2011年08月27日

上伊那郡教育会

 木村が大作、映画『八甲田山』のキャメラを回し始めた1975(昭和50)年、実はこの年の後半、新田次郎は『聖職の碑』の執筆にのみ費やしていたのです。
 新田次郎のこの年の前半は小説新潮誌上に『銀嶺の人』を毎月執筆していましたが、この『聖職の碑』については前年くらいからぼつぼつと資料や聞き取りを始めていましたが、旧盆(8月14日、15日、16日)が終わった直後、現地調査に入るのです。
 新田次郎の調査旅行がお盆明けだったように、山歩クラブの今夏の木曽駒への夏山紀行のプランも、お盆明けの日曜日出発にしようと、ここは似ておりましたね。
 ちなみに『銀嶺の人』のモデルは、女医・今井通子と鎌倉彫の彫刻家・若山美子でした。
 
 さて、63歳の作家が20代の若者(講談社文芸図書第二出版部、しかしいでたちから山をやったことがあると分かった、と)と新宿駅で待ち合わせ、さらに中央線伊那松島の駅でガイドと待ち合わせ、駒ヶ根駅から路線バス、駒ケ岳ロープウエイと乗り継いで、千畳敷カールに入り、乗越浄土に登り着きます。
 賽の河原一帯から宝剣岳の頂、中岳(駒ケ岳はこの後ろに隠れて見えません)、濃ヶ池、そして宝剣山荘、天狗荘が見えて、「バンザイでも叫びたいような気持ち」になったそうです。
 しかし、雨具に身を包んだ山歩クラブの7人の侍には、ロープウエイの窓からも何も見えず、急坂を登りつめた乗越浄土でも、降り止まない小雨と濃い霧に包まれ、ミルキーウエイのど真ん中、宝剣岳はもちろんのこと、宝剣山荘すら姿が見えません。

 新田次郎には、この調査目的の山旅で、「地の底から衝き上げてくるような感動を覚えた」ところがあります。それが翌日の「遭難記念碑」でのことです:

殉難碑でも、遭難者供養等でも、遭難慰霊碑でもなく、遭難そのものを記念する碑であることを、碑文にも、碑題にも、強調したその常識破りの碑のあり方が、私を戸惑わせた。
 そしてそのすべての責任を上伊那郡教育会が負うものであると、ふんぞり返って云い放った碑文の姿勢に私は圧倒された。
 それは、将来ともに、赤羽長重等11名の死を上伊那郡教育会の面目にかけて、無駄にはしないぞと豪語しているようにも思われた。その気の強さに私は面喰らった

(新田次郎「取材記・筆を執るまで」所収、同書 265頁〜318頁)
…でも、しかし、さはさりながら、小説の世界に付け加えるに、作家が執筆動機まで吐露する「あと書き」が、こんなに本の頁数を占めているのですよ!…)

 作家が、戸惑ったり、圧倒されたり、面喰ったりしたことが、実はヤッホー君にも<宝剣山荘>で起こったのだそうです。

 それは、小屋のカレンダーに、8月23日火曜日南箕輪中、宝をマルで囲み、辰野中、天をマルで囲み、24日水曜日中川中、頂をマルで囲み、東中、天をマルで囲んであるその意味、でした。

 蓼科山では豊島区立目白小学校6年生の立科林間学校に参加した子どもたち全員と出会ったことを日記に綴りましたが、ではこの木曽駒でも、もしかして、と小屋のスタッフに聞きました。
 宝剣山荘、天狗荘、頂上小屋と、合宿の小屋は違えど、子どもたちの合宿山行が続いていたのです!
 感動で震えました。自然に涙が頬を伝わりました…

 新田次郎の指摘通り、100年の伝統を刻み、この地では、遭難があったとはいえ、お上から中止命令がでず、自粛による自主的な中止にもならず、そりゃあ、大変だったでしょうが、親も子も、教師も学校も、地域ぐるみで遺志を次いで、教訓と化して、碑を建て、修学旅行を毎年、継続していこうと決意したのです!

 ヤッホー君は、ムカシ祖父から何度聞かされたことでしょうか、二宮尊徳のお話とこの信州のこと、長野県は教育県で、この国を背負うすばらしい人材を輩出する県なのだ、ってこと。
 今日、8月27日土曜日、新田次郎に導かれながら、教育立国、長野での白樺派の教師群像を教わりましたが、もう一度、子ども時代に還ったような静かな感動をアゲイン!
 さらにヤッホー君の父からも、これも子守唄のように何度聞かされたことでしょう、国策に従う子羊ではない、オオカミのように、個の伸張を目指すのが民主教育のキホンだ、って、その大切さを教えてくれたことを思い出しました。
 祖父と父が合わさるシンクロナイズ、ヤッホー君はたまたま与えられた、この深い感動にアゲイン!たらーっ(汗)

 逝く夏を惜しみながら今宵はひとり静かに、九州は鹿児島県の芋焼酎と、東北は山形県の地酒とを、お銚子一本づつ、傾けることにしました。

、なお今夏の<宝剣山荘>に話題を転ずれば、その「感動」が引くと、なんで<宝剣山荘>が、他の小屋のことまで書き込んでいるの? と疑問に思いました(それは、また次回に)。

 今宵でなく、8月22日日曜日の夜、宿泊者数11名(うち7名は山歩クラブ)、スタッフ数12名と、登山客よりもスタッフの方が多かった夏の嵐の夜でした。

 その夜は、一晩中、雨、風収まらず、トイレに起きたついでに玄関から外に出ても満天の星空とは縁遠く、風と霧で何も見えず。はやぶさもイトカワも姿を現さず、隣では一挙に標高差950mを6分で登ってきた高山病のせいか、或いは夏休みもなく根詰めて働き詰めだったせいか、頭の重い仲間が、寝息もたてずに、静かに寝ております。しぃ〜っ…

posted by fom_club at 18:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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