2013年04月04日

花のあと

 4月4日木曜日の朝キンは、1週間前に歩いた小名木川沿いの川辺の道。
 さすがにもう、一昨日、昨日と悪天候にたたられ、花びらは散歩道に散っておりました。
 ですので以下の写真は一週間前に撮ったものです。
 また、一年間かけて桜の木は花芽を継いでいきます。

 まずは「猿江船改番所跡(さるえふなあらためばんしょあと)」:

灯篭.jpg

猿江船改番所は、小名木川と大横川が交差する所の猿江側に、元禄から享保期(1688〜1736)頃に設定されました。
 小名木川は、江戸への物資輸送の重要な交通路であったため、とくに江戸の町を守る必要上、江戸時代の初め、万年橋北岸に通船改めの番所が置かれました。
 その後、中川口へ移転し、中川船番所として利根川水系や房総方面と江戸の間を航行する川船を取り締まっていました。
 猿江船改番所は中川番所とは別に、川船行政を担当する川船改役の出先機関として設置されたものです。
 幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入りする船には川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていました。
 そのため新たに船を造ったり、売買によって持ち主が替わった場合などは届け出が義務づけられてました。
 猿江船改番所の仕事は船稼を統制することにあり、こうした年貢・役銀を徴収したり川船年貢手形や極印の検査を行っていました。
 この他江戸市中では、浅草橋場(台東区)に同様の番所が設置されていました

(2004(平成6)年3月 江東教育委員会)

 そこを猿江橋西詰めまできますと目に入るのが「八百霊地蔵尊(やおたまじぞうそん)」:

P3297159.jpg

1945(昭和20)年3月10日、大東亜戦争による米軍東京大空襲により一朝にして犠牲となった当時の深川高橋5丁目の町民800余名の霊を慰めるため、1946(昭和21)年生存者町民有志によりこの地蔵尊が建立された。
 この由来を後世に伝へ、併せて恒久の平和を祈るため30周忌を記念してこの碑を建てた

(1974(昭和49)年3月10日 江東区森下5丁目町民有志)

 猿江橋を渡って、大横川左岸を歩き、小名木橋川に沿って新扇橋まで来ますと、ここから先遊歩道は見当たりませんので、新扇橋を渡ろうとしたとき見えてきたのが、「扇橋閘門(おうぎばしこうもん)」:

感潮河川(隅田川方面)から内水低下河川(閘門より東側)に船舶が入る場合、船舶が水位差を乗り越えるには閘門の運転操作が必要です。
※ 「感潮河川」
 海面の潮位変動の影響を受け、水位が変動する河川のことです。
※ 「内水低下河川」
 地盤高が低く、洪水の潜在的危険性が大きな地域において、河川を閘門等により遮断して、平常水位を低下させておく河川です

(東京都江東治水事務所、扇橋閘門の仕組)
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/chisui/jigyou/suimon/sisetu/ougibashi_drive.html

扇橋閘門は、江東デルタ地帯を東西に流れる小名木川のほぼ中央に位置し、水面の高さが違う河川を船が通航できるようにした“ミニパナマ運河”といえる施設です。
 その仕組みは、2つの水門に挟まれた水路(閘室)に船を入れ、水位を人工的に昇降させることにより船を通過させるというものです。
 夏場など水辺に親しみやすい季節には、プレジャーボートなど多くの船舶が往来します。
 今年も、水辺空間のにぎわい創出の一環として、夏休みの時期に扇橋閘門を一般開放します。
 また、船から上陸して閘門施設を見学できるよう、防災船着場もあわせて開放します。ぜひ見学にお立ち寄りください

(平成24年7月18日 東京都建設局)
http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2012/07/20m7i300.htm

 つまり、小名木川は≪東京のパナマ運河≫だったのですねぇ〜
 しようがないので、新扇橋を渡り、公衆トイレをしようすることにしました。
 御用を済ませ、反対側に道路を渡って小名木川の南側を歩こうとしたときに碑を見つけました。
 「民営機械製粉業発祥の地」:

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1879(明治12)年、明治を代表する実業家雨宮敬司次郎は、水運の便のよい小名木川に着目して、この地にそれまでの水車動力に代わる蒸気機関を動力源とした、民営では最初の近代機械製粉所「泰靖社」を創設しました。
 欧米を視察して製粉事業の将来性を確信した雨宮は、蒸気機関のほか石臼製粉器、節器などの製粉装置を米国から輸入して製粉事業の経営に成功をおさめました。
 雨宮の製粉事業は東京製粉合資会社に受け継がれ、1796(明治29)年に日本製粉株式会社に改組されました。
 また、小名木川沿岸には明治30年代に製粉会社が次々と設立され、全国でも屈指の小麦粉生産高を誇るようになりました。
 こうして「泰靖社」は、小名木川沿岸にさまざまな近代的工場が進出してくるさきがけともなったのです。
 なお、明治初期の機械製粉所には、開拓使により札幌に設立された磨粉機械所(1876(明治9)年)、大蔵省による浅草蔵前の製粉所(1879(明治12)年)の2つがありましたが、これらの官営製粉所はともに日本製粉株式会社がその事業を継承しました

posted by fom_club at 11:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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