2019年10月03日

自民党議員の「右傾化」

 自民党はどう変化をしてきたのか。
 野党に求められるのは何か。
 既成政党は、有権者の声に耳を傾けているか――。

 朝日新聞社は2019年9月23日、朝日・東大共同調査の15周年記念トークイベント「政党はどこに向かうのか」を東京本社で開き、160人が来場した。
 蒲島郁夫熊本県知事(東京大学名誉教授)と谷口将紀東大教授を招き、15年間の調査で見えてきた日本政治の動きや展望を語ってもらった。

 朝日新聞は東大谷口研究室と共同で国政選挙を調査しており、候補者や有権者に様々な政策への考えを聞き、分析結果を報道してきた。
 2003年に開始し、2005年までは当時東大教授だった蒲島知事が東大側で調査を担当していた。

 イベントの第1部では、まず蒲島氏が講演し、2008年に熊本県知事へ転身した経緯を説明。
「政治は可能性の芸術だ。不可能を可能にするのが政治だという思いで県政にあたっている」と述べ、政治学者の知見を熊本地震の復興など県政の場に生かしてきた事例を語った。

 続いて谷口教授が、これまで蓄積した共同調査の分析結果を発表。
 衆院議員の「イデオロギー分布」を示し、そのピークが有権者よりも「右寄り」であることを指摘したうえで、自民党議員の「右傾化」によって、有権者との距離が2012年衆院選以降拡大したと説明した。

 自民党が有権者と政策的に距離がありながら支持を得られている理由に経済政策への評価を挙げて、
安倍政権はアベノミクスで政治的な『貯金』を作り、憲法や集団的自衛権など有権者と距離のある政策の実行に使っている」と述べた。

 また、会派統一で合意した立憲民主党と国民民主党についても言及。
 7月の参院選の両党の候補者を比較すると、25の争点のうち、11〜15で統計的に有意な差があったという。
 しかし、自民党と公明党の候補者では、16〜19の争点で有意な差が認められたことを受け、
自公はこれでも10年以上連立を組めるのだから、立憲と国民に求めるべきは、政策をぴったり一致させることより、(民進党の分裂などで)失われた相互の信頼の回復だ」と指摘した。

 第2部の各論では、進行役が既成政党への不信が世界的に高まっている現状について質問。
 谷口氏は「政党には有権者へ情報を提供し、ときには有権者を説得する機能がある。社会保障の問題など長期間にわたる政策を完遂できる主体は今のところ政党しかない」と主張した。
 一方、蒲島知事はカナダの政治学者で自由党党首を務めたマイケル・イグナティエフを引き合いに「優れた政治学者が優れた政治家になれないのは、政党の党議拘束があるからだと思う」と指摘。自らの知事選挙について「私は政党の推薦も公認も求めず、(各党と)等距離という形でやっている。精神の自由を持てるので県民本位の知事になれる」と語り、国会議員との違いを指摘した。

 また、7月の参院選で「れいわ新選組」や「NHKから国民を守る党(N国)」が躍進したことについて、朝日新聞政治部の蔵前勝久記者は、「風頼みの政治、空中戦に頼る政治の行き着く先が、ユーチューブに頼ったN国だ。れいわの躍進は、既成政党が政争ばかりやっていて、自分たちの声が反映されないといった、有権者からの反発があったのでは」と解説した。
 蒲島氏は、
「れいわは消費税廃止、最低賃金の引き上げ、奨学金の返済免除など受けのいい政策を訴えた。しかし、政権をとれるような政党になったとき、長期的にそれでやっていけるのか」と課題を指摘した。


[写真]
トークイベントで発言する谷口将紀東大教授(右)と蒲島郁夫熊本県知事(左)=9月23日、朝日新聞東京本社・読者ホール

朝日新聞、2019年10月1日17時23分
朝日東大調査15年
蒲島熊本知事・谷口東大教授ら議論

https://digital.asahi.com/articles/ASM9Z3R84M9ZUTFK004.html

 熊本県鹿本町(現山鹿市)に江戸時代末ごろから残る民家で9人兄弟の7番目として生まれ育った。
 両親は旧満州(中国東北部)から無一文で引き揚げて祖母の元に身を寄せ、そこで私が生まれたのだ。

 民家と言っても土間と8畳2間に4畳半1間しかない小作農が住んでいたようなボロ家。
 そこに祖母と両親、兄弟合わせて10人ほどが住み、2反2畝(約2200平方メートル)の田んぼを耕して生活していたのだから、並大抵の貧乏暮らしではない。

 小学生のころには日本の復興も進んでいたが、我が家は白いご飯が食べられない。
 弁当も1人だけアワの混じった黄色いご飯で「卵ごはんだ」とからかわれたりもした。
 母が遠足のために買ってくれたズック靴が赤色で、墨を塗って黒くしたこともある。

 そうした暮らしの中の楽しみは読書だった。
 小学校3年生の時に兄が借りてくれた「レ・ミゼラブル」に感動したのをきっかけに、図書館の本をあらかた読んでしまったほどだ。
 貧乏で家には何もなかったので、読書と屋外で遊ぶことくらいしか楽しみがなかったのだが、今、考えるとそれが良かったのかもしれない。

 高校時代は学校に行かず、よく通学途中の丘に立っていた一本松の根元で本を読んでいた。
 学校の成績は悪く「落ちこぼれ」だったが、「阿蘇山の麓で牧場をやりたい」「小説家になりたい」「政治家になりたい」という夢を持ったのは読んだ本の影響だ。

 生家はもとは熊本市長を務めた星子敏雄さんの所有で、父が星子さんと尋常高等小学校時代の友人だった縁でタダで貸していただいたものだった。
 星子さんは戦前、満州国で警察庁長官にあたる警務総局長を務め、実力者の甘粕正彦氏の妹婿でもあった。
 父は星子さんの身近にいたため、姉が甘粕氏の自動車に同乗させてもらったこともある。

 また星子さんのお母さんから「この家は住んでいるときはひどく貧乏するが、ここを出ると成功する」という話も聞かされた。
 最初に住んだのは熊本県の製糸業の父と言われた熊本製糸の創業者、長野濬平氏だったという。

 当時は早く抜け出したいと思っていた生家だが、こうしたさまざまな広がりを持っていたことを知ると不思議な気持ちがする。
 現在は誰も住んでいないが、時々、訪れて初心を忘れないようにしている。

※ 蒲島郁夫(かばしま・いくお)
1947年熊本県生まれ。高校卒業後、農協職員を経て派米農業研修生に応募、ネブラスカ大で畜産学、ハーバード大で政治学を学ぶ。筑波大教授、東大教授を歴任し2008年熊本県知事に初当選、現在2期目。


[写真]
江戸時代末にたった生家は、風が強く吹くと揺れるほどだった

日本経済新聞・夕刊、2012/10/15付
熊本県知事 蒲島郁夫(1)
小さな生家
https://www.nikkei.com/article/DGKDZO47261290V11C12A0BE0P00/

 この写真はハーバード大学の中庭にある大学の創設者、ジョン・ハーバードの像だ。
 米国にはやる気のある者にはチャンスを与えよう、という精神がある。
 そして結果を出せば、奨学金など実のある形で認めてくれる。
 私がハーバード大大学院で学べたのも、そうした米国の精神のおかげだ。

 渡米したのは高校を卒業して地元の農業協同組合に2年ほど勤めてから。
 農協の仕事になじめずにいた私は「阿蘇山の麓で牧場をやりたい」という夢を実現しようと派米農業研修生に応募した。
 農家での研修は厳しくまるで農奴のような生活だったが、研修の最後にネブラスカ大学で受けた畜産学の学科研修が楽しく、もっと勉強したいと思うようになった。

 24歳で再渡米しネブラスカ大農学部を受験したが不合格。
 しかし研修時の先生が私のやる気を買って推薦してくれたおかげで仮入学できた。
 必死に勉強してよい成績を収めると、いきなり特待生になり奨学金も支給してくれた。
 大学院に進む時に「勉強するなら一番好きな政治学をやりたい」とハーバード大を志望したが、この時も畜産学の指導教授だったジーママン先生に推薦してもらった。

 ハーバード大ではヴァーバ先生やライシャワー先生、ハンチントン先生といった著名な先生たちから指導を受けた。

 最初にとったヴァーバ先生の講義では、あるとき米国の植民地時代の政治を扱った分厚い本を読んで内容を報告することになったが、誰も手を挙げない。
 思い切って私が手を挙げ、翌週、報告したことで、厳しいヴァーバ先生に存在を認めてもらえた。
 後に奨学金付きのポストを提供してもらえたのも、ライシャワー先生やヴァーバ先生の推薦があったからだ。
 この奨学金で学業に専念でき、通常は5〜7年かかる博士論文を3年9カ月という短期間で仕上げることができた。

「文明の衝突」で有名になったハンチントン先生は、先生の理論を批判した私のゼミ論文を認め、学術雑誌に投稿すべきだと勧めてくれた。
 ハーバード大には本当に世話になったと感謝している。


[写真]
ハーバード大大学院の博士課程で政治学を学んだ

日本経済新聞・夕刊、2012/10/16付
熊本県知事 蒲島郁夫(2)
ハーバード大での研究生活
https://www.nikkei.com/article/DGKDZO47274750V11C12A0BE0P00/

 ハーバード大在学中は奨学金をもらっていたものの、妻と3人の子どもを抱えていたので、それだけでは生活していけない。
 勉強が忙しくアルバイトなどしている時間はないと忠告されたが、ガイドや通訳のアルバイトとともに古切手の売買をして生活の足しにしていた。

 米国には第2次世界大戦後に進駐軍が持ち帰った日本の切手が大量に残っていた。
 使用済み切手でも珍しい消印が押されていると高く売れるのだが、米国の切手商は日本語が読めないのでひと山いくらで売っていた。
 そうした切手をまとめて買い、日本の切手商に送ってオークションにかけてもらうのだ。

 なかには1ドルで買った明治時代の封書に珍しい消印が押されていて、17万円で売れたことがある。
 また当時は為替が変動相場制になって、大きく円高に動いていた時期。
 アメリカの切手カタログの値段は、日本のカタログ価格を前年の為替レートで換算してあったので、為替差益も大きかった。
 逆ににせものの高額切手をつかまされたこともある。
 切手の売買は生涯で唯一のビジネス経験だが、知識がお金になるプロセスをここで学んだ。

 高額切手や未使用の新品は売れにくく、価値は高くても顧客が求めている商品でないと売れないことも知った。
 写真の飛行郵便試行記念切手は当時のカタログで青は10万円、赤は17万円の価格がついていたものを4万円スタートでオークションに出したが売れなかった。
 一度売れ残るとあらためて売りに出す気にならず、今も手元に残している。

 切手を日本に送るときは、切手の種類やオークションの開始金額などを書き込んだリストを作って同封した。
 売れるとそのリストに落札価格が書き込まれて戻ってくる。
 買った切手をひとつひとつ丁寧に仕分けしてリストを作る作業は妻が手伝ってくれた。

 妻とは大学1年生の時に結婚し、勉強でも論文のタイプなどを手伝ってくれ、二人三脚で学んだようなものだ。
 売れ残った切手と一緒にリストも保存しているが、米国での学業と家計を支えてくれた妻には心から感謝している。


[写真]
一部の切手は今も手元に残る

日本経済新聞・夕刊、2012/10/17付
熊本県知事 蒲島郁夫(3)
米国生活支えた古切手
https://www.nikkei.com/article/DGKDZO47322060W2A011C1BE0P00/

posted by fom_club at 18:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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