2019年10月06日

「不都合な真実」が見えないようにデザインし、マーケティング化した政治

 旧日本軍慰安婦の韓国人女性、李玉善(イ・オクソン)さん(92)が2019年10月5日、川崎市内で自らが受けた被害を証言した。
 慰安婦の歴史を否定する言説がまかり通る中、市民団体の集会に合わせて急きょ来日。
「日本政府はきちんと反省し、公的な謝罪と賠償をしてほしい」と訴えた。

 ソウル近郊で共同生活する李さんら元慰安婦のドキュメンタリー映画「まわり道」の上映会に合わせて来日した。
 主催の「川崎から日本軍『慰安婦』問題の解決を求める市民の会」によると、あいちトリエンナーレで平和の少女像の展示が相次ぐ脅迫で中止に追い込まれ、慰安婦の歴史を否定する首長の発言を知り、証言することを決意したという。

 満場の約180人が詰めかける中、李さんは「私たちは『慰安婦』ではない。日本人が勝手に名付けたもので、強制的に軍人の相手をさせられた強制労働の被害者だ」と訴えた。

 14歳だった1942年7月、朝鮮半島東南部の蔚山で2人組の男にトラックに押し込められ、中国の慰安所へ連れて行かれた。
 時折苦しそうな表情を浮かべながら「1日で40、50人の相手をさせられ、耐えられずに自ら命を絶つ人もいた。拒否すれば軍人に刀で刺し殺された。慰安所は実際には死刑場のような所だった」と証言した。

 介助者に車いすを押してもらい、看護師同伴で来日した。
 上映会に先立つ記者会見では「安倍(晋三首相)に会いたい一心で来た。謝罪を直接求める。皆さんの力で会えるよう取りはからってほしい」と呼び掛け、「強制的な状況に置かれていたのだから謝罪と賠償を求めるのは当然。日本政府が強制したのではないと言い張るのは耐えられない」と思いを吐露した。

 歴史否定の発言は首長からも相次ぐ。
 慰安婦を象徴する少女像を巡っては、悲劇を繰り返さぬよう願って創作されたものであるにもかかわらず、河村たかし名古屋市長が「日本人の心を踏みにじる」と敵対視。
 松井一郎大阪市長は「慰安婦の問題というのは完全なデマ」と発言、神奈川県の黒岩祐治知事も「事実を歪曲(わいきょく)したような政治的メッセージ」と曲解を重ねる。

「少女像は私たち自身。歴史を記憶するための像になぜ反対するのか」と李さん。
「自らやった悪いことをなかったと言い、私たちの身に起こったこともなかったと言う。許されないことだ」と語気を強めると、
「その結果が今の日韓の対立だ。歴史に向き合わずに政治的、経済的圧力をかけている」と断じた。

 記者会見を含め約1時間の証言を李さんは「日本政府は私たちが死ぬのを待っているとしか思えないが、死んでも問題はなくならない。次の世代が解明してくれる」と結んだ。
 元慰安婦の女性たちが共同生活を送る「ナヌムの家」の安信権(アン・シンクォン)所長によると「韓国では若い人の関心が膨らんでおり希望的雰囲気がある」といい、「慰安婦」ではなく「日本軍性奴隷制度被害者」と呼ぶようになるなど人権意識の高まりを指摘した。


神奈川新聞、2019年10月06日 09:46
少女像巡る首長発言に抗議
元慰安婦、川崎で証言

https://www.kanaloco.jp/article/entry-200064.html

 旭日旗のオリパラへの持ち込みについて、小池都知事はオリンピック組織委員会の「容認」を追認する見解を出しました。
 これについて開示請求を行ったのですが、なんと不存在。

 つまり、都の職員に指示も出さず、検討もさせず、記者会見で言い放っただけ、都庁としては知りません、という回答です。
 都知事の発言の重みというものを、都知事は理解していないようです。
 これでも小池都政は3年目。


非開示決定通知書.jpg

note mu、2019/10/05 22:01
旭日旗の持ち込み容認は、都知事の独断だった!
(WADA/開示請求)
https://note.mu/kaijiwada/n/nfe0d1c64fe9c

「『非正規』という言葉をなるべく使うな」

厚生労働省内でそんな指示をするメールが出されていたことが報じられた。
こうした、政府が自身にとって不都合な表現や統計や資料を、加工・修正・破棄してしまう例は、近年、枚挙にいとまがない。
勤労統計で不正が行われ、「氷河期世代」を「人生再設計世代」と言い換える提案がなされ、あいちトリエンナーレへの補助金不交付が決定されるプロセスについては議事録が作成されてさえいなかった。

まるでインスタで画像を加工するかのような気楽さで、重要な指標や表現に手を加え、「見せたいもの」だけを世間に見せようとしたり、政権幹部をイケメン武士としてイラスト化した例に象徴されるように、なんとなく「いいね」な印象を国民の間に流通させようとしたりする−−そんな「インスタ的政治」が出現しているのではないか。
メディア文化論が専門の筑波大学准教授・清水知子氏が指摘する。

政治の「視覚的技術」

 つい最近、韓国の電子メーカー・サムスンが興味深いAIを開発した。
 一枚の写真画像に写ったモナリザが生命を吹き込まれたかのように語りかけ、豊かに表情を変えていく。

 動くモナリザだ。

 この生きた肖像は、AIが、写真や絵の中にいる人物の顔から目印になる特徴を抽出し、すでに学習した7000近い人物の画像や動画のデータを参照しつつ作成したものだ。
 まるで『ハリー・ポッター』シリーズに出てくるホグワーツの肖像画を思わせる魔法のような科学技術である。

 日本の企業もまた実在しない人間の全身モデル(もちろん動く)を自動生成するAIを開発している。
 今年フロリダ州のダリ美術館では、サルバドール・ダリがAIとして蘇るイベントが企画された。

 今では本物そっくりのフェイクCG動画がネットに溢れている。
 たとえば、有名女優のフェイクポルノ、「人びとのデータを1人の男がコントロールすることを想像してください」とニュースで訴えるマーク・ザッカーバーグ、「トランプ大統領は救いようのないマヌケだ」と主張するオバマ前大統領…。

 AIによる画像生成技術は、ディープフェイクとして、私たちを居心地悪くさせる「存在論的不安」を与えつつもある。

 こうしたデジタル技術が進展する現代にあって、「イメージを飼いならす」技術はどのように社会に浸透しているのだろうか。
 最近の事例をもとにデジタル社会における政治の視覚的技術について考えてみよう。

 あらかじめ予告しておけば、現今のデジタル社会とは、あたかもインスタグラムで画像が加工されるように、重要な数値やイメージ(画像・映像)が恣意的に操作・修正・加工され、そのことによって何かが隠蔽されるかもしれない厄介な社会なのだ。

反転されていた新紙幣の肖像

 今年2019年4月、新紙幣のデザインが発表された。

 新札の顔に登場することになったのは、日本の資本主義の父とされる渋沢栄一(1万円札)、津田塾大を創始し、日本における女性教育の先駆者である津田梅子(5000円札)、近代医学の基礎を築いた北里柴三郎(1000円札)だ。

 なかでも津田梅子の見本は、数多くの議論を引き起こした。
 津田塾大学が提供した写真の肖像が反転されていたのだ。

 写真の肖像の反転について、財務省及び菅義偉官房長官の見解は「問題ない」というものだった。
 津田塾大から提供された写真はあくまで「参考」にすぎないというのである。

 実際にはいくつもの写真をもとに、肖像は印刷局の専門家が彫る。
 写真がそのまま肖像として印刷されるわけではないのだ。

 たしかに、肖像の反転という点に限って言えば、津田梅子がはじめてではない。

 1951年に500円札として発行された岩倉具視の肖像も反転していた。
 元となったのは、外国人彫刻師のキヨッソーネが1889(明治22)年に完成させた大型の彫刻作品。
 大礼服を着用し、胸に勲章をつけ、右を向いていたはずの岩倉は、紙幣では蝶ネクタイの洋服を身にまとい左向きで登場した。

 しかし今回の発表には、何か胸を騒がせるものがあった。
 信用を基盤にした交換システムからなる紙幣の「顔」をわざわざ反転して公開するというのはなんとも皮肉ではないか。
 しかも、今回の新紙幣の、改元の直前での公表は、新しい時代に相応しい紙幣のあり方を提示するかのようなタイミングだった。
 まるで、写真の「加工」「修正」が、新しい時代を象徴することを暗示するかのようなタイミング、と言えば牽強付会だろうか。

肖像はどうやって「本物」と認められてきたか

 そもそも肖像のイメージとその信憑性は何によって、誰によって保証されるのか。

 たとえば、写真嫌いで知られる西郷隆盛は、幕末偉人のスターだが、生涯一枚も写真を残さなかった。

 今日私たちが目にする大きな瞳をした西郷の肖像画は、ヨーロッパの肖像作法に熟練し、大蔵省紙幣省に招聘され、長く紙幣の原版の意匠を担ったイタリアの画家エドワルド・キヨッソーネが作り上げたものだ。

 キヨッソーネは西郷隆盛に会ったことはない。
 西郷の肖像は、顔の上半分は実弟の従道、下半分は従弟の大山巌をモデルにして出来上がったと言われている。

 犬をつれた上野公園の西郷隆盛像もまた、西郷隆盛そのもののイメージを再現したのではない。
 想像の産物としてのモンタージュ的な視覚的表現なのである。

 創造された肖像画として最もよく知られるのは、明治天皇だろう。

「御真影」として広く流布した明治21年の肖像は、明治6年に内田九一が撮影した当時16歳の天皇の写真とは、構図も、ポーズも、全体の印象も大きく異なる。

 そもそもこの「御真影」は、キヨッソーネが描いた明治天皇の「絵」の複写である。
 カメラで人物を直接撮影した写真ではないのだ。

 なぜ「写真」ではなく「絵」の複写だったのか。
 理由は簡単だ。
 そこで求められていたのは、ありのままの現実の天皇の身体ではなく、政治的戦略に基づいた「屈強で力強い」天皇のイメージだったからだ。
 そのイメージこそが「真」なるものとして国民の間に流通することだったのだ(多木浩二『天皇の肖像』岩波現代文庫、2002年1月)。

 写真よりも修正可能な絵画のほうが、象徴的で理想的な身体のイメージを可能にし、類型的な図像をつくりやすい。

 理想化した肖像を仕上げることができる絵画は、この意味では、現代のフォトショップ的、インスタ的な機能を担っていたのかもしれない。

 この人為的フィクションの「御真影」は、複製可能な写真である。
 そして、この世にただ一つしかない「絵画」を複写するという手続きと、それを「御真影」として扱う「儀礼」によって、皮肉なことに「聖性」を獲得したのである。

ホンモノのお金はニセモノによって作られる

 真正性とフェイクをめぐるこの構造は、お金そのものの価値を支えている構造でもある。
 1963 年の赤瀬川原平の「千円札裁判」を思い出そう。

 千円札の「表のみ」を一色刷りした赤瀬川の模型作品は、偽札としては機能していない。
 けれども、最終的には「通貨及証券模造取締法」によって、その作品を作った赤瀬川は有罪となった。
 
 極論を言えば、紙幣も複製した印刷物の紙片にすぎない。
 けれども、紙幣という印刷物は、目に見えない交換価値によって有用性を帯び、国家の「公の信用」のもとで発行されている。 

 貨幣に信用をおく交換の仕組みを人工的に維持するためには、「真正」なるオリジナルのお札と、それに対立するフェイクがあるかのように見せかけなければならないのだ。

 哲学者のボードリヤールはかつて、実在するアメリカすべてがディズニーランドであるということを隠すために、ディズニーランドが存在すると言った。

 実のところ、本物が存在するためにはフェイクが存在しなければならない。
 けれどもそのホンモノこそがニセモノだとしたらどうだろう。

すべてがコピーのようで、すべてがオリジナルの世界

 正真正銘の「真正」で揺るぎない「顔」があるという思考回路はそれ自体がきわめて「モダニズム」的な前提に支えられた議論である。
 しかし、現代においてはそうした状況が変わりつつあるように見える。

 デジタルイメージは、0か1かに変換されたデータであり、数値化されたデータの集積だ。
 つまり、そこには、オリジナルのデータと複製のデータという区別がない。
 つまり、すべてがオリジナルなのだ。

 デジタルイメージは、フィルム写真の外観を模造(シミュラークル)して発展してきた。
 一見すると写真にそっくりだが、じつは写真とは似て非なる別物なのである。

 デジタルメディアには、複数のメディウム(テキスト、写真、動画)が混淆しながら共存し、まるで新しい生物種のように新しいメディウムが作り出されていく。
 インスタグラムのことを考えれば、現状を想像しやすいだろうか。

 イメージの流通がかつてなく重要になった社会において、私たちの日常を席捲しているのは、「写真」ではなく、「写真」の「イメージ」であり、「現実」ではなく、「現実」の「イメージ」あるいはそれをつかむための「数字」だろう。

 これまでこうした手法を何より得意としてきたのは広告写真だった。

 広告写真に求められるのは、「事実」ではない。
 むしろ人びとの欲望と理想に応えるようなフィクショナルな世界だった。
 今日、それはインスタグラムのような人気のあるプラットフォームによって引き継がれている。
 けれども、インスタグラムが見せる世界は、広告のような虚構の世界ではなく、それ自体が新しい現実のイメージなのだ。

インスタグラミズム時代のデモクラシー

 もちろん、こうした新しいテクノロジーは、私たちを解放してくれる側面もある。
 メディア理論家のレフ・マノヴィッチは、芸術写真/アマチュア写真の境界域に存在するインスタグラム写真を「インスタグラミズム」と呼んでいる。
 そこに、「2010年代初頭に登場した新しいグローバル・デジタル・ユース・クラスの美意識」を見出している(マノヴィッチ『インスタグラムと現代視覚文化論、レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって 』ビー・エヌ・エヌ新社、2018年6月)。

「インスタグラミズム」のポイントは、日常性を基盤とした美学であり、「見る」写真から「撮る」写真への移行であり、そして感情の表象や伝達ではなく、気分や雰囲気に焦点を当てるところにある。

 メディア環境学を専門とする久保友香は、女の子たちが「現実とは違うヴィジュアルを造り、新しいメディアで公開する技術」を「シンデレラ・テクノロジー」と名づけている。

 女の子の「盛り」の文化に着目する久保は、女の子たちが、インスタグラムを駆使して、仲間と協調しつつ、不特定多数の人と繋がりたいという思いと、しかし大人には邪魔されたくないという思いを両立させるべく、仲間のなかで「暗号化」された新しいコミュニケーションを繰り広げているという(久保友香『〈盛り〉の誕生、女の子とテクノロジーが生んだ日本の美意識』太田出版、2019年4月)。

 イメージとテクストを組み合わせた新しい「二次的な視覚性」。
 こうした行為は、たしかにジョディ・ディーンが言うように、一見「コミュニケーション資本主義」に翻弄/搾取されているように見える大衆が、自分たちの表現を取り戻し、解放する契機として重要な意味を担っているのかもしれない。

 ネット時代のデジタルイメージをめぐるこうしたコミュニケーションの変化は、ポスト複製術時代の民主化(誰もが容易にイメージを加工・複製する能力を得られる)を示していると言えよう。

政治の私物化とインスタ化

 しかし、信頼性や客観性が求められる報道写真では、デジタルメディアが得意とする改変や消去は致命的な要素となる。

 マニピュレーション(ごまかし、取り繕い)可能なデジタル社会において、「現実」ではなく、「現実」の「イメージ」あるいはそれをつかむための「数字」をどう流通させるか。 

 この問いは、「イメージ」で物事が展開する危ういポピュリズム政治と相性がいい。

 数値化されたデータの集積からなるデジタル画像の非物質性は、一瞬のうちに消し去ることができる。

 0か1からなるデジタルデータの本質は、あれかこれかの二分法を強いるデジタル的思考とも響き合い、見たいものだけが見られ、流通し、拡散する、「インフォメーションコクーン(情報の繭)」(キャス・サスティーン)を増殖させる。

 たとえば、現実を数字に置き換えて客体化していく統計は、客観性を帯びた中立性への信頼に基づいたリアリティをイメージとして与える(
セオドア・M・ポーター『数値と客観性、科学と社会における信頼の獲得』みすず書房、2013年9月)。

 しかし、統計は、前提と過程を変えてしまうと、見るべき別の本当の数字が見えなくなるマジックのようなものと化してしまう。

 統計だけではない。

 ここ数年、政治は「データ」がつくる「イメージ」の操作に余念がない。

 たとえば、厚生労働省による「「非正規」という表現を使うな」という言葉の操作は、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で描いた「ニュースピーク」さながらの世界を想起させる。

 企業、政治家、役所による相次ぐ統計不正とデータの「改変」、「消去」、「隠蔽」が続くなか、目の前のイメージや数字は本当に見るべき信用に値するものなのだろうか。

 けれども、どれほど「言葉」や「イメージ」をコントロールしても政府に「不都合な真実」がデリート(消去)できるわけではない。

 むしろそこに浮かび上がるのは、なんとかして実態とイメージのギャップがないかのように見せたい、事なきを得たい、なかったことにしておきたいという欲望だ。
 つまり、理想と現実のあいだに深いギャップがあるという事実なのだ。

「不都合な真実」が見えないようにデザインし、マーケティング化した政治が「楽しいプロパガンダ」技術を駆使する状況は、公的なメディアを個人のインスタ感覚で私物化し、見せたいものだけを見せるインスタ的政治とでも呼べるものだ。

 今日、インスタ的政治はあらゆる矛盾を吸収するモンスターのようにマスメディアと一体化した文化装置として機能しつつある。
 擬制と自嘲の回路。
 いまや完全に底が抜けて、裏の顔が表に出てきてしまったような政治は、もはや平然と異論を排除し、炎上しようが断行したもの勝ちだ、と言わんばかりだ。

 いま必要なのは、メディア越しに「展示」された政治のイメージに浮揚されることなく、メディアが公権力をきちんと監視しているかどうか、私たちひとりひとりが能動的に精査し、情報の意図を見極めること、居心地のよい「インフォメーションコクーン」に籠もるだけでなく、他の考え方はないかどうかを探し、物事の見方を多角化すること、そして、構造化された排除の上に成り立つ、同質的な合意を前提としたコミュニケーションの暴力性に目を向け、異質なものからなる複数性を公共空間に取り戻すことだ。

 さて、「令和の新札」が発行されるのは2024年。

 それは、すでに福島を「完全にコントロール」し「世界一カネのかからない五輪」東京オリンピックを終え、大阪万博を目の前にした近未来だ。

 J.K.ローリングによれば、『ハリー・ポッター』に出てくる生きたホグワーツの肖像画は、生きていたときの口癖を繰り返しているという。
 つまり、今を生きる人びとが、未来のために、歴史を学び、過去の人びとの言葉を助言として受けとめるためのものだった。

 果たして、平成の重要なデータをことごとく破棄して迎えた令和という時代は、未来の人々にどのようなメッセージを届けることができるのだろうか。


現代ビジネス、2019.10.04
不都合なデータや表現は加工・修正…「インスタ化」する政治の危うさ
「イメージを飼いならす」政治

(清水 知子、筑波大学准教授)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67570

posted by fom_club at 17:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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