2015年05月14日

針が岳のぬし

「中西悟堂」(1895、明治28年-1984、昭和59年)の名を耳にしたことのある人は、それほど多くはないでしょう。知っていたとしても「野鳥の会」の創設者として、その名を記憶にとどめているくらいだと思います。
 悟堂は単なる野鳥研究家ではありませんでした。今から半世紀以上も前に、機械文明、消費文明の行き過ぎに警鐘を鳴らしていた思想家でした。悟堂は、かつてNHKテレビのインタビューにこんなふうに答えています。


「今の産業文明、機械文明は限りない欲望の世界なんですよ。欲っていうのは必ず後ろに欲求不満がある。だんだんエスカレートしていく」

 悟堂が西洋文明に対して懐疑を抱くようになるまでには、さまざまな「知の門」を通り抜けます。義父が僧侶だったため、悟堂は15歳で仏門に入ります。他方、若い頃から文学に目覚め、歌や詩を創作し、絵筆も取るようになります。若山牧水、高村光太郎、木村荘八など多くの文学者や画家たちと交流するようになり、同時にマルクシズム、アナーキズムの世界観を知るようになります。
 30歳の時から3年間、突然、木食菜食生活に入ります。その頃について、自伝ではこう書いています。


「イデオロギーの中を右往左往しましたが、いっこうに落ち着きませんでした。今の生活に入って、初めて無欲の生活のよさを知りました。このあとは無私の生活でしょう。世間の賛否はわかりません。が、物質の中に幸福を追い求めることは、結局欲望の奴隷、欲求不満の傀儡となることです」

 悟堂は林の中に机を置き、本を読み、雑草やメダカを食します。そして、物質主義の脅威への警告者だったタゴール、ガンジーに深く傾倒していきます。東洋の叡知こそが人類を幸福に導くと確信するようになります。

「私には自然への帰依と信奉が強く、いかなる思想も自然を欠いては浮き上がってしまうという信念さえ持つようなってもいた。そしてその自然の中の第一の対象が鳥であった」(『愛鳥自伝』)

 やがて1934(昭和9)年38歳の時「日本野鳥の会」を創設し『野鳥』を創刊します。「野鳥」という言葉も、バードウォッチングなどもちろんない頃のこと。盧溝橋事件の3年前のことでした。

(新潮社「考える人」2005年春号・小林照幸新連載『中西悟堂の空』第1回「野の鳥は野に」について)
http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/high/high36.html

 今日は中西悟堂についてまとめてみましょう。
 以下の福生市公民館(注)の元館長・伊東静一さんの論文は、的確に簡潔にまとめておられます。

 1934年3月、鳥学者や文化人12名による「日本野鳥の会」創設を呼び掛けた会合で、中西悟堂や内田清之助は、会の趣旨を日本全国に鳥を愛する思想を普及することと述べている。
 同年6月に静岡県の富士山麓の須走にて、日本で最初の探鳥会が開催された。この会の参加メンバーは、柳田国男、北原白秋、金田一京助、荒木十畝、奥村博史など、当時の文壇画壇の著名人たちであった。
 第二次大戦後、「日本野鳥の会」は中西を先頭にして、野鳥捕獲用カスミ網の使用禁止を実現し、野鳥の生息環境を保全するためのサンクチュアリづくりを1976年頃から着手し、1981年に苫小牧ウトナイ湖にそれを誕生させた。
 こうした中西と「日本野鳥の会」との経緯から考察すると、「日本野鳥の会」は大正、昭和前期の時代を背景に、牧歌的で高尚な趣味を共有できる人たちから出発した歩みではあったが、第二次大戦後は大衆的団体として国民的影響力を持つに至った。
 その中心に常にいた中西は、1984年12月に89歳の生涯を閉じるまで、鳥学者でもない一民間人でありながら、野鳥の保護や生息地の保全などの仕組み作りをしてきた。同時にそのことは、研究者でない自然愛好者が自然保護にかかわる場をつくったことを意味している。
 中西は木食生活中にソローの「森の生活」などを読み、「木食生活は自然との一体感を養い、鳥、昆虫、魚、蛇などをじっくり観察する時間でもあった」と述べ(小林照幸『野の鳥は野に』新潮選書、2007)、遺稿集「野鳥開眼」の中で、少年時代に秩父山中で行った荒行体験がこの生活を維持させたことにふれ、さらに「私自身のこのような生活こそ至福の一つの見本かと思い、また仏教で言う『無一物中無尽蔵』とはこのことかと思ったこともあった」と書いている(中西悟堂『野鳥開眼』永田書房、1993)。
 また「飼う」「捕まえる」「食する」というそれまでの野鳥を取り巻く環境のもとで「野の鳥は野に」という主張を掲げ、野鳥は一個人の所有物ではなく国民の感情生活に潤いを与えるものだとした
 このように仏教的世界観を背景としてバードウォッチングという西欧風の自然接触法を日本文化として根付かせた中西と「日本野鳥の会」の活動は、伝統的自然趣味である野草の採集と栽培および野鳥の飼育に代えて、のちの自然保護教育を考える上で重要な、野外の自然を現場で非採集の方法で理解し楽しむという特徴を備えていった。
 さらに、中西の文芸作品も、自然保護・野鳥保護へ指向する人を輩出するのに役立った(金田平「わが国における鳥類保護教育のあゆみ」『生物教育』18(1)所収、1977)。
 これらの視点をもとに考えると、中西は自然保護教育を支える文化的基盤と方法づくりに大きな貢献をした実践者と位置づけることができる。

(2010-03-15伊東静一「日本における自然保護教育の成立と展開に関する研究」東京農工大学学術機関リポジトリ)
http://repo.biblio.tuat.ac.jp/bitstream/10636/110/1/201003ItoSeiichi_F.pdf

 ヤッホー君が中西悟堂でびっくりしたのは、次の物語の一節です:

「ミキは、どうしてもこのひなを持ってかえるつもり?」
「うむ。持ってかえって、かわいがって育ててやる」
「いやだ」とぼくは強くいいかえした…
「どうしてもいやだ」とぼくは強情をはった…
「ミキ!なぜといって、この巣の中のさかなをごらんなさい。これはまちがいなくボラです。太平洋からとってくるボラです。こうして親ワシは、かわいい子どもにたべさせるために、毎日のように百里の空を往復して、海のさかなをとってくるんですよ。ミキにはこの親ワシの愛情がわからないのかしら?いくら、つばさの強いワシだって、この信州の山の中から、海までかようのは、なみたいていのことじゃありませんよ。親ならばこそ、こんなにまでして子どもを育てようとしている。その親のなさけがミキにわからないのなら、ミキは人間じゃない。畜生にも鳥にもおとる」…
…中西悟堂前掲書『中西悟堂名作集』「針が岳のぬし」75-76頁


(注)福生市郷土資料室企画展示「中西悟堂と西多摩」を動画で。なお展示は昨年、2014年4月19日(土)〜2014年6月22日(日)までで、もう終了しました:
https://www.youtube.com/watch?v=yoJjsB86v7s

posted by fom_club at 08:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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