2020年05月28日

アーネスト・サトウはイギリス人の外交官!

かつて明治維新で活躍したイギリス外交官のアーネスト・サトウ。
彼の孫である林静枝(84)さんは、彼と祖母とのロマンチックな秘話を明かした。

*  *  *
 アーネスト・サトウは、幕末から明治にかけて活躍したイギリス人の外交官です。
 日本語に堪能で、幕末には西郷隆盛など志士たちと交流しました。

 20年ほどの日本滞在で、武田兼(かね)との間に2人の男の子をもうけました。
 次男が父・武田久吉(ひさよし)ですから、サトウは私の祖父になります。

 その後、祖父は各国に赴任し、晩年はイギリスで暮らしました。
 基本的に、祖父と家族は離れて暮らしていたのです。

 ずいぶん前に、祖母の遺品を整理しようと段ボール箱を開けてみましたら、祖父から家族あての手紙が500通くらい出てきました。
 イギリスや赴任先の国からの手紙を、祖母はぜんぶとっておいたんです。

 イギリスに祖母を連れていけば、言葉も生活習慣もちがうから苦労する。
 だから、一人で帰ったんでしょうね。
 寂しかったから、手紙をこれだけ寄越した。
 亡くなるまで生活費も送ってきてくれたそうです。

 日本で生まれ育った父は、背が高くて、足が長くて、すごくハンサム。
 写真で見た祖父にそっくりでした。
 顔だちも外国人みたいだった。
 だから、戦時中は嫌な思いをしたようです。

 植物学者でしたが、民俗学も好きだった父は、庚申塔(こうしんとう)の写真を撮りに都内のお寺や地方へよく行きました。
 大きな蛇腹の写真機で撮影していると、スパイだと思われて告げ口されたのか、警官が来たこともあります。

 そんなこともあったせいか、父は祖父のことを一切話しませんでした。
 おかげで、私は祖父のことを何も知らなかった。

 はじめて祖父について知ったのは、女子大に入学するときでした。
 戸籍謄本が必要だというので取り寄せましたら、祖父の欄に「薩道静山」と書いてあった。
 なんのことかと不思議に思ったら、祖父の雅号でした。

 母は、「アーネスト・サトウといって、明治維新に活躍した人なんだよ」と話してくれました。
 でも、私は何をした人かも知らなかったので、祖父がイギリス人だったんだ、とだけ思いました。

 祖父が小説や大河ドラマに登場して、一般的に知られるようになったのは、もっとあと。
 戦後のことです。
 でも、日本語だけでなく古文書も読めるほどの、日本文化のすぐれた研究者だったことは、今でもあまり知られていません。
 それが少し残念です。

 祖母と父が住み、私が生まれ育った家は、靖国神社の裏手にありました。
 祖父が祖母のために用意した家で、昔の旗本屋敷でした。

 冬は寒くて、とても住みづらい。
 だだっ広い木造の平屋で、天井が高くて、すごく太い梁がありました。
 和室ばかりでしたけど、なぜか一部屋だけじゅうたんが敷いてあり、椅子と丸いテーブルが置いてありました。
 祖父が日本にいたとき、その部屋で食事をしたのかもしれない。

 500坪の敷地には、池もありました。
 父が山からとってきた珍しい木や植物がたくさんあって、昆虫もいましたし、鳥も飛んできました。
 ほんとうに楽しい庭だったんです。

 でも、40年ほど前、相続税が大変で、泣く泣く手放しました。
 現在は、建物も池もなくなって、法政大学の図書館が立っています。

 今でも懐かしく思います。あの家が祖父からもらった宝物でした。

※ 週刊朝日  2014年9月5日号


dot.asahi、2014.9.1 07:00
幕末を動かした英外交官が日本人妻へ送った500通のラブレター
(構成、本誌・横山健)
https://dot.asahi.com/wa/2014082900056.html

 はぁ、アーネストサトウ(Sir Ernest Mason Satow、1843 - 1929)の次男があの武田久吉(たけだ ひさよし、1883 - 1972)ですかぁ……

尾瀬の恩人
「尾瀬」を最初に広く世に紹介したのは故・武田久吉氏だといわれている。
 氏は日本山岳会の創刊号(1906年、明治39年)に、前年旅した尾瀬の模様を次のように紹介している。

「尾瀬ヶ原の一部は今我が目の前に展開されたり。ミズゴケのじくじくと湿りたる処にコミヤマリンドウの紫も唇綻ばせて、天を仰いだ笑みをもらせる。この世のものとも思われず」

 武田久吉氏は1904(明治37)年の入山から幾度となく尾瀬を訪れ、その偉大な自然を賞賛し愛し続けた。
 尾瀬最大の危機であった貯水池発電計画が持ち上がったとき、真っ先に反対を表明し、「尾瀬を守れ!」と数々の新聞や出版物を通して訴えられ、結果尾瀬は救われた。
 武田久吉氏の自然保護の心は今も多くの尾瀬愛好家に受け継がれている。
 真の「尾瀬人」は武田久吉氏をおいて他にない。

 昭和40年代、多すぎる尾瀬探訪者による自然破壊に対して、「僕が尾瀬を世に紹介したのは間違いかもしれない」と言われたそうだ。

 しかし尾瀬を武田氏一人に独占させておくのはもったいない。
 今となれば多くの人に尾瀬を見てもらい感動してもらうのが武田氏への何よりの恩返しではなかろうか。
 もちろん、マナーに関しては人一倍注意を払ってもらわねばならない。
 代償すべき、同じものが二つとないのだから・・・・・。

文語体を現代文に
 手元に1906(明治39)年「山岳」に発表した氏の紀行文「尾瀬紀行」がある。
 もちろん文語文である。
 今のように尾瀬ヶ原に木道があるわけではなく、全体がミズゴケの湿原で、歩くには往生したに違いないと思う。
 のみならず急流の徒渉や野営など現代の尾瀬紀行とはまったく趣が違う。

 せっかくだから、先人の苦労を、断片ではあるが文語文を読みやすい口語文に改めてみた。
 現代の尾瀬と比較してみると楽しめるかもしれない。

<尾 瀬>
 岩州(岩代国)の西南の隅、上州と接するところに一つの山がある。燧ケ岳という。海抜7千8百余尺、頂上は二つに分かれている。

 日光の山々から眺めると、その姿かたちがきわめて秀麗である。

 その山脈は東北に走って7千余尺の会津駒ケ岳を起こし、南は上毛の至仏山と対峙する。至仏は西南に伸びて笠科山を隆起させ、さらに西南武尊(ほたか)、迦葉(かしょう)の連脈に連なっている。

 南北に燧、至仏の二つの山が相対峙する間に平野がある。その東西もまた、山をもって隔てられ、山間のくぼ地をなしている。水は四囲の山塊から流れ下って、一つの湖を形成した。これを尾瀬沼という。貯水は燧、荒沢両岳の間を突いて大滝となって落ち、流れて大滝川となり、さらに北進し只見川となる。

 この沼辺一帯を尾瀬と呼ぶ。

 尾瀬が情緒的である。
 この時代、古代尾瀬は解明されていなかった。

<分水嶺>
 尾瀬は南北分水の背となっていて、北流するものには只見川の東、燧ケ岳を隔てて伊南川がある。両河川は只見まで北上して合する。さらに猪苗代湖から発する日橋川、鶴沼川の下流・大川とも合流し阿賀川となり、西北に流れ越後を貫いて、信濃川と並んで日本海に注ぐ。

 南は至仏、笠科の連山が二つの流れを作る。西は大利根の源流で、東には片品川。片品川は南流すること10余里で根利川と合流し利根川に落ちる。坂東太郎の長い流れは流域の河川をまとめ、蜿蜒(うねうねと)関東平野の中央を走って太平洋に注ぐ。利根川、阿賀野川がともに日本屈指の大河であることはいうまでもないが、尾瀬はその発源地であり分水界となる場所なのである。
・・・・・・
 山が深く道もなく、交通も不便ということから人が訪れることは稀で、名前が知れ渡ることがなかった。多くの珍しい草花が爛漫の大自然公園も、旅行家の足跡を印すものはほとんどない。信濃・越後・飛騨にわたる北アルプスの、天空にそばだち雲表に聳える高岳を踏破し、自ら明治の小角(おづの)をもって任ずる人も、いまだ尾瀬の名前すら耳にしていないという。それゆえにわたしは尾瀬のために深く悲しまざるをえない。

 尾瀬を中心に回る地理。ここが分水嶺となって太平洋と日本海に分水される。
 当時、尾瀬を注目する人は少なかった。
 さて、いよいよ尾瀬に分け入る・・・・・。

<案内人の調達>
・・・・・
 夜となって人夫二人が、主人の奔走の効果があってやって来た。一人は猟師で、この辺りの山なら知らないところはないという者。もう一人は越後の人間で何の職業かわからないが、欲の深いことだけは確かな人間。

 わたしは「尾瀬に草採り(植物採集)に行きたいのだが、帰りは栗山を越えて日光に出たいと思う。一晩は燧ケ岳山麓の堂に泊まり、次の夜は川俣(温泉)の宿に、三日目は湯元にもどる予定をたてているが、どうだろうか。」と尋ねると、「草を採ろうとするなら尾瀬ヶ原がいい。そこから燧ケ岳の麓を巡って沼山峠に出て、さらに山を越えて栗山に出たらいい。だけど、たいへんな悪路だから、その覚悟はしておかないといけない」という返事。

 わたしたちは「道の険悪なのは恐れないから、花が多いところに連れて行ってくれ。」とお願いした。

「それで日当はいくらぐらいか?」と尋ねると、「一人につき一日2円で、日光から帰る日数も加えて8円ずつ欲しい。」という。

 法外に高いけれど、こういうときだから止むを得ないと了解し、翌朝5時出発と決めると、彼らは帰って行った。

 武田氏は植物学の権威。
 植生に関する記述が多い。学術的な植物採集が目的で尾瀬にはいった。

<道なき道を・・・・・>
・・・・・
 8日、4時半に起床した。西風がおもむろに雲を動かし、朝日の輝きがわたしたちの頭上を越えて背後の山を照らした。朝食をいただいて身支度が終わるとやがて人夫がやって来た。軽くない荷物が彼らの背に負われた。

 6時、戸倉をいよいよ出発。宿の人々が総出で送ってくれ、「無事に着きますよう、さようなら。」のことばを残して別れた。

 わたしたちは早く尾瀬ヶ原に出ようとして県道を上らず、戸倉よりまっすぐ西に向かい、畑の間を縫っていくと、ある崖の端に出た。下には片品川の渓谷が白く泡立っているのが見えた。朝露に濡れた草の間を分けて、滑りそうになる道を川辺に降り立った。

 リョウブ、ハウチワカエデ、トチノキ、ウリノキ、イボタ、マンサクなどが繁茂していた。ここから川を徒渉することになる。初めのうちは濡れないように、大きな岩に這い上がり、跳び越えて行ったのだが、やがて川も深くなり渡るべき岩もなくなると水の中に入らざるを得ない。冷たい急流は膝上まで達し、腰までつかるような勢いである。

 しばらくして向こう岸に渡るとハギ、ススキ、ワラビ、ギボウシなどが生えている草原に出た。ここは笠科山の続きでカラマツなども静かに並んで立っている。川に沿って北上しアテ坂という坂を上り、間もなく樹林にはいった。木の種類は主にトチノキ、ミズナラ、オオカメノキ、リョウブ、モミジなどで、これにハリギリ、ツノハシバミ、コバノトネリコ、ムラサキツリバナが交じり、それらの枝葉は天を覆い、その下に好陰性の植物がおびただしく繁茂している。

 右には片品川の源流が滔々と流れ、水は岩に砕けて雪のように散り、凝っては藍を湛える。朽木の倒れているのを踏み越え、苔むした岩に足をとられながら密生するネマガリダケの間を分け入って進むと、また、徒渉せざるを得ない場所に出た。こんなことを4−5回くりかえし2里も進んだころ、左岸にあがりブナ、ミズナラの疎林にはいって上り詰めると大樹の下に山上の小さな祠があった。

 この辺りの眺望はよく、平らな山の背を進む。右手に針葉樹が茂る山塊が見える。遠くは沼山峠の続きだろうか。

 左は登ってきた片品川の源流を隔て、笠科山を望む。残雪がまばらに残り、堤防のように横たわっているが、笠科山は7千余尺、富士山の形をして立つ。姿が笠に似ているためにこの名がついたようだが、別名を笠ケ岳とも呼ぶ。

 片品川はこの山から出ているため、昔は笠科川といっていたが、なまって片品川になったのではなかろうか。片品川は20万分の1地図上では戸倉の南で二分し、西の川は細く、東は大きく書かれている。わたしたちが上ってきたのは西側で「こちらが本流」と案内は言った。

 片品川の下流に沿った戸倉、土出、越本、東小川などがすべて片品村にまとめられ、一つの字となった。

「アドベンチャー・トレッキング」ということばは正しいだろうか。
 今でも渓流釣りなどで、徒渉する冒険をたまに放映するが、命がけである。

<ハトマチ峠>
 これより山の中腹の泥濘を進み、小流を越えると峠の頂上に出た。やや平坦でネマガリダケが繁茂し、白樺、キハダ、ブナ、ナナカマド、アオタゴ、ノリウツギなどがまばらに生えている。東は小さな岡があり、そこから県道の方に下るようだ。西は少しずつ高くなって至仏山に連なる。

 時間は11時30分。草の上にゴザを敷いて座り、弁当を開いた。こんなところにも蝿はとんでいるが、水は数町南に下らないと汲めない。峠の名を「ハトマチ峠」といい、戸倉から3里だという。

 12時、身支度して北に下る。

 この辺りにはネマガリダケ(チシマザサ)が叢生しているが、いずれも巨大で、自分たちの背丈を越えるほど。その陰には羊歯類などの陰草があった。

<ネマガリダケ(チシマザサ)>

 長さが2〜3mなる大型の笹で、茎が根元から曲がることでネマガリダケと呼ばれる。別名チシマザサ。竹は弾力性があり、油を多く含み丈夫で長持ちするので、園芸の手竹として利用される。

 北海道には道南の一部にしか孟宗竹がなく、山菜採りでタケノコといえばネマガリダケのことをいう。天麩羅にするとおいしい。

 毎年、タケノコ採りの時期になると、遭難などの事故が絶えない。地面を這うネマガリタケの密生地にはいると、周囲が見えず方向を失ってしまう。

 早朝6時に戸倉を出発して11時半にやっと鳩待峠に着いた。現代、車ならたった20分弱の距離である。当時の苦労は並大抵ではない。
<山の鼻>
 右は山、左は渓谷でこれを隔てて至仏山を望む。

 ネマガリダケの間にはツガの巨木が立って、それにオオカメノキ、ネコシデなどの落葉広葉樹が交じっている。
 
 1里ばかり下ると、平地に出た。同じようにネマガリダケの間を分け入って進むと、渓流に出会った。先ほど左に見えた谷より流れ出た川で、尾瀬ヶ原に注ぎ、やがて只見川となるという。浅瀬を渡って左岸に上った。

 「山の鼻」といって至仏山の下に位置し、尾瀬ヶ原の入口に当る。笹の葉などを編んで作った小屋がある。ワラビ採りの人が建てたという。中には食器などが散らかっているが、外には竈(かまど)もある。主(あるじ)は仕事なのか外出中で見えない。

 ここで半時ばかり休ませてもらい、いよいよ目的の尾瀬ヶ原に向かった。

 渓流は川上川のことだろう。
「山の鼻」が今も昔も要所であることは間違いない。

<いよいよ尾瀬ヶ原に入る>
 時刻はちょうど2時。案内者は日のあるうちに堂小屋まで着くのは難しいと心配したが、もし着けなかったら、燧ケ岳山麓の尾瀬沼の尻(現在の沼尻か?)に漁師の小屋があるからそこに泊まろうと結論を出した。

 落葉樹が静かに立っている。名前も知らない草の生繁る原を進むこと1−2町で尾瀬ヶ原の一部が目の前に現れ出た。(原文=今我が眼の前に展開されたり)ミズゴケのじくじくと湿ったところにコミヤマリンドウ(タテヤマリンドウ)が紫の唇をほころばせ、天を仰いで笑みをもらす。この世のものとも思われない。

「山の鼻」から「尾瀬ヶ原」に分け入る瞬間が一番どきどきする。だれもがもっとも感動する瞬間。氏は「この世のものとも思われず」と書いている。
<燧ケ岳巍然>
 案内者は右に行っていつしか草の陰に隠れてしまったので、わたしたちも立ち上がり後を追った。

 ミズゴケを山師たちが踏みつけた跡をたよりに進むと、小さな流れがあった。それを越えて3−4尺に余る草の間を踏み分けていくと、行く手に、燧ケ岳が巍然として雲の表に聳えている姿が見えた。

 一望して、その裾まですべてがミズゴケの原で、その間に川があり、湖があり、沼があり、林がある。これぞまさに尾瀬ヶ原であり、紅白紫黄色の花がすき間もなく咲き続き、中には北海道以外に見られない花もある。

「紅白紫黄色の花々が隙間もないほど咲き続く」という尾瀬。
 天国の花園をさすらうに近い光景である。この自然の花園は現在も変わらない。

<下田代から沼尻へ>
 わたしたちは時間が過ぎいくことも知らず、この自然の楽園にさまよい、美しい花を摘み、珍しい草を抜きながら歩を進めた。

 小さな流れもいくつかあって、どれも渡らなければいけないのだが、腰までつかる深みもある。なん箇所かの林も通過し、原っぱにはハッチョウトンボが多い。

 こうしてやっと尾瀬沼の下流となる只見川源流に達した。

 幅数間、深さ数尋、泳ぎに慣れないわたしたちは非常な困難にぶつかり心配したが、幸いにも流木が自然に流れ集まって柵のようになっているところがあり、その上を渡って辛くも向こう岸にたどり着いた。

 地図によればここから岩代の国となり、南会津郡に足を踏み入れたことになる。ふたたび原っぱが広がっているが、今までより大きくなく、これまで遠くに見えていた燧ケ岳も今は目の前に屹立している。沼尻までは、もうそんなに遠くない。

 疲れた足を速めていくとまた小さな渓があり、あぶなっかしい名ばかりの板の橋がかかっている。滑るのを注意して慎重に渡って、またミズゴケの中を進む。

 今まではずっとミズゴケの中を歩いてきたが、2−3丁進んではじめて足が土を踏んだ。

 ここは尾瀬沼の端に近く、東に燧ケ岳を背負い、西南にかけては歩いてきた尾瀬ヶ原の茫々とした光景がはるか彼方まで続き、至仏山はまだらな白雪を残して立つ。その下は山の鼻だとうなずいた。ここまで3里の距離だという。

 沼尻に着いたのが5時40分。
 この時間に、次の2里を歩いて堂小屋まで行くのは得策ではないので、今夜はこの茅屋に泊まろうと荷物を降ろした。

 ミズゴケの湿原から抜け出てやっと土を踏んだ。ここは現在も交通の要衝となっている下田代・見晴と思われるが。
<沼尻の小屋泊まり>
 小屋は会津桧枝岐(ひのえまた)の漁師(尾瀬開山というべき明治23年にここに小屋を建てた平野長蔵氏のことか:スキピオ注)が作ったもので3屋あった。中は狭いが小さな囲炉裏もあり、また煙の逃げ道もうまく作ってある。入口には板がかけてあり、床はなく、むしろを敷いて座る。小屋の前に小川が流れており、ここで食器類は洗い、洗顔もできる。

 7−8月の季節、庵の持ち主は糧食を準備して釣具を持ち、ここに泊まる。毎日湖(尾瀬沼)で魚を漁り、あるいは渓流で釣りをする。獲った魚はその日のうちに燻し、乾かし(燻製に)、貯蔵して町で売りさばく。夏の間はそれを繰り返すが、上州地方ではこれを尾瀬魚と呼んで鰹節の代用にする。

 この日はまだ山に雪の残る季節で、漁師は一人きりだったので、空いている小屋を借りて露をしのぐことにした。まず火を起こし、湯を沸かし、形ばかりの夕飯を済ませたら、案内人の二人はたちまち高いびきで寝てしまった。

 わたしたちは濡れた下着が気持ち悪かったので、脱いで火の上につるし、乾いた下着を身に着けてやっと人心地がついた。毛布を敷いて火をくべて暖かくし、ろうそくの火の下、遅くまで採集した植物の整理をした。静かな夜は深々とふけ、薪のパチパチとはじける音が響き、ときおり山兎が餌をあさって小屋の周りで跳ねる音が耳に入った。夜中の1時を過ぎて火の勢いが衰え、白い煙がたなびき寂しくなったのを機に、もう一度薪をくべて、毛布を被りまどろんだ。

 最初の野営は粗末な小屋であった。注意書きで記したが長蔵小屋のことだろうか。現在の長蔵小屋は尾瀬沼東岸に立派に建て直され、風呂も食事も都会と変わらない。ありがたい。
<神々しいほどの尾瀬の朝>
 9日、寒さが身にしみて4時半に起きてしまった。

 流れで漱ぎ(スキピオ注:くちすすぎ=夏目漱石の命名ともなった枕石漱流の世界)、着替えをする間も火のそばから離れられないような寒さの中、食事を終えて外に出た。

 朝霧が原一面にたなびき、至仏山に旭があたる。その光で雪が紅に染まったように輝き、これはなんという神々しさだろう。拙い筆でその姿を写生した。

 午前6時半沼尻に別れを告げ、露にぬれた草を踏み分けて出発した。

 これからは針葉樹の大森林にはいり、朽ちた大木をまたいだりしながら進んだ。ゴゼンタチバナの白い花が美しい。燧ケ岳の裾を進むのだが、ツガなどの大木は昼の森林を暗くし、時には例のネマガリダケの生えた斜面を滑りながら、何回も転んでしまった。
・・・・・
 チングルマの残花の黄色が、イワカガミの紅色と好対照をなしている。湿った木陰にキヌガサソウの白い花が、放射状に伸びる葉の真ん中に一つ咲く美しさは、たとえようもない。

 やがて尾瀬沼の畔(ほとり)に出た。さらに林に入ってしばらく進んで午前9時半、昨晩泊まろうとした堂小屋に到着した。木造の小屋で広さは十帖程度、床もあるし囲炉裏もある。戸をはずして中にはいると、正面に檀を設けて「燧ケ岳神社」を祀っている。

 尾瀬の朝夕の幻想的な景は例えようもないほど美しい。
 それが小屋泊まりの主目的で、それがなければ、画竜点睛を欠くことになりかねない。

<仙 境>
 11時半沼山峠に出た。ここは上州と岩州両国を結ぶ唯一の峠で県道だ。通行する人は稀で、土砂崩れがそのままに放置されているところもある。7月初旬までは残雪も深く、道も定かではない。

 わたしたちはここから三国山を越えて栗山に出ようとしたが、採集した植物も重くなり、食料も減ってきたので、早く湯本に戻るために山越えして丸沼に下ることにした。

「だったら県道を南下しよう」と案内人は先に進み始めた。わたしたちは後ろから景色を楽しみながら尾瀬沼の湖畔を回った。すぐに小さな沢が沼に注いでいるところに出た。ここが両州の州境で「距桧枝岐四里三十四丁、距戸倉五里十丁」と標木に書いてある。

 尾瀬沼を隔てて燧ケ岳を望むと、山は湖より生え出たように屹立している。

 一跳びで頂上に飛び上がれるように見えるが、道はなく、ハイマツが縦横に延び至難である。かつて桧枝岐の村人が新しい道を開いて、そのとき堂小屋も設けたのだが、登る人も少なくそのまま道も廃れてしまった。

 尾瀬の景観を日光にたとえると、燧ケ岳は男体山、尾瀬沼は中禅寺湖で、尾瀬ヶ原は赤沼ケ原に似ている。しかし、尾瀬ヶ原の広さは戦場ヶ原など到底及ばない。ほんとうに汚れのない自然を愛し、仙境に遊ぼうと思う人は、俗悪な箱根に遊んだり日光の人工美を見るよりは、尾瀬山中で原始的な生活を営むべきである。

 この日の夜は大きなトチノキの下で露営する。
 ボヤという尾瀬沼の魚を串刺ししてあぶり、塩をふって食した。

<旅の終幕>
 10日、午前3時40分起床。
 川で洗面し、携帯する荷物の中に魚「ボヤ」を詰め込んだ。天気は幸いにも晴れわたっている。この日は湯本に帰れると思うと、一刻も早く出発したい気持ちがつのり5時40分出発。

 道はまったくなく、ただネバ沢の川床を登った。
 1里ほど上ると谷は狭くなり谷が二つに分かれている。右手を上るが急な断崖で、胸を突くような岩をよじ登り、ゼーゼーハーハーいいながら10余丁を上りきった。
 左に折れてアスナロの密林を進んだが、あいかわらずの道なき道。加えて絶壁、急坂が連続したが、ついに峰に出た。時刻は9時。
・・・・・
 やっと小さな沢を見つけそこを下る。小屋を見つけたので走ってたどり着くと数名の山師がいた。しばらく休ませてもらい、かれらが開いた新道を下った。道がはっきりしているので案内人より先に急いで、湯沢の谷を渡ると丸沼の畔に出た。
 湖畔に小屋が建っている。昔、土地の人がここに浴場を作り、湯沢の湯を引いたのだが今は荒廃して残念ながら見るかげもない。

 時に12時10分。小休止して清水でのどの渇きを潤し、勇気を奮い起こし、笈沼方面に上り始めた。
 3時15分、笈沼湖畔に到着。空腹がはなはだしい。ここで同行の早川君は疲労困憊してもう歩くことができない。
 わたしは一杯の清水で力をつけて1時間半後に金精峠の頂上に達し、5日ぶりに日光の地を踏んだ。さらに1時間をかけて湯本に帰り着いた。

 再び俗界の人となったが、温泉に入り米の飯を食べ、やっと人間に戻ることができた。

 その夜からまたも雨が降り始めた。毎日囲炉裏の火を抱いて植物の標本を干し、温泉で温まった。聞くところによるとわたしたちが出発した翌日から雨が続き、帰還した日の午後から晴れたという。まさに天佑を得て、尾瀬の旅行を終えることができた。
 湯本で数日雨に閉じ込められたが、豪雨を冒して日光に下り東京にもどった。

 3泊4日の尾瀬紀行であった。
 旅の機微が詳細に書かれている。
 そして尾瀬の植生や大自然の美も細やかに描かれている。
 わたしはいながらにして尾瀬の旅人となった。
 このような先人の開拓の努力があって、尾瀬を楽しむ現在のわたしたちがある。
 ありがたいと思う。

 読みながら、、武田久吉氏の以前、江戸末期から明治の初めにかけて蝦夷地(北海道)を探検した松浦武四郎のことを思った。


尾瀬紀行ー武田久吉氏
尾瀬を最初に紹介した武田久吉氏の尾瀬紀行
http://skipio.sakura.ne.jp/oze-kikou.html

posted by fom_club at 20:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。