2019年10月19日

仁平典宏

 2018年9月中旬から、東京五輪・パラリンピック(以下、東京五輪)で運営に関わる「大会ボランティア」が募集される。
 これに先立ち、街や交通の案内を行う「都市ボランティア」が各自治体によってすでに募集されている。
 大会ボランティアが8万人、都市ボランティアが3万人という大規模な人数である。

 一方で、求められる大会ボランティア像が明らかになってから、批判の声も高まってきた。
 外国語能力や高いコミュニケーション能力をもち、1日8時間で10日間以上働ける人といった条件に対し、無償で交通費や宿泊費も出さないのは、まさに日本的なタダ働きブラック労働やりがい搾取ではないかというものである。

 これに対して推進側も、大会組織委員会の幹部みずから国際スポーツ大会でボランティアをして見せたり、近郊交通費相当分の物品を支給することを決めたり、右往左往している。

 おそらく今後も同じようなボランティア批判が盛り上がるだろう。しかしタダ働きという批判はどこまで有効なのか。論点を整理しておきたい。

ボランティア大量導入はこうして始まった

 五輪ボランティアを「搾取」と見る議論が支持されるのは、最近のブラック労働に対する批判が広がったことの表れでもあり、その意味で正常なことである。
 だが、それが日本特有かどうかは議論の余地がある。
 というのも近年の五輪では毎回多くのボランティアが活用されてきたからだ。

 夏の五輪の大会ボランティアの概数は、ロサンゼルス五輪5万人(1984年)、ソウル五輪2万7千人(1988年)、バルセロナ五輪3万人(1992年)、アトランタ五輪4.2万人(1996年)、シドニー五輪4万人(2000年)、アテネ五輪4.5万人(2004年)、北京五輪7.5万人(2008年)、ロンドン五輪7万人(2012年)、リオデジャネイロ五輪5万人(2016年)と言われる(報道や数え方によってバラツキはあるが)。

 基本的に無償で交通費・旅費が自己負担という条件も大差ない。

 専門性のある人をタダ働きさせるのも似たり寄ったりで、例えばロンドン五輪では7万人のうち5000人が医療スタッフである。
 このときはイギリスの保健省が、看護師がオリンピックのボランティアに参加できるよう有給休暇を取らせるように雇用者に求めていた。
 オリンピックという枠組み自体に「タダ働き」が組み込まれているのだ。

 オリンピックでボランティアを大量に使うようになったのはロサンゼルス五輪以降だ。
 ゴリゴリの新自由主義者レーガン大統領のもとで五輪の民営化が進められ、一気に商業主義化した記念すべき(?)大会でもある。
 ボランティアによって人件費を削ったこともあって黒字となり、五輪は儲かるという認識を広げることになる。

 ところが、味をしめたアメリカは次の1996年のアトランタ五輪で大失敗する。
 やはり運営をボランティアに依存する完全民営だったが、ボランティアが途中で多く辞めたり、バス運行システムが破綻するなど大混乱が起こった。
 さらに警備もボランティア頼りだったことがテロを許してしまい、2人の死者を出すという最悪の事態を招いた。

「民度の高い国民が支える大会」という物語

 アトランタ五輪の失敗を受けて、国際オリンピック委員会(IOC)は五輪の運営に行政の関与を求めるようになった。
 今はボランティアの募集、選考、研修を公的機関が一定のコストをかけて行う。
 ボランティアの研修不足が懸念された大会(アトランタ五輪やシドニー五輪など)では多くの問題が起きてしまった。

 ボランティアに支払うお金がかからないとしても、彼ら・彼女らが円滑に働けるようにするためには、責任を持って十分なお金と時間をかけて環境を整えなければならない。
 その意味では「安上がり」では決してない。

 だから五輪の支出を抑えるためには、ボランティアを多く使うのではなく、逆に数を減らすのが普通だ。
 リオデジャネイロや平昌の大会がそれに該当する。
 この意味で東京五輪はコンパクトな五輪という理念から逆行している。
 IOCは東京五輪のコスト削減のために、ボランティア数を見直すことを求めているが、これは数が過剰だとIOCが見ているということでもある。

 それにもかかわらず国がボランティアの多さにこだわるのは、「民度の高い国民が自発的に支える大会」という物語を求めるからだろう。
 例えば北京五輪は、過去最多の大会ボランティア7.5万人に加え、都市ボランティアを実に40万人以上動員し、「ボランティアが多すぎて逆に邪魔」という欧米メディアの揶揄もどこ吹く風で、大国らしさを演出してみせた。

 東京五輪では早い時期から大会ボランティア8万人という数字を掲げてきたが、「過去最多」という称号を手にしたいからのようにも思える。

 しかし五輪は、民度の高い国民の見本市ではない。
 そもそも普通は海外からも多くの応募ある。
 五輪の理念に共感したり、単に異国で様々な国の人と「祭り」を楽しみたいといった理由からだ。
 アテネ五輪のときは、12万人の応募のうち4万人が海外からの申し込みだった。

 東京五輪では、ボランティアを「おもてなし=日本の伝統」という枠に閉じ込めたいようだが、それがいかに内向きな議論かわかる。
 個人の思いや動きは、たえずこうした国の思惑からズレる可能性を持つ。
 以下では、ボランティアの報酬の問題を個人の側から整理してみたい。

「やりたくてやる」人は否定しない

 以下では、五輪ボランティアに関する人を3つのタイプに分けてみたい。
 それは(1)やりたくてやる人、(2)やりたいわけではないのにやらされる人、(3)やりたいのにできない人である。

 まず、(1)やりたくてやる人だが、これは事前に報酬や労働条件に関する情報が与えられ、参加しない自由が十分あるにもかかわらず、本人がメリットとコストを比較考量して参加する場合である。
 自発的なボランティアというイメージに最も近い。
 このケースまで滅私奉公とかやりがい搾取といって叩くのは、さすがにその人自身の合理性を無視しすぎだ。

 ところでなぜ「自発的」に五輪ボランティアをする人がいるのだろうか。
 本当に滅私奉公の意識があるのか。
 ロンドン五輪のボランティアに関する実証研究によると、いくつかの動機の因子がある(*1)。

 その中には愛国心から参加する「愛国因子」というのもあるが、これが強い人は五輪が終わるとスポーツから離れる傾向があり、意外と「レガシー」になりにくい。
 一方で、「スポーツや五輪が好き」因子や「他者と繋がりたい」因子というのもあり、これらが高い人は大会後もボランティア活動やスポーツを続ける傾向がある。
 愛国云々に関係なくより私的な動機で参加する人の方がプラスの外部効果が大きいようだ。

 一般に近年のボランティア活動に、社会や国という「大きな物語」が介在することはあまりない。
 自分を成長させたいとか他者と繋がりたいとか、めったにできない経験をしたいという個人の「小さな物語」をフックとしながら活動するのが一般的である。
 この傾向は五輪のようなお祭り騒ぎの時に顕著になる。

 生の充実のために自発的に「祭り」に参加するボランティア――これに報酬を払う必然性はないし本人たちも求めていないだろう。
 ボランティアのタダ働きを批判するのは、たいていオリンピックに否定的な人だが、それが五輪の無用なコスト増大につながるような主張をするのは、あまり理にかなっていないように思える。

 筆者自身オリンピックはやめるか極力安上がりがよく、その分を国が本来行うべき社会保障や教育に回してほしいと考えているが、その立場にとってやりがい搾取論は諸刃の剣である。

「動員」される懸念もある

 しかし問題は、この自発性の前提が十分に満たされない(2)のケースである。
 長野冬季五輪のときに前例がある。
 この時のボランティアは約3万5千人とされるが、この中には自治会や消防団、婦人会などの地域団体、経済団体、労組などに協力を要請して動員された人も多く含まれていた。

 さらに、ボランティア運転手が大幅に足りなくなってからは、企業や自治体を通じて1万人近くが運転ボランティアとしてかき集められ、半強制的に参加させられた人も少なくなかった(*2)。

 中間集団を通じた動員は、日本のお家芸である。
 1964年東京五輪のときも、大学や企業を通じて運転や通訳、会場整理の人員が集められた。
 また都内では地域組織が中心となって、海外の人から見て恥ずかしくないように地域の改善運動が展開された。
 復興した日本を世界に見てほしいという「大きな物語」が社会を覆い、「公徳心」という言葉が睨みを利かせていた。

 現在は「大きな物語」も地域組織も空洞化しているが、大きなスポーツ大会があって人手が足りないとき、地方自治体や地域の大学・企業などにボランティアの要請が行われる構造は変わらない。

 しかし参加しない自由が十分に保証されない限り、「ボランティア」として扱うべきではないし、その労働には正当な対価を払うべきだろう。

 長野五輪のときには、運転手を出す地元103社の約3300人の8割が、ボランティアといいながら実際には業務命令による派遣だった事がわかり、労働基準局から各会社の就労規則を守るように行政指導が入った(*3)。
 今回も人手不足の領域を埋めるために、大学・企業・自治体を介して半強制的な「ボランティア」動員が行われないか懸念される。

「ブラック」という批判はこのような働かせ方に対してこそ厳しく向けられるべきだ。

 加えて重要なのは、これらのケースを「例外」ではなく「やっぱりな」と思ってしまう感覚が、我々の中にあるということだ。

 これまでの日本社会は、仕事への全人格的なコミットメントと家族(女性)のアンペイドワークに依存し、政府も他の選択肢を保障することなく、その仕組みを推進してきた。
 自由度の小さい「やりがい搾取」の体系が、社会に埋め込まれているというリアリティがある。

 先に述べたように、無償のボランティアはオリンピックでは一般的だが、日本で強い反発が起こる背景はここにあると思われる。
 この懸念を払拭しない限り、いくら小手先で対応しても批判は消えないだろう。

結局、五輪ボランティアの社会的意義って?

 このように、ボランティアの無償問題は自発性の仮定が満たされているかどうかでかなり整理できる。
 非自発的ならば当然支払われなければならない。
 ただし自発的でもお金の問題を無視できないケースがいくつかある。
 その一つが(3)やりたいけど交通費や滞在費がかかるため応募できない場合である。

 海外の五輪でも、ボランティアに金がかかるため、高所得者の方が参加する傾向があった(*4)。
 では、お金にゆとりのない人でも五輪ボランティアをできるように、実費や報酬を出すべきなのだろうか。

 この答えは、五輪ボランティアにどのような社会的意義を認めるかで変わってくるだろう。
 推進側は「一人ひとりが互いに支え合う『共助社会』実現に寄与」すると主張する(東京都・東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会2016『東京2020大会に向けたボランティア戦略』)。

 しかし、戦前の恤救規則(じゅっきゅうきそく)から近年の介護保険のサービス抑制に至るまで、日本では「地域の支え合いや共助」という理念が社会保障の切り下げに用いられてきたことを考えると、個人的にはすんなりうなずける話でもない(拙著2011『「ボランティア」の誕生と終焉――〈贈与のパラドックス〉の知識社会学』名古屋大学出版会)。

 これに対し、五輪ボランティアの意義についてユニークな考え方をしていたのはロンドン五輪である。
 そこでは、五輪ボランティアは社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)の一環として位置づけられ、求職者や非正規労働者が事前研修や大会での経験を通して雇用可能性を高め、就職や昇進につなげることが期待された(*5)。

 その主なターゲットは若者層である。
 実際にロンドン五輪の若者のボランティアは、履歴書の見栄えを良くするために参加したという動機をあっけらかんと語る傾向があった。
 雇用者側もボランティア経験のある学生への期待値は高いという知見があり、求職者にとって五輪ボランティアは合理的な選択である(*6)。

 もしこの方向性を突き詰めるならば、豊かな人ばかり五輪に参加しても意味がないので、ゆとりのない人も参加できるように経済的保障をするという議論もありうる。

 もっとも日本では、ボランティア活動の経験が就職や昇進で考慮されることは少ない。
 それどころか、成績や就職のためと言うと偽善視されかねない。
 やりがい搾取批判が流行する一方で、妙に潔癖なところがある。
 実際に「履歴書のため」にボランティアをする割合は、仕事の競争の激しいアングロサクソン諸国(アメリカ、イギリス、カナダ)では高い一方、日本では低い(*7)。

 東京五輪ボランティア推進の資料を見ても、「おもてなし」や「全員が自己ベスト」のようなふんわりワードばかりで、社会政策的な意義や雇用との関係については全く検討されていない。

 活動経験をどのような形で社会的に評価し、参加者のリターンにしていくかという問いと正面から向き合わない限り、ボランティアの報酬の是非に関する議論は深まりようがないだろう。

タダか否かの論点を越えて

 これまで五輪ボランティアの問題は「タダ働き」という点に焦点があたってきた。
 それも重要な点だが、より根本にあるのは、五輪でブラック労働をはびこらせないということではないだろうか。
 無償労働とブラック労働は重なる部分もあるが、ズレる部分もある。

 むしろボランティアか被雇用者かにかかわらず、膨大な仕事量、酷暑、研修・コーディネション不足による混乱、強制的な動員こそが、ブラック労働の温床になるだろう。
 ソウル五輪のときは警官が一人過労死しているが、東京五輪でも懸念される。

 安心して働ける環境を作る責任が国、自治体、組織委員会にはある。

 無償/有償、ボランティア/被雇用者を問わず、「五輪だから」という理由で行われる過剰な労働を許容しないことが、今回の五輪で問われている。

(*1) Niki Koutrou & Athanasios (Sakis) Pappous, 2016, Towards an Olympic volunteering legacy: motivating volunteers to serve and remain : a case study of London 2012 Olympic Games volunteers. Voluntary Sector Review 7(3)
(*2) 朝日新聞朝刊1998年2月25日
(*3) 朝日新聞夕刊1998年1月23日
(*4) 前掲論文
(*5) Geoff Nichols & Rita Ralston, 2011, Social Inclusion through Volunteering: The Legacy Potential of the 2012 Olympic Games, Sociology 45(5)
(*6) Rita Ralston, 2016, Talking ’bout my generation: generational differences in the attitudes of volunteers at the 2012 Olympic Games, Voluntary Sector Review 7(2)
(*7) Femida Handy et al., 2010, A Cross-Cultural Examination of Student Volunteering: Is It All About Résumé Building?, Nonprofit and Voluntary Sector Quarterly, 39(3)


現代ビジネス、2018.08.23
東京五輪ボランティアをやっぱり「やりがい搾取」と言いたくなるワケ
過去の「動員」を思い出す… …

(仁平 典宏、東京大学准教授)

日本社会における市民運動と助け合いにはどのような特徴があるのか。
共助が弱いと言われる背景にある構造とは? 
市民運動が自立するために必要なことを探る。

市民社会の二重性

─ 地域や職場での助け合い機能の低下を懸念する声があります。

 立ち位置によって異なる見方ができます。
 例えば、地域の相互扶助機能が低下することで、草の根民主主義が弱くなっているという見方。
 代表的なのはロバート・パットナムのソーシャル・キャピタル論です。
 タウンミーティングや相互扶助活動などに象徴されるアメリカの社会関係資本が弱まることで、民主主義も弱くなっているという議論です。
 この観点で見れば地域の相互扶助活動は民主主義強化のために重要です。

 一方、異なる文脈もあります。
 日本では社会保障費抑制の流れの中で、地域にサービス主体を移行する動きがあります。
 この観点では、国の社会保障費の抑制のために地域の助け合いが称揚されます。

 そもそも、日本において、こうした助け合いを称揚してきたのは保守政党で、革新系の野党は社会保障の弱さや資本主義が生み出す矛盾を相互扶助で糊塗することを批判してきました。

 ただ、1970年代から住民運動や革新自治体の誕生を背景に、革新系の中にも市民活動を推進する動きが生まれてきます。
 同時に女性運動や障害者運動など多様な主体の運動が勃興していきます。

 ただ多くの団体は法人格がなく、組織基盤は安定しませんでした。
 資金を得やすくするために公益法人の認可を得ようとしても、そのハードルが高く難しい。
 公益の定義を国が独占していたため、官僚のさじ加減によって認可は恣意的に左右されました。
 そのため政府から自律して運動をする団体は大きくなりにくい一方で、社会的信用のために法人格を得ようとすると政治的な自律性が損なわれるという構図が生まれました。
 日本の市民社会にはこうした二重構造があると指摘されてきました。

自律性の確保

 こうした状況を打破するものとして期待されたNPO法は、1990年代の非自民連立政権の誕生や阪神・淡路大震災のボランティアの活躍などを経て1998年に施行されます。

 この立法において市民の果たした役割は大きいですが、90年代後半以降の新自由主義に向けた条件整備という背景もあります。
 政府が担ってきた社会サービスを地域の相互扶助に移管しコストカットを狙う勢力と、草の根の運動を展開してきた人びとが、まったく異なる文脈から市民セクターの強化を訴えてNPO法が成立したのです。

─ NPO法の成立から20年が経過して、その関係はどう変わったでしょうか。

 行政の政策もNPOの存在を前提として行われるようになるなど、NPOは日本社会の中で大きな役割を果たすようになりました。
 しかし、行政の助成金や委託金を取るために消耗し、雇用も不安定な中で疲弊していくNPOは少なくありません。

 他方で、同じく低福祉国のアメリカと比べると、日本は寄付の水準も低いです。
 そのため、行政からの委託金に依存せざるを得ません。
 それは、NPOが行政の意向を忖度せざるを得ない構図を生み出します。
 NPOは日本社会において大きなアクターとして成長したものの、財源と自律性という観点において厳しい状況に追い込まれているとも言えます。

─ 市民運動が自主性・自律性を確保するためには?

 寄付や会費が少ない背景には市民セクターに対する社会的な信頼が弱いことがあります。
 助け合いや絆のような言葉は一般論として称揚されますが、実際に活動しているNPOなどを応援・支援している人は多くありません。

 2012年に行われた調査(日本版 General Social Surveys 〈JGSS-2012〉)の中に、機関や人に対する信頼の度合いについて尋ねた項目があります。

「まったく信頼していない」割合が一番高かったのは労働組合なのですが、「NPOやNGOのリーダー」も悪い方から3番目です。
 この信頼性の低さがNPOが助成金に依存せざるを得ない状況とかかわっています。

 その背景には、公共性を担う存在が日本では長らく行政しかなかったことが挙げられます。
 日本には長い間、公的=行政=非営利、私的=民間=営利という区分けしかなかったので、市民が非営利の活動を通じて公共性の担い手になるという感覚を肌でつかむことができず、市民活動に取り組む人たちを冷笑したり、敬して遠ざけたりする構造ができてしまいました。

「やりがい搾取」と助け合い

 また、助け合いを称揚する言説がある一方で、不信感も根強い背景には、日本がすでに助け合いを過剰に組み込んだ社会であることも挙げられます。
 そのことを端的に表現しているのが「やりがい搾取」という言葉です。
 日本は「やりがい搾取」を含み資産のように保持してきた社会だと言えます。
 例えば、家庭内では女性が家事や育児を無償で行うことで、育児や介護の施設をつくらずに済みました。
 企業内でも不払い残業などで従業員を搾取してきましたが、長期雇用との引き換えにそれが許容されてきました。

 短期的には搾取であっても長期的な安定が提供されるから、含み資産として無償の労働力を提供してきたのです。
 しかし、近年そうした長期的な交換条件が成立しなくなると、人びとは搾取されている意識を高めていきます。
 このように見ると、日本社会は助け合いが少ないのではなく、システムの中に助け合いを過剰に組み込んできた社会とも言えます。

 その中で、人びとにさらに助け合いを求めたり、寄付を求めたりすれば、「もう十分にやっている」という反応が返ってくるのもうなずけます。
 そのため、私は一般の人々に公的サービスの肩代わりのためのボランティアや寄付をこれ以上求めるのも筋が違う気がしています。
 ただ、ボランティアや寄付を無理にする必要はありませんが、それらに取り組む人を冷笑しないでほしいとは思います。

 一方、ボランティアや寄付をもっとすべきなのは高所得層です。
「ノーブレス・オブリージュ」(ヤッホーくん注)という言葉に代表されるように、多くの国で高所得層ほど寄付やボランティアを行う傾向があります。
 日本も戦後しばらくそうでした。
 しかし、2000年代に入ってから日本の高所得層はボランティア活動への参加を顕著に減らしています。
 これは世界的に見ても大変珍しい現象です。

 日本の格差社会は、所得や資産の格差に加え、高所得者層が公共圏から撤退しているという点でも問題です。
 自分の得たものを社会に還元する意識をもっと持つべきです。


ミクロの場を超えたつながり

─ 助け合いの意識を醸成するには?

 日本における助け合いは、家族や職場といったミクロな場における助け合いであって、そうした場を超える見知らぬ他者に対する助け合いの意識は希薄です。
 ミクロな場において濃密な助け合いがあるのは、それをしなければ「村八分」にされるからで、長期的な人間関係が前提になっていると言えます。

 日本では、流動性の低い集合内での助け合いは強度に行われる一方、それを超える範囲の人に対する贈与の意識は非常に低いことが学術的にも指摘されてきました。
 前者のつながりは「ボンディング bonding 型」。後者は「ブリッジング bridging 型」と呼ばれます。後者の意識をどう強めていくかが課題です(ヤッホーくん注)。

 先ほどの調査で労働組合の信頼度が低かったのは、非正規労働者など組合の外にいる人とのつながりが弱かったからと考えられます。
 労働の現場で起きていることは、他の市民団体が取り組んできた活動と必ず結び付きます。
 多様な組織・人との結び付きを強めることが労働組合の存在意義の向上につながるはずです。


情報労連リポート、2019.10
「共助」をもっと考えよう
「助け合いと市民社会」考
市民運動がもっと自立するには?

(仁平 典宏、東京大学准教授)
http://ictj-report.joho.or.jp/1910/sp01.html

(ヤッホーくん注)「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」

 19世紀にフランスで生まれた言葉で、「noblesse(貴族)」と「obliger(義務を負わせる)」を合成した言葉。
 財力、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことをさす。
 身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会に浸透する基本的な道徳観である。
 法的義務や責任ではないが、自己の利益を優先することのないような行動を促す、社会の心理的規範となっている。

 また、聖書の「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)に由来するとも言われる。

 例えばイギリスでは、国家・国民のために尽くす義務があるという意味に受け取られ、貴族やエリートの教育で扱われる。
 アメリカでは「慈善を施す美徳」の意味があり、富裕層が貧しい人びとに慈善を施すという形で実践されている。
 最近では、主に富裕層、有名人、権力者が社会の規範となるようにふるまうべきだという社会的倫理として用いられる。

 日本では、派遣労働者を雇い止めしたり、産地・賞味期限偽装で不当利益を得たりする例をあげ、企業経営者や政治家など社会のリーダー層にノブレス・オブリージュの欠落が指摘される。
 自己(自社)の利益の追求だけでなく、社会を構成する責任ある主体としての取組が求められる。


日本女性学習財団
https://www.jawe2011.jp/cgi/keyword/keyword.cgi

(ヤッホーくん注)次の論文参照のこと
西出優子(東北大学経済学研究科教授)「ソーシャルキャピタルと教育の相乗効果 Social capital and its synergy with education」
http://archive.unu.edu/gs/files/2008/sy/SY08_Nishide_text_jp.pdf

posted by fom_club at 08:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。