2020年01月28日

井上ひさしの『頭痛肩こり樋口一葉』

『頭痛肩こり樋口一葉』(以下『頭痛』と略す)は、井上ひさし(1934–2010)が自分の作品を上演するために作った「こまつ座」の旗揚げ公演に備えて1984(昭和59)年、作者50歳の年に執筆した戯曲である。

 初演の演出は木村光一、音楽は宇野誠一郎が担当し、それ以来何度 も再演を繰り返している人気作である。
 こまつ座だけでも8回再演しているほかに、他の劇団でも取り上げているので(劇団新派や松竹など)、上演回数はかなり多い。
 音楽劇としての魅 力と、女性だけ6人の登場人物たちの人生模様の切実さが観客の興味を引いているようだ。
 それゆえ井上ひさしの代表作といってよい評価がされている。

 1934(昭和9)年に左翼の活動家である父修吉、看護師見習いの母マスの次男として生まれた井上ひさしは、丸谷才一の弔辞の表現を借りるなら、「プロレタリア作家」である。
 昭和初年のプロレタリア作家が「知識人が大衆を指導する」ようにではなく、「シェイクスピアがしたやうに、あるいはブレヒトと同じやうに、知識人は知識人なりに楽しめ、大衆は大衆なりにおもしろがることができる芝居を書いた」(注1)という丸谷の評価は、この劇作家の本質を捉えたものである。

(注1)丸谷才一『あいさつは一仕事』朝日文庫、2013年、p. 48–49。
 この分類は1930年代の日本文学を芸術派、私小説、プロレタリア文学の3つに分類した平野謙にならったもので、丸谷は、芸術派には村上春樹、私小説派には大江健三郎を分類している。

 井上がその初期からこの二人の演劇の巨人たちの影響のもとに戯曲の執筆をしたことは、1972(昭和47)年に第17回岸田國士戯曲賞を受賞した『道元の冒険』をはじめ、翌年の『藪原検校』や『天保十二年のシェイクスピア』などから見てとることができ、そこでは シェイクスピアとブレヒトの作劇術を巧みに採り入れている。

『頭痛』の執筆はそうした初期から中期へと移る時期に当たっている。
 戯曲全集である「井上ひさし全芝居」全7巻でも、第3巻(新潮社、1984年7月)の最後に載せられており、初期の試行的時期のあと、井上演劇の円熟期の到来を告げる位置づけができる。
 初期の代表作である『雨』や『藪原検校』 などの戯曲にこめられたドラマトゥルギーはすでにこの劇作家の演劇的仕かけの巧みさを証明しており、『頭痛』にもその流れがつづいている。

 そしてその後の『化粧』、『父と暮せば』、『きらめく星座』、『シャンハイムーン』、『黙阿弥オペラ』、『太鼓たたいて笛ふいて』などの人気作には井上演劇の到達地点が如実に示されている。

井上ひさしと樋口一葉

 井上ひさしは『頭痛』の中で樋口一葉(劇中では夏子)をどのような人物として描こうと考 えたのであろうか。

 一葉は五千円札の顔として知られ、国語の教科書に載っていたりするので、日本人で知らない人はいないくらい有名な作家である。

 作家として作品を残した時期は短く、19歳のときに小説家になろうと決心し、22歳から24歳までの2年に満たない間に傑作を続けざまに発表して一躍有名作家になった。

 島崎藤村、上田敏、幸田露伴、森鷗外などに評価され、天才と呼ばれるに至った。
 夭折しているだけに、「もっと長生きしてさらなる傑作を書いてほしかった、まさに薄倖の 女性だ、可哀そうだ」と、とかく考えてしまう。

 しかしこの戯曲を書いた井上ひさしはそうは 捉えていない。

〈一葉ほど幸福な人は珍しい、天分と努力によって小説家としての絶頂をきわめた、代表作を書きあげてすぐに死ぬのが作家としての理想の死である、小説家としての最大の不幸は代表作を書きあげたあと二十年、三十年と生きつづけなければならないことだ、太宰も三島も川端もその宿命を回避しようとして自分の生涯に自分で幕を下ろしたのだ、仮に一葉 が百歳まで生きても『大つもごり』、『たけくらべ』、『にごりえ』、『十三夜』を超える小説を書けなかった、文語文の頂点を極めたが言文一致体の口語文では『にごりえ』のような緊密なリズムを出せなかった、だから死ぬべきときに死ぬことのできた幸福な作家なのだ〉と(注2)。

(注2)井上ひさし・こまつ座編著『樋口一葉に聞く』(文春文庫、2003年、p. 32–35参照)

 作家らしいシニカルな視点で井上ひさしは樋口一葉の作家人生をこう捉えたのである。
 なるほどそうかもしれないし、そもそも過ぎ去った過去を「もし」と仮定しても意味はない。
 だから井上は一葉を「可哀そうだ、薄倖だ」と悲劇のヒロインにしようとしてはいない。

 中島歌子の塾「萩の舎」での小間使い同然の扱いも、半井桃水に恋い焦がれながら、戸主であるがゆえに嫁に行くことができず添い遂げることができなかったことも、可哀そうだという視点で描いていない。
 むしろそうした経験を小説を創作する元手にすることができたと肯定的に考えている。

 そのように考えると『頭痛』があっけらかんとカラッと描かれているわけが分かる。
 樋口家を盆礼に訪れる鐄や八重など、それぞれの登場人物が苦労をして逆境に陥るのも笑いのネタとして扱われ、その笑いが劇にテンポを与え、観客に登場人物に同化するのではなく、彼女たちの生き方の意味を考えるように仕向けるのである(注3)。

(注3)『頭痛』執筆当時の井上ひさしの妻西舘好子によると、最初の題名は『なんだ坂、あんな坂』というものだったと言う。
 それが明治の女を象徴するものとして「頭痛肩こり」に変わった経緯も明かされている。
 遅筆で原稿が上演に間に合わないことの多かった井上ひさしだが、この『頭痛』の場合は舞台稽古にぎりぎり間に合ったようだ。
 チケットも発売開始2時間で売り切れとなり上演も成功した。
 ……西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』(2011年、牧野出版、p. 281–285参照)

 樋口一葉は1872(明治5)年旧暦3月25日(新暦5月2日)に東京府第二大区一小区内幸町の官舎に父樋口則義、母多喜の第5子(次女)として生まれた。
 父の則義は甲斐の国、現在の山梨県に農民の長男として生まれたが、1857(安政4)年に多喜を伴い、駆落ち同然に江戸に 出た。
 伝手を頼って武士階級に接近し、維新直前の慶応3年に御家人の株を買って八丁堀同心となった。
 苦労をして農民から武士へと身分をあげたが、翌年幕府の滅亡によってその努力の成果を失った。
 それでも維新後は東京府の役人になり、警視庁などに勤務した。
 母の多喜は長女ふじを出産後に、劇中に出てくるように旗本稲葉大膳の娘鐄の乳母として奉公した。
 一葉が15歳のときに長兄泉太郎が、17歳のとき父則義が病没した。
 長兄は秀才で期待の星だったが、若くして死んでしまい、父親の則義はその後は希望を失い、気力をなくしてしまって病に斃れたのであった。

『頭痛』で描かれるのは父の死の翌年1890(明治23)年、一葉が18歳になる年からである。
 生活が苦しく、次兄の虎之助が母との折り合いの悪さから家を出てしまった時期である。
 一葉は14歳で歌の塾「萩の舎」に入門していたが、父や長兄が死んでしまい、次兄はあてにならず、長女は結婚して家を出ており、彼女が相続戸主としての役割を求められる立場になった。
 家制度の中で戸主として家に残らねばならないため、他家に嫁ぐこともできず、婿を取るしかない立場となったことは一葉の人生航路を大きく決定した。

 父の死後、家計が困窮を極めていたので一葉は歌の塾「萩の舎」に内弟子として入り、住み込みで師匠の雑用をした。
 しかし和歌では生活できないことを知り、小説で身を立てようとする。

 妹邦子の同級生の中に、兄に小説家半井桃水を持つ女性がおり、その伝手で桃水に小説を師事することになる。
 一葉は半井桃水に出会ってすぐ一目惚れしてしまうが、彼女は戸主であったため、婿取りしかできず、結婚は不可能だった。
 ただ、二人は冬の雪の日に結ばれたのではないかという説がある。
 しかし桃水は別の女性に子供を産ませたという噂もあり、遂には絶交となった。

 桃水と出会う前に一葉は、父の生前に17歳で一度婚約している。
 相手は渋谷三郎という、のちに早稲田大学の法学部長や県知事にまで出世した男だが、一葉の父の死後樋口家の借金の多さに驚いて一方的に婚約を破棄してきたのであった。
 のちに一葉が20歳のときに復縁を求めてきたことがあったが、これには一葉の方が応じなかった。

 もう一人22歳の一葉に近づいた男がいて、それが久佐賀義孝である。
 久佐賀は占い師で一葉が小説だけでは生活ができないので借金の申し出をした。
 すると、単なる付き合いだけでなく、深い関係も求めた。
 ついには「妾になってほしい」と要求したというが一葉はこれを拒絶している。

 三人の男性との交際はいずれも一葉にとっては不本意な結末となったが、それが彼女の創作にはむしろ深みを与えたと考えることもできる。

 さらには当時の男性中心の社会への眼差しをより鋭いものとしたであろうことも十分に想像できることである。
 久佐賀とのことがあった1894(明治27)年の12月に一葉は突然小説で傑作を生み出しはじめる。
 まずは代表作の一つ『大つごもり』である。
 それからの14ヶ月は「奇跡の14カ月」 と言われ、翌年1895年1月からは『たけくらべ』を「文学界」に連載しはじめ(1896年まで)、9月には『にごりえ』、12月には『十三夜』をともに「文学倶楽部」に発表した。
 こうして小説家としての評価が高まり、一葉は「明治の紫式部、清少納言」と褒めそやされるようになる。
 森鷗外、幸田露伴、佐藤緑雨らが雑誌で絶賛し、川上眉山、平田禿木や上田敏らが一葉の家を訪ねてきた。

 しかし1896(明治29)年の11月23日に一葉は24歳で結核のため死亡した(注4)。

(注4)前掲書『樋口一葉に聞く』p. 76–149参照

京都産業大学論集、人文科学系列、2016-03
女性6人のドラマ
井上ひさしの『頭痛肩こり樋口一葉』

(時田浩)
AHSUSK_HS_49_267.pdf

posted by fom_club at 21:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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