2015年05月24日

東京八景

「東京八景」はフ・シ・ギexclamation&question
 
 太宰治という小説家を知っているでしょう。「走れメロス」(1940年「新潮」に発表)「富嶽百景」(1939年2、3月「文体」に発表)その他、中・高校の教科書にもいくつかの作品が採択されており、若い人たちのあいだでは今でもずいぶん人気があります。その太宰治に「新ハムレット」(太宰治最初の書下ろし長編小説、1941年7月文芸春秋社から刊行)という作品がある。登場人物もだいたいの環境もシェイクスピアの「ハムレット」と同じですが、それを大胆に太宰流に作り直してしまった作品で、一応は戯曲の形式をとっている…
 作者の太宰治はこんなことを言っています:

「此の作品の形式は、やや戯曲にも似ているが、作者は、決して戯曲のつもりで書いたのではないという事を、お断りしておきたい。作者は、もとより小説家である。戯曲作法に就いては、ほとんど知るところが無い。これはいわばLESEDRAMAふうの、小説だと思っていただきたい」

 LESEDRAMA(レーゼドラマ)というのは、上演されることを目的としないで、読むだけのために書かれた脚本のこと。この「新ハムレット」は、太宰治が死んでから30年もたった後に芥川比呂志氏(1920- 1981)の演出で上演されました(※)…。

 太宰治という小説家は小説の新しい形を考え出そうとしていろいろ苦労した人ですが、その太宰に「虚構の春」(1936年7月「文学界」に発表)という小説があります。これがまた風変りな小説で、自分のところにきた手紙をよせ集めただけの作品です。もっともそのうちの四分の三ほどは太宰自身が創作した虚構、つまり作り話ですが、あとの四分の一は、佐藤春夫(1892-1964)、井伏鱒二(1898-1993)、壇一雄(1912-1976)、山岸外史(1904-1977)ら先輩や友人からの手紙を、ほとんどそのまま使っています。手紙を並べただけのものですから、もちろんストーリーもない。そんなものを小説と呼んでいいのかな、といぶかしがる人も多いかと思いますが、太宰自身はこれを小説と考え、小説として発表したのです。
 これは一つの例ですが、小説というのは、どんなことをどんなふうに書いてもいい、きわめて自由な表現形式であるということを知っておいてください。

…野原一夫『小説家になるには』(ぺりかん社、1993年7月)51-53頁

(※)1975年になって芥川は、当時主宰していた劇団雲により『新ハムレット』を上演した。

 野原一夫先生のぶんぶく、じゃない、文学講座でした。
 それにしても今回、大分野原一夫先生にはお世話になりました。
 
 あっ、そう、そう、太宰治をフ・シ・ギ…がらずにいいのです、逆に、脱帽、敬礼!
 ところで“東京八景”って何々あるの?
 ここでヤッホー君、へたりこんでしまいます。
「辰巳八景」については以前、ヤッホー君のこのブログ、2013年09月21日付け日記「salon de モダン」で記したことがありました:

  ● 富ケ岡の暮雪
  ● 相生橋の秋月
  ● 小名木川の晴嵐
  ● 霊岸の晩鐘
  ● 州崎の落雁
  ● 安宅の夕照
  ● 木場の夜雨
  ● 佐賀町の帰帆

 太宰治は…

 東京八景。私は、その短編を、いつかゆつくり、骨折つて書いてみたいと思つてゐた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思つてゐた。私は、ことし32歳である…
 東京八景。私はそれを、青春への訣別の辞として、誰にも媚びずに書きたかつた。

…太宰治全集、前掲書、73頁

 書きたかった「東京八景」、しかし予告編だけで本編はなかなかはじまらないのです:

 私は、今は一箇の原稿生活者である。旅に出ても宿帳には、こだはらず、文筆業と書いてゐる。苦しさは在つても、めつたに言はない。以前にまさる苦しさは在つても私は微笑を装つてゐる。ばか共は、私を俗化したと言つてゐる。毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちてゐる。私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言つた。

「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守つて行くつもりだ」

 その時に、ふと東京八景を思ひついたのである。過去が走馬燈のやうに胸の中で廻つた。
 ここは東京市外ではあるが、すぐ近くの井の頭公園も、東京名所の一つに数えられてゐるのだから、此の武蔵野の夕陽を東京八景の中に加入させたつて、差支え無い。あと七景を決定しようと、私は自分の胸の中のアルバムを繰つてみた。
 併しこの場合、芸術になるのは、東京の風景でなかつた。
 風景の中の私であつた。
 芸術が私を欺いたのか。私が芸術を欺いたのか。
 結論。
 芸術は、私である

  ● 戸塚の梅雨。
  ● 本郷の黄昏。
  ● 神田の祭礼。
  ● 柏木の初雪。
  ● 八丁堀の花火。
  ● 芝の満月。 
  ● 天沼の蜩。
  ● 銀座の稲妻。
  ● 板橋脳病院のコスモス。
  ● 荻窪の朝霧。
  ● 武蔵野の夕陽。

 思ひ出の暗い花が、ぱらぱら踊つて、整理は至難であつた。また、無理にこさへて八景にまとめるのも、げびた事だと思つた。
 そのうちに私は、この春と夏、更に二景を見つけてしまつたのである…

…前掲書、94-95頁

「芸術は、私である」…すごい”アフォリズム”ですよね、恐れ入谷の鬼子母神。
「芸術は爆発だ!」ってヤッホー君のこのブログ、2015年01月02日付け日記「岡本太郎」を記しながら考えたことがありますが、それよりもすごい謹厳実直、ん? 金言です(注)。
 あの頃もそう、イマもそう、なんでしょうね、日本人って。
 物言えば唇寒し秋の風、みたいに下々では「見ざる聞かざる言わざる」が珍重され、上はイマ、何でも初めに結論有りき、あとは嘘でもでたらめでもいい、ていねいにご説明すれば、粛々と物事がすすんでいくんだ、物事がしくじっても、誰も責任をとる必要もないんだから安心立命、だって下々から追及されたことって日本の歴史にゃないでしょと、すべて上から目線で突っ走るこの国の姿。
 こんなご時勢だからこそ「私」がいなければ何も見えないし、聞こえないよ、だからたった一人ぼっちになったって、「私」は言うことは言うよってのは、とっても大切なことです。
 「私」はわたしでも俺でも、おれでも僕でも、ぼくでもおいらでも、それがしでも拙者でも、余でも吾輩でも、第一人称!
 そう、皆んなが「私」!

 きみにいつか話をしたかもしれないが、俺は太宰治の口述筆記を聞いたことがある。「フォスフォレッスセンス」(1947年「日本小説」7月号に発表)という小説だったが、雑誌の締切日がきても、太宰さんは一行も書いてなかったんだな。雑誌の編集者は、原稿をもらえなくちゃ帰れないって言うんだ。仕方がなくて口述でやることになったんだが、そう、ものの20分ほども考えていたかな。ゆっくりとしゃべりだした。俺はたまたまそこに居合わせてそれを聞いていたんだが、すこしの淀みもなく、一定のリズムをもって言葉が口から流れ出てくるんだな。俺は目をつぶってその言葉を追っていたんだけど、次第にからだが震えてきたね。しゃべっている言葉が、そのまま、見事な文章になっていくんだな。天才、を感じたね。
…野原一夫、同書、140-141頁
…野原一夫『回想 太宰治』(新潮社、1980年)162-165頁


(注)野原一夫はもうひとつのアフォリズムを紹介しています:

 ビールがお酒にかわり、やがてそのうち、
小説を書くというのは、日本橋のまんなかで、素っ裸で仰向けに寝るようなものなんだ
 だしぬけに、ごくさりげない口調で太宰さんはそう言った。私は緊張した。太宰さんはすこし笑って、
「自分をいい子に見せようなんて気持は、捨てなくちゃ」
 ああ、と私は、胸のなかでうなずいた。この一言は、こたえた。
 太宰さんは、しばらく黙っていたが、
文章を書くというのは、固い岩に鑿をふるようなものでね、力仕事なんだ。岩は固いほどいい。脆い岩だと、ぼろぼろに崩れてしまう。固い岩に向って」
 左手を前に突き出し、その手のひらに鑿をふるうような仕草をして、
「鑿をふるう。彫りきざむ。すこしづつ、すこしづつ、形が見えてくる。格闘だ。きみの岩は、すこし脆すぎたようだ」
 その、鑿をふるう仕草をしている太宰さんの目は、いきいきとしていた。

…野原一夫『回想 太宰治』23-24頁


posted by fom_club at 07:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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