2020年09月17日

チェンバレンとポール・クローデル

 ヤッホーくんのこのブログ、昨日付け日記「チェンバレン『日本旅行案内 第3版』」ででてきた人物・・・
「1867(慶応3)年、世界一周 の途上に日本を訪れ宮之下で1泊したフランスのボーヴォワール」

 いったい何があったのか、ですよね:
 宮ノ下の温泉に到着したボーヴォワールは、そのとき見た光景を決して忘れないと書く。
「夕方の入湯を今しがた終えたばかりの男女の浴客が三百名以上も、アダムとイブの姿そのままで、ゆったりとくつろいでいたのである」
[……]
 ボーヴォワールが幕末に日本にやって来た他の外国人と一線を画するのはここからである。
 単に日本人の入浴を観察するだけでなく自身も入浴するのである。
[……]
 ボーヴォワールはこの中から自分の入る浴槽を選んで一番ぬるそうな湯につかる。

「この透明な湯の小さな世界の中にいたのは6人で、かなりきれいな女性が3人、男性が2人、そしてこのわたし。わたしは、まるで湯沸しの中へとびこんだかのようであった。1分間で侍従のように真っ赤になり、ほんとに逃げ出したかった。しかし、わたしの仲間は、男女とも笑いながらおしゃべりを始め、わたしは大したことはわからなかったが、きまり文句で答えるといつもの通り大成功であった」

 郷に入っては郷に従えではないけれど、西洋人でもボーヴォワールのように抵抗なく混浴に溶け込める人物もいた。
 なお、『富士屋ホテル80年史』では、文献に見られるものでこの ボーヴォワールの一件が、外国人が箱根で入浴したもっとも古い例だとしている。

(中野明『裸はいつから恥ずかしくなったか 日本人の羞恥心』、新潮選書、2010、p. 66-67)

 今日お伝えしたいのは、大正末の日本で<詩人大使>という愛称で親しまれたフランスの文人外交官」ポール・クローデル!
 ポール・クローデルが初に日本を訪れたのは、フランス大使として東京に着任する20年以上も前の1898(明治31)年のこと。
 そして、クローデルは1921(大正10)年秋に着任し、1927(昭和2)年冬まで、足かけ7年がその任期だったのでございます。

 彼(Paul Claudel, 1868-1955)がこの日本訪問の際に携えていたガイドブック。
 それはバジル・ホール・ チェンバレン(Basil Hall Chemberlain, 1850-1935)によるマレー社(John Murray)の『日本旅行案内書』( A Handbook for Travelers in Japan )で、この当時、日本を訪れる外国人にとっては必携ともいえる本だった。
 そして、クローデルはこのガイドブックの記述にかなり忠実に沿って行動していると考えられるのである。

 クローデルがこの本を参照していたということは、例えば彼の散文詩「そこここに」( Ça et là, 1898)の中で、京都の三十三間堂の由来に関わる記述が、明らかにチェンバレンの故事紹介を下敷きにしていることからも推定される(※1)。

(※1)渡邊守章『ポール・クローデル 劇的想像力の世界』(中央公論社、1975)p. 470を参照

 さらにクローデルの旅程に関しても、「こう考えて、クローデルの文章と『手引き』の説明とをクローデルの旅程を追って読みくらべると、
彼がきわめて忠実にこの案内の指示に従っていることが明らかとなる。そもそも5月28日に長崎に着き、海路横浜へ向かい、東京へ着くや、ただちに、6月1日にはすでに日光にいるというのも、『手引き』が教えている6月1日と2日の東照宮の祭礼を見物するためだったのである」(前掲書p. 470を参照)と渡邊守章は指摘している。

 マレー社は当時、世界各国のガイド本を出版して名声を博していたイギリスの出版社だった。
 クローデルが携えていたのは1894(明治27)年刊行の『日本旅行案内』の第4版で、編著者は上述のようにB. H. チェンバレン(W. B. メーソンとの共同執筆による)だった。
 1873 (明治6)年にいわゆる「お雇い外国人」として来日したチェンバレンは、東京帝国大学等で教鞭を取りながら、日本についての著作(『日本事物誌』 Things Japanese , 1890)の執筆や『古事記』の翻訳( Ko-Ji-Ki , Records of ancient Matters , 1882)などを行なった、明治期の代表的な日本 研究者のひとりだった。
 1911(明治44)年まで日本に留まった彼は、アカデミックな仕事をこなすかたわらで、日本旅行のためのガイドの執筆にも強い関心と意欲を燃やしていたという(※2)。

(※2)ラフガディオ・ハーン宛の手紙でチェンバレンは、「旅行案内書の制作は、人生のも大きな喜び」と語 っていると、『外国人が見た日本』で紹介されている。内田宗治『外国人が見た日本』(中公新書、2018)p. 19を参照

 ただし、チェンバレンが編著者として関わったのはクローデルが持っていたこのガイドブッ クの 1891 年版(第 3 版)からで、もともとこの本の初版はアーネスト・サトウによって書か れたものだった(※3)。

(※3)ただし、チェンバレンも協力者のひとりとして初版からこのガイドブックに関わっている。詳細は アーネスト・メイスン・サトウ『明治日本旅行案内』(下)(平凡社、1996)の庄田元男による「訳者解説」を参照

『一外交官の見た明治維新』( A diplomat in Japan , 1921)などの著作で知 られるサトウは、1862年から1883年と1895年から1900年公使時代の二度にわたって日本に滞在したイギリスきっての日本の事情に通じた外交官であると同時に、自分の足で日本中を歩いて訪ねた旅行家でもあった(※4)。

(※4)アーネスト・サトウはのべ450日、日本各地を旅行したという。内田宗治、前掲書、p. 15-19参照。

「日本アルプス」という今日では定着した呼び名を初に活字化して用いたのはこのサトウであるというが(※5)、彼自身も富士山、越中から飛騨、そして修験道の聖地である吉野といった峻厳な山々を自らの足で踏破している。

(※5)命名者はイギリス人のお抱え外国人ウイリアム・ガウランドだが、サトウは自著でその名称を用いている。こうした事情に関しては、『アーネスト・サトウの明治日本山岳記』(庄田元男訳、講談社学術文庫、2017)所収の訳者解説(とくにp. 275-283「日本アルプスの発見」と「日本アルプスの命名者=ガウラン ド」)に詳しい。
 なお、地名の新たな命名に関して、井上幸孝による大航海時代にスペイン人がアメリカで行った命名の分析によれば、状況は異なるが、「日本アルプス」は「既存地名に準じた命名」に相当すると考えられる。井上幸孝「西洋の拡張と土地の命名(1)」(『専修大学人文論集』97号、2015)および「西洋の拡張と土地の命名(2)」『専修大学人文論集』(99号、2016)を参照のこと。
 ちなみに、木曽川を「日本ライン」と呼んだのは、『日本風景論』(1894)を著わした志賀重昂(1863-1927)である。

 サトウは1881(明治14)年に横浜のケリー商会から初の旅行案内『中部北部日本旅行案内』( A Handbook for Travellers in Central and Northen Japan )を刊行するが、彼は、
当初からロンドンのジョン・マレー社から出版するようにと念願していた。マレー社は、西欧社会において世界の各主要国ごとの旅行案内を出版し、多くの人々から好評を得ていた。[……]1880年頃のサトウ文書を読んでみると、彼はかなり以前から将来マレー社版『日本旅行案内』に結実するであろう高度な知識水準を持ち、かつ実用的なガイドブックの作成を心掛けていたことがわかる。そのような目標を心に秘めながら、サトウは日本国内の旅を続けている
(アーネスト・メイスン・サトウ『アーネスト・サトウの明治日本山岳記』、上掲書、p. 268-269)

と、庄田元男は指摘している。

  サトウの念願が叶って、1884(明治17)年の第2版からはマレー社が出版元となるが、 たとえば同時期に出版されたイザベラ・バード(Isabella Bird, 1831-1904)の『日本奥地紀行』( Unbeaten Tracs in Japan , 1880)と比べるなら、バードの作品が非常に刺激的でありつつも、あくまでも旅行記、印象記であることは明らかだろう。
 実際、1878(明治11)年に日本に到着したバードはおよそ2年かけてこの本を執筆するが、その「まえがき」で
 本書は『日本についての本』ではなく、日本で行なった旅の話であり、日本の現状に関する知識を広げるためのなんらかの足しになろうとする試みである。
[……]
 日光以北のわたしのルートはすでに踏破された道筋からまったく外れており、完全に縦断した西欧人はひとりもいなかった。
[……]
『西洋人のすでに踏破した道』は日光をのぞき、数行で記すのみにとどめたが、東京(江戸)の場合のように、特徴がこの数年間に著しい変化を受けたところでは、多少概略を述べてある。
(イザベラ・バード『イザベラ・バードの日本紀行』(上)(時岡敬子訳、講談社学術文庫、2008)、p. 4-5

と明言しているように、ガイドブックではなく、探検記としてこの本を書いたことを認めている。

 これに対してサトウの本は、明らかに日本を訪れる人たちにいかに有益な情報を与えるかを常に心がけていて(サトウはイザベラ・バードの著作の情報を有益なものとして高く評価している)、日本での生活に対する細かな必要事項(初版では「地理」、「気候」から「旅宿」、「道路・乗物」など15項目。再版のマレー社版では、これらを「いわゆる英国人を中心とした『日本学』の研究水準に見合った」(※6)ものにするために、大幅に補強している)をガイドに盛り込み、また行先別にルートを設定し(初版では54ルート、再版では64ルートに増補(※7)、それぞれに「里程」によって初に距離を示し、その後で個別の目的地について、伝説から特色までを事細かに記している。

(※6)庄田元男「訳者解説」、アーネスト・サトウ『明治日本旅行案内』(下)ルート篇U、平凡社、1996、p. 440.
(※7)1913年の後のものとなる第9版では、台湾も含め全部で86ルートになっている。 Collected Works of Basil Hall Chamberlain , Major Works 8, Ganesha Publishing/Edition Synapse, 2000を参照。

 もともとサトウが序文で書いているように、こうした形式はマレー社のガイドブックの体裁を踏襲したものだったが、当時の旅行者の多くが裕福な知識人だったことが、訪問先の文化的な情報を掲載するという編集方針に現れている。
 そしてサトウやチェンバレンのような優れた日本研究者にとってこの点を充実させることは、非常に重要な意味を持っていたことは疑いがない。
 第3版から編集はチェンバレンに委ねられるが、旅行者に有益であろうとするサトウの理念はそのまま踏襲され、この『日本旅行案内』は幅広い読者を獲得し続けた。
 1913(大正2)年の9版(1922年に増補版)まで版を重ねていることが、その証左だといえる。
 このようにチェンバレンにせよサトウにせよ、日本を深く理解しようとし、また愛した人びとの想いはこの『日本旅行案内』の重要な部分を支えていた。
 ところで、サトウやチェンバレンが『日本旅行案内』を出した時期には、このジョン・マレー社とドイツのベデカー社(Karl Baedeker)がヨーロッパでは旅行案内書の双璧とされていた。
 後に述べるように、ベデカー社からは日本ガイドが刊行されなかったので、英語による外国人向けのしっかりとしたガイドブックはアーネスト・サトウ、チェンバレンらによるものしかなかった状況だったが、チェンバレンが帰国したあとの1914(大正3)年に、新たに分厚い日本のガイドブックがアメリカ人によって出版されている。
 それが『テリーの日本帝国案内、朝鮮、台湾を含む( Terry’s Guide to the Japanese Empire including Korea and Formosa )』(以下、『日本帝国案内』と略記)という本である。
。。。

専修大学社会科学研究所 月報 No.671 2019年5月
日本の《発見》
――西欧人/日本人による《旅行》と 明治・大正期のガイドブック 〜ポール・クローデルの目に映った1898年と1920年代の間の日本を例として

(根岸 徹郎、国際コミュニケーション学部教授)
http://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/190520-geppo671/smr671-negishi.pdf

posted by fom_club at 10:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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