2013年04月17日

子規庵

 4月17日水曜日。風強し。
 ヤッホー君の朝キン、新大橋通りと清洲橋通りとが交差するあたりにひっそりと建っている「説明文」に思わず、体が強ばってしまいました。
 こんなことが書かれてありました:

常磐会-久松邸跡-
  所在地 中央区日本橋浜町2-1-4 19-23番地域
 常盤会は、1883(明治16)年に創設された旧伊予国(現在の愛媛県)松山藩主久松家による在京の旧藩士子弟たちの学資援助組織です。
 久松家は、明治維新後この地に屋敷を構えており、1873(明治6)年の「第壱大区沽券図」には浜町2丁目の内に「4番/3617坪/弐千二円/久松定謨」と記されています。
 常磐会はこの屋敷内に設置されていました。
 常磐会の給費生には育成助成金として毎月の学資や教科書代、旅費などが支給され、明治維新後の混乱期において東京で勉学を志す旧藩士子弟たちの心強い後ろだてとなりました。
 1884(明治17)年に選抜された初代給費生10人のなかには、俳人正岡子規(1867-1902)がいました。
 子規は、1883(明治16)年6月故郷松山から単身上京し、一時期、旧藩主久松邸の書生部屋に寄寓していました。
 上京翌年に初代常磐会給費生に選ばれたことを、半生の喜びの一つだと述べています。
 常盤会は、給費生の便宜を図るため、1987(明治20)年に本郷真砂町(現在の文京区本郷)の坪内逍遥邸跡に常磐会奇宿舎を創設しました。
 子規も1888(明治21)年9月から1891(明治24)年暮れまで舎生として過ごしています

(2017(平成19)年3月 中央区教育委員会)

 この間、久松小学校のことをヤッホー君のこのブログで日記につけたばかり、久松小学校から久松邸で常磐会、さらに正岡子規にまでつながっていきます。

1888(明治21)年春、子規満20歳のときには身長164センチ、体重は52.5キロであった…
 1889(明治22)年から親しさを急速に増した友、夏目金之助(漱石)とほぼおなじ体格であった…
 1890年(明治23)年の夏も子規は帰省した…
 子規の手元をはずれたボールが見学している中学生たちの前に転がってきたとき拾って投げ返したのが、一歳年下なのに伊予尋常中学校(松山中学、愛媛県尋常中学)では河東秉五郎(子規より6歳下、のちの碧梧桐)と同級の高濱清、のちの虚子であった

(関川夏央『子規、最後の八年』講談社2011年3月25日刊 11〜16頁)

 ほら、ね、久松小学校から、子規そして、虚子にまで糸がつながっていきます。
 だってぇ、この3月のおひな祭りのとき、長野県小諸市の「市立高濱虚子記念館」(小諸市与良町2-3-24 Tel 0267-26-3010)におじゃましていたんですよ、ヤッホー君。
 ですので、下町で虚子と子規の最初の出会いに遭遇したような思いでしばし「説明文」の前にたたずんでいたそうです。

 この「ボール」って、サッカーボールではないんですぅ。
 1985(明治18)年に子規がはじめたという「ベースボール」だったんですよ。
 ポジションは獲者(キャッチャー)だったそうです。 そして、

子規は没後100年にあたる2002年、新世紀特別表彰で野球殿堂入りした。
 泉下で微笑していることと思う

   (関川夏央、同書、17頁)
 と知ったヤッホー君、さっそくイーチャリで走っていました。
 心が元気になる場所。
 東京都指定史跡、正岡子規旧居。
 根岸・子規庵(台東区根岸2-5-11 Tel 3876-8218)

子規庵だけが残された。
 それはいま根岸2丁目、ラブホテルのつらなった一画の奥にひっそりとある。
 家は改築されても昔とかわらぬたたずまいで、庭は子規の眺めたそのままの姿である

(関川夏央、同書 401頁)

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子規庵の建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。
 1894(明治27)年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。
 子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけましたが、老朽化と1923(大正12)年の関東大震災の影響により、1926(昭和元)年に解体、旧材による重修工事を行ないました。
 1927(昭和2)年、母八重(83歳)没。
 同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設に着工。
 1928(昭和3)年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可され、初代理事長には正岡律が就任いたしました。
 1941(昭和16)年妹律(71歳)没後、1945(同20)年4月14日の空襲により子規庵は焼失。
 幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。
 現在の子規庵は1950(昭和25)年、高弟、寒川鼠骨等の努力で再建され、1952(同27年)東京都文化史蹟に指定されて現在に至っております

(子規庵について)
http://shikian.or.jp

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posted by fom_club at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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