2011年08月19日

言葉が心の杖

木村大作の映画人生を本にまとめたいという話をもらったのは、5、6年前のこと。「ああ、自分も人生の終末を歩き出したのだな」というのが、そのときの正直な気持ちだった
…あとがき、より(木村大作1939年生まれ、『誰かが行かねば、道はできない』、2009年、キネマ旬報社)

 どうして「朝キン」が続けられるんだろう、2011年夏、何かがヤッホー君のこころに起きたのかも知れません。多分、このブログ、「日記」を毎日続けているように、自分の終末を歩き出したのかもしれないな、とも確かに思いました。
 歩いているといろんな風景がよぎっていきます。ときにモノクロ、ときにセピア色に、ときには総天然色で。ときに無声で、ときにトーキー、ときにステレオで。この眼鏡ではまだ、3D は無理なようで。

人はある時から老いれば老いるほど、子供時代に還っていくという、これは本当のことだった。
 それが日々、その感覚として明らかに、骨折って身につけた社会的衣装が一枚づつ剥がれてゆき、甘えん坊だった自分、そのときの生の意思が露骨に出現してくる。
 潮が引くと、岩の素肌が現れる。
 老いるとは、子供時代の生を味わい直せ、ということだ

…(三)、より。秋山駿(1930年東京都生まれ、早大仏文科卒)『「生」の日ばかり』、2011年、講談社)

今日は秋晴れだ。公園に散歩に行くと、樹々の黄葉がその強烈な色彩で、一瞬、異世界が出現したかのように輝く。自然そのものの化粧と変身。そうか、これが、美という感覚を呼び起こすのか。
 彼方、青い空の左前方に、小さな白い雲が浮かんでいる。これとそっくり同じ光景を、子供の日に見た。その時の記憶が甦る。懐かしさ、ではない。7歳だったか10歳だったか、空を見上げて何かを感じていた心、あれとまったく同じ心が、いま、ここに在る

…同書、(十)より。

 老いる、ということはネ、こういうことなんだよって教えてくれる秋山駿のこの本は、若者の必読書です。が、これも言葉があればこそ… 
 そして「いま、ここに在る」… インターナショナリストと申しますかコスモポリタン、もしくは宇宙人というのは、いまもムカシもなく、ここでもアソコでも、どっちでもよい、いやその時間と空間が交差する一瞬、一瞬、一ヶ所、一ヶ所に立ちどまり、浮遊していられる想像力をもち、その場を吹きわたるく風にふるえる感性をもちたい、だからもう十分に老いている、というか、まだ子供じみている、というか、未だ見ぬ景色を追い求めている夢追い人なんだろうか、とこの夏、「朝キン」で考えつづけていたヤッホー君でした。

 次は、ヤッホー君のブログ、4月11日付け日記『われら青春』でとりあげた辺見庸(1944年宮城県石巻市生まれ、早大二文卒)です。

靖国とブッシュとプレスリーをこよなく愛する好戦的デマゴーグが、憲法前文を付会して自衛隊イラク派兵の論拠とする。記者団はこれに手を挙げて質問もしない。これに反対する社説も書けない。それがジャーナリズムでしょうか。これに無言でいられることを、私は人間としての恥辱だと思うのです…
 私はまったくコイズムには関心がありません、ただよく考えてみれば、われわれはあのような者どもを税金で多数飼ってやり、贅沢な生活をさせてやっている。いや、逆に、われわれはいつしか彼らに飼われ、ほしいままに扱われ、操られ、もてあそばされている。そのことは恥ではないか

(「憲法と恥辱について」より、辺見庸『いま、ここに在ることの恥』2006年、毎日新聞社、2010年には角川文庫入り)

 恥じているからこそ、皆んなどんなことを呟いているか、他者の紡ぐどんな低い言葉にも耳を傾け、自分も自分なりの言葉を吐き続けていかないとな、と意を硬くしたのでした。
 そうしたら強風が吹きおろし、かみなりも伴奏し、驟雨におそわれた夏の午後でした。 

posted by fom_club at 19:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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