「高知」の意味
「土佐の高知の〜」と謡われた「よさこい祭り」もコロナ禍で中止になったが、地元の有志が前触れもなく「よさこい」を披露したというニュースがテレビに流れた。
※ コロナ禍の『よさこい』に高知市長「注目されているので開催したい」高温で「マスクは無理」 (22/07/20 19:30)
https://www.youtube.com/watch?v=Mb292EocPUo
「高知」と言えば「高い知」をイメージする地名だが、実はその裏には水害の歴史が隠されている。
土佐国を治めていた戦国大名、長曾我部元親(1539-1599)は、現在、高知城がある山上に築城しようとしたが、重なる洪水でわずか3年足らずでこの地への築城を諦めた。
その後、関ケ原の戦いで功績を挙げた山内一豊(1545/1546-1605)が初代土佐藩主として入国することになるが、一豊は当初、土佐湾に面した浦戸城(うらどじょう、高知市浦戸、現在は県の史跡に指定され、城跡には国民宿舎桂浜荘・県立坂本龍馬記念館が建つ)に居城した。
しかし、土地が狭く城下町をつくるのが難しいと考え、高知平野の中央に位置する大高坂山(おおたかさかやま)に築城することを決めた。
一豊は10年の歳月をかけて築城。
城下町を「河中(こうち)」と命名し、城の名前も「河中山城」とした。
「河中」としたのは、城を含めた城下が北に流れる江ノ口川、南に流れる鏡川に挟まれ、その「中」に位置していたからである。
つまり、この城下一帯は二つの河川によって挟まれた洪水常習地帯だったということになる。
そこで「河中」という名前はいかにも水害を招きやすいということで、二代藩主・忠義の時代に「高智」と表記を変えた。
その知恵を出したのは八十八カ所巡りで有名な高知市東部にある五台山竹林寺の高僧・空鏡であったと言われる。
そしてその「高智」が後に「高知」となり、そこから現在の「高知県」の名前が生まれたのである。
つまり、「高知」という地名そのものに、水害を防ごうという人びとの願いが込められていたのである。
social action lab(ソーシャルアクションラボ)2021.04.11
「高知」の名に込められた水防への思い
(谷川彰英、作家、筑波大名誉教授)
https://socialaction.mainichi.jp/2021/04/11/1162.html
ところで、この土佐の高知に武田家滅亡の後、武田勝頼が逃れたって……、お聞きしたのは岩殿山の中腹にある「ふれあいの館」の職員さんから:
高知県に残る「武田勝頼落人伝説」について
名だたる戦国武将・武田信玄の4男である甲斐武田家20代当主「武田勝頼」。
勝頼は、定説では1582(天正10)天目山(山梨県甲州市)で自害したとされております。
※ ヤッホーくんのこのブログ、次の日付けの日記をお読みください:
・ 2016年10月15日付け日記「涙の川を渉るとき」
http://fom-club.seesaa.net/article/442817329.html
・ 2016年10月17日「武田ニ十四将」をお読みください:
http://fom-club.seesaa.net/article/442881393.html
・ 2016年10月16日「武田勝頼」
http://fom-club.seesaa.net/article/442842366.html
ですが高知県吾川郡仁淀川町に残る影武者説では、武田勝頼は織田軍からの敗走後、当時の土佐の武将・香宗我部(こうしかべ)氏を頼ってこの土佐に落ちのびたということです。
その後、この大崎村川井(現:仁淀川町大崎)に入り、以後、名前を「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と変名し、この地で25年ほど活躍し、1609(慶長14)年8月25日、64歳で逝去されました。
鳴玉神社に葬ると記録(仁淀川町及び佐川町に残る武田家系図に記載)があります。
[鳴玉神社と勝頼の墓]
・鳴玉神社(左)武田勝頼が葬られた後に、氏子や崇敬者達により建立された鳴玉神社(高知県吾川郡仁淀川町大崎)
・武田勝頼(大崎玄蕃の墓)墓所は神社の奥に静かに祀られておる
現在でも、子孫や氏子達が、墓参りや掃除に訪れております。
勝頼が片岡氏の衰退後も活躍できた背景
勝頼の娘(檮姫(ゆすひめ))の墓
2004(平成16)年4月3日に勝頼の娘の墓を発見に至りました。
場所は高知県高岡郡越知町横畠東栂の森です。
家系図にある文章を頼りに辿り着き、ちょうど墓守をしている方に出会い勝頼の娘の墓であることを確認致しました。
嫁ぎ先は山本氏の横畑(山本)左馬助(貞秀)(読:よこばたけ さまのすけ)でありました
(地検帳にも記されておる人物です、片岡氏の重要な家臣でありましたが、長宗我部氏の家臣団の中にも名前が出てきます)
この墓の発見は片岡氏が衰退した後も、勝頼(大崎玄蕃)が生きながらえ活躍できた背景には、山本氏との関わりがあり、勝頼存在のとても重要な鍵を握っています。
この頃、山本氏は片岡氏と共に長宗我部氏と親しい関係にありました。
山本氏は、武田家と同じく祖である清和源氏の出です。
勝頼はその山本氏の有力な人物である山本左馬助(横畠左馬助(さまのすけ)に娘を嫁がせました。
その山本氏は、土佐を支配した山内氏に大庄屋として大きく召し上げられるなど良好な関係にあります。
。。。
力のある山本氏と親戚関係となった勝頼は新たな活躍の場を得たと考えられます。
。。。
武田勝頼土佐の会
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/
仁淀川町紹介動画(ダイジェスト篇)
https://www.youtube.com/watch?v=4iPa1rvaRRU&t=113s
戦国武将・武田勝頼が落ちのびて暮らした伝説が残る高知県仁淀川町大崎に、勝頼を顕彰して地域づくりを目指す山梨、高知、長野3県の団体が集い、初めて「武田の里フォーラム」を開いた。今後は物産や食文化などで交流を深め、地域おこしで連携していくことで一致した。
勝頼は戦国武将・武田信玄の四男として生まれた。信玄亡き後、1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、1582年に山梨県内で自害したとされる。
だが仁淀川町の一部には、自害したのは影武者で、勝頼は土佐の武将を頼って同町に落ちのび、大崎玄蕃と名を変えて1609年まで生きたという伝説がある。
フォーラムは2010年10月2日にあり、勝頼没後400年祭や史跡巡りツアーを催してきた仁淀川町の「武田勝頼土佐の会」が、同日開いた勝頼にちなむ催し「秋の陣」の一環で企画した。土佐の会の岡林照寿会長のほか、韮崎市の「武田勝頼新府中にらさきの会」の高木智朗会長、長野県岡谷市の「由布姫・勝頼諏訪の会」の中島宥明代表らが参加。それぞれの活動内容を報告し、意見交換した。
勝頼の母の供養塔がある龍光山観音院(岡谷市)住職を務める諏訪の会の中島代表は「諏訪の会の活動が仁淀川町にもつながっていけば」と述べ、にらさきの会の高木会長も「物や食文化などの交流にも広げ、全国で交流が生まれれば」と今後の交流に期待を込めた。土佐の会の岡林会長も「疲弊する地域を元気にするためにもお互いに連携していきたい」と応じた。
みこしの巡行や武者行列、香川県から駆けつけた丸亀鉄砲隊による火縄銃の実演などもあり、訪れた人たちは戦国ムードを楽しんでいた。
[写真]
香川県から駆けつけた丸亀鉄砲隊が火縄銃の実演を披露した=高知県仁淀川町大崎
朝日新聞、2010年10月13日8時58分
武田勝頼ゆかりの3県タッグ
伝説の地でフォーラム
(前田智)
http://www.asahi.com/special/080804/TKY201010050476.html
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