2020年09月15日

大塚英志「戦時下の<共助>論」(前編)

9月14日に行われる自民党総裁選挙に出馬した菅義偉氏は、「自助・共助・公助」を打ち出しています。
今では自然にセットで使われているこれら三つの言葉には、実は別々の来歴がありました。
戦時下に使われた「共助」という言葉が、いかに「日常生活の共同化」そして「身体の機械化」へと結びついていくのか――。
コロナ下で提唱された「新しい生活様式」への違和感を解き明かした『「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち』にもつながる、大塚英志さんのエッセイです。

 一躍、というよりはいささか唐突に最有力候補に躍り出た感のある菅義偉が自民党総裁選への出馬を表明する記者会見で、総裁選で訴えるべき政策として掲げたのが「「自助・共助・公助」で信頼される国づくり」であった。「イチゴ畑」出身(ウォール・ストリート・ジャーナル)、パンケーキ好きの「かわいい」首相候補(どうやら安倍晋三から菅が継承したのが「かわいい」性であったらしい)として今や圧倒的支持を受けるが、この「自助・共助・公助」だけは相応に批判を浴びた印象がある。そもそも掲げた政策の基本方針だけ評判が芳しくないのに一挙に支持されることになってしまった首相候補というのは、ぼくには理解できないし理解する必要も感じないが、それでも批判の対象となり得たのは新自由主義や自己責任論の気配がこれらの語の連なりに感じられたからだろう。

 そういう気配に対して「ハフポスト」が「自助・共助・公助」は阪神淡路大震災を契機に広がった防災標語であると妙な主張をしたが、これはミスリードで、この3語を同時に含む文献は国会図書館の検索に限っても1995年から2002年まで0件か1件、2003年で3件と震災の年を境とする変化は見られない。むしろ急増するのは2012年の第二次安倍政権発足後である(図1)。

(図1)
国会図書館の「自助・共助・公助」検索結果(2020年9月7日時点)

 2011年の東日本大震災の影響でこの時は自然災害への自助・共助を求め公助の限界を説く論考も登場するが、そもそも阪神淡路大震災の時にはなかった自然災害自己責任論が安倍政権下で増えるのは、政権の政策とやはり関わりがあると考えていい。第二次安倍政権における「自助・共助・公助」論は、社会保障の見直し論が中心的な用いられ方である。「自助・共助・公助」論はその意味で、新自由主義的自己責任論を意味する「安倍用語」と言えるのかもしれない。

「自助」「共助」「公助」の出自

 しかし、すこし振り返ってみれば「自助・共助・公助」の3語は日本語としてはそれぞれ出自が違うことに気付く。

「自助」は明治初頭、サミュエル・スマイルズの『自助論(Self-Help)』が『西国立志編』として翻訳出版されて広がり、自由民権運動の政治結社「自助社」あたりに遡れる。

「共助」は明治期には国家間の司法の協力関係を意味する限定的な語として使われるが、明治38(1905)年、柳田國男が帝大在学時、農政学の教員であった松崎蔵之助の産業組合論『農業と産業組合』の中に「協力共助の美風を回復すべし」なる一説が見られ、しかし昭和初頭から戦時下にかけては改めて詳しく述べるが、「隣保共助」という言い方で翼賛体制を支える語の一つになる。

 対して「公助」は全く新しい造語で1980年代初頭から散見される。文献検索では1980年代以前は人名、あるいは犬の名として「公助(こうすけ)」が引っかかるのみである。「公助」が「こうじょ」として登場するのは「自助」と「公助」とセットになってからであり、1984(昭和59)年10月の閣議で報告された翌85年度の「厚生白書」にみられる「福祉ニーズのうち、個人や家庭では対応し難いもの、普遍的で基礎的なものは、公的部門が対応。一方、個人、家庭、地城社会、企業では自立・自助を基本に、相互扶助の機能を発揮することが期待される。それ故、 ボランティア活動が重要だ」(「朝日新聞」1984年(昭和59年)10月19日)というくだりは「公助」という語こそ用いられないが、「自助」「相互扶助」「公的」の分担が主張される。これを報じる記事には「人生80年時代は自立・自助精神で」「行政むしろ脇役」の見出しが「朝日新聞」に踊る。見出しから受ける印象は肯定的である(図2)。

(図2)
「人生80年時代」における「自助」を謳う(「朝日新聞」1984年10月19日夕刊)

リベラル用語から安倍政権のレガシーへ


 3語ワンセットの併記としては福祉をめぐる民間の議論や国会での議論で用いられ始め、1987(昭和62)年の厚生白書にはこうある。
社会保障制度の再構築=基本的考え方として
(1)経済社会の活力を維持する
(2)自助、互助、公助、つまり個人・家庭、地域、公的部門の役割分担を原則とする
(3)社会的公平と公正を確保する
(4)すべてを公的部門によるサービス供給とするには制度的、財政的に限界があり、公と私の役割分担をする。
(1987年1月9日「朝日新聞」夕刊)

 つまり、社会福祉政策の見直し、というよりは限界論として「自助・互助・公助」があからさまに用いられている。「互助」と「共助」の違いこそあれ、菅の語法と全くと言っていいほど変わりがない。この白書は「2021年に高齢化ピーク」がやってくることを踏まえたもので、「自助」や「互助」による社会保障の制限に留まらず、一定の高齢者も生産年齢人口とみなし、なだらかな引退を促す、つまり高齢者の定年後の就労を促すものだ。

 この「自助・共助・公助」論は、福祉見直し論が「連帯」や「ボランティア」などという言い回しとセットで登場し、それ故、当初は、リベラルにウィングを広げた印象がある。1984年の白書を閣議で承認したのは、自民党と新自由クラブの連立政権である。福祉の「自助論」「共助論」自体は、朝日新聞の社説も支持している。この後も細川内閣や新進党時代の小沢一郎、民主党政権時代の野田首相も用いている。小泉政権下で主として「自助」の意味が拡大したという指摘もある。一種の政治改革用語でさえあった。「改革」を唱える安倍政権が継承したのは当然の成り行きである。しかしその本質があからさまな福祉自己責任論であることを再認識させたのは、安倍政権の新自由主義路線の賜物ではある。その意味で「自助・共助・公助」はやはり、安倍政権のレガシーといえるかもしれない。

戦時下の日常の言葉「隣保共助」

 このように「自助・共助・公助」の来歴を丹念に辿るだけでも、興味深い推移が明治から現在まであるのだが、ここでは、もはやコロナ下なのかポストコロナなのか判然としない「今」と、戦時下を対比した前回のエッセイの続きとして、少し戦時下の「共助」について考えてみたい。

 戦時下に於ける「共助」の代表的な使われ方は「隣保共助」である。
その用例は翼賛体制の「日常」「生活」の構築の場としての隣組プロパガンダのツールとして知られる「翼賛一家」にもしばしば見られる(図3)。まさに「日常」語と化していることがうかがえる。

(図3)
「隣保共助」は「翼賛一家」でも繰り返し使われた。(上)小泉紫郎「白熱の大鉄傘」(「アサヒグラフ」1941年1月29日)(下)加藤正春「隣保共助」(1940年12月13日)

 昭和前期、その「隣保共助」が、あからさまな政治的な意味において用いられるのが、世界大恐慌を受けて逼迫した農山漁村への政策である更生運動においてである。近代を通じて農山漁村に入り込んだ資本主義経済は村民が生業を行う上で借入金を抱えさせる結果となり、その債務が恐慌によって露呈したのである。娘の身売りや、肥料を食べるというしばしば語られる生活の困窮の背後にあったのは、負債による経済破綻であった。それを当時の政府は、「隣保共助ノ精神」で解決するよう法律改正を行った。それを定めた昭和8(1933)年に公布された農村負債整理組合法の改定の条文にこう見える。
本法ハ農山漁村ニ居住スル者ノ経済更生ヲ図ル為隣保共助ノ精神ニ則リ其ノ者ヲシテ負債整理組合ヲ組織セシメ組合ノ樹立シタル負債償還計画及経済更生計画ヲ履行セシメ以テ其ノ負債ノ整理ヲ為サシムルコトヲ目的トス
(農村負債整理組合法制定登録税法中改正・昭和八年)

 この法律は、個々人の負債を、整理組合を組織させて償却せしめようというものである。

 更生運動は全体としては、農業経営の村単位での共同化や日用品配給の統制など翼賛体制をわずかばかりの補助金を対価に推進するもので、「自力更生」がスローガンの精神主義的色彩が強かった。補助金はインフラの構築や福祉ではなく、精神主義である証左に、神社の再建や地域の民話集の編纂など伝統の再生産に用いられることも少なくなかった。満州への移民の推奨も更生運動の一環であった。貧農の経営基盤を構築するため農業組合結成を促すために用いた「協力共助の美風」という松崎蔵之助の語法は、恐慌による借金返済組合結成の美名に転じたのである。

共助という「伝統」の復興

 こういった地方政策は一方では翼賛体制に向けて継続した。農山漁村の更生運動については、志賀直哉を師とし「天国の記録」「街のルンペン」「ある私娼との経験」などで都市の生活困窮者を描きルンペン文学などと呼ばれた社会小説で知られる下村千秋が、そのモデルケースとされる村々のモノグラフめいたものを描いている。そこには「隣保共助」による借金返済がこう自明のこととして語られる。
その目的は、この組合を新たに組織しなければ、負債の整理ができさうもないからではなくて、最も合理的に經濟的に負債を整理しようといふためであり、併せてこれによつて隣保共助の精~を昂揚させようといふ、いかにも菊池さんらしい考へを徹底させようとしたのであつた。
(下村千秋著・大政翼賛会文化部編『梅澤村と沖部落の更生記─青森縣北津輕郡─』1942年、翼贊圖書刊行會)

 下村のモノグラフは、文学者とは思えぬ債務の返済過程を示す表の類が並ぶものだ(図4)。

(図4)
ルンペン文学の下村千秋の更生村ルポ。債務返済が表で克明に示される(下村千明著・大政翼賛会編『梅澤村と沖部落の更生記─青森縣北津輕郡─』1942年、翼賛圖書刊行會)

 そして翼賛体制・戦時体制に向かう中で、この農山村固有の美風であったはずの「隣保共助」を日本の「伝統」として、都市へと移植しようとしたのが国民精神総動員運動から大政翼賛会に至る流れである。その組織として制度化されたのが隣組で、つまり「伝統」の都市での復興という文脈である。
これではいざといふ場合決して充分の成果を擧げることは出來ません。このやうな悲観的な現状も、敵機がやつて來て焼夷彈を落された場合に、自分の生命と生活を防衛するためにはどうしても近隣お互同志が協力しなければならない必然性が、ともすると町會すら失はんとしつゝあつた隣保相扶の實踐的復活を促し、引越して來れば向三軒両隣と近所に「そば」を配つて、どうぞよろしくと話し合つて近隣相睦ぶところの日本的感情が大東京の都心に新しい近代的使命を帯びて堂々と復活して来たのです。
(前田賢次「町會と隣組」熊谷次郎編『隣組讀本』1940年、非凡閣)

 後述するが、隣組は「空襲」という見えない恐怖で同調圧力を強化する手法だが、引用の後段で、「隣保共助」と同義の「隣保相扶」が「日本的感情」に拡大され都市に復古せしめるのが「隣組」だとされていることに今は注意されたい。

 この時、注意すべきは、「共」の部分である。翼賛体制を理論的に支えたのは近衛文麿の私的な政策グループ昭和研究会の協同主義であった。詳しく踏み込む余裕はないが、その議論の根本にあるのは個人主義の否定である。行き過ぎた自由主義の弊害として個人主義がある、というロジックはこの頃、既に成立している。それは個人主義を利己主義として否定するものである。従って隣組が、反「自由主義」的組織であることは、隣組の担い手にも周知されていた。
最早私等に、從來ともすれば陥り易かつた自由主義では凌ぎがつかなくなつた。個人の繁榮をのみ只管考へてゐた利己主義の考へ方を根本的に改めて、國家と云ふ大きな機構の中に、各人の行動は總て向けられなければ、この重大時局を解決する方法がなくなつたのである。
(冠松次郎「ひとつに固まる氣持」『随筆集 私の隣組』1942年、翼贊圖書刊行會)

 つまり、「共」とは「個人」の「行動」を「國家と云ふ大きな機構」の中に収斂させる意味であると意識されていることがわかる。

日常生活の「共同」化へ

 その仰々しい論理が「日常」の水準で具体化されるのが、日常生活の「共同」化である。

 事実、「共同炊事」「共同保育」などの文字を戦時下の新聞や雑誌、翼賛会関連の文献にすぐに見つけることができる。日用品の借り貸し、共有などの美談も見られる。これらは「シェア」「シェアリング」という言い方でコロナ以前、ここ数年の流行で一方ではリベラルな、他方では「シェアリングビジネス」というweb絡みの起業のアイデアとして流布されたことは記憶に新しい。

 コロナ禍での「ていねいな暮らし」がそうであるように「共同」もそれ単体では正しいように一見、見える。もともと「共同作業」は生活困窮者向けの、今でいう炊き出しや、あるいは農繁期の農村で推奨されたもので、出自全てが翼賛体制にあるわけではない。
 だが問題は、その「正しさ」のみを重ねた先に出来上がる社会体制だ。

 例えば、「共同保育」を促す記事にはこうある。
空襲下の乳幼兒保護のためにも、工場へ通ふ母親のためにも隣組の共同保育はぜひ行はれねばならないが、過日の議會でも「コドモ隣組」の必要が力説されてゐる、大日本婦人會健民部副島ハマ女史は実地の体驗から「コドモ隣組」の開き方を次のやうに述べた
(「朝日新聞」1944年1月31日)

 つまり空襲から子供をまとめて避難させたり、女性の勤労奉仕を可能にするため隣組による「共同保育」が推奨されていた。働く女性のあり方そのものが根本的に違うのである。ちなみに、この「共同保育」の記事は、国旗に向かい礼で始まり「私たちは日本の子供、天皇陛下に忠義を尽くします」の唱和で終わる運用マニュアルの紹介へと続く。

「共同炊事」も同様で「おかずを交代制で仲良く共同炊事 ガス節約に垂範の五人組」と記事の見出しが全てを物語っている。「五人組」とは仲の良い主婦グループのことで、下意上達が建前の翼賛運動の方針に従い住民の自主性が演出される。
 その記事のリードにはこうある。
今回のガスの消費規正による「家庭用二割減」の対策として、商工省で共同炊事こそ問題を解決するただ一つの鍵であると、その実行を勧めてゐるが、いひ易くして行ひ難いこの共同炊事を、五年も前から実踐して燃料、勞力、時間の節約に大きな成果を収めてゐる一群がある
(「朝日新聞」1943年8月12日)

 この「節約」は当然、戦時体制下で求められる「節約」に他ならない。

 それは『赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子などは以下のようにはっきりと書いていることでもわかる。
最低の生活と最高の名譽が我々に課せられた使命である。これを銘々の家庭の中に實現し、この意義を會得させる日常こそ女性翼賛への道である。
(村岡花子『母心抄』1942年、西村書店)

「最低の生活」とは節約を尽くす"ていねいな暮らし"の別名であることはいうまでもない。だからそういう「生活」を「楽しむ」という感情の醸成とでもいうべきものが他方であったことも、同じ村岡の証言でわかる。
「樂しい生活」といふことが、この頃しばしば話題にのぼる。或は「生活に樂しみを求めるには」といふやうな題目が與へられる。
(前掲書)

webちくま、2020年9月12日
戦時下の「共助」論」
防毒マスクと「女生徒」

(大塚 英志)
http://www.webchikuma.jp/articles/-/2162

posted by fom_club at 06:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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