2020年01月20日

清砂通りアパートと浅沼稲次郎

沼は演説百姓よ
よごれた服にボロカバン
きょうは本所の公会堂
あすは京都の辻の寺

 そのようにほめたたえられた浅沼稲次郎は、暗殺されるまで、江東区に住んでおったのです(ヤッホーくん注)。

 浅沼稲次郎の一面を知る文章です。

 自治会町内会情報誌「まち・むら」127号(2014年9月発行・季刊誌)掲載の論文、「都市の共同居住」(大内田鶴子・江戸川大学社会学部教授)を読んでいると、「町会長浅沼稲次郎」の項がありました。

 掲載の文書から転記。
 1929(昭和4)年頃から、清砂通りアパートの白河4丁目側10号館1階に、衆議院議員(後の日本社会党書記長・委員長)の浅沼稲次郎が、部屋を借りて住んでいた。
 保証人は賀川豊彦であったそうだ。
 1933(昭和8)年に東京市議に当選し、1936(昭和11)年に衆議院議員になった。
 1941(昭和16)年ごろ無産者政党、社会大衆党を解党した後には「白河町内会」の自治会長になっている。
 浅沼は戦後1960(昭和35)年、社会党委員長になった後も、日比谷公会堂で右翼少年の凶刃に倒れるまで、この地に住み続けた。

 なお、選挙区は文京区であり、「御殿の鳩山、アパートの浅沼」と言われたそうである(沢木耕太郎、1978年)。
 清砂通りアパート住民は、敗戦直前の、1945年5月に生活用品不足に対応するため、浅沼の勧めにより、生活協同組合を結成している。

<省略>

 浅沼稲次郎は、東京市政調査会が事務局となって、1947(昭和22)年2月12日に発足した町会問題対策協議会の委員になっている。
 GHQは占領統治政策として、町内会・自治会を廃止しましたが、それに先立ち東京とは、廃止される町内会に代わる新しい組織の性格や事業、その具現化の方法などを討議していた。
 東京都は1938(昭和13)年から町会整備を継続しており、この時重要な役割をはたした都庁の地方事務官を再び会議に参加させて、町内会廃止後の近隣組織の在り方について検討し始めた。
 浅沼はその会議に町会代表委員として加わっており、「新生活共同体の結成」という構想案を、町内会に代わる新たなモデルとして提言を試みたメンバーの一人である。
 その構想内容は、生活協同組合との関係を示唆するものとなっている。
 なお、この提言は活かされずに葬られた。

格差のない平和な社会をめざして(*)、2014年11月23日
(*)社民党の理念は「平和・自由・民主主義・平等・共生・連帯」、「社民党の活動を知って下さい」を目的に作成してます。
「清砂通りアパートと浅沼稲次郎」を読む
https://blog.goo.ne.jp/kumagaya-sdp/e/6e34f7176e9be975b62052c177fc5595

(ヤッホーくん注)
〇1「沼は演説百姓よ…」

 これは大正末年の日労党結党当時、友人の田所輝明君が、なりふり構わず全国をブチ歩く私の姿をうたったものだ。
 以来演説百姓は私の異名となり、今では演説書記長で通っている。
 私は演説百姓の異名をムシロ歓迎した。
 無産階級解放のため、黙々と働く社会主義者を、勤勉そのもののごとく大地に取組む農民の姿にナゾらえたもので、私はかくあらねばならぬと念じた。

 まことに演説こそは大衆運動30余年間の私の唯一の闘争武器であった。
 私は数年前『わが言論闘争録』という演説集を本にして出したが、その自序の中で「演説の数と地方遊説の多いことは現代政治家中第一」とあえて広言した。
 私は全国をブチ歩き、ラジオにもよく出るので私のガラガラ声が大衆の周知のものとなった。
 ラジオや寄席の声帯模写にもしばしば私の声の声色が登場して苦笑している。
 徳川夢声氏と対談したとき『あれは沼さんの声だと誰でも分るようになれば大したものだ』とほめられたことがある。

 しかし私の声ははじめからこんなガラガラ声ではなかった。
 学生時代から江戸川の土手や三宅島の海岸で怒濤を相手にし、あるいは寒中、深夜、野原に出て寒げいこを行い、また謡曲がよいというので観世流を習ったりして声を練った結果、現在の声となった。
 これらの鍛練は大きな声と持続性の研究であり、おかげで私は水も飲まずに2、3時間の演説をやるのはいまでも平気だ。
 演説の思い出は多いが、その中でアジ演説で印象に残ったものを、自慢話めくが二、三披露してみよう。

<略>

日本経済新聞・私の履歴書
六、鍛え上げたガラガラ声
https://ja.wikisource.org/wiki/私の履歴書/浅沼稲次郎

〇2 「清砂通りアパート」

 1929(昭和4)年、日本大衆党の公認をうけ東京市深川区から市会議員に立候補した関係で、深川のアパートに住むようになり、それ以来、江東地区の労働運動に関係するようになった。

 関東木材産業労働組合、東京地方自由労働者組合、東京製糖労働組合の組合長をやり、日本労働総同盟に参加して、深川木場の労働者のために多くの争議を指導した。

 たしか1935(昭和10)年ごろと思うが、ある深川の製材工場が釘で厳重にロック・アウトをしたことがあった。
 われわれはこれをぶちこわして強引に工場へ入ったところ、会社側も負けじとお雇い人夫を動員、トビ口やコン棒を振上げ襲いかかってきた。
 あわや血の雨の降る大乱闘になろうという時、救いの神ともいうべき警官が現われ、平野警察署長青木重臣君(のちの平沼内閣書記官長、愛媛県知事)の命令で、労使ともに検束されてしまった。
 留置場はまさに呉越同舟、敵も味方も一しょくたにされていたが、そのおかげで留置場内で話がまとまり、争議が解決したのだからケッ作だ。
 青木署長もなかなか思い切ったことをしたものである。

 演説をやれば「注意、中止、検束」、デモでは先頭にいて「検束」という具合で、この当時の社会運動家の中ではわたくしが検束の回数では筆頭だったようだ。


日本経済新聞・私の履歴書
五、検束回数のレコードホルダー
https://ja.wikisource.org/wiki/私の履歴書/浅沼稲次郎

〇3 「日本社会党」

 私は終戦の勅語を深川の焼け残ったアパートの一室で聞いたが、このときの気持を終生忘れることができない。
 2、3日前飛んできたB29のまいたビラを読んで、薄々は感づいていたものの、まるで全身が空洞になったような虚脱感に襲われた。
 私はこれまで何度か死線をさまよった。
 早大反軍研事件後の右翼のリンチ、東京大震災のときの社会主義者狩りと市ヶ谷監獄、秋田の阿仁銅山争議など――。
 しかしこれらのものは社会主義者としての当然の受難とも思えたのである。
 しかし戦争はもっと残酷なものだった。
 戦闘員たると否とにかかわらずすべてを滅亡させる。
 私の住んでいた深川の清砂アパートは1945(昭和20)年3月10日の空襲で全焼し、私はからくも生き残ったが、一時は死んだとのウワサがとんで、友人の川俣代議士が安否をたずねに来たことがある。
 無謀な戦争をやり、われわれ社会主義者の正当な声を弾圧した結果は、かかるみじめな敗戦となった。
 私は戦争の死線をこえて、つくづく生きてよかったと思い、これからはいわば余禄の命だと心に決めた。

 そしてこの余禄の命を今後の日本のために投げださねばならぬと感じた。

 やがて敗戦の現実の中に、各政党の再建が進められ、保守陣営の進歩党、自由党の結党と呼応して、われわれ無産陣営でも新党を結成することになった。
 1945(昭和20)年9月5日、戦後初の国会が開かれたのを機会に、当時の代議士を中心として戦前の社会主義運動者、河上丈太郎、松本治一郎、河野密、西尾末広、水谷長三郎氏が集まり第一回の準備会を開いた。
 そこで戦前の一切の行きがかりを捨て、大同団結する方針が決まり、全国の生き残った同志に招待状を出すことになった。
 当時私は衆議院議員を一回休み、都会議員をしていたが、河上丈太郎氏から『君は戦前の無産党時代ずっと組織部長をしていたから全国の同志を知っているだろう。新党発起人の選考をやってくれ』と頼まれ、焼け残った書類を探しだして名簿を作成した。
 その名簿によって当時の社会主義運動家の長老、安部磯雄、賀川豊彦、高野岩三郎の三氏の名で招待状を出し、同年1945(昭和20)年9月22日、新橋蔵前工業会館で結党準備会を開いた。

 ついで11月2日、全国3000の同志を集め、東京の日比谷公会堂で結党大会を開いた。
 私はこのとき司会者をつとめたが、会場を見渡すといずれも軍服、軍靴のみすぼらしい格好ながら同じ理想と目的のため、これほど多くの人びとが全国からはせ参じてくれたかと思うとうれしくてたまらなかった。
 同大会は松岡駒吉氏が大会議長をつとめ、水谷長三郎氏が経過報告をやり、党名を「日本社会党」と決め、委員長欠員のまま初代書記長に片山哲氏を選んだ。

<略>

日本経済新聞・私の履歴書
八、社会党誕生す
https://ja.wikisource.org/wiki/私の履歴書/浅沼稲次郎


posted by fom_club at 09:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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