2020年05月21日

没後10年を迎えた井上ひさし

 2020年4月9日に没後10年を迎えた作家・劇作家の井上ひさしは、生き生きとした日本語で、奇想天外な物語や趣向を凝らした評伝劇を紡いだ。
 自ら「遅筆堂」と名乗ったが、その作品群は時代に遅れることなく、今も上演され、読まれ続けている。

 2月に「天保十二年のシェイクスピア」、3月に「きらめく星座」が上演された。
 前者は、シェークスピア全37作と侠客(きょうかく)の争いを描く講談「天保水滸伝」をないまぜにした大作。
 後者は、太平洋戦争直前の庶民の暮らしと非常時の空気を活写した名作だ。
 作品の構えは異なるものの、力強いせりふと巧みな劇構造は共通する。

 戯曲も小説もエネルギーとユーモアに満ちるが、一方で時代の病巣や人間の弱さを正面から見つめ、そこから逃げずに議論を交わし、よりよい世界をめざす人びとを好んで描いた。
 東北の小寒村が独立国となる長編小説「吉里吉里人」(1981年)に見られるように、ユートピアを求め続けた作家だった。

 多くの井上戯曲を演出した鵜山仁(うやまひとし、1953年生まれ)さんは、
「最初は、なんて楽観的でいい人ばかり出てくるんだと思ったが、現実を明るくしてくれるものを舞台上につくらなくてどうする、という思いが井上さんにはあった」と話す。

* * *

 上智大在学中から浅草のストリップ劇場で喜劇台本を書き、テレビ草創期には放送作家として活躍。
 市井の娯楽の作り手から国民的作家となった井上は、庶民の目線を大切にした。

 親交の深かった大妻女子大名誉教授の今村忠純(1942年生まれ)さんは、
「無念の思いを残して死んだ人びとへの手向けの言葉」が、井上文学の本領とみる。
 山のような資料を読み込み、詳細な年表を作り、彼らが生きた世界を克明に再現した。
 敗戦前後の混乱をつづる日記体小説「東京セブンローズ」(1999年)や、原爆投下後の広島を舞台に父の亡霊と娘を描く二人芝居「父と暮(くら)せば」(1994年)の生々しさは、圧倒的なディテールに支えられる。

 今村さんは、創作から平和や憲法、日本語をめぐる論考までの足跡のうち、作家の特色を最も表すのは評伝劇だと指摘し、「イーハトーボの劇列車」(1980年)をその最高峰に挙げる。

「宮沢賢治への敬慕や、東北や農村の原点には音楽劇があると見通していたことも重要です。それも生死の間(あわい)にある農民たちが演じてみせる劇中劇、死者との対話は夢幻能。まさに発明です」

* * *

 戯曲が完成せずに開幕延期を繰り返したが、三女でこまつ座代表の井上麻矢(1967年生まれ)さんは「実は筆は速かった」と語る。
 折り目正しく論理的な劇を構築するため構成を熟考し、推敲(すいこう)にも時間をかけた。
 生前に、
「ほころびがあるまま世に出しても作品は長く愛されない」と語っていた。

 こまつ座で比較的少人数の芝居を書くようになった後期の作品をウェルメイドになったと指摘する声もあるが、
「ペンの力だけですべてを描く。その決意と言葉の鋭さは初期作と変わらなかった」と麻矢さんはいう。

 生前の言葉で印象的だったのは、「芝居は詐欺」。
 満面の笑みで、
「作者が一行も書いていないのに切符を売るんですから」と続けた。
 東日本大震災やコロナ禍。
 理不尽な死が襲うとき、“誠実な詐欺師”の言葉はさらなる輝きを増し、人びとを励ましている。

■ 希望で終わる物語 作家・若竹千佐子(1954年生まれ)さん
 小学4年生のころに出会った「ひょっこりひょうたん島」が、私を決定づけました。
 名誉欲が強いドン・ガバチョはいまも私の脳内の住人なんですよ。
 面白いものを書きたい、悲しいものを書いても希望で終わらないといけない。
 そういう考え方は、井上ひさしさんを読んだお陰です。
 一つ挙げるなら、一人芝居の「化粧」です。
 母は捨てた子が帰ってこないかと思いながら裏切られる。
 希望から絶望、そして希望に向かう、どんでん返し。
 去年、初めて井上さんの故郷、山形県川西町に行きました。
 蔵書に丹念に書き込みをされていて、「遅筆堂」と名乗っていたのはすごい勉強をしてたからなんですね。
 いま、「化粧」をオマージュした作品を書こうとしています。
 自分でやってみて、あらためて井上作品の深さがわかりますね。
(聞き手・井上秀樹)

■<見る>
 こまつ座の次回公演「人間合格」は7月6〜23日、東京・新宿の紀伊国屋サザンシアターで。原田芳雄と宮沢りえで映画化された「父と暮せば」、舞台「ムサシ」「組曲虐殺」などはDVDで見られる。

■<訪れる>
 山形県川西町の遅筆堂文庫には蔵書資料約22万点がある。併設の劇場で井上ひさし作品が上演され、コンサートも催す。住んでいた千葉県市川市の市文化会館ロビーには井上ひさし記念室があり、書籍や遺品を展示する(いずれも休館中)。


朝日新聞(文化の扉)、2020年4月27日 5時00分
今を照らす、井上ひさし
膨大な準備、克明な描写/無念の死を思い

(編集委員・藤谷浩二)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14456849.html?pn=3

「私は名もない旅役者でございます。重(おも)に関東から新潟、東北の田舎廻(まわ)りをいたしてをります『成田屋』一行、そしてそんな中の中村福之助と申すいんちき女形(これが私奴(わたくしめ)ですが)――と申しあげれば、あゝあれかと合点なさる方も多分ございませう」

とは藺上螽二の4000字のコント『祈り釘(くぎ)』の書き出し。
 ずいぶん難しい筆名だが「いのうえ・しゅうじ」と読む。
 螽は昆虫のイナゴのことである。
 本名・井上修吉、作家・井上ひさしの父である。

 ひさしの自筆年譜に、こうある。

「父は修吉、母はマス。父は薬剤師で、薬局を経営していたが、小説家志望で、当時の大衆小説家の登竜門『サンデー毎日大衆文芸コンクール』の常連投稿者だった」

『祈り釘』も同誌の入選作(懸賞実話「旅で拾つた話」)で、これは1931(昭和6)年6月10日発行の夏季特別号に掲載された。

 福之助はK町の未亡人にほれられ密会を重ねたが、遊びのつもりだった。
 次の興行地に移った時、彼女から小包が届く。
 羊羹(ようかん)の差し入れと思い仲間の前で開けたら、五寸釘を21本も打ち込んだワラ人形。
 憎い相手を呪うまじないである。

 1年後、福之助の一座は、またK町で興行することになった。
 小屋ぬしから意外な話を聞かされた。
 未亡人宅の近くの神社から、祈り釘が打たれた杉が3本も発見され、町中が大騒ぎだった。

「何しろ祈り釘だなんて、昭和時代には無類の珍事だからね」

 祈り釘については、木下尚江(なおえ)の小説『良人の自白』(1904(明治37)、1905(明治38)年)にも出てくる。

「草木も眠る真夜中の暗(やみ)を忍びて怨(うらみ)ある人の形代(かたしろ)を携へ、此樹(このき)の幹に釘にて打ち付け、一心不乱に呪詛(じゅそ)する時は、必らず復讐(ふくしゅう)の目的を達すると云(い)ふのである」

 福之助の場合、祈った未亡人が亡くなる。
 祈られた方が死なぬ時は、かえって祈る方に災いが来る言い伝えがある。
 これが本編の落(おち)。

 井上ひさし自筆年譜の続き。
 父は、
「入選も何度か果し、上京して本腰を入れて小説家になろうかという矢先、脊椎カリエスで死亡した(わたしが5歳のときである)」。

「祈り釘」から4年後、藺上はついに『サンデー毎日』の「第17回大衆文芸コンクール」に入選した。
 入選者5名のうち、藺上が第一席である。
 第三席に、井上靖がいる。
 また選外佳作者に源氏鶏太の名が見える。

 藺上はこの筆名でなく、小松滋(しげる)を用いている。
 住所の山形県東置賜郡小松町(現・川西町)の町名と、長男の名を借りたのである(ひさしは次男)。

 作品名は『H丸伝奇』。
 題の由来は、「作者の言葉」にある。

「明治四十三年の支那孫逸仙革命の際、日本に亡命中の孫逸仙等が貨物船ハドソン丸で支那へ乗り込む時の同船を背景に日本人二等運転手と支那娘の恋愛を主題に扱かつたものです」

 選者の文芸評論家・木村毅は、こう評している。
「大衆文学が息詰まつたなどといふ人は、この作品をみるがいゝ(略)手堅い手法、賤(いや)しからぬ品格、適宜に女を配して彩りを添へたのも心得たものだ……」

 物語は横浜の怪しげな旅館の寝室から始まる。
 主人公のH丸乗組員と、花売り娘の一夜の交情である。
 すこぶる大胆な幕開きだが、あからさまな描写はない。

「男の若い心臓は、花売娘が持つてゐる花束の妖しさにおどろしく鳴つて、たゞもう苦しくなるのだ」

 この一行ですべてを説明している。
 木村の言う「品格」であろう。

「雪がほろほろと落ちてきた」
「鴎(かもめ)が花火のやうに閃(ひらめ)いた」
「コツプが割れたやうな声を立てゝ」
「椿の花が開いたやうに笑つてみせた」
「すべすべした頬(ほほ)が乳色の金魚のやうに泣くのだ」――卓抜な表現の数々。

 小松滋の妻(つまり井上ひさし母堂マス)が、『人生は、ガタゴト列車に乗って…』という自伝を出版している。
 夫が亡くなったのは昭和14年で、36歳の若さだった。
 短い結婚生活だったが、『H丸伝奇』入選の頃が一番幸せな時期だった、と述べている。

 夫は膨大な蔵書を残した。
 マスは夫の形見を大切に守った。
 息子のひさしは、本を親父と思い、片っぱしから乱読した。
 稀有(けう)のストーリー・テラーは、こうして誕生した。
 作家・井上ひさしこそ、小松滋の最高傑作である。

『H丸伝奇』は五十枚の短篇(たんぺん)だが、「プリントの書き方」という文を付けて、70頁の冊子にまとめられている。
 発表時の林唯一のさし絵入りで、山形謄写印刷資料館が定価1000円で販売している。
 著者名は、井上修吉(小松滋)である。
 著者が何者か知らないかたは見逃してしまうだろう。


[イラスト]

日本経済新聞・朝刊、2020/3/21付
<書物の身の上 出久根達郎(直木賞受賞作家)>
井上ひさし父の小説
入選作の品格と卓抜な表現

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO57002820Z10C20A3MY9000/

 父の井上ひさしから、
「憲法は戦争で亡くなった人たちが命を懸けて勝ち取った言葉だ」と、幼いころから聞かされてきた。
 国のために死ぬという戦時の少年たちの価値観。
 それを将来の夢を語れるようにしてくれたのが憲法だった。
「だから年を取れば取るほど憲法が好きになる」と。

 2015年7月6日から東京・新宿でこまつ座が上演する、原爆投下から3年の広島が舞台の「父と暮(くら)せば」は、生きていく私たちが人の死から何を学ばねばならないのか、などがテーマだ。
 父は、
「戦争で亡くなった人は語れないが、代わりに語っているのが憲法」と言った。
 憲法を超えるようなものが議論されている今だからこそ、この劇をやり直したい。

 集団的自衛権の行使を可能にする安保法案が国会で審議されている。
 憲法で守られていたことの変更が安倍首相独自の感覚、解釈でどんどん進められている。
 大事な人が理不尽に命を奪われかねない切羽詰まった状況になると、国民一人ひとりの胸にちゃんと響いていない。
 国民が分からないまま、大事なことがすごいスピードで決められることに、恐怖感を覚える。

 こんな時だから演劇の力を見直したい。
 特定秘密保護法が制定され、何が国家の秘密かも分からない。
 上の人の解釈次第で、戯曲が法に触れ、処罰や上演中止になるのかなと思う。
 だが演劇にタブーはない。
 戦いの一つの方法として演劇がある。
 たとえ、そういう時代になっても、やり続けていく。
 それが力になる。

 首相は、先の戦争で国民が受けた傷や痛みを全部分かって言っているのか。
 ぜひ、首相に私たちの舞台を見に来てほしい。

<井上麻矢、いのうえ・まや>
 1967年生まれ。作家井上ひさしさんの三女。井上さんに関係する作品を上演する劇団「こまつ座」の社長。


東京新聞・言わねばならないこと、2015年6月14日
憲法
戦死者の声代弁
こまつ座社長・井上麻矢さん

https://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/himitsuhogo/iwaneba/list/CK2015061402000136.html

posted by fom_club at 10:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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