長篠・設楽が原の戦いに敗れて以来、わずか数年にして武田家を滅亡させてしまった武田勝頼。武勇に秀でたはずの武将でありながら、衰退の道を歩まざるを得なかったのは、なぜなのか?
家臣団の分裂が一因と言われることが多いが、分断を招いた張本人は、実は勝頼というよりも、その父・信玄の方であった。
いったい、どういうことなのだろうか?
家臣団の分裂が一因と言われることが多いが、分断を招いた張本人は、実は勝頼というよりも、その父・信玄の方であった。
いったい、どういうことなのだろうか?
■ 武田家臣団の分裂が誘い込んだ滅亡への道
武田信玄亡き後を受け継いだ勝頼といえば、武勇に秀でた武将であったことは、誰もが認めるところだろう。偉大なる父から広大な領地と誉れ高い家臣らを受け継いだわけだから、そのまま天下取りに邁進することも、当時の人びとから期待されたはずである。
しかし結果は、それとは異なるものとなった。
蓋を開けてみれば、期待は失望へと変貌し、10年にも満たないうちに、思いもよらぬ滅亡への道を歩んでしまったのだ。
有能な武将でありながら、なぜ破滅へと突き進んでしまったのか?その原因を探ってみたい。
まずは、信玄が病没した1573年にまで、時計の針を戻してみよう。
後を受け継いだ勝頼が、果敢にも外征を実施している。父をも凌ぐ成果を上げようとの意気込みは、評価しておくべきだろう。
父・信玄でさえ成し遂げられなかった織田領・明知城や徳川領・高天神城まで陥落させたのだから自信満々だったに違いない。
結果として、武田家の領土は信玄時代よりも拡大。この点は、見逃すべきではない。この頃までの勝頼の武勇は、信長や家康さえ舌を巻くほどのものであったが、本人が有頂天になってしまったのが気がかりというべきだろうか。
案の定、1575年5月、家康に奪い取られた三河国長篠城を包囲したものの、容易に落城させられなかった辺りから状況が変わった。
援軍として、3万8千もの信長・家康の連合軍を呼び寄せてしまったことで、さらなる転機を迎えることになってしまったのだ。
これに対して、待ち受ける武田軍は、半数にも満たない1万5千。それにもかかわらず、無謀にも千丁もの鉄砲隊が構える馬防柵に向かって、不用意にも騎馬隊を突き進ませてしまったのだ。もちろん、次々と鉄砲隊の餌食となったことは言うまでもない。
有能な武将たちを始め、1万以上もの死傷者を出してしまったというから、何とも無残であった。
事前の軍議において、信玄以来の古老たちがことごとく撤退すべしと進言したにもかかわらず、長坂光堅(釣閑斎)ら佞臣たちの甘言に惑わされた勝頼が、判断を誤って猪突猛進したことが敗因であった。
それでも突撃が命じられたとなれば、古老と雖も後退するわけにはいかない。
ならば、命を捨てるしかない。
負けるとわかっていながら、自爆するかのように突き進んでいったのである。
家臣団の中での亀裂が、最悪の結末をもたらしてしまったというべきだろうか。
これを契機として、信長・家康の連合軍が次々と武田家領土に侵攻。
1581年には防衛力の薄い躑躅ヶ崎館を見限って断崖絶壁の上に新府城(韮崎市中田町中條)を築くも、それさえ、わずか数ヶ月で放棄。
さらに東へと逃走しなければならないほど落ちぶれてしまったのだ。
その最大の要因が、前述したように家臣団の分裂によるものであったのはいうまでもないが、そればかりか、有能な古老たちが次々と敵対する信長や家康方へと寝返ってしまったことが決定打となった。
まず1582年1月、信玄の娘婿・木曽義昌が信長に内通。これに怒った勝頼が木曽攻めを行うや、信長が援軍を差し向けたことで、信濃の松尾城や飯田城、大島城などが次々と陥落。
同時に家康も駿河へと侵攻して、駿河田中城を落として駿府城へと進出したのである。
これに加えて、武田家御一門衆で、かつ武田二十四将の一人でもあった穴山信君(梅雪)までもが、家康の誘いに応じて江尻城を放棄してしまうという有様であった。信君が勝頼を見限ったのは、信君の子を勝頼の娘に嫁がせるはずであったのを勝頼が破棄。信玄の甥・武田信豊の子に嫁がせてしまったことで失望したことで、勝頼を見捨てたというわけである。
さらに勝頼にとっての不運は続く。
未完の新府城さえ見捨てて逃走しなければならないほど追い詰められた勝頼、彼にさらなる追い打ちをかけたのが、武田二十四将の一人・小山田信茂の裏切りであった。
武田家臣・真田昌幸が吾妻の岩櫃城へ落ち延びることを献策したにもかかわらず、信茂が自らの居城であるとはいえ孤立無援の岩殿城に迎え入れるとの甘言を信じたのが間違いであった。
岩殿城入りを勧めたはずの信茂自身が、道案内をするどころか、早々と反旗を翻して逃走してしまったのだから万事休す。
再起の望みも断たれた勝頼が武田家ゆかりの天目山を死地と定めて向かうも、途上の田野において信長の宿老・滝川一益に追い詰められ、とうとう、北条夫人、嫡男・信勝と共に自害してしまったのである。この時、勝頼に従った家臣は、わずか41名(44名とも)だったとか。それでも、土屋昌恒が、勝頼の自害する時間を稼ぐとして、崖っぷちで藤蔓を片手で掴んだまま、打ちかかってくる敵兵を次々と斬り捨てていったという、獅子奮迅の働きぶりを見せたのが唯一の慰めであった。俗に「片手千人斬り」と言い伝えられた名シーンであった。
■ 父・信玄にまで軽んじられた勝頼の悲運
こうして、勝頼の死をもって武田家は滅亡してしまったのであるが、その最大の要因が、前述したように家臣団の分裂によるものであったことは、多くの識者も指摘するところだろう。
しかし、その分裂を招いたのは、何も勝頼だけのせいだけではなかった。
信玄が自ら葬り去った諏訪頼重の娘を古老たちの反対を押し切って側室としたことが皮切りであった。二人の間に生まれた勝頼を後継としながらも、その実、正式には武田姓を名乗らせることなく諏訪姓のままにしたこと、つまり、正式な跡取りとしてではなく、孫の信勝が成人するまでの単なる中繋ぎ状態にしておいたことで、古老たちから軽んじられたからであった。
もちろん、勝頼にも非はあった。
第二次高天神城の戦いにおいて、徳川軍の攻撃に晒された高天神城に援軍を送らず、兵士たちを見殺しにしたことで、臣下たちの信頼を失ったことも影響は大きかった。
つまり、その責務は、父子共々にあったというべきか。
ともあれ、父である信玄ばかりか家臣にまで軽んじられた勝頼。
信長や家康、信玄というとてつもなく器量の大きかった御仁であれば別だったかもしれないが、勝頼にはそこまでの不運を跳ね返すほどの器量はなかった。
それが、彼の不幸といえば不幸であった。
偉大なる父・信玄と力量を常に比較されるその重圧は想像に難くないが、結局はそれに押しつぶされてしまった…… ということだろうか。
[写真]「武田勝頼天目山陣取」/東京都立中央図書館蔵
歴史人、2026.01.20
武田家を滅亡に追いやったのは勝頼ではなく信玄だった!?
家臣団分裂の原因とは?
(藤井勝彦、1955年大阪生まれ)
https://www.rekishijin.com/51108
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