2020年09月16日

チェンバレン「日本旅行案内 第3版」

外国人の箱根地域の利用形態  

 江戸時代の末に日本が開国した頃、当時の条約の取り決めにより、来日した外国人は開港場に設けられた居留地にしか住めず、自由に行動できる範囲もこの居留地から 10里(約40q)四方と限られていた。

 箱根は、最も近い開港場である横浜からでも10里以上あるが、温泉場があったため特別に「湯治」という理由で外国人が訪れることができるようになった。
 そのため、すでに明治の初めから、日光などと同様に、外国人の訪れることので きる避暑保養地のひとつとして人気が高まった。

 それ以前、開国後には、駐日初代イギリス公使オールコック(Sir Rutherford Alcock KCB、1809 - 1897)や2代目ハリー・パークス(Sir Harry Smith Parkes、GCMG、KCB、1828 - 1885)、同国書記官アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow、GCMG、1843 - 1929)などの公使・ 領事ら外交官は例外的に国内旅行を認められており、これを利用し富士登山や箱根への逗留を果たした。

 やがて箱根を訪れる外国人たちは東海道沿いの箱根・畑宿・湯本地域からさらに宮之下をはじめ塔之沢・芦ノ湯、木賀などにも足を伸ばすようになる。

 1867(慶応3)年、世界一周 の途上に日本を訪れ宮之下で1泊したフランスのボーヴォワール(Ludovic de Beauvoir、1846 - 1929)伯爵 comteは著書『Voyage Autour du Monde』では、宮之下が「日本の貴族階級のバーデン・バーデン(夏の保養地)で、寒い季節には人気がなく、夏には浴客で一杯になる」と記されている。

 1870(明治3)年7月発行の『The Far East』誌(第1号第3巻)には「…多くの外国人が保養とリクリエーションを求めて、山中にある宮之下と堂ヶ島を訪れ、彼らはそこの人びとに大歓迎され、厚遇される。ホ テル、あるいは、お茶屋はとてもすばらしく、主人たちはできる限りの世話をしてくれるから外国客は快適に過ごすことができる。大名やその家来らが常にここを占拠した時代は去り、今では外国人客が贔屓にしてくれることを望み、それを大事にしていますと彼等は素直に言 うのである…」と記されている。

 これらから、横浜にある居留地からの近接性から、早くから箱根が保養施設の充実も要因となって、避暑地として適した観光地であると認められていることがわかる。

 また、
・ 1881(明治14)年に、イギリス人外交官アーネスト・サトウと同国海軍軍人ホーズによって『日本旅行案内 初版 Satow, Ernest Mason / Hawes, Lieutenant A HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN CENTRAL & NORTHERN JAPAN...Kelly & Co. Yokohama』、
・ 1891年(明治24年)にチェンバレンと メイソンの編集による『日本旅行案内 第3版 Chamberlain, Basil Hall / Mason, W(illiam). B(enjamin). A HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN JAPAN. John Murray, London 』
など本格的な日本旅行ガイドブックも登場 し、箱根のことが詳しく取り上げられ、箱根は国際的な観光地・保養地として知られることになった。

 1873(明治6)年、塔之沢温泉に湯治に来た福沢諭吉は、箱根山の車道開削を提言した。
 1875(明治8)年9月、小田原の板橋村から箱根の湯本村山崎までの約4qにわたって東海道の道幅が拡張され、勾配のきつい「お塔坂」と湯本山崎の「駒爪橋」という難所が別ルー トに付け替えられた。
 この道路が開通したことで、人力車だけでなく、外国人客を乗せた乗合馬車も通行が可能となった。
 これが、日本で最初の有料道路となった。

 アメリカより帰国後、福沢門下となった山口仙之助は、箱根が外国人に人気が高いことを知り、宮ノ下の温泉旅館「藤屋」を買い取り、1878(明治11)年に改称し、外国人専用ホテルとして「富士屋ホテル」を開業した。

 1880(明治13)年頃に塔之沢に日本ハリストス正教会の箱根避暑館が建てられると、司教のニコライをはじめとするロシア人が塔之沢にやってくるようになった。
。。。
 宮ノ下と箱根における日本で最初となる高原避暑地の成立過程を明らかにした斉藤(※)の研究では、インド、東南アジアで発達した高原保養地は、植民地時代に造られたもので、日本における高原避暑地も日本における外国、つまり外国人居留地に強く関連して形成されていることを指摘し、サナトリウムの機能に疲労回復、さらにモンスーンの熱波を避けて仕事の能率化をはかる避暑機能を付け加えたのが高原の避暑地であると述べ、 日本における高原避暑地もこのようなパラダイムのなかで考察する必要性があると指摘して いる。

(※)斎藤 功、わが国最初の高原避暑地宮ノ下と箱根:明治期を中心に、筑波大学人文地理学研究、Vol.18、pp.133-161、1994

 そこで、富士屋ホテルの宿泊名簿から居住圏を分析し、1895年時点では、
・ 短期滞在(2、3日)は63.8%、
・ 中期(1週間程度)25.8%、
・ 長期滞在(2週間以上)10.4%
あり、箱根地域の宮ノ下が避暑地として当時機能した性格が表れていたことを明らかにした。
 交通環境との関係について、東海道線などの開通と延長は、宮ノ下や箱根と東京・横浜とのアクセ シビリティを高めると同時に、東京、横浜から遠隔地にあるが、日光や軽井沢など標高の高い避暑地を発達させる原因ともなった、と述べている。


東洋大学大学院紀要、2008
日光、箱根を対象とした観光地形成過程についての考察
──観光資源、交通環境と初期段階の外国人利用の差異に着目して──

国際地域学研究科国際地域学専攻博士後期課程1年 野瀬 元子
https://www.toyo.ac.jp/file/kiyo/pdf/45/e03.pdf

 わが国に初期にやってきて居留地に住んだ外国人は、外交官アーネスト・サトウの旅行にみられるように、未知の土地、日本文化に対する好奇:心・探究心が存在した。
 したがって、居沼地から半径10里という遊歩区域という旅行範囲の制限緩和は当初からの外交問題であった。
 日本の近代化の指南役として御雇外国人を採用したこともあり、大使、領事など在日外国人高官を見倣い、日本政府は彼らに暑中休暇を与え 国内旅行も病気療養・保健学術研究に限り、パスポートを発行して認可することになった。
 宮ノ下は、底倉と一緒に箱根七湯のひとつとして江戸時代に起源をもつ。
 この温泉施設、見晴らしのよい場所に立地していたのが、宮ノ下の奈良屋旅館であった。
 遊歩制限区域を越えてこの地を訪れた外国人のうわさを通じて、宮ノ下は休養地として評判になっていた。
 つまり、宮ノ下は1871 (明治 4)年には横浜では人気のある保養地として知られていた。
 1878(明治11)年、藤屋旅館を貿収して設立された洋式の富士屋ホテルの開業は、この地位を不動のものとした。
 生活水準の高かった外国入居留地横浜および御雇外国人や外国高官の住む東京を控えていたことが、アクセシビリティーの向上と相まって宮ノ下を著明な高原避暑地にした。
 宮ノ下から芦の湯、宮城野、箱根等への散策路も開かれ、訪問答はピクニックや登山を楽しむことができた。
 結果的に富士屋ホテルは避暑存の社交場、情報交換の場となった。
 宮ノ下の富士屋ホテルの宿泊者名簿を検討すると、顧客は日本の横浜、東京をはじめ、海外の3つの地域からなっていた。
 第一は中国・東南アジアなど列強の植民地、特に上海、香港、シンガポール、ペナン等の都市からの訪問者であった。
 第二はヨーロッパでイギリス、ドイツからの訪問者が多かった。
 第三の地域はアメリカ合衆国で、ニューヨークとサンフランシスコに特化していたが、全域に渡っていた。
 また、長期滞在者は時代の進行とともに減少傾向にあり、短期滞在者が増大するようになった。
 短期滞在者の中には、横浜、東京、神戸の友人を尋ねた外国人および世界パック旅行の参加者が存在した。
 なお、長期滞在者は宮ノ下の喧騒を逃れ、宮ノ下より標高が高く涼しい、料金の安い箱根を利用するようになった。

 江戸時代に人工的に設置された関所の宿場町、箱根は、往時200戸に達したが、宿駅制度の廃止とともに衰退し、1902年には戸数がほぼ半数の90戸になってしまった。
 しかし、町の衰退に歯止めをかけたのが、外国人の滞在であった。
 すなわち、日本人の宿泊者の減少を相殺して箱根宿の本陣、旅篭を外国人家族が夏季に借り上げて避暑するようになったのである。

 柳田国男は1907年、その様相を「高地を好める西洋人は遠近の開港場より群集して、茲に避暑部落を作り、ボートは蘆の湖に浮び、破風屋は箱根ホテルとなり、ペンキは盛んに尋常の民家を塗抹し、湯治場の客も遊びに来れり。昔の賑わいに比するときは、固より十のーにも達せざれど、兎に町民歳計の一半は之に依って始めて支持することを得たり. ・・・夏季の稼ぎ高は同時に秋冬の費用に充つるに足る。故に箱根の郵便局は、必ずしも絵葉書の消印のみを以て能事とせず、貯金の事務に於いても亦頗る多忙なり J と書いている。

※ 柳田国男 「箱根の宿(1907)『定本柳田鶴男集第22巻』(1962)所収、pp366-372368-369)

 一方、『日本旅行案内』の第3 版によれば、避暑地として箱根と宮ノ下のどちらに利点があるかという論争が同地の訪問者の間でたえず戦わされた。
 宮ノ下は温泉があり、箱根より空気が乾燥しており、早く行けるし、洋風のホテルもある。
 箱棋は宮ノ下より1000フィート高いので涼しく、プライバシーが保てる、湖水浴やボート遊びのできる魅力的な湖がある。
 また冬は宮ノ下に利点があることで一致しているJ と記載され、宮ノ下が周年型のリゾートであったことを明らかにしている。

※ Chamberlain and Mason,1891,p105

 第4版では箱根に「富士山の眺め(湖水に写る逆さ富士)も大きな魅力である」と付け加えられている。
 この宮ノ下と箱根の関係は、日光と中禅寺湖畔との関係に類似しているといえよう

※ 斎藤 功 「 外国人によるブナ帯風土の発見、軽井沢以前の避暑地のーコマ」市川健夫編『日本の風土と文化』(古今書院、1991)所収 pp164-179

 ともあれ、宮ノ下と箱根は、経井沢以前の日本の最初の高原避暑地として発展した。
 外国人居留地横浜と首都東京に物理的に近かったことが鉄道、道路、チェアーなどアクセシビリティーの増加とともに、訪問客を増大させる結果となった。
 しかし、東海道線などの国鉄の開通と延長は、宮ノ下や箱根と東京・横浜とのアクセシピリティーを高めると同時に、東京、横浜から遠隔地にあるが、日光や軽井沢など標高の高い避暑地を発達させる原因ともなった。
 しかし 軽井沢を含め日本で高原保養地として発展したのは、そこに寺院,宿場町などの遊休の既存の宿泊施設が存在したところに限られ
ていたといえよう。


筑波大学人文地理学研究、1994
わが国最初の高原避暑地宮ノ下と箱根 : 明治期を中心に
斎藤 功
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/

posted by fom_club at 18:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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