2020年07月13日

いのはなトンネルの悲劇

「人間とは何か」を撮る・・・ですか・・・
 実はヤッホーくん、昨日の2020年7月12日、山歩クラブのお山歩会だったのです、参加者10人!
 JR高尾駅北口から歩きだし蛇滝口バス停までわれわれはバスを使わず、えっちらおっちら歩き!
 ところがヤッホーくんだけはもう出だしから汗が半端な量でなくふきだしておりました。
 大汗をかいてしまい、タオルは水浸し、おまけに息はぜいぜいはあはあ、シンゾウがばくばく。
 ここから登り路に入っていったら仲間に迷惑をかけるばかり、名誉ある撤退を決断するならイマでしょ、
 引き返しを決意したんだとか、そう、山は逃げませんね、体調が回復したらまたチャレンジすれば良し。
 そのバス停で高尾駅に向かうバスを待ってるときに、細い目に飛び込んできたのがこれ:
「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」 ☟

 いのはなトンネル.JPG

 当時は「浅川駅」と称されていた「高尾駅」ホームに銃弾痕が残っている。

昭和20年7月8日

 駅舎が米軍艦載機(P51戦闘機)による機銃掃射をうけた爪痕。 そんな戦争の歴史を残す高尾駅を観察してみる。

JR高尾駅

 1901(明治34)年8月1日に浅川駅として開業。

 現在の社寺風デザインの北口駅舎は大社線大社駅を設計した曽田甚蔵が設計、1927(昭和2)年に竣工した2代目。

 大正天皇の大喪列車の始発駅として「新宿御苑に設置された仮設駅舎」を移築したもの。

 大正天皇大葬後、多摩御陵への参拝者は急増。輸送を担うは国鉄と京王電軌(京王電鉄)の2社。
 運転本数の多い京王に人気があり、一方で劣勢の国鉄は利用促進のため「新宿御苑宮廷臨時停車場」の用材を用いて浅川駅(高尾駅)に移築改築をしたのが現在の駅舎という。

※ 高尾駅改修計画ではかつての皇室専用駅であった東浅川駅跡へ駅舎移築の予定となっている。

JR高尾駅 2番線ホーム

 2番線ホームの屋根支柱(31番)に米軍艦載機P51の機銃掃射による銃撃痕が残っている。

 2番線ホームの屋根支柱(33番)にも米軍艦載機P51の機銃掃射による銃撃痕が残っている。
 31番支柱及び33番支柱ともに銃撃痕の部分のみは塗装を施さずにわかりやすい状態となっている。

JR高尾駅 3番線ホーム

 3番線ホームには「国内最古のレール」が、ホーム屋根支柱(24番)として使われている。

 1901(明34)年に操業開始した官営八幡製鐵所にて1902年に製造されたレールであることを示しており、現時点で確認できる国産レールとしては最古のものとされている。
 

近代史跡・戦跡紀行〜慰霊巡拝、2019/9/14更新
JR高尾駅に残る戦跡
https://senseki-kikou.net/?p=1387

 高尾駅から「湯の花トンネル」(いのはなトンネル)列車銃撃の慰霊碑へ。

「湯の花トンネル」列車銃撃事件

 高尾駅から小仏方面に向かうバスに乗り「蛇滝口」バス停で下車。
 線路近くに慰霊碑がありますので参りましょう・・・

 戦時中に銃撃の悲劇があった場所。

湯の花トンネル列車銃撃空襲

 1945(昭和20)年8月5日。
 新宿発長野行419列車が浅川駅(現在の高尾駅)を出発し、湯の花(猪の鼻)トンネルに差し掛かった時、硫黄島から飛来したP51ムスタングの銃撃を受け、52人が死亡、133名が重軽傷を負った。
 列車への銃撃空襲としては日本最大級の被害であった。
 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月5日、この地で米国戦闘機群によるわが国で最大規模の旅客列車銃撃空襲がおきました。
 8月2日の八王子空襲で中央本線が不通になった後、3日ぶりに新宿発長野行き419列車が浅川駅(現高尾駅)を出発し湯の花(猪の鼻)トンネルにさしかかった時、硫黄島から飛来したP51ムスタングの銃撃を受けました。
 この銃撃により警視庁の調べで52名が死亡し(実際は60名以上)、133名が重軽傷を負いました。
(以下略)
2018(平成30)年8月
いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

湯の花トンネル列車銃撃空襲
「戦災死者供養塔」
「慰霊の碑」

慰霊の碑
 終戦間近の昭和20(1945)年8月5日、真夏の太陽が照りつける午後12時20分頃、満員の新宿発長野行き419列車が、いのはなトンネル東側入口に差しかかったとき米軍戦闘機P51二機または三機の銃撃を受け、52名以上の方々が死没し、133名の方々が重軽傷を負いました。
 この空襲は日本最大の列車銃撃といわれています。
 私どもは、この戦争の惨禍を決して忘れることができません。
 ここに、確認された犠牲者のお名前を書きとどめ、ご遺族とともに心からご冥福をお祈り申し上げ、現在の平和の日々をかみしめ、戦争を知らない世代へこのことを語り伝えます。
1992(平成4)年8月5日
いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

碑裏面
 戦災死者供養塔は、1950(昭和25)年8月、当時の上長房(現:裏高尾町、西朝川町)青年団が、亡くなった方々を供養するため、団員協力のもとに建立したものです。
 供養塔には、亡くなった方々を荼毘に付した日影沢の石が用いられました。
 地元に住む人びとは、尊い犠牲者のお名前も人数も知ることなく、供養塔の前に手を合わせご冥福をお祈りしていました。
 1981(昭和56)年から八王子市教育委員会が八王子の空襲の調査を行い その後あらゆる手だてを尽くした結果、この事件の犠牲者は60名以上と推定いたしました。
 そのうち、40名のお名前と遺族が判った1984(昭和59)年、遺族関係者、地元の有志により7月21日に「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が発足いたしました。
 会では、この年の8月5日を「供養の日」に定め、毎年供養の集いを行い現在に至っています。
 供養塔は、はじめ唐沢踏切の北側にありましたが、地主のご好意で南側の土地を無償で提供していただき、1986(昭和61)年7月28日現在地に安置されました。
 かねてから、会では蓄積した浄財で亡くなった方々のお名前を刻んだ慰霊の碑の建立を計画していたところ、1992(平成4)年3月、東京八王子南ロータリークラブからも協力の申し出があり、ここに念願でありました慰霊の碑が完成いたしました。
1992(平成4)年6月10日
いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

 湯の花トンネル列車銃撃空襲……
 列車は湯の花トンネル手前で、進行方向左側の太平洋側から飛来した米軍P-51戦闘機に捕捉され、機関車と1両目は特に激しく攻撃されトンネルに2両目の半分程が入ったところで停止。
 そのためトンネルから出ていた車両が反復して機銃掃射に晒されて犠牲者が増加してしまった……

 煉瓦造の上り線が、空襲時から残っているトンネル。
 (上り線は踏切の位置関係上、走行写真は撮影不可)
 現在の下り線(前述の列車写真は下り線です)は新線。

 湯の花トンネルの脇、甲州街道に面した蛇滝口バス停にある建物。

旧蛇滝茶屋(蛇瀧信仰講中の宿泊休憩所)

 この建物は空襲当時には既にここにあり、遺体安置所になったとも、遺族の集会所になったとも、雨戸を外して犠牲者救助に活用されたとも伝承されている建物。
 高尾から先の複線は1962(昭和37)年以降。
 煉瓦造トンネルの節々に欠けがあるのが空襲時の銃撃痕かもしれない。

 当時、この地で起きた悲劇に想いを寄せつつ、慰霊碑に手を合わせる。
 合掌


近代史跡・戦跡紀行〜慰霊巡拝、2019/9/14更新
いのはなトンネルの悲劇(高尾)
https://senseki-kikou.net/?p=1393

posted by fom_club at 22:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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