2019年10月08日

岸田劉生の「内なる美」

 ヤッホーくんのこのブログ、次の日付の日記をご参照ください:
★ 2019年10月3日付けの日記「没後90年記念 岸田劉生展」
★ 同4日付けの日記「麗子微笑之立像」

 近代日本の画家の中でも、岸田劉生は別格の存在と考えられてきた。
 その理由が、東京・丸の内の東京ステーションギャラリーで開催中の「没後90年記念 岸田劉生展」を見るとよく分かる。
 自分の探究する道を決然と選び、世の趨勢に背を向けて「内なる美」を求め続けた天才の姿が、浮かび上がってくる。

 岸田劉生(1891〜1929年)は、大正から昭和初期にかけて活躍した画家で、愛する娘、麗子を描いた数々の肖像は、最もよく知られた作品だろう。

 没後90年を記念した今展の大きな特徴は、劉生の作品を、主に画家が画面に記した制作年月日に基づき、原則、年代順に展示した点だ。
 この展示ではっきり分かることがある。
 劉生は、ある時期に、これと目標を定めて同じような対象を選び、集中的にその対象や傾向を描き究めていった。
 
 1913年(大正2年)から翌1914年にかけ、主に親しい友人たちをモデルに次々と肖像画を描き続けるのも、そんな傾向の表れだ。
 肖像画に続いて自画像の制作にも熱中する。
 展示された肖像画の数々をたどると、翌1914年までの間に、当初は後期印象派の影響を受けていた華やかな色彩やタッチが減り、次第に写実的で細密な画風に変わってくるのが分かる。

 劉生はこの時期を振り返り、
自分の作がだんだんひとりでに近代的な傾向を離れて来る事を不安に思つた事さへあつた。しかし、自分はどうしても、自分の要求に従ふより外なかつた
と書いている(「劉生画集及芸術観」所収「自分が近代的傾向を離れた経路」)。
 
 雑誌「白樺」による紹介をきっかけに、ゴッホ、セザンヌら当時で言う「後印象派」が脚光を浴びる中で、時代の趨勢に背を向けてまで自己の欲求に従う。
 その決然とした探究の道は、劉生の言う「クラシックの感化」へつながる。
 西欧古典絵画のレンブラント、ルーベンス、ゴヤ、特に北方ルネサンスのデューラー、ファン・エイクの細密描写にひきつけられていく。

「切通之写生」の名で知られる1915年の「道路と土手と塀」は、東京・代々木に転居後、とりわけ顕著に描いた風景画の傑作だ。
 左手の石垣の細かい陰影や土の道の脇に生える雑草や土の中の溝が克明に描かれる。
 晴れ渡る青空から注ぐ日差しで電柱が黄土の道に濃い影を投げかける。
 そのそばにある小石や亀裂の不思議な存在感。
 何気ない坂道に発見した神秘感を、精密に描き出す。
 劉生は書いている。

僕の絵はクラシツクの模倣ではない。僕の自己がクラシツクの求めたものと同じものを求めるのだ
(「展覧会の為めに」)
 
 そこに在(あ)ることの不思議を、求心的に追究したのが、翌1916年から取り組んだ静物画の数々だった。
 この年の7月、肺病と診断され、戸外の写生を禁じられたのも転機となった。

林檎(りんご)三個」は、机の上に並んだ3個の林檎を描いただけの作品だが、「在ることの不思議」を最も強く感じさせる作品の一つだ。
 画面右手前からの光を受けて、3つの林檎は、くぼみや傷をあらわにしながらも確固とした存在感がある。

 病と闘う劉生が、自分と妻の蓁(しげる)、娘の麗子の「一家三人の姿を林檎に託して描いたときいている」という麗子の回想があり、劉生の祈りをも込められた静物画だろう。

 やがて劉生の「内なる美」の探究は、1918年の正月を機に、東洋の美へと傾斜し始める。
 さらに大きな変化は、娘の麗子をモデルにした肖像画が登場することだ。
 今展監修の山田諭・京都市美術館学芸課長によれば劉生は、基本的には肖像画でも親しい人しか描かない。
 しかし、そこにとびきりの深い愛情を注ぎ込んだモデルが登場したのである。

 1919年8月23日に完成した「麗子坐像」は、愛する娘がそこにいることの恩寵(おんちょう)を、徹底的な細密描写で表現した油彩画だ。
 山田氏によれば、克明に描かれた赤と黄の縮緬(ちりめん)絞りの着物には、東洋の美への傾斜が表れ、麗子のそばに置かれた赤い林檎は、麗子とともに「実在の神秘」を感じさせる。

 以降、劉生は、麗子の微笑に東西両洋を融合する深い美を見つめ、中国の宋元の写生画に、深い神気と無限感を探究し、日本の初期肉筆浮世絵に卑近なものの「如実感の美」を発見していく。
 画家仲間をひきつけ、白樺派の面々にも刺激を与えた劉生の大きさは、借り物でない思考を、絵と文章で貫いたことだろう。

 38歳で急逝した劉生を厳しい批評家でもあった高村光太郎は、
「時代を乗り超えた純美の深い探求者であつた」と偲(しの)び、
「神秘の扉はしまつてしまった。彼にかはる者は無い」と言い切っている(「岸田兄の死を悼む」)。

 没後90年、写真に近いスーパーリアリズムの絵画がもてはやされている現代に、美の深奥を自己の道として究めた劉生の画業は、別格の光を放っている。
 10月20日まで。山口、名古屋に巡回。


[写真-1]
道路と土手と塀(切通之写生)(重要文化財、1915年11月5日、東京国立近代美術館蔵)

[写真-2]
林檎三個(1917年2月、個人蔵)

[写真-3]
麗子坐像(1919年8月23日、ポーラ美術館蔵)

日本経済新聞、2019/9/21 2:00
「内なる美」究めた道
岸田劉生の画業を回顧、没後90年記念展
年代順の展示で変遷浮き彫り

(編集委員 宮川匡司)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50020320Q9A920C1BC8000/

《麗子五歳》を描いた1918年前後、劉生はこの時期の制作を裏付ける論考をいくつか執筆している。
 これらは1920年、聚英閣より発行された『劉生畫集及芸術観』において集大成される。
 そのすべてをここにまとめることはかなわないが、ここではまず、議論に必要な範囲でその骨格を確認したい。

 劉生の論の基本となるのは、「内なる美」という考え方である。
「美」は外界の対象の中にではなく、人間の内面にあり、この「内なる美」は形を得て表現されることを求める。
 それはこの世界を作った「造化」 が、そして「造化」に選ばれた人間が、この世界を今以上のものにしようとする意志を本能的に持っているからである(10)。

10)「内なる美」『全集』第二巻、pp.366-386を参照のこと。

 こうして、よりよい世界という幸福を希求する意志の発現として形を与えられた美術作品は、唯一「美」の要素のみで組み立てられた人工的かつ客観的な物体として、世界のうちに存在することになる。
 劉生は言う。

「美術品といふものが造られて、この世界に存在してゐるといふ事は、人間の『精神』によつて肯定 された、 『形』 (美)がこの世界に一つ存在してゐるといふ事である。この世界に於て、人間の心によつて肯定された有形物は、美術品の外にない。地球上の凡ての存在の中に、客観的な『美』である 存在は、美術の外にない 」(11)

11)「美術」『全集』第二巻、p.352を参照のこと。 

 ところで、この「内なる美」が外界に現れるためには、主に三つの道がある。
 すなわち、
・ 自然の形を借りず、内から出る線、形、色だけで構成された「装飾の美」、
・ 次に自然の形をある程度借り、それに刺激を受けて「内なる美」を発揮して表される「写実の美」、
・ そして自然の形を記憶または想像によって自由 に按配する「想像の美」である(12)。

12)「内なる美」pp.370-374を参照のこと。

 ちなみに、劉生自身は、
「一つの画面に装飾と写実と想像が混然としてゐる様なもの」を目指している。
 すなわち「写実の中に実に立派な装飾がある。深く写実を追求すると不思議なイメーヂに達する」という意味で、
「写実から入つた神秘派」とも呼ぶべき方向である(13)。

13)「内なる美」p.376を参照のこと。

  このような試みが成功した時、美術は目に見える形の奥にある、時間を越えた領域を垣間見せる。
 劉生は次のように言う。

「幸福への忻求が最後に帰着すべき所は『無限』にある。その感じは静寂である。生の帰着意志の帰着凡て其処にある。これは有限なるもの、たへず変化するものゝ彼岸である。この『無限』の認識が最高の美観である」(14)

14)「製作余談」『全集』第二巻、p.330を参照のこと。


東京国立近代美術館
麗子はどこにいる?
岸田劉生 1914-1918の肖像画

蔵屋美香
https://www.momat.go.jp/ge/wp-content/uploads/sites/2/2015/01/14_pp6_25.pdf

 岸田劉生は、1891(明治24)年、東京・銀座で目薬「精リ水(せいきすい)」を製造販売する楽善堂(らくぜんどう)本舗の経営者、岸田吟香(ぎんこう)の四男(14子中の9番目)として生まれた。
 父の吟香は、アメリカ人宣教師で医師であり、明治学院を創設したヘボン博士を助け、日本最初の和英・英和辞典『和英語林集成』の編纂に協力、のちに『東京日日新聞』編集に従事し、ジャーナリスト、事業家として明治時代の先覚者であった。

 しかし、劉生が14歳の1905年、その父と母とを相次いで失い、翌年東京高等師範付属中学校を中途退学。
 父が通っていた数寄屋橋教会でクリスチャンとして洗礼を受け、田村直臣牧師(1858-1935)のもとで日曜学校の先生をするかたわら絵画を学び、17歳で白馬会葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝に師事する。
 1910年第4回文展に《馬小屋》《若杉》の作品が初入選して洋画壇へデビューした。

 20歳になった劉生は初めて武者小路実篤(1885-1976)らが創刊した雑誌『白樺』を買い、オーギュスト・ルノワール(1841-1919)やフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)らの作品に感激する。
 英国人の陶芸家バーナード・リーチ(1887-1979)との交友が始まり、柳宗悦(1889-1961)や長与善郎(1888-1961)ら白樺同人とも親交をもった。
 翌年、高村光太郎が経営する神田の琅玕洞(ろうかんどう)で初個展を開催、また第1回フュウザン会展へも参加した。
 日本画家・鏑木清方(1878-1972)門下で学習院漢学教授小林良四郎の三女の蓁(しげる)と22歳で結婚。
 写実への関心が強くなる。
 翌年には長女麗子が誕生する。
 24歳で重厚な写実を特徴とする草土社を創立し展覧会を開催するが、翌年肺結核と診断され代々木から駒沢へ移った。

 1917年26歳のときに神奈川県鵠沼へ。
 この鵠沼時代が、劉生の人生のなかで最も充実し、変化に富んだ時期でもあった。
 北方ルネサンスの写実や、連作の麗子像などを通して“内なる美”(1)の探究が始まった。

 1918年から麗子と村の娘お松をモデルに制作を開始する。
 1919年京都、奈良に行き東洋古美術に魅せられる。
 健康を取り戻した1921年、30歳の劉生は流逸荘での個展に《麗子微笑》を出品した。
 この頃から日常生活に変化が起こり、歌舞伎の観劇、長唄の稽古、飲酒など始め、水彩画や日本画も制作した。
 1920年の元旦から記された劉生の日記は、洋画家の濃密な生活を知る大切な資料となっている。

 1923年32歳のときに梅原龍三郎(1888-1986)らと設立した第1回春陽会に出品したが、関東大震災により家が半壊、名古屋で半月を過ごしたのち、京都の南禅寺に移る。
 東洋への関心が高まり、茶屋遊びを始め、「海鯛(買いたい)先生」と称して宋元画や初期肉筆浮世絵の蒐集に熱中した。
 そのときに見出した審美的境地を自ら「でろり」(2)と名付け、写実の袋小路からの脱出を促していた。

 1926年35歳のとき京都を離れ鎌倉へ転居、長男鶴之助が誕生した。
 浮世絵に心酔した画家の鑑賞記録として『初期肉筆浮世絵』(岩波書店)を出版。
 1929(昭和4)年、満鉄の招待により旧満州(中国東北部)の大連に2ヶ月ほど滞在し、その帰途に立寄った山口県徳山で、腎臓炎に胃潰瘍を併発、尿毒症の症状を呈して12月20日に享年38歳で急逝する。
 大正画壇に異彩を放った劉生は東京・多磨霊園に埋葬されている。

(注1)
「劉生は彼の求める深い美を『内なる美』と呼んだが、それはこの現実の世界を善(よ)くし美しくしようとするすべての人間の心のなかに宿るものだと考えた。これを感得し、目に見える『外なる美』すなわち美術として実現するつとめを果たすものが美術家であった。生来、自然の事物に似せること、その質感を描写することに本能的といっていい歓びを感じていた劉生は、『内なる美』を自然の事物に即した写実の道によって追求しようとしたのである」
(浅野徹編『20世紀日本の美術 15 岸田劉生/佐伯祐三』p.6)

(注2)
卑近にして一見下品、猥雑で脂ぎっていて、血なまぐさくもグロテスク、苦いような甘いような、気味悪いほど生きものの感じを持った東洋的な美。


大日本印刷、アートスケープ/artscape、2016年02月15日号
岸田劉生《麗子微笑》
深遠な美のリアリズム「水沢 勉(神奈川県立近代美術館、鎌倉館・鎌倉別館・葉山館館長)」

影山幸一
https://artscape.jp/study/art-achive/10119810_1982.html

posted by fom_club at 08:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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