2011年08月08日

英国公使オールコック

 昨日の日曜日の帰りのバスの中、ヤッホー君がとってもうれしかったのは、仲間が、7月30日のブログ日記「コロボックルヒュッテ」を読んでくださっていて、手塚宗求『山をめぐる人と書物』(2000年、恒文社)をお買い求めいただき、「ほらこれでしょ」って山に持ってきて、見せてくれたこと。

 「つながる仲間」を実感できたときでした。

 ところで昨日、御殿場ICで東名道を出て、冨士スカイラインから冨士宮口5合目駐車場、標高2400mに着き、さあ、いよいよ登山、という態勢に入ったときに目に飛び込んできたのが、「サー・ラザフォード・オールコック冨士登山記念碑」。

初めて登った外国人は、初代駐日英国公使のラザフォード・オールコック(1809-1897)といわれている。幕末の1860(万延元)年夏、一行は東海道をたどり、小田原から箱根や三島などを経て富士宮側から富士登山を敢行したという。
 富士宮市は1992年、富士宮口の5合目登山口(2400m)にオールコックの登山記念碑を建立した。毎年7月1日の「富士山お山開き」には、英国大使館の関係者を招き、オールコックの肖像が刻まれた記念碑に献花している

(読売新聞『日本遺産 富士山と私(4)山とふれあい 20回登頂も 駐日英国大使グレアム・フライさん(56)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shizuoka/kikaku/086/4.htm

 富士宮市立郷土資料館通信1(2010.9)で、学芸員の梶山沙織さんはこう書き記しています:

富士宮市教育委員会では、「オールコックの富士登山 ― 初代英国公使ラザフォード・オールコックによる外国人初の富士登山から150年」展と題し、平成22年6月25日から7月11日まで、富士宮市富士山環境交流プラザ(富士宮市粟倉)で展示会を行ないました。
 これは、初代駐日英国公使を務めたオールコックが、万延元年7月(1860年9月)に富士登山を行なってから150年目にあたることから企画されたものです

(オールコックの富士登山と富士宮地域)
http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/e-museum/tuushin/tuushin22-01.htm

 「万延元年」と聞いてヤッホー君が思い出したのは、このブログ6月3日付け日記「増上寺」です。
 え〜と、小説『万延元年のフットボール』(『群像』1967年1〜7月号)が<いま再読のときだ、読んでくれえ〜>と、深い森のなかから呼びかけてくる声は聴こえるのですが、秋風が立つ頃かな、意味は分かんないけどってヤッホー君はホントのところどぎまぎ、うろうろ、あたふたしているのだそうでございます。
 「増上寺」に戻りましょう;

万延元年(1860)、幕府は日米修好通商条約の批准書交換を行うため、正使・新見正興、副使・村垣範正、監察・小栗忠順の3名を遣米使節とし、随行官21名とその配下26名、使節の従者27名の計77名からなる使節団をアメリカに派遣した。米国艦ポーハタン号に乗船した一行は、ハワイとサンフランシスコに寄港した後、パナマ地峡を列車で経て大西洋を再度船に乗り換えてワシントン、ニューヨークを訪れた

 1860年5月23日
使節一行は米国議会議事堂を見学し、両院の議事運営の実際を目のあたりに見る機会をえた。
 議会制度を理解できないままにその情況を丹念に描写した森田岡太郎の報告がある(「亜行日記」『万延元年遣米使節資料集成』第1巻(1961)所収)…。
 これに対し、アメリカ側の議員や傍聴人たちが、使節から受けた印象は、マサオ・ミヨシ著『我ら見しままに-万延元年遣米使節の旅路』(飯田正子ら訳、1984)に見られるとおり、一行が退場した直後の爆笑であった

(日本大学・後藤純郎「万延元年遣米使節と博物館、図書館の見聞」1990年教育学雑誌第24号)
http://www.nuedu-db.on.arena.ne.jp/pdf/024/24-r-001.pdf

 後藤先生(図書館学)は2002年11月、78歳で没っしていました。 

posted by fom_club at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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