2020年05月22日

若松英輔「いのち」

 今、世界は、未知なるウイルスの蔓延(まんえん)を契機とした、複合的な危機の渦中にいる。

 それは健康の回復という領域をはるかに超えたものにふくれあがっている。
 仮に明日、感染症に劇的に効くワクチンが開発されても、パンデミックが問題を生んだ、と考えているうちは、本質的な解決には至るまい。

 むしろ、危機は、これまで社会が、見て見ぬふりをしてきたものに起因する。
 見過ごしてきたもの、さらにいえば、ひた隠しにしてきた、その最たるもの、それが「弱さ」だ。

 私たちは、身体はもとよりその内面、さらには人間関係における「弱さ」を受け入れざるを得ない場所に立っている。
 平常時ならやり過ごせても、不安に押しつぶされそうな日には、胸を開いて語り合う相手がいない、ということも深刻な問題になる。

 また、人間だけでなく、現代社会の構造的な「弱さ」も露見している。
 緊急医療体制の不備や、医療物資の不足はもちろん、社会的、経済的に「弱い」立場にいる人たちへの支援が十分に行われてこなかったことが、感染拡大の要因の一つとなり、社会全体の危機にもつながっている。

 政府や地方自治体が、さまざまな支援策を打ち出す。
 すると、それでは不十分だという声が街から上がる。
 だが、そうした喧騒(けんそう)から疎外された場所で、どの施策からもあぶれている一群の人たちがいる。

 たとえば、家庭内暴力から逃れるために住民登録をせずに暮らしている人、路上で暮らす人々がそうだ。
 現状のままでは彼、彼女らには布マスクが郵送されてくることはなく、「十万円」の申請用紙も送られてこないだろう。
 仮に、別な方法で用紙が手に渡ったとしても身分証明書を添付して書類を送り返すことはできない。

 2年前、大学の教員になった。
 学生と対話するなかで強く感じたのは、世にいう「自己責任論」の強さだった。
 それは無意識のレベルにまで浸透している。
 いかに「強く」あるかは分かっていても、自己と他者の「弱さ」の認識が難しいのである。

 たとえば、科学は世の中にどう貢献できるか、というテーマで論議が始まる。
 話し合いは活発に行われるのだが、その視座はほとんど「助ける」側にあって、「助けられる」側にはなかなかいかない。

 もちろん、学生を責めることはできない。
 学生たちが進んでそうしたのではない。
 いつも誰かと競争し、他者に抜きに出ろという社会の求めに応じた結果なのである。

「弱い」立場に立ってみなければ「弱い人」は見えてこない。
 さらにいえば「弱い人」の多くは、人の目の届かないところにいる。
「弱い人」との関係を考えると、思い出されるのは、精神科医でもあった神谷美恵子(1914 - 1979)の主著『生きがいについて』(みすず書房、2004年10月)の冒頭の一節だ。

「平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである」

 神谷がいうような「弱い人」が「あちこちに」いることを、私たちが認識できていたならば、社会は現状とはまったく違った姿をしていたのではないだろうか。

 今は、「助ける」だけでなく、「助けられる」ことを学ぶ契機でもある。
「弱い人」は、助けられるだけの人ではない。
 社会の底に横たわる「いのち」の尊厳という根本問題を照らし出す者としても存在している。

「いのち」とは、あらゆる社会的立場を超えて、人間の存在の平等を証明しているものにほかならない。
「弱い人」は身体的生命とは異なる「いのち」という不可視な存在が社会を成り立たせていることを教えてくれているのである。

 支援は、どんなときも「いのち」への尊厳を伴うかたちで行われなくてはならない。


[写真-1]
野宿者に緊急相談会の開催を知らせるチラシを配る夜回りボランティアの男性=大阪市中央区

[写真-2]
若松英輔さん

朝日新聞、2020年4月30日 7時00分
コロナの中で「弱さ」認めよう
若松英輔さん寄稿
若松英輔(わかまつ・えいすけ、1968年新潟県生まれ)
東京工業大教授。著書に『井筒俊彦 叡知の哲学』『悲しみの秘義』『詩集 愛について』など。
https://digital.asahi.com/articles/ASN4X5SBFN4TUCVL00F.html

 ヤッホーくんのこのブログ、2020年04月10日付け日記「メルケル首相『私たちは、どの命もどの人も重要とする共同体です』に触発されて」をぜひ再読ください!

『代表的日本人』(岩波文庫)は、内村鑑三(1861- 1930)の主著といってよい一冊です。
 刊行から百年以上が経過していますが、今も多くの人の心を動かし続けています(※1)。

 しかし、今日、内村の名前を知る人が少なくなっているように思われます。
 この本を皆さんと読み解くにあたって、まず、内村鑑三とは誰か、この人物を何と呼ぶべきか、どんな使命を背負って生涯を送ったのかを考えてみたいと思います。

 一般に、内村鑑三が紹介されるとき、よく「キリスト教思想家」と書かれています。
 誤りではないのですが、彼が考えていたキリスト教と、世に知られているキリスト教が、少し異なることは理解しておかなくてはならないように思います。
 彼は、従来のキリスト教のあり方にとても大きな疑問を投げかけました。
 教会は不要なのではないか、教会で行われる儀式、それを執り行う聖職者も不要なのではないかと語ったのです。

 すべての人間は、個であるままキリストと結びつくことができる、といい、「無教会」という立場を説いたのでした。

 内村鑑三は、1861年、高崎藩の下級武士の子として生まれました。
 札幌農学校でキリスト教に出会い、洗礼を受けます。
 同級生には『武士道』の著者で思想家の新渡戸稲造、植物学者宮部金吾らがいました。
 卒業後、彼はアメリカにわたります。
 そして、それまでのことを書いたのが英文の自伝『余は如何にして基督信徒となりし乎』で、この本は内村の生前から世界各国で広く読まれました。
 彼は、自分にとってのキリスト教は、西洋からもたらされた外来の宗教ではなく、日本人の心の求めとして結実したものであると語りました。

『代表的日本人』は、その希求する働きが、古くは日蓮に発したもので、西郷隆盛まで脈々とつながり、ついに自分に到達したということを述べた本でもあります。

 帰国後、第一高等中学校の教師をしていたとき、教育勅語への礼拝を十分にしなかったことが不遜とされ、社会から厳しく弾圧されることになります。
 これはのちに「不敬事件」と呼ばれます。1891(明治24)年1月9日のことです。
 この出来事により、教職を追われ、同志だと思っていたキリスト教会からも追われることになります。
 さらに彼は、病を背負い、生死の境をさまようところまで行きます。
 このとき、世に見捨てられた内村を支え、献身的に看病したのが、妻かずでした。
 内村は回復しますが、妻が亡くなります。
 このとき、彼は『基督信徒のなぐさめ』と題する本を書きます。
 この本が、思想家内村鑑三の誕生を告げることになります。
 この本で彼は、はじめて「無教会」という言葉を用いています。

 内村をめぐっては「二つのJ」という表現を聞いたことがあるかもしれません。
 イエス・キリスト(Jesus)と日本(Japan)です。
 彼はこの「二つのJ」への献身を誓います。
 それは神と隣人と言い換えることができるかもしれません。
 理想と現実とも言えます。
『代表的日本人』は、この「二つのJ」を生きた内村の境涯を知るにもとても重要な一冊です。

『代表的日本人 Representative Men of Japan』(1908年)は、日本が近代化を推し進めていた明治時代、英語で出版されました。
 この本は、同時期に、同じく英語で書かれた新渡戸稲造の『武士道』(1899年)、岡倉天心の『茶の本』(1906年)とともに、日本人の精神性を世界にむけて発信した名著のひとつとして知られています。

 この本が取り上げているのは、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人の生涯です。
 しかし、実際に読んでみると、彼らの歴史的業績や名言を連ねた、いわゆる偉人伝とは違うものであることに、すぐ気が付くと思います。
 じつは、この本の本当の主役は5人の人間ではなく、彼らを超えたものの存在なのです。

 それを内村は「天」と書いています。
 人は、「天」に導かれるとき、どのように人生を切り拓き、苦悩や試練と向き合うことができるのか。
 また、そこで他者と時代と、どのように関係を作り上げてゆくことができるのかが、この本には活き活きと語られています。
 また、ここに登場する5人は、内村の先達であり、彼の鏡のような存在です。
 この本は他者の伝記のかたちをした内村鑑三の精神的自叙伝でもあるのです。

『代表的日本人』は、西郷から日蓮へとおおよそ時代をさかのぼるように書かれていますが、逆に、精神的にはどんどん内村に近づいていくという構造になっています。
 武士の家に生まれても時代が変わって武士としては生きなかった内村にとって、西郷は時代や生まれは近いけれども、立場的には遠い人でした。
 鷹山、尊徳、藤樹は、内村がなり得た人物です。
 内村は、鷹山のように無教会という精神的共同体を率い「聖書之研究」という雑誌を長く刊行し、全国に勉強会の集まりをつくってゆくなど尊徳を思わせる実践家としても優れていました。
 藤樹のような教育者として生きた時代もありました。
 広い意味でいえば、内村は、時代の教師でもあったのです。
 そして、キリスト教徒である内村にとって、心情的にいちばん近しい人は、いちばん時代の離れている、異教徒の日蓮だったのです。

 5人の生涯は、内村のなかにある可能性であり、生きる力の象徴でもあります。
 私たちは必ずしも内村のように西郷を、日蓮を読む必要はありません。
 本に「正しい」読み方などないのです。
 私たちは内村の言葉をたよりに「私の西郷」「私の日蓮」を見つけてよいのです。
 さらにいえば、私たちはそれぞれ、内村とは全く別な「私の代表的日本人」を書くことすらできるはずです。


 また、『代表的日本人』のような古典は、人生のさまざまなときの、別々な語りかけをしてきます。
 良書は、読まれることによっていっそう豊かになっていきます。
 それは読者とともに育ち、読者によって完成されるものです。
 5人すべてに関心が持てなくてもよいのです。
 今の「私」にとっての「代表的日本人」を見つけるような心持ちで、この小さな、しかし、力強い言葉に満ちた本を読み進めていただけたらと思います。


NHK「100分 de 名著」内村鑑三「代表的日本人」
2016年1月第2回 試練は人生からの問いである
[放送時間]2016年1月13日(水)午後10:00〜10:25/Eテレ(教育)
内村鑑三とは誰か
(『代表的日本人』ゲスト講師 若松英輔)
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/50_uchimura/guestcolumn.html

(※1) 松岡正剛の千夜千冊(2001年03月15日)

 1900年すなわち明治33年を挟んで約5年ごとに、明治文化を代表する3冊の英文の書物が日本人によって書かれた。いずれも大きなセンセーションをもたらした。こんな時期はその後の日本の近現代史に、まったくない。
 その3冊とは、内村鑑三の “Japan and The Japanese”、新渡戸稲造の “Bushido“、岡倉天心の ”The Book of Tea”である。
 内村の著書は日清戦争が始まったばかりの1894年で、内村が長らく極貧に喘いでいた34歳のときに書いた。この時期の内村は憑かれたように英文を書きまくっていて、日本の英文自伝の白眉ともいうべき “How I Become a Christian”(余は如何にして基督教徒となりしか)も書いていた。
 新渡戸の『武士道』は1900年ちょうどのこと、漱石がロンドンに、栖鳳がパリに、川上音二郎と貞奴がニューヨークに向かっていた年である。新渡戸はここで日本の武士道がいかにキリスト教に似ているかを説きまくり、ただしそこには「愛」だけが欠けていると結論づけた。
 天心の『茶の本』は、天心がボストン美術館の東洋部の顧問をしてからの著書で、45歳の1906年にニューヨークで刊行された。日露戦争の最中である。『東洋の理想』『日本の目覚め』につぐ3冊目の英文著書だった。
https://1000ya.isis.ne.jp/0250.html

若松 英輔、和合 亮一 『往復書簡 悲しみが言葉をつむぐとき』(岩波書店、2015年11月)

 2人の男の往復書簡が本になった。
 一人は批評家の若松英輔。もう一人は詩人の和合亮一。共に1968年生まれだ。
 2人はお互いの存在を知ってはいるが面識はない。手がかりになるのは二冊の本である。
 一つは『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』という若松英輔の評論集。河出書房新社、2014年1月。
 2010年に妻を乳がんでなくし、翌年東日本大震災を経験し「不可視な隣人である死者をめぐって文章を書くようになった」という若松の、悲しみと死者についての深い洞察がつまった本だ。
 もう一つは和合亮一の『詩の礫』(徳間書店、2011年6月)。
 これは震災後福島の自宅にとどまり、見えない放射能と繰り返す余震におびえながら、和合がツイッターで発し続けた言葉と詩の記録である。若松はそれを追っていたという。

 手紙はとくにテーマを決めずにおずおずと始まる。
 最初は涙について。
 震災後涙を流すことが多くなったと和合が書きそれに若松が応える。
 両者の体験をもとに現実世界からあるいは活字の世界から、彼らがつかみとった真実が静かにつづられる。
 そのうちテーマは絞られてゆく。
 悲しみとは何か。死者とは誰か。詩とは何か。文学の使命とは何か。震災からの復興とはいったい何なのか。二人は行きつ戻りつしながら、震災の大きな傷がどうすれば癒されるのか、あるいは癒されないのかを確かめていく。

 若松は言う。
「人は、悲しみによって、もっとも強く、また、確かに通い合う」のだと。
 死者に出会ったときの深い悲しみが誰の心にもあるのだと気づけば世界は一変すると。
 それを和合は被災者同士で涙を流すことで体感している。
 涙を抑圧して「いつまでも泣いていてはいけない」と励ます我々日本人の「がんばろう東北」というようなたやすい言葉に二人は抗う

 しかし人をつなぐのが不可避に胸にわきあがってくる悲しみであるとは、なんと救いのある教えだろう。

 また二人は当然のように詩について語る。
 和合は「詩の礫」のフォロワーの存在を通じ、詩も「共に感じてくれる誰かの存在があって初めて、独りよがりではない心の現場性」が生まれることを実感する。
 そして現代詩には「『万人』に消費されない言葉を追い求めるあまり、ディスコミュニケーションというキーワードを頑なに信じ込んでいる雰囲気」があると言う。
 若松は和合の「詩の礫」について、
「究極的にはいつも、ひとりの人に宛てられた詩神からの手紙であるかのように詩を書く。あの日以来詩は、あなたの内心の表現の手段ではなく、むしろ、あなたが詩に用いられている。詩人とは、生ける言葉の通路となることである」と言う。
 さらに若松は、
「現代の文学者たちはいつから、自らの思いを作品化するのに忙しく、万人の中に『詩人』がいることを言わなくなった」のかと問いかける。
 私は一文一文に吸い寄せられ激しくうなずく。

 最後に2015年の3月11日を迎え、日本が追いかける被災地の復興に違和を感じながら、33通の手紙のやりとりは終わる。
 手紙という形式をとったことで、語りかける言葉たちが読者の胸にいきいきとしなやかに届く。

 若松の言葉を借りれば、彼らは自分の言いたいことのために言葉を使うのではなく、言葉を届けるために自分をつかっているのだ。
 死をすべての日本人が身近に感じた東日本大震災から4年。
 震災とともに傷つき試された「言葉」を武器に、見えないゆえに語られざるもののため戦い続けてきた2人の男の声に耳を傾ける。
 そこから始めることを、あの日から何をすればよかったのかわからないあなたに勧めたい。


週刊読書人ウエブ、更新日:2018年6月25日 / 新聞掲載日:2016年1月15日(第3123号)
33通の手紙が届ける言葉 
「言葉」を武器に戦い続けた二人の男の声

評者:谷川 直子(作家、※2)
https://dokushojin.com/article.html?i=3512

(※2)卒業ソング「きみはまだつぼみ」〜母から子へ〜
GroupN 曲詞・谷川直子
https://www.youtube.com/watch?v=-iQ68niAekM

posted by fom_club at 16:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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