2011年07月04日

高村智恵子

 ヤッホー君は「長沼智恵子」と7月1日の日記のお題にしました。
 どうして「高村智恵子」ではなかったのか、自分でお題を決めていながら、いまだ考えあぐねています。

 ふたりが結婚したのは、1914(大正3)年2月22日。上野精養軒で内輪の者達によって披露宴がとり行われた、といいます。出席者は高村光雲の弟子達や与謝野寛・晶子夫妻、柳夫妻等だけであったそうな。

 光太郎の智恵子に捧げた愛の歌、光太郎が智恵子から得たインスピレーションは詩となっていて、いまだに感動を与えていますが、何か不満や不自然さや過剰さを感じてしまうのはヤッホー君だけ? 肝心の智恵子からの表現がさほど見当たらないのもなぜ? まだまだ背景を知る勉強が足りないのかも知れません。
 まるでヤッホー君が山に想い入れる感傷のときのよう。まるで片想い amour malheureux 返ってくるのは、ヤッホー君の叫ぶ声に応じる木霊だけ。山からの表現はないのにも似て。
 ふたりでつくる愛のかたちも、片方からしか聞こえてこず、片方は紙絵を残しただけ、というのも不思議で。

 いま手元に『オペラ智恵子抄台本(上演時間1時間30分)』があります。1989年10月6日が初演なのでしょうか。
原作 高村光太郎 
作曲 仙道作三
台本 山本鉱太郎
監修 北川太一


 コウタロウは光太郎でなく鉱太郎は、第一幕第二場で、(人々の合唱)結婚のワルツを次のように書いております:
  ほめよ、たたえよ 婚姻の喜びをうたえよ
  新郎と新婦と 手を取りたてり
  さかんなるかな
  新しき命は今 創められんとす
  新郎は力に満てり 新婦は愛に満てり
  ほめよ、たたえよ 婚姻の喜びをうたえよ

 
 ところがふたりは20年も経った1933年(昭和8)年8月にはじめて入籍しているのです。しかしその1年前、1932(昭和7)年7月15日に智恵子は未遂に終わりましたが、睡眠薬を飲んで自殺を図っています。
 サルトルとボーボワールの愛の関係ってなんだっけ。ところで。光太郎は『智恵子抄』でよく食べることをも詩のモチーフにしています:

  『私達の最後が餓死であらうといふ予言は…』(大正15年3月11日、「夜の二人」)
  『智恵子は貧におどろかない』(大正15年2月5日、「鯰」)
  『湯をたぎらして
   餓鬼道のやうに喰う我等の晩餐』
(大正3年4月、「晩餐」)
  『あなたの抱擁は僕に極甚の滋味を与へる
   此等はみな僕の最良のいのちの糧となるものだ』
(大正2年12月)
  『さあ 又銀座で質素な飯でも喰ひませう』(大正元年10月、或る宵)

 大正年間、よく食べる光太郎なのです。なにかヒントがあるのかな?もう少し読んでいきましょうよ、ね。

 それにしても鉱太郎のこの台本は深川図書館に寄贈されていたのですが、何で?と思ったら、現在は、千葉県流山市にお住まいになり、流山市立博物館友の会企画編集委員長をやられていますが、もともとは、1929(昭和4)年(智恵子の実家長沼家が破産、一家も離散する年)、深川は木場に生まれています。ということは父は材木商でした。
 江東区立明治小学校を出て1943年(この頃光太郎は、発足したばかりの日本文学報国会の詩部会会長でした)、東京都立第七中学校(現、都立墨田川高等学校))に入学sしますが、1945年3月10日 B29による東京夜間大爆撃で戦災に遭い、九死に一生の体験をします(光太郎は4月13日夜、駒込林町のアトリエが焼け落ち、ほとんどの制作、資料等を失います。智恵子の紙絵だけは焼失から護った、と)
 鉱太郎一家は、親戚を頼って栃木県足利に疎開する(光太郎は岩手県花巻町の宮沢賢治の実家に疎開します)
 
 そんな縁で、深川図書館に寄贈なさっていたのですね。オペラは最近ですと2006年10月14、15日にも日暮里サニーホールであったようですね。
 次回こそ、山歩クラブの仲間と連れ立って、観て聴いてみたいですね。

posted by fom_club at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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