2013年04月18日

陸羯南

 ヤッホー君のこのブログ、4月10日付け日記「若き世代に寄す」で記しましたガンダムこと丸山真男「陸羯南-人と思想」(「中央公論」中央公論社 1947年2月号初出)再読。
 この論考は、次のことばで締めております:

57年前の「日本」新聞を開くと、右上隅の日本という題字のバックに日本地図の輪郭が書かれているのが目にとまる。
 その地図には本州、四国、九州、北海道が載せられているだけだ。
 日本はいまちょうどその時代から出直そうとしている。
 そうして現代もまた、まさに新しき「日本」新聞と陸羯南とを切に求めているのではなかろうか

(前掲書、295-296頁)

 ガンダムが陸羯南を語るに、ふたつのカタカナのキーワードを使っております。
 ひとつはプリンシプル。
 もうひとつは、インデペンデント。

 まずはプリンシプル:

羯南は上に述べたような「国民旨義」を根本的立場として一切の政治的社会的批判をこの原則の上に立って遂行した。
 羯南において偉とすべきはこのプリンシプルに対する徹底した節操であった。
 彼はいかなる現実を対象としたときでもその根本的立場から導き出される帰結をば一切の打算的顧慮なしに適用したのである

(前掲書、288頁)

 「国民旨義」ってどんなの?ぜひ、この論考を探し出してぜひ、ぜひお読みくださいね。

 次いでインデペンデント。

要するに羯南は、いついかなるときでも、現実的要求に彼の原則を従わせたことなく、かえって逆に、一切の党派乃至現実的動向を彼の原則に照して批判した。
 われわれは彼において、真の意味でのインデペンダント(=非・依拠的)な新聞記者をみるのである

(前掲書、290頁)

 いったい「日本」新聞に何があったの?
 そもそも陸羯南ってどんな人?

羯南、陸実(みのる)は1857(安政4)年青森県に生まれた。
 1874(明治7)年仙台の師範学校に学んだが、1876(明治9)年退学上京して、司法省法学校に入った。
 同窓生に原敬あり…、原らとともに退校を命ぜられ、結局学校はどこも正規に卒えなかった。
 1881(明治14)年、太政官文書局の役人となった。
 1888(明治21)年4月新聞「東京電報」を興し、翌1889年、(明治22年は明治憲法交付の年)、これを「日本」と改題した。
 ときに羯南33歳

(前掲書、282頁)

 イマこそ、「日本」新聞と陸羯南、そしてガンダムとを切に求めているのではなかろうか…
 いや、どこかの誰かに求めるのでなく、どこかに、誰かに依拠するのでもなく、上から洗脳されたりするのでなく、「よほどの覚悟をもって、これまでに数倍する嶮峻をのりこえて」、自らそう「ナル」ことが大事なのではないでしょうか…
 うん、うん、と素直に頷いていますよ、ヤッホー君。

 そしてこの「日本」新聞の文芸記者として入社したのが正岡子規。
 月給は15円だったそうです。
 子規より10歳年上の陸羯南は根岸の子規庵の小庭の南側に住んでおり、子規の妹、律が陸家からの頼まれもので裁縫代を内職とし、5円を稼いで家計の足しにしていたこともあったそうな…

posted by fom_club at 12:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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