2015年05月08日

秩父音頭

 まずはこれ!「秩父音頭」:
https://www.youtube.com/watch?v=4LUsTYicygc

 そうだったのです、皆野町は秩父音頭のふるさと!!

 山峡のまち皆野は秩父音頭発祥の町として知られ、毎年8月14日に行われる「秩父音頭まつり」は秩父連山に太鼓の音がこだまします。
 秩父の盆は8月である。
 人びとは、仏壇や座敷に盆棚を飾り、門口に火をたいて祖先の霊を迎える。

『盆が来たのになすの皮のおじや せめてめずらのよごしでも』
『いくら秩父に田がないとても 盆と正月米の飯』

 その昔、秩父で唄われていた、盆踊り唄の一節である。
 単調で貧しい日々を送る山村では、盆と正月がなによりの楽しみだったに違いない。
 唄の節や踊りは、人によって少しずつ違っていたが、歌詞は、総じて卑猥なものが多かった。
 そのため、次第に警察の目が厳しくなり、大正末期には、消滅の危機にさらされる。
 1929(昭和4)年、皆野町の医師、金子伊昔紅(かねこいせきこう、1977(昭和52)年88歳で死去)は、こうした状態を憂い、周囲に呼びかけて、盆踊りの復興に乗り出した。
 まず、歌詞を改めるため、一般からの募集を行ない、自らも作詞を行なう。

『鳥も渡るかあの山越えて 雲のさわ立つ奥秩父』(小林倉八 作)
『花の長瀞あの岩畳 誰を待つやらおぼろ月』(伊昔紅 作)
『秋蚕しもうて麦まき終えて 秩父夜祭待つばかり』(伊昔紅 作)

 以上3首は入選作の一部。秩父の情緒と風土の香りが漂う名歌であると思う。
 素朴だった踊りと節まわしにも手が加えられ、吉岡儀作氏の節をもって山国の荒々しさと哀感とが調和した、現在の姿を生み出す。
 そして1930(昭和5)年11月、明治神宮遷座10周年祭に「秩父豊年踊り」として奉納。人びとの絶賛を浴びる。
 その後『秩父音頭』と名を変え、以来ここ埼玉の代表的民謡として、広く親しまれるようになった

(皆野町観光協会、秩父音頭のふるさと)
http://www.minano.gr.jp/chichibu_ondo/

 ここで、ヤッホー君、最初の YouTube の垂れ幕に注目しました。
 「金子兜太」文化講演会とあるじゃあ、ありませんか。
 そうしたら、なんとなんと、皆野町の医師、金子伊昔紅(注1)と秩父ふるさとの俳人、金子兜太(1919年生まれ、注2)って親子だったのですぅ〜、もうびっくり!
 まだまだ、秩父音頭「家元」とあった金子千侍って実弟!
 9年も前のことですが、こんなことが…

 反骨、豪放らい落な金子を愛するファンは多い。俳優の小沢昭一(おざわ・しょういち、1929-2012、当時77歳)もそのひとり。

『梅咲いて庭中に青鮫(あおざめ)が来ている』

という句が、気に入っている。
「なかなか『青鮫』なんて発想は出てきません。私なんか先生と違って、出たとこ勝負。日めくりカレンダーみたいな生き捨て人生ですから」。
 全国の放浪芸を集めて回った小沢と金子は30年以上の付き合いだ。

 金子には道楽者の血が流れる。実家は埼玉県秩父市で300年は続いた家柄だが、祖父は田舎歌舞伎の女形を演じ、開業医だった父は秩父音頭を復興させた。

 医院を継いだのは、弟の金子千侍(かねこ・せんじ、78歳)だ。
 旧制新潟医専で脳外科を学び、秩父音頭の家元も継がされた。
「兄をうらやましいと思ったことは一度もない」と涼やかな表情だ。
 43年前に貧しかった秩父に腰を据え、毎日7、8軒の往診をいまも続ける。

 金子にこんな句がある。

『夏の山国母いてわれを与太と言う』

 2年前に103歳で亡くなった母はるは、長男のくせに医業を継がず、俳句にうつつを抜かす金子が実家に顔を出すと、兜太とは呼ばず、
「与太が来た、バンザイ」と言った。
 金子の漂泊の思いを深いところで理解していたのは、はるだったのかもしれない。

(2006年09月13日付け朝日ドットコム「出世を拒絶 さすらう心」)
http://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY200609130264.html

 そんな家族でしたが、金子兜太が日銀を辞めて戦地、トラック島に出征するときのお話しを、金子の俳句の師、加藤楸邨(1905-1993)が「金子兜太という男」でこんなことを:

 兜太が招集を受けて出征することになったとき、私共は秩父の強石(こわいし)というところの一軒の古ぼけた旅館に集って彼を送った…
 そのうちに一人黙り、二人黙って、一同しいんとひとつの踊りに見とれてしまった。
 伊昔紅、兜太父子が踊り出したからである。
 しかもその踊りはすっかり着物をぬいで生まれたままの姿なのである。
 父も子も声を合わせ、足どり手ぶりを合わせて、日本の白熱した線のように踊りつづけるのだった。

 私はずい分多くの若者を戦場に送ったが、こんなふうにふくらみのある明るい、それでいてかなしさの浸透した壮行は前にも後にもまったく経験したことがない。

…黒田杏子(ももこ、1938年生まれ)『金子兜太養生訓』(白水社、2005年10月)240-241頁


(注1)金子伊昔紅の母校、旧姓京都府立医科大学予科の校歌も作詞:

 遅日(ちじつ)の夢のほの白き
 花橘(はなたちばな)の香(か)に匂ふ
 御溝(おこう)の水のぬるみては
 加茂の河原の月見草
 楊花(ようか)は落ちてほととぎす
 平安城(へいあんじょう)をすぢかひに
https://www.youtube.com/watch?v=lps_A-j5RDE

(注2)金子兜太についてはヤッホー君のこのブログ、以下の日付けの日記をご参照あれ:
 ☆ 2010年11月3日「曼珠沙華」
 ☆ 2012年2月18日「梯久美子」
 ☆ 2014年12月7日「寄居小唄」

posted by fom_club at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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