2015年05月15日

能見堂コース

 山歩クラブが5月6日に予定していたお昼は、「横浜自然観察の森」にある「自然観察センター」でしたがとうとう、たどりつけませんでした。
 なんでかっ、振り返りが今日も続いています。
 朝の8時には清澄白河駅におりましたので出足は快調、9時ころには金沢文庫駅を元気に出発したはずです。
 最初の目印は「六国峠入口」。
 しかし…、ここでパタッとヤッホー君の足が止まってしまいました。
 ここに石標が立っていて「保土ヶ谷道」とあったのです、ん?

 過去から未来へ、きらきら輝く金沢区:
http://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/rekishi/otona/future/movie.html

 いえ、その金沢区の公式サイトに「歴史息づく横浜金沢、景観から紐解く金沢、金沢の古道と朝夷那切通」という頁がございまして、この中に説明がありました:

 東海道保土ヶ谷宿から能見堂を経て金沢へ至る道を金沢道(保土ヶ谷道)と呼びます。
 江戸市民にとっての身近な行楽地、金沢八景へのコースとして、1659(万治2)年刊行の『鎌倉物語』は次のように述べています。
「江戸より見物せんと思う人は、先かたひらより金沢を経て、鎌倉へ行けば見物の次第よきなり」
 つまり、金沢八景を鎌倉・江の島とセットにして位置づけています。
 景勝の地としてのピークは、文化・文政年間からであり、能見堂をはじめ、各寺院や旅亭が競って刊行した『八景案内図』『一望之図』など沢山の刊行物がその留時を今に伝えています。

http://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/rekishi/otona/landscape/oldroad.html

 そうなんです、だからわれわれ山歩クラブは、金沢の景勝の地を踏んだ後の帰路にあたる道をわけていく、とこんなわけなんですかねぇ。
 金沢文庫も金沢八景もみたことのない者ばかり、どうやら、そっちが先なんじゃない?とまくりあげた裾を「土地の精霊」にひっぱられているような、そんな感じ。
 だってぇ、

 富岡八幡宮は1627(寛永4)年、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。
 江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されました。
 また、庶民の信仰は江戸の昔から大きな歴史の変転を経て現代に至まで変わることなく篤く受け継がれ、今も善男善女の参拝は絶えず、特に毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として大変な賑わいを見せています。

(富岡八幡宮も公式サイト、沿革)
http://www.tomiokahachimangu.or.jp/htmls/goyuisho.html

 この深川の八幡様、ヤッホー君が門仲に行く度毎に手を合わせる「富岡八幡宮」も、横浜市金沢区にある「富岡八幡宮」の分社だったってえ〜

 富岡には、昔から社寺も多く、津波の波除け祈願の「波除八幡」や、源頼朝が民屋鎮護のため、また鎌倉幕府鎮護や、鬼門封じのために「富岡八幡宮」を創立した。
 徳川家康が江戸城に入って江戸の街づくりを天海とともに開始すると、江戸城のたつ本丸台地の周りには七つの台地(上野、本郷、小石川、麹町、麻布、白金)があり、周辺には入り海が多く、何度となく高波に浚われ、埋め立て工事が難行したが、このときに富岡の波除八幡の分霊を江戸の埋め立て地に祀ると埋め立て工事が成功し、これが現在の「深川八幡宮」のはじまりとなった。

(2015/3/2〜絵描きさんのひとりごと〜「県立金沢文庫建設の経緯や、金沢の一帯、金沢八景の今後」)
http://white.ap.teacup.com/flowerlove/2059.html

 そしてわれわれが、そのハイキングコースとなっている切通しのようになった道を登った先にあったのが「能見堂緑地」。
 これって何?

「能見堂」は寛文年間(1661〜1673)に、地頭の久世大和守広之が再興した擲筆山地蔵院のことです。
「能見堂」の歴史は古く、1486(文明18)年には廃絶してなかったと記録にあります。
 その後久世大和守広之により再興されて次第に発展したのですが、最も栄えたのは9代目住職道曹の天明年間(1781〜1788)頃からのようで「能見堂八景の画図」や「金沢八景詩歌」、「金沢八景案内子」などが「能見堂」から盛んに出帆されています。
「能見堂」のいわれについてはいろいろの説があり、決め手となる資料がありません。
 今のところでは「江戸名所図会」の「地蔵尊を本尊とする故、六道能化の意によりて、能化堂には作られたりし歟」とある能化堂から能見堂に変わったと見るのが一番妥当かと思います。
 金沢八景と能見堂との関係は、心越禅師による八景の漢詩と、京極無生居士の和歌によって広く知られるようになったとも云えましょう。
 江戸の時代が終わるのと同じように、能見堂も1869(明治2)年正月18日の火災により焼失して、その幕を閉じました…

…横浜市教育委員会

 1694(元禄7)年、心越禅師が故郷の景色を偲んで、ここから見た金沢八ヵ所の勝景を漢詩に詠んだのが”金沢八景”のはじめで、安藤(歌川)広重らがこれを題材に浮世絵を描いたことによって、能見堂は広く知られるようになりました。
 1803(享和3)年に建てられた”金沢八景根元地”の石碑があります。
 平安時代、宮廷絵師巨勢金岡が金沢の入り江の勝景を描こうとしましたが、あまりの絶景に絵を描くのを断念し、絵筆を松の木の根元に投げ捨てた(筆捨松)との伝説もあります。
 この”筆捨松”は、1920(大正9)年の大風で折れてしまい、さらに太平洋戦争末期の松根油を取るために根元から掘り出されてしまいました。

…横浜金沢観光協会

「あまりの絶景」…、そう、ヤッホー君たち山歩クラブは歩くのも捨てやり、そこにどれほどの時間、立ちすくんでいたことでしょう。
 ああ、去りがたし景勝の地よ、横浜金沢よ…

posted by fom_club at 07:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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