2020年08月02日

全共闘運動

 約50年前、全国の大学で巻き起こった全共闘運動。
「女はお茶くみ」と言われた時代に、女性たちは何かを信じ、何かと闘った。
 AERA 2020年8月3日号は女性闘士のその後を追った。

♢ ♢ ♢

 国会議事堂を望む東京・永田町の衆院第1議員会館。
 衆院議員の阿部知子さん(72)は、部屋がある建物4階から車が行き交う道路を見下ろすと目を細めた。

「不思議な気持ちになるんです。この道を、機動隊に囲まれデモしていたんですから」

 50年ほど前、阿部さんは東京大学の学生として東大の全学共闘会議(全共闘)のバリケードの中にいた。
 1968年、医師になるため東大に入学したのだ。

 1960年代、日本は「政治の季節」を迎えていた。
 ベトナム戦争や70年に迫った日米安保条約改定への反対運動が沸き起こり、全国の大学では党派に属さないノンセクトの学生を中心に「全共闘」が形成され、「全共闘運動」が燎原の火のごとく燃え広がった。
 東大も例外ではなく、1968年1月の医学部生によるストライキを機に「東大闘争」が始まっていた。

 だが、都内の女子高出身で「ノホホンと過ごしていた」という先の阿部さんは、社会的関心は強いほうではなかった。
 目を開かせてくれたのが、教養学部の助手だった社会学者の最首悟(さいしゅさとる)さん(84)だった。
 大学の内外で、社会で起きているさまざまな問題を教えてくれた。

 ヘルメットを被り、社会の矛盾と向き合った。
 国会前をデモしたのもこの頃だ。
「ベトナム戦争反対!」と叫び、羽田からアメリカに飛び立つ航空機の下を走ったとも振り返る。

 しかし1969年1月、東大の安田講堂が陥落すると運動は下火に。
 運動を続けるか否か。多くの仲間が離れていく中、阿部さんは在日韓国人問題に出合い運動を続けた。

 残る者と去る者──。
 去った者は「裏切り者」と呼ばれ、両者の間に分断が起きた。

「私はそれが一番つらかった。私の主張は正しい、あなたは間違っていると言っているようでは、運動は勝利しない。対立ではなく合意点を求めていかなければ、社会を変えられない」

 3年になって医学部に進むと、精神病棟解放闘争や医療被害運動などに注力する。
 大学を卒業し小児科医になっても障害者運動、脳死反対運動など社会運動を続けた。
 政治家を目指したのは母親を救急車のたらい回しで、兄を医療事故で亡くしたから。
 政治の力で医療現場を変えるという思いからだ。
 阿部さんにとって学生運動とは何だったのか。

「社会に対し目を開かせてくれたもの。世界で戦争や紛争が起きている時、差別を受けている人がいる時、何をすべきなのか考える力を得ました。あの運動がよかったとか悪かったじゃなくて、そういう時代。希望や正義はあったのだと思います」

 ドキュメンタリー映画「三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜」(注)が上映されるなど、いま全共闘に注目が集まっている。
 しかし当時は今以上に男社会。
 戦後の第1次ベビーブーム(1947〜1949年生まれ)で生まれた子どもたちが大学に入学し始めた1965年、4年制大学への進学率は男子の20.7%に対し、女子はわずか4.6%。
 学生運動を理論的に指導するのは男性で、女性はそれを支える役割。
「女はお茶くみ、女は性的対象」などと言われた。
 そんな中でも女性たちは革命を信じ、何かと闘った。

♢ ♢ ♢

 九州大学の学生だった合原(ごうばる)真知子さん(72)は、闘ってきたのは「自分自身」だったと振り返る。

 大分県で林業を営む家に生まれ、1967年に入学。
 学生運動は九大にも飛び火していたが男中心の学生運動を敬遠し、セクトとは一線を引きシンパサイザー(同調者)として全共闘運動にかかわった。

 大学はこのままでいいのか、ベトナム戦争とは何か、人間の原点とは何か──。
 仲間と議論し、自分自身と向き合い考えた。

「一生懸命考えるのはつらい。つらかったけど、時代をどうみていくかという姿勢は、このころ勝ち得たのかもしれません」

 そんな中で日本全体が大きな仕組み、つまりグローバル資本主義の中に組み込まれていくことを感じていった。
 明確に実感したのが、1972年2月に起きた「あさま山荘事件」だ。
 極左メンバーの連合赤軍5人が長野県軽井沢町のあさま山荘に押し入り、管理人の妻を人質に取り立てこもった。
 警察の制圧作戦に犯人側もライフルで応戦し、機動隊員2人が殉職した。

 合原さんは当時、事件をテレビで見た。

「その時に『ああそうか』って思ったんです。国もマスコミも、それまでの私たちがやってきたさまざまな努力をチャラにして、十把一絡げに極左の問題にしてレッテルを貼る。私たちが一生懸命にやってきたエネルギーは、雲散霧消するんだって」

 実際、多くの仲間は大学を卒業すると一般企業に就職した。
 合原さんは教員になろうと考えていたが、置いてきぼりにされている林業を何とかしたいと思い、実家を継ぐことにした。
 間伐や植林も行いながら、林業を次世代につなぐことに力を注ぐ。

※ AERA 2020年8月3日号より抜粋


[写真‐1]
阿部知子さん(72)。東大出身。医師で政治家(立憲民主党)。安田講堂が陥落した時、それまでこもっていた建物を出て自宅にいた。「50年間、立ち止まる間もありませんでした」

[写真‐2]
東大全共闘系の学生らが立てこもった東京・本郷の安田講堂。学生らは投石や火炎瓶で抵抗したが、機動隊の突入で「落城」した/1969年1月19日

[写真‐3]
およそ半世紀前、ヘルメットをかぶって闘った女性たち

[写真‐4]
合原真知子さん(72)。九大出身。大分県の出身で、卒業後は実家の林業を継いだ。「頭で考えることに疲れたころ出合った林業は、とても新鮮でした」

AERA、2020.8.1 17:00
「女はお茶くみ」の時代に革命を信じ…
全共闘「女性たちの闘い」の追憶

(編集部・野村昌二)
https://dot.asahi.com/aera/photoarticle/2020073000064.html

(注)ドキュメンタリー映画「三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜」

 作家の三島由紀夫が自決する1年半前に行った東大全共闘との討論会に迫ったドキュメンタリー。
 2019年に発見されたフィルムの原盤を修復したことにより、多くの学生が集まった討論会の様子が鮮明に映し出され、当時の関係者や現代の文学者、ジャーナリストなどの証言を交えて全貌が明らかになる。
 監督はドラマシリーズ「マジすか学園」などの豊島圭介。


映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=qaeeMOYWwAQ

公式サイト
https://gaga.ne.jp/mishimatodai/

 映画『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』を観(み)た。
「禁断のスクープ映像」と謳(うた)われているが、これはTBSが保管していたテレビ映像をもとに、当時の全共闘の面々や小説家の瀬戸内寂聴と平野啓一郎、そしてかつての楯の会の人びとへのインタビューをおりまぜて編集したものだ。

 半世紀前の映像だ。
 当然ざらついた不鮮明さも目立つ。
 しかしそれが逆に三島由紀夫のオーラとともに、昭和という時代の輝きと熱気をも伝えている。

 討論会は対決というよりも、学生たちが兄貴のようなスーパースターを相手にジャレつきむしゃぶりついてる感じだ。

「認識」「関係性」「現象形態」「捨象」……。
 よくもまあこんな言葉をぬけぬけと並べたものだ。
 しかし私は、笑えなかった。
 なぜなら、私もこの頃、自分がいかに人より抜きんでて優れているかを見せるのに汲汲(きゅうきゅう)としていたからだ。

 三島由紀夫は、若い人を立てる礼儀正しい人だった。
 そして自分を見せることにかけては、寸分の狂いもなく立ち回るヨカニセさんだった。
 当時の若者やメディアなど手玉にとるのは、彼にとってはわけないことだったろう。
 今もそう思う。

 ところで全共闘というのは、全学共闘会議の略称だ。
 往時の日本共産党系以外の三派全学連と呼ばれるセクトや私のような無党派学生(ノンポリと呼ばれた)による運動体だった。
 確立された既存の体制やさまざまな権威に対して、それぞれの異議申し立てをする集団だ。

 アメリカのベトナム戦争反対や公民権運動、1968年のパリの五月革命、ソビエト連邦のぐらつき、世界の至る所でマグマが噴出していた。
 パンデミックのような世界同時革命という幻想にとりつかれた人間も少なくなかった。

 私もゲバ棒や火炎瓶を手にした。
 しかし私は、革命を口走る人間が嫌いだった。
 私にはマルクス全集と太宰治の一行が等価だった。
 ある時、学生運動家から吊(つ)るしあげを喰(く)らった。

「岡田、テメエは、右か左か どっちなんだよ」

 私はしれっとして答えたものだ。

「きっと、上だと思う。両極相通ずってこともあるんだよ」

 また私はことさら肉体美を誇ったり、男臭い集団で直接行動に走る三島由紀夫は苦手だった。
 きっとその頃、自分の肉体と腕力と殺意には、自信があったからだろう。

 だが1969年1月の安田講堂の一件来、私はすっかり消耗していた。
 5月三島由紀夫の集会の日も、会場は覗(のぞ)いたが、三島由紀夫も壇上の学生たちも、思った通りのことしか言わなかった。
 私は後に『テロリストのパラソル』を書いた藤原伊織たちと早々に引きあげ、マージャンに及んだ。

 映画のあと、こんなことを思い出しながら、私は50年前の私の日記帳をぱらぱらとめくった。
 三島由紀夫が自決した夜、私は150行ほどの弔詩を書いている。
 その余白には、次のようなメモもあった。

「さようなら 東京/さようなら 母よ/さようなら 私が愛した人たちよ/さようなら 三島よ=わたしはわたしともわかれてゆくのだ=手をふりて 皆とわかれた峠道/これからうたう わが風葬歌」

 映画を観て、私は学校に忘れ物をしたような気分にもなった。
 しかし、今それをとりに引き返そうとは思わない。


[写真]
2020映画「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」製作委員会

西日本新聞、2020/3/26 15:14
「三島由紀夫VS東大全共闘」に観る昭和の熱気
だが引き返しはしない

(岡田哲也)
※ (おかだ・てつや、詩人。1947年、鹿児島県出水市生まれ)
東京大文学部中退。詩集に「白南風」「にっぽん子守唄」「わが山川草木」「茜ときどき自転車」「花もやい」など。本紙で「西日本詩時評」を担当中。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/595262/

posted by fom_club at 05:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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