2011年07月05日

智恵子飛ぶ

 津村節子の『智恵子飛ぶ』が1998(平成10)年度の芸術選奨文部大臣賞の文学部門に選ばれたと言いました(7月2日付け日記「レモン哀歌」)。加賀乙彦との同時受賞でした。
 
 『授賞式は平成10年3月26日に、上野の日本藝術院会館で行なわれた。昭和26年の学習院文芸部時代から、二人で芸術院の授賞式に出席するまで、48年の年月が経っていた

 半世紀近くも、作家を生業とする男と女がひとつ屋根の下で暮らしてきたのです。一体、どんなんだったろう、と思いませんか。津村節子と吉村昭は。しかし、智恵子と光太郎と違い、とてもあっけらかん、あけっぴろげ、風が吹き渡っています。

 智恵子と光太郎は、1914(大正3)年上野精養軒で結婚披露宴をあげたと言いました。津村節子と吉村昭は、1953(昭和28)年、おなじ上野精養軒で式をあげています。

 結婚後、節子は、『よく夢にうなされた。
 室内に液体が流れ込んで来て、それがくるぶし、膝、腰、胸と上って来る。
 黒い濃度のある液体は、肩から喉に達し、せいいっぱい背のびをするが容赦なく増え続け、頬まで浸してしまう。
 あるいは、脚に細い糸がついている。
 それを取ろうとすると、するするとのびる。
 糸は毛穴から生えていて、他の毛穴からも糸が生え、見る見るうちに毛穴という毛穴から吐き出されて糸で繭のように包まれてしまう。
 声を出そうと思っても出せないで苦しむ夢は、「智恵子飛ぶ(平成7-9年)」を書いた時に、絶望が深まって精神の異常をきたすようになる高村智恵子の夢として書いた


 あるいは浜辺で砂の上に文字を書き、人の目に触れることもなく、波が消し去ってしまうような気持ち、とも語っています。

 と、言う(書く)、言って(書いて)しまうことが津村節子を救った、とも言えなくもありません。

 1965(昭和40)年、津村節子が芥川賞をとると、夫の吉村昭はこう言ったそうです。

よかったなあ、おい、おれはおまえのヒモになるぞ
 
 そして『智恵子飛ぶ』の舞台化がすすむのです。
 2000(平成12)年新橋演舞場公演、智恵子は三田佳子、光太郎は平幹二郎でした。脚本は大西信行、演出は村上祐二。三田と平のコンビは「みだれ髪」で絶妙の演技を見せ、期待はふくれ上がったと言います。

ところが11月2日には幕が開くという10月27日明け方、夢うつつに聞いていたラジオで、「三田佳子降板」という言葉が飛び込んできた。
 三田の次男が覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕されたという。
 もう幕が開くまでに1週間しかない…
 代役は片岡仁左衛門の二女片岡京子で、智恵子の妹役からの抜擢であった…
 スポーツ紙各紙に「代役片岡京子完ぺきの演技」「片岡京子涙の初日」「京子で満員御礼」などなどと大々的に報じられ、私は生れて初めてスポーツ紙というものに、主役二人と並んだカラー写真が掲載された。
 吉村はその写真を見て、「おまえ、道を誤るんじゃないぞ」と呆れていた


 以上、引用は、津村節子『ふたり旅ー生きてきた証しとして』(2008年、岩波書店)からです。
 とても良い本です、お買い求めの上ぜひお読みください。

posted by fom_club at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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