2020年01月19日

社会党浅沼委員長刺殺事件は60年前!

 60年、60年、60年前は1960(昭和35)年。
 安保闘争ともうひとつ、ヤッホーくんにはあったって、それは浅沼稲次郎!

 巨体と大きな声で全国を精力的に遊説し、「人間機関車」「演説百姓」の愛称で親しまれた浅沼稲次郎。
 社会党書記長、委員長を歴任した。
 早稲田大学では雄弁会と相撲部・ボート部に所属。
「文藝春秋」1953(昭和28)年8月・夏の増刊号では、慶應義塾大学の藤山愛一郎(日商会頭)らとともに、「母校のチャンピオン」というグラビア頁に登場している。
 社会党が左右両派に分裂していた時代であった。

 1898(明治31)年、東京・三宅島に生まれた浅沼は、1960(昭和35)年、社会党委員長に就任する。
 そして、総選挙を目前に控えた同年1960年10月12日、自民・社会・民社三党党首公開立会演説会が東京・日比谷公会堂で開かれた――。

〈ひたすら歩むことでようやく辿り着いた晴れの舞台で、61歳の野党政治家は、生き急ぎ死に急ぎ閃光のように駆け抜けてきた17歳のテロリストと、激しく交錯する〉
(沢木耕太郎「テロルの決算」文春文庫)

 短刀を携えた右翼の少年、山口二矢が、演壇に立つ浅沼に向かって駆け上がる。

〈浅沼の動きは緩慢だった。ほんのわずかすら体をかわすこともせず、少し顔を向け、訝しげな表情を浮かべたまま、左脇腹でその短刀を受けてしまった。短刀は浅沼の厚い脂肪を突き破り、背骨前の大動脈まで達した〉
(同前)

 浅沼はまもなく絶命した。
 8日後に行われた社会党葬は、冷たい雨の降るなか、2600人の参列者を得て、盛大に行われた。
 会場は、事件と同じ日比谷公会堂であった。


[写真]浅沼稲次郎 ☟

浅沼稲次郎.jpg

文藝春秋 Books、2013.10.21
刺殺された日比谷公会堂で葬儀が行われた浅沼稲次郎
https://books.bunshun.jp/articles/-/2446

[動画]
NHKみのがしなつかし
社会党浅沼委員長刺殺事件
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030037_00000

 1960年10月12日、日比谷公会堂では日米安全保障条約をめぐって、各政党党首による演説会がおこなわれることになっていました。
 社会党書記長の浅沼稲次郎は最初の登壇者でした。
 会場にいた毎日新聞のカメラマン長尾靖(ながお やすし、1930 - 2009)は、人ごみを縫って前へ進み、場所を確保します。
 スピード・グラフィックに12枚撮りのフィルムパックを装填し、全体写真、クローズアップ、政党関係者など11枚を撮りおえ、フィルムは残り1枚となりました。

 浅沼の演説中には右翼からの野次が飛び、演壇にあがってビラをばらまく者もあらわれました。
 演説はいったん中断されたのち、再開されました。
 そのとき、舞台の袖から学生服を着た若者が現れ、浅沼に向かって走ってきたのです。
 学生は体当たりして手にした短刀を浅沼の腹部に突き入れました。

 数人のカメラマンが最初の一撃を撮りましたが、演壇に隠れてよく見えませんでした。
 2人がよろめいて後ろに下がり、演壇から離れました。
 学生は浅沼の体から短刀を引き抜き、今度は心臓に突き入れて、再び抜きました。
 演壇に邪魔されずこれを撮影できたのは、長尾だけでした。

 浅沼は救急搬送中に死亡しました。
 襲撃者の山口二矢(やまぐちおとや)は逮捕されたのち、拘留中の11月2日に自殺したのです。

 この写真は毎日新聞と独占契約をしていたUPI通信によって全世界に配信され、1961年に日本人ではじめてピュリツァー賞を受賞しました。

 ちなみにこの事件については、沢木耕太郎が『テロルの決算』で詳細に追及し、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。


[写真]舞台上での暗殺 ☟

舞台上での挨拶.jpg

National Geographic、2012/01/18
ピュリツァー賞と日本人
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120118/296593/

 日本人として初めてピュリッツァー賞を受賞した元毎日新聞のカメラマン、長尾靖さんが亡くなった(2009年4月29日・享年78歳)。
 静岡県南伊豆町のアパートで一人暮らしの長尾さんが約束の個展に来ないのでその身を案じた友人の安否確認で5月2日、自宅で倒れているのが発見されたという。
 何とも痛ましい。

 1960(昭和35)年10月12日毎日新聞夕刊一面に掲載された、社会党の浅沼稲次郎委員長の刺殺された写真は衝撃的であった。
 長尾カメラマンが撮った写真である。
 犯人は17歳の右翼の少年(1960(昭和35)年11月2日東京少年鑑別所で自殺)であった。
 この日、日比谷公会堂で公明選挙連盟主催の自民、社会、民社3党首による立会演説が開かれた。
 会場には大勢の右翼が詰めかけ演壇からビラをまいたり、激しいヤジを飛ばしたりしていた。

 浅沼委員長が登壇したのは民社党、西尾末広委員長の後であった。
 突然、少年が演壇の右側から壇上に駆け上がってきた。
 手に茶色の棒のようなものを持ち、猛烈な勢いで委員長にぶつかった。
 実は短刀で委員長は深く刺され、はずみで半回転した。
 少年は演壇の後を通り抜け、右側の長尾の目の前にきて短刀を構えもう一度刺した。
 少年が二度目に刺そうとした瞬間を長尾カメラマンがとらえた。
 長尾ははじめ10フィートでピントを合わせていたのを15フィートにピントを合わせ直してシャターをきった。
「原稿用紙が飛び散り、浅沼委員長の顔からメガネがずり落ち、少年を捕まえようと手が伸びる光景はテロの恐怖を生々しく物語っている」と「毎日の3世紀」(下巻)はいう。

 この写真はUPI通信を通じて世界中の新聞に送られ大きく報道された。
 米国の雑誌「ライフ」や「タイム」、フランスの週刊写真雑誌「パリ・マッチ」も掲載した。
 1961(昭和36)年5月1日に外国人としては初めての1961年度のピュリッツァー賞に輝いた。

 ここに意外なエピソードを書く。
 実は長尾カメラマンは野球が嫌いであった。
 それが世紀の特ダネ写真を生むきっかけとなった。
 この日、プロ野球日本シリーズ第2戦・大洋ホエールズと大毎オリオンズの試合が川崎球場で行われていた。
 第1戦は1―0で大洋がものにした。
 第2戦もいきづまる投手戦であった。
 多くの記者、カメラマンが社の車の中でその実況放送を聞いていた。

 野球嫌いの長尾カメラマンは愚直に現場で頑張っていた。
 そこに惨劇が起きた。
 誰も予想しない出来事であった。
 だから事件は怖いのである。

 さらに付け加えれば長尾カメラマンのスピグラには12枚目のフイルムが1枚残っているだけであった。
 カメラマンの「最後の1枚は必ず残しておけ」という原則を忠実に守ったおかげでもあった。
 心から長尾カメラマンのご冥福を祈る。

 
銀座一丁目新聞、2009(平成21)年5月10日号
カメラマン長尾靖さんを偲ぶ
(柳 路夫)
http://ginnews.whoselab.com/090510/tsuido.htm

posted by fom_club at 19:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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