2019年11月30日

「国労が崩壊すれば、総評も崩壊する」「土人女を集め慰安所開設」

 2019年11月29日に101歳で死去した中曽根康弘元首相が取り組んだ政策の一つが国鉄の分割民営化だった。
 1987年にJRが誕生した際、国鉄労働組合(国労)の組合員らはJR各社から不採用とされ、1990年に国鉄清算事業団も解雇された。
 当事者は、中曽根氏の死去に何を思うのか。

「国労所属による採用差別があった」として、約20年にわたり職場復帰を訴え続けた神宮義秋・元国労闘争団全国連絡会議議長(71)は29日正午、母の介護を終え、福岡の自宅に戻る車中、ラジオで中曽根氏の死去を知った。

あの人にはやられっぱなしだったけれど、生前の憲法改悪だけはさせんかった

 神宮さんにとって、国鉄改革は「国の形」を変える壮大な仕掛けの原点だったと映る。雑誌に載った中曽根氏の発言が忘れられない。

国労が崩壊すれば、総評(日本労働組合総評議会)も崩壊するということを明確に意識してやった

総評、社会党をつぶして改憲へという大戦略を描いていたことが分かる。そのために、最強の戦闘力を誇った国労を狙い撃ちした
と神宮さんは考える。

 国の形の一つとして、労使関係も変わった。
 労使協調が社会の主流になった。
 その端緒も国鉄改革だったように思う。

国策に徹底的に反対した国労への視線は、労働界でも『やりすぎ』と冷ややかだった。その後の郵政改革、省庁再編などで官公労はおしなべて沈黙。国労つぶしの見せしめ効果は絶大だった
と振り返った。


[写真]
東京のJR東日本本社前で行われた清算事業団職員に対する解雇に抗議する国労の抗議デモ。国労組合員ら約JR2000人が出て、すわり込みの抗議行動を行った=1990年、東京都千代田区

朝日新聞、2019年11月29日16時38分
中曽根氏の国鉄改革、「国労つぶしと改憲」
当事者はいま

(藤生明)
https://digital.asahi.com/articles/ASMCY535FMCYULZU00B.html

 中曽根康弘元首相が、101歳で死去した。
 メディアでは、国鉄民営化や日米安保体制強化などを功績として振り返っているが、負の側面も非常に大きい政治家ある。

 たとえば、現在の日本社会にもつながる右傾化・歴史修正主義の台頭や新自由主義路線の端緒となり、日本の戦後民主主義政治を歪めた張本人だ。
 こうした功罪の罪の部分も検証されるべきだが、なかでも本人が一度は告白しながら途中からダンマリを貫いたこの問題はきっちり検証するべきだろう。

 そう、日本軍の従軍慰安婦問題だ。

 中曽根元首相が戦時中、海軍主計士官(将校)の地位にあったことは有名だが、その当時、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたことを、戦後に自分の“手記”の中で自ら書いているのだ。

 しかも、これは中曽根元首相の思い違いでも妄想でもない。
 防衛省にも中曽根元首相の“慰安所づくり”証言を裏付ける戦時資料が存在している。

 本サイトでは、2014年夏、朝日新聞の慰安婦記事バッシングが盛り上がり勢いづいた右派の、慰安婦の存在や日本軍の関与までなかったことにしようという歴史修正主義の動きに抵抗するため、この中曽根“慰安所づくり”証言とそれを裏付ける戦時資料について詳しく報じた。
(ちなみに、フジ産経グループの総帥だった鹿内信隆にも中曽根元首相と同様に、慰安所づくりへの関与発言があり、やはり本サイトが記事にしている
https://lite-ra.com/2014/09/post-440.html)。

 中曽根元首相の証言は、従軍慰安婦に日本軍が組織的に関与していたことを物語る重大な証言だったが、手記出版から30年ほど経ってからこの記述がクローズアップされると、中曽根元首相は一転否定、その後ダンマリを通してきた。

 中曽根元首相には、従軍慰安婦問題とりわけ日本軍の関与について、自らの口で明らかにする歴史的責任があったはずだが、それはかなわなくなってしまった。

 中曽根“慰安所づくり”証言とそれを裏付ける戦時資料から、従軍慰安婦の存在と日本軍関与が事実であることを報じた記事を再録する。
「慰安婦は存在しなかった」というデマが大手を振って罷り通るいま、あらためてご一読いただきたい。
(編集部)

************

● 中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が

 朝日新聞の慰安婦訂正記事で右派陣営が勢いづいている。
「朝日は責任をとれ!」と気勢をあげているのはもちろん、自民党の政務調査会議は河野談話も朝日報道が前提だとして「河野談話を撤回し、新たな官房長官談話を!」とぶちあげた。
 また、同党の議連では朝日新聞関係者、さらに当時の河野洋平元官房長を国会に招致して聴取すべき、という意見までとび出している。
 
 だが、朝日や河野洋平氏を聴取するなら、もっと先に国会に呼ぶべき人物がいる。
 それは第71代日本国内閣総理大臣の中曽根康弘だ。
 
 大勲位まで受章した元首相をなぜ従軍慰安婦問題で審訊しなければならないのか。
 それは先の大戦で海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたからだ。

中曽根が手記で「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と自慢

 何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。
 中曽根元首相は自分の“手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。
 そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。

主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設

 まず、“手記”の話からいこう。
 中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。
 同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。

 タイトルは「23歳で3000人の総指揮官」。
 当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。
3000人からの大部隊だ。
 やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。
 そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。
 かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。
 卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。
 そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである

 おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。
 その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。

 ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。
 2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。

防衛省に、中曽根「慰安所づくり」証言を裏付ける客観的証拠が!

 このとき、中曽根元首相は、
「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」
「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」
「具体的なことは知らない」
と完全否定している。

 だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。
 そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の“手記”のほうがデタラメということになってしまう。
 だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。

 いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。 

 国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。

 資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。
 第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。
 同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
 
 本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。

 宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。
 すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。
 そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。
 バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約2ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる
 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり

 さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。

インドネシアで民家だった場所を、日本軍が接収し慰安所に作り変え!

 それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日〜同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。
 バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。

 そして2つの地図を見比べてみると、“ある変化”があることに気づく。
「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。
 さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。

 つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。 

 もはや言い逃れのしようはないだろう。
「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」
「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」
という記載。
 それを裏付ける地図。
 中曽根元首相が自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。

 しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。

 実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。
 そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。
 
 つまり、中曽根首相がこうした“強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。

 朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。
 さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。

 しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。
 一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。


[写真]
左・中曽根元首相の“手記”が収録されている『終りなき海軍』(文化放送開発センター)/
右・中曽根元首相が慰安所を設置させたことを示す資料


リテラ、2019.11.29 07:39
中曽根康弘死去であらためて振り返る従軍慰安婦
中曽根の「慰安所つくった」証言と「土人女を集め慰安所開設」防衛省文書

(エンジョウトオル)
https://lite-ra.com/2019/11/post-5119.html

posted by fom_club at 18:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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