★ 2014年8月20日付け日記「Jalan Mano」
★ 2014年9月27日付け日記「リトルバード」
もうひとつ、ヤッホーが気になっているのが、孫文でした。
三民主義を唱え、中国では「国父」とも呼ばれている孫文は、清朝打倒を目的に革命資金を確保するため世界中を周り、1911年の辛亥革命前の短期間にペナン島に住んでいた。
今回は孫文のマレー半島での活動とその影響について探ってみることにする。
今回は孫文のマレー半島での活動とその影響について探ってみることにする。
マレー半島訪問のきっかけ
孫文はシンガポールを含めてマレー半島を十数回訪れている。
シンガポールを初めて訪れたのは1900年。
日本の革命家で孫文を生涯にわたって支援した宮崎滔天が海峡植民地政府に逮捕され、救出に来た時に初めて足を踏み入れた。
宮崎は清朝体制を維持して改革しようとする保皇派の康有為との連携を模索するために訪れたが、逆に刺客と間違えられたのだった。
孫文は1905年に東京で中国同盟会を創設。
東南アジアに散らばる華人から資金を集めて活動を広げるため、華人の多いシンガポールに1906年に支部を開設した。
その足でクアラルンプールやイポー、スレンバンなども周った。
ペナンにも同年1906年末に支部が開設され、以後、インドネシアなど各地に支部をつくった。
一方で、孫文は1907年に同盟会の本部がある日本を離れる。
日本政府が清朝から圧力をかけられたためだが、孫文はその足でベトナムのハノイに向かう。
このときから同盟会の活動拠点は東南アジアに移るが、孫文は当初、ベトナムを本拠地とする計画をもっていた。
しかし、清朝から追い討ちをかけられ、宗主国フランスからも国外追放の措置を受け、やむなくシンガポールへ。
英語に堪能だった孫文は、各地への交通通信網がしっかりしていることなどを考慮し、1908年にシンガポールを東南アジアの本拠地とした。
ペナンでの活動
孫文の革命運動は、世界各地の華人の間でも展開されたが、清朝を擁護する反孫文派も各地に存在した。
1907〜1908年に中国で孫文による武装蜂起が失敗すると、東京で反孫文派が勢いづき、その運動は各地に影響してくる。
孫文とともに中国同盟会を立ち上げ、その後孫文の方針などに反発して離反した陶成章は1908年に東南アジア各地を訪問。
同盟会があるシンガポールやインドネシアなどで反孫文運動を展開した。
一方、孫文は1909〜10年に資金集めのため欧米を周り、その後日本に到着したが、2週間後に強制退去させられ、シンガポールに移動。
しかし、到着すると、すでに反孫文派の勢いが大勢を占めており、活動が困難な状態に陥った。
熟慮の結果、1週間後に同盟会の本拠地をペナンに移すこととした。
ペナンがあまり反孫文派の影響を受けていないことや国際港のため通信網が整備されていることなどが本拠地を移す決め手となった。
孫文は会員の再登録など組織強化に努め、1910年11月13日には家族5人が暮らすジョージタウンのダトー・クラマット通りの自宅で側近と「ペナン会議」を開く。
「中国の同志は国のために命を犠牲にしているが、華人は資金提供でのみ国を救える」と説得力のある演説を行ない、2日後にもペナンの華人を集めた会合で同じような強い調子の演説で、感銘を受けた参加者から次々と資金提供を受け、新たな武装蜂起のための資金獲得目標額10万海峡ドルのうち8000海峡ドルが即座に集まった。
しかし、孫文はその数週間後に海峡植民地政府から追放を受け、再び欧米に向かう。
ペナンには約4ヶ月の滞在だったが、「ペナン会議」で決まった武装蜂起はその後、1911年4月の広州黄花崗蜂起として結実。
この蜂起のためにマレー半島の華人が出した資金は、獲得資金の総額の4分の1に達した。
蜂起は多数の死者を出して失敗したが、この蜂起は半年後に起こる辛亥革命へと繋がっていく。
華人への影響
孫文によるマレー半島の革命運動が、地元の華人に与えた政治的な影響は大きい。
ペナンの華人の大部分にあたる中下層の労働者たちは、ペナンにある清朝の領事館の監視の目があるにもかかわらず、数ヶ月分の給与を孫文に提供するなどして活動に没頭するものもいた。
家族もおらず、孤独に働いていた彼らの故郷に対する思いを孫文は巧みに掴み、華人社会をまとめあげていった。
孫文が来る前までマレー半島の華人のアイデンティティーは出身地と言語別に違っていたが、孫文の運動を契機にその意識を一つにし、「中国人」としての民族主義を覚醒することに成功。
ペナンだけでなく、マレー半島全体で、遠く離れた故郷のことを思い、華人の意識を一つにしたという功績は、その後、華人の間で本格的な政治活動を促していく。
第二次世界大戦後には華人としてまとまった一つの民族としてマラヤ連邦独立にも貢献することになる。
senyum(セニョ〜ム)、2012年1月
革命家孫文とペナン島
葉一洋
http://www.senyumpress.com/マレーシア摩訶不思議/2012年1月−革命家孫文とペナン島/
孫文44歳、いまだ冬の時代。
暗殺者の影。彼を愛で支える女性たち。
革命への理想は、苦境にあるときこそ輝きを増していた・・・。
暗殺者の影。彼を愛で支える女性たち。
革命への理想は、苦境にあるときこそ輝きを増していた・・・。
1910年、孫文は9回目の武装決起に失敗し、国外での逃亡生活を余儀なくされていた。
清朝政府は70万両の白銀を懸賞金にして、彼の命を狙う。
やむなく孫文は革命地盤の日本を脱出し、清朝政府の手の届かないマレーシア・ペナンへと向かう。
船上で、孫文はペナンで教師をしているというルゥオ・ジャオリンという青年に出会う。
ジャオリンは「困ったことがあったら言ってほしい」と、孫文に名刺を渡す。
ペナンへ到着した孫文は、裏でアヘン業を営む富豪華僑シュー家に身を寄せることになる。
シュー家の頭領シュー・ボウホンは孫文を同国人として歓迎するが、「ここでの革命活動はやめるように」と言い渡す。
華僑たちは、失敗続きの孫文の革命を信用できなくなっていた。
孫文は、シュー家でジャオリンに再会する。
ジャオリンはボウホンの娘、ダンロンの恋人だったが、実はそれは表向きの姿にすぎなかった。
ジャオリンの本当の正体は、孫文暗殺の密命を受けた清朝の密偵だった。
ジャオリンは孫文がシュー家に滞在している間に暗殺を目論むが、ダンロンが孫文に興味を持ち何かと接近するため、なかなか実行に移せない。
資金調達が適わないと知った孫文は、シュー家を離れ、ペナン同盟会のホワンを訪ねる。
そこには、10年来孫文の革命を支え続けてきた女性同志、チェン・ツイフェンも駆けつけてきていた。
孫文はツイフェンとの再会を喜ぶが、ツイフェンは南洋での逃亡生活に複雑な思いを抱えていた。
ツイフェンは孫文との穏かな生活を夢見ていた。
だが同時に、革命に生きる孫文に、穏かな日々はありえないと悟ってもいた。
ある日、孫文は港で不当な扱いを受けていた中国人労働者を助ける。
孫文は労働者にも権利があることを諭し、彼等のために弁舌を振るう。
孫文の交渉により、永きに亘る港での労働者と雇用者の対立は解決した。
労働者から「中国のために」という心からの献金を受けた孫文は、再び革命への心を奮い立たせる。
しかし・・・肝心の富豪華僑たちの心は動かず、孫文の資金集めは危機に瀕していた。
孫文の一連の行動に心惹かれたダンロンは、富豪たちが集まるシュー家のパーティーに孫文を招待することを決める。
それを知ったジャオリンはパーティーでの孫文暗殺を画策する。
暗殺者に狙われていることを知りつつ、孫文は資金調達のために、パーティーに参加する。
だが富豪たちの態度は冷ややかだった。
暗殺者の動きに気づいたツイフェンは孫文の救出に向かうが、何も知らずに後を追ってきたダンロンが銃撃戦に巻き込まれてしまう。
ダンロンが傷ついたことを知ったジャオリンは動揺し、思わず孫文たちの逃走に力を貸してしまう。
ダンロンは孫文の手当てを受け回復するが、ジャオリンはすぐ側にいながら孫文を殺せなかった自分に困惑する。
孫文の死さえ恐れない不屈の革命精神は、ダンロンだけでなく、ジャオリンの心にも影響を与え始めていた。
孫文の革命は瀬戸際まで来ていた。
失敗が重なり、同盟会の内部でも意見が対立し、過激派に転ずるものも出てきている。
孫文はもう一度ボウホンの屋敷を訪ね、資金調達を願い出る。
今ではすっかり孫文に心酔しているダンロンは、孫文に賛同しないのなら自殺すると、父親を脅した。
しかし孫文は「我々中国人は最後まで堂々と自分の命を生きなければいけない」と彼女を諭す。
そしてボウホンに、
「アヘンで中国人の尊厳は救えない。国内が平和なら、異国で生きる必要はない。革命は中国人が胸を張って生きることだ」と訴える。
イギリスの統治国家に暮らし、イギリス人の商売敵グラントから嫌がらせを受けているボウホンは、その孫文の言葉が胸に染みた。
ついにボウホンは孫文に賛同し、資金調達のための講演会を開くことを決める。
それは、清朝の暗殺者にとっても最後のチャンスだった。
ツイフェンたち同志は安全のため孫文を行かせまいとするが、孫文の意志は変わらなかった。
同胞を前に演説を振るう孫文に、銃口が向けられる。
いち早く気づいたツイフェンが迎撃に向かうが、狙撃主を殺し孫文を守ったのは、彼女ではなかった。
そこでツイフェンが見た、“その人”とは・・・。
演説は大成功を収め、孫文は多額の革命資金を手にすることが出来たが、、、
清朝政府の手はペナンにも迫っていた。
強制出国を命じられた孫文は、再び船上でその人物と出会う。
最後に孫文を守ったのはジャオリンだった。
ジャオリンは、孫文の革命に参加する覚悟を決めていた。
次第に遠ざかるペナンの町。
その岸に、二人を見送るツイフェンとダンロンの小さな姿があった。
「帰りを待ちましょう」と言うダンロンに、ツイフェンは寂しく微笑む。
孫文、革命成就の1年前。
それはまさに、中国を近代国家の夜明けへと導く船出だった――。
『孫文、100年先を見た男』
https://www.kadokawa-pictures.jp/official/sonbun/index.shtml
『孫文、100年先を見た男』を見た。
原題は「夜・明(Road to Dawn)」。主演はアン・リー(李安)監督の父親三部作の一つ「ウエディング・バンケット」で主演したウィンストン・チャオ(趙文宣)。
孫文生誕140周年記念で2006年中国製作。
香港のデレク・チウ(趙崇基)監督作品。
辛亥革命成功前夜、9回の蜂起失敗を経て、亡命先の日本からペナンへ移った時期の孫文を描く。
孫文は梅屋庄吉や宮崎滔天ら日本人との交流がよく知られているが、清朝政府の要請で日本政府から国外退去命令が出て、亡命していた日本からペナンに逃れる。
革命資金獲得のためにアヘンで財をなした華僑の大物、徐氏に接触。
娘の丹蓉(アンジェリカ・リー=李心潔)の恋愛や結婚話、活動への協力などを織り込みながら、孫文本人も長く自らの活動を支えてくれた看護士の陳ツイフェン(ウー・ユエ=呉越)との愛を確認する。
自らが暗殺されるかもしれないのに、革命資金を獲得しようと華僑たちのパーティーで演説するなど、命を狙われる様子がサスペンスタッチで描かれたり、いろいろなエピソードが盛り込まれ、引き込まれた。
2時間超の作品だが面白く見ることが出来た。
ところで、孫文の奥さんといえば、いわずと知れた宋家の三姉妹の次女、宋慶齢だが、ま、いろいろとあったんだな。
陳ツイフェンはペナンを離れる孫文についていかず、そのままペナンに居ついて、辛亥革命が成功して臨時大総統となった孫文とは二度と会わなかったらしい。
徐氏の娘、丹蓉役のマレーシア出身の李心潔が、現地人と中国人の混血なのか、エキゾチックで濃い容姿がひきつけた。
ペナンの風景や建物も、行ってみたいなあ、と思わせるものだった。
Takepuのブログ、2009-12-17 00:32:35
中国旅行記とか、日ごろ思ったことなどを書きたいと思います
映画『孫文』見た
https://blog.goo.ne.jp/xmengfu/e/e0b4c68e53f250c5f02bbad1ba9fba0a
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