2015年05月30日

木村礎

 今日の「リリー物語」はちょうど一年前になりますかね、昨年2014年の東京新聞からです:

 日本を代表する映画女優、浅丘ルリ子さんが演じた、放浪の歌姫・リリー松岡は、寅さんにとっても「男はつらいよ」シリーズのファンにとっても特別な存在です。第11作『寅次郎忘れな草』で北海道の網走で出会い、柴又で楽しい日々を過ごしたリリーは、ラストで寿司職人(毒蝮三太夫)と所帯を持ちます。
 それから2年、第15作『寅次郎相合い傘』は、夫と別れ再びドサ回りの歌手となったリリーが柴又を訪ねますが、寅さんは不在。別れ際に「そのうちまた来るね」というリリーに、さくらは「お兄ちゃんと一緒にね」と言います。冗談めかしているのですが、これがさくらの本音であり、ぼくたちの思いでもあります。
 中盤、寅さんがリリーをキャバレーに送って、とらやに戻って来たときに、しみじみ言うのが、今日のことばです。「お金があったらどうするの?」とさくら。寅さんは「リリーの夢を叶(かな)えてやるのよ」と答えます。 
 場末のキャバレーで酔客相手に聞いても貰えない歌を唄うリリーが可哀想で、自分にお金があったら、歌舞伎座や国際劇場のような大きな劇場を借り切って「リリー松岡ショウ」を開いてやりたいと語ります。
「寅さんのアリア」と呼ばれる独り語りで、夢の大舞台への思いを馳せる寅さん。「皆さま、大変長らく、お待たせをばいたしました」と司会者の口調でリリーを紹介します。この「アリア」の「リリーの夢」は「寅さんの夢」でもあるのです。
 浅丘ルリ子さんが、この場面が大好きだと話してくれたことがあります。その理由は「寅さんのリリーへの愛が溢れているから」。
 この後、雨の柴又駅まで、番傘を持った寅さんが、リリーを迎えに行く場面があります。寅さんは「散歩よ」とうそぶきますが、リリーは寅さんの優しさに感激します。「寅さんが風邪を引いて寝込んだら、私つまんないもん」
 寅さんはリリーを想い、リリーは寅さんを愛しているのに、この二人はなかなかうまくいきません。でも、人が人を思うことの素晴らしさがこの作品に溢れているのです。

(2014年5月21日付け東京新聞、娯楽映画研究家・佐藤利明「溢れるリリーへの愛」)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/torasan/list/CK2014052102000130.html

 毒蝮三太夫さんは1936年生まれ、これに対しこの佐藤利明さんは1963年生まれ。
 東京新聞に連載されたこの「寅さんのことば・第一部」は、”オリジナル・サウンドトラック大全”CD『寅次郎音楽旅〜寅さんのことば』としてまとめられています(ユニバーサル ミュージック、2014年4月発売)。
http://toshiakis.at.webry.info/

 今日も「リリー物語」はここまで。

 と言いますのも昨日5月29日金曜日の午後、傘をさしたヤッホー君は明治大学(注1)を徘徊中、大発見!
 地下にある「博物館」。
「絵図にあらわれる村の景観と生活」展でイマは帰れぬヤッホー君の故郷の古図、「出羽國村山郡山口村山論絵図」と遭遇してしまったのです。
https://www.meiji.ac.jp/museum/exhibition/6t5h7p00000i7w3k-att/ex2015B.pdf

 図録については今回、制作していないそうでザンネン、しかし2007年の特別展のときの『明治大学所蔵 村絵図の世界−故郷の原風景を歩く−』が参考になります。
http://www.meiji.ac.jp/museum/shop/zuroku-syousai.html

 企画した木村研究室は、学長でもあった故木村礎(きむら もとい、1924-2004)先生がはじめたところ。
 お弟子さんのおひとり、専修大学教授だった青木美智男(1936-2013)先生(注2)はこんなことを:

 …研究姿勢を大学の定年まで41年にわたって貫かれた。調査を一年の休みもなく実施された。それはどんなテーマでも変わることのない手法だった。広範囲に現地を歩く。そして村の古文書を探し、整理し目録を作成して筆写する。こんなことの繰り返しが毎夏続いた。木村研究室の書棚には筆写された古文書の製本が何段にもわたって並んだ。
 私は木村さんの没後、御夫人に、先生は合宿調査の費用はどうされたのですか、と質問をしたことがある。夫人は公的機関から依頼された調査以外は全部木村の負担ですと答えられた。その時、愕然とすると同時に、木村さんの村落史研究への情熱と、古文書調査に賭ける執念のすごさに感動を覚えた。そういえば合宿の宿舎が廃寺の本堂であったり、町や村の公民館など、風呂のないような粗末な施設ばかりだったことを思い出す。経済的に大変だったのだなあとしみじみ思う…
 今年もまた暑い夏がやってきた。生前の木村さんなら、合宿調査の準備も終わり一安心しているころだろう。事前に今夏の調査目的を確認し研究史を読み込んで現地へ向かう。だから空振りがほとんどない。そして必ず共同研究の成果が公刊される。一見大胆そうに見えるが、きわめて細心で用意周到な研究者だったのである。

(青木美智男「木村礎さんの近世村落史研究へのこだわり」日本経済評論社PR誌『評論』184号所収)
http://www.nikkeihyo.co.jp/critiques/view/97

 先生の村落史研究はこのように、初めから結論ありきのようなイデオロギー先行でなく「頭」でなく「足」exclamation×2
 それこそ農民のようにその土地に這いつくばって、遺跡の発掘調査のように、古文書の発掘調査を基礎して積み上げていく研究手法ですが、この研究態度や意識はどこからくるのでしょうか。
 面白いエピソードが残っております:

 俗っぽい事例ではあるが、ある会話を紹介する。1971(昭和46)年5月、千葉県の旧家に合宿調査の事前打ち合せのため木村に同行したことがある。
  大檀那「ところで、木村先生はどちらのお生まれですか」
  木村「江戸川区の小松川ですが、今は葛飾に住んでます。東京の下町です」
  大檀那「へえ〜、あそこに学者が育つ風土があるんですか」
 その日の帰りの国鉄総武本線列車内におけることば。
  木村「君、あの通りかもしれないな。今、下町に4年制の大学は無いんだよ。まあ、商船大はあるけど、あれはまた特別だ」

 当時、学者に多かった富豪・エリート階級といった類の家に生まれたのではなく、父は茨城出身でガス会社の集金係、母は女工として勤めたことがある主婦業であった。その後、この近隣に多くあった長屋を何箇所か転居した。上の兄二人に比べ「悪童」ぶりがはじまったのは小学校3年時からであった。成績も良くはなかったが、それでも少しずつ上昇した…
 安田商業学校に入学した。在学中、最も熱中したのは勉強ではなく読書であったが、教練では態度が良くないとして体罰を受けたり、2600年記念式典の作文のことでは内容が悪いというだけではなく、普段の行状についても叱責された(ただし左翼系の少年というわけではない)。こうした類のことは…いってみれば木村の少年時代は本人が筆者に語った通り、「下町のあんちゃん」だったのである。

(鈴木秀幸(注3)「木村史学における文化史論」『明治大学史紀要第16号、2012年、所収)
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/14058/1/daigakushikiyo_16_94.pdf


(注1)ヤッホー君のこのブログ、2013年9月26日付け日記「生き続ける天心の理想」参照。

(注2)2013年9月20日発売『小林一茶』(岩波新書)
『歴史評論』(2013年8月)に、この本の著者青木先生のインタビュー記事が掲載されています。先生は次のように語っています。

 一茶の句に「世直し」という言葉が晩年の句にもしばしば登場するのは驚きの連続でした。一茶といえば小動物や子どもに優しい眼差しを向けた俳諧師という印象が強かったので、発句集に収められている句を全部読んで仰天です。こんなに社会や政治性豊かな句を読む俳諧師だったのかと見直し、日記・書簡・読書記録などすべてに目を通し、一茶の句を史料として使って化政期という社会を論じてみることにしたのです。

 長年の研究成果を踏まえた本書では、次のような句が紹介されています。新鮮ではありませんか?

 福島出身の歴史研究者として、災害史研究を一過性のものとしないように注力したいと話しておられた青木先生ですが、本年2013年7月、突然逝去されました。まだまだ、取り組んでいただきたい課題は多くありました。心よりお悔やみ申し上げます。
(岩波新書 編集部だより)
https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1309/sin_k729.html

(注3)
 夏目漱石の母校・錦華小(現・お茶の水小)から名をとった錦華坂。「漱石ゆかり」の印象を持つ人もいるが、1924(大正13)年の計画で生まれた“新坂”だ。1923年9月の関東大震災。直後の大火。見上げる崖が逃げ道をふさぎ、数知れぬ悲鳴が炎にのまれた。復興とともにできた坂は崖上の駿河台へ延び、学生らの笑い声が響く。大震災を語るものは、そこにない。

 〈本学西方の崖下には錦華小学校の大建築あり(中略)火は瞬く間に同校を焼尽し火先は直ちに崖上なる本校新館の一角に移り火勢縦横に奔馳して…〉

「大震災に就て」と題した明治大大学報第84号(1923年)は「凶火」の猛威をまざまざと伝える。「関東大震災と学園復興」を大学紀要「紫紺の歴程」に書いた鈴木秀幸さん(63)=同大大学史資料センター、文学部講師=は「明大だけでなく辺りも3日間、燃え続けたようです」と語る。
(平成19年9月号『定年時代』坂のある街「大震災が生んだ道、錦華坂/千代田区」)
http://www.teinenjidai.com/syumi/saka/h19/09/index.html


posted by fom_club at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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