2015年05月09日

反戦平和に生きる

 今日5月9日土曜日「神田祭」!遷座400年という記念の年になります。

 5月9日(土)の神幸祭、10日(日)の神輿宮入を中心に約一週間、東京都都心が江戸祭礼の雰囲気に包まれることでしょう。
 附け祭には、静岡県・三熊野神社の祢里が約10年ぶりに登場します。
 また前回に引き続き福島南相馬市・相馬野馬追騎馬武者の行列、東京大学・文化資源学会による行列、東京藝術大学学生による曳き物など、より賑やかな行列が神田祭に加わります。
 
(江戸総鎮守・神田明神)
http://www.kandamyoujin.or.jp/event/detail.html?id=59&m=00

 ヤッホー君は午前中「深川モダン館」に、午後「こいぶち歯科医院」、その前に皆野町!
 だってぇ〜「金子兜太」がまだ終わっていません:

 秩父音頭の作詞をした金子伊昔紅(かねこいせきこう)の長男、金子兜太は、現代俳句協会名誉会長を務める俳人です。
 皆野町内各所には金子兜太先生の句碑が点在しています。句碑めぐりの旅へぜひお出かけ下さい。

(皆野町観光協会、俳句の町)
http://www.minano.gr.jp/haiku/

 1944(昭和19)年3月、南方のミクロネシア・トラック島に主計中尉として配属されました。前年夏に東大を繰り上げ卒業して、日銀に3日間だけ勤め、海軍経理学校で訓練を受けた速成士官です。部隊は海軍施設部という土建部隊で、そのほとんどが軍属の工員、しかも大方が訳ありの荒くればかりで、ほかに囚人だけの部隊も含まれていました。
 トラック島には当時4万人の日本人がいましたが、最終的に生き残ったのはその3分の2くらいのはずです。しかも私が着任した年の7月にサイパンが陥落して日本との補給路が断たれたため、物資が来なくなった。食料がなくて、餓死や病死する者がたくさんいました。
 軍隊というのは階級社会です。その中でも軍属は最下級で、すべての点で最低の扱いでした。自給自足の食料も、兵隊が優先されます。ですから腹をすかした工員の中には、少々危険な食べ物でも口にしてしまうのがいる。南洋ホウレン草と呼んでいた雑草があって、少量だけを煮炊きしていました。しかし大量に食べると猛烈な下痢を引き起こします。それを知っていながら我慢できずに食って脱水症状で死んでいく。そんな無残な死を日常的に見ました。まさに「非業の死者」です。

● 人が本当に自由に生きられる社会を実現したい

 そうやって死んでいくのは私の部下です。私は責任を感じていました。一方で、主計将校ですから食料があとどれくらいあるのかも知っている。このくらい死ねば、ほかの者に食料を回せるとか、そんな計算もしている。自分が薄汚い存在のように思えてなりませんでした。若かっただけに余計にこたえました。
 この体験が戦後の私の行動を決めることになります。敗戦後も捕虜として島に1年3ヶ月間抑留され、船で引き揚げるとき、私の心は決まっていました。これまで私は人のために何もしてこなかった、せめて非業の死者たちに報いようと。日銀に復職して組合活動にかかわったのも、その決心の表れです。反戦平和に生きるということは、この時代では組合活動とほぼ同じ意味でした。
 反戦平和の基礎には、人が本当に自由に生きられる社会を実現したいという理想がありました。組合活動は3年で離れましたが、その理想は心の中でずっと持ち続けています。
「自由を求めたい」
 その理想があったからこそ、組織で浮いた存在になっても気にならなかったし、この年齢になっても気力がなえることなく創作を続けられるのではないかと考えています。

(2008年12月05日週刊東洋経済編集部、反戦平和に生きると決める俳人・金子兜太氏)
http://toyokeizai.net/articles/-/2476

◆ 自由を毛嫌い
金子 <梅雨空に『九条守れ』の女性デモ>。これを出す出さないでもめているんですね。これについて、あんたに聞いてみたいんだけど。(注1)

いとう こういう自粛という形が連続している。下から自分たちで監視社会みたいにして、お互いを縛っていく。戦前は上から抑え付けられたように戦後語られてきたけど、本当はこうだったんだろうと。

金子 やっぱり、そう言ってくれますか。(満州事変から始まる)十五年戦争の体験者なんだけどね。旧制高校に入ったころに中国との戦争が始まって。そのころの空気の中で、官僚とかお役人とか、いわゆる治安当局が、こういう扱い方をした。あのころは治安維持法が基準ですが。みんな自分たちでつくっちゃうんですよ。

いとう 國分功一郎さん(注2)という若い哲学者が著書の中で、こういった下からの抑圧の問題を言っているんですね。自由を担いきれないので、自分から手放してしまう人たちがいると。手放した人たちにとっては、自由を求めて抵抗している人がうっとうしい。なので、その人たちを攻撃してしまう。そうすると、権力がやらなくても、自動的に自由を求める人たちの声がだんだん小さくなってしまう。だから自由っていうものを背負うことをもっと楽しめる社会にしなければならないというふうに彼は言っていて。

◆ 過半は餓死者
いとう 金子さんは現実、戦時中に南洋へ行かれていた。大岡昇平の『野火』を読んでも分かるように、戦死者は決して勇ましいものではなくて、過半は餓死者であるということを、なぜこんなに隠して勇ましいことのように美化するのか。意味が分からないくらい情報が隠されている。本当に先進国なのかと思うくらいひどい。

金子 おっしゃるとおり。私がいたトラック島は死の現場として、いまいっぺん伝えたい。安倍さんをはじめ、今の政治家は、集団的自衛権を実現させようと、憲法の事実上の改悪を考えたりして戦争へ一歩近づいているが、なんであんな平気な顔で、得意顔でできるのかと考える。そうしたら分かりましたよ。死の現場をほとんど踏んでない人たちなんだ。トラック島は日本軍の連合艦隊の基地だったんだけど、アメリカの機動部隊にばんばんやられた。連合艦隊は逃げて、第四艦隊が残ったがぜんぜん弱い。そこで武器がなくなった。手りゅう弾をたくさん作り、実験をやったんです。「俺がやる」と志望したのは、兵隊さん以下として扱われている民間の工員さん。やったとたんにボーンって右手がすっ飛んじゃって。背中が破片でえぐられて、運河のようになっている。それで即死したわけです。餓死ってのは、いたましいわけでね。しかも工員さんは、国に殉ずるなんて考え方で来ていない。本当に無知な人たちが力ずくで生きてきて、結局食い物がなくなって死んでいく。仏様のような顔で。逆に悲惨なんですよ。戦場という死の現場を分かっていない政治家は、自衛隊の連中をすぐそのまま戦場へ持って行くことを平気で思っているけどね。自衛隊の人が足りなくなって徴兵制度が敷かれるようになることが心配なんですよ。

◆ 戦争への自虐
金子さんは、トラック島で終戦を迎え、島を去るとき<水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を 置きて去る>と詠んだ。

金子 今の人に想像できないような無残な死に方をしていった人のことを思った時に、報いなきゃならないと。こっちも若いですから、余計身に染みた。私が学生のころ、俳句を始めたのは、出沢三太という無頼で非常に面白い人間がやっていたから。その人が俺を連れてった句会の中心に高等学校の英語の先生がいた。水戸っていうところは、聯隊(れんたい)もあって軍国臭ぷんぷんなんですけどね、お二人とも全く無視して、軍人が来ても頭下げない。俳句はそういう自由人が作るもんだと思い込んだんです。兵隊行くまで、自由人でありたい、ありたいと。ところが、戦争に行って、目の前で手がふっ飛んだり背中に穴が開いて死んでいく連中を見たり、いかついやつがだんだん痩せ細って仏様みたいに死んでいくのを見て、いかなる時代でもリベラルな人間でありたいと考えていた自分がいかに甘いかということを痛感した。自己反省、自己痛打が私にそういう句を作らせたと同時に、その後の生き方を支配した。年取ってもその句が抜けません。自分を緩めることができない。それぐらいの痛烈な体験でした。今の政治家諸公は、少なくとも俺のような戦争への自虐を感じないのだろうか。

(2014年8月15日付け東京新聞<戦前の空気に抗って>【終戦記念日対談 金子兜太×いとうせいこう】
http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2014/taidan140815/

 牛蛙(うしがえる)ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ
 
 その句を作った俳人の声は、これまた大牛蛙もはねて逃げ出しそうなほどの迫力だった。
 埼玉県熊谷市の居宅「熊猫荘」(ゆうびゅうそう)。
 作務衣姿の金子兜太さんは、卒寿を過ぎたとは思えない張りのある声で言い切った。
「中学一年の時に起きた1933(昭和8)年の三陸沖地震津波はよく覚えている。それでも東北に原発を造ったのに、津波に準備ができてなかった。技術に自信を持ってまあ大丈夫だくらいに思っていたんじゃないですか。甘い。国民をなめて原発をやってきたんじゃないか」

 改めて思うのは、登場者が語った言葉の一つ一つが、研ぎ澄まされた知恵の結晶になっていることです。
 作家の梁石日さんの「人間のやることだから『絶対』なんてない」もそうですし、
 ノンフィクション作家の柳田邦男さんの「そもそも歴史とは『措定外』の繰り返しなのです」といった認識もある種の真理を言い当てているようです。
 俳人の金子兜太さんが震災の悲しみを夫人の死と重ねて「忘れようなんて思わない。無理に思い出す必要もない」と語られた言葉は「人間通」のそれではないでしょうか。

「地震の災害も一年たたない内に大抵の人間はもう忘れてしまって此の高価なレッスンも何にもならない事になる事は殆んど見えすいて居ると僕は考へて居ます」
 寺田寅彦は関東大震災(1923(大正12)年9月1日)から2ヶ月後、私信にそうしたためました。
 歴史を見れば、その予言通りになりました。
 再び同じことが繰り返されようとしています。
 あれほどの災厄を目の当たりにし、原発の安全神話が崩壊したにもかかわらず、私たちの国は再び原発の再稼働に踏み切りました。
 広島、長崎を経験し「過ちは繰り返しませぬから」と、原子力の怖さを胸に刻みつけながら、いつの間にか原発大国になってしまった歩みと重なります。
 まことに奇妙な時代です。
(毎日新聞前夕刊編集部部長・隈元浩彦)

…毎日新聞夕刊編集部編『<3.11後>忘却に抗して、識者53人の言葉』(現代書館、2012年12月)31、227頁


(注1)
 さいたま市大宮区の三橋公民館が、サークル会員が詠んだ俳句「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」を月報に掲載しなかった問題で、市は2014年7月8日、次号以降もこの句を掲載しない方針を明らかにした。理由について「世論が大きく分かれているものについて、公共施設として掲載はできない」としている。
 公民館の俳句サークルに所属する同区の70代女性が詠んだこの句は、集団的自衛権の行使容認に反対するデモを題材にしたとみられるが、1日発行の「公民館だより7月号」は俳句コーナー自体を削除し、掲載を見送っていた。
 この日、掲載要望のために訪れた共産党市議団に対し、公民館を所管する市生涯学習総合センターの小川栄一副館長は、掲載可否の判断基準自体がないとした上で、「(8月号以降も)掲載は今のところ考えていない。作者を含む俳句サークルには今月中に改めて説明する」と話した。
 同センターは来週、市内の拠点公民館長を集めて開く定例会議で「集団的自衛権行使についての賛否を含め、世論を二分する政治的なものは(月報などに)掲載できない」との方針を伝えることにしている。
(2014年7月9日付け毎日新聞地方版・西田真季子「公民館月報:《9条守れ》俳句、次号以降も不掲載 さいたま市が方針/埼玉)
http://mainichi.jp/area/saitama/news/20140709ddlk11040265000c.html

(注2)ヤッホー君のこのブログ、次の日付けの日記ご参照:
 ☆ 2013年5月26日「部分的な政治哲学」
 ☆ 2013年5月27日「どんぐり民主主義」

posted by fom_club at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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