2019年11月30日

国鉄改革に政治生命をかけた中曽根康弘

 国鉄が解体し、7社のJRが発足して30年。
 株式上場を機に、脱テツドウにシフトする会社があれば、お先真っ暗な未来にアタマを抱える会社あり。現在のリストラなど働く人たちの労働環境悪化は、国鉄解体に原点があるとの指摘も。
「電車の進化」などさまざまな切り口で30年を検証していく。
 AERA4月10日号では「国鉄とJR」を大特集。

 国鉄解体前夜、何があったのか。
 国鉄OBたちの証言をもとに、鉄道員の人生を翻弄したその実態に迫る。

* * *

 国鉄という組織ほど、政治に翻弄(ほんろう)された公営企業はなかった。

 戦前は鉄道省に属し、終戦直前に新設の運輸省鉄道総局に移管された国鉄。
 1949年6月に公共企業体としてスタートし、高度経済成長で輸送力を飛躍的に伸ばした。
 だが、自動車と航空機の時代の到来で、1964年には赤字に転落。
 借金漬けの構造から抜け出せぬまま、問題を先送りするだけの再建計画が繰り返し作られた。
 組織内の危機感は薄かった。

 国鉄当局は1970年、生産性向上運動、いわゆる「マル生運動」を導入する。
 労使が協調し経営を立て直すものだったが、当局側が現場管理職を通じ、組合脱退を強要していた事実が明るみに出る。
 翌1971年10月、磯崎叡総裁(当時)が不当労働行為を認めて陳謝すると、現場の力関係は組合側に大きく傾いた。

 国鉄時代、東京南鉄道管理局人事課に勤めていた丸山祐樹さん(70)=交通道徳協会理事=は、連日のように各労働組合と団体交渉をしていたと振り返る。

「徹夜交渉はしょっちゅう。やるかやられるかの世界でした」

● 闘う労組は国労だけ

 当時国鉄には、主要組合として国鉄労働組合(国労、組合員約24万人)、国鉄動力車労働組合(動労、約4万3千人)、鉄道労働組合(鉄労、約4万3千人)の三つがあった。
 このうち国労と動労は総評(社会党)系で分割民営化に反対、鉄労は同盟(民社党)系で労使協調路線。
 しかし1986年1月、「鬼の動労」の異名をとった動労が突然、雇用確保と組織温存のため民営化賛成へと方針を転換。
 動労は「牙が抜けた」と評され、「闘う組合」は、国労だけとなった。
 反対姿勢を貫く国労によって、職場の規律は崩壊した。
 首都圏の貨物職場で働いていた国鉄OB(60代)は言う。

「70年代半ばごろにはトラック輸送に押され貨物の仕事が減ってきました。半面、勤務時間内の作業手待ち時間が増えてきたので、国労の職員たちが何を始めたかというと、チンチロリンとかマージャン。お金はもちろん賭けていた」

 国鉄で在来線の運転士をしていたJR職員(50代)も、勤務時間中に飲酒をしていた運転士を目撃している。
 たがが外れ、現場に悪慣行がはびこっていた。
 この点について、現在も約1万人の組合員を抱える国労はこうコメントを寄せた。

「中には『好ましからざる行為』を行っていた職員もいたことは事実です。しかし、一部国鉄職員の行為があたかも国鉄職員全体の行為であるかのように恣意的にゆがめられ、悪意に満ちた喧伝や報道が行われたことが異常でした」
(国労本部書記長の唐澤武臣さん)

● クビ切りは組合で選ぶ

 そこに国鉄の不祥事が追い打ちをかけた。
 ヤミ手当の受給に、機関士の酒気帯び運転……。
 マスコミは国鉄の批判キャンペーンを展開。
 分割民営化に世論もなびいた。
 一方、国鉄では毎年1兆円の赤字が出て、出血が止まらない。
 こうして国鉄はついに解体されることになった。

 誰を国鉄に残し、誰に転職を促すか──。
 国鉄内で「選別」が始まり、水面下で「リスト」作りが行われた。

 民営化前、関西で列車乗務の仕事をしていた男性は、「50歳以上は会社を辞めてほしい」と圧力をかけられた、と振り返る。
 彼は辞め、残った同僚もすぐにJRを去った。
 最近、その理由を教えてくれたという。

「乗務が終わって職場に戻ったら、上司になった後輩から『ぼちぼち辞めたらどうや』と毎日言われる。みじめやった、と振り返っていました」

 国鉄の内部事情に詳しい国鉄OB(60代)はこう証言した。

「社員を選別する際、その一つにどの労働組合に所属しているかが重要な要素だった」

 このOBによれば、管理部門の人事担当には「K、D、T」という隠語があったという。Kは国労、Dは動労、Tは鉄労の意。
 隠語は元々、駅長や助役など現場責任者や管理者が使っていた。
 組合への直接介入は、不当労働行為に当たるからだ。
 声に出して言えない時は、指で“影絵のキツネ”を作った。逆にすると「K」に見えた。

「分割民営化の1年くらい前から『〇〇はKだ』『△△はDだ』という言葉が人事担当者間で露骨に飛び交ってた。なぜ労働組合で選別するかって? それが一番分かりやすいからですよ」

 また別の国鉄OB(70代)はこう言った。

「優秀な社員と組合運動ばかりしている人だったら、どっちを残しますか」

● 総評つぶしが狙い

 国鉄改革は、何のための「改革」だったのか。

 首相として国鉄改革に政治生命をかけた中曽根康弘氏は、国鉄解体の狙いをかつて本誌でこう語った。

「総評を崩壊させようと思ったからね。国労が崩壊すれば、総評も崩壊するということを明確に意識してやったわけです」
(1996年12月30日号)


 ルポライターで、1986年に『国鉄処分』の著書を出した鎌田慧さん(78)は、国鉄解体の本質は
(1)民活(民間活力)
(2)国労つぶし
──この2点にあったと指摘する。

「『民活』という名で公共性をなくし、大企業が国鉄財産を乗っ取ることを考えた。そのためには、国労という最強の抵抗勢力であった労働組合が邪魔だった。そこで楔を打ち込み、壊滅を図ったのです」

 国鉄当局は1986年7月、全国に「人材活用センター」を設置。
 余剰人員と見なされた1万5千人の職員を送り込むと、草刈りやペンキ塗りなど本業とは関係のない仕事をさせた。
 センターは「首切りセンター」とも呼ばれ、将来への不安を抱いた職員が何人も自殺した。
 JRが発足すると、7628人を「清算事業団」に回し、3年後、最後までJR復帰を訴えた1047人のクビを切った。
 うち、国労組合員は966人を占めた。

 北海道名寄市の佐久間誠さん(62)は、JRに不採用となりクビを切られた一人だ。

「自分を全否定された気がしました」

 地元の高校を出て19歳で国鉄に入社、名寄保線区に配属となった。
 当時、鉄道の街と言われた名寄駅には140人近い職員がいた。
 全員が国労。
 佐久間さんも自然の成り行きで国労に入り、仕事を真面目にこなし、ごく普通の組合運動をしてきた。
 それが、理由も明らかにされず、1986年7月に「人材活用センター」に入れられ、結局、採用拒否にあった。

● 労働者の人権を軽視

 どうしても不採用に納得がいかず、1990年4月、同じくクビになった職場の仲間36人で名寄闘争団を組織した。
 慣れない建設現場で日雇いアルバイトなどをしながら生計を立てた。
 闘争団は各自の稼ぎや寄せられたカンパをプールし、再分配する仕組みを作った。
 月収は10万円程度。
 4歳と2歳の2人の子どもがいて生活は大変だったが、郵便局で働く妻が応援してくれた。

「こいつら赤旗を立てると言われ、アルバイト先を探すのも大変でした。この先どう生きていこうか、精神的に追い込まれていきました」

 それでも歯を食いしばって最後まで頑張れたのは、いわれなき差別に対する闘いでもあったからだ。
 JR不採用問題は2011年7月、国労が闘争終結を決定し、24年間に及んだ闘争に終止符を打った。
 2015年に名寄市議に初当選し、街の活性化と生活インフラの充実を訴える佐久間さんは、こう振り返った。

「失ったものは歳月だよね。労働者として一番の働き盛りに闘争の人生を歩んできたから」

 先の鎌田さんは言う。

「国鉄解体は、いまのリストラの原点。国鉄解体後、組合の力は弱くなり、働く者の生活や人権が顧みられなくなった。その結果、労働者のクビ切りが簡単に行われるようになった」

 鉄道員の人生をもてあそび、多くの犠牲から生まれたJR。
 今後どのような軌跡を描くのか。


※ AERA 2017年4月10日号

dot.asahi、2017.4.5 16:00
国鉄の解体はリストラの原点だ
(編集部・野村昌二)
https://dot.asahi.com/aera/2017040400051.html

posted by fom_club at 09:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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