2026年02月04日

顕鏡寺の山号が石老山

 時は平安時代の初め、都が平安京に移ったばかりのことでしょうか。

 宮中に仕えていた三条貴承卿の若君「武庫郎」が八条殿の姫となさぬ仲となり、都を出奔し遠く東国へ落ち延びました。
 相模の国へたどり着いた二人は、一夜の宿を借りた村人に相模川上流に雨露をしのぐことができる岩屋があることを教えてもらいます。

駒立て岩
 武庫郎と八条殿の姫が住処を求めてこの地を彷徨った際、この岩の上で休息をとった云われています。
 岩上には二人が乗っていた名馬の蹄や寝た跡が残されているそうです。


 教えられた山中を捜し歩いた二人は手頃な岩窟を見出して、そこを住処とすることにしました。
 やがて、二人は子を成し、生まれた男の子に住処の岩窟にちなんで「岩若丸」という名を与えます。


岩窟(道志岩窟)
 武庫郎と八条殿の姫が暮らし、その息子や娘を育てたといわれる岩窟で、道志岩窟とも呼ばれます。
 武庫郎(後の道志法師)の息子、岩若丸も出家後にこの岩屋で暮らしました。
 岩窟の内部は、奥行き約5m、横幅約5m、高さ約2mほどの広さとなっています。
 現在、顕鐘寺の寺宝とされる「福一満虚空蔵尊」が安置されており、子どもの夜泣きに効果があるという小児虫留加持もこの虚空蔵尊の霊験によるものだそうです。


 この岩若丸が7歳になったとき、父親である武庫郎は出家し名を「道志法師」と改めました。
 その「道志法師」が托鉢のため、10日ばかり家を空けたときのこと。
 突然現れた天狗に母親である八条殿の姫が攫われてしまいました。
 しかも、岩若丸は攫われた母親を探し回っている途中で、足を滑らせ谷底へ落ちてしまいます。
 そんなことは知らぬ道志法師は托鉢から戻ってみると二人の姿が岩窟にありません、慌てて辺りを探すとすでに息絶えた息子・岩若丸を見つけます。
 道志法師は嘆き悲しみ、「どうか、息子の命を助けてほしい」と天に祈りました。
 するとその祈りが通じたのか、奇跡的に岩若丸は息を吹き返します。

 息子が助かったものの、妻の八条殿の姫は姿を隠したまま。
 道志法師は妻を捜すために諸国行脚の旅にでることにしました。


 わが子には再会の証として持っていた“銀鏡”を二つに割ると一片を渡して、岩窟のことを教えてもらった村人に岩若丸の後事を託します。
 成長した岩若丸は父母への思慕の念を捨てきれず、残された銀鏡を手掛かりに父母を探すため旅立ちました。
 数多の苦難の末、岩若丸は父と母と巡り合うことのできたのでした。

 後年、岩若丸は出家し「源海」を名乗り、生まれ育った岩窟に戻るとその地に寺を建て仏に仕え暮らしたとのことです。


顕鏡寺(山号:石老山)
 岩若丸が源海法師として生まれ故郷であるこの地に戻った際に開山しました。
 寺の名は岩若丸が父が旅立つ際に渡された銀鏡に由来するものだと云われています。

 本尊は道志岩窟にある福一満虚空蔵尊になりますが、明治期に統合された津久井三十三観音霊場第14番札所・増原西福寺の本尊、十一面観世音菩薩や常楽寺の本尊、阿弥陀如来像をも受け継いでいます。

 境内には神奈川県内で最も高いイチョウの大木や、巨大な杉の根が露出しあたかも蛇が寝そべっているようにも見えることからその名が付いた蛇大杉などがあります。


相武電鉄資料館、2014.10.12 初示/2018.9.18 改訂
石老山の伝説
https://sobu-erw.o.oo7.jp/02/03/05/g01_01/index.html

 相模原市緑区にある石老山(せきろうざん、702.8mは、関東百名山の一つに選定され、気軽に登れるハイキングコースとして人気が高い。
 そんな石老山だが、地元では、4年前の2015年に新天皇陛下が皇太子さまの時代に登られたことでも知られている。
 その時の登山の様子を当時の関係者に聞いた。

 石老山は相模湖の南東にある山。
 約600万年前に、深さ数千mの海溝にたまってできた「礫岩(れきがん)」という種類の岩石が全山に分布し、巨岩・奇岩に富んでいることから、この山名がつけられたものと考えられている。

 巨岩は標高570mにある融合平見晴台までに比較的多く見られ、点在するその姿を眺めながら歩くのが、登山者の楽しみの一つとなっている。

晴天の11月27日
 2015(平成27)年の夏頃。
 相模原市商業観光課担当課長(当時)の田中浩さん(56)のもとに、県から市秘書課を通じ、「皇太子さま(当時)が石老山に登りたいとおっしゃっている」という連絡があった。
 複数の関係者の話では、山好きで知られる新天皇陛下は、公務などで中央自動車道を通る際に見える石老山への登山をかねがね希望されていたのだという。

 石老山が所在する市の担当課として田中さんは、登山ルートや休憩場所など各所の手配に奔走。
 数回にわたり現地視察にも赴いた。
 そして、前日の雨が嘘のように晴れ渡った当日11月27日は、田中さんも先発隊として、陛下の前方を進んだ。

登山の拠点
 国道412号「石老山入口バス停」方面から登ると、山腹に石老山を山号とする真言宗寺院・顕鏡寺がある
 同寺はこの登山の拠点となった。

 陛下は当日、車で同寺に到着。
 そこで着替えを済ませ、境内で準備体操をされた。岩木観定住職(82)が寺内へ案内する際に、廊下からの景観や同寺の歴史について話されたという。
 岩木住職は「落ち着いていらして、穏やかな印象そのままの方だった」と回想する。

ガイドは2人で
 市立博物館学芸員の生物担当として市域の動植物調査を行っている秋山幸也さん(51)は、案内役を務めた一人。
「話をいただいた時は大変な重責だと感じた」と秋山さんは振り返る。

「陛下は、登山をなによりも楽しまれている様子だった。周りの景色を眺めて、『あの山にはいつ、誰と登った』などと話されていた。健脚でかなり山に慣れていらっしゃる様子だった」

 山の地質の話題では、プレートの名称が思い出せず秋山さんが言葉に詰まると、「フィリピン海ですか?」と助け舟を出された。
 秋山さんは「そのお詳しさには驚いた」と当時を思い返す。

 秋山さんが主に自然や生物を解説する一方で、郷土史のガイドを務めたのは、臨済宗寺院・正覚寺の山田正法住職(70)。
 山田住職は石老山の縁起や相模湖築造と湖底に沈んだ勝瀬村の話などを説明した。
「山頂から下る途中の大明神展望台で北丹沢の尾根を見渡され、山の名前を順に述べられた。よくご存じだった」と山田住職は語る。

優しさに感激
 下山後には、千木良にある割烹旅館『五本松』へ移動し、入浴後、客室で昼食を召し上がった。

 主人の永井宏文さん(52)が用意したのは、この日のために考案した、地場のサトイモとゆずを使った記念メニューなど。
「地元の旬野菜や、津久井のうどんなども残さず召し上がり、『どれもおいしかったです』と言っていただいた」と永井さんは振り返る。

 帰られる間際に、ちょっとした出来事があった。
 見送りに並ぶ永井さん一家に一人ずつ陛下が言葉をかけ、車に乗ろうとされたその時、当時小学1年生だった永井さんの息子に向かって虫が飛んできて頬を刺した。
 刺されたことに加え、張り詰めた緊張感の中で起こった予期せぬ事態に息子はショックで泣き出してしまった。
「そうしたら、後で宮内庁から電話をいただいた。陛下が心配してくださったのだと思う」と永井さんは述懐する。

 陛下も楽しまれた地元の名峰・石老山。
 この大型連休にも、多くの登山客が予想される。
 市商業観光課では、「手軽に登れ、巨岩や奇岩といった見どころもあり、近隣の山々とはまた違った趣がある。足を運んでいただければ」と話している。


[写真]
石老山の山頂に到着された天皇陛下。左は秋山幸也・市博物館学芸員、右は山田正法・正覚寺住職=朝日新聞社提供

タウンニュース、2019.05.01
あの日、陛下は石老山へ
関係者語る 相模原の登山

https://www.townnews.co.jp/0302/2019/05/01/479901.html

posted by fom_club at 06:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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