最初にお目にしたのは今から15年前、あの東日本大震災のあった後の「江戸博」であったシンポジウムでしたねぇ〜
ヤッホーくんのこのブログ、2011年6月21日付けの日記「東京新聞フォーラム」をお読みください:
http://fom-club.seesaa.net/article/390227873.html
今日ご紹介するのはご自身の著書『凪の人 山野井妙子』(山と溪谷社、2025.11)よりの抜粋です:
ヨーロッパアルプスやヒマラヤなどで数々の登攀を成功した山野井妙子(やまのい たえこ、1956年滋賀県生まれ)は、世界的なクライマーとして頭角を現わす。
しかし、その道は平坦ではなく、マカルーとギャチュン・カンの登攀では両手足の指の多くを失う壮絶な経験をする。
パートナーである夫・泰史(1956年東京都生まれ)と国内外の山々に挑み続け、現在は畑仕事や釣りを楽しみながら自然に根ざした穏やかな生活を送っている。
妙子の半生を追った書籍『凪の人 山野井妙子』より、伊豆での暮らしを描いたプロローグを抜粋して紹介しよう。
しかし、その道は平坦ではなく、マカルーとギャチュン・カンの登攀では両手足の指の多くを失う壮絶な経験をする。
パートナーである夫・泰史(1956年東京都生まれ)と国内外の山々に挑み続け、現在は畑仕事や釣りを楽しみながら自然に根ざした穏やかな生活を送っている。
妙子の半生を追った書籍『凪の人 山野井妙子』より、伊豆での暮らしを描いたプロローグを抜粋して紹介しよう。
29年間暮らした奥多摩をあとにして
妙子と泰史が暮らすのは、伊豆半島にある川奈(かわな)という海岸沿いの町であり、自宅は海岸線から少し離れた小室山(こむろやま)という里山の麓だ。
ふたりが一緒になって以来29年間暮らした東京・奥多摩(おくたま)からここ伊豆に引っ越したのは、2020年4月だった。
奥多摩で最初の14年間を暮らしたのは道所(どうどころ)という集落であり、多摩川沿いに立つ平屋だった。
土間にかまどがあり、薪でご飯を炊いていた。
この借家がいよいよ古くなりまさに文字どおり傾き始めたころ、同じ奥多摩の倉戸山(くらどやま)山麓に家を借りた。
2軒目の家は高台にあり、奥多摩湖が望めた。
家の裏には念願の畑を作ることもできたし、谷底にあった道所の家と比べると、倉戸山山麓の家は日当たりもよくなった。
けれど、いかんせん冬の底冷えはつらかった。
とくに、2002年、エベレスト(8848m)に近い位置にあるギャチュン・カン(7952m)でふたりとも重度の凍傷を負い、手足の指を切断したころからは、奥多摩の寒さが堪えるようになった。
当時、凍傷の手術をして退院したのち、友人である俳優の市毛良枝(1950年静岡県生まれ)の好意により、伊豆にある彼女の別荘に長く滞在した時期があった。
同じように伊豆の別荘を貸してくれた山の仲間もいた。
この地の温暖な気候は傷を負った身には優しかったし、海が望めて気持ちはのびのびとした。
海釣りを覚えたのもこのころだった。
近くには、城ヶ崎海岸沿いに岩場があり手軽にクライミングができたことも、楽しい要素である。
「いつか暖かい地で暮らそう」と話していたふたりにとって、奥多摩の次の住み処として伊豆半島は有力な候補となった。
その後、市毛の別荘から奥多摩の自宅に戻ってからもたびたびクライミングで伊豆を訪れた。
ついでに物件探しをしていたところ、やがて本腰を入れた。
旧知の山仲間から紹介してもらった物件もあり、いくつか見て回った末に落ち着いたのがいまの家だ。
「周辺に家がない静かなところ」という泰史の希望と、「もっと広い畑が欲しい。果物のなる木々があるとうれしい」という妙子の願いがかなった。
引っ越しは、マイカーであるハイエースで5往復。
立てたまま運ぶ必要があるという理由で冷蔵庫だけは、山の友人である半田久(1953年岐阜県生まれ)の軽トラで運んでもらった。
必要最小限のものしか所有しないふたりなので、これだけの運搬で終えることができた。
いちばんかさ張ったのは、自宅に設置してあった人工壁(クライミングウォール)に使っていたコンパネと、ホールドだった。
泰史が倉戸山山麓の家に作った人工壁は一部屋を占め、高さは一軒家の床から天井を抜いた屋根裏まであった。
それらすべてを取り外し、コンパネとホールドを伊豆の家に運んだ。
新たな住み処、常春の地へ
伊豆半島は、東側の相模湾と西側の駿河湾を隔てるように太平洋に突き出している。
太平洋には黒潮と呼ばれる暖流が流れているため、温暖な気候だ。
海産物にも恵まれており、漁獲量がいちばん多い魚はキンメダイ。
アジやサバ、定置網でスルメイカなども獲れる。
もっとも妙子たちがこのような魚を買うことはなく、もっぱら自分たちで釣って食べている。
妙子たちが住む川奈は伊東市にあり、東伊豆と呼ばれる地域だ。
伊豆半島の東海岸の玄関口にあたる。
なかでも川奈は海が近く、一方で背後には天城(あまぎ)連山がひかえているのが特徴だ。
天城の山並みは妙子たちの自宅からほど近く、ふたりは日常的に遊びに行く。
川奈港や海水浴場のあるあたりは海岸沿いに道が走っているが、それ以外は山の手に国道などの主要な道路がある。
ふたりの家は、幹線道路から車1台分しか通れない小道を登っていったところにひっそりと立っている。
周囲は森や竹林、畑に囲まれていて、ここに庭をもつ2階建ての中古の家を購入した。
土地の広さは300坪になる。
ふたりにとっては、これまでの人生でいちばん大きな買い物だった。
(中略)
妙子の一日
妙子が起きるのは、泰史よりもずっと早い。
だいたい4時ごろ。
早いと3時には目を覚ましている。
寝ている泰史の横からそっと布団を出て、階下の台所へ下りていく。
スモック型のエプロンに袖を通し、台所に立ち、湯を沸かして茶をいれる。
余った湯は登山で使う保温用のボトルに入れる。
妙子の家では、これが日常でもポットとして使われている。
朝起きてすぐにコンロに火をつけ湯を沸かし、茶を飲むという手順は、テント生活とまったく同じだ。
茶を飲んだあとは、果物をジャムにしたり、庭の野菜を漬物にするなどの台所仕事にとりかかるが、それがなければ、読書か数独。
妙子は若いころから読書家だ。
登山の本はほとんど読まず、小説が多い。
泰史を起こさないようにという気遣いは、ずっと前からだ。
奥多摩の倉戸山山麓に暮らして朝のラジオ体操をしていたときは、体操の音楽で泰史が目を覚まさないように家を出て、裏手の神社の前でやっていたほどだ。
それに来客があるときは、客の寝息にも気を使っている。
そうやってしばしの時間を過ごしたのちに、頃合いを見計らって朝食の準備を始める。
そのころになると、台所の窓から見える空が白み始め、やがて色づいてくる。
季節によって太陽が昇る位置は移動するが、台所の横長の窓からは、いずれの季節にも暁天を眺めることができる。
朝食には畑で採れた季節の野菜をさいの目切りにして野菜スープを作る。
味はコンソメと塩。
野菜の皮はたいがい剥かない。
野菜に限ったことではなく、妙子は魚やほかの食材も余すところなく料理し、いただく。
スープには、琵琶湖のほとりにある妙子の実家が作っている黒豆や大豆を煮て入れることもある。
前夜にパン焼き機で焼いた食パンは、乾燥しないようにポリ袋で保存してあり、朝になると熱が取れて、切りやすくなっている。
これにスーパーマーケットで買ったハムとチーズを載せる。
庭の柑橘で作ったジャムをかけたヨーグルトもある。
以上が朝ご飯の定番であり、この内容は365日、ほとんど変わらない。
妙子の実家は米やえび芋、豆類を作る農家であるが、妙子の朝食は泰史と一緒になる前からパンが多かった。
パン好きであり、若いころには山崎製パンの工場でアルバイトをしており、形崩れなどで出荷できないパンが休憩時に食べ放題だったのが、うれしくてたまらなかったほどだ。
山やクライミング、釣りに出かけない日は、妙子は朝から晩まで畑仕事か家事をしている。
この働き者ぶりは若いときからであり、妙子いわく、祖母の影響が大きい。
妙子の両親は仕事をもっていたので、学校から帰ってきた妙子を迎えてくれるのは祖母であり、祖母が妙子の世話をしてくれた。
妙子はおばあちゃんっ子だったのだ。
(中略)
おらが山、小室山
右膝を痛めた妙子は、2023年春に半月板の一部を切除する手術をした。
その後はリハビリを兼ねて低山を歩くことはあるが、大きな山や長期山行に向かうには、まだ充分ではない。
泰史と近所の岩登りやハイキングに出かけるのがもっぱらだ。
夏のある日、天城山山系にある矢筈山(やはずやま)に登った。
泰史はボルダーを探しては登って楽しんだが、妙子は読書をしていた。
矢筈山には岩の合間から冷気が出てくるところがあり、よい避暑となった。
“おらが山”という言葉がある。
自分だけの山というおごったものではなく、自分が暮らす地にあり日常的に通う山、故郷にある山、あるいはいまは登ることはなくなってもいつまでも心のなかにある山をいう。
いまの妙子にとってのおらが山は、小室山だろう。
車道やリフトが通じており、山頂にある公園は観光地になっているため、天気のよい日には多くの人でにぎわっている。
その一方で、妙子の家の近くから、わずかな踏み跡をたどって登ることもでき、こちらは、山頂まで人に会うことはなく静かだ。
照葉樹林の森のなかを1時間弱登ると、芝生が広がる大きな広場に到着する。
目の前に海が広がり、大島が横たわっている。
その隣に少しとんがった台形の利(と)島も浮かんでいる。
膝の手術のあと、思うように動けない妙子には、小室山はちょうどよいトレーニングの場だ。
妙子の家を訪ねる友人たちにとってもお気に入りの場となり、早朝に小室山をランニングするクライマーもいれば、子連れでハイキングする友人もいる。
畑仕事、海釣り、近場でのハイキングやクライミング…… 穏やかな一日の最後は夕食となる。
畑の野菜と目の前の海で獲れた魚が食卓に並ぶ。
泰史とふたりで静かに食べる日もあれば、遊びにきた友人たちとにぎやかな食卓になる日もある。
夕食のあと、洗い物を終え、テレビを観て、一日中つけていたエプロンを外す。
これが妙子の一日の終わりの合図だ。
夜9時すぎには床に就く。
* * *
1956年生まれの山野井妙子は、まもなく古希(70歳)を迎える。
旧姓長尾妙子の時代から、国内、ヨーロッパ、ヒマラヤ、さらにはアメリカ大陸など地球のあちらこちらの山を登ってきた。
ときには厳しい登攀もあった。
うららかな天気のもとで楽しい登山もあった。
仲間と登った山もあれば、夫・山野井泰史との山もある。
山を登りながらたくさんの土地を旅してきた。
あるとき、泰史が語った。
「妙子は、思い出すらいらないのかもしれない」
冷たい意味ではない。
いまこの瞬間に一所懸命。
ただただ、それを積み重ねてきた。
それは当たり前のことであり、至極まっとうでもある。
しかしながら、その当たり前を積み重ねるのがどれほど尊いか。
いまを生きる妙子の半生を、振り返りたい。
※ 山野井妙子
1977年、東京北稜山岳会入会。1982年、冬季グランド・ジョラス北壁登攀。1991年、ブロード・ピーク、マカルー登頂。1994年、チョ・オユー南西壁スイス・ポーランドルート第2登。1996年、山野井泰史と結婚。2002年、ギャチュン・カン北壁登攀。これにより植村直己冒険賞受賞。2007年、グリーンランドのミルネ島「オルカ」初登。2020年、静岡県伊東市に移住。
[写真‐1]近くで磯釣りを日々楽しむ
[写真‐2]自宅のすぐ裏から登る小室山。常緑樹林のなかを登ってゆく
山と渓谷オンライン、2025.12.05
生命を賭した激しい登攀と、海と山の狭間での静かな暮らし
(柏澄子)
https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php
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