2020年09月18日

チェンバレン作の和歌

 英国海軍軍人の長男として生まれたチェンバレンが、海への特別な感情を宿していただろうことは、容易に推し量ることができる。
 母方の祖父バジル・ホールも海軍軍人で、『朝鮮・琉球航海記』(Account of a Voyage of Discovery to the West Coast of Corea and the Great Loo Choo Island in the Japan Sea, 1818,※1)の著者として知られ、祖父の名前をもらったチェンバレンは、「私はあの琉球諸島には、一種の祖先伝来の興味を覚えるのです」(※2)と熊本のハーンに冬には沖縄旅行を勧める手紙のなかで述べている。

(※1) バジル・ホール『大琉球島航海探検記』須藤利一訳補、第一書房、1982年;『朝鮮・琉球航海記』春名徹訳、岩波書店、1986年)
(※2)「私はあの琉球諸島には、一種の祖先伝来の興味を覚えるのです。この諸島には私の祖父バジル・ホール艦長が英国人として最初に訪れたのでした」(1891年12月6日付ハーン宛書簡。『ラフカディオ・ハーン著作集 第14巻』490頁)

 海にまつわる興味深いエピソードもある。
 たとえば、1882年暮から正月にかけてチェンバレンは伊豆大島を旅行し、アジア協会で伊豆大島の地理、風俗習慣などについて発表をした
(1883(明治16)年4月“Vries Island Past and Present” (Transactions of the Asiatic Society of Japan, Vol.11, pt.2, p.179) 。

 当時英国人は、伊豆大島を Vries Island と呼んでいた。
 その旅行で最も感動したのは、伊豆で海に航海の無事を祈るために神への献物として海面に米を撒く行事を目撃したことだったと、10年後、ロンドンの人類学会での講演で述べている(大田雄三『B・H・チェンバレン』、リブロポート、1990年、116頁)。

 このときチェンバレンは、ハーンに依頼して入手したさまざまな民俗資料をオックスフォードのピットリヴァース博物館に寄贈し、「日本の民間信仰について」“Notes on Some Minor Japanese Religious Practices”(Journal of the Anthropological Institute of Great Britain, vol.22, 1893)と題して発表したのだが、海上に米を捧げる伊豆の民俗行事を “how touching” と感じたチェンバレンの脳裏には、あるいは、『古事記』にいう少彦名神(すくなひこな)が穀霊として現世に豊饒をもたらした後、粟粒にのって、海の彼方の常世国へ帰ったとされる、その海の情景が広がっていたのかもしれない。

橘東世子(たちばなのとせこ)

 チェンバレンは健康上の理由で海軍には行かなかった。
 そして、療養のための船旅の末に、22才で来日した。
 到着後、芝の曹洞宗の青龍寺に住み、愛宕下町の旧浜松藩士荒木蕃(しげる)から日本語と日本古典の手ほどきをうけたという(※3)。

(※3)楠家重敏『ネズミはまだ生きている―チェンバレンの伝記』雄松堂出版、1986年、79頁。チェンバレンの日本研究事始については佐々木信綱「バジル・ホオル・チェンバレン先生小伝」、石井研堂『明治事物起源』に詳しい。

 『日本事物誌』の中で、「初めて日本語の神秘の世界に引き入れてくれた親愛なる老武士は髷と両刀をつけていた」と記した人物である(B・H・チェンバレン『日本事物誌』(上)「序論」、8頁。高梨健吉訳、平凡社東洋文庫、1969年)。

 翌年からは築地の海軍兵学寮の英学教師となり、その後さらに旧幕臣の鈴木庸正について万葉集、枕草子、謡曲・狂言を教わった。
 そして和歌を学び、明治初期の歌人、橘東世子の歌会にも参加した。
『日本の古典詩歌』の序には、“a man of letters, Suzuki Tsunemasa”と“the aged poetess, Tachibana no Toseko” の指導と励ましに対して謝辞が述べられているが、橘東世子(1810-1882)の夫、冬照は徳川家の和歌指南で国学者橘守部の長男であり、チェンバレンは橘家で守部の未刊行の資料をも借覧して、研究を進めたという(※4)。

(※4)『日本の古典詩歌』の巻末で参照した文献、参考書として、賀茂真淵、本居宣長、橘守部ら国学者の著作を列挙している。チェンバレンは、英訳『古事記』(1883年)の総論でも、橘守部の代表的な著作『稜威道別』(1844年)『稜威言別』(1847年)をあげて、『日本書紀』『古事記』の理解に有用だと述べている。

 天璋院篤姫に仕えたこともある東世子は、養子橘道守(1852−1902、※5)とともに明治初期歌壇の中心にあって、近世以来の題詠主義の伝統を重視したため、明治30年代に和歌の革新を提唱した与謝野鉄幹ら「新派」に対して「旧派」と呼ばれる。
 その元にチェンバレンが親しく出入りした様子は、橘東世子編『明治歌集』第二編(1877、明治10年)におさめられたチェンバレン作の和歌からもうかがわれよう(※6)。

(※5) 橘道守は、明治十三年から十九年まで海軍兵学寮、海軍兵学校で文官教授として教鞭をとっていた

(※6) 2010(平成22)年8月に、三重県の朝日町歴史博物館にて、「明治の歌人 橘東世子・道守」展が開催され、朝日町出身の橘守部ゆかりの両人、そしてチェンバレンとの交流に関する資料が展示された。同博物館所蔵の『明治歌集』のなかの、チェンバレンの和歌の掲載箇所などについて、同博物館の浅川充弘氏にご教示とコピーをいただいた。ここに記して御礼申し上げます。

 この和綴本には、勝海舟、太田垣蓮月、佐々木弘綱、平戸藩主の松浦詮、公卿の東久世通禧などの政財界人や近衛某、松平某といった人びとにまじって、「英人 王堂」(チェンバレンの雅号)の次の三首の歌が入っている。

・ 野萩の歌

松虫の 声せざりせば秋の夜は誰か野に出てゝ萩を見ましや

・ 明治9年7月吉野山に登りて、花のかたおしたる果物をもてきて橘とせ子刀自(とじ、女性を敬愛の気持ちを込めて呼ぶ称)におくるとて

君がため 咲いて残れる 三よしのの 吉野の山の はなぞこの花

・ 宮島に詣て

世にたぐひ波の上にも 宮柱立てゝ尊き 神のみやしろ

 野萩の題のもとには他に二人の作が並んでおり、橘家で催した歌会での題詠だったのだろう。
 歌合せ、歌くらべに興じ、能楽や仕舞をたしなむ人びとの、古の趣を残した雅な席にチェンバレンは連なり、その女主人に、吉野の旅の土産の花の菓子に和歌を添えて進呈した。

 このようなギャラントリーを見せた異国の青年に対して橘東世子も好感を持ったことだろう。
 異国の人を歌会の輪に入れた「旧派」の老婦人と、海軍の家系に生まれながら体が弱くて跡継ぎになれず、極東の国に来た青年との間には、何か通じ合うものがあったのではないかと想像される。

 チェンバレンは熊本にいるハーン宛の手紙の中で、
「22歳の若さで横浜の土を踏んでから、もう20年になります。そのころの東方は、まさに「光かがやく東方」のように思えたのです」
「当時は、興味深い事物が満ち溢れていたのです」
(1893年5月16日付)(※7)
と回想し、さらには晩年、来日した頃に比べて日本がすっかり変わってしまい、自分が、
「千年も齢を重ねてしまったような気がする」
と述べた。(1922年 杉浦藤四郎宛)(※8)

 日本の「旧世界」の橘家での宴で、年若いチェンバレンは、ふと「竜宮」にいるかのごとき感を覚えたのではないかと想像してもいいのかも知れない。

(※7)Kazuo Koizumi ed. More Letters from B. H. Chamberlain to Lafcadio Hearn, Hokuseido, 1937. p.66,
楠家重敏、前掲書、75頁。

(※8)楠家重敏、前掲書、76頁

 そして興味深いのは、安芸の宮島の厳島神社を詠んだ歌である。
 海辺の社殿と波の上に立つ大鳥居を前にして、素直に「尊い」と感嘆している。
 チェンバレンは、伊勢神宮については、「檜の白木、茅葺の屋根、彫刻もなく、絵もなく、神像もない、あるのはとてつもない古さだけ」だから、一般の観光客がこの神道の宮をわざわざ訪ねても得るものはない、と酷評した(『日本事物誌』「伊勢」※9)。

(※9)Basil Hall Chamberlain, Things Japanese : Complete Edition, 第二部「補遺」14頁、名著普及会、1985年

「神道」の項目の辛口の解説もよく知られているだけに、単なるクリシェとも思えないこの宮島の一首は、一見意外な感じがする。
 だが、つまりはチェンバレンにとって、山の中の森に囲まれた神社は特に魅力あると思えなかったにもかかわらず、海を敷地とする厳島神社の姿は、伊豆の海の神事と同様、心の琴線にふれるものがあったということなのだろう。
 そしてここにも、海の彼方をみつめるチェンバレンの姿がある。

 ハーンとチェンバレンの二人の視線が、異郷へとつながる夏の海、その海界の情景を見るまなざしにおいて、重なり合った時期が、ハーンの熊本時代であったといえるだろう。
 ハーンが「夏の日の夢」という作品の草稿をチェンバレンに書き送り、作品をチェンバレンの『日本の古典詩歌』の「水江浦島子を詠める歌」に対応するように構成したのも、いわば深い共感の確認であったといえる。
 だがやがて袂を分かつことになる両者の違いは、それぞれが浦島の海界の情景の上に描いた幻想ともいうべき感慨に明らかに読み取ることができる。
 それが、「水江浦島子を詠める歌」の反歌の扱いである。
。。。

成城大学経済研究、2011年
海界(うなさか)の風景
〜ハーンとチェンバレン それぞれの浦島伝説〜
(2)
(牧野 陽子、成城大学教授)
https://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/192/192-makino.pdf

posted by fom_club at 14:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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