2020年07月30日

流転の王妃、愛新覚羅 浩

杉並区公式チャンネル
愛新覚羅浩 その生涯 〜日中友好の懸け橋として〜

https://www.youtube.com/watch?v=UXZDpdHSbj4

 愛新覚羅浩(あいしんかくらひろ)は、侯爵・嵯峨家の長女として、1914 年に東京で生まれました。
 浩の人生は、日本と中国の歴史に挟まれ、波乱に満ちたものでした。

 1932 年、日本の関東軍主導のもと建国に至った「満州国(中国東北部)」。
 当時、日満一体を強化したいと考えた関東軍は、満州国皇帝となった溥儀の実弟・溥傑に日本人女性を嫁がせる政略を施します。
 その候補に挙がり、嫁ぐこととなった浩は、1937 年、祖父の邸宅(現・郷土博物館所在地)から結婚式場となった軍人会館(後の九段会館)へ向かいました。
 この時、沿道から見送る人びとを見た浩は、「(中略)沿道の風景だけははっきりと瞼に焼きつき、終生私への無言の励ましとなってくれたのでした」と、後年の自伝の中で振り返っています。

 降りかかる困難を命がけで乗り越えた浩の生涯をたどる特別展が、明日2018年10月27日から郷土博物館で開催されます。
 特別展では、結婚前の不安と覚悟の入り混じった真情を親友へ綴った書簡を初公開するほか、浩の婚礼衣装などを展示します。

 開催前日となる本日26日に、特別展の内覧会が行われ、浩の次女・福永コ生さんと区長によるテープカットセレモニーが行われました。
 特別展を見学したコ生さんは、 「こうして縁のある場所に展示をしてもらい、両親も大変喜んでいることと思います。」と話していました。

 日中平和友好条約締結40周年を迎えた今年2018年、日本と中国の架け橋となった愛新覚羅浩の生涯をたどりに、ぜひ特別展へお越しください。


杉並区広報課、2018年10月26日
〜ラストエンペラーの実弟に嫁いだ侯爵令嬢〜
「愛新覚羅(あいしんかくら)浩(ひろ)展」が開催されます

https://www.city.suginami.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/044/517/1026aishinkakura.pdf

 ラストエンペラーとして知られる清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ、1906−1967)とともに満州で終戦を迎えた血族が兵庫県西宮市に住んでいる。
 溥儀の実弟である溥傑(ふけつ、1907−1994)の次女、福永嫮生(こせい、75)。
 戦後70年を迎えて戦争の記憶が風化し日中関係が複雑さを増す中、「人と人との真心の交流を大事にしてほしい」と訴えている。

満州国崩壊 石投げられ、唾吐きかけられ、目の前で多くの命失われた

 福永さんは1940(昭和15)年3月、溥傑と嵯峨浩(さがひろ、1914−1987)の次女として東京で生まれた。
 浩は公家華族の長女で、2人の結婚は日本と満州の親善の架け橋といわれた。

 1945年8月の終戦時、5歳だった福永さんは溥儀や溥傑、浩とともに満州にいた。
「みんな泣いていて、寂しいような悲しいような情景だけは覚えております」と振り返る。
 父親の溥傑は溥儀とともに飛行機で亡命する途中、ソ連軍が拘束。
 一方、母親の浩は「一族とともに皇后をお守りする」と決意して日本への帰国の誘いを断り、やがて皇后とともに中国共産党軍に捕らえられる。

 翌年1946年1月、皇后と浩、福永さんらは中国東北部の町、通化に移送された。
 翌月、日本人が武装蜂起に失敗し、戦死や処刑などで千人以上が死亡したとされる「通化事件」が発生。
 福永さんらのいた場所も戦場となり、激しい戦闘にさらされた。

 その後も軍に拘束されたまま中国東北部を転々とし、延吉では軍に市中を引き回されて市民に石やつばを吐きかけられたことも。
 ハルビンで釈放され、日本に引き揚げる開拓団に紛れて歩き続けてようやく港にたどり着いたが、今度は国民党軍に戦犯として捕らえられた。
 上海で元軍人の日本人に救出されて日本への引き揚げ船に乗るまで直線距離にして約6千キロ、約1年5ヶ月に及ぶ流転の日々の中で、母娘の目の前で多くの命が奪われたという。

鮮血で染まる顔、折り重なって守ってくれた人びと

 福永さんが鮮烈に覚えていることがある。
 通化事件で砲弾が飛び交う中、皇后を守ろうとした溥儀の乳母が撃たれ、手首のない手で顔を覆った。
 鮮血で真っ赤に染まった顔…。
 乳母はやがて息絶え、遺体は放置された。
 そんな砲弾の中で一族を守ろうと、布団をかぶせて覆いかぶさった日本兵がいた。
 その日本兵が砲弾で亡くなると中国兵が同じようにかぶさって守り、命を落としたという。

「それらの方が亡くなった上で私たちが生かされたことに感謝しております」と福永さんは振り返る。
 この後も数え切れない修羅場をくぐり抜けての奇跡の生還の陰には、身をていして浩や福永さんを守ろうとした大ぜいの日本人、中国人がいたという。

愛によって再生した一族の物語、伝えていくことが大事

 溥儀とともにソ連に抑留されていた溥傑はその後、中国の戦犯管理所に送られた後、1960年に釈放。
 互いを想い続けていた一家は翌年、再会を果たし、浩は生涯を北京で溥傑とともに過ごした。

 一方、福永さんは日本にとどまって帰化し、日本人の実業家と結婚して大阪や兵庫で5人の子供を育てた。
 溥傑と浩は1972(昭和47)年の日中国交正常化以降に日中親善のため何度も来日し、浩は福永さんに「物がなくなっても惜しむことはない。人の心と自分の命を大切にするように」と繰り返したという。

 2013(平成25年)10月、福永さんは兵庫県西宮市の自宅で保管していた一族の資料約千点を同市にある関西学院大学博物館に寄贈。
 同博物館では2015(平成27)年5〜7月に約60点を公開する展覧会「愛新覚羅家の人びと−相依為命(あいよっていのちをなす)−」が開催され、6月20日に開かれた記念講演会では福永さんが自らの体験を語った。

 博物館によると、当初の定員300人に対して4倍近い参加申し込みが寄せられ、関西圏だけでなく、関東や九州など遠方からの参加者もいたという。
 河上繁樹館長は「予想を超える反響だった。終戦から70年、中国との緊張関係もある中で、戦争を知らない世代が増えている。ご本人が語ることが大きかったのではないか」と話す。

 展覧会の副題「相依為命」は「時代は変わっても、相手を思いやる気持ちがあれば生きていける」との意味で、溥傑がよく口にした言葉。
 福永さんの生涯をつづったノンフィクション『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』を著した作家の本岡典子さん(59)は「嫮生(こせい)様は“命さえあれば”と語られ、その言葉はシンプルだけれど大切なこと。苦労の後、愛によって再生したご一族の物語を伝えていくことは今、とても大事なことだと思います」と訴える。

 福永さんは取材に対して穏やかだが、凛とした表情で語った。

私どもは政治や経済とは全く関係ありません。心と心の交流こそが一番確かで信頼できると思うのです。父と母の『相依為命』ではありませんが、お互いに思い合って支え合って生きていく精神が広まれば、戦争は少なくなると思います。次の世代の方にも心と心の交流を続けていってほしいのです

■ 愛新覚羅家の歩み(敬称略)
1906年 愛新覚羅溥儀が誕生
1907年 溥儀の実弟、溥傑が誕生
1908年 溥儀が第12代清朝皇帝になる
1912年 溥儀が退位し、清朝が滅亡
1914年 嵯峨浩が誕生
1928年 溥傑が日本に留学
1932年 満州国建国宣言、溥儀が執政に就任
1934年 溥儀が満州国皇帝に即位
1937年 溥傑と浩が日本で結婚、2人は満州へ渡る
1938年 溥傑の長女、慧生(えいせい)が誕生
1940年 溥傑の次女、嫮生(こせい)が誕生
1945年 満州国崩壊、溥儀が退位。溥儀と溥傑はソ連軍に拘束される
1947年 1年5 ヶ月の流転の末、浩と嫮生が帰国。終戦時に学習院初等科通学のため日本にいた慧生と再会
1950年 溥儀と溥傑が中国の戦犯管理所へ移送される
1957年 慧生が死去
1959年 溥儀が釈放される
1960年 溥傑が釈放される
1961年 嫮生が学習院女子短期大学を卒業。溥傑と浩、嫮生が北京で再会。浩は北京にとどまり、嫮生は日本に帰国する
1962年 嫮生が日本に帰化
1967年 溥儀が死去
1968年 嫮生が日本人実業家の福永健治と結婚、大阪に居を構える(その後、一家は兵庫へ転居)
1972年 日中国交回復
1987年 浩が北京で死去
1994年 溥傑が北京で死去
2007年 福永健治が死去
2013年 嫮生が一族の写真や手紙、映像などの資料約千点を関西学院大学博物館に寄贈


[写真−1]
愛新覚羅溥儀の実弟、溥傑と嵯峨浩が結婚式直前に撮影した写真。浩の母方の実家、濱口邸(現タイ王国大使館)で撮られた=1937(昭和12)年、東京都品川区(関西学院大学博物館提供)

[写真−2]
戦後、中国・北京の溥傑邸に集う一族。左から浩、福永さん、溥傑、潤麒(婉容皇后の実弟)、溥儀=1961年(関西学院大学博物館提供)

[写真−3]
周恩来首相主催の昼食会での記念写真。前列右から溥傑、浩、周恩来、嵯峨尚子(浩の母)。福永さんは浩の左後方。左から2番目が溥儀=1961年、中国(関西学院大学博物館提供)

[写真−4]
清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の実弟、溥傑と嵯峨浩の婚礼写真を前に、2人について語る福永(旧姓・愛新覚羅)嫮生さん(右)。ノンフィクション作家の本岡典子さん(左)が聞き手を務めた=兵庫県西宮市の関西学院大学

[写真−5]
取材に応じる福永(旧姓・愛新覚羅)さん。丁寧な受け答えに、穏やかな品格がにじみでた=兵庫県西宮市の関西学院大学

産経新聞、2015.6.30 15:00
[戦後70年]
血に染まった乳母の顔、銃弾・砲弾の嵐…
西宮在住ラストエンペラー血族の回想「多くの人に守られ生かされた」

(加納裕子)
https://www.sankei.com/west/news/150630/wst1506300004-n1.html

[参考図書]
愛新覚羅 浩『流転の王妃の昭和史』(新朝文庫、1992年3月、中公文庫、2012年6月)
本岡典子『流転の子 - 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』(中央公論新社、2011年8月)

posted by fom_club at 09:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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