2015年05月17日

湯河原で歴史散歩

 ヤッホー君の湯河原への一泊二日の湯の旅。
 二日目のタウンウオーキングは、歴史散歩。
 土肥一族の菩提寺・城願寺、小田原でお墓(北条氏政、氏照)参りに、小田原城。
 あっ、その前に五月みどり(1939年生まれ、75歳)のお店でお買い物。

五月みどり.jpg

 若々しさ、女らしさ、かわいらしさ、前向きな生き方で絶大な人気を誇る五月みどりさん。その輝きの元はどこに?3度の結婚と離婚を繰り返し…、それでも「人を恨まない、悔やまない、受け止める」が五月さんのポリシー。常に前向きな姿勢が、五月さんの笑顔を輝かせる。その他、健やかな体をキープするための食事のこだわり、「笑顔が最高の化粧品」という美容意識、自分に一番似合う装いのための創意工夫、オペラや腹話術などへのチャレンジ、オリジナルクラフト作品の制作、一人でも多くの女性に美しくなって喜んでもらいたいとの思いで始めたファッション&雑貨ショップなど、一刻も休むことを知らない五月さんの活動ぶりを軸に、いくつになってもイキイキと自分らしく輝いて生きるヒント満載の一冊。
(五月みどり『きれいのヒ・ミ・ツ』(主婦の友社、2014年5月)
http://shufunotomo.hondana.jp/book/b177418.html

 ではさっそく駅前から:

土肥實平公その夫人像の由来
 土肥實平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。
 1180(治承4)年、源頼朝公伊豆に興るや、いち早くこれを援け、石橋山合戦には、土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍艦、追捕使、宿老として多くの功績を残した。公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。
 公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食糧を運び、消息を伝えるなど、その"心さかさかしき"(源平盛衰記)は武人の妻の鏡として後世にまでたたえられている。ここに、源頼朝旗揚げより800年を迎え、土肥会創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の遺徳を後人に伝えんため、土肥實平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、その館跡、御庭平の地にこの銅像を建立したものである。


土肥夫妻.jpg

 源頼朝股肱の臣 土肥実平は、10世紀頃から関東に勢力を伸ばした平氏の一族の出で、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に住んで土肥を名字としました。源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると嫡男遠平とともに参画し、以後数々の合戦に出陣、頼朝の信任篤い将となりました。富士川の合戦後に頼朝・義経兄弟が対面した際にはその取次ぎをしたことで知られています。平家追討の戦いでは義経を補佐して功を立て、備前・備中・備後の守護職が、嫡男遠平に安芸国内の地頭職が与えられています。土肥氏と西国との関わりはここに始まります。
 平家滅亡後も、かつて補佐していた義経追討や、奥州征伐などの合戦にも加わり、頼朝股肱の臣として常に第一線で活躍を続けました。
 小早川家の祖
 湯河原町のJR湯河原駅周辺は、かつて実平が屋敷を構えた地で、今でも「土肥」の地名が残されており、駅前広場に館跡碑と、実平夫妻の銅像が建てられています。
 土肥氏の領地はこの近辺だけでなく、小田原市内にも及び、実平の嫡男・遠平は、現在の小田原市内にあった早川荘からとった小早川を名字とし、また小田原に城を築いています。のち、遠平の嫡流は相模の領地を継いで「土肥」を名乗り、庶流は安芸の領地を継いで「小早川」を氏としました。土肥家は鎌倉時代に勢力を失いますが、小早川家は西国で勢力を固め、山陽を代表する武家となりました。
 土肥一族が備前の地の領主に返り咲くのは、1600(慶長5)年の関が原合戦後のことで、宇喜多秀家に変わって小早川秀秋が備前・美作に封じられました。しかし秀秋は2年足らずで病没、鎌倉以来の名門小早川家は断絶することになります。

(岡山市公式サイト、江戸東京 岡山を歩く、先人の息吹)
http://www.city.okayama.jp/tokyo/yukari/ibuki/dohi/dohi.htm

城願寺.jpg

土肥一族の墓.jpg

 そして土肥一族の眠る菩提寺、城願寺へ「鎌倉幕府開運街道」を。
 上掲のように写真2枚を添付しおきます。
 雨模様だった湯河原を後にしたヤッホー君、小田原駅で途中下車。

 1590(天正18)年7月5日、豊臣秀吉の小田原攻めにより、小田原北条氏(後北条氏)五代当主北条氏直は降伏し小田原城は落城。
 秀吉の側近黒田如水(官兵衛)の説得によるものだったという。
 秀吉は、小田原攻めを招いた責任者として四代当主北条氏政と氏照に切腹を命じ、二人は7月11日、城下の田村安斉邸(現南町)で自刃し、当時この地にあったた北条氏の氏寺伝心庵に埋葬された。
 現在の墓所は、永く放置されてあったものを小田原城に入った稲葉氏が北条氏追福のため建て直したもので、関東大震災で埋没してしまうが、地元の有志によって復興されている。
 墓所には、氏政・氏照・氏政夫人のものという「大中小の五輪塔が三基」、氏政と氏照が自害する際に腰を掛けたと伝えられる「生害石」、「笠塔婆型墓碑」・「石燈篭」などが置かれている。


北条・墓.jpg

 いよいよ本日の主会場、小田原城へ攻め上がります:

 小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた山城でした。城の規模や築城年は明らかになっていませんが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。
 15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総そうがまえ構の出現に至ってその規模は最大に達しました。
 しかし、1590(天正18)年、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。
 北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。
 1686(貞享3)年に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。

(小田原市公式サイト、小田原城の歴史)
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/odawaracastle/history/

小田原城.jpg

 写真も撮ったしでは、ここで「美しき日本、小田原」こころの絆が育んだ城下町、小田原をご覧ください:
https://www.youtube.com/watch?v=kzox1ahJcgY

 「小田原城」の映像も:
https://www.youtube.com/watch?v=9tyBrNcHE-I

posted by fom_club at 04:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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