 先月まで学術会議の会長を務め、今回の会員の選考に関わった京都大学前総長の山極寿一氏は、11日に行われたコロナに関するシンポジウムの冒頭挨拶で「世間をお騒がせして誠に申し訳ない」と謝罪した上で、「会長であった私がきちんと交渉すべき問題だった」などと語りました。
 内示が、つまり6人の方々が任命から外れたという通知が入ったのは、私が退任をする2日前でございまして、即刻、そのことについて内閣の方に問い合わせた訳でありますが、なんら回答が得られず、退任直前になって文書で菅総理にその理由を説明して頂きたいというふうに申しあげた次第でございます。
 残念ながら、今に至るまで任命を拒否された理由は明かされておりません。
 わたくしは、これは非常に遺憾なことだと思っております。
 国の最高権力者が意に沿わないものは理由無く切る、問答無用であるというふうに明言することは、その風潮が日本各地に広がることが懸念されるからです。
 これは、民主主義の大きな危機でございます。
(山極寿一前会長)

 山極前会長はこう述べた上で、菅総理に対し賢明な政権運営を求めました。


TBS News、2020年10月17日 12時32分
山極前会長「私がきちんと交渉すべき問題だった」
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4104407.html

「学術会議なんかつぶしてしまえ」と息巻く自民党タカ派。
「運営が不透明」
「無用の長物だ」……。
 これに会議側も応戦、混乱は収まりそうにない――。

 いま注目の出来事にそっくりだが、じつは1980年代初めごろの報道である。

 当時、政府内でにわかに日本学術会議の改革論がわき起こったのだ。

「政」と「学」は激しい綱引きを演じ、廃止も現実味を帯びた。
 曲折を経て、会員選びを学者による直接投票から学会推薦制に切り替えるなどの改革が実現したのが1984年だった。

 学術会議をめぐる論議はこのときだけでなく、間欠的に起きている。
 だからそれ自体は驚くに値しないが、今回はどうだろう。

 なんといっても、騒ぎの発端は政府による個別人事である。
 学者6人を任命せず、批判を受けるや、政府・自民党は論点を行革に移した。
 行革といえば響きがいいが、順番が違う。

 もうひとつ憂慮すべきは、これを受けて、ネット空間などで組織への中傷や学者バッシングが盛り上がっていることだ。

「税金を使っているのだから政府にたてつくな」という指摘はおとなしいほうだ。
「日本をおとしめる学術会議」
「スパイもどきの集団」
「エリートがふんぞり返っている」……。

 デマやフェイクの混じった言説が飛びかい、学術会議が諸悪の根源であるかのような騒ぎぶりである。
 ふだんは気にも留めなかった組織への、異様な視線というほかない。

 政治と社会それぞれの、こうした動きの背景にあるメンタリティーは何か。
 それこそ総合的、俯瞰(ふかん)的に言えば、学術や知性、教養といったものへのリスペクトの欠如、さらには反発や嫌悪だろう。

学者の世界へのルサンチマンが噴き出している。反知性主義の風潮が見て取れます」と広田照幸日本大教授(1959年生まれ。2016年から日本教育学会会長)は言う。
 政府への「声援」の高ぶりは、政権の当事者さえ予想していなかったかもしれない。

 政治と社会のあいだで増幅する「知」への反発。
 こういう状況が事態の収拾をいっそう難しくさせる。
 その間に、少なからぬ学者が萎縮していくだろう。
 公的資金を受けている、さまざまな文化、芸術活動に影響は及びかねない。

 学術会議に多くの課題があることは確かだ。
 決して聖域ではない。
 けれど6人の学者を、なぜ、どんな経緯で任命しなかったのか。
 この不透明さを拭い、行き過ぎがあったなら正さないと、話はますます深刻になるだろう。
 必要な改革だって進まないはずだ。

 菅義偉首相と学術会議の梶田隆章会長は先週末に会談し、未来志向の改革で一致したという。

 しかし任命問題の局面は変わっていない。
 1980年代の「政」と「学」は、長い時間をかけて何とか着地点を見いだした。
 そういう過去は、あまりにも遠いのだろうか。


[写真]
会談した菅首相(左)と日本学術会議の梶田隆章会長(16日午後、首相官邸)

日本経済新聞、2020/10/18 2:00
出口見えぬ学術会議問題
「知」への反発が増幅

(大島三緒)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65108270W0A011C2SHB000/

 政府は、日本学術会議会員任命拒否について、憲法・法律の条文を挙げ、正当化を試みている。
 しかし、あえて言及していない条文が三つあるので、検討しておこう。

 日本学術会議法(以下、日学法と表記する)によれば、首相は学術会議の「推薦に基づいて」会員を任命する(同法7条2項)。
 この点、中曽根康弘首相は、「政府が行うのは形式的任命にすぎない」と答弁した(参議院文教委員会1983年5月12日)。

 この法文および解釈を前提にするなら、首相は推薦を拒否できないと理解するのが自然だ。

 しかし加藤勝信官房長官は、法律の上位にある憲法15条を持ち出し、「公務員の選定罷免権は国民固有の権利」であり、「任命権者たる首相が推薦通りに任命しなければならないというわけではない」と述べた(10月7日の記者会見)。
 国民の代表(国会)に指名された首相は、気の向くままに国家公務員を任免できると言いたいようだ。

 しかし、憲法73条4号は、内閣は「法律の定める基準に従い、官吏に関する事務を掌理する」と定める。
 つまり、憲法は、首相や大臣が公務員を恣意(しい)的に任免することなど許していない。

 では、学術会議の人選に関する「法律の定める基準」とはいかなるものか。
 学術会議は、学問的観点から提言等を行う機関だ。
 そこで、日学法は、科学者としての「研究または業績」を会員選抜の基準とする(同法17条)。
 首相や内閣府が、学問の研究・業績を評価するのは不可能だ。
 だからこそ、日学法は、科学者の集まる学術会議自身が候補者を選ぶこととしたのだ。

 これに対し、加藤官房長官は10月1日の記者会見で、「専門領域での業績にとらわれない広い視野」から総合的・俯瞰(ふかん)的に選んだと説明した。
 これは、学問の「研究または業績」とは無関係な理由で選んだことを自白するもので、「法律の定める基準」に反するのは明らかだろう。

 そうなると、菅義偉首相は、法律に真正面から違反した責任を問われざるを得ない。
 そこで首相は、推薦名簿を「見ていない」と言い出した(10月9日のグループインタビュー)。

 しかし、この弁明を前提にすると、学術会議の推薦に基づかずに任命したことになり、明確に違法だ。

 さらに、日学法7条は、105名(合計210名)を任命しなくてはならないと定めており、6人足りない任命も違法だ。

 加藤官房長官は、「詳しくは見ていなかった」とフォローしたが(10月12日の記者会見)、推薦名簿を「ちらりと」見たにしても、違法な基準に基づき、違法な定員不足を生じさせた責任が首相に生ずることは否定しようがない。

 このように、政府は憲法73条4号、日学法17条、7条を隠蔽(いんぺい)して議論を進めようとしている。

 しかし、公示され、全国民が見ることのできる法文の存在をごまかそうとする政府の態度は、不当を通り越し滑稽だ。
 任命拒否の動機が、政策を批判されたことにあるのも明らかで、それを隠そうとするのは、まるで子どものようだ。

 条文と政府の会見を照らし合わせれば、今回の任命拒否の違憲・違法・不当は明らかだ。


沖縄タイムス、2020年10月18日 13:00
[木村草太の憲法の新手]
日本学術会議会員任命拒否
政府、3条文を隠蔽し議論
違法な基準 首相に責任

(木村草太、東京都立大教授、憲法学者)
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/649720

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おかしいことはおかしいと言い続けます

 日本学術会議の会員候補6人が任命されなかった問題をめぐり、97歳の元会員がSNSで、政府の対応を疑問視する投稿を続けている。

「国と学術界は正しい距離を保つべきだ」

 そう語る心のうちには、自身も研究者として知らず知らずのうちに戦争に協力してしまったとの反省と、現状への強い危機感がある。

「そもそも学術会議は、前の戦争の時、科学者・技術者が軍に協力したことを反省し、二度と科学を戦争には使わせないことを誓ってつくられたものだ。今回の政府による会員の任命拒否は、日本学術会議の根幹にかかわることで、絶対に認めることはできない」

 元気象庁気象研究所職員の増田善信さん(97)は今月2020年10月6日、フェイスブックにこう投稿した。
 1千回以上シェアされ、賛同するコメントが相次いだ。
 ツイッターでも政府の対応を批判した。
 退官してから35年以上が経つが、声を上げずにはいられなかった。
 
 増田さんは京都府出身。
 1942年に中央気象台付属気象技術官養成所(現気象大学校)に入り、気象学の道に入った。
 上官の指示で、濃霧でも見えやすい滑走路の誘導灯の色を調べる実験にも参加した。

「当時は誇らしいことをしていると思っていた。いま考えれば、すべてが軍事につながっていた」

 その後、島根県にあった海軍大社基地に配属された。
 天気図を作成し、風向きや雲の高さなどの情報をまとめ、出撃する爆撃機の乗員に伝えるのが任務だった。
 終戦間際には帰還の見通しもなく沖縄方面へと飛び立つ仲間を連日のように見送った。

「なんとも気の毒な気持ちになった。そんなこと、おくびにもだせなかったが。軍隊はデタラメばかりだった」

 戦後は気象庁で予報官として勤務。
 日本気象学会に所属していた1977年、公選によって学術会議の会員に選ばれた。
 公選制最後となる2期目に入った1980年以降、政府与党から学術会議批判が起こり、1982年には自民党から廃止の提言も出た。
 結局、1983年の法改正で推薦制に変更され、「推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」との条文ができた。

 なぜ推薦制にするのか。
 なぜ会議のあり方を変える必要があるのか。
「政府から十分な説明はなかった」と増田さんは当時を振り返る。
 今回の問題でも、政府は6人の任命拒否について具体的な理由を説明していない。
 学術会議は、原子力政策や軍事研究をめぐって政権と相いれない立場を表明してきた。

「政府にとっては、のどの奥のとげなんでしょう」
「科学者が望むと望まざるとにかかわらず、すべてが戦争のための科学になる」

 そんな戦前を知るからこそ、戦後の原点だったはずの会議の独立が脅かされているとして、危機感を強める。

 情報収集のために8年前から始めたSNSでいま、自ら積極的に情報発信を続ける。

「私は不合理が嫌いでね。おかしいことはおかしいと言い続けますよ」


[写真]
日本学術会議の任命除外問題について語る増田善信さん=2020年10月14日、東京都狛江市

朝日新聞、2020年10月18日 12時00分
97歳の元学術会議会員がSNS発信
軍支えた過去反省

(鎌田悠)
https://digital.asahi.com/articles/ASNBJ7J7TNBHUTIL04V.html

菅政権が世界史上稀に見る「危険な政権」

―― 菅野さんは菅政権による日本学術会議への人事介入に抗議し、官邸前でハンガーストライキを始めました。何を問題視していますか。

菅野完(以下、菅野): これまで日本学術会議の任免権は行政の自由裁量が認められないものとされてきました。日本学術会議について規定する日本学術会議法を見ても、内閣総理大臣に人事権を認めるその他の法律とは大きく異なる建て付けになっています。法の趣旨としては、会計検査院をモデルにしていると思います。それゆえ、内閣総理大臣の人事権は制限されて当然なのです。

 このことは菅政権も十分認識していたはずです。実際、野党合同ヒアリングにおける内閣府や内閣官房の役人たちの口ぶりは、違法だとわかっていたとしか思えないものでした。つまり、「法に書いていないことをやりましたよ? それが何か?」というのが菅政権の立場なのです。

 これは半年前の検察庁法改正問題と比較して考える必要があります。当時の安倍政権は既存の法解釈を捻じ曲げてまで、自分たちにとって都合の良い黒川弘務検事長(当時)を検事総長に据えようとしました。あの人事は間違いなく違法です。そのことを認識していた政府は、黒川の人事が合法であるかのように取り繕うため、後付けで検察庁法改正審議に乗り出しました。

 今回の問題も、法に書いていないやり方で人事を動かそうとしたという点では一緒です。しかし、菅政権は検察庁法のときのように国会でこの問題について審議したり、法を変えようとさえしていません。安倍政権より悪質です。

 菅総理はこの間、「我々は選挙で選ばれた。そうである以上、我々の方針に反対する公務員には異動してもらう」という姿勢を強調してきました。つまり、自分たちは選挙で選ばれているのだから、法に書いていないことであろうと何であろうと、自分たちの思い通りにやっていいと考えているわけです。

 これでは中国共産党と何も変わりません。いや、中共政府が法改正した上で香港の民主運動を弾圧していることを踏まえれば、中国の方がまだマシと言えます。あのヒトラーでさえ、自分の独裁体制がいかに合法であるかを強調していました。

 そこから考えると、菅政権は世界史上類を見ない独裁政権です。彼らは自由な市民社会の敵です。下品で教養がなく、程度の低い、腐りきった政権です。非常に危険な存在であり、決して看過できるものではありません。

学術会議のメンバーは総辞職せよ

―― 一部の学者たちは、日本学術会議は権威的な組織だとして、突き放した見方をしています。

菅野: 私も率直に言って、日本学術会議には何の憐憫の情もわきません。私がもう少し頭が悪く、教養がなければ、日本学術会議を「既得権益」という言葉を使って批判していたと思います。あの組織は名誉を求めるだけの軟弱な連中の溜まり場にすぎません。

 それは現在の彼らの対応を見れば明らかです。菅政権があからさまに弾圧を行ってきたにもかかわらず、彼らは政府に要望書を提出し、政府に説明を求めると言っているだけです。政府に説明を求めたり、抗議声明を出したりすれば、菅政権の動きが止まるとでも思っているのでしょうか。実に甘い考えです。

 そもそもあの要望書には、回答期限や、自分たちの要望が却下された場合にどのような対抗措置に出るかといったことが書かれていません。こんなものは要望書とは呼べません。政府に抵抗しているフリをするための、アリバイ作りにすぎません。

 いま日本学術会議のメンバーがとるべき選択肢は、総辞職によってあらゆることをボイコットすること、これしかないはずです。しかし、彼らが総辞職する素振りは見られません。菅政権は日本学術会議を公務員として扱っていますが、結局のところ、日本学術会議側も自分たちのことを公務員だと思っているのです。だから政府の方針に逆らえないのです。皮肉なことに、菅総理の人事介入によってそのことが露呈してしまったのです。

 しかし、いくら日本学術会議が無用の長物とはいえ、私たちはこの問題を自分と無関係だと考えるべきではありません。繰り返しになりますが、この問題の本質は、総理大臣が法の運用を蔑ろにしているということです。これは学問の自由だけでなく、思想信条の自由や言論の自由など、あらゆる自由に関わる問題です。それゆえ、自分が学者ではないからとか、学術会議のメンバーではないからといって、放っておいていいということにはならないのです。

 19世紀にフランスの陸軍軍人でユダヤ人のドレフュス(Alfred Dreyfus、1859 - 1935)がスパイ容疑で逮捕されるという冤罪事件が起こったとき、文豪エミール・ゾラ(Émile Zola、1840 - 1902)はフランス政府の反ユダヤ主義や、裁判の恣意性を厳しく批判しました。ゾラは別にドレフュスのことが好きだったわけではないですし、利害関係があったわけでもありません。国家の横暴を食い止めるために、ドレフュスを擁護したのです。私がゾラの看板とともにハンストを行っているのは、そういう思いからです。

「戦った気」で終わるな。本気で戦え

―― 菅政権に抗議する方法としては、言論で批判したり、デモを行うことも考えられます。なぜハンストという手法をとったのですか。

菅野: 確かに私は著述家ですから、言論で対抗しろと思われるかもしれません。「ペンは剣より強し」という格言もあります。しかし、剣による直接的な暴力にペンで対抗することは、端的に言って不可能です。相手が中国共産党のようなテロ行為に乗り出してきているときに、それに対して通常の言論活動で立ち向かうというわけにはいきません。

 相手が肉体言語でくるというなら、こちらがとるべき手段も肉体言語です。しかし、肉体言語が必然的に帯びる暴力性を他者に向けることは慎まなければなりません。そこで、肉体言語の矛先を自分自身に向けるハンストを採用したのです。

 私は今回、相手が菅義偉という程度が低く教養のない人間だということを踏まえ、「知的なハンスト」を目指しています。路上の座り込み活動でよく見られるような「アウトドア感」をできるだけ排除し、本を読み、原稿を書きながらハンストしています。「路上に書斎を移す」がコンセプトです。

 ハンストは死ぬためにやるわけではありません。ハンストの目的は、下手をすると死ぬかもしれない過程を見せつけることで、相手の意思決定に影響を与えることです。死んだらむしろ失敗です。そこで、ガンジーのひそみにならい、水分や塩分をとり、私の知的活動に必要不可欠なニコチンとカフェインも摂取しています。睡眠もとっています。「早く死んでほしいのに死なない」と相手をイラつかせるのが良いハンストです。

 最近、一部の学者や言論人たちが、反ナチス運動で知られるマルティン・ニーメラー(Friedrich Gustav Emil Martin Niemöller、1892 - 1984)の言葉を引用し、菅政権を批判しています。ニーメラーの言葉とは、「ナチスが共産主義者や社会民主主義者、労働組合を弾圧したとき、自分は不安に駆られたが、声をあげなかった。その結果、ナチスが私を攻撃したとき、私のために声をあげてくれる者は誰一人として残っていなかった」というものです。

 ニーメラーが後悔しているのは、他人が弾圧されているときに自分は関係ないと思って戦わなかったことです。私はニーメラーに言及している人たちに言いたい。あなたたちが考える「戦い」とは、単にニーメラーを引用することだけなのかと。そうではないでしょう。言論人や学者は菅政権と戦うことができる立場にいますし、その戦いを有効に展開できる立ち位置にいるはずです。私たちには菅政権と正面から戦う責任があるのです。このことは強調しておきたいと思います。

※ 菅野氏のハンストは本稿掲載時点で2週間を超えている。気力は十分で水分とミネラルは補給しているものの、急激に低下した気温で菅野氏の体力も削られつつある。

※ 月刊日本11月号


[写真]
ゾラの肖像とともにハンストを行う菅野氏

HBOL、2020.10.18
法を踏みにじる菅政権。
日本が近代国家であり続けるために、本気で戦うべき最後の正念場
<著述家・菅野完>

(10月7日、聞き手・構成 中村友哉)
https://hbol.jp/230592

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