2019年12月06日

中村哲医師「共に生きるための憲法と人道支援」

亡くなった中村哲医師悼み、現地で悲しみの集会
https://www.youtube.com/watch?v=hakBxznbwTw

 平和憲法のもとでの日本の国際貢献のありようを体現した人だった。
 アフガニスタンで長年、人道支援に取り組んだ医師中村哲さんが現地で襲撃され死亡した。
 志半ばの死を深く悼む。

 紛争地アフガニスタンでの30年近くに及ぶ活動の中で、戦争放棄の憲法九条の重みを感じていた人だった。
 軍事に頼らない日本の戦後復興は現地では好意を持って受け止められていたという。

 政府が人道復興支援を名目に、自衛隊を派遣するためのイラク特措法を成立させた後は、活動用車両から日の丸を取り外した。
 米国を支援したことで、テロの標的になるという判断だった。
 現地での活動は続けた。

「活動できるのは、日本の軍人が戦闘に参加しないから。九条はまだ辛うじて力を放ち、自分を守ってくれている」

 2013年、本紙の取材にそう語っている。

 その後も集団的自衛権の行使容認や安保法制など、憲法の理念をないがしろにして自衛隊の海外派遣を拡大しようとする政府の姿勢を苦々しい思いで見つめていた。

 安倍晋三首相が掲げた「積極的平和主義」を「言葉だけで、平和の反対だと思う」と批判していた中村さんは、真の平和につながる道は「日常の中で、目の前の一人を救うことの積み重ね」と考えていた。

 ハンセン病患者などの治療のため1984年にパキスタン入りし、1991年からアフガニスタンでも活動を始めた。
「対テロ戦争」を名目とした米英軍の空爆や武装勢力の衝突など戦火は絶えず、大干ばつも地域を襲う。
 中村さんの目の前には常に不条理な死と苦しむ人びとがいた。

 2018年には、アフガニスタンから、日本の民間人としては異例の勲章を受けた。
 緑化のための用水路建設や、長年の医療活動が高く評価された。
 国連難民高等弁務官として難民支援に貢献し、先日亡くなった緒方貞子さんとともに、日本が目指すべき国際貢献の姿として、その光を長く記憶にとどめたい。

 今、政府は中東海域への自衛隊派遣の年内決定を目指している。
 米国が主導する「有志連合」への参加は見送ったものの、派遣の必要性や根拠に乏しい。
 米軍などの軍事行動と一体化していると見られる懸念は消えない。

 軍事的貢献に傾いていく今の姿を認めてしまってよいのか。
 中村さんの志を無駄にしないためにも、立ち止まって考えたい。


東京新聞・社説、2019年12月5日
中村哲さん死亡
憲法の理念を体現した

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019120502000166.html

現地で活動を続けさせたもの

ー 私が小学生の頃、いわゆる「イラク戦争」(2003年〜)が始まり、それをニュースで見て初めて「中東」という世界を意識しました。それでも、やはり自分とはすごく遠いところというイメージがありました。中村哲さんがパキスタン、アフガニスタンという土地に行かれたきっかけとは、どういうものだったのでしょうか?

中村: いきさつですか。あまり大した理由はないんですよ。私は1978年、ヒンズークッシュ遠征隊の山岳隊員として現地に行きました。山や昆虫に興味があったのです。それが初めてでしたが、何年かして、たまたまそこで働いてくれないかという話があって、喜んで乗ったのです。山登りがきっかけで、あの地域が気に入ったということです。その時は「人道支援」なんて大きなことは考えていなかった。1983年当時発足した「ハンセン病コントロール計画」への協力が主な任務でした。初めはあそこで働いてみたいという単純な動機でしたが、次から次へといろんな出来事があって、帰るに帰られず、つい活動が長くなってしまったのです。

ー 帰りたいと思うことはありませんでしたか。

中村:もちろんあります。5人の子どもがいて、その教育のことや生活もある。そういうことを考えると帰りたいと思うのが人情で、何度もあります。しかしその都度、帰れない事情が発生して長くなっていったのです。

ー そこで困っている人を見つけたということですか?

中村:困っている人ならどこでも居ます。それだけではありません。こうした活動は、続けたいと思っても、出来ない場合の方が多い。自分の生活が成り立たない、資金がない、周囲が反対する、協力者がいないとか、色々な事情で続けられないのです。自分の場合、恵まれているのか、損しているのかは別として、そうした条件が揃っていました。だからこそ、続けられたのです。気持ち一つで何もかもが決まる訳ではありません。似たような思いを持って、それが果たせずに過ごしている人は沢山いると思います。

ー そうだったんですね。中村さんの本や、講演を聞いて感銘を受けて来たことは「ハンセン病」といった病気を個別に治すだけでは根本的なことは変えることができないということで、ならばその場で生きる条件を整えるために、水路を作るようになったということです。

中村: いや、ハンセン病治療だけでも十分意味はあります。問題になったのは、飢餓が蔓延する中、赤痢やコレラなどの腸管感染症による小児の死亡です。医療関係者なら、行けばわかります。日本のように恵まれた診療は、逆立ちしてもできない。ものがない、お金がない、電気がない、ないないづくしで極貧の状態です。限られた資金で効果を上げようとすれば、病気にかからないようにする方が早いのです。

向こう側に立って見る

ー 少量の高価な薬での診療よりも、井戸や水路を作り、綺麗な水の確保を選択した理由は何だったのですか?

中村: 現地は感染症で亡くなるケースが非常に多い。子供の死因の6・7割はおそらく感染症です。そして、その背後に栄養失調による抵抗力の低下がある。要するに餓死です。殆どが自給自足の農民ですから、水がないということは、食べ物が作れず、飢餓を意味します。綺麗な飲み水と農業用水を確保するだけでも、かなりの人が助かります。

ー それまで砂漠だったところが、中村さんたちが水路を作った後に緑地、森と言っていいような木があって、水がさわさわと流れている。その経過を写した写真を見た時には講演会でもどよめきが起きていました。あの水路は、中村さんの故郷、九州の筑後川で水を治めるために使われている山田堰の技術を用いていらっしゃるそうですね。近代的な機械を用いてコンクリートで固めて水路を作るのではなく、柳の木を用いるような日本の江戸時代頃からの古い技術を使おうと思われたきっかけを知りたいです。

中村: コンクリートが決して悪いわけではありません。現地の人の立場をよく理解することです。日本と異なり、行政を頼りにできない自治社会です。水利施設の管理も自分たちでやります。使うのも現地の人々だし、維持するのも現地の人たちです。日本だと、この種の土木工事は国家の手にゆだねられています。豊富な財政と最新の技術で施工され、住民が直接関与することはありません。それを我々は普通と思っている。しかしアフガニスタンにはその国家組織が実質的にありません。しかも収入が極端に少ない。それに対して実情に合ったアプローチをしなければ、助けにならないということです。それがこうした伝統的な技術でした。「国際支援」一般に足りないものは、この現地から見る視点です。おそらく医療でもそうですし、農業、灌漑でもそうです。

ー 支援の後でも、そこにいる人たちが自分たちで使えて、自分たちで管理できるようにしなくてはならないということですね。

中村: そうです。日本にいると、自分たちの社会システムが当然で、全世界にあって当然だという錯覚を持ちやすい。しかしそうではない世界もある。また、そうした「遅れている・進んでいる」とか、「技術が高い・低い」という考え方もおかしい。それはそれぞれの地域と時代でずいぶん違うと思います。一般に日本人や欧米人の考えは、自分たちの生活が進んでいて、他を見るときに「かわいそうに、遅れて」と考えがちです。

ー そうなると「〜支援」というのも、ある種の押し付けになってしまって、実際にそこにいる人の生活と、かけ離れたような支援になっている構造になってしまう。

中村: 以前、国連の団体がトイレを作る運動していたことがありました。動機は決して悪い訳じゃない。子どもの病気を減らしたい、だから清潔なトイレを備えて感染症を減らそうというのです。しかしそれが実際に現地で役立つかとなれば、別の話です。昔の日本のように、尿も便も貴重な肥料です。お金をかけてトイレを沢山作っても、業者が喜ぶだけで、人びとの間に広がりません。似たようなことが、他の支援でもあるんじゃないかと思います。

ー 的外れかもしれませんが、そうした視点には中村さんの山登りの経験が生きているのかと思いました。何もない場所や状況の中で、自分でどうにかする自立の精神のようなものが活きているのかなと、ふと思いました。

中村: それもあるかも知れませんが、「時代」に鍛えられました。物のない時代に育ち、工夫しないと欲しいものが手に入らなかった。それに今よりは寛容な環境でした。最近のように、あらゆることにお膳立てとマニュアルが整っている状態ではなかった。例えばJRのアナウンスです。「ホームと電車の間に隙間がありますから、小さいお子様連れの方は手をつないでお降りください」とか、当たり前のことをしゃべりすぎます。(笑)事故があると周囲から責められるので、対策を講じたという一応の実績を言葉で作る。その結果マニュアルがやたらに生産される。君たちはかわいそうにマニュアルだらけでしょう?(笑)昔はもうちょっと自由だった。「若気の至り」という言葉もあって、「若いもんは先があるから、少しの過ちくらいは・・・」で済んでいたことが、最近はマニュアルから外れると、寄ってたかって責める。等質であることが強制されるのです。そういう意味ではね、昔の方が自由にものを考える余地があったのかなと思います。

ー 私がちょうど大学四年生の時、就職するか、進学するかに迷っていた時期に、中村先生の講演会を中野でお聴きした時のことを思い出しました。その時、私と同じように就職に悩んでいるらしい人がこう質問していたんです。「自分は海外に行って、ボランティアをしたい。世界を見て回りたい」、「けれど、もし今行ってしまったら、もう生きていけないんじゃないかと、悩んでいます。」みたいな質問をしていました。すると中村さんがその時にも、「それではまず働いてみて『あ、こんなもんか』って思って、それでもやろうと思えばやればいいんじゃないの?昔は、『若気の至り』っていう言葉があってね…」という話をされていました。その言葉を聞いて、なんというか私はすごく救われたというか、「学問を続けてみよう」と思えたんです。

中村: 前もって決めすぎるんですね。個人の定めはそんな先まで分からないと思いますよ。そんなに先の先まで考えて決める必要はないと思いますね。

ー しかし、そういうお話をされながらも、ペシャワール会のアフガニスタンでの活動では、大干ばつが始まる中、水源を確保し、砂漠だった地を2020年までに緑地化するという、遠くまで先を見る「2020年の緑の大地計画」があります。

中村: あれは個人の心情や生き方を超える問題です。「意義を感じないから止める」では済まないのです。一度手をつけた時点で、否が応でも継続性が求められます。そうでなければ無責任で終わります。

ー 2000年ごろから現地で大干ばつが始まった後、水を確保するために2002年から計画され、着実に砂漠を緑地に変え、用水路を引くことで農地を作り15万人もの難民となった人々が帰還されたと聞きました。また2010年にはそこに生きる人々の拠り所となるようなモスクやマドラサ(イスラム社会の伝統的な寺子屋教育機関)を建てられたということも、本当にただただ凄いことだと思います。それでも中村さんの本を読むと、計画を進める上で数々の難所があったことも知りました。「計画を立てるのは、ものすごく簡単である。それをやり遂げるのは難しい」と言いながらも、それを実行する時の困難というのは、どういうものなのでしょう。

中村: まあ、色々ですね。最良の理解者は、中小企業の経営者でしょう。資金の調達から、そこで働く人の確保、そして当然のことながら現地が自分たちでやっていける工夫、人育てまで配慮します。理念だけでは皆生活できませんから、「その人たちがこの仕事で食べていける道」をつける事も考えます。

ー「食べていける」というのは。

中村: 生活できることです。話は日本ほどややこしくない。現地はほとんどが農民ですから、土地と水さえあれば確実に自活できる。お金がなくなったら、昔の「屯田兵制」でやれます。

我々の仕事は「平和運動」ではない

ー なるほど。そうした活動を聞くと、そこに生きる人々やその次の世代がしっかりと生きていける状況を作れば、そこに平和が訪れるのだと強く思います。ただ、今日本でアフガニスタンと聞いた時に、一般的に思い浮かぶのは悲しいことに、「テロリスト」といったような言葉です。しかし、なぜ「テロリスト」になってしまう人が出て来てしまうのか?という視点は欠けてしまっている気がします。

中村: 自分の命まで捨てるとは、よっぽど思い詰めた人達ですから、やはり、その人たちがどうしてそうなったかを見ないと、僕は片手落ちだと思います。

ー そこで生きられる状況や、自分の土地を耕し食べていけるという仕事があれば攻撃に向かうのではないという方向が見えてくるんじゃないかと思わされます。

中村: 三度の食事が得られること、自分のふるさとで家族仲良く暮らせること、この二つを叶えてやれば、戦はなくなると言います。私ではなくて、アフガニスタンの人びとの言葉です。十人が十人、口をそろえて。

ー なるほど。それを可能にすることこそが本当の「人道支援」なんだと思います。「安全保障」と言った時に、武力によって、もめごとが飛び火する前に叩き潰しておこうという発想に至りがちですが、本来の「安全保障」のあり方は、彼らは彼らで生きていけるようにする。私たちは、私たちで生きていけるようにする。そういうことなのではないかと、中村さんの活動を見ていて、思います。

中村: 全くその通りです。そういった上からの乱暴な目線が、この頃ますます強くなっている。以前からその傾向はありましたけれども、今ほどひどくなかった。「所かわれば品かわる。世の中広い。」くらいで済んでいました。現地の生活スタイルまで全部を変えないと、その人たちが幸せになれないというような傲慢さは、今より薄かった。山岳会でインドやパキスタンの僻地に行くと、全然自分と違う文化を持った人びとがいます。「世界は広い」という感想だけあり、政治宗教を語るのはタブーで、「郷に入っては郷に従え」というのが流儀でした。それぐらいで済んでいたわけですよ。女の人が顔を見せない習慣にしても、「なんか理由があるのだろう」「美人が多いせいで、男たちが妬くんじゃないか」とかね。(笑)ところが最近は、「被り物を取らないと彼女らは幸せにならない」と断定し、無理にやめさせようとする。「本人たちが嫌がるから、お節介はやめて下さい」と言いたくなります。

ー 今は自分と異なる他者を排除しよう、同化させようという方向が強くなって、「安全保障」とか言った言葉で使われてしまってると思うんですが、そうではない方向性もきっとあるはずで、それを中村さんやペシャワール会の方々が実践されていると思います。

中村: 私たちの仕事は「平和運動」ではありません。もっと日常の差し迫ったものです。医療の続きで、いわば救命活動です。しかし、結果として平和に通じるものはあると思います。

インスタントになるほど分からなくなる

ー お話を聞いてて思ったのですが、中村さんは、相手に合わせるというか、あくまで現地の環境や文化を尊重した上で付き合って内側から見ようとするということをとても大切にされています。そういう知恵は、どこで得られたのでしょうか。

中村: それは自分も分かりません。少し話がそれますが、気になることがある。日本人は、ますます性急で気が短くなっている。これも他者の理解を阻んでいる理由の一つではないかと感じています。最近の通信・交通手段の発達に支えられ、どこでも、いつでも、さっと行ける。より早く、より大量に輸送できる。昔は、そうでもなかった。私が最初に山岳会に参加した時は、福岡からパキスタンのカラチまで船か飛行機かでした。船で行けば、一か月以上かかる。そこから陸揚げして、山のふもとに着くまでにまた一か月かかる。登山活動は、三か月か四か月。だから全部で最低半年ぐらい掛けて、登山に行ったんです。しかし、今のトレッキングツアーは、「ヒマラヤ一週間コース」だとかになっている。(笑)そうやってインスタントになればなるほど、現地理解が浅くなりやすい。分かったつもりの分だけ、分からないよりも害が大きい。幸いというべきか、僕の場合は、社会全体がテンポの遅い時代からの関わりだったので、現地事情にじっくり触れやすかったと思います。

日本という国

ー 現地で活動する時に、「日本人であること」を意識することっていうのはあるんでしょうか?

中村: ありますね。本当に驚きでした。パキスタンやアフガニスタンは親日家が非常に多かった。普通の欧米人が来ても、門前払いを食らわすのに、日本人というだけで態度が変わるのです。当然、日本人というだけで何故?という疑問が湧いてきます。やはり意識せざるを得ない。

ー 何故なんでしょうか。

中村: 一つは敵の敵に対する親近感です。日露戦争や太平洋戦争など、欧米と干戈を交えた(戦争した)のはアジアの中で日本だけだった。彼らはイギリスの支配に随分苦しめられた時代があって、日本という国に親近感を抱くようになった。日露戦争もそうです。アフガニスタンの場合は、1800年代後半、南下するロシアと北上する英国、その狭間の中で生き抜いてきたという国際環境が日本と似ています。アフガニスタンは険しい山岳という自然条件、日本は極東という遠距離によって、かろうじて独立を維持してきた。英国とは三回も戦争して撃退しています。もう一つは、「ヒロシマ・ナガサキ」を必ず連想するそうです。その悲劇に対する同情、そして戦後廃墟の中から復興した「平和国家・日本」は称賛の的でした。

ー なるほど。僕はエジプトやヨルダンといった中東の国々に行った時に「日本人」であると言った時に本当に優しく接してもらったことがしばしばで、とても驚いたことがありました。ある時、何故なのかと聞いてみると、電化製品や車、そしてアニメといった文化からの親近感などもあったのですが「日本人は一度もアラブの仲間を武力で傷つけたことがないからだ」と言ってことを思い出しました。それを聞いてとても嬉しかったんですけれど、最近のニュースを見ている時に、胸が痛むんです。安保法案が通り、これから中東という地域に日本人が傷つけに行かざるを得ないかもしれない状況が起きてしまった時に、彼らにどういう風に話ができるのかなと思ってしまう。「イラク戦争」で自衛隊派遣で揺れていた2004年頃の中村さんのインタビューでは、「あの大きかった親日感情も翳りを見せている」とおっしゃっていました。では2016年になった今、現地での日本への感情はどのように変わってきているんでしょうか。

中村: うん、前ほどは芳しくないですね。ただ、古い世代がまだ生きている。強い好感を持ってくれていた世代です。しかしもう新しい世代になると、欧米の一員くらいにしか見ない者が増えています。ただ、アフガニスタンには軍服を着た日本の兵隊は来なかった、そのことは大きかった。日本だけは違うんだ。至らない点は多々あるにしても、民生支援を中心にやっているんだ。という意識はまだ強いです。

ー なるほど。そこに来た人というのは、軍人ではなく支援をしてくれた人だったと。

中村: 軍隊をくり出して人を殺めなかったことは、非常に大きかったのです。誤解から親日感情が湧いたにしても、その感情を踏みにじらなかったことが、好印象を与えたのでしょう。

ー 日本という国が、色々あるけれども、武力は行使しない国であることを現地の人は知っているということですね。

中村: うん。敏感ですよ。自分たちはどちらかというと、作業員の人々と接する中で、下々と言っては失礼ですけれども、社会の大部分を占める底辺の階層がそう見ている。それは感じます。

ー 日本にはルールというか、憲法で武力は使わないと決められているということを、なんとなくは知っているということでしょうか。

中村: 彼らは憲法9条のことなんか知らないですよ。ただ、そういう国是があるのだとは感じていると思います。

ー それが今もしかしたら、変化してしまうかもしれないことは知っているんでしょうか。

中村: 漠然とは感じているでしょう。現地の人びとは日本人以上に国際情勢に関心が強い。BBCニュースを聞くのは日常です。去年日本人がシリアで捕まりましたよね。あんなニュースもすぐ作業現場で話題になります。

ー なるほど。日本の状況はBBCといったニュースを介して、よく知られているということなんですね。


[写真-1]
ペシャワール会ホームページ 現地報告写真展〜人・水・命 30年のあゆみ〜より

[写真-2]
2010年3月、ガンベリ砂漠が、いまでは全長約25キロメートルの用水路として、1万6,500ヘクタールの緑の大地に生まれ変わった。これによって65万人もの難民たちが用水路の流域に帰農し、定住するようになった。ここで稲や麦、イモやオレンジが収穫されている

[写真-3]
山田堰の技術、柳で作った蛇籠で護岸した用水路。17万本以上の柳を植樹している。ペシャワール会ホームページ 中村医師報告書「ここにこそ動かぬ平和がある」より

INTERVIEW、May.03.2017
ペシャワール会 中村哲医師に聞く(前編)。
共に生きるための憲法と人道支援
(2016年6月22日 収録)

(インタビュー・記事構成:神宮司博基、是恒香琳。写真:七田人比古)
http://sealdspost.com/archives/5388

posted by fom_club at 09:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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