2020年09月18日

David R. Graeber(1961 - 2020年9月2日)

「効率化」が効率的だなんて実感はどこにあるだろう?

 いつごろからか、なにごとにも「効率化」「合理化」「スリム化」などなど、一連の似たようなワードが呼号されるようになった。「規制緩和」、無駄の削減、合理化の導入、競争環境の導入によるスリム化、IT化による簡素化などなど、こういったお題目によって、わたしたちの生活はさまざまに変えられてきた。

 ところが、みなさん、それによって日常生活がより解放的で自由になったという実感がどれほどあるだろうか? この問いは前回のウェブ記事(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74475)でも発したものであるが、もう一度、問いたい。

 小泉改革のあたりからだろうか、公務員がムダの元凶、不効率の砦として、攻撃の槍玉にあげられるようになった。マスコミをあげての総攻撃の結果、郵政を筆頭に、それまで公的領域にあったものが続々と「民営化」されていった(民営化は privatization の訳語であり、本来、私有化とか私営化といった含意をもつはずだが、日本語の語感はそれがあたかも「民衆」を主体とするものであるかのようなニュアンスをかもしだしてしまい、この訳語自体が、ネオリベラリズムのイデオロギー効果を増幅させてしまうことに注意してほしい)。

 この流れはすでに明確な実践というかたちでは1980年代の中曽根改革からはじまっているのだが、小泉改革のあたりから、その流れは加速し、さまざまな公共機関にいわゆる「市場原理」が導入されるようになった。

 それとともに、先ほどあげたような語彙――効率化、スリム化、「自己責任」、「選択と集中」などなど――が、わたしたちの日常生活にも浸透するようになってきた。

日常に浸透するネオリベラリズム由来の価値観

 現在普及している意味でのこうした語彙はすべて「ネオリベラリズム(新自由主義)」という理念体系に由来するものであるが、要するに、このネオリベラリズムという古くて(起源は第一次大戦ごろにさかのぼる)あたらしい(支配的政策として普及するのは1970年代以降である)思想とそれに由来するさまざまな価値観がわたしたちの日常をも支配するようになったのである。

 おおよそ、日常に浸透したネオリベリズム(これを「日常的ネオリベラリズム」という)の教えるところは、こうである。

「民営化」すれば無駄もなくなり生産性もあがり、人びとも働く意欲をもつなど、いいことづくめである。なぜかというと、「民間企業」は市場原理にのっとって動いているわけで、効率性を至上価値とする市場原理にムダはありえない。したがって、すべてを「民間企業」のように運営すればまちがいないのだ、と。

 たとえば、国鉄の「民営化」には、国鉄労働者の怠慢やその作業の非効率、サービスの悪さなどが、マスコミを通してピックアップされ、さかんに喧伝されるという前哨戦があった。それは「問題」の「製造」→「解決策」としての「市場原理の導入」→帰結としての「民営化」といった、お決まりのプロセスが実地に展開された走りであった。

 戦時中を舞台にした日本の映画ではかつて、「かしこくもー」と一声だれかが発したならば、空気は一変し、いあわせた人間の表情はこわばり、みなぴしっと背筋を伸ばすというシーンがよくあったが、あれほどではないにしても、似たようなものである。

 国鉄の「民営化」以降、「民間でわー」と一声があがれば、みなぴしっと萎縮するといった反射構造がこの社会を覆ってきた。それは「神の声」なのである。

 ところが、どうであろうか。そうやって「ムダ」の削減に削減を重ねてきたいま、本当に世の中、「効率よく」ものごとが回るようになっただろうか? お役所仕事は減っただろうか? 要するに、官僚制やそれにまつわるものごとは縮小をみせただろうか? そもそも、「民間企業」なるものが、それほど「効率的」に動いているのだろうか?

大学人が直面する現実の喜劇的不条理

 英語で公刊されたばかりの『ブルシット・ジョブ』を読んでいて、はじめて目に飛び込んできたとき訳者が感動にうちふるえた図がある。本来、数量化によって「効率化」しえない領域が「効率化」の名のもとに数量化されるとき、どのように「ブルシット化」が帰結するかを説明しようとして、筆者のデヴィッド・グレーバーが掲げた図である。

[図]=略=
『ブルシット・ジョブ』339頁より

 これはわたしたち大学につとめる人間にはなじみぶかい「シラバス」なるものの作成の手順をあらわした図である。わかりやすいように「講義概要」ともしているが、実のところたんなる「講義概要」ではない(今回はそれ以上掘り下げられないが、この「シラバス」をめぐる「官僚制のユートピア」を書けば新書分ぐらいになるはずだ。読者の涙を誘う不条理物語が展開されることだろう)。

 [図]の下図はとかく「非効率」を槍玉にあげられがちな伝統的大学である。[図]の上図は先端的経営をうたう「いけてる」大学である(読者の多数のなかには、すぐさまいくつかおもい浮かぶだろう……)。

 シラバス作成にかんして、「非効率」なはずの伝統的大学では、大学職員から大学教員への通知ひとつでことはすんでいる。実に「スリム」なのである。ところが先端的経営による効率性をうたう大学では、管理チェックのプロセスなどがあいだにはさまって、複雑怪奇なものになっている。これが先端的経営理念による「効率化」の実態である。

 グレーバーはこれを、いかにも現代的な学術風にしれっとみせているわけだが、これが、かれ一流のユーモアであることはまちがいないだろう。しかし、この図ほど、いまわたしたちの直面している現実の喜劇的不条理を表現しているものもない。おそらく、この図をみて、ひそかに快哉をあげる大学人も決して少数派ではないはずだ。

数量化しえないものを数量化しようとする資本主義の欲望

 このようなことは大学でだけ起きているわけではない。グレーバーがこの事例をあてたわけは、「実質のある仕事(リアル・ワーク)のブルシット化の大部分、そしてブルシット部門がより大きく膨張している理由の大部分は、数量化しえないものを数量化しようとする欲望の直接的な帰結」であることをわかりやすく示そうとしてのことである。

 つまり、効率化を旗印にし、ムダの削減を呼号するような市場原理による改革がすすめばすすむほど、逆に、官僚制的手続きはややこしくなり、規則はやたらと増殖し、ムダな役職も増えていくことの背景には、このように、数量化しえないものを数量化しようとする「市場原理」の拡大があるということになる。

 ネオリベラリズムのなにが19世紀の古典的リベラリズムや20世紀型ケインズ主義的リベラリズムとちがうかというと、まずひとつは、このような市場原理をこれまで「経済」とみなされていた領域を超えて、ほぼすべての人間生活の領域にまで拡張しようとするところだ。

 そのさいの武器は、人間を企業形式と捉えながら競争構造を導入するというやり方である。つまり、ネオリベラリズムの世界観においては、原則的に、労働者も消費者も、あるいは資本家も存在しない。そこにあるのは、さまざまなレベルでの企業体としての個人である。

 わたしたちは労働者ではなく、一個の企業体であり、日頃から自己投資をおこない、教育資産を高め、契約によって業務をこなし、契約が終われば業務も終わる、もちろん、失敗があればそれは企業体の責任――自己責任――である。

「数量化しえないものを数量化しようとする欲望」は、もともと資本主義に内在するのだが、ネオリベラリズムはその欲望を全面的に解放するものなのである。

 それはしかし、ナチュラルなプロセスとはほど遠い。というのも、人間生活の領域は、数量化しえない――市場原理になじまない――膨大な蓄積に根ざしているからである。たとえば、「福祉」と要約されるようなケアの領域、愛情の領域、友情や連帯感の領域、地域性の領域などなどである。

 したがって、その領域――これを経済人類学にならって「社会」の領域とひとまずしよう――にまで市場原理が拡張しようとするとき、かならず抵抗や摩擦が起きる。

 たとえば、労働運動や住民運動は、たいていの場合、市場原理の拡大に対する「社会」による典型的な反発である。

 あるいは最近、渋谷の宮下公園のジェントリフィケーション(Gentrification、都市において、比較的低所得者層の居住地域が再開発や文化的活動などによって活性化し、その結果、地価が高騰すること)が話題になったが、市場原理で運営されてはならないがゆえに「公園」であった「公園」は、そこに市場原理が導入されるとき、そこに寝泊まりする野宿者の排除や、さまざまなそれ以外の利用に対する規制をともない、反発を呼び起こす(興味ぶかいのは、こういう摩擦が起きてはじめて、だれもおもいもよらない使用法の数々の存在が浮上してきて、その場がもちえていた多様性が可視化することである)。

 この力学は、資本主義社会を通して貫徹してきたのだが、ネオリベラリズムは、市場原理の社会全域への拡大によって、この力学そのものを抹消しようとするところに特徴がある。

ネオリベラリズムは資本主義的でないものを根絶する傾向をもつ

 ネオリベラリズムはいつも、そうした反応があった場合、つねに攻撃的態度をとってきた。

「守旧派」とか「抵抗勢力」といったレッテルが、「敵」に対してふりまわされるのは、日本だけではない。

 たとえば、ネオリベラリズムの理念が最初に実地で展開されたのは南米のチリであるが、そのきっかけはクーデターであった。選挙を通して社会主義政権が成立した直後、アメリカ合衆国のバックアップによって、クーデターでその生まれたばかりの政権は転覆される。その後、軍人アウグスト・ピノチェトを指導者とする新政権は、独裁政治をおこない、そのもとでチリは、米国のエリートと米国で教育を受けた現地エリートのネオリベラルたちによって、政策実現のいわば実験場と化してきた。

 ネオリベラリズムの総帥フリードリヒ・ハイエクは、その独裁政権を擁護し、その体制のもたらす「個人的自由」を称揚しつづけた。おびただしい人間が誘拐され、拷問され、虐殺されていたにもかかわらずである。

 ここで確認しなければならないのは、ネオリベラリズムとは経済学的教義であり、あるべき市場や経済のあり方を指し示す理念であるのではなく、この世界総体の再構築をもくろむ政治的プロジェクトであるということである。

 そしてそれは、「社会」の領域に根ざす人間的領域からの反発、すなわち資本主義的原則に順応しない慣行、規則、制度、あるいはそれとは異なる理念に由来する行動などなどを、すべて根絶する傾向をもつ

 いまネオリベラリズムは、独裁を口にしてはばからないブラジル大統領ジャイール・ボルソナロをそのひとつの代表的な顔としてもっているが、そのような「権威主義的」で「反民主主義的」要素は、もともとその教義に内在する傾向なのである。

 グレーバーの有名な言葉に「資本主義を世界でただひとつの可能なる経済システムであるようにひとにおもわせる選択と、資本主義を実際にもっと生命力のある経済システムにしようとする選択肢があるようなとき、ネオリベラリズムはつねに前者を選ぼうとしてきた」というものがあるが、これはこのようなネオリベラリズムの性格をよく表現している。

 ネオリベラリズムは、たとえみずからの守護する資本主義を多少なりとも犠牲にしても、みずからへの抵抗をつぶすほうを選ぶのである。

 サッチャーの言葉である「TINA(There Is No Alternative)」、つまり「オルタナティヴは存在しない」(この道しかない)は、ネオリベラリズムのイデオロギーとしてよく引き合いにだされるが、それはたんにネオリベラリズムを強硬に押しつけるさいのレトリックにとどまるものではない。

 資本主義に支配されたもの以外の世界の可能性を匂わせるようなすべてのものを抹殺することは、ネオリベラリズムに内在する衝動なのである。

 ネオリベラリズムと官僚制との相性のよさは、そこにも理由のひとつがある。官僚制とは、なによりもまず人間の想像力への攻撃だからである。

国家と市場、戦争と貨幣の“腐れ縁”

 近年のネオリベラリズムの研究は、このようなネオリベラリズムの政治的性格、ファシズムとすら親和性をもつ権威主義的性格に焦点を合わせてきた。グレーバーのブルシット・ジョブや官僚制にかんする議論は、そうした研究と、少し異質なところから交錯するものである。

 ただし、ネオリベラリズムをめぐる人文社会科学的研究がおおよそ近代のみを対象としているのに対し、人類学者であるグレーバーの議論は、近代をはるかに超えて、人類史にまで視野が拡張している(ただし、実は、ネオリベラリズム研究のもっともすすんでいる分野のひとつが人類学でもあることは注記しておこう)。

 ネオリベラリズムにかぎらず、リベラリズム全般が共有する傾向のある発想に、国家と市場とは根本的には相いれないというものがある。つまり、市場は自由であり国家はそれを制約するものである、市場の自由の拡大は国家による支配の縮小であるといった発想である。

 この発想は、近代になって生まれてきたものであるが、歴史的にはなんの根拠もない。もともと、(商業的)市場−−モノやサービスの交換のみを目的とする場としての市場を「非人格的市場」という−−は国家にべったりはりついていた。

 市場の中核を構成しているのは、「交換」である。そしてこの交換には、貨幣が必須である。ここでいっているのは、漫画やアニメなどで「原始人」の使っていた巨大な石とか棒ではなく、わたしたちになじみぶかい、銀や銅などの金属に偉人の顔などと価値表示の刻印された「鋳造貨幣」のことである。この「鋳造貨幣」なしに、市場は存在しない。

 ではこの鋳造貨幣はどうして生まれてきたのだろう? 常識の教えるところでは、それまで物々交換をしていた未開の人びとが、そこから生まれるさまざまな不便を克服して発明したものが貨幣である。標準的な経済学も、このストーリーを採用してきた。

 ところが、歴史学や人類学の知見によれば、それはちがう。もともと鋳造貨幣は、戦争において国家が、兵士に物資を支給する手っ取り早い方法として分配したところからはじまった。

 より具体的にいうと、紀元前6世紀あたりの地中海世界である。この時代のこの地域は、まさにアテナイやスパルタなどの都市国家を中心として政治や文化の開花をみていたわけだが、よく知られるように、それと同時に、戦争と奴隷制にいろどられてもいた。それは、このような「鋳造貨幣」の発明と無縁ではない。

 戦場にある兵士に、いちいち物資を供給しようとしたら、その手配だけでも大変なことになることは想像できるだろう。それで国家は兵士に貨幣を与え、その交換可能性(つまり「西郷札」みたいにゴミにならない可能性)をみずから保証することで、物資の支給を「民間」世界にゆだねたのである。その副次的作用によって市場が生まれた。

 そもそも、戦闘状態にある兵士ほど、当地の民衆にとって信用のおけないものはない。というのも、かれらはたいてい、地域の人びとにとってはえたいの知れぬ人間であり二度と帰ってくるかもわからない人間である。とうていツケなどきかせられるわけがない。

 ところが、鋳造貨幣は、支払いさえあればそれでそれ以上の人間関係上の信用はなにもいらない。相手がだれであろうが商品の出所がなんであろうが、必要なものを買って支払って、それで関係もおしまいである。戦場向きなのである(「恋してみたとて、一夜の火花」である……)。

 貨幣と市場と戦争、そして国家の腐れ縁は時代をくだってもつづいている。たとえば、世界初の近代的中央銀行であるイングランド銀行は、もともと戦争への融資の必要から生まれた。

 こうしたところからも、市場は国家とは関係ないどころではないのだが、それは密接不可分の資本制生産様式の支配する近代になっても変わるところはない。

 もちろん、18世紀の啓蒙思想家たち、とりわけアダム・スミス以来、あたかも市場には自己規制能力があるかのような、そして国家はその厄介な障害物であるかのような発想も普及してきた。しかし、実態はそれとはほど遠い。

 考えてみてもわかるだろう。ヘンリー8世の時代のイギリスと、19世紀の「レッセフェール」のイギリスでは、どちらが官僚制の規模が大きかっただろうか? そもそも警察組織なる典型的な国家的官僚組織についても、19世紀以前には知られることがなかったのである。

ネオリベラリズムの帰結としてのブルシット・ジョブ

 商業的市場は、そもそものはじまりにおいて国家に密着していたのみならず、その市場の維持と運営にはつねに国家のようなものが必要とされてきた。資本主義社会におけるその未曾有の拡大が、必然的に官僚制の拡大をともなうのはこのためである。

 これをグレーバーは、「リベラリズムの鉄則」と呼んでいる。

「リベラリズムの鉄則とは、いかなる市場改革も、規制を緩和し市場原理を促進しようとする政府のイニシアチヴも、最終的に帰着するのは、規制の総数、お役所仕事の総数、政府の雇用する官僚の総数の上昇である」。

 ネオリベラリズムは、そのようなリベラリズムの鉄則を極限まで拡張するものである。カフカ的悪夢は20世紀の遺物ではない。官僚制につねにつきまとってきた「非効率」「不合理」そして「不条理」は、未曾有のレベルにまで達しつつある。ただし、そこにはカフカ的不条理の悲劇もおかしみもなく、ただただ空疎なあかるさと途方もない精神的・物質的荒廃が広がっているだけなのだが。

 そして、そのひとつの帰結が、ブルシット・ジョブの蔓延なのである。
* * *

注記:
 この記事を準備している最中に、デヴィッド・グレーバー(David Rolfe Graeber、1961ニューヨーク生まれ - 2020年9月2日)の訃報に接した。筆者は、悲しみにくれている。また、かれの仕事の意味、そしてかれの死の意味については、あらためてどこかに書くこともあるだろう。ここでは、最後にその早すぎる死への哀悼だけを記しておきたい。

現代ビジネス、2020.09.17
ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか
効率化は必ず非効率に帰結する

(酒井 隆史、1965年生まれ。大阪府立大学教授)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75577

※ ヤッホーくん注
<Bullshit Jobs クソどうでもいい仕事>
・ On the Phenomenon of Bullshit Jobs in Strike! magazine in 2013
・ Bullshit Jobs: A Theory by David Graeber (Allen Lane, 2018)
・ デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(訳:酒井隆史、芳賀達彦、森田和樹、岩波書店、2020年7月)
https://www.iwanami.co.jp/news/n35930.html

posted by fom_club at 08:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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