2019年11月24日

みどりさん、「またね。」は淋しすぎるよ

 ほんの一ヶ月前、10月23日のこと。
 ぼくは、午後2時から燐光群の舞台『なにもおきない』(坂手洋二・作)を、梅ケ丘の小さな小屋で観た。その後、6時半から映画『i−新聞記者ドキュメント−』(森達也監督)の特別試写会に行く予定だった。
 飯田橋の試写会場は初めてだった。芝居が終わってすぐに向かったら、ずいぶん早く会場に到着してしまった。さすがにまだ人影がない。小腹がすいていたので、サンドイッチでも食べようかと、近所をブラブラしていたら、「あら、こんにちは」と声がした。木内みどりさんだった。
 「なんだか時間を読み違えて、こんなに早く着いちゃったあ、ふふ」と笑っていた。「じゃあ、その辺でお茶でもしますか」とぼく。
 近所にスターバックスがあったので、ふたりでサンドイッチとコーヒー。ぼくにはあまりに合わないメニューだけれど、木内さんが選んだのだ。ぼくがおごってあげた(笑)。
 「うわあ、嬉しい。やったあ!」と、木内さんは天真爛漫。
 1時間ばかり、ふたりでいろんな話をした。これからの仕事の予定、公開中の出演映画の話、最近力を入れている「小さなラジオ」の楽しさ。
 「その髪型、なんだか落合恵子さんに似てきてません?」
 「うんうん、これがいちばん楽なのよね。落合2号でいいわ」
 「やまんばルック。落合さんも、手間がかからず気持ちいい、とおっしゃっていましたけどね」
 「落合さんって偉いわよねえ。あれだけ一生懸命市民活動に力を入れ、一方でクレヨンハウスの経営も立派にやってらっしゃる。マネできないわ」
 「いやいや、木内さんだって、演技も市民活動も両立させてらっしゃるじゃないですか」……。
 そして、市民運動の面倒くささへの、ちょっとの不満まで。
 話は尽きなかったが、時間はすぐに経ってしまう。試写会が始まる時刻になって、席を立った。
 みどりさんとの、それが最後の会話となった。
 ぼくが木内みどりさんと知り合ったのはいつだったのだろう?
 記憶を探っても、このとき、という明確な時期は浮かんでこない。なんとなく、いつの間にか……というのがほんとうのところだ。
 もちろん、芸能活動での接点はない。だから、木内さんが反原発や憲法擁護などの活動に力を入れ始めてからのことであるのは間違いない。たびたび、デモや集会の現場で顔を合わせるようになったからだろう。
 多分、鎌田慧さんか佐高信さんあたりの紹介ではなかっただろうか。それとも、落合さんだったろうか。ともかく、出会うたびに挨拶を交わすようになったのだった。
 あるときぼくは、木内さんに「実は、ぼくは『マガジン9』っていうウェブマガジンに協力しているんです。そこでインタビューを受けてくれませんか」とお願いした。木内さんは「えっ、ほんと? 私なんかでいいの?」と、たいそう喜んでくれた。
 それが、2014年6月11日の「マガ9」に載った。「『脱原発』のため、私がやれることは何でもやる」とのタイトルで、淡々と、でもとても真剣に「脱原発」についての想いを語ってくれたのだった。
 その際、「お話はとても素晴らしかったです。その想いを、今度は文章で書いてもらえませんか」と、厚かましくもお願いしてみた。お忙しいのだから、とてもムリだろうとは思っていたが、ダメモトで頼んでみたのだ。
 「うわっ、嬉しい。文章をかくのって苦手だけれど、いいのかしら、私なんかで?」と、快諾してくださったのだ。
 それで「マガ9」に、『木内みどりの「発熱中!」』というコラムが始まった。その第1回は、2014年9月3日掲載の『9月1日はわたしにとって特別な日。』である。
 ほんとうに、芸能界という色(そんなものがあるとしたら)には、まったく染まっていない方だった。
 実はぼくは、数十年前の話だが、月刊「明星」という、これぞ芸能界!というような雑誌の編集者をしていた。だから、当時の芸能界の雰囲気というものを、かなり知っている。ある意味で、常識の通じない(常識外れの)ことが罷り通る世界であることも知悉していた。
 テレビと芸能事務所がすべてを支配する世界。その中で、政治的意見をはっきり言うことなど(ときの権力者にすり寄る意見は別として)、自分の芸能人としての生命を縮めてしまうことでしかない。多分、それは当時より強まりこそすれ、弱くなっているとは到底思えない。
 そんな中で、政府の重点的な施策である「原発推進」に真っ向から抵抗して反原発集会で司会をこなし、自ら立ち上げた「小さなラジオ」でも、小出裕章さんを呼んで、反原発の旗を掲げ続ける。ぼくは、そんなみどりさんが大好きだった。
 我が「マガジン9」の事務局長だった塚田ひさこが、ある日突然「豊島区議選に立候補する」と宣言して、マガ9編集部をパニックに陥れたときも、みどりさんは塚田応援の先頭に立ち、数日間、塚田と一緒に選挙区内を練り歩いてくれたのだ(*)。
 そんなみどりさんだから、「マガ9」も、みんながみどりさんファンだったのだ。それが……。
 ぼくがみどりさんの急逝を知ったのは、ツイッター上でだった。何気なく開いたツイッター上に「水野木内みどり」といういつもの名前で、思いもかけぬ文章が載っていたのだ。

〈木内みどりが、2019年11月18日、急性心臓死により永眠いたしました。生前の本人の希望通り通常の通夜・告別式は行わず、家族のみでお別れをいたしましたことをご報告いたします。これまで応援してくださいました皆様、またお世話になりました皆様へ謹んで御礼を申し上げます。〉

 最初は悪い冗談かと思った。だって、あんなにもお元気だったみどりさんが、それも「ヒロシマの反戦・反核を訴える表現者の企画展」の準備のための広島滞在中に亡くなったというのだ。
 そのツイートを見たとき、ぼくは思わず「ウソだっ」と声をあげていた。それほど、信じられなかった。
 でも、事実だった。
 「水野木内みどり」のツイートには、薄青いゆったりした服を着て、楽しそうに両手を伸ばした写真が添付されていた。
 そして「またね。」と。

 みどりさん、「またね。」はないよ。
 淋しすぎるじゃないか……。


マガジン9、2019年11月22日
臨時便:
みどりさん、「またね。」は淋しすぎるよ……
(鈴木耕)
https://maga9.jp/191122-1/

(*)塚田ひさこ(豊島区区議会議員、豊島・生活者ネットワーク)

 誰もが目と耳を疑った、突然の木内みどりさんとのお別れ。私もしばらく事態がのみこめずにいましたが、それでも20日の夜、お連れ合いの水野誠一さんがFBに投稿されていたのを読んで、ああ、本当に木内さんは一人で旅立たれてしまったのだと、今はただ喪失感の中にあります。
 木内みどりさんとは、マガジン9のボスこと、マガ9代表の鈴木力からの紹介で、マガ9のインタビュー「この人に会いたい」に登場してくれたことがきっかけで出会いました。
 私の世代としては、「木内みどり」といえばテレビドラマでもおなじみの演技派大女優として、また「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」のレギュラーとして、まさに「芸能界のどまん中にいる方」でした。3.11をきっかけに、脱原発に関する発言を公で始められてはいましたが……。
 そんな木内さんが、インタビューのためにマガジン9の事務所に来てくださることに。どうやっていらっしゃるのか、マネージャーさんもいるのかな、と思っていたら、お一人でふらりと、いらっしゃいました。えっ、大女優なのにと思っていたら、「私はいつも一人で行動しているのよ」と。
 最初はそーっと様子を伺っている感じでしたが、事務所の雰囲気をとても気に入ってくださったようで、新宿御苑が見下ろせるベランダに出ては写真を撮ったり、そこで急にツイキャス TwitCasting を始めたり。デザイナーやスタッフともフランクに会話をかわし、長い時間滞在してくださったのを、よく覚えています。
 それからマガジン9に「木内みどりの『発熱中!』」という連載コラムを持っていただくことになり、担当編集者としてやりとりをさせてもらっていました。ウェブは、わりとフレキシブルに対応ができるメディアですが、それでも「マガ9」は週に一度の更新と決めているので、木内さんからしたら、少し窮屈だったかもしれないな、と今、反省をしています。
 その後、木内さんの社会問題への関心は、脱原発や戦争のことだけでなく、「安倍政権ノー」や、れいわ新選組をはじめとする新しい政治スタイルなどへも広がっていきました。ご自身のFBやtwitter、また「木内みどりの小さなラジオ」という 「声のメディア」も作られて、積極的に発信をなさっていました。「小さなラジオ」は、入り口を今も、マガジン9のトップページに置いています。
 でも、何といっても私にとって、木内みどりさんの底力、まさにプロフェッショナルとはこういうことだという有り様や人に対しての優しさ、時に見せる女優としての気迫などを間近に見ることができたのは、この2019年4月に私が豊島区議会選挙に出馬をした際に応援にかけつけてくれたときのことでした。
 マガジン9の編集・事務局長をやっていた私が、なぜ政治の世界へ、という経緯は、こちら http://tsukada.seikatsusha.me/philosophy/ になりますが、立候補を決めたご報告をメールで伝えると、「勇気ある決断でうれしい」と。そして、私でできることは何でもしますとの言葉を添えて、返事をいただきました。
 木内さんの「私でできることは何でもします」は本当に嘘偽りのない言葉だということは、それまでのお付き合いの中でわかっていましたが、ここまでやってくださるとは、と驚くと同時に背筋の伸びることばかりでした。
 選挙戦の中では、池袋駅西口広場でマイクを握り、巣鴨の地蔵通りでも、のぼり旗のもと一緒に練り歩いてくれました。選挙カーにも乗り込み、最終日にはマイク納めギリギリの時間まで、私のことを「よろしく」と、通りを行く人たちに呼びかけていました。

「私は、女優の木内みどりです。なぜこの私が、塚田ひさこさんを応援しているかと言えば、彼女にはしがらみがないからです。まったくしがらみのない人を政治の世界におくりたい。彼女は自分の仕事や人生をいったん横において、大変な世界に飛び込む決意をした。みなさん、どうか自分の頭で政治や選挙のことを、考えてくださいね。そして投票に行ってくださいね。落選させるわけにはいかないんですよ」

 ひとときも時間を無駄にしないで、誰かのもとへ走っていっては、一人ひとりの目を見て真剣に語りかけていく。
 なぜ、こんなにも彼女は人のために、がんばる人なのか。
 選挙戦最終日の20時にマイク納めをして、選挙事務所にもどり一息ついてから、私は木内さんと駅まで二人だけで一緒に歩いて帰りました。私はその時、「やりきった」というより、もろもろの状況から「何もできなかった。結果も悪いものだろう」という不安が強くなっていて、誰に対してというわけではなく、たぶん自分に対して腹を立てていました。彼女はそんな私の様子を見て、さまざまな現場を見て歩いてきた人生の先輩として、アドバイスをしてくれました。

「どんなひどい状況におかれても、その状態を俯瞰して楽しむことよ」

 結果として、思いのほか上位当選を果たし、この春から区議会議員としての活動を始めました。
 豊島区の有権者から貴重な1票を託されいただいた機会ですから、精一杯、全力でやっています。しかし、またしても右を見ても左を見ても、茨の道は続いています。生活や仕事といった個人的なことだけでなく、今の日本社会のこの体たらくはどうなのか。世界規模でみても、絶望したくなることばかり。でも…。

「おもねるな、自分らしくやれ、負けるな、でも楽しんで!」

 愚痴っていたら、そんな木内さんの言葉が飛んできそうです。
 たくさんの木内さんからもらった言葉を今、噛み締めながら、ああ、木内さんに会ってまた相談したい。
 なのに、いない、ということに気がつき、大きな悲しみがまた襲ってくるのです。


マガジン9、2019年11月22日
木内みどりさんのこと
(塚田ひさこ)
https://maga9.jp/191122-2/

posted by fom_club at 06:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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