2013年04月13日

久松小学校

9月1日正午の激震に打ちつづいて殆どひっきりなしに襲う余震のために、右の数世帯はとりあえず井上家の向い側にあった正応寺の境内に一緒に避難し、そこでゴザを敷いて一夜を明かした。
 けれども一昼夜にわたって天を焦がす劫火は麹町方面から四谷見付に迫り、新宿方面の黒煙も一向におさまらない。
 小学校4年生の私は「おとな」の間でどういう具合に話が進んだのかは与り知らないが、それぞれ子供や赤ん坊をかかえたこの数世帯がこのまま留まるのは危険という判断が下されたのであろう、そのときこれからの避難先として、私の耳にとびこんで来た名がほかならぬ「大山さん」の邸であった

(丸山真男「思い出すままに」、丸山真男他『大山郁夫[評伝・回想]』新評論、1980年所収、216頁)

 これは関東大震災を経験したときのガンダム、小学校4年生のころのお話しです。
 「井上家」とは政教社主でガンダムの母方の叔父にあたる井上亀六(嵩村)で、「大山さん」とは大山郁夫(1880-1955)。
 「右の数世帯」とは、井上亀六(嵩村)、古荘毅、大庭景秋(柯公)のことを言いますかね、このあたりの人間関係はヤッホー君、興味しんしんなんですが、また後で。
 結局、少年ガンダムは東中野の長谷川如是閑宅に変更して避難したのです。

 震災後の復興ですが、まずは「復興小学校」として明石小学校を取り上げてヤッホー君のこのブログ、2011年08月12日付け日記「東京湾大華火祭は中止」で書きましたね。
 「復興橋」としては「清洲橋」をとりあげ、同じくヤッホー君の2011年10月08日付け日記「昭和6年の修学旅行」で書きました。
 ところで、ヤッホー君、「復興公園」まであったというのでびっくりしました:

関東大震災の際に発生した火災に対して、各地の公園が防火や避難所として大きな役割を果たしたことから、帝都復興事業では、都市の防火帯として公園を確保することに重点が置かれた。
 1924(大正13)年、特別都市計画委員会において、東京では国施行の三大公園
   隅田公園、
   浜町公園、
   錦糸公園
と東京市施行の52ヶ所の小公園の設置が議決された。
 建設費用は、三大公園についてはその四分の一を東京市が負担し、市施行の小公園についてはその三分の一が国庫による補助を受け、総額25,744,158円であった。
三大公園は、帝都復興局公園課の折下吉延らによって設置が進められた。
 面積はそれぞれ4万数千u以上の大規模な庭園風の近代公園で、普段は市民の憩いの場として、非常時には避難場所としての役割を果たすように設計された。
 小公園は、東京市公園課の井下清らによって、不燃化・耐震化された復興小学校に併設して52ヶ所に設置された

(関東大震災 復興データベース 復興公園)
http://kantoquake.kanagawa-u.ac.jp/pmapf/index/park.html

 つまり、浜町公園は(我が下町の誇るべき墨田公園も錦糸公園もそうなんですけど)、「復興公園」なんですねえ。
 小公園って、復興小学校に隣接して作られた…そうですか、浜町公園から少し歩いた久松署の側に「久松小学校」がありました。
 日本で一番古い小学校は、同じ中央区の「阪本小学校」のはず。
 久松小学校も阪本小学校も復興小学校です!

 どっちが古いか…、ヤッホー君のこのブログ、2013年03月22日付け日記「熊井明子」にありますように、『阪本小学校は、今年、創立139年を迎えます。1873(明治6)年5月7日、「第一大学区第一中学区第一番官立小学 阪本学校」として開校しました。学校の敷地は、肥後細川藩下屋敷であったと言われています』として紹介しましたよね。

 ちょと待てよ。阪本小学校は肥後細川藩下屋敷であった…
 そうですか、「浜町公園」も肥後細川藩下屋敷なんですけど、細川藩は複数、下屋敷をお持ちだったんだ、まさか、浜町公園と阪本小学校も同じ敷地だったとか…?!

 「浜町公園」には、加藤清正を祀る清正公寺があるんですよ。

P4107208.jpg

 それにして「久松小学校」も古いのです:

1873(明治6)年3月、校地を久松町38番地(越前勝山藩主小笠原左衛門佐長守屋敷跡)に決定。「第一大学区第一中学区二番小学」として創立。
 1873(明治6)年7月開校式挙行、在籍児童数70余名。
 この時点で校名を「第一大学区第一中学区二番小学 久松学校」に改称(と考えられる)。
 由来は伊予松山藩主の末裔・久松定謨伯爵の巨額の寄付によるもの

http://www.chuo-tky.ed.jp/~hisamatu-es/index.cfm/1,0,15,html

立原道造ここに学ぶ
 日本の代表的な抒情詩人の一人、立原道造(たちはらみちぞう)は、本校を1927(昭和2)年に卒業しました。
 生家は橘町(現、東日本橋3丁目)で荷造り用の木箱を製造していました。
 幼くして父を失いますが、母、登免、2歳下の弟、達夫(本校卒)とともに慈愛に満ちた幼年期を過ごし、小学校時代は6年間を首席で通しました。
 やがて、絵画、音楽、短歌、天文など幅広い分野に関心が向き始め、府立三中,一高、東大と進むうち、その創造的な才能が開花して行きます。
 大学では建築学科に入り、成績優秀者に与えられる辰野金吾(*)賞を、在学中三度も受賞しました。
 その一方、室生犀星、堀辰雄らと交流を深め、文芸誌"四季"を舞台に、ソネット形式(14行詩)に独自の世界を構築しました。
 わずか24年の短い生涯でしたが、草や木や、鳥や雲にも繊細な筆が及んで、いまもなお多くの人々の心を捉えています。
  * 辰野金吾は、東京駅舎、日本銀行などの設計で知られる

(2007(平成19)年11月17日 母校開校135周年記念式典を祝って 久松小学校校友会)

 立原道造のポエム『夢みたものは』:

   夢みたものは ひとつの幸福
   ねがったものは ひとつの愛
   山なみのあちらにも しずかな村がある
   明るい日曜日の 青い空がある

   日傘をさした 田舎の娘らが
   着かざつて 唄をうたつている
   大きなまるい輪をかいて
   田舎の娘らが 踊ををどつている

   告げて うたつているのは
   青い翼の一羽の 小鳥
   低い枝で うたつている

   夢みたものは ひとつの愛
   ねがつたものは ひとつの幸福
   それらはすべてここに ある と

posted by fom_club at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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