2020年09月19日

春山明哲「靖国神社とはなにか」

 ヤッホーくんのこのブログ、「彼岸入り」の本日2020年9月19日の日記は「チェンバレンと神道」でした。
 そうしたら、<安倍晋三が靖国神社を参拝、16日に内閣総理大臣を退任したことを英霊にご報告>の報道が入り、びっくりしてしまいました。
 どうして政治家がそこまでして、それをメディアがいちいち報道するのでしょうか。
 もう一度、春山明哲「靖国神社とはなにか、資料研究の視座からの序論」を読んでみたいって、ヤッホーくん。

 靖国神社は、 ペリー来航以来の近代日本の幕開けの動乱期に、 「尊皇攘夷」 を掲げ倒幕運動 を推進した勤皇の志士達による 「国事殉難者」 を祀る 「招魂の思想」に、 その淵源を求めることができる。
 1909(明治42)年に第3代の靖国神社宮司に就任し、1938(昭和13)年まで約30年にわたってその職にあった賀茂百樹(※1)は、1911(明治44)年に『靖国神社誌』(※2)を編著した。

(※1)賀茂百樹は伝記的情報に乏しい。 『近世防長人名辞典 増補』(吉田祥朔著、マツノ書店、1976)によれば、 長州の祠職藤井氏の出で賀茂の家名を継ぐ、著書に『日本語源』2巻など、 和歌に長じ中今亭と号す、1941(昭和16)年75歳で没す、 とある。 なお、 賀茂は『賀茂真淵全集』全6冊(国学院編輯部編、吉川弘文館、1903−1905)の校訂を行っている。

(※2)靖国神社発行兼編輯(代表者宮司賀茂百樹)『靖国神社誌』1911(明治44)年12月。 2002(平成14)年に神社本庁教学研究所から 「近代神社行政史研究叢書W」 として復刻されている。 底本は1912(明治45)年6月発行の改訂再版。

 靖国神社の最初の通史であるこの書の 「起源」 の章で賀茂は、 文久年間に挙行された小さな2つの祭祀からその筆を起している。

 1862(文久2)年12月、 津和野藩士の神道家で国学者の福羽美静(※3)、 由緒ある神道家である神祇伯白川家の臣古川躬(み)行(ゆき)らは京都の平安霊(りょう)山(ぜん)で私祭を執り行い、 その祝詞中で 「安政の大獄」以後の殉難志士の霊の鎮斎と神祇官の復興を祈念した(※4)。
 翌1863(文久3)年7月、 この福羽美静ら津和野藩関係者の主唱によって京都祗園社内に小祠が建立され(※5)、 吉田松陰、 橋本左内ら46柱の霊が具体的にその名を挙げて弔慰された(志士達の名は判明次第追加されることになっていた)。

(※3)福羽美静は、 明治初期の神祇行政、 宮中祭祀にも深く関わり、 また、 木戸孝允とも親交を結んだという。 福羽美静については、 阪本健一 「神道家・国学者としての福羽美静」『神道宗教』48号、1967.11、pp.1-40(阪本健一『明治神道史の研究』国書刊行会、1983)所収。 加藤隆久 『神道津和野教学の研究』(国書刊行会、1985)参照。

(※4)この弔祭が可能になったのは、 公武合体の時期の文久2年8月、孝明天皇から幕府への勅文で、安政大獄以来の尊攘派志士達の赦免と招魂弔祭が命じられたことによるという(村上重良『慰霊と招魂、靖国の思想』岩波書店、1974)pp.4-6

(※5)この小祠は幕府の嫌疑をおそれて福羽邸に移されていたが、1931(昭和6)年靖国神社に移され 「元宮」(もとみや)と称されている。前掲(※3)阪本論文による

 国事のため殉難した志士の魂を慰め、 その行為を顕彰して神として祀る 「招魂の思想」 は、 尊王思想の普及、 特に楠正成に対する尊崇思想とともに形成されたという(※6)。

(※6)小林健三・照沼好文『招魂社成立史の研究』(錦正社、1969)pp.25-51

 例えば、 水戸学派の会沢安は『新論』や『草偃和言』において、 楠正成をはじめ国家に功労のあった者を神とし て祭祀すること、年中行事、国民の祭日の制定等を主張し、 また、 久留米藩の祀官真木和泉は会沢の思想を継承し、 古来の忠臣義士を祭祀すべきと主張した(同上 pp.39-42 および pp.44-45)。

 志士達のあいだでは楠公祭が盛んに執行され、 これに合わせて殉難した同志の神霊を「従祠」する「招魂祭」が挙行されるようになっていく(※7)(10)。
 1867(慶応3)年、尾張藩主徳川慶勝は楠正成を祀る 「楠公社」 の創建とともに 「国事のために身凶」した者達の 「幽魂」 「精霊」を慰め、 合祀して一社とするよう朝廷に建言している。
 招魂の思想は元治から慶応年間にかけて全国に拡大したが、 その魁となったのは長州藩であり、 維新以前に「招魂社」を16社創建している。

(※7)藤井貞文『近世に於ける神祇思想』(春秋社松柏館、1944)pp.226-230

 維新後は各藩も続々と藩の志士達を祀る招魂社を建立した。
 1868(明治元年、明治への改元は慶応4年9月。当時は太陰暦、慶応4)年5月10日、 二つ の太政官布告が発せられた。

「癸(き)丑(ちゅう)以来殉難者ノ霊ヲ東山ニ祭祀ノ件」(以下 「殉難者布告」 という)及び 「伏見戦争以来ノ戦死者ノ霊ヲ東山ニ祭祀ノ件」(以下 「戦死者布告」 という)である。

「殉難者布告」は、京都東山に祠宇を設け、1853(嘉永6)年のペリー来航以来の国事に斃れた者および草莽有志の霊魂を永く合祀すること、
「戦死者布告」は、 この年1月3日の鳥羽伏見戦争以来の「東征」で戦死した者を祀る新しい一社を建立して永くその霊魂を祭祀し、
さらに「向後王事ニ身ヲ殲シ候輩」を速に合祀すること、
という趣旨の布告である。

 これらが東京招魂社(のちの靖国神社)の創建の起点となったという(池田良八「靖国神社の創設」『神道史研究』15巻5・6号、1967.11)pp.50-51、池田は当時、 靖国神社権宮司)。

 この二つの布告は、 明治天皇の意思により「忠魂」を祭祀するという主旨は同じであるが(宮内庁編『明治天皇紀第一』吉川弘文館、1968、p.725)、合祀の対象・基準・範囲といった観点から見ると 「殉難者」 と 「戦死者」 とはいわば 「カテゴリー」 を異にする。
 このことは靖国神社の性格を考える上で重要な点なので、 あとでまた触れる。

 上野の彰義隊壊滅後の明治元年6月2日、 東征大総督有栖川宮熾仁親王、三条実美らは、江戸城で鳥羽伏見戦争以来の戦死者のための「招魂祭」を挙行した。
 この招魂祭は先の布告とは別に既に計画されていたもの(※8)であったが、 賀茂はこれを 「東京招魂社の起源とも謂ふべし(※9)」と注釈している。
 江戸における招魂祭の実施という意義を重く見たのであろう。

(※8)鳥巣通明 「靖国神社の創建と志士の合祀」 『出雲神道の研究、千家尊宣先生古希祝賀論文集』(神道学会、1968)pp.301-323
 鳥巣によれば、 江戸城の招魂祭は東征大総督の令旨による軍陣の戦友慰霊祭であり、太政官布告による国家的行事とはみなせない、 と指摘している。

(※9)前掲注 『靖国神社誌』2丁

 また、 同年7月、 神祇官は京都河東操練場で鳥羽伏見戦争以来の殉難者の招魂祭を行った(※10)。
賀茂はこれを京都招魂社の始まりと位置づけて いる(※11)。

(※10)鳥巣は、 明治元年5月24日の太政官布告を根拠として、 これが 「戦死者布告」 による最初の招魂祭である、 と している。
(※11)前掲注『靖国神社誌』2丁

 東京遷都後の明治2年、 招魂社建設の計画は具体化した。
 木戸孝允は、上野の焼け跡を通りがかり 「此土地を清浄して招魂社と為さんと欲す」(※12)としたが、 大村益次郎の意見もあり、 社地を九段坂上に選定し、 仮本殿・拝殿が建設された。
 6月28日、 鳥羽伏見の役より函館の役に至る「戊辰の役」の戦没者 3,588名の招魂式 (第1回 合祀) が行われ、 翌29日には、 軍務官知官事小松宮嘉彰親王が祭主、軍務官副知官事大村益次郎が副祭主となり、明治天皇の勅使の参向のもと、 祝詞の奏上などが行われた。
 7月1日、 右大臣三条実美が政府を代表して参拝している。
 6月30日から7月3日までは賑やかに祭典が行われ、 余興として相撲や花火が奉納された。

 東京招魂社は兵部省の管轄となり、 例祭日の決定(鳥羽・伏見開戦、 彰義隊潰走、 五稜郭開城、 会津藩降伏の日を例祭日とし、 のち、 彰義隊と五稜郭の日を合併し、 西南の役が加わる)、 以後、明治4年8月青山清が祭事掛(初代宮司)就任、明治5年5月、本殿造営竣工、明治6年5月招魂社大祭式改定、 同年9月『招魂社年中祭式祝詞』制定というように、 一般の神社として整備されていった。

 明治6年12月、 兵部省の廃止 (明治5年2月) にともない、陸海軍省の管轄となった。
 明治7年1月27日、 例大祭に明治天皇がはじめて行幸し、 「我国の 為をつくせる 人びとの 名もむさし野に とむる玉かき」 との御製を山県有朋陸軍卿に賜わったが、 この篇額が東京招魂社さらに靖国神社に伝えられている(※13)。

(※12)木戸日記(明治2年正月15日)。鳥巣、前掲注、p.307 から再引用
(※13)池田、前掲注、p.66


国立国会図書館、レファレンス、2006(平成18)年7月号
靖国神社とはなにか
資料研究の視座からの序論

春山明哲(はるやま めいてつ、文教科学技術調査室)
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_999824_po_066603.pdf

 2018年8月26日に自民党総裁選への出馬表明をした安倍首相。
 本サイトでもお伝えしたように、鹿児島でNHK大河ドラマ『西郷どん』を意識したお寒いシロモノだったが、つくづく呆れるのはこの宰相の“薩長史観プロパガンダ”だ。
 安倍首相はこの出馬表明の直前、党の会合で「ちょうど今晩のNHK大河ドラマ『西郷どん』(のテーマ)は『薩長同盟』だ。しっかり薩長で力を合わせ、新たな時代を切り開いていきたい」と講演していたという。
 周知の通り、安倍首相は長州藩の末裔であり、晋三の“晋”の字が長州藩士・高杉晋作に由来するというのは有名な話。
 本人も幾度となく“長州の血統”を誇示しながら明治政府を礼賛してきたが、それにしても、総裁選に『西郷どん』を利用したうえで「薩長で力を合わせ、新たな時代を切り拓いていきたい」って、薩長を中心とした討幕側が幕府側を蹂躙した日本の近代史を知っていれば、そんなことを軽々しく口にはできないはずだ。
 一国の首相として恥ずかしすぎるだろう。

 当然、すぐさま反発の声が上がった。
 たとえば立憲民主党の枝野幸男代表は27日、安倍首相の「薩長で切り拓く」発言についてこう指摘したのだ。

「わが党には鹿児島選出もいる一方で、(薩長と対峙した)福島の人間も、奥羽越列藩同盟の地域だった人間もいる。わが国を分断するような、国全体のリーダーとしては間違った言い方だ」

 内戦に勝って「官軍」と呼ばれた長州の末裔が「薩長で新たな時代を切り開く」と宣言すれば、大ぜいの戦死者を出した会津ら幕府側の存在を完全にネグることになるのだから、当然の批判だろう。

 ところが、こう批判した枝野代表に対して、ネット右翼や安倍応援団メディアは猛バッシング。

 たとえば夕刊フジは〈あきれるような低レベルの攻撃〉と枝野氏をなじり、〈これは、NHK大河ドラマ「西郷どん」を意識しながら、幕末に国家の危機に目覚めて手を組んだ長州と薩摩のように、現代の世界やアジアの危機に日本人も目覚めて、協力してほしいという思いを込めたとみられる〉なる安倍首相擁護を展開した。

● 安倍首相が礼賛する薩長は、残虐行為で国家転覆を果たしたテロリスト集団

 まったく、お話にならないとはこのことだ。
 だいたい「幕末に国家の危機に目覚めて手を組んだ長州と薩摩」なるイメージ自体が“薩長史観”そのものだろう。
 言っておくが、これは明治政府が自分たちの正当性を主張するためにつくりあげたフィクションにほかならない。

 いい機会だから説明しておくが、そもそも明治維新は「薩長を中心とした維新志士たちが、守旧派の幕府側に権利を奪われていた庶民を解放し、日本を西洋諸国と並び立つ近代国家へと導いた」という認識で語られがちだが、事実に即して言えば、薩長とは国家転覆(暴力革命)を成功させたテロリスト集団なのである。

 実際、幕府要人(大老井伊直弼など)の暗殺はもちろん、幕府に協力的とみた商人に対しても略奪や放火などの犯罪を尽くし、さらに戊辰戦争で江戸に攻め入った際にはときに面白半分で庶民まで斬殺していた。これは当時の記録からも明らかになっている。そして、明治新政府以降も薩長ら「官軍」は会津ら「賊軍」を差別し続けた。あの靖国神社がいい例だろう。

 周知の通り、靖国神社の起源は、戊辰戦争での戦没者を弔うために建立された東京招魂社であり、この時に合祀されたのは「官軍」側の戦死者だけだ。西郷隆盛もまた、西南戦争で新政府に刃向かって「賊軍」とされたがゆえに祀られていない。

 もっとも、靖国神社が大好きな安倍首相が、この事実を知らないはずがないだろう。
 それでも、長州出身の総理大臣が「薩長で新しい時代を切り拓いていきたい」と抵抗感なく嘯いてしまえるのは、まさに安倍首相が国民を「敵」と「味方」に峻別する政治をしているからではないのか。
 その意味でも枝野氏の「日本を分断するような間違った言い方」という指摘はまったく正しいと言うほかないだろう。

安倍首相は1月の施政方針演説でも薩長礼賛、賊軍差別をなかったことに

 今回だけのことではない。
 安倍首相による今年2018年1月の施政方針演説を思い出してほしい。
 安倍首相は冒頭から「150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として迎えました」と、会津藩出身で東京帝国大学の総長を務めた山川健次郎を持ち出し、こう述べた。

「しかし、明治政府は、国の未来のために、彼の能力を活かし、活躍のチャンスを開きました」

「官軍」側の安倍首相が、わざわざ「賊軍」の山川健次郎を持ち出して「明治政府は賊軍の人間にもチャンスを与えてやった」と極めて上から目線で演説をぶったのである。

 印象操作も甚だしい。
 たしかに、山川は戊辰戦争後、長州藩士・奥平謙輔のもとに身元を預けられ(ちなみに奥平謙輔はのちに萩の乱の首謀者の一人として斬首された)、国費でアメリカへ留学、名門イェール大学で学んだ帰国後は、科学者として研究や後進育成に励んだ。
 だが、“明治政府は賊軍を受け入れてやった”と言わんばかりの安倍首相の主張は明らかに欺瞞だ。
 少なくとも、山川ら会津が薩長らから受けた仕打ちを考えれば、そんなことは口が裂けても言えないはずだろう。

 薩長を中心とした討幕軍と明治新政府軍が、実のところ残忍なテロ集団であったことは前述した。
 そして、戊辰戦争において熾烈を極めたのが、「最大最悪の戦闘」と語り継がれる会津戦争だ。

 なかでも鶴ヶ城では会津藩の非戦闘員を含めた多数が約1ヶ月間に及ぶ籠城戦を展開。
 当時10代だった山川も家族とともにこの籠城戦に参加した。
 新政府軍からの苛烈な攻撃と食料や医療品の困窮で、城内は壮絶な状況となった。
 山川も編集に携わった史書『會津戊辰戰史』にはこのように記されている。

〈(前略)戦酣(たけなわ)なるに及び病室は殆んど立錐の地なきに至り、手断ち足砕けたる者、満身糜爛したる者、雑然として呻吟す、然れども皆切歯扼腕敵と戦はんとするのを状を為さざる者なし、而して西軍の砲撃益々劇烈なるに及びては、榴弾は病室又は婦人室に破裂して全身を粉砕さられ、肉塊飛散して四壁に血痕を留むる者あり、その悲惨悽愴の光景名状すべからず。〉
(引用者の判断で旧字体を新字体に改めた)

 壁に肉片までが飛び散っているとは、まさに惨烈と言わざるをえないが、新政府軍は城内から逃れてくる兵士や民間人を捕まえ、場内の様子を聞き出しており、その危機的状況を知りながら交渉を閉ざして、砲弾を撃ち続けた。
 そして、会津が降伏した後も、新政府軍は「賊軍」の遺体の埋葬を禁じ、一種の見せしめとして放置した。
 城下には、会津人の朽ち果てた亡骸が散乱していたという。

 しかし、会津にはさらに過酷な運命が待っていた。
 新政府軍の戦後処理は、会津藩領を没収し、ほぼ全員を青森の下北半島へ流刑に処すというものだった。
 不毛の地で寒さや貧窮にあえぎ、子どもや老人が次々と亡くなったという。
 その後の薩長閥中心の明治でも、会津は辛酸を舐めさせられつづけた。

原発の立地は賊軍地域に集中! 現代もなお色濃く残る賊軍差別の影響

 言うまでもなく、明治政府の中心は薩長閥が占め、一般的に「賊軍」出身者に対する差別的扱いがあったという。
 近代史家・作家の半藤一利氏によれば、「賊軍」とされた藩は明治になってから経済的に貧窮しており、旧士族の子弟の多くは学費のいらない軍学校や師範学校へ行った。
 しかし、その軍学校を出て軍人になってからも苦労したようだ。

 たとえば健次郎の兄である山川浩は戊辰戦争後に陸軍軍人になったが、大佐から少将に昇進した際には長州閥の山県有朋が「山川は会津ではないか」と不満をあらわにし、以降、「会津人は少将までしか出世させない」という不文律ができたともいわれる、

 いまだ会津若松で長州や薩摩に対してわだかまりがあると感じる人びとがいるというのも頷ける話だ。

 また、「賊軍」に対する差別は廃藩置県にも表れているとされる。
 半藤氏は「東洋経済オンライン」のインタビュー(2018年1月27日配信)で、宮武外骨の『府藩県制史』を紹介しながら、県名と県庁所在地名が違う17の県のうち「賊軍」とされた藩が14あることなどを例に、県庁所在地を旧藩の中心都市から別にされたり、県名を変えさせられるという「賊軍」地方への差別・ハラスメントを指摘。
 そのうえでこうも述べている。

〈また、公共投資で差別された面もあります。だから、賊軍と呼ばれ朝敵藩になった県は、どこも開発が遅れたのだと思います。
 いまも原子力発電所が賊軍地域だけに集中しているなどといわれますが、関係あるかもしれません。〉

 実際、現在国内にある17ヶ所54機の原発のうち、13カ所46機が「賊軍」とされた地域にあるという。
 この事実について検証した「SAPIO」(小学館)2017年9月号の記事では、柏崎刈羽原発が位置する新潟県柏崎市役所防災・原子力課の担当者が「明治維新政府の首脳の地元(官軍地域)が発展して、他は開発から取り残されたと考えられなくはない」などとコメントしている。

 いずれにせよ、こうした「官軍」による「賊軍」差別は、明治政府による「正史」の形成によって正当化されてきた。そしてこの歴史観は、明治から戦前にかけての天皇絶対主義、万邦無比の国体思想と混ざり合いながら、グロテスクに“味方”と“敵”を峻別したのだ。

 こうして歴史を紐解けば、「薩長で力を合わせ、新たな時代を切り拓いていきたい」という安倍首相の言葉の軽さが浮き彫りになる。
 また、施政方針演説で山川健次郎だけを都合よく持ち出し、「明治政府は、国の未来のために、彼の能力を活かし、活躍のチャンスを開きました」と嘯くペテンも明らかだ。
 何度でも繰り返すが、「長州の血」を誇る安倍首相が嘯く薩長同盟の礼賛は、まさしく国民を敵と味方に峻別し分断する政治的志向の表れとしか言いようがない。


リテラ、2018.08.29 09:01
枝野の「薩長同盟」批判は間違ってない、
安倍首相の薩長びいきのほうが異常だ!
賊軍差別の影響は現在にも…

https://lite-ra.com/2018/08/post-4216.html

posted by fom_club at 18:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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