2015年05月31日

ムードアクション

 今日の「リリー物語」は、今月5月18日付け毎日新聞夕刊からです:

 昭和の日本人は「寅さん」が好きだった。僕は映画「男はつらいよ」シリーズをすべて見た。23歳下の長男も全部、見ている。
 渥美清さん演ずる「テキ屋の車寅次郎」はすぐ怒り出す“単細胞”。でも、義理人情にめっぽう厚い。全48作で44人のマドンナに出会い、その度に恋をする。ほとんどが片思い。時に、心が通じ合うこともあるが…、妹のさくらに「○○さん、お兄ちゃんが好きなんじゃないの?」と言われても「冗談を言うんじゃねえよ」と粋がってみせたりする。
 全48作で失恋した相手が44人…、計算が合わないのは、吉永小百合さんの「小説家の娘・歌子」が2回登場。それに浅丘ルリ子さんの「旅回りのキャバレー歌手・松岡リリー」が4回も登場しているからだ。
 寅さんは北海道・網走で、男勝りのリリーに出会い(第11作「寅次郎忘れな草」1973年8月)、雨の帝釈天参道を一つの傘を差して歩くまでになった(第15作「寅次郎相合い傘」1975年8月)。そして、第25作「寅次郎ハイビスカスの花」(1980年8月)で、リリーが入院した沖縄の病院に駆けつける。「俺とこの女は生まれる前から運命の不思議な赤い糸に結ばれているんだよ」。赤い糸?
 中国の北宋時代の「太平広記」にこんな話が残っている。“モテない男”が不思議な老人から「私が男女の足首に決して切れない縄を結ぶと、二人は結ばれる」と教えられた。「俺の相手は?」と聞くと「野菜売りの老婆が育てる3歳の女の子だ」。怒った男は召使に幼女の眉間(みけん)を刀で一突きにさせる。
 ところが、14年が過ぎ、男が結婚すると、相手の美しい娘の眉間には「あの傷」が残っていた。
 恐ろしい話でもあるが、日本では「小指をつなぐ見えない運命の赤い糸」として広がった。
 第48作「寅次郎紅の花」(1995年 12月)で、寅さんは奄美群島加計呂麻島(かけろまじま)で偶然リリーと出会う。いつかは、二人は…、だが、渥美さんの急死で、これが最終作になってしまった。最後まで、寅さんは…、片思いだった。

(客員編集委員・牧太郎(1944年生まれ)の大きな声では言えないが…:寅さん「片思いの美学」)
http://mainichi.jp/shimen/news/20150518dde012070004000c.html

 お待たせしました、ではここで「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」を見てみましょう:
https://www.youtube.com/watch?v=xbP0B_EzVPU

 そして寅さん最後の作となった「男はつらいよ 寅次郎紅の花」:
https://www.youtube.com/watch?v=2LrvL_qI0Ik
https://www.youtube.com/watch?v=2fVU1deu4vk
https://www.youtube.com/watch?v=X8RfHNss09I

「寅さん」はもちろん「昭和の名画」ですが、ここで、ヤッホー君、どうしてもリリー出演の名画「夜霧よ今夜もありがとう」(1967年3月、監督・江崎実生)を挙げたいのだそうです。
 昨日も登場願いました佐藤利明さんに連続で語っていただきます:

 この曲と映画については、そのDVD-BOXのブックレットのための解説から一部、引用させていただきます。
 石原裕次郎と浅丘ルリ子のコンビによる“ムード・アクション”は、昭和30年代末から40年代にかけての日活アクション成熟期に、多くの佳作を残している。裕次郎映画のメイン監督である舛田利雄監督の『赤いハンカチ』(1964年)、松尾昭典監督の『夕陽の丘』(1964年)や『二人の世界』(1966年)など、裕次郎の甘い歌声をフィーチャーした大人のラブ・ストーリーに、アクションを巧みに配したムード・アクションは、裕次郎映画の新たな境地となった。
 ムード・アクションという言葉は、日活宣伝部が『夕陽の丘』の宣伝コピーとして作ったものだが、映画評論家の渡辺武信氏は『憎いあンちくしょう』(1962年)から『波止場の鷹』(1967年)までの間に作られたものが、ムード・アクションと定義している。いずれも、自己のアイデンティティとロマンに生きる「男」と、現実的な幸福を求める「女」の葛藤をさまざまなドラマの中で描いた作品である。
 そういう意味では『夜霧よ今夜も有難う』は”ムード・アクション”の条件を満たした佳作となった。浜口庫之助作詞・作曲による主題歌は、歌謡史に燦然と輝く名曲で、裕次郎の甘い歌声とともにファンに今なお愛され続けている。(中略)
 外国航路の貨物船の船長・相良徹(石原裕次郎)が、バレエダンサーの北沢秋子(浅丘ルリ子)と婚約するが、秋子が結婚式の当日に失踪。失意のうち船を降りた相良は、それから数年後、横浜で外国人相手のクラブ“スカーレット”を経営しながら、密出国を斡旋していた。ある日、秋子が夫である東南アジア某国の革命派幹部グエン・ホアダイ(二谷英明)と共に密出国させて欲しいと現れる。
 再会した二人の間には「1500回の昼と1500回の夜」が過ぎていた。失われた過去の為に、目の前に現れた秋子の現実を、受け入れる事の出来ない相良。過去と決別するための克服のドラマは切なく、まさにムードアクションの面目躍如。(中略)
 本作のムード作りに貢献しているのが、魅力的なダイヤローグの数々。野上竜雄、石森史郎そして江崎監督によるシナリオには名台詞がちりばめられている。相良と秋子が交す失われた4年間についての「1500回の朝と昼、そして夜」の会話。ピアノを弾く裕次郎の前に現われた秋子が「貴方の好きなもの。雨上がりの舗道…ひとりぼっちのゴリラ…」と相良が好きだったものを挙げ、続いて「私の好きなもの」を挙げてゆく…

(2009/11/03 11:42 佐藤利明のTICKLE ME 娯楽映画と音楽と)
http://toshiakis.at.webry.info/200911/article_3.html

 2012年3月2日には浅丘ルリ子自身が選んだ『夜霧よ今夜も有難う』を上映しています(於有楽町マリオン):

浅丘さん: 私にとって“映画”とは、学校であり、青春であり、夢であり、歩むべき人生の道標(みちしるべ)です。私にとって、歩んできた道そのものが、“映画”なのです。

浅丘さん: 私は映画を観ることが大好きで、今までに2000本近くの作品を観てきました。だから最初は、自分が映画に出ていることが、何と不思議な事か!と思いました。今日まで歩んでこられたのも、沢山の人たちに護られているお陰です。もし、生まれ変わっても、また“映画女優”になります」

浅丘さん: 石原裕次郎さんとは37本、小林旭さんとは42本ご一緒しました。365日、家族よりも長い時間一緒にいて、嫌な所も良い所も全部見ました。蔵原監督は、私の中に無いモノ、有るモノを、これでもか、これでもかと引き出してくれました。皆さん、本当に素敵で、その当時は本当に恋をしていましたよ。

(映画産業団体連合会[映団連]セミナー「私が愛した映画」)
http://www.eidanren.com/seminar_04.html

 この映画のなかにさりげなく入り込むそのときどきの「時代性」、それがまた暗い映画館で時を過ごす多くの人びとに共感と感動の輪を広げていくのだろう、と。
 これもシナリオライターや映画監督の大事な技、「時代性」を見抜く眼力のなせる才能なんだろう、と。
 
 ではこの“ムード・アクション”がどう時代と赤い糸で結ばれていたのか、と言いますと:

全国で革新自治体広がる
 1967年4月の都道府県知事選挙で、東京都では社会・共産両党が推した経済学者の美濃部亮吉氏が当選し、革新知事が誕生しました。それ以前にも京都府では蜷川虎三知事、横浜市では飛鳥田一雄市長など革新首長が選出されていましたが、1967年はこの傾向が強まりました。1971年には、大阪府の黒田了一氏(憲法学者)を含む160の革新首長が活動しています。これらの背景には、高度経済成長の結果、全国で公害問題や都市問題が深刻化して住民運動が活発になったことなどがあります。革新自治体は、政策面では環境保護のための公害規制や福祉の充実など政府の行政よりも人権保障を重視した政策を実行して、政治をリードしました。そのため、国の法律よりも人権保障に厚い自治体の条例は法律に違反するのではないか、憲法上問題になりました。「地方自治の本旨」(憲法92条)に基づき地方の政治を優先させるのか、中央政府による集権的な政治を優先させるのかに関わる根の深い問題です。

ベトナム戦争と日本
 ベトナム戦争は大変長く、かつ極めて残虐な戦争でした。エポックメーキングなことはたくさんありますが、良心的兵役拒否ともいうべき行為をした4人の米兵を日本の市民が支援した1967年を採り上げます。
 第一次インドシナ戦争で北ベトナム(ベトナム民主共和国)に敗北したフランスは1954年、ベトナム統一総選挙実施を決めた休戦協定(ジュネーブ協定)を結びました。2年後のこの選挙の実施に危機感を持ったアメリカは、南ベトナム(ベトナム共和国)の軍事支援に乗り出しました。これに対して南ベトナムの反政府勢力は1960年、南ベトナム解放民族戦線を結成、これを支援する北ベトナムと南ベトナム・アメリカとの第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)は深刻な戦争に発展しました。アメリカはピーク時には軍艦を含めると68万人を超える軍隊を派兵して北ベトナムをも爆撃、第二次世界大戦に使用した3倍の砲爆弾、枯葉作戦、ナパーム弾など大量破壊兵器を動員しました。100万人を超える死者と数千万人の負傷者を出して戦争が終結したのはやっと1975年でした。世界最強を誇るあるアメリカが、東南アジアの小国ベトナムに完全に敗北を喫したことに、世界は驚愕し、刮目しました。
 冷静にみると、アメリカが敗北せざるを得ない理由がありました。一つは南ベトナムでの戦争が地主階層から土地を解放する戦争として農民らの強い支持を得ていたことです。もう一つは、ベトナム民族の強固な自決権を軽視していたことです。他人(地主)や他国(フランス、日本、アメリカ)に支配されず自由で人間らしい生活をしたいという欲求は人間にとって基本的なものです。アメリカは、これを資本主義と共産主義の代理戦争と位置づけましたが、それではベトナム人の強力な抵抗を説明することはできません。アメリカは本質を見誤った愚を犯したと言えるでしょう。しかし、今アメリカは「歴史に学ぶ」ことをしないで、イラクやアフガンでの戦争をイスラム原理主義との戦いとみなし、同じような間違いを犯しているかに見えます。
 日本政府は一貫してアメリカの政策を支持し続け、沖縄はベトナムへの出撃拠点となりました。横須賀などの本土の基地も提供しました。報道されていないようですが、深夜の東京近郊の米軍基地には戦車のチェーンについた肉片を洗い落とす、一桁違う高級の学生バイトの姿がありました。日本の支援なくしてはアメリカのベトナム戦争は不可能だったという点で、日本は戦後も、朝鮮戦争に続いてアジアに対する加害国になりました。「戦後の日本は平和だった。日本人は平和ボケだ」としばしば語られます。しかし、日本は国際法上はこの時点で戦争当事国だったと言えます。ベトナム戦争は戦争犯罪であり東京法廷も開催されましたが、安保条約にも違反していました。第6条に在日米軍の守備範囲として規定されている「極東」の範囲を超えており、日本を基地として米軍が出撃する場合には日本と事前に協議するという条項も完全に破っていました。

(法学館憲法研究所「1967年」)
http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1967.html


posted by fom_club at 06:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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