2020年05月25日

イザベラ・バードの日光

イザベラ・バード〜日光は「快適な生活」〜

第1節 46歳の訪日まで
 イザベラ・バードの果敢な東北・蝦夷地への 単独旅行を思い浮かべると、一見若い元気な女性のような印象がある。
 しかし、バードは来日中に47歳を迎える中年の独身女性であった。
 当時の公使パークスが50歳、書記官のサトウが34 歳であるから、二人の英国紳士側としても、プ ロのグローブトロッター(世界漫遊家)として有名になりつつあるバードを、一目おくレディとして迎えた。
 まず、日本の地を踏むまでのバードをたどりたい(注1)。
 イザベラは1831(天保2)年10月15日、北ヨークシャー のバラブリッジに、イギリス国教会の牧師エドワード・バードの長女として生を受け、1904(明治37)年10月7日にエジンバラで没した。
 ヴィクトリア女王の在位が1837年から1901年であるから、イギリス女性バードの73年の生涯は、まさにヴィ クトリア朝と共に歩んだものである。

 エドワード・バードは若い時法廷弁護士とし てカルカッタに赴くが、現地でコレラにより妻と幼い長男を亡くし、帰国後牧師となった。
 やはり牧師の娘でイザベラの母となるドーラ・ ローソンと再婚したが、二人は共に比較的裕福な中産階級の出身であり、慈善活動の精神が家 庭の基礎にあった。
 イザベラは3歳年下の控えめな妹ヘンリエッ タ(愛称ヘニー)と一対をなす気丈な長女として、また、父が息子を亡くした故からか男勝りの長女として育った。
 ちなみに、この心優しい ヘンリエッタに宛てた海外からの手紙の数々が、彼女の旅行記として編纂され刊行されていくのである。
 10歳の時には乗馬をこなし、おべっかや不正を嫌い、正義感あふれる子供であった。
 しかも、両親が子供用の本やおもちゃを与えなかったので、読む本は最初から大人の本で、7歳のときの愛読書が『フランス革命』であった。
 当時の女性教育としては一般的だが、学校には通わず、文学・歴史・フランス語・線描スケッ チ・彫刻を母から、ラテン語・植物学を父から、 化学・詩・生物学を独学で身に付けた。
 その教育の高さは例えばスケッチをみても、『日本奥地紀行』に収められた東照宮の陽明門をはじめ、かなり優れたレベルに至っている。
 こうした探究心旺盛な少女は、一方イギリスの伝統的な中流家庭の常としての女子の嗜み、礼儀、篤い慈善精神も授けられた。

 このように理想的に見える彼女にも苦しみがあった。
 小さい時から脊椎の病気に悩まされていたのである。
 しかしこの痛みが、却って彼女を肉体的に大胆に行動するよう追い込んだ。

 こうしてバードはヴィクトリア朝のもと、厳しいしつけとキリスト教の奉仕の精神を授けられると共に、自ら学びどんなに苦しくても自己を改善し行動することを好んだ。
 その少女時代には、後のバードを彷彿とさせるものがある。
 伝統的な教育を受けたレディの姿と、果敢に挑戦し誇りを持つ女性の姿である。

 18歳の時手術を受けるが体調不良で、この年から毎夏、バード一家は療養のためスコットランド高地に滞在する。
 この地の自然をバードは大いに気に入り、雑誌に初の紀行文を書いた。
 そして23歳の時、初の海を渡る旅行をする。
 というのは当時、航海は体を癒し健康にすると考えられており、医者に勧められたからである。
 アメリカとカナダに渡りアメリカの民主主義という革命を目の当たりにする。
 帰国後、旅行中の自由さと英国の窮屈さのギャップを旅行記執筆により解消させようと原稿に向かい、1856(安政3)年、25歳にして最初の旅行記『英国女性の見たアメリカ The Englishwoman in America』をマレー書店から出版した。
(Alexis de Tocqueville 1805 - 1859 "De la démocratie en Amérique" T1835, U1840)

 ここに生涯にわたるマレー書店第3代目のジョン・マレー との縁が始まったのだが、それなりに出版は手ごたえがあったようだ。
 父の死後エジンバラに引っ越したが、1866年に母も病死すると、医者から勧められていた航海を決心する。
 1872年、41歳のバードは、7月にエジンバラを発ち、オーストラリア、ニュー ジーランドを旅行した。
 そのまま1873年ハワイ 諸島に渡り、7ヶ月滞在し乗馬で島をめぐるなど楽しみ、その模様を記した詳しい消息を妹に送った。
 その後アメリカのロッキー山脈で数ヶ月療養し、1874年になって帰国した。
 そして妹への手紙を整理したものが、1875年、『ハワイ諸島の6ヶ月間 Six Months in the Sandwich Islands』としてマレー書店から出版された。
 この旅行記は広く読まれたので、1876年来日のフランス人のギメにも旅行家バードとして認識され、きっと東照宮にも舞い降りるだろうと予測されることになった。

第2節 『日本奥地紀行』〜プロの旅行家として〜

 母国では脊椎の痛みを抱える病弱な婦人であったが、長旅へのチャレンジが心身ともにプラスになることを知っていたバードは、またも積極的に異国旅行へとはばたき、ギメの予言通り日本に舞い降りた。
 それは、1878(明治11)年のことで、彼女にとって初めての英語の通じない国、キリスト教の布教も再開されたばかりの国への旅である。
 在日の著名なイギリス人宛の紹介状を40通以上も携えての来日には、イギリスの伝統的中流階級の誇りと緻密さがうかがえる。
 進化論で有 名なダーウィンにも、日本行きを強く勧められた。

 東北地方や蝦夷地を訪ねた理由は、一つには牧師の娘として新潟と函館にある宣教拠点の慰問を希望したことだが、また一つには人類の社会進化論的な立場から、当時の先進欧米の学者たちがアイヌの人びとに関心を寄せていたからである。

 アメリカと上海経由で横浜に到着したバード は、オリエンタル・ホテルに泊まり、東京では英国公使パークス邸に滞在する。横浜ではヘボ ン師宅で面接した伊藤を通訳に雇い、パークスからもサトウからもたっぷりと旅行の注意を受けた。

 6月10日、まずは日光へ向かって旅立つ。
 明治11年とは言え、日光に限って言えばサトウのガイドブックも出版されており、既に外国人が踏査している地である。
 未踏地を探求するのがバード流の旅であり、簡便な宇都宮への鉄道馬車や表街道は使わない。
 栃木からは比較的知られていない例幣使街道を辿り、意地を見せた。

 バードの日本での旅そのものについては、こ れまでにもいくつかの研究があるので、ここでは彼女が日光で何を体験したか、またその後の未踏地の旅とどこが違ったかを指摘するにとど めたい(注2)。

 まず、ヘボン師から紹介を受けて金谷邸に滞在したが、非常に好意的に記している。
 杉並木に感心しながら日光へ入ったバードは、ここに10日間近く滞在する。
 前泊の旅館では障子の穴から相客に見つめられ、蚤にも襲撃されて困り果てたのだが、ここではゆっくりと過ごした。
 家の清潔さ、立派さ、金谷家のハルさんとユキさんの優美さ、おけいこごと、子供たちの礼儀正しさ、金谷さんの旅客業への関心などが、同 じ趣味と洗練さを持つ人間の眼から書かれている。
 日本の中上流階級の家庭と暮らしぶりに接すると、イギリスの同じような立場の女性としてその価値を十二分に理解し高く評価する。
 異文化といえども、質の良いものを良しとする。
 これが彼女の価値観の基本である。
 逆に、貧困、 優美さに欠けるもの、西洋流の美的感覚からい えば醜いものに対しては手厳しい。
 このあとの東北での農村の暮らしや貧困は評価しない。

 同じ日光の中でも、父親たちが子供に愛情を抱いていることには感心しつつも、貧困を容赦なく 指摘する。

 東照宮参拝を果たした後の感想は、「美の虜 になった」と賞賛の一言に尽きる。
 芸術性の高さを認める。
 しかし、離れたら忘れたと正直にも書く。
 とはいえ、異文化でも高い価値ならそれを認めることはバードの長所である。

 そして、「10日間日光にいたから結構と言えるようになった!」と、日光結構の諺に触れな がら、いよいよ日光を離れ奥地旅行に入る。
 日光までは「快適な生活」「ぜいたくな生活」で あるが、そのあとは「未踏の地」であった。

 日光が文明と非文明の、外国人の訪問地と未踏地の境目なのである。
 日光では日本の優雅な人びとに会えるが、それはある意味先進国のイギ リス人と会っているのと変わらず、蝦夷まで行かなければ、当時の社会進化論でいう未開の人びとに出会えないのである。
 会津、新潟、山形とすすみ、途中、伝道の根拠地で西洋人と過ごして一息入れながら、蝦夷に渡り、アイヌの人びととも交流した。
 時には幼い子の喉に刺さった魚の骨を抜いてあげるなど、医療行為のようなこともしているが、伝道自体は行わない。
 ただただ正直に、また冷徹に、現地の人を観察し綿密なスケッチと共に記録に残す。
 ペンを持つ果敢な旅人である。

 そして北海道から海路で東京に戻り、サトウら在京の英国人からの招きを受ける。
 そのときはバードもレディとして優雅な時間を過ごし、また社交を楽しむ。
 12月に香港に向かい、1879(明治12)年1月にはマレー半島5週間の旅を敢行する。
 2月にカイロを訪れ5月に1年半ぶりに帰国する。
 今回の大旅行での日本とマレー半島の経験は、その前のロッキー山脈滞在と共に、それぞれ旅行記となって出版され大反響を呼んだ。

(注1)バードの生涯は主に、Pat Barr, A Curious Life for a Lady, The Story of Isabella Bird (Faber and Faber, 1970)を参照とした。
 文中の「 」の言葉は、同書掲載のイザ ベラ・バードの手紙からの拙訳である。
 その他以下の書を参考にした。
・ 井野瀬久美惠『女たちの大英帝国』(講談社現代新書、1998年)(本書は、ヴィクトリア朝のレディの意味についても参考とした) 。
・ ドロシー・ミドルトン『世界を旅した女性たち』(佐藤知津子訳、八坂書房、2002年)
・ 元田作之進『日本聖公会史』(普光社。日本図書センター、2003年)

(注2)バードの日光に関する記述は以下の原著からの拙訳と意訳である。
 L. Bird, Unbeaten Tracks in Japan,(Vermont & Tokyo, Charles Tuttle Company, 1990)pp. 53-80.


駒沢女子大学 研究紀要 第19号 p. 139〜159 2012
日光を訪れた二人のイギリス女性 Two Victorian Ladies Visiting Nikko in the Meiji Era
─ イザベラ・バードとメアリー・ダヌタン Isabella Bird and Mary d’Anethan ─

井戸 IDO 桂子 Keiko、人文学部、国際文化学科

英国公使が企画立案

 イザベラ・バードは1831年、イングランド北部ヨークシャーのバラブリッジに牧師の2人娘の長女として生まれた。
 1854年から亡くなる3年前の1901年まで海外の旅を重ね、その舞台は南米以外の全大陸に及んだ。
 期間の長さ、世界の広がり、そして、旅に基づく作品にとどまらない膨大な著作や講演活動を総合的に判断すれば、女性という枠をはめずとも旅行家の頂点に位置する一人と評価できる。
 1891年に王立地理学協会特別会員の栄に女性で初めて浴したのはその証しの一つである。
 希代の旅行家バードへと展開する基点が、1878(明治11)年の日本の旅とその記録だった。

 居住地エディンバラを71878年4月1日にたち、大西洋・北米大陸・太平洋を越え、5月20日に横浜に着いたバードは、12月19日に香港に向け横浜から離日するまでの7ヶ月を日本に滞在した。
 目的は、旅を通して本当の日本を知り、記録に残すこと。
 この目的はキリスト教普及の意義を念頭に置き、その可能性を探ることと結びついていた。
 旅はハリー・パークスが英国公使としての立場から企画立案した。
 バードは彼の依頼に真摯(しんし)に応え、使命感を糧に完遂した。
 日本での旅の記録は、全2巻800ページを超える大著『日本の未踏の地:蝦夷の先住民と日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告』(※1)としてまとめられた。
 同書はこれまで言われていたような旅先から妹へ送った私信を集めたものでなく、半ば公的な報告書だった。

全行程4500キロを超える厳しい旅

 日本在住の民間外国人も外国人旅行者も、自由に移動できる範囲を、横浜・神戸・長崎・函館・新潟という五つの開港場と東京・大阪という二つの開市場(かいしじょう)から半径10里(約40キロメートル)以内に局限されていた時代だった。
「内地」と言われたこの外国人遊歩区域よりも奥を旅するには「外国人内地旅行免状」が不可欠だったのに加え、さまざまな制約もあった。
 そのような時代にバードはアイヌの一拠点集落・平取をめざして北海道へ、そして関西・伊勢神宮へと旅した。

 距離は、北海道の旅が、東京から平取まで陸路で約1400キロ、函館―横浜間が海路だった復路を含めると約2750キロ。
 関西・伊勢神宮の旅は、陸路が約580キロで、横浜―神戸間の船旅を含めると約1850キロとなる。
 二つの旅を合わせると全行程で4500キロを優に超えていた。
 パークスの尽力で地域的・時間的制約のない特別の内地旅行免状を取得して初めて成し得た旅だった。

 その上、厳しさが今日とはまったく違う。
 鉄道を利用できたのは横浜―新橋間と神戸―京都間のみ。
 馬で大地を駆けたのも北海道の一部のみ。
 人力車はまだしも、馬子が引く駄馬や牛の背に乗ったり、ぬかるみの道を歩いたりしなければならなかった。
 増水した米代川の濁流を小舟でさかのぼった際には命を落とす危険さえあった。
 この年の梅雨は例年にもまして多雨と長雨がひどかった。

 北海道への旅は、旅の達人バードが「Ito」こと伊藤鶴吉を従者兼通訳として同行し、彼が責務に燃えてその務めを果たしたからこそ完遂できた。
 伊藤を雇うことは実は面接前から決まっていた。
 伊藤には英語能力のほか、英国人のプラントハンター、チャールズ・マリーズの植物採集に従事した経験があったからである。
 旅行免状の申請に当たってパークスは「植物調査」を加えていた。

用意周到に計画された旅行ルート

 開港場で活動していた宣教師や著名人シーボルトの次男ハインリッヒ・フォン・シーボルト、ヘボン式ローマ字の考案者として知られるジェームス・カーティス・ヘボン、アーネスト・サトウらの公使館員・領事といった在日欧米人はもちろん、外務省や開拓使、内務省など日本側の支援もあった。
 これらもすべてパークスの依頼に由来した。
 日本側の支援は府県以下の役人や医師・教師、宿の主人や子供にまで及んでいた。
 夏の最中に冬の遊びを見せてもらい、葬儀や結婚式にまで参列できたのはこのような協力があったからだった。
 さらに、アイヌの文化と社会の把握、そしてその記述を旅の一大目的にしていた彼女にとって、平村ペンリウク(アイヌの指導者の一人)以下、平取のアイヌの人びとの協力も不可欠だった。
 これもパークスが開拓使を介して手配した。
 本州北部の旅先で、人びとがバードに強い関心を抱き、一目見たいと障子に穴を開けなどしたのは、彼女が立派な女性だと伊藤が吹聴していたからでもあった。

 彼女の旅は時に地元紙にも紹介され、視察の旅であることが読者に伝えられていた。
 また、旅は行き当たりばったりのものではなく、用意周到に準備・計画され、ルートは目的に従い事前に設定されていた。
 例えば、日光から会津を抜け、津川から阿賀野川を舟で下って日本海側の新潟に出たのは、開港場であるが故にそこに宣教師がおり、その活動を学び知り新潟のさまざまな実相を明らかにするためだった。
 旅で用いたブラントン日本図(※2)もパークスの命によって彼女のために作成されたものだった。

キリスト教伝道に結びつく場所を重視

 日本の旅の最重要拠点は、滞在日数が都合50日にも及んだ英国公使館である。
 東京滞在も日本の旅の一部だったが、滞在日数の上位8位の5つまでが宣教師館や同志社女学校などキリスト教伝道に結びつく場所、しかも英国教会伝道協会だけでなくアメリカン・ボード(北米最初の伝道組織)の拠点(京都・神戸・大阪)だった事実も重要である(バードは来日前に同ボードの要人に依頼していた)。
 このような事実は、キリスト教受容の意義の主張で2巻本を締めくくっていることと見事に符合する。
 北海道の旅の目的地を平取に定め、滞在期間は第7位(大阪と同じ)ながら、その長ペンリウク宅で3泊4日、アイヌのすべてを学び知ろうと全力を注ぎ、信じがたいほど濃密な記録を書き残したのも、実はアイヌへのキリスト教伝道とも結びついていた。

 ただ忘れてならないのは、彼女がこのようなことを頭の片隅に置きながらも、旅で目にするもの、出会う人のすべてに関心をもち、率直な思いを吐露しつつ鮮やかに描き出していったことである。
 少女時代から培われてきたこうした鋭い観察力を駆使して、彼女は旅の一瞬一瞬を記録した。
 これこそは彼女の旅行作家としての優れた資質だった。

誤解の原因は簡略本
 
 このように詳述された日本の旅の記録『Unbeaten Tracks in Japan』の実相は、実は世界の読者の知るところではなかった。
「好奇心旺盛な中年の英国女性が行った北海道への個人的な旅行記」であり、「母国の妹らに書き送った手紙を基にした本」という誤った解釈が、欧米のほとんどのバード研究者の間でさえ一般的だった。
 なぜか。
 理由は出版社主ジョン・マレー3世の要望によって、大評判を得たこの大著2巻本の分量を半分にし、かつ、女性らしい小ぶりな「旅と冒険の物語」に改変した簡略本が2巻本刊行の5年後に同じ表紙で出版されたからである。
 2巻本にとって代わり、1972年に始まる復刻本がほとんど(近年まではすべて)この簡略本を底本としたため、あたかも簡略本が本来の旅の記録であるかのような誤解を生んだのである。

 同様に日本では、やはり簡略本を底本とする高梨健吉訳『日本奥地紀行』(平凡社東洋文庫、1978年)が、当時の旅行ブームに乗ってよく売れ、2000年には安価な文庫本にもなって読み継がれてきている。
 また、同書を基にして優れた民俗学者・宮本常一がバードの日本の旅を読み解く解説書も出版された。
 だが、高梨氏は2巻本の存在を知ってはいたものの、バードの人生哲学や旅の歴程、彼女が担った旅の特質について無理解だった。

 加えて後には、高梨訳が100%正しいことを大前提として省略部分を訳出した訳本や、2巻本を底本とするもののその旅が個人的なものであり、妹へ書き送った手紙をまとめたものだとして「ですます」調で訳し、看過できない誤訳・不適切訳の目立つ訳書が普及した。
 そのため日本では、バードの知名度が母国英国より高いにもかかわらず、訳本に由来する独自の問題が加わり、旅とその記録の実相がミスリードされてきた。

 こうした日本での誤解を解くために、筆者は2巻本原著の忠実な翻訳に取り組むことした。
 その成果が、膨大な訳注を施すことによって旅と旅行記の実相に迫った、全4巻の『完訳 日本奥地紀行』(平凡社東洋文庫、2012ー13年)である。
 また2巻本の完訳を踏まえ、簡略本を翻訳した『新訳 日本奥地紀行』(平凡社東洋文庫、2013年)と、バードの旅の真相を描いた『イザベラ・バードと日本旅』(平凡社、2014年)も上梓(じょうし)した。
 こうした書籍により、バードへの誤解が解けてくれることを願ってやまない。

[バナー写真]
 1881年に撮影されたイザベラ・バードの肖像写真(写真提供=筆者)

(※1) Isabella L. Bird. Unbeaten Tracks in Japan: An Account of Travels in the Interior Including Visits to the Aborigines of Yezo and the Shrines of Nikkō and Ise. London, 1880.

(※2) 明治政府に灯台建設技術者として雇われた英国人リチャード・ブラントンが伊能図などを基に編纂した日本地図


[図]イザベラバードの旅

イザベラバード 日本紀行.png

ニッポンドットコム、2020.03.30
イザベラ・バード
鋭い観察力で日本の実相を記録した希代の旅行家

(金坂 清則※)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00829/#top

(※)かなさか きよのり、地理学者。京都大学名誉教授。1947年富山県生まれ。

posted by fom_club at 19:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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